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2007年6月10日 (日)

大衆文学への誘い 新鷹会の文士たち

 『九州文学』『近代説話』『作家』『文学者』ナドナド、直木賞の歴史に大いなる足跡を残した非商業雑誌(半商業、と言ってもいいかな)はいくつも思いつくところですが、絶対に外せないのが『大衆文藝』です。

070610w170 『大衆文学への誘い 新鷹会の文士たち』中谷治夫(平成18年/2006年5月・文芸社刊)

 直木賞にとっての『大衆文藝』といえば、昭和14年/1939年3月に新小説社(社主・島源四郎)から創刊された第三次『大衆文藝』のことです。この創刊が実現したのは、島の義兄・長谷川伸が、毎月の資金援助と稿料なしの原稿執筆のかたちで全面協力したからこそでした。長谷川伸アニキは新人作家の育成にも熱心で、彼のもとには作家もしくはその卵たちが多く集まり、昭和14年/1939年秋ごろから小説勉強会の「十五日会」が開かれ、翌年9月に「新鷹会(しんようかい)」と名付けられます。彼らの修業の場でもあった『大衆文藝』からは無数の作家――数えようと思えば数えられるのでしょうが、まあサボらせてもらいまして――が育てられ、鍛えられ、巣立ち、大活躍していくことになるのです。

 過去の直木賞の候補作(戦前の一次候補等を含む)を、今度はちゃんと、コツコツ数えてみますってえと、いまだ発表誌不明の作品もいくつかあるんですけど、掲載数の多い雑誌は、第1位『オール讀物』103作、第2位『別冊文藝春秋』57作。ううむ、文春系が圧倒する中で、さあ第3位は、御三家の『小説新潮』でも『小説現代』でもなく、おっとびっくり『大衆文藝』の38作。文春びいきとか商売っけとか、そういうもの度外視して、『大衆文藝』みたいなところからもきちんと候補作を探そうとしていた頃の直木賞が、ワタクシは好きです。

 本書は、そんな『大衆文藝』と新鷹会メンバーたち十数名をまじめに評論した、『大衆文藝』を知るには格好の書。著者は中谷治夫(なかたに はるお)さん、奥付のプロフィールを見ると、東ソーっていう会社で長年勤め上げて代表取締役副社長にまでなり、その後プラス・テクっていう会社の社長、会長を務めたのちに引退。ほお、実業界の方でしたかと思いきや、あとがきにこうあります。

「わたしの父、中谷博は大学でドイツ文学を講じながら、大衆文学が大好きであった。戦前からの数少ない大衆文学評論家の一人とされているが、なかでも長谷川伸とはたいへんに親しくさせていただいた。」

 お、中谷博といえば、『大衆文藝』にひんぱんに評論を発表されていたあの中谷博ですか。そうですか、あの方のご子息ですか。

 目次を引いてみると、

第一章 新鷹会の成立ち
第二章 村上元三
第三章 山手樹一郎
第四章 山岡荘八
第五章 長谷川幸延
第六章 大林 清
第七章 田岡典夫
第八章 戸川幸夫
第九章 池波正太郎
第十章 平岩弓枝

 と、直木賞の歴史と切っても切り離せない有名作家の名前がずらり並んでいて、うれしくなってくるんですけど、最後の章はその名もずばり、

第十一章 直木賞の作家

 として、今ではまずその作品にお目にかかることの稀な新鷹会出身の受賞作家のことなどに触れられていて、貴重の上に輪をかけて貴重な内容になっているのです。こりゃすげえぜ。

 「第十一章 直木賞の作家」で中心的に取り上げられているのは、河内仙介神崎武雄山田克郎邱永漢穂積驚の5名。河内の「軍事郵便」神崎の「寛容」の2つの受賞作は、ワタクシも自分のサイトに載せるためにパソコンに打ち込んで何度も校正した経験があるので思い入れが深かったりします。

