2025年3月16日 (日)

岡田時彦…有名俳優の作品だと言って『新青年』にズブの素人の小説が載る。

 作家のなかには輝かしいデビューを飾った人が何人もいます。

 何人どころか、何十人、何百人かもしれません。この際、人数はどうでもいいんですけど、何をもって「輝かしい」とするか、見る人によって感覚は違います。結局はどのようにデビューしたところで「これは輝かしかった!」と言っちゃえば、言ったもん勝ちでしょう。

 無駄に長い歴史をもつ直木賞には、候補に挙げられた作家は数々います。もちろん、輝かしいと一般に思われるデビューを果たした人もたくさんいるはずですが、戦時中、第16回(昭和17年/1942年・下半期)のときに「オルドスの鷹」が、第17回(昭和18年/1943年・上半期)に「西北撮影隊」がそれぞれ、選考会で議論されたこの作家も、デビューにまつわる逸話の華々しさは相当なもんだと思います。

 年はおおよそ28歳の頃。とくに作家を志していたということもなく(たぶん)、学校の先生として教壇に立っていたそのときに、仲のよかった弟が東京でとある読み物雑誌の編集部にいた関係で、なぜか兄のところに原稿を書くハナシが舞い込んできます。今度うちの雑誌で、映画俳優が小説を書く、という企画をやるんだけど、兄さん、そのなかの一編を書いてみないかと。

 それが昭和4年/1929年のことです。担当することになった俳優は、当時、文章も書ける俳優として多少は知られていた(のかどうか)岡田時彦さんでした。

 まあ、岡田さん本人が書きゃあよかったとも思うんですけど、代作やゴーストは当たり前の業界ですし、当たり前の時代でもあります。よし、じゃあ〈岡田時彦〉になりきって、ちょっと不思議な話を書いてみようじゃないかと、その辺の執筆にいたった動機はもはやわからないんですが、ともかく一つの小説ができあがります。「偽眼のマドンナ」です。

 有名な俳優、タレント、芸能人が、いちおうその作者や書き手というかたちになっているけど、じっさいに文章を書いたのは別の人、という例は古今東西くさるほどあるかと思います。先週取り上げた〈田村章〉さんなども、いっときはゴーストライターとして相当稼いだとも言いますから、芸能人の名前を使ってものを売る、というのはけっこうなおカネになる(場合もある)ようです。不思議な世界です。

 ちなみに、いまもタレント本といえば基本はゴーストが書いている、というのが一般的に広まっている常識かと思われます。本人が書こうか、別人の作だろうが、そんな些細なことは気にしない、という感覚は健康的で別段批判するような状況でもないでしょうが、『新青年』が昭和4年/1929年6月号で映画俳優執筆小説の企画をやったときにも、やっぱり多くは本人が書いているかわからない、と思われてみたみたいです。

 そのなかでこんな文章があります。

「時彦(引用者注:岡田時彦)は文章をよくする。

俳優で彼ほどの名文家はない。「新青年」や「文藝倶楽部」を読まれる方は御存じの筈。俳優の文章は、代筆が多い世の中に、彼は自分で書いている。

(昭和4年/1929年8月・平凡社刊『映画スター全集2 夏川静江・林長二郎・八雲恵美子・岡田時彦』より)

 ほとんどの俳優の場合、代作の筆のなかで〈岡田時彦〉さんは珍しく自分で書いている、と言っています。

 その前年、〈岡田〉さんが前衛書房から『春秋満保魯志草紙』(昭和3年/1928年12月刊)という随筆集を刊行していること、さらにはその序文を、〈岡田時彦〉なる芸名の名付け親でもあった谷崎潤一郎さんが書いてその文章を推奨していることなども、岡田時彦といえば文章も書く、というイメージに一役買っていたんじゃないかと思います。

 そう考えると、昭和4年/1929年に『新青年』がどうして本人の筆による作品でなく、編集部員の係累であるまったくのズブの素人の作品を代作として載せたのか。「偽眼のマドンナ」を読んで、ううむ、さすが〈岡田時彦〉だ、面白い小説を書くなあ、と感嘆した読者も少なからずいただろうと想像すると、なかなか『新青年』も罪つくりな雑誌です。

 いや。罪をつくったのか、いいことをしたのか。こういうのも、人や場面によって考え方はいろいろです。

 有名俳優の新作だと言い張って読者をだましてまで掲載した小説のその作者は、むむ、こいつ書けるな、と編集部に思われたものか、兄さん、面白いもの書くね、と弟・渡辺温さんに褒められたものか、それとももともと本人が他にもさまざまな筋を思いついていて、小説を書きつづけたいと思っていたものか、〈岡田時彦〉名で発表したその2か月後の『新青年』昭和4年/1929年8月号では、本名名義の〈渡辺圭介〉で「佝僂記」を発表。生粋の『新青年』っ子、といった感じでそれから同誌に欠かせない書き手に育っていきました。

 そうした先に、直木賞のほうでは彼の作品を候補に残すことができたんですからね。直木賞にとっては、『新青年』、ナイス・ジョブだったぜ、と親指を立てて褒め称えなきゃいけないハナシでしょう。だいたいいつも、功と罪は表裏一体です。

| | コメント (0)

2025年3月 9日 (日)

田村章…直木賞をとる前から業界で名の知られていた売れっ子フリーライター。

 直木賞界きっての「別の名前」の使い手といえば、先週取り上げた阿佐田哲也さんは外せませんが、いやいや、〈田村章〉さんも相当なもんだと思います。

 直木賞の候補になる前から出版業界のなかで堅実な仕事を残していた。ということもさることながら、とにかく自身が〈田村章〉としてのライター業に誇りをもち、並行して本名で小説を書いたら文芸方面で評価されて直木賞もとっちゃったんですけど、それでもなお、自分はライターでもあるんだ、たくさん書いて稼ぎもあるんだ、とそちらの側面をずっと大事にしてきました。「直木賞をとったからエラい作家、小説以外の仕事はみんな雑業」といったような認識とは、大きくかけ離れたところで活躍している人です。

 〈田村章〉という名前だけじゃなく、他にも〈岡田幸四郎〉とか〈恩田礼〉とかの筆名もあります。無署名で書いたものを含めると、もはやこの人の仕事の全貌は、だれにも追えないんじゃないかとも思います。

 ただ、何といっても〈田村〉さんが直木賞を受賞したときに、『週刊SPA!』の誌上でライター田村章が、時の直木賞受賞者(=要は本人)にインタビューする、という微妙に凝った記事を発表したぐらいです。やはりこの人の場合、別の名前での活動も直木賞と無縁とは言えないでしょう。

 〈田村〉さんが早稲田大学を卒業したのは昭和60年/1985年です。すぐさま角川書店に入社して『野性時代』編集部に加わりますが、ほんの1年足らずで退職を決意し、その後は少しの期間、塾の講師を経て、名もなきフリーライターに。雑誌の記者として、アンカーとして、あるいはドラマのノベライズライターとして、ゴーストライターとして、数々の仕事をぶんぶんとこなします。

 無署名のものも多かったそうですが、署名付きで仕事をするにしても、いろんな名前を考えるのが大好きで、本名とは別の人格になりきって文章を書きつづけました。そのうち、最初に思いついたのが〈田村章〉や〈岡田幸四郎〉だったらしいんですが、ご本人によると、この二つは実在の人物の名前です。

