2021年11月28日 (日)

河辺確治(読売新聞)。直木三十五の死のそばにいた、善意にみちた新聞記者。

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 直木三十五さんの売れっ子伝説に加担した、取り巻き文芸記者五人衆。すでに笹本寅さん片岡貢さんを取り上げました。三人目はこの人、河辺確治さんです。

 歴史的にみて『読売新聞』には名物記者(あるいは奇矯な人材)の出てくる土壌があります。なぜなのか、よくわかりません。それが企業風土ってもんかもしれませんが、昭和9年/1934年から始まる文学賞時代の、はじめのほうにも『読売』には存在感ある記者がいました。それが河辺さんです。

 存在感ある、というのは、語弊がありました。とにかく変わった記者だった、と大草実さんは振り返っています。

大草 河辺(引用者注:河辺確治)っていうのは、何も書かない新聞記者だった。こいつは偉かった。そのかわり、本当に度胸があったな。人が好くて。

萱原(引用者注:宏一) あれ、書かなかったの? 河辺は。

大草 ようやく、ちょっと書くぐらいでね、何も書かなかった。

(引用者中略)

大草 美男子じゃなかったが、おっとりしていた。

萱原 それで口数が少ない。

大草 新聞記者らしくは絶対ない。」(『経済往来』平成1年/1989年5月号「続・老記者の置土産(9) 昭和新聞人評論家の百態」より)

 そんな河辺さんは、笹本寅、片岡寅、新延修三、豊島薫といった他社のライバル記者たちと気が合って、昭和8年/1933年から自分たちの雑誌をつくろうと画策。途中で直木さんが、おれも雑誌をやろうと思っていたんだ、おれが金を出すからいっしょにやろうぜと割り込んできて、『日本文藝』創刊直前まで行った……というのは、すでに触れた話です。その関係からか『衆文』昭和9年/1934年4月号の直木追悼号には、五人それぞれが追悼文を寄せています。「何も書かない記者」河辺さんといえども、さすがに直木さんの死に接して、無言を通すわけにはいかなかったようです。

 その追悼文「人間的な魅力」によると、いっとき小林多喜二さんとツルんでいた河辺さんは、小林さんに直木さんを会わせたことがあったんだとか。小林さんの上京が昭和5年/1930年なので、その辺りのことでしょうか。小林さんは直木さんと何やら議論っぽく語り合ったあと、別れるなり河辺さんに「直木って面白い男だね」と言ったそうです。

 河辺さんって、小林さんからも、直木さんからも、よく好かれた人だったんだな。とわかるエピソードですけど、先に取り上げた笹本さんや片岡さんとは違って、この追悼文からは河辺さんの蔭日向ぶりが伝わってきます。我が強くない、と言いますか。前面に立とうとしない、と言いますか。まるで自分の思想も立場も打ち出さず、ただまわりを見守っている。大草実さんに言わせれば、それが「新聞記者らしくない」ところなのかもしれません。

 人付き合いはいいけど、仕事は何をしているのかわからない。酒場に行けば、いつもニコニコしながらそこにいる。会社のなかでは可もなく不可もなく、年功序列のレールに乗って出世する。晩年の直木さんを取り囲んだピリピリとした雰囲気のなかに、なぜ彼も加わっていたのか。不思議なくらいです。

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2021年11月21日 (日)

川合澄男(学芸通信社)。直木賞を活用して直木三十五の追悼忌を復活させる。

20211121

 川合仁さんと来たら、次はだれか。そりゃ川合澄男さんを措いて他にはいません。

 直木賞に縁が深いのは、仁さんよりむしろ息子の澄男さんかと思います。このかたも「文芸記者」と見るのはけっこう違和感がありますが、新聞メディアとともに生きた人です。父・仁さんのあとを継ぎ、文化・学芸に関する記事(小説も含む)を用意して全国の新聞社に配信することでお金を得る、というなかなかの虚業を盛り立てて生涯をまっとうしました。

 交流のあった作家や評論家は数知れず。なかには直木賞をとる前の人とか、とった後の人とかもいて、いろんな作家の「直木賞エピソード」を傍らで見ていた人です。

 そもそも川合さん自身が直木賞(というか直木三十五さん)とは異様なパイプで結ばれています。「直木三十五との奇縁」(『大衆文学研究』96号[平成3年/1991年])で川合さんが書いているところですが、ざっくりまとめると、父の川合仁さんが始めた新聞文芸社で、第一回配信の「妖都」(三上於菟吉・作)につづいて第二回配信の連載小説を担当したのが直木三十五。作品は「正伝荒木又右衛門」です。それの原稿の受け取りに、妊娠中だった仁さんの妻・千代さんもたびたび出向いた、とのことで、胎内ですでに澄男さんは直木さんと会っていたことになります。

 幼い頃に澄男さんが住んだ吉祥寺の家には、隣に直木さんと別れた佛子須磨子さんが住んでいた。とか、後年、立風書房で直木さんの『由比根元大殺記』などを復刊するときには澄男さんも協力した。とか、そういう縁を得て、やはり何といっても澄男さんの最大の功績は、いまもつづく「南国忌」の礎を築いたことでしょう。

 もとをたどると昭和51年/1976年。直木賞でいうと第74回(昭和50年/1975年下半期)に佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』が選ばれ、第76回(昭和51年/1976年下半期)三好京三さん『子育てごっこ』が選ばれる直前のころです。中間小説誌は全盛を迎え、出版界も高級なものから低俗なものまで、下手な鉄砲のようにあらゆる種類の書籍・雑誌が出て、気色わるいほど賑わっていました。ちなみに芥川賞に村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』が選ばれたのが、ちょうどこのころ、昭和51年/1976年7月。50万部だ100万部だと、受賞作が馬鹿みたいに売れ、チリ紙のように捨てられた、そんな時代です。

