日本ミステリー進化論 この傑作を見逃すな
“ミステリーだと直木賞のとりにくい時代があっただなんて、いつのハナシしてんだよ、ジジくせえな”と、今から14年前ですら、すでに煙たがられていたはずの、そんな古くさい、推理小説と直木賞の関係について、です。
『日本ミステリー進化論 この傑作を見逃すな』長谷部史親(平成5年/1993年8月・日本経済新聞社刊)
なんでこの本が、うちの書棚にあるのか、今となっては全然思い出せないんだけど、直木賞関連書として買ったのでないことは確かです。それでも久しぶりに目に留まったので、ぱらぱら見ていたら、しっかり直木賞のことにも触れられていて、14年も前の本ですけど、この場にお出で願いました。ようこそ。
記憶に新しいところを持ってくるとすると、推理小説と直木賞、このネタで滔々と一席ぶったのは、第134回(平成17年/2005年・下半期)で東野圭吾の授賞に反対した選考委員、渡辺淳一の、そのときの選評です。
「以前、とくに一九七〇年代ころから、推理小説の文学性について否定的な意見が強く、直木賞の候補として挙げられることもきわめて少なかった。その理由は、推理小説が謎解きに主眼をおきすぎ、その結果、人物造形が手薄になり、人間を描き、その本質に迫る姿勢が弱かったからである。」(『オール讀物』平成18年/2006年3月号「トリックか人間描写か」より)
アノ渡辺淳一さんが推理小説の歴史を語ってくださっているだけでも貴重な文献なんですが、しかし、この論って無条件に信じちゃっていいんでしょうかね。1970年代とは、だいたい第63回(昭和45年/1970年・上半期)前後――要は渡辺淳一さんご本人が直木賞を受賞した辺りからのみ、振り返っているわけでしょう、それ以前のことはオレは知らんぜ、ということですか。うーん、ここはひとつ、もっと本気に推理小説の歴史を研究している長谷部史親さんのほうを信用させてください。
長谷部さんによると、推理小説の直木賞受賞史の流れは、こうです。
「昭和十一年の第四回に木々高太郎が『人生の阿呆』で受賞して以来、しばらく推理小説の受賞がなかった。昭和二十六年の第二十六回に久生十蘭が「鈴木主水」で受賞しているが、これは推理小説ではない。ようやく昭和三十三年の第四十回で多岐川恭が「落ちる」他の短篇で受賞したのを皮切りに、三十四年に戸板康二の「団十郎切腹事件」、三十五年に黒岩重吾の『背徳のメス』、三十六年に水上勉の『雁の寺』、やや間を置いて昭和四十二年に生島治郎の『追いつめる』、四十三年に三好徹の『聖少女』と続く。」
ここまでで第58回。64人の受賞者が誕生していた計算になりますが、そのうち長谷部さんの観点で計れば、推理小説での受賞は、たったの7人。64人のうち7人、1割を少し超えるぐらい、となれば、前に「たったの」と言葉を足しても大げさじゃないでしょう。
で、その後、いよいよナベジュン語る一九七〇年代以降に突入するわけですが、長谷部さんは引き続いて、こう書きます。
「このあと昭和四十年代に陳舜臣と結城昌治が、推理小説以外の作品で受賞したほかは、またしばらく間があくことになる。これは昭和三十年代のブームならびに有力な作家たちによる研鑽と、昭和四十年以降の低調という史的推移と無関係ではなかろう。昭和四十年代後半からのブームが復刊を主体に移行した以上、推理小説と直木賞の縁が暫時薄くなったのも無理からぬところである。」
昭和30年代のブームというのは、仁木悦子『猫は知っていた』から始まり、松本清張『点と線』で大爆発した“社会派”ミステリーの隆盛のことで、昭和40年代後半からのブームとは、講談社の江戸川乱歩全集を発端として、桃源社が主な牽引役となって、夢野久作、小栗虫太郎、久生十蘭、海野十三、木々高太郎ら“戦前派”が脚光を浴びた時期を指しています。
このあと、直木賞受賞リストにお目見えする推理小説は、第80回(昭和53年/1978年・下半期)の有明夏夫『大浪花諸人往来』、第81回(昭和54年/1979年・上半期)の阿刀田高『ナポレオン狂』という辺りになるでしょうが、まだまだ、推理小説と直木賞の冬の関係が終わったわけではなさそうで、胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(第89回 昭和58年/1983年・上半期)も、連城三紀彦『恋文』(第91回 昭和59年/1984年・上半期)も、非推理小説です。
