2020年7月 5日 (日)

昭和12年/1937年前後、日本大学芸術科が創作科のなかに大衆文芸専攻を設ける。

20200705

 文化学院、明治大学と来ました。今週はこの流れで日本大学を取り上げます。

 それぞれの学校に創作指導的な学科ができたのが、文化学院文学部は昭和5年/1930年4月、明治大学文学部は昭和7年/1932年4月です。それに先駆けて三校で最も早かったのは日本大学芸術科でした。前身となる「美学科」が創設されたのは、大正10年/1921年だと言われます。

 その創設趣意書のなかには「大学に美学科を新設し、芸術大学の実を有せしめ、新芸術の創造を期し、天才の出現、評論家の輩出、芸術の民衆化等に於て新文化創造の一翼を荷はんと欲する」との文章も見えます。とりあえず念頭におかれていたのは絵画、彫塑といった美術だったり、音楽家の養成だったりしたのかもしれません。まもなく松原寛さんという哲学の学者が学科運営の長となって、大正13年/1924年4月に「芸術科」と改称……。ということになっているんですけど、専門部ないし学部というかたちで一般に認識されるようになったのは、それよりもう少し遅く、昭和4年/1929年からだった、ということのようです。

 1930年前後、明らかに創作教室の盛り上がりの第一波が日本に訪れました。その時代の風のなかで日大芸術科が姿を変えたのは間違いないでしょう。日大芸術科が大学部と専門部の両部を設置し、そのもとで演劇、舞踊、映画、美術、音楽などの分野とともに文学を専攻科目として打ち出したのが、昭和6年/1931年4月からです。

 この大学というか創作教室も、なにがしかの功績を残したものと思います。それが何だったのか、正直いってよくわかりませんけど、とくに文学賞の……芥川賞の歴史でいうと、ひとつの同人雑誌をつくり、それを継続して出しつづけた業績が挙げられます。誌名は、まんま『藝術科』と名付けられて、昭和7年/1932年12月に創刊。以来、そこに通う学生たちの作品が掲載される創作意欲の受け皿となった雑誌です。

 『藝術科』は他の全国で出ている同人誌と並んで、当然芥川賞の下読みの対象に組み入れられました。そのなかから吉川江子さんとか李殷直さんとか元木国雄さんとか三田華子さんとか、そういう人たちの作品が取り上げられ、最終的な候補作となって本選で議論されたりします。正直、いまでも名前が残っている作家たちか、と言われると、泣いて逃げ出すしかないんですが、昭和10年代、群雄割拠の同人誌のなかで、たまさか同じ学校に通って小説を学んでいた、というつながりしかない人たちの雑誌が、芥川賞候補として何度も取り上げられたことによって歴史に名を刻んだのは事実です。

 創設当初に講師のひとりだったのは川端康成さんですが、だんだん足を運ばなくなり、代わりにその席についたのが伊藤整さんです。のちにこんな回想を残しています。

「今まで書いたことはないが、日大芸術科という極小の分派が昭和の日本文壇にある。東大、早大、三田等に較ぶべくもないが、それは仲間意識をもって存在している。

(引用者中略)

池田みち子さんは私が行った当時教室の十名ほどの学生の中にいた。その夜学生の中には、いま共同通信にいる堀川潭君、金達寿君、妻木新平君、岩波健一君、その他多くの忘れがたい人々がいるが、今は触れている余裕がない。私より年上の学生もいて、それぞれに昼間働いている人々なので、私などより世の中のことを知っていた。その人々の書いて来るものを読み合い、批評し合うゼミナールは大変活気があって面白かった。」(伊藤整「十返肇氏の思い出」より ―初出『文芸』昭和38年/1963年11月号)

 夜間の学校だったと言っています。学生たちも、他に勤めのあるオトナたちが多く、そういう人たちがあまりの創作熱をひとりで抱えることに耐え切れず、なけなしの生活費のなかから学費を払い、教室に通って自分で文章を書いては、批評し合っていたと言います。伊藤さんの同僚講師だった福田清人さんにも、やはりこの教室のことを語った文章があるんですが、他の分野に比べて文学は、それだけで世に出て食っていける、という類いのジャンルじゃないので、通ってくる人たちもだんだん「ここからデビューしてやるぞ!」みたいな考えは薄くなっていくようだ、うんぬんと書いています(昭和17年/1942年8月・国文社刊『文学ノート』所収「文学教師」)。

 創作できる人材を世に送り出す、とは言いながら、デビューできるのはひと握り。活躍しつづけられるのは、さらにひと握り……というのが、現実の世界です。いまも昔も、創作教室というものが持つ宿命と言っていいでしょう。

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2020年6月28日 (日)

昭和7年/1932年、山本有三が明治大学文芸科長への就任要請を引き受ける。

20200628

 前回は、文化学院と直木賞の結びつきに目を奪われて、昭和も後半の、大沢在昌さんのことにまで触れてしまいました。先走りすぎたので、もう一度、時間を巻き戻します。昭和ヒトケタ台、直木賞ができる直前の状況についてです。

 大正10年/1921年創立の文化学院が、創作の実技をとりいれた文学部をつくったのが昭和5年/1930年です。創立と同時でもよかったのに、なぜか誕生するまで10年近くもたっています。これが時代のムーブメントというやつなんでしょうか。1930年代。創作に主眼を置いた似たような教室が、いくつかの大学でつくられた時期に当たります。

 たとえば、先に紹介した野口冨士男さんは、文化学院のほかに、日本大学の芸術科、明治大学の文芸科を並べて挙げました。「教育機関で学生たちに創作を教える」という体制が、昭和のはじめにいきなり(?)日本文学の世界に生まれた、ということです。

 三者三様、当然それぞれの学校の歩みは違うでしょうし、ひと言で言えることがあるのかないのかもわかりません。とりあえず今週はそのうち、明治大学の場合を見てみたいと思います。

 明治36年/1903年に「明治法律学校」から改称した明治大学では、明治38年/1905年9月から1年間、「文学研究会」というかたちで文学の科外講義が行なわれ、その後の明治39年/1906年9月に三ヵ年で卒業となる「文学部」がスタートします。ところが、鳴り物入りで学生を募集したまではよかったものの、こんなところに入学して学びたいと希望するツワモノがあまりにも少なかったために、マジかよ、これっぽっちしか集まらないのかよ、と大学当局も絶句する有り様です。

 けっきょく3年たって、第一回生として送り出せた卒業生が、たったの3人。だめだこりゃ……ということで、たちまち大学は文学部を閉鎖、新規募集をやめてしまいます。学生が集まらなきゃ学校経営が成り立たないのは、いまの時代も明治のころも、大して変わりません。

 『明治大学文学部五十年史』(昭和59年/1984年3月・明治大学文学部刊)によると、その後、文科を復活せよ、復興せよ、と一部の文学亡者たちからうるさい声が何度も挙がったそうです。いや、「文学亡者」などと言っては怒られますね。文学教育が立派な社会人になり得る人材を養成し、いずれは社会幸福に寄与する存在になる、と信じる明大の卒業者や関係者たちが少なからずいた、ということです。

