2022年9月25日 (日)

オール讀物新人賞の賞金20万円、その半分を使って百科事典を買った佐々木譲。

 小説業界にも景気がいい時代、なんてものがありました。しかし、そんなに長く続いたわけじゃありません。

 いや、小説業界にかぎったことじゃないですよね。日本の経済社会が上向いた時代には、そのぶんだけ商業出版も儲かった。それだけのハナシです。

 いずれにしても、稼げる作家は全体のひと握りしかいない、という状況も昔からそう変わりません。明治の頃に文筆をなりわいにする人が出てきてから(ひょっとして江戸時代の頃からでしょうか)、売れっ子と呼ばれる物書きは一部にすぎず、あとの大多数はピーピー言っている。その「ピーピー言っている」人の割合が、ちょっとだけ減ったのが、日本の高度経済成長から平成に入る頃までのことでした。いま振り返れば、ほんの30年ほどしかなかった栄華です。

 30年というのはつまり、佐々木譲さんが作家デビューしてから直木賞をとるまでの時間と、だいたい同じくらいですね。

 ……と、強引に結びつけました。すみません。

 佐々木さんが受賞したのが第142回(平成21年/2009年・下半期)のこと。つい最近のハナシのようですが、10年数年まえの出来事です。

 それより前に、佐々木さんが確実に文学賞づいた時期がありました。バブル経済が終わりかけた1990年前後です。第100回(昭和63年/1988年・下半期)の直木賞で候補になり、日本推理作家協会をとり、第3回山本周五郎賞にえらばれたというアノ辺りの時期。もし直木賞が真に価値ある賞だったなら、そのころに佐々木さんに与えていたことでしょう。

 しかし残念ながら、そのときは思いっきり上げそこねてしまいます。直木賞、ああ、しょせんは直木賞です。

 で、山周賞をとった直後の平成2年/1990年6月、佐々木さんは『週刊文春』の「行くカネ来るカネ 私の体に通り過ぎたおカネ」に登場しました。『ベルリン飛行指令』で直木賞の候補になったときは、胃が痛むほどに緊張したが、『エトロフ発緊急電』で山周賞の候補になったときは、どうせ自分はとれっこないとまったく期待もしていなかった……みたいな文学賞のわくわく話につづいて、お金にまつわるインタビューに答えています。

 佐々木さんがデビューしたのは昭和54年/1979年。直木賞では田中小実昌さんと阿刀田高さんが受賞したり、あるいは中山千夏・阿久悠・つかこうへいの「芸能三羽烏」が候補になってマスコミ陣が沸いたころのことです。佐々木さんが応募して受賞したオール讀物新人賞は、当時、賞金が20万円で、本田技研のサラリーマンだった佐々木さんには、ちょっとした臨時収入でした。賞金の使い道は、定価20万円ぐらいした平凡社の大百科事典、全33巻を、定価10万円ぐらいに負けてもらって買った、ということです。

 処女作の『鉄騎兵、翔んだ』は単行本になって、初版はだいたい8000部。印税はおおよそ70万円ぐらいでしたが、合わせて映画化もされ、その原作料として70万円をもらったそうです。

 夢がある業界だと思うか、大したことないなと感じるか。金銭感覚は人それぞれでしょうけど、佐々木さんは別に大金を手にしたという喜びもなく、ただそこから創作欲に取りつかれて会社をやめ、筆一本の生活に入ります。

 当時、広告関係で付き合いのあったクライアントの社長に気に入られ、会社をやめて大変だろうからと、毎月10万円の顧問料をもらっていた、とのこと。家賃はそれより安いところに住んでいたので、あれはずいぶん助かった、と回想していますが、なんとも恵まれた作家人生のスタートと言っていいでしょう。

 日本全体も、そこから経済はもりもり発展し、新人作家の初版部数も若干増えたりしながら、直木賞の賞金も第100回(昭和63年/1988年・下半期)から、50万円だったのが倍の100万円に。わあわあ、日本の出版文化はカネになるぜ、と絶頂期を迎えます。

 いや。迎えた、と思ったんですが、このとき佐々木さんはこんな実感を吐露しています。傾聴いたしましょう。

「文筆業をとりまく経済状況というのは、相対的によくないと思うな。『エトロフ発緊急電』が原稿用紙一千枚で、書いていた期間が五カ月なんですよね。取材もあるし、資料を読み込む時間もあるでしょう。それで初刷りが一万五千部。正直いってそれじゃ割が合わないですね、職業としては。幸い評判がよくて増刷になっているから、やっとこれで収支が合ってきたというところです。」(『週刊文春』平成2年/1990年6月21日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 冒険小説のテーマは“二十世紀と日本人”「作品が翻訳されない日本のもの書きは不幸です」」より)

 平成2年/1990年にして、この実感です。いわんや令和4年/2022年の作家の経済事情たるや。なかなか哀しいものがあります。

 まあ、書いても書いても収支が揃わない作家たちに、一人でも多く職業的な物書きとして食いつないでいってほしい、という思いから直木賞が運営され、また山周賞も後を追っているわけです。そこは平仄が合っているのかもしれません。

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2022年9月18日 (日)

会社のトップだった森田誠吾、印税も賞金も、年収2000万円の税金の支払いに消えてゆく。

 出版業界は、だいたいカネまみれです。

 最近、大きな出版社のトップの人がワイロを贈ったとかどうだとかで、汚いおカネのハナシが出てきていますが、ジャーナリストのみなさん、どうか頑張って出版業界とカネの闇を暴いてやってください。

 とまあ、それはともかく、直木賞も商業出版の一部ですから、当然おカネとは無縁じゃありません。そのうち、どこかの候補者が選考委員のだれかにワイロを渡していた……みたいなハナシが、ジャーナリストの手であぶり出されたら面白いんですが、世のなか、そう面白いことは起きません。しかたがないので、今週もまた、昔の直木賞のことをほじり返して、ひまをつぶしたいと思います。