 この年に澄男さんは「よこはま文化苑」という集まりに入会し、そこで企画された「直木三十五墓前祭と文芸講演会」に参加します。あれだけ隆盛を誇った流行作家・直木三十五。いまもなお直木賞というよく知られた文学賞の名前になっている。なのに、横浜市富岡にあるお墓に詣でる人は少なく、朽ち果てている。みなさん、彼の魂をなぐさめ、また自分の魂を高めるために、直木の墓前に集まりましょうよ。ということで、第一回の墓前祭が開かれます。直木賞はよく知られている、なのに直木三十五は忘れ去られて久しい、というのは、それから50年近くたったいまでも、直木さんを語るときの常套句です。

 そのころは、直木さんの墓石は富岡・長昌寺の裏山、ガケぎわの木陰にひっそりとあって、山道を歩いていくのにも危険があった、ということですから穏やかではありません。誰もが顧みなくなった大衆作家の墓としては、それはそれでお似合いだった気もしますけど、澄男さんをはじめとして、せっかく墓前祭もやることだし、もっと安全な場所にお墓を移してはどうか、という意見が持ち上がって、募金を集めたり、もろもろ面倒な諸事を乗り越えたすえに、昭和57年/1982年9月19日に新墓所完成の記念行事を開くまでに至ります。最初の墓前祭から6年がたっていました。

 ここで偉いなと思うのは、日本文学振興会とか、直木賞の受賞者たちに積極的に声をかけて、新墓所の改修やそれにつづく「南国忌」の発足を実現させたところです。

 直木賞と直木三十五。両者のつながりは、そこから名前を採ったというだけのことで、もはやまったく別モノです。現実はそうなんですが、しかし直木さんの墓所を無理やりにでも直木賞という威光・ブランドに結びつけ、講演者として直木賞受賞者にも臆せず声をかけるうちに、身内の胡桃沢耕史さんがついに受賞をもぎとって、ますます大にぎわい。今年2月は、新型コロナ感染拡大の影響でいったん休止となりましたが、それでも毎年毎年、100名以上の参集者を呼べるイベント「南国忌」を続けている、その始まりに川合澄男さんたちがいたのは大きかった、と思います。

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2021年11月14日 (日)

川合仁(新聞文芸社、日本学芸新聞)。文学賞のことを細かく報じる学芸専門紙をつくった人。

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 直木賞は文藝春秋社がつくったものですが、『文藝春秋』や『オール讀物』だけ追っていても全体像はわかりません。

 いや、間違えました。直木賞の全体像が何なのか、ワタクシも知っているわけじゃないので、「全体像はわかりません」などと偉そうに断言してはいけませんね。文春の出版物をまとめても、それで直木賞の全部がわかるわけじゃない。と、そんなふうなことを言いたかっただけです。

 とくに戦前の直木賞は、文春のなかでも影の薄い存在でした。調べれば調べるほど泣きたくなってきます。となると、よその文献で補っていくしかありません。そんなときに頼もしいのがこれ。『日本学芸新聞』です。

 同紙は昭和10年/1935年11月5日の創刊号から昭和18年/1943年7月1日の第155号の終刊まで、復刻版が不二出版から出ています。直木賞やもうひとつの兄弟賞はもちろん、その当時ぞくぞくとつくられては消えていった悲しき短命の文学賞のことも報じられていて、一般紙を見てもよくわからない文学賞隆盛の時代が刻まれています。この唯一無二の文学賞文献を発行していたのが、川合仁さんです。

 紙面全体をながめてみると、かなり硬派なたたずまいです。文学賞なんちゅう下品な話題ばかり載せていたわけではありません。しかし、文芸とその界隈のことをジャーナリスティックに報道しようという意気が熱く、そのおかげで他ではあまり見かけないような文学賞の記事がいろいろ見当たります。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年・上半期)の芥川賞で、受賞と決まった高木卓さんが辞退した、という有名なニュースの一件です。

 『日本学芸新聞』の記者も高木さんを直撃して、その談話を記事にしているんですが(第91号、昭和15年/1940年8月10日「芥川賞拝辞の弁 高木卓」)、「此辞退は芥川賞の権威とそれを狙ふ新人作家の反省に複雑な波紋を投げるものと信ずる。」とか何とか大いに煽ったうえで、高木さんに「なぜ辞退したのですか。学校の方の関係ですか?」「生活がさし当って困らないからですか?」「しかし、委員会で授賞に決定したといふのにそれを受けてゐないのは却って委員会乃至は芥川賞を冒涜することになりはしませんか?」などなど、やたらとぶしつけな質問をして、高木さんからコメントを引き出しています。高木さんが紳士な方だったからよかったものの、うるせえよ、何が権威だくだらねえ、と突っ返されても文句は言えないところでしょう。

 直木賞でいうと、こんな記事も載っています。第3回(昭和11年/1936年上半期)、海音寺潮五郎さんが受賞した直後です。直木賞に関する感想や批評が、新聞で読めるのは当時としてはまずレアなんですが、さすが『日本学芸新聞』の、文学賞への目配りはひとあじ違うな、と感嘆してしまいます。

「第三回直木賞を海音寺潮五郎氏が獲得したのは当を得てゐる。しかし考ふべき事は、オール讀物と日の出に発表した氏の二長篇が特に傑出してゐたが故の受賞ではなく、これだけの仕事さへする新人が他に無かったといふ事実である

新人に舞台を与へないのか、与へようとしても、これに応ずる力倆のある新人がゐないのか、とにかく淋しい気がする。」(『日本学芸新聞』11号、昭和11年/1936年9月11日「大衆文芸時評 海音寺潮五郎氏の本格的な作品 九月号諸雑誌の作品」より ―署名:山下賢次郎)

 川合さんが書いた文章ではありません。ただ、山下さんの表現にならって言えば、こうして直木賞批評にきちんと舞台が与えられているのは、同紙発行人・川合仁さんのおかげです。

