2024年12月 1日 (日)

岬洋子…夫の帰ってこない家で娘二人を育てながら、こらえ切れずに創作に立ち向かう。

 人の人生はさまざまです。「直木賞研究家」などと珍妙な肩書をかかげながら、別に体系だった調査をするわけでもなく、ただ自分の気になった事象や人物の表面だけをすくっているような野郎には、あまたいる直木賞候補者の人生の、何ほどもわかるはずがありません。

 いま同じ時代を生きている作家はもちろんですし、昔の人となればなおさらです。いったいどこで生まれ、何を考え、どういう生活信条で小説を書き、そして死んでいったのか。正直ほとんどわかりません。

 戦前の直木賞候補者であるこの人も、その一人です。第10回(昭和14年/1939年・下半期)で「妻と戦争」が、第14回(昭和16年/1941年・下半期)で「花開くグライダー」が直木賞の候補になりました。生まれは明治37年/1904年6月、本名を片桐君子さん、といいます。

 ただ、いったい両親はどんな人だったのか。まずそれが不明です。本人が語るところによると、「片桐」姓を名乗って君子さんを育ててくれた両親は、血を引いた実の親ではなく、自分にタネを残した男、腹をいためて産んだ女は、ほかにいたそうです。しかし、実の母親は東京・烏森で芸者か何かをしていた人、と聞いたことがある程度で、君子さん本人も、生みの親が何者だったのかよくわからないと語っています。

 それで、何の縁でか京都に住む牧場経営者の片桐治郎吉さんとその妻に引き取られて、戸籍上は「片桐君子」となった。というわけですが、本名での活動のほか、彼女もいくつかの筆名をつけ、そのなかの一つで世に知られるようになります。

 結婚したのは昭和3年/1928年、24歳のときでした。まだそのころは本名で女学校の英語教師をしていた頃で、文壇的には木村毅さんとか大宅壮一さんなどとは知り合っていたそうですけど、小説家としては無名も無名です。結婚したとはいっても、相手が片桐家に婿入りしたようで、君子さんの本名は変わらず、そのまま名乗りつづけます。

 しかし、娘を二人生むなかで、夫との生活は苦労の連続です。なにしろ夫の武さんは稼いだ給料は家には入れず、自分の交際費にほとんど使って、家にもあまり帰ってこなかったというんですから、君子さんじゃなくても、そりゃムカつきます。ムカつくなかで君子さんが手をつけたのが、小説の執筆。吐き出したいもの、叩きつけたいものは、鬱憤としてたまっていたことでしょう。

 君子さんは振り返っています。

「父はまもなく自分の仕事に失敗して、財産どころか、借金を背負わされるし、良人は殆んどもって帰らないし、子供は生れるしで、それから(引用者注:結婚してから)の十何年間を、私は毎日の新聞さえろくに読むひまもない貧乏世帯のやりくり生活をつづけた。少々の才能なんか、きれいにすりへらして、愚痴っぽい糠味噌女房になってしまったが、それでも子供たちが小学校へ通い出してやっと僅かなひまをみつけると、私は家計の赤字を埋めるために、家事のかたわら原稿でも書いてみようという気になった。

(引用者中略)

大衆小説、詩、短歌、歌謡曲、しまいには標語や告白もの類まで手あたりしだいに送った。こまかいものの当選は、大方忘れてしまったし、没となって陽の目を見ずにしまったのも数多かったが、三百円という当時としては大金の懸賞金を貰って、今に忘れられないのは、昭和十一年の週刊朝日に「ラーゲルの人々」が一席に、つづいて翌年「タイモリカル」が二席に当選したことである。五つばかりの筆名を使っていたが、大庭さち子は「ラーゲルの人々」に初めて使ったものである。」(『出版ニュース』昭和28年/1953年6月中旬号 大庭さち子「私の処女作と自信作 自信作など一つもなし」より)

 ちなみに、長女を生んだのが昭和3年/1928年、次女が昭和5年/1930年です。〈岬洋子〉の筆名で「光、闇を貫いて」が『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の選外佳作になったのは昭和8年/1933年なので、ほんとうに子供が学校に通うようになってから書き始めたのか、ちょっとつじつまが合わない気がします。

 さらにいえば、それより前、昭和6年/1931年には『主婦之友』4月号に「読者の実験談 恋愛結婚と媒酌結婚と果して何方がよかつたか?」に、兵庫県在住の〈大庭さち子〉名の体験談が載っていて、内容からして、うーん、これも君子さんの書いたものじゃなかろうか、だとすると「ラーゲルの人々」で初めてその筆名を使ったという証言も信じがたいんだが……と疑おうと思えば、果てしなく疑いは増すばかり。ぐるぐる目まいがしてきます。まあ小説家の回想ですから、事実関係にウソが交じっていても、目くじら立てちゃいけないよ、ということかもしれません。

 それはそれとして、デビュー前に筆名を五つほど使っていた、と回想にあります。〈岬洋子〉はわかっているんですが、その他、いったいどんな名前で応募していたのか。子供の世話をしながら、君子さんはどういう気持ちで別の名前を自分につけ、原稿用紙に向かっていたのか。きっと心のうちに渦巻くモヤモヤと戦っていたんじゃないかと想像しますが、それはもう本人にしかわかりません。直木賞の周辺は、いくら調べたところでわからないことだらけです。

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2024年11月24日 (日)

今春聽…出家したあと法名も二転三転、しかし小説はもとの名前で書きつづける。

 今年一年、令和6年/2024年もいろんなことがありました。

 ……と、気分はすっかり年末ですけど、今年が終わるまでまだ1か月もあります。その間には、第172回(令和6年/2024年・下半期)の直木賞候補作発表があるはずです。年に二回の大イベントがまだこの先に残っている。それだけを楽しみに令和6年/2024年を生き抜きたいところですが、ふと振り返ると今年の直木賞の世界にも大きな出来事がたくさん(?)ありました。

 そのなかの一つが、矢野隆司さんが一人の直木賞受賞者の年譜を刊行したことです。

 令和6年/2024年3月のこと、全1096ページ+36ページに及ぶ人名索引を二分冊に分けて、手にとるだけでずっしりした重みに思わず涙ぐみそうになる箱入りの年譜が出ました。著者の矢野さんによって耕されてきたン十年にわたる地道な調査・研究の成果を、このようなかたちで目にすることができて、感動、尊敬、歓喜の思いが腹の底から湧いてきます。

