2021年1月17日 (日)

第164回直木賞に見るソーシャルディスタンス。

 半年まえの令和2年/2020年7月15日(水)も、直木賞は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けました。

 この日、選考会が行なわれた東京で新規に感染を確認された人が165人。会場では、委員どうしの距離をとり、アクリル板を設置して、感染拡大防止の策が施されました。都内ホテルで開かれた受賞者の記者会見も、入場者数が制限され、参集者は会話厳禁。質問者はそのたびにひとりひとり前に出て、みんなと離れた位置で話すことで、飛沫の拡散で感染者を増やさないような工夫が採り入れられました。

 以来、半年が経ちます。同じ曜日で比較すると令和3年/2021年1月13日(水)の、東京の新規感染は1433人。収束するどころか、この半年でほぼ10倍です。緊急事態宣言も出されました。

 1月20日に行われる予定の第164回直木賞も、状況は明るくありません。明らかに高齢者たち5人以上が参加する会合です。食事はどうなるのか不明ですが、お茶ぐらいは出るんでしょう。こういう場でクラスターでも発生したら、各所から集中砲火を浴びるのは必至ですから、よりいっそうの厳戒態勢で会議や会見がひらかれるものと思われます。

 科学的なエビデンスはよくわかりません。ただ、少なくとも「大勢の人間が、密閉した場所で、距離を保たず声を出しあう」という状況に、多くの日本人が神経質になっているのは間違いありません。その意識の変化が、直木賞を選考する行為に影響を及ぼすことも、容易に想像できるところです。

 ということで、ここに6つの候補作があります。登場するのは、いずれも人間です。彼らが「三つの密」をつくる場面が出てきたとき、読み手の脳内に思わず、「これはダメだ」と危険信号が流れてしまうのも、これまでと違うコロナ禍のなかでの読書体験でしょう。あるいは、みんなで自粛しよう、我慢しようと言っている状況下、そんな場面が出てくる小説が受賞したら、世間から袋叩きにされる可能性も否定できません。

 当然、最も気にかかるのは、どれだけ感染拡大対策がなされているか、ということになります。今回の直木賞は、その点がいちばんの注目ポイントです。

■芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』

感染拡大対策:★★★★

 自宅の作業場での夫婦のやりとり。穏やかです。学校の先生がアタフタする状況でも、基本的に一人でいるか、ギャンブル狂の同僚との二人での会話で終わっています。アパートの老夫婦も、はめを外して遠くに外出するわけでもなく、ひっそりと暮らしています。素晴らしい自粛ぶりです。

 料理研究家のサイン会には、多くの人が集まったようですが、感染拡大に対してどういう対策をとったのか、くわしく書いてありません。おそらくマスクは必須だったでしょう。ファンの女性と握手しているのは気になりますが、即座に無防備だと責め立てるわけにもいきません。

 問題は、山奥で映画を撮っていた人たちの、感染に対する認識の甘さです。旅館の閉鎖された一室で、監督、俳優、そのマネージャー、映画プロデューサー4人が、けっこう激しく声を出し合っています。もし誰かひとりでも感染者だったら……。考えるだけで恐怖です。

■西條奈加『心淋し川』

感染拡大対策:★★★★

 近くにドブ川が流れ、衛生的にはかなり難のある江戸の長屋。住む人たちもみんな貧困なので、いったんウイルスに感染したら、重篤な患者が多発してもおかしくありません。

 おそらく住民にはその意識があるのでしょう、家族どうしで集まることはあっても、大勢で密集する機会はおおむね避けています。こういう真っ当な人たちの生活が保障されるような国であってほしいです。

 最後の最後で、町方役人が柳橋の料理屋で会食をもつ様子が出てきます。年長者二人に、若者六人。オジさんたちの言うことに逆らえず、イヤイヤ宴席に連れてこられた若者たちのつらさが、よくわかります。とりあえずこれは回想シーンなので、問題とするのは気にしすぎでしょうが、会食自粛のお触れが出ている現状では、忌避される場面かもしれません。

■伊与原新『八月の銀の雪』

感染拡大対策:★★★

 人としゃべるのが苦手な大学生。というこの設定が、すでに表題作の勝利でしょう。大勢で話し合う場面とは無縁です。

 対して、いきなり満員電車の車内から始まる作品には、ドキッとさせられます。自粛だ在宅だとおカミから言われても、簡単に従えない人たちがこんなにもいるのだ。ひとつの警鐘だと思いますが、途中、40~50人の聴衆を集めたトークイベントが出てくるところは、いただけません。九十九里の砂浜で発掘作業をするのは、仕事ですから仕方ないとして、屋外とはいえ見物客が集まってしまっています。やはり主催者に管理監督責任が問われるでしょう。

 その対策の甘さを挽回するかのように、公園で静かに野鳥を観察する場面、川に繰り出した二人の男女が距離をとって珪藻を採取する場面、広々とした海岸でひとりの男が凧を揚げる場面、と空気のながれのよい野外の話が印象的に描かれます。これで挽回できたと見るかどうかが、ひとつの鍵です。

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2021年1月10日 (日)

平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。

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▼平成2年/1990年、福武書店『海燕』の編集長に根本昌夫が就任、誌面をリニューアルする。

 前回の終わりに、角田光代さんの発言を引用しました。そこに出てきた根本昌夫さん。『海燕』編集部にいた人です。もちろん根本さんひとりが角田さんを育てたわけじゃないですけど、根本さんの輝かしい編集者遍歴のなかに角田さんのデビューがあったのは間違いありません。

 それで、うちのブログのテーマが芥川賞だったら、ストレートに根本さんを取り上げるところです。しかし残念ながらこちらの関心は直木賞一択なので、まあ触れないでもいいか、と思っていたところ、半年まえの7月に高山羽根子さんが第163回(令和2年/2020年上半期)芥川賞を受賞。高山さんも根本教室の受講経験者だったので、よりいっそう根本さんの株が上がりました。

 日本の小説教室史を考えたとき、たしかに根本さんを無視するわけにはいかないだろうなあ。と思い直した末、今週は根本さんにご登場願います。

 根本昌夫、昭和28年/1953年福島県生まれ。県内の名門、安積高校を経て早稲田大学に入ると、在学中は『早稲田文学』編集室スタッフとして青春の炎を燃やした、ということです。ちょうど同誌が、新庄嘉章さんを発行名義人とした第7次(昭和44年/1969年2月~昭和50年/1975年1月)、それを平岡篤頼さんたちが受け継いだ第8次(昭和51年/1976年6月~平成9年/1997年4月)を刊行していた時期にあたり、早稲田に文芸科(文芸専修)ができたころでもあります。おそらく根本さんも、創作を教える人・それを学ぶ人の発する熱を感じながら、大学生活を送ったことでしょう。

 卒業後、根本さんが選んだのは文芸編集の世界です。作品社の文芸雑誌『作品』の編集部で働きます。ほんの7か月、計7号を出したところでつぶれてしまいますが、東京新聞の文化部にいた渡辺哲彦さんが、親しかった文芸編集者の寺田博さんといっしょに創刊した雑誌で、創刊の昭和55年/1980年11月段階で根本さんは27歳。まだまだ若造の部類です。