 それによって直木賞がどうなったのか。……影響は全然なかった気もしますけど、実績を重視する直木賞に、何だか冴えない賞だなあ、と感じていた人がいたのはわかります。そういう感覚が、大衆文壇のまわりにも漂い、選考委員のなかにもくすぶった結果、大池唯雄さん(第8回・昭和13年/1938年下半期)とか河内仙介さん(第11回・昭和15年/1940年上半期)あたりの受賞につながった、と見るのは不自然じゃありません。

 当時、直木賞にどのくらいの温度で、どういった意見が批判的に出ていたのか。そういう声を後世に伝えるのも、報道機関としての新聞の役目でしょう。いまを生きるノンキな文学賞オタクが戦前の直木賞批評の一端に触れられるのも、川合さんの苦労の多い新聞経営あったればこそです。ああ、ありがたい。

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2021年11月 7日 (日)

重金敦之(朝日新聞)。雑誌記者でありながら新聞社に勤め、ジャーナリストを名乗る。

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 「文芸ジャーナリスト」という肩書があります。人のことを肩書で見る行為は、たいてい馬鹿にされたり嫌われたりしますが、世の中に肩書が存在するのは、まぎれもない事実です。

 それはともかく、文芸ジャーナリストが謎だらけなことは、文芸記者に負けてはいません。レベルでいえば「直木賞研究家」や「文学賞研究家」と同じくらい、うさん臭い肩書ですが、とくに新聞社に勤めていた記者や編集者が、退職後に名乗る肩書として、よく見かけます。文芸評論家と言い張るのは心苦しい。文学研究家ではシロウトくさい。だけどライターと言ってしまうと軽すぎる。……そんな心の葛藤に折り合いをつけた、多少の重みと、多少の謙虚さを兼ねそなえている、なかなかよくできた肩書です。

 と、そろそろ「直木賞と文芸記者」もネタに詰まってきたので、今週は立派な文芸ジャーナリストに焦点を当てることにしました。かなりの逃げ球ですみません。重金敦之さんです。

 昭和の半ば、経済成長著しい時代に、立派な新聞社だった朝日新聞社に入社。「記者」というよりは編集者として『週刊朝日』に配属されますが、そこはそれ、出版社系の週刊誌とは多少色合いが違って、ジャーナリストふうのお仕事もしたものでしょう。取材に行き、自分でものを書きながら、かたわらで外部の作家たちを相手にして、原稿取りに勤しみます。

 新聞社に勤める制作サイドの人たちの、何ともヌエたるゆえんです。たとえば、先に『大阪毎日新聞』の辻平一さんを取り上げましたが、この人も『サンデー毎日』という週刊誌の編集者でありながら、自分の回想記のタイトルに「文芸記者」という用語を使っています(もしくは、出版担当の意向で、使わされています)。取材者であり、執筆者であり、編集者でもある。主たる仕事の領域が、文芸に関する話題なら「文芸記者」……。というわけですが、じゃあ「文芸編集者」と何が違うのか、線引きの難しいところがあります。

 重金さん自身、この辺りをどうとらえているのか。参考になるのが『編集者の食と酒と』(平成23年/2011年5月・左右社刊)です。

 正式入社する前の5か月間、『文芸朝日』で研修のようなかたちで働いた経験から書き起こされ、入社後に配属された『週刊朝日』での「編集者」体験が書かれています。そこでは、重金さんが「ジャーナリストを職業とするにあたって最も影響を受けた書物の一冊」として、戦後の文藝春秋(および直木賞)を発展させた池島信平さんの『雑誌記者』と、そのなかの一節が紹介されているのです。

 池島さんは、雑誌記者と新聞記者の違いを、前者は浅くて広い知識をもつ、後者は狭くて深い知識をもつ、と語り、また雑誌の記者には自分の媒体がいくらでつくられ、いくらで売れ、いくらの儲けが出て、といった経営感覚が必要だが、新聞記者はそれがない、と言っています。

 金銭勘定うんぬんを出してくるあたりは、さすが池島さんだなと思いますけど、それでは新聞社のなかで雑誌をつくる人種はどうなのか。雑誌記者でもあり新聞記者でもある、というやはりヌエのような性格・性質が求められるのかもしれません。

 だからこそ、それを遠目で見ているこちらは面白い、とも思います。本書では昭和から平成にかけての文壇事情や、文学賞のこともいくつか出てきますが、これを扱う重金さんの筆が、関係者でもなければ、さりとて部外者でもない、どっちつかずの立場からの文章が楽しめます。よく言えばジャーナリスティックな立場、とでも言いましょうか。

 第136回直木賞(平成18年/2006年下半期)の落選作にして、本屋大賞2007の受賞作、佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』という作品があります。「直木賞と本屋大賞 文学賞の楽屋」のなかで重金さんは、この話題を取り上げ、文学を尺度にする既成の文学賞と、共感や売れ行きにシフトする新しい賞とを比べて語っています。「同列に並べて議論するつもりはないが」と予防線を張るところなどに、いかにも長く記者稼業をしてきた人の、イヤらしい「中立と公正を保ってますよ」アピールが出ていて笑ってしまいますけど、どう見ても両賞を比較して分析している文章です。

「一方は「文学」としての評価であり、片や「売りたい本」の選定だから、並行線をたどるのは自明の理であろう。(引用者中略)青春時代の情念の葛藤などのテーマは今の時代、漫画やテレビのメディアの方が進んでいて、小説(文学)を読むはるか以前に「通過儀礼」を果たしているのではないか。となると小説は後発のカタルシス・メディアとなり、「癒し」のためのツールとして作用する時代なのかもしれない。」(『編集者の食と酒と』所収「直木賞と本屋大賞 文学賞の楽屋」より)

