2021年9月12日 (日)

小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。

20210912

 こないだ、『没後15年 文芸評論家・小松伸六の仕事』(令和3年/2021年7月・北方文学研究会刊)をつくった盛厚三さんに会ったんですけど、その席でこんなことを言われました。「冊子のこと、Twitterで紹介してくれたみたいだね。だけど、川口さんのツイートって反響まったくないんだね」。ずいぶん、あきれた様子でした。

 そもそも何で、ワタクシのやることに反響がある、と盛さんが勘違いしていたのか。思い当るふしもなく、盛さんにガッカリされて正直こちらこそ困惑します。反響がなきゃ普通の人間は20年もサイト&ブログ運営をつづけないだろう、という推測なのかもしれません。残念ながら、直木賞が好きでやっているだけです。

 ということで、今年の6~7月は、ワタクシも小松伸六さんのことを自分なりに調べて、いろんなものを読みましたが、小松さんと縁のあった作家に井上靖さんがいます。井上さんは『朝日新聞』に「氷壁」を連載中の昭和32年/1957年、取材のために穂高の山麓を歩いて以来、たびたび仲間たちと山行を楽しんだ人です。およその目的は、年に一度、北アルプスの涸沢に登ること。その集まりは、いつからか「かえる会」と呼ばれるようになり、「氷壁」の挿絵を担当した生沢朗さんのほか、野村尚吾、瓜生卓造、福田宏年、長越茂雄などの諸氏のほか、新聞社・雑誌社の編集者や、少し年配の井上さんと親しい文筆家・作家の人たちもぞくぞくと参加します。

 「氷壁」の担当記者だった『朝日新聞』森田正治さんの回想録『ふだん着の作家たち』(昭和59年/1984年6月・小学館刊)によると、そこに小松伸六さんも「名誉会員」として名を連ねていたらしいです。「かえる会」には、森田さん以外にも数々の新聞記者がいたようで、今週は井上靖さんと親しかった「かえる会」会員の文芸記者を取り上げたいと思います。

 共同通信社に勤めた小塙学さんです。

 文芸記者にもさまざまなタイプがあります。うちのブログの視点でいうと、大衆文芸・エンタメ小説界に強い文芸記者か、そうでない記者か、という分類法が思い浮かぶところですけど、小塙さんはおそらく後者。純文芸の文壇に広く顔を売っていた人かと思われます。「直木賞」の歴史に登場することはありません。

 ……ないんですが、芥川賞のほうではその限りではなく、昭和30年代ごろの「芥川賞>>>>>直木賞」という芥川賞偏向ジャーナリズム時代にその中核で記者を務めてきた、文学賞史の重要な証人のひとりです。

 昭和34年/1959年、文春のライバル新潮社の『新潮』(3月号)が「芥川賞の候補者たち」と題する随筆ミニ特集を組みました。編集部に求められて寄稿したのは、落選組から有吉佐和子さん、澤野久雄さん、そして受賞者の小島信夫さんの他に、文芸記者の小塙さんでした。

 自ら報道する立場でありながら、小塙さんの基本姿勢は、芥川賞報道には戦後ジャーナリズムの異常性が現われている、というものです。半年に一回、芥川賞の季節になると、報道機関がワッと受賞者、候補者、選考委員たちのまわりにたかる。それで心を病み、あるいは過信・錯覚したすえにつぶれていく新人作家を生み続ける非人道的な現象。わかっているんだ。おれだって、それが異常なことは理解しているんだ。だけど、群がることをやめられず、えらそうに文学賞を分析・解説してしまう文芸記者の悲しき習性が、よく出ている文章です。

 その悲しさがわかるところがあります。芥川賞を盛り上げてきた共犯者たる文芸記者の責任を棚に上げ、けっきょく違うところを責め立てて、自分の原稿を終えている点です。

「芥川賞や直木賞はあくまでもピック・アップ方式によつて、銓衡が進められている。作家、批評家たちから広く作品の推せんを受けて、それを厳選したものが「予選通過作品」だとはいつても、その作品を書いた本人の“意志”とはやはり無縁である。候補に上げられればもちろん嬉しいだろうし、候補に上つた以上は、受賞したいという“願望”も持つだろうが、それはどこまでも間接的な“願望”である。勝手にピック・アップされ、勝手に論議されたあげく、ボイコットされて、あとはおかまいなしというのでは、少し残酷すぎはしないかという。

(引用者中略)

「予選通過作品」の決定だけは、もつと慎重にやつてほしいと思う。」(『新潮』昭和34年/1959年3月号 小塙学「残酷な文学賞」より)

 いやいや、主催者に責任を転嫁するより、まず自分のところの会社が、直木・芥川賞だけ異常に注目する姿勢をやめればいいじゃないか。……と思うのですが、小塙さんも文芸記者としての矜持があるんでしょう。もしくは会社員として、自社や自分の業界を批判しちゃっては出世に響きますから、そちらに矛先を向けられない事情もわかります。まったく悲しいとしか言いようがありません。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年9月 5日 (日)

村田雅幸(読売新聞)。第150回直木賞取材記を『オール讀物』に寄せた唯一人の文芸記者。

20210905201402_20210905212701

 昔のハナシって面白いですよね。

 過去に起きたことは、もう誰にも体験できないのに、一部を切り取っただけの資料や回想を頼りにして、ああでもないこうでもないと、未来の人間が勝手に感想を抱く。いまを生きるこちらには何の責任も伴いません。何十年も前のことを、安全地帯から眺めてエラそうなことを言う。これほど楽しい時間の使い方があるでしょうか!