 それから飛んで昭和5年/1930年。この年は早大、慶大、明大などで授業料の値下げを争点にした学生運動がにぎわった年だそうですが、大学生たちのパワーと破壊力は、なかなか馬鹿にできません。それは、のちの1960年代とか1970年代とかの学生運動を見てもわかります。

 ともかく明大の場合、学生たちの要求のなかに「文科の復活」も挙げられていたそうです。それが徐々に現実味を帯びていくなかで、昭和6年/1931年には明治大学創立50周年式典、というタイミングが重なります。学内でも文科復活の機運が盛り上がっていくと、昭和7年/1932年の年が明けて、理事会、そして商議委員会という、「文学のことなんか何もわからんけど、それ儲かるの?」と、カネ勘定にばかり興味のあるジジイたちが議論を牛耳る、はてしなく大きな壁を乗り越えて、昭和7年/1932年4月の文学部開講へとこぎつけました。

 ナミダ、ナミダの復活劇……。といったところでしょうが、一度、入学募集者が少なすぎて失敗したことがある、という歴史も大きかったでしょう。そのため、あまりに実の出ない道には進めないというか、社会に出ても何の役にも立たない頭でっかちの学問ばかりは教えられない、という足かせがあったのは否定できません。

 それと、復活できたのがたまたま1930年代初頭のこの時期だった、というところにも明大の運を感じます。幸運か悪運か、わかりません。しかし、大学で文学なんか習ったってけっきょく学校の先生か、口だけ達者な社会落伍者ばかり生む、というような風潮が温まっていたのは、やはり明治時代でも大正でもなく、昭和初期、このころならではのことです。前に紹介した菊池寛さんも文化学院文学部長に就任するにあたって、卒業生が社会に出てもっと役立つような文科でありたい、みたいなことを言っていました。既成の文学部なるものに不信感をもっていた人がいたわけです。

 その感覚は、明大で文学部の復活に動いた人たちのあいだにも共有されていたらしいですけど、さらにこの考えに染まっていたのが、文芸科長への就任を要請された山本有三さんです。

 頼まれたときには、文学なんて人に教えられないよ、しかもおれはすごく忙しいんだ、と反応したそうで、それはそうだと思います。そのうえで、自分の作家稼業を犠牲にしてまで科長の職を引き受けるなら、いっそこれまでの大学の文科とは違う、現実の社会情勢に即した教育機関にしたい、と語ります。

 直截にいうと、作家を養成することを目的にしていた、とも言われています。実技指導で創作を教える、ということもあったでしょう。ここに山本さんなりの考えが混ぜ合わさった結果、こんなふうになりました。

「私はこの科を普通の学校というよりは、文芸修業者のための一つの道場として考へている。教へるとか、詰込むとか、暗誦させるというようなことに重きをおかないで、学生みづからが自身の力で「味わう。」「端的に会得する。」「自分の中にある芽を伸ばす。」そういう点に主眼をおいている。

(引用者中略)

私はまた教師に於る講義以外に、特に見学、座談というようなものを設けることにした。そして学生諸君と共に茶をすすりながら会談したり、あるいは演劇を、映画を、美術を、鉱山を、刑務所を、精神病院を見学するようなことをもやっている。」(『駿台新報』344号[昭和8年/1933年3月18日]山本有三「研磨会得の道場」より ―昭和54年/1979年3月・明治大学文学部五十年史資料叢書II『資料文科専門部の創設』所収)

 このころを知る、当時じっさいの学生だった桜井薫さんは、とにかく明大文芸科というのはすべてがユニークな学校だったと回想しています。同じく神田駿河台にあった文化学院も引き合いに出しながら、文化学院は明大より規模も小さかったはずだ、などとも言っているんですが、規模が大きいのに自由で闊達な気風な守られている、だから明大は稀有だったんだ、と胸を張りたかったのかもしれません(桜井薫「久保田万太郎氏のことなど――わが思い出のひとこま――」昭和54年/1979年10月・明治大学文学部五十年史資料叢書V『文芸科時代I(1932~1951)』所収)。

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2020年6月21日 (日)

昭和23年/1948年、能の研究に打ち込んだ杉本苑子が文化学院を卒業する。

20200621

 先週、令和2年/2020年6月16日に、新しい直木賞の候補作が発表されました。

 そのなかに京都の淡交社から出た、能楽に縁深い作品が入っています。能と直木賞。これまでも濃密に交わってきた組み合わせだと思いますけど、パッと思いつくのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)の受賞者、杉本苑子さんのことです。

 淡交社といったら今東光さんだ。……というよく知られたトリビアを、ここでストレートに口に出せないのが、うちのブログのイマイチなところですが、そもそも昭和31年/1956年に『淡交』という雑誌に連載中だった今さんの「お吟さま」を、毎月感心しながら読んでいたのが吉川英治さんで、ウワサによるとその吉川さんが、これを今度の直木賞の候補作にどうだろうかと推薦した、とも言われています。吉川さんが褒めていた、ということは、足しげく吉川邸に通っていた杉本さんも『淡交』を読んでいたかもしれません。ちなみに直木賞受賞後の杉本さんには、淡交社でのお仕事もいくつかあります。

 と、それはあまりに遠い縁ですが、しかし「能と直木賞」でハナシを進めるのであれば、やはり杉本さんの名は外せないでしょう。

 前週のブログでは文化学院のことに触れました。直木賞の受賞者・候補者のなかにも、同院に通っていた人が何人かいます。昭和5年/1930年に創設された文化学院文学部には野口冨士男さんが転入学、またそのころ文学部の人たちと仲良くなって同人雑誌を出していたのが、美術部にいた飯沢匡さんです。戦後には杉本苑子さん、さらに時代はくだって1970年代には大沢在昌さんなどが、ここで学びました。

 ということで、まずは直木賞受賞者になったひとり目、杉本さんですが、彼女の場合は在学中の素行が、どうにもナゾめいています。いや、それは「のちに作家になった人」という視点で見ているからで、素直に考えれば、とくに目立つことのない、どうということのない学生だったのかもしれません。

 杉本さんが入学したのは、同院が戦時中の強制閉校から復活を遂げた昭和21年/1946年、卒業したのは昭和23年/1948年12月です。当時も創作を学ぶ講義というのはあったはずですが、杉本さんが創作を学んだ痕跡は残されていません。10代から20代にかけての多感な青春時代、とにかく杉本さんは能の世界、観能、もしくは能楽史研究に夢中になったので、いまとなってはそちらのほうの逸話ばかりが目にとまります。

 戦局が深まりを見せる昭和10年代に、駒沢高女から千代田女専の国文科に進学したあたりから、杉本さんは能にくわしくて熱心だった先生とめぐりあい、能楽研究の面白さを知って没頭。小林静雄『世阿弥』(昭和18年/1943年12月・檜書店刊)など、能研究の最先端をゆく専門書を買い求めては、何度も何度もくりかえし読んだそうです(平成4年/1992年8月・光風社出版刊、杉本苑子・著『霧の窓』所収「青春の一冊―小林静雄氏の『世阿弥』」)。そうして千代田女専に通っていたころ、文化学院から転入してきた(転入せざるを得なかった)ひとりの女学生と出逢ったことが、のちに杉本さんが同院に入るきっかけとなったのだ、と磯貝勝太郎さんが『杉本苑子全集 第12巻』(平成10年/1998年3月)の月報で紹介してくれています(「杉本苑子さんと無名の女学生と西村伊作」)。