 年譜と対象となっているのはいまから半世紀以上もまえの、第36回(昭和31年/1956年・下半期)を受賞した人ですが、それまでの履歴、受賞したあとの言動を含めて世間の人びとの耳目を引く圧倒的な個性に満ちあふれる作家でした。じっさい、この人に授賞したおかげで直木賞のほうもヒト皮フタ皮むけて次のステージに踏み上がった、といっても決して言いすぎではありません。そのくらい直木賞にとっても重要な受賞者だと思います。

 この方も名前は一つだけでなく、別の名前を持ちながら世を渡り歩いた人でした。いまうちのブログがやっているテーマにしっくり来る人なのは間違いありません。

 生れたのは明治31年/1898年3月26日、横浜市伊勢町です。子供の頃から頭がよく、さらには文章を書かせても光るものを持ち、小説、随筆、評論など数多く本名で発表しましたが、矢野さんの年譜によると昭和5年/1930年、32歳のころに出家を決意したとあります。茨城県水海道にあった天台宗の安楽寺住職、弓削俊澄さんに師事して、この年の10月、安楽寺徒弟として得度、法名〈東晃〉を授かります。12月には役所に届け出て、戸籍の名前も〈東晃〉に変えたんだそうです。

 新進の作家が出家した。ということでメディアの上でも話題になり、東晃さんも何かれと文章を発表しつづけましたので、出家したからと言って出版の世界から断絶したわけではない、ということを矢野さんの『全年譜』に教えてもらいました。仏教の界隈は娑婆の社会とも地つづきです。頭をまるめたところで、そうそう日常から消え失せるわけではありません。

 それはともかく名前のハナシです。昭和6年/1931年には新たに〈戒光〉という法名を名乗り出したらしいのですが、その年には再び改名を希望。矢野さんの記述によると、昭和6年/1931年秋以降に〈春聽〉の法名を使いはじめ、天台宗務庁に残る記録では昭和7年/1932年3月に〈春聽〉と正式に改名した、ということのようです。なぜ最初の〈東晃〉のままではイヤだったのか。理由はワタクシなぞの凡人には皆目わかりませんけど、いずれにしても、わざわざ改名を願い出るほどに、法名っつうのは本人にとっても重要なものだったんでしょう。

 『全年譜』から引かせてもらいます。

「加藤大岳の随筆によると、運命学者で五聖閣の熊崎健翁が新たな法名として「春聽」を選び命名。命名の翌日、加藤大岳が「命名書」を西片町の東光宅に届ける。ちなみに加藤大岳は佐藤春夫門下生でもあった。」(令和6年/2024年3月・今東光[全年譜]刊行事務局刊『今東光[全年譜]』1931年(昭和6年)夏の項より)

 よくわかりませんが、霊験あらたかな、ありがたい法名だったようです。

 その後、春聽さんは二つの名前で活動します。その法名=戸籍上の名前と、もとからの旧名と。

 出版物や書かれたものの署名にも二種類があります。おおむね小説の類は旧名を使ったようで、直木賞を受賞したときも名前は旧名、生まれたときに親がつけくれた名前です。

 のちに弟子になる瀬戸内晴美さんは、出家して名づけられた〈寂聴〉のほうを終生使いつづけました。そう考えると春聽さんのような名前の使用例は、けっして当然だったわけではなく、法名が本名となった段階でそちらの名前に切り替える道もあったはずです。直木賞受賞者〈今春聽〉。そんな未来もあったかもしれません。

 生まれたときの名前を、30歳すぎて改名して別の本名になったはずなのに、ものを書くときは旧名を捨てずにその名前で貫いた……ややこしい名前の変遷です。ややこしくはあるんですけど、これはもう、春聽さん自身の生きざまや活動範囲がややこしいことに由来するものだと思うので、それはそれで腑に落ちるややこしさ、のような気がします。

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2024年11月17日 (日)

康伸吉…三浦哲郎のアドバイスで筆名を女性ウケしそうな名前に変える。

 直木賞の候補に一回なるだけでも大変だ、と言われます。作家の世界のことはよくわかりませんが、広く言われているぐらいなので、おそらく大変なんだと思います。

 それが二度も候補に挙げられた。しかも、一度目と二度目、それぞれ違うペンネームを使っていた。……ということになると、これは相当に特殊な例です。大変どころか、よっぽどめぐり合わせがよくないと、まずそんな事態にはなりません。

 さらにいうと「二つの名前で二回の候補」という、直木賞史上けっこう珍しいケースの主役になったのに、その後いまいち波に乗れないまま、作家としての活躍は先細り、もはやほとんど知られていない人。それが本名・西村茂さんです。

 生れは大正11年/1922年ですから、いまから100年ぐらい前になります。佐賀県武雄市の生まれで、昭和16年/1941年、佐賀工業の機械科を卒業。技術者の卵として就職したのが地下資源開発の会社だったらしくて、となると当時、彼らのような人たちが求められたのは狭苦しい日本本土ではなくて、大陸のほうということになります。満洲に派遣されて、新京や東辺道のあたりで働いているうちに召集になります。世は戦争の時代です。

 肺結核と診断されて除隊となったあとは、もう軍隊なんて行きたくないや、と逃げ出すように北京に移り、そこの映画会社にもぐり込みます。具体的にはどんな仕事をしていたのか、うかがい知れませんけど、戦中のこれらの経験がのちに小説を書き出すときのいくつかの材料となるのですから、人生、いろんな経験をするのは大切です。

 戦後、日本に引き揚げてくると、山口県下関で新しい仕事にありつきます。勤務先は神戸製鋼所の長府工場というところです。これもまた、日本の復興期には多くの人材が求められた産業に身を投じることになったわけですが、そこでコツコツと働くこと20年。

 家庭ももち、定給もある、およそ安定的な人生を歩んでいたそのさなか、40歳をすぎるころにハッタと西村さんは決断します。だめだだめだ、このまま会社勤めを続けたってしかたない、といきなり退職してしまうのです。奥さんには猛烈に怒られたそうです。

 まあ、何とかなるだろうと腹をくくって、西村さんが手をつけたのが小説を書くことだった……というんですが、どうしてそこで小説なのか。資本もなく、コネがなくても、これならお金が得られるかもしれない、というのが動機だったと言っています。ほんとうにそれだけが理由だったのかはわからないんですが、ときは昭和40年代なかば。商業雑誌がボロボロと出版され、書き手を求める仕組みも整備されつつあったこの時代背景が大きくものを言ったのは間違いありません。

