2021年3月 7日 (日)

昭和62年/1987年ごろ、高校を卒業した森絵都が、作家を目指して日本児童教育専門学校に入学する。

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▼昭和57年/1982年、日本児童文学専門学院が設立される。

 小説教室だけでも範囲が広いのに、周辺分野となると、わからないことが多すぎます。深入りするうちに直木賞に帰ってこられなくなりそうです。ほどほどにしたいと思います。

 たとえば、作文・綴方、文章、エッセイの書き方教室というものがあります。小説教室とは別のモノだと認識されていますが、いったい小説と作文は、何が同じで何が違うのか。なかなかわかりづらくて、答えのない道です。

 わかりづらくてもいいんですけど、それだと事業を継続するのが難しくなります。教室の運営というのは経済活動でもある。受講生を継続的に募るには、もっと明確な目的を掲げないといけない。……というところで、1980年代以降の小説教室が取り入れたのが「新人賞をとる」とか「プロになる」とか、そういう目的設定でした。職業訓練の風合いも匂いますが、いま小説教室が世間に定着しているのは、この設定を手に入れたからだというのは明らかでしょう。

 職業に直結する芸術系の教室には他にもある、ということで、先週はシナリオ教室のハナシに触れたんですけど、その流れでいうと、いまひとつ思い当たるものがあります。絵本、童話、児童文学の創作教室です。

 若年層向けの文章作品は、それだけで野太い歴史があります。文学や小説との関係でいっても、時に書き手が重なり、時に影響を与え合い、日本の文学史は児童文学ぬきではとうてい考えられません。ここで「直木賞」などという卑近な例を持ち出すのは気が引けますが、直木賞がえんえんと続いてきたベースにも「若年層向け出版市場」の進展・盛衰があったのは間違いなく、戦前の大衆文芸作家から、戦後のジュニア小説界を経て、コバルト、スニーカー、ジャンプJブック、あるいはヤングアダルト、ライトノベルといった市場とのリンクが、直木賞の一側面として確実に存在します。

 そしてもうひとつ、児童文学が特徴的なのは「青少年教育」の色合いをもっていることです。教育を志す者なら、きちんとした専門教育を受けなければならない、という文化は近代以降の日本では常識化しているところがあり、およそ学校の先生になるためにはそのための教育を受けるのがスジだ、ということになっています。その意味でも、子供向けの創作を学校で学ぶことには、小説教育ほど一般に違和感が持たれづらい、という素地もあります。

 すみません。この調子で童話系の歴史を掘り下げていくと、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、坪田譲治の『童話教室』『びわの実学校』、鈴木三重吉『赤い鳥』、巌谷小波の木曜会……と手を伸ばさないといけないハナシが増えていくばかりです。ここは一気に端折りまして、昭和57年/1982年。この年、児童文学に的を絞った画期的な(?)専門学校が設立されました。「日本児童文学専門学院」です。

 同学院は2年後の昭和59年/1984年に専修学校の認可を得て「日本児童教育専門学校」と改称。いまでは保育・幼児教育にシフトした体制になっているようですが、当初は学院時代の名称からもわかるとおり、児童文学や絵本などの創作教育に力を入れ、「書きかたを教えて学ぶ、そして第一線の幼年対象作家を世に送り出す」ことに主眼を置いたスクールでした。平成7年/1995年の学校案内を見ると、2ヶ年の「児童文化専門課程」が設けられていて、児童文学専攻科、童話創作専攻科、絵本創作専攻科、出版編集専攻科といった科を擁しています。講師にはプロで活躍する児童出版の書き手・作り手が揃っている、という触れ込みです。

 たしかにモノを書いて生活していく、という道は小説ばかりとは限りません。映像メディアに関わるシナリオ、構成作家から、ノンフィクション、雑誌ライター、そして児童文学、童話などなど……ジャンルの細分化と発達のなかで1960年代、70年代、80年代と、さまざまな専門教育機関ができていった実例のひとつが「日本児童教育専門学校」だった、というわけですが、ここに直木賞ファンにも馴染み深い人が、未来の物書きを目指して入学します。森絵都さんです。

 小学生の頃から学校の勉強はほとんどダメだったという森さんですけど、唯一、好きだったのが作文でした。高校の卒業を前にして、どういう進路を選ぶか真剣に考えていなかったところ、心配した友達が渡してくれたのが専門学校の資料。それをパラパラめくっていたときに、ハッと見つけたのが、書くことを学べるという日本児童教育専門学校の児童文学専攻科です。そうだ。私は書くことが好きなんだ。だったら作家を目指してみよう……と思って同校に入ります。

 学習過程は2年あります。いったい何を学ぶのか。いろいろ授業はあったでしょうけど、みんなで書いたものを持ち寄って合評し、それでまた書いて討議するという授業があったそうです。ほとんど小説教室と同じです。

 いろいろな授業がありまして、創作の授業では課題が最初は五枚から入って原稿用紙の書き方から教えてもらって。そして合評会があって、みんなで意見を言う。

佐藤(引用者注:佐藤多佳子) あの合評というのは、いやな世界ですよね。

 いやですよね。みんな若いから、言いたいことを言うんです。途中からは学校の授業でやっているよりは、公募に出していったほうがいいかなと思ってやっていたんですけど。」(『小説現代』平成15年/2003年9月号 佐藤多佳子、森絵都対談「児童文学からの、新しい風」より)

 森さんも、対談相手の佐藤多佳子さんも、合評はいやだ、という価値観で一致しているのが面白いところです。文学史をさかのぼると、同人誌の文化で育ってきた人たちは、合評で泣かされた、でも合評で鍛えられた、と語る例が多く、「鍛えられた」と言い切ってしまう精神性が文学青年のキモいところなんですが、公募の制度が発達したことでわざわざ合評をしなくても済む時代、「合評会はいやだった」と敬遠する意見が語られるのを見るにつけ、仲間同士の文学討議というのは、練習中は水を飲むなとか、我慢すれば強くなるといった、スポーツ教育にあった因習の弊害と似たようものなのかもしれないなあ、とも思います。ほんとうに合評というのは創作修業に唯一無二の必要不可欠なものなのか。はなはだ疑問です。

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2021年2月28日 (日)

昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。

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▼昭和35年/1960年、日本放送作家協会が、「放送作家教室」の前身「放送文芸研究室」を立ち上げる。

 直木賞は文芸ではない、というのがワタクシの実感です。

 すみません、間違えました。直木賞は「文芸だけでできているわけではない」に言い換えます。時代に応じた企業プロモーションのかたち、嫉妬とプライドが入り乱れる作家同士のせめぎ合い、といった卑俗なハナシから、純文芸でも大衆文芸でも本流になれなかった賞の歩みや、時代・歴史・ユーモア・実録・推理・SF・ノンフィクション・そのほかあらゆるジャンルに手を伸ばしてきた雑食性、という卑俗なハナシまで、文芸的な観点だけではとらえ切れないさまざまな顔を持っています。まったく面白い文学賞です。