 ということで、うちのブログもだいたい昔のことや、昔の人物ばかり取り上げています。だけど、楽しがってばかりもいられません。ナント直木賞はいまだに粛々と実施され、そのまわりではたくさんの文芸記者たちが蠢き、働いているからです。

 だよなあ。たまには最近の記者に視線を向けなきゃなあ。と思っていろいろ考えたんですが、2000年代から2010年代、平成後期の直木賞を語るうえで、この記者は外せないだろうという人がいますので、今週はそんな現役の記者のことで行きます。『読売新聞』文化部の村田雅幸さんです。

 村田さんはいまでも同じ部署で働いていると思いますが、とくに直木賞に関する「報道」を盛んに書いていたのは、直木賞第140回(平成20年/2008年下半期)ごろから約10年ぐらい、2010年代なかばごろまでです。つい最近です。

 ワタクシみたいな、出版業界に関わりのない一般シロウトは、直木賞のことといったらまず新聞記事で知る、というのが長年の伝統でした。それが徐々にインターネットのサイト、記事、SNSへと変わってきたのが2000年代から10年代。村田さんが直木賞報道の中核に出てきたのも、ちょうどその時期です。

 村田さんが報じる記事には、ワタクシもずいぶんお世話になりました。『読売』の特徴なのかどうなのか、この新聞にはやたらと文学賞を深掘りして解説する「文学賞好き」な記者が多い印象があり、村田さんもそういうなかで自然と文学賞報道の手練手管が磨かれたのか、巷で行われている文学賞――とくにエンターテイメント小説系の賞を、さまざまに切り取って記事にしていたからです。

 残念なことに、そういう新聞本紙に載った記事は、歴史の渦に埋没していきます。のちによっぽど文学賞好きな人が現われないかぎり、発掘されることもないでしょう。しかし村田さんの数ある仕事のなかで、確実に後に残るだろうという直木賞に関する業績がひとつあります。『オール讀物』平成26年/2014年2月号に載った「百五十回に何が起こったか」です。

 通常、1月の直木賞は中旬ごろに決まります。第150回(平成25年/2013年・下半期)であれば1月16日です。毎月21日前後が発売日の『オール讀物』に、その結果が出るのは翌2月の発売号(3月号)なわけですが、第150回のときだけ「緊急校了態勢で」(同号「編集長から」)、16日に決まった結果のみならず、会見の様子、朝井まかてさん、姫野カオルコさん2人の受賞者へのインタビューなど、かなりふんばって誌面に反映させ、1月売りの2月号に最新の直木賞ニュースが載りました。そんな事情を知らない全国にいる読者の多くは、ふーんと鼻クソでもほじりながら手にしたものと思います。

 それはそれとして、その特集に『読売』の村田雅幸さんが寄稿している、という点に注目しないわけにはいきません。直木賞にとってどれだけ文芸記者が重要なのか。彼らはいつも陰に隠れて、存在感を消していますが、直木賞と記者の深いつながりをしっかり読者に伝えたところが、この号の編集の勝利です。

 村田さんの文章は、もちろん直木賞のことを書いています。しかし、そこは優秀な人ですから、編集意図をきちんと汲み取って、「直木賞を報道する自分」に落とし込み、「第150回目の直木賞」を取材して報道している自分とはいったい何なのか、というところまで筆を伸ばそうと努力します。

「百五十回と百四十九回の違いは、区切りがいいか悪いかだけなのに、それでも人は、百五十回に価値を見出し、大騒ぎをする。

(引用者中略)

締め切りまで四十分しかない。(引用者中略)「何せ百五十回なのだから」。そんな気負い方をしている自分がなんだかおかしくなり、すっと楽になった。それからの四十分のことは、よく覚えていない。どうにか間に合わせ、一息つくころには、もうすぐ日付が変わろうかという時刻になっていた。そしてようやく、“お祭り”の余韻に浸ることができた。」(『オール讀物』平成26年/2014年2月号 村田雅幸「百五十回に何が起こったか」より)

 どうしてそんなことまでして文芸記者は直木賞に光を当てたがるのか。そこのところは、いまいちよくわかりませんけど、いちいち考えていても仕事にならない、ともかくいま目の前にある現象を手際よく記事にするのが、直木賞に向かうときの文芸記者の心根だ、ということは伝わってきます。

 そんな体力の消耗戦を、よくも何十年も続けられるよなあ、と感心してしまいます。よくよく文芸記者というのは、不思議な人種なんでしょう。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年8月29日 (日)

門馬義久(朝日新聞)。直木賞受賞前の久生十蘭に、ケンカ腰で連載を書かせる。

20210829

 あらためて告白します。ワタクシは直木賞が大好きです。何かを調べるときは「直木賞に関係するかどうか」から入ります。小説の愛好者からは邪道だと馬鹿にされ、作家志望の層からは単なるゴシップ漁りだと軽蔑されて、けっきょくどこに行っても仲間のいない孤独な日々ですけど、自分の好みは変えられません。仕方のないことです。

 で、今週の主役の門馬義久さんも、直木賞と深い関連はなさそうです。だけど、直木賞を調べていると、どうしたって目に入ります。存在感がハンパありません。

 たとえば、永井龍男さんに『回想の芥川・直木賞』(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊)という本がありますが、そこに異常なこだわり癖をもった作家として久生十蘭さんが出てきます。久生さんはあまりに文章表現にこだわりすぎて原稿の進みが遅く、さらには「原稿はもう出来上がっているんだ」などと言って担当記者を油断させておきながら、なかなか仕上がらず、編集者たちを困らせた……というのは有名な逸話なんだそうです。探偵小説の界隈では有名なんでしょう。こういうハナシも、ワタクシは直木賞(というか永井龍男さんの文章)を通して知りました。

 永井さんが披露しているのは、こんなエピソードです。

 『朝日新聞』に久生さんが連載中、担当記者が原稿を取りに鎌倉の家を訪ねると、すでに東京駅に「駅止め便」で送ったところだという。ところがこれが大ウソで、記者が東京の本社に行ってもそんなものは届いていない。あせった記者は、もう一度鎌倉に舞い戻り、一枚でも二枚でも頂かないかぎりは帰りません、と宣言。すると久生十蘭、何を血迷ったか奥さんに、しまっておいた機関銃を出せ、いまからこの男を撃ってやる、と言い放ったのだそうです。ムチャクチャです。

