2020年1月19日 (日)

逢坂剛、社会人になって5年目、本場のフラメンコに触れるために、はじめてスペインへ。

 直木賞に関わる作家は受賞者だけじゃありません。面白い小説を書いていて、人物そのものも面白い(はずの)作家は、受賞しなかった候補者たちのなかにも、山ほどいます。

 なので、落選した人たちや作品にも目を向けたい、と思っているんですけど、じゃあ受賞者なんてクソばかりだから無視してもいいんだ、と主張するのはさすがに違う気がします。

 そんなこんなで今日は、これまでうちのブログでなかなか取り上げる機会の少なかった受賞者のことで行きたいと思います。しかも「海を越えた直木賞」のテーマにぴったりハマりすぎるほどハマっている、第96回(昭和61年/1986年・下半期)受賞者。逢坂剛さんです。

 つい最近、第61回毎日芸術賞を受賞した、まだまだ現役の人ですが、その逢坂さんが直木賞を受賞したのは、だいたいいまから30年ほど前になります。「そんなの最近じゃないか」と真顔でツッこんでくる爺さん婆さんはおいときまして、直木賞の歴史が85年ですから、そこまで最近でもありません。

 第96回の受賞者が逢坂さんと、『遠いアメリカ』の常盤新平さん。候補のなかには『脱出のパスポート』の赤羽尭さんも入っていました。もう海外や外国の話題を小説のなかに全面的に採り入れても、たいして物珍しくもなくなり、古い古いと言われた直木賞の選考委員会でも、拒否反応が薄れていた時期にあたります。

 そのなかでも逢坂さんの小説が候補に挙がるだけならまだしも、まさか直木賞をとってしまうというのは、やはり直木賞のなかの「海外交流史」ではインパクトの残る出来事だった、と言うしかありません。冒険小説と見られる小説が受賞した! という小説ジャンルの問題も、当然ありますけど、受賞作家の海外との縁のつながり方が、なかなか異様だったからです。

 「異様」というと表現が変かもしれません。すみません。しかし、親は挿絵で名の知られた絵描きさんで、生粋の日本人。幼少時代、とくに海外体験を送ったわけでもなく、大学時代に留学した経験があるわけでもありません。順調に大学を卒業すると、順調に(?)大手企業に就職します。そこで海外の支局に転勤してうんぬん、だったらまだわかりますが、そんなこともなく、のちに海外物の小説家としてのし上がっていく芽は、まだ表面化していません。

 そのまま会社員生活を送って、企業人のひとりとして小説を書き、直木賞をとってパッとスポットが当たります。と同時に、その受賞作の素材となった「スペイン」や「フラメンコギター」という海外との縁は、逢坂さん自身の純粋な趣味を突き詰めたところから生まれたものだった、というのです。

 会社に勤めながら、それとは別に余暇の時間をつぎ込んで趣味に没頭する人は、たくさんいます。逢坂さんの場合は、それがとある海外のこと、とある海外の文化だったわけですが、そういう日本人の生きざまのひとつの形態が、昭和62年/1987年1月に直木賞受賞というかたちでニュース記事の一端を飾った、ということです。

 逢坂さんがフラメンコギターにのめり込むきっかけは、二人いるお兄さんのうち、4つ違いの次兄の影響でクラシックギターを始めたことらしいです。本格的に練習を始めたのが大学一年のとき、それが神田神保町の喫茶店「ラドリオ」で、サビカスとエスクデロのレコードを聴いて、ビビッと来てしまいます。なんじゃこの世界は、と急激にフラメンコギターに興味を持ち、そこから演奏の練習に没頭していきます(『青春と読書』昭和61年/1986年3月号「ギターとスペインの話」)。

 やがて趣味が高じて、もう一段マニアに近づき、レコードでばかり聞いていても満足できなくなって、本場スペインで生の音を聴いてみたいと思うようになります。外国に行くとなったら現地の言葉をしゃべれなければ、とスペイン語を勉強し、社会人になって5年目の昭和46年/1971年、有給休暇をとって念願のスペイン旅行に出かけます。当然、その主眼はフラメンコにまつわる土地を見て歩く。というわけで、マドリードからセビリア、ヘレス、グラナダ、カディスとめぐるあいだ、11月1日、28歳の誕生日はグラナダで迎えたとのことです。

 じっさいにスペインの地を旅してみて、いっそうスペインが好きになり、フラメンコのことだけじゃなくもっともっと知りたいぞ、といういわゆる「恋する」感情に取りつかれ、歴史を調べる、現代の状況を調べる、内戦の資料を買い集めて調べる、とズブズブとのめり込み、それをもとに小説を書いてみようと思い立ち、作法もへったくれもなく、原稿用紙にシャーペンで横書きの体裁で、ひまを見つけては書き続け……というような『カディスの赤い星』出版にいたるまでの、涙なくしては語れない苦労話は、まったく有名なエピソードとして数々のところで紹介されているので、飛ばさせてもらいます。

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2020年1月16日 (木)

第162回直木賞(令和1年/2019年下半期)決定の夜に

 「知れば知るほど楽しくなってくる」のキャッチフレーズでおなじみの文学賞といえば直木賞ですが、そのいちばん新しい第162回の選考会が令和2年/2020年1月15日(水)に開かれて、受賞結果が日本じゅうを駆け巡りました。

 結果を知らなくたって生きていけます。しかし知ればもっと日常が楽しくなるのが、直木賞です。他の人のことはわかりません。少なくともワタクシがそうです。

 まあワタクシの場合はだいたい毎日、なぜ自分は直木賞を面白いと思うのか、考えて考えて、答えの出ないまま次の週を迎える、といったことを繰り返している、ほぼヘンタイの病人ですけど、たぶん日本で何百人か何千人かぐらいは興味をもってこの賞の動向を気にしている、と漏れ聞きます。おお。同志よ。心強いかぎりです。

 読まなくたって生きていける。でも読んでしまえば、もっと楽しい毎日が送れる5つの小説が、第162回直木賞の主役を張りました。いったい直木賞に何の文句があるのか、ある人もたぶんいるんでしょうけど、5つの候補作が読めた、それだけで楽しかったんですから、ここは大人としてお礼を述べておきたいと思います。