 二人とも、自分が生まれるより前にすでに死んでいた自分の祖父たち。〈田村〉は母方の、〈岡田〉は父方の、おじいさんの名前なのだ、ということです。

 しかも、どうやら実際にいた〈田村章〉さんや〈岡田幸四郎〉さんも、本をよく読み、自分でものを書くのが好きな人たちだった、と伝えられています。両者、とくべつ何か文筆家として名を残したわけではありませんけど、それがどういう流れか、めぐりめぐって孫のひとりが名乗りはじめたことで、こうやって知られることになりました。……ううむ、しみじみ、エモいです。

 他のペンネームはほとんど使い捨てのように、その場その場で付けたものが多いのに、会ったことはないけど自分のからだと確実につながっているこの二つの筆名は、捨てるに捨てらずに使いつづけたと。ここら辺がもう、家族というものをたびたび小説のなかで描いているこの作家らしいところです。

 といったことは直木賞とはほとんど関係はありません。無理やり直木賞に引きつけて見てみると、やはり彼が受賞したときの発表号『オール讀物』平成13年/2001年3月号のハナシを挙げなければいけません。

 巻頭のグラビアでは「もうひとつの顔は、売れっ子フリーライター。」といった一文で紹介され、編集部によるインタビューでは「いくつものペンネームをもつライターとして、業界ではつとに有名ですが、」といわれて質問を受ける。ライター、ライター、ライター。直木賞の受賞者でここまでフリーライターであることを前面に打ち出し、打ち出されたのは、かなり珍しいことでした。

 この号には自身が書いた受賞記念エッセイも載っていますが、当然、フリーライターについて筆を費やしています。

「フリーライターとして、商売のための文章をうんざりするほど書いてきた。小説を発表するようになってからも「ぼくはフリーライターです」と広言しつづけた。

ひねくれた衒いは、ある。駄々っ子じみた気負いも、ないとは言わない。

だが、その言葉には、「文学」と「作家」に対する自分なりの畏怖をいつも込めているつもりだ。」

(『オール讀物』平成13年/2001年3月号「「早稲田文学のこと」より)

 フリーライターと文学の作家に横たわる、何か得体の知れない溝。ライターを名乗りつづける身として、そのことには常に敏感に意識してきた、ということなんだと思います。

 〈田村〉さんが〈田村章〉名義で参加した『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』(平成7年/1995年2月・太田出版、中森明夫・山崎浩一との共著)という本があります。まだ〈田村〉さんが本名で小説を書きはじめた頃の言葉ですが、こういう経験の積み重ねのなかで山周賞や直木賞の受賞者となっていく、という基礎の基礎がここにあるかと思うので、一部引用しておきます。

「僕は“田村章”とは別のペンネームで小説も書いているんですが、それを知っている某誌――そこではまた違うペンネームを使っています――の編集者から「ウチの仕事はやっぱり作家としての経歴に傷がつきますか?」と冗談交じりではありますが言われました。こっちにはまったくそういうつもりはないんですよ。でも、ヒエラルキーを勝手に作り上げてる人っていうのは確かにいるんですよね。」

(中森明夫との対談「第1章 心構え編 「ライターであり続けることは、運動だ」」より)

 文学も文学賞も、けっきょくのところ、人間たちが勝手に決めつけて成り立っている虚像だ、とは〈田村〉さんは言っていませんが、〈田村〉さんがフリーライターになってからこれまで約40年、ライターと作家のあいだには、書き手がどう思って書くかという意識以上に外から注がれる視線がずっとあったのだろうとは想像できます。直木賞がそういう視線をさらに強固にしたことは想像に難くありませんけど、そのなかで両方の軸を崩さずに書き続ける。〈田村〉さんの闘いの日々を思うだけで、心が震えます。

| | コメント (0)

2025年3月 2日 (日)

阿佐田哲也…私は〈阿佐田哲也〉に票を入れたんだ、と語る直木賞選考委員がひとり。

 直木賞の歴史のなかで最も有名な「別の名前」は何か。

 ……というような設問は、どう考えても何の意味もありません。だけど、うちのブログはたいがいが無意味の羅列です。そう考えれば、もってこいのテーマと言えないことはありません。

 最も有名なのが何なのか。有名無名を定数的にとらえるのは難しく、人によって感覚はそれぞれでしょう。ただ、そのなかでも〈阿佐田哲也〉さんの名前は相当上位にランクインするかと思います。もしかしたら第1位かもしれません。

 そんな有名な「別の名前」を、いまさら取り上げてどうするんだ。という感じですけど、やっぱり1年間、直木賞に現われた(ような現われてないような)別の名前のハナシを書いているなかで、絶対に素通りはできないだろうと思うので、今週さらっと触れておくことにしました。

 一度、本名で純文学の新人賞を受賞したものの、作品が続かずアングラへ。〈井上志摩夫〉の名前で読み物雑誌にアチャラカな小説を書き飛ばし、しかし雑誌の編集者だった頃から彼のことを面白がって付き合いつづけた文壇作家は数知れず。そのうち、麻雀小説というまったくマジメな文壇からは相手にされないようなジャンルでパッと花開いたという、その展開からしてグッと来ます。

 それと何と言っても〈阿佐田哲也〉という人を食ったようなペンネームそのものが、グッと来る密度を二倍にも三倍にも増やしています。かしこまった(ふうに外からは見える)直木賞の世界なんか、まず相容れないような領域です。

 このペンネームについては、〈阿佐田〉さんの麻雀小説をはじめに書かせた敏腕編集者、双葉社の柳橋史さんの回想が残っています。

「「阿佐田哲也」と色川さんが書いたのは、本当に徹夜明けの朝帰りの日だった。荻窪の藤原審爾さん宅から戻ってきたばかりで、阿佐ヶ谷からの連想もあったのかもしれない。昭和四十三年九月初旬、矢来町の古い机の上である。はじめて麻雀小説を書くにあたって、題名こそ「実録雀豪列伝」と決まり、週刊大衆十月三日号の表紙に印刷手配をしていたが、筆名だけがどうしても決まらず、この日が締切りぎりぎりの朝であった。」(平成4年/1992年1月・福武書店刊『色川武大 阿佐田哲也全集・7』付録月報3 柳橋史「麻雀小説誕生の頃」より)

 新しい筆名にはけっこう難航したものか、いや、そもそも筆が遅い作家だった、といろんなところで言われている人でもあるので、最後の最後に決めるところまでが、いつも遅いだけだったかもしれません。しかし、思いつきのように付けた、本人が回想するところによるとこの一回こっきりで終わると思っていた〈阿佐田哲也〉名義の小説は、またたくうちに大評判となって、本名よりそちらのほうが有名になってしまう、という状況を生み出します。

 柳橋さんの上記の回想文によれば、当時、おれは本名名義のものは認めるが阿佐田のものは認めない、と傲然と公言していた文学関係者がいたそうです。文学っつうのは、ときどきこういう頭の固い、視野の狭い人が跋扈していて、回想を読んでいるだけでもうんざりしますが、世の中いろんな人がいるんだな、と思って、なるべく近づくのを控えたい気分です。

 しかし、本来そのまま行っていれば、麻雀小説を広く何十万人(?)の読者にまで普及させた〈阿佐田〉さんは、そういった分野で生きていく道もあったところ、本名名義での小説も久しぶりに手がけることになって、『怪しい来客簿』(昭和52年/1977年4月・話の特集刊)として刊行。すると、これがあっとびっくり第77回(昭和52年/1977年・上半期)直木賞の候補に選ばれます。