「子供だましにも程のある話だが、作り話ではない。当時久生十蘭係りを担当した。朝日文化部記者、M氏から直接聞いた実話である。腹は立つし、可笑しいし、M氏はその場の始末に困ったということだった。」(永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)

 と、ここに出てくる朝日の文化部記者M氏が、門馬義久さんを指しているのは明らかです。昭和26年/1951年『朝日』夕刊に連載された「十字街」の担当だった門馬さんは、この手の「久生十蘭に困らされた逸話」を、他にもいろいろなところで話しているからです。

 そちらを参照してみると、久生さんが困った作家なのはもちろんなんですが、対する門馬さんも大したタマで、かなり血の気の多いやりとりをしていたことがわかります。門馬さん、まだ30代なかばの若手です。それが50歳手前の久生さんと丁々発止、とにかく「連載の原稿をもらってくる」という自分の仕事に必死に邁進しています。

 機関銃のエピソードも、門馬さん本人が語るところでは微妙に永井さんの筆と違い、先に物騒な言葉で脅しをかけたのは、門馬さんのほうだったのだとか。

「朝、「すぐ出来る」というので紅ヶ谷の彼(引用者注:久生十蘭)の家へ出かけて行くととんだ出鱈目。「おっつけ出来る」と言うから上りこんで待つ。昼食が済んでもまだ出来ない。(引用者中略)いい加減じりじりしてくる。「出来た」というのを受け取って社へ出ようとすると「ちょっと待て」。「気になるところがあるから手を入れたい」というのである。

一日積りに積った鬱憤が爆発した。「もう駄目だ。原稿が間に合わなければ、社を辞め、女房子供連れてここへ住み込む、その積りでいろ、義秀(中山義秀)のとこで刀を借りてきて、ぶった斬る」とやった。すると十蘭は夫人に、「おい、押入から機関銃を持って来い」と来た。これには思わず大笑いしてしまった。」(平成13年/2001年2月・鎌倉山教会刊『トタン屋根の牧会者 鎌倉山教会と門馬義久』所収 門馬義久「思い出の人――山本周五郎――」より)

 おそらく長い記者生活のなかでも、久生さんとの攻防は強烈だった、ということなんでしょう。のちに「困らされた作家」を門馬さんが語るときには、持ちネタのひとつのように、たいてい当時の久生さんのことが出てきます。

 それとこの話を読んだとき、もうひとつワタクシの心に残ったことがあります。時代は「十字街」連載のときですから昭和26年/1951年。ということは、つまり久生さんは直木賞の受賞者ではなかった時期なんだな、という点です。

 門馬さんの回想に、そのことが書かれているわけではありません。ただ、夕刊とはいえ『朝日新聞』の連載に抜擢されるような作家は、ある程度、実績を積んだ人であることは間違いなく、そのあたりは1950年の頃も、まわりの人たちに共有されていたでしょう。

 それから約半年後に開かれた第26回(昭和26年/1951年・下半期)の直木賞選考会で、久生十蘭なんちゅう一家をなした作家に直木賞をやるのは賞の性格にそぐわない、と何人か反対して、選評にも「大家すぎる」とか「すでに人気を確立した人」とかさんざん言われました。その背景には、『朝日』連載に起用されたほどの作家、という感覚が選考委員のあいだにあったんだろうな、と推測が成り立つわけです。

 あまりの凝り性ゆえに、久生さんの直木賞受賞もこれほどに遅れてしまったのだ……というのは、ちょっと言いすぎかもしれません。しかし、久生さんが担当記者泣かせだった、というときに門馬さんの話は欠かせません。直接的にではないけど、直木賞の遠景に姿を見せる文芸記者、門馬義久さん。忘れがたく印象に残ります。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年8月22日 (日)

金田浩一呂(産経新聞、夕刊フジ)。芸能化する直木賞で、記者会見の代表質問を任された男。

20210822

 これまでたくさんの文芸記者が生きてきました。たいていは裏方で、ほぼ無名な人たちですが、「名物記者」と呼ばれる人がときどき現われます。

 「名記者」ではありません。「大記者」でもない。あえて「名物記者」と呼ばれるからには、それなりの特徴があるはずです。人柄がユニークとか、表舞台で目立つことも厭わないとか。どこかネジの外れた変人クラスの記者に付けられる称号。それが「名物記者」です。たぶん。

 直木賞のハナシを調べていても、こういう人たちはやはり目に付きます。名物な人は、記者活動だけに終わらず、いろいろと文章を残し、著書というかたちで後世の人間も一端を知ることができたりします。ありがたいです。金田浩一呂さんもまた、その文壇交流の一部を『文士とっておきの話』(平成3年/1991年11月・講談社刊)にまとめてくれました。

 と、この本のなかみを紹介する前に、まずは金田さんがいかに直木賞と縁の深い人だったか。そこから触れてみます。

 時は1980年代。金田さんも十分に(?)記者として実績を積んだ50代のころ。直木賞は、爆発と炎上の時代を迎えていました。硬い文芸書の売れ行きが凋落するいっぽう、人気が出るのはポップで軽いものばかり。その風に流された文学賞(直木賞とか芥川賞ですね)もまた、やたらと芸能化が甚だしくなっちゃって、とても見ちゃいられない、などと揶揄され、馬鹿にされた時代です。

 そんなタイミングで『新刊展望』に「文学賞の話」というシリーズ読み物の連載が始まります。書き手は『夕刊フジ』学芸部の記者、金田さんです。

 昭和57年/1982年1月号から昭和58年/1983年8月号まで全20回。毎号ひとつずつ文学賞のことを取り上げ、その創設経緯や歩み、裏バナシなどを解説していくという内容です。連載の第1回目が、直木賞じゃなくて芥川賞なのは、両賞に対する一般的な風潮が現われていて、もう「そりゃそうだよな……」とため息をつくばかりですけど、このときに金田さんは直木賞をどう紹介したか。ちょうど第85回(昭和56年/1981年・上半期)の発表から半年経たず、といったタイミングでしたので、とにかく話題は「直木賞(と芥川賞)の芸能化」についてでした。

