2026年8月 9日 (日)

昭和38年/1963年、杉本苑子が直木賞受賞直後に母校で講演会の壇上に立つ。

 直木三十五さんの作品は、いまではもうほとんど読まれていません。

 いや、直木さんだけじゃありません。直木賞を受賞した人はこれまで200人以上いますが、死んだあとならなおさら、存命であっても、広く読まれている作家がどれだけいるんでしょうか。長く読まれるか、そうでないか。けっきょくのところ文学賞とはあまり関係がなく、いま読まれているかどうかを直木賞のテーマとして語るのは、正直、おカドちがい感が拭えません。

 といった書き出しで、この人のことを取り上げるのが合っているのかよくわかりませんけど、今週の主役は杉本苑子さんです。

 第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞を受賞して、現役時代は小説だのエッセイだのを書きまくり、その後にいくつかの大きな賞もとって、紫綬褒章から文化功労者、文化勲章と、何だかエラそうに見えるアレコレも次々に贈られました。

 平成29年/2017年に没。来年で没後10年になります。とりあえず、いまも改版されたり再版された文庫が新刊で手に入るので、もうしばらくは読みつづけられる作家……なのだと思います。

 それで、杉本さんと講演会……ということなんですけど、まずは講演に対して杉本さんはどんな考えを持っていたのか。小説家は小説を書けばいいのであって他のことはなるべく排したい、と考えていたようで、われがわれがと積極的に人前に出ていくタイプではなかった、と伝えられています。

 たとえば杉本さんは、自分は小説家だ、だから小説には楽しく挑めるけど、随筆は苦手なんだと表明した「モグラのひとりごと」(初出『流動』昭和49年/1974年7月)というエッセイがあります。こんなふうに言っています。

「小説家は、小説を書くべきであり、小説家にはまた、小説を書かせるべきであるというのが、私の持論である。

随筆、脚本、評論、紀行、対談、講演、座談会、テレビ、ラジオ、あるいはインタビューしたり逆にコメントを取られたりというように、現代のごとくマスコミが発達し多様化し、出版物の数がおびただしくなると、しかし、とても、

「小説家は、小説だけ」

 というわけにはいかなくなる。さまざまな分野での仕事をいやおうなく押しつけられ、消化しなければならないのが現状だが、少し厳密に、あるいは良心的に考えると、こうした現象は、よいこととは思えない。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊『片方の耳飾り 随想集』所収「モグラのひとりごと」より)

 本来的にいえば、小説家は小説だけ、というのが理想であって、自分もまたその路線で生きていきたい。だけども、現代社会ではそれでは成り立たない。と言っています。

 いまでもきっと、事情はそこまで変わっていません。マスコミそのものの発達・多様化は、50年近くに比べたって相当様子が変わっているはずですが、小説だけ書いていたい人はけっこういるでしょうし、そんな小説家を人前に立たせたがる人たちも一定数います。「講演したくない」と「お願いしたい」とのツバぜり合い。これも、昭和から平成・令和につづいてきた文芸周辺の、歴史の一端でしょう。

 それはそれとして、どうして杉本さんのハナシをわざわざ取り上げたかといえば、杉本さんが直木賞を受賞した昭和38年/1963年1月、受賞発表のわずか4日後に、おそらくかなり熱心にせがまれて、講演会を開いているからです。

日程 場所 催事名 講師
昭和38年/1963年
1月26日
駒沢学園記念講堂 直木賞受賞記念講演会 杉本苑子

 1月26日というのは、駒沢学園にとっては道元禅師の誕生日に合わせて学園の誕生を記念する大事な「誕生記念日」だということで、まさに直木賞を受賞したばかりの、駒沢学園(駒沢高女)出身者、杉本さんにお願いして講演に来たもらった……ということのようです。

 当日は、受賞作となった『孤愁の岸』で描かれた濃尾平野の治水工事に関してを語ったそうで、

「これらのこと(引用者注:『孤愁の岸』に描かれた話)を事実とフィクションを織り交ぜて長時間にわたって話しつづけた杉本苑子は話術の方も「超一級」であり、教員も生徒も始終、水を打ったように熱心に傾聴した。」(昭和62年/1987年10月・駒沢学園刊『駒沢学園六十周年史』より)

 と、さっと壇上にあがってテキトーに短時間ですませるのではなく、きちんと講演に当たったことが記録として残っています。

 いまに置き換えてもそうでしょうが、当時だって、相当ネジ込んだ感のある講演だったに違いありません。だって、受賞が発表されてすぐに依頼したとしても、杉本さんには3日しか準備期間がなかったんですよ。よくぞ受けたものですし、あるいは、よほどの母校愛があったんじゃないか、とも思います。

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2026年8月 2日 (日)

昭和33年/1958年に「芥川賞作家講演会」が開かれ、2年遅れて「芥川・直木賞記念講演会」が催される。

 芥川龍之介さんが死んだとき、文藝春秋社は追悼講演会を開きました。それなのに直木三十五さんが死んだときには、似たような追悼企画をやった形跡がありません。代わりに、文学賞をつくることで直木さんの追悼としたのでした……といったようなことを、何週か前に書いた覚えがあります。

 要は、直木賞とアクタ何とか賞、創設の頃から二つの賞は並び称される存在で、正直、両賞に違いがあろうがなかろうが、どっちでもいいハナシではあるんですけど、こまかく見ていけば、直木賞には片一方にはない特徴があるし、逆もまたそうだ、みたいなことが講演会についても当てはまるのだということです。もちろん、そりゃそうです。

 直木賞ともう一つの賞は、扱う対象の作品種別が違う、ということ以外に、さまざまな違いがあります。両賞の違いについては、うちのブログでもけっこうコスッてきました。ただ、どうしても心が傷んでくるのを抑えられません。昭和の半ば(ひょっとしたら昭和の終わりごろ)まで、直木賞はいーっつもアクタ何とか賞の影に隠れた……隠された存在だったからです。

 なんだか、うちのブログを始めた十数年前から、こんなことばっかり書いている気がします。

 ワタクシもときどき、リアルな世界で、おれは・わたしは文学について一家言あります! といった他人と、直木賞のことを語り合う機会をもったりします。しかし、いくらこちらが「直木賞はかわいそうだ、歴史的にもう一つの賞に比べてあまりに扱いがひどすぎる期間が長かった!」と主張しても、ほとんどの相手はぽかんとして、何いってんの、このキモいおじさん、という目で見られてばかりです。もしかしたら、ワタクシの感覚がよほどズレているのかもしれません。

 だけど、何度でも、何十度でも、繰り返して書いておきます。どうして直木賞は、これほどわきに追いやられなければいけなかったんだ。どう見てもカワイソすぎるだろ、と。

 文藝春秋社の頃から講演会は、この会社のおはこのイベントでしたが、戦後、社長が佐佐木茂索さんになって文藝春秋新社と組織が変わっても、やはりその伝統が受け継がれます。毎年恒例、全国各地で作家や文化人たちによる講演会をひらく催しは、昭和27年/1952年に復活し、その後、えんえんと行われました。

 その講演会の講師として、直木賞やもう一つの賞の受賞者も駆り出された……というところが、直木賞が講演会と縁ぶかい文学賞だと言える大きな理由なんですけど、文春の社史『文藝春秋七十年史』(平成3年/1991年12月・文藝春秋刊)を見てみると、その名もずばり、文学賞の名前を講演会のほうにも掲げて、定期的に大きな会場をおさえてイベントをやっていたことがわかります。

 こんな感じです。

日程 場所 催事名 講師
昭和33年/1958年
7月26日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 石川達三
  • 井上靖
  • 遠藤周作
  • 石原慎太郎
  • 大江健三郎
昭和34年/1959年
2月14日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 佐藤春夫
  • 堀田善衛
  • 松本清張
  • 五味康祐
  • 芥川比呂志
昭和35年/1960年
2月15日
東京産経ホール 芥川・直木賞記念講演会
  • 丹羽文雄
  • 開高健
  • 邱永漢
  • 戸板康二
  • 司馬遼太郎