 学院に入学しても、能だ能だと、そればかり追い求めて手のつけられない学生だった。……かどうかはわかりませんが、卒業論文のテーマにはやはり「世阿弥」を選び、これが学院長の西村伊作さんの目を引いたのは、たしかなようです。

 歴史、とくに能の歴史に興味をもったひとりの女性がいたのはわかります。どうして杉本さんはここから小説の創作に向かったのでしょうか。

 あるいは、懸賞小説の応募といえば相場はカネ目当てだ、ということなのかもしれません。わかりません。とりあえず学院を出てから3年、昭和26年/1951年3月末が締め切りの、『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説の歴史小説部門に「申楽新記」を応募。本人の回想によると、世阿弥の生涯を扱った短篇だったそうですが、これが予選を通り、吉川英治、大佛次郎、海音寺潮五郎3人による本選考にかけられます。一席入選が松谷文吾さん(本名・沢寿郎)の「筋骨」、二席入選が黒板拡子さん(のちの筆名・永井路子)の「三条院記」、杉本さんは選外佳作にとどまりました。

 杉本さんが本格的に創作の勉強を始めるのは、翌年『サンデー毎日』大衆文芸第42回分に入選した前後、吉川英治さんに押しかけ弟子のようなかたちで師事するようになってからです。ちなみに、このときに入選した「燐の譜」は、能面師の氷見宗忠を描いたものですから、杉本さん本人が、能と出会わなかったら自分は作家になることもなかっただろう、と回想しているのもうなずけます。つまりは、能楽がひとりの直木賞受賞者を生んだのだ、と言っていいでしょう。

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2020年6月14日 (日)

昭和5年/1930年、できたばかりの文化学院文学部に野口冨士男が転入学する。

20200614

 世に菊池寛ファンというのは意外と多くて、先週取り上げた文春初期の名企画「文藝講座」なども、いろんな人が褒めています。たとえば松本清張さんは、あの時代に「講義録」じゃなく「講座」と名づけたネーミングセンス、キクチカンすげえぜ(昭和57年/1982年10月・文藝春秋刊『形影 菊池寛と佐佐木茂索』)とか何とか賞賛しているんですが、そもそも出版物に「講座」とつけた先例はいくつもあるのに、どうしてそこまで手放しで褒めることができるのか、よくわかりません。ファン心理というのは恐ろしいものだ。ということにしておきましょう。

 菊池寛という人物が後から見ても面白いのは、小説を書く、戯曲を書く、といったことの他に多様な方面に手を伸ばした人だからです。書かれた作品だけから昔の作家を考えてみる、なんて辛気くさいことは、おそらく全人類のうち微々たる割合の人しか興味をもたない、尊いような馬鹿バカしいような営為でしょうけど、菊池さんの場合は他の文学的な人物とは違って、出版、映画、演劇、放送、政治、競馬、麻雀、あるいは外見の美醜、女遊び、カネもうけなどなど、いろんな方面で成功したり失敗したり、硬軟とりまぜて人物像を追うことが可能です。敵も相当多かったみたいですが、信奉者が増えていくのも大いにうなずけます。

 ところで出版物のシリーズに「講座」と名付けた、文春のこのやり方。どこから発想されたものなんでしょうか。

 清張さんを上回る菊池寛ファンの総帥こと、永井龍男さんは「この「講座」というのも、菊池さんがつくった新語です。」(『海』昭和53年/1978年3月号「終焉の菊池寛」、昭和57年/1982年2月・講談社刊『永井龍男全集第十一巻』所収)と言っています。永井さんあたりの人が言ってしまうと、信用しなきゃいけない気持ちになって、それがおおよそ後世に間違った認識を残す害になったりもしますが、さすがに菊池さんの新語というのはフカしすぎです。いまはもう検索の社会ですので「講座」のついた書籍を検索してみると、『文藝春秋』のできる前の大正はじめ、1910年代からゴロゴロと出てきます。

 いっぽうで井上ひさしさんは「菊池寛は「文芸講座」という「講座もの」を始めました。その前に「日本資本主義講座」という大変売れた左翼系の本があり、それをもじったわけですね。」(平成11年/1999年1月・ネスコ刊『菊池寛の仕事』所収「講演 菊池寛の仕事」)と紹介しています。なるほど、そんなものがあったか。と思って少し調べたんですが、共産党の指揮下で出されたという『日本資本主義発達史講座』は昭和7年/1932年、『日本資本主義講座』は昭和28年/1953年で、菊池さんの「文藝講座」より全然あとです。井上さんの文章は、高松市で行われた講演を起こしたものらしいので、じっさいは「日本資本主義講座」のほうが菊池さんのをもじったんだよ、としゃべったのかもしれません。

 まあ、こんなことばかり気にしているとまるで先に進みませんけど、ともかく「講座」と聞いて連想される事柄といえば、何でしょう。本や冊子ではなく、一般的には学校・教室・スクールだと思います。そして、えっ学校なんてものに権威があったのかよ! と、いまを生きる私たちが驚くほどに、やはり明治、大正、昭和のころの「学校」には、知識を与えてくれる、立派で真面目で崇め奉る対象としての格式があったのは間違いないところです。

 というところで、少しハナシはズレまして、菊池さんおよび彼の周囲を取り巻いた当時の学校のことに目を向けてみます。菊池さんに関する多数の視点のなかに「教育」というものがあるからです。

 大正11年/1922年暮、34歳のときに『文藝春秋』を創刊した菊池さんは、その後同社で「講座もの」と呼ばれる講義録ふう評論エッセイ集を刊行しながら各方面でボス扱いされるうち、昭和5年/1930年4月、文化学院の文学部長に就任します。41歳のときのことでした。

「この四月から、文化学院で、文学部と云ふのをやることになつた。これは、専門学校程度の文科を、創作科、編輯科、演劇映画科と云ふのに別けて、実際的な教育をやらうと云ふのである。現代の官私立大学の文科は、創作家乃至文芸家として立つ者の準備教育としては貧弱を極めてゐる。(引用者中略)卒業して教師になる者以外、現在の文科に入ることは、無意義であるとさへ、自分には思はれるので、かう云ふ実際的文科をやつて見る気になつたのである。」(『文藝春秋』昭和5年/1930年3月号より)

 と菊池さん本人は言っています。文化学院は国家による教育機関ではなく、専門学校のような位置づけらしいですが、昭和5年/1930年に文学部というものができた当初から「創作」も授業に取り入れられていたようです。菊池さんの口利きでその講師には、じっさいに作家や評論家として活躍していた実作のある人たちが就任し、なにがしかの収入が発生して、出版界の経済を回していた……という意味では、やはりこれも菊池さんお得意の、文人に安定した職を確保するひとつだったわけです。

 そうは言ってもけっきょく授業のテーマは「文学」だったはずだ、大衆文芸の直木賞とは何の関係もないじゃないか。と言い張るのは、どう考えても浅はかでしょう。当時、文化学院の学生だった人が、のちに(かなり、のちに)直木賞の候補に挙がっています。第40回(昭和33年/1958年・下半期)『二つの虹』で候補になった野口冨士男さんです。