 『作品』って硬派なのに冒険心もあり、面白いことしそうな雑誌だったのになあ、終わってしまって惜しい。という声に包まれるなか、他にお金を出してくれそうな会社を当たるうち、手を挙げてくれたのが福武書店。『作品』という誌名のまま復刊しようとしましたが、譲渡金として法外な金額をふっかけられて泣く泣く断念し、埴谷雄高さんが命名した『海燕』という題名で新たな出発を切ったのが、『作品』休刊から約半年後、昭和57年/1982年1月号からです。発行人として渡辺さん、編集長として寺田さんが残留し、部下だった根本さんも『海燕』に移ります。

 創刊6号目にあたる昭和57年/1982年6月号に載った平岡篤頼さんの「消えた煙突」をはじめとして、掲載作がぞくぞくと芥川賞の候補に残るようになり、いっときは『すばる』よりも『文藝』よりも『群像』よりも数多く同賞の候補に挙げられるなど、またたく間に有力純文芸誌にのし上がります。ただし、のし上がったところでお金が儲かるわけではありません。赤字がかさむなか、創業社長だった福武哲彦さんが亡くなり、社名も「ベネッセコーポレーション」と変更、同社が出版部門から撤退するのに合わせて、平成8年/1996年11月でその誌命を閉じることになります。

 編集長は寺田さんから田村幸久さんへ、そして平成2年/1990年に根本さんへと変わります。大幅に誌面をリニューアルし、コミックやミステリーを採り入れた純文芸誌として、どうにか時代の推移を見極めようともがきましたが、もがきっぷりが露骨すぎて評判はよくなく、刻まれたのは悲しい末路です。

 『海燕』の廃刊を見届けるまえに、福武書店を飛び出した根本さんが、次に編集長になったのが角川書店の『野性時代』でした。いま刊行されている『小説野性時代』とは違って、当時の『野性時代』はチャレンジングというかムチャクチャというか、純文芸誌でもなければ中間小説誌でもない中途半端な位置取りから、ミステリー、ファンタジーと「売れ線」を求めて右往左往。『早稲田文学』平成14年/2002年11月号増刊に載った根本さんの「インタヴュー 終わりと始まり」によると、売れない売れないと言われた福武の『海燕』でも月5000部売れていたのに、『野性時代』は実売2000部。それで赤字が毎月2000万円ぐらい出ていた、というのですから、放漫もいいところです。

 3年はやらせてくれる、という約束だったそうですが、根本さんが手がけてから1年ほどで、もうこんな借金だらけの雑誌やめるよ、と上層部からお達しが降ってきて、平成8年/1996年4月号で休刊。終わらせるために就任したようで、根本さんが貧乏くじを引かされた恰好です。しかし不運といえば不運だけど、1年ももたなかった『作品』、落ち目の『海燕』、死に体の『野性時代』、けっきょく根本昌夫って大した編集者じゃないんじゃないの? と陰口を叩かれたとか何だとか。誰ですか、そんなこと言うのは。弱り目に祟り目、かわいそうな根本さん。

 金を稼いだかどうかで編集者の力量が決まるなら、たしかに根本さんの実績は高くないかもしれません。しかしここで人生一発逆転。雑誌の編集を離れたところで根本さんの力量が一般に注目されることになるのです。この世に「小説教室」というものがあったおかげです。

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2021年1月 3日 (日)

昭和63年/1988年、早稲田大学文芸専修に在学中の角田光代がコバルト・ノベル大賞を受賞。

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▼昭和62年/1987年、早稲田文芸専修の学生が、すばる文学賞の最終選考に残る。

 重松清さんが直木賞を受賞したのは第124回(平成12年/2000年・下半期)、37歳のときです。それからぴったり4年後、第132回(平成16年/2004年・下半期)の直木賞を、同じく37歳で受賞した早稲田の後輩がいます。角田光代さんです。何だか最近のような気もしますが、16年もまえのハナシです。……まあ、最近といえば最近かもしれません。

 80年代後期から90年代、「創作教室」ブームが咲き誇りました。その受講生のなかから、一部の人が作家デビューを果たし、こつこつと商業小説を書きつづけるうちに、これまた一部の人が直木賞の候補に挙がりはじめます。ということで、90年代以降の直木賞に創作教室ががっちり絡み合ってくるのは、自然な流れです。

 たとえば、朝日カルチャーセンターで小説の執筆を始めた篠田節子さんの直木賞受賞が、第117回(平成9年/1997年・上半期)。講談社フェイマススクール出身、宮部みゆきさんは、第105回(平成3年/1991年・上半期)の初候補からえんえん7年かかって第120回(平成10年/1998年・下半期)で受賞しました。

 そのほか、小説教室に関わる候補者のことは、また取り上げる機会もあるでしょう。今週の主役は角田さんです。

 女子高を出た角田さんが選んだ進学先が、文芸専修のある早稲田大学第一文学部です。何となく選んだとか、だれかに誘われて入った、ということではありません。私は小説家になりたいんだ、絶対になるんだ、と作家になる目標をド直球に追いかけ、「小説の書き方を教えてくれる大学」に入るために必死に受験勉強に取り組んで、自覚的に小説教室に飛び込みます。

 角田さんが早稲田に入った頃は、ちょうど先週取り上げた重松さんが卒業した時期にあたる1980年代半ばです。堅くて真面目くさったのばかりが文学じゃないぜ、と言わんばかりに多様な小説や読み物が商業出版ルートに乗って、わさわさあふれ返っている時代です。

 刊行点数はまだまだ右肩上がりで増えつづけ、小説を書きたいと思う人も減少の気配はありません。本はたくさん出るけど、書店には並べておくスペースもなく、けっきょくほとんどの作家は売れずに消えていく。などとも言われましたが、ちなみにその頃、小説を出すとどの程度の部数が刷られていたか。貴重な参考資料『公募ガイド』に紹介されていたので触れておきます。

「新人の場合、イニシャル(初版の発行部数)は1万部から1万5千部、多くて3万部といったところ。純文学のなかには5千、8千部からスタートという例も多い。」(『公募ガイド』平成2年/1990年9月号「特集2 “書き屋”の世界 それぞれの現状、原稿料、プロへの道を探る」より)

 いま現在、新人の小説が1万部刷られるのは稀だと聞きます。日本全体のバブル景気に煽られて商業出版も浮かれ立ち、やはり異常な賑わいを見せていた、と見ていいでしょう。

 ハナシを角田さんに戻します。世間が浮かれ立とうが立つまいが、自分は小説家になりたいのだ、という一心で念願の早稲田に入学。しかし入ってみると、まわりの同級生も先輩も、あまりにたくさんの本を読んでいたので愕然とします。自分は本が好きで、これまで多くの本を読んできたと思っていたのに、何なんだこれは。自分が何も知らない田舎の小娘だった事実を突きつけられてショックを受けた、ということです。

