文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち
祭りが終わったあとは平常運転に戻って、直木賞の関連書籍を地道にひもといていくのが、ワタクシに課せられた使命だと、ひとり敢然と胸を張って歩きつづける直木賞オタクなのでした。
『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』大川渉(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊)
本書と出会ったのは、直木賞候補作家・青山光二のことを調べているときではなくて、知られざる直木賞候補作家・吉井栄治に関心をもち、少しでもその情報をかき集めたくて右往左往しているときでした。吉井栄治については、調査の模様を親サイトで書いたので、そちらをご参照願うとして、やはり本書のことも、もっとくわしくご紹介せねばなるまいと、ずっと気にかかっていたので、ここで取り上げます。
候補に挙げられながら受賞しなかった作家が、リアルタイムで、またはのちのちになって、直木賞のことを語った文献は、けっこう多そうで少なく、少なそうで多いのですが(どっちなんだ)、こういうものばかり探して楽しんでいる人間は、ひとの不幸な過去ばかりほじくり返しやがって、ひとでなしめ、と軽蔑されたりします。
青山光二が候補になったのは、第35回(昭和31年/1956年・上半期)、第54回(昭和40年/1965年・下半期)、第77回(昭和52年/1977年・上半期)の3回。初候補から最終候補まで21年も経た作家は、直木賞史上いちばんではないけど、相当長い部類に入ります。
(ちなみにその上をゆく最長“飼い殺し”記録といえば、古川薫の第53回~第104回の25年半、深田祐介の第40回~第87回の23年半、滝口康彦の第38回~第81回の21年半があります)
まあ、無粋な興味本位の第三者がだらだら紹介するよりも、ここはバシリと、老年の星、青山光二さんに語っていただきましょう。なにしろ90歳を過ぎてなお現役ばりばり、もう怖いものなんかありません。
ということで、以下ほとんど引用でつなぎます。本書は大川渉さんが青山翁からの聞き語りをもとに三人称で書きつづる形式をとっています。
最初の事件は、昭和31年/1956年、第35回のときのこと。
「七月二十日の選考委員会で直木賞の受賞者は、南條範夫と今官一に決まった。青山はとくに気落ちすることもなかったが、間もなく発売された『オール讀物』(昭和三十一年十一月号)掲載の選評を読んで、はらわたが煮えくり返った。選考委員の木々高太郎が次のように記していたからである。
――青山光二「法の外へ」はとに角直木賞のものではない。すぐに交りのことに及んだりするキタナイもので、依然バクロされてる戦争文学と同じように僕は直木賞からは最初に除外する。
というのは直木賞は芥川賞と異って、やっぱり美のある文学、ハイカラなところの文学、キタナイものゝうちにも美しさを見出す文学であると僕は信じているからである。
「直木賞から除外するという木々高太郎委員の冒頭の一言で、僕の作品は早々に選考対象からはずされてしまったと、あとで知りました。それにしても、ひとの小説をキタナイと評するなんて……」
青山はいまだに、このときのことを思い出すと怒りがこみ上げてくる。「すぐに交りのことに及んだりする」という批評もまったく的外れで、言いがかりでしかないと思っている。」
そして、青山光二と同じ頃、何度か候補に挙がった人に、推理サスペンス小説の巨匠、笹沢左保がいますが、彼もまた、“木々高太郎被害者同盟”(これ、ワタクシの造語)のひとりとして登場します。
笹沢は第46回で『空白の起点』が木々に酷評され、第48回には「六本木心中」が候補になりますが、受賞ならず。木々は選評で、他の候補についてはいろいろと書いたものの、笹沢の作品にはまったく触れませんでした。
「「六本木心中」が直木賞を逸してから間もなくのころ、青山が深夜、銀座のはずれにあるバーの扉を押すと、店の中に笹沢がいた。
「木々高太郎を殺す……」
ぐでんぐでんに酔っぱらっていた笹沢が、わめくように言った。
青山には、笹沢のやり切れぬ気持ちがよく分かった。
「いま、そんなことをここで言うんじゃない。やるときは俺も一緒にやるよ……」
「一緒にやってくれますか……」
青山は酒が入っていたこともあり、少し芝居めいていたが、笹沢の背中を思わずさすった。
「僕はいまでも『六本木心中』が候補作のなかでは突出していたと思うし、受賞しなかったのが不思議でしょうがない。逆に言うと、あんなうまい小説をよく落とせたなあと思いますよ」
青山は、このころの選考を振り返る。
