昭和38年/1963年、杉本苑子が直木賞受賞直後に母校で講演会の壇上に立つ。
直木三十五さんの作品は、いまではもうほとんど読まれていません。
いや、直木さんだけじゃありません。直木賞を受賞した人はこれまで200人以上いますが、死んだあとならなおさら、存命であっても、広く読まれている作家がどれだけいるんでしょうか。長く読まれるか、そうでないか。けっきょくのところ文学賞とはあまり関係がなく、いま読まれているかどうかを直木賞のテーマとして語るのは、正直、おカドちがい感が拭えません。
といった書き出しで、この人のことを取り上げるのが合っているのかよくわかりませんけど、今週の主役は杉本苑子さんです。
第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞を受賞して、現役時代は小説だのエッセイだのを書きまくり、その後にいくつかの大きな賞もとって、紫綬褒章から文化功労者、文化勲章と、何だかエラそうに見えるアレコレも次々に贈られました。
平成29年/2017年に没。来年で没後10年になります。とりあえず、いまも改版されたり再版された文庫が新刊で手に入るので、もうしばらくは読みつづけられる作家……なのだと思います。
それで、杉本さんと講演会……ということなんですけど、まずは講演に対して杉本さんはどんな考えを持っていたのか。小説家は小説を書けばいいのであって他のことはなるべく排したい、と考えていたようで、われがわれがと積極的に人前に出ていくタイプではなかった、と伝えられています。
たとえば杉本さんは、自分は小説家だ、だから小説には楽しく挑めるけど、随筆は苦手なんだと表明した「モグラのひとりごと」(初出『流動』昭和49年/1974年7月)というエッセイがあります。こんなふうに言っています。
「小説家は、小説を書くべきであり、小説家にはまた、小説を書かせるべきであるというのが、私の持論である。
随筆、脚本、評論、紀行、対談、講演、座談会、テレビ、ラジオ、あるいはインタビューしたり逆にコメントを取られたりというように、現代のごとくマスコミが発達し多様化し、出版物の数がおびただしくなると、しかし、とても、
「小説家は、小説だけ」
というわけにはいかなくなる。さまざまな分野での仕事をいやおうなく押しつけられ、消化しなければならないのが現状だが、少し厳密に、あるいは良心的に考えると、こうした現象は、よいこととは思えない。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊『片方の耳飾り 随想集』所収「モグラのひとりごと」より)
本来的にいえば、小説家は小説だけ、というのが理想であって、自分もまたその路線で生きていきたい。だけども、現代社会ではそれでは成り立たない。と言っています。
いまでもきっと、事情はそこまで変わっていません。マスコミそのものの発達・多様化は、50年近くに比べたって相当様子が変わっているはずですが、小説だけ書いていたい人はけっこういるでしょうし、そんな小説家を人前に立たせたがる人たちも一定数います。「講演したくない」と「お願いしたい」とのツバぜり合い。これも、昭和から平成・令和につづいてきた文芸周辺の、歴史の一端でしょう。
それはそれとして、どうして杉本さんのハナシをわざわざ取り上げたかといえば、杉本さんが直木賞を受賞した昭和38年/1963年1月、受賞発表のわずか4日後に、おそらくかなり熱心にせがまれて、講演会を開いているからです。
| 日程 | 場所 | 催事名 | 講師 |
|---|---|---|---|
| 昭和38年/1963年 1月26日 |
駒沢学園記念講堂 | 直木賞受賞記念講演会 | 杉本苑子 |
1月26日というのは、駒沢学園にとっては道元禅師の誕生日に合わせて学園の誕生を記念する大事な「誕生記念日」だということで、まさに直木賞を受賞したばかりの、駒沢学園(駒沢高女)出身者、杉本さんにお願いして講演に来たもらった……ということのようです。
当日は、受賞作となった『孤愁の岸』で描かれた濃尾平野の治水工事に関してを語ったそうで、
「これらのこと(引用者注:『孤愁の岸』に描かれた話)を事実とフィクションを織り交ぜて長時間にわたって話しつづけた杉本苑子は話術の方も「超一級」であり、教員も生徒も始終、水を打ったように熱心に傾聴した。」(昭和62年/1987年10月・駒沢学園刊『駒沢学園六十周年史』より)
と、さっと壇上にあがってテキトーに短時間ですませるのではなく、きちんと講演に当たったことが記録として残っています。
いまに置き換えてもそうでしょうが、当時だって、相当ネジ込んだ感のある講演だったに違いありません。だって、受賞が発表されてすぐに依頼したとしても、杉本さんには3日しか準備期間がなかったんですよ。よくぞ受けたものですし、あるいは、よほどの母校愛があったんじゃないか、とも思います。







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