 誉田哲也さんのように、独自で我が道を切り開き、多くの読者を喜ばせてくれる作家に対しては、ただ尊敬の念しかありません。直木賞がそういう作家のなかでも、ほんの一部の、偏った方面の人たちしか顕彰できないのは、ほんと申し訳ないです。次に何が出てくるか読者の期待を引きつけながらも、現代の技術進歩に対してひとりひとりがどう受け取り、付き合っていくのかを読み手に突きつける。『背中の蜘蛛』、まじ重い。そしてしびれます。とりあえず「誉田さんを一度も候補に挙げることができなかった」という、直木賞のほうにとって屈辱の歴史が回避されたので、それは今回よかったです。

 小川哲さんの、おそらく今後も長くつづいていく作家生活で、いちばん最初に直木賞が候補に挙げたのが『嘘と正典』……って、どういうことなのか。もはやワタクシの稚拙なおつむでは、理解が追いつきません。『ゲームの王国』でまず候補に選んでおけばよかったのに。でも残念ながら、「嘘と正典」のように過去起きたことに何かを仕掛けるわけにもいかないので、小川さんが未来をつくっていくところを、かたずを呑んで見守るしかありません。次はもう破ってくれるでしょう。直木賞の古びた壁を。

 『スワン』の無差別殺人の導入部。関係者5人が集められて虚々実々で繰り広げられる事件検証の様子。その設定で、おっ、ヤルな、と思わされたところで、呉勝浩さんの叩きつけるような精神の混入が、主人公の女子高生に乗り移っていく後半部分に、釘付けになりました。ミステリーの形式だと直木賞では不利になる、なんて言われたのは、とっくのとうの昔の話(のはず)。呉さんには、謎と解決とワクワク感を守り抜いたミステリーを期待します。それで直木賞のほうが降参するときがくれば、それはもっと爽快です。

 さあ来ました。来てしまいました。いつの間にやら常連となった4度目の候補、湊かなえさんが、いまも着々と築き上げる作家的業績。これまで選考委員のウケが全然よくなかったみたいですけど、今度の『落日』で光明が差した気がします。また来るでしょう。来てくださるでしょう。文学賞向きじゃない、とても受賞できそうにない、と思われた10年くらい前から丹念に独自の作風を積み上げつづけるその軌跡は、いつかきっと「湊かなえ伝説」として語り継がれる時代がくるでしょう。

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2020年1月12日 (日)

今回から状況が逆転する、第162回直木賞の展望記事。

 直木賞には毎回、何かしらの注目ポイントがあります。

 そのほとんどは、無視して通りすぎても何の障害もなく生きていけるような類いのものです。なので、この時期に文芸関係者でもなく出版・書店関係者でもない者が、直木賞、直木賞と騒いでいると、だいたいそれだけで一般的に白い目で見られます。正直、世間のなかではそれほど重要な行事ではありません。それが直木賞というものだと思います。

 それはともかく、今回の直木賞で気になることといったら、やはりこれでしょう。いよいよ女性が大勢を占める回が到来した、ということです。

 何を言っているんだ。直木賞の候補が全員女性になって多少の話題を振りまいたのは、半年前のことじゃないか。相変らず時間軸が狂っている、ふざけたブログだな。……と自覚しないでもありません。しかし、女性か男性かの視点から直木賞を見たときに、転換期が今度の第162回にあることは明らかです。

 林真理子宮部みゆき桐野夏生高村薫角田光代、合計5人。対して男性は、北方謙三宮城谷昌光浅田次郎伊集院静の4人。創設から85年たってようやく、そしていっしょにやっている芥川賞に先んじて、選考委員の男女比が逆転した今回は、直木賞にとって大きな節目となります。

 直木賞(や芥川賞)の委員が、男性ではなく女性であることで、何か影響があるのか。そういうことは、昭和62年/1987年上半期(第97回)に田辺聖子さんと平岩弓枝さんが選考委員になったとき、さんざん報道各社が取材を行い、論評めいた記事が続出したので、改めて蒸し返す気も起こりません。ここでは、直木賞の新しい歴史を切り開くことになる5人の選考委員は、どういう作品を評価しそうなのか、想像する材料のひとつとして、これまでの歴戦・苦戦ぶりを振り返ってみたいと思います。

林真理子(委員在任:20年/第123回から今回で40回目)

選評で高く評価した候補作

 個人的なことを言いますと、うちの「直木賞のすべて」というサイトをひっそりと始めたのが、ちょうど20年前になります。

 そのとき、46歳の若さ(?)で新任の委員として加わった林さんも、気がつけば現メンバー最長在任委員のひとりです。以来、サイトのほうでもブログのほうでもずいぶんイジらせてもらいましたが、小島政二郎さんに始まって、木々高太郎村上元三石坂洋次郎渡辺淳一などなど、直木賞の魅力は、世間一般からもイジられるような選考委員がいなければ、確実に半減します。

 その意味では林さんこそ、現代の直木賞を支えている、と言っていいはずです。あまり言う機会もないので、この場を借りて称えておきたいと思います。林さん。あんたはエラい。

 ちなみに林さんが高く評価したけれど、受賞しなかった候補作の系譜を挙げたのが、左の一覧です。

 ミステリーだろうがファンタジーだろうが、いいと思ったら全力で推すこの感じ。目立ちすぎて叩かれる、という林さんにおなじみな展開を生む隠れた要因でしょう。そしてワタクシ自身、直木賞の受賞作リストよりも、林さんが推奨した作品リストのほうが何だか好みにマッチしている、ということを告白します。お恥かしいかぎりです。……って、けっきょくまたイジっていますね。

宮部みゆき(委員在任:11年半/第140回から今回で23回目)

選評で高く評価した候補作

 林さんの次に古い女性委員は、もう10年以上もやっている宮部さんです。就任したのが48歳のときなので、もうじきン歳です。

 年齢はさておき、林さんと同じく宮部さんも、まあ受賞したもの以外の(落ちた)作品を褒める選評が多く、ほとんどそればっかり書いています。他の人がイイところを指摘している作品を、わざわざ追随する気がしないのかもしれません。だいたい、受賞しなかった作品がどこが素晴らしいかを、えんえんと、長ながと書く。宮部さんの開拓したスタイルです。