 幼稚舎から慶應義塾に通っていた野口さんは、普通部、大学文学部予科と進みながら、ついにそこを飛び出して昭和5年/1930年5月、文化学院に転入学します。以降3年ほど同学院に通い、しかしまともに授業にも出ず、だらだら暮らしていたそうですけど、野口さんの回想をもとに当時の文化学院文学部の陣容を挙げてみます。

 文学部長=菊池寛、1年足らずで後任に千葉亀雄が就任。創作指導=川端康成、中河与一。英語・英文学=戸川秋骨、十一谷義三郎、その後阿部知二、石浜金作、三宅幾三郎。フランス語=前川堅市、木村太郎、秋田玄務。国文=与謝野晶子、藤田徳太郎。漢文=奥野信太郎。演劇=三宅周太郎、岸田国士、北村喜八。編集=土岐善麿、菅忠雄。法律=末広巌太郎。自然科学史=岡邦雄。

 この昭和5年/1930年前後というのは、文学史でいうと大衆文芸の膨張(人にはよっては堕落と表現される)、もしくはプロレタリア文学の急激な、急激すぎる拡大があったとされる時代です。ここで芸術であることを心のよすがとする文学が、一学校の一組織というかたちで設立され、次代を担う若者たちへの教育に使われたのは、なぜなのか。偶然といおうか必然といおうか、書き手も受け取り手も増えていくいわば「大衆」の時代に、芸術たらんことを目指す文学が、カネの動く経済成長のなかで一つ生き残るところが、学校という場所だった、とも言えるでしょう。

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2020年6月 7日 (日)

昭和3年/1928年、文藝春秋社『文藝創作講座』を刊行、直木三十五も講師のひとりとなる。

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 直木賞が創設されたのは昭和9年/1934年です。芥川賞も同じです。その当時、出版事業の一角には「懸賞小説」という制度がすでに存在していましたが、既成文壇の人たちから、懸賞なんかからホンモノの文学が生まれるわけねーだろ、と冷めた目で見られていました。いまでも、そういう偏見を持っている人はいるかもしれません。

 直木賞も芥川賞も、新人を発掘する目的で始められた事業です。始めるに当たって、懸賞の制度をメインに打ち出してもよかったはずですけど、なぜか発表済の作品を対象にした別の企画として制定されました。それこそが両賞が成功した要因のひとつでもあるのだ、と主張する小田切進さんのような人もいます。たしかにそうかもしれません。

 世のなかには、菊池寛さんの偉業をことさら称えたい、いわゆる菊池寛ファンと呼ばれる連中がいます。そういう人たちは両賞の成功を、菊池さんのプランメーカーとしての才能に結びつけたがるようですが、正直、菊池さんに発案の功はあっても、プランメークの才があるようには思えません。あまり過大評価しないほうがいいと思います。

 しかし菊池さんの率いる文藝春秋社という組織があったおかげで、直木賞が生まれたのはたしかですから、あまり菊池さんを悪く言っても仕方ないですね。すみません。大正11年/1922年暮に創刊した月刊誌『文藝春秋』、その発行所としてスタートを切った「文藝春秋社」が、直木賞をつくったのは創業わずか12年ほどしか経っていない時期のことでした。このころ文藝春秋社が成功させたと言われる事業はいくつかありますが、その栄光の歴史!(?)のなかで名が挙がるものを見ると、文学賞の創設のほかに、ひとつ目にとまるものがあります。『文藝講座』の刊行です。

 文藝講座。いったい何なんでしょう。雑誌『文藝春秋』を順調に刊行し、世の読者に好評裡に受け入れられた菊池さんが、得意の思いつきをいちばんはじめに実現させた「文藝春秋社最初の事業」だそうです。発表されたのは大正13年/1924年7月号同誌上で、責任講師に徳田秋声、芥川龍之介、久米正雄、山本有三、菊池寛の5人が就き、会期を6か月として、月1円20銭を払った会員たちに毎月2回、講義録(というか書下ろしの文学論エッセイを集めた冊子)を配本するという、出版を通じて文芸教育を広めるための企画でした。

「時勢に鑑みて、文藝教育の普及を計りたいのがその名分だが、もう一つには小説雑文だけでは食えない同人及び関係者に仕事を与えたいためもある。「文藝講座」は芥川、久米、山本及び自分が中心となり、創作本位で、しかも学問的根拠のある立派な真面目なものにしたいと思っている。」(『文藝春秋』大正13年/1924年7月号より)

 という文章を菊池さんが書いています。この物言いが何ともキクチカンです。後年の直木賞創設のときにも見せた「事業の目的はひとつではないんだ」という姿勢が出ている、といいましょうか。純粋に公益に資したいという思いと、自分たちの組織の金儲けのためにするんだ、という半々の姿勢をはっきりと表明しています。

 それで金儲けして、どうするのでしょう。贅沢したいとか、いいモノ食っていい女を抱きたいとか、個人的な欲望に直結した気持ちもそりゃあったと思います。ただ菊池さんに、そもそもカネを稼げなきゃ人間生きていけないじゃないか、と作家稼業を職業としてとらえる考えがあったのもたしかです。『文藝講座』の企画には、その思想が確実に宿っています。

 直木賞もやはりそうです。小説を書く人たちの経済的な生活の安定と、彼らがお金をやりとりして生きていく業界の経済的な発展を見据えて始められた、という面は無視できません。菊池さんのアイディアがよりかたちになりやすかった大正末期から昭和初期、文藝春秋社の創業10数年の短いあいだに現われた「文藝講座」と文学賞創設という2つの企画。両者を似たものとして考えるのは、あながち突飛ではないはずです。

 「文藝講座」は責任講師のほかに、要は小説雑文だけでは食えない連中に文春が仕事をまわすための企画でもある、と菊池さんは言いました。そのひとりだった今東光さんが、文藝講座の仕事を引き受けておきながら、けっきょくサボり、菊池さんを怒らせてしまいます。いや、「文学士」と名乗れる学歴をもたない東光さんを、あえて文春側がこの企画から外したことで、東光さんがひどく怒ったのだ、とかいうハナシもあります。いずれにしても、この一件が大正13年/1924年、今VS.菊池の因縁の喧嘩別れに帰結したのだとも言われていて、何でもかんでも社会や人間が菊池さんの思うようにいくとは限らないんだ、ということがわかりますが、当初4,000名以上は会員がいないときちんとした仕事ができない、と言いながら会員を募集したところ、9月末の締め切りまでに7,500名から8,000名程度の申し込みがあったらしく、大正13年/1924年9月から配本の始まった『文藝講座』は全14冊、翌年の大正14年/1925年5月までで無事に終了しました。事業としては大成功だった、と語られる文章をしばしば見かけます。

 ところで最初の企画発表にもあったように、会期は半年6か月です。なぜ1年ではなく半年なんでしょうか。直木賞や芥川賞が、半年ごとに選考する事業であることを考えると、「半年」にしたこの発想に、両賞が年2回である理由のナゾが隠されているような気もします。いま何かをドヤ顔で言える証拠は手もとにないので、追ってここら辺も調べたいところです。

 ともかくも文春の「文藝講座」は、菊池さんをはじめ、講師となる書き手が実作の伴う作家たちを揃えたところに特徴がありました。「創作本位」、要するに自分で小説を書いている人たちが、その実体験のなかから文芸の精粋を語る、という建前だったわけですが、この成功を受けた文春は、さらに新しい講座モノに手を出すことになります。昭和3年/1928年に企画した「文藝創作講座」です。