 『オール讀物』は推理小説を含めて年に3度も新人賞をやっているし、『小説現代』は年2回。昭和48年/1973年からは『小説新潮』も重い腰をあげて新人賞の世界にカムバックするし、『小説サンデー毎日』もある、昭和49年/1974年からは『週刊小説』も始める、とその他にもくわしく調べていけば、中間小説の新人賞はまだまだありそうな気がします。ひまな人は調べてみてください。

 ともかく、同人雑誌に参加しなくても運と実力さえ揃えば、新人賞にひっかかるかもしれない、と思った西村さんも、当節の新人賞チャレンジャーと同様、応募生活を始めます。このとき筆名をつけたのは、西村さん自身、勤めもせずに小説を書いてやろうなんて、世間じゃ白い目を見られるだろう、親が生きていたらきっとイイ顔はしないはずだ、という後ろめたさがあったからだと言っています。

 それで、家の近くに庚申塚があったところから拝借し、「庚」を「康」に、「申」を「伸」にして最後に「吉」をつけたペンネームに決めました。すると、応募したオール讀物推理小説新人賞ではいきなり最終候補に残ってしまう幸運が舞い込みます。むむっ、これはいけるかもしれない、と〈康伸吉〉さんは俄然やる気になり、その名前を使いつづけた挙句、ほんの1、2年で第12回オール讀物推理小説新人賞を受賞してしまいました。力があったんでしょう。

 力だけじゃなく、『オール』の編集部からの期待も熱かったと思われます。受賞一作目として書いた「闇の重さ」が、いま読めばまあどうということのない暗いおハナシですけど、文春社員による予選審査を通過して第70回直木賞(昭和48年/1973年・下半期)の候補に挙げられたからです。あまりにハナシとしてつまらないからか、その後単行本に収められることもなく、初出の『オール讀物』を読む以外接することができない、という悲しい直木賞候補作になっています。

 せっかく付けたペンネームです。直木賞候補にもなりました。そのまま同じ名前で行く道もあったと思います。しかし西村さんはまもなく第二のペンネームに変えることになります。

 本人によると、理由はこうです。

「ゲラの著者校正で東京のホテルにかんづめになった時、「忍ぶ川」の三浦哲郎と飲みに出ましてね、康 伸吉は中国とか朝鮮の大陸系みたいな名前でよくない、君のファンはご婦人が多いんだからご婦人好みの名前にしろ、と忠告をうけて、じゃ易しい名前でいこうと壱岐光生にしたんです。

(引用者中略)

どうですか、壱岐光生てあんまりいい名前じゃないですね、しまりのないような気がしませんか。司馬遼太郎とか、堂々たる名前つけたらよかったなと思っていますけど。」(昭和56年/1981年2月・積文館刊、片桐武男・編『おとこの詩・佐賀工業47人の証言』所収「私の作家修業」より)

 えっ、〈康伸吉〉さんって女性のファンが多かったのか。はじめて知りました。

 三浦哲郎さんのアドバイスで、新しいペンネームに変えたところ、そちらでも第75回(昭和51年/1976年・上半期)で二度目の直木賞候補に挙がります。きっと女性の読者ファンたちも大喜び……したのかどうかはよくわかりませんが、その新しい筆名でバリバリ活躍したというハナシはほとんど聞こえてきません。いったいその後、どうしたんでしょう。下関在住の作家としては古川薫さんの影に隠れてしまい、一度目の名前も二度目のほうも、直木賞候補リストにそっと残るにとどまっています。

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2024年11月10日 (日)

オオガスチン…現役の直木賞選考委員、死の前日に自ら懇願して洗礼を受ける。

 人を表わす名前にはいろんな種類があります。

 本名、別号、ペンネーム、芸名、あだな、通り名に、幼名、旧姓、ハンドルネーム、それから僧名とか戒名みたいな、宗教的に使われる名前なんてのもあります。

 そのなかのひとつが、洗礼名です。

 小説家のなかにもクリスチャンはたくさんいます。自ら望んで信仰の道に進んだ人とか、周囲の意向で勝手に仲間に入れられたとか、事情は人それぞれでしょうが、きっと直木賞の関連者のなかにも何人かいるんでしょう。ということで今週は、自分で洗礼を受けることを懇願したという、往年の直木賞の選考委員のことを取り上げたいと思います。

 明治33年/1900年10月5日、福島県岩瀬郡大屋村の生まれ。水車業を営む竹蔵さんと、その妻スイさんの第三子として生まれた中山家の三男坊(といっても次男は夭折していたので、実質には次男格)、名前は〈議秀〉と付けられました。

 彼の文学的な歩みは、まったく直木賞とか大衆文芸とか、そういう道の外れた側道とはまるで違うところで進みました。懸命に文学ってやつに打ち込み、37歳のときに「厚物咲」で第7回(昭和13年/1938年・上半期)芥川賞を受賞します。

 戦前・戦中と、そこまで派手な作風でもなく、クロウト好みの作品をひたひたと書く、正直、地味な作家だったはずなんですが、戦後になって歴史小説を書きはじめると、骨のある文体や思想がその世界にぴったりマッチ。とくに剣豪モノは結構多くの人に好んで読まれ、職業作家としてイブシ銀の活躍を見せます。そんなとき、舞い込んできたのが直木賞の選考委員をやってくれないか、というハナシでした。

 委員になったのは第39回(昭和33年/1958年・上半期)からです。このときは山崎豊子さん、榛葉英治さんが受賞しましたが、以来、第61回(昭和44年/1969年・上半期)まで11年半、みずから実作に打ち込むそばで、大衆文芸の選考という、どう考えてもお門ちがいな役割を粛々とこなすうち、弟子筋にあたる安西篤子さんがアッとびっくり受賞を射止めちゃったりしましたが、まだ委員の任にあった昭和44年/1969年8月、癌疾患後の悪性貧血でブッツリとその生涯に終わりが訪れます。68歳のときでした。

 最後の選考会となったのは第61回のときで、すでに虎の門病院に入院中の身です。さすがにこのときは出席はかないません。律儀に書面で自身の見解を表明したんですけど、いつもだいたい人とは違う候補者ばかり推してしまう独特の選球眼はこのときも健在で、選評上はだれひとり褒めてもいない黒部亨さんの「島のファンタジア」を推しました。結果受賞した佐藤愛子さんの『戦いすんで日が暮れて』にまったく触れなかったのは、「孤高の文士」の称号にぴったりとも言える姿勢です。

 そもそも、自分の体調がそろそろ危ないというのに、そして自分の一票が受賞につながる確信など何にもないのに、おのれの信念を貫き通したところがカッチョいい。と言えなくもありません。