 出版(に関係する)企業のトップで、直木賞と関係する人といえば、この人のことが思い浮かびます。森田誠吾さんです。

 実家は東京・銀座に店を構えた、印刷・製版の会社「精美堂」です。さかのぼると江戸末期、浮世絵の彫り師だった父親が、明治になってなりわいを変え、新聞の挿絵などをつくる木版業に転身し、それがめぐりめぐって堀野精美堂となります。

 若いころの森田さんは、演劇のほうにドはまりし、ほとんど家から勘当されて、貧乏な演劇青年として育ちますが、もつべきものはカネの太い実家、といいますか、戦後、店をたてなおすに当たっておまえも手伝え、と引き戻されます。昭和25年/1950年、25歳のときに精美堂に入って、社長の兄を補佐しながら森田さんが店を法人化。専務として長年、兄貴を支えました。

 直木賞を受賞したのが昭和61年/1986年で、60歳のときです。肩書は精美堂の取締役社長。年商が22億円の会社のトップに座り、年収は2000万円。月給に換算すると170万円弱です。一流の大企業、とまでは言えないかもしませんけど、堅調な中小企業の社長として、けっこうな額が手もとに入るご身分でした。

 今回もまた『週刊文春』の記事から引いてみます。

「今度の本(引用者注:直木賞を受賞した『魚河岸ものがたり』)も、第一作と同様、初版七千部ですけれども、五万部の増刷が決まっています。私は、会社の給料が年収二千万円近うございますので、税金で三分の一以上もっていかれますし、本が増刷になりましても、副賞の五十万円をいただきましても、とにかく、税金でたくさん持っていかれちゃうわけでして、ですから、あんまり、貯金というのはございませんのです。」(『週刊文春』昭和61年/1986年2月6日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 新直木賞作家は年商22億の製版会社社長、「原稿料だけだったら生活保護ですよ」より、取材・構成:坂元茂美)

 どういうことでしょうか。

 『魚河岸ものがたり』は定価が1200円。印税が1割の120円だったとすると、5万7000部で684万円になります。

 直木賞の賞金は50万円。いずれにしても、本業の年収には、まったく及びません。

 そんなものをもらっても、けっきょくは、そちらの取得税等を支払うために消費される程度の雑収入だ……ということなんでしょう。

 ただ、わざわざ「貯金というのはございませんのです」というところに落とし込んでいるのを見ると、会社社長といってもみなさんが思うような景気のいい人間じゃありませんよ、私は、と防御線を張っているのかもしれません。豊かな人間がかもしだす余裕の謙虚。この人もまた、セコセコと生活費を稼いではきゅうきゅうしている人間とは、ちょっと違う世界に住む直木賞受賞者だったのだろうと思います。

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2022年9月11日 (日)

死んだ色川武大が遺した貯金通帳の残高、50万円。

 どうして直木賞は、阿佐田哲也じゃなく、色川武大に贈られたのか。……などと、よく言われます。

 まあ、よくは言われていないかもしれません。だけど、色川さんの純文学性みたいなものが語られるときに、直木賞が特異な位置にあることはたしかでしょう。

 色川さんはずっと文学がやりたかった。「阿佐田哲也」という名前にしみついたド娯楽小説のイメージをかなぐり捨てて、色川武大の名で再出発をはかった……。と、ここまでは理解できます。しかし、それで受賞したのが直木賞で、一般的にも色川武大は文学に返り咲いたんだなと思われた、というのが、どうにもハナシのねじくれているところです。

 だって、直木賞って「大衆文芸」の賞じゃなかったの? 昔からアレは「純文学」の賞じゃないからねとさんざん馬鹿にされ、芥川賞より一段格が落ちる、とすら思われていたような、バリバリのエンタメ作家がとる賞をとって、どうして色川さんが文学に帰ってきたと思えるのか。

 まったくその場その場でイメージを変える、直木賞の芯のなさには、ほとほと参ってしまいます。というか、芯がないのは直木賞じゃなく、「直木賞をまわりから見ている」われわれかもしれません。

 すみません、ちょっと脱線しました。今回は直木賞随一のアウトロー(?)色川武大さんの、おカネのことです。

 色川さんが受賞したとき、第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の賞金は30万円。その1年まえに受賞した泉鏡花賞は、当時は直木賞より賞金が高くて(いまは直木賞と同額)、賞金50万円だったんですが、第5回(昭和52年/1977年度)は津島佑子さんとの二人受賞だったために、両者折半。色川さんには25万円が払われた、と言われています。

 ただ、こんなものは、色川さんにとってはひと月、いや、ひと晩あれば吹っ飛んでいってしまう程度の、微々たる金額でした。

 そのあたりのガバガバな金銭感覚は、いろいろな人の証言が残っていますが、妻だった色川孝子さんの言葉を引くと、こうなります。

「あの人はとにかくお金のいるひとなんですよ。親分肌で出す必要のないところでもお金を出す。お金はいくらでもあったって足りませんよ。交際費じゃなきゃ博打に使う。しかも競輪と麻雀。博打で一晩に四百万円も負けたという日もありましたもの。」(『文藝春秋』平成1年/1989年6月号「わが家の「阿佐田哲也と色川武大」」より、インタビュアー:中本洋)

 一晩で400万円負ける、というのはどういう状況か。正直、ワタクシみたいな庶民にはうまく飲みこめませんが、百万円単位の月収、百万円単位の出費は、色川さんにとってはそう珍しくもなかったようです。

 入ってきたおカネはどんどん使っていってしまう。「阿佐田哲也」としてマージャン小説を書き散らし、じゃんじゃんおカネをもらっていた大衆作家のお仕事が、そういう生活を支えていました。