 いったいどうして昭和33年/1958年夏に、このような催しを計画することになったのか。調べていけば、きっとこれぞという開催理由が見つかるかもしれませんが、上記社史の本文ではくわしくは触れられていません。

 ただ、昭和33年/1958年のトピックスとして、第38回(昭和32年/1957年・下半期)のアクタ何とか賞における開高健さんと大江健三郎さんの一騎打ち(結果、開高さんの「裸の王様」が受賞)と、翌第39回(昭和33年/1958年・上半期)大江さんの受賞のことに結構な行数が割かれています。

「石原慎太郎以来、というよりも、受賞のその日からマスコミ沙汰となったのは、この一騎打ち以後としたほうが正確であるかもしれない。

(引用者中略)

大江もまた、開高以上に、マスコミに追われる身となったことはいうまでもない。芥川龍之介の名を冠する賞にこれほどふさわしい若き鬼才はいないと、だれもが感じとったからである。それと選考委員会で、もはや新人に非ず、賞の資格なしと強硬に主張する委員もあり、かなり揉めたことが伝えられていた。そのこともあずかって話題を大きくした。」(『文藝春秋七十年史』より)

 開高さんの受賞でマスコミの異常な過熱ぶりが噴出したのが昭和33年/1958年1月。大江さんのすったもんだの受賞が決まったのが同年7月21日。そして「芥川賞作家講演会」に、いま話題の受賞者ということで大江さんが演台に立たされたのが、それから一週間も経たない7月26日です。

 こんな急ピッチな出番を、よくまあ大江さんも受けたものだな、と思いますが、それはともかく、石原さんから開高・大江ご両人の受賞が、ジャーナリズムにとって、あるいは文藝春秋新社にとっても、アクタ何とか賞が相当おいしい飯のタネになるぞと気づいて、はあはあゼエゼエよだれを垂らしてガッつきはじめたことはわかります。

 それに比べて、直木賞はどうだったか。いや、直木賞だって十分マスコミに取り上げられて話題になっていたはずだ、というのは、ワタクシも理解できるんですけど、でもどうして講演会を開くときに、アクタ何とか賞にスポットを当てるのが先で、昭和35年/1960年になってようやく両賞並列の企画にしたのか。そりゃないぜ、文春の企画担当者よ、とまた今週も愚痴を言いたくなりますが、1960年前後、直木賞がどう見られていたのか、こういうところにも一端が表われているものとして、黒歴史のひとつとして挙げておくことにします。

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2026年7月26日 (日)

今東光、直木賞受賞の年(昭和32年/1957年)に少なくとも60回以上、講演・講話の席に立つ。

 直木賞を受賞した人は、なんだかんだと講演会に呼ばれる機会が増えると言われます。

 半年たって新しい受賞者が生まれても、「直木賞を受賞した人」という過去が消えるわけではありませんから、本人が嫌がったり拒絶したりしなければ、ひきつづき声がかかるもの……らしいです。

 いまを生きている我々には、何の違和感もない「直木賞受賞後あるある」でしょう。ただ、これがだいたいいつ頃から始まったハナシなのか。やっぱり気になります。

 もちろん講演会は全国各地、津々浦々で行われ、その一つひとつをすべて調べきることはとうていできません。興味はあるけど調べ方もわからず、ワタクシなど茫然とするほかないんですが、直木賞の歴史上、「講演」をたくさんやった人として特徴的な受賞者がいたことを、まずは取り上げてみたいと思います。

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)に受賞した今東光さんです。

 何といっても今さんといえば、作家でもありながら、人の前に出てべらべらしゃべることに慣れていました。仏教にまつわる逸話や教訓を織り交ぜながら、ある程度の時間、しゃべりで間をもたせる「説法」というやつです。

 その技を磨きに磨いたところで、58歳になった直木賞をとったものですから、さあ大変です。直木賞と講演会の組み合わせがスパークを起こし、いや今さん自身がこのスパークを起こさせ、この賞の歴史に「多くの聴衆に話を聞かせる」というかたちで金字塔をうちたてたのは、ある意味、自然ななりゆきでした。

 矢野隆司さんがまとめた驚愕の年譜『今東光[全年譜]』(令和6年/2024年3月・今東光[全年譜]刊行事務局刊)によると、昭和32年/1957年1月21日、『お吟さま』での直木賞を受賞が決まった日以降、その年だけでも以下のような講演・講話をこなしたようです。

日程 場所 講師・演題
昭和32年/1957年
1月23日
新大阪ホテル ライオンズクラブでの講話
1月26日 大阪・貝塚公民館 貝塚公民館読書友の会 講演「現代の文学」
2月8日 真宗大谷学園大谷高校 大谷高校宗教部主催講演会「他人のためには涙を」
2月9日 近畿財務局 講演
2月10日 京都・中心社 講演
2月16日 八尾図書館 講話
2月18日 今橋クラブ 社長会 講話「世相辻説法」
2月20日 大阪・都島 鐘紡本社 講演
2月23日 東京・国際観光ホテル (直木賞受賞パーティー)
3月1日 大阪・心斎橋そごう 一業クラブ 講演
3月5日 枚方・香里園 税務講習所 講演
3月8日 八尾特定郵便局局長会 講演
3月9日 大阪文学関係の会合 講話
3月16日 京都商工会議所 講演
3月16日 大阪・貝塚公民館 貝塚婦人会 講演
3月24日 大阪・堺 徳泉庵 講話
3月30日 京都・都ホテル 外国人教師の会合 講演
4月4日 那智妙法鉱山文化部 講話
4月9日 大阪青年会議所 講演
4月12日 大阪・中央電気倶楽部 講話
4月18日 久我商店 講話
4月20日 豊岡高校(母校) 達徳会 講演
4月23日 関西経営者協会 講演「仏教は日本文学のバックボーン」
4月28日 久留米・ブリヂストン 講演
4月29日 大川市 講演
4月30日 長崎・精養軒 講演
5月3日 大手前金蘭会 講演
5月12日 浪花短期大学 講演
5月13日 大阪・東住吉郵便局 講話
6月1日 尼崎・住友鋼管 講演
6月5日 堺市教育委員会関係の会合 講演
6月14日 芦屋・田中千代服飾専門学校 講演
6月30日 山本婦人会 講話
7月9日 大阪府庁 講話
7月15日 地元校 講演
7月19日 堺市役所 成人学校 講演
7月22日 島根・玉造温泉 第10回鉄道講習会 講演
7月24日 兵庫県主催行事 講話
7月27日 大手前会館 未生流夏期華道綜合講座 講演「文芸談」
8月9日 高知経営者協会 講演
高知市立公民館 高知市夏期大学 講演「現代文学管見」
8月21日 大阪府立中之島図書館 大阪府民教養講座 講演
8月24日 裏千家今日庵夏期ゼミナール 講演
9月13日 今橋クラブ 総務、庶務部課長懇談会 講演「みみずく説法」
9月14日 今橋クラブ 婦人部懇話会 講演
9月26日 毎日婦人会 講演
9月27日 岡山天満屋葦川会館 天満屋母の会9月例会 講演
10月1日 中之島公会堂 新聞週間 講演
10月2日 堺市堺高校 講話
10月19日 主婦の友着物ショー 講演
10月25日 神戸・全国統計大会 講演
10月29日 能勢・歌垣小学校 講演
10月31日 関西学院高等部 講演
11月5日 大阪銀行協会 講話
国際見本市会館ホテル 大阪関東織物振興会 講演
11月11日 東京・共立講堂 婦人公論講演会
11月20日 八尾・龍華小学校 講演
11月22日 大阪市立西船場小学校国語研究会 講話
11月29日 大阪北浜・清友会館 講演
12月4日 市中銀行従業員組合連合会 講演
12月10日 西宮市立鳴尾小学校PTA 講演
12月14日 毎日新聞大阪本社 毎日婦人文化センター主催「第4回婦人のための講演会」
講演「今年の文学界とベストセラーズについて」
尼崎市文化会館 講演
12月23日 公安局 講演

