2020年3月29日 (日)

篠田節子、ウイルス感染のパニック小説で、インドネシア・バンダ諸島に目を向ける。

 インドネシア東部、バンダ諸島の最南端に浮かぶ火山島ブンギ。およそ400人ほどの島民が暮らしていましたが、ひとりまたひとりと死んでいき、ついには全島全滅してしまったそうです。それから約4年ほどたった平成5年/1993年、日本の首都にほど近い埼玉県のベッドタウンで、「新型の日本脳炎」と思われるウイルス感染症が突如発生。市民たちは一気に不安におびえ、市の保健センター職員や医師たちは硬直した対応しかできない行政組織のなかで懸命に出口を見出そうと奮闘します。

 と、未知のウイルスが蔓延する現代社会の問題にするどく切り込んだのが、平成7年/1995年に毎日新聞社から書き下ろしで出版された篠田節子さんの長篇『夏の災厄』です。デビューしてから約5年。篠田さんが第113回(平成7年/1995年・上半期)、はじめて直木賞の候補に挙げられた記念すべき作品でもあります。

 つい先日『朝日新聞』に載った「(新型コロナ)脅威と向き合うために 読むべき一冊、6人が寄稿」(令和2年/2020年3月25日)という記事でも、藤田香織さんがこの小説を紹介していました。読むべきかどうかまでは、さすがに保証できませんけど、発表されてからずいぶん経ったいま読んでも作品の魅力が失なわていないことを、ワタクシも再確認したところです。

 いわゆる「パニック小説」というのは、洋の東西問わず昔から数々書かれてきた伝統的な小説形態のひとつです。直木賞の長ったらしい歴史のなかでも、そのいくつかが候補に挙がっては、読者を震え上がらせたり、はたまた「そんなことあるかよ」とあきれさせてきました。つくりごととリアリティのあいだに果敢に攻め込むパニック物は、守りに入ってなかなか冒険の手を打てない直木賞のような賞では、候補になったとしても本選で高く評価されることは少なく、たいていが「候補作どまり」で終わります。『夏の災厄』もそうです。

 しかしその後、篠田さんは次々に、つくりごととリアリティの間隙を突く小説を世に問います。第115回(平成8年/1996年・上半期)で『カノン』、第116回(平成8年/1996年・下半期)で『ゴサインタン 神の座』が候補になり、とくに後者のほうは出来もバツグン、気合も十分という感じの濃密な小説だったので、受賞まずまちがいなし、とか何とか周囲からもいろいろと煽られたらしいですが、結果的にこれではとれず、その半年後、第117回(平成9年/1997年・上半期)の『女たちのジハード』でようやく受賞が決まりました。

 どうですか。篠田さんを受賞者に迎えるにあたってよりによって『女たちのジハード』を選ぶという、この直木賞のハズしっぷり。手を伸ばせば届くぐらいの狭い世界のリアリズムじゃないと、ほんと直木賞ってOKサイン出さないよねー、と思わず微笑んでしまいますが、それはそれとして、これら候補作の並びだけ見ても、篠田さんの海外志向が如実に現われています。まあ海外志向といいましょうか、舞台を日本にとどめておかずに、ゆったりとした広がりをもつのが、篠田作品の真骨頂です。

 『ゴサインタン』では嫁不足に悩む日本の田舎のハナシから遠くネパールにまで世界が広がり、『女たちのジハード』では、大人の女性たちの向かう先としてネパールやアメリカが自然なかたちで入り込んでいます。『夏の災厄』は、〈埼玉県昭川市〉という架空の一地方都市で起きるウイルス感染が基本的な設定にありますが、冒頭に挙げたように、これとまったく同じ症状の感染がインドネシアの離島で起きていた、というのが悲劇のカギを握っています。

 海外というと、おおむね自分の身には関係のないヨソサマの出来事、というのがだいたい昔から現在まで社会認識の基本ラインにある感覚でしょう。そういう感覚が誤っていることに、するりと気づかせてくれるのが、あるいは篠田作品の特徴なのかもしれません。……いや、特徴じゃないかもしれません。無理やり「海を超えた直木賞」のテーマにこじつけようという論法がみえみえですね。すみません。

 だけど、東京にほど近いどこか架空の街で、住民たちの生命をおびやかす目にみえない病原と、そこで巻き起こるさまざまな事態を描くにあたって、どうしてわざわざインドネシアのエピソードが必要なのか。といえば、これは作者の篠田さんが必要だと思ったからだ、と言うしかありません。人類の社会から完全に疫病が消えたわけではなく、とくに衛生、医療環境の整っていない地域では、治療薬もワクチンもないウイルスが、ぞくぞくと発生しているかもしれない。たしかにそのとおりです。その現状を見れば、日本の一地方のハナシに終始させるより、海の外にも目を向けたほうがリアリティが生まれるような気がします。

 もはや小説のなかのリアリティは、海の向こうを取り入れたところでつくられる、ということなんでしょうけど、「もはや」もクソもありません。『夏の災厄』が書かれたのは20年以上もまえの、かなり昔のことです。しかし、当時の各選考委員の選評を読んでみると、これがまったくの酷評といいますか、新しいものに食いつく気ゼロの雰囲気がありありと出ていて、相変わらずこの賞の頑迷ぶりが露呈しています。この段階でもまだパニック物が直木賞で理解されるには早すぎたようです。

 賞をとろうがとるまいが、パニック物と篠田節子といえば、切っても切れない(?)相性のよさは否定できないところですが、もう少し昔の文献を追ってみると、デビューする前に篠田さんが体験した大きな出来事として、あるひとりの作家の、あるひとつの小説との出会いがあった、というハナシにぶち当たります。西村寿行さんの『滅びの笛』(昭和51年/1976年9月・光文社刊)です。

 『夏の災厄』よりさらに20年ほど前に刊行された、これもまた、どこからどう読んでも正真正銘のパニック小説です。そして、やはり直木賞の候補作に選ばれ、選考委員たちからさんざんに言われて落とされた、という点が共通しています。直木賞のことばかり書いていたいうちのブログとしては、見過ごすわけにはいきません。

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2020年3月22日 (日)

丸元淑生、寝る間も惜しむ『女性自身』編集部時代、毎週のようにラスベガスのカジノに行く。

 令和2年/2020年3月13日、アメリカの大統領が国家非常事態を宣言するなど、国内・国外問わずに事態は深刻化しています。今日3月22日には、日本の外務省がアメリカ全土への不要不急の渡航自粛を求める、と判断したそうです。封じ込め、水ぎわ作戦など、いろいろなことが言われています。だけど、たいていのものは、かるがると海を越えてしまいます。

 まったく、そんなときに昔の直木賞がどうしたこうしたと、のんきにほざいている場合か。……と、一瞬たりとも思わないワタクシの脳は、たぶんイカれ切っているのかもしれません。今週もいつもと変わらず、海を越えた直木賞(の候補者)のことだけを考えていくことにします。