 受賞者の記者会見が行われた。こんなことを毎回やって記者が集まるのは、直木・芥川賞ぐらいのものだ。しかも第85回は、青島幸男さんが直木賞をとったというので、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京と、在京キー局6つが取材に来た。これは、両賞史上はじめてのことだった。さらに大きな特徴は、翌日の新聞は一般紙よりもスポーツ紙の芸能面のほうがこの受賞を大きく扱った。これもまた、いままでにはなかった現象だ。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の石原慎太郎の芥川賞受賞が、この賞を社会現象化させたのだとすると、以来25~26年、いよいよ文学の芸能化現象にまで到達したのだ。うんぬん。

 まったくです。この段階で、暗くてジメッとした文学行事「直木賞」の命は終わった、とも言えるでしょうし、派手でチャラチャラした芸能ニュースとして直木賞の新たな命が始まった、と言っていいでしょう。楽しい世界の到来です。わーい。

 この状況を現場で逐一目の当たりにしたひとりが、金田浩一呂という人物だった。……というわけですが、金田さんの文章を読んでも、そこまで「芸能化」を悲観していないのは、この記者の特質かもしれません。それよりも金田さんが問題視していたのは、おそらく直木賞の「節操のなさ」です。

 いや。節操のなさ、というか、基準のあいまいさ、というか。何を選考基準に据えて、どういう目的で賞を与えるのか。あまりに茫漠として、まわりの文芸記者のみならず、当の選考委員たちさえ共通見解を持てていない。どうなっとるんじゃ。ということです。

 芥川賞は「作品」に与えられるのに対して、直木賞は「作家」が重視される……と、よく言われます。それなのに、直木賞にも「候補作品」があって、選考の前提はそれらの作品です。金田さんが取材に当たっていたときも、この不思議な状況のおかげで、何度も直木賞のおかしさに遭遇したものと思います。選考委員の城山三郎さんが、作品重視で行こうとして、作家重視の選考風土に合わず辞任した、なんてこともありました。

「作品一本ヤリの芥川賞と違い、直木賞はプロ作家としての実績も物を言うのではないか。少なくとも私などは、そう聞かされ、理解してきた。(引用者中略)

“作品”か“人”かは、いつも問題になる。勧進元の文藝春秋は、そこらをある程度まで、はっきりすべきだ、と思う。」(金田浩一呂・著『文士とっておきの話』「せっかちで勉強家(城山三郎)」より)

 ワタクシみたいに外野から遠目に眺めている分には、そこら辺がはっきりしていないからこそ、直木賞は面白いんじゃないか、と感じます。しかし、賞の当落で生まれる人間模様を見たり、じっさいにそこに関わる人たちと個人的な付き合いも重ねてしまった文芸記者は、面白がってばかりもいられないのでしょう。いつもモヤモヤした感情を、周囲に抱かせる。直木賞の、ほんとイケないところです。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年8月15日 (日)

笹沢信(山形新聞)。元・芥川賞信者。年を経て直木賞受賞者の評伝を書いた人。

20210815

 新聞の文芸記者にはいろんな人がいます。当たり前です。東京に本社がある、いわゆる「全国紙」と呼ばれる新聞だけが、記者の職場ではありません。少し他の地方のことにも目を向けてみたいと思います。

 直木賞もそうですし、芥川賞なんかはもっと強烈ですが、この二つの賞は「東京とそれ以外の地方」という地域的な文学環境が日本でどのように変化し、発展(ないし衰退)してきたのか、という社会的なテーマをはらんだ文学賞です。単に、受賞者にどの地方出身者が多いか・少ないか、みたいなことだけじゃなく、東京を中心とする文芸出版で生まれた権威性が、各地域に伝播して受け取られるうちに、やたらと羨望されて持ち上げられ、実質以上のブランド力を得ることになっていく、という問題もあります。

 それはそれとして、「日本各地における直木賞の受容の歴史」は、また改めて調べていきたいところですが、今日はひとまず山形の、一人の文芸記者のことを取り上げます。昭和の半ばから『山形新聞』で文芸記者として活躍したあと、退職してから山形出身の有名な直木賞受賞者について、評伝を2冊も書いてしまった人。笹沢信さんです。

 笹沢さんには、井上ひさしさんのことを書いた『ひさし伝』(平成24年/2012年4月・新潮社刊)と、それから『藤沢周平伝』(平成25年/2013年10月・白水社刊)があります。平成26年/2014年4月に亡くなったあとには、遺稿的な扱いで『評伝 吉村昭』(平成26年/2014年7月・白水社刊)も出ました。

 吉村昭さんは直木賞とは少し距離がありますけど、妻の津村節子さんが直木賞の候補者になった辺りのハナシは吉村さんとも無縁ではなく、評伝のなかには当然「直木賞」の文字も出てきます。そもそも吉村さんは、純文学の作家とは見なせるでしょうけど、芥川賞の人でないことはたしかですし、オール讀物新人賞、新田次郎文学賞、吉川英治文学賞の選考委員にお声がかかったところを見れば、直木賞寄りの(「大衆文芸」寄りとは違う)作家だとも思えます。

 ともかく、井上ひさし、藤沢周平、吉村昭。……と、全国区のビッグネームすぎる作家を、晩年になってわざわざ執筆の対象に選んだところが、笹沢さんの大きな特徴です。それぞれの作家の履歴と作品のなかに、山形という地域がどれだけ影響を及ぼしたか、ということを手をかえ品をかえ差し挟んでくる技が、山形人・笹沢信の腕の見せどころで、また読みどころでしょう。