 それでも、小説家になるという思いはくじけません。二年生に上がるときに選んだ専攻は、予定どおり「文芸専修」。小説が書きたくてうずうずしていた角田さんは、先輩の提出した小説を読み、なるほど、作文と小説はこういうふうに違うものなのか、と試行錯誤しながら課題の創作に励みます。課題がなくても書いて書いて、積極的に先生に読んでもらったそうです。

 さあ恐ろしいのは、そこで先生にも褒められて、じゃあどこかの新人賞に挑戦してみるかと、第11回すばる文学賞に応募したところ、あれよあれよと予選を通過し、最終選考まで残ってしまったことです。昭和62年/1987年秋。受賞には至りませんでしたが、集英社の編集者から、あなたはまだ若いので若い人向けの小説も書けるかもしれない、とコバルトの部署を紹介してもらいます。改めて読者を意識して書いてみたところ、これもまたすぐに認められて、昭和63年/1988年春に第11回コバルト・ノベル大賞を受賞。在学中にして、晴れて〈彩河杏〉の名で作家デビューを果たし、その収入をもとにひとり暮らしを始めるのです。

 恐ろしいというか何というか、作家になりたくてなりたくて仕方ない、と夢を抱えながら何年も(あるいは何十年も)小説教室に通っている人にとっては、羨ましい、ないしは恨めしい展開かもしれません。

 おそらく角田さんのような人は、文芸専修に行かなくてもいつか作家として世に出たでしょう。自力で職業作家になれる才能が、世間にいくらでも眠っているというのは不思議なことではありませんが、こういう人が小説の書き方を教わるきっかけに、大学の創作科を選ぶ選択肢がすでに準備されていたのは、出版文化全体を見ても重要だと思います。

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2020年12月27日 (日)

平成9年/1997年、重松清が早稲田大学で「エンターテインメント文芸」の授業を担当する。

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▼昭和58年/1983年、重松清が『早稲田文学』の学生編集員となる。

 1980年代半ば、文芸のドテッ腹に風穴を開けてやるぜ、という異常な情熱をカラまわりさせていた雑誌があります。『早稲田文学』(第八次)です。

 すみません、「カラまわり」かどうかは評価が分かれるでしょう。芯を食っていようが、時代をリードしていようが、基本『早稲田文学』のすることがカラまわりに見えてしまうのは、こちらの目が節穴なだけの可能性があります。別にこの表現に悪意はありません。

 平岡篤頼さんが編集長格に座り、その下に団塊の世代と言われる、当時はまだ若手だった作家や評論家たちが編集委員として名を連ね、出版界全体を覆うにぎやかな状況にも煽られて、毎月、誌面を展開していました。平岡さんは文芸科教授の立場にあり、そのなかから何人かの新人が商業出版の世界に飛び出すなど、ワセダの創作教室が脚光を浴びていた時代です。

 いっぽう直木賞にとっても、第八次の『早稲田文学』界隈はかなり深い縁があります。

 いや、そもそも早稲田と文芸界はいつの時代でも縁があるじゃないか、その時期に限ったことではないだろ、と言われれば返す言葉もありません。ただ、直木賞を受賞すると『オール讀物』にかならず書かせられる受賞記念の自伝エッセイというものがあり、そこに第八次『早稲田文学』との濃厚な関わりを書いた受賞者がいる。となれば、見過ごすわけにはいきません。

 重松清さんです。昭和56年/1981年、早稲田大学教育学部に入学。大学3年のときに、偶然『早稲田文学』学生編集員募集の貼り紙を見かけると、それまで興味もなかったワセブンに運命の出会いを感じたものか、応募したところ首尾よく受かり、以来、無給の編集員として同誌の編集に携わります。『オール讀物』平成13年/2001年3月号に載った自伝エッセイ「「早稲田文学」のこと」によれば、初めて編集を手伝ったのは、昭和58年/1983年7月の寺山修司追悼号だったそうです。

 そこで編集委員を務めていた中上健次さんをはじめ、重松さんにとっては10歳20歳年上に当たる、カタギのようなカタギでないようなお兄サマがたと濃密な時間を過ごします。別に小説の書き方を教わったわけではありませんけど、そういうなかから、田舎から出てきた何者でもない青年が、急速に文芸に目覚め、のちに物を書く職業を選ぶことになったのだ、ということです。

 昭和60年/1985年に大学を卒業し、中上さんの紹介で入社したのが(『毎日新聞』平成10年/1998年8月6日)出版社の角川書店。『野性時代』配属となって小説誌の編集者としてスタートを切りますが、1年ほどで退社してしまいます。以後、フリーライターをやりながら、塾の講師で生計を立てる生活に入ったころ、昭和62年/1987年に小説を書き始めました。

 きっかけは「直木賞」です。

「がら空きの京王線の電車の網棚に写真週刊誌が置いてあった。金もなかったからパッと手に取って開いたら、ちょうど山田詠美さんが直木賞をおとりになったときで、山田さんの隣でかつての同僚がワーッと盛り上がっている写真が出ていた(インタビュアーのあなたもいなかったっけ?)すごくはなばしく見えて……。ほんの二年前まで一緒に働いていたわけですから、「どこだろう、あそこの酒場かなあ」なんて呟きながら、「何やってんだろう、俺」って……。」(『オール讀物』平成13年/2001年3月号「直木賞受賞インタビュー いつだってテーマは人とのつながり」より ―インタビュー・構成:編集部)

 それが重松さんに火をつけて「一発逆転してやりたい!」という野望を持ちながら小説を書き出すきっかけのひとつになった、と語っています。そうしてみると、写真週刊誌も、直木賞のバカみたいな報道も、多少は後世に新しい作家を生む役に立ったのかもしれません。

 『文學界』をはじめ、三つの文芸誌に原稿を応募したそうで、そこでサラッと受賞していたら、すぐに作家重松清が誕生して、ひいては小説教室との関わりもなかった可能性があります。しかし、人生の妙といいますか、なかなかライター業では食っていけない過酷な現実をまえに、一発逆転への遠い道のりを歩いていた昭和63年/1988年、『早稲田文学』編集室から「チーフ」の肩書きで戻ってこないかというハナシが舞い込みます。重松さんは再び、ワセダの人となるわけです。

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2020年12月20日 (日)

昭和63年/1988年、三田誠広が早稲田大学文芸科で「小説創作」演習を始める。

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▼昭和53年/1978年~昭和56年/1981年、『早稲田文学』から見延典子、三石由起子、田中りえが世に出る。

 今週も小説教室と直木賞とのハナシをつづけますが、そのまえに少し別の話題を差し込みます。12月18日に発表された第164回(令和2年/2020年下半期)の直木賞候補のことです。

 何といっても坂上泉さんがいます。会社に勤めながら天狼院の〈小説家養成ゼミ〉に通い、その間に書き上げた原稿で松本清張賞を受賞、今回、二作目にして直木賞の候補に挙がりました。2020年ともなると、小説教室と直木賞は切っても切り離せない、両者が並立して当たり前の時代になったということを、リアルタイムで実感できる恰好の候補発表だったと言えるでしょう。

