2021年4月11日 (日)

平成9年/1997年、高橋義夫が山形で「小説家になろう」講座を開始する。

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▼平成9年/1997年、「盛り場学入門講座」と並行するかたちで、高橋義夫が小説教室を企画する。

 1990年代といえば、だいたい20~30年まえの出来事です。

 ワタクシを含めて老年・中年のジジババにとっては、ついこないだですね。って感じですけど、直木賞で換算すると40~60回分ぐらいに当たります。ひとりの作家が受賞する、やがて選考委員になる、そして退任する……そんなふうに直木賞歴がスッポリ入ってしまう人が何人もいるぐらいに、けっこう長い時の流れです。20~30年なんて最近のようではありますが、「昔のこと」と見ても許されるでしょう。

 その昔むかし、年号ではおよそ平成に入った頃合いに、直木賞やもうひとつの賞では、「地方の時代」みたいなことが言われていました。とりあえず平成1年/1989年1月に決まった第100回(昭和63年/1988年・下半期)などがその代表的な例で、直木賞ほか一賞の受賞者は全部で4人いましたが、その全員が東京から遠く離れた居住地で結果を知ったために、当夜、東京の受賞会見場にはだれも現われなかった、という異例の事態が起こります。もはやジジババたちが懐かしんで語ってしまう昔の話です。

 「地方の時代」と呼ばれたうねりは、もちろん小説教室も無縁ではありません。文学学校しかり、井上光晴さんの文学伝習所しかり。あるいはマスコミ系の企業が、全国各地にビジネスチャンスを求め、その結果、小説を書いてみようという熱がさまざまな地域に広がったことは、以前も取り上げましたが、90年代になると、直木賞と関わりの深い教室が地方に生まれ、大きな成果を挙げ出します。

 たとえば山形市の「小説家になろう講座」です。始まったのが平成9年/1997年ですから、いまから24年まえ。その後、いろいろとあって「山形小説家・ライター講座」と名前が変わったものの、いまでも現役バリバリ、人気の講座として続いています。

 発起人は、山形県に居を構えて直木賞をとった高橋義夫さんです。受賞したのが第106回(平成3年/1991年・下半期)、このときも盛岡在住の高橋克彦さんと同時受賞だったので、みちのくの作家が直木賞を独占! と大きく話題になった……かどうか、それは微妙なところですけど、ともかく「別に東京にいなくたって小説は書けるじゃん」を実践するひとりとして、山形の界隈で楽しく暮らします。

 山形で知り合った現地の人たちと夜な夜な酒場に繰り出したり、歩き回ったりしているうちに、「花小路活性化委員会」や「渤海倶楽部」と称する集まりができていきます。「花小路」というのは山形市内の、小さい酒場がたくさんある地域の名前ですが、そういうところに出入りして、遊びと言いながらワイワイしゃべり合い、仲良くなったりケンカしたりしているうちに、こういう盛り場の存在が社会に与える効果には絶大なものがある、盛り場が街を活気づけるし、盛り場の衰退する場所には未来がない、そうだ、「盛り場」をマジメに(そして遊びながら)研究する会があったら面白いんじゃないか。……と考えた高橋さんは、こういう一銭にもならず、他人から「ナニそれ?」と馬鹿にされるようなことを、真剣にやるのが大好きな人だったので、どうやったら「盛り場学会」が実現できるかと、頭をひねります。

 そこで出てきたのが、自主講座を定期的に開いたらどうだろう、というアイデアです。県外から知り合いに来てもらい、話をしてもらう。お客さんがたくさん入る講座であれば、山形県生涯学習センター「遊学館」あたりで開かせてもらえるだろう。……と、頭のなかで夢を広げますが、そもそもが遊びの延長ですから、枠組みが決まっているようなもので、ないようなものです。盛り場研究を看板に掲げながら、とにかく山形でいっしょに遊んでくれそうな人を物色し、悠玄亭玉八さん、ねじめ正一さん、時実新子さん、なぎら健壱さん、鹿島茂さん、橋爪紳也さんなどに話をつけて、「盛り場学入門講座」と銘打った年間講座を計画します。平成9年/1997年のことです。

 だけど、ざっと見積もってみると、けっこうお金がかかってしまうことが判明。わざわざ来てくれるゲスト講師には少しでも上乗せで謝礼を払いたいし……と高橋さんはまたまた頭をひねります。ううむ、もうひとつ並行して自分だけで講座をやったらどうだろう、その受講料収入を「盛り場学」のほうに当てればいいんじゃないか、はてさて、自分にできる講義は何だろう。と、そんな流れで思い至ったのが、小説の書き方を主題とする生涯学習の講座だった、というわけです。

 こんな回想が残っています。

「「盛り場学入学講座」の翌日、ぼくは今度はひとりで、遊学館に行った。その日は、ぼくが講師となり、「小説家になろう」という講座がある。

実はこれには裏話がある。「盛り場学入門講座」にかかる費用が、ぼくにとっては莫大なものになるので、もうひとつ講座をやり、交通費程度でもよいから、その講師料を盛り場学のほうへまわして、「損失補てん」しようと、目論んでいたのである。ぼくは狸の皮算用は好きだが、実行においてどこか間のぬけたところがある。話がどう行きちがったか、いつの間にかそれも、自主講座となってしまった。(引用者中略)定員三十名のところに、六十名以上も応募があり、抽選をするほど反響があった。」(平成10年/1998年4月・洋泉社刊、高橋義夫・著『楽をしたかったら地方都市に住みなさい』「15「やまさか講座」開講――幕内のドタバタ劇」より)

 自主講座とは言っても、やるからには本気です。ここから新人賞をとるような作家を育ててみせるぜ! と気合は入っていたらしいんですが、なかなか簡単ではありません。また、そこには高橋さんなりの考えもあって、だらだら続けたって意味がない。期限は3年。3年書いてロクなものが書けないヤツは10年やったって駄目なんだから、みんな3年で卒業させる、という方針を打ち出します。

 ということで、平成9年/1997年、平成10年/1998年、平成11年/1999年……。東京あたりからゲスト講師を招き、受講生たちの作品を読んでもらいながら講評する、というスタイルで3年つづけました。しかしけっきょく、デビューする人を出すことはできず、平成12年/2000年春に、あーやめたやめた、と高橋さんは幕を下ろしてしまいます。

 期限を3年に設定する、というのは高橋さんの独特な感覚です。これをどう見るか。あとで振り返れば何とでも言えるので、難しいところですけど、やって駄目ならすっぱりやめる、というのも当然アリだと思います。高橋さんだって無限に時間のあるひま人ではありません。

 しかし、同じ山形に、もう少し腰を据えてやってみてもいいんじゃないか、と考える小説業界の人がいたおかげで、高橋さんが下ろそうとした幕は、下りませんでした。幸運というしかありません。

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2021年4月 4日 (日)

昭和14年/1939年、長谷川伸たちが小説の勉強会「十五日会」を始める。

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▼昭和15年/1940年、長谷川伸門下の「十五日会」から河内仙介が直木賞を受賞。

 世間には小説の勉強会というものがあります。小説教室の歴史を振り返っていくと、大学のライティングコースと並んでかならず目に止まりますが、これまで日本にどんな勉強会があったのか。まともに取り上げはじめたら無限に出てくるはずです。とても対応できませんので、代表的なものだけさらっと見てみます。

 ということで、先週は丹羽文雄さんを中心とする十五日会のことに触れました。しかし、直木賞の話題で小説の勉強会といえば、やはりこれ、新鷹会を挙げないわけにはいきません。

 新鷹会。長谷川伸さんとともに一時代を築いた有名な勉強会です。何だかいつも直木賞の傍らにあって、ついつい知った気になってしまいますが、うちのブログでもあんまり起源を追っていなかったので、これを機会に少しひもといてみます。