 こんなもの小説じゃなくて随筆じゃないか、とか何とか、頭の固い、視野の狭い選考委員のなにがしは授賞に反対したそうです。まったく世の中いろんな人がいるもんですね。直木賞はとれませんでしたけど、そのあとすぐに第5回泉鏡花文学賞を受賞して、華麗に文芸方面の表舞台にカムバックしました。

 いや、麻雀小説は表舞台じゃないのかよ、と憤慨する人がいたとかいなかったとか。ともかく〈阿佐田〉さんが麻雀を題材に読み物小説で大人気となったことは、それはそれとして、文学賞の世界はまた別のものだ、という印象を抱く人がいたのはたしかです。

 といったところで、あまり日をおかずに第79回(昭和53年/1978年・上半期)には直木賞に選ばれることになるんですけど、ここで五木寛之さんによる伝説的な選評が書かれます。ちなみに五木さんはこの回が選考委員になって初めての選考会でした。並みいる高齢委員たちに囲まれて、かなり肩に力を入れて選考に臨んだことは想像に難くありません。

「この賞の選考委員の末席に連なることをお引き受けした時、私は二つの考えを述べた。一つは、直木賞作品は、芥川賞の作品とくっきりと異った質のものでありたいという考え方である。もう一つは、新人の処女作品であれベテランの力作であれ、いずれにせよその作家に真のプロフェッショナルの資質があるかどうかという点を見たいという考えである。

このプロの資質というのは、秘められた才能と傾向のことで、本人の意識とは関係がない。したがって、芥川賞と直木賞の中間をふらふらしているような小説を私はとらぬつもりでいる。

(引用者中略)

結果は、色川、津本(引用者注:津本陽)両氏の受賞となったが、私は阿佐田哲也、仮の名を色川武大と考えて一票を投じた。」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号より)

 候補者の、別の作家名義をこういったかたちで堂々と、しかもどちらかといえば別名のほうに比重をおいて票を入れた、というケースは、まずなかなかお目にかかりません。

 二つの名前(〈井上志摩夫〉を入れると三つの名前)でそれぞれけっこうな数の作品を残した人でも、作品系統をどうのこうの言うのではなく、プロの資質という点で票を入れる五木さんのような投票行動は、作品本位より作家本位と言われる直木賞の、代表的な選考姿勢だったかと思います。

 〈阿佐田〉さんも、麻雀小説を書いている頃は、直木賞なんてまったく念頭になかったことでしょう。しかし、それもまた評価対象に組み入れてしまうのが直木賞の暴食性。まあ、何でもアリっちゃアリの文学賞です。

| | コメント (0)

2025年2月23日 (日)

両国踏四股…僕はペンネームを一作ごとに変えていっても全然構わない、と南国忌で語る。

 毎年2月下旬のこの時期は、直木賞ファンにとってのお楽しみがあります。『オール讀物』の直木賞発表号が発売されることです。

 ……と、それももちろんそうなんですけど、もう一つリアルに体感できる楽しみもあります。直木賞の贈呈式があることです。

 いやいや、そんなのは一般読者にとってはどうでもいい、よその世界の出来事にすぎません。一般読者であろうがなかろうが何の資格もいらずに参加できる直木賞関連のイベントといえば、やっぱりこれでしょう。

 「南国忌」。横浜市富岡にある長昌寺で毎年ひらかれている行事です。

 今年もまた休むことなく2月23日(日)、つまりは今日の昼さがり、南国忌のイベントが行われました。参加者はだいたい100名超。コロナ禍前の水準に戻ったようだ、と実行委員の人も言っていて、ずいぶんの盛況でした。

 集まった人たちの、いったいどれだけの人が直木賞のことが好きなのか。正直よくわかりませんけど、ただ毎年、直木賞(あるいは直木三十五さん)に何かしらでつながりのある人が講演をするので、それを楽しみにしている人は少なくないかと思われます。

 今年の講演の登壇者は、第130回(平成15年/2003年・下半期)の直木賞受賞者にして、第169回(令和5年/2023年・上半期)から同賞の選考委員もしている人気の作家でした。

 で、この人も一般に知られているペンネームとは別に、他の名前を使って(?)小説を発表したことがあります。せっかくなので今週はそのハナシを書いておきたいと思います。

 平成6年/1994年、講談社ノベルスから衝撃のデビュー。出す作品、出す作品、主にミステリー好きの界隈から派手ハデしい絶賛を受け、またたく間に人気作家におどり出るうち、日本推理作家協会賞を受賞したあと、山周賞とか吉川新人賞とか、そこら辺の直木賞っぽい文学賞でも候補にあがっていた頃のことです。

 ちょっと妖しく、しかし論理を大事にした独特の世界観を築き上げて、ミステリー、ホラー、怪談と、そちらのほうに主戦場を決めたのかと思われていた、まだまだデビュー2、3年めにして、集英社の小説誌『小説すばる』に初登場を果たしたこの作家は、何とびっくり、そうとうぶっとんだナンセンスギャグ小説を発表して、その作風の手広さを文壇、読書界に知らしめます。

 『小説すばる』平成8年/1996年1月号、目次ではいつもの見慣れたペンネームだったものの、本文をひらくと、そこにはペンネームの上に「新」の文字が付けられ、タイトルは当時のベストセラー小説をもじった「四十七人の力士」となっていました。

 目次の惹句は「不条理な笑い。本誌初登場!」、本文に編集部が書いたコピーはこんな感じです。

「元禄十四年十二月。四十七人の力士が行進する。目指すは、吉良邸!

本誌初登場!京極夏彦が挑む、不条理な笑いの世界!」

 その後、同誌の平成8年/1996年6月号では〈南極夏彦〉名義で「パラサイト・デブ」を発表。「どすこい」小説シリーズは翌年以降もつづき、平成9年/1997年1月号「すべてがデブになる(前編)」=N極夏彦、同年2月号「すべてがデブになる(中編)」=N極改め月極夏彦、同年3月号「すべてがデブになる(解決編)」=月極夏彦、平成10年/1998年3月号「土俵(リング)・でぶせん」=京塚昌彦、平成11年/1999年3月号「脂鬼」=京極夏場所のあと、同年7月号「理油(意味不明)」だけはいつものペンネームをつけて脇に「名前ネタに困った訳ではありません」との一文が付いています。

 これらの連作が平成12年/2000年2月に『どすこい(仮)』と単行本になるときには、書下ろしの「ウロボロスの基礎代謝」が併載され、その作者名は〈両国踏四股〉と、雑誌連載時のペンネームギャグを踏襲します。

 それぞれの作者には、とりあえず設定があるらしく、集英社文庫に載った記載を引いておくと〈両国踏四股〉の場合は、こうです。

「両国踏四股(りょうごくふみしこ)一九七〇年本所生まれ。ノンフィクションライター。十二代続いた生粋の江戸っ子である。先祖の日記を元にした『本所宇兵衛日記』で脚光を浴びる。その後ミステリ作家に転身し、活躍中。」

 こういうお遊びを楽しめるかどうかは、受け取り手おのおのの感性によるので、どうでもいい気がします。たた、一編一編、よくもまあ手をかえ品をかえながら、こんなおかしな世界をつくり上げたな、という面では、この作者がデビュー以来見せてきた凝り性なところがよく出ていて、面白いです。

 凝って凝って、凝りまくったところに山周賞や直木賞、その後のいくつかの賞の受賞と続いていくのですから、まあ『どすこい(仮)』も直木賞に一脈通じる一作だった、と強弁しておきましょう。

