三ノ瀬溪男…大衆読み物誌の懸賞に送るときに別名を名乗ったものが、そのまま直木賞候補になる。

 先日、新しい直木賞が決まりました。

 直木賞発表の騒ぎは、基本的には一過性です。ほかにあまたある時事ニュースの例にもれません。ひと晩経てば、もう7~8割の人が興味をうしなっているとも言われ、そのまま時の流れに逆らえず忘れられていきます。

 そのとおりです。直木賞のことなんて別に覚えている必要はありません。小説なんて、読みたい人が読めばいいし、読まなくたって大丈夫という、その程度のもんでしょう。直木賞の受賞作だからといって、読まなきゃいけない度合いが上がるわけじゃありません。

 で、何が言いたいかというと、直木賞のことに関心を失う人が多かろうがどうだろうが、うちのブログには何の関係もないっす、っていうことです。ワタクシ自身が直木賞についてもっと知りたい、という気持ちは、他人の動向で変わる手合いのものでもありません。今週以降も、ただただ、この無駄に長い歴史をもつ文学賞に、何かしら関係のあるハナシを、ブログに書きつづけていきたいと思います。

 さて、今週注目するのは、昭和37年/1962年といいますからいまから63年も前に第46回直木賞(昭和36年/1961年・下半期)を受賞した昔の作家です。

 生まれたのは大正6年/1917年ですから、もうじき生誕110周年を迎えようかという人です。昭和のはじめ、少年から青年へと成長していく頃には、もう詩をつくることに夢中で、原稿用紙を埋めては投書雑誌に送りつづけます。その頃、彼にとっては毎月、どこかに自分の作品が載ることのみが生きがいで、それ以外に何の楽しみもなかった、と言っています。いまでも、そういう人はよく見かけます。

 ちなみに投書先としてわかっているのは『日本詩壇』とか『蝋人形』とか『若草』とか『文藝首都』とかです。『文藝首都』には昭和10年/1935年4月号の「短篇欄」に「祖父一家」という作品が採用されました。これは、のちに使いつづけることになる本名名義で載っています。

 しかし投書ばかりしていても食えるはずはありません。とくに戦争化に向かって社会全体がうめうめと揺れ動いた時期です。昭和13年/1938年、20歳をちょうど越えた頃に軍隊に拾われることになり、そこから断続的に戦地生活を送ることになります。その間、文学への情熱は持ちつづけますが、なにせ発表舞台がどんどんなくなってしまい、こつこつと手帳に歌や句、文章を書き留めて心を癒していたんだとか何だとか。

 そんな彼の文学への風向きが変わり出すのは、終戦を迎え、日本が再出発をはかったことが大きかった、と断言しておきましょう。出版界も息を吹き返し、少しずつではありましたが、少しずつ活字の舞台も復活。彼自身も、一兵卒として軍隊生活を長く経験した、ということが生み出す作品にも如実に現われ、その力量が徐々に知られることになります。

 このとき、彼の前にあったのが原稿を募集する懸賞制度です。またぞろ昔の投書癖を取り戻すと、書いては送り、名前が雑誌に載っては喜ぶ日々を繰り返します。

 以前のように本名で送ったものもあったとは思いますが、この時期に入選、佳作など彼の受賞歴と知られるものの多くは、ペンネームでした。

 〈伊勢夏之助〉の名前で応募したのが、昭和24年/1949年『群像』小説・評論募集や、昭和25年/1950年『宝石』百万円懸賞コンクールC級(短篇)など。

 〈春桂多〉の名前で応募したのが、昭和27年/1952年『講談倶楽部』の公募新人賞、講談倶楽部賞。

 それから同年、伝統ある『サンデー毎日』大衆文芸のほうにも入選を果たし、入選作のなかから選ばれる年間最優秀賞の意味合いがあった「千葉賞」を受賞しますが、そのときは〈伊藤恵一〉の筆名を使いました。

 以降、同人雑誌に発表した作品で第27回(昭和27年/1952年・上半期)と第29回(昭和28年/1953年・上半期)の二度、芥川賞候補に挙げられ、おお、大衆文芸だけじゃなくて純文学でもいいもん書くやつがいるぞ、と一部で名を知られるんですけど、彼がはじめて直木賞候補になったのはそのあとです。

