大いなる助走 (その2)
そして、掟破りの2週連続。先週は、かなり道を踏み外し、おそらく良識ある読書好きの方々をもヒかせてしまったかもしれないので、今年最後、まじめに地道に取り組みます。
『大いなる助走 新装版』筒井康隆(平成17年/2005年10月・文藝春秋/文春文庫)
本書の単行本版は、昭和54年/1979年3月15日第一刷。オビに書かれた言葉は、こんな感じです。
○オモテ「筒井康隆が文壇を恐慌に陥れた今世紀最大の問題作」
○ウラ「これまでの筒井康隆は単なる〈天才〉だった。ところがこの、言語道断の傑作「大いなる助走」によって紙一重をとびこえ、とうとう〈狂人〉の域に達してしまった。文学デーモンの仕業だ。――山藤章二」
作品のインパクトを考えると、案外おだやかなオビです。おだやか、っていうのは、つまり直木賞(もしくは直廾賞)とか落選とか選考委員殺しとか、そういう具体的キーワードを一切出さず、いかにも景気づきそうな言葉のみを並べている、って意味です。
ご本人の回想によりますと、この本、当時8万部売れたのだとか。
ってことで、しばらくは、その回想「「大いなる助走」騒動」(平成1年/1989年7月・中央公論社刊『ダンヌンツィオに夢中』所収)から、つまみ食いさせてもらいます。
「あのう、文藝春秋がこの作品を単行本にした時はですね、さすが文藝春秋、文壇批判の作品も堂堂本にしたといって褒める声が多く、文藝春秋は株をあげたんですよね。まあ、その裏では今は亡き某重役が自粛を命じ、部数を抑えた、などということもあったらしい。「ふつうに売ってりゃ十万部は越えてる作品だったんだけどねー。ひっひっひー」とある人に語ったことを、そのある人が教えてくれた。」
10万部を軽く越えるはずのところ、それでも8万部。でね、その後平然と文庫化されて、もっと売れ、世紀を超え30年経とうっつう今もなお、平然と売っちゃっていることを考えると、ああ、某重役の“自粛”っていったい何だったんでしょうかねー。組織人の悲哀が、しみじみと伝わってくるなー。
さすがの文藝春秋といえども、話題性+売上と、文壇長老への気兼ねを天秤にかけて、思い切って単行本にしたのは、英断だったことでしょう。いや、そもそも『別冊文藝春秋』で連載を始める段階でも、相当の勇気が要ったことだろうな。となれば、初出誌もチェックしなけりゃ年は越せませんよ。
『別冊文藝春秋』に連載されたのは第141号~第146号の計6回分。資料の意味合いを込めて、目次での紹介のされ方やら、ページ数やら、章割りやらをまとめてみます。
ちなみに、執筆期間の判明している回は、それも書き添えておきます。これは『腹立半分日記』(昭和54年/1979年12月・実業之日本社刊->平成3年/1991年5月・文藝春秋/文春文庫)の記載を参考にしました。
第141号(昭和52年/1977年9月)
○目次・キャッチ「鬼才が描くブンゲイ的な余りに文芸的な世界」
○目次・紹介文「今日は同人雑誌、明日は新人賞。ブンガクにとり憑かれて原稿のマス目に情熱を燃やす人々の演じる悲喜劇」
○ページ:40~74(総35ページ)
○章割り:ACT1/SCENE1 ~ SCENE7(ACT1 了)
○執筆期間:昭和52年/1977年5月26日~7月31日
第142号(昭和52年/1977年12月)
○目次・キャッチ「圧倒的好評の裡に展開されるブンゲイ的狂気の世界」
○目次・紹介文「大作「大企業の群狼」を焼畑文芸に発表して意気揚々の市谷京二が、その合評会で目撃した驚天動地の事件」
○ページ:144~175(総32ページ)
○章割り:ACT2/SCENE1 ~ SCENE4(ACT2 了)
○執筆期間:昭和52年/1977年10月13日~11月15日
第143号(昭和53年/1978年3月)
○目次・紹介文「処女作を同人雑誌評でほめられ上京した京二を見下す編集者の冷たい目」
○ページ:258~276(総19ページ)
○章割り:ACT3/SCENE1 ~ SCENE4
○執筆期間:昭和53年/1978年1月18日~2月10日
第144号(昭和53年/1978年6月)
○目次・紹介文「文学賞候補市谷の耳に入った文壇の黒幕フーマンチュウ博士の怪しい噂」
○ページ:208~240(総33ページ)
○章割り:ACT3/SCENE5 ~ ACT4/SCENE4
第145号(昭和53年/1978年9月)
○目次・紹介文「饗応やら買収、袖の下。準備万端ととのって待ちに待った選考会の席上」