 そして推し切れなかった自分の非力を謝罪します。その反省が次に生かされているのかどうなのか、いまいちよくわかりませんが、きっと自分の推奨する作品を受賞させるよう、試行錯誤を繰り返しているのだと信じます。

 宮部さんが討ち死にした左のリストも、林さんに肩を並べるくらいに壮観です。時代・歴史小説、ミステリー、SFといったところを強く評価してきた歴々たる記録、といった感もありますが、まあだいたい直木賞が、それらの小説にやすやすと賞を与えることをしてこなかった記録、と見ていいかもしれません。

 林・宮部の最強タッグを組んで、潮目を変えてもらいたいと願うところです。

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2020年1月 5日 (日)

直木三十五、日本が迎える未来のことを書きたくて、満洲や上海を旅する。

 新年最初のエントリーは、誰を取り上げるのがふさわしいのでしょうか。

 いちいち考えるのも無駄なので、さっそく本題に入ります。毎年1月といえば、直木賞の月です。個人的にはそれ以外に何もありません。直木三十五の、賞の、月です。

 去年「海を越えた直木賞」というテーマで1年続けようと思ったときは、全然頭になかったんですけど、そういえば直木三十五さんも海を越えた作家でした。明治24年/1891年生まれで、昭和9年/1934年没。当時、日本を出国しないままで生涯を終える人はたくさんいたはずです。そのなかで直木さんは2度ほど海を渡ります。その成果をもとに作品も残しています。

 そもそも外国を旅行したうんぬんの以前に、直木さんの履歴のなかで外国物は外せません。G・K・チェスタートン、エドガー・ウォーレス、ヘンリク・シェンキェヴィチなどの翻訳は「訳者として名前を貸しただけ」説があり、ほんとうに直木さんの仕事だったのかはわかりませんが、大学進学のときに英文科を選んでいるのは事実ですし、あるいは、いくつか手がけた出版事業のなかで大いに成功したと言われているのが『トルストイ全集』刊行だっだりします。こういう人の名前を冠しているわけですから、その文学賞が多少なりとも国際的な側面をもっていたって、バチは当たらないでしょう。

 ……と言いながらも、昭和のはじめに直木さんが外国を取材した、と現在の感覚で言ってしまうのは語弊があるかもしれません。最初の旅行は、まだ日本が占領するまえの満洲地方。2度目は、欧米および日本がヒトの国土をめぐって鞘当てを繰り返していた頃の中国・上海。いずれも日本がよそさまの生活を侵してまで自国の政治・文化を広げたいと思っていた時代に、身近にあった隣国です。

 そのころ、といいますと1920年代後半から30年代、直木さんは大衆文芸作家として急激にマスコミで名前が売れはじめていました。とくに彼を有名にしたのが、軍部と密接にくっついたファッショ主義の持ち主という側面です。左傾ではなく右傾、とそういうことになっています。

 昭和5年/1930年、直木さんは一世一代の代表作「南国太平記」を新聞に連載して、ついに流行作家の地位にのぼりますが、このころ日本国内で話題になっていたことといえば、満洲に対する日本の政策(あるいは日本人たちの向き合いかた)でした。欧米列強に遅れまいと、必死に満洲への進出をすすめる日本。一般的には賛否両論があったようですけど、知識層ないし文学者の方面では「こういう帝国主義的な他国への侵略は悪だ」という認識があったみたいです。ごもっともです。

 しかし直木三十五という人間の、ちょっとイタイ性格が、ここで過敏に反応します。なんといっても生まれついてのアマノジャクです。世間で良識だと見なされる考えかたに対して、つい逆張りしてしまう直木さんの言動は、これ以外にもいくつも見られますが、満洲に関しても例外ではありません。偉そうな奴らは、侵略するのは悪いことだと言う。だからこそ、おれはそんなことはない、と言ってみせる。……というような発想です。

 昭和5年/1930年10月、満洲を1週間ほど旅行し、翌年にはその取材をもとに「村田春樹」という名前で、いわゆる架空戦記物に属する「太平洋戦争」(『文藝春秋』昭和6年/1931年2月号~8月号)を発表します。村上春樹じゃありません。村田春樹です。

 伝えられるところによりますと、直木さん自身は昭和5年/1930年~昭和6年/1931年当時の世界と日本の情勢を自分なりに分析し、きっとこういうことが起きるだろうと予想して書いたにすぎず、別に自分の政治思想をそそぎ込んで世に広めよう、といった感覚はなかったそうですが、流行作家の直木が戦争物を書いたぞ、右傾化しているぞ、と言われてしまいます。そこで、はあすみません、僕の書き方が悪かったですね、などと殊勝に引き下がらないところが直木さんの面目躍如たるところで、うるせえな、ファシストぐらいいつでもなってやらあ、と受けて立って、翌年に「ファシズム宣言」をぶっ放します。それでまた世間がワッと沸く、という展開です。

 こういう流れを見ても、直木さんに何か一本芯の通った立派な理念があったとはとうてい思えません。ハッタリとその場しのぎです。もしも文学賞というものが、例外なく尊敬されるべき人物の名前を冠しなければいけないものだとしたら、この人など、まず文学賞として語り継がれるにはふさわしくない人でしょう。

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2019年12月29日 (日)

皆川博子、「時代小説で直木賞をとった」レッテルから脱して、自分の好きな世界を描く。

 皆川博子さんといえば何といっても海外です。ヨーロッパです。……などと、断言してしまっていいのでしょうか。皆川さんの海外モノはたしかにインパクトがあって強烈に印象に残る、だけどそれだけの作家とは言い切れない、その感じがまったく果ての見えないこの作家の幅広さです。