 昭和29年/1954年、第5回オール新人杯で「最後の戦闘機」が候補に残り、これが佳作に選ばれて『オール讀物』に掲載されると、そのまま第33回(昭和30年/1955年・上半期)直木賞の予選を通過してしまうのです。

 ちなみにそのとき、彼は本名ではなくペンネームを使いました。〈三ノ瀬溪男〉といいます。名前の由来はよくわかりません。

 応募する先に応じて、とっかえひっかえペンネームを変える。それぐらいのことは多くの人がやっていると思いますが、芥川賞候補入りの経験があるとはいえ、まだ世に出たとは言いがたいこの時期に、まるで本名とは結びつかない名前で直木賞の候補に挙がった。これはかなり稀少な出来事です。

 そのことについて、本人はどんなふうに振り返っているのか。ズバリの回想をまだ目にしたことがありません。ワタクシの調査もまだまだ甘っちょろいな、とうなだれるしかしないんですけど、代わりに、当時のことを書いた文章を引いておきたいと思います。昭和28年/1953年ごろ、『文學界』の座談会が終わったあとの場面です。

「同席していた吉行淳之介が私に、

「あんたは純文学と大衆文学を両方書きわけているが、純文学と大衆文学は、発想と文体がどう違うのか、発想は同じで文体が違うのか、よくわからない。どうなんだ?」

と、きかれた。

吉行淳之介が、なぜ私にそんな質問をしたかというと、私は「雲と植物の世界」のほかに「アリラン国境線」という小説が「講談倶楽部賞」に入選、「夏の鶯」が「サンデー毎日大衆文芸」に入選していたからである。

(引用者中略)

私にも、明確な解答は出なかった。(引用者中略)上手には答えられなかった。

「同人雑誌に書く時は、純文学として作品を書くし、『講談倶楽部』に書く場合は、大衆文学として書く。むろん、発想も文体も違う。しかし、断定はできない。」」(平成9年/1997年4月・講談社刊、伊藤桂一・著『文章作法 小説の書き方』より)

 これは純文学と大衆文学の書き分けの話題です。ひょっとしてペンネームも、同人雑誌では本名を使い続けていることを見れば、大衆文芸の懸賞に応募するときには、そのままじゃ気分がしっくりしないので、あえて変名をつけていたのか……とも思うんですが、『群像』にも〈伊勢夏之助〉名で出していますし、はっきりとはわかりません。

 ただ、同人雑誌に書いた作品で、芥川賞の候補になり、また直木賞も受賞しながら、大衆読み物誌の『オール讀物』には別の名義で書いてそれが直木賞の候補に挙がった、というのは、両者の垣根のそばをいつも歩いていた彼自身の作家的履歴を象徴しているのは、あきらかです。

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2025年1月15日 (水)

第172回直木賞(令和6年/2024年下半期)決定の夜に

 人生、楽しいことばかりじゃありません。むしろつらいことのほうが多いんじゃないか、と思います。何でこんな毎日を生きなくちゃいけないのか。だれか教えてほしいです。

 しかし、そうこうするうちに、イヤでも時間は流れます。まだかまだかと待ちに待って、ようやく半年が経ちました。1月15日(水)、第172回(令和6年/2024年・下半期) 直木賞が決まる日です。つらい毎日を忘れさせくれる唯一つのお楽しみです。

 まあ、こんなものしか楽しみがないとか、はたから見ると、ほとんど人生終わってますよね。ただ、いまさら生き方を変えることもできません。

 半年待てば直木賞がくる。候補作が発表されるのでそれを読む。まるでパッとしない生活も一作一作の小説を読んでいると、俄然、彩りが豊かになります。

 ええい、もう現実なんてどうでもいいや!……と、完全に人生を終わらせるわけにはいかないんですが、直木賞から得られる幸せな時間がたしかにある。それだけで明日を生きる気力も沸いてきます。

 今回も5つの候補作のおかげで、どうにかワタクシも命をつなげることができました。命の恩人とも言うべき5人の方々には、こんなチンケなブログでお礼を書いたところで、何ほどの感謝も伝わらないと思いますが、何も書かないよりましかと思い、万感の感謝を捧げます。

