時代小説盛衰史
直木賞の関連書籍を語る場ならば、この方の著作を一度も紹介しないなんて、チャンチャラおかしいぜい、との内なる声に応えまして。そして、筑摩書房よ、ありがとう、との意もチラッとこめまして。
『時代小説盛衰史』大村彦次郎(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊)
講談社の元編集者にして取締役、大村彦次郎さんの業績でいえば、もちろん『文壇うたかた物語』(平成7年/1995年5月・筑摩書房刊)、『文壇栄華物語』(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊)、『文壇挽歌物語』(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊)は3つとも取り上げるべきだし、最新刊の『万太郎松太郎正太郎 東京生まれの文人たち』(平成19年/2007年7月・筑摩書房刊)だって見逃せないわけですけど、ここはひとつ、直木賞の成立と草創期にポイントを絞りたくて、本書を選んでみました。
“直木三十五って誰よ、そんなに活躍した作家だったの?”とか、“なんで直木賞はバリバリの新人じゃなくて、けっこう名前の知られた人にばかり贈られるの?”とか、そんな疑問をお持ちの向きには、全523ページ、ぶ厚くて読みがいのある本書に目を通すことを、おすすめします。その疑問はきっと氷解……いや、ますます深まることになるかも。
直木三十五がもし菊池寛と同じくらい長く生き延びていたら、はたして直木賞のみならず芥川賞だってこの世に存在していたかどうか、はなはだ危ういものがあります。菊池寛が両賞の創設を企画したのは昭和9年/1934年。――直木が43歳の若さで2月24日にこの世を去った、その年のことでした。
「さきに芥川龍之介、いままた佐々木味津三、直木三十五と親しい仲間を相次いで失った菊池寛は身辺にわかに荒涼たる思いにさらされたが、まもなく亡友の名を記念する芥川賞、直木賞の創設を思いつき、それを実行に移した。」
芥川の死は昭和2年/1927年ですから、賞の創設から7年以上も前のことです。菊池を動かした直接の誘発原因は、明らかに直木の死だったととるべきでしょう。
直木の名を記念しようというのは、菊池親分の友情から出てきた発想でした。ええハナシです。それはいいとして、大胆極まりないと思えるのは、その賞を与える対象を“大衆文芸”と規定しちゃったことです。
さらに大胆なのは、一緒につくる芥川賞のほうを“純文芸”と区分したことです。大胆という表現は合わないかもしれないけど、だって、こんなふうに二つの賞を同時に立てられると、いかにも“純文芸”と“大衆文芸”とが、並立した領域っぽく見えちゃうでしょ。大胆と言わずして何という。
この世の小説全般を“純文芸”と“大衆文芸”の二つにスッパリと分けられるはずもないわけで、親分が打ち出した理念を、実際にとりしきる実務の方々は、さあて、困ってしまいました。
ともかく芥川賞のほうは、メドがついていました。“純文芸”とは何ぞやみたいな禅問答を持ち出すまでもなく、それまで『中央公論』とか『文藝春秋』とかの商業誌に創作をあまり発表していない、作品集も刊行していないような、同人誌でコツコツ研鑽している連中に、光を当ててあげようよ、と対象がいくらか目に見えていたからです。ところが、“大衆文芸”の直木賞のほうは、やるのはいいけど、どんな連中を対象にしたらいいんだい、というところで煮詰まってしまいました。
同人誌の連中を顕彰すればいいと言ったって、そもそも商業誌に発表されていない大衆文芸なんて、存在するのかよ、という問題です。
そりゃあ、商業主義にのっとらないで、いかに読者に楽しさを提供していくかを追求する文学活動は、あり得ないことではありません。佐々木邦のユーモア作家倶楽部にしろ、長谷川伸の新鷹会にしろ、海音寺潮五郎の『文学建設』にしろ、のちにはいろいろ注目できる動きも出てきます。だけど、昭和10年/1935年当時、まだまだ“大衆文芸”をうたった同人活動がたくさんあったわけじゃありません。