 小説教室も、どうやらそれに似ています。その歴史を語るなら「文芸」に属する話題だけでは、とうてい足りません。

 たとえば直木賞が、昭和10年/1935年、とうの昔から劇作や映像との関係で発達してきたのと同様、小説教室も他の分野のスクールから影響を受け、また影響を与えてきたことは明らかです。

 まあ、そんなことを言い出すと、こんな書き流しのブログでとらえ切れるわけがありません。とりあえず「小説を教える、小説を学ぶ」というその些細な仕組みの裏には、膨大な他の文化事業が広がっているのだなあ、と呆然として見送りたいと思いますが、やはり直木賞専門のブログなので、直木賞に関するハナシはなるべく抑えておきたいところです。

 ということで、小説教室ならぬ「シナリオ教室」の例をひとつ挙げておきます。時代は1970年代から80年代。通っていたのは桐野夏生さんです。

 演劇、映画、ラジオ・テレビなどの脚本やシナリオをどうやって書くのかを教える機関、というのはそれはそれで長い歴史があります。小説教室との比較でいうと、お金をもらえる仕事に直結した存在という分だけ、「シナリオ教室」のほうが早い時期から社会に定着し、そこで学んだ出身者がプロとなって活躍する道も、すでに1960年代ごろには敷かれていたと見られます。

 代表的なのは、放送部門の学科を持ついくつかの専門学校です。他にも、一般に開放された教室として、シナリオ作家協会、シナリオ・センター、日本映像研究所、東京新社などのものが、さまざまに群立していました。そのなかのひとつが、昭和34年/1959年設立の日本放送作家協会が、新人作家を養成するために昭和35年/1960年に設けた放送文芸研究室。これが名称を変え、運営母体を変えて、60年代後半に協同組合日本放送作家組合の「放送作家教室」となります。いまの「日本脚本家連盟スクール」です。

 シナリオ作家だった池田一朗さんも、ここで講師をしていました。およそ1970年代、足かけ8年にわたって教えたそうです。長女・羽生真名さんの『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』(平成3年/1991年10月・講談社刊)にも、この教室や池田講師のことがいろいろ出てきます。

 果たして池田さんはどんなことを生徒に伝えていたのか。内容の一部を引いてみます。

「まずシナリオ界の現状を具体的に説明する。プロになってもほとんどは注文仕事であること、ということは、コンクールのように自分の書きたい分野をシナリオ化する機会は、まずないと思って欲しいこと。なにより、ものを書こうという人間にとってシナリオライターという仕事がいろいろな意味で昔ほどいい仕事ではなくなっていること。しかしそれを承知で、なお書きたいという熱意ある生徒には、こちらも指導の労を惜しまないこと、等々……。」(『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』「9 天井桟敷の人々」より)

 何だかいまの小説教室の講師が、文芸出版の不景気な現状を語りながら、それでも受講生の熱を受け止めようとしている図、と見ても十分通用しそうな場面です。

 放送作家教室というのは、もともとプロの放送人の集まりから生まれた養成機関ということもあって、より実践に即した実技指導に比重が置かれたと言います。「職業訓練所のようなもの」(岡田光治の発言、『シナリオ』昭和53年/1978年3月号「特集 シナリオ作家になるために 座談会=教える側と学ぶ側 その1教える側の論理」)という表現がおそらく実態に近く、こういう教室が、一般にも門戸を開いて存在していたわけですから、小説業界より何歩も先を行っていた、と言うしかありません。

 30歳手前だった桐野夏生さんが、小説教室ではなくシナリオ教室に通ったというのも、やはり両者のその性質の違いに起因していると考えていいでしょう。70年代、すでにシナリオ教室は「収入、稼ぎ、プロ」に直結していた、ということです。

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2021年2月21日 (日)

平成5年/1993年ごろ、若桜木虔がプロ作家になるための小説講座を始める。

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▼昭和52年/1977年、劇画原作の持ち込みからコネをつくった若桜木虔が、小説を刊行する。

 そして群雄割拠の時代がやってきます。

 「群雄割拠」という言葉は便利なのでワタクシもよく使います。要するに個々の事例を調べていくとキリのない複雑な状況に収拾がつかず、とりあえずそれさえ言っておけば何かわかったふりができるという、魔法のような言葉です。「いま世界では数十億を超える人間が生きている。まさに群雄割拠の時代だ」と言っているようなものです。

 それで1980年代に「小説教室の群雄割拠」が進展するんですけど、これもなかなか一言で言い表すことができません。単に「小説を書きたい人が増えていった」という背景だけでは片付けられない複雑な要因がからみ合っています。

 そのひとつに挙げられるのが、出版経済の豊潤化です。

 広く社会を見渡すと、直木賞ともうひとつの文学賞、この二つの賞が対象にしている小説は、わずかな一部にすぎません。そのニッチ性というか希少性が「直・芥のほうが上等で、それ以外のものは数等劣る」という感覚を一般に増長させる要因にもなっているわけですが(なっているのか?)、そういう小説観は大した根拠のない思い込みに由来することがほとんどです。文芸方面で食っている作家や編集者、記者たちのプライドとか、昔から言われてきたことを盲目的に事実として認識する慣習とか、その程度のクダらない雰囲気のうえに、出版経済は成り立っています。アホらしいといえばアホらしい。ただ、面白いといえば面白い現象です。

 直木賞が対象にしない膨大な量の作品群。そちらはそちらで、はるかの昔から賑わっていました。映画化するために書かれた読み物とか、映像作品のノベライズ、漫画を小説化したもの、貸本屋にしか出まわらない小説、倶楽部系の雑誌に掲載される読み物、エロ・グロを売りにしたもの、官能小説、SM小説、映画スター・芸能人・スポーツ選手を主人公にしたモデル小説、少年少女向けと謳われた作品、児童文学、ジュニア小説、ライトノベル……。

 まだまだいくらでも挙げられそうです。正直、こういったものが出版界に存在せず、本になって市場に流通することがなければ、日本の近現代の出版は、もっと貧弱でお寒いことになっていたでしょう。

 文学賞にしても小説教室にしても、事情は同じです。「いわゆる文学・文芸」に関するものなんて、全体のなかのほんの一握りにすぎません。

 というところから、直木賞に直接関わるものだけを見ても直木賞をとりまく全体像なんてわからないんじゃないか。とワタクシも思うようになってきまして、そもそも「小説教室と直木賞」というテーマ設定に無理があっただけなんでしょうけど、「群雄割拠」を群雄割拠たらしめるバラエティに富んださまざまな事例のうち、ここら辺でもう少し視野を広げてみたいと思います。

 70年代後半から80年代、朝日カルチャーセンターの二匹目のどじょうを狙って、多くのマスコミ企業が似たようなカルチャースクールをつくりましたが、平成5年/1993年ごろに読売文化センターやNHK文化センターで「プロ作家になるための」と銘打って小説教室を開講した人がいます。若桜木虔さんです。