 秘書をひとり雇い、毎月40万円もの家賃を払い、交際費と称する飲み食いにどんどんおカネをつぎ込む日々。まさに昭和の時代の流行作家、といわれて抱くイメージどおりのおカネの使い方です。少なくとも純文学というより大衆文芸の作家、という感じはします。

 ところが、こういう高収入・高消費の生活の流れが変わったのが、直木賞の受賞だった、と色川さんは語ります。受賞したことで、みるみる収入が落ちたそうです。

「直木賞をもらったのは、もちろんありがたいんだけども、ぼくの場合は、阿佐田哲也のほうを一時休んだから、むしろ収入はガタ減り。直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ。」(『週刊文春』昭和62年/1987年4月23日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 放縦と大ケチが同居するバクチ打ちの経済感覚は作家としては大きなマイナス」より、取材・構成:谷口源太郎)

 いくらからいくらにガタ減りしたのか。具体的な金額はわかりませんが、色川孝子さんの『宿六・色川武大』(平成2年/1990年4月・文藝春秋刊)を読んでも、直木賞以後、「純文学」をやりはじめて、どんどん権威ある賞はもらう、だけどどんどん入ってくるおカネが減る、という色川さんの後半生の家計事情が書かれています。それでもおカネをため込むという概念はなく、入ってきたものは何だかんだとすぐに使ってしまう。亡くなったときに通帳に残っていたのは50万円ほどだった、というのが孝子さんの証言です。

 けっきょくどうしても「純文学」をやりたくて、そちらに舵を切ったんでしょうから、色川さん本人としても収入減は本望だったでしょう。「直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ」という発言の、なんとも嬉しそうなこと。直木賞が純文学なのかどうなのかは、よくわかりませんけど、とりあえずそれ以上におカネの儲かる小説・読物のジャンルが他にあったのだ、ということはよくわかります。

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2022年9月 4日 (日)

山口洋子、受賞当時のひと月の出費は50万円くらい。

 直木賞は、それをとりまくすべてのことが面白いです。言うまでもありません。

 そして、とくに面白いのは、直木賞がメディアでどのように取り上げられてきたか、その変遷や詳細をたどっていくこと。これもまた言うまでもない……とはさすがに言い切れませんが、ワタクシの体感的には、自然の摂理です。

 たとえば、直木賞をやっている文藝春秋には、いくつか定期刊行物があります。『オール讀物』『文藝春秋』『別冊文藝春秋』、そして『週刊文春』。『オール讀物』はもちろんですが、その他の雑誌でも「直木賞はこんなにすごいんだぞ」という前提の記事を、あの手この手でつくってきました。それぞれの編集部が、それぞれの特色のなかで、どうやって自社の事業を宣伝するか。いや、宣伝していないように見せながら読者の気を引くか。悪戦苦闘の歴史があります。

 なかでも、一般大衆に興味をもってもらえるような切り口を、常に考えつづけてきたのが『週刊文春』です。

 週刊誌をわざわざ買って読むような人は、たいてい政治ネタか芸能ネタが大好きです。他人の失敗とか、隠しておきたい恥部とかを、何百円ものおカネを払って読みたがる人がいる。そういうイカレた読者たちに『週刊文春』も支えられています。

 まあ、イカレているかどうかは別として、少なくとも週刊誌の読者は、直木賞そのものにはあんまり興味がありません。そういう人たちの目を、どうやって直木賞に向けてもらうか。編集サイドはいろいろと企画を立てて紹介してきました。

 そのなかで出てきたのがおカネのことです。直木賞の受賞者に、これまでどれだけおカネに苦労したり、翻弄されたりしてきたのかを語ってもらう。これなら、おカネ大好きゴシップ厨たちも興味をもってくれるんじゃないか。

 ということで、『週刊文春』は昭和の終わりから平成にかけて「語りおろし連載 行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」(昭和60年/1985年8月1日号~平成3年/1991年8月29日号、全300回)という企画を毎週載せていました。その連載に、直木賞が決まった頃になると、ほとんど毎回だれかひとり受賞者が登場、自身の人生とそれにまつわるおカネの話題を語っていたわけです。

 この連載に登場する受賞者が、圧倒的に直木賞のほうばかりで、芥川賞の人に声がかかることはまずなかった……というのもワタクシの好きな点です。おカネといえば(芥川賞じゃなく)直木賞でしょ、とそういうイメージが『週刊文春』編集部のなかにあったのかもしれません。

 昭和60年/1985年、この連載がスタートした年に、さっそく登場した直木賞受賞者が山口洋子さんでした。第93回(昭和60年/1985年・上半期)の受賞決定が7月18日。それから5か月の年末に、「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」第20回の人物として山口さんがインタビューを受けています。取材・構成は坂元茂美さんです。

「平均したら、ひと月に遣うおカネというのは、大雑把ですけれども、二、三十万円から七、八十万円の間……そんなに遣わないかな、五十万円くらいかな。」(『週刊文春』昭和60年/1985年12月19日号「直木賞作家、銀座マダム、作詞家の三本立て才女は少女時代に競輪で人生勉強を」より)

 この当時の直木賞の賞金は50万円でした。その時代に、月に50万円ぐらいを使う生活を送っている、というのは、とうてい庶民の暮らしじゃありません。

 東京・目黒に敷地200坪の自宅を構える。作詞の印税は入る、銀座のバー「姫」を経営する。とはいっても、「姫」のほうはカネ勘定はまるでノータッチで、直木賞をとった頃にはお店に出るわけでもなく、とくべつウハウハ儲けていたわけじゃないそうですが、それでも銀座にある、女の子がいる、有名著名人の集まる飲み屋なんていうのは、いかにもザ・マネー社会の象徴です。

