平野嶺夫(東京日日新聞、など)。直木賞のウラに、なぜだか関わりのある人。

直木賞を見ていると、まわりに新聞記者がうじゃうじゃいます。文芸や文壇の担当者だけじゃありません。政治、経済、外報、社会……。直木賞とつながりのある記者は、あらゆる部署にわんさかいます。そういう人たちを全員取り上げていったら、まじでキリがありません。
ただ、そのなかでも絶対に挙げておかなくちゃまずいだろ、という記者がいます。平野嶺夫さんです。
物書きとしては筆名「平野零児」で通っています。直木賞の歴史を裏で支えた、という意味ではかなりのハイレベルな新聞記者です。昭和9年/1934年、ちょうど直木三十五さんが死に、その名を冠した文学賞をつくる動きが出ていた時期には、『東京日日新聞』学芸部の嘱託社員でした。ギリギリ「文芸記者」と呼んでもいいかと思います。
平野さんと直木賞といえば、昔むかし、うちのブログでも少しだけ取り上げました。昭和35年/1960年10月、直木さんゆかりの地、横浜市富岡に記念碑が建ったことを中心に編まれた『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』という冊子について、これを編集したのが平野さんだった、という件です。
「藝術は短く 貧乏は長し」。直木さんを偲ぶために刻まれた石碑は、昭和35年/1960年、富岡の「直木三十五宅趾」の前に据えられます。旧住居そのものは取り壊されて、もう実物を見ることはできませんけど、2年前の令和2年/2020年南国忌のときに立ち寄ったら、文学碑と案内板がまだ残っているのが確認できました。これをつくるのに尽力したのが、平野さんです。
どうしてこんなに直木さんの顕彰に積極的だったのか。単なる知り合いという関係を超えるどんな深い結びつきがあったのか。平野さんの心の奥底はとらえ切れませんけど、直木さんとの思い出を、こんなふうに書き残しています。
「直木さんについて思い出すのは、私が新聞社をやめ、筆一本で独立を志した時、故浜本浩君も改造社をやめ、共に出発することにした。その時、二人は親しくして貰った直木さんに、木挽町にあった文春クラブの二階で、
「実は二人共決心はしたものの不安なんですが……」と、二、三の先輩にいったのと同じようなことの伺いを立てたら、直木さんは言下に
「そりゃ努力次第だ」とポツリといってくれた。その後浜本君は大いに努力の甲斐あって、先づ名作『浅草の灯』以来めきめきと目覚ましい仕事をしたが、私は廻り道をしたり、怠けたりして、現状に至っている。」(昭和37年/1962年11月・平野零児遺稿刊行会刊、平野零児・著『平野零児随想集 らいちゃん』所収「芸術は短く貧乏は長し」より)
これがだいたい昭和7年/1932年頃のことらしいです。
それまでの平野さんは、文芸記者というより社会全般の人の動きを対象にする取材記者でした。こういう人たちともよく付き合い、具体的に何を世話したわけではないのに慕われたのが、直木三十五という人の不思議なところでしょう。自分の死後には、わざわざ顕彰碑を建てようと働いてくれるくらいですから、相当なものです。
直木賞ができたのは、菊池寛さんや佐佐木茂索さん、その他、直木さんと交誼の厚かった作家たちの友情のおかげ。というのは間違いありません。だけど、直木さんのシンパが新聞界にもけっこういた、ってことも重要なんだろうと思います。平野嶺夫=零児さんは、当時の作家界と新聞界の交錯ぶりをよく現わす代表的な人物と言ってもいいんでしょう。
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