 少し略歴を追ってみます。昭和22年/1947年静岡県生まれ。祖父に、正岡子規の同窓だった稲村真里さんがいて、幼少のころから書物や活字に囲まれた環境に育ち、いつか自分も物書きになりたいと夢見る学生時代を送ったそうです。

 大学は東大に進学、その後大学院に進んで植物遺伝学の研究を専攻しましたが、院に在籍中にからだを壊し、将来への不安を抱えます。研究者の道ではなく、どうにかメシを食うために自分は何ができるか。そこで考えたのが物書きとして収入を得ること。お金になる文章は、いわゆる文芸や小説とはかぎらない、というところにすんなり気づき、劇画の原作なら手っ取りばやいだろうと考えて、漫画誌を出している各出版社に持ち込みで営業をはじめます。1970年代のころです。

 文字に起こした物語のストーリーが売り買いされる土壌が、すでにそこにあった、というのは出版経済の豊潤と言うしかありません。編集者からの厳しい要求を受け入れた勤勉な若桜木さんは、劇画原作を次々と書くうちに採用されはじめ、収入の道がひらけ、そこから小説の刊行へとつながります。処女出版は『小説 沖田総司』(昭和52年/1977年9月・秋元書房/秋元文庫)。矢継ぎ早に書下ろしの刊行をつづけたなかでも、とくに翌年、集英社のコバルトシリーズから出した『さらば宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年8月)、『宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年9月)などは相当の部数が売れた、と言われています。

 こういうものを小説とは呼びたくない、文学なんて言えるわけがない、という感覚はいまもあるでしょう。当時ならよけいに文芸方面からの分断意識は強烈だったと思われます。しかし現実として、自分の頭から文章を紡ぎ出し、読者を喜ばせる技術をもって、商品になり得る本をたくさん書くことで、お金を得る職業があることを否定しても始まりません。むしろ出版経済は、若桜木さんのような人たちによって大きくなり、発展してきた、と言ってもいいぐらいです。

 「作家」というものが、文学学校での研鑽や、評論家や編集者による文学教育と指導によって生まれることもあるでしょう。しかし、すべて世界は一律ではなく、あえて文学の意識を外したところに花咲く小説もあります。1990年代、若桜木さんは「小説教室」のビジネスに進出することになりますが、そこに文学臭は一切ありません。しかもそれが功を奏したか「群雄割拠」の一端を担う小説教室の講師として、ぐいぐい名を挙げることになるのです。

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2021年2月14日 (日)

昭和61年/1986年、道新文化センター川辺為三の教室から同人誌『河108』が発行される。

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▼昭和62年/1987年、川辺為三、昔の教え子に書いてもらった小説を『北方文芸』に載せる。

 1970代後半からほんの数年で、創作教室ブームは一気に広がりました。牽引したのは新聞社やテレビ・ラジオのマスメディア企業です。

 コツコツと有志たちが手づくりで運営するような「文学学校」とは違って、こちらはあからさまにカネがからんでいます。募集をかければ人が集まり、受講料収入で経営が成り立つ。ということで、大手新聞社や各地域の新聞社、全国に支局のあるNHK系の企業などがカネの匂いを嗅ぎつけて、大都市を中心にそれぞれの地域で創作クラスを展開しました。

 たくさんありすぎて全部は触れられませんので、多少なりとも直木賞と関連しそうなものだけ挙げておきます。北海道の札幌市で立ち上がった「道新文化センター」の随筆・創作教室。講師を務めたのは、アノ川辺為三さんです。

 ここで「アノ」とか大げさに書くと、多少馬鹿にしていると思われちゃいそうです。他意はありません。

 60年代から70年代、いっとき東京の出版社に注目された北海道の作家に、澤田誠一、上西晴治、倉島斉、木野工、渡辺淳一、高橋揆一郎、寺久保友哉、小檜山博などがいます。多士済々という感じで、じっさい渡辺さんなどはそこから全国区になりましたが、川辺為三さんもそこに加えていいでしょう。もっと知られる作家になってもおかしくない流れでしたが、けっきょく終生、北海道に根を下ろし、もはや有名とは言いがたい人です。自身、直木賞にも芥川賞にも候補になった経験はありません。ただ、直木賞とは奇妙に縁があります。

 ざっと略歴を追ってみます。昭和3年/1928年11月29日、樺太の豊原生まれ。昭和21年/1946年に旧制豊原中学を卒業しますが、故郷を奪われるかたちで樺太から函館に引き揚げると、北海道学芸大学札幌分校に学び、卒業後は国語教師として札幌大谷高校、赤平西高校、札幌北高校などに勤めるかたわら同人誌を創刊。作家活動を展開しますが、やがて「後進の育成」というポジションでその力を存分に発揮し、國學院短大助教授などを務めたのちに、平成11年/1999年4月16日、70歳で生涯を終えました。

 高校の先生だった川辺さんが、仲間たちと『凍檣』(とうしょう)という同人誌を始めたのが昭和31年/1956年7月です。創刊時の同人は、「水木泰」というペンネームだった川辺さんのほかに、守矢昭、萩野治、西塔譲、針生人見(山田順三)を含めた5人だったそうで、当然ワタクシにはなじみのない名前ばかりです。そこからポロポロと抜けていき、けっきょく川辺さんだけがこの雑誌に残りつづけた経緯を見ると、やはり彼が同誌の中心的なひとりだった、と言わざるを得ないでしょう。そう考えると、川辺さんがいなかったら、渡辺淳一さんが直木賞をとることもなかったかもしれません。

 というのも、渡辺さんは第2号(昭和32年/1957年2月)から同誌に加わりますが、第6号(昭和38年/1963年8月)に『くりま』と改題したのち、全国にまたがる同人誌の流行期にも相まって、そこに書いた「華かなる葬礼」で注目を浴びると、同人雑誌賞、芥川賞候補、転じて直木賞候補、直木賞の受賞につながっていったからです。

 川辺さんにとって渡辺さんは5歳年下。『凍檣』『くりま』の後輩です。一気に抜かされて内心穏やかじゃなかったでしょうが、そんなことを気にしていたら、人生やっていけません。自分は自分だと気合を入れて、川辺さんは地道な営為を続けます。

 そのひとつが『北方文芸』の編集です。この雑誌のことは、まえに少し取り上げましたが、高い志で始まりながら経営難に直面したり、内紛があったんじゃないかとウワサされたり、イバラの道を歩みながら積み重なる赤字を背に29年、通巻350号で幕を閉じた札幌を中心とする文芸誌です。

 昭和54年/1979年、長く編集人を務めた小笠原克さんが離れたあと、80年代に入って川辺さん、森山軍治郎さん、鷲田小弥太さんの三人編集制に移行します。川辺さんは、札幌だの北海道だの局所的に縮こまらず、もっと東京の文壇に売り込めるような新人を発掘していきたい、という意欲に満ちていたらしく、たくさんの人に読まれるような誌面がつくれないかと試行錯誤したんだそうです。「新しい書き手を見出していこう」という発想が強くなったのも、おそらくその考えの一貫だったでしょう。