 山口さんが直木賞をとった決定発表の『オール讀物』は、その翌月の昭和60年/1985年11月号を「直木賞五十周年記念特大号」と銘打ち、歴代受賞者たちの小説、エッセイ、読み物を載せました。ここで山口さんは、野坂昭如さんと対談しているんですが、1960年代以降の銀座のバーの料金水準に、なんとなく触れられています。

 野坂さんが、「姫」の商売がたき、東銀座の「ゴードン」に通いはじめたのが昭和38年/1963年。1日おきくらいで友人を連れていって酒を飲んで、1年間にツケた感情は全部で18万円。ぜったいに「姫」には行くな、という「ゴードン」のママの引き止め料のような意味合いで、こんなに安かったんじゃないか、ということらしいです。じっさいに野坂さんが「姫」に行き出したら、「ゴードン」からの請求は、1ト月で80万円になった、といいます。

 このあたりは、どんなレベルの作家にどのくらいを請求するか、考慮しながら客と付き合っていく、文壇バーと呼ばれるお店の経営のしかたがあるんだと思います。そういう方面から文壇やら出版界隈を調べた研究書が、すでにあったような気がしますが、ともかくも日本経済が右肩で上がっていく時代の最後が、1980年代から90年代に訪れます。そのタイミングで、銀座のママでならした山口さんが受賞したというのも、直木賞の歴史にはちょうどぴったり。……と言っていいのか、よくわかりませんけど、週刊誌で、直木賞×おカネのことを取り上げるには、やはりしっくりする受賞者だった、とは思います。

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2022年8月28日 (日)

金沢から東京に出てくる五木寛之、滞在費として月10万円を使う。

 先週は野坂昭如さんを取り上げましたが、そうなると、やはりこの人のことも気になります。五木寛之さんです。

 五木さんが直木賞を受賞したのが第56回(昭和41年/1966年・下半期)、野坂さんは1年後の第58回(昭和42年/1967年・下半期)。いずれも、もともと放送業界にいた人で、受賞はだいたい30代なかばごろ。このころ出版界は膨張しつづけ、とくに読物雑誌や週刊誌といったそこら辺りがうねりを上げて量を増していましたが、そんな経済成長の時代を代表する、直木賞からうまれた二大スターです。

 野坂さんに比べて、五木さんはベストセラーも多く、たくさんの人に読まれてきました。いまのジイさん・バアさんたちにとっては、自分の生きてきた時代の文壇アイドルとして、強い親近感があるのでしょう。そのうち没後がやってきて、そんなの知らない世代が大半になったとき、果たして五木さんの残した膨大な著作の、どれだけが読まれるのか。はたまた時代の寵児として消えていくのか。正直、心許ないものがありますが、まあ未来のハナシはよくわかりません。

 ともかく五木さんが直木賞をとった当時のことです。いまから55年まえの昭和42年/1967年1月、賞金は10万円でした。

 野坂さんと同様、五木さんも、そんな金額はとっくのとうに自分で稼げていたレベルです。昭和39年/1964年4月、三木鶏郎さんの、冗談工房・音楽工房・テレビ工房が解散。五木さんも、そこのメンバーとして業界に知れ渡る働きをしていました。しかし、あまりに多忙で心のゆとりが持てなくなり、これではまずいと一念発起。ソビエト・ヨーロッパ旅行に出かけます。32、33歳ごろのことです。

 植田康夫さんの『現代マスコミ・スター 時代に挑戦する6人の男』(昭和43年/1968年12月・文研出版刊)によると、この当時の五木さんの月収は、30万円ぐらい。旅行費として25万円を工面した、といいます。一般的な感覚からすれば、とんでもない稼ぎ人です。

 五木さんは受賞から10年ほどで選考委員として指名され、第79回(昭和53年/1978年・上半期)から選考に参加、毎回カッコいい(というか、いささかカッコつけた)選評を書くようになりますが、第85回(昭和56年/1981年・上半期)に放送作家で国会議員の青島幸男さんが受賞したとき、こんなことを記しています。

「その性愚屈(直にあらず)にして幸運の星にもめぐまれず、文筆の道ただ一つに夢を托する者たちには、小説という世界はもはや遠いエスタブリッシュメントになってしまったのだろうか。青島氏の堂々の受賞に拍手をおくりつつも、一方でそんな感慨をおさえきれず、臨席の水上勉氏に「もう中退生や落伍者の時代じゃなくなったんですね」ともらしたら、水上委員は「つらいことやね」と微笑してうなずかれた。」(『オール讀物』昭和56年/1981年10月号、五木寛之「「この一作」の場で」より)

 いやいや、あんたが受賞した時も似たようなものだったじゃないか、と思わずツッコミを入れた文学青年(文学中年)が続出したとか、しなかったとか。ともかく五木さんが、小説家になるまえから、己の才ひとつでおカネを稼ぐ「幸運の星」にめぐまれた人だったのは、間違いないでしょう。

 直木賞の受賞で燦然と脚光を浴び、いたるところから原稿の注文(あるいはその風貌を芸能人よろしく撮影される仕事)が殺到。なるべくそういうものは断らないのが、五木さんの主義でもあったので、一気に多忙の嵐が巻き起こります。当然、入ってくるおカネは増えますし、出ていくおカネもブルジョアジー。カネをうならす作家、五木寛之さんの誕生です。

 当時、まだ五木さんは金沢に住んでいましたが、打ち合わせとか取材のために、月に一度、10日ほどの日程で上京。ホテル暮らしをします。シングルの部屋が空いていないと、やむなくツインの部屋に泊まることになって、一泊およそ6000円。10日止まれば6万円

「正直な話、東京にでてくると航空料金、滞在費などで、すくなくとも月十万円はスッとびます。マンションを借りたらという人もいるが、これは金銭の問題じゃないなあ、」(『週刊文春』昭和42年/1967年8月28日号「五木寛之と一週間」より)