 大忙しというか、大活躍というか。戦後復興10数年、直木賞なんちゅうシガない文学賞でも、これだけの波及力があったんだな、と思わず心強くなってしまいます。

 いや。直木賞の波及力はもちろんあったんでしょうけど、文壇カムバックとか何とか言われて各種メディアで話題の渦中にいる受賞者が、人の前でしゃべることにまるで消極的ではなかった。むしろ、人を笑わせ、楽しませるぐらいのことはお手のもの、といった技量を備えた人が、直木賞をとったことが、これほどの大活躍の原因だったろうと思います。

 学校に行き、企業に呼ばれ、地方公共団体の催しにも、文化センターの企画にも顔を出し、地元の公民館、図書館でも講話・講演する、というフットワークの軽さ。

 まだ直木賞も、36回ぐらいしかやっていないので、歴史が浅いといえば浅い時期ですが、直木賞をとることと講演会とのあいだに存在する、いまとなっては当然の関係性を、今東光さんがうまく活かした、あるいは今さん自身が築き上げた……と見るのは、そう不自然ではないかと思います。

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2026年7月19日 (日)

胡桃沢耕史、直木賞をとった直後(昭和58年/1983年10月)に講演会小説「青木賞の取り方」を発表する。

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胡桃沢耕史の墓のほうから直木三十五の墓(右)を眺める。

 先日、7月15日(水)の夜に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞に関することで、ブログを一本のせました。

 そこでも書いたんですが、ここ4年ばかり、毎年7月の直木賞の日には、横浜・長昌寺にある直木三十五さんのお墓に行っています。直木賞というものが、そもそも直木さんを追悼する発想で生まれたものだからです。

 直木さんのお墓に参る。……ということは、どういうことか。自動的に、胡桃沢耕史さんのお墓を詣でることになります。

 第89回(昭和58年/1983年・上半期)直木賞受賞者、胡桃沢さんのことは、うちのブログでもクドいくらいに紹介してきました。もちろんそんなもの、胡桃沢さんの長い作家歴のなかでほんの一握りの、ほとんど触れていないに等しいぐらいのエピソードでしかなく、それが悲しくもありますが、今年も直木さんの横にある胡桃沢さんの墓石に手を合わせながら、ああ、そういえば胡桃沢さんも講演会と直木賞、というテーマでは、当然取り上げておかなきゃいけない人だった、と思い出しました。

 なので、今週は昭和50年代なかば、講演会と直木賞の関係性がジュクジュクと熟していたそのころに直木賞を受賞した胡桃沢さんのハナシを書いておくことにします。

 いまさら言うまでもなく(とか言いながら、繰り返し言いますけど)、胡桃沢さんは若いうち――およそ30代の頃から、まわりにいた仲間たちがぞくぞくと直木賞をとって「エラい人」扱いされていくのを体験し、そのうちおれも、とせっせと小説を書きつづけましたが候補にも挙がらない時期が続くうちに、おカネの稼げるエロティックな領域で職業作家となったものの、いつまでも満たされないものを感じていたのか、もう一度、中間小説・大衆小説の王道で直木賞にチャレンジしたい、と昭和50年代に筆名を改めて書きはじめたところ、これはこれで話題になるかも、と文春の人たちに思われたのか候補に挙がるようになって、ああだこうだ、とマスコミに登場しては直木賞に対する執念を語り続けるうちに、第89回のとき『黒パン俘虜記』で受賞を果たします。

 ときに胡桃沢さん58歳。選考委員で「先輩」と見なせるのは、村上元三さん、源氏鶏太さんの2人ぐらいのもので、水上勉さんもギリ先輩といっていいでしょうけど、そのほかの人は同輩や後輩ばかり。とくに受賞後に起きた、城山三郎さんの委員辞任事件とか、池波正太郎さんとの確執とか、胡桃沢さんの「ヤラかし芸」が冴えまくって、直木賞の歴史に、ポッと妖しげな光をともしてくれました。

 その胡桃沢さんに、直木賞をとったあとの講演会に関するこんな文章があります。

「それにしても直木賞の価値はやたらに高くなった。いまでは数ある賞の中で最大の騒がれ方をする、社会的な行事になってしまった。文化勲章だってあんなに大きく報道されない。

(引用者中略)

直木賞に対する世間の評価というのは、想像以上に高い。ぼくは愛媛県で講演をしたことがあるが、会場に行ったら、入り口に大きな看板が立っていた。「直木賞作家講演会」とあって、肝心の胡桃沢耕史の名前がない。要するに直木賞作家ならだれでもいいわけだ。」(平成3年/1991年4月・廣済堂出版刊、胡桃沢耕史・著『翔んでる人生』所収「直木賞の取り方を教えます」より)

 この「直木賞の取り方を教えます」は、初出が『正論』平成2年/1990年10月号です。それからいまは36年たちましたが、こないだも芦辺拓さんがXで、映画『宝島』の原作クレジットの扱いが、作家の名前ではなく「直木賞受賞作」を大きく出したことをポストしてバズっていました。やたらと「直木賞」という三文字を強調させる風潮は、残念ながら当時から変わっていないようです。

 胡桃沢さんはエッセイにしろ発言にしろ、けっこうモるくせがあることで知られています。じっさいの愛媛県での講演で、ほんとうにそんな大看板が出ていたのか、これはもう愛媛に住む直木賞オタクのどなたかが調べてくださることを期待するしかないんですけど、でも、たしかに「直木賞作家講演会」とドドーンと出ているのに講演者の名前がない、というのはいかにもありそうな風景です。

 もうひとつ、胡桃沢さんが世間に放った「講演会と直木賞」に関する遺産(?)があります。「青木賞の取り方」という小説です。

 どちらかというと、こちらのほうが、直木賞の歴史に刻まれるべき「講演会にまつわる事象」のひとつかもしれません。というのも、胡桃沢さんが直木賞を受賞したのが昭和58年/1983年7月で、その受賞決定と選評は同年『オール讀物』10月号に出たんですが、それと書店で並べられるタイミングの『問題小説』10月号で、胡桃沢さんはこの小説を発表しているからです。話題になりそうなら、すぐさまペンをとって挑戦的なタイトルの小説を書き上げてしまう。さすが胡桃沢さんしかできない芸当だ、と言っておきましょう。

 この小説はのちに光文社文庫(平成4年/1992年9月)に収められています。まだ直木賞をとる前の胡桃沢さん自身を彷彿させる〈澄川正太郎〉なるエロジャンルで食ってきた小説家が、大衆文芸勉強会10月例会の講師となって、120人ほどの聴衆を前に、うらみまじり、くやしさまじりに文学賞「青木賞」はどうやったらとれるかを講演する、という内容です。

日程 場所 講師・演題
昭和58年/1983年
10月26日
東京・飯田橋駅近く
山形書店 7階ホール
大衆文芸勉強会 十月例会
澄川正太郎
「青木賞の取り方」

 ちなみに会場の「山形書店」というのは、いわゆる本屋ではなく、

「山形書店は飯田橋駅から歩いて十分のところにある中級の出版社である。『歴史と真実』という雑誌を刊行するときに、大崎の口ききで、この勉強会所属の作家の協力を受けたので、月に一回の例会には、無料で会議室を開放してくれ、女子社員の一人を残業させて、お茶の仕度までしてくれた。」(「青木賞の取り方」より)

 かつて『歴史と旅』を出していた秋田書店を思い起こさせます。

 まあ、この作品に出てくる架空の固有名詞が、じっさいは誰の何をモデルにしているのか、それを追っていってもキリがありません。それより、やはりこの作品が面白いのは、怨念たっぷりの作家が、作家志望者を含む百ン十人の聴き手を相手に、青木賞という文学賞のことを講演する、という形式を選んだところです。

 なぜ対面式で主人公に語らせるかたちをとったのか。胡桃沢さん自身が、このころ一気に市民権を得はじめていた「カルチャーセンター」の講座に、猛烈な反発を抱いていたため、それを逆手にとったパロディを、人々に語る形式でやってみただけかもしれません。作意はもはやわかりません。

 ただ、先の胡桃沢さんのエッセイで書かれていたことではありますけど、直木賞というものが文学やら楽しい読み物やら、そういった枠組みを超えて、いわば「社会的な行事」になった、ということを示すとき、本を読む種類の人たちではない大衆に向けた講演会、というものが、やたらと世間で評価が高いこの賞の姿を、たしかに象徴していると思います。