 時を同じくして80年代半ば、道新文化センターの講師にもなった川辺さん。生徒たちが中心になって『河108』という同人誌が創刊されたのが昭和61年/1986年のことでした。全国的に「わたしも小説を書いてみたい!」という人たちの情熱が、小説教室ブームに乗って拡散した時代です。

 そこで川辺さんは道新文化センターで創作を教えるかたわら、『北方文芸』を編集するという両輪をフル回転。ここに北海道新聞文学賞という事業も加わって、小説教室×文学賞×雑誌という新人発掘における魅惑のトライアングルを、北の地で美しく描きはじめたわけです。

 川辺さんの努力がカラまわりすることなく、その成果が「直木賞」に結びついたことを、直木賞ファンとして喜びたいと思います。

 創作教室からハナシが逸れてしまいますが、川辺さんの札幌北高校時代の教え子のなかに、詩を書き、小説を書き、まえに『北方文芸』にも載ったことがある新鋭の物書きがいました。なかなかイイものを書く子だから、『北方文芸』に場を提供してあげたい。そう思って、小説を書けよとせっついた相手が、当時広告代理店に勤めていた熊谷政江さんです。のちの筆名、藤堂志津子。この人もまた、川辺さんがいなかったら直木賞につながる道を歩き出せていなかったひとりです。

「(引用者注:広告代理店の)パブリックセンターに入社してから、「北方文芸」の編集者である川辺為三氏に、何回となく「書け」と言われてきた。書く気はなかった。会社業務に追われて、それどころではないのである。「書けたかな?」「努力しましたが力至らずで」のやりとりが何回がつづき、やがて川辺氏は「○月号の雑誌○ページを開けてある」と、私が「今執筆中(私の逃げ口上であった)の作品」を、そのように決めてしまったのである。真っ青になった。川辺氏は私の札幌北高の恩師でもあり、書かなくては先生にご迷惑をおかけする。正月休み返上で書いた。」(平成2年/1990年2月・講談社刊、藤堂志津子・著『さりげなく、私』所収「さようなら、パブリックセンター」より ―初出『オール讀物』平成1年/1989年4月号)

 こうして『北方文芸』に150枚一挙掲載として出された「マドンナのごとく」は、第21回(昭和62年/1987年度)北海道新聞文学賞を受賞。まもなく講談社から単行本化され第99回直木賞の候補。その半年後の第100回には「熟れてゆく夏」で直木賞を受賞。と大爆発を起こしましたが、そのことごとくで選考委員として携わっていた渡辺淳一さんが藤堂さんの作品を推しに推しまくった……というのも川辺さんをとりまく奇縁のひとつです。

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2021年2月 7日 (日)

昭和63年/1988年、日大芸術学部出身の吉本ばなながベストセラー旋風を巻き起こす。

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▼昭和62年/1987年、吉本真秀子の卒業制作「ムーンライト・シャドウ」が、日大芸術学部長賞を受賞する。

 1970年代後半から80年代、カルチャースクールが実績を上げるそばで、大学の創作クラスからも作家がデビュー。と、小説教室をとりまく環境に春の日差しがさし込みました。こうして温まった出版界に、「小説を書くための専門教育を受けた」大スターが誕生してしまいます。流れとしては正常だった、と言っておきましょう。

 昭和62年/1987年の9月、福武書店の雑誌『海燕』主催の第6回新人賞で受賞者が決まります。そのうちのひとりが吉本ばななさん。その年の春に日本大学芸術学部文芸学科を卒業したばかりの女性です。本名・吉本真秀子、受賞作の「キッチン」と、卒業制作として書かれた「ムーンライト・シャドウ」、受賞後に書かれた「満月――キッチン2」を収めた『キッチン』が昭和63年/1988年1月に発売されると、小泉今日子さんがラジオやテレビでおすすめの発言をしたことで一気に火がつき、ドドドドドッとベストセラー街道を驀進します。

 まもなくこの本は泉鏡花文学賞とか芸術選奨文部大臣新人賞とか、世間一般ではこれを知っているほうが異常だと言われるようなニッチな文学賞をとりますが、賞に関する騒ぎはそれでは収まりません。昭和63年/1988年「うたかた」と「サンクチュアリ」が第99回、第100回と連続で芥川賞の候補になって、どっちも落選。そのあいだに『哀しい予感』(昭和63年/1988年12月・角川書店刊)、『TUGUMI』(平成1年/1989年3月・中央公論社刊)、『白河夜船』(同年7月・福武書店刊)、『パイナップリン』(同年9月・角川書店刊)、『うたかた/サンクチュアリ』(同年10月・福武書店刊)と、短期間のうちに繰り出された新刊がどれもこれも爆発的に売れまくって、いまは白髪まじりになってしまったオジさんオバさんたちが、あのころはよかったよねえ……と、ウザい昔がたりで往時を振り返るような、恰好の社会現象になってしまいます。

 そのスター街道の影に「売れっ子作家を落としちゃったフシアナの芥川賞」があったのはたしかです。いっぽう残念ながら直木賞とのからみはありません。

 というのも吉本さん自身、文学賞(とくに芥・直の、ヒトの心をへし折るようなマスコミ攻勢)の騒ぎが苦手だったそうで、芥川賞も2回候補になったあとに「三度目で自ら候補を辞退」(『読売新聞』平成6年/1994年2月3日夕刊「文学のポジション 第一部芥川賞(10)吉本氏「話題より息長く」」)したと言われています。まあ芥川賞をとれなくても、筆歴を重ねるうちに今度は直木賞の候補にあがったりするケースはけっこうありますので、吉本さんだって直木賞の対象になっても不自然じゃなかったんですが、本人から賞の騒ぎにノーを突きつけられたら、直木賞も手出しができません。

 ただ、直木賞との関係がなくても、吉本さんといえばやはり小説教室の歴史に残る重要なスターです。触れずに済ませるわけにはいかないでしょう。

 先週取り上げた林真理子さんは、日大芸術学部の時代と作家活動に直接的な結びつきのない人でしたが、吉本さんは違います。大学入学こそ、第一志望だったわけじゃなく、他に受けていた大学にすべて落ち、浪人も覚悟していたころ、たまたま友人に日芸ならこれから試験だよと教えられて受験したら受かったという、出合いがしらの事故のような入学でしたが、入ってからは創作ゼミにもまじめに出席。課題も難なくこなしていたそうです。

 さすがに吉本さんクラスになると、作家になるまでの経緯などは至るところで取り上げられています。いまさらの感もありますが、ざっとまとめてみると、父親がどんな職業の人か全然知らない頃から、物心がついたときには「自分は作家になるんだ」と、何の根拠もなく思っていたそうです。8歳ぐらいから物語の筋を考え出し、しかしそれが「作家になるのだ」という確信に結びついていたわけじゃなく、小説としてまとまったものを書き出すまでにはいたりません。

