勇気凛凛ルリの色 四十肩と恋愛
いつもの書籍紹介とは違って、今回は、逆の目線でいきます。つまり、この本に何が書いてあるかを取り上げるのではありません。何が書かれていないかを掘り下げてみたいと思います。
『勇気凛凛ルリの色 四十肩と恋愛』浅田次郎(平成12年/2000年3月・講談社/講談社文庫)
浅田次郎―直木賞―エッセイ、とからませれば、「勇気凛凛ルリの色」シリーズのなかでも、3巻目の『福音について』に注目するものと、昔から相場が決まっています。第117回(平成9年/1997年・上半期)の受賞の周辺などを知りたい向きには、同書所収「栄光について」「出陣について」「パニックについて」「天使について」の4回分が、断然、必読です。
だけど、ちょっと待ってください。浅田さんは初候補でいきなり受賞したわけじゃないんですよね。それより1年前の第115回(平成8年/1996年・上半期)で、落選の経験をしているんだもの、週刊誌に連載されていたこのシリーズのどこかで、当然その貴重なる経験にも触れているんじゃなかろうか、と思わず読み返したくなるのが普通です(はい、あくまで、直木賞マニアの普通です)。
と書いてきて、じつはワタクシ、ここから先に筆を進めていいものやら妙な不安を感じています。書きかたを誤ると、浅田さんご本人のみならず、講談社の方々、浅田作品(とりわけ「勇気凛凛」シリーズ)のファンの方々の、気分を害するような地雷に、うっかり足を乗っけてしまうのじゃないか、と思うので怖いのです。
どうしても抜け切れぬ生来の性格のせいで、ふざけたような文体でしか書けないのですけど、ワタクシ、いたって真面目です。真面目に直木賞周辺の事柄を調べている、何の権力も後ろ盾もない一オタクです。そこのところ、どうかひとつ、ご理解のうえで、さあさ先にお進みください。
さて、『週刊現代』連載のエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、1年分ずつ単行本化→文庫化されていて、副題なしの1冊目から、[2]『四十肩と恋愛』、[3]『福音について』、[4]『満天の星』まで計4冊あります(書名に巻数のあるのは、正しくは単行本の『四十肩と恋愛』のみですが、順番をわかりやすくするために、ここではこのように表記します)。先ごろ文庫本で買い揃えて、それぞれに収録されているエッセイを数えてみたんですが、[1]…49篇、[2]…49篇、[3]…50篇、[4]…47篇で、計195篇に及んでいました。
浅田さんが候補になった第115回直木賞の決定は、平成8年/1996年7月ですので、ちょうど[2]『四十肩と恋愛』(平成7年/1995年10月7日号~平成8年/1996年10月12日号連載分)の途中ごろに当たります。
そうとわかれば、そりゃあ旦那、本書の目次を、順番に『週刊現代』の発行号とひもづけていきたくなりますよね。すると、平成8年/1996年7月17日近辺に発表されたのは、「恋愛について」(8月3日号、7月22日発売)辺りから、という計算になります。たしかに、ちょうどその1篇あとの「由来について」では、「……直木賞も、ボツになってしまった」と直木賞落選のことが一文だけ登場しますしね。
でも、ですよ。平成7年/1995年10月7日号から平成8年/1996年10月12日号まで、『週刊現代』は50号出ているんです。なのに、文庫に載っているのは49篇……。あれ? どこかで1回休載でもしたのかな。だとすると、計算をやり直さなきゃならんぞな。ええい、ついでだから全巻分調べてみるか。それで作成したのが、こんな一覧表です。……おめえ、ひまだな、おらあそんな表いちいち見てる時間なんかねえんだ。そうでしょう、そうでしょう。
結論を申します。休載なんかではありません。『週刊現代』の連載を単行本化するとき、収録対象から外されたものが1篇だけ存在するのです。
それは、平成8年/1996年8月10日号の「敗北について」。
で、本題を突っ走る前に、ここでちょっとだけ別のおハナシを。シリーズ1冊目にも、不思議な運命をたどったエッセイが1篇だけあることにお気づきですか。単行本に収められ、文庫化されたときも入っていたのに、いつからか、なぜか文庫から消されてしまっているものがあります。平成7年/1995年2月18日号の「金玉について」です。
「金玉」について。ふうむ。