○ページ:314~342(総29ページ)
○章割り:ACT4/SCENE5 ~ ACT5/SCENE1
第146号(昭和53年/1978年12月)
○目次・紹介文「賞をとって文壇に華々しくデビューする目算がはずれた男の狂気の果て」
○ページ:160~185(総26ページ)
○章割り:ACT5/SCENE2 ~ ACT5/SCENE33(完)
と、ここまでおさらいした中で、前半3回までは、その執筆の進行状況が、『腹立半分日記』によってかなりくわしくわかります。「「大いなる助走」に行き詰まってしまい、どうしたらいいのかわからない」とか、「「大いなる助走」四苦八苦してやっと二枚」とか、「「大いなる助走」ACT・2を一気に書きあげる。ふらふら。」とか。
で、この期間中の、直木賞ニュースといえば、第78回(昭和52年/1977年・下半期)に山田正紀が『火神を盗め』で初候補、初落選、というのがあります。
「一月十八日(水)
山田正紀、直木賞落選。何がSFブームだ。受難の日々はまだ続いているのだぞ。山田正紀の落選は、正紀にとってではなく、選考委員諸作家にとって、非常にまずいことになるだろう。なんちゃって。」
この日から書き始められた「ACT3」から、いよいよ“中央文壇”なるものが登場し、地方の純真なる青年を「直廾賞」のドタバタへとひきずり込み始めるのでした。山田正紀の落選は、次の「ACT4」で、SF作家・中山光紀の「直廾賞」落選として、きちんとネタにされています。この筒井さんの読者サービス精神たるや。半端ありません。
さて、ふたたび「「大いなる助走」騒動」の回想に目を戻してみます。
「文藝春秋の田嵜晳(ルビ:たざきあきら、引用者注:「嵜」の字は山カンムリに奇)という若い編集者がある日、来宅した。当時は同じ編集部で出していた『文學界』と『別冊文藝春秋』の編集者であり、入社一年目とやら。『別冊文藝春秋』の方へ長篇を連載してくれという話であったが、なにしろ初対面だったし担当者としては若過ぎるし、当時の編集長というのがおれとはあまり肌あいのあわぬ人物であったため、ま、考えとこうということにした。」
ところが、この若き編集者はその後、筒井邸に通いつめ、“直木賞もじり小説が文春の雑誌に載る”というまさかの大偉業をなしとげます。
モノがモノだけに、田嵜さんの苦労ももちろんのこと、編集長のご心労も絶えなかっただろうな。この作品はすでに雑誌発表当時から話題となり、週刊誌に取り上げられたりしたわけですから。
「おれと肌あいの合わぬ編集長とはますます気まずくなり、田嵜君は間に立っていろいろ苦労したようだ。特に名は秘すが文壇の長老のひとりが「あの連載をやめさせろ」と、いちばん部厚い唇で怒鳴りこんできたりもしたらしいから、編集長とてずいぶんいやな思いをした筈であり、同情に堪えない。」
“肌あいの合わぬ編集長”とは、おそらく上記第141号~第146号の奥付に「編集兼発行人」として記されている、アノ方でしょう。『腹立半分日記』にも、第1回執筆中に、その編集長と「「大いなる助走」の件でいろいろとお話しする。」と出てくるんですが、そこでは実名です。
ええと、「大いなる助走」のハナシを持ってくるまでもなくですね、このお方は、そりゃもう、直木賞とは縁ぶかい、というか昭和40年代から20、30年間も直木賞を支え、今ある直木賞の姿を形づくったと言ってもいいほどの超重要人物、スーパー編集者です。そんなお方が、まさか「大いなる助走」とも関わりがあっただなんて、奇縁中の奇縁だなあ。支障があるかもしれませんので特に名は秘しますが、豊田健次さんです。
「大いなる助走」が、単なる“落選作家の直木賞本”の枠を超えて、がっつりその歴史に楔を打ち込んだ最大のポイントは、言い尽くされていることではありますが、やはりこれが『別冊文藝春秋』に載り、文藝春秋が単行本化し、文庫化したところにあります。自己プロデュースが飛び抜けて巧みな筒井さん、さすが、さすが、と感嘆の溜め息をつくしかありません。
「以前、芥川賞直木賞を茶にする舞台として、文壇制度内の究極的な出版社のひとつであり、他ならぬそれらの賞の勧進元である文藝春秋を選んだことがあり、編集者に迷惑をかけた。」(『ダンヌンツィオに夢中』所収「私のペン・ブレイク」より)
新潮社でも講談社でもなく文春の雑誌に書くことによってのみ生み出される効果を、はっきり自覚して、そして実現してみせたこの力量。「大いなる助走」で、筒井さんは完全に直木賞レベルを追い越したと私は見ます。