 大学時代はとにかく酒を飲み、酒を飲まざるもの友にあらず、って感じで楽しくも苦しいキャンパスライフを謳歌、はじめて人に読ませることを意識して書いた小説が、大学卒業のまぎわ、卒業制作として書いた「ムーンライト・シャドウ」で、これが担当教官の曾根博義さんと、山本雅男さんの二人に大絶賛されて、その年の卒業制作のなかで優秀なものに送られる芸術学部長賞というものを射止めます。

 処女作を書くに当たっての、吉本さんの姿勢がなかなか振るっています。

「――子供の頃から小説を書いていて、この作品なら世に問えると思ったのはいつ頃ですか。

吉本 それは卒論として提出した「ムーンライト・シャドウ」です。二人の教官が審査したんですが、自分とはまったく文学観の異なる二人の大人に理解してもらえることを意識して書きましたから。」(平成6年/1994年1月・メタローグ刊『ばななのばなな』所収「年齢ではなく、大人でないと小説は書けない」より ―聞き手:安原顯、初出『ELFIN』3号[平成1年/1989年4月])

 狙いすまして書き、狙いすましたように教官二人に褒められる。これで自分の進む道はやはりこれなのだ、と思ったのかどうなのか、在学中にどこかの新人賞に2度ほど応募してみますが、そこまで人生甘くなく、そちらは落選。卒業後、糸井重里さんがオーナーの浅草のだんご屋でアルバイトを続けながら、書き上げたのが「キッチン」で3度目の挑戦で、ズバズバと予選を勝ち上がり、最終的に受賞までしてしまいます。甘いといえば甘いかもしれません。

 大学時代に「先生」を務めた曾根さんによれば、吉本さんの唖然とするような活躍ぶりは、文芸学科にも刺激を与え、ゼミで吉本さんの後輩だった何人かは「第二、第三の吉本ばななを目指せって感じで」みんなで集まって飲んでいたんだとか(『国文学 解釈と鑑賞』平成3年/1991年4月号 曾根博義「吉本ばななさんへの手紙」)。そりゃあ、ばなな旋風が全国的に吹き荒れているときに、出身の文芸学科が無風なはずがありません。けっきょく、それから30年、日芸から吉本さんに続く作家が生まれた形跡はありませんが、刺激が渦巻くこと、けっこう得難い重要な要素です。刺激……。具体的に何を教え、何を教わるかということ以上に、創作教室が存在する第一の意義に違いありません。

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2021年1月31日 (日)

昭和51年/1976年、林真理子が日大芸術学部の文芸学科を卒業する。

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▼昭和51年/1976年、大学1年の林真理子、大丸デパートの作文コンクールで入賞する。

 昭和が始まったばかりの1930年代、大学で小説の書き方を教えようという小さなムーブメントがありました。そのとき「三大創作科」の一角を担ったのが日本大学芸術科です。何か月かまえ、取り上げたことがあります。

 その創作科ブームから幾星霜。戦争に突入し、戦争が終わり、学校制度も変わって高等教育機関がボコボコ群立。学生たちが政治運動に明け暮れるうちに、経済の回復と進展が日本全土を覆ったことで、出版業界も多くの人材を必要とする時代がやってきます。

 この間、日大芸術科は芸術学部と改組しながらしぶとく生きつづけ、演劇学科、映画学科、美術学科、音楽学科などからは、専門の業界に進んで活躍する人材がぞくぞくと現われました。そのなかで、いまいちパッとしないと言われていたのが、文芸学科です。

 すみません。「パッとしないと言われていた」というのは、こちらの想像です。無視してください。

 最近たまたま読んだ『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(平成23年/2011年4月・編集グループSURE刊、小沢信男・津野海太郎・黒川創・著)という本に、昭和20年代後半の文芸学科の様子が出てきます。小沢さんは昭和26年/1951年春に、いったん文化学院に入ったもののすぐに退学し、その年の秋に日大芸術学部に入り直した「創作科の生き字引」みたいな方です。

 当時、文芸学科は定年が50人。しかし半年たつころには30人ぐらいに減ってしまうような学科だったそうです。授業料には『江古田文学』をつくるためのお金が「実習費」のかたちで含まれていて、学生は全員、寄稿する機会を与えられていました。事実、小沢さんが物書きとして注目されたのもここに作品を発表したからです。主任教授は神保光太郎で、小沢さんに言わせると、文芸学科の授業はどれに出ても大して面白くなかったようですが、そのなかで最も楽しかったのが瀬沼茂樹さんの授業。熱心に受講するうちに可愛がられ、一時は瀬沼さんの代筆のようなことも任された、ということです。

 と、こうして在学中から勉強の一環として文章を書き、小説の読み方を学ぶうちに働き先が広がっていった幸運な学生もいたことでしょう。しかし大半は、小説家にもならず、出版ジャーナリズムの道にも進まず、一般企業に入ったり家業を継いだり、とくに他の大学の学生と変わらない青春を送ったものと思われます。

 けっきょくのところ日大の文芸学科も、他の一般的な私大に埋没していくことになるんですが、長年続けていると学んだ人の累計も増えていきます。1980年代、ここから思わぬスターが誕生してしまったのは、偶然というか必然というか、文芸学科も長く続けた甲斐があったということでしょう。

 直木賞も無縁ではありません。林真理子さんです。

 林さんの4年先輩にあたる清水正さんは、日大芸術学部の教授になった方ですが、林さんが直木賞を受賞した昭和61年/1986年当時、すでに同校の先生をやっていて、「文芸学科受験生の大半が面接で「林真理子のような小説家になりたい」と受験志望動機を語っていた。」(平成27年/2015年9月・鼎書房刊『現代女性作家読本20 林真理子』所収「「最終便に間に合えば」を読む」)と回想しています。ちなみに清水さんによると、文芸学科出身の三大女流作家は、林真理子、群ようこ、吉本ばなななのだそうです。

 林さんが小説家として注目を浴びるようになった経緯とか、その周辺で巻き起こった暴力的ジャーナリズムの雑然たる嵐について、いまさら振り返るのはやめておきます。ただ、特徴的だったのは、そこに「日大芸術学部の出身」であることが何ひとつ利いていなかった、とは言えるでしょう。

 東京から近いようで遠かった山梨の片隅から、わたしも東京に行きさえすれば、バラ色の大学生活が待っているんだ、と目を輝かせて上京したのはいいものの、とくに素晴らしいキャンパスライフに恵まれたわけではなく、うつ然と4年間の学生生活を終え、そのまま東京で就職先を探したけれど、筆記試験は通るのに面接に行くと不採用につぐ不採用。要はわたしがブスだからなんだ、とシビアな現実に直面し、冴えないバイト生活を送るなか、たまたま知ったコピーライターという仕事に興味を持って、その世界に入っていく……。という林真理子サクセスストーリー序章の流れを見ても、芸術学部や文芸学科に通っていたことは、あまり重要ではありません。

 林さん自身も言っています。とにかく東京の大学に進むのが目的だった。目指すはキラキラ輝く夢の大学生活。ということで、青山学院、成蹊、日大を受け、たまたま一つだけ受かった日大に進んだだけのこと。池袋に下宿し、江古田のキャンパスに通って、芸術学部ということでイメージされるような奇人やら変人やら、あるいは作家になりたくて文芸学科に入ってきた同級生やら、そういう人たちに囲まれて、多少は「のちに小説家になる人」の思い出の片鱗でもあればいいんですけど、林さんにはあまりエピソードが見当たりません。