 ……それともうひとつ、完全にうちのブログの目線なんですが、直木賞がようやく加藤シゲアキさんを候補に残した、というのも嬉しいニュースです。

 うちのブログが「芸能人と直木賞」のテーマでやっていたとき、加藤さんを取り上げたことがあります。平成28年/2016年3月の「加藤シゲアキは言った、「いつかは直木賞を取れるように頑張りたい」。」。いまから5年くらいまえです。

 加藤さんのようなチャレンジングな作家を、直木賞は積極的に候補に挙げていったほうがいい。と、そのときもワタクシは本心から思っていましたし、いまも思っています。文藝春秋の社員だって、それなりに世間の声に敏感に暮らしていますから、芸能人を候補にすることで、自分の会社や賞がどういう意見を食らうのか、メリットもデメリットも考えたことでしょう。それでもなお、候補に挙げる判断をしたという事実が、純粋にうれしいです。

 というのも直木賞は、本が売れる・売れないの前に、これから先も書いていってくれそうな作家たちに奮起の力を与えることも、大きな役割のひとつだからです。個人的には、だれが直木賞をとるのかにほとんど興味はありませんが、加藤さんには「直木賞候補になった!」というこの風を応援と受け取ってもらって、これからも小説を書き続けていってほしいと願います。

 すみません、完全にハナシが逸れました。いちおう、いまのテーマに戻って「小説教室」につなげてみます。

 文芸出版の世界で「芸能人の書く小説」と「小説教室」には共通点があります。一気に爆発したのが、ともに1980年代だったという点です。たまたま時期が重なった、と言ってしまえばそれまでですけど、いや、文芸を商業的に扱う企業のなかに、書き手の幅を広げることがビジネスの裾野を広げることにつながる、という考えが浸透したところに、芸能人小説、小説教室、この二つの隆盛が現れたことは間違いありません。

 ここに文学賞(直木賞)を組み合わせてみたとき、浮かび上がってくる人がいます。うつみ宮土理さんです。広く顔とキャラクターを知られるタレント業をしていた頃から駒田信二さんに師事し、朝日カルチャーセンターの駒田教室に参加、創作作法を学びながら同人誌の『まくた』に作品を発表して頭角を現わすと、いっときは文芸誌、読み物小説誌、婦人雑誌などに小説をたくさん発表しました。1990年代、「直木賞を目指している」と公言して、直木賞の盛り上がりに側面から寄与してくれた……といったようなことは、これも5年くらいまえのエントリー「うつみ宮土理は言った、「目標は直木賞をとること」」に書いてしまいました。いまさら同じハナシを繰り返すのはやめておきます。

 ともかく、小説教室の歴史を見ると、1970年代に大きく花開いたカルチャースクールの文化が80年代もそのまま順調に発達した、というのがおよその流れです。ただ、もうひとつ、この時期からジャーナリズム(主にゴシップジャーナリズム)を賑わせはじめた小説教室関係の話題があります。大学教育です。

 馬鹿いえ、大学なんかで文学を教えられるかよ。小説の創作作法なんて教育できるわけないだろ。……というハナシが盛り上がったのは、もう少しまえ、1960年代のことでした。アメリカの大学では創作教育が盛んだ。それに比べて日本は……みたいな、よくある欧米崇拝志向の渦に巻き込まれ、けっきょくその後、しばらく日本の大学では小説の書き方を授業に取り入れる動きは活発化しませんでしたが、そのなかで早稲田大学だけが、ひとり気を吐きます。

 昭和43年/1968年に第一文学部、昭和45年/1970年に第二文学部にそれぞれ文芸専修(文芸科)を設け、そこで学んだ荒川洋治さんがH氏賞を受賞したのが昭和51年/1976年。中島梓さんが群像新人文学賞評論部門に当選したのが昭和52年/1977年、同じく栗本薫名義での江戸川乱歩賞受賞が昭和53年/1978年。文学賞という制度のなかで大きく注目を浴びる存在になります。

 つづいて見延典子さんが『早稲田文学』誌上に登場すると、それを読んだ講談社の編集者が「この逸材、うちでもらったあ!」と手を挙げて、昭和53年/1978年の秋に『もう頬づえはつかない』を刊行。昭和54年/1979年にかけてベストセラー街道を驀進します。昭和56年/1981年には、文芸科の人ではないですけど三石由起子さんが「ダイアモンドは傷つかない」を『早稲田文学』4月号に発表、つづいて同年6月号には田中小実昌さんの娘で、文芸科に通った田中りえさんの「おやすみなさい、と男たちへ」が掲載され、次々に講談社が本にして売り出す騒ぎに。一気に「早稲田の文芸科」に好奇の目が注がれることになりました。

 そこからわかるのは、みんなだいたい、若い女の子が何かした、という話題が大好きなのだ。ということかもしれません。しかしその裏に、「話題になるのはイイことだ」「有名になれてうらやましい」という価値観が1970年代~80年代の日本を覆っていたことは間違いなく、文芸出版をにぎわせた芸能人小説も、ワセダ女子の台頭も、その現象の一種だったと見て取れます。

 社会が動けば、当然、大学の文学部もそれに合わせて変革していかなければなりません。

 いや、早稲田大学がどんな改革を志したのか、まったくワタクシには手に負えそうにない壮大な(?)テーマなんですけど、少なくともこのころ、第八次を数えていた『早稲田文学』は、時代に合わせた変化を目論み、試行錯誤しました。

 文芸科の教授、平岡篤頼さんが編集長格になって第八次を復刊させたのが昭和51年/1976年6月。昭和56年/1981年にがらりと編集委員を入れ替えたあと、何度か出入りを経るうちに、昭和59年/1984年1月号からは荒川洋治(当時34歳、以下同)、鈴木貞美(36歳)、立松和平(36歳)、中上健次(37歳)、福島泰樹(40歳)、三田誠広(35歳)という面々が編集委員会を構成します。鈴木、立松、中上、福島、三田の5人が出席した「新年号座談会 今年に賭ける」には、とにかく新しいことをやっていかなくちゃいけない、という各々の意見が出ていて、80年代の、ワサワサと賑わいだけあって、とらえどころのない空虚な文学状況に、いろいろ問題意識をもっていたのだな、とわかります。

 この年から募集を始めた〈早稲田文学新人賞〉なども、時代に合わせた変革のひとつ、と言っていいでしょう。原稿を「賞」というかたちで募るのは、80年代にはすでに文化として定着していたからです。そして、この30代なかばのワセダの士から、小説教室で名を挙げる人が出てくるのも、80年代から90年代にかけての、見過ごせない動きのひとつです。

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2020年12月13日 (日)

昭和60年/1985年、かつての作家志望者たちが集まって『全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行する。

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▼昭和62年/1987年、『公募ガイド』が月刊化、みるみる部数を伸ばす。

 狂気と欲望が渦巻くなかで、徐々に破滅へと向かう1980年代。……いや、破滅かどうかはわかりませんが、とりあえずパチンと泡がはじけるまで、文芸出版の世界も、ひたひたと着実に出版点数および出版部数を膨張させていきます。

