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2007年9月 2日 (日)

快楽と救済

 よくぞこれほどパワフルで読み応えのある作品をぬけぬけと落としたものよ、と後世にまで語り継がれるはずの『血と骨』落選劇が、アノ第119回だったというのも、何かのご縁に違いありますまい。

070902w170 『快楽と救済』梁石日・高村薫(平成10年/1998年12月・日本放送出版協会刊)

 何が“アノ”なのかと言えば、第119回(平成10年/1998年・上半期)は、直木賞に車谷長吉が、芥川賞に花村萬月が選ばれたことから、二人のそれまでの文学活動などに注目して、こりゃ純文学と大衆文学の境目があいまいになった表れか、なんぞと新聞やらで書かれたアノ回なのです。

 でもまあ、だいたい、直木賞と芥川賞の動きだけをもって、大衆文学や純文学を語ろうだなんて、強烈に乱暴なハナシですがな。“境界あいまい化”説も、話半分ぐらいに聞いといたほうが身のためです。

 さて、本書はその回に直木賞候補になっていた梁石日さんと、それより5年前の第109回(平成5年/1993年・上半期)に受賞していた高村薫さんとの対談本なのですが、お二人はこんなことおっしゃっています。

高村 ついこの間の直木賞と芥川賞では、周りの皆さんは、「それらの境目がなくなってきた」と、盛んにおっしゃっています。本来、芥川賞に行くべき人が直木賞へ行かれて、もともとエンタテインメント系の人が芥川賞へ行かれた。そのことによって、差がなくなってきていると言われているんですけども、梁さんはどう思われますか。私は違うと思うんですが。

 あれは一種の術策、トリックですよ、はっきり言って。そんなことで、簡単に、その境目がなくなるわけじゃないですよ。」

 トリック――。おお、しっくりくるぞ、この表現。

 ワタクシもそう思います。まさかこんな場で、大衆文学とか純文学とか、そんなでっかい風呂敷は広げませんよ。両賞のことだけ言いますけど、ともかく直木賞は過去、井伏鱒二第6回)にはじまり、小山いと子第23回)、檀一雄第24回)、梅崎春生第32回)、立原正秋第55回)、光岡明第86回)、山田詠美第97回)などなど、純文学畑で活躍していた人に何度も何度も、懲りずにあげているじゃないですか。

 たとえば、伊藤桂一第46回)は、それまで3度芥川賞の候補に挙げられていた人ですけど、なぜか彼のシブーい短篇が突然直木賞に決まり、同じ回の芥川賞は、宇能鴻一郎がとったわけです。このとき、評論家の平野謙が「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」だの「もはや純文学的な芥川賞と大衆文学的な直木賞との境界線が名実共に崩壊しさった」だのと書いたそうですからね。この平野さんの言葉がそっくりそのまま、平成10年/1998年7月にどこかの新聞に載っていたとしても、何の違和感もないっしょ。

 車谷長吉の受賞で、またそんな視点を蒸し返すのは、なんだか変です。

 受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』の初出が『文學界』だったのは、そりゃあ珍しい事態ですけど、ならば三好京三『子育てごっこ』(第76回)の立場はどうなるの? ってことになります。むしろこの場合、直木賞のことは放っておいて、芥川賞運営サイドが、ある時期(かなり昔ですけど)から、かたくなに大手出版社の純文学誌の作品ばかりを候補にするようになったこととか、それら純文学誌がやたらとエンターテインメント系作家に誌面を提供するようになった変節とかを論ずるべきだったのでしょう。

 梁・高村の両氏は、そこら辺に切り込んでくれています。

高村 出版業界では「直木賞と芥川賞を一つにしてしまえ」という声があります。書いているほうでも、例えばエンタテインメント系の作家が文芸雑誌に小説を載せたり、その逆もあるわけです。そのことをもってして、もう差はないんだと、みんな、おっしゃるんだけれども、私はその差がむしろ大きくなってきていると思う。

 もっと言えば、いわゆる純文学系の小説は、文学の本質から、本来文学が持っている力から離れていると思うんですよ。

(引用者中略)

