人間・菊池寛
三十五さんと何らか縁のある直木賞関連作家とくれば、第一に出版社経営で揉めに揉めた挙句ケンカ別れした鷲尾雨工でしょう。第二に大阪のプラトン社で一緒に働いていた川口松太郎でしょう。第三は……そうか、この方かもなあ。
『人間・菊池寛』佐藤碧子(平成15年/2003年9月・新風舎刊)
いや、菊池寛のほうじゃありません。直木三十五と関わりある直木賞関連作家とは、著者の佐藤碧子さんのほうです。
佐藤さんはその昔、戦後まもなくの頃、小磯なつ子の筆名で小説を書いていた方で、夫は元・文春社員の石井英之助さん。その英之助さんが戦後に参加した六興出版部の雑誌『小説公園』に、「雪化粧」を発表して第23回直木賞の候補になりました。
この回は、今見るとけっこうバラエティに富んだ面白い顔ぶれの候補者が揃っていて、ワタクシの好きな回のひとつなんですけど、その小磯さん、またの名を佐藤さん、果たしてご本名は石井さんが、昭和36年/1961年に新潮社から出版したのが『人間・菊池寛』。それを40年以上たって再出版したのが本書です。
本書の復刊ごろにはいろいろあったようで、たとえば同時期に猪瀬直樹が佐藤さんへの取材成果をふんだんに盛り込んだ『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』(『文學界』平成14年/2002年4月号~平成15年/2003年12月号連載、平成16年/2004年4月・文藝春秋刊)を出したばかりでなく、本書復刊に先立つほんの数か月前、佐藤さんの甥の矢崎泰久も『口きかん わが心の菊池寛』(平成15年/2003年4月・飛鳥新社刊)なんて本を世に問うています。
しかも、猪瀬さんは本書『人間・菊池寛』のあとがきも書いていて、佐藤さんがこの甥の作品を、
「一から十まで、ぜ~んぶ、デタラメ!」
と全否定した、と暴露してたりするのです。猪瀬さんもまた、
「あとがきで「事実」と書き本文扉で「フィクション」と断わる矛盾。同じ扉に「死人は口きかん」ともある。菊池寛と佐藤碧子の美しい物語に対する冒涜である。」
と怒っています。あーあ、矢崎さんももうちょっと創作っぽく仕上げればよかったのにな、とホトホト感じるのでした。
で、本書『人間・菊池寛』のほうですけど、ワタクシまで冒涜軍団に仲間入りするのもアレなんで、なるべく菊池親分と佐藤さんとのことには触れずにいきたいと思います。あ、それと今の時期に、この出版社の本を選んだのは単なる偶然なんですよ。念のため。
一応、佐藤さんと菊池寛との関係をさらりと書いておきますと、昭和5年/1930年4月、佐藤さんは知人の紹介で文藝春秋社の社長秘書になります。18歳でした。『文藝春秋』は創刊が大正12年/1923年、最初は文芸中心の雑誌だったのが、大正15年/1926年11月から政治記事の掲載が可能になり、総合雑誌としてもりもり発展、昭和3年/1928年5月には株式会社組織になります。そのほんの2年後ですから、伸び盛りの新興企業のオーナー社長とその秘書、って関係でしょうか。
二人きりで三の酉に出かけた日のこと、人出の多い中を歩く前に、菊池はハンチング帽を目深にかぶり、黒いマスクで鼻と口を隠したそうです。
「「あなたとのことで、世間からとやかくいわれるのはいやですからね。誰かに何かいわれたことがありますか」
と、いった。
「直木先生にちょっと……」
「直木が何といいました」
先生は、きげんよく笑ってききたがる。」
直木三十五よ佐藤さんにいったい何と言ったのだ、と次を読みすすむと、うぉお、さすが直木さんだ。
「みどりも、風変わりなおもしろい直木さんにはかなり親しんでいた。彼女は、つい二、三日前に、
「佐藤さん。菊池といつねました」
と、あとさきもなくきかれて、おどろいたものだが、さっぱりしていて、かき乱されるようなおり(原文傍点)がなく、彼女も大きく眼をみはって首を振って答えた。
「ヘエー。菊池の人相と、あなたの顔では、もうあるなあと、にらんだがね。僕の思いすごしなら、御愁傷さま」
彼女は、直木さんのあとの言葉だけを先生につたえた。」
直木さん、三十五と名乗りつつ、おそらく40歳ごろのこと。ははあ、噂に聞く“セクハラおやじ”ってやつですか。みなさんは、身近にいる社長秘書にいきなりこんな質問をして、張り倒されないようご注意ください。