 直木賞は、じっさいに候補作や受賞作を読まなくたって、人々の関心の対象になる。きっと胡桃沢さんは自身の経験から、その性質を十二分に味わっていたので、受賞第一作(のひとつ)としてこういう講演会小説を書いたんでしょう。

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2026年7月15日 (水)

第175回直木賞(令和8年/2026年上半期)決定の夜に

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直木三十五の墓と第175回候補作5つ

 直木賞に興味をもって早ン十年。だれが候補になってだれが受賞しようが、すべては他人サマの出来事です。それでも半年に一回、これが決まる日になると、興味まんまん、直木賞の専門サイトをつくって以来、関心のレベルが落ちたことがありません。落ちたのはこちらの体力ぐらいです。

 そうなんですよ、年々、直木賞の決定を知った瞬間からドッと疲れるようになりました。しかも、夏の直木賞の日は猛暑のことが多く、疲労感もひとしおです。今日、令和8年/2026年7月15日(水)も、いまはもう夜が深いですが、何だか知らないうちにヘトヘトです。

 まあ、だれに強制されたわけでもなく勝手に興奮して、勝手に疲労しているんですから、正直、ひとに誇れるような生き方じゃありません。

 それでも命が尽きるまで、直木賞に対する興味のなくなる気配が、いまのところありません。このまま死んでいければ、直木賞のサイト運営者としては本望でしょう。

 で、今日も疲れたんで、このまま疲労と快楽に包まれながら寝ちゃいたい。……とは思ったんですが、いくら疲れていようが、これだけは書いておかないと寝入れません。

 第175回(令和8年/2026年上半期)の候補作は5つありました。5人ものの人が、候補になることを承諾してくれたのですから、直木賞大好き人間にとってこれほど幸せなことがあるでしょうか。ガヤガヤと騒がしいこの期間に我が身を置くことを引き受けてくださって、面白い小説を読ませてくれている候補作家の方がたには、腰を折り、這いつくばって、御礼を申し上げたいと思います。

 ス、ス、スカーレットさん! いいや、蝉谷めぐ実さん!! 直木賞をとろうがとるまいが、『見えるか保己一』は個人的に一生の思い出になる小説になりました。これはもう感謝どころの騒ぎじゃなく、いったい何をすればこのご恩に報いれるんでしょうか。正直思いつかないほどの読書体験&今日までの興奮体験でした。蝉谷さんには、これからいくらでも直木賞の機会は訪れると確信していますが、今回のことで、直木賞を嫌いにならないでくれることを心から願います。

 『#台所のあるところ』に収められた一編一編、趣向を変えたハナシを楽しみながらも、いったい最後にどこに連れていかれるのか。最大の楽しみが最終編で訪れるという、小説を読む楽しみに没入しました。原田ひ香さんの手腕には、うならずにはいられません。文学賞とは関係なく、多くの人に読んでもらいたい小説であることは明らかです。そんな小説、これからもどんどん読ませてください。

 心理的などんでん返し。叙述の妙による逆転の展開。凪良ゆうさんの作品は、どこにもミステリーとは書いていないのに、確かにミステリーの魅力がぎっちり詰まっています。今回候補になった『多類婚姻譚』もまたそうです。読んでいるあいだじゅうこれほどドキドキ・ワクワクさせられて、凪良ゆうという作家のスゴみを今作も堪能しました。ニワカのファンすぎて大きな声で言うのは恥かしいので、これからは小さな声で、ワタクシは凪良ゆうファンです、とこっそりつぶやいていきます。

 候補作の発表以来、若林正恭さんのおかげで、今回の直木賞が何百倍か楽しくなった! ということは、多くの人が賛同してくれると思います。しかし、若林さんと直木賞の話題を語る人の何割かが『青天』を読んでいないことを知って、ワタクシは愕然としました。いや、マジかよ。こんな面白い小説を読まずに、ニュースだけ見て面白がっているの? もったいない。きっと若林さんの小説二作目は『青天』を超えてくるものと期待して、次なる機会を待ちたいと思います。またぜひ候補入り、承諾してくださると嬉しいです。

          ○

 感慨・イズ・ザ・無量です。受賞しましたか。ついに受賞してくださいましたか。

 朝倉かすみさんの『けんぐゎい』を読み進めているときに感じた緊張感と高揚感。終盤に近づくにつれて、物語が終わってしまうことの淋しさと、いま自分はスゴいもんを読んでいるんじゃないかという幸福感。

 朝倉さんにはもう少し早い時期に直木賞がやってきてもよかったはずだ、とはたから見ていると思いますが、ただ、この辺りの感覚は、ご本人だけにしかわからない思いがきっとあるでしょう。今後、受賞記念のエッセイなどで、そういうのを読めることを楽しみにしていますが、1年半まえの冬、第172回(令和6年/2024年下半期)のとき、いっしょに直木賞の結果発表を待たせてもらった小樽の方がたが、いまごろ、どれだけ喜ばれているか。それを想像するだけでもう、感慨・イズ・ザ・無量です

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2026年7月12日 (日)

第175回(令和8年/2026年上半期)直木賞を予想するふりして運勢占いしてみる。

 近年、直木賞を楽しむためには「予想」というものが不可欠になりました。

 いや。不可欠というのは、さすがに言いすぎですね。いったい何が受賞するのか、事前に予想などしなくても直木賞が十分に楽しめるイベントなのはたしかです。

 ただ、なぜなんでしょう。直木賞の決定日が近づいてくると、おのずと自分で予想したり、人の予想を聞きたくなってくる。心理学的に「直木賞予想症」とも言われるこの摩訶不思議な心の動きは、きっと少なくない数の現代日本人が抱えていると思われます。ワタクシもそうです。ほんとに不思議で、心が躍る、くだらない心理現象です。

 ところで、直木賞の予想というのは、いったい何の意味があるんでしょうか。

 おそらく天気予報だとか、運勢占いだとか、そういう類いのものだと言って間違いありません。何だか気になるから、つい目をとめる。だけど、結果が外れたからといって、「おい、あんたの予想を信じて高い単行本を買ったのに、なんだよ受賞しなかったじゃないかよ、責任とれよ」と文句をつけたところで、お金を返してくれるような殊勝な予想屋は、たぶんいません。

 その程度といえば、その程度のものです。あと数日たてば結果が判明するものに対して、わざわざ予想することに大した意味がないのは自明のハナシです。

 ということで、うちのブログも無責任な予想屋さんを真似てみることにしました。

 図書館から何冊か占いの本を借りてきましたので、候補者それぞれの令和8年/2026年7月15日の――第175回(令和8年/2026年・上半期)の選考会が開かれる日の運勢を占ってみます。

 運勢もいろいろと種類が細分化されているようです。受賞すれば100万円がゲットできるので、まずは「金運」。

 それから、直木賞を受賞したということになれば先の仕事もどっと増えるはずなので「仕事運」。

 恋愛運とか健康運とかは、さすがにあまり直木賞には関係ないかということで飛ばしまして、最終的にその日、その人の総合的な運勢。それらを並べて、今度の直木賞の受賞作を予想してみます……いや、占ってみます。

金運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『青天』 努力が実を結び、思いがけない収入やうれしい臨時収入のチャンスが訪れるかも。大きなお金の動きがある場合も、冷静な判断がさらなる豊かさを引き寄せます。
2 『けんぐゎい』 安定した金運です。大きな利益よりも、良い買い物ができる・お得な情報を得られる将来に役立つ出費ができる、といった「満足度の高いお金の使い方」ができそうです。
3 『見えるか保己一』 安定した金運です。臨時収入よりも、将来につながる自己投資・必要なものを良い条件で購入できる・家計や資産管理を見直す、といった行動が吉となります。
4 『多類婚姻譚』 大きな波はありませんが、安定しています。衝動買いよりも、将来のための貯蓄や自己投資などが満足につながります。お得な情報や割引に縁があるかも。
5 『#台所のあるところ』 金運は一時的に足踏み気味ですが、大きなトラブルを示す運気ではありません。家計の見直しや財布の整理をすると、停滞していた運気が少しずつ動き始めそうです。