 唯一、取り上げてもよさそうなのが、大学1年のときに作文コンクールで入賞したことです。大丸デパートがパリに支店を開くことを記念して、若者たちから作文を募集、入賞10人にフランス旅行をプレゼントするという企画があり、林さんも見事入賞しています。しかし、このハナシに付随する林さんの思い出は、ソルボンヌの語学学校に入りたくなってフランス語を勉強したとか、当時海外に行ける若者は稀で、みんなから大層珍しがられたとか、そういうことに終始しています。文才が小説方面に向いた、というハナシではありません。

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2021年1月24日 (日)

平成1年/1989年、新設された近畿大学文芸学部に、後藤明生が教授として就任する。

20210124

▼昭和61年/1986年、近畿大学総長の世耕政隆が、文芸学部構想を後藤明生に語る。

 今週からまた、直木賞のある日常に戻りますが、決定直後のワタクシはだいたい疲労困憊しています。すべてヒトサマのことなのに何で疲れるんでしょうね。前回も、前々回も……。

 ということで一年前の令和2年/2020年1月下旬、自分が何をしていたのか振り返ってみたところ、『本の雑誌』のために坪内祐三さんの年譜をつくっていました。たしかにヘトヘトだった記憶があります。

 坪内さんといえば『昭和にサヨウナラ』(平成28年/2016年4月・扶桑社刊、坪内祐三・著)に入っている「関井光男さんのこと」という一文があります。初出は『en-taxi』の連載「あんなことこんなこと」で、平成26年/2014年3月に亡くなった関井さんのことを回想した文章です。

 関井という人は、もともと自分が知り合ったころは山口昌男さんの腰巾着みたいにひっついて、アカデミズムの権威や先生を馬鹿にしている様子だったのに、どこでどう取り入ったのか近畿大学に職を見つけ、嬉々として「大学の先生」になり果てた……というようなハナシです。小谷野敦さんのブログにも「関井光男と白地社」というエントリーが挙がっています。

 坪内さんの言うように関井さんが無節操な人だったのか、ワタクシもよく知りませんが、「日本の小説教室」の歴史を見ていると、彼の働いた近畿大学文芸学部は、どうしても目に留まります。相変らず直木賞とはあまり関係なさそうです。だけど、今週は近大のことで言ってみます。

 小説の書き方を教える大学として、東にワセダあれば西にキンキあり、と注目を浴びるようになったのは、何といっても現役作家の後藤明生さんが、この大学の文芸学部教授に就任したからでしょう。後藤さん当時57歳。平成1年/1989年4月のことです。

 近畿大学は創設以来、文学に関する学部がなく、それで別に支障もなかったんですが、昭和40年/1965年に父の跡を次いで二代目の総長・理事長になったのが世耕政隆さん。知る人ぞ知る、というか、ワタクシはほとんど存じ上げませんけど、この世耕さんという方がなかなかの文学亡者で、文学に対する夢と希望を培いながら成長し、そのまま大学経営者になった方なんだそうです。自分でも詩を書き、佐藤春夫さんに師事。その後、(いちおう直木賞受賞者の)檀一雄さんがやっていたカタめの雑誌『ポリタイア』の同人に加わりますが、この雑誌は世耕さんがいなかったら刊行されなかった、とも言われます。

 いっぽう後藤さんは、昭和44年/1969年に初めての作品集『私的生活』(新潮社刊)、『笑い地獄』(文藝春秋刊)を時をおかずに刊行するなど、何度も芥川賞候補に挙がる大注目の新進作家として、まわりを傷つけたり傷つけられたりしながら作家生活に乗り出したころ、たまたま酒場で会った檀一雄さんと親しくなるうちに、『ポリタイア』に引っ張り込まれます。世耕さんとはそこで顔を合わせたそうですが、とくに深く付き合うことはありませんでした。

 それから日が経って昭和61年/1986年、いきなり世耕さんから電話がかかってきます。近大に文芸学部をつくろうと思う。ついてはぜひあなたに来てもらいたい、と。

 何でおれなんだよ、と不思議に思いながら世耕さんと会っていろいろと話すうちに、後藤さんの決意も固まり、平成1年/1989年春に同学部が新設されるのに伴って教授に就任した。……という流れです。

 つまり、近大で文芸学部設置に向けて準備が始まったのが昭和61年/1986年ということになります。その当初から、いわゆる学問の世界の先生だけじゃなく、作家や評論家としてじっさいに商業出版で活躍中の人を招く構想で始まった。そこが面白いところです。

 大学で「創作」まで見据えた教育を構築する、というのは1970年代以降に早稲田大学(の一部)が進めてきた方向性です。たとえば後藤さんは昭和54年/1979年から1年間、早稲田の文芸学科で非常勤講師を務めましたが、それなども同校の考える「文芸教育」のひとつの現われだったでしょう。

 しかし、非常勤にしろ講師にしろ、腰かけ感は否めません。職業作家をもっと本腰で大学教育に取り込めば、新たな価値が生まれるに違いない。と、世耕さんが確信していたかどうかはわからないんですが、日本の風土のなかで創作学科が発展していく過程として、80年代なかばにそういう発想が芽生えたのは事実です。その土台に、60年代以降の社会の推移とか、出版界全体における文芸書の低迷感とか、カルチャースクールを中心とした「作家が現場で教える」文化の醸成があったことは無視できないでしょう。

 いや、大学そのものが「権威」から「親しみやすさ」を求められるようになっていた、という時代の変化もあります。そこで後藤さんにやらせてみたい、と目をつけた世耕さんは、やはり慧眼の持ち主というしかありません。えっ、近大の文芸学部? 何だかキワモノ教員を集めた時代のアダ花で終わるんじゃないの。……と、しばらく冷たい世間の目を受けますが、一介の教授だった後藤さんが発奮して、文芸学部の運営にまじで本気を出すようなったからです。

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2021年1月20日 (水)

第164回直木賞(令和2年/2020年下半期)決定の夜に

 個人的なことから始めます。直木賞が決まるたび、その夜に思ったことをつらつら連ねるこのエントリーを、はじめて書いたのは第137回(平成19年/2007年上半期)が決まった平成19年/2007年7月17日の夜。今回でまるまる14年、28回目となります。まあ直木賞の長い歴史を考えたら、まだまだ鼻クソです。

 この14年間、一度も「受賞なし」になったことがなく、毎回毎回、受賞者が出つづけてきました。直木賞は出版関係に力のある賞ですから、ほんのいっときだけ受賞作が世に拡散します。その影響度を考えると、ある程度のレベルを超えた作品だけに授賞するべきだ、ときどきは「受賞なし」の選択もすべきだ、という意見もあるでしょう。おそらく直木賞に過大な期待を向けている人はそう感じるのかもしれません。正直ワタクシはどちらでもいいです。