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第14期のテーマは「小説教室」。文学史のなかでは傍流中の傍流、つまり直木賞のお仲間といってもいい事業についてです。

 ブログ形式で書きはじめて14年になります。どんなにくだらないことでも、14年もやっていると、いろいろな考えが頭をよぎるものです。

 たまさか直木賞という文学賞のたたずまいに興味を持ってしまい、その受賞作、候補作、周辺の本を読んだりしながら、受賞者、候補者、選考委員、裏で支える人たち、まわりでワーワー言っているだけの野次馬のことなどを、手当たり次第に調べてきました。まだ手始めも手始めで、ぜんぜん物足りません。

 何ひとつ終わりが見えず、なにかを学んだ気にすらなりません。まあ、俗にいう「人生の浪費」というヤツなんですけど、それでもまったく飽きることなく、「直木賞のすべて」というサイトとブログを続けていられるのは、やはり直木賞にまつわる事柄が多種多彩だからでしょう。

 それで直木賞のことを調べていると、気にかかる周辺テーマも増えるいっぽうなんですが、そのひとつに、小説教室というものがあります。

 小説を書きたい。プロの作家になりたい。あるいは、何となく興味を惹かれたとか友人に誘われたとか、動機はいろいろあるんでしょう。世のなかには小説の創作をお金を払って学びに行く人たちがいます。それを教える人たちがいます。小説講座とか、創作教室とか、文芸創作科とか、名称はさまざまありますが、単に文学を学問として学ぶという以上に、小説ライティングに特化したスクールが、現代の日本ではいたるところに存在します。

 ワタクシ自身そういうところに行ったこともなければ、行く気もないので、文学賞について調べるまではよく知りませんでした。いま現在、小説教室の存在意義を真っ向から否定する意見はあまり見かけませんし、当然のように、そこにあります。しかし歴史的に見ると、近代の日本文学が芽生えた明治の頃から自然に社会に根づいていた、というわけではなさそうです。徐々にその文化が広がっていくなかで「小説の書き方なんて、人に教えられるものかよ、ぷぷっ」とか「そんなことじゃ大作家は生まれないぜ」とか「世も末だ」とか、旧来の文学者や文学愛好家から馬鹿にされ、おちょくられ、なんだか怪しいものだと白眼視されていた、という暗黒の歴史を抱えていることは、直木賞を調べながら何となく横目に入ってきていました。

 そういえば直木賞も似たようなものです。いまでも文学賞を、単なる出版社の宣伝だ、話題づくりに堕したショーにすぎない、などと馬鹿にする人は数多くいますが、これは現在に始まったことではなく、昭和の初期、直木賞が生まれた時代から一定の批判が消えたことがありません。しかしいっぽうで、直木賞を受賞したおかげで職業作家になる基盤となった、という例は腐るほどにありますし、なにしろ文学と関係ない方面が寄せる「直木賞」ブランドへの評価、尊敬は尋常ではありません。賞の事業をやたら低く見る人と、やたら高く見る人。そのギャップが混然と存在していることが、直木賞の面白さを生んでいるのだ、と言っても過言ではないでしょう。

 とまあ、現段階では、これから1年間どういうブログを書いていこうか、全然まとまっていないんですけど、文学賞と小説教室は、まともな文学史をひもといても、まず中心的なテーマになりづらいもの同士です。いったい小説教室とはどういうかたちで発生し、どんな貢献をし、どんな弊害を生み出して文化現象として発達してきたのか。なるべく直木賞のことにも触れながら見ていこう、というのが今年のテーマの主旨になります。

 ふと目をあげれば、何かを調べたくても十全には進みそうにない社会状況がありますが、一週ずつの読み切りにこだわらず、ゆっくり少しずつ進んでいければと思います。ということで第1週目は、歴史をさかのぼって直木賞の発生した昭和初期、ちょうど直木三十五さんとも関わりの深い環境で登場した創作講座のことです。

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2020年5月31日 (日)

五木寛之、旅行先のモスクワで小説の素材に出会い、そこから一気にスターダム。

 先週取り上げた藤本泉さんは、昭和41年/1966年に商業誌にデビューしました。あんたの小説は純文学じゃないね、大衆文学だね、とか何とか同人誌の仲間から偉そうに批評され、その声を謙虚に受け止めて『オール讀物』そして『小説現代』の新人賞に応募、受賞したことがきっかけです。第6回小説現代新人賞は、その藤本さんを世に出せただけでも十分な成果があったのだ、と言えるんですけど、この回にはもうひとり同時受賞者がいます。五木寛之さんです。

 いまから50年以上もまえの昭和41年/1966年、40歳を超えたおばさん作家より、30代なかばの若々しさあふれた作家のほうに露骨にスポットライトが当たってしまった……というのは少し言いすぎかもしれません。しかし、「直木賞の歴史を変えた!」と言われる受賞者はこれまで何人もいますが、そのなかでも直木賞に与えた影響度、世間に対する衝撃度などでトップクラスに君臨するのが、五木さんです。作家デビューから1年もたたないうちに第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞を受賞、テレビから新聞・雑誌からこぞってバンバン取り上げられました。いまの直木賞受賞報道なんてチンケなもので、五木さんのときの破壊力はもはや空前絶後。と聞いています。

 それで「直木賞、海を越える」のブログテーマもそろそろ1年がたち、今回で50週目です。今日でこのテーマは最後になるんですが、五木寛之という存在は日本の中間小説の歴史を変えただけでなく、直木賞と海外の関係という点でも偉大にそびえ立っています。とりあえず最終週にふさわしい直木賞受賞者でしょう。

 五木さんにはデビュー直後から(いや、新人賞をとる以前から)現在にいたるまで、膨大な雑文、エッセイ、インタビューがあり、作家の業績をとらえようとする関連書もたくさん出ています。切り口は無数にあるのは間違いありません。なかでも直木賞との関係性で見たとき、どうしても気になるのが、五木さんの国際性です。海外との縁です。

 日本で生まれながら幼少期に海の外の、朝鮮に連れていかれ、昭和22年/1947年14歳のときに引き揚げを経験している、という海外との縁は、とりあえず措いておきます。注目したいのは直木賞と関連した部分です。小説デビュー作も、半年後に直木賞をとった作品も、ともに強烈なほどに海の外のことを描いている。そのことが、何とも新しい作家が直木賞に登場したもんだ! という一般的な印象を、よりいっそう高めたのは明らかです。当時の五木さんが、日本を舞台にした和風な小説で登場していたら、それほど注目されていなかったかもしれません。

 どうして小説の処女作がモスクワを舞台にした海外モノだったのか。というと、直前の昭和40年/1965年にシベリアからモスクワに旅行、数か月を海外で暮らしたからだそうです。どうして行き先がソビエトだったのか。もともと大学進学で露文科を選ぶほどにロシアの文学に興味を覚えていたからとか、いきなり欧米・西洋に行くより日本と親近性がありそうなロシアに足を向けたのだとか、いろいろ理由はあるんでしょう、しばらくゆっくり過ごせる場所ならどこでもよかったのかもしれません。