 小学校を途中でやめて、以来さまざまな仕事に就いた長谷川さんは、幼少のころから本をむさぼり読み、演劇に親しむようになって劇作・小説を一心不乱に独学、20代後半からボツボツと原稿が売れるようになっても、まったく向学の手をゆるめません。仲間たちといっしょに月に一度、赤坂の「山の茶屋」に集まって開いたのが「山の会」と称する勉強会で、これはおそらく昭和初期ぐらいに開かれたものと思いますが、くわしい記録は残っていないそうです。

 やがて昭和8年/1933年、長谷川さん49歳、働き盛りのアラフィフ世代のときに土師清二、甲賀三郎、竹田敏彦、藤島一虎らと語らってハナシがまとまり、12月から「二十六日会」を始めます。毎月26日に開くから二十六日会。単純明快です。そこでは当初、小説、戯曲、そして人つくり、三つを勉強することを目標にした、と言われますが、ここに「人つくり」が入っているところが、ミソというか、長谷川一門が単なる創作勉強集団ではない大きな特徴です。

 それと、もうひとつ面白いのが「小説と戯曲」が同じ枠組みで考えられていた、ということでしょう。大衆文芸のなかでは(というか純文芸も同じでしょうが)、小説と戯曲(脚本、台本、シナリオなどなど)は常に隣り合わせの双生児です。直木賞の歴史を見てもそれは明らかで、演劇、芸能、映画、テレビなど、出版以外の要素が賞のなかにたくさん入り込んでいる、という特徴があります。だから直木賞は、文学賞として面白いわけですね。

 それはそれとして、二十六日会に話題を戻します。

 会のある日は、だいたいみんな勤務や仕事があるので、それが終わった夕方に参集し、自分で書いてきた作品を朗読する。他の参加者はそれを聞いて感想を述べ、批評をし、あそこはこうしたほうがいい、あそこはどうだと「勉強」をし合いながら夜を明かす……という段取りでやっていたそうです。これを毎月毎月、何年もつづけたというのですから、好きじゃなければ、なかなか続きません。

 しかしどうやらこの会は、回を重ねるにつれて脚本研究のほうに比重が置かれるようになったらしく、これとは別に小説研究の会合がもたれるようになります。ものの本によりますと、第1回目の会合は昭和15年/1940年9月22日、京橋にあった蕎麦屋「吉田」の2階で開かれ、参集したもの12人。村上元三、山手樹一郎、大林清、棟田博、長谷川幸延、穂積驚、浜田秀三郎、森川賢司、神崎武雄、安房八郎、島源四郎、そして先輩格として長谷川伸。このとき山岡荘八さんは戦地に赴いていたんですが、帰国後は長谷川さんベッタリというふうにこちらの会にも参加します。

 毎月15日に集まることに決まったので、名称は「十五日会」です。しかし、しばらく経って「~日会って名称ばかりだから、いっそ『新鷹会』に名を改めようぜ」と村上元三さんが言い出し、それが長谷川さんにも了承されて「新鷹会」となったんだ、と言われています。

 正式な会員がどう変転していったのか。とくに初期のころの動静はとらえづらいものがありますけど、「十五日会」は昭和15年/1940年9月に発足したことになっています。ただ、直木賞の歴史に当てはめると、河内仙介さんの「軍事郵便」が受賞したのが第11回(昭和15年/1940年上半期)ですが、その選考会は十五日会発足の1、2か月前です。あれ、河内さんって十五日会に入ったあとに直木賞をとったんじゃなかったの? ……などなど、よくわからないこともあります。

 だいたい十五日会って言っているのに、どうして初回の会合が9月22日なんでしょうか。事情は判然としませんが、横倉辰次さんがまとめた『長谷川伸 小説戯曲作法』(昭和39年/1964年11月・同成社刊)の巻末に長谷川さんの年譜が入っていて、ここでは「十五日会」の誕生は昭和14年/1939年7月だ、と書いてあります。第三次『大衆文藝』が創刊したのは昭和14年/1939年3月号で、常識的に考えるとその数か月後に、小説の創作に特化した新進作家たちの集まりができた、と見るほうが自然ですから、十五日会ができたのは昭和14年/1939年7月、新鷹会と名を改めたのが昭和15年/1940年9月、ということなんでしょう。

 とか何とか、細かいところを突つきすぎて「小説教室」のハナシから外れてきました。すみません、先に進みます。

 ともかく十五日会は小説を勉強する集まりだったんですが、やり方は脚本研究の二十六日会とだいたい同じでした。参加者はそれぞれ、自分で小説を書いてきて、みんなのまえでそれを朗読する……という方法です。

 ワープロもなければ、用紙の事情もいまとは違う、そういう時代に小説の書き方を勉強するには、みんなに語って聞かせて講評を得るのが自然だったのかもしれません。しかし、やはりここにも長谷川伸さんなりの小説観というか、「小説と戯曲観」が見えています。戯曲というのは、いちおう生身の人間たちが声を出し合うことを前提につくられるのが建前です。作品の発表のときに朗読してみるのは理にかなっています。小説もまた、形態は違えども戯曲に通じるものがある。人前で読み上げることで、その良し悪しは十分に伝わるものだ。……という考え方です。

 村上元三さんも、その後輩の戸川幸夫さんや平岩弓枝さんも、新鷹会出身の作家は、「会合で朗読する」ことを書いたエッセイをたくさん残しています。同じことをしろと言っても、現代の小説教室では、なかなか受け入れづらい(広がりづらい)気もするんですけど、しかし、シナリオを書くことも小説の勉強、小説を書くのもシナリオの勉強、という長谷川さんの教えを信ずるとすれば、これはこれでマトを射た勉強法なのかもしれません。

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2021年3月28日 (日)

昭和29年/1954年、丹羽文雄の『小説作法』がベストセラーになる。

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▼昭和27年/1952年、丹羽文雄の「小説作法」が載った『文學界』、文芸誌として異例の増刷。

 なるべく時系列に沿って小説教室の歴史を追ってみよう。と思って書いてきましたが、そろそろ終盤、21世紀のハナシに入ったところで、途中、書き落としがあったことに気づきました。なかなかうまくいきませんね。ブログも人生も。

 なので、ちょっと時代をさかのぼります。先週、同人雑誌の合評会のハナシが出てきました。これが日本の小説教室にさまざまなかたちで影響を与えてきたのは間違いないぞ。となると、やはり『文学者』界隈のことを素通りするわけにはいきません。コヤツ、合評とも小説教室とも決して無縁ではないからです。

 丹羽文雄さんを中心とする同人雑誌『文学者』のことは、これまで何度も取り上げてきました。母体となったのは戦前にあった「五日会」、そこから戦後に「十五日会」というかたちに発展した創作・評論の勉強会です。丹羽さんと親しい同輩や後輩などが集まって、来るものは拒まず去るものは追わず、多くの作家志望者がその門を叩き、小説を書いては仲間から酷評され、酒を飲んでは口論し、有名になった人がいれば無名で終わった人もたくさんいる、昭和戦後期を代表する文学同人の団体です。20数年といいますから、だいたい四半世紀ぐらい続いた、と言われています。

 なにぶんマジメな文学に偏った団体ですから、直木賞なんて全然関係ないのかな、と思いきや、中村八朗さんや小泉譲さんをはじめ、数々の作家が直木賞の候補になったことで文学人生を狂わされ、おれは芥川賞的な方向でやっていきたいんだ、勝手に直木賞の候補になんかするな、という感じで、直木賞が得意げに繰り出した「余計なお世話」のなかでも、もろに被害に遭ってしまった人の多いのが、この集団の特徴です。直木賞の観点から見ると、いつも何か心にモヤモヤしたものを感じてしまう『文学者』の人たち……。直木賞なんてものがこの世にあったばっかりに、甚大なご迷惑をかけてしまいました。すみません。