 もう一つ、この連作で見せたペンネームの多発と直木賞(というか直木三十五さん)の関連性は、今日、南国忌の講演のなかでも少し触れられていました。

 直木さんはペンネームを三十一から始めて、年をとるごとに三十二、三十三と増やしていった。僕もペンネームにはあまり執着がなく一作ごとに秋彦、冬彦と、変えていったっていいと思っているたちなので、うんぬん、と。

 まじめなツラして辛気くさいハナシばっかり書いてもつまらない、というのが直木三十五さんの一貫した創作姿勢だった。と見れば、案外この人も直木さんと相当似通った作家なのかもしれません。

| | コメント (0)

2025年2月16日 (日)

岩田豊雄…たった一度きり、ペンネームではなく本名で直木賞を選考したら、受賞を拒否られる。

 一人の人が違う名前を使って直木賞の候補に挙がった。そんな例は何度かあります。

 だけど、一人の作家がよく知られている名前とはまた別の名を使って直木賞の選考委員をやった、という例はそんなに多くはありません。

 いや、多くないどころか、そんな奇妙な事例を歴史に刻んだのは、無駄に長い直木賞の歩みのなかでも、たった一人しかいません。

 直木賞は昭和9年/1934年に創設が発表されてから5年ほど、選考委員8人体制で行われました。しかし、これはうちのブログでも何度かコスッっているネタですけど、あまりに委員たちのやる気のなさに業を煮やした小島政二郎さんとか佐佐木茂索さんが、当時、芥川賞の委員だった人たちにも頭を下げて、申し訳ないけど、腐れ切った大衆文芸の発展のために、純で高貴なあなたたちの文学観で直木賞を助けてくれませんか、と言って(ほんとに、そんなことを言ったのかはさておいて)、数回、直木賞委員会と芥川賞委員会の合同で直木賞を決める、という荒治療を敢行します。

 しかしこれもなかなかうまくいかず、やる気がありそうで、文春にも快く協力してくれそうな、人柄のいい文士を物色した結果、第13回(昭和16年/1941年・上半期)から片岡鉄兵さんに選考を委嘱。これでうまくいけばよかったんですけど、直木賞ってイマイチだよね、の世間一般、文壇内部の評判を覆すまでにはいたらず、そのうち世のなかは戦争まっただなかに突入しました。

 いつまでもこのメンバーで直木賞をやってたってラチが明かないな、と菊池寛さんが思ったか、あるいは文藝春秋社内部の権力闘争のすえに、国策迎合グループが勝利をおさめた結果なのか、第17回(昭和18年/1943年・上半期)から選考委員を大幅に入れ替えることになります。残留したのは大佛次郎さんと吉川英治さんの二人だけで、新任として4人の作家に、選考委員をお願いすることになりました。

 このとき選考会に加わったのは、井伏鱒二さん一人を除いて、ほか3人は過去の直木賞で授賞が議論されながらけっきょく賞を贈られなかった落選組です。戦局が加熱する時代、いかに大衆文芸の世界に、重鎮・中堅作家が不足していたか、というのを表わしている人選でもあったんですけど、その3人のうちの一人が今週の主役となります。岩田豊雄さんです。

 〈岩田豊雄〉といっても、そんな名前は過去の直木賞の候補者リストのどこにもありません。また、〈岩田豊雄〉の名で直木賞の選考に当たったのも第17回の1回きりで、次の第18回からは、一般に大衆作家として知られているペンネームのほうで、直木賞選考委員を継続することになりました。このあたりの経緯も妙といえば妙で、直木賞の歴史のなかにちょくちょく出てくる、細かいことは気にしない鷹揚でテキトーな風合いが、この事例にもはっきりと表われている、と言っていいでしょう。

 直木賞はだいたいいつもテキトーな(っつうか真意がよくわからない)顔を見せる文学賞ですけど、〈岩田〉名義を1回きりで辞めたのは、どう見ても本人の希望に違いありません。

 選考委員を始めることになった昭和18年/1943年夏当時、〈岩田〉さんはふだんユーモア小説を書くときに使っている有名なペンネームだけじゃなく、そちらの本名のほうでも小説家として一気に知られていました。前年に『朝日新聞』に「海軍」という小説を連載、昭和18年/1943年には単行本化されますが、いずれも〈岩田豊雄〉の名前で発表したからです。

 〈岩田〉さんのこの二つの名前の使い分けについては、おれは文学に詳しいんだぞと威張っている変人ないし異常者たちのあいだでは有名なことらしいので、ワタクシもあまり突っ込んで書くのは控えたいと思います。要は、劇作とか翻訳とか、マジメでフォーマルな仕事のときは本名の〈岩田豊雄〉を使い、生活のお金を稼ぐためについつい筆をとってしまったユーモア小説、読み物小説を書くときには、ちょっとこじゃれた由来の別のペンネームを使う……ということだったらしいです。

 十返肇さんの表現を引くと、こういうことです。

「獅子文六がユーモア小説界に占めている位置は、時代小説で大仏次郎の占めている位置によく似ているように思われる。即ち、両名とも、たんなるユーモア作家または単なる時代小説家ではなく、西欧芸術の教養を身につけ、多分にディレッタンチズムを持ち合わせており、一脈の知性が作品の底に在ることである。

(引用者中略)

彼は戦争中『海軍』を書いて時局に便乗した。それも獅子文六というペン・ネームでは、帝国海軍を描くのに恐れ多いとでも思つてか、本名の岩田豊雄で書いた」(昭和30年/1955年7月・大日本雄弁会講談社/ミリオン・ブックス、十返肇・著『五十人の作家』より)

 戦時中、かしこまって書いた新聞小説に、劇作者名ではなく本名を使ったのは、やはり本人の意思がそこにあったからでしょう。しかし、それで売れた名前を、最初の直木賞選考のときに使ったのは、本人の意思だったのか、あるいは文春側が「いま話題の書き手だから、そっちの名前のほうが据わりがいい」と思って選んだのか、そこら辺はわかりません。

 まあ、直木賞の選考なんてものに、自分のマジメモードのときの名前を使うのは憚られる、と〈岩田〉さんが思ったのはたしかなんだと思います。2回目から選考委員名をペンネームに変えたのは、きっとそんな気持ちの表われです。

 ちなみに、一回きりの〈岩田〉名義の選考では、授賞と決めた相手の作家が、そんなもん要らねえよと受賞を拒否した直木賞史でも特殊な回にもなりました。せっかく、大衆文芸の舞台で珍しく本名を使って選考したのに、「辞退」という名のNOを付きつけられて、冴えない歴史を刻んでいた直木賞に、またも大きな泥を塗られてしまうという……。〈岩田豊雄〉名義が、よくよく直木賞とは相性がよくなかったのかもしれません。

| | コメント (0)

2025年2月 9日 (日)

梟森南溟…身元を明かさずパートナーと共同で執筆し、パートナーと別れたあとに覆面を脱いで単行本化。

 直木賞とタヒチ、といえばこの人です。

 と、何の前置きもなく、唐突な始まりですけど、直木賞を楽しむのに、別に決まりや資格は必要ありません。どう楽しもうがたいがい自由です。

 今週取り上げる第116回(平成8年/1996年・下半期)直木賞の受賞者も、はたから見ると自由というか奔放というか、そんな人だと思います。

 ライター業から童話・児童文学の賞をとって作家業の歩みをスタートさせ、そこから妙にオドロオドロしい怨念情念あたり前の小説を書き出すと、文学賞の神様から放っておかれるはずもなく、山本周五郎賞の候補になるわ、直木賞の候補になるわと、にわかに身辺騒がしくなったと思ったら、いよいよ第116回、並みいる強敵をおさえて直木賞に選ばれます。