 何はなくともおカネは大事です。直木賞を創案した菊池寛さんも、昭和初期の『文藝春秋』のみなさんも、直木賞をつくる理由の一つが、作家におカネをあげること、だったのですから、「金運」を持っている人は、選考会でも上位にくるはずです(たぶん)。

 さすがに7月15日当日に、バカバカ無駄づかいしておカネを減らそうという候補者はいない、とは思うんですけど、そしておカネに困っているような候補者もいないとは想像しますけど、占い的に「無駄づかい」は厳禁です。

 ……って、そんなこと占うまでもなく、だれにでも当てはまるようなことのような気もします。

仕事運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『#台所のあるところ』 好調な一日です。人をまとめる役割で力を発揮でき、長く温めてきた計画を動かし始めるのに良い日です。派手なアピールよりも、誠実さや細やかな気配りが高く評価されます。
2 『多類婚姻譚』 新しい企画やアイデアが評価されやすい上、長く続けてきた努力に良い反応が返ってくるでしょう。リーダー役よりも、調整役や橋渡し役を意識すると、さらに評価が高まりそうです。
3 『見えるか保己一』 周囲から頼りにされ、また新しい役割やチャンスが巡ってくる可能性が高い一日です。「私にはまだ早いかも」と思うような話でも、前向きに引き受ける価値があります。
4 『けんぐゎい』 集中力が散漫になりやすく、うっかりミスに注意したい日です。慣れた作業ほど確認を怠らないことが大切。焦らず丁寧に進めることで、運気は徐々に安定していきます。
5 『青天』 思い通りに進まない場面が重なりやすい一日です。無理に挽回しようとすると、さらに状況が複雑になる可能性があります。今日は攻めるより守る姿勢を意識し、確認作業や整理整頓など、足元を固めることが明日への飛躍につながるでしょう。

 仕事の運をはかる、というのはなかなか難しい試みです。

 仮に当日の運気が下降してても、たいていの仕事は連続性があるので、翌日にはまた取り返してトントン、なんてことはざらにあります。

 直木賞をとれば、確実に仕事は増えるでしょうが、直木賞をとらなくても仕事が順調に進んで結果問題なし、なんて人もたくさんいるでしょう。そういう人の仕事運はどうランクを付ければいいんでしょうか。占い界の偉い人、教えてください。

総合的な運勢ランキング

順位 候補作 コメント
1 『けんぐゎい』 これまでの努力や人とのつながりが良い形で実を結びやすい一日です。明るさや包容力が周囲に伝わり、人から頼られたり、感謝されたりする場面がありそうです。自分から積極的に動くよりも、自然体でいることが幸運を引き寄せます。
2 『見えるか保己一』 直感と行動力のバランスが取りやすく、普段は迷っていたことに自然と答えが見えてきそうです。新しい挑戦や、人前で自分の考えを伝えることにツキがあります。一方で、周囲への気配りも忘れないことで、さらに運気が安定します。
3 『#台所のあるところ』 周囲との関係が穏やかに進みやすく、これまで誠実に積み重ねてきたことが評価されるタイミングです。急いで結果を求めるよりも、目の前のことを丁寧にこなすことで、思いがけない良い知らせやチャンスが舞い込むでしょう。
4 『青天』 慎重な行動が求められる一日です。大きな決断や新しい挑戦は急がず、情報を集めることを優先すると安心です。今日は「守り」を意識するほど、明日以降の運気につながります。
5 『多類婚姻譚』 この日は思い通りにいかないことが重なりやすく、気持ちが揺れやすい一日になりそうです。しかし、こんな日こそ無理をせず、自分を守る選択をすることが大切。大きな決断は先送りにし、休息や身の回りの整理に時間を使うことで、運気の流れは少しずつ好転していくでしょう。

 ほんとかよ、という感じですが、これが第175回直木賞、選考会の日の運勢です。責任はすべて、神にあります。

          ○

 とか何とか、だらだらと、運勢占いの順位を書いていると、だから何なんだ、とむなしくなりますよね。

 けっきょくのところ、占いにしても予想にしても、むなしさとの闘いから逃れられません。いや、ひょっとしたら、直木賞をとろうがとるまいが、だから何なんだ、という直木賞がまとっている根本的なむなしさも、似たようなものだったりします。

 だいたい候補作それぞれが小説として楽しく読めるんだから、それ以上、運勢もなにもありません。

 今週水曜日、7月15日には選考会が行われます。運勢がどうなのかはともかくです。候補者のみなさんには事故や事件にあわず、平穏無事に一日を過ごせることを願うのみです。

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2026年7月 5日 (日)

講演ぎらいの山本周五郎、無理やり頼まれて中央大学出版部の講演(昭和36年/1961年5月)に出る。

 公式の記録のうえで、直木賞の受賞をただ一人辞退した、ということなっているのが山本周五郎さんです。

 どうして山本さんは直木賞を拒否したのか。これまで、いろいろな理由を、いろいろな立場の人が、証言したり回想したり推測したりと、これはこれで、だれかが受賞したエピソードと同じくらいに楽しい様相を見せてくれているんですが、そのなかのひとつに、菊池寛さんへの反発、というものがあります。

 これもすでにうちのブログでは触れたかもしれません。自分のまわりに文学を志望する若い男女をはべらかし、小遣いをやったり世話したりしながら徒党を組んで、いかにも文壇を牛耳っているふうを隠さない。だれかの下に付きたくない山本さんにとっては、できるなら関わりたくない相手だった、ということもあったかもしれませんし、ただ単に菊池さんとは性格的な相性がよくなかっただけかもしれません。

 つまりは、文学っていうものは、文字の羅列によって世界を構築するだけじゃない。宣伝とか、作者の肉声とか、ゴシップとか、賞による権威づけとか、そういう周辺の充実によって多くの人たちに関心を呼び、文学として成り立つことができるのだ……といったようなことを実践した菊池さんと、いいや、おれはそんな瑣末な世事はいっさい捨てて、原稿用紙に向かって小説を書くことで文学をやっていきたいんだ、と思っていた山本さん。相性が合うはずがありません。

 たとえば、山本さんと親密に付き合いを重ねた編集者、木村久邇典さんにこんな文章があります。

「山本周五郎さんほど、小説一本に打込んだ小説家をわたくしは知らない。

(引用者中略)

たとえば山本さんは、持込まれたいっさいの賞をうけなかった。文学賞の審査員にもならなかったし、お祭りさわぎの文士劇に登場したこともなかった。もし出演交渉にいったりすれば、その担当者はただちに出入りを差しとめられてしまいそうな雰囲気が、山本さんの人柄には、あった。」(昭和45年/1970年4月・中央大学出版部刊『定本山本周五郎・全エッセイ集』所収「改題」より)

 賞も文士劇も、菊池寛さんが力を入れてやっていた事業です。文学賞、文士劇、いずれも山本さんがぴしゃりと拒絶したということであれば、文藝春秋社が得意としていた地方をまわっての文芸講演会など、当然、山本さんが引き受けるはずもありません。

 しかし、その山本さんが聴衆を目のまえに講演会を開いたことがあります。企画したのは、やはり山本周五郎といえばこの人、という木村久邇典さんで、その頃企画していた山本さん初の随筆集に講演録も収録する目的で、どうにか山本さんを説き伏せて、中央大学出版部『中央評論』編集部の主催で公開講座が催されました。

日程 場所 講師・演題
昭和36年/1961年
5月12日
中大会館大会議室 山本周五郎
「歴史と文学」

 作家のなかには、人前でしゃべることが得意な人、あるいは好きな人がいます。これまで紹介してきたとおり、菊池寛さんなどはその一人です。

 対して、人前でしゃべりたくないから自分は小説なんか書いているんだ、何の罰ゲームでこんな場に立たせられなきゃならないんだ、と講演のときに不平不満をたっぷり語る人もいます。山本さんは、そちらのタイプでした。さすがに菊池さんとは対照的です。

 対照的どころか、文芸講演会というものについて、当日、山本さんはこんなことをしゃべったそうです。まあ、講演録というものはあとで本人の修正が入って、じっさいの発言とはまるで違うものになることが多々ある、とはよく聞くところではありますけど、いちおう活字として残されている山本さんのハナシなのはたしかです。