 だそうです。カネにがめつい守銭奴、みたいな印象はいっさい見せません。さらっと儲けて、さらっと使う。直木賞の賞金も、さらっと泡のように経済の循環のなかに消えていったことでしょう。さすがは高度経済成長時代の申し子、といった感じです。

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2022年8月21日 (日)

野坂昭如、直木賞をとってから10年後に年収1億円。

 賞金の10万円が、倍の20万円に上がったのが、第57回(昭和42年/1967年・上半期)のことです。

 そこから、わずか5年たらずでさらに賞金がアップします。第66回(昭和46年/1971年・下半期)に30万円に増額。そしてその時代もすぐに終わり、第80回(昭和53年/1978年・下半期)には、もっとビッグにどどーんと50万円に上がりました。

 要は、第56回で受賞した五木寛之さんと、第80回で受賞した宮尾登美子さん・有明夏夫さんは、受賞したタイミングは12年しか違いませんが、もらった賞金は5倍も差が出たわけです。直木賞どうこうより、高度経済成長のパワーっつうのは、おそろしいです。

 こういう上昇気流の時代というのは、いまとなっては価値観が違いすぎて、ファンタジックな世界にも見えてくるんですが、もちろん現実にあったことです。上向き時代の直木賞。なかでも今週は、とびきりに人気者だった人のおカネについて見てみたいと思います。

 野坂昭如さんです。

 焼け跡世代の申し子、というか、高度経済社会の申し子と言ったほうがいいでしょう。放送の分野から出てきた人ではありますが、野坂さんがものを書き始めたときは、大きい出版社からミニ出版社まで、どんどんと雑誌をつくって大量に売る、そんな流れがトルネード式に上がっていた頃です。直木賞をとった第58回(昭和42年/1967年・下半期)の段階で、すでにこの人は有名人だ、と選考委員の全員が認識していたのが野坂さんでした。それだけ、各所に顔を出し、原稿を書いて、おカネを稼いでいたわけです。

 では、どのくらい稼いでいたのか。野坂さんはこういうことを細かくサラすのが大好きらしく、いろんなところに収入が記録されています。とりあえずそのひとつ、長部日出雄さんとの対談「文壇ヤリクリ生活大告白」(『別冊文藝春秋』171号[昭和60年/1985年4月]、昭和62年/1987年6月・文藝春秋刊『超過激対談』所収)を見てみました。

野坂 ぼくが恒常的に小説を書き始めたのが十九年前(引用者注:昭和41年/1966年のこと。直木賞をとる1年ぐらい前)で、原稿料が一枚二千円だった。月に一本かりに五十枚の短篇を書いて、源泉課税の一割を引かれると手取り九万円で、これじゃ食えないと思いましたね。」(「文壇ヤリクリ生活大告白」より)

 50枚の短編でだいたい10万円。ということは100枚書けば単純に20万円です。このとき直木賞の賞金が20万円

 まあ、直木賞はおおよそ一般的な感覚からズレている、というのが昔からの持ち味ですけど、おカネの面でもズレていたのかもしれません。いくらなんでも安すぎます。

 野坂さんの収入でいうと、小説だけでは食っていけない。ということで、歌手として売り出し、地方を回ります。入ってくるおカネは、ワンステージ10万円。けっこうな額です。テレビからもいろいろ声がかかりますが、野坂さんが出はじめた1970年前後で、文化人ランクなら1本8500円、歌手ランク3500円だったそうです。本数をこなさいと、こちらも生活できるまではいきません。

 けっきょく、コラムや雑文書きの連載が、最も安定して将来設計も立てやすかった、というのですから、野坂さんのコラムニスト(雑文家)としての人気のほどがうかがい知れますが、昭和40年ごろの野坂さんの収入をさらっておくと……広告会社や芸能プロ等の顧問料・嘱託料が3社、それぞれ2万円。『小説現代』『マンハント』『週刊サンケイ』のコラム記事、『アサヒ芸能』連載インタビュー、週刊誌の特集記事、『婦人公論』の映画評、CMソングの作詞で1ト月30万円(平成27年/2015年10月・幻戯書房刊『マスコミ漂流記』)……。

 売れっ子と言っていいでしょう。これだけ稼げている人に、さすがに「新人向け」と言われる直木賞はやりたくないなあ、と思った選考委員がいたとしても、全然おかしくありません。

 ともかく、佐藤愛子さんもそうでしたが、野坂さんの場合はそれ以上に、とりまく金銭が「上向きな出版業界仕様」すぎます。ワタクシみたいなヒラ庶民からすると、やっぱりファンタジーです。

 「文壇ヤリクリ生活大告白」によると、野坂さんの収入のテッペンが、昭和52年/1977年ごろの年収1億円。長部さんと対談している段階で、年収4000万円だったといいます。ちなみに長部さんのほうは、昭和59年/1984年度で約1500万円。これはこれでけっこうな額ですけど、野坂さんに言わせれば、一般企業でそのくらいもらっている人はたくさんいるし、大したことはない、ということです。

 そりゃあ、他に比べれば、上はいくらでもいるでしょう。しかしやはり、野坂さんにしろ長部さんにしろ、直木賞をとったことでカネまわりがよくなったことは間違いなく、日本の景気が上がっていたことも相まって、年収ン千万のところまで行ったものと思います。

 いまから見れば、異常な世のなかです。

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2022年8月14日 (日)

賞金10万円を目当てに近づいてくる連中に、藤井重夫、太っ腹なところを見せる。

 先週は佐藤愛子さんを取り上げましたが、おカネの金額が、庶民感覚から離れすぎていました。いくらなんでも稀有な例です。あんなのばかり見ていると目がヤラれます。

 もうちょっと身近な感じの賞金の使い道はないものか。と思って受賞者一覧を見ていたところ、佐藤さんの受賞の4年まえ、おお、この人が受賞しているじゃないですか。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)。アクも強けりゃ、鼻っ柱も強い。行く先ざきで煙たがられては伝説をつくった(……と思われる)男。藤井重夫さんです。