 丸元淑生さんです。純文学方面で注目を浴びた作家たちの例にもれず、丸元さんの場合も、芥川賞のほうで何度も候補に挙がり、受賞直前まで評価されながら惜しくも落選した人、として語られるいっぽうで、直木賞の候補に挙がった逸話はほとんど見かけません。おお、美しいまでに直木賞のことが黙殺される世の中よ。「両賞にまたがった候補者」の履歴には、だいたいありがちな展開です。

 ありがちではありますが、人間はみな一人ひとり違います。そうあっさりと見過ごすわけにはいきません。たった一度でも候補に挙がった、直木賞にとっては大切な作家。いったい丸元さんはどういう履歴の人で、どういう関係で海を越えたんでしょう。少し追ってみます。

 昭和9年/1934年に大分県で生まれた丸元さんは、大人になるまでの成長期に悲しみや苦しみを伴う重大な体験に見舞われます。日本が突き進んだ戦争および敗戦の道。戦時中、佐田岬での守備隊長を命じられていた父親は、復員後にもとから勤めていた電力会社に復職しますが、栄養不足のうえ、たび重なる出張も祟り、47歳の若さでこの世を去ります。丸元さんが大学1年生のときでした。

 その大学ですが、東京大学の文学部仏文科を選んだ、というところから見て、もとより文学に対する丸元さんの関心は高かったのでしょう。しかし、丸元さんが若くして注目(?)されたのは、創作者としてではありません。編集・出版に対する卓抜した感覚と実行力の持ち主としてです。

 在学中に『東京大学学生新聞』の編集委員を務めるかたわらで、昭和31年/1956年には出版社「パトリア書店」を設立。一瀬直行さんの『浅草物語』(昭和32年/1957年)をはじめ、いろんな本をつくったらしいですが、一発大きなヒットをかっ飛ばします。土門拳さんの『筑豊のこどもたち』(昭和35年/1960年)です。このザラ紙でできた写真集を一冊100円で販売したところ、話題につぐ話題を呼んで売れに売れ、最終的には10万部を超えてしまったと言います。

 ベストセラーを出せばその出版社に莫大な利益が入り、ウッハウッハの安泰経営。というほど簡単じゃないのは今も昔も変わりません。採算的に厳しいやりくりのなかで、丸元さんは25歳のときに大学を卒業しますが、まもなくパトリア書店は倒産を余儀なくされます。しかし男一匹、丸元淑生、そんなことでへこたれるわけもなく、出版界を見渡せば全体的に出版物が増えつづける成長産業、ひとりでも多くの書き手や編集者が求められていました。丸元さんもフリーのライターとして週刊誌とかそこら辺の、泥水を呑んで原稿を書く世界で動きまわり、徐々に頭角を現わします。『週刊新潮』の「黒い報告書」シリーズに「村上進」という名前で書いていたライターは、じつは丸元さんだそうです。

 いっぽうで昭和33年/1958年に光文社が創刊した女性週刊誌『女性自身』には、最初からライターとして参加、やがて1960年代なかばには同誌の編集長に就くのですから、そうとうなヤリ手だったんでしょう。このころには光文社に籍を置いていたらしく、当時経営の実権を一手に握っていた神吉晴夫さんのもとで、つくる雑誌がぞくぞくと売れ、お金もガッポリ入ってきます。

 いまを生きる世代からすれば、コノヤロうまいことやりやがって、と思わないでもありませんが、高度経済成長の波にのってアッパラパーで浮かれ切った仮面を装いながらも、腹の底ではその風潮に違和感を覚えずにはいられない、昭和ヒトケタ世代の複雑な心理を、丸元さんもずっと抱えていたようです。

 転がり込んだあぶく銭……と言っては語弊があるかもしれません。とにかく、どうやったら雑誌が売れるか考え抜き、徹夜徹夜で儲けたお金を手にしたとき、丸元さんは海を渡ります。

 ひんぱんに外国に飛び出します。その行き先のひとつが、アメリカ・ラスベガス。ギャンブルという享楽のゲームを一大リゾートにまで仕立ててしまった、魅惑の街です。虚飾というか欲望というか、ギャンブルの世界に入り込んでしまう心理状況も、人間がたしかにもつ一面であることは言うまでもありません。丸元さんも、週刊誌勤務時代にかなりカジノにハマったそうです。

「十年あまり前の何年間か、私は(引用者中略)ひどいときは毎週のようにラスヴェガス通いをした。当時の私は週刊誌の編集者だったのだが、金曜の夕刻に東京を発ち、月曜の夜には東京に着いていたのだから、仕事にはさしつかえなかったのである。

(引用者中略)

因習、土着、桎梏の外にいて、澄みきった空気を吸っていると、すべて風通しがよくなる。(引用者中略)私が倦きずラスヴェガス行きをくり返したことも、おそらく、この空気と無縁ではなかった。むろん一個のギャンブル狂に間違いなかった。それにしても行くたびに元気づいて帰ってきた。だから、また行けたのだろうと思う。」(『文藝春秋』昭和55年/1980年2月号 丸元淑生「わが町、ラスヴェガス」より)

 と、丸元さんと海外の縁、といって賭博の街ラスベカスのことを持ち出すのは、果たして適切なんでしょうか。息子さんがアメリカに留学したこととか、栄養学の研究を求めて世界各国を飛びまわったとか、そちらのほうを語るべきかもしれません。しかし、ここでは丸元淑生といえばラスベガスだ、と断言しておきたいと思います。なぜなら、それが直木賞に、丸元さんとの縁をもたらしたからです。

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2020年3月15日 (日)

服部真澄、編プロ時代に知った、返還まえの香港にまつわる怪しい情報をネタに、小説を書き下ろす。

 長いあいだイギリスの統治下にあった香港が、平成9年/1997年7月、中国に返還されました。

 「されました」と書きましたが、これがまだ近い将来に起こる未来の出来事だった平成7年/1995年夏。発売されたとたんに、主にミステリーや冒険小説好きたちのあいだで評判が過熱、一気に10数万部のベストセラーになったのが服部真澄さんのデビュー小説『龍の契り』です。

 じつは香港返還に関わる密約が、各国のあいだでひそかに交わされている。という、表立った報道の上には出てこないマユツバな噂レベルの話を大きな軸に据え、イギリス、中国、アメリカ、そして日本の政治ないしは経済のからんだ緊迫の情報戦を、サスペンスフルに描いた弩級のエンターテイメントです。

 ……と、そういうあらすじだけ聞くと、これが直木賞の候補になったところで絶対にとれやしないだろう、とおおかたの人が感じると思います。じっさいにとれなかったので、おおかたの人の直木賞観は合っていたということになりますが、いかにも直木賞っぽくないことがわかっている小説を、わざわざ直木賞の候補に挙げた文藝春秋の編集者たちの感覚が光っていた、とも言えます。

 この作品をひっさげて登場した服部さんは、その後10数年たったころには「国際情報小説の女王」とか呼ばれるようになっていたらしく(『週刊大衆』平成17年/2005年12月15日号)、いっとき服部真澄といえば国際モノという印象があったのは、たしかでしょう。直木賞の候補になったのはいちばん最初の一回こっきり、それ以降はまったく系統のちがう作品を次々と書きながら、ついぞ直木賞と交わる機会はなくなってしまいましたが、物語の舞台を海外のあちこちに移しての国際謀略小説、というのは、なかなか受賞までは至らないという前提のなかで、確実に直木賞の歴史を華やかに彩ってきました。そういう意味でも服部さんが、90年代中盤の直木賞に大きな足跡を残してくれたのは明らかです。

