小説新潮 平成19年/2007年7月号〈第20回山本周五郎賞決定発表号〉
直木三十五よりも今でははるかに名前を知られている(と思われる)山本周五郎の名を冠した賞が、“プレ直木賞”みたいに扱われるのは、冥途の周五郎さんには心外かとも思いますが、どうかひとつ、新潮社の顔に免じて許してやってくださいまし。
『小説新潮』平成19年/2007年7月号(平成19年/2007年7月・新潮社刊)
山本周五郎賞は、今年の5月15日で第20回を迎え、晴れて公の場でお酒をのめるお年頃になりました。受賞作は、恩田陸『中庭の出来事』と、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』の2作。それから2か月たった今、あらためてそのことを蒸し返す理由はもちろん、あさって(7月17日)にせまった第137回直木賞選考会に、候補作として『夜は短し~』が挙がっているからです。さらに山周賞の選考委員、北村薫の小説『玻璃の天』も、なぜか候補になっているからです。そして、同僚選考委員、浅田次郎が直木賞の選考会には初出陣となるから、です。
どうでもいいことですけど、山本周五郎賞って、なんか略しにくい賞名なんですよね。山本賞もしくは山周賞。どっちもピンとこないんだよなあ。賞名を決めた新潮文芸振興会お偉方、一生の不覚か。ほらな、文学賞なんておいらの嫌いなこと勝手にしやがるから、そんなことになるんだ、他のやつの名前を使えやよかったんだ、と周五郎さんが雲の上で仏頂面をしているとか、いないとか。さすが周五郎さん、おのれの筆名でも、文学賞とは相容れないところをお示しになっておられる。感服いたしました。
で、第20回の選考会。選考委員は、浅田次郎、北村薫、小池真理子、重松清、篠田節子の5名、年齢順でいえば下は44歳の重松さんから、篠田さん(51歳)、小池さん(54歳)、浅田さん(55歳)ときて最年長は、57歳の北村さん……って、え?
北村薫の直木賞候補といえば、3年前の『語り女たち』(第131回)のときですら、いまさら感がぷんぷん臭っていたのに、前回『ひとがた流し』、今回『玻璃の天』と、あえて批判が出ることを十分予想できるなかでの連続選出は、日本文学振興会内にひそかに結成されているともっぱらのうわさの“なんとしてでも北村薫先生を直木賞作家にしようぜの会”の暗躍っぷり、お見事と言うしかありません。
そうですよね、候補のラインナップを見て、一つぐらいサプライズがないと、直木賞とは言えませんよね。
その北村さんが、山周賞の選考会で、これしかないと褒めちぎっているのが、森見登美彦『夜は短し~』なわけです。
「『夜は短し歩けよ乙女』を推す。
これはもう、一段階、完全に抜けていて、どれかひとつとなったら論をまたない、という思いであった。」
(引用者中略)
「『夜は短し歩けよ乙女』という、摩訶不思議な作を前にすると、あれこれ単語を並べるのが空しくなる。ただ《読んでみて》といいたくなる。投げやりな義務の放棄ではない。指先の触れる奇妙な感触、あるいは、この舌触りを、直接、味わってもらいたくなるのだ。説明するより、むしろ、こちらから《どう、どう?》と、にんまりしながら問いたくなってしまう――そんな作であった。」
北村さんがもし『スキップ』(第114回)とか『ターン』(第118回)の頃に、直木賞とっていればなあ。こんなに胸の詰まる思いで、北村さんの山周賞選評を読まなくてすんだのに。第110回代の頃の直木賞選考委員の方々は、ほんと、罪つくりなことしてくれました。
お次は、今回の直木賞でもう一度『夜は短し~』を選考の対象にしなければならなくなった浅田次郎さん。各候補作を建築物に見立てて一篇の選評を書いていますが、そのなかから『夜は短し~』評、抜粋。
「年齢とキャリアから察するに、この建築家の才覚はなまなかのものではない。古典的な素材をふんだんに使用して、少しも衒いを感じさせぬ。自由闊達な表現をしながら放埓に流れず、思想性や求心力には欠けるものの、決定的な破綻は見当たらない。」
(引用者中略)
「しかし私はそのような目で精査するうちに、ふと疑念を抱いた。たしかに細部の工夫には感心させられることしきりであるが、それらが余りにも念入りであるがゆえに、これはもしや「詭弁建築」ではあるまいか、との疑念を持ったのである。