 重金さんの指摘にも一理あるかもしれません。ただ、ワタクシがこの文章を読んで面白いな、と思ったのは、そこではなく、昭和の繁栄期を長く生き、流行作家たちとたくさん接してきた重金さんが、本屋大賞の相手として直木賞(のみ)を据えることを自然だと思っているところです。そうなんだ。直木賞、直木賞とそっちばっかに目が行って、吉川英治文学新人賞みたいな賞は、ガン無視なんだ。あれも、いちおうは文学としての評価をするはずの、プロの作家による文学賞なはずだけど……。

 ときに人間は、現状を解説・説明するための手段として、いろいろな枝葉を思い切って省き、単純な構図をつくり上げて記事にしてしまうことがあります。要点をしっかりと読者に伝えるための手段としては、そういう記述も必要でしょうし、とくに記者と呼ばれる職種の人にとっては、お手のものなんでしょう。文壇を代表する文学賞は少ないほうが記事としてまとめやすいですもんね。どうしても直木賞(ともうひとつの賞)を重視したがるのは、長く文芸記者、兼雑誌記者をやってきた人の宿命なのかと思います。

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2021年10月31日 (日)

槌田満文(東京新聞)。電話で済ませず執筆者のもとを訪れる慇懃な記者。

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 『東京新聞』の文化部も、なかなかのツワモノぞろいです。

 まだ『都新聞』と名乗っていた頃に文化部で働いていた記者が、のちに続々と作家として羽ばたいていった、という黄金の歴史もあります。すでに取り上げたところでは、中日新聞社の豊田穣記者が、吸収合併した『東京新聞』に移るや否やツキが回ってきて、ついには直木賞をとってしまう、なんてこともありました。

 純文壇のことは知りませんけど、少なくとも直木賞にはやたらと縁のある『東京新聞』。ここらでもう一人、名物文芸記者を挙げておきたいところです。

 槌田満文さんです。昭和31年/1956年、29歳のときに『東京新聞』の文化部に中途入社してから昭和50年/1975年春に退社するまで、およそ20年間文化部に勤めました。頼尊清隆、平岩八郎という強烈な先輩作家の下で、徐々に頭角を現わし、在社中から自分でも昔の小説や芸事、風俗について物を書くうちに『東京』の槌田って、なかなかヤルな、と名が知られるようになります。

 少し『東京新聞』のことを振り返っておきますと、大きく分けて3つの期があります。第一期は明治17年/1884年『今日新聞』として創刊されてから『みやこ新聞』を経て明治22年/1889年『都新聞』となり、昭和17年/1942年に『国民新聞』と統合させられるまで。第二期は、昭和17年/1942年『東京新聞』の創刊から昭和42年/1967年に中日新聞社に営業権を譲渡するまで。第三期はそれ以降です。

 その第二期に当たるおよそ25年の歴史は、とくに社史もなく、まとまった記録が残されていない。何ということだ、おれたちわたしたちが命をかけてつくっていたアノ時代の『東京新聞』のことは、このまま歴史のもくずに消え失せてしまうのか。……という危機感をもった当時のOBたちが相談し、お金を出し合ってつくったのが『内幸町物語――旧東京新聞の記録』(平成12年/2000年7月・内幸町物語刊行会刊)です。その「編集委員会代表」として新庄哲夫さんと並んで名を連ねたのが槌田さんで、彼が中心のひとりとなってこの本がつくられた、と言います。

 槌田さん自身も同書にいくつかの原稿を書いています。見出しだけ挙げると「中断された安吾の「花妖」」「文学論争の仕掛人」「さむらい記者列伝=文化部座談会=伝統を支えた誇り高き男たち」(座談会出席者のひとり)「連載小説の話題作」「私家版『ほのぼの君』」「「オセロ」と渡米歌舞伎」「孤軍奮闘の花柳徳兵衛」です。

 そのなかの「連載小説の話題作」に、直木賞という単語が出てきます。

「梅崎春生の「つむじ風」(三十一年三月~十一月、中尾彰・画)は、直木賞受賞後最初の新聞小説。今東光の「山椒魚」(三十二年三月~三十三年五月、佐藤泰治・画)も、受賞直後の登場だった。

戸板康二「松風の記憶」(三十四年十二月~三十五年五月、佐藤泰治、坂口茂雄・画)と、杉森久英「回遊魚」(三十七年七月~三十八年四月、中尾彰・画)は、いずれも連載中に作者が直木賞を受ける幸運に巡りあわせている。」(『内幸町物語――旧東京新聞の記録』「連載小説の話題作」より ―署名:文化部 槌田満文)

 直木賞をとる以前の、まだ小説を(推理小説を)書き始めたばかりの戸板さんに、いきなり新聞連載を依頼するというのも、大胆不敵なやり口ですが、もちろん戸板さんに長いあいだ劇評を担当してもらっていたつながりが強く利いていたんでしょう。作者連載中に(別の作品で)直木賞受賞、というのは『東京新聞』ならではのラッキーパンチ、と言っていいでしょう。戸板さんの例に限っていえば。

 そして、戸板さんの回想(「東京新聞と私」、初出「綜合ジャーナリズム研究」昭和59年/1984年10月、平成19年/2007年11月・東京創元社/創元推理文庫『中村雅楽探偵全集5 松風の記憶』所収)によれば、このときの連載小説「松風の記憶」を担当していたのが槌田さんだった、とのこと。『東京』文化部のお偉方も下の記者もみんな大喜びだったみたいです。

 文学賞を取材する立場でありながら、小説の原稿をいただき作家に併走する編集者でもある。文芸記者にとって、直木賞の受賞という報は、作家とも出版編集者とも、あるいは一般読者とも違う、別種の感覚を持つものなんでしょう。そりゃあ、読者とのズレも生ずるわけです。

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2021年10月24日 (日)