「私は、講演会というものはきらいでして、学術会議とか、または教授、助教授が講壇上から、それぞれの課目について講義をなされる場合には、きわめて意味がはっきりしておりますし、聞くほうでも、もちろん目的意識があって、それをはっきり受け取ることができるのですが、文芸講演というものくらい曖昧なものはないんだと思います。

私も若いころ、文学青年時代に、いくたびか、作家、評論家たちの文芸講演をききましたけれども、そういうことをつくづく考えてみますと、文芸講演というものは、演壇にのぼってなにか話をする人たちは、まあ一概にはいえませんけれども、たいてい頭のよくない人たちが、頭のよくないことを、頭のよくない表現で、なにかしゃべっている。――壇の下にいて、その話を聞いていらっしゃる皆さんの中には、壇上の人よりも博学多識で、賢くて多少意地悪な人たちが多い。それがあまり賢くない壇上の人の、あまり賢くない話を聞きながら、クスクス笑ったり、ないしはゲラゲラ笑っている人がある。これが、だいたい文芸講演会というものの実態ではないかと思っております。(笑声)」(昭和37年/1962年1月・中央大学出版部刊、山本周五郎・著『随筆 小説の効用』所収「歴史と文学――社会情勢を正当づける歴史――」より)

 なるほど、「文学青年時代」というので大正から昭和の初めごろ、山本さんも何度か文芸講演会を聴きに行ったんですね。だれの、どんな講演会だったのか、興味はわくところですけど、おおむね聞きながら、「作家とか言っているけど、何も知らない奴だなあ」とか「しゃべり方が下手くそだなあ」とか、そんな印象を持ったんじゃないか、と思わされるような発言です。

 そう考えると、とくに文芸をテーマにした講演会っていうのは、いったい何の意味があるのか。有名な作家、流行の作家がしゃべるから、という動機でわざわざ聴きに行って得られるものなどあるのか。よくわかりません。

 直木賞のハナシからどんどん離れていくので、今週はこの辺でやめておきたいと思いますけど、山本さんの感覚を借りるなら、文芸講演会は頭のよくない人が頭のよくない表現でしゃべるもの。文学賞は頭のよくない人が頭のよくない読解でひとさまの小説を評価するもの。といったところでしょう。

 けっきょくは講演会も文学賞も似たもの同士。小説はだれかが書いてだれかが読む、というそれだけをやっていればいいものを、そこに何らかの意味を持たせたり、作者を書斎からひっぱり出して公衆の面前にさらしたりする、余計なものといえば余計なものです。

 そして、その余計なものっぷりが、魅力の源泉には違いありません。

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2026年6月28日 (日)

ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。

 直木賞に関連して、という前提で講演会の歴史を見たときに、植村宗一さんによる主潮社の講演、菊池寛さんによる文春講演会と文藝銃後講演会、これらは確実に重要な部類に入ると思います。

 それらと並んで、他にどんなものがあるか。そう考えると、コレなんかも最重要の講演会と言っていいでしょう。ウォレス・スティーグナーさんによる慶應義塾大学での連続講演です。

 うちのブログでも、これまでさんざんコスり倒してきました。相変わらず同じネタの使いまわしで、芸がないのが恥かしいですけど、当然「講演会と直木賞」というテーマでいえば外すことができません。あらためて取り上げておきます。

 ウォレス・スティーグナー Wallace Stegner さんです。はてさて、だれでしょう。

 明治42年/1909年2月18日、アメリカ・アイオワ州生まれ。平成5年/1993年4月13日没。О・ヘンリー賞をたびたび受賞したほか、ピューリッツァー賞(昭和47年/1972年)を受賞した"Angle of Repose"とか、全米図書賞(昭和52年/1977年)を受賞した"The Spectator Bird"などの作品で知られている……のかどうなのか、ワタクシもよくわかりませんが、以前うちのブログでは小説教室のことを調べているときに話題に挙げたことがあります。大学で創作科というものをつくり、自身が作家でありながら、生徒に小説の実作を教えたり論じたりしていた人でもある、ということです。

 そのスティーグナーさんが、ロックフェラー財団から委嘱されて、世界にはたくさんの文学者が活動している、うちがお金を出してあげるから、各地をめぐりながら彼らと交流をはかってきてほしい、とハナシを受けて、昭和25年/1950年8月に家族をともなってアメリカから旅に出ます。

 ドイツ、フランス、イタリア、エジプト、インド、タイ、フィリピンとめぐったのちに、たどりついたのが極東の敗戦国、日本です。昭和26年/1951年1月22日にマニラから羽田空港に到着し、その日の午後には宿泊先の東京・目黒の「雅叙園」に移動して、記者たちを相手に会見を開きました。

 おお、あのキラキラしたカッチョいいアメリカからわざわざ、こんなドス汚い日本のために、ど偉い先生が足を運んでくださった。やった、やった、いらっしゃいませ、と当時の日本人記者たちもうれしかったのかもしれません。ともかくこれが新聞記事になるぐらいには、ニュース価値があることだったようです。

 日本にやってきて、あまり休むひまもなく、スティーグナーさんは慶應義塾の演台に立ちます。そこで何を語ったのか。基本的にはアメリカにおける文学の歴史とか昨今の事情などを話してくれたそうです。

日程 場所 講師・演題
昭和26年/1951年
1月24日から
約1週間(6回)
慶應義塾大学 ウォレス・スティーグナー
  • アメリカ文学の伝統
  • 現代アメリカ文学の主潮
  • 作家志望学生の諸問題
  • 現代米国作家の当面する諸問題
  • アメリカの文藝ジャーナリズム
  • 現在及び将来の文学の国際性

 何ひとつ直木賞なんちゅうクサれ文学賞とは関係がなさそうな講演だったんですが、その聴衆のひとりに小山いと子さんがいたものですから、事件が起こります。

 あるいは、小山さんがいたから、というか、講談社の編集者だった大久保房男さんがその場にいて、何が起きたかの回想を『終戦後文壇見聞記』(平成18年/2006年5月・紅書房刊)に書き留めておいてくれたから、それから70年以上もたって「直木賞」にまつわる講演会の出来事として取り上げることができるわけです。大久保さんのおかげかもしれません。

 同書によると、講演の質疑応答のときに、やおら観客席にいた小山さんが発言を求めて、スティーグナーさんとのあいだにこんなやりとりがあったのだと伝えられています。

(引用者注:小山いと子は以下のように発言した)「わたしが純文学として書いた小説に大衆小説の賞が与えられた」「日本では自分のことを書いた私小説しか純文学とは認めなくて、虚構の小説は大衆小説とされてしまう、それは文学者だけでなく、文藝雑誌の編集者も同じように考えている」

(引用者中略)

ステグナー博士は小山女史に、あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨しいことである、といったようなことを答えた。」(大久保房男・著『終戦後文壇見聞記』より)

 小山さんが「執行猶予」で直木賞を受賞したのは第23回(昭和25年/1950年・上半期)です。受賞が決まったのは昭和25年/1950年9月4日のことで、もともと小山さんが純文学と見られるフィールドで活動してきたこと、なかんずく「執行猶予」という小説が総合雑誌の『中央公論』に掲載された作品だったことから、ほんとにこれが直木賞でいいのか、などなど、受賞直後から文壇界隈ではちょっとした炎上案件になっていました。

 スティーグナーさんの講演会はそれからまだ半年足らずの出来事です。小山さんもまわりからいろいろ言われて、よほど憤然としていたのだろう、と想像できます。

 しかし考えてみれば、直木賞はたしかに大衆小説のための賞とは言っていますけど、どうして純文学のつもりで書いた小説に与えてはいけないのか。一つや二つそういうものに与えただけで、どうしてギャーギャーとまわりで騒ぎ立てる人が増えるのか。小山さんの例だけでなく、戦前の井伏鱒二さんから始まって、事あるごとにそんなギャーギャー騒動が繰り返されてきました。直木賞をめぐる周辺状況にとっては、おそらく永遠のテーマにはちがいありません。