 何がどう明らかなのか。ワタクシもよくわかりませんけど(おいおい)、とくに海外と縁のある家庭に生まれたわけでもなく、日本の骨董や職人の世界に心を惹かれながら、有能な編集者兼ライターとしてバリバリ仕事をしていた方が、とにかく自分で面白いと思う小説を書いてみよう、と考えて最初に手がけたのが、たまたま国際的な内容だった。という、そこのところが特徴的です。

 「たまたま」と言っても、服部さんが海外とまるで縁がなかったわけではありません。大学卒業後に入った「東京ホットライン」という編集プロダクションで、さまざまな受注の仕事を手がけるなか、ガイドブックを制作するために1か月ほどシンガポールで暮らしたことがあり、そこで華僑という存在やそのネットワークに関心をもったといいます。

 他に『龍の契り』成功伝説のなかで語られているのが、JETROのPR誌の制作を請け負ったときに、シンガポールが香港の映画産業を誘致する、という内容のコラムを目にしたとか、香港のガイドブックを読んでいたとき、返還にまつわる密約があるらしいという噂に触れた記述を見つけたとか、そういうことがあったそうです。

 編プロの仕事は、基本、発注先の求めに応じてモノをつくる作業です。無理難題をふっかけられたり、自分を殺して文章を書いたりしなければならないことも、なくはありません。ああ自分は、こんなことをいつまで続けるんだろう……と、30代、40代ぐらいの大人になると、どんな職業に就いていてもついつい思い悩む状態に、服部さんも陥ったらしく、自分で好きなものを書けたらいいなと思って、いろいろと小説になりそうな話題を調べたりしはじめます。そのなかの一つが、香港返還に関するアヤしくて誰も真実のわからない「密約」の噂だったのだ、ということです。

「調べていくなかで香港返還をめぐる密約の噂を知った。

「これはネタになると思って、初めて小説を書く気になったんです。だから最初からサスペンスものが書きたくて書いたわけじゃない。ハーレクインのような恋愛小説でも何でもよかった。ただ面白い小説を書ければと……。たまたま見つけた材料がそういう類いのものだったので、結果としてこういう小説に仕上がったということなんです」」(『SPA!』平成7年/1995年11月8日号「いい材料(ルビ:ネタ)が見つかれば、ハーレクイン調の恋愛小説でもよかったんです」より)

 いかにも題材は何でもよかった、というように読めるインタビュー記事ですが、しかし密約に関する噂を知っても、それが小説執筆の衝動にいたらない人間はたくさんいると思います。これを知った服部真澄という人間が「小説になりそうないいネタだ」と感じたことが重要で、昭和36年/1961年に一般企業(というか電電公社)に勤める親のもとで東京に生まれた女性が、すくすくと成長するなかで、おのずとこの素材に面白さを見出せる感覚をもつようになった、ということでもあります。

 ことさら「海を越えること」への特殊性が見えません。当たり前というか、自然な流れというか。直木賞の選考ののぼる小説もしくは、その作家たちが、海を越えたとかどうだとか、そういうことを特別視するほうがおかしく見えてきます。第114回(平成7年/1995年・下半期)というのは、時代からいうとインターネットが一般的に普及していく途上、前夜ぐらいですけど、もはや直木賞も日本が舞台だからどうだ、外国だからどうだと言っている場合じゃなくなった時期に当たる、と言ってもいいです。

 直木賞もそろそろ文芸ヅラした仮面を脱ぎ捨てて、国際諜報の話題をエンタメにフル活用した『龍の契り』のような小説に与えてもよさそうな頃合いでした。しかしこのときも、全然授賞にはほど遠い結果を出してしまいました。なかなか頑固です。直木賞。

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2020年3月 8日 (日)

摂津茂和、大学時代にパリやロンドンで生活、アメリカ経由で帰国したことが、のちのち活きる。

 昭和14年/1939年、と言いますからいまから80年ほど前のことです。全編ヨーロッパ(ローマ)を舞台に設定、そこに公演で訪れた女性アイドルグループのてんやわんやの舞台裏を描いて直木賞の候補に挙がった、画期的な小説がありました。それが摂津茂和さんの「ローマ日本晴」です!

 ……というのは、紹介の仕方として少し間違っていますけど、10年以上も前にうちのブログでこの小説を紹介したことがあります。いまや獅子文六さんが復活し、源氏鶏太さんに光が当てられるという驚きの出版状況を見ていると、そのうち摂津さんが再評価されることも、あり得なくはありません。

 ともかく摂津さんのことを小説家として世に送り出したのは『新青年』という雑誌ですが、読み物小説の世界において同誌が海外との窓口役を果たしていたことは明らかです。外国の翻訳物はもちろんのこと、海外の風俗・文化事情などに過敏に反応した読み物をガシガシと載せて、鼻水垂らしたドンくさい日本の青少年たちに、行ったことも見たこともない異国に対する憧れをかき立てる。そのなかの一部の人は、ほんとうに海外に行ったり洋書に親しんだりするなかで、やがてみずからも物を書き、海外文化を紹介する新たな担い手となっていきます。

 よくよく考えれば、『新青年』は大衆文芸の雑誌とは言い難く、範疇の中核からは外れたところにありました。もしも直木賞が、大衆文芸サークルの中だけで完結する目論見でやっている賞だったら、べつにこの雑誌のことを黙殺したっておかしくありません。ところが、大佛次郎さんをはじめ、そんな狭苦しいことを言っていたら読物小説に未来なんかないぞ、と考える選考委員がいたおかげで、直木賞は『新青年』も自分たちのテリトリーにあると認識し、そこに載ったものを候補作として拾い集めてしまいます。

 たとえば、川口松太郎、鷲尾雨工、海音寺潮五郎……と第1回から続くこの受賞者の並びだけを見て、げっ、古くさい旧来の読物小説だけに目を向けた、何のチャレンジ精神もない文学賞だな、と辟易する人は多いと思います(多いのか?)。そう考えると、ここで獅子文六さんの作品が議論されてけっこう高評価を受けたり、木々高太郎さんの『人生の阿呆』を受賞作に選んだりしたことが、直木賞の歴史ではかなり重要になってきます。

 文芸の本領とされてきたガッチガチの文芸誌や同人雑誌ではなく、もっとクダけて世間一般に売られている読み捨ての軽雑誌。そういうところからも「大衆文芸」の観点で顕彰できる作品や作家を見つけ出してきたい、という思いが歴然と現われていると同時に、そのとき直木賞が選択したのが、作風や作品の内容が「海を越えている」ものだった、というのが特徴的です。直木賞にとって外国の風は、けっして否定的なものでも何でもなく、路線が固まりがちな選考の空気を払拭する、大切な視点として受け入れられていたことが見て取れるでしょう。