 いかにも自分ひとりを恃みと決めて、周囲の声など何も聞かない、といった傲然たるイメージすら感じさせますが、どうやらそうとばかりも決めつけるにはいかなそうです。というのも、名前の件があるからです。

 文学に目覚めた少年時代から、小説も評論もオモテに出す文章は、すべて本名で発表していました。しかし、きみ、名前の言偏は取ったほうがいいよ、そっちのほうが姓名判断で見るとうまく行きそうだよ、と横光利一さんに言われて、うん、そうか、とあっさり筆名を変えたのは何だったのか。「私の文壇風月」によると、もともと「議」の字をヨシと読ませることに違和感を持っていて「私はちゅうちょなく横光の勧めにしたがった」とあります。ともかく自分で自分の筆名を決めなかったのはたしかです。

 けっきょくそれで文運もひらけていくんですから、人まかせのその判断は、意外と当たっていたと言えるでしょう。

 そして人生の最後の最後、またも親しい人にお願いすることになります。親しく付き合っていた『朝日新聞』の文芸記者、門馬義久さんに、かなりしつこくお願いしたようです。

 門馬さんが昭和49年/1974年、長谷川伸賞を受賞した直後の『週刊朝日』の記事を引いてみます。

「死の前日の四十四年八月十八日午後三時ごろ、門馬記者が東京・虎の門病院の病室に行くと、酸素テントに入っていた中山さんは、

「君の来るのを心待ちにしてたんだ。おれは、もうダメなんだ。間もなくお別れだ。洗礼をやってくれないか。ほかの人にはやってもらいたくない。君への最後の頼みだから、きいてくれよ」

と、門馬記者の手をにぎりしめるのだ。」(『週刊朝日』昭和49年/1974年7月19日号「中山義秀氏に洗礼授けた新聞記者…長谷川伸賞に輝く門馬義久氏」より ―署名:「本誌・横山政男」)

 それで付けられた洗礼名が「オオガスチン(オーガスティン)」です。

 提案したのは、洗礼を施したのは門馬さんだったそうです。そんな立派な名前じゃ困るな、とはじめは渋った相手を説き伏せて、いやいやオオガスチンは若い頃には悪いこともして女もさんざん泣かせて、それでも信仰に出会ったことで救われた人ですよ、だとか何だとか。

 なるほど、文学者だからって、あるいはホニャララ賞をとったからって、本人は自分の生きざまに相当な後悔と悩みがあったんですね。まあ、どんな作家でも、こんなブログをだらだら書いている奴よりかは何ぼか偉いんですが、あまり作家を持ち上げるのも考えものかもしれません。

 昭和44年/1969年に没し、それから24年ほどたって故郷の福島県大信村(元・白河市)に記念館が設立され、同時に彼の名前を冠した文学賞が始まりました。それからさらに32年ほどを経過して、文学賞も今年で30回。今日、令和6年/2024年11月10日、その賞の30周年記念事業が白河市でありました。

 冠された作家がどれだけ偉かったのかはワタクシもよくわかりません。ただ、こういう文学賞を30回も続けてやってきた人たちが、よっぽど偉いことは、よくわかります。

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2024年11月 3日 (日)

林髞…親切な友人からの熱心な勧めがなければ、直木賞をとる未来もなかったはずの人。

 本名では大ベストセラー作家。筆名では直木賞を受賞。しかしその実態は、単なるゴリゴリの権威主義者……でおなじみの林髞(はやし・たかし)さんです。

 以前、氷川瓏さんのエントリーにも登場しました。権威が好きな人は、おのれをたのむプライドと、他人に対する嫉妬心が異常に盛んに燃えたぎっている……というのがお約束の世界です。林さんが実際にそういう人だったのか、これはまわりの人たちの証言を一つひとつ集めていかないと何とも言えませんけど、直木賞の歴史のなかでは、探偵文壇から初めて受賞したのがこの人だったのが大失敗、謎解きミステリーが直木賞を長いあいだとれなかったのは、そもそもさかのぼればコイツのせいだ、と一部のあいだではとにかく嫌われ、恨まれていた選考委員として知られています。

 と、それはともかく、林さんは、生涯すべての人から嫌われていたわけではありません(そりゃそうだ)。林さんを尊敬する人、愛する人、助けてあげたいと思う人もけっこういて、(たぶん)そのおかげで専門の大脳生理学の分野だけでなく、小説家としても登場できたことと思います。そして、その登場には、「別の名前」=ペンネームが関わっています。

 ミステリーの世界のことなので、これもまた先達たちや、熱心な人たちが根掘り葉掘り調べ尽くしてくれていることです。それらのハナシを今回もお借りして先を進めます。

 新進の医学研究者として、慶應義塾大学の助教授としてソ連に留学した林さんは、師匠パブロフさんの研究をみっちり吸収して、36歳で帰国します。論文だけにとどまらず科学雑誌にも原稿を寄稿し、そんななかで科学知識普及会の『科学知識』でも物を書き出しますが、編集部にいた長島禮さんが紹介してくれて、逓信省電気試験所の工学技師、佐野昌一さんと知り合います。

 林さんと佐野さん、いったいどんなところで意気投合したのでしょう。お互いに文学、あるいは読み物をたくさん読んで育っていたおかげで、二人の息が合ったのかもしれません。昭和9年/1934年半ばのこと、林君、きみなら探偵小説が書けるんじゃないか、と佐野さんにすすめられて、いい気分になった林さんは、よし、いっちょ書いてみるかと短篇を書き上げ、『新青年』に提出したところ、おお、これは新しい探偵小説だ! と水谷準さんも感銘を受け、同誌に掲載される運びになります。

 しかし本名のままで小説を発表するのは、どうにも気が進まなかったらしく、自分で考えればいいものを、大切なその名前も、佐野さんに付けてもらいました。「林」と「髞」の漢字を構成している一部分を分けて、佐野さんが付けてくれた、ということなんですが、当時はまだ直木三十五さんが流行作家として活躍していた頃なので、本名「植村」の「植」を分けて直木としたその発想を、佐野さんも多少は参考にしたかもしれません。

 佐野さん、というよりも、作家としては林さんの先輩です。すでに〈海野十三〉という立派な(?)筆名で活躍していた方ですが、なにしろ自分に小説を書かせてくれた大恩人にして、大友人。林さんは後年まで、佐野=海野さんへの感謝と愛惜は忘れなかった、と言われています。