さらに時を経て、逢坂剛『カディスの赤い星』(第96回 昭和61年/1986年・下半期)で、両者間の氷結が溶けはじめ、笹倉明『遠い国からの殺人者』(第101回 平成1年/1989年・上半期)、原尞『私が殺した少女』(第102回 平成1年/1989年・下半期)にいたって、ようやく垣根が取り払われた、と見るべきでしょう。
長谷部さんは、北方謙三の登場を語る段で、昭和40年/1965年から昭和56年/1981年ごろまでの推理小説の停滞期について分析しています。
「昭和五十六年が昭和四十年代初頭と決定的に異なるのは何かといえば、新たに推理小説の歴史をなぞってきた若い世代の読者層が成立していた点であろう。」
「一方でこの十五年間のうちには、翻訳推理小説にも変化が訪れていた。(引用者中略・注:アメリカのハードボイルド小説の変容、フォーサイスの『ジャッカルの日』のような綿密な取材に立脚した国際謀略小説の紹介、P・D・ジェイムズの出現など)これらの諸要素のせめぎあいの中で、日本の推理小説も少数の熱狂者の愛玩物から、広く文化の一翼を担う存在として脱皮するための機が熟しつつあったのである。」
「もうひとつ、問題の十五年間に作家の世代が交替したという点も見逃せない。在来の推理作家の殆どは太平洋戦争前か戦争中に青春時代を迎えた“戦前派”か“戦中派”である。しかるに昭和五十年代は、“戦後派”もしくは戦後に生まれた“戦無派”が作家として発言する時代に突入していた。」
なるほど、作家の世代の移り変わりが、1980年代に新たな推理小説の歴史を切り拓いた、というのは興味ぶかい視点だなあ。そのモノサシをお借りして直木賞に当ててみますと、初の戦後生まれ受賞者は、第86回(昭和56年/1981年・下半期)のつかこうへい(昭和23年/1948年生まれ)で当時33歳、つづいて第91回の連城三紀彦(昭和23年/1948年生まれ)で当時36歳。
そうみると、本来ならこの辺(第85回~第95回ごろ)には、推理小説が当たり前のように直木賞をとるようになる歴史があってもよさそうだったんだけど、何事も後手後手にまわるのが好きな直木賞、結局、10年ぐらい遅れて平成1年/1989年ごろまで待たなくてはなりませんでした。いやあ、この間、第89回、第90回、第92回と候補になりながらスルーされた北方謙三さん(昭和22年/1947年生まれ)の無念、こうして見ると、より心にせまるものがありますよね。
世代ということでいえば、この頃、松本清張が第82回をもって選考委員を退任してから、推理小説畑の委員が空席となってしまい(水上勉はいましたが、すでに推理小説の分野からは大きく飛翔してしまっていましたので)、黒岩重吾が委員に就任したのが第91回から。陳舜臣が第94回から。というふうにこの辺りの委員交替のタイミングも、きっと、直木賞後手後手史をつくりあげてきた、一要素なんでしょう。
泡坂妻夫さんなんて、第103回(平成2年/1990年・上半期)で受賞できたからいいようなものの……。もし、このときも受賞できていなかったらと思うと、なんだか身震いがします。
「なぜか受賞運に恵まれない状態が続く。とくに昭和六十三年の『折鶴』(引用者注:第98回 昭和62年/1987年・下半期)が候補に上ったときには、周囲の多くの人が今度こそと期待していたものだから、選にもれたと聞いて落胆させられ、かつ大いに不満に思ったものである。」
「直木賞が芥川賞とともに新進作家の登竜門として位置づけられていることと、泡坂作品の質から考えると、受賞がいささか遅きに失した観があるのは否めない。」
そう思います。しかも、いささか、じゃないですよ。
遅きに失する … 遅すぎて間に合わなくなってしまう。用をなさない。(Yahoo!辞書より)
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