「夢の木までの助走」(『ダンヌンツィオに夢中』所収)は、昭和62年/1987年、筒井さんが谷崎潤一郎賞をとった直後に『神戸新聞』に書いたエッセイですが、これを読んで、思わず激しく同意。
「選考委員、という話題にからめて述べるならば、ひと昔前になるが「大いなる助走」(現在、文春文庫刊)騒ぎというものがあった。(引用者中略)こともあろうに候補作品を読んでくださった直木賞選考委員の大恩ある諸先輩作家をとらえ、ドタバタを演じさせるなどして道化にした上、はては片っぱしから射殺するなどというひどいものを書いたのだ。しかし、あれは必ずしも巷間伝えられる如く私怨を晴らそうとしただけのものではない。特に今となってはあのころの選考委員諸氏に対しては感謝してさえいる。もしあのころ直木賞をいただいていたならば、今日こうして谷崎賞などという立派な賞をいただけるような作家に成長していたかどうか、はなはだ疑わしいのである。」
そのとおりです。筒井さんが直木賞をとっていたら、「大いなる助走」という極上エンターテインメントは生まれていなかったのですから。作品内容だけでなく、それが発表されたことによる周囲の反響・反応も含めて、読者を多角的に楽しませる(しかも“たまたま”そうなったのではなくて、おおむね作者の意図どおり、と来たもんだ)、これぞエンターテインメント。
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コメント
はじめまして。いつも楽しく読ませていただいております。
私もツツイストでは無いですが、この小説は大好きです。読む前から、ある程度内容は知っていたので、これの文庫版が平然として文春文庫の棚に並んでいるのを見た時は噴き出しそうになったのを覚えています(笑)
同じような「文筆界パロディ」ものだと、東野圭吾の短編集「超・殺人事件」も面白かったです(別に直木賞関連本というわけではないですが、文学賞や出版社の名前がいくつもパロディにされているので、直木賞も「直本賞」として名前だけ登場したりしてます)。
筒井康隆と東野圭吾、考えてみると結構共通点が多いのに気付いて一人ほくそ笑んでみたりしました。大阪人であること、片やSF片や科学ミステリと理系的な作風があること、ブラックユーモアが凄く面白いこと、(結末に違いがあるにせよ)直木賞と些か因縁めいた関係があることも(笑)
初コメントでいきなり長々と述べてしまってすみません^^;
最後になりましたが、新年おめでとうございます。
(なお、「大いなる助走」の話題ですが、別に「明日滝毒作」と「坂氏疲労太」から一文字ずつとったわけではなく、前から使っているHNです(笑))
投稿: 毒太 | 2008年1月 5日 (土) 21時30分
あけましておめでとうございます。
毒太さん、コメントありがとうございます。
筒井康隆と東野圭吾、ですか。なるほど、その視点はまったく
考えたことがありませんでした。
おふたりの全作を読んだわけではないので
無責任なことはいえませんけど、
個人的に、お二人の作品は好きでして、
やはり、読み手に楽しんでもらおうという構えが、
お二人からは伝わってきますよね。
投稿: P.L.B. | 2008年1月 5日 (土) 22時19分
あけましておめでとうございます。
いつも楽しく読ませていただいています。
「支障があるかもしれませんので特に名は秘しますが、豊田健次さんです。」
普段なら素通りなのですが、この引用が私のツボに入りましたのでそれを伝えたかっただけです(笑
投稿: 世に三人 | 2008年1月 6日 (日) 03時15分
世に三人さん
素通りでも何でも、わざわざいつもワタクシの戯れ言にお付き合いいただいて
ありがとうございます。
筒井さんの文章を真似るなんて、まったく畏れ多いハナシなのですが、
ご指摘の箇所は、心より筒井さんに敬意を払う意味での一文ですので、
関係各位のご寛容を乞います。
投稿: P.L.B. | 2008年1月 6日 (日) 18時26分
「オール読物」の編集長座談会で、「大いなる助走」事件について豊田健次氏が触れておられました。会社の先輩クレームがついたが文庫が売れたらその先輩から喜ばれたとか、映画化の際に出演のオファーがあったが断ったとか。おそらく酒場のシーンでしょう。座談会に出席した鈴木琢二元編集長は作家の役で出演してギャラももらったそうです。
投稿: みちん | 2011年4月 2日 (土) 01時57分