福田定一(産経新聞)。おっとりとして、記者らしくない人当たり。実は敏腕文化部記者。

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 「直木賞を支えた文芸記者」のテーマは、だいたい来年2022年5月ごろまで続ける予定です。それまでに、絶対に触れなきゃいけない人が何人かいます。司馬遼太郎さんも、そのひとりです。

 天下御免の有名人。ありとあらゆる人が、ありとあらゆる視点から取り上げていて、身長・体重から、白髪の数まで、およそのことは知れ渡っています。いや、白髪が何本あったのかワタクシも知りませんけど、「司馬遼太郎」、この五文字にはもはや何の新鮮味もありません。今週、さらっと撫でて終わりたいと思います。

 何といっても、司馬さんの――ここはあえて本名、福田定一さんと呼んでおきます――、その福田記者についてまとめた本まで出ているのですから参ります。それを読めばいいじゃん、というハナシです。

 『新聞記者 司馬遼太郎』(平成12年/2000年2月・産経新聞ニュースサービス刊)は、敗戦後の昭和20年/1945年12月、福田さんが大阪で新世界新聞の記者になってから、京都の新日本新聞へ、そして産経新聞社へと転職した過程をはじめとして、同社内での京都支局時代、大阪本社地方部時代、昭和28年/1953年5月に文化部に移ってからも美術・文学を担当してメキメキと働くことおよそ7年、昭和35年/1960年1月に文化部長だったときに直木賞を受賞するまでの経緯が、さまざまな証言とともに紹介されています。

 中身を読むと、当然といいましょうか、福田さんの才能と人柄に対する礼讃に次ぐ礼讃で、読んでいるこちらは食傷ぎみになること請け合いの、タイコ持ち本の一種です。それでも、文芸記者として直木賞を受賞し、「受賞者の横顔」記事を自分で書いてしまったカッチョいい伝説の他にも、文化関係の部署にいたからこそ作家としてデビューできた、その背景がわかりやすく記録されています。貴重な書なのは間違いありません。

 新聞記者として、福田さんは毎日取材に走り回って特ダネを抜くような社会部のほうに行きたかった、と言われています。文化部に回されてガッカリしたんだそうです。しかし、ここに『新聞記者 司馬遼太郎』の書き手は疑念を呈しています。

「司馬は地方部に十カ月ほどいただけで異動になり、再び取材部門に復帰した。しかし、今度も、ひそかに希望していた社会部ではなく、文化部だった。

〈文化部へまわされましてね。美術批評を書かされたんでしたが、それがいやで、なんのために新聞記者になったのかというと、火事があったら走っていくためになったんで、もう落魄の思いでした〉(「自伝的断章集成」)

自身の述懐だが、はたして本当のところはどうだったのだろう。文化部への異動がそれほど不本意なものだったのか……。仕事ぶりをみると、美術担当がいやだったとも、落胆していたとも思えないのだが。」(『新聞記者 司馬遼太郎』「第4章 文化部の机にて」より)

 イヤイヤやっている、と言いながら、じっさいは結果を残して出世街道まっしぐら。と、ハナシを聞くだけだと、相当イヤミでイヤな奴だという気がしますが、会う人会う人、だいたいが福田記者のトリコになった、という証言はおそらく嘘ではありません。行動力もある、好奇心もある、知識も深い、文章も書ける、そのうえ人当たりがよくてユーモアもある、となれば、鬼に金棒のスーパー文芸記者だったのだろうと思います。

 新聞記者から作家になった人は、たくさんいます。直木賞が始まってからに絞っても、受賞者、候補者、何人かの名が浮かぶところです。しかし、福田さんほど、文芸記者としての優秀さを存分に発揮して、まわりからも褒められっぱなし、という人は他に見当たりません。

 記者を続けていても、おそらくコラムに解説記事にと活躍し、大阪界隈ではチヤホヤされる記者上がりのエッセイスト、ぐらいの地位にはなれたかもしれません。それはそれで、誰でもがなれるわけじゃないので、直木賞をとらない人生でも、きっと福田さんは一部から尊敬のまなざしで仰がれたことでしょう。

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2021年10月17日 (日)

百目鬼恭三郎(朝日新聞)。文芸記者界随一の、偏見と毒舌で知られた男。

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 直木賞と文芸記者にはいろいろと共通点があります。そのひとつが、拭いきれない「虚しさ」です。

 一過性のもの、とでも言いましょうか。効果がつづくのはだいたい短期的、長くても当人が生きているあいだの数十年だけです。やがてパタリと風がやみ、一気に風化して、顧みられることもなくなります。

 まあ、ワタクシも含めて人類みんな必ず死ぬわけですから、人間とはすべて一過性だ、と言えなくもありません。誰もがひとりひとり背負っているその虚しさを、直木賞も当然もっています。文芸記者にも哀愁がまとわりついています。時代のながれの渦中で生きるわれわれ全員の宿命です。

 ということで、それぞれの時代に大活躍した、ある種のスター文芸記者にも目を向けたいんですが、ここに名前が挙がる人として『朝日新聞』百目鬼恭三郎さんは外せません。舌鋒するどく他人に対する批判をガンガン繰り出し、その攻撃性ゆえにいっときは世間の一部から好まれて、面白がられました。おそらく知識も豊富だったんでしょう。深い洞察力もお持ちだったことと思います。ただ、時代が流れ、本人もこの世にいなくなった現在、もはや百目鬼さんの言っていたことをまともに取り上げる人も消え失せ、友人知人にエコひいきした偏見だらけのクソ評論家、としてのみ知られています。

 というのはさすがに言いすぎました。すみません。と謝っておくとしまして、強烈な個性をもった有名文芸記者だったことは間違いありません。うちのブログで昔「直木賞(裏)人物事典」というテーマを書いていたときも、あまり文芸記者は立項しなかったんですが、百目鬼さんを無視するわけにはいかず、一週分取り上げたことがあります。直木賞にとっても重要人物です。