 でね、河内仙介ってえのは、こんな方。

「本名は塩野房次郎と言い、明治三一年に大阪で生まれ、昭和二九年二月二一日、五五歳で没している。劇作家の北條秀司とは親友だった。長谷川伸へ紹介してくれたのも北條秀司であったという。若い頃から、職を転々としながら小説の習作を重ねていたが、なかなか芽が出なかった。新小説社に入り、社主・島源四郎の下で、「大衆文藝」の編集に従事し、編集後記を書いたりしていたが、昭和一五年の三月号に、長谷川伸の推薦により、『軍事郵便』を発表した。この小説が河内にとっては、活字化された初めての作品であったのである。それがいきなり直木賞を受賞したのだから、新小説社の社内はたいへんな騒ぎになった。」

 と書き出したあとに、「軍事郵便」のことをくわしく紹介していて、その細かな目配りぶりに、中谷さんえらいなあと尊敬してしまうのです。そうだ、河内仙介っていえば、たしか他にも少し触れられた文章があったよな、あれどこだっけな、と思ってようやく探し出してきたのが次の3つ。

 まずは文春から出版された“正史”から。

「河内仙介が師事している長谷川伸から、「軍事郵便」が直木賞受賞作に決定した、という通知を受けたのは、七月二十九日(昭和十五年)であった。驚き、茫然とした気持ちで長谷川邸を訪ねると、

「君が当選したということは、選考委員諸氏の態度が、極めて公明であり、同時に大きな期待のあることが判る。その期待に副うために努力すると云うことは、重大な責任ではあるが、やり甲斐のある仕事だ。その意味で受けるように……」

 と言われ、その足で文藝春秋社へ行き、受諾の旨を答えた。“何か壮烈なものを感じながら……”と河内は書いている。」

(引用者中略)

「師の長谷川伸に、委員の期待に副うために努力を、と云われながら、四十代半ばの受賞であり、戦中で執筆舞台がないため、十分な執筆活動をつづけられず、昭和二十八年死去した。」
(平成1年/1989年3月・文藝春秋刊『オール讀物 臨時増刊号 直木賞受賞傑作短篇35』より)

 惜しい。没年を一年まちがえている。

 あ、それと明治31年/1898年10月生まれの人の、昭和15年/1940年7月における年齢は満で41歳、数えで43歳。これ「四十代半ば」って言うのかなあ。

 次に、新小説社のおやっさん島源四郎の回想録から。

「河内仙介さんという、この人、ちょっと生活が苦しいからというので、長谷川先生から頼まれて、「大衆文芸」の編集で使ってくれということで、手伝ってもらっていたんです。」

(引用者中略)

「賞をとったことだし、本でも造ろうじゃないかということで、まだそんなに作品もなかったんですが、四、五篇まとめて印刷所へ廻したら、突然河内君が原稿を返してくれというんです。どうしてだといったら、文芸春秋の「オール読物」の編集をしていた香西君という人が紹介してくれて、新潮社から本を出すことになったからというのです。何をいっているんだ、今もう印刷屋へ原稿は入っているんだ、まだ組みにはかかっていないけれども、ともかくも印刷屋へ入ってしまっているんだといったのですが、どうしてもというので、結局原稿は返したんです。僕も少しシャクに触ったものですから、河内君に対して翌月から出社に及ばずということで、退社してもらったんです。」
(昭和60年/1985年4月・日本古書通信社刊『日本古書通信』第50巻第4号通巻669号 「出版小僧思い出話(9) 第三次「大衆文芸」のこと」島源四郎 より)

 最後に、元・新潮社編集者で作家の和田芳恵が語るエピソード。

「直木賞を得た河内仙介さんの『軍事郵便』は、出遅れた弟子を世に送りだすために、長谷川さんが、ほとんど手を加えた作品だそうである。」
(昭和42年/1967年7月・新潮社刊『ひとつの文壇史』和田芳恵・著 より)

 そりゃあね、島源四郎さんには申し訳ないですけど、苦労を重ね重ねてようやく四十歳過ぎに初めて単行本が出せる!となったときに、新小説社より新潮社のほうを選びたがる河内さんの心境、わかる気がします。で、その作品が実は「ほとんど」師匠に直してもらったものだった、とくると、妙にシミジミしちゃうじゃないですか。いや、もちろん真偽は藪の中ですけども。

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