 なんだかハナシがズレてきたので戻します。『新青年』が発掘した逸材、摂津茂和さんのことです。この人こそ、異国情緒を身にまとっていた代表的な作家と言うしかありません。

 摂津さん、本名近藤高男さんは、明治32年/1899年東京に生まれました。家は多少裕福な部類に属する家庭だったらしく、少年時代にはロンドンからラジオ・セットを取り寄せたり、写真機に凝って家に暗室を設けたり、なかなかの道楽息子だったようです。ちなみに処女小説の「のぶ子刀自の太っ腹」の中心人物は、来日したドイツの青少年団(ヒトラーユーゲント)をもてなす大富豪の女主人ですが、これは当時大富豪だったという摂津さんの伯母がモデルだそうです(『出版ニュース』昭和29年/1954年4月中旬号「私の処女作と自信作 「のぶ子刀自の太っ腹」のこと」)。

 子供のころから書物にもたくさん触れ、とくに中学時代には薄田泣菫と永井荷風をよく読んでいたといいます。ほんとうは大学も文科に行きたかったところ、実業の世界ではそんなもの何も役に立たないぞ、と父親に猛反対され、しぶしぶ慶應義塾の法学部政治科に進みます。在学中の大正12年/1923年、これも父親のすすめで約1年ほどパリおよびロンドンに外遊。摂津さん25歳のときでした。

 この海外体験が摂津さんに何をもたらしたのか。あるいは本場イギリスのゴルフコースに立ったことで、むくむくとゴルフ熱に冒されたのかもしれません。どこで何を見て、どう感じたのかは、あまり自分のことを語りたがらない摂津さんの文章からはほとんど読み取れませんが、少なくともこのときの経験が小説を書くようになったときの、題材の礎になっているのだ、と書いています。

「父は、私が文弱に流れるのを嫌って、私が二十五才の時、ヨーロッパに連れていってくれた。多分、泰西の文明に触れさしたら、もっと気宇が大きくなって、将来有能な実業家になるかもしれないと思ったのであろう。私は一年ほど、もっぱら巴里とロンドンに滞在しつつ、出来るだけ各国を遍歴しているうち、東京震災の飛報をうけて、急遽アメリカ経由で帰って来たが、計らざりき、この旅行が、後年私の小説に、最も潤沢なネタを提供しようとは、父も地下でさぞ苦笑したことであろう。」(昭和28年/1953年・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 摂津茂和集』所収「年譜にかえて」より)

 すみません、礎になっている、とは書いていませんね。失礼しました。

 ただ摂津さんが、昭和10年代中盤に登場した『新青年』きっての国際派作家、という貴重なポジションに座ったのは(座らされたのは)、大正後期に経験した1年ほどの外遊が、のちになって花開いたものと見ていいと思います。

 帰国後の大正13年/1924年5月、慶應を卒業した摂津さんは、それから10数年、実業の道で悪戦苦闘の日々を送ります。いや、悪戦も苦闘もしていなかったかもしれませんが、この間、まだ日本でそれほど競技人口も多くなかったゴルフを趣味にして、そちら方面での交遊を広げていき、その結果としてゴルフ雑誌に手すさびで随筆を書いていたところ、それを読んだアマチュアゴルファーのひとり水谷準さんから原稿の依頼を受けて、新人作家として『新青年』に颯爽と登場する、という流れになります。

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2020年3月 1日 (日)

木山捷平、昭和17年/1942年と昭和19年/1944年、二度にわたる満洲行きが人生を変える。

 どうして井伏鱒二が直木賞なんだ。檀一雄は。梅崎春生は。みんな純文学の作家なのに、直木賞なんておかしいじゃないか。……というハナシは、もう反吐が出るぐらい聞いてきました。いまだにそういうことを鬼の首でもとった感じで言われると、口から出せる反吐もなく、カラ笑いでごまかすしかありません。だいたい純文学(と見なされる作品)を書く作家に、大衆文芸エリアの直木賞が、賞をあげて何が悪いんでしょうか。そんなことを問題視するほうがおかしいです。

 ただ、そういうことを言い出すと、おまえに大衆文芸や純文学の何がわかるんだ、と下手にカラまれかねません。やめておきます。

 文学賞のことに絞ります。ともかく直木賞が「もはや芥川賞をとるには筆歴を重ねすぎた純文学出身の人びと」に、あらためて顕彰の機会を提供する性格をもつようになったのはたしかです。やがてそのうち、両賞の思惑や対象となる作家群がドロドロッと溶けて交わり出し、二つの賞の候補を行き来する作家、みたいな存在が現われたことで、事態は混沌としていきます。ともに直木賞における純文学作家跋扈の例ではありますが、基本的には分けて考えたいところです。

 第30回(昭和28年/1953年下半期)と第36回(昭和31年/1956年下半期)の2度、直木賞の候補になった木山捷平さんは、確実に前者の代表例でしょう。「もはや芥川賞をとるには筆歴を重ねすぎた純文学出身」のひとりです。

 戦前に同人雑誌グループから出てきた木山さんは、何度か芥川賞の候補になりながらも受賞には及びませんでした。仲間たちは、賞をもらって脚光を浴びたり、続かなくて別の道を模索したり、あるいは不慮の事故、戦争に駆り出されたことが原因で命を落としたり、とそういうなかで筆一本の職業作家をつづける古株の作家に、何か浮かび上がってもらうチャンスはないものか。そんな思いをめぐらせて予選を通過させた文藝春秋の人たちの判断は、けっこういいものだったと思います。

 しかし、木山さんが芥川賞の候補になってから直木賞で議論されるまでの年月、10数年。さまざまなことが起こりましたが、ここでは木山さんが体験した重要な出来事をひとつ挙げておかなければいけません。言わずもがな、海を越えたことです。

 昭和17年/1942年6月7日から8月3日にかけての約2か月間、木山さんは生まれてはじめて海を渡り、中国北部、東北部、満洲あたりを旅します。日本がアメリカとの交戦状態に入ってほぼ半年、国内の出版界では徐々に統制という名の公的な制限、世間一般の雰囲気の変化があった時代ですが、なぜここで木山さんは外国旅行を思い立ったんでしょうか。

 このあたりの背景は後年、木山さん自身が小説化もしていますし、いろいろと評伝、評論も書かれているので、そちらにまかせます。ただ、ひとつ言うと、当時の木山さんは妻子を養う立場にいた38歳の男性です。うちのブログで触れてきたなかにも、何人かそんな人たちがいました。私生活や仕事に倦みを感じ、何かを変えたくて単身、日本を飛び出す……みたいな心理はあったんじゃないか、とは容易に想像できます。

 あるいは、「一生に一度は海を渡っておきたかった」という木山さん自身の述懐が、けっこう単純ですけど正直なところかもしれません。とにかく女房の反対を押し切ってまで、海の上を船で行くことに執着したというのですから、「海を渡る」ことに対する、余人には計り知れない欲求をひしひしと感じます。

「海を渡つたのは、生れて初めてのことであつた。私は日本の本州生れなので、まだ九州にも四国にも渡つたことがない。にもかかはらず、そんな私が一躍外国の支那などへ旅行できたのは、時勢のおかげとでも言ふの外はない。

