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2007年11月25日 (日)

町工場で、本を読む

 唯一無二、と言うとオーバーかもしれないけど、ともかくこの方が現代文学のなかで得難い存在であることは間違いないでしょう。さらに我田引水すれば、直木賞史のなかでも大変珍しい存在だったりします。

071125w170 『町工場で、本を読む』小関智弘(平成18年/2006年11月・現代書館刊)

 現役の旋盤工として51年間勤められ、その間に小説・エッセイ・ルポなど多くの著作をものにしてきた経歴が、もちろん小関智弘さんを、他に類をみない存在として輝かせているんですが、“大変珍しい存在”とワタクシが言うのには別の理由があります。

 先に芥川賞の候補になって落ちた人が、後年、直木賞の候補に挙げられるケースはたくさんあります。古くは劉寒吉小泉譲などから、木山捷平田宮虎彦小田仁二郎有吉佐和子津田信林青梧勝目梓飯尾憲士森瑤子内海隆一郎など、この他にもまだまだいます。ところが、逆のケースはほんとに少ない。松本清張津村節子、新しめのところで内田春菊などがいますが、その少ないうちの一人が、小関さんなのです。

 第78回(昭和52年/1977年・下半期)と第80回(昭和53年/1978年・下半期)で2度直木賞候補、つづいて第82回(昭和54年/1979年・下半期)と第85回(昭和56年/1981年・上半期)で2度芥川賞候補。

「わたしは最初が直木賞候補でそのあとが芥川賞候補で、四度とも落ちましたけれども、その賞の候補作品になったものを文藝春秋から『羽田浦地図』という表題で出してもらいました。」

 さらっとおっしゃってますが、“最初が直木賞候補”、コレなかなかできることじゃありませんよ。

 第80回だけが『別冊文藝春秋』掲載作で、ほか3度は『文學界』発表の小説でした。『別冊文春』に載ったものなど口が裂けても純文学と呼んでたまるかい、と粋がる芥川賞に比べて、『文學界』? それでもけっこう、読んで面白い小説ならみんなウェルカムさ、と直木賞の、なんとおおらかなこと。

 で、小関さんの栄光は、4度も候補になったからと言って決して浮かれることなく、作家専業にならずに、ずっと旋盤工であり続けたところにあると思うんですが、「あとがき」にこんなエピソードが出てきます。

「一九七五年にわたしは最初の著書『粋な旋盤工』を上梓した。この本がきっかけで、「町工場にひとり、面白い文章を書く男がいる」ということになって、執筆やインタビューの依頼がくるようになった。面白いというのは、労働現場の体験を踏まえて文章を書く男というほどの意味である。」

 その本を取り上げたい、と言われて労働者文学研究会の会合に出席したところ、詩人の関根弘さんに、「町工場のような狭い世界の実体験に溺れると井の中の蛙になってしまう」と指摘されます。小関さん、ここで憤然としました。

「わたしはすこし気色ばんで、井の中の蛙と言われようと、現場にいなければ見えないものもあって、自分はこれからもそれを凝視していくつもりだと反撥した。

 その発言の背景には、全国の同人誌や職場の文学サークルなどにはたくさんの書き手がいるが、なかには、たまにひとつくらいの作品が認められた程度で、さっさと職場を離れてしまうような“作家気どり”がいることに対する反撥心がわたしに強くあってのことである。二、三年もすれば“行方知らず”になったり、かと思えば初心とは百八十度ちがって、エロ作家に転向かとうんざりさせられるようなものを書いていたり、という事例が、わたしには苦々しかった。」

 ははあ、それって誰や誰のことなんだろうな。と、思わず知りたくなる下衆根性などどうでもよくて、そんな連中を苦々しいと思える小関さんの感性こそが、カッチョいいぜ。

 さて、本書の内容は、小関さん自身の来歴も織り交ぜながら、中心はその読書体験と“ものづくり”や“職人”の観点でみた書評となっています。たとえば、高校三年生で文學界新人賞をとった今は亡き鷺沢萠さんが、実は小関さんの「羽田浦地図」がきっかけで小説を書くようになったとか、その後も小関・鷺沢両人の交遊がつづいていたことなど初めて知り、驚かされたりするんですが、ワタクシにとって何とも嬉しいのは、小関さんがいくつかの直木賞受賞作・候補作を取り上げてくれていることです。