 さて、いうまでもなく直木賞の歴史は長いです。28回連続なんてまるで序の口、第1回から今回まで164回連続の記録を達成してしまったことがあります。受賞しない落選作が出た、ということです。

 このエントリーを書くたびに思いますが、直木賞は受賞の歴史より、落選の歴史の厚みに支えられています。当落はいつも紙一重、なのに受賞が決定してしまうと、おおむね受賞作にしか注目が集まらなくなるのが文学賞というものです。なかなか他の作品を語る機会もなくなります。なぜだ。なぜなんだ。社会の不条理を突きつけられて、思わず胸が痛いです。

 だけど、胸を痛めている場合じゃありません。しがないとはいえ、せっかくブログをやっているのです。今回も、直木賞の候補作を読むのって面白いなあ、と有頂天にさせてくれた6つの作品と6人の方々に、万感の感謝を捧げます。

 まず第164回の直木賞は、何といってもこの人でしょう。加藤シゲアキさんです。加藤さんの小説はこれまでワタクシも馴染み深く読んできましたが、書き続けていく作者の信念と熱量が詰まった作品ばかり。今回の『オルタネート』も、輪をかけて加藤作品に特有な情熱が充満していて圧倒されました。またいつか、直木賞の候補になることもあるでしょう。ジャニーズファンだけじゃなく、直木賞ファンだって、加藤さんの候補入り、いつでもお待ちしています。

 歴史的に直木賞は「候補がバラエティに富んでいること」がウリですが、長浦京さんのおかげで、今回もそのウリが伊達じゃないことが証明されました。『アンダードッグス』。圧倒的なドライブ感。というと、使い古されたコピーすぎますね。でも、休む間もなく繰り出される怒濤の展開と、20年後パートとのからみ合いには、心が躍りました。直木賞って、こういう派手な風合いには厳しいガンコ者なんですよねー。ガンコ者の頬をバチバチ叩くような小説、また期待しています。

 芦沢央さんの作品をどう読むかは人それぞれです。ワタクシが好きなのは、ミステリータッチのなかに、ほんのちょっぴりユーモアを感じられるところ。『汚れた手をそこで拭かない』に収録された作品も、とても笑える話じゃないけど、角度をずらして見れば喜劇にもなる、という芦沢カラーが美しく映えたものばかりで堪能しました。この路線が直木賞に合っているのかどうかは、よくわかりません。わかりませんけど、芦沢さんにはこれからも直木賞と仲良く付き合っていただけるとうれしいです。

 坂上泉さんの『インビジブル』を読んで、現代にもマッチしながら古風な風格を備えていたのには驚きました。おおげさに言うと「驚愕」です。作中の隅々にまで、社会に対する問題意識が痛いほどに飛び交っている。これはもうほとんど直木賞受賞作でしょう。なので、「もうほとんど直木賞受賞者」の称号を背負って、今後もさまざまなジャンルで重い球を投げつづけてください。直木賞はキャッチャーとして未熟かもしれませんが、そのうち坂上さんの球を受け取れる機会がくるはずです。

 『八月の銀の雪』、これは個人的に深く刺さりました。パッと見ての外観ではわからないところに、重要な価値がひそんでいる。うん、うん、そうだよなあ、と納得と共感が止まりませんでした。伊与原新さんに対しては、感謝のことばしかありません。……と、それで終わるのも寂しいので、あと一言だけ。直木賞とってほしかったなあ。だけどここはぐっとこらえて、未来に訪れるはずの二度目のときに期待を持ち越します。

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2021年1月17日 (日)

第164回直木賞に見るソーシャルディスタンス。

 半年まえの令和2年/2020年7月15日(水)も、直木賞は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けました。

 この日、選考会が行なわれた東京で新規に感染を確認された人が165人。会場では、委員どうしの距離をとったり、アクリル板を設置したりするなど、感染拡大防止の策が施されました。都内ホテルで開かれた受賞者の記者会見も、入場者数が制限され、参集者は会話厳禁。質問者はそのたびにひとりひとり前に出て、みんなと離れた位置で話すことが求められました。飛沫の拡散で感染者を増やさないための対策です。

 以来、半年が経ちます。同じ曜日で比較すると令和3年/2021年1月13日(水)の、東京の新規感染は1433人。収束するどころか、この半年でほぼ10倍です。緊急事態宣言も出されました。

 1月20日に行われる予定の第164回直木賞も、状況は明るくありません。明らかに高齢者たち5人以上が参加する会合です。食事はどうなるのか不明ですが、お茶ぐらいは出るんでしょう。こういう場でクラスターでも発生したら、各所から集中砲火を浴びるのは必至ですから、よりいっそうの厳戒態勢で会議や会見が開かれるものと思われます。

 科学的なエビデンスはよくわかりません。ただ、少なくとも「大勢の人間が、密閉した場所で、距離を保たず声を出しあう」という状況に、多くの日本人が神経質になっているのは間違いありません。その意識の変化が、直木賞を選考する行為に影響を及ぼすことも、容易に想像できるところです。

 ということで、ここに6つの候補作があります。登場するのは、いずれも人間です。彼らが「三つの密」をつくる場面が出てきたとき、読み手の脳内に思わず、「これはダメだ」と危険信号が流れてしまうのも、これまでと違うコロナ禍のなかでの読書体験でしょう。あるいは、みんなで自粛しよう、我慢しようと言っている状況下、そんな場面が出てくる小説が受賞したら、世間から袋叩きにされる可能性も否定できません。

 当然、最も気にかかるのは、どれだけ感染拡大対策がなされているか、ということになります。今回の直木賞は、その点がいちばんの注目ポイントです。

■芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』

感染拡大対策:★★★★

 自宅の作業場での夫婦のやりとり。穏やかです。学校の先生がアタフタする状況でも、基本的に一人でいるか、ギャンブル狂の同僚との二人での会話で終わっています。アパートの老夫婦も、はめを外して遠くに外出するわけでもなく、ひっそりと暮らしています。素晴らしい自粛ぶりです。

 料理研究家のサイン会には、多くの人が集まったようですが、感染拡大に対してどういう対策をとったのか、くわしく書いてありません。おそらくマスクは必須だったでしょう。ファンの女性と握手しているのは気になりますが、即座に無防備だと責め立てるわけにもいきません。

 問題は、山奥で映画を撮っていた人たちの、感染に対する認識の甘さです。旅館の閉鎖された一室で、監督、俳優、そのマネージャー、映画プロデューサー4人が、けっこう激しく声を出し合っています。もし誰かひとりでも感染者だったら……。考えるだけで恐怖です。

■西條奈加『心淋し川』

感染拡大対策:★★★★

 近くにドブ川が流れ、衛生的にはかなり難のある江戸の長屋。住む人たちもみんな貧困なので、いったんウイルスに感染したら、重篤な患者が多発してもおかしくありません。

 おそらく住民にはその意識があるのでしょう、家族どうしで集まることはあっても、大勢で密集する機会はおおむね避けています。こういう真っ当な人たちの生活が保障されるような国であってほしいです。