 一般的に80年代は、プロとアマの垣根がぶち壊され、どんな素人でも一夜にして注目を浴びることができる、などと言われました。意地とか根性はダサいことだと嘲笑され、マスを相手にした市場では、一定の品質を保った商品を効率よく供給できる生産者としての作家や編集者が生き残る、とも言われました。

 その影響を受けながら一気に群立したのが、小説教室と、高額賞金のものを含めた公募の小説賞です。いい時代だったなあと陶酔するか、悪い時代だったぜと唾棄するか。立場によって時代観はそれぞれでしょう。以来40年。いまもまだ、当時の残滓が尾を引いて残っているのは間違いありません。

 ということで、80年代の小説教室と密接に関係したもののなかで、いまも元気に残っている媒体があります。『公募ガイド』です。

 何週かまえに少しだけ触れました。子供の頃から作家になるのが夢だった。という人たちに、大きく門戸をひらいたのがカルチャースクールや専門学校を起源とする小説教室でしたが、そういう人たちの夢をいま一歩具現化させたのが、出版社、企業、地方自治体などがぞくぞくとつくった公募の小説賞です。

 そんな社会の動きを見極めて、ダイヤ情報株式会社が、公称1万部で『季刊 全国作品コンテスト公募ガイド』を刊行したのが、昭和60年/1985年のこと。発行人は川崎政視さん、編集人は白戸修さん、広告担当は吉田秀三さんです。1年で4号を出すあいだに社名も「ダイヤ情報出版株式会社」と、出版の二文字を入れて改称、これはビジネスになるぞと手ごたえをつかんだ同社は、昭和61年/1986年12月10日売りの昭和62年/1987年新年号から誌名を『公募ガイド』と変え、月刊化に踏み切ります。すると、これが大当たりしました。

 文芸誌に目を通さず、『公募ガイド』を見て小説を応募するやつが後を絶たない、ああ、おかしな世の中になっちまったなあ、というテイストの記事は、これまでたくさん書かれてきたと思います。たとえば、斎藤美奈子さんの「OL「作家になりたい症候群」の不気味」もそのひとつです。『諸君!』平成9年/1997年5月号に掲載されています。

 『公募ガイド』のこともけっこう詳しく紹介された文献です。文芸誌や小説誌がおよそ1万部から十数万部、しかも凋落傾向にあるところ、『公募ガイド』は逆にどんどん部数を伸ばして、創刊12年で公称23万部。創刊のころからスタッフとして働いてきた同社取締役本部長の川原和博さんに取材して、あまりオシャレとは言い難い体裁をしたこの雑誌が、どんな方針で編集され、どんなふうに読まれているのか、斎藤さん流のイヤミったらしい文章で解説されています。

 同誌が創刊したころの裏バナシにも触れられています。さすが斎藤さんの筆は鋭いです。

「川原さんの話で唯一なるほどと思ったのは「公募ガイド」は挫折した作家志望者らが集まって作った雑誌である、という創刊秘話だった。そうか、スタッフじたいが「作家になりたい症候群」のOBだったのか……。文芸業界を体のいい就職先のようにみなす独特の発想は、もしかしたらそこから来ているのかもしれない。」(「OL「作家になりたい症候群」の不気味」より)

 『公募ガイド』は、べつに文章や小説のための専門誌ではなく、絵本、イラスト、写真、工芸、あるいはミス・コンテストを含めた「公募」全般を取り扱っている、というのが建前です。それでも、作家になれなかった作家志望者たちがつくったのだ、というのはたしかに面白い経緯だと思います。作家になりたい、だけどなれない……という怨念のパワーがどれほど凄まじいか。それがまたひとつの社会現象の一助になったわけですから、人生の挫折も馬鹿にしたものではありません。

 ともかくダイヤ情報社の面々の、時代をとらえる感覚は冴えていた、と言っておきたいと思います。傾向と対策、投資と成果を、冷静にドライに分析することをよしとする潮流が、たしかに一般にはありました。作家になりたいという思いが小説教室を過熱させ、夢を与える切符が公募の小説賞として散りばめられたとき、それをまとめた情報として届ける『公募ガイド』が出てくる。自然といえば自然のことだったでしょう。

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2020年12月 6日 (日)

昭和49年/1974年、日本ジャーナリスト専門学校が文芸創作科を開設する。

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▼昭和48年/1973年、みき書房の一事業として「ルポライター養成講座」が開講される。

 1970年代に生まれたもので、すでに消え失せたものはたくさんあります。講談社フェーマススクールズの、四谷にあった通学制教室もそうですし、文芸創作の分野では、日本ジャーナリスト専門学校もそのひとつです。

 この教育機関は「ジャナ専」「ジャナ専」と呼ばれてきたので、うちのブログでもそれを継承します。ワタクシ自身は何の縁もゆかりもありませんが、「直木賞のすべて」のイベントをずっと主催してくださった文芸評論家の大多和伴彦さんが、いっときこの学校で講師を務めていたらしく、何度か当時のハナシを聞いたことがあります。それはそれとして、つい10年ほど前の平成22年/2010年、入学志望者の減少で経営的に立ち行かなくなって閉校しましたが、1970年代に生まれたときから出版文芸とは近い距離にあり、文芸創作をひとつの科目に据えていた学校です。「小説教室」の歴史のなかでも、やはり触れずに済ませるわけにはいきません。

 それで、まずは成り立ちからです。前身は昭和48年/1973年4月、四谷にあった雑居ビルの一室で始まった「ルポライター養成講座」にさかのぼります。このとき中心となって運営ないし講義を受け持ったのが、青地晨さんほか、松浦総三、丸山邦男、茶本繁正、猪野健治、上野昂志、山下諭一、島野一といったジャーナリスティックな物書きの面々。反権力志向といいますか、社会の闇をペンで暴いてやるぜといったタイプの、触れるとヤケドしそうな人たちです。

 ただ、青地さんたちが経営していたというより、同じ「みすずビル」にあった出版社のみき書房が、事業のひとつとして興した講座らしく、お金の算段は同社が担っていたのだ、とも伝えられます。みき書房というのは何なのか。くわしいことは、誰かくわしい方に解説してほしいですが、昭和47年/1972年11月に創業し、昭和49年/1974年10月に株式会社となった小出版社で、はじめの頃は『季刊翻訳』という雑誌を出したり、『所得格差年報』を刊行したり、少し堅めのものを世に送り出していました。株式会社となった辺りで社長に就いたのが文化人類学者の島澄(きよし)さん、編集代表が元毎日新聞の記者で骨董にやたらと詳しい佐々木芳人さん、というところからも、シブめの本が多かったのかもしれません。

 ルポライター養成講座が開設されたのも、ちょうどみき書房が法人格になる前夜のことです。企業経営のなかで、社会のためになることと、お金を稼げることの両側面を想定して、このようなスクールを出発させたのだろうと想像できます。

 翌昭和49年/1974年には「日本ジャーナリスト専門学校」とモノモノしい名前を立てて、「編集者養成科」「文芸創作科」も加えて開校。始まった頃の第一期生には、やがて『原発ジプシー』(昭和54年/1979年10月・現代書館刊)を書くことになる堀江邦夫さんがいたそうですが、そのころの雰囲気を教えてくれるのが、同じくジャナ専第一期生だった石原俊介さんが主人公のノンフィクション『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(平成26年/2014年11月・小学館刊)です。伊藤博敏さんの著作です。