 そう考えると、この人の名前が受賞者リストにあるだけで、どれだけ直木賞が救われていることか、対外的な影響は計り知れません。一般に直木賞には漠然とした傾向があると言われ、少なくとも構成が整っていて、文章のただずまいとストーリー展開のバランスがとれた、従来のオーソドックスなかたちにハメ込めるタイプの小説が、賞全体の基本をなしています。そこがいまいち、直木賞という賞の突き抜けない原因ともいえますし、いつの時代もトガった文芸に傾倒する一派から馬鹿にされつづけてきた所以でしょうけど、たしかに数ある皆川さんの小説のなかで、よりによって授賞作を『恋紅』にしたことを見ても、この賞に向ける不満が世に絶えないのもよくわかります。

 しかし、受賞させるか落選させるか、文学賞の価値はそこだけにあるわけではありません。どんな人の何という作品を候補に選んできたか。その履歴を刻々と資料として残す文学賞は、いっときの盛り上がりを超えた大きな枠組みのなかで、後世の読者に対しても小説の幅広さを示してくれます。その点、直木賞の候補選出の道のりは、まだまだ対象が狭くて物足りない人もいるでしょうが、けっこう面白い選球眼です。

 皆川さんがはじめて直木賞の候補に挙げられたのは、第70回(昭和48年/1973年・下半期)のことです。『小説現代』の新人賞を受賞してまもない新人中の新人時代のときでした。候補となった短篇「トマト・ゲーム」は、東京に舞台を設定し、描かれる時代は書かれた当時から見た「現在」、あるいはさかのぼっても20数年前で、戦後に米軍キャンプが駐留し、そういう環境のなかで生活を送ってきた男女が登場するという、いわゆる現代ものです。

 現代の世相を小説に映し取ろうというときに、日本人ばかりが出てくる日本人の社会を選択しなかったところに、すでに皆川さんの国境を超えた人間たちへの興味が現われている、といってもいいかもしれません。それから3年後の第76回(昭和51年/1976年・下半期)、今度は書き下ろしの長篇小説でふたたび直木賞の候補に選ばれ、もう一歩、海を越える皆川さんの作家性があらわになりました。

 それが『夏至祭の果て』(昭和51年/1976年10月・講談社刊)です。江戸時代初期の、禁教政策で社会的な圧迫を受けながらそれぞれの信仰と向き合うことを強いられたキリシタンたちの物語です。

 ものの本によれば、というかご本人の書くところによれば、子育てに一段落ついた皆川さんが、それまでの膨大な読書経験を経て、なにか物語を書いてみようと思い立ったとき、強い関心をもって選んだ題材が、隠れキリシタンや殉教者たちのことだった、と言います。

 ひとりの大人が何かに興味をもつ理由は、いろいろあると思います。どうしてそこに注目したのか。そんなことをいちいち突っ込んでいったら答えは無数に出てくるでしょうし、本人も含めて正解を割り出すことなど、ほとんど不可能でしょう。じゃあどうして、うちのブログではそこに触れようとするのか。……この理由もまた、ワタクシ自身ですらよくわかりませんが、もはや直木賞とそれに関連する人たちのことをあれこれ考えるのが面白いから、としか言いようがありません。

 それで、キリシタンものの『夏至祭の果て』が直木賞の候補になって約1年後に、なぜキリシタンものを題材に選んだのか、皆川さんが語ったのは、こんな理由です。

「極限状態に直面したとき、人は、いやおうなしに自分の赤裸々な姿をみせつけられる。十数年前、はじめて小説に手を染めたとき、切支丹と禁教という素材に食いついたのは、その苛酷な状況が、人間をうつし出す鏡として、何より魅力的に思えたというのも理由の一つだった。敗戦によって大人から与えられる価値観が一八〇度逆転した少女期の精神体験も、その上に重ね合わせられた。」(『旅』昭和53年/1978年3月号 皆川博子「切支丹の島・生月の“お誕生日”」より)

 昭和20年/1945年にやってきた日本の敗戦という、自分自身の体験とからませています。

 幼少時代から古今東西問わずに物語に親しみ、人間たちが表に見せる顔とは別のものとして、負の感情の渦巻く心のうちがあることをさまざまな作品から吸収しながら育った皆川さんは、その過程のなかで西洋の作品にも数多く接します。戦中、戦後と本を読まなければ暮らしていけないぐらいの読書家として育ち、進学先には東京女子大学の英文科を選択、しかし健康上の理由から志なかばで退学すると22の年には結婚して家庭に入ったそうです。

 ちなみに「医学と超能力と」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母PartII』所収)のほか、いくつかのエッセイによれば、インチキくさい霊媒を本気で信じていた父、塩谷信男さんの命によって子供たちも強制的に交霊会に参加させられ、「お筆先」の役をやらされ、それがイヤでイヤで仕方なかったのに、親には絶対服従という家風のなか、ほとんどそこから逃げ出すように結婚生活に入り、親の束縛を断ち切るために、そうとうな苦労を重ねた、といいます。

 そういった現実の生活を送るなかで、キリシタンの受けた過酷さに一種の興味と魅力を感じてしまったというのは、読書というのは恐ろしいなと言いますか、わざわざ皆川さんの例を引くまでもないかもしれません。小説をはじめ種々雑多な本を読むことで、日本という国を飛び出す気分を、たぶん多くの人が味わったことがあるでしょう。

 『夏至祭の果て』で皆川さんが二度目の候補になった当時、まだこの作家に無限の蓄積や、次々と読み手を別の世界に連れていける視野の広さがある、というような印象は持たれていなかったと思います。そういう先々の可能性を、だれも気づかないうちにいち早くとられることができれば、それは文学賞としてはカッコいいところですが、残念ながら直木賞は、早い段階から新人賞に求められる発掘機能を放棄してしまったので、新人のころの皆川さんを引き上げることはできませんでした。

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2019年12月22日 (日)

高橋義夫、大陸から樺太にいたる土地と人々に興味を抱いてミステリー小説を書く。

 今年平成31年・令和1年/2019年の文学賞で、最も心に残ったのは、11月10日に白河市で開かれた第25回中山義秀文学賞選考会で、河治和香『がいなもん 松浦武四郎一代』への授賞が決まったことです。