 で、この回の他の候補者はどんな人たちだったのか。『不夜城』の馳星周さんとか、『蒲生邸事件』の宮部みゆきさんとか、『ゴサインタン』の篠田節子さんとか、『カウント・プラン』の黒川博行とか、ミステリー界隈に嵐を巻き起こす(すでに巻き起こしていた)30代から40代の、イキのいい新星たちがきらめいていました。もう30年近くも前のハナシです。

 このとき直木賞を受賞したのが、いまとなってはもう新作を読むことができない今週の主役の方なんですが、直木賞をとれば、とりあえず執筆舞台は広がります。受賞当時は38歳で、仕事の量もたくさんこなせるお年頃です。飛び込む執筆依頼を順調にこなして、エンタメ小説界の一角で元気に活躍するにつれ、徐々に奔放な作家のイメージが増幅されていきました。

 いや、増幅されていった、というのはワタクシ個人の感覚にすぎません。ほんとうのところはどうだったのか。ただ一つ言えることがあるとすれば、住む場所も一つのところに縛られず、日本から海外から、さまざまな場所に住まいを移した、というところが自由な人、というイメージのひとつにあったものと思います。

 何つったって、直木賞を受賞した平成9年/1997年1月当時も、日本ではなくイタリア・パドヴァに住んでいた、というぐらいの放浪者(?)です。

 受賞の翌年、平成10年/1998年3月にはタヒチに移住。平成19年/2007年にイタリア・リド島に移ったりしながら、平成20年/2008年12月に帰国するまで外国で暮らしますが、そのあいだには、いわゆる「子猫殺し」騒動ってやつを巻き起こし、ああだのこうだの叩かれて、ネット炎上の歴史のなかに、たしかな足跡を残しました。

 と、まあ炎上のハナシはともかくとして、彼女がタヒチ時代に残した作品はさまざまあります。そのなかには、いつも使っている名前とは別の名義で発表した二冊の小説もまじっています。

 それが〈梟森南溟〉さんの『欲情』(平成20年/2008年2月・角川書店刊)と『恍惚』(平成20年/2008年2月・講談社刊)です。

 前者は『野性時代』平成16年/2004年1月号から、後者は『小説現代』平成17年/2005年3月号から、〈梟森南溟〉の名前で掲載が始まったもので、そのときは匿名作家として正体を明かさず、単行本化されたときに、それが直木賞を受賞した女性と、執筆当時にパートナーとしてタヒチでいっしょに暮らしていたジャンクロード・ミッシェルさんとの共作であることが明かされました。

 共作ということで、一人の作家がこれまでの名前とは違う別の筆名を使った、という例とはちょっと事情が違います。

 あの直木賞作家が別の名前で新作を出した! といったような宣伝文句は、この当時、二冊に付いてまわったコピーですけど、さらにいえば、〈梟森南溟〉という名前の本は、この二冊も同時発売が最初で最後、とはっきり打ち出されたことも、またインパクトを感じさせました。

 新聞の紹介記事に、こんなふうに表現されています。

「梟森南溟(ふくもりなんめい)なる謎めいた筆名の著者が、二つの出版社から同時に小説を刊行した。(引用者中略)いずれもエロスをテーマとし、版元は違うのに装丁も対になっている。

何かと思えば、直木賞作家の坂東眞砂子さんとその元パートナー、ジャンクロード・ミッシェルさんの共同執筆作。雑誌掲載時は覆面だったが、本の刊行にあたって初めて真相が明かされた。執筆は話し合いで大まかな筋を決め、ミッシェルさんのフランス語を2人で翻訳、坂東さんが全体的な構成や推敲を担当した。官能を極めた2冊だが、2人は既に別れ、この筆名の本も最後になるという。」(『読売新聞』平成20年/2008年3月25日「極めたエロス 覆面作家「梟森南溟」が同時出版」より)

 まじか。〈梟森南溟〉の小説、もう読めないの? と号泣する読者が続出した……かどうかは寡聞にして知りませんが、生まれたと思ったらさっさと幕を閉じてしまった〈梟森南溟〉。さすが自由人、やることが他の作家とは一味もふた味も違っています。

 パートナーと別れても、その後、作家活動は途切れることなく続きました。しかし、平成26年/2014年に高知市で病死。享年55。わ、若いです。

 まじか。もう新しい小説、読めないの? と号泣する読者が、さすがにこのときは全国に何百人、何千人かはいた、という証拠はどこにもありません。だけど、そう思っておきたい気持ちが、ワタクシは拭いきれません。

| | コメント (0)

2025年2月 2日 (日)

三上天洞…10代の頃に投書家として名前が知られ、長じて直木賞の選考委員になる。

 昨日、令和7年/2025年2月1日、埼玉県春日部市のはずれのはずれにある大凧文化交流センター「ハルカイト」で、湯浅篤志さんによる『百万両秘聞』関連の講演会がありました。

 『百万両秘聞』の作者が、春日部市(もとの庄和町)出身の人だったことが縁で、そういうことになったんですけど、そんな作家の名前を聞いたところで、おおかたの現代人は首をかしげるに違いありません。

 たとえば、直木賞っていうけど直木賞の直木ってだれだそりゃ。といったようなことを、何十年も前から数多くの人たちが飽きもせずに語ってきた(いまも語っている)のを、ワタクシ自身、体感的によく知っています。昔の作家の名前はほとんどが忘れ去られる。どうあっても、しゃーないことです。

 ただ、直木三十五さんが心を許した(?)無二の親友、しかも直木さんが死んで1年足らずでできた文学賞に、しょっぱなから深く関わったといわれる人のことを、直木賞ファンであれば、ないがしろにするわけにはいきません。今回、別に誰から頼まれたわけでもないのに、春日部とは何の関係もない一介の直木賞オタクが、刻々と進行する老眼に悩まされながら、『百万両秘聞』をテキストに起こして復刊したのも、直木賞の関係者でもあったこの作者に対する感謝の気持ちが根本にあったからです。これからも機会があれば、顕彰していきたいと思います。

 と、それはそれとして、直木三十五さんは生前、いくつかの名前を使い、いまとなっては作品よりも、その筆名エピソードがよく知られている手合いの作家です。対して『百万両秘聞』の作者にあたる直木さんの友人も、本名のほか、いくつかの筆名・号を使っていたことが知られています。いずれも売れっ子になる前に付けられた名前です。

 一つに〈水上藻花〉というのがあります。本名でつくった自費出版の『春光の下に』を献本したことがきっかけで、長谷川時雨さんと恋仲になり、大正8年/1919年春ごろには東京・矢来町で二人は所帯をもつことになりますが、全然売れない文士の卵だった新しい旦那に、どうにか仕事を与えたいと思った時雨さんが、相談相手にしたひとりが博文館『講談雑誌』の編集長だった生田蝶介さんです。

 生田さんが、いったいこの鼻持ちならない(?)若い旦那の、何を見て才能を見出したのか。ともかく、うちの雑誌で時代物を書いてみたらいいよ、と声をかけてもらい、書き上げたのが「呉羽之介の絵姿」の一編です。これを『講談雑誌』に載せるときに〈水上藻花〉のペンネームを使いました。その後、翌大正9年/1920年にも『講談雑誌』に「入浪春太郎英明」をその名前を使って発表しますが、長くは使いつづけられなかった模様です。