 しかし、それとは別に、これらの評伝3作には、隠しがたい笹沢さんなりの屈託が出ています。ワタクシにとってはそこが最も興味惹かれる部分でした。というのも笹沢さんは昭和40年/1965年~平成10年/1998年に『山形新聞』の文芸記者を務めながら、同時に自分でも創作を志す同人誌作家だった、ということです。昭和30年代後半以降、ひさし、周平、昭の小説が続々と書かれ、出版界を賑わせた時期、大学生から社会人になっていった笹沢さん自身は、ひとりの文学青年として三者の作品に接していた、と言います。

 大学時代は同人誌に参加し、そこでは芥川賞の季節になると、候補作の発表と同時に作品を取り寄せて、みんなで受賞作を予想する賭けをした(『評伝 吉村昭』「はじめに」)なんて回想もあって、これがだいたい60年ぐらい前の昭和30年代後半です。いまも、1月と7月には、ネット上でいろんな人が予想記事を出していますが、ああいうのは半世紀以上まえからやっている人たちがいたんだ、日本の文学賞予想文化って、けっこう奥深いんだな、と正直ヒいてしまいます。

 それぐらいならまだいいんですけど、笹沢さんの黒歴史はそんなものじゃありません。芥川賞至上主義だった己の過ちを、こんなふうに振り返っています。

「わたしにも、文学は〈純文学〉であらねばならぬ、という〈信仰〉に囚われていた時期があった。「芥川賞にあらずんば……」である。直木賞となると敬遠する、というより無視する傾向にあった。愛読していた立原正秋や五木寛之の初期の作品が直木賞を受賞したときは憤慨さえ覚えたものだ。周知の通り、ひさし(引用者注:井上ひさし)は直木賞作家である。」(笹沢信・著『ひさし伝』より)

 井上さんの直木賞受賞は昭和47年/1972年上半期。立原さんや五木さんの受賞は、それより5年ぐらい前のことです。ふうん、昭和40年代っていうのは、そういう文学青年が跋扈していたんだよね、時代だよなあ、と、ここは軽く受け流す記述なんでしょう。

 だけど、正直いってワタクシは腹が立って仕方ありません。こんな文学かぶれのキモい信者が、当時、若手の記者として平気な顔して新聞をつくっていたというのです。直木賞は無視してもいいんだ、程度の認識で文学なるものをとらえる視野の狭いアホめが。何が「憤慨さえ覚えたものだ」だ。それを言いたいのはこっちだよ。

 ……まあ、昔の笹沢さんに怒ったって何の解決にもなりませんね。すみません。おそらく笹沢さんもその後、記者として働くうちに自分の未熟さを反省し、直木賞の先見性や意義について見直してくれた、とは思うんですが、あまりそういう気配が著作物から伝わってこないのが残念です。

 それでも、直木賞に何ひとつ興味がなかったはずの笹沢さんが、晩年にいたって、けっきょく直木賞受賞者を評伝を書くにいたったその心境や、出版状況の変化が面白いのだ、と言いたいと思います。全国の文学青年に馬鹿にされながら、それでもめげずに、コツコツ積み上げてきた直木賞の苦悩の歴史が、笹沢さんのバッグに透けて見えるからです。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年8月 8日 (日)

笹本寅(時事新報)。作家たちに愛されて、文学史の一大事に居合わせる。

20210808

 直木賞に名が残る直木三十五さんとは、いったいどんな人だったのか。これはもう、けっこういろんな人がいろんな文献で紹介しています。この程度の作家にしては語られすぎだろ、というくらいです。

 作品の内容はともかく、直木って人はいくら語っても尽きないほどに面白い人だったんだな、ということかもしれません。直木さんの特徴といえば、何よりもまず、その人物の特異さです。それが、昭和初期にほんの数年で新聞・雑誌にドバーッと活躍の場を広げて流行児になった、大きな理由なんじゃないかとさえ思います。

 ともかく直木さんは人から愛されました。というか、まわりの人から面白がられました。作家、評論家、編集者……。そして、もちろん、そこに新聞記者も含まれます。ということで今日は、直木賞の前史、直木さんが生きていた頃に文壇と併走していた文芸記者のおハナシです。

 とくに直木さんの周辺にいた文芸記者のなかで、仲のよかった5人グループがあります。それぞれ別の新聞社に勤めていましたが、おれたちゃ署名なしの原稿もたくさん書くけど、それじゃどうしても責任感が稀薄になる、自分たちの名前で雑誌を出すことで、もっと責任をもって勉強していこうじゃないか……と話し合って、昭和8年/1933年夏に、雑誌発刊の計画を立てた若き文芸記者の面々。報知新聞の片岡貢、東京朝日新聞の新延修三、読売新聞の河辺確治、都新聞の豊島薫、そして時事新報の笹本寅さんです。

 とりあえずその全員、重要人物ですので、折をみて順次取り上げていきたいと思いますが、今週注目するのは、のちに直木さんばりの歴史物・時代物を書いて大衆作家となり、そのなかの一冊『維新の蔭』が第9回(昭和14年/1939年上半期)直木賞の予選で審議されたことがわかっている人。時事新報にいた笹本寅さんです。

 笹本さんの直木さんに対する肩入れぶりは、ちょっと異常に思えるほどで、相当その人柄に惚れ込んでいたようです。昭和8年/1933年12月、笹本さんは時事新報を退社、これはほとんど社のやり方に反対する意をこめた、辞表を叩きつけるテイの退社だったみたいですが、ここにも直木さんが絡んでいます。

 「時事新報退散記」(昭和9年/1934年3月・橘書店刊『文壇手帖』所収)によると、回数の制限はない、という条件で直木さんに連載小説を依頼し、「大阪落城」を書いてもらっていたところ、急に社の都合で「中休み」をお願いしたい、となったとき、最初の約束をたがえるようなことを言い出すわけにはいかない、もし直木さんの連載を終了させなければならないのなら、私は担当記者として詰め腹を斬ります、と義理を通して、けっきょく時事新報を辞めるにいたったそうです。