 百目鬼さんと直木賞のつながりは、さまざまにあります。そのひとつ、ワタクシもあまり知らなった逸話をここでは挙げておきたいと思います。1970年代ごろ、直木賞も芥川賞も、選考委員はまともに候補作を読まずに選考している、と言われていた時代に、百目鬼さんは毎回みっちり目を通して取材に当たっていた(らしい)ということです。

 ご友人、丸谷才一さんがこんなふうに紹介しています。

「とにかく大変な勉強家で、仕事熱心である。

読売文化部の高野さん(引用者注:高野昭)から聞いた話だが、芥川賞・直木賞の決定の日、新橋第一ホテルに集る各社の記者のうち、両賞の候補作全部に目を通してゐるのは彼ひとりだけ。

そこで彼は、一篇々々のあら筋を説明し、批評する。コテンパンに論ずる。

気の早い記者たちは、両賞ともナシに決った、なんて予定記事を書き上げる。

と、そのとき、芥川賞・直木賞各二人などと受賞者が発表されるのである。」(『小説新潮』昭和50年/1975年10月号 丸谷才一「新・今月の3人 友よ熱き頬よせよ」より)

 選考委員はともかく、新聞の文芸記者たちも両賞候補作の全部を読んでいた人は、そうそういなかった、ということらしいです。そのなかで百目鬼さんは事前に取り寄せ、すべてを読み、記者たちを前に一席ぶっていたようなんですが、おそらく批評のレベルが高すぎたか、もしくは自分なりに思う文学の幅が狭かったか、予想屋としては大した才能はなかったのかもしれません。偏見の強さが、この紹介文からもにじみ出ています。

 偏見、そして毒舌。ここに「天下の朝日」というブランドもくっつくんですから、人気が出るのもよくわかります。『週刊文春』の匿名書評はそのブランドがないので、天下の朝日は関係ないかもしれませんけど、偏見と毒舌だけでも百目鬼さんの大きな特徴になり得ます。よく言ってくれた、とスカッとする読者がおそらくいたでしょうし、ファンもたくさんできたでしょう。

 そして、偏見と毒舌っていうのは、だいたいその時代に接するからスカッとするだけです。少し時が経ってみると、その効力は一気に廃れます。百目鬼恭三郎という名前に、そこはかとなく虚しさがしみ付いているのは、彼を有名記者に押し上げたそのストロングなスタイルにも一因があるのかもしれません。

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2021年10月10日 (日)

佐佐木茂索(時事新報)。直木賞創設までに、文芸記者として鳴らした経験あり。

 直木賞の歴史を追いかけていくと、どうしても新聞という媒体に行き着きます。

 いわば、日本の文学賞の根っこには新聞文化がある(あった)……というわけですが、こと直木賞でいえば、文藝春秋社のそもそもの成り立ちに、新聞メディアと文学者の太い関係性があったことを注目しないわけにはいきません。

 そうなると、当然、同社トップの菊池寛さんが、新聞記者だった話を出さなきゃいけないんですけど、順序が逆転しちゃうのを承知のうえで、まずは佐佐木茂索さんを先に取り上げたいと思います。直木賞創設者として見たとき、単にワタクシが、菊池さんより佐佐木さんのファンだからです。

 佐佐木さんは大正期に相当期待された小説家として知られています。ただ、小説家とは言っても小説だけ書いて食っていけるのは全体のごく一部、というのは、いつの時代も変わりません。佐佐木さんが若かった頃もやはりそうで、大正7年/1918年に新潮社に入社したのが23歳のとき。金子薫薗さんの紹介だったそうです。翌年、新潮社佐藤義亮さんの推薦で、田口掬汀さんの中央美術社に移籍。編集のかたわら、小説修業に励み、この年(大正8年/1919年)「おぢいさんとおばあさんの話」(『新小説』)で世に出ます。

 雑誌編集と作家業、二足のわらじで歩きはじめたかと思ったら、大正9年/1920年が明けて早々、今度は『時事新報』の文藝欄を編集してほしい、という話が舞い込んできます。どうやら前に同社で記者をしていた菊池寛さんが推薦したらしいです。いやいや、中央美術に移ったばっかだし、他の人がいいんじゃないの、ほらたとえば小島政二郎とかさ、と佐佐木さんはスマートにかわそうとしますが、小島さんは頑として固辞したらしく、佐佐木君ならできるよ、やってみろよ、と菊池寛さんや加藤武雄さんに背中を押され、けっきょく文芸部主任のかたちで新聞づくりに関わることになりました。以来大正14年/1925年9月まで、25歳から30歳まで、貴重な20代後半の社会勉強の時期に、文芸記者として邁進します。

 どうやったら充実した文藝欄がつくれるか。どうやったら文藝をマスメディアの扱う一ジャンルとして発展させていけるか。試行錯誤、いろいろと頭を悩ませながら働いたこの5年間が、佐佐木茂索という稀代の雑誌出版プロデューサーを生み出す礎になったことは、おそらく間違いないでしょう。

 文芸部主任だった当時、佐佐木さんが新聞の文藝欄にどんな姿勢で臨んでいたか。こんなことを語っています。

「私が新聞の文藝欄に関係してゐて、何が文藝欄に第一に必要だと感じてゐるか。いゝ批評である。凡そ今日の如く、いゝ批評家のゐない時節はない。

今日の批評が、おほむね印象批評であるだけに、しかもこの批評が直に価値判断を下さんとするものであるだけに、人が一段と獲難いのである。」(『人間』大正11年/1922年1月号 佐佐木茂索「羅布断章」より)

 だそうです。ちなみにこの頃の『人間』の編集兼発行人は植村宗一=のちの直木三十五さんだった、というのは、とりあえず措いておきますが、創作は創作だけがあるのではなく、隆盛のためには、いい批評が絶対不可欠だ、力ある批評家よ出でよ、と言っています。どんな時代でも言われがちな、ないものねだりのスローガンかもしれません。ただ、文芸ジャーナリズムの編集側に立ったことで、佐佐木さんがより批評の重要性を感じた、とは言えそうです。