 〈智恵保夫〉というペンネームもあります。こちらは関東大震災を経て徐々に、本名での文名が上がっていく過程のなかで、大正13年/1924年ごろに創作とは別に、『新潮』や『時事新報』などに評論を書くときに名乗った別名です。その頃、年齢は33歳。時雨さんとの生活のなかで、いよいよ通俗物でやっていくという腹が決まったものか、小説を書きまくるちょうど初めの頃で、その後は本名のほうが一気に世間に有名になりますので、〈智恵保夫〉という名前もすぐに使われなくなってしまいます。

 牧逸馬さんじゃあるまいし、そうそういくつもの名前で活躍しつづけられるわけがありません。ちょっこと使って、すぐ捨てる。それがペンネームってやつの、一般的な運命なのかもしれません。

 それで、もうひとつ、〈水上藻花〉=〈智恵保夫〉には若かりし頃に使ったペンネームがありました。ひょっとしたら、別名のなかではこれがいちばん世のなかに知られたものだった、という説もあります。〈三上天洞〉という名前です。

 これはまだ〈天洞〉さんが旧制中学に通っていた頃、当時、文学に興味のある青年たちがこぞって購読していた投書雑誌『文章世界』に原稿を送るときに、よく使われていた名前です。

 たかが、ガキの投書じゃねーか、そんなものが有名になるわけないだろ。と馬鹿にしたものでもありません。木村毅さんとか宇野浩二さんとか、同じころに中学に通って雑誌をよく読んでいた若者に言わせれば、〈三上天洞〉の名は投書家のなかで毎月のように誌面で見かける、いわば有名人だったそうですし、菊池寛さんなんかも、こんなふうに言っています。

「(引用者注:明治43年/1910年)四月になると、私は、徴兵猶予のために、どうしてもある学校に席を置かねばならなかつた。そして、もし一高が駄目だった場合に、その学校を続けてもよいためにと思つて、私の選んだのは早稲田の文科であつた。

私が、文科に入学してゐたことなどは、誰にも話さなかつたから、恐らく誰も知らないだらう。明治四十三年度入学の文科に私はゐたのである。

その組に、三上天洞と云ふ学生がゐたことだけ、私はハツキリ覚えてゐる、この天洞と云ふ男は、「文章世界」でも、相当文名があつたので、同級の人にも直ぐ知られたらしい。私もその意味で覚えてゐるのである。もし、此の天洞が三上於菟吉であつたとしたら、私は三上君と同級だつたのである。いな、三上君ばかりでなく、広津(引用者注:和郎)君、宇野(引用者注:浩二)君、澤田正二郎君などこの人達が四十三年度の入学なら、同級だつたのであらう。私がもし一高の試験に落第して、早稲田に止まつたら、広津君や三上君などと一緒に文壇に出られたゞらうかなどと、時々思つて見るのである。」(菊池寛「半自叙伝」より)

 年譜によれば菊池さんが早稲田の高等師範部に入学したのが明治43年/1910年3月。5月に高等予科に転入学して、7月には退学していますので、ほんの2か月間だけ、宇野さんたちと同級だったようです。

 しかし、そんなわずかな在学中に、はっきり覚えている同級生として名指しされているのが〈天洞〉さんなわけです。投書で毎月のように採用されていた、という経歴が、十代後半の青年たちに、どんだけ憧れの目で見られていたことか、よくわかります。

 まあでも、そういうのは明治時代だけに限ったことじゃないだろうとも思います。大正、昭和、平成と、ある狭いコミュニティにだけ有名人扱いされる人というのは、絶えてなくなったことはありません。

 いまでいうと、文学フリマでは大人気作家とか、Xやインスタ、TikTokでは超人気のアカウント、というのと近い気がします。そういう人たちが、何年か何十年かたって、また別の名前(ないしは本名で)小説家としてデビューし、人気者へとおどり出て、直木賞の選考委員もやってしまう。……〈天洞〉さんみたいな人は、これからもたくさん出てくるでしょうし、そういう人たちに、未来の直木賞を盛り上げていってもらえたら直木賞ファンとしてもうれしいな、と思います。

| | コメント (0)

2025年1月26日 (日)

球磨川淡…戦前、謎のまま直木賞界隈に現われ、すぐに謎のまま去っていった人。

 直木賞の歴史を調べていると、謎めいた人物にしょっちゅう出会います。

 いや、しょっちゅう、っていうのは言いすぎかもしれません。「たまに」と、無難な表現に修正しておきますが、ともかく直木賞であれ、もうひとつの兄弟賞であれ、受賞した人や候補になった人が、何十年も有名人でありつづける例はそんなに多くありません。あとから生まれてきたワタクシたちにとっては、いったい、あなたは誰なんだ、と正体すらわからない候補者がけっこういます。

 その「正体不明な候補者」のうち、最大の謎と言われたのは、数年まではこの人でした。第9回(昭和14年/1939年・上半期)の直木賞選考会で、どうやら候補作家として議論の俎上には乗せられたっぽい、けれどそれがどういう内容の小説で、だれが書いたものなのか、皆目手がかりが残っていない、という事例の件です。

 なぜ、乗せられたっぽいことがわかるのか、というと、選考委員のひとりで、選考事務の責任者(?)でもあった佐佐木茂索さんが選評で触れているからです。

「わざわざ各委員宛に「陸軍大将」といふのが送られて来た。これは芥川賞を目指した自己推薦であつたが、寧ろ直木賞にどうだらうと各委員の説が出たが、もう一息といふ訳で決定を見ず、結局今回は直木賞は授賞者なしといふことになつた。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号より)

 これを読むかぎり、送ってきた本人は、もうひとつの兄弟賞のほうを狙っていたらしいんですけど、最終的には直木賞のほうで議論された、ということで、うちのサイトでは直木賞のほうの候補作一覧に入れてあります。

 しかし、何といっても謎は謎です。「陸軍大将」なる作品は何者が書いたのか。直木賞を調べはじめてン十年。ずっとわからなかったのですが、いまから4年ほど前、令和3年/2021年になってようやく判明しました。

 それで、「陸軍大将」の作者は、そのあと戦後になってしばらくした頃、長谷川伸さんたちの新鷹会にも参加し、新しい筆名でいくつかの小説や随筆を残していることもわかりました。その名を〈球磨川淡〉(くまがわ・たん)といいます。本名は〈熊川正紹〉さんです。

 ……といっても、〈球磨川淡〉も〈熊川正紹〉も、そんじょそこらの文学辞典などではまずお目にかかれません。新鷹会に所属したことのある人は山ほどいますし、そのなかでも〈球磨川〉さんは決して多作なほうではなく、商業的な本という本は一冊も残していません。そりゃあ、なかなかたどりつけないはずだ、とため息をつくしかないわけです。

 〈球磨川〉さんについては、春日部の奇人・盛厚三さんがやっている同人雑誌『北方人』に一編、その生涯の記録を書いたことがあります(36号[令和3年/2021年3月])。

 それでも『北方人』も『北方人』で、盛さん自身が頑固な人ですから、まず一般的にお目にかかれる類いの冊子じゃありません。とりあえず〈球磨川〉さんのことをネットの上にも刻印しておこうと、ここに書き残しておきます。

 生まれは大正4年/1915年11月8日。父親は、福岡・筑後出身の熊川千代喜さんという方です。主に関西を中心に仕事をしていた新聞人だったそうで、政界ともけっこう結びつきがあった、とも言われています。

 〈球磨川〉さんも、この世に誕生したのは東京の地でしたが、やはり関西方面に縁があり、進んだ大学は京都の同志社です。いったいどんな青春時代を過ごしたのか、まるでうかがい知れませんけど、少なくとも大学の頃に文学に関心を抱いたという回想が残っています。当時の文藝春秋社に、自作を送りつけるくらいには、文学熱をもった人だったのはたしかです。