 その永遠性のある疑問を、たくさんの聴衆がいる講演会の場で、受賞者みずからが提示した、というのは小山さん、グッド・ジョブだったと称えるしかないんですけど、もしかしたらこの辺りの感覚はいまでもあんまり変わっていなくて、たとえば純文学でデビューした人が純文学のつもりで書いた小説に、いま直木賞が与えられたら、おそらくギャーギャー言う人はたくさん出てきそうです。

 今度、そういう例が出たら、当の受賞者がどんな発言をするのか、講演会をやってもらってぜひ観に行きたいと思います。

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2026年6月21日 (日)

文藝銃後運動の樺太行(昭和16年/1941年7月)が長谷川幸延に直木賞を受賞させる芽を摘む。

 時代はどんどん進んでいます。

 なのに、戦前の文春がどうとか、菊池寛がどうとか、昔のことをだらだら調べていったい何になるんだ、と思わないでもありません。しかし、どれだけ直木賞が「講演会」と密接な関係だったかを見るには、やはり戦前・戦中をガッツリおさえておかなかいと駄目なんじゃないか。と、強く自分に言い聞かせて、今週も飽きずに、昭和10年代のハナシをつづけます。

 昭和10年代の文藝春秋社といえば何でしょう。何はなくとも、戦争協力です。

 日本がよそさまの国にまでわざわざ乗り出していって、威張りくさった態度で増上慢に振る舞った10年かそこらのあの時期です。菊池寛さん以下、文藝春秋社の人たちも、会社を守るために仕方ないところはあったんだろうとは思いますが、メディアを使って戦意高揚を煽り立てて、イクサだイクサだと拳をぶん回します。

 まあ、これは別に文藝春秋社に限ったことではありません。新潮社も講談社も中央公論社も改造社も、出版社という出版社は軒並み、拳をどれだけ盛大に振りまわすか、競い合っていました。

 そのなかで文春の特徴といえば何なのか。これはもう、会社のトップが顔も名前も知れ渡った有名作家だったこと。これに尽きると断言できます。

 いや。そんな簡単に断言なんかしてはいけません。ボロが出ないうちに、さっさと撤回しておきますが、ともかく文藝春秋といえば菊池寛、菊池寛といえば文藝春秋。それは広く世間が共有していたイメージなのはたしかでしょう。

 で、有名作家が出版社を采配していたから何なのか。というと、人間の動静そのものが注目を浴びています。おかげで、その立ち居振る舞いがそのまま抜群の宣伝効果につながる、ということです。

 これから戦争をやっていこうとするときに、菊池さんは自ら宣伝塔になり得ることを自覚して、かなり積極的に戦意高揚を打ち出して立ち回ります。それを見て、あたら好戦的な気持ちを加熱させたり、自ら戦地に赴いて命を落としたり、そういう人は決してゼロではなかったでしょう。このあたりの責任は、菊池さんや文藝春秋社に対する悪感情を、いまでも根強く育てることになっているのかどうか、よくわかりませんが、ひとまずこのブログで触れたいのは「講演会と直木賞」のことです。難しいハナシはさておいておきます。

 昭和15年/1940年から、文藝春秋社は文藝家協会との共催というかたちで「文藝銃後運動」を始めます。共催とは言っても、どちらもカシラは菊池寛さんです。両者、ほぼいっしょくたみたいな存在です。

 それで、戦地ではなく銃後の位置にいて、文藝の方面からどんな運動をするというのでしょう。菊池さんたちが選んだのが、全国各地を作家やら文学者やらが回りつつ、多くの聴衆を集めてハナシをする……つまり講演会をやる、ということだったのが、講演大好き菊池さんらしいと言いますか、けっきょく過去にやったことを繰り返しただけと言いますか。よほど生身の人間が生身の人間たちに対して語ることの効果を認めていたんだろうと思います。

日程 場所 講師
昭和15年/1940年
5月
東海・近畿(浜松、静岡、岐阜、名古屋、京都、大阪、神戸、和歌山) 久米正雄、岸田国士、横光利一、林芙美子、中野実、吉川英治、菊池寛
6月 甲信越・北陸(甲府、松本、長野、新潟、富山、金沢、福井) 久米正雄、小島政二郎、川口松太郎、小林秀雄、中野実、北村小松、菊池寛、富澤有為男
7月 東北(仙台、盛岡、弘前、秋田、山形、福島) 佐々木邦、中山義秀、今日出海、阿部知二、日比野士朗、久米正雄
7月6日 東京(神田共立講堂) 中村武羅夫、石川達三、吉屋信子、吉川英治、菊池寛
7月8日 東京(早稲田大隈会館) 阿部知二、川端康成、林芙美子、広津和郎、豊島与志雄
7月10日 東京(青山会館) 片岡鉄兵、芹沢光治良、下村海南、横光利一、里見弴
7月12日 東京(本所公会堂) 中野実、舟橋聖一、長谷川時雨、佐々木邦、久米正雄
7月14日 東京(日比谷公会堂) 久米正雄、林房雄、尾崎士郎、豊島与志雄、吉川英治、菊池寛
7月15日 横浜 木々高太郎、長谷川伸、小島政二郎、大佛次郎、久米正雄
7月18日 千葉 上司小剣、岡田三郎、式場隆三郎、尾崎士郎、高田保
7月20日 水戸 村松梢風、甲賀三郎、石川達三、吉川英治、徳川夢声
7月21日 宇都宮
7月23日 高崎 林房雄、辰野九紫、藤森成吉、河上徹太郎、子母沢寛
7月24日 前橋
7月25日 浦和 片岡鉄兵、丹羽文雄、今日出海、白井喬二、辰野九紫
8月 朝鮮・満洲(釜山、大邱、京城、平壌、新京、大連、奉天、ハルビン) 菊池寛、久米正雄、大佛次郎、中野実、小林秀雄、木村毅
8月 北海道(函館、小樽、札幌、旭川、室蘭) 白井喬二、吉川英治、片岡鉄兵、石川達三
9月 中国(姫路、鳥取、松江、岡山、呉、広島) 島木健作、片岡鉄兵、上田広、久米正雄、加藤武雄
10月 四国(高知、徳島、高松、松山) 横光利一、林芙美子、高見順、浜本浩、高田保
11月 九州(小倉、宮崎、鹿児島、熊本、長崎、佐世保、久留米、大分) 小島政二郎、石川達三、日比野士朗、島木健作、小林秀雄、久米正雄
12月 那覇、台湾(台北、台中、台南、高雄、新竹)、広東 菊池寛、中野実、久米正雄、火野葦平、吉川英治
昭和16年/1941年6月 甲信越 中村武羅夫、新居格、井伏鱒二、亀井勝一郎、日比野士朗
7月 樺太 菊池寛、久米正雄、富澤有為男
8月 北海道 久米正雄、和田伝、中島健蔵、石坂洋次郎、大佛次郎(青森のみ)
8月 関東 久米正雄、舟橋聖一、日比野士朗、上田広
9月 満洲 小島政二郎、片岡鉄兵、久米正雄
9月 近畿・中国 河上徹太郎、石川達三、中山義秀、阿部知二
10月 北九州 竹田敏彦、中野実、井伏鱒二、舟橋聖一、今日出海
12月8日 大宮 菊池寛、横光利一、水原秋桜子
12月10日 八王子 菊池寛、瀧井孝作、林芙美子

 いったい、この2年間の運動が実を結んだのかどうなのか。

 社会に起きるたいていの出来事は、原因と結果が一直線で結びつくことは稀なので、作家たちが意気揚々と全国をめぐったこの試みが、多くの人に「よし、それなら日本全国一致団結して戦いに臨んでやろう!」という気を起こさせたのかは、もはやよくわかりません。

 わかることといえば、こんなことをやらなければ、おそらく「直木賞史上最もツイていない男」長谷川幸延さんが直木賞を受賞していた過去があり得た、ということです。

 昔むかし、うちのブログでも取り上げました。戦前・戦後と直木賞の候補に7回挙げられ、けっきょく受賞しなかった長谷川さんが、最も受賞に近づいた瞬間。第14回(昭和16年/1941年・下半期)です。このときの候補作は「模型飛行機」と「幼年画報」で、選考会は昭和17年/1942年2月に行われました。