 「最も心に残った」というのはさすがに大げさなんですけど、この文学賞では例年、それぞれの候補作に対する選考委員4人の評価がズレることは、ほとんど見られません。それが今年は明らかに評価が割れ、『がいなもん』を推す高橋義夫、中村彰彦、清原康正のおじさん3人組に対し、赤神諒『酔象の流儀 朝倉盛衰記』を推す紅一点の朝井まかて、という図式が展開されました。

 おなじみの公開選考会では、罵詈雑言の応酬のうえに両派とも立ち上がっての殴り合いに発展する地獄絵図が観衆の目のまえで繰り広げられた……などと、ウソを書いてはいけませんね。しかし、朝井さんが『がいなもん』に対して、史実に忠実であろうとする作者の意思と、物語としてのふくらみが噛み合っていないのではないか、と苦言を呈したことに、他の3委員がまるで実のある応答をしなかったのはたしかです。視点人物にお豊を選んだのが素晴らしいだの、歴史に対する作者の考えが見えていて、他の候補2作のような「学生の書くレポート感」がなくてよかっただの、そうやって繰り返し褒めるだけ。ああ、あの場所で人の評価に耳を傾ける気など、まったくない人たちなんだな、ということが如実にわかる選考会でした。

 と、義秀賞のことを回想してみたんですけど、「直木賞、海を越える」というブログ記事の導入としては、ちょっと間違ったかもしれません。

 仕切り直しまして、ともかくこの賞の委員を3年前から務めている高橋義夫さんは、第106回(平成3年/1991年・下半期)直木賞の受賞者です。歴史・時代物から出てきた作家は何度も候補にならないと直木賞では認められない、という法則があるとおり、高橋さんも衝撃の(?)歴史小説『闇の葬列――広沢参議暗殺犯人捜査始末』(昭和62年/1987年3月・講談社刊)で、第97回(昭和62年/1987年・上半期)にはじめて候補になってから、落とされ、落とされ、何度も落とされ、ようやく5度目の候補で受賞を果たしました。

 それで、ようやく受賞した作品が、それまでの候補作に比べて特段どうということのないシロモノ、というのも直木賞ではよくあることです。高橋さんといえども例外ではなく、受賞作の「狼奉行」より前の作品のほうが、歴史モノ時代モノの枠組みにとらわれない高橋義夫という人の幅広さが出ていて、ワタクシは好きです。

 なかでも第103回(平成2年/1990年・上半期)のときに、3度目の候補として挙がった『北緯50度に消ゆ』(平成2年/1990年3月・新潮社刊)は、「新潮ミステリー倶楽部」というレーベルのもつ多彩な印象とも見事にマッチして、滅びゆく人間たちという歴史的な事象に光を当てながら、読者に面白く読んでもらおうとする作者の試みがからみ合った一作になっています。どうしてこれが文庫にもならず、直木賞史のなかに埋もれているのか。高橋さん自身の意向なのかもしれませんが、いずれ復刊してほしいと思います。

 ロシア革命が起きて間もない1920年代。東亜同文書院の卒業旅行で満洲を旅する学生が、記憶をなくしたロシア人の娘と出会ったところから、国際的な政略にまきこまれる、という歴史語りに徹するのではなく、そのことがペレストロイカで揺れる現代ソビエトに関わりを持つパートが差し挟まれることで、この小説にいっそうの躍動感が生まれていることは間違いありません。そして何より、過去から現代にまで通じて日本とロシア(ソ連)の人間たちが交わる土地、国家という構造がきしみ合う場所として、舞台を大陸からサハリン(樺太)へと移していく展開が、この小説の重要なところでしょう。

 いったいに高橋さんが、どういった経緯で樺太に行きついたのか。よくわかりませんが、昔から中国大陸の歴史については高橋さんの興味の対象だったことはたしかなようです。20代のころ、友人たちと神保町でPR会社をやっていたときは、よく古本屋をまわって、日本の大陸政策に関するもの、満鉄関係のものなどを買いあさっていたと言います。その後にフリーライターとなってさまざまなジャンルの文章を書きはじめても、関心の一端は切れることなく続いていたのでしょう、『北緯50度に消ゆ』刊行時にもプロフィールに「幕末維新を扱った時代小説を発表する傍ら、大陸に関する広汎な知識を生かした歴史小説を手がけ注目を集めている」と書かれるほど、大陸に対する高橋さんの思いは膨れ上がっていました。

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2019年12月15日 (日)

岡本好古、アメリカでの生活を夢見てン十年、ベトナム戦争を題材にして作家として立つ。

 作家になりたい。目利きの人に認められてデビューを果たし、筆一本で生活していきたい。……世の中には、そんな夢を追う人がいます。

 夢はあきらめずに追うのがいいと思いますが、ワタクシは単なる直木賞好きでしかないので、基本的に無関係です。しかし「直木賞のすべて」とか「文学賞の世界」とか珍妙なサイトをやっていると、そういう人から時どきメールをもらいます。だいたい用件は「あんたが誰だか知らないけど、とにかくおれの書いた小説はすごいから、出版を世話してくれないか」みたいなものです。こちらが微力すぎて、ほとほと扱いに困ります。すみません。

 基本的に無関係、と書きましたけど、直木賞の逸話を追っていると、受賞者や候補者のなかにそういう夢を追いつづけてデビューした作家が、ちらほら見受けられることも事実です。

 今回取り上げる岡本好古さんも例にもれません。作家を志してからコツコツと原稿用紙のマス目を埋め、同人誌に参加しながら、数々の新人賞に応募して吉報を待ちますが、落選につぐ落選の連続。受賞発表号の雑誌を本屋でめくり、自分の名前のないことに歯噛みする、そんな経験をえんえんと続けます。だいたい20代のはじめごろから18年間の苦行だった、と言いますから、なかなかの夢追い人です。