まあ、「勇気凛凛」ファンのあいだでは当然有名なハナシかと思いますし、直木賞マニアふぜいがとやかく言うことじゃないんでしょうけど、純粋に、これってなんで削除されたんですか? おもしろいエッセイなのに。公序良俗に反するとか何とか、PTA筋あたりから抗議文でも送られてきたんでしょうか。それとも、この1篇を含む版を「男版」、削ったほうを「女版」と呼んでもらって一家に2冊揃えてもらおう、とかいう浅田さんや講談社の洒落ゴコロなんでしょうか(そんなお下品な洒落ゴコロあるわけないか)。
とにもかくにも、これ以上の考証や研究は、ワタクシなんかよりも数万倍以上は浅田作品に愛着のある、浅田次郎研究家の方々におまかせしたいと思います。よろしく、どうぞ。
閑話休題。そうです、[2]『四十肩と恋愛』に収録されていない唯一のエッセイ「敗北について」です。なぜこれだけが無視されたのか、俄然むらむらと興味が沸いてきます。
8月でしょ、あの太平洋戦争における日本国の敗北、についてでも書いてあるんじゃないの? ブブーッ。正解は、1篇まるごと、第115回直木賞を『蒼穹の昴』で受賞できなかった日のことが、これでもかと、めいっぱい書かれているのでした。
『週刊現代』連載中にリアルタイムでお読みになっていたらしいtakefourさんも、ご自身のブログ「It's a Good Day to Die」(平成19年/2007年8月24日分)で、
「受賞前年の1997年に『蒼穹の昴』で初めて直木賞にノミネートされたとき、絶対に受賞する、とぼくは周囲に公言していた。しかし、残念ながら受賞はならなかった。直後のエッセイは涙なしでは読めない。同じように、受賞直後のエッセイもまた涙なしでは読めない。」
とお書きになっています。
そんなエッセイ「敗北について」、読みたいと思いませんか?
「思い返したくもない一日であったが、私は私とともに戦ってくれた兵士たちの名誉のために、勇気をふるってペンを執る。
一九九六年七月十七日――この日、私は世界で一番幸福な人間だった。ただし、午後七時十五分に一本の電話がかかるまで、である。
ここまで書けば、カンの良い読者はもうおわかりであろう。そう――拙著『蒼穹の昴』が第一一五回直木賞の選に洩れたのである。」
著者と出版社が、なにがしかの決心をしてあえて書籍に入れなかったものを、こんなふうに引用するのは、ひょっとしてマナー違反、モラル欠如なのでしょうか。
いや、でもこの号の『週刊現代』が自主回収されたとのウワサは聞かないし、大きな図書館には今でも普通の顔して所蔵されているのだから、紹介したっていいんですよね? まあ、東京都立中央図書館の場合は、運よく前後の号と合本製本されているので、静謐な館内を、羽田惠理香が表紙をかざっている天下のオヤジ雑誌をむきだしで持ち歩かなきゃいけない危険は回避されているんだけど、ページをめくろうとすると、やたらヌードやら水着のグラビアページばかり開きやすくて、同じ机に座っているうら若き女性に変な目で見られるんじゃないかとドキドキしながら調べなくちゃいけなかったりして、んもう、どうして、どうして単行本に入れてくれなかったのですか! とつい関係者に問いたくなるわけです。
理由を勝手に推測すると、たとえばですね、
- 受賞できなかったことを、本というかたちで残しておくと、あとで読み返したときに、そのときのショックが蘇ってくるのでイヤだ。
- あまりのショック状態で書いてしまい、自らが課しているエッセイの水準に到達していないことを、のちに反省した。
- 講談社以外の各出版社の担当編集者の名前を(苗字だけだが)実名で書いてしまった。これを講談社の本に収録するのは都合が悪い。
- 文中に差別を助長するような不適切な表現が含まれている(ワタクシにはどれだか見当もつきませんが)。
- 直木賞選考を、戦いの場、に擬して書いたが、そんなふうに書くと日本文学振興会や選考委員たちに嫌われてしまうことに、あとで気づいた。
- 直木賞選考を、戦いの場、に擬して書いたが、たかがブンガク賞の落選程度のことと、無辜の人民のいのちが多数犠牲になった痛ましい戦争を、重ね合わせるなどけしからん、と抗議がきた。
- 直木賞に落ちたことを、以後、誰からもどんなかたちでも触れてほしくない。
- 連載を毎回読んでくれている読者とのみ、秘密を共有しておきたいという読者サービス。