すぐれた建築にはストーリー性のダイナミズムが必要である。この一作品を鑑賞した限りでは、氏にそうした資質があるかどうか不明であった。むろん不動産の購入はその物件の出来ばえであり、建築家の資質を問うのはいささか僭越であろうけれど、購入後のアフターサービスやメンテナンスが気にかかるのは人情というものである。」
恩田陸への賛辞と比べると、浅田さんにとっては次点の評価、といったところでしょうか。
ちょっとハナシは逸れますけど、篠田節子さんが選評の冒頭で、非常にすがすがしい文学賞観を書いていたので、どさくさにまぎれて引用しちゃいます。
「ろくに広告も打ってもらえず、マスコミでも業界でも話題にならず、新刊だというのに棚ざしにされ、評論家にも取りあげられない。たまにネット上に感想文がアップされるかと思えば、基本的な知識と読解力を欠いた読者にこきおろされる。優れた内容であるにもかかわらず、そんな不当な扱いを受けていた本が、たまたま候補作に上がってきて、選考委員の驚嘆と賞讃のうちにほぼ満票に近い形で受賞が決定する。
選考する側の見果てぬ夢である。が、候補作はたいてい、この一年、売れ行きや書評の多さで、すでに十分話題に上ったものだ。」
見果てぬ夢、ですか。今回の直木賞でいえば、メッタ斬りのお二人も言っているけど、三田完『俳風三麗花』あたりでしょうか。この素晴らしい小説と出逢えたことを、ワタクシも単なる一読者として、候補作に選んでくれた日本文学振興会に感謝したいと思います。いや、待てよ、これが名も知らぬ出版社から出されたものだったら完璧なんだけど、ええと、刊行元は……。感謝は保留にしときます。
山周賞について他に何かネタはないものかと、ぶらぶらとインターネットを見ていると、読売新聞のネット上のコンテンツのなかに、「【三島&山周賞20年・下】優れた先見性 直木賞と蜜月」という、平成19年/2007年6月5日付の記事が見つかります。
ははあ、新聞記者の方ってどんな現象からでも、ある程度結論めいたものを見出して書かなきゃいけない大変な職業ですね、と思わず同情したくなる記事なんですけど、これを読んで素直に感じるのは、直木賞しっかりせいよ、ということなのです。
あんまり書くと、また“現今の直木賞”批判になってしまいそうで、楽しくないから、もう言いません。アイデア豊富な部下から上がってくる企画案に、ただ判を捺すだけが仕事の“肩書きだけが偉い月給泥棒”部長には、ならないでほしいな。
もう一度、国民的3万部雑誌『小説新潮』に視線を戻します。タイムリーな話題じゃないんですが、直木賞で2度選外にもれた超人気作家、恩田陸さんが、山周賞の「受賞記念インタビュー」で、興味ぶかいことを言っていますので、しばし耳を傾けてみてください。
「人工的な話を書きたい、という欲求があるんです。よくあるフレーズですが、ミステリで「人間が書けてない」とか「登場人物がチェスの駒のようだ」とか評価されますよね。でも、本当のところ、リアリティって何なのか。今の中学生のリアリティと、六十歳の小説家のリアリティが同じなのか……。リアリティとは、現実とは何なのか、ということをずっと考えていくと、虚構とは何なのかという問題に突き当たる。それで、小説にしかできない虚構を徹底的に書きたくなって、この『中庭の出来事』が生まれました。――あとになって自分で分析してみた結果ですけどね。」
「六十歳のリアリティ」と言わず「六十歳の小説家のリアリティ」と口走っちゃっているところが、妙に意味深。
で、そういう作品を掬い上げるところが、山周賞の面目躍如たるところなんでしょうね。北村さんもこんなこと言っているし。
「『中庭の出来事』は、朦朧たるところこそが、優れた味である。その独特の浮遊感が、まことに心地よい。」
(引用者中略)
「これを他の作家が書いて、同様の浮遊した安定を得られたかどうか。そういう意味で、まことに恩田陸らしい作といえる。
この作で受賞する、ということに意味があるだろう。」
吉川新人賞は『夜のピクニック』にピピッと反応し、山周賞はそれをスルーして、『中庭の出来事』に栄誉をさずける。ん、もう。直木賞、しっかりしてくださいよ。
あさっては第137回直木賞の選考会。午後5時から始まって、7時~8時ごろには決まっていることでしょう。ネット上で一番情報の早いのは、絶対に誰も追いつけない日本文学振興会のページでしょうから、うちの親サイトではこっそりと2番手をめざしてみたいと思います。
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