 ちょうど五木さんをとりまく仕事の状況も変化の時にありました。昭和39年/1964年4月、五木さんの所属していた「三芸プロ」社長の滝本匡孝さんが、社員の雇った殺し屋に殺害されるという事件が起きて、会社は解散。その前進というか母体ともいえる「冗談工房」も幕を引き、メンバーはみな別々の道を歩みはじめます。20代から30代、芸能マスコミの片隅でしゃかりきに突っ走ってきた五木さんも、ふと自分の人生を考えることになって、一度これまでの仕事を清算して次のステップに進むための充電として旅行を企てた、ということらしいです。

 先のことは何も考えない。目的をもたず、ぶらりと海外に行く。……というこの行動がすでにオシャレというか、大衆感覚から半歩から一歩まえに出ています。しかも、からだと心を休めるために休暇に当てたふうを装いながら、赴いた先でこの見聞を小説にしてみよう、とひらめいてしまう。何だか頭の切れるビジネスマンみたいです。

「『さらば――』は、五木サンがマスコミ無宿の生活を精算してソ連を旅しているときに、すでに構想ができあがっていたもの(引用者中略)。「五木寛之」としての処女作は、『さらば――』と、五木サン自身、決めていたのだ。その証拠に、五木サンが友人に宛てた当時の手紙があって、そこには、

「帰国後は旅の体験を源に小説を書こうと思っています。題名は『さらば、モスクワ愚連隊』ということにでもしましょうか。」

と書かれてある。」(昭和52年/1977年5月・大和出版刊、四倉芙蓉・編著『五木寛之全カタログ』より)

 現代のモスクワに住む現地の人たちの姿を、そこでたまさか関わることになった日本人の目から描く。小説現代新人賞で編集者や選考委員たち、あるいは受賞作として『小説現代』に載った作品を読んだ読者たちが、思わずこれはスゴい!と身を乗り出した要因に、素材の清新さがあったのは間違いありません。五木さんも旅立つまえには意図していなかったんでしょうが、旅をしている最中に題名まで決めて、これは小説になると頭が働く瞬発力……べつの表現を使うと「才能」ということになるんでしょう、ひとりの人間の、ひとつの海外旅行が直木賞という文学賞を、いや中間小説の歴史を大きく動かすことになります。

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2020年5月24日 (日)

藤本泉、西ドイツのケルンで生活を送り、最後に確認された場所がフランス。

 盛厚三さんという文学研究者がいます。北海道釧路にまつわる文学者や作品のことに異常にくわしく、また埼玉県春日部あたりの文学についてもよくご存じの方です。

 春日部というと、ワタクシの敬愛する先輩研究者、荒川佳洋さんが住んでいます。直木賞の選考委員をしていた三上於菟吉さんが同地の出身だった関係で、於菟吉関係の催しがあると荒川さんに誘われて足を運んだりするうちに、その集まりが縁で盛さんと知り合いました。

 平成15年/2003年5月から10数年来、盛さんは『北方人』(北方文学研究会・発行)という同人誌を刊行しています。ワタクシ自身、以前から同人誌という形態にあこがれに近い感情をもっていたので、何か書いたら載せてもらえますか、とお願いしてみたところ、何でも自由に書いてちょうだいよ、とすんなり快諾のお返事です。

 だれも読まないだろうと自覚しながら、無償の原稿を書く……。毎週ブログを書いているので、こっちも慣れています。取り上げたい直木賞の受賞者・候補者は山ほどいますから、これまで同誌の誌面を借りて米村晃多郎さん(第31号・平成31年/2019年3月)、桜木紫乃さん(第32号・令和1年/2019年8月)、堤千代さん(第33号・令和1年/2019年12月)のことなどを、あれこれ書いてきました。

 つい先日、令和2年/2020年5月に完成したばかりの『北方人』最新号(第34号)が、ワタクシの手元にも届いたところです。今回は第75回(昭和51年/1976年・上半期)直木賞の候補に挙がった藤本泉さんに焦点を当てて、彼女の前半生の文学生活を中心にまとめてあります。

 そもそも藤本さんについて知りたいのに、公刊された資料やネットを見ているだけでは、わからないことが多すぎるぞ! ……と発狂しそうになったのが昨年のことです。これはもはや動くしかないな、と勇気を出してご親族に連絡をとり、藤本さんの弟ご夫妻と長男ご夫妻それぞれにお話をうかがいました。生い立ちから、兄の戦死、結婚、実家との関係、同人誌『文芸四季』『現象』への参加などなど、興味のある方は『北方人』を入手して読んでもらえればいいんですが、ちなみに実家は藤本、名前は芙美、結婚して姓が変わったので本名「新藤芙美」。平成12年/2000年に『日本ミステリー事典』(新潮社/新潮選書)で杉江松恋さんが記載しているとおりです。また、平成1年/1989年66歳のときから現在まで死亡が確認されたことはなく、ン歳で亡くなったとする情報は基本的には不正確なもので、フランスで消息を絶ってから約30年、たしかに現在も行方不明中だそうです。

 と、人生最終盤のモヤモヤする展開をはじめとして、藤本さんといえば海外のエピソードがふんだんに出てきます。海の向こうとの関わりかたは、直木賞候補になった数々の作家を見渡しても、かなり特異と言っていいでしょう。ドイツに数年住んで、日本に戻ってくる途中のフランスでぱったり足取りが途切れたまま生死も確認されていない人なんて、そりゃ直木賞の候補者では藤本さんしかいません。特異です。

 行方不明の一件はワタクシもよくわかりませんし、ご長男でもいまなお何があったのかわからないご様子だったので、ここで新たに書けることはありませんが、藤本さんと海外のことは『北方人』の原稿では深く掘り下げられませんでした。とりあえずブログのほうに書いておきます。

 藤本さんの海を越えた人生を考えるとき、まず外せないのが父親の藤本一雄さんのことです。

 明治26年/1893年に静岡県で生まれた一雄さんは、東京で教師になって結婚したあと、猛烈に湧き上がる学究意欲を抑えることができず、東京帝大で学び、あげくのはては家族を置いて単身、海を渡ってアメリカの南カリフォルニア大学で学びます。いわゆる勉学の虫です。後年、東海大学の教授となって、『性格教育と宗教 徳育の根本問題』(昭和33年/1958年・明治図書出版刊)、『道徳の根本問題 性格教育の理念と実際』(昭和35年/1960年・明治図書出版刊)、『一般教育基盤としての宗教 道徳の根本問題 学理篇』(昭和41年/1966年・風間書房刊)などの著作も出しましたが、その原稿の整理や清書は、娘の芙美さんが頼まれることもあった、といいます。「お父さんの書くものは、面白くないからねえ」とブツブツ愚痴りながら手伝っていたそうです。

 一雄さんはお寺の生まれですが、一生涯を教育者として貫徹した人で、海外に行って学んだのも教育学でした。影響を受けたのはイギリスの教育学者ニイルの考えかたで、子供の自由を最大限に認める教育を実践する、というもの。日本でその思想を受け継ぎ「叱らない教育」を提唱した霜田静志さんとも交流を深め、またその考えをじっさいに行う場として故郷である静岡の現・菊川市で私設の保育園・幼稚園をつくります。昭和28年/1953年のことです。創設からしばらくは、芙美さんもしばしば実家に帰り、地域の子供たちに囲まれながら世話をしたりお話を創作して聞かせたり、教育現場に立つひとりとして過ごします。