 例えば、金石範(キムソクポム)さんが、「『血と骨』に対して、純文学のほうからはひと言もない」と言っているんです。金石範さんというのは純文学の中でも突出した存在で、だから、そういう言い方ができると思うんです。なぜ、ないかというと、それはわかるような気がすると言うのね、金石範さんは。

(引用者中略)

 この小説の世界の中へ入ってきたくないわけですよ。入ってくると、逆に、自分の持っているものを晒してしまうところがあるわけですね。で、晒してしまうと、ちょっと具合悪い面もあるんですね。一方では、これはエンタテインメント系の小説だというふうな見方で見ているところもある。だけど、本来そういうもんではないだろう。だから、いま、純文学系の話、出たんですけれども、それは純文学の危機でもあるわけです。そういう小説を、純文学系のほうで受けとめて、ちゃんとそれに対応できないという状況ですよ。だから、今回の芥川賞と直木賞を入れ換えるような、ああいうことが起こるんですよ。」

 深く語る素養がないので、ワタクシはあまりツッコミませんけど、今から10年前に起きた第119回の現象は、少なくとも芥川賞がポッカリと何かをやらかしたハナシであって、語るならそのことに焦点を当てたほうがいいのじゃないかなあと思います。その意味で、梁さんのとらえ方には、大きく賛成します。

 その回に限らず直木賞はですね、いつだって、“文学的”なるものの幻影に憧れ続けてきているんですよ。昔っから。勇気をもってエンターテインメント側に振り切れない、優柔不断なところがあるのです。ずっとそういう奴なんです。「面白すぎるぐらい面白い。でも何かが足りない」とか言われて落とされた候補作が、そこかしこにあるんですから。

 おっと、なんだか妙にかたくるしい、しみったれた空気になっちゃいました。気分を変えて、お二人の対談から直木賞関連のところを、拾ってみます。

高村 ところで、『血と骨』が直木賞候補になりましたが、そのあと、小説をお書きになる環境みたいなもの、変わりましたか。

 いえ、全然変わらないですよ。

高村 周りからの……

 そうですね、インタビューは、相変わらずあるんですけどね。

(引用者中略)

『血と骨』に対して、編集者や、いろんな人たちの関心が持続していることについては、僕もちょっと驚いているんです。

 直木賞の話(『血と骨』が直木賞を逸したこと)は、遠慮しているんじゃないかと思いますけど、全然出ないですね。」

 みんな恐れをなして触れない話題に、対談者・高村薫はガツンガツン突っ込んでいくのですから、拍手喝采です。つうか、インタビュアーをはじめ、おおよその人にとっては直木賞なんて、ニュース性オンリーの些末な出来事で、パッと話題にして1日2日たったらケロリと忘れちまうような、どうでもいいシロモノなだけだったりして。

高村 あれって、候補作を選ぶときに、いろんな投票があるはずですよ。

 候補作を選ぶときは、「オール読物」の編集者は全部参加して、投票する。

高村 私たち作家にも、推薦の投票紙が送られてきます。私は出したこと、ないんですけど。だから、読んで、面白かったものというのは、どんどん上がってくる。

 そういうことで、私の『血と骨』は、候補になったんですかね。

高村 皆さんが、文句なしに面白いと思う小説が、投票で、その数の多い方から入っていく。」

 「私は出したこと、ないんですけど」というのが、なんだか高村薫さんらしくて、いい。……いや、ワタクシは高村さんの人となりは存知上げませんので、あくまでイメージです、イメージ。

 これまでの候補作のラインナップを追っていると、高村さん言われるところの「皆さんが、文句なしに面白いと思う小説が、投票で、その数の多い方から入っていく」感じが、なかなかうかがえない回もあります。だけど、最新の第137回は、はたから見てけっこうその感じが出ていて、よかったように思うんですが、どうでしょうか。7作中、文春が3作もあるのは、ハテナですが。

 直木賞を、新人・中堅作家の作品をああだこうだ選考する場とみるならば、同時に、選考委員の先生方の批評眼が問われる場でもあるのは言わずもがなです。ただし問われているのは、作家や選考委員だけじゃないんです。何を候補作にするかによって、文藝春秋に勤めている編集者たちの批評眼だって、しっかり問われています。そのことを直木賞運営サイドのみなさんは、どうぞ忘れないでください。

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