 先に挙げた佐佐木さんの選評が書かれたのは昭和14年/1939年ですから、〈球磨川〉さんは23歳。鈴木結生さんとだいたい同じくらいの年ですね。

 〈球磨川〉さんの場合、直木賞ももうひとつの兄弟賞も、受賞までは行きませんでしたが、その原稿は消え失せることなく、まもなく雑誌掲載のかたちで成就します。『オール讀物』昭和15年/1940年12月号に「陸軍大将」という作品名のままで掲載されたのです。

 それから10数年を経て、彼は私家版で『小説 豎子傳』という長編小説の本をつくります。その巻末に本人による「略歴」が書かれているので、挙げておきましょう。

「大夫就房(ルビ:タイフナリフサ) 大正四年十一月 東京生れ。福岡県柳川出身。父は新聞記者。同志社大学予科中途退学、のち同校英語科卒業。昭和十四年「陸軍大将」直木賞候補。(翌十五年十二月号「オール讀物」に掲載) 以後、兵隊、満州放浪、引揚等を経て、作品も亦発表せず、今日に至る。」(昭和28年/1953年12月・私家版、大夫就房・著『小説 豎子傳』)

 これによると「陸軍大将」を発表してからは、戦争の影響もあってかまったく創設を離れた、とのこと。『小説 豎子傳』は久しぶりの小説だったようですが、しかしこれ以降、『オール讀物』掲載時にも使ったこの筆名は完全に封印してしまいます。

 まったく新しい名前の〈球磨川淡〉として『大衆文芸』に登場するのは、昭和37年/1962年になってから。〈球磨川〉さんは40代なかばを超えていました。

 息子さんから聞いたハナシだと、定職という定職には就かず、家計はほとんど奥さんの働きによって成り立っていたそうです。いまであれば、たとえばそういう境遇でも数ある新人賞のために売れない原稿を次々と書いては応募し、撃沈を繰り返す、といった作家志望者はけっこういるでしょうが、〈球磨川〉さんはそういった動きはまったく見せず、ただただ歴史を調べたり、読書をしたりで、売文の世界には行きませんでした。

 いまとなっては、彼が何を思って、何を考えて小説と向き合っていたのか。知ることはできません。戦前、たった一度だけ直木賞の選評に登場し、『オール讀物』という商業誌に掲載されたその名前を、わざわざ捨てたところに、俗な小説世界への未練を断とうとしたのかもしれないな、と想像するばかりです。

| | コメント (0)

2025年1月19日 (日)

三ノ瀬溪男…大衆読み物誌の懸賞に送るときに別名を名乗ったものが、そのまま直木賞候補になる。

 先日、新しい直木賞が決まりました。

 直木賞発表の騒ぎは、基本的には一過性です。ほかにあまたある時事ニュースの例にもれません。ひと晩経てば、もう7~8割の人が興味をうしなっているとも言われ、そのまま時の流れに逆らえず忘れられていきます。

 そのとおりです。直木賞のことなんて別に覚えている必要はありません。小説なんて、読みたい人が読めばいいし、読まなくたって大丈夫という、その程度のもんでしょう。直木賞の受賞作だからといって、読まなきゃいけない度合いが上がるわけじゃありません。

 で、何が言いたいかというと、直木賞のことに関心を失う人が多かろうがどうだろうが、うちのブログには何の関係もないっす、っていうことです。ワタクシ自身が直木賞についてもっと知りたい、という気持ちは、他人の動向で変わる手合いのものでもありません。今週以降も、ただただ、この無駄に長い歴史をもつ文学賞に、何かしら関係のあるハナシを、ブログに書きつづけていきたいと思います。

 さて、今週注目するのは、昭和37年/1962年といいますからいまから63年も前に第46回直木賞(昭和36年/1961年・下半期)を受賞した昔の作家です。

 生まれたのは大正6年/1917年ですから、もうじき生誕110周年を迎えようかという人です。昭和のはじめ、少年から青年へと成長していく頃には、もう詩をつくることに夢中で、原稿用紙を埋めては投書雑誌に送りつづけます。その頃、彼にとっては毎月、どこかに自分の作品が載ることのみが生きがいで、それ以外に何の楽しみもなかった、と言っています。いまでも、そういう人はよく見かけます。

 ちなみに投書先としてわかっているのは『日本詩壇』とか『蝋人形』とか『若草』とか『文藝首都』とかです。『文藝首都』には昭和10年/1935年4月号の「短篇欄」に「祖父一家」という作品が採用されました。これは、のちに使いつづけることになる本名名義で載っています。

 しかし投書ばかりしていても食えるはずはありません。とくに戦争化に向かって社会全体がうめうめと揺れ動いた時期です。昭和13年/1938年、20歳をちょうど越えた頃に軍隊に拾われることになり、そこから断続的に戦地生活を送ることになります。その間、文学への情熱は持ちつづけますが、なにせ発表舞台がどんどんなくなってしまい、こつこつと手帳に歌や句、文章を書き留めて心を癒していたんだとか何だとか。

 そんな彼の文学への風向きが変わり出すのは、終戦を迎え、日本が再出発をはかったことが大きかった、と断言しておきましょう。出版界も息を吹き返し、少しずつではありましたが、少しずつ活字の舞台も復活。彼自身も、一兵卒として軍隊生活を長く経験した、ということが生み出す作品にも如実に現われ、その力量が徐々に知られることになります。

 このとき、彼の前にあったのが原稿を募集する懸賞制度です。またぞろ昔の投書癖を取り戻すと、書いては送り、名前が雑誌に載っては喜ぶ日々を繰り返します。

 以前のように本名で送ったものもあったとは思いますが、この時期に入選、佳作など彼の受賞歴と知られるものの多くは、ペンネームでした。

 〈伊勢夏之助〉の名前で応募したのが、昭和24年/1949年『群像』小説・評論募集や、昭和25年/1950年『宝石』百万円懸賞コンクールC級(短篇)など。

 〈春桂多〉の名前で応募したのが、昭和27年/1952年『講談倶楽部』の公募新人賞、講談倶楽部賞。

 それから同年、伝統ある『サンデー毎日』大衆文芸のほうにも入選を果たし、入選作のなかから選ばれる年間最優秀賞の意味合いがあった「千葉賞」を受賞しますが、そのときは〈伊藤恵一〉の筆名を使いました。

 以降、同人雑誌に発表した作品で第27回(昭和27年/1952年・上半期)と第29回(昭和28年/1953年・上半期)の二度、芥川賞候補に挙げられ、おお、大衆文芸だけじゃなくて純文学でもいいもん書くやつがいるぞ、と一部で名を知られるんですけど、彼がはじめて直木賞候補になったのはそのあとです。

 昭和29年/1954年、第5回オール新人杯で「最後の戦闘機」が候補に残り、これが佳作に選ばれて『オール讀物』に掲載されると、そのまま第33回(昭和30年/1955年・上半期)直木賞の予選を通過してしまうのです。

 ちなみにそのとき、彼は本名ではなくペンネームを使いました。〈三ノ瀬溪男〉といいます。名前の由来はよくわかりません。

 応募する先に応じて、とっかえひっかえペンネームを変える。それぐらいのことは多くの人がやっていると思いますが、芥川賞候補入りの経験があるとはいえ、まだ世に出たとは言いがたいこの時期に、まるで本名とは結びつかない名前で直木賞の候補に挙がった。これはかなり稀少な出来事です。