(引用者中略)

私の女房など不断は気のきかぬ癖に、この時ばかりは良妻ぶりを発揮して、しきりに陸路をすすめたが、私は頑として応じなかつた。また、私と同行することになつてゐた或る婦人など、自分はどうでもいいが万一の時は子供が可哀さうだからと陸路に変更したが、私は海路に固執した。子供のやうに一図に、海が渡つて見たかつたのである。」(『海運報国』昭和18年/1943年4月号 木山捷平「海の旅」より)

 このときはまったくの自費だったそうですが、満鉄の鉄道総局で働いていた日向伸夫さんを通じて「全満旅行パス」なるものを提供され、黒河あたりから、大連、天津と大きく満洲を旅あるき、何もなければ一生に一度になるはずの外国旅行を満喫(……?)した模様です。あくせく働かずに済み、満洲のメディアに紀行文などを書いて小遣いを稼いでは、日本の支配下にあった外地を見て歩く、という行程ですから、そりゃあ満喫しなけりゃおかしいです。

 ところが、人生、何も起こらないなんてことは、まずありません。帰国して約2年、たった2年のあいだに社会の状況がみるみる変わり、40歳に達していた木山さんのもとにも国民徴用の出頭命令が届きます。結果は、持病の座骨神経痛のため選考には通らなかったそうですけど、そのころ再び木山さんは満洲に渡ることを決意。今度は「農地開発公社」の嘱託社員という身分をもって、昭和19年/1944年12月、だれから命じられたわけでもなく木山さんは日本を離れ、満洲に渡ります。

 その決断が人生を変えた……と断言してしまいましょう。それは結果論以外の何モノでもありませんけど、結果としてそうなってしまったのですから仕方ありません。と同時に、この二度目の渡満が、直木賞候補者としての道に通じることにもなります。

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2020年2月23日 (日)

村松友視、自分のルーツの地、上海を旅するにあたって、直木賞の賞金を使う。

 2月24日は直木三十五さんの命日です。毎年その前後の日曜日に、横浜富岡の長昌寺で「南国忌」の催しが開かれます。令和2年/2020年の今年は、2月23日日曜日、今日が開催日でした。

 基本、事前に申し込めばだれでも参加できます。興味のある方は足を運んでみたらいいと思いますが、そこではいつも、直木さんと(というか、直木賞と)ゆかりのありそうな人が、1時間ちょっと話をすることになっています。今回講演したのは村松友視さん。第87回(昭和57年/1982年・上半期)の受賞者です。

 村松さんが「時代屋の女房」というナニゲない、ほんとうにナニゲなさすぎて映画化されなかったら読み継がれることもなかったんじゃないか、というぐらいにジミーな短篇でこの賞を受賞したのは、もう38年もまえのことです。おお、38年……。ちなみに「南国忌」も今年で38回(38年)目だそうです。南国忌の開催および直木の再評価に執念を燃やした、カノ胡桃沢耕史さんと受賞を競った村松さんが、こうして南国忌でお話しするという場面をまぢかに目撃できて、今日は何だか「感慨」以外の言葉が見つかりません。

 感慨にひたっていても仕方ありません。本題に入ります。

 村松さんの叔父にあたる直木賞候補者、村松喬さんが築いた海外との縁については、以前うちのブログで取り上げたことがあります。そういえば、と思ってたどってみると、友視さんのほうも海外とは濃密に縁のある人物です。とくに直木賞を中心に据えてみたとき、「海を越えた直木賞」のテーマで村松さんのことを語らないのはおかしいぞ。と強弁してもいいくらいに、海外との奇縁に満ちています。

 海外……というなかでも、ここでカギを握ってくるのが、ひとつの都市。上海です。

 村松さんが自分の出自を語るとき、よく出てくるフレーズに「上海仕込み、東京生まれ、清水みなと育ち」というものがあります。今日の講演でももちろん触れられていました。父親の友吾さんが昭和14年/1939年当時、上海毎日新聞の記者として上海に滞在、そこで妻の喜美さんと仲睦まじい夜の営みをおこなった末に宿ったのが友視さんだったんですが、この年9月17日に、友吾さんは腸チフスが原因で死去してしまいます。27歳という若さです。残された喜美さんはまもなく日本に引き上げ、東京・千駄ヶ谷で無事に友視さんを出産します。つまり村松さんの生命が芽生えた最初の最初の土地が、海の向こうの上海だった、というわけです。

 昭和はじめごろの上海というのは「外国感」がいまより薄く、ほとんど国内の都市に近い印象があります。しかしそれでも明らかに異国の環境にある。……というここら辺が、日本に住んでいる人間から見た上海の、上海たるゆえんなんでしょう。親近感はあるけど、「魔都」と呼ばれることがしっくりと腑に落ちてしまう、やっぱり不思議な場所です。

 ということで、当時のジャーナリズムやら作家たちやらも上海のことを大量に、腐り果てるぐらい書き残しています。そのあと現在にいたるまで、上海にまつわる文学史、なんてものもおそらく何十冊も書かれています。ひまがあれば読んでみたいと思いますが、ハナシを絞りますと、そうです、直木賞のことです。

 すでにうちのブログでも、小泉譲さんから、生島治郎さん、安西篤子さんなど、上海とからんだ作家のことを取り上げてきました。そして何より直木三十五さんその人にとって、最も縁の深かった外地が上海です。事変のあった昭和7年/1932年には、大して体調もよくないのにわざわざみずから足を運び、それをもとにエッセイとかも書いています。小説化する構想もあったんだとか何だとか。直木さんが関心を寄せた海の向こうの、第一の都市が上海だった、と言っていいのかもしれません。

 同様に、上海に魅了された同時代の作家に村松梢風さんという人がいます。

 いや、「同様」とか並べてしまうのは失礼でしょう。直木さんよりずっとずっとまえから、とにかく上海すげえぜ、すげえんだぜとしつこく言っていた人です。あまりにも強烈にこの街のトリコになってしまったために、自分の息子にまで上海行け行けと勧めたというのですから、よほど気に入っていたんでしょう。

 友視さんが書いています。

「父が上海へ赴いたのは、上海に強く惹かれ何度も行き来していた祖父がすすめたためだった。小説家であった祖父は、長男である父の中に物書きの匂いを嗅いだのか、物書きになるのなら上海を見ておくべきだと、自分勝手な思い込みを父に背負わせた。(引用者中略)とにかく、そういう基本ベースの上に二十七歳だった父の死があり、二十歳で未亡人となった母の第二の人生のスタートがあったというわけだ。」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収 村松友視「母の連鎖」より)

 ちなみに直木さんが上海を旅したのが昭和7年/1932年5月です。ちょうど同じく梢風さんも、事変直後の上海を見るため、あるいは川島芳子さんをモデルにした「男装の麗人」を書くために5月中旬から6月ごろ上海で暮らしていました。両者すでに面識もあり親しくしていた関係で、梢風さんは後年「近代作家伝(七) 直木三十五」(『新潮』昭和26年/1951年3月号)のなかで、上海にやってきた直木さんの姿を記録しています。おれは中国の事情を知ろうとは思わないんだと言い放った直木さんは、軍部の将校たちが催した歓迎会の席でも終始むっつりとしていたそうです。わざわざ遠方までやってきておいて、スカして周囲をケムに巻く感じ。ここら辺がもうかなりの「直木三十五」っぽさです。