“大衆文芸”の新進作家とは、どんな発表の場で、どんな作品を書いている人のことを指すのか。……本書に描かれる第1回の直木賞選考の動きは、やはり、この困惑から始まっています。
「ところで芥川賞の性格は無名もしくは新人作家の創作中で、最も優秀なものに呈す、ということでハッキリしていたが、一方の直木賞のほうは大衆文芸の輪郭そのものがもともと不明瞭なところから、当初はこれといった候補作を上げるのに、いささかの戸惑いが生じた。」
この“不明瞭さ”は、以降ずっと直木賞の根幹をなす性質であり続けます。逆にいえば、実はこれこそ直木賞の最大の武器にもなってきたと思うのです。
不明瞭、どっちつかず、玉虫色、曖昧、迷走、言うなれば何でもアリ。直木賞候補作の系譜を見ていけば、その脈絡のなさがよくよくわかります。
久保栄の戯曲「火山灰地」だってそうだし、喜劇の同人誌『新喜劇』もある、松坂忠則の戦争実話「火の赤十字」もある、立野信之の評伝「公爵近衛文麿」もある、星新一のショートショートもある、結城昌治のスパイ小説『ゴメスの名はゴメス』もある、山口瞳の読み物のような時代諷刺のような婦人雑誌連載「江分利満氏の優雅な生活」もある。長篇でも中篇でも短篇でも短篇集でも連作集でも、もう手当たり次第です。
“こんな異質なもの並べて、優劣をつけろなんて、そりゃ無茶だ”みたいな不平が、過去の選評のそこかしこに見えたりして。選考委員たちの言いたいこともわかるのですが、無茶なのが直木賞の発生からの歩みであり、そこに直木賞の活路があったのです。枠をキッチリはめた直木賞なんて、つまらんでしょう?
さて、ハナシを第1回のことに戻します。なんだかんだで決まった受賞者は、川口松太郎でした。川口さん本人も含めて当時の受賞のことは、いろんな人が記録を残していて、本書ではそれらの逸話がコンパクトに一項にまとめられています。さすが大村さん。すばらしい。
「芥川賞には、ブラジル移民を題材にした無名の新人石川達三の「蒼氓」が受賞した。芥川賞の候補には石川の他に、外村繁、高見順、衣巻省三、太宰治ら、個性あふれる書き手が揃って、多士済々であった。文学青年の間でも当面の話題になった。それに対し、直木賞のほうは川口の他に、海音寺潮五郎、浜本浩、木村荘十、湊邦三、陸直次郎、岡戸武平らの作品が挙げられた。長篇ならばともかく、いずれも短篇であったから、この中から受賞作を見きわめるのは難しかった。その上、クロウト過ぎる、という批判が出た。商業雑誌に発表するのだから、クロウトの技倆がなければ通用する筈がなかった。」
ワタクシがここで注目したいのは、苦労の末に選考委員たちが名前を挙げた各候補者のことです。当初の直木賞は、主催者が候補を正式に発表する習慣はなかったので、誰が候補になったのかは、いまのところ選評をもって推察するしかありません。
海音寺潮五郎、浜本浩、岡戸武平の3人は、三上於菟吉がフルネームでもって触れてくれているので明確です。他には吉川英治が選評の一節にこう書いています。
「陸君、木村君、濱本君、湊君、他数氏の名ものぼせられたが、」
君、君と言われても、下の名前が書いていないので人物の特定ができません。のちに文藝春秋は候補作の一覧をつくっていて、たとえば『それぞれの芥川賞 直木賞』(豊田健次著、平成16年/2004年2月・文藝春秋/文春新書)の巻末にある芥川賞・直木賞データが新しめのものですけど、これに拠ると、
木村君=木村哲二
湊君=湊邦三
ということになります。「木村君」が、大村さん書くように「木村荘十」だったとしたら、相当に重大な指摘なんですけど、真偽は不明です。
もうひとり、「陸君」こと陸(くが)直次郎という作家がいます(他に当時、大衆小説界に陸姓の人がいれば、その人の可能性もあります)。理由はわかりませんが、文春が作成した候補作一覧からは、ザッパリとその名を消されています。
時代小説家だった陸直次郎、彼の作品を今読もうと思ってもなかなか苦労します。ああ、読んでみたい。陸さんには、息子さんに洋画吹替えやラジオDJで有名な野沢那智、お孫さんにタレントの野沢直子がいる、というのは明日から使えないこともない直木賞トリビアのひとつ。
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