 直木賞のことはひとまず措いておくとして、ほかに『文学者』の特徴といえば何でしょう。雑誌をつくるためのカネの出どころが、現役作家の丹羽文雄さん、だいたいひとりに集約されていたこと。かなり重要な特徴です。

 まったく何はなくとも先立つものはおカネです。カネにまつわる話題は、およそ文学方面では忌避されがちですが、残念ながら日本の近現代文学は、消費をする、利益をあげる、金銭を授受する、すべておカネによって成り立っています。じっさい、直木賞をはじめとする文学賞も、いま調べている小説教室も、ざっくり言ったら「文学におカネを掛け合わせて生まれたシロモノ」という共通点があるのは間違いなく、そういう汚らわしさ……いや、俗っ気で構成されているところが、文学賞と小説教室、双方の魅力の源泉なのだ、と言っても過言ではありません。

 文学賞が日本で市民権を得たのが昭和のはじめ。小説教室が日本の大学でボコボコつくられていったのも、昭和のはじめ。そしてだいたい同じ時期にデビューした丹羽文雄さんは、はなから経済的な活動しての創作が身についていた時代の作家です。小説を書きまくって稼いだおカネを、文学環境を整えることに還元する。丹羽さんは、そういう面でおカネを流動させる活動も担いながら作家人生を歩んだ人だった、と言えるでしょう。

 その活動のなかで、「ひとに小説の書き方を教える」という仕事を引き受けたのも、丹羽さんの大きな特徴です。

 たとえば『文學界』に昭和27年/1952年4月号から発表された「小説作法」という作品があります。昭和29年/1954年3月に文藝春秋新社で書籍化されるやベストセラーになってしまい、これまで数々生まれてきた小説の書き方を説明した本のなかでも金字塔と言っていい作品ですけど、これが改題されて『私の小説作法』(昭和59年/1984年3月・潮出版社刊)として再刊されるときに、改めてつけられた「あとがき」によれば、単行本になる前、『文學界』に最初に発表した段階で「その号に限り『文學界』が増刷したということであった」そうです。文芸誌が増刷されるなんて異例のことだ、と昨今もいろいろ話題になったりしていますが、当世の人気作家丹羽文雄が自らの創作のやり方を大胆に開示してみせた! ……ということが、いかにそのころの読者にインパクトを与えたのか、よくわかります。

 興味深いのは、丹羽さんが創作の方法を他人と共有することに、さほどの抵抗感がない感性の持ち主だった、ということです。

 小説の書き方なんて千差万別で、そんなものは教えようがない、と『小説作法』のなかにも出てきます。では、どうしてこういうものを書こうと思ったのか。信頼する後輩、小泉譲さんが聞き手になったインタビューで、こう答えています。

丹羽 わしのところには、他の作家もそうだろうが、非常にたくさんの原稿が送りこまれるのだよ。勿論、未知の文学青年の原稿だ。北は北海道から、南は九州の果てに到るまで。つとめて、目を通し、短評をつけて返送してやつていたが、郵送料だけでも大変なものだ。しかし、みな一生懸命なのだから出来るだけはやつてやりたいと思つてねえ。だが、仕事もいそがしいし、それに最近眼が非常に疲れるのでね、なるべく勘弁して貰つている。そこで、何か、そういう人たちのために参考になる小説入門書みたいなものはないものかと漠然とだが考えていたんだよ。」(『文章倶楽部』昭和30年/1955年5月号 丹羽文雄、小泉譲「新人について」より)

 丹羽さんの、文学志望者たちに対する寛大な親切心がよく伝わる逸話なんですが、ここにもまた「おカネとともにある文学シーン」という背景を強烈に感じないわけにはいきません。

 そもそもどうして見ず知らずの全国の志望者が、丹羽さんのところに原稿を送ってくるかといえば、丹羽さんが新聞、雑誌などメディアにひんぱんに登場する売れっ子だから……という面が確実にあります。そういう人たちの要求を、一対一のリアルなやりとりで叶えるのは限界がある。ならば、文芸誌を使って(もしくは単行本というかたちで)「小説の書き方」を売り物にしてしまえば、より多くの人たちの希望に応えることができるではないか。丹羽さんの『小説作法』は、そういう商業的出版の仕組みを前提として生み出されたものです。

 メディアを介した小説教室は、いまの時代も健在で、オンラインにしろオフラインにしろさまざまな講座が出まわっています。丹羽さんの『小説作法』もその系列に通ずる性格をもった「小説教室」と言っていいでしょう。

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2021年3月21日 (日)

平成5年/1993年、東海大学文学部の「文章作法II」を辻原登が教えることになる。

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▼平成4年/1992年、安原顯が、創作科から出てきた作家の小説は「クズ中のクズだ」と言う。

 1990年代に入って、創作講座は一気に裾野を広げます。

 いろいろな場所で、さまざまなタイプの講座がつくられ、現役の作家が能動的に小説の書き方を教える機会も増えました。そうだよ小説作法を教えてカネをもらうことの何が悪い。と、わざわざ肩ひじ張って主張しなくても、それが自然に受け入れられる時代がやってきます。

 プロになるには文学性なんて不要だ。と言わんばかりに、プロットの立て方、キャラクターのつくり方などを重視するクラスがつくられる。いっぽうでは、文学とは自分を高めるためにあるものだ、と言い切って読書と執筆に親しむ趣味サークルが群立する。……それぞれの目的に根ざした教室が、泡のように生まれ、泡のように消えていきます。

 前週、取り上げた創作学校CWSも、90年代の産物のひとつです。創設のとき、その中心にいた安原顯さんはやる気をみなぎらせ、「小説教室」のうえで先輩に当たる早稲田大学文芸専修の三田誠広さんのもとを訪れて、どういう感じで創作を教えているのか、熱心に尋ねました。その様子をまとめた対談記事のことは前回も紹介したんですが、そこには平成4年/1992年当時の小説教室を二人がどう見ていたのか、ということも合わせて語られています。ちょっと参考にさせてもらいましょう。

 ひまなオバさんが群れをなすカルチャー・スクールを、安原さんは「気色が悪い」と一蹴していましたが、ひるがえって大学の創作科のことも、あまり評価していなかったようです。

 対談の司会(『早稲田文学』編集部の人)に「大学の文芸科からは作家は出てこないような気がする」と振られて、そりゃそうだと言わんばかりに、こう語っています。

「それはアメリカの大学の創作科の場合もおなじで、あれは一種、喰えない作家のための救済的要素が強いし、まあひとにもよるんだろうけど、そんなに熱心には教えていないみたいね。学生の自主性に任せているというか。ミニマリストのなかにもカーヴァーのような例外はあるけれど、創作科が増えてからでしょう。いわゆる身辺雑記的素材の小説がアメリカで急増したのは。マキナニーにしろ、ブリット・イーストン・エリスだっけ、映画にもなった、彼らに象徴される創作科出身の新人作家って、アメリカでも、日本の翻訳でも、一応ベストセラーになったけど、小説としてはクズ中のクズだね。」(『早稲田文学』平成4年/1992年12月号 安原顯、三田誠広「徹底的に、個別的に ありうべき文学教室の指導要領」より 安原顯の発言)

 創作科出身の作家には特徴的な作風がある、というのはなかなか面白い見立てです。

 この説を受けて、三田さんもアメリカの創作科には問題点があると指摘。それは、受講生の作品をみんなで読んで批評するかたちをとっているため、素人同士の口論合戦になりやすく、けっきょくみんな減点されないようなこじんまりしたものばかり書くようになってしまうようだ……と答えています。