 1970年代に確立された「雑誌ジャーナリズム」という出版文化。そこに、時代の申し子のように設立されたジャナ専の存在を、伊藤さんは端的にまとめてくれています。

(引用者注:1960年代末から70年代はじめごろの雑誌業界に)社会への情報発信を願う規格外の若者が群れた。団塊世代の全共闘くずれを筆頭に、大学中退者や企業のドロップアウト組、新聞や業界紙からの転職組が、コネを頼りに、フリーの記者として出入り、やがて専属記者の職を得て、ルポライターやノンフィクション作家としての腕を磨いた。マスコミ志願者たちの“けもの道”であり、何の資格も要らない。名刺1枚でライターを名乗れた。

(引用者中略)

ジャナ専では、文章の書き方、ルポルタージュの企画と取材、コラムの書き方、インタビューの方法などが教えられたが、そんなものが実際に役立つわけではなく、むしろ在野のジャーナリズムを知る場であり、そこで生き抜くコツを教えてもらい、講師を起点にマスコミに人脈を築く場だった。」(『黒幕』「第1章 「黒幕」の誕生」より)

 「そんなものが実際に役立つわけではなく」と、きっぱり断言しているところが、すがすがしいです。技術や知識うんぬんの前に、何より人脈、生き方・働き方をまぢかで体感できるところに、このスクールも大きな特徴があったんでしょう。ちなみに同書によると、初期のころのチラシには、江國滋、大河内昭爾、小堺昭三、藤田信勝、山下諭一、吉村昭といった講師陣が並んでいたそうです。

 昭和53年/1978年には、当時の専修学校制度に合わせて「日本ジャーナリスト専門学院」と改称し、昼間・夜間の二部制を敷きます。昭和54年/1979年に高田馬場に校舎移転。昭和57年/1982年には、学校法人情報学園が設立されて、ふたたび「日本ジャーナリスト専門学校」と名前を変えます。このころには、もう社会全体が浮かれはじめていたのか、事情はいろいろあるでしょうけど、入学希望者もぐんぐんと増え、高田馬場の5階建てビルだけでは学生を収容しきれなくなって、近くのマンションの一室を借り、さらに近くのビルの二フロアを独占賃貸し……とむくむく拡大したとのことです(『技術と人間』昭和58年/1983年12月号 山下恭弘「専門学校の実像――日本ジャーナリスト専門学校の場合」)。

 ここに堂々「文芸創作科」もありました。6か月コース・1年コース、昼間部・夜間部、それから通信教育学部にも。いったい何百人、何千人の生徒がここで小説の書き方を教わったのでしょう。よくわかりません。そしてまた、出身者の実績も不明です。

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2020年11月29日 (日)

昭和61年/1986年、エンタメ系小説教室出身のヒロイン、宮部みゆきが世に出る。

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▼昭和61年/1986年、山村教室一期生の宮部みゆき、オール讀物推理小説新人賞を受賞する。

 先週につづいて講談社フェーマススクールズ(FS)のハナシです。

 昭和59年/1984年、山村正夫さんの「エンタテインメント小説作法」講座が始まりました。このころ、出版界では盛んに「文芸不振」と言われていた……というのは、何週かまえに高橋昌男さんの言葉で確認しましたが、落ち目と見られていたのは純文学ばかりではありません。1950年代以降、隆盛を誇って我が世の春だった中間小説の雑誌も、80年代には早くも下降線をたどりはじめます。短い天下でした。

 いっぽうで出版界全体では、浮き沈みを繰り返しながら市場規模が拡大していきます。1980年代なかば、いっときの「不況」を抜け出すと、そらきた雑誌を出せ、本を出せと、手当たり次第に素材を見つけてきては、印刷に乗せて世間に放っていた時代。なかでも世間の関心を呼ぶのは、芸能人やその周辺のことだ、ということで有象無象のタレント本がわんさか量産されたことを、歴史上の汚点とみるか快挙とみるか。それは人それぞれでしょうけど、事実としてはそういうことです。

 対して、まじめで堅い本が売れたのも、やはりこのころの特徴だったと言われます。その一端が「ニューアカ・ブーム」というものですけど、要するに硬軟おりまぜて、さまざまな種類の本が出て、いまより出版界が潤った時代です。当時の日本人たちが読書好きだったから、というよりも、日本の景気に上昇傾向があったことが、理由の大半かもしれません。

 社会の状況が変われば、当然、文学をとりまく環境も変わります。ここで急激に力を持ったのが小説教室です。そして文学賞です。

 新しい小説誌が創刊されるとなれば、原稿募集の文学賞ができる。実業のほうで儲かった大企業が、文化的な事業にも手を伸ばして、新しい文学賞の後援につく。文学修業を何十年もやっているような社会不適合者じゃなくても、主婦が、芸能人が、小説を書いたら直木賞でも芥川賞でもとれちゃうようになる。ブンガクは限られた人間だけが生み出すものではない、あなたにも才能が眠っているかもしれませんよ、一発当たれば夢の印税生活がすぐそこに……という浅ましいコピーに釣られた人も、多少はいたかもしれません。ともかく市場には一般向けのワープロが売り出され、わたしも小説を書いてみようか、という環境がぐっと身近なものになりました。

 そこから生まれた代表的なヒロインが、宮部みゆきという作家だった。

 ……と言い切ると語弊があるので、やめときますけど、昭和59年/1984年、法律事務所に勤める事務のOLさんが小説教室に通って才能を開花させ、新人賞をとり、本を出し、あれよあれよと人気作家になって、10数年たった平成11年/1999年には、38歳で第120回(平成10年/1998年・下半期)直木賞を受賞。プロの作家としてコンスタントに売れる小説を書き続け、さらに10年後の第140回(平成20年/2008年・下半期)からは、48歳の若さ(?)で直木賞の選考委員に就く。という、はたから見ても恐ろしいぐらいのサクセスな歩みを見せます。

 小説教室と直木賞との関係性の歴史は、けっきょく宮部みゆき一人を生み出したことに尽きるのではないか。と言ってもよく、ここから先、宮部さんのハナシだけすれば事足りるかもしれません。だけど一人の作家にのめり込むガラではないので、ここでは簡単に、当時の講談社FSのことを取り上げるにとどめます。

 『宮部みゆき全一冊』(平成30年/2018年10月・新潮社刊)には本人への長いインタビューが載っていますが、デビューにいたるまでのことも出てきます。講談社FSの「エンタテインメント小説作法」講座は、主任講師が山村正夫さん。ほかにゲスト講師として多岐川恭さんや南原幹雄さんもいたそうです。宮部さんは昭和59年/1984年から1年半通ったけど、受講料が高くて教室には通えなくなった、と言っています。

「――フェーマススクールズには、結局何年ぐらい?