 藤井さんのまわりは、どうしてそんなに喧嘩ばっかり起きているんだ、と思うほどに、いつもキナ臭いです。直木賞の受賞直後に書かれたエッセイ「『虹』始末記」(『作家』昭和40年/1965年10月号)のことは、たしか以前にも触れた気がするんですけど、直木賞をとるまでのドキュメントのなかに、なぜか喧嘩沙汰のハナシが差し込まれています。

 この年、『作家』4月号に高橋しげるさんが「箱根の山」という、小説のようなエッセイのようなものを発表。同人仲間との文学談義などを描いた正真正銘の内輪バナシなんですが、これを読んだ藤井さんが大激怒。なんでこんなヤツがヌケヌケと『作家』誌上に登場してるんだと、「要注意人物」(6月号)という一文を書き、高橋さんを猛攻撃します。高橋さん=作中ではTとイニシャルにしていますが、この人のことを「うそつきで信用ゼロの男」と何度も中傷しながら、自分がどれほどイヤな目にあったか、いかに高橋さんが信用できない奴かを、めんめんと罵倒したのです。

 それを読んで、いやいや、ちょっと攻撃のしかたがおかしいのでは、と思った花井俊子さんが「要注意人物」(8月号)というのを書いたりした他、藤井さんのもとには、いいぞそのとおりだ、という喝采だの、あの書き方はよろしくないのでは、という指摘だの、いろいろ来たそうです。いずれにしても『作家』なる狭い同人誌のハナシで、どうでもいいいざこざなんですけど、こういうことを受賞直後の感想エッセイに書いちゃうあたりが、さすがは藤井さん、安定の毒舌人間です。

「あれだけ慎重な態度で書いた「要注意人物」について、まるでナンセンスとしかおもえない読みちがえを堂々と犯している人物や、それをまた堂々と、「あえて皮肉として申しあげます」のマクラ付きで、おのれの無知をさらけだしたばかな“同人”がいたため、あきれ果てて私はモノがいえなくなったのだ。このことは、ハッキリここに書きとめておく。

――ヤメよう。「要注意人物」は、はじめからおしまいまで、じっさい不快の二字につきる“事件”だった。(しかし、あの一文に快哉をさけんで、手紙や電話をくれた人のほうが、前記のバカ者よりはるかに多かったことも、あわせしるしておく)。――話を、『虹』の受賞にもどそう。ずいぶん祝電や手紙類をもらった。およそ四〇〇通。」(藤井重夫「『虹』始末記」より)

 おのれのことは棚に上げて、やたらと、ばかだの、バカ者だと、他人を痛罵しています。藤井さん、面白い人ですよね。

 しかし、喧嘩ばかりが藤井さんの特徴じゃありません。届いた祝電や手紙などが400通。と、そこに藤井さんの、人とのつながりを大事にする、困っている人がいれば世話もやく、そんな情の厚さが現われています。

 ということで、ワタクシも話をおカネのことに戻します。藤井さんが受け取った直木賞の賞金は10万円。これをどう使ったのか。

 『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月)の「受賞作家へのアンケート」によると、受賞直後、藤井さんのところには数々の方面から、そのおカネを当てにする連絡が来たそうです。400通のなかにも、そんなものがいくぶんかはまぎれ込んでいたものと思います。

 けっきょく藤井さんは、そこに賞金をぜんぶ使います。まずは、自分の郷土のために、出身の兵庫県豊岡小学校が校舎を新築するおカネ、同郷の人たちが集まった「東京但馬会」の運営費のために、ぽーんと半額5万円を寄付。それから、受賞祝いにやってきてくれた保険の勧誘員のために、保険も加入。いきなりやってきた昔の知り合いのために、おカネをあげちゃう。

「そんなこんなで受賞から三ヵ月くらいのあいだに受賞金の三倍余の三十何万円、貯金をはたいたりした。」(『直木賞事典』より)

 10万円を使い果たしただけじゃなく、賞金目当てにやってくる、さもしい連中の頼みを聞き入れて、20万円余りは貯金を崩して対応した、と言っています。

 これもまた、佐藤愛子さんと同じくらい稀有な例かもしれません。だけど、佐藤さんの場合より、まだしも親近感のわく金額だし、使い方だよなあと思います。

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2022年8月 7日 (日)

2500万円の借金を5年で返している最中の佐藤愛子に、贈られた20万円。

 直木賞と借金はよく似合う。……というのは、もはや手垢のついた常套句です。でもそれを言い出すと、直木賞そのものが、いまでは手垢のついたシロモノでしょう。気にしないで先に進みます。

 なぜ直木賞と借金がセットになるのかといえば、それはもちろん直木三十五さんという人がいたからです。

 人からどんどんカネを借りる。しかし返す約束は打ち棄てる。借金取りが家にきても、ずっと無言で座っているだけ。そのうち相手がしびれを切らして帰っちゃう、なんてハナシがゴロゴロしています。要は多額の借金を抱えたというよりも、借りたカネを返さないというエピソードで面白がられた、とんでもなくイカれた野郎なんですが、とにかく直木さんといえば、カネ、カネ、カネのハナシが欠かせません。

 直木賞が、金儲けに成功したキンキラの財産家のことよりも、貧乏でカネに困った人のことを書いたほうが受賞しやすいのは、そういうところに原因があるわけです(って、そんなわきゃないです)。とにかくそういう借金まみれのハナシを小説で書き、直木賞をとった人というと、まず名前の挙がるのがこの人。佐藤愛子さんです。