 へとへとになりながら、しかし昭和46年/1971年7月末日締め切りの第17回小説現代新人賞のために、一篇を書き上げたときは、これまでとは違う自信作ができたという感覚があったといい、応募するそばから、これは何だかとれそうだと予感がしたそうです。だいたい、こういう回想は後付けですので、ホントかよ、と突っ込みたくなるところではありますが、岡本さんの応募作は予選をどんどん通過して、ついには受賞にまで輝きます。若かった岡本さんもいつの間にか、妻と2人の子供を養う40歳のおじさん世代になっていました。

 この受賞作「空母プロメテウス」は、『小説現代』12月号に掲載され、途端に話題になったらしいです。何といってもいまとは違って『小説現代』だけじゃなく数誌の中間小説誌が文芸界の天下をとるんじゃないか、と鼻息あらく暮らしていた頃のおハナシです。

 そして、これもいまとは違って、雑誌に掲載された小説が世間で(というか、中間小説誌の編集者たちのあいだで)話題になれば、そのまま直木賞の候補になることも珍しくありませんでした。『小説現代』の新人賞というのは、『オール讀物』のそれと張り合って年に二回開催し、それなりに活躍する人材が輩出していましたが、岡本さんの受賞作は、この半期を対象にする第66回直木賞(昭和46年/1971年・下半期)の候補作に挙げられます。小説現代新人賞の受賞作としては、第6回(昭和41年/1966年)の五木寛之さん「さらば、モスクワ愚連隊」以来、およそ5年半ぶり2度目の事態。それだけでも本作がどれだけ編集者たちに衝撃を与えたか、うかがい知れるところです。

 ということで、どちらかといえば純文芸の方面で作家修業を続けていた岡本さんが、小説現代新人賞をとり、直木賞の候補になった「空母プロメテウス」は、まだ当時、交戦状態にあったベトナム戦争のひとまくを描いています。舞台は、アメリカ・サンディエゴからベトナム沖トンキン湾にいたる洋上。語り手は日系アメリカの軍人で登場人物は空母に乗り込んだアメリカ軍人たちです。思いっきり海を超えた物語です。

 岡本さん自身は、戦争の現場を知りません。生まれたのが昭和6年/1931年の京都。軍国主義のもとで少年時代を送りますが、終戦のときにはまだ13歳でした。出征経験はありません。

 それでハナシはズレますけど、岡本さんの履歴をもう少しだけ追うと、2歳のときに父親を喪い、母親に女手ひとつで育てられたそうです。家にはずっと寝たきりの祖母が同居していた、とのこと(昭和52年/1977年8月・酣燈社刊『歯に衣を着せず』所収「寝たきり十八年の祖母」)。

 その祖母というのが、日本映画史に燦然と輝く伝説的な人物、牧野省三さんの姉に当たる明治6年/1873年生まれのマスヱさんだったと言います。ここら辺、天下のwikipediaに何か書いていないかと思って、牧野さんの項目を確認したところ、姉がいたことすら触れられておらず、ちょっと不安になったんですが、『人事興信録』第七版(大正14年/1925年8月刊)には牧野さんの姉マスヱさんの記述があるので、たしかな事実でしょう。要するに岡本さんは、藤野齋さんの曾孫であり、牧野省三さんの姪の子供であり、まあ大きくとれば牧野一族の末端に属していて、岡本さん自身は大人になるまでその自覚はなかったけど、いずれ文学を志す血が知らず知らずのうちに流れていたのだ、と書いています。ホントかよ、という感じです。

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2019年12月 8日 (日)

虫明亜呂無、フランス語由来の名をもつ男が、ヨーロッパを旅して日本のことを思う。

 映画のことやスポーツのことを書くうちに、やがて独特な小説世界を開花させた虫明亜呂無さんは、東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子です。

 しかし彼の文章のまわりには、せまい日本を覆う窮屈な感覚を飛び越えて、ワールドワイドな風合いが明らかに漂っています。何といっても、名前が名前です。亜呂無(あろむ)。相当、日本人離れしています。

 本人によると、この本名は父親がつけたものだそうで、父は二科会、円鳥会と移りながら萬鉄五郎さんに師事した大正時代の洋画家。おそらく虫明柏太さんのことです。西欧の絵画にのめり込んだ父親は、ヨーロッパ熱が高じすぎたのでしょうか、9月に生まれた息子に、菊が香るのイメージから芳香を意味するフランス語「アロム」の名をつけてしまったのだ、といいます。もしかすると、尊敬していた萬鉄五郎の娘さん「馨子」から拝借したのかもしれないな、というのが亜呂無さんの説です(『文藝春秋』昭和43年/1968年11月号「わが名はアロム」)。

 ともかく亜呂無さん自身は、もっと平凡な名前がよかったなあと思いながら、日本という国や歴史に対して関心を深めていった……ようにも思えるところ、一方では西欧のものも同じくらいに好きになって、大学では仏文を専攻。日本とか日本以外だとか、そういう壁をつくらない意識のなかで、貪欲に内外の文化を享受し、やがてそれを伝える立場に身を置くようになります。

 いったいに虫明さんは、幼い頃からひとりでぶらーっと遠くに出かけるのが大好きで、その性格は年を経ても変わらなかったようです。いや、むしろ成長するにつれて放浪の傾向は強くなるばかりだった、と言っています(『月刊教育の森』昭和54年/1979年3月号「放浪へき」)。遠くに行く。何の理由もなく、ただただ家を離れて遠くに行く。東京を出て、日本を出て、異郷をさすらうそのことが、何の理由もなく心地よい、という感覚です。

 それでハナシは一気に飛びまして、虫明さんがユニークなナンデモ評論家から小説を書き出す時代に行くんですが、もうすぐ50歳に差しかかろうかという中年の頃。「小説がいちばん自分のいいたいことがいえますからね。」「今まではその準備のようなものにすぎません。」(『競馬研究』1351号[昭和45年/1970年4月])とインタビューで答えていて、「抒情と感情で語る評論家」の皮を脱いでいよいよ小説に向かうのは、虫明さんのなかでは自然な流れだったと言えるでしょう。