 子供を育てて、その成長を見守る大人の行為には、国境もクソもない。ということなのかどうなのか、教育学もその現場もよく知らないのでうかつなことは言えませんけど、ともかく一雄さんが教育に対する自身の考えを高めるときに海外にその手本を求めたことは間違いありません。ニイルがイングランドに設立したサマーヒル・スクールには一度、二度と視察に訪れた記録もあります。芙美さんのほうは幼少時代に父の実家があった静岡で暮らし、その後東京に出て日本大学を卒業、まもなくの昭和22年/1947年には埼玉県所沢市に住む中学校教諭の新藤さんと結婚して以来、家庭に入ったかたちになりますが、まだまだ欧米に渡ることが特別だった時代に、彼女がとくにヨーロッパ方面におのずと明るくなったのは、父の一雄さんや霜田静志さんという身近な教育実践者をたどった先に、ニイルやサマーヒル・スクールなどのヨーロッパがあったからではないか、と推測します。

 商業誌のデビュー作こそ「媼繁昌記」という、日本の平安時代ごろを題材にした王朝時代モノでしたけど、デビューしてしばらくは『小説現代』『別冊小説現代』あるいは『小説CLUB』などにヨーロッパの各都市を舞台にした現代小説をぞくぞくと発表。あるいは、もはや伝説と化している「毎年夏になると自宅を離れて、地方に行っては家を借り、数ヵ月間そこで暮らす」という、藤本泉って何者なんだエピソードを飾る例の行動をとるときにも、北海道、東北、長野といった国内だけでなく、さらっとパリやケルンを行き先に選んでしまっています。

 『ガラスの迷路』(昭和51年/1976年8月)光文社カッパノベルス版の裏表紙には、「プラハ取材中の著者」とキャプションの付いたモノクロ写真が載っています。その横に書かれた説明書きは、こうです。

「「無器用な作家」を自称する藤本泉の取材方法は、一風変わっている。彼女は、対象とする土地に、何カ月でも居を移して住みついてしまうのだ。本書を書くにあたっても、前後二回にわたってプラハに滞在した。そうした創作態度が、作品に確かな表現力を与えているのだろう。」(『ガラスの迷路』裏表紙より)

 直木賞の候補になったり江戸川乱歩賞をとったりするまえから、とにかく身軽に海を越える人だった、ということです。

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2020年5月17日 (日)

木村荘十、中国を舞台にした「日本人が出てこない」小説で初めて直木賞を受賞する。

 ご多分に洩れず、うちも最近、部屋の片づけに明け暮れています。懐かしい本や資料が何年かぶりで出てくる。ああワタクシもあれから年をくったんだなあ、と回想や感慨にふける。あっという間に夜になる。という展開もまた、ご多分に洩れません。だいたい凡庸な暮らしを送っています。

 そんなこんなで部屋を整理しているとき、積み上げられた本の下から久しぶりに『消えた受賞作 直木賞編』(平成16年/2004年7月・メディアファクトリー刊)が出てきて、思わずギョっとしたものですから、今日はここに収録されている作家のハナシで行きたいと思います。加えて前週、深緑野分さんにかこつけて注目した「日本人が出てこない」受賞作・候補作のつづきでもあります。第13回(昭和16年/1941年・上半期)「雲南守備兵」で受賞した木村荘十さんです。

 同書に「木村荘十 人と作品“放蕩児”」という解説が載っています。自分が書いた文章ですけど、もう16年もまえのものなので、はっきり言って他人です。いまよりまったく直木賞のことを知らず、関連の資料をどこで探したらいいのかもわからず、作家と小説の解説なんか書いたことのないド素人が、よくまあ頑張って背伸びして、まとめたものだと思います。逆に「おれは直木賞に関する知識が豊富だ」という自負が薄い分、いまより読みやすい文章になっているかもしれません。

 この直木賞受賞作アンソロジーをつくるに当たって、当時の担当編集者、安倍(あんばい)さんから最初に提案がありました。収録作家のご遺族に取材しましょう、ご遺族の居場所を探してアポをとるのはこちらでやります、それをもとに川口さんが解説を書いてください、と。

 収録作家は計7人いましたが、安倍さんが全部連絡先を調べてくれて、じっさいに直接ご遺族のところにうかがうことができたのが5人分です(海音寺潮五郎、森荘已池、岡田誠三、小山いと子、藤井重夫)。富田常雄さんについては、くわしいハナシができる人ということで、ご遺族の了承のうえ、富田さんの秘書をしていたという元編集者の野瀬光二さんに取材しました。いまとなって思い返せば、もっといろいろなことが聞けたに違いない、と悔やまれますが、当時は野瀬さんの名前どころか、牧野吉晴と言われても「だれですか、それ」とピンと来てないボンクラなインタビュアーだった我が身を、ただもう恥じるばかりです。「川口さん、ボソボソ言ってないで、もっとちゃんと取材してください!」と、安倍さんにはずいぶん叱られました。

 それで、唯一直接の取材ができなかったのが木村荘十さんです。親族として姪にあたる光枝さんが対応してくださったそうですが、自分には伯父や直木賞のことを語れる思い出が何もないので、という理由で、戦後に小唄を習いはじめてその師匠だった八重子さんと結婚してからの木村さんのことを、お手紙で教えていただくにとどまりました。それと、木村さんの自伝的小説『嗤う自画像』(昭和34年/1959年12月・雪華社刊)を一冊お借りしたので、そこに書かれてあることを中心に必死になって解説をまとめた日の苦しみが、おぼろげながらよみがえってきます。

 以来16年。解説を読み直してみても、いまのワタクシにこれ以上のことは書けません。まったく16年何をしてきたのか、自分の不勉強ぶりが悲しくなりますが、このブログでは「直木賞、海を越える」のテーマに合わせて、直木賞史上はじめて「日本人が出てこない」海外物の小説で受賞したという視点から考えてみます。

 「雲南守備兵」はこんなハナシです。

 昭和15年/1940年の中国雲南府。貧民窟として知られる黄泥巷で生まれ育った孫永才伍長が、機密の手紙を前戦から軍務司長に届けるという任務で久しぶりにこの地に足を踏み入れます。しかし、孫の知っている街とは大きく様相が変わっていて、貧民窟にいた人々も多くが行方不明。うわさによれば多くの下層民たちが、官署の命令によって錫の鉱山に鉱夫として連れていかれたのだと言います。

 その後、孫の上官、沈大佐が、鉱山街である箇旧(コチュウ)の守備隊長に任じられたことから、孫もその鉱区に赴任します。そこで彼は鉱山の有様を目にすることになりますが、子供たちを過酷な労働につかせて、逃亡する者があれば容赦なく射殺する、という地獄絵図です。あまりのひどさにショックを受ける孫伍長。やがて知るところでは、洪開元という将軍が一帯の鉱区をなかば恐怖政治によって支配していて、イギリス人の技師長H・デューラン氏らとともに巨富を築き上げているとのこと。いわば暴利をむさぼる支配者、彼らに富と生活を搾取されつづける貧しい被支配者という構図です。

