南條道之介、有馬範夫…適当につけたペンネームかと思いきや、直木賞候補になったことで、それらを組み合わせた名前が固定化する。
直木賞の候補になったのはすべて歴史もの。受賞した小説も主人公は遣唐使です。
だけど、歴史・時代小説家なのかといえば、まあその一面は多分にあるんですけど、現代ミステリーや風変わりな伝奇小説もあって、とうてい一つのジャンルではくくれません。しかも本業は、まるで小説とは関係がない経済・金融を研究する学究の人だった、というんですから恐れ入ります。本名は古賀英正さん。第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞した人です。
なぜ大学のまじめな先生が、面白ければそれでいいさの大衆小説などを書きはじめたのか。動機は本人が書き残しているのでよく知られています。
昭和19年/1944年に町田波津子さんと結婚し、昭和20年/1945年に長女の正子さん、昭和22年/1947年には次女の良子さんが生まれて、一家を支えるお父さんになりますが、なにしろ私学の教員は給料が安くて、家計をまわすのに四苦八苦。何とか家計の足しにできる副業はないものかと、思いながら生活していたところ、たまたま見かけた懸賞小説の広告にぴぴんと反応し、昭和25年/1950年、『サンデー毎日』の戦後第2回千葉賞に応募して選外佳作。『週刊朝日』の朝日文芸「百万人の小説」百万円懸賞に応募してユーモア小説として入選。前者は選外なので賞金は出なかったでしょうが、後者は入選者として10万円を受け取りました。要するに金を稼ぐために小説を書き始めたというわけです。
そのとき付けた筆名が〈南條道之介〉というものです。由来はよくわかりませんけど、別に長く使うつもりもなく、適当につけたんじゃないかと思います。
味をしめて、昭和26年/1951年には『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説に筆名〈有馬範夫〉として現代小説を応募すると、それも二席入選を果たして賞金10万円を獲得。、このときは諷刺小説のほうでも〈南條道之介〉名義で応募して、そちらは選外佳作になりました。
さらには昭和30年/1955年、『サンデー毎日』大衆文芸三十周年記念百万円懸賞に時代小説を投じて入選となって30万円をゲットします。そちらの筆名は〈町田波津夫〉、これはもう明らかに奥さんの旧姓の名前が由来でしょう。
ともかく、でかい大衆文芸系の懸賞があればたいてい名前が残る、という賞金あらしとして名を馳せたわけですが、先週取り上げた戦前デビューの女性作家の場合とは違って、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんは懸賞小説から出てきても、さして屈託はありません。
別にこれで生きていく必要もない大学の先生です。小説に本腰を入れようという気がどこまであったのか。よくわかりません。
しかし、昭和27年/1952年に『オール讀物』の始めた公募型新人賞「オール新人杯」の第1回に応募して受賞してしまったのが運命の分岐点だったでしょう。大衆文芸の場合、懸賞から出てきた作家だからといって馬鹿にするというような、狭い心の文壇意識みたいなものは存在せず、大正の末期に大衆文芸という用語が生まれた当時から、懸賞からデビューした人はその後、大きく活躍しましたし、その系列に属する直木賞も、海音寺潮五郎さんとか大池唯雄さんとか村上元三さんとか、懸賞出の人に賞を贈ってぐいっと背中を押してあげる伝統がありました。
しかも、今度は直木賞のおひざ元『オール讀物』が運営する懸賞です。そこから出てきた人を手厚く助け、直木賞をとらせて大きな作家に育てたい……といった文藝春秋新社の編集者たちの期待を受けて、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんもぞくぞくと同誌掲載のチャンスを与えられ、直木賞の候補に挙げられます。
運命の分岐点というのは、その「オール新人杯」のときに使った、また別の筆名を終生変えずに固定化することになるからです。
昭和63年/1988年に書かれた年譜には、こうあります。
「昭和二十八年(一九五三) 四十五歳
三月、「子守の殿」が第一回「オール讀物」新人杯を受賞。
五月、「不運功名譚」を「オール讀物」に発表、両作とも第二十九回直木賞候補となる。このときの筆名が南條範夫。〈模範的な夫〉という意味。」(昭和63年/1988年8月・講談社刊『日本歴史文学館7 室町抄/覇権への道』所収「年譜」より)
オール新人杯をとったこともさることながら、受賞第一作とともにいきなり直木賞候補作に挙げられたことが、この筆名に落ち着くきっかけとなった、と言うこともできそうです。
にしても、奥さんの名前を筆名にしてみたり、〈模範的な夫〉を生涯の筆名にしたり、ほとほと家庭的だったんでしょう。まあ、小説を書きはじめた動機が、家族に苦労をさせずになるべく豊かに生活するためのお金稼ぎだったわけですからね。そのあたり、古賀先生の小説に向かう姿勢は一貫しています。
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