 当時結婚していた田畑麦彦さんのやっていた事業が、昭和42年/1967年に倒産。多くの借金を抱えます。佐藤さんにも、そのうちの一部が背にのしかかり、ほうぼうにおカネを返さなきゃなりません。その頃までに、佐藤さんはジュニア雑誌や中間小説誌につながりができていて、原稿をおカネに代える手段をもっていました。小説やら、エッセイやら、おカネになる仕事をどんどん引き受ける。収入は借金返済に当てられる。と、そんな生活を続けていたときに、第61回直木賞を受賞します。昭和44年/1969年夏のことです。

 よっしゃあ、これでカネまわりがよくなるぜい、借金も返せるぞ。とガッツポーズを決めないところが佐藤さんのイイところでしょう。いや、おそらくそこで大はしゃぎを爆発させるような受賞者は、直木賞の歴史のなかにはいないかもしれません。佐藤さんの場合も、むしろまわりの人のほうが、直木賞=おカネの皮算用をすぐに意識したようです。

 受賞決定の報を聞いたとき、佐藤さんのそばにいたのが、入院中の川上宗薫さんです。その病室でのやりとりを、佐藤さんが受賞後のエッセイに書いています。

「「直木賞が佐藤さんと決定しましたが、お受けいただけますか」

と文春の人が急に改まっていった。

「は、はい、あのう……はい、やむをえま……」

と思わずいいかけて慌てて口をつぐんだ。文春の人は苦笑いをして部屋を出て行った。電話で私の返事を伝えるためである。私は呆然としてベッドの上の宗薫氏を見た。

「どうしよう。川上さん」

「いいじゃないか、貧乏しとるんだから、これから稼げるぞ」

と何やらドサまわりの一座の座長のような顔つきである。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年10月号 佐藤愛子「直木賞がくれたラブレター」より)

 ……ということなんですが、このブログで具体性のないことばかり言っていてもラチが明きません。金額のハナシに移ります。

 佐藤さんがとったとき、直木賞の賞金は20万円でした。むろん、全額を返済に当てたそうですが、まったく足りません。

 そもそも田畑さんが倒産して残った借金は総額2億4000万円だったそうです。いやはや、まるでケタが違います。

 そのうち、債権者たちと交渉したり折り合いをつけたりして、妻の佐藤さんが負った分が、約10分の1の2500万円。文献によると2400万円とするものもありますが、いずれにしても、これを個人で返すのです。正直、かなり浮世離れした世界です。

 前年の昭和43年/1968年、一年間で佐藤さんが返した借金は、だいたい500万円ぐらいだった、といいます(『週刊文春』昭和44年/1969年8月4日号)。50年以上まえの500万円といえば、いや、いまでもそうですけど、けっこうエゲツない金額です。直木賞をとろうがとるまいが、死にもの狂いで働ければ、年間でこのぐらいを返すことができていた、というのは、そりゃもう相当な高額所得者だった、と言わざるを得ません。

 べつに直木賞をとったから借金を返せたわけではなく、賞の動向なんか関係ないところで、佐藤さんは2000ン百万を5年がかりで返す計画を立てていました。直木賞をとって、原稿の注文や講演会の依頼も急増。返済計画も順調に進んだでしょう。

 そういう意味では、佐藤さんが受賞できてよかったとは思うんですけど、そもそも賞金の20万円が一瞬で消え去るような、嵐のなかの出版業界。貧困家庭がどうのこうのとか、寝る場所にも食うものにも困る貧乏人とか、そういう世界とはまったく違います。佐藤さんの受賞に、鼻白んだ感がただよっているのも、また事実です。

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2022年7月31日 (日)

賞金10万円で、川端康成への借金の一部を返した山口瞳。

 現在の直木賞は、賞金が100万円です。高いような安いような。この中途半端な価格設定が、いかにも直木賞がやってきた中途半端さを物語っています。

 というのは、いつもどおりの冗談ですけど、直木賞の賞金なんておカネとしてみれば大した価値じゃない、というのは、さかのぼってみてもやはり直木賞の伝統のようです。

 山口瞳さんという受賞者がいます。受賞したのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)ですから、いまからおよそ60年前。賞金は10万円でした。

 ちなみに山口さんの受賞作は、当時の世相をなるべく忠実に映した作品です。「平均的」と呼ばれるサラリーマンたちのお金にまつわるハナシがいろいろ出てきます。いったい当時の10万円とは、どの程度の価値だったんだろう。せっかくので、そこら辺を『江分利満氏の優雅な生活』で見てみます。

 東西電機に勤める江分利氏は、本給が3万6000円です。そこに諸手当などがついて、税金などが引かれて、一ト月の手取りが4万円とあります(同書「おもしろい?」より)。

 となると、10万円は、基本的なサラリーマン月給の約2か月半の手取り給料とトントンです。

 現状、たとえば100万円の40%、40万円を平均世帯の月給だと設定して、庶民生活を描いた小説だ! などと胸を張ったら、さすがにそんな作家は叩かれるでしょう。そう考えると、当時の10万円は、かなり格安な金額だったと言えそうです。

 その賞金を山口さんが何に使ったか。これは山口さんもいろんなところで書いている有名なハナシですが、自分の父親が、かつて隣家に住んでいたよしみで川端康成さんから金を借り、その借金がまだ残っていたので、賞金を返済の一部に当てた、ということです。

 と、これだけだと10万円の金額感がいまいちわかりません。

 『江分利満氏~』は山口さんの実体験が反映された作品で、この借金についても出てきます。作中、市川市に住む社会学者の山内教授というのが、川端さんをモデルにした人物らしいです。

 「困ったときの小谷野敦だのみ」で、小谷野さんの『川端康成伝 双面の人』(平成25年/2013年5月・中央公論新社刊)を見てみたところ、やはりこのあたりの事情が、金額とともに書かれていました。山口さんの母親が昭和34年/1959年に大晦日に急死。その直後に、父親はひとりで川端さんの家を訪ねていきます。小谷野さんの記述を引いてみます。