 自分がこれまで軍隊教育のなかで知らされてきた状況とは、まるで違う現実に、孫は怒りをおぼえます。街で出会った老人には、軽率に行動しても何も変わりやせんよ、と諭されますが、それでも我慢がならない孫はついに実力行使に打って出ることになるのです……。

 と、これは昭和16年/1941年の直木賞選考会でも、戦争小説、時局物ととらえられ、その観点から推薦する白井喬二さんのプッシュがあって受賞が決まりました。当時の日本でこの小説を読んだとしたら、どうなんでしょう。中国の政治、地方の統治にはオモテ沙汰になっていないだけで問題が多い。一般市民が鉱山で働かされて、その状態を改善する手だても打てない。だから日本が代わって支配して、中国の人たちの暮らしを守り、幸せにしてあげようではないか! ……と思わせる空気だったのでしょうか。

 木村荘十さんの作品を、全部読んだわけではないですけど、やはりこの作家は、カネ目になりそうな時流に乗った題材のものを、請われるままに発表していくタイプの書き手だったと思われます。戦後(いや、当時も)さんざん馬鹿にされ、影では批判されたはずの、ホイホイと軍国主義について回る、作家的良心など見られない大衆作家のひとりとしてです。

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2020年5月10日 (日)

深緑野分、「日本人が出てこない」小説に対する直木賞の議論に新地平を切り開く。

 「直木賞、海を越える」のブログも、例年どおり昔のエピソードを中心に進めてきました。でも一週ぐらいは、ほぼリアルタイムな最近の事例を取り上げたい。そう思いながら一年過ごしてきたんですけど、このところ家でじっとしていることが影響して、昔の話題を書こうにもネタが枯渇ぎみです。なので今週は、いまも現役バリバリ絶賛活躍中の若手(?)候補者と直木賞のハナシで乗り切ろうと思います。

 深緑野分さんは、日本人が出てこない海外を舞台にした小説で、第154回(平成27年/2015年・下半期)と第160回(平成30年/2018年・下半期)、二度候補に挙がりました。生まれは昭和58年/1983年。その年齢からして直木賞のなかでは若い候補者の部類に入ります。

 日本人が海外のことを小説化して何の意味があるのか。……という議論は不毛としか言いようがありませんけど、直木賞という文学賞はこれまで80余年、まともな評論を交わす場としてはなかなか一般に認識されず、またそれで何ひとつ問題もなく、いっぱしの権威として頑張ってきました。なぜ日本人が(いや、作家が)小説を書くのか。この不毛にも近い議論を、直木賞のなかで再燃させた画期的な候補者が、深緑さんです。

 客観的に見て、まず言えることがあります。日本人が出てこようが出てこなかろうが、直木賞のとりやすさや、とりにくさには関係がない、ということです。

 過去1,000を超すすべての候補作のうち、ワタクシ自身読めていないのも数作ありますが、おおむね把握できている内容で数えてみますと、以下のような数値が割り出せます。日本人が出てこない海外物(たとえば星新一さんのショートショートとか、宮内悠介さんの作品集だとか、微妙なものもこちらに入れます)を【無】、その他日本人が出てくる、ないし日本が舞台という作品は【有】と記します。

【無】【有】
総数36作996作
受賞7作(19.4%)192作(19.3%)
落選29作(80.6%)804作(80.7%)

 要するにほとんど違いがありません。

 いや、そもそも世のなかには「日本人の出てこない傑作」があふれているのに、そこから候補に選ばれる数が少ないんだ、だから候補に挙がった作品だけを見て「直木賞をとりやすい・とりにくい」を語るのはおかしいのではないか、という声はあるかと思います。ただ、そこに踏み込むと文藝春秋による予選の問題になってきて、情報は完全非公開、何が何の理由で選ばれ、どんな事情で落とされたのかわかりません。日本人が出てくる出てこないとは、別の要素がからみ合いすぎていて手に負えないので、ここでは「最終候補作に残ったなかで」という限定のハナシにとどめておきます。

 少なくとも最終選考会で、名前も顔もだいたいわかる有名作家たちが謙虚に激論したり、偉そうにふんぞり返って当落を決めたりしている、一般に直木賞の選考といって想像される例のイベントでは、日本人登場人物の有無は当落に関係ない、ということがわかりました。なので「いまどき日本人が出てこないという理由で深緑作品を落としている直木賞、クソ」とか批判している人がいたら、自分のイメージだけで物を語る浅はかな人間もいるんだなあ、とやさしく見つめながら、近寄らないのが無難です。

 しかしデータだけで終わってもつまりません。直木賞はデータを見る面白さと同じくらい、ひとつひとつ、事情も背景も違う候補作と当落の関係を考えていく面白さがあります。

 深緑さんの最初の候補作『戦場のコックたち』は、選考委員たちの心に火をつけたらしく、第154回の選考会では多くの時間をかけて議論されたらしいです。1980年代に生まれた日本人が、第二次大戦下のヨーロッパを舞台に、ノルマンディーへの降下からオランダ、ベルギー、ドイツと進軍するアメリカ軍コック兵を描く。べつに問題はありません。しかし林真理子さんが選評で明かすには、彼女自身は「どうしてアメリカ軍の兵士の物語を書かなければならないのか」という疑問が拭えなかったと言います。そういう感覚の人が一部にいることは社会の多様性を示しているだけのことで、これもまた問題ないでしょう。

 日本人が、日本人の出てこない海外の小説を書くことの意味。そこから作家が小説を書くとは何なのか、直木賞とは何なのかを突き詰める議論にもなって、思いのほか時間がかかった、ということです。そのなかで深緑さんの作品が「日本人が出てこないこと」が理由で落ちた、と思える形跡はまず見当たりません。

 票を入れなかったと見られる委員の意見からうかがえる、『戦場のコックたち』最大の落選理由は何か。よく調べたことに感心・感動するがはっきり言ってミステリーとしていまいち面白くない。……どうやら、そういうことのようです。

 つづいて3年後、第160回で『ベルリンは晴れているか』が候補に挙がります。第二次大戦後、連合国軍の統治下に置かれたドイツで、不審な死を遂げたひとりのドイツ人音楽家。戦後の荒廃した国土を目のあたりにしながら、その死の捜査に駆り出される少女の経験や冒険を通して、ナチスの台頭した時代の国内状況も描き出されるという、そうとう重い小説です。

 林さんの評価はみちがえるように大逆転、まえは他国の人を書いている違和感が残ったが、今度の小説はそれがまったくなかったと褒めたたえ、◎印をつけて推しました。ワタクシ自身、各候補作に対する感想が林さんと合致することが多く、いつもショックを受けている口なんですけど、『戦場のコックたち』はともかく、たしかに『ベルリンは晴れているか』は受賞しても不思議じゃない作品だったと思います。ところが残念なことに、やはりこの回も受賞には至りませんでした。ミステリーとしての構成に不満を抱かれたのが、主な原因だと伝えられています。

 いずれまた訪れる(はずの)3度目の候補作では、謎の提示と終盤の解決とに見られる不自然さを、どう払拭してくれるのでしょう。深緑さんと直木賞の未来には、もう楽しみしかありません。

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«伊藤桂一、中国での戦場体験をプラスに変えて直木賞を受賞する。