 古いところでは、岩下俊作の「富島松五郎伝」(第10回 昭和14年/1939年下半期 候補)。

「のちに文学好きな青年になって、わたしは小説を読んだ。そしてその作者岩下俊作が、なんとこの作品を書いたころはまだ八幡製鉄の職工だったことに、驚きもし、喜びもしたのだった。(引用者中略)岩下は昭和七年に結婚し、四人目の子を抱えて働きながらこの小説を書いた。」

 工場で遅くまで働いて帰宅したのち、子供たちが寝静まるのを待って一枚、二枚と書きつないだのだそうです。ときに、永い病気を患っていた三男をあやしながら。

「ほどなくその三男は死んだ。工場に危篤の電話が入ったが、臨終には間に合わなかった。あの名作は、そのようにして書かれた。暴れん坊の松五郎が、やがて吉岡大尉の妻良子と出逢い、その子敏雄をわが子のように見守る姿を重ねると、作者の失ったわが子への思いが、原稿用紙の裏側から滲んでくるような気がする。」

 苦労人だったのだなあ。「富島松五郎伝」(改題後の「無法松の一生」でもいいや)をはじめ、岩下さんの作品が今なかなか手に入れづらいのが残念でなりません。

 で、この書評の末尾には、こうあります。

「大月隆寛著『無法松の影』毎日新聞社刊、一九九五年は、無法松と作者岩下俊作についての、すぐれた民俗学者の稀な考察で、参考・引用させていただいた。ぜひご一読を。」

 はい。ぜひ読ませてもらいます。

 新しいところでは、海老沢泰久の『帰郷』(第111回 平成6年/1994年上半期 受賞)とか、さらにさらに、浅田次郎『鉄道員』(第117回 平成9年/1997年上半期 受賞)も、本書に登場します。

 『鉄道員』の表題作「鉄道員」は、有名すぎるぐらい有名な作品ですからね、ワタクシがあらすじを説明する必要もないでしょう。

 小関さんは、その主人公である老駅長のなかに“職人”を見出しています。

「鉄道員にとって、指差喚呼も旗を振って誘導するのも仕事である。義務である。だからたとえその気道車に、ひとり娘のなきがらを抱いた妻が乗っているのを知っていても、旗を振らなければならなかった。その重さがどれほどのものかが、凍った転轍機など触ったことのない読者の手にも、ずしりと伝わってくる。みごとな描写である。

 ひとり娘の生死にかかわるそんな日、誰かに交代してもらって、病院にかけつけることはできなかったのか、なぞと考えるのはヤボというものだろう。」

 そうだよな。だけど、そんな考えを“ヤボ”と感じることのできない人も、いるんだろうな。仮に“家族の生死がかかっている日に、仕事に出かけるなんて、家族愛が足りない証拠なのね”とかわめき散らす連中が、自分のまわりに多くなってきたら、ワタクシなんかは、居心地が悪くてしょうがないタチなんですけど、まあ、世の中にはいろんな人がいますからな。深く取り合わないようにしましょう。

 本書には芥川賞受賞作、平野啓一郎『日蝕』の書評も載っているんですが、そこで紹介されているエピソードにも、またまた“ヤボ”が出てきます。

「この春、アメリカの経済界を代表する数人を、大田区の町工場に案内したことがある。すぐれた技術力でこの不況下を元気に活躍している工場の経営者に、そのうちのひとりがこんな質問をした。

「それほど利益をあげているのなら、なぜいまのうちに経営を手放さないのか」

 問われたほうはキョトンとしてしまった。会社経営やものづくりを人生そのものと重ねてきた人にとって、マネーゲーム感覚ですべてを測るこの質問は、ヤボ以下であった。」

 むろん現代だけに限らず、おそらくどの時代に生まれてきたって、人間、ヤボの渦巻くなかで生きていかなくちゃいけないのでしょう。ひるがえって、誰かにとっては、直木賞のことばかり飽きずに調べて、知ったかぶってインターネットに書いているワタクシの行動も、多分耐えがたいほどのヤボに映るんだろうな。ヤボとヤボ、お互い我慢して生きていきましょうや。

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