 ともかくも、上海という街(あるいは梢風さん)を通して直木さんと村松さんはずっと以前からつながっていた、ということが言いたかったんですが、ハナシはまだ続きます。直木さんの死後40数年たって、彼の名を冠した文学賞を友視さんが受賞してしまったことが、この奇縁をもう一度ふつふつと再燃させるきっかけになるのですから、上海や梢風さんの威力、おそるべしです。

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2020年2月16日 (日)

西川満、台湾で一生を過ごすつもりが、日本の敗戦で全財産を失い、海を渡る。

 直木賞の候補者リストはだいたい無用に幅広いです。無名な人から著名な人までいろんな人が混ざっています。

 そして芥川賞と違って(いや、違わないか)、候補に挙がった作品をあとから見返すと、何でこんなものを候補にしたんだと首をかしげたくなる。それもまた直木賞の特徴です。代表作を候補に選ばない。ないしは候補になったものが代表作にならない。……文学ジャンル、世間の流行、作家たちの実績。それぞれの中心点や王道の領域から、ほんの少しズラしたところを突いてしまう歴史が、おおむね直木賞をつくってきました。文句を言っても始まりません。

 というところで第22回(昭和24年/1949年・下半期)で候補に挙がった西川満さんです。小説家、詩人、編集者、造本家、占星術師などなど、多くの顔がありますが、西川さんの代表作というと、何になるのでしょう。

 すべての作品を読んだわけでもなく、語れるほどの批評眼もないので、正直言ってわかりませんけど、少なくとも「地獄の谷底」を挙げる人はまずいないと思います。もしいても、それは単に直木賞脳が発達しているだけの人でしょうから、無視して問題ありません。この小説は、直木賞候補になった、ということだけでしか知られていないと言ってもいい、取るに足らない一編です。

 まあ、取るに足らない、などと切り捨ててしまってはハナシが進みません。戦後まもない昭和24年/1949年、混迷と再生がごっちゃまぜの出版業界に生きる引揚げ者の悩みを、リアルタイムに描いた貴重なドキュメンタリー、と言い直しておきたいと思います。舞台は、戦争が終わって数年、わさわさと日常の生活が動き始めた東京の一角。雑誌の編集を手伝っている語り手と、終戦で台湾から引き揚げてきた元出版社の社長、井上由紀枝などが登場します。

 この設定から見えるように、西川さん自身の経験がギュッと詰め込まれた小説です。『キング』などという読み捨ての娯楽雑誌に掲載され、雑誌の狙いどおりに読み捨てられて、もはや読み継がれていないわけですが、少なくとも西川さんにとっては大事な一作だったことでしょう。

 明治41年/1908年に福島県で生まれた西川さんは、ものごころつく前の明治43年/1911年、家族ともどもいっしょに海を渡ります(渡らされます)。父親が、親戚の経営する炭鉱の支配人として赴任することになった、というのがその理由だそうですが、

「家庭は統治民族の中でも経済的に恵まれており、両親の愛情のもとに、両親を敬慕しつつ比較的自由に成長した。世俗的な言い方をすれば、(一時、父西川純の会社が倒産し、長屋住いをしたこともあるが)乳母日傘で育てられたといってよいだろう。」(平成7年/1995年10月・東方書店刊『よみがえる台湾文学――日本統治期の作家と作品』所収 中島利郎「西川満と日本統治期台湾文学――西川満の文学観」より)

 と中島利郎さんに言われています。たしかに西川さんが後年残した両親に関する文章は、たいがい甘アマで、デレデレです。昭和3年/1928年から昭和8年/1933年、単身東京に出てきて早稲田大学第二高等学院、早稲田大学文学部仏文科に通い、さあ「ふるさと」台湾に帰るか、東京で生活するか迷ったところで、おれは台湾の地で新しい文学の創造と建設に力を尽くすんだ、と若々しい野心に燃えて帰台。そこから頭でっかち口先だけの文学亡者でなかったことが、みるみる証明されて、昭和20年/1945年に戦争が終わるまでのあいだに、「台湾に西川満あり」と東京で知られるぐらいにメキメキ働きます。

 だいたい目立って評価されはじめると、周囲からにわかに批判されたり、中傷を受けたり、くんずほぐれつの論戦(というか単なるケンカ)に巻き込まれたりします。日本の狭い文学グループとか、出版界、雑誌界でもそうですし、台湾でももちろん例に洩れません。西川さんも、贅沢な本をつくっては悦に入っているような趣味人といいますか、自分の信じる芸術ってやつを推し進めて、現地の台湾人とかその他多様な民族のことは眼中にないような、横暴さも兼ね備えていたらしく、賛否両論、褒める人あれば悪評もふんぷんという、そんな時代を送ります。

 西川さんが語るところによりますと、戦時中、新鷹会の長谷川伸さんや大林清さん、村上元三さんが台北を訪問した折りに、その相手を務めたのが西川さんでした。悪口を言ったり、人の足を引っ張りすることの卑しさを、長谷川さんからふと教えられて改悛し、それ以来だれが何と攻撃してこようが深いフトコロをもって接することができるようになった(『大衆文芸』昭和29年/1954年5月号「鞭」)、ということでだいたいそのころ西川さん30代後半です。大人の階段を、また一段しっかりのぼった、というところでしょう。

 学校を出て台湾に戻ったときから、もはや西川さんはそこで骨をうずめる覚悟だったと言います。日本の戦争のゆくえが違っていたら、きっと海を渡ったままの作家として、また別の作品世界を展開していたかもしれず、そうなれば「直木賞」なんて賞の候補に挙がることもなかったかもしれません。終戦・敗戦とともに、台湾から日本(東京)へ。これが西川さんと直木賞をつなぐ縁になります。

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2020年2月 9日 (日)

浅田晃彦、どうにも自分の置かれた環境がイヤになって、世界各地を旅する船医になる。

 浅田晃彦さんの「乾坤独算民」は、直木賞候補作のなかでとくにワタクシの好きな歴史小説のひとつです。浅田さんが53歳になってから同人誌『小説と詩と評論』62号に寄せた短篇で、第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補に挙げられました。

 といったことは、たしかけっこう前にうちのブログでも紹介した覚えがあります。その浅田さんの作家的履歴のなかで、日本を飛び出し、海外に足を向けたことが大きな転換をもたらしたのは明らかです。ということで、「海を越える直木賞」のテーマでも1週分取り上げることにしました。

 大正4年/1915年生まれの浅田さんは、旧制中学のころにはずっぷり石川啄木にハマり、自分で雑誌『ORION』をつくるなど危うい文学青年の道を驀進しましたが、だいたい文学の道なんてものが当時の家庭で歓迎されるはずもありません。悩んだ末に慶應の医学部に進みます。医師になれば将来も安泰、手がたい職業と見なされたからでしょう。