 『時事新報』の文藝欄は、佐佐木主任の時代にさまざまに趣向を凝らし、そして大正後期のこの頃、ずいぶんと評判となったと言われています。だいたい謙遜ぎみの回想をする佐佐木さんをして「相当評判のよい文藝欄を作つてゐた」(「新聞記者時代」)を書かしめるぐらいですから、推して知るべし、という感じです。

 とくに「いい批評」ということで言うと、川端康成さんに時評を書かせたことが挙げられます。どこの馬の骨ともわからない……と言うと言いすぎですが、大正11年/1922年、『新思潮』同人の東大生というペエペエの青二才だった川端さんに文藝時評をまかせ、批評家・川端康成に光を当てたのは、佐佐木さんの慧眼だったと考えられます。

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2021年10月 3日 (日)

片岡貢(報知新聞)。直木三十五といっしょに雑誌をつくるはずだった人。

20211003

 直木三十五さんのまわりにいた文芸記者五人衆。二人目に紹介するのは『報知新聞』の片岡貢さんです。

 ……と、いきなり言われても、何のこっちゃという感じでしょうが、五人衆については先に取り上げた『時事新報』笹本寅さんのエントリーをご参照ください。直木さんが亡くなる寸前、昭和8年/1933年~昭和9年/1934年ごろに仲良くしていた文芸記者のグループです。

 笹本さんによれば、昭和8年/1933年の夏、最初は直木さんとは関係なく、日ごろから親密に付き合っていた5人の文芸記者が、自分たちの名前で責任をもって文章を書いて発表する媒体を持てないだろうか、と相談しはじめたのだそうです。はじめは『ヂヤーナリスト』という仮の誌名を構想していましたが、やがて『学藝往来』と題案が変わり、さらにそこに直木さんも加わって、いよいよ創刊の目途がつく頃には誌名を『日本文藝』とすることが決まりました。そのいきさつは、笹本寅さんの「「日本文藝」のこと――直木三十五氏追悼――」(『文藝』昭和9年/1934年4月号)に詳しいです。

 その追悼文には、同誌創刊号の、およその目次アイディアも載っています。直木さんに関していうと、「元寇(歴史小説連載)」「文学評論」「新聞社会画評」「日本剣道史」「匿名小説(現代もの)」などの他、その目次に挙がっていないものでは、小説「私」の続篇とか、「私」に対する批評への感想(というかおそらく作者側からの反論)も書くつもりだったようです。ほんとに一人でこんなに書けるのかよ、と言いたくなるほどの文量ですが、書くよ書くよ、と口先ばっかり達者なくせに、けっきょく書けやしない人って、いまでもいるんですよねえ、と微笑ましくも思えます。

 そこに「純粋文学盛衰記」を連載するつもりだった笹本寅さん、と並んで、発起人5人のうち寄稿予定者に名前を連ねたのが、片岡さんです。「世界ヂヤーナリズム紹介(第一回ヒツトラー治下のヂヤーナリズム)」と、「H・G・ウエルズの論文」の訳をするはずだった、とわかります。

 片岡さんがどういう文学観をもち、どんな夢を抱いて自分も小説を書こうと思ったのか。よくわかりません。しかしこの頃、片岡さんはまだ30代半ば。国内外の文学(純文藝も大衆文藝も含む)のみならず、ジャーナリズム、社会、国家、歴史、などなど幅広い分野で、言いたいことや書きたいことがウズウズとたまって仕方なかったんだろうな、とは想像できます。

 というのも、『日本文藝』を(お金の面からも)バックアップしてくれるはずだった直木さんが、創刊まぎわの昭和9年/1934年2月に死んでしまって、「余りに大きな精神的打撃」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 片岡貢「『日本文藝』のこと」)を受けてもなお、何か筆を使ってぶっ放したいぜ、という意欲が衰えず、翌昭和10年/1935年、今度はプロレタリア畑出身の大衆作家、貴司山治さんのもとに参集して、ついに雑誌創刊までこぎつけるからです。

 それが昭和10年/1935年4月に創立された実録文学研究会が出した『実録文学』(同年10月創刊)です。

 昭和9年/1934年に直木さんが亡くなり、その直後に直木賞が構想されるわけですが、前後して吉川英治さんが『衆文』『青年太陽』を出したり、三上於菟吉さんがサイレン社を興したり、また貴司さんが言い出して『実録文学』が生まれたりと、この頃の大衆文壇の動きはなかなか活発で面白いものがあります。単に「日本を礼讃する右翼傾向に偏った歴史認識」が大衆文芸界に跋扈した、とだけ見ていては、おそらくこの時代の直木賞周辺の動きをつかみそこねるんでしょう。

 尾崎秀樹さんは『実録文学』について、このように解説しています。

「このグループ(引用者注:実録文学研究会)の主旨は、マスコミの走狗となり、文学本来の大衆性を失い、低俗化した一般の文学的風潮を批判すると同時に、新たに実録文学を提唱したものだった。そして全国各地方の郷土史料を蒐集し、正確に記録し、それをもとにしてつくり出される大衆小説、それが実録文学だというのである。同人には海音寺氏(引用者注:海音寺潮五郎)のほかに、岩崎栄、片岡貢、木村毅、貴司山治、大津恒吉、笹本寅、田村栄太郎、戸川貞雄、植村清二の諸氏の名前がみられる。」(昭和53年/1978年12月・朝日新聞社刊 尾崎秀樹・著『海音寺潮五郎・人と文学』より)