宮部 一年と半年でやめました。月謝が続かなくなっちゃったんです(笑)。毎月一万円と、それとは別に作品を提出する時に印刷代がかかるんですよ。これが意外と高くてね。」(『宮部みゆき全一冊』所収「宮部みゆき作家生活30周年記念超ロングインタビュー 立ち止まって振り返る30年の道のり」より)

 受講しなくなった、と言ってもこのころすでに、講座のなかでも光る存在だったんだろう、とは推測できます。その先に「当時お世話になっていた」人として講談社の編集者・林雄造さんの名前が出てくるのを見ても、新しい書き手として業界人から目を付けられていたんでしょう。何といってもデビュー前から文芸編集者の世話になれる、というのが、講談社FSのいちばんの特長です。

 ちなみに当時の宮部さんのキラめきぶりは、教室のなかでも伝説になったようで、後輩にあたる久保田滋さんも語っています。「弁護士事務所の事務員だった宮部みゆきが受講生の頃は、とにかく着想がユニークで、『この子はどこかが違う』と講師全員が驚いたそうです」(『ダカーポ』平成15年/2003年9月17日号「文壇デビューをめざせ!1か月で小説をモノにする 書き方を実践的に学べる教室で、切磋琢磨する」より)……なんだそうです。

 在学中から小説教室の仲間たちと新人賞に投稿しはじめますが、宮部さんが最終候補に残り出すのが、FSをやめて1年ほど経った昭和61年/1986年から。オール讀物推理小説新人賞と歴史文学賞(佳作)に選ばれるのは、その翌年のことです。順風満帆というか、バツグンな経緯すぎて、呆然とするしかないですけど、ワープロとFSの教室がなければ、宮部さんが専業作家になることもなかった(はず)、と考えると、プロの書き手になりたいと思う人たちが集まる場所、しかも一般の人も気軽に参加できる教室が、1980年なかばに現れたことは、小説教室の歴史にとって大きかったのは間違いありません。

 残念ながら大局的に見ると、1980年代から2020年にいたるまでの文芸出版の歴史は、徐々に規模は縮小、書きたいやつばっかりいて読みたいやつがいない、お先真っ暗な業界、という経緯をたどってしまいます。それでも小説を書くことが職業になるという事実は、いまもまだ変わりません。1980年代。ちょっと遅かったかもしれませんけど、しっかりプロ作家養成機関のかたちを生み出せたのは、講談社FSの大きな功績です。

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2020年11月22日 (日)

昭和55年/1980年、講談社フェーマススクールズ美術学院に「小説作法入門」の講座ができる。

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▼昭和55年/1980年、伊藤桂一、講談社フェーマススクールズで小説作法の講師になる。

 朝日カルチャーも池袋コミカレも、現在まだ残っています。しかしバブル前夜に登場した「三大小説教室」のもうひとつ、講談社フェーマススクールズの小説教室はもはや、この世にありません。

 とくに、ここで5年間「エンタテインメント小説作法」の講座を受け持ち、新人賞をとる作家やプロになる作家をぞくぞくと生み出して、大衆文芸・エンタメ小説に関わる創作指導の歴史に燦然と名を残したのが、山村正夫さんです。フェーマススクールズが閉鎖されたあと、私塾として教室をつづけ、自身が亡くなったあとには、この貴重な灯を消してはなるものかと親交の厚かった森村誠一さんが引き継いで、現在にいたります。

 この講座からはわんさか作家がデビューした、ということもあって、不肖・直木賞もまったく無縁ではいられなくなりました。もはや伝説となった感もある80年代の山村教室について、やはりうちのブログでもおさらいしておこうと思います。

 まずそもそも、講談社フェーマススクールズとは何なのか。というハナシから始めますけど、べつに小説講座のために生まれた会社ではありません。発足の過程は他のカルチャースクールとも違っていて、さかのぼって昭和43年/1968年9月。アメリカの企業「フェーマススクールズ(FS)社」と、日本の出版社「講談社」が技術提携するかたちで、講談社フェーマススクールズが設立されます。

 FS社がアメリカでつくられたのは昭和23年/1948年です。業務の中心は、美術教育を通信制で提供する、というもの。アメリカという国は国土が広く、郵便・配送・物流といった手法を使って、ビジネス相手となる人にモノを届けて商売にする、という発想が伝統的に盛んでした。たとえば雑誌などでも発行のたびに書店で買ってもらうのではなく、定期購読で流通させるのが一般的だとか、カタログで欲しいものを選んでもらう通信販売が古くから当たり前だったとか、そんな巷説も聞いたことがあります。ほんとうかどうかはわかりませんが、あり得そうなハナシです。

 日本の場合、その分野で大規模なビジネスを展開するには、消費者の意識が付いていけていませんでしたが、いっぽうで、ときの講談社社長、野間省一さんはつねづね問題意識を抱えていたそうです。日本でも徐々に雑誌や広告のなかでの、アートの重要性が認識されはじめている。その割にこれを担う人材がうまく育成できているかというと、まだまだ十分とはいえない。美術的なモノを生み出す能力が、きっと日本人のなかにも眠っているだろう。ここはひとつ、アメリカで誕生し、世界各国に展開しているFS社のノウハウを採り入れて、日本でも通信制の美術教育を立ち上げ、全国から腕のあるデザイナーや、グラフィックアートの世界で活躍できる人を発掘し、育てていこうではないか!

 ということで、講談社FSでは、コマーシャルアート・コース、ペインティング・コースを設け、入学希望者には「適性テスト」なるものを受けてもらい、その合格者のみが15万円ナリの受講料を払うことで、一流の通信制美術教育を受けられる、という事業を始めます。

 このビジネスがうまく行ったからか、はたまた通信制だけだと限界があるよねと反省したからか、その経緯はわかりませんけど、昭和50年/1975年7月にいたって同社は通学制の教育にも参入します。場所は四ツ谷駅から歩いてすぐ、新宿区本塩町の「祥平館ビル」。看板には「講談社フェーマススクールズ美術学院」と掲げられました。

 これまで展開してきた通信制では手の届かない部分を通学制で実現する、というのが同学院のいちおうの主旨ですから、開かれた講座は従来の内容に沿って、グラフィックなアートに通ずる絵画や美術などだけです。すでにそのころ、一般にはカルチャースクールが隆盛の途上にあり、時間のある人が家からお出かけしてどこかに何かを学びに行く、という感覚が市民レベルで広がりを見せていましたが、講談社FSの美術学院は、カルチャーセンターの一種というより、プロになることを目指した美術教育に主眼が置かれていました。どちらかというと専門学校に近かったかもしれません。

 ところが、そうこうするあいだに、カルチャーセンターのほうから次々に小説の書き手が出はじめます。小説教室ビッグバンの、重兼芳子芥川賞受賞が、昭和54年/1979年7月のこと。講談社まわりもウカウカしていられません。

 そうか。うちの学校は「美術学院」だけど、講談社の手も入っているんだから、文芸の教室をやってもいいじゃないか。……と思いついた人が偉かったんだと思います。あくまで同校の「実践に役立つ」という特徴を生かしながら、講談社文芸局の第一線で働く編集者たちの協力を得て、「小説作法入門」を開講したのが昭和55年/1980年4月。主任講師として作家の伊藤桂一さん、文芸評論家の武蔵野次郎さんなどにお願いしました。