 美しいと見るべきか。アホらしいとあきれるべきか。わかりませんけど、義理と仁義こそ、たしかに笹本さんの人となりを示すトレードマークです。

 別の言葉で、大宅壮一さんはこんな笹本寅評を書いています。

「私が『人物評論』という雑誌を始めるころで二十年も前のことである。

大衆作家の笹本寅は、当時『時事新報』の文芸部の記者だった。(引用者中略)笹本は、新劇俳優の草分けの一人として知られた笹本甲午の弟で、若いころはサトー・ハチローなどとともに浅草を根城にした仲間である。気だては悪くないがけんか早い。それに人相もあまりよくない。」(昭和31年/1956年10月・角川書店刊、大宅壮一・著『人生旅行』所収「旅の相棒物語」より ―引用原文は『大宅壮一全集第七巻』)

 「気だては悪くないがけんか早い」……というのは、当時もいまもよく見る類いの人種です。そして、こういう人ほど、まわりから愛されるのが、この世の習いでしょう。喧嘩っぱやさゆえに、笹本さんはきちんと給料をもらえていた時事新報社を、わずか勤務3年たらずで辞め、文芸記者稼業からも短期間で足を洗うことになりますが、人から可愛がられ、面白がられる性格のせいか、その後も文芸界に踏みとどまって、多くの仕事を残しました。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年8月 1日 (日)

澤野久雄(朝日新聞)。文芸記者やりながら作家として売り出し、一気に芥川賞も卒業。

20210801

 新聞社に勤める文芸記者が、自分でも小説を書いた、という例はよくあります。

 すいません。言いすぎました。昭和20年代から30年代は、新聞記者が本業のかたわら小説を書いて、直木賞やら何やらの候補になるケースがけっこう生まれた、そのなかに文芸担当の記者も多少含まれていた……と言い直します。

 21世紀のいまとなっては、遠い昔のハナシですね。新聞記者と小説家、もとをたどれば同じ穴のムジナ、という状況がまだ十分残っていた戦後まもない頃に、朝日新聞で文芸記者をしながら小説を書いたのが、澤野久雄さんです。

 その後、次から次へと小説を書きまくり、昭和の中盤に作家専業になって、川端康成の劣化コピーだ何だと揶揄されながら(……いや、されたのか?)一家をなした人です。平成4年/1992年に亡くなったので、来年で没後30年。もはや名前を聞くこともすっかり絶えて、完全に消えた作家となってしまいました。

 しかも残念なことに、澤野さんは直木賞とさほど関わりがあったわけじゃありません。うちのブログで触れるのはスジ違いなんですけど、しかし直木賞ならぬ芥川賞とは、強いつながりもあるし、その作家的履歴を見れば直木賞とカスっている、ということで、このまま続けることにします。

 澤野さんが小説家として初めて注目されたのは昭和24年/1949年のときでした。藤沢桓夫さんのまわりでつくられていた大阪の同人誌『文学雑誌』に「挽歌」を寄せたところ、思いがけず第22回(昭和24年/1949年下半期)芥川賞の候補になります。

 いつかうちのブログで吉井英治さんのことを取り上げました。この人も『文学雑誌』同人で現役の新聞記者でしたが、第23回に直木賞の候補入り。それを考えると澤野さんも、別に直木賞候補でもおかしくなかったと思います。しかし王道どおりと言いますか、まず芥川賞のほうで候補になってしまったのが、残念でなりません。

 いわゆる人生の別れ目、ってやつです。澤野久雄37歳。

 そこで直木賞の候補になっていたら、いったいどんな未来が待っていたのか。「挽歌」を候補作として読んだ芥川賞選考委員の川端康成さんから、じきじきに手紙をもらうこともなければ、文芸誌から注文が舞い込むこともなく、その後も文芸記者として職務をまっとうし、影から文壇と文学を語る人として生を終えたかもしれません。

 仮定のハナシをしても仕方ないので、現実世界に目を向けます。澤野さんが芥川賞の候補になったのは、第22回を始め、第33回までに都合4度。昭和20年代後期のことです。直木賞(というか芥川賞)の歴史としては、「石原慎太郎登場以前の、原始の時代」と言われます。

 しかし、澤野さんが異常だったのは、彼自身が文芸記者をしていたことです。いくら「直木賞・芥川賞は、騒がれてなかった」と言っても、文芸記者にとっては常識も常識、第22回の芥川賞は井上靖がとりそうだ、と事前に何となくわかっていましたし、第28回のときは、報道発表より先に受賞情報をつかんで、妻に話したりしています。

 何よりこの当時、まわりの人たちが芥川賞のことをヤイノヤイノと話題にしていた、と当然のように書き残していて、驚きます。

「僕は(引用者注:昭和27年/1952年)当時、神奈川県大磯町に移つていたが、問題は僕一人のことではなくなつて来つつある。妻は近所の人たちから、「芥川賞候補になつている澤野さんというのは、お宅の御主人ですか?」という質問をうけるようになる。

(引用者中略)

芥川賞候補にさえならなければ、人からとやかく言われる筋はない。堅実なるサラリーマンであれば、なおさら平穏無事である。僕が物を書くばかりに、妻は近隣から、余計なことを言われなければならない。(『新潮』昭和34年/1959年3月号 澤野久雄「私設・残念賞」より)

 一般読者が興味をもつ前(と言われる)原始の時代に、文学賞を支えていた最大の援軍は文芸記者たちでした。そのなかに澤野さんもいたから、おのずと隣近所の人たちも、文壇行事にすぎない芥川賞に、目ざとく注目していた……と思えなくもありません。しかし、けっこう大磯の人たちは、一般的な覗き見趣味の延長で、芥川賞の候補まで知っていた、とも読み取れます。慎太郎より以前であっても、局所的には芥川賞は普通のニュースレベルで知られていたのかもしれませんね。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年7月25日 (日)