「この時、瞳の父正雄は川端邸を訪れて、葬儀の費用で赤字が出て困っている、本来瞳が来るべきだが本人はショックで口もきけないので代理で来たと言い、母は生命保険に入っていたが、瞳の不手際ですぐに金がおりない、しかしいずれ交付されるからと言って、三十万円を借りたのである。」(小谷野敦・著『川端康成伝 双面の人』「第十三章 『眠れる少女』、「日本の文学」」より)

 そのことを後で知った山口さんは、慌てて義弟から5万円を借りて川端さんちに駆けつけます。しかし川端さんの妻、秀子さんはお金を受け取らず、ボーナスが出たときにでも少しずつ返してくれればいい、と言ったのだそうです。

 山口さんが寿屋勤務のかたわらで、いろいろと外で雑文書きに励んだのは、一つにはその父親の借金を返すためだった、と山口さん自身の私小説『家族 ファミリー』(昭和58年/1983年4月・文藝春秋刊)に出てきます。その雑文書きのなかに『婦人画報』に昭和36年/1961年10月号から連載した「江分利満氏~」が入っていたわけですから、どこがスタートで何が結果がよくわかりませんけど、直木賞の賞金がけっきょく川端さんのところに行ったのは、筋のとおった循環だったということです。

 にしても、10万円があっても、借金が30万円だったのなら、まったく足りません。『家族 ファミリー』の記述によれば、直木賞の受賞時、父の正雄さんは済生会中央病院に入院中で、「父の入院費には、毎月四十万円を要した」などとも書かれています。曲りなりにも子供たちで(というか山口さんひとりで)その費用を賄っていたんですから、山口さんの、父親をめぐる借金話はもはや庶民感覚を越えています。

 賞金のすべてが借金返済で飛んでしまった、というのは、直木賞がどうこうより、やはり山口さんが異常だったんでしょう。

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2022年7月24日 (日)

賞金5万円の一部を使って、山田克郎、家の屋根を直す。

 新しい直木賞が決まりました。

 だいたい直木賞は、時がたてばたつほど面白くなるシロモノです。なので、第167回(令和4年/2022年上半期)で受賞した窪美澄さんとか、候補者の人たちのことは、また10年、20年ぐらいたったときに取り上げていければいいな、と思います。

 とりあえず12月が来るまでは、過去の直木賞のことを掘っていくことにしますけど、中心のテーマは直木賞にまつわるお金のこと。とくにしばらくは直木賞の賞金について調べます。

 受賞者が賞金を何に使ったのか。これが一挙にわかるのが『国文学 解釈と鑑賞』の臨時増刊号「直木賞事典」です。

 刊行されたのは昭和52年/1977年6月です。そのときまで、具体的にいうと第76回(昭和52年/1977年・上半期)受賞の三好京三さんまでの受賞者たちにアンケートを実施して、賞金の使い道を振り返ってもらっています。

 第76回ですから、いまとなっては直木賞の歴史の前半にすぎません。賞金も当時30万円。そこから直木賞は、マスコミのおもちゃとして弄ばれ、バブル景気に乗って金銭面での絶頂を経たあと、なだらかな下り坂をトボトボと歩いています。

 ただ、直木賞の後半期あたりのお金にまつわる話題は、またこれから取り上げることとして、ひとまず第76回、昭和52年/1977年までに目を向けてみます。

 「直木賞事典」が編集された段階で、受賞者の数は79名。物故者は15名。残り存命中の64名のうち、アンケート回答を寄せたのは46名。「賞金は、当時何に使われましたか。」という下世話な質問に、唯一答えなかった結城昌治さんを除くと、45名の賞金の使い道が、ここに提示されていることになります。

 第27回(昭和27年/1952年・上半期)までの受賞者は、一度、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で似たようなアンケート企画をやったことがあり、そのときにも答えたり無視したりしています。このときの回答は、7月3日のエントリーでも一覧にして触れました

 昭和27年/1952年の段階で回答のなかった人が、「直木賞事典」のほうで新たに答えている例があります。第19回受賞の岡田誠三さんと、第22回の山田克郎さんです。

「敗戦前後のあわただしさの中で消えてしまった。何に使ったかという記憶すらない。」(「直木賞事典」岡田誠三のアンケート回答より)

 岡田さんが受賞したのは昭和19年/1944年8月で、賞金は500円。直木賞が始まった昭和10年/1935年と同額です。その9年のあいだに貨幣的な価値は大きく変わりましたし、ときは戦争まっただなか、使おうたって派手に使えるわけでもなかったでしょう。

 ただ、岡田さんの性格がよく出ているなあ、と思うのは、賞金をもらったことを家族にはいっさい言わなかったことです。昔、アンソロジー収録の件で、息子さんに話をうかがったとき、賞金については家族に内緒で、おそらく一人で使ってしまったはずだ、とお話しされていました。自由人です。

 いっぽう山田克郎さんが受賞したのは、戦後まもなく昭和25年/1950年4月。賞金は5万円です。

「家の屋根の修理に使いました。あとズボン一着。」(「直木賞事典」山田克郎のアンケート回答より)

 山田さんは戦時中に、東京から神奈川県秦野に移り住み、受賞したときも秦野の家に住んでいました。そこの家の屋根を修理したんでしょう。

 戦後もまた、物価の変動が激しかった時代です。屋根の修理とズボン1着で、5万円の全額がふっとんだのかどうか。その程度のことをしただけで底をついてもおかしくありませんが、それはそれとしても、恬淡として小説づくりに臨む山田さんの生活感が、賞金の使い道に表われています。

 その後に山田さんは秦野から引っ越しました。修理した屋根つきの家はどうなったのか。たぶんもうこの世にはないでしょう。新着したズボンも同様で、いまやどこにあるとも知れません。

 直木賞をとったことなんて、その程度のもんだよ。と、山田さんなら言っていそうな気がします。

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