 しかし、浅田さんの文学に賭ける情熱はそんなことでは萎えません。大学に通うあいだも、いくつかの懸賞に応募したり、倉田百三「生きんとての会」に参加したり。はたまた卒業後に陸軍の軍医となってラバウルに出征、そこで終戦を迎えてからは捕虜たちの作品を集めた『草原』という文芸雑誌を発刊してみたりします。

 昭和22年/1947年、30歳すぎで前橋市に個人医院を開業しますが、どうも医者という職業は忙殺につぐ忙殺で、まるで文学に割く時間がとれません。ああ、こんな生活もうイヤだ、と頭をかきむしったかどうか、その言動の詳細はわかりませんけど、昭和26年/1951年には第一生命保険の社医に職を変えたのは、もっと自由に執筆時間をとりたいという理由だったのは、たしかなようです。

 職業柄、群馬県内の各地に出向く機会が増えたことで、桐生にいた南川潤さんや、その南川さんを頼って同地に来ていた坂口安吾さんと縁ができたのですから、この転職も無駄ではなかったでしょう。当時、芥川賞の選考委員をしていた坂口さんとじかに挨拶できるぐらいの関係になり、自分の小説を読んで批評してもらえる、あわよくばおれも芥川賞を……という感じの心の動きは、いかにも危うい文学青年そのままのイヤらしさです。

 浅田さんはこのとき全国的な同人組織『作家』に参加して、いくつか原稿を投稿、採用されていましたが、話によれば文学仲間のあいだでの評判はそこまで高くなかったといいます。いわく「通俗臭が強い」、いわく「苦悩がない」(昭和61年/1986年4月・奈良書店刊『安吾・潤・魚心』所収「南川潤追想 厚かましい弟子」)。おそらくまわりの仲間もこういうことで他人を批判するぐらいですから、キモい文学青年たちだったんだと思います。

 そういう状況に揉まれるうちに、昭和27年/1952年夏、まだ10歳にも満たない息子を事故で喪い、文学上でも行きづまるところ多く、ああ、こんな生活もうイヤだ、とイヤイヤ病が再発。……と、浅田さん自身が書いているわけじゃありませんが、しかし40歳をまえにして昭和28年/1953年に保険会社の社医をやめるきっかけのひとつについて、浅田さんはこう書いています。

 ちょうどこの年、坂口安吾さんがブロバリンの大量摂取で錯乱、南川さんに「おまえなんか絶交してやる」と狂乱行為を働いたことにひっかけて、

「坂口さんの百分の一の激しさもないが、私にも似たような欲求があった。世俗の愛に溺れている自分が、何かのきっかけで、ワッと嘔気がするほどいやになってくるのだ。周りのものを一切を否定し、孤独の底に自分を突き落とさなければ、だめになってしまうような不安に襲われるのだ。そのモヤモヤを坂口さんのように爆発できたらどんなにセイセイすることだろうと思っていた。

私が船医になったのは、そういう環境に自分をぶちこんでみるためだった。

九月からインド航路の貨物船に乗り組み、日本を離れた。」(『安吾・潤・魚心』所収「坂口安吾追想 怪物の魅力」より)

 そういえば、昭和41年/1966年に古川薫さんが40歳すぎで日常生活に倦みを感じ、カナリア諸島への出張を願い出た、というエピソードに触れたことがありますが、それにどこか似たものがあります。養わなきゃいけない妻と子供がいるイイ年齢になった男性が、ここで一躍、海外に出てみようと踏ん切りをつける展開。

 浅田さんの場合はそこから昭和32年/1957年までの3年半、ときどき日本に帰ってきてはまた外国航路の船に乗り込んで、世界各地をめぐります。アメリカに行きたいな、ヨーロッパも見てみたいな、などと勝手な夢を抱いて船医になってみたはいいものの、最初に乗せられたのがインド・カルカッタ行きの、これ途中で沈没するんじゃないかと思うようなチンケな貨物船です。以来、台湾、フィリピン、香港、シンガポール、ラングーン、パキスタン、インド、中東、やがてアメリカ、ヨーロッパ行きの船にも乗せてもらえるようになり、見聞を広めます。

 しかし、浅田さんのエラいところは、外国行きの船や旅先でありあまる時間を使い、ぞんぶんに読書したり原稿を書いたりしていたことです。船医になったのは小説に専念するためだった、という回想さえ見られます。もう文学への情熱が高すぎて、恐ろしいです。

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2020年2月 2日 (日)

粂川光樹、日本語を教えるためにプリンストン大学に赴任したところで、直木賞候補入りを知る。

 海外モノと直木賞の関係のなかで、新しい時代を切り開くきっかけとなったのは、やはり昭和39年/1964年の海外渡航自由化です。

 と、知ったかぶりして書いていいものかどうか悩みますが、こういう社会の動きが即座に文学賞に反映するかというと、なかなか難しいものがあります。少しずつ世界が近くなってきたような気がするよね、でもわれわれ庶民にとってはまだ遠い世界だよね、という状況はそのあとしばらく続き、直木賞の候補作のなかにボコボコと海外モノが出てくるのは、もう少し先のことです。

 それで、海外渡航のハナシですが、昭和39年/1964年というと直木賞がその上半期を対象にして選考会を開いたのが第51回(昭和39年/1964年・上半期)です。

 直木賞にとっては試練の時代、と言っていいでしょう。商業出版の世界で活躍しはじめた作家の背中を後押しする、という賞の性格に選考委員たちがあまり反応しなくなってしまい、もっと新しい芽、新鮮な作品を読みたいんだ! と得手勝手なわがままを言い出して、素人を含めた同人雑誌の世界からぞくぞくと候補作が選ばれていったこの時代。

 やがて訪れる第54回(昭和40年/1965年・下半期)と第55回(昭和41年/1966年・上半期)のあいだの直木賞ビッグバンによって、根底がガタガタと揺らぎはじめることになりますが、ちょうどその「同人誌隆盛」のタイミングで直木賞に現われた、海外と縁の深い人、粂川光樹さんを今回は取り上げたいと思います。

 粂川さんが『半世界』21号に載せた小説「極東語学校夜話」は第54回直木賞の候補作に挙げられました。しかし、けっきょく粂川さんは小説家にはならなかったので、この小説もまず一般的に目に触れる機会はないかと思います。いちおう簡単に概略だけ紹介しておきます。

 アメリカの財閥ジェファースン財団が世界各国で運営している語学校があります。東京に開設されたのが「ジェファースン財団外国語研究所極東語学校」。ここで在日の外国人を相手に日本語を教えている江崎恵子が、小説の主人公です。

 時代はベトナム戦争が真っ最中で、アメリカによる北ベトナムへの空爆、それに対する報復などが連日のように報じられています。日本でも思想や主義をめぐる闘争が日常風景として繰り広げられるなか、恵子の同僚である歌人の根岸省吾、昔の恋人で革命運動家だった片山良治、はてまた語学校の初代校長だったアラン・バーリントンの夫人アンヌを寝取って結婚までしてしまった津田耿平など、恵子とまわりの男たちの恋愛や肉体関係や運動や、その他もろもろの同時代の生活が綴られていく……という小説です。