 誰かの書いたものを、みんなで読んで批評し合う。要するに、同人雑誌の世界で古くから行われてきた合評会そのものです。

 ああ、同人雑誌の合評会。……悪評高き、といいますか、美しき伝統美、といいますか。自分の書いた作品を、仲間たちに読ませたうえで面と向かって批評される。攻守入れ替わって仲間の書いたものを読み、今度はこちらが公衆の面前で批評を述べる。そんな合評会という文化が生まれたのはいったいいつからなんでしょう。まったくわかりませんけど、いかにも文学修業といったらコレだ! というふうに昭和の日本の同人誌に定着していたのは間違いありません。

 70年代後半から日本じゅうに拡散した「小説教室」は、発展するなかでいろいろな旧弊とぶち当たりましたが、そのひとつが「合評会」だったのもまた明らかです。

 同人雑誌の文化から生まれた、と言っていい朝日カルチャーセンターの駒田信二教室では、自前で雑誌をつくり、当然「合評会」が行われました。そこでの生徒同士のぶつかり合いが、木下径子『女作家養成所』(平成1年/1989年1月・沖積舎刊)という怪作を生み出した……というのは、ここ何か月かブログで追ってきたとおりです。

 また、日本児童教育専門学校出身の森絵都さんと、青山学院大学の児童文学サークル出身の佐藤多佳子さんが、合評というのはイヤな世界ですよね、と語り合っていたのも印象的です。創作教育、創作学習に、みんなでみんなの作品を読み合う形式は果たして有効なのか。……小説教室が拡大するに当たってこの問題に遭遇したことは、相当大きなインパクトをもたらしたように思います。

 討論、ディベート、ディスカッション。昔から日本人が苦手と言われ、ビジネスでも教育の場でもなかなかその効果を採り入れることができないままに時代が進んできましたが、「同人誌の合評会」という闇の奥底でチマチマ行われていた奇妙な因習が、小説教室という広く人目に触れる場面に応用されたとき、うぇ、何だこりゃ、こんなもので小説を書く力が鍛えられるわけないじゃんか、と多くの人の拒否反応を誘ったのは間違いないところです。

 やはり創作を学ぶには、討論形式ではなく、ひとり教える講師がいて、生徒はその先生とのやりとり、添削、聴講のなかで書いていく方法が望ましいのではないか。じっさい小説教室の主流は、徐々にそちらのほうに傾いていくことになります。

 90年代から2000年代初頭にかけて、いくつかの大学で創作教育を採用する流れが生まれますが、そういったところでもいわゆる合評ではなく、講師対生徒の関係をどのように高めて創作につなげるか、という観点が重視されたようです。直木賞のハナシから外れるいっぽうですけど、せっかくなので、この勢いで「逆漱石現象」のことに触れてみたいと思います。

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2021年3月14日 (日)

平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。

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▼平成4年/1992年、出版社メタローグのもと、『リテレール』が創刊、「創作学校」が開校する。

 小説教室をつくってきたのは、誰でしょうか。大学あり、マスコミ企業あり、イデオロギーにまみれた文学団体あり。いろいろな組織が手がけてはつぶし、撤退しては挑んできました。もちろん出版に携わる企業人や編集者たちも、のうのうと暮らしていたわけではありません。これはうまく行けばカネになるぞ。と、ビジネスの夢を求めて、いくつかの出版社が勢い込んで参入します。

 たとえば昭和49年/1974年「日本ジャーナリスト専門学校」にカネを出したみき書房もそうでしたけど、平成4年/1992年に開校した「創作学校 Creative Writing School(CWS)」も、代表的なひとつです。

 いや、代表しているかはわかりません。とくに革新的な試みでもなく、片々たる一例かもしれませんが、当時、「オメガ」という編集プロダクションをやっていた天道襄治さんとそのスタッフ今裕子さんが、本格的に小説の書き方を教える学校を立ち上げたらどうだろう、きっと人も集まるだろう、と大きな夢をもち、一大プロジェクトを企画します。以来、創設から30年超。いまもまだ、とりあえず続いているようです。

 しかし、創作学校CWSが90年代、日本の小説教室史に名を残したのは、何といってもその二人が、安原顯さんに設立を相談したからでしょう。

 やすはら・けん。通称ヤスケン。大風呂敷を広げて悪目立ちすることにかけては天下一品、生きているうちはいいけれど死んだ途端に悪口を言われてハイそれまでよ、でおなじみの、いまではその著書を手にとる人もほとんどいない、あの安原さんです。

 バブル景気の時代、中央公論社の女性誌『マリ・クレール』を編集し、けっこうたくさん売りました。平成4年/1992年、23年ぐらい在籍した中公にツバをひっかけて退社したところ、次の仕事を持ってきたのが、安原さんがかつて竹内書店で働いていたときに同僚だった天道さんで、新しい雑誌の創刊と、創作学校の設立を打診したのだといいます。

 だいたいの経緯は、『ぜんぶ、本の話』(平成8年/1996年9月・ジャパン・ミックス刊)の「出版社「メタローグ」をめぐる冒険」とか、『決定版「編集者」の仕事』(平成11年/1999年3月・マガジンハウス刊)の「第四章 出版社メタローグと「創作学校」を創設」とかに詳しいです。ゲテモノ好きな方はぜひ原文を読んで、罵倒と放言を繰り返す安原さんのスタイルに、気分を害すもよしヘドを吐くもよし、著者渾身の暴露ゴシップを堪能していただければいいんですけど、新会社のメタローグで『リテレール』という季刊誌を創刊したのが平成4年/1992年6月、創作学校の創立が同年10月。ほとんどおれ一人の苦労によって始めることができたのだ、と安原さんは豪語しています。

 時にこのころ、直木賞ともう一つの文学賞は、第107回(平成4年/1992年・上半期)を迎えた時期です。純文学系の賞のほうは、80年代後半に訪れた暗いトンネルをようやく抜け出たものの、そこは雪国のように寒く、歴史的役目は終わっただの、こんな茶番早くやめちまえだのと、外野からワーワー言われ、もちろん安原さんもクソミソに叩いています。いまから30年ほどまえのことです。なつかしいですね。

 そもそも安原さんが、どの程度直木賞に興味があったのかは不明ですが、第114回(平成7年/1995年・下半期)のときには、小池真理子『恋』なんて駄作に賞を与えやがって、選考委員の罪は重い! と断言していたようです。直木賞がだれのどんな作品に賞を与えようが、おれには関係ないよ、と言い捨ててもいいのに、なぜか結果に反応しています。文句を言う。そしてけっきょく文句ばかりが威勢よく、相手に届いたふしもありません。安原さんのような有能な人でさえ、権威ゴッコの茶番を終わらせることができなかった、という歴史的事実を確認すると、直木賞ほか一賞のたくましさがよけいに際立ちます。

 と、ここで文学賞の話題を持ってきたのは他でもありません。安原さんがなぜ「創作学校」という面倒な仕事を引き受けたのか、その理由のひとつに文学賞のことを挙げているからです。引用してみます。

「ぼくがなぜ「創作学校」など仕切る気になったかと言えば、文芸誌の新人賞はもちろん、芥川賞・直木賞に代表される近年の新人賞受賞作の、あまりのレヴェルの低さに唖然とさせられ続けたことも大きいが、作家志望の若者を本気でしごけば、1、2年に1人くらい、可能性のあるパワフルな新人が育てられるかもしれぬとの、余計なおせっかいからだった。しかし、3回の授業を体験し、そんなに簡単なことではないことを痛感させられると同時に、一方では、始めた以上は、何としてでも新人を送り出してやりたいとの、妙なファイトも湧いてきている。」(平成5年/1993年5月・図書新聞刊、安原顯・著『ふざけんな! まだ死ねずにいる日本のために』「「創作学校」の課題作文を読み、「俺は肥溜めじゃねえぞ」と怒鳴る天才」より)