 その後、貴司さんと、片岡・笹本コンビとのあいだに、何らかの亀裂が入ったらしく、この研究会は空中分解。片岡さんたちは、直木賞をとった海音寺さんとともに『文学建設』(昭和14年/1939年1月創刊)をつくることになって、新たな歴史文学の創造を築こうと悪戦苦闘していきます。戦前戦中、大衆文芸がどういう道を歩んでいくのか、困難な状況を抱えた時代に、片岡さんも相当悩んだでしょう。文学というより、国際分析、世界の歴史のほうへと関心の軸足を移していった模様です。

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2021年9月26日 (日)

由里幸子(朝日新聞)。芥川賞の歴史における女性作家を語らせたら第一級。

20210926

 第161回(平成31年・令和1年/2019年上半期)の直木賞を覚えているでしょうか。ほんの2年まえのことです。

 この回は候補者の全員が女性になったぞ、といって微妙なバズリが起きたときです。あまりに微妙すぎたので、大半の日本人は早くも忘れちゃったかもしれませんが、このとき「女がどう、男がどう、とそんなことを取り立てて話題にするのがおかしい」と意見している人がいました。たしかにそうなんでしょう。だけど、直木賞における性別の盛衰は、それを追うだけで一生たのしく過ごせるぐらいに骨太な研究テーマだと思います。あえて女性をピックアップすることに、あんまり目くじらを立てないでください。

 直木賞に限ったことじゃありません。近代日本社会の縮図ともいえる「文芸記者」の世界もやはり、殿方ばかりが跋扈する時代が長くつづきました。うちのブログで取り上げてきた文芸記者も全員男性です。そろそろだれか女性の記者にも登場願いたいな、と思っていろいろ考えた結果、文学賞と縁の深い人といってパッと思いつく記者を挙げることにしました。『朝日新聞』の由里幸子さんです。

 由里さんは、どちらかといえば(いや、どちらかといわなくても)完全に純文壇のほうに強い文芸記者です。現役の記者として活躍したのは昭和の後期から平成にかけてで、そこまで遠い昔ではありませんが、それでも由里さんお得意の範疇は明らかに芥川賞のほうでした。基本的に直木賞になんか興味がなかったんじゃないか……とさえ思ってしまいます。

 たとえば、そう思う理由のひとつが、『朝日新聞』に載った「100回迎える芥川・直木賞」(平成1年/1989年1月11日)という解説記事です。

 第100回の回数をかぞえた両賞の歴史を短くまとめながら、どういう変遷を経てきたか、いまどんな問題を抱えているか、評論家などのコメントを紹介しつつ読者の考えるきっかけにしてもらおう、というなかなか難しいお仕事です。これを書いたのが由里さんで、記事の内容としては、賞の芸能化が進み、同時に受賞作の水準が低下してきた、という平凡で穏当なところに落着していて、さすが文芸記者というのはうまいもんだな、と感嘆させてくれるんですが、「五十年以上の歳月に、両賞の性格も、文学をめぐる状況もかわった。」という文章から続く後半部分は、えんえんと芥川賞のハナシばっかりしています。直木賞のナの字も出てきません。おいケンカ売ってんのか、と直木賞ファンとしては吠えたくなるところです。

 しかし、直木賞ファンのみなさん、ご安心ください。由里さんは改心します。いや、別に改心はしていないんでしょうが、文芸記者として(もしくはひとりの文学愛好家として)強烈な関心事項があったために、ここから先、直木賞にも徐々に関心の目を向けざるを得なくなってしまうのです。

 由里さんの強烈な関心事項……それは「女性作家の活躍ぶり」です。

 『「国文学解釈と鑑賞」別冊 女性作家の新流』(平成3年/1991年5月・至文堂刊)に由里さんが「女性作家の現在」という文章を書いています。ここで「私が「女性作家」にこだわるのは、彼女たちの作品には文学の軸とともに、各時代の女性の意識が反映された軸が交差しているからなのだ」と、このテーマに関心を寄せる理由が披瀝されているのですが、割合的に男性が多かった『朝日』学芸部のなかで、文学(文壇)と関わってきた由里さんの、文芸記者としての特徴のひとつが「女性であったこと」は、やはり無視できません。

 しかも、商業的な文芸出版の世界も、ちょうど由里さんが学芸部に配属された頃から、女性作家の台頭が目覚ましく進展しました。同時代の空気を吸いつつ文学の動向に寄り添っていくことは、文芸記者の使命のひとつです。由里さんの目の前で、次々と女性が芥川賞を受賞していく……といった体験も踏まえて、こう書いています。

「七九年上半期から八八年下半期まで、ちょうど第八十一回から第百回までの芥川賞は、秋山駿の予言があたったかのような光景となった。十七人の受賞者のうち、加藤幸子、高樹のぶ子、村田喜代子、李良枝ら、女性が九人までを占めたのだ。

芥川賞には、ほぼ同時期に登場した津島佑子、増田みず子、干刈あがた、中沢けいといった現在の文学を語るとき、見逃すことができない女性作家たちが入っていない。男性でも村上春樹、立松和平、島田雅彦、高橋源一郎らの名前が入っていないのだ。つまり、八〇年代に文学が多様化し、いわば周辺の方が活性化した。にもかかわらず、芥川賞は文壇の中心に位置していたからこそ、皮肉なことに、一部の女性作家をのぞくと、文学の新しい波を捉えきれなかったというわけだ。」(『女性作家の新流』所収 由里幸子「女性作家の現在」より)

 芥川賞は、実力派の作家たちをたくさん取りこぼしてきたポンコツ文学賞。といったことは、まあ誰でも思いつく定型の常套句です。ところが、それを「こんなにも女性作家がとっていない」という観点から提示した論者は、正直あまり見かけたことがありません。おお、これぞ由里さんの個性。と、思わず目を引くとともに、この調子で第100回にいたるまでの直木賞での女性作家の隆昌も語ってほしかったなあ、と悲しくなってしまいます。

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«辻平一(大阪毎日新聞)。新聞社から売れる週刊誌をつくり上げた大衆文芸界の偉人。