じゃあ、もう一発、三十五お得意のセクハラネタ。
「直木さんの眼を見ていると、しんから優しいひとだと思えるのに、口の悪いガミガミやさんで、ここでも終始女中さんは叱られていた。みどりには好意を持っていて、その好意の分だけはからかったり、ひやかしたりしているようであった。
「君は、まだ、バージン?」
「――何故いつも、そんなことばかり気にして下さるの」
「気になってたまらないからね。――君だって女流作家になろうというのじゃ、男をはっきり手にとって見たかないのかね」
みどりは、恥ずかしさで、赤くなりながら、それは、それとして、直木さんが自分の小説を読んでくれていたことが嬉しかった。」
五人の子どもを授かり、立派なお母さんとなった戦後の“小磯なつ子”さんなら、きっと三十五の言葉にも、全然動じなかっただろうな。
で、第23回(昭和25年/1950年・上半期)の直木賞選考委員のうち、選考会に出席したのは6人の作家たち。井伏鱒二、大佛次郎、木々高太郎、久米正雄、小島政二郎、いずれも戦前から活躍している人たちで、とくに大佛、久米、小島は第1回当時からの委員。ってことは直木三十五とも親交が深く、菊池寛のこともよく知っているはずです。この回に、佐藤=小磯さんの作品をわざわざ候補に選んだ日本文学振興会の方々も、なんというか、よほどの勇者だと思うわけですが、さあ、選考委員たちがどんなふうに小磯作品を読んだのか。
これは、大村彦次郎『文壇栄華物語』(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊)で触れられています。
「雑誌の推薦文では川端(引用者注:川端康成)が、「マリイ・ロオランサンの色や匂ひを思はせる」と口添えをし、岩田専太郎が挿絵を描いた。だが、このときの直木賞の選考会では、小島政二郎がひとり「雪化粧」に触れ、その才筆を褒めたが、作者の前歴を知る他の委員はことごとくこれを無視、あえて批評すらしなかった。」
まあ、小泉譲だって梅崎春生だって日吉早苗だって玉川一郎だって、“ことごとく無視”されているんですから、佐藤=小磯さんだけが取り立ててどうってことはない気もしますけど。たしかに、彼女の前歴が前歴ですから、何かしら勘繰りたくなる気持ちはよくわかります。ひょっとして大村さんの耳には、このときの選考会の様子が伝え入ってきているのでしょうか。
ちなみに、前出の矢崎さんは『口きかん』で「はじめに 菊池寛と私」との前文を書かれているんですが、そこで紹介されている佐藤碧子さんは、こんな感じ(……って、結局“冒涜”領域に踏み込んじゃいました)。
「菊池寛の没後十年ほど経てから、碧は『人間・菊池寛』(新潮社刊)を著し、その中で自分が菊池寛の愛人だったことを告白した。さらに代作をやっていたことも明らかにしたため、碧は作家としての生命をほぼ絶たれてしまった。戦後、大出版社に成長した文藝春秋新社の幹部たちの怒りをかったのである。」
お、文春の幹部の怒りをかうと、ほんとに作家生命を絶たれるんですか。噂ではよく聞きますけど、噂はそれほど信じないタチなもんで、ワタクシのなかでは真偽不明ってことにしておきます。
いや、そんなことより、佐藤さん、と言いますか石井さん、平成15年/2003年にはまだご健勝でいらしたそうで。お元気でしょうか。佐佐木茂索さんも池島信平さんも他界されてしまった今、戦前の“純正”文春の空気を思い起こしつつ、どうぞ、自由にのびやかにお過ごしください。
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コメント
菊池寛と言う人はそんなスケベ爺だったのでしょうか。読んだ事ないのでよく知りませんが。
投稿: | 2008年10月 6日 (月) 22時11分
どうなんでしょうねえ。
ワタクシも、菊池寛が人並み以上にスケベだったかどうかは知らないんですが、
まあ、このエントリーで引用した頃でいえば、菊池寛だいたい40歳ぐらいなので、
「爺」と言いますか、「おやじ」と言いますか。
40おやじ程度のスケベさは持ち合わせていたんじゃないかとは思います。
投稿: P.L.B. | 2008年10月 7日 (火) 01時00分