「木々氏も小島氏(引用者注:小島政二郎)も、二言目には『文学』ということばを持ち出す。そして、これは文学ではないとか、直木賞ではないとか子どもみたいなことを言って簡単に選考対象から排除してしまうけれど、あほらしくて、二人の文学観や鑑識眼を肯定する気にはなれません」」
かくして木々高太郎恨まれるの巻、終わり。
かと思いきや、まだまだ。青山光二と木々高太郎の因縁は、青山の次の候補、第54回の『修羅の人』にも続いていくのです。
この回の選考会では委員の意見が割れ、新橋遊吉「八百長」、千葉治平「虜愁記」、立原正秋「漆の花」と、青山の『修羅の人』の4作が、ほぼ受賞圏内で争ったようです。選評を読んでもたしかに、どれが受賞してもおかしくないほど、それぞれに票が集まっています。青山の作品はとくに源氏鶏太が強力に推しました。しかし結果は、このなかでもほとんど無名だった新橋と千葉の2人に授賞となりました。
青山光二もそうですし、立原正秋も、すでにこのときには相当の実績もあり、マスコミ内での下馬評も高かったそうです。
「選考委員会が終わってからしばらくして、青山は丹羽文雄と会った。
「源氏さんが頑張ってくれたんですが、駄目でした」
「源氏なんかが下手に芝居するからマイナスになるんだ。源氏が先に何か言って、木々がそれを否定するようなことをぴしゃっと言ったら、それでおしまいになるんだ」
丹羽は苦笑しながら言った。
「木々は学者で会議ズレしているから、自分の意見を通すのがすごくうまいんだよ」」
丹羽さん、これはなかなか面白い分析ですね。会議操作術では、作家とかサラリーマンより、学者のほうが一枚上手だと。なるほど。
その直後、青山のもとを、職業作家としてはド新人だった新橋遊吉が訪ねてきます。「これからどうしたらよいでしょうか」といった相談の件だったとか。そりゃそうだ、青山の文壇での出発は、ずっとずっと時代がさかのぼって戦前、大学生時代に織田作之助らとつるんでいた頃からですからね、年季が違います。
それが縁で、新橋の受賞作の出版祝賀会に、落選した青山が出席するという、なんとも奇妙な事態になるのです。
「青山が、講談社の編集者と一緒に会場へ行くと、入り口に木々高太郎が立っていた。青山が来るとは思ってもみなかったのか、驚いた様子だった。
「このたびは、お世話になりました」
黙っているわけにもいかないので、青山が近づいて挨拶すると、木々はよろけるように二、三歩後ずさりした。」
(引用者中略)
「青山は、銀座のバーで文藝春秋の役員池島信平に会ったとき、思わず愚痴をこぼした。
「今回の選考、木々高太郎という人は、ちょっとどうかしていませんか」
池島は「私もそう思う」とはさすがに言わなかったが、大きくうなずき返し、認めたも同然だった。青山は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」
まあ、伝聞や憶測のみの記述なんだけど、こう書けば何となくそうだったのかもな、と思わされてしまうのですから、大川渉さんの筆力、すばらしいものです。
青山さんはこんな屈辱にへこたれることなく自らの努力によって、その後も作家道を歩み続け、こうして回想本を発表できる境遇にいらっしゃるので、ただ頭の下がる思いなんですが、直木賞落選作家はそのほかに400人近くもいるんですよね。
“本人にとってはショックな出来事なんだから、今さら他人がつつき出すこたあないだろ。そっとしといてやれよ”……ごもっともです。それでも、“直木賞候補の経験なんて煩わしいだけだった”とか、“別に何とも思わなかった”とか、アッサリした感想でも何でもいいので、候補作家の方には何らか書き残しておいてほしいなあと願い、そんな文献をくまなくあさりたくなるマニア心って、ああ、やっぱりひとでなし。
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コメント
木々高太郎が直木賞の選考委員をやってるころ、芥川賞の選考委員に坂口安吾と佐藤春夫がいたんですよね。二人とも探偵小説を書いていた文学者として、よく取り上げられる人です。特に坂口安吾は同時期に「明治開化安吾捕物帖」なんて、木々が蹴落としそうなタイプの作品を書いてました。木々は安吾のことをどう見ていたのかな、なんてことをつい考えてしまいます。
投稿: あらどん | 2010年10月11日 (月) 00時22分
あらどんさん
木々高と安吾、どんな関係だったのか興味ひかれます。
なにせ木々高太郎さんですからねえ、かりにオモテで安吾の作品を褒めていたとしても、
ウラではどんな工作をしてるか、はかり知れないところがありますもんねえ。
ちなみに、木々高と佐藤春夫とは一時期、『三田文学』の編集でいっしょだったことがあり、
そうとう仲が悪くて(?)“ケンカ”していたらしいです。松本清張さんによると。
投稿: P.L.B. | 2010年10月12日 (火) 03時01分