 安原さんのハナシを信じると、メタローグの運営も創作学校も、一年ほどで赤字がぐんぐん積み重なり、抱えた負債が4000万円。これを見て天道さんはすぐに撤退しますが、残った今さんが安原さんを引き止め、今さん800万円、安原さん500万円を出し合ってメタローグの経営を継続。しかしどんどんお金は出ていくいっぽうで、平成6年/1994年にはどうにも首がまわらなくなり、「安原さん、今後は無給でお願いします」と言われてはさすがに続ける意思も消え失せて、この年の12月、『リテレール』11号を出したのを最後に、安原さんはこの事業から一切身を引きました。ところがハナシはそれでは終わらず、なぜか連帯保証の債務を負わされたため、安原さんブチ切れて……といった、犬も食わないいざこざは、先に挙げた参考文献を読んでみてください。

 ビジネスのうえでは損も得も紙一重。おカネがなくなっても恨みっこなしよ、というのが通常の人間社会です。しかしここまでして、親しい人に頼み込んで講師をやってもらったり、才能があるのかわからない受講生たちのために作品を添削したり、安原さんが創作学校を始めた気持ちに、損得では計れないものがあったのは間違いありまけん。そう考えると安原さんが自分のことを「おせっかい」だというのは、まったくの至言でしょう。

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2021年3月 7日 (日)

昭和62年/1987年ごろ、高校を卒業した森絵都が、作家を目指して日本児童教育専門学校に入学する。

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▼昭和57年/1982年、日本児童文学専門学院が設立される。

 小説教室だけでも範囲が広いのに、周辺分野となると、わからないことが多すぎます。深入りするうちに直木賞に帰ってこられなくなりそうです。ほどほどにしたいと思います。

 たとえば、作文・綴方、文章、エッセイの書き方教室というものがあります。小説教室とは別のモノだと認識されていますが、いったい小説と作文は、何が同じで何が違うのか。なかなかわかりづらくて、答えのない道です。

 わかりづらくてもいいんですけど、それだと事業を継続するのが難しくなります。教室の運営というのは経済活動でもある。受講生を継続的に募るには、もっと明確な目的を掲げないといけない。……というところで、1980年代以降の小説教室が取り入れたのが「新人賞をとる」とか「プロになる」とか、そういう目的設定でした。職業訓練の風合いも匂いますが、いま小説教室が世間に定着しているのは、この設定を手に入れたからだというのは明らかでしょう。

 職業に直結する芸術系の教室には他にもある、ということで、先週はシナリオ教室のハナシに触れたんですけど、その流れでいうと、いまひとつ思い当たるものがあります。絵本、童話、児童文学の創作教室です。

 若年層向けの文章作品は、それだけで野太い歴史があります。文学や小説との関係でいっても、時に書き手が重なり、時に影響を与え合い、日本の文学史は児童文学ぬきではとうてい考えられません。ここで「直木賞」などという卑近な例を持ち出すのは気が引けますが、直木賞がえんえんと続いてきたベースにも「若年層向け出版市場」の進展・盛衰があったのは間違いなく、戦前の大衆文芸作家から、戦後のジュニア小説界を経て、コバルト、スニーカー、ジャンプJブック、あるいはヤングアダルト、ライトノベルといった市場とのリンクが、直木賞の一側面として確実に存在します。

 そしてもうひとつ、児童文学が特徴的なのは「青少年教育」の色合いをもっていることです。教育を志す者なら、きちんとした専門教育を受けなければならない、という文化は近代以降の日本では常識化しているところがあり、およそ学校の先生になるためにはそのための教育を受けるのがスジだ、ということになっています。その意味でも、子供向けの創作を学校で学ぶことには、小説教育ほど一般に違和感が持たれづらい、という素地もあります。

 すみません。この調子で童話系の歴史を掘り下げていくと、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、坪田譲治の『童話教室』『びわの実学校』、鈴木三重吉『赤い鳥』、巌谷小波の木曜会……と手を伸ばさないといけないハナシが増えていくばかりです。ここは一気に端折りまして、昭和57年/1982年。この年、児童文学に的を絞った画期的な(?)専門学校が設立されました。「日本児童文学専門学院」です。

 同学院は2年後の昭和59年/1984年に専修学校の認可を得て「日本児童教育専門学校」と改称。いまでは保育・幼児教育にシフトした体制になっているようですが、当初は学院時代の名称からもわかるとおり、児童文学や絵本などの創作教育に力を入れ、「書きかたを教えて学ぶ、そして第一線の幼年対象作家を世に送り出す」ことに主眼を置いたスクールでした。平成7年/1995年の学校案内を見ると、2ヶ年の「児童文化専門課程」が設けられていて、児童文学専攻科、童話創作専攻科、絵本創作専攻科、出版編集専攻科といった科を擁しています。講師にはプロで活躍する児童出版の書き手・作り手が揃っている、という触れ込みです。

 たしかにモノを書いて生活していく、という道は小説ばかりとは限りません。映像メディアに関わるシナリオ、構成作家から、ノンフィクション、雑誌ライター、そして児童文学、童話などなど……ジャンルの細分化と発達のなかで1960年代、70年代、80年代と、さまざまな専門教育機関ができていった実例のひとつが「日本児童教育専門学校」だった、というわけですが、ここに直木賞ファンにも馴染み深い人が、未来の物書きを目指して入学します。森絵都さんです。

 小学生の頃から学校の勉強はほとんどダメだったという森さんですけど、唯一、好きだったのが作文でした。高校の卒業を前にして、どういう進路を選ぶか真剣に考えていなかったところ、心配した友達が渡してくれたのが専門学校の資料。それをパラパラめくっていたときに、ハッと見つけたのが、書くことを学べるという日本児童教育専門学校の児童文学専攻科です。そうだ。私は書くことが好きなんだ。だったら作家を目指してみよう……と思って同校に入ります。

 学習過程は2年あります。いったい何を学ぶのか。いろいろ授業はあったでしょうけど、みんなで書いたものを持ち寄って合評し、それでまた書いて討議するという授業があったそうです。ほとんど小説教室と同じです。

 いろいろな授業がありまして、創作の授業では課題が最初は五枚から入って原稿用紙の書き方から教えてもらって。そして合評会があって、みんなで意見を言う。

佐藤(引用者注:佐藤多佳子) あの合評というのは、いやな世界ですよね。

 いやですよね。みんな若いから、言いたいことを言うんです。途中からは学校の授業でやっているよりは、公募に出していったほうがいいかなと思ってやっていたんですけど。」(『小説現代』平成15年/2003年9月号 佐藤多佳子、森絵都対談「児童文学からの、新しい風」より)

 森さんも、対談相手の佐藤多佳子さんも、合評はいやだ、という価値観で一致しているのが面白いところです。文学史をさかのぼると、同人誌の文化で育ってきた人たちは、合評で泣かされた、でも合評で鍛えられた、と語る例が多く、「鍛えられた」と言い切ってしまう精神性が文学青年のキモいところなんですが、公募の制度が発達したことでわざわざ合評をしなくても済む時代、「合評会はいやだった」と敬遠する意見が語られるのを見るにつけ、仲間同士の文学討議というのは、練習中は水を飲むなとか、我慢すれば強くなるといった、スポーツ教育にあった因習の弊害と似たようものなのかもしれないなあ、とも思います。ほんとうに合評というのは創作修業に唯一無二の必要不可欠なものなのか。はなはだ疑問です。

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2021年2月28日 (日)

昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。

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▼昭和35年/1960年、日本放送作家協会が、「放送作家教室」の前身「放送文芸研究室」を立ち上げる。

 直木賞は文芸ではない、というのがワタクシの実感です。

 すみません、間違えました。直木賞は「文芸だけでできているわけではない」に言い換えます。時代に応じた企業プロモーションのかたち、嫉妬とプライドが入り乱れる作家同士のせめぎ合い、といった卑俗なハナシから、純文芸でも大衆文芸でも本流になれなかった賞の歩み、時代・歴史・ユーモア・実録・推理・SF・ノンフィクション・そのほかあらゆるジャンルに手を伸ばしてきた雑食性、という卑俗なハナシまで、文芸的な観点だけではとらえ切れないさまざまな顔を持っています。まったく面白い文学賞です。

