岬洋子…夫の帰ってこない家で娘二人を育てながら、こらえ切れずに創作に立ち向かう。
人の人生はさまざまです。「直木賞研究家」などと珍妙な肩書をかかげながら、別に体系だった調査をするわけでもなく、ただ自分の気になった事象や人物の表面だけをすくっているような野郎には、あまたいる直木賞候補者の人生の、何ほどもわかるはずがありません。
いま同じ時代を生きている作家はもちろんですし、昔の人となればなおさらです。いったいどこで生まれ、何を考え、どういう生活信条で小説を書き、そして死んでいったのか。正直ほとんどわかりません。
戦前の直木賞候補者であるこの人も、その一人です。第10回(昭和14年/1939年・下半期)で「妻と戦争」が、第14回(昭和16年/1941年・下半期)で「花開くグライダー」が直木賞の候補になりました。生まれは明治37年/1904年6月、本名を片桐君子さん、といいます。
ただ、いったい両親はどんな人だったのか。まずそれが不明です。本人が語るところによると、「片桐」姓を名乗って君子さんを育ててくれた両親は、血を引いた実の親ではなく、自分にタネを残した男、腹をいためて産んだ女は、ほかにいたそうです。しかし、実の母親は東京・烏森で芸者か何かをしていた人、と聞いたことがある程度で、君子さん本人も、生みの親が何者だったのかよくわからないと語っています。
それで、何の縁でか京都に住む牧場経営者の片桐治郎吉さんとその妻に引き取られて、戸籍上は「片桐君子」となった。というわけですが、本名での活動のほか、彼女もいくつかの筆名をつけ、そのなかの一つで世に知られるようになります。
結婚したのは昭和3年/1928年、24歳のときでした。まだそのころは本名で女学校の英語教師をしていた頃で、文壇的には木村毅さんとか大宅壮一さんなどとは知り合っていたそうですけど、小説家としては無名も無名です。結婚したとはいっても、相手が片桐家に婿入りしたようで、君子さんの本名は変わらず、そのまま名乗りつづけます。
しかし、娘を二人生むなかで、夫との生活は苦労の連続です。なにしろ夫の武さんは稼いだ給料は家には入れず、自分の交際費にほとんど使って、家にもあまり帰ってこなかったというんですから、君子さんじゃなくても、そりゃムカつきます。ムカつくなかで君子さんが手をつけたのが、小説の執筆。吐き出したいもの、叩きつけたいものは、鬱憤としてたまっていたことでしょう。
君子さんは振り返っています。
「父はまもなく自分の仕事に失敗して、財産どころか、借金を背負わされるし、良人は殆んどもって帰らないし、子供は生れるしで、それから(引用者注:結婚してから)の十何年間を、私は毎日の新聞さえろくに読むひまもない貧乏世帯のやりくり生活をつづけた。少々の才能なんか、きれいにすりへらして、愚痴っぽい糠味噌女房になってしまったが、それでも子供たちが小学校へ通い出してやっと僅かなひまをみつけると、私は家計の赤字を埋めるために、家事のかたわら原稿でも書いてみようという気になった。
(引用者中略)
大衆小説、詩、短歌、歌謡曲、しまいには標語や告白もの類まで手あたりしだいに送った。こまかいものの当選は、大方忘れてしまったし、没となって陽の目を見ずにしまったのも数多かったが、三百円という当時としては大金の懸賞金を貰って、今に忘れられないのは、昭和十一年の週刊朝日に「ラーゲルの人々」が一席に、つづいて翌年「タイモリカル」が二席に当選したことである。五つばかりの筆名を使っていたが、大庭さち子は「ラーゲルの人々」に初めて使ったものである。」(『出版ニュース』昭和28年/1953年6月中旬号 大庭さち子「私の処女作と自信作 自信作など一つもなし」より)
ちなみに、長女を生んだのが昭和3年/1928年、次女が昭和5年/1930年です。〈岬洋子〉の筆名で「光、闇を貫いて」が『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の選外佳作になったのは昭和8年/1933年なので、ほんとうに子供が学校に通うようになってから書き始めたのか、ちょっとつじつまが合わない気がします。
さらにいえば、それより前、昭和6年/1931年には『主婦之友』4月号に「読者の実験談 恋愛結婚と媒酌結婚と果して何方がよかつたか?」に、兵庫県在住の〈大庭さち子〉名の体験談が載っていて、内容からして、うーん、これも君子さんの書いたものじゃなかろうか、だとすると「ラーゲルの人々」で初めてその筆名を使ったという証言も信じがたいんだが……と疑おうと思えば、果てしなく疑いは増すばかり。ぐるぐる目まいがしてきます。まあ小説家の回想ですから、事実関係にウソが交じっていても、目くじら立てちゃいけないよ、ということかもしれません。
それはそれとして、デビュー前に筆名を五つほど使っていた、と回想にあります。〈岬洋子〉はわかっているんですが、その他、いったいどんな名前で応募していたのか。子供の世話をしながら、君子さんはどういう気持ちで別の名前を自分につけ、原稿用紙に向かっていたのか。きっと心のうちに渦巻くモヤモヤと戦っていたんじゃないかと想像しますが、それはもう本人にしかわかりません。直木賞の周辺は、いくら調べたところでわからないことだらけです。
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