 このとき虫明さんが数多く手がけることになったのが、スポーツにまつわる人間たちの物語です。それがもう新風、新鮮にふさわしく、みずみずしくて先鋭的。虫明さんの切り開いた地平を起点にぞくぞくと、読んで面白い、対象人物に肉迫したスポーツ・ノンフィクション作品が日本で生まれていくことになった……と言われるぐらいですから、その素晴らしさには打ち震えますが、とりあえず他の文学賞の顔をうかがうことなく、虫明さんの小説を候補に挙げた当時の直木賞も、なかなかのものだと思います。

 第80回(昭和53年/1978年・下半期)といえば、いまから見るとちょうど直木賞の歴史の中間あたり。約40年ほどまえですから、そこまで昔ではありません。

 しかし、その候補作は『シャガールの馬』(昭和53年/1978年10月・講談社刊)という作品集に収められた「シャガールの馬」その他である、という記録が残っているいっぽうで、当時の文献には「シャガールの馬」「アイヴィーの城」「海の中道」の3作品だ、と報道されているものもあり(『日本読書新聞』昭和54年/1979年1月29日号)、まあ正確なところはどっちでもいいじゃないかというこの賞の鷹揚さ(もしくはいい加減さ)が垣間見える時代です。どっちでもいいのかもしれません。

 オビにある「収録作品とテーマ」の記述を、そのまま並べると、「海の中道」―マラソン、「連翹の街」―サッカー、「黄色いシャツを着た男」―プロ野球、「タンギーの蝶」―プロ野球、「アイヴィーの城」―テニス、「ふりむけば砂漠」―陸上競技、「シャガールの馬」―競馬、「ペケレットの夏」―ボート、ということになります。スポーツを扱った小説集であることはたしかなんですけど、声なき声のように、この一冊から国際的な香りが漂ってくるのは、やはりその何篇かの舞台が海外だからです。

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2019年12月 1日 (日)

今井泉、青函・宇高の連絡船勤めから「海の人間」としての作家人生をまっとうする。

 つい先日、令和1年/2019年11月11日のことです。岡山県宇野と香川県高松を結ぶ、いわゆる宇高航路のフェリーが今年の12月で定期運航をやめる、というニュースが流れてきました。人間の暮らしや社会の基盤はめまぐるしく変化しますから、瀬戸内を渡る方法がこの何十年間で劇的に変わるのも、当然といえば当然です。そう考えると、いまだに80ン年前の仕組みにしがみつき、いつまでもえんえんとやっている我らが直木賞も、この先いつどこで終焉を迎えたっておかしくありません。ドキドキしながら見守りましょう。

 それはともかく、いつもどおりに強引に進めると、宇高航路と直木賞。この組み合わせを出したら、今井泉さんを取り上げないわけにはいきません。日本中の人が許したとしても、神が許しません。

 日本でも(おそらく)有数の港町、高知市に生まれた今井さんは、土佐中学から丸の内高校を経て、神戸商船大学の航海科に進みます。昭和33年/1958年、卒業とともにどうにかこうにか国鉄への就職が決定。配属されたのは青函連絡船です。以来、青森と函館をつなぐ海上の往来で、ときに危険に遭ったり、ときに人の情に触れながら順調にキャリアを積んでいき、同航路の船長になったのが昭和45年/1970年、45歳のとき。その前後あたりから、ちょっと文章でも書いてみるかと、国鉄文学会北海道支部の発行していた『国鉄北海道文学』に参加したところ、今井泉ってずいぶんいい文章を書くじゃないかと、メキメキ注目を浴びるに至ります。函館文学学校に通ったり同人誌『晨』に加わったりするあいだ、函館市民文芸に一席入選するは(昭和52年/1977年)、国鉄文芸年度賞に一席入賞するは(昭和53年/1978年、昭和54年/1979年)、なかなかの大騒ぎです。

 とにかく今井さんの書く小説は、基本的に海上を行き来する船の物語、もっといえば船長が出てくるところに特徴がありました。その点、広がりはあまりありませんが、いいじゃないか、船員だって一人の人間にすぎないんだから、それを軸に小説を書いて何が悪い、と言わんばかりの頑固さで、現役の国鉄連絡船船長という得がたい肩書きをひっさげたまま、コツコツと創作を続けます。

 11年間、青函で船長を務めたあと、今度は郷里にも近い宇高連絡船に移って、そちらでも7年間、船長生活を送りますが、汗水たらして働きながら小説を書く、というのはもはや今井さんの日常になっていたらしく、香川菊池寛賞(昭和57年/1982年度)を受賞してからは、商業誌にも進出。昭和59年/1984年に『別冊文藝春秋』167号に「溟い海峡」を発表すると、おっとびっくり、これがいきなり第91回(昭和59年/1984年上半期)直木賞の候補に選ばれます。ただそれは、直木賞が『別冊文藝春秋』を出す文藝春秋がやっている賞だったからで、それほどびっくりではなかったかもしれません。

 文学賞とはいったい何のために存在するんでしょう。作家や編集者たちが定期的に盛り上がることを目的として、お金に余裕のあるところでとりあえず惰性でやっている、という側面は否めません。しかし、出版を商業ベースでやっている企業体として、事業を長く継続させるには、つねに先のことを考えなければいけないので、新たな人材を見つけること、見つけた人材のケツを叩いて物書き道を邁進してもらうことは、重要な仕事のひとつです。その意味からも、文学賞というのは有用な装置です。

 同人誌出身だから、ということもないでしょうが、今井さんの書く小説は、事件性よりもぐっと人情に、あるいは人間に対する信頼感に寄った文芸臭のする、はっきり言って地味なものばかり。こういうものを直木賞がすくい取っても別に文句はないはずですが、直木賞は新人発掘以外の、もろもろの機構が入り組んだ、訳のわからなさを備える文学賞でもあり、このときは今井さんに光を当てることはできませんでした。その後、同じく文藝春秋が噛んで開催されていた、将来への先行投資型のちょっと大きめの賞、サントリーミステリー大賞のほうで今井さんに職業作家への道筋をつけることができたので、それはそれでよかったと思います。

 ときは前後して昭和63年/1988年の春に、青函と宇高の連絡船が廃止となり、それを機に今井さんは船長を退任、筆一本の生活に入ります。年齢でいうと52歳から53歳のころ。専門的な知識もあり、人と違ったさまざまな経験をして、文芸修業の道も歩んできた今井さんの前途は、おそらく明るいものがありました。