 「小説作法入門」というのは、系統としては朝日カルチャーの駒田信二さんや久保田正文さんの教室に近く、要は純文芸が念頭に置かれています。その後、講師として参加した澤野久雄さん、進藤純孝さん、八木義徳さん、秋山駿さん、入江隆則さんなどの顔ぶれを見ても、芸術性のある文芸を書きたい人のためのクラスだった、といえばそうなんでしょう。ただ、一様に割り切って考えてはいけないな、と思わされるのは、講師が伊藤桂一さんだったからです。直木賞の受賞者です。

 こういうところに「直木賞はエンタメ小説の文学賞だ」と胸を張って主張できない、直木賞の気持ち悪さが現われているわけですけど、じっさい伊藤教室には、純文芸で行きたいゴリゴリの文学亡者だけじゃなく、時代小説を書きたいとか、エンタメ分野で名を挙げたいと野心をもつ人たちも、けっこう通っていたらしいです。純文芸かどうかは、どうでもいいかもしれません。

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2020年11月15日 (日)

昭和54年/1979年、池袋コミュニティ・カレッジがオープン、都筑道夫の小説作法も開講する。

20201115

▼昭和54年/1979年、池袋の西武百貨店に池袋コミュニティ・カレッジが設立される。

 創作教室が注目されだした1980年前後。いろんな企業が講座をつくりました。すぐに終わったものもあれば長命を保ったものもあります。当然、人気や実績も一様ではなく、それぞれバラツキが出てくるわけですが、とくに花形と目されたのが、下記の「三大小説教室」です。

 ブームの発端となった朝日カルチャーセンター。それと、池袋コミュニティ・カレッジ、講談社フェーマススクールズです。

 ……すみません、「三大うんぬん」と呼ばれていたのがほんとうなのか、確たる証拠もないんですけど、とりあえずひんぱんにメディアに取り上げられ、プロ作家になった出身者も多く、80年代以降の隆昌を支えたという観点で見ると、やはりこの三つは無視できないでしょう。

 朝日カルチャーについては、すでに何週か取り上げました。いわゆる「新聞社・マスコミ系」のひとつです。母体の企業は、古くからいかにも文化に強そうなことを手がけてきたイメージがあり、また宣伝力は爆発的なものを持っています。

 対して、土地や地域という空間的な面からの集客をもくろんだのが「百貨店・鉄道系」と言われる諸企業です。そして、その代表格が西武百貨店に生まれた池袋コミュニティ・カレッジだ、ということになります。

 ごぞんじ、賛否両論、毀誉褒貶、兄弟喧嘩とともにあった西武グループ。「1970年代の日本のカルチャー現象をひとつ語れ」と問われた日本人の、10人中4~5人はおそらく「セゾン文化」を選ぶでしょう。

 いや。2~3人かもしれません。人数はどうでもいいです。ともかく昭和48年/1973年、渋谷パルコの開店に伴って西武劇場(パルコ劇場)を開館させ、昭和50年/1975年には西武池袋店に西武美術館、書店「リブロ」、アート専門書・レコード店「アール・ヴィヴァン」を開業させたときにグループのトップにいたのが、「詩人経営者」でおなじみ、堤清二=辻井喬さんです。その堤さんが次々と手がけた事業のひとつにあったのが、ターミナル駅のそばにカルチャー教室を設けることでした。

 ということで、所沢から池袋に至る埼玉県西域に住まいをもつ老若男女の、うちに秘めた学習意欲をごっそりと掘り起こして収益に転化できたらいいなと、池袋にコミュニティ・カレッジをつくります。開講したのが昭和54年/1979年。朝日カルチャーセンターの始まりが昭和49年/1974年4月ですから、それから5年ほど遅れてのスタートです。

 そもそも小説教室のことだけで大規模カルチャースクールを語るのは無謀だと思います。おそらく西武のコミカレも、もっと広い視点でとらえないといけないんでしょう。そこからどんな人材が育ったか。その観点だけ見ても、かならずしも受講生だけが出身者とは言えません。一時期、コミカレで企画を担当する「中の人」として働き、のちに物書きとして羽ばたいた人に保坂和志さんや岡本敬三さんがいるそうですし(平成22年/2010年9月・朝日新聞出版刊、永江朗・著『セゾン文化は何を夢みた』)、池袋駅近辺の美術館、書店、レコードショップ、その他もろもろの拠点が線となり面となって、そこで働く人や利用する人やただ通り過ぎるだけの人のなかから、有象無象の作家が生まれます。

 要するに、目には見えなくても、場所や建物のたたずまい、地域一帯の全部で他との違いが出るのが「文化」というものだ。と言い出したらそうかもしれません。池袋コミカレにしても、多少はセゾンの色が強みになったことと思います。

 ただ、小説教室に限っていえば、同校にだけ何か特色があったわけではなさそうです。力のある人がたまたま広告か何かで知って入学してくれたおかげで、新人賞をとって世に出る受講生が現われた、という幸運の女神が付いていたことが、特色といえば特色でしょう。たとえば純文芸の実作は、林富士馬さんと尾高修也さんのクラスがありましたが、とくに尾高さんの「小説の作法」講座はバツグンに運に恵まれ、1980年半ばには早くも世間に知られる存在になります。

 というのも、朝日カルチャーの駒田教室から生まれた『まくた』や『蜂』、久保田教室の『よんかい』などと並んで、尾高クラスからは同人誌『こみゅにてぃ』が誕生。そこから芥川賞候補に選ばれた飛鳥ゆうさんと、芥川賞候補三度の(さらには朝日新人文学賞を受賞した)魚住陽子さん、という二大巨頭が出てしまい、「小説教室に通いながら同人誌に参加して世に出る」というコースが当り前のものと見なされる状況を、はっきり確定させたわけです。いや、おれは見なしていないぞ、と反論する人がいるかもしれません。すみません。

 ともかく、ここでも小説教室と文学賞との関係性が、両者それぞれの注目度を高めたことは間違いない、と言っておきたいと思います。小説教室あるところ、かならず文学賞の影がある。……ああ、何と美しい共存関係でしょうか。思わず目頭が熱くなります。

 古く明治から勃興した懸賞小説、時を経て文学新人賞と呼ばれるようになった制度があります。いまは冴えないわたしだけど、受賞してまわりからスゴイねと見直されたい。あわよくばそのまま作家になっちゃいたい。だけど自分にそんな才能があるかどうかがわからないし、人生かけて文学修業するのは、非効率でアホらしい。お金を出して小説教室に通う、という文学賞への近道ができたんだから、それを利用したっていいじゃないのさ。……という発想は、もしかしたら馬鹿にする人もいそうですけど、けっきょく本人が本気で努力しなきゃいけない点では、従来の文学修業とあまり変わりません。

 入口は、オシャレで活気のある百貨店のカルチャー教室。だけど、先へ先へと進んでいけば、蛇も出てくりゃ鬼もいて、最終的には苦難の道が待っている。と考えれば、80年代につぎつぎと敷居の低い入口ができたことを批判する気にはなれません。

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