 小説教室も、どうやらそれに似ています。その歴史を語るときに「文芸」に属する話題だけでは、とうてい足りません。

 たとえば直木賞が、昭和10年/1935年、とうの昔から劇作や映像との関係で発達してきたのと同様、小説教室も他の分野のスクールから影響を受け、また影響を与えてきたことは明らかです。

 まあ、そんなことを言い出すと、こんな書き流しのブログで全貌をとらえ切れるわけがないので、とりあえず「小説を教える、小説を学ぶ」というその些細な仕組みの裏には、他の文化事業が膨大に広がっているのだなあ、と呆然として見送りたいと思いますが、やはり直木賞専門のブログとして、直木賞に関するハナシはなるべく抑えておきたいところです。

 ということで、小説教室ならぬ「シナリオ教室」の例をひとつ挙げておきます。時代は1970年代から80年代。通っていたのは桐野夏生さんです。

 演劇、映画、ラジオ・テレビなどの脚本やシナリオをどうやって書くのかを教える機関、というのはそれはそれで長い歴史があります。小説教室との比較でいうと、お金をもらえる仕事に直結した存在という分だけ、「シナリオ教室」のほうが早い時期から社会に定着し、そこで学んだ出身者がプロとなって活躍する道も、すでに1960年代ごろには敷かれていたと見られます。

 代表的なのは、放送部門の学科を持ついくつかの専門学校です。また、一般に開放された教室として、シナリオ作家協会、シナリオ・センター、日本映像研究所、東京新社など、さまざまに群立していました。そのなかのひとつが、昭和34年/1959年設立の日本放送作家協会が、新人作家を養成するために昭和35年/1960年に設けた放送文芸研究室です。これが名称を変え、運営母体を変えて、60年代後半に協同組合日本放送作家組合の「放送作家教室」となります。いまの「日本脚本家連盟スクール」です。

 シナリオ作家だった池田一朗さんも、一時期ここで講師をしていました。およそ1970年代、足かけ8年にわたって教えたそうです。長女・羽生真名さんの『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』(平成3年/1991年10月・講談社刊)にも、この教室や池田講師のことがいろいろ出てきます。

 果たして池田さんはどんなことを生徒に伝えていたのでしょう。内容の一部を引いてみます。

「まずシナリオ界の現状を具体的に説明する。プロになってもほとんどは注文仕事であること、ということは、コンクールのように自分の書きたい分野をシナリオ化する機会は、まずないと思って欲しいこと。なにより、ものを書こうという人間にとってシナリオライターという仕事がいろいろな意味で昔ほどいい仕事ではなくなっていること。しかしそれを承知で、なお書きたいという熱意ある生徒には、こちらも指導の労を惜しまないこと、等々……。」(『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』「9 天井桟敷の人々」より)

 何だかいまの小説教室の講師が、文芸出版の不景気な現状を語りながら、それでも受講生の熱を受け止めようとしている図、と見ても十分通用しそうな場面です。

 放送作家教室というのは、もともとプロの放送人の集まりから生まれた養成機関ということもあって、より実践に即した実技指導に比重が置かれたと言います。「職業訓練所のようなもの」(岡田光治の発言、『シナリオ』昭和53年/1978年3月号「特集 シナリオ作家になるために 座談会=教える側と学ぶ側 その1教える側の論理」)という表現がおそらく実態に近く、こういう教室が、一般にも門戸を開いて存在していたわけですから、小説業界より何歩も先を行っていた、と見るのが適切でしょう。

 30歳手前だった桐野夏生さんが、小説教室ではなくシナリオ教室に通ったのも、やはり両者のその性質の違いに起因している部分が、なくはなかったと思います。70年代、すでにシナリオ教室は「収入、稼ぎ、プロ」に直結していた、ということです。

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2021年2月21日 (日)

平成5年/1993年ごろ、若桜木虔がプロ作家になるための小説講座を始める。

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▼昭和52年/1977年、劇画原作の持ち込みからコネをつくった若桜木虔が、小説を刊行する。

 そして群雄割拠の時代がやってきます。

 「群雄割拠」という言葉は便利です。ワタクシもよく使います。要するに個々の事例を調べていくとキリのない複雑な状況が整理できず、とりあえずそれさえ言っておけば何かわかったふりができるという、魔法のような言葉です。「いま世界では数十億を超える人間が生きている。まさに群雄割拠の時代だ」と言っているようなものです。

 それで1980年代、小説教室でも「群雄割拠」が到来するんですけど、これもなかなか一言で言い表すことができません。単に「小説を書きたい人が増えていった」という事情だけでは片付けられない複雑な要因がからみ合っています。

 ひとつの要因に挙げられるのが、出版経済の豊潤化です。

 広く社会を見渡すと、直木賞ともうひとつの文学賞、この二つの賞が対象にしている小説は、ほんの一部にすぎません。そのニッチ性というか、希少性が「直・芥のほうが上等で、それ以外のものは数等劣る」という感覚を一般に広めるもとにもなっているわけですが(なっているのか?)、そういう小説観は、大した根拠のない思い込みに由来することがほとんどです。文芸方面で食っている作家や編集者、記者たちのプライドとか、昔から言われてきたことを盲目的に事実として認識する慣習とか、その程度のクダらない雰囲気のうえに、出版経済は成り立っています。アホらしいといえばアホらしい。ただ、面白いといえば面白いです。

 直木賞が頑として対象にしようとしない膨大な作品群。そちらはそちらで、はるか昔から賑わっていました。たとえば、映画化するために書かれたストーリーとか、映像作品のノベライズ、漫画を小説化したもの、貸本屋にしか出まわらない小説、倶楽部系の雑誌に掲載される読み物、エロ・グロを売りにしたもの、官能小説、SM小説、映画スター・芸能人・スポーツ選手を主人公にしたモデル小説、少年少女向けと謳われた作品、児童文学、ジュニア小説、ライトノベル……。

 まだまだいくらでも挙げられそうです。正直、こういったものが出版界に存在せず、本になって流通することがなければ、日本の近現代の出版は、もっと貧弱でお寒いことになっていたでしょう。

 「いわゆる文学・文芸」に関するものなんて、全体のなかのほんの一握りにすぎません。文学賞にしても小説教室にしても、事情は同じです。

 というところから、直木賞に近接するものだけを見ていても直木賞をとりまく全体像なんてわからないんじゃないか。……とワタクシも思うようになってきまして、そもそも「小説教室と直木賞」というテーマ設定に無理があっただけなんですが、「群雄割拠」を群雄割拠たらしめるバラエティに富んださまざまな事例のうち、ここら辺でもう少し視野を広げてみたいと思います。

 70年代後半から80年代、朝日カルチャーセンターの二匹目のどじょうを狙って、多くのマスコミ企業が似たようなカルチャースクールをつくりましたが、平成5年/1993年ごろ、読売文化センターやNHK文化センターで「プロ作家になるための」と銘打って小説教室を開講した人がいます。若桜木虔さんです。

 何者でしょうか。昭和22年/1947年静岡県生まれ。祖父に、正岡子規の同窓だった稲村真里さんがいて、幼少のころから書物や活字に囲まれた環境で育ち、いつか自分も物書きになりたいと夢見る学生時代を送ったそうです。

 大学は東大に進学。その後大学院に進んで植物遺伝学の専攻しましたが、院に在籍中にからだを壊し、将来への不安を抱えます。研究者の道の他に、メシを食うために自分は何ができるか。そこで考えたのが物書きとして収入を得ること。お金になる文章は、いわゆる文芸や小説だけじゃない、というところに鋭く気づき、劇画の原作なら手っ取りばやいだろうと考えて、漫画誌を出している各出版社に持ち込みで営業をはじめます。1970年代のころです。