 最後の最後で、町方役人が柳橋の料理屋で会食をもつ様子が出てきます。年長者二人に、若者六人。オジさんたちの言うことに逆らえず、イヤイヤ宴席に連れてこられた若者たちのつらさが、よくわかります。とりあえずこれは回想シーンなので、問題とするのは気にしすぎでしょうが、会食自粛のお触れが出ている現状では、忌避される場面かもしれません。

■伊与原新『八月の銀の雪』

感染拡大対策:★★★

 人としゃべるのが苦手な大学生。というこの設定が、すでに表題作の勝利でしょう。大勢で話し合う場面とは無縁です。

 対して、いきなり満員電車の車内から始まる作品には、ドキッとさせられます。自粛だ在宅だとおカミから言われても、簡単に従えない人たちがこんなにもいるのだ。ひとつの警鐘だと思いますが、途中、40~50人の聴衆を集めたトークイベントが出てくるところは、いただけません。九十九里の砂浜で発掘作業をするのは、仕事ですから仕方ないとして、屋外とはいえ見物客が集まってしまっています。やはり主催者に管理監督責任が問われるでしょう。

 その対策の甘さを挽回するかのように、公園で静かに野鳥を観察する場面、川に繰り出した二人の男女が距離をとって珪藻を採取する場面、広々とした海岸でひとりの男が凧を揚げる場面、と空気のながれのよい野外の話が印象的に描かれます。これで挽回できたと見るかどうかが、ひとつの鍵です。

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2021年1月10日 (日)

平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。

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▼平成2年/1990年、福武書店『海燕』の編集長に根本昌夫が就任、誌面をリニューアルする。

 前回の終わりに、角田光代さんの発言を引用しました。そこに出てきた根本昌夫さん。『海燕』編集部にいた人です。もちろん根本さんひとりが角田さんを育てたわけじゃないですけど、根本さんの輝かしい編集者遍歴のなかに角田さんのデビューがあったのは間違いありません。

 それで、うちのブログのテーマが芥川賞だったら、ストレートに根本さんを取り上げるところです。しかし残念ながらこちらの関心は直木賞一択なので、まあ触れないでもいいか、と思っていたところ、半年まえの7月に高山羽根子さんが第163回(令和2年/2020年上半期)芥川賞を受賞。高山さんも根本教室の受講経験者だったので、よりいっそう根本さんの株が上がりました。

 日本の小説教室史を考えたとき、たしかに根本さんを無視するわけにはいかないだろうなあ。と思い直した末、今週は根本さんにご登場願います。

 根本昌夫、昭和28年/1953年福島県生まれ。県内の名門、安積高校を経て早稲田大学に入ると、在学中は『早稲田文学』編集室スタッフとして青春の炎を燃やした、ということです。ちょうど同誌が、新庄嘉章さんを発行名義人とした第7次(昭和44年/1969年2月~昭和50年/1975年1月)、それを平岡篤頼さんたちが受け継いだ第8次(昭和51年/1976年6月~平成9年/1997年4月)を刊行していた時期にあたり、早稲田に文芸科(文芸専修)ができたころでもあります。おそらく根本さんも、創作を教える人・それを学ぶ人の発する熱を感じながら、大学生活を送ったことでしょう。

 卒業後、根本さんが選んだのは文芸編集の世界です。作品社の文芸雑誌『作品』の編集部で働きます。ほんの7か月、計7号を出したところでつぶれてしまいますが、東京新聞の文化部にいた渡辺哲彦さんが、親しかった文芸編集者の寺田博さんといっしょに創刊した雑誌で、創刊の昭和55年/1980年11月段階で根本さんは27歳。まだまだ若造の部類です。

 『作品』って硬派なのに冒険心もあり、面白いことしそうな雑誌だったのになあ、終わってしまって惜しい。という声に包まれるなか、他にお金を出してくれそうな会社を当たるうち、手を挙げてくれたのが福武書店。『作品』という誌名のまま復刊しようとしましたが、譲渡金として法外な金額をふっかけられて泣く泣く断念し、埴谷雄高さんが命名した『海燕』という題名で新たな出発を切ったのが、『作品』休刊から約半年後、昭和57年/1982年1月号からです。発行人として渡辺さん、編集長として寺田さんが残留し、部下だった根本さんも『海燕』に移ります。

 創刊6号目にあたる昭和57年/1982年6月号に載った平岡篤頼さんの「消えた煙突」をはじめとして、掲載作がぞくぞくと芥川賞の候補に残るようになり、いっときは『すばる』よりも『文藝』よりも『群像』よりも数多く同賞の候補に挙げられるなど、またたく間に有力純文芸誌にのし上がります。ただし、のし上がったところでお金が儲かるわけではありません。赤字がかさむなか、創業社長だった福武哲彦さんが亡くなり、社名も「ベネッセコーポレーション」と変更、同社が出版部門から撤退するのに合わせて、平成8年/1996年11月でその誌命を閉じることになります。

 編集長は寺田さんから田村幸久さんへ、そして平成2年/1990年に根本さんへと変わります。大幅に誌面をリニューアルし、コミックやミステリーを採り入れた純文芸誌として、どうにか時代の推移を見極めようともがきましたが、もがきっぷりが露骨すぎて評判はよくなく、刻まれたのは悲しい末路です。

 『海燕』の廃刊を見届けるまえに、福武書店を飛び出した根本さんが、次に編集長になったのが角川書店の『野性時代』でした。いま刊行されている『小説野性時代』とは違って、当時の『野性時代』はチャレンジングというかムチャクチャというか、純文芸誌でもなければ中間小説誌でもない中途半端な位置取りから、ミステリー、ファンタジーと「売れ線」を求めて右往左往。『早稲田文学』平成14年/2002年11月号増刊に載った根本さんの「インタヴュー 終わりと始まり」によると、売れない売れないと言われた福武の『海燕』でも月5000部売れていたのに、『野性時代』は実売2000部。それで赤字が毎月2000万円ぐらい出ていた、というのですから、放漫もいいところです。

 3年はやらせてくれる、という約束だったそうですが、根本さんが手がけてから1年ほどで、もうこんな借金だらけの雑誌やめるよ、と上層部からお達しが降ってきて、平成8年/1996年4月号で休刊。終わらせるために就任したようで、根本さんが貧乏くじを引かされた恰好です。しかし不運といえば不運だけど、1年ももたなかった『作品』、落ち目の『海燕』、死に体の『野性時代』、けっきょく根本昌夫って大した編集者じゃないんじゃないの? と陰口を叩かれたとか何だとか。誰ですか、そんなこと言うのは。弱り目に祟り目、かわいそうな根本さん。

 金を稼いだかどうかで編集者の力量が決まるなら、たしかに根本さんの実績は高くないかもしれません。しかしここで人生一発逆転。雑誌の編集を離れたところで根本さんの力量が一般に注目されることになるのです。この世に「小説教室」というものがあったおかげです。

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