芥川賞の研究 芥川賞のウラオモテ
検索サイトから「芥川賞」で探してこのページにたどりつかれた方、お疲れでしょうからゆっくりご逗留いただきたいのはやまやまなんですが、申し訳ございません。芥川賞を深くお知りになりたければ、ぜひ、よそを当たってください。ご無事で旅を続けられることをお祈りいたします。ごきげんよう。
『芥川賞の研究 芥川賞のウラオモテ』永井龍男・佐佐木茂索・他(昭和54年/1979年8月・日本ジャーナリスト専門学院出版部刊、みき書房発売)
え? 芥川賞じゃない、直木賞のことを知りたいんだとおっしゃる。なんとまあ、ご奇特なことで。
本書は全305ページ、雑誌等に発表された芥川賞に関する対談、回顧談、裏話、エッセイ、研究のたぐいをぎっしりと再掲していて、たとえば直木賞と芥川賞の関係性を考えるときなどは基本文献のひとつになるんでしょうけど、まあ、そんな小難しいテーマは除けておいて、ここから直木賞にまつわることだけ掬い上げてみます。
それでもよろしければ、さあ一緒に参りましょう。
もう一度、お断りしておきます。「芥川賞」の情報をお求めの方々、この先をお読みになっても時間の無駄ですよ。
直木賞作家の河内仙介のことを、「大衆文学への誘い 新鷹会の文士たち」の回にひきつづき、3か月の間に2度も取り上げるブログは、きっとウチだけだと思いますけど、本書に所収の橋爪健「芥川賞――文壇残酷物語――」(初出『小説新潮』昭和39年/1964年1、2月号)に、彼の名がめでたく(?)登場すると聞いては、無視するわけにはいきません。
今回は、同じ新鷹会所属の長谷川幸延が、助演を務めます。
「かれ(引用者注:河内仙介)は長谷川伸の門に入って〈大衆文藝〉の編集をしながら、大阪の少年時代からの友人、長谷川幸延と、どっちが早く直木賞をとるかと、しのぎをけずっていた。幸延の方が先と自他ともに許していたところ、意外にも仙介が先に入賞した。それが、かれにとっては却ってつまずきのもととなり、幸延にとっては発奮の動機となった。生来酒好きの仙介は、五百円の賞金をもらうと酒ばかり飲んでいて、新聞雑誌の依頼原稿も書けず、名声だけがカラ廻りして、生活は悲惨を極めてきた。質草もなくなって、やむなく直木賞の時計を持ってゆくと、質屋の主人は時計のうらに、「第十一回直木賞・河内仙介」とほられた文字を見て、「惜しいもんだ、この文字がなけりゃ、もっと高く預るんですが」といったそうだ。」
仙ちゃん、茫然の図。それにしても質屋の主人の、このなにげない一言、直木賞史上に残る名ゼリフだぜ。
そして我らが仙ちゃんの行く末は、いかに。
「一方、長谷川幸延は戦中戦後七回も直木賞候補に推されながら、いつも入賞できなかったが、一時流行作家となって羽ぶりをきかせ、落魄の河内仙介をなんとかカムバックさせてやろうと、自宅に一室を与え、夜具、着物、下着から机、原稿紙、万年筆まであてがってやった。仙介は涙を流して机にかじりついていたが、荒廃しきった筆はなんとしても動かない。やっと二、三十枚のものができたというので、幸延が読んでみると、「紅蓮の炎めらめらと」というような文句が随所に出てくる始末で、ついに一作もものにならず、昭和二十九年胃カイヨウで、妻子だけにみとられて無惨に消えていった。」
名前が後世にまで残る作家なんて、全体のうちでも一握りもいいところで、九割九分はいずれ“消えていく”運命にあるんだから、仙ちゃん、嘆くことはないぞよ。っていうか、直木賞をとったことで平成19年/2007年になっても、インターネットの片隅で、あなたのことを書き記す輩がいるんですから、直木賞の受賞は、あなたに“無惨”な人生をもたらしたかもしれませんが、決して“無駄”ではなかったのですぞ。
さて、直木賞と芥川賞が、今みたいにテレビやら新聞やらでガンガン報じられるようになった契機は、第34回(昭和30年/1955年・下半期)に23歳の大学生、石原慎太郎が芥川賞をとったとき、というのが定説中の定説になっていますが、それから5回後の第39回(昭和33年/1958年・上半期)の受賞風景を回顧しているのは、高瀬善夫「社会的現象としての芥川賞」(初出『212-0321』昭和53年/1978年7月号)です。
「昭和三十三年、大江健三郎氏が芥川賞を受けた時、同時に直木賞をとったのは「花のれん」の山崎豊子、「赤い雪」の榛葉英治の両氏であった。このころはまだ受賞者を呼んできて記者会見をやるというようなことはなかった(もっと古いことをいえば、安部公房氏が「壁」で受賞した((昭和二十六年))のときには、その行方すらわからなかったはずである)。」
毎日新聞の記者だった高瀬さんは、発表の夜、榛葉英治の家に取材に出かけます。しかし本人は不在。奥さんによると、手持ちの金がなくなるまで飲んでいて、きっと終電で帰ってくるだろう、とのことなので待ちました。
「十二時をかなりまわってから、榛葉氏は千鳥足で帰ってきた。ふところにはもう一銭もないらしい。彼は「よく来てくれた」といって、二階の一室に招じ入れた。みると、正面の壁にマリリン・モンローの大きな写真が貼ってある。彼は私と会話を交わす前に、畳に正座をして、「モンローさま、おありがとうございます」と深々と頭を下げたのである。このシーンを忘れることはできない。」
なぜモンローなんだろう。受賞作『赤い雪』は、かつて満州国だった土地の戦後が舞台になっているんだから、李香蘭=山口淑子あたりの写真だったなら、面白いハナシなんだけど。マリリン・モンローじゃ唐突すぎるぜ。たしか榛葉さんには、『八十年現身の記』(平成5年/1993年10月・新潮社刊)っていう半生記があったなあ、今度読んでみよう。
大変残念なんですが、日本ジャーナリスト専門学院からは、『直木賞の研究』みたいな本は出版されていない模様です。ガックシ。直木賞だって、本書におさめられているのと同じ系統の原稿を探し出してきてまとめれば、立派に一冊になるはずですけど、芥川賞と比較してどうにも直木賞はジャーナリズム性の弱い感があるからなあ(なぜ、そうなのかは、これ十分な研究課題になりそうです)。
直木賞は研究するに値しない、とは決して思わないからこそ、こうしてワタクシは日々精進しているわけですけど、直木賞が“研究”なるコウショウな活動でもって取り扱われるのはあまり似合わないよなあ、とは感じます。笑いのネタをいちいち分析・解説しだすと途端に興醒めするのにも似て。
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