 あとあと直木賞を受賞することになる『人生の阿呆』の、長い序文にも、律儀にそのハナシが書き留めてられているくらいです。

「昭和九年の秋、初めて、一篇の探偵小説を書いた。彼(引用者注:著者自身のこと)が書いたのではない。友人、海野十三が、寧ろ執拗にすゝめて、彼をして書かしめたと言つた方が、当つてゐるかも知れぬ。それが、「新青年」に紹介せられた、彼の処女作「網膜脈視症」であつた。

ついで翌年、連続して、五つの短篇を書いた。この間に、友人、海野十三、水谷準の二人が、作者に与えて呉れた激励については、作者は常に感銘の心を持つ。」(昭和11年/1936年7月・版画荘刊『人生の阿呆』「自序」より)

 後年、自分は推理文壇の中枢を担っているんだと威張りくさっていた林さんにも、きちんと心を許した友人がいたんだな……と、そんなところに感心している場合じゃありません。

 いやまあ、林さんの人格はさておき、医学研究と創作、二つの道をずっと長くつづけ、創作のときに使ったペンネームのみならず、それ以外のときに名乗った本名のほうも、広く知られつづけたのですから、そのエネルギッシュさにはかないません。二つの名前がそれぞれ相拮抗しながら使われつづけたというのは、直木賞広しといえども、それほど例が多いわけじゃなく、その意味でも林さんは、稀有な存在感を放っています。

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2024年10月27日 (日)

北小路幻…直木賞をとったあとでも宮沢賢治について語ることを生涯の仕事と心得る。

 こないだ岩手県の北上・花巻・盛岡を旅行してきました。

 同行者は、春日部の奇人こと盛厚三さんと、自意識まるだし文学ジジイこと、荒川佳洋さんです。ワタクシも含めて、三者三様、興味も関心も全然ちがうので、それぞれに交わす会話がほんとに成り立っているのか、はたから見ると奇妙な旅行客だったでしょうが、いつものように楽しい旅でした。

 荒川さんは自分のブログを持っているので、当人の目から見た旅のハナシはきっとそちらで書かれると思います。ワタクシはワタクシで、基本的には直木賞にしか興味がありません。なのでここでは、岩手で出会った直木賞の受賞者のことを書いて、旅の記録(?)としておきます。

 本名・森佐一、岩手の作家として初めて直木賞を受賞した人です。

 受賞したのは第18回(昭和18年/1943年・下半期)と、いまから80年もまえの出来事です。いまや東京にいると、この作家のことを語る人もほとんどいなくなり、何をした人か、どんな作品を書いてどんな発言をした人なのかは、なかなかうかがい知れません。だけど岩手に行けば、さすが地元だ、誰にきいても彼のことを知っている!……というわけでもなく、そこら辺は東京とどっこいどっこいかもしれません。

 いやでも、佐一さんの名前はいくつかの文学館では大きめに取り上げられ、岩手で出ている関連の書籍もいくつか入手することができます。それが知れただけでも、直木賞ファンとしては岩手に足を運んだ甲斐があったと思います。

 佐一さんの名がいまにまで残っているのは、直木賞受賞者としてというよりも、完全に宮沢賢治さんのおかげです。昔、直木賞受賞作のアンソロジーをつくったときにも、佐一さんと賢治さんの結びつきの強さには驚きましたが、これはもう相当なものです。

 佐一さんには森三紗さんという娘さんがいて、アンソロジー刊行の際にもお世話になりました。その三紗さんが平成29年/2017年4月にコールサック社から出した『宮沢賢治と森荘已池の絆』などは、タイトルのとおり、二人の結びつきを紹介した文章が、本の中核になっています。

 賢治さんが生まれたのは明治29年/1896年8月、佐一さんは明治40年/1907年5月です。それぞれ成長するうちに、賢治さんは花巻で、佐一さんは盛岡で詩を書き始めますが、いちばん最初に二人が出会ったのは、活字の上でのことでした。早熟の天才、佐一さんは旧制中学校に通うティーンエイジの頃から新聞や詩歌誌にぞくぞくと作品を投稿。そのときに、取っかえひっかえペンネームを変更して〈北小路幻〉〈北光路幻〉〈杜艸一〉〈畑幻人〉〈青木凶次〉などの名前を使います。

 〈幻〉という字がけっこう入っているのは、大正の頃の若者のなかにも、微妙にカッコよくて、よくよく考えるとダッセえ漢字を使いたがる中二病的な感性があったものかもしれません。まあそれはともかく、なかでも〈北小路幻〉の名前で『岩手日報』に発表した詩の評論は、バッサバッサと他人の作品を切り刻む辛辣な筆で知られたそうです。若さっていうのは頼もしく、また怖ろしいです。

 賢治さんは、新聞紙上で勢いよく昨今の詩をぶった斬る〈北小路幻〉さんに、かなりの敬意をもちながら、その記事を読んでいたと言われます。〈北小路〉=佐一さんはこの頃、仲間たちといっしょに岩手詩人協会というのをつくろうと画策、また新たな詩誌『貌』の刊行を準備していましたが、そこに参加してくれないかと手紙で賢治さんに依頼を送ります。大正13年/1924年4月に出た賢治さんの『春と修羅』を読んで、ううむ、こいつはどえらい書き手だ、と惚れ込んでいたからです。

 大正14年/1925年、このときから賢治さんが亡くなる昭和8年/1933年まで、二人の交流が続くんですが、まだ二人が実際に顔を合わせるまえの文通段階で、賢治さんからこんな手紙が佐一さんに送られてきた、と娘の三紗さんは力をこめて強調します。

「賢治は大正十四年二月九日あての手紙では、あなたにお会いしたいと思うと佐一に手紙を送り、二月十九日青色五厘方眼罫紙を八つ切りにした紙に、たった三行の次の内容を含む手紙を佐一に送って来ている。

あなたがもし北小路幻氏であればわたしは前からあなたを尊敬してゐます

しかもいまMisanthropyが氷のやうにわたくしを襲つてゐます

  この頃にあのぱぶりしゃあに会ひますからすこし待ってください (書簡202)」(『宮沢賢治と森荘已池の絆』所収「森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より」より)

 人からこういう手紙をもらって、うれしがらない人など、よほどのあまのじゃくでないかぎり、いないでしょう。まだまだ当時の賢治さんは、全国的には無名の存在で、これからどうなるかもわからない詩人の卵でしたが、〈北小路〉の佐一さんのほうもまた、岩手のなかでは多少は知られていても、将来どんな人生を歩むことになるのか霧の中。お互い、まだまだこれからの時期に交わした書簡、あるいは思い出が、佐一さんの生涯でも最も大きいものになっていきます。