 小島政二郎さんが猛烈に推しに推したものの、大勢の賛同を得られず、とくに菊池寛さんが、うーん、それほどの作品じゃないな、と乗り気を見せずに落選させてしまいます。ところが、あとになって菊池さんが、長谷川さんの旧作「冠婚葬祭」や「末広」を読んで、うおー、これはなかなかのもんじゃないかと意見を改めて、

「審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号「話の屑籠」より)

 と言うに及んだものですから、長谷川幸延、どんだけツイていないんだよ、と後世に生まれたワタクシをガックリさせた一件です。

 たしかに前回、長谷川さんが候補になった第13回(昭和16年/1941年・上半期)は選考会が昭和16年/1941年7月に開かれています。委員のうち、菊池さん、久米正雄さん、大佛次郎さんの3人が「文藝銃後運動」のために欠席。菊池、久米の両名は樺太に行っていました。

 せっせと講演会をひらいたことが、一人の作家の(いや、もっといるかも)直木賞受賞という未来を阻んでしまった、と言うこともできます。ツイてる・ツイてない、で済ませていいのか、という感じもしますが、長谷川さんもそして直木賞も、講演会のほうに事情を優先されてしまって、まったく可哀想なことです。

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2026年6月14日 (日)

第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。

 ついこないだ、令和8年/2026年6月11日に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞の候補作が発表されました。

 半年に1回、定期的にやってくるお決まりのニュースなので、わざわざブログで言及するほどのことでもありません。……とは思ったんですけど、今回は最近ではあまり珍しいとは言えなくなった「芸能界で活躍中の方が候補入り」という意味で、朝のワイドショーからスポーツ新聞からネットのSNS界隈まで、直木賞だ直木賞だと騒がしくなっています。こういう光景を見るのが、人生最上の幸せと感じるタチなので、今週はうちのブログも、芸能人と直木賞のことに目を向けたいなと思います。

 とは言いましても、今年のブログのテーマは「講演会と直木賞」です。芸能人に触れるにしても、やはりその路線に沿って書いてみよう、と先週の自分のブログを見返したところ、ちょうど直木賞が始まる直前に、文藝春秋社が盛んに文藝講演会をひらくようになった、というハナシに注目したところでした。

 その流れで言うと、重要になってくるのが第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞の授賞式です。

 いまとなっては、直木賞の授賞式というと、招待者・関係者しか入れない閉鎖的な行事になっています。しかし第1回当時は事情が違って、このときは『文藝春秋』の読者たちに向けた「東京愛読者大会」のプログラムの一つとして、多くの一般観衆の面前で直木賞の贈呈式が行われました。

 実際この頃の文春は、とにかく外に出ていって、じかの読者に対して事業を展開し、少しでも雑誌の宣伝になって実売部数を増やしたい、というモードに突入していた時期に当たります。昭和9年/1934年に東北、九州、近畿中国とまわったのにつづいて、昭和10年/1935年になると、他の各地でも文藝講演会をぞくぞくと開催しています。こんな感じです。

日程 場所 講師
昭和10年/1935年
3月6日
静岡(葵文庫) 小島政二郎、吉川英治、大佛次郎、横光利一、佐佐木茂索、菊池寛
3月7日 名古屋(公会堂)
3月8日 岐阜(公会堂)
9月13日 松本(公会堂) 大佛次郎、久米正雄、吉川英治、菊池寛、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月14日 長野(図書館講堂)
9月15日 新潟(白山小学校)
9月16日 富山(県会議事堂)
9月17日 金沢(公会堂)
9月26日 青森(公会堂) 片岡鉄兵、岸田国士、阿部眞之助、小林秀雄、三上於莵吉、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月27日 札幌(公会堂)
9月28日 小樽(議事堂)
9月29日 函館(松風小学校)
9月30日 秋田(記念会館)
10月1日 山形(第一小学校)
11月24日 和歌山(公会堂) 佐佐木茂索、大佛次郎、小林秀雄、小島政二郎、菊池寛

 この途中の10月28日に日比谷公会堂で東京愛読者大会を、11月25日に中ノ島公会堂で大阪愛読者大会を、12月26日に日比谷公会堂で第二次東京愛読者大会をそれぞれ開き、8月に決まった直木賞についても10月28日に贈呈式を挙行した、というわけです。

 では愛読者大会というのは何をしたのか。内容を見ると、やはりお得意の講演会があって、講師は穂積重遠さん、兼常清佐さんのほか、文芸畑からは久米正雄さんと小島政二郎さんが出ています。それから直木賞ともう一つの賞の贈呈式、および「余興」と称する出し物も行われ、二三吉さん、松原操さん、大辻司郎さん、古川緑波さん、徳川夢声さんが出演しました。

 この贈呈式で、第1回を受賞した川口松太郎さんはどんなことをしゃべったのか。ご本人による回想が残っています。

「授賞式は日比谷公会堂で、芥川賞の石川(引用者注:達三)と並んで受け、そのあとでこんなあいさつをした。

「直木は私に、小説家にはなれそうもないから思切れといった。その私が第一回の直木賞を受けてしまった。彼の先見の明を裏切ったような気がするので、多磨墓地の墓へ行ってあやまって来ます」

来会者は笑って拍手してくれた。いっしょに目を細めて、わが子の成功を見るように喜んでくれた菊池寛の顔は今でも目の前にある。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より)

 川口さん、このとき35歳。ちゃんと観衆から笑いが起こるような挨拶をするところが、さすが若くして立派なエンターテイナーです。

 それはそれでいいとして、ここで注目したいのは余興者の一人に徳川夢声さんがいることです。

 徳川さんといえば、先週のブログに書いた昭和9年/1934年文春講演旅行のなかにも名前が出ていました。活動弁士から出発して、俳優として舞台に上がりながら、ひとりで漫談もやってのけてしまうという、当時でもけっこう知る人の多かった芸能人です。そして『新青年』で多くのエッセイ、回顧録を書いているうちに、ユーモア小説も手がけるようになって、その文才は一般読者のみならず作家や編集者をもうならせていました。

 菊池寛さんや文藝春秋の人たちにも、相当かわいがられます。徳川さんが大辻司郎さんや古川緑波さんたちと喜劇団(おそらく「笑の王国」)をつくるときには、おれもできるだけ協力するよ、と菊池さんから温かい声援を受けたんだとか何だとか。ともかく、舞台の上に立って観衆を楽しませることにかけては筋金入り、それでしかも面白い小説が書ける、ということになれば、菊池さんが主導した文藝講演会の講師にもうってつけの存在だったわけです。

 昭和10年/1935年10月の、第1回直木賞贈呈式のときは、余興の出演者だったので講演会をしたわけではありません。ただ、講演もできる、余興で芝居や漫談もお手のもの、というのは、ふつうの作家にはできない芸当です。才人ムセイ、すでに直木賞ができたときから、文春のために大活躍していました。

 そばで見ていた、講師のひとり小島政二郎さんは、こんなふうに言っています。

「「文芸春秋」は毎年のやうに方々の劇場を借りて読者大会を催した。楽屋へ、いろいろの人が出入りをする。さう云ふ人達が、勢ひ菊池寛のまはりに集まつた。

ところが、見ると、もう一人自分のまはりに大勢の人を集めてゐる人物があつた。

それが徳川夢声だつた。云つて見れば、さながら菊池寛に対して一敵国を形づくつてゐる感じだつた。」(昭和27年/1952年8月・オリオン社出版部刊『夢諦軒句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)

 芸能の世界のスゴい人。その徳川さんの小説界に対する貢献を、どうにか形として示せないものかと、戦前の選考会ではたびたび議論に挙がったそうですし、戦後、第21回(昭和24年/1949年・上半期)のときには親友・獅子文六さんが猛烈に推して、芸能人・徳川夢声さんに直木賞が贈られる可能性は、そこまで低くなったんですけど、しかし結局、あげそこねてしまいました。

 直木賞の歴史に残る汚点の一つ、とも言われています(……いや、ワタクシが勝手に言っているだけです)。

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