 そういうなかで、第109回(平成5年/1993年・上半期)にもう一度、今度は文藝春秋から出た単行本『ガラスの墓標』で候補に挙げられます。基本的には、昭和50年代から60年代、まだ今井さんが船長を務めていた頃の『別冊文藝春秋』掲載の旧作をまとめたもので、これも直木賞(文春)だから候補に選ばれたんだ、と言うしかない類いの候補作です。

 本選では結局落選して、鈍い光を放つシブい候補作というところに落ち着きますが、やはり何といっても特徴は、海、海、そして海。日本に生きている以上、船乗りなんて何も特殊な存在ではない、というぐらいに海の上に生きる人間たちの、陸のほうでの生活と事件をからめた作品ばかりが並んでいることでしょう。

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2019年11月24日 (日)

村松喬、従軍記者として赴任したビルマで、忘れられない恋愛をする。

 村松梢風という作家がいます。白井喬二さんたちの大衆文芸の輪には参加しなかったけど、読み物の書き手として活躍したことでは、広義の大衆文芸を考えるときに、まず外せない名前です。

 大正後期、『中央公論』お抱えの情話作家だったころには、情話作家ごときが「創作」欄に作品を載せるとは何ごとだと、芥川龍之介さんたちがキャンキャン吠え立てたという、もの哀しい逸話も引き起こします。情話のような読み物は文芸じゃないあっち行け、という感覚は、大衆文芸は純文芸より格下だあっち行け、という偏狭さと、ほとんど同じです。昭和9年/1934年創設の直木賞もやはり同じような目に遭い、残念ながら文芸界隈で芥川賞と同格視されていたとはとても言えない不遇の文学賞になりましたが、似たもの同士の直木賞と梢風さん、両者に直接の関わりはありません。ただ、一族郎党まで含めると、無縁でもありません。

 なにしろ、第87回(昭和57年/1982年・上半期)にポロっと直木賞を受賞した村松友視さんがいます。梢風さんの長男の息子、という関係にありながら、籍のうえでは息子にされたという、そういうハナシを聞くだけでも複雑な村松家の一端が知れて、少しヒきます。じっさい村松梢風といえば奔放な女性関係で知られた人、というのが一般的な認識らしく、艶福家というかエロおやじというか、女なしでは生きられない、よくいるタイプといえばタイプの男かもしれません。

 直木賞にはもうひとり、この人と濃い血のつながりのある候補者がいます。友視さんの伯父、つまり梢風さんから見れば三男に当たる村松喬さんです。

 風貌やたたずまいなどは、ほとんど梢風の生き写しと言われるほどそっくりだったそうですが、父のあとをなぞるように新聞社に勤め、文章を書き、そして小説にも手を染めました。直木賞では第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、二期連続で候補に挙がります。

 いずれの候補作も書き下ろしの単行本です。先に候補になった『異郷の女』(昭和31年/1956年12月・虎書房刊)は、井上靖さん、由起しげ子さんの推薦文をつけたモノモノしいなりの小説で、舞台は太平洋戦争中のビルマ、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員、とほとんど村松さん自身の体験が反映されています。約半年後に刊行された2つ目の候補作『ONLY YOU サンパギータは夜の花』(昭和32年/1957年6月・虎書房刊)もまた、前作と同様、時代は太平洋戦争中、主人公は日本の大手新聞社の現地支局員。今度の舞台はフィリピン・マニラ近辺ということで、こちらもやはり、村松さん本人の見聞がいかんなく盛り込まれた、実体験ものでした。

 大正6年/1917年生まれの村松さんは、昭和15年/1940年、22歳で早稲田大学を卒業して、東京日日新聞社に入社、フレッシュでエネルギッシュな若者記者としてまもなく昭和17年/1942年4月には南方前線部隊への従軍を命じられます。20代半ばの血気盛んな青年、とくれば、淫蕩の血が流れていようが、そうでなかろうが、女性への関心や性的衝動が抑えられなくなって当然でしょう。

 ということで、ビルマのラングーン支局に赴任した村松さんは現地ではじめて女性を知り、このひとと一緒になろう、一生を添い遂げよう、と一気に思いつめます。ビルマでの生活は短く、着任の翌年昭和18年/1943年5月には、フィリピン・マニラ支局に異動の命がくだされますが、『異郷の女』のなかに〈マ・ヌエ〉という名前で登場するシャン人の娘に、完全にイカれきっていた村松さんは、そこで人生の選択をせまられました。社命に従ってビルマを去るか。いやいや、このまま残って〈マ・ヌエ〉とともにビルマに骨をうずめるか。

「決断というか、選択を迫られることが人生には時々あるということでして、ぼくは比較的悔いのない生き方をしてきたと思います。一つの選択はビルマを離れる時で、ぼくは現地の女と同棲していましてね。まあ若かったし、ほとんどそれがはじめての女なのです。ほんとうにビルマ人になってしまおうと思ったことがありましたよ。そこへ「マニラへ行け」という社命で、随分悩んで熱を出して寝込んでしまった。気力が弱って、そこでがんばって残るということができなかった。できなかったけれども、それはやはり一つの選択を迫られたことでしたね。」(昭和49年/1974年12月・番町書房刊、三国一朗・編『昭和史探訪(4) 太平洋戦争後期』所収 村松喬「「英霊」四七万・比島戦記」より)

 好きな相手でありながら、社会的な環境の変転で意にかなわず別れなければならなかった、戦中ビルマでの強烈な思い出。どんな場所、どんな環境でも、恋愛による精神の高ぶりは、あとになって振り返ってみるとよけいに、その本人にとっては人生の一大事件だったと感じられるものでしょう。それはよくわかるんですが、村松さんは帰国後に毎日新聞の学芸部に籍をおき、文化全般のジャーナリストとして再出発を切ったあと、10年ほどたって、なぜか過去の実体験を小説化しはじめます。

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«古川薫、カナリア諸島に出向いたまま、会社に内緒で遊んで暮らす。