 娘の三紗さんの書くところによれば、佐一さんは生涯「この世の中で一番大切なものは命であるが、次に大切なのは宮沢賢治からもらった手紙である」と言っていたそうです。直木賞をもらったことなんざ、それに比べれば、ずっと下の位にあったんでしょう。ああ、青春っていいですね。若いときの思い出や、出会った友人は、大事にしていくのが一番です。

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2024年10月20日 (日)

久慈康裕…医科大学の校友会誌を編集しながら、なぜかいっとき変名を使う。

 今年の夏は暑かったですね。

 いやいや、日本の夏は暑苦しくて当たり前、いまさら振り返って暑い暑いといって何の意味があるんでしょう。ともかく、あまりに東京で過ごすのに耐えきれず、8月の半ば、少し気温の低いところを求めて北海道に旅行に行ってきた……ということが言いたかったんです。

 ただ、旅行ったって、何をするわけでもありません。だいたいワタクシの興味は直木賞に関することに限られていて、よその土地に行ってもまず直木賞を優先する変なクセがついています。

 ということで、北海道と直木賞といったら、まず外すことのできない一人の作家を顕彰した文学館が、札幌市の中島公園わきにある、という情報を頼りに、ふらふらと立ち寄ってみました。

 訪れたのは8月半ばの観光シーズンです。なのに、名を冠された作家の資料が展示されているフロアには、人っ子ひとりいません。女優だの何だのといっしょに写っているニタニタした男性作家の笑顔の写真がパネルになって掲げられていて、妙にものの哀れを感じさせていましたが、それはそれとして、彼が直木賞をとる前の、学生時代の資料がガラスケースのなかに飾られているのを見て、思わず身を乗り出してしまいました。

 というのも、彼もまた、本名で小説を書いて有名になる前に、ペンネームを使って文章を書いていたことがある、と知ったからです。へえ、そうなんだ。

 この作家もいちおう超有名人です。年譜の類いは数多くあり、自伝、評伝もたくさんあります。北海道から帰ってきて、そういったものを改めて見てみると、デビュー前の作品もすでにいろいろと掘り起こされています。中学生の頃から短歌などの文学に親しみ出し、高校、大学と進むあいだに医学の勉強とともに文学方面にも食指をのばして、はじめて小説を発表したのが昭和30年/1955年、22歳のとき。札幌医科大学に在籍中に、校友会雑誌『アルテリア』11号に寄せた「イタンキ浜で」という作品だったそうです。

 昭和32年/1957年には、川辺為三さんや椎野哲さんなどが始めた同人雑誌『凍檣』に加わりますが、同誌はまもなく『くりま』と改称。ここに精力的に小説を発表することになるのですが、と同時に『アルテリア』のほうにも引き続き作品を書いています。そのうち、14号の「白い顔」と15号の「グラビクラ」は、なぜか本名ではなく、別のペンネームを使いました。〈久慈康裕〉という名前です。

 のちに書かれた自伝的要素まんさいの小説『白夜』には、こんなふうに書かれています。

「本を読むのは好きで、高校時代は図書部に入って図書館の本を片っ端から読んだことがある。その前の中学時代には、国語のN先生にすすめられて、その先生が主宰している短歌同人誌に投稿したこともある。ときには俳誌を買ってきて自分で俳句をつくったこともある。

医学部の学生のときには校友会誌の編集をし、文芸色を出しすぎると批判され、仕方なく他の仲間と同人誌をつくって習作程度の小説を発表したこともあった。」(渡辺淳一・著『白夜 緑陰の章』より)

 「N先生」は歌人の中山周三さん、短歌同人誌とは『原始林』のことで、校友会誌は『アルテリア』、仲間とつくった同人誌とは『凍檣』→『くりま』がモデルでしょう。

 『アルテリア』の編集に携わったときに、あまりに文芸色を出しすぎると批判された、とあります。実際にそうだったのか。よくわかりませんが、そうであってもとくにおかしくありません。医科大学の校友会誌なのに、小説特集とか何とか、一般の文芸同人雑誌っぽい編集をしたそうですから、そういうものに難癖をつけたがる人がいたんでしょう。おそらく。

 そういえば、後年にいたるまで、彼の特徴といえば、何だったか。あれこれと周囲に物議をかもすことでした。日本初の心臓移植を小説化したり、『日経』紙面でエロ小説まがいの小説を連載したり、あるいは直木賞の選考委員として放言をかましたり……。

 人から難癖をつけられて生きていく彼の道ゆきは、『アルテリア』を編集していた時代から、もう始まっていたということです。本名を隠して〈久慈康裕〉なる名前に変えたところに、どんな理由があったのか。はっきりとはわかりませんけど、あまりに批判を浴びたことに影響を受けて、本名を使いづらくなったのかも。

 もしそうだとしたら、後年、厚顔であることをウリにした(?)あの性格も、若いときには、多少まわりの目を気にする小心な感覚があったのだろうと思います。しかしまあ、けっきょく、人がどんな思いで別の名前を使うかは、周囲からはうかがい知れません。〈久慈〉さんがどうだったのかは、もう藪の中です。

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2024年10月13日 (日)

花村奨…いっとき使った小説家としてのペンネームは忘れられても、それを蹴散らすほどの仕事を成し遂げる。

 約100年も前の大正15年/1926年に始まった『サンデー毎日』大衆文芸懸賞という企画があります。うちのブログでは、さんざん取り上げてきましたが、作家の名前というテーマで見たときにもやはり、この企画のことは外せません。

 当時、ペンネームで懸賞に当選したり選外佳作になったりした人が、のちに別の名前で有名になった、なんちゅう例がゴロゴロしているからです。最も有名なのは〈沢木信乃〉を名乗った井上靖さんかと思いますが、それ以外にもたくさんいます。今週はそのなかの一人、昭和14年/1939年度上期で選外佳作になった花村奨さんを取り上げてみようと思います。

 花村奨……というこの名前がのちに有名になったかどうかは、ちょっと疑わしい気もしますけど、大衆文芸の世界では見過ごせない偉業をなした人と言って、おそらく異論は出ないものと思います。それは実作者というより、宝文館の、そして新鷹会『大衆文芸』の、有能な編集者だったからです。