 文字に起こした物語のストーリーが売り買いされる土壌が、すでにそこにあった、というわけですが、それはもう出版経済の豊潤と言うしかありません。編集者からの厳しい要求を受け入れた勤勉な若桜木さんは、劇画原作を次々と書くうちに採用されはじめ、収入の道がひらけ、そこから小説の刊行へとつながります。処女出版は『小説 沖田総司』(昭和52年/1977年9月・秋元書房/秋元文庫)。矢継ぎ早に書下ろしの刊行をつづけるなかで、とくに翌年、集英社のコバルトシリーズから出した『さらば宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年8月)、『宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年9月)などは相当の部数が売れた、と言われています。

 こういうものを小説とは呼びたくない。文学なんて言えるわけがない。という感覚はいまもあるでしょう。当時ならよけいに文芸方面からの分断意識は強烈だったと思います。しかし現実として、自分の頭から文章を紡ぎ出し、読者を喜ばせる技術をもって、商品になり得る本をたくさん書くことでお金を得る職業がある、ということを否定しても始まりません。むしろ出版経済は、若桜木さんのような人たちによって大きくなり、発展してきた、と言ってもいいぐらいです。

 「作家」というものが、文学学校での研鑽や、評論家や編集者による文学指導によって生まれることもあるでしょう。しかし、すべて世界は一律ではなく、あえて文学の意識を外したところに花咲く小説もあります。1990年代、若桜木さんは「小説教室」のビジネスに進出することになりますが、そこに文学臭は一切ありません。しかもそれが功を奏したか、「群雄割拠」の一端を担う小説教室の講師として、ぐいぐいと名を挙げることになるのです。

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2021年2月14日 (日)

昭和61年/1986年、道新文化センター川辺為三の教室から同人誌『河108』が発行される。

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▼昭和62年/1987年、川辺為三、昔の教え子に書いてもらった小説を『北方文芸』に載せる。

 1970代後半からほんの数年で、創作教室ブームは一気に広がりました。牽引したのは新聞社やテレビ・ラジオのマスメディア企業です。

 コツコツと有志たちが手づくりで運営するような「文学学校」とは違って、こちらはあからさまにカネがからんでいます。募集をかければ人が集まり、受講料収入で経営が成り立つ。ということで、大手新聞社や各地域の新聞社、全国に支局のあるNHK系の企業などがカネの匂いを嗅ぎつけて、大都市を中心にそれぞれの地域で創作クラスを展開しました。

 たくさんありすぎて全部は触れられませんので、多少なりとも直木賞と関連しそうなものだけ挙げておきます。北海道の札幌市で立ち上がった「道新文化センター」の随筆・創作教室。講師を務めたのは、アノ川辺為三さんです。

 ここで「アノ」とか大げさに書くと、多少馬鹿にしていると思われちゃいそうです。他意はありません。

 60年代から70年代、いっとき東京の出版社に注目された北海道の作家に、澤田誠一、上西晴治、倉島斉、木野工、渡辺淳一、高橋揆一郎、寺久保友哉、小檜山博などがいます。多士済々という感じで、じっさい渡辺さんなどはそこから全国区になりましたが、川辺為三さんもそこに加えていいでしょう。もっと知られる作家になってもおかしくない流れでしたが、けっきょく終生、北海道に根を下ろし、もはや有名とは言いがたい人です。自身、直木賞にも芥川賞にも候補になった経験はありません。ただ、直木賞とは奇妙に縁があります。

 ざっと略歴を追ってみます。昭和3年/1928年11月29日、樺太の豊原生まれ。昭和21年/1946年に旧制豊原中学を卒業しますが、故郷を奪われるかたちで樺太から函館に引き揚げると、北海道学芸大学札幌分校に学び、卒業後は国語教師として札幌大谷高校、赤平西高校、札幌北高校などに勤めるかたわら同人誌を創刊。作家活動を展開しますが、やがて「後進の育成」というポジションでその力を存分に発揮し、國學院短大助教授などを務めたのちに、平成11年/1999年4月16日、70歳で生涯を終えました。

 高校の先生だった川辺さんが、仲間たちと『凍檣』(とうしょう)という同人誌を始めたのが昭和31年/1956年7月です。創刊時の同人は、「水木泰」というペンネームだった川辺さんのほかに、守矢昭、萩野治、西塔譲、針生人見(山田順三)を含めた5人だったそうで、当然ワタクシにはなじみのない名前ばかりです。そこからポロポロと抜けていき、けっきょく川辺さんだけがこの雑誌に残りつづけた経緯を見ると、やはり彼が同誌の中心的なひとりだった、と言わざるを得ないでしょう。そう考えると、川辺さんがいなかったら、渡辺淳一さんが直木賞をとることもなかったかもしれません。

 というのも、渡辺さんは第2号(昭和32年/1957年2月)から同誌に加わりますが、第6号(昭和38年/1963年8月)に『くりま』と改題したのち、全国にまたがる同人誌の流行期にも相まって、そこに書いた「華かなる葬礼」で注目を浴びると、同人雑誌賞、芥川賞候補、転じて直木賞候補、直木賞の受賞につながっていったからです。

 川辺さんにとって渡辺さんは5歳年下。『凍檣』『くりま』の後輩です。一気に抜かされて内心穏やかじゃなかったでしょうが、そんなことを気にしていたら、人生やっていけません。自分は自分だと気合を入れて、川辺さんは地道な営為を続けます。

 そのひとつが『北方文芸』の編集です。この雑誌のことは、まえに少し取り上げましたが、高い志で始まりながら経営難に直面したり、内紛があったんじゃないかとウワサされたり、イバラの道を歩みながら積み重なる赤字を背に29年、通巻350号で幕を閉じた札幌を中心とする文芸誌です。

 昭和54年/1979年、長く編集人を務めた小笠原克さんが離れたあと、80年代に入って川辺さん、森山軍治郎さん、鷲田小弥太さんの三人編集制に移行します。川辺さんは、札幌だの北海道だの局所的に縮こまらず、もっと東京の文壇に売り込めるような新人を発掘していきたい、という意欲に満ちていたらしく、たくさんの人に読まれるような誌面がつくれないかと試行錯誤したんだそうです。「新しい書き手を見出していこう」という発想が強くなったのも、おそらくその考えの一貫だったでしょう。

 時を同じくして80年代半ば、道新文化センターの講師にもなった川辺さん。生徒たちが中心になって『河108』という同人誌が創刊されたのが昭和61年/1986年のことでした。全国的に「わたしも小説を書いてみたい!」という人たちの情熱が、小説教室ブームに乗って拡散した時代です。

 そこで川辺さんは道新文化センターで創作を教えるかたわら、『北方文芸』を編集するという両輪をフル回転。ここに北海道新聞文学賞という事業も加わって、小説教室×文学賞×雑誌という新人発掘における魅惑のトライアングルを、北の地で美しく描きはじめたわけです。

 川辺さんの努力がカラまわりすることなく、その成果が「直木賞」に結びついたことを、直木賞ファンとして喜びたいと思います。

 創作教室からハナシが逸れてしまいますが、川辺さんの札幌北高校時代の教え子のなかに、詩を書き、小説を書き、まえに『北方文芸』にも載ったことがある新鋭の物書きがいました。なかなかイイものを書く子だから、『北方文芸』に場を提供してあげたい。そう思って、小説を書けよとせっついた相手が、当時広告代理店に勤めていた熊谷政江さんです。のちの筆名、藤堂志津子。この人もまた、川辺さんがいなかったら直木賞につながる道を歩き出せていなかったひとりです。