重里徹也(毎日新聞)。「文学」が好き、「文学賞」もたぶん好き。

20210725

 『芥川賞・直木賞150回全記録』(平成26年/2014年3月・文藝春秋/文春ムック)という本があります。

 いろいろと見どころが多く、こういうのが160回、170回……と5年に1度ずつぐらい出ると、直木賞だけを楽しみに生きているワタクシみたいな人間にはありがたいんですが、そんな異常者はたぶん少数でしょう。次にお目にかかれるのは、第200回記念のときでしょうか。2038年下半期の第200回直木賞、それまであと17、18年。こっちもいつ死ぬかわかりません。そのときも、まだサイトを続けられていたらいいな、と思います。

 それはともかく、このムックです。受賞者の履歴やエピソードがだらだら並ぶだけ、みたいな駄本じゃありません。けっこう豊富に、読み物のページが混じっています。とくに、ここでしか読めない記事があるところに、直木賞マニアとしては心をつかまれますが、「芥川賞・直木賞150回 受賞の現場から」というテーマでエッセイを書いているのが、ベテラン文芸記者4人。こういうところからも、直木賞と文芸記者との親密な関係性を感じられる仕掛けになっています。

 そこで寄稿者に選ばれたのは、重里徹也さん、小山鉄郎さん、由里幸子さん、尾崎真理子さんの面々です。いずれうちのブログで取り上げたい人ばかりですが、とりあえず今週の主役は、重里さんひとりに絞ります。『毎日新聞』で長年スター記者(?)に君臨したのち、いまも現役の評論家として文芸業界に関わっている方です。

 と、重里さんのことに行く前に、「受賞の現場から」エッセイについて、ひとつだけ。

 各社の名のある文芸記者が4人。おそらく具体的なエピソードは、それぞれが自分の判断で選んだものだと思います。ふつうに考えれば、直木賞と芥川賞、2つを扱うムックなんだから、エピソードも両賞公平に2対2になりそうなもんですけど、現実は、芥川賞の受賞を語った記者3人に対し、直木賞は1人。……何なんだよ、馬鹿にしてんのか、オメーら。と脱力する他ありません。これから初めてこの本を見る、という直木賞ファンの方がいましたら、ショックで膝から崩れ落ちないよう、ご注意ください。

 数多くの取材体験をもつはずの重里さんが、このムックのために選んだエピソードも芥川賞のことでした。自身が毎日新聞社の福岡総局で文学・芸術担当だった頃に取材した第114回芥川賞の又吉栄喜さん「豚の報い」に関する事柄です。

 たしかに重里さんは、直木賞にまつわる話題も『毎日』紙上で数多く記事にしましたけど、エンタメ志向よりも文学志向が強い人なんだろうな、と思います。「文学の力」(!)みたいなことを、平気で文章に書ける感性の持ち主ですから、何かしら文学に強烈な憧れと信頼があるようにうかがえます。いや、直木賞に対して、ほんとにあるのかないのかわからない文学的なるものを、勝手にあると信じて接する、文芸記者としてはなかば優等生的な感覚を持っていた……と言い直しておきましょう。

 およそ重里さんが現役の文芸記者として直木賞を伝えてくれたのは、1990年代から2000年ゼロ年代。回数でいうと、第110回(平成6年/1994年下半期)前後から第140回(平成21年/2009年下半期)前後です。文芸記者の世代で見れば、藤田昌司さんあたりの次か、次の次、ぐらいでしょうか。

 90年代から00年代、「文学」を標榜する芥川賞のみならず、それまで「ナンチャッテ文学」で生きてきた直木賞のほうも、さまざまな文芸ニュースに見舞われます。ミステリーの席捲、純文学とエンタメのクロスオーバー、横山秀夫『半落ち』事件のゴタゴタ、売上重視の本屋大賞設立、などなど……。

 そのままだと文芸界隈は経済的にも立ち行かなくなりそうな縮小期です。自分の若いころにはあんなに豊潤で勢いのあった(ように見えた)文学が、ああ、馬鹿にされ無視されていくのが耐えられない! と感じる世代なのかもしれません。そのなかで、たまさか文芸記者として働くからには、文学はスゴイと持ち上げ、文学賞の果たしてきた役割は大きいと賛辞を送る。その土壌のうえで取材活動、執筆活動をおこなったのは、人として当然のことと思います。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年7月18日 (日)

豊田穣(中日新聞、東京新聞)。『東京新聞』への出向で、ぐっと直木賞に近づいた人。

20210718

 新しい直木賞が決まりました。これまでと変わらず今回も、文芸記者の活躍が目立つことなく、粛々とこなされたイメージがありますが、しかし注視してみると、決定直後の選考委員の声が広く世間に伝わったのは、林真理子さん本人でも、主催者でもなく、文芸記者がきちんと仕事をしたからです。暑いなか、お疲れ様でした。

 で、ブログも平常に戻りますけど、直木賞は80年以上やっているので、これまでいろんな事件が起こりました。たとえば、いまテーマにしている「文芸記者」に関する話題でいうと、文芸記者が受賞してしまったことすら、あるぐらいです。もう何でもアリです。

 第64回(昭和45年/1970年・下半期)受賞者の豊田穣さんのことは、以前もブログで取り上げたかと思います。何といっても受賞が決まった瞬間に日本におらず、遠くイラクのホテルで報を聞いた……というおもしろエピソードの持ち主ですし、長年こつこつと同人雑誌に書いていることが評価されて、大衆文芸を対象にするはずの直木賞をとっちゃった画期的な小説家、と言っていいでしょう。

 でも、豊田さんの特徴はそれだけじゃありません。直木賞におけるジョー・トヨダの特異性といって、忘れちゃいけないのが、これ。現役の文芸記者だったことです。

 先日のエントリーで、時事通信の藤田昌司さんが、直木賞の記者会見にテレビや週刊誌が入り込んできて格調がなくなったよな、うんぬん、とジジくさいことをヌカした文章を紹介しました。そのとき引用しなかった箇所に、豊田さんの名前が出てきます。