- 単行本化するときに、この回だけ収録するのをうっかり忘れた。
- ワタクシの買った文庫本が、たまたま落丁していただけ。
ほんとうの理由が仮にわかったからといって何なのだ、とツッコまれそうですけど、少なくともワタクシは、[3]『福音について』に入っている第117回受賞時の4つのエッセイと同じくらい、作家と担当編集者たちとの固い結びつきがじーんと胸にせまってくる、感動的な1篇だと思いますよ。さらに言えば、落選でショックを受けるのは作家だけではない、出版社の垣根を越えて団結した各社編集者たちもまた、作家とともに候補作をつくりあげたのだととらえて、候補作家がそんな編集者たちを称えようとする姿勢で書いたエッセイというのは、過去の直木賞の歴史を振り返っても、なかなかないし貴重だと思うのです。
なので、叱られることを覚悟で、もう少し引用させてもらいます。
「いや、「担当編集者たち」などという呼び方はやめよう。それぞれの会社の営利も思惑もかなぐり捨てた、『蒼穹の昴』のプロジェクト・チームであった。彼らはみな、この一千八百枚におよぶ作品に「物語の復権」を賭け、「文学の栄光」を信じて私とともに二年半の歳月を戦った。」
「敗けた。誰に敗けたわけではない。私たちは浅田次郎という、無能で不遜で下劣で、身のほど知らずの極道作家に敗けた。」
「散会後、岡氏と新宿で飲んだ。
候補作の担当編集者である彼の悲しみは計り知れない。泣きながら嘆きながら、彼は言った。」
ここで何と言ったかは、さすがに浅田さんも「この発言の採録にはいささかとまどうが」とお書きになっているので、こんなチンケなブログで引用するのは、やめておきます。
「真夜中の窓辺に、傷心の私をここまで護衛してくれた遅塚女史(引用者注:集英社編集者)が、生き残った兵士のように佇立している。
女史の慟哭を背にして、まるで終戦の詔勅のようなエッセイを書いている自分が呪わしい。彼女は私を世に出すために、二年間のあいだわずか二本の短編しか受けとろうとはしなかった。」
「私が彼らにしてあげられること、いや彼らのためになさねばならぬことは、ネクスト・ワン――よりよい小説を書くことだけなのだ。」
やはり、ここの箇所は、「勇気凛凛」シリーズから消し去ってはいけない記述だと思うんだけどな。なぜなら、それから1年後に見事、受賞をかちとった数時間後に、とあるホテルで書かれた「栄光について」([3]『福音について』所収)へとズドンと直球でつながっていくからです。以下は、その「栄光について」よりの引用。
「ところで、このホテルには忘れがたい思い出がある。
奇しくも一年前の同日、私はこのホテルにいた。初の直木賞候補が落選し、立ち上がることすらできぬほどに憔悴しきった私を、古いなじみの編集者が担ぎこんでくれたのである。」
この先が、「敗北について」の悲愴感あふれる描写とは、趣きを異にします。「敗北について」ではその編集者は「力、及びませんでした。申しわけありません」と帰りがけに深々と頭を垂れたことになっていますが、ここでは作者に万年筆を握らせ、「書くのよ。今すぐ書くのよ」と叱咤したと続きます。
「立ち上がることすらできぬまま、私はペンを執り、思い出すだにおぞましい幼時体験を小説にした。
あとにも先にも、泣きながら原稿を書いたのはその一度きりである。」
それが、受賞作『鉄道員』に収録された評判高き「角筈にて」だったというのですから、まさしく、「敗北について」で傷心のさなかに発した誓い「ネクスト・ワン――よりよい小説を書く」という言葉が、決して空虚なままで終わることなく、きちんと結実したことを、ワタクシたち「勇気凛凛」シリーズ読者は知るのです。
それでもやっぱり載せませんか、「敗北について」は。うーん、何が問題なのでしょうねえ。
蛇足なんですけど、[3]『福音について』のなかにある直木賞受賞顛末記その4、「天使について」は、「敗北について」の系統につらなる編集者エピソードで、これもまた浅田節のなせるわざ、感動すら覚えさせられる名篇です。直木賞選考会の早くも翌日に、新作『活動寫眞の女』がなぜ「新直木賞作家受賞第一作」とオビをつけて書店に並んでいたのか、そのカラクリが丁寧に明かされていたりして。――よっ、双葉社、お見事!
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