 いちおう直木賞の候補にはなっていますが、基本的にこのころの、とくに同人誌掲載作の候補作は、筋や背景、展開に面白みのあるものはほとんどありません。「極東語学校夜話」も、あんまり面白くはありません。

 冒頭のほうでアンヌが恵子に相談を持ちかける場面があります。どうも最近津田の金遣いが荒くなって、韓国人の少年に金を渡しているようだ、うんぬんというエピソードが伏線となって、最後の最後でその真相が明かされる、というところにミステリーチックなにおいを感じさせるぐらいです。ちなみに作中、恵子と根岸がミステリー・マガジンに載っている小説について会話をする箇所があります。短歌やミステリーを小道具として出してくる風合いが、昭和40年前後という時代にアメリカ人たちに囲まれて日本語を教える教師たちの、この当時の雰囲気を表しているのかもしれません。

 粂川さん自身は東京大学文学部から同大学院に進んで上代文学を専攻した人ですが、そのあとは自分で詩作もおこなって昭和37年/1962年には『運河と戦争』(屋根裏工房刊)を刊行、あるいは5年ほど東京や横浜で外交官を相手に日本語を教える仕事をしていた、と言います(『古典と現代』23号[昭和40年/1965年9月]「アメリカ生活を前にして」)。自分の身近なこと、体験したことを小説にしていくやり方にのっとれば、自分に似せた男性の主人公を立てて、その見聞を描いていくこともできたはずです。しかし、そういう手アカのついた手法をとらなかったことが、粂川さんのイケているところです。

 それはそれとして、外国人に日本語を教える、という職能が粂川さんにあったおかげで、昭和40年/1965年のこの時代に、直木賞は(候補作家とのまじわりのなかで)海を超えてしまいます。昭和40年/1965年9月、「極東語学校夜話」を置き土産として粂川さんはアメリカのプリンストン大学で日本語を教えるために渡米。そして海の向こうで、自分の小説が直木賞候補に挙げられたという知らせを受けることになったからです。

 候補になったのは、直接海外のことを描いた作品ではありませんが、粂川さんが日本語を教える経験を積んでいたから生まれたような内容です。世界(とくにアメリカとかベトナムとか)のなかでの日本人の、生の息づかいを感じさせるという意味で、このときに「極東語学校夜話」が直木賞の候補となって、候補一覧に名前を刻んだのも、けっして意味のないことではなかった、と言っていいと思います。

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2020年1月26日 (日)

太田俊夫、カメラの卸商になって中国大陸で仕事をした経験が、50代後半で熟成する。

 大正2年/1913年に宮崎県で生まれた太田俊夫さんは、まもなく東京に移り住んだので、出身地は「東京」ということになっています。

 直木賞の創設が昭和9年/1934年ですから、もうそのときには立派に成長して21歳。けっこうなお年頃です。区役所の税務係として働いていたといいます。

 そのころに一度小説を書いたことがあり、大衆雑誌の懸賞に応募したところ、入選の賞金10円をもらったそうです。いまさら太田俊夫の文学的履歴を調べようという奇特な人はいないかもしれません。でも、もしいたら、いつ何という雑誌の懸賞で入選したのか、教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。

 太田さんのインタビュー(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年6月号)で語られるところでは、太田さんが入選したのは、丹羽文雄さんが文壇のなかで急激に注目の存在にのし上がっていた時代らしいです。というと、ちょうど直木賞ができた直後ぐらいなんでしょう。雑誌に載った作品を丹羽さんに見せてみたら、こてんぱんにケナされてしまい、それから太田さんは小説の筆をとる気が一気に冷めます。

 以後、昭和43年/1968年ごろまで30数年、いっさい小説を書く気持ちにならなかったという太田さんが、直木賞の候補に挙げられたのが第68回(昭和47年/1972年・下半期)のときです。もちろんそのころには、直木賞を創設したときの理念なんてものは、いろいろな事情で波にさらわれ、ほとんど別モノのような文学賞に変貌していましたが、候補当時ですでに59歳、太田さんの自慢(?)のひとつは、直木三十五さんをじっさいに見たことがある、というものでした。

 『経済界』昭和48年/1973年3月号のエッセイ「直木賞候補」によると、直木さんを見かけたのは太田さんが少年のころ。戦前の銀座では有名だったカフェ「銀座パレス」の向かいの道あたりを、ふらふらと倒れそうになりながら歩いている直木さんの姿を目にとめます。少年の目から見て、あっ、直木三十五だ、と顔のわかる作家だったということなのか、はたまた太田さんのハッタリなのか、よくわかりませんけど、直木さんと同時代の空気を吸った人が、けっこうな人生経験を積んだ末に小説を書きだして、この作家の名を冠した文学賞の候補になった、ということです。

 若いうちの経験は何でもしとけ、……というありきたりな感想しか浮かびませんが、20代から30代にかけての太田さんは、小説から離れて仕事に明け暮れます。日本橋で病院を経営していた叔父がいて、彼からのアドバイスで区役所をやめて、カメラの卸し商に転職すると、口八丁手八丁でものを売って利益を得る世界に魅力を感じ、険悪な国際関係にあった中国に渡って青島、上海、南京などでカメラ商人として青春の日々を謳歌しました。

 のちに太田さんが『文学者』に発表する短編連作「暗雲」は、物語のはじめ区役所に勤めている押見亮太が主人公です。それが役人の世界からオサラバしてカメラ売買に身を移し、日中間の、あるいは第二次大戦の戦局が激化するなか、中国大陸に商業拡大の場所を求めて海を越えます。というこの展開は、まるまる事実そのままと認められるわけではないですけど、かなりの部分で太田さんの経験が活かされたものだと思います。主人公や周辺人物の造詣や言動は、まもなく日本の出版シーンをにぎわせることになる冒険小説を連想させます。

 太田さん自身は、その後日本に帰って映画制作に関わったりするうちに、召集令状を受け取って、ふたたび中国に送られます。日本と中国。当時、兵士にさせられるぐらいの年代だった男性にとって、中国(満洲含む)での体験がそれぞれの人生を変えたと思いますが、直木賞という文学賞だけ見ても、それは同じです。戦後、その体験がきっかけで小説を書き始めたり、あるいはもとから創作をしていた人が海外戦地体験を書いたりします。それら強大な潮流が文芸、小説、読み物に流れながれて拡大し、昭和20年代以降、直木賞の場に侵食していきます。

 たとえばそこで、太田さんだって再び小説を書いてもおかしくなかったはずです。しかし書きませんでした。人生を賭けるなら、おれは商売の道だ、という信念と実感のなかで生きていたからです。昭和21年/1946年に復員してすぐ、かつてから知り合いだった笠井正人さん、宮尾芳房さんと3人で、カメラのフィルターを扱う会社を立ち上げます。「ワルツ」です。

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«逢坂剛、社会人になって5年目、本場のフラメンコに触れるために、はじめてスペインへ。