「思い出すのは、生島治郎氏が『追いつめる』で直木賞に選ばれた時である(四十二年上期)。ひと通り代表質問が終わった後、各自が聞きたいことを聞き始めた。その時、

「今度の受賞作はどんな内容か、粗筋を教えて下さい」

と切り出した記者がいたのだ。これには生島氏も当惑したが、小生もびっくりした。が、その時すかさず、

「いや、それはいいよ」

と、横から質問をさえぎった記者がいた。後に直木賞作家となった豊田穣氏、当時東京新聞文化部記者だった。さすが、と小生はそのボス振りに脱帽したものである。」(『新聞研究』昭和61年/1986年2月号 藤田昌司「文化部記者の今昔」より)

 なるほど、受賞者に記者がアホな質問を繰り出す現象は、べつに最近になって急に生まれてきたわけじゃない、とわかる微笑ましい(?)記録ですね。ともかく藤田さんのような年代の人から見て、さらに先輩の豊田さんみたいな記者が、会見の「格調高さ」を支えていたそうです。

 直木賞にからんだハナシでいうと、同賞候補者の津村節子さんも豊田さんのことを書いています。時はいまから60年以上まえの第41回(昭和34年/1959年・上半期)、直木賞で津村さんが、芥川賞で吉村昭さんが予選を通過したものですから、何と夫婦で候補!という珍しさから、たくさんの取材申し込みがあったそうです。

 結果どちらも受賞しなかったんですけど、そのときに豊田さんが取材した記事について、津村さんはこう振り返っています。

「その中で、東京中日新聞文化部の豊田穣氏のインタヴューは、賞と関係なく夫婦作家に焦点をあてるということで、落選後紙面に、大きな写真入りで好意溢れる記事が載った。のちに豊田さんは昭和四十五年下半期「長良川」で直木賞を受賞された。小説を書く人であったから、候補者の気持が汲み取れたのだろう。」(平成20年/2008年7月・岩波書店刊、津村節子・著『ふたり旅 生きてきた証しとして』より)

 小説家だから候補者の気持ちがわかるのか。いや、もともとそういう感性の持ち主だから小説を書こうなどと思うのか。どちらなのかわかりませんけど、豊田さんが記者で糊口をしのぎながら同人誌で作品を書き続けた日々は、けっして光の当たる栄光の時間だったわけではなく、妻の死にうちひしがれ、小説は売れず、文学賞からも遠くなり、ヤサぐれた状況だった、と豊田さんは言っています。直木賞が賞をあげたからよかったようなものの、そうじゃなかったら……と想像するだけで暗然としますが、文学賞を受賞した人だろうが落ちた人だろうが、なるべくフラットに昔のエピソードを掘っていきたいな、と思うところです。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2021年7月14日 (水)

第165回直木賞(令和3年/2021年上半期)決定の夜に

 ウイルスの感染拡大を食い止めようと、いろいろな施策が行われています。やり始めてから結構たちます。直木賞でも一年前の第163回(令和2年/2020年上半期)から対策につぐ対策のなかで、今日7月14日、第165回(令和3年/2021年上半期)選考会の日を迎えました。今度もまた緊急事態宣言下だそうです。

 それでは、以前の第162回(令和1年/2019年下半期)までに比べて、受賞傾向にどんな違いが出てきたのだろう。と気にならないでもありません。だけど、そういう難しい分析は、誰かにお任せします。世のなかには、コジツケのうまい評論家やライターがたくさんいますので、誰かがスパッと胸のすくような記事を書いてくれるでしょう。

 ワタクシはコジツケが下手ですが、しかし今日の夕方、直木賞が決まったことはわかります。世間一般がどう受け止めたのかはわかりません。ただ、とりあえず直木賞っていうのは、候補作を読んでいる時間がボルテージのマックスだなあ、という実感は、前回までと何ら変わらないことはわかります。

 ということで、個人的な感謝の気持ちをこめて、直木賞候補になることをイヤがらずに受諾してくれた5人の方々に、今回もまた、忘れずに御礼を。どうもありがとうございました。

 一穂ミチさんが候補になってくれたおかげで、これまで「ケッ、ナオキショウって何だよ」と見向きもしなかった多くの人たちが、ふっと直木賞を振り返ってくれたのは間違いありません。そういう意味では、『スモールワールズ』の各編を書かせた編集者とか、予選を通過させた文春の人たちの手柄かもしれませんけど、今回の候補入りを経て、いつか直木賞が、一穂さんのすべてを抱きしめられるようなフトコロの深い賞になってくれればいいな、と将来への夢が広がりました。今後また直木賞が近づいてくることもあると思います。イヤがらずにお相手してくださると、うれしいです。

 ひとり、またひとりと絶え間なく現れる時代小説の新鋭たち。そのなかでも、砂原浩太朗さんの『高瀬庄左衛門御留書』には参りました。マジかよ。もうほとんど直木賞受賞作の貫禄じゃん……。上がいろいろとツカえているうえ、一作候補に挙がっただけじゃまだまだじゃな、という古い因習がはびこる賞なので、今日の結果は仕方のないところでしょう。砂原さんにはきっとリベンジマッチが組まれるでしょうから、そのときは、じわじわと選考委員の首を真綿でしめて完全勝利してください。

 リベンジマッチといえば、呉勝浩さんです。どう見てもひとつふたつ、文学賞がとれなかったところで、下を向くような人ではないと信じています。『おれたちの歌をうたえ』、今回のパンチも強烈でした。次は仕留めてくれるでしょう。直木賞はどうか知りませんが、ワタクシ個人的には、読み終わって頭がフラフラしています。呉さんのパンチで、快感に酔いしれています。

» 続きを読む

| | コメント (0)

«「文芸記者・直木賞」(令和3年/2021年上半期)。直木賞関連の新聞記事と担当記者に対して贈られる賞。