 これは前に書いたハナシかもしれませんが、あらためて言いますと、戦後第22回(昭和24年/1949年・下半期)の受賞者に、山田克郎さんがいます。受賞作の「海の廃園」は『文藝讀物』に載った短篇で、受賞したのはいいものの、雑誌を読んでなけりゃだれもその受賞作は読めません。

 しかも、『文藝讀物』を出していた日比谷出版社は、直木賞の運営母体(いまでいえば文藝春秋)の一翼を担っていながら、あっさりと戦後経済の荒波にもまれてハジけ飛んでしまい、雲散霧消。せっかくの受賞作を本にしてくれるはずの後ろ盾を失って、山田克郎さん、困ったことになりますが(ほんとうに困ったかどうかは知りませんけど)、そこに手を差し伸べたのが宝文館の編集者だった花村さんだ、と言われています。『海の廃園』はどうにか宝文館から書籍され、多少のお金が山田さんのもとにも入った……はずです。

 花村さんは直木賞の候補になった戦前からずっと大衆文壇でやってきましたので、山田さんとも友人の仲。困った人を見ると見逃せない花村さんの男気が、宝文館唯一の「直木賞受賞作本」に結びついたというわけです。

 編集者としての花村さんの足跡は、没後に編まれた『行路 花村奨文集』(平成5年/1993年10月・朝日書林刊、山本和夫・編)の一冊からも感じ取れるところです。ネットでは、皓星社の河原努さんが「趣味の近代日本出版史」のなかできっちりと取り上げてくれています

 あるいはその人柄は、これもまた友人の真鍋元之さんが『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』(昭和56年/1981年8月・光人社刊)で、花村さんのことをこう評しています。

(引用者注:真鍋の住む)板橋にはまた、詩人の江口榛一も住んでいたが、この江口を、わたしに紹介したのも、花村である。かれらふたりは、おそらく詩を介して知り合ったのであったろう。

(引用者中略)

われわれ三名のうち、もっとも冷静に、事務的な頭がはたらくのは、花村であった。」(真鍋元之・著『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』より)

 ほかにも「万事に気のまわる花村奨」との表現も出てきます。戦後、宝文館の社長だった大葉久治さんは、疎開中だった花村さんをいち早く東京に呼び寄せて、出版事業の再建に乗り出したそうで、よほど編集者として信頼されていたことがうかがえます。

 ちなみに宝文館では、『令女界』や『若草』の編集もしていましたが、同じ職場には山崎恵津子さんがいました。昭和22年/1947年、梅崎春生さんと結婚する女性ですけど、こんなところでも花村さんは直木賞と縁があったんですね(すみません、ちょっと縁というには遠すぎました)。

 花村さんがペンネームで書いた「首途」という直木賞候補作は、発表された時期も時期で、要するに日本が軍国化を推し進めるその土壌の上に書かれた作品です。いまとなっては顧みる人がいるとは思われない、なかなか不幸な時代背景を負った候補作なんですが、しかし戦後、花村さんが本名で書き続けた数々の小説や読み物はさることながら、宝文館で数々の雑誌、書籍の編集稼業のなかから生み出した作品群や、『大衆文芸』に拠って仲間や後輩たちに叱咤激励をかけながら、長谷川伸さん亡きあともこの雑誌を長らくつくりつづけた功績は、もうひれ伏すしかありません。

 直木賞の候補者だった、ということより、そちらのほうの業績を、もっと掘り起こすべき人でしょう。ワタクシなんぞが出る幕ではありません。

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2024年10月 6日 (日)

江夏美子…直木賞の候補になったあとに、心機一転、名前を変えたらまたも直木賞の候補に。

 先週取り上げたのは、一つの名前を二人の作家が使った、という珍しい例でしたが、今週はもう少し一般的です。一人の作家が二つ(以上)の名前で小説を発表した、というおハナシです。

 そんなものは、別に珍しいことじゃありません。ただ、直木賞という狭い舞台に限っていうと、一人のひとが違う名前で複数回、候補に挙がったというのは、そんなに当たり前でもありません。あまりない、と言ってもいいと思います。

 第50回(昭和38年/1963年・下半期)候補になった『脱走記』と、第52回(昭和39年/1964年・下半期)候補の「流離の記」。それぞれの作者は、最後の一文字が違うだけの似通った名前の持ち主ですけど、正真正銘、同一人物です。本名は中野美与志さんと言います。女性です。

 うちのブログもだらだら長くやっているので、中野さんについては、すでに以前に触れたことがあります。中野さんが主宰する同人雑誌『東海文学』にスポットを見ててみたときです。

 果たして中野美与志とは何者か。ワタクシだってそこまで詳しく知っているわけじゃないんですけど、ざっと履歴をおさらいしてみますと、中野さんが初めに創作をスタートさせたのは、戯曲やドラマの分野だったと言われています。

 昭和18年/1943年、大阪商工会議所主催の戯曲募集に投じた「母ぐるま」が入選、というのが最も古い受賞歴です。当時、旧姓・吉山美与志さんは大阪で中野茂さんと結婚し、その地で暮らしていたので、大阪商工会議所の企画に名を止めたものだと思われます。20歳のころです。

 以来、ペンネームは〈江夏美子〉と決めて、戦後NHKラジオ脚本でも入選を果たします。やがて視線は小説のほうに向いていき、次々生まれる子供を育てながら、家事のかたわら原稿用紙に張りつきますが、そこでも名前は〈江夏美子〉を使いつづけ、『文芸首都』に投稿したり、新潮文学賞や『文學界』の懸賞に応募したりするうちに、次第にその名が知られるようになります。

 当時、女性の作家は、まったくいなかったわけではありません。だけど男性と比べて比率は少なく、中野さんの作品が高く評判を呼んでいるのを見て、こんなことを言う人がいたそうです。

 女の作家は希少価値があるからね、だから優遇されているだけだろ、とか何だとか。

 〈美子〉という名前がいかにも女性っぽい。……というわけでもなかったでしょうが、いつの時代も口さがない輩というのはいるものです。女性だから得している、などとまわりから雑音が聞こえて、中野さんもそりゃあムッとしただろうと思います。

 ワタクシは、中野さんとじかに接したこともなく、勝手に想像することしかできませんが、その後めげずに小説を書きつづけ、それだけじゃ飽き足らずに自ら同人雑誌まで主宰して、ぐいぐい、ずんずんと歩みつづけたぐらいの人です。しおらしさや、かよわさとは縁のない骨の太い人柄だったことでしょう。