 そのことについて、本人はどんなふうに振り返っているのか。ズバリの回想をまだ目にしたことがありません。ワタクシの調査もまだまだ甘っちょろいな、とうなだれるしかしないんですけど、代わりに、当時のことを書いた文章を引いておきたいと思います。昭和28年/1953年ごろ、『文學界』の座談会が終わったあとの場面です。

「同席していた吉行淳之介が私に、

「あんたは純文学と大衆文学を両方書きわけているが、純文学と大衆文学は、発想と文体がどう違うのか、発想は同じで文体が違うのか、よくわからない。どうなんだ?」

と、きかれた。

吉行淳之介が、なぜ私にそんな質問をしたかというと、私は「雲と植物の世界」のほかに「アリラン国境線」という小説が「講談倶楽部賞」に入選、「夏の鶯」が「サンデー毎日大衆文芸」に入選していたからである。

(引用者中略)

私にも、明確な解答は出なかった。(引用者中略)上手には答えられなかった。

「同人雑誌に書く時は、純文学として作品を書くし、『講談倶楽部』に書く場合は、大衆文学として書く。むろん、発想も文体も違う。しかし、断定はできない。」」(平成9年/1997年4月・講談社刊、伊藤桂一・著『文章作法 小説の書き方』より)

 これは純文学と大衆文学の書き分けの話題です。ひょっとしてペンネームも、同人雑誌では本名を使い続けていることを見れば、大衆文芸の懸賞に応募するときには、そのままじゃ気分がしっくりしないので、あえて変名をつけていたのか……とも思うんですが、『群像』にも〈伊勢夏之助〉名で出していますし、はっきりとはわかりません。

 ただ、同人雑誌に書いた作品で、芥川賞の候補になり、また直木賞も受賞しながら、大衆読み物誌の『オール讀物』には別の名義で書いてそれが直木賞の候補に挙がった、というのは、両者の垣根のそばをいつも歩いていた彼自身の作家的履歴を象徴しているのは、あきらかです。

| | コメント (0)

2025年1月15日 (水)

第172回直木賞(令和6年/2024年下半期)決定の夜に

 人生、楽しいことばかりじゃありません。むしろつらいことのほうが多いんじゃないか、と思います。何でこんな毎日を生きなくちゃいけないのか。だれか教えてほしいです。

 しかし、そうこうするうちに、イヤでも時間は流れます。まだかまだかと待ちに待って、ようやく半年が経ちました。1月15日(水)、第172回(令和6年/2024年・下半期) 直木賞が決まる日です。つらい毎日を忘れさせくれる唯一つのお楽しみです。

 まあ、こんなものしか楽しみがないとか、はたから見ると、ほとんど人生終わってますよね。ただ、いまさら生き方を変えることもできません。

 半年待てば直木賞がくる。候補作が発表されるのでそれを読む。まるでパッとしない生活も一作一作の小説を読んでいると、俄然、彩りが豊かになります。

 ええい、もう現実なんてどうでもいいや!……と、完全に人生を終わらせるわけにはいかないんですが、直木賞から得られる幸せな時間がたしかにある。それだけで明日を生きる気力も沸いてきます。

 今回も5つの候補作のおかげで、どうにかワタクシも命をつなげることができました。命の恩人とも言うべき5人の方々には、こんなチンケなブログでお礼を書いたところで、何ほどの感謝も伝わらないと思いますが、何も書かないよりましかと思い、万感の感謝を捧げます。

 荻堂顕さんって、まだ作品数は多くないけど、どれをとっても濃密にして熱く、クールにして肉厚な、圧倒的な筆力にしびれます。『飽くなき地景』もまた、読み進めながらビリビリきました。どうしてこんな発想が出てくるのか、この才能の前にワタクシはひれ伏します。これからも荻堂さんの小説を読める人生。それはもはや、極楽です。

 『秘色の契り 阿波宝暦明和の変 顚末譚』を読んで思わずうなりました。さすがだなあ、木下昌輝さんのうまさは。歴史モノでありながら堅苦しさをまるで感じさせない親しみやすさ。箸で蝿をつかむ場面などは、思わず本を置いて拍手してしまいました。木下さんなら、そのうち直木賞ぐらいとれるっしょ。

 いまさら月村了衛さんみたいな実力者に、直木賞が何か評価をつけるというのもおかしな話です。いや、直木賞がどうのこうのより、こんなブログでおためごかしな感想を書くのもためらわれます。『虚の伽藍』が放つ黒々とした鈍い光に、もはや言葉もありません。恐ろしい作家だ、月村了衛。

 朝倉かすみさんの『よむよむかたる』が、読書好きの人間に与えてくれた希望は計り知れません。本を読んで何かを思う。それが日常にある幸せを、物語にしてくれてありがとうございました。人さまの小説を偉そうに論評するより、作中の読書会の人たちのように年をとりたいものだと、しみじみ思います。

          ○

 直木賞の受賞予想をする人に言わせれば、きっとこの結果に対しても、うまい一言がいえるんでしょうけど、こちとら、ただ直木賞が好きなだけで生きています。何が落選したって何が受賞したって、それが直木賞というものなんだ、としか言いようがありません。

 伊与原新さんが、他の候補者に比べて賞に値するのか、あるいはしないのか。そんなことはわかりませんが、ともかく伊与原さんの作品は、読むといつもグッときます。とくに、うまく生きることのできない不器用な人物が出てくると、もうたまりません。『藍を継ぐ海』も、グッとくる短編ぞろいで、個人的に救われました。助かりました。

          ○

 せっかくの直木賞の日なんだから、全身全霊、楽しまなきゃ損だ。と思って、今回は、候補作に描かれた舞台の土地で結果発表を見届けるために、『よむよむかたる』の舞台、北海道小樽市で過ごしました。

 そりゃ、小樽の小説が受賞すればよかったでしょうけど、ただ、直木賞は受賞に関することだけで成り立っているわけではない、と身にしみて知るのにいい機会になりました。とれなくって残念だと思う気持ち。それでも読んで面白かったという掛け値なしの読書体験。とれなかった候補作やそれをとりまく事柄だってすべて、直木賞を構成する重要なピースです。歴史的にずっと。

 小樽まで行かなきゃそんなこともわからなかったのか、ポンコツめ、とツッコまれそうですけど、どうやれば直木賞と楽しく接することができるか、を生涯学んでいきたいワタクシにとっては、小樽で地元の人たちがひっそりと開いた「結果発表を待つ会」に参加できたのが、何よりです。うん、こういう直木賞選考会の夜の過ごし方も、全然ありだなと実感できました。

  • ニコニコ生放送……芥:18時14分(前期比+16分) 直:19時06分(前期比+26分)

 ニコ生の解説も、受賞者記者会見も、ゆっくり観れていないんですけど、あとでタイムシフトで楽しみます。直木賞の発表は、一過性で盛り上がるだけじゃなく、何度でも繰り返して楽しめるからいいですよね。……って、そんな楽しみ方してるの、おれだけか。

 何といっても、直木賞の歴史は無駄に長いので、決定発表がこれまで172回分もあります。それぞれの回を繰り返し繰り返し味わっていれば、6か月という長い時間もすぐに経ってくれるでしょう。第173回(令和7年/2025年・上半期)の候補と出会えるのは、6月なかば。それまでに人生終わっちまわないように気をつけて、次の出会いを待ちたいと思います。

| | コメント (0)

«第172回(令和6年/2024年下半期)の候補作のなかで最も地域に密着した小説はどれか。