「(引用者注:広告代理店の)パブリックセンターに入社してから、「北方文芸」の編集者である川辺為三氏に、何回となく「書け」と言われてきた。書く気はなかった。会社業務に追われて、それどころではないのである。「書けたかな?」「努力しましたが力至らずで」のやりとりが何回がつづき、やがて川辺氏は「○月号の雑誌○ページを開けてある」と、私が「今執筆中(私の逃げ口上であった)の作品」を、そのように決めてしまったのである。真っ青になった。川辺氏は私の札幌北高の恩師でもあり、書かなくては先生にご迷惑をおかけする。正月休み返上で書いた。」(平成2年/1990年2月・講談社刊、藤堂志津子・著『さりげなく、私』所収「さようなら、パブリックセンター」より ―初出『オール讀物』平成1年/1989年4月号)

 こうして『北方文芸』に150枚一挙掲載として出された「マドンナのごとく」は、第21回(昭和62年/1987年度)北海道新聞文学賞を受賞。まもなく講談社から単行本化され第99回直木賞の候補。その半年後の第100回には「熟れてゆく夏」で直木賞を受賞。と大爆発を起こしましたが、そのことごとくで選考委員として携わっていた渡辺淳一さんが藤堂さんの作品を推しに推しまくった……というのも川辺さんをとりまく奇縁のひとつです。

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2021年2月 7日 (日)

昭和63年/1988年、日大芸術学部出身の吉本ばなながベストセラー旋風を巻き起こす。

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▼昭和62年/1987年、吉本真秀子の卒業制作「ムーンライト・シャドウ」が、日大芸術学部長賞を受賞する。

 1970年代後半から80年代、カルチャースクールが実績を上げるそばで、大学の創作クラスからも作家がデビュー。と、小説教室をとりまく環境に春の日差しがさし込みました。こうして温まった出版界に、「小説を書くための専門教育を受けた」大スターが誕生してしまいます。流れとしては正常だった、と言っておきましょう。

 昭和62年/1987年の9月、福武書店の雑誌『海燕』主催の第6回新人賞で受賞者が決まります。そのうちのひとりが吉本ばななさん。その年の春に日本大学芸術学部文芸学科を卒業したばかりの女性です。本名・吉本真秀子、受賞作の「キッチン」と、卒業制作として書かれた「ムーンライト・シャドウ」、受賞後に書かれた「満月――キッチン2」を収めた『キッチン』が昭和63年/1988年1月に発売されると、小泉今日子さんがラジオやテレビでおすすめの発言をしたことで一気に火がつき、ドドドドドッとベストセラー街道を驀進します。

 まもなくこの本は泉鏡花文学賞とか芸術選奨文部大臣新人賞とか、世間一般ではこれを知っているほうが異常だと言われるようなニッチな文学賞をとりますが、賞に関する騒ぎはそれでは収まりません。昭和63年/1988年「うたかた」と「サンクチュアリ」が第99回、第100回と連続で芥川賞の候補になって、どっちも落選。そのあいだに『哀しい予感』(昭和63年/1988年12月・角川書店刊)、『TUGUMI』(平成1年/1989年3月・中央公論社刊)、『白河夜船』(同年7月・福武書店刊)、『パイナップリン』(同年9月・角川書店刊)、『うたかた/サンクチュアリ』(同年10月・福武書店刊)と、短期間のうちに繰り出された新刊がどれもこれも爆発的に売れまくって、いまは白髪まじりになってしまったオジさんオバさんたちが、あのころはよかったよねえ……と、ウザい昔がたりで往時を振り返るような、恰好の社会現象になってしまいます。

 そのスター街道の影に「売れっ子作家を落としちゃったフシアナの芥川賞」があったのはたしかです。いっぽう残念ながら直木賞とのからみはありません。

 というのも吉本さん自身、文学賞(とくに芥・直の、ヒトの心をへし折るようなマスコミ攻勢)の騒ぎが苦手だったそうで、芥川賞も2回候補になったあとに「三度目で自ら候補を辞退」(『読売新聞』平成6年/1994年2月3日夕刊「文学のポジション 第一部芥川賞(10)吉本氏「話題より息長く」」)したと言われています。まあ芥川賞をとれなくても、筆歴を重ねるうちに今度は直木賞の候補にあがったりするケースはけっこうありますので、吉本さんだって直木賞の対象になっても不自然じゃなかったんですが、本人から賞の騒ぎにノーを突きつけられたら、直木賞も手出しができません。

 ただ、直木賞との関係がなくても、吉本さんといえばやはり小説教室の歴史に残る重要なスターです。触れずに済ませるわけにはいかないでしょう。

 先週取り上げた林真理子さんは、日大芸術学部の時代と作家活動に直接的な結びつきのない人でしたが、吉本さんは違います。大学入学こそ、第一志望だったわけじゃなく、他に受けていた大学にすべて落ち、浪人も覚悟していたころ、たまたま友人に日芸ならこれから試験だよと教えられて受験したら受かったという、出合いがしらの事故のような入学でしたが、入ってからは創作ゼミにもまじめに出席。課題も難なくこなしていたそうです。

 さすがに吉本さんクラスになると、作家になるまでの経緯などは至るところで取り上げられています。いまさらの感もありますが、ざっとまとめてみると、父親がどんな職業の人か全然知らない頃から、物心がついたときには「自分は作家になるんだ」と、何の根拠もなく思っていたそうです。8歳ぐらいから物語の筋を考え出し、しかしそれが「作家になるのだ」という確信に結びついていたわけじゃなく、小説としてまとまったものを書き出すまでにはいたりません。

 大学時代はとにかく酒を飲み、酒を飲まざるもの友にあらず、って感じで楽しくも苦しいキャンパスライフを謳歌、はじめて人に読ませることを意識して書いた小説が、大学卒業のまぎわ、卒業制作として書いた「ムーンライト・シャドウ」で、これが担当教官の曾根博義さんと、山本雅男さんの二人に大絶賛されて、その年の卒業制作のなかで優秀なものに送られる芸術学部長賞というものを射止めます。

 処女作を書くに当たっての、吉本さんの姿勢がなかなか振るっています。

「――子供の頃から小説を書いていて、この作品なら世に問えると思ったのはいつ頃ですか。

吉本 それは卒論として提出した「ムーンライト・シャドウ」です。二人の教官が審査したんですが、自分とはまったく文学観の異なる二人の大人に理解してもらえることを意識して書きましたから。」(平成6年/1994年1月・メタローグ刊『ばななのばなな』所収「年齢ではなく、大人でないと小説は書けない」より ―聞き手:安原顯、初出『ELFIN』3号[平成1年/1989年4月])

 狙いすまして書き、狙いすましたように教官二人に褒められる。これで自分の進む道はやはりこれなのだ、と思ったのかどうなのか、在学中にどこかの新人賞に2度ほど応募してみますが、そこまで人生甘くなく、そちらは落選。卒業後、糸井重里さんがオーナーの浅草のだんご屋でアルバイトを続けながら、書き上げたのが「キッチン」で3度目の挑戦で、ズバズバと予選を勝ち上がり、最終的に受賞までしてしまいます。甘いといえば甘いかもしれません。

 大学時代に「先生」を務めた曾根さんによれば、吉本さんの唖然とするような活躍ぶりは、文芸学科にも刺激を与え、ゼミで吉本さんの後輩だった何人かは「第二、第三の吉本ばななを目指せって感じで」みんなで集まって飲んでいたんだとか(『国文学 解釈と鑑賞』平成3年/1991年4月号 曾根博義「吉本ばななさんへの手紙」)。そりゃあ、ばなな旋風が全国的に吹き荒れているときに、出身の文芸学科が無風なはずがありません。けっきょく、それから30年、日芸から吉本さんに続く作家が生まれた形跡はありませんが、刺激が渦巻くこと、けっこう得難い重要な要素です。刺激……。具体的に何を教え、何を教わるかということ以上に、創作教室が存在する第一の意義に違いありません。

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