 じっさいに中野さんと何度も語り合ったことのある岩倉政治さんは、彼女についてこんなふうに回想しました。

「時として自信過剰を思わせる無邪気さで、ひとをめんくらわせることもあったし、作家として思想の重要性を口にしていた彼女自身、もっと歴史観、社会観について自分に課していたものもあったに違いない。もし彼女がさらに生きのびて、それらの課題を深めた暁には、例えば宮本百合子や野上弥生子らと肩を並べるような大成を果たしたかもしれぬとぼくは思うのである。

(引用者中略)

彼女はやはり彼女らしい負けん気を、みずからのいのちを断つ仕方で、つらぬいた。つまりガンが持ち込もうとしていた死についての主導権を自分が取りガンに死刑を与えたのだ。」(『民主文学』昭和58年/1983年1月号、岩倉政治「江夏美好さんを悼む」より)

 「自信過剰を思わせる無邪気さ」という表現が印象的です。うん、そんな人、世のなかにはけっこういるもんなあ。

 それで筆名のことなんですけど、おそらく中野さんほどの思慮深い人ですから、その付け方にはきっと重い理由があったものと思います。

 そもそもなぜ〈江夏美子〉という名前を付けたのか。長く使いつづけたその名前を、『東海文学』での「脱走記」の連載が終わって単行本化されたのを機に、いったん脱ぎ捨て、昭和38年/1963年に改名しますが、そのとき付けた〈古賀由子〉という名の由来は何なのか。

 よしこ、という読みに何か思い入れでもあるのかと思いきや、〈古賀由子〉の名前はあっさり撤回し、ふたたび〈江夏〉の姓に戻して、再々度、別の筆名を名乗りはじめます。名前をあれだこれだと変えたこの時期に、二度も直木賞の候補になったのですから、直木賞ファンとしても、知らない顔はできません。

 ううむ、これら命名の変遷には、中野さんのどんな心境が反映されていたんでしょうか。くわしい人の解説を待ちたいと思います(と、けっきょく人まかせ)。

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2024年9月29日 (日)

山手樹一郎…一人の若手作家が使っていたペンネームが、別の人に受け継がれて直木賞候補になる。

 直木賞の歴史は無駄に長いので(と、いつもこんな書き出しですけど)、変なことがときどき起こります。候補者の名前についても例外じゃありません。

 過去、直木賞の授賞がいったん決まりながら本人が辞退して授賞なしといった例は、第17回(昭和18年/1943年・上半期)の一回だけです。その辞退した作家は、戦中・戦後におよんで多くの読者を魅了し、直木賞そのものを追い抜いちゃうほどの知名度を獲得したので、彼の生涯や作品を対象にした研究や評論は、いまも絶え間なく生み出されつづけています。

 そのなかの一つに、彼が使った筆名・ペンネームの研究という分野があります。

 清水三十六さんという本名を持ちながら、直木賞の候補になって受賞辞退としたときの筆名はもちろんのこと、他にも数々の筆名を使っていて、いったいどれだけの名前があったのか、いまも全貌はわからないらしいです。竹添敦子さんや末國善己さんなどの熱心な研究のおかげで、〈甲野信三〉名義の作品が発掘されたのは、つい10数年前のことです。記憶に新しいかと思います。

 有名になる前に、さまざまな筆名を使い分けるのは、清水さんだけの特徴とはいえませんが、たとえば戦前には〈俵屋宗八〉〈佐野喬〉、戦後になっても〈黒林騎士〉〈折箸蘭亭〉〈風々亭一迷〉〈覆面作家〉などなど、やたらと多くの名前で作品を発表しています。名前なんてどうだっていいじゃないか、作品がどれだけ読者の心に届くかが重要なのさ、と言わんばかりの乱発ぶりです。

 それで、そういうペンネームのなかに〈山手樹一郎〉もあった、というのですから仰天です。直木賞の歴史を見ても、こんな事態をつくり上げたのは、おそらく彼だけでしょう。

 この辺りの事情は、あまりにも有名なハナシすぎて、いまさらナゾるのも気が引けるんですが、しかし直木賞エピソードにもつながることですから、いちおうさらいしておきます。

 清水さんがまだ駆け出し作家だったころ、親しかった編集者に井口長次さんがいました。小学新報社の雑誌『少女号』の編集をしていた頃に清水さんと知り合い、原稿を売り買いする間柄になりますが、井口さんが博文館の『少年少女 譚海』に移ってからもその関係は変わらず、井口編集長は清水さんの話づくりのうまさと面白さを買って、時代小説、探偵小説、冒険小説を次々と雑誌に掲載します。

 井口さんはのちに回想しています。

「しまいには時代小説、冒険小説、探偵小説なんでもござれとよくこなして、おもしろいから変名で二つぐらいずつ載せるようになった。或る時なにかの都合で三つ載ることになり、もう一つペンネームが必要になった。たしか現代物だったと思うが、ぼくはそれに山手樹一郎という筆名をつけた。山手はぼくの母方の姓で、山本の山がおなじだから、山手線一郎としゃれようかと思ったが、それではあまりふざけすぎると考え、樹一郎にした。」(昭和30年/1955年5月・和同出版社刊、山手樹一郎・著『山手樹一郎短篇小説全集 第一巻 うぐいす侍』「後記 めくら蛇の記」より)

 ふうむ、もしこのとき井口さんが悪ノリしちゃう性格の人だったら、ペンネームは山手線一郎になっていたかもしれません。

 直木賞は麻布競馬場さんが候補になって、浅田次郎さんにペンネームのことでイジられるぐらいなので、「山手線一郎」が出てきても別に全然よかったんですけど、残念ながら井口さんの生真面目さがそれを阻みます。

 しかし、けっきょく清水さんの数あるペンネームの一つとして付けられた〈山手樹一郎〉は、数奇な運命をたどることになりました。その後、井口さんが『サンデー毎日』大衆文芸に応募するときに、井口さん自身が使用。すると、その名前で小説家として立つようになったおかげで、第15回(昭和17年/1942年・上半期)「余香抄」が直木賞の最終予選一歩手前まで行ったあと、第19回(昭和19年/1944年・上半期)に「檻送記」で、直木賞の最終候補として議論の場に挙げられます。

 一人の若手作家が、かつて使っていたペンネームが別の人に受け継がれ、当の若手作家も候補になる、受け継いだ人まで候補になる、というペンネームマジックが直木賞の歴史に刻まれたわけです。おお、アメージング。

 ……と、こんなことで興奮するのは、直木賞オタクだけですか。そうですよね。あまりにどうでもいいことすぎて、名前なんてどうだっていいだろ、と言う人の気持ちも、わからないではありません。

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