 荻堂顕さんって、まだ作品数は多くないけど、どれをとっても濃密にして熱く、クールにして肉厚な、圧倒的な筆力にしびれます。『飽くなき地景』もまた、読み進めながらビリビリきました。どうしてこんな発想が出てくるのか、この才能の前にワタクシはひれ伏します。これからも荻堂さんの小説を読める人生。それはもはや、極楽です。

 『秘色の契り 阿波宝暦明和の変 顚末譚』を読んで思わずうなりました。さすがだなあ、木下昌輝さんのうまさは。歴史モノでありながら堅苦しさをまるで感じさせない親しみやすさ。箸で蝿をつかむ場面などは、思わず本を置いて拍手してしまいました。木下さんなら、そのうち直木賞ぐらいとれるっしょ。

 いまさら月村了衛さんみたいな実力者に、直木賞が何か評価をつけるというのもおかしな話です。いや、直木賞がどうのこうのより、こんなブログでおためごかしな感想を書くのもためらわれます。『虚の伽藍』が放つ黒々とした鈍い光に、もはや言葉もありません。恐ろしい作家だ、月村了衛。

 朝倉かすみさんの『よむよむかたる』が、読書好きの人間に与えてくれた希望は計り知れません。本を読んで何かを思う。それが日常にある幸せを、物語にしてくれてありがとうございました。人さまの小説を偉そうに論評するより、作中の読書会の人たちのように年をとりたいものだと、しみじみ思います。

          ○

 直木賞の受賞予想をする人に言わせれば、きっとこの結果に対しても、うまい一言がいえるんでしょうけど、こちとら、ただ直木賞が好きなだけで生きています。何が落選したって何が受賞したって、それが直木賞というものなんだ、としか言いようがありません。

 伊与原新さんが、他の候補者に比べて賞に値するのか、あるいはしないのか。そんなことはわかりませんが、ともかく伊与原さんの作品は、読むといつもグッときます。とくに、うまく生きることのできない不器用な人物が出てくると、もうたまりません。『藍を継ぐ海』も、グッとくる短編ぞろいで、個人的に救われました。助かりました。

          ○

 せっかくの直木賞の日なんだから、全身全霊、楽しまなきゃ損だ。と思って、今回は、候補作に描かれた舞台の土地で結果発表を見届けるために、『よむよむかたる』の舞台、北海道小樽市で過ごしました。

 そりゃ、小樽の小説が受賞すればよかったでしょうけど、ただ、直木賞は受賞に関することだけで成り立っているわけではない、と身にしみて知るのにいい機会になりました。とれなくって残念だと思う気持ち。それでも読んで面白かったという掛け値なしの読書体験。とれなかった候補作やそれをとりまく事柄だってすべて、直木賞を構成する重要なピースです。歴史的にずっと。

 小樽まで行かなきゃそんなこともわからなかったのか、ポンコツめ、とツッコまれそうですけど、どうやれば直木賞と楽しく接することができるか、を生涯学んでいきたいワタクシにとっては、小樽で地元の人たちがひっそりと開いた「結果発表を待つ会」に参加できたのが、何よりです。うん、こういう直木賞選考会の夜の過ごし方も、全然ありだなと実感できました。

  • ニコニコ生放送……芥:18時14分(前期比+16分) 直:19時06分(前期比+26分)

 ニコ生の解説も、受賞者記者会見も、ゆっくり観れていないんですけど、あとでタイムシフトで楽しみます。直木賞の発表は、一過性で盛り上がるだけじゃなく、何度でも繰り返して楽しめるからいいですよね。……って、そんな楽しみ方してるの、おれだけか。

 何といっても、直木賞の歴史は無駄に長いので、決定発表がこれまで172回分もあります。それぞれの回を繰り返し繰り返し味わっていれば、6か月という長い時間もすぐに経ってくれるでしょう。第173回(令和7年/2025年・上半期)の候補と出会えるのは、6月なかば。それまでに人生終わっちまわないように気をつけて、次の出会いを待ちたいと思います。

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2025年1月12日 (日)

第172回(令和6年/2024年下半期)の候補作のなかで最も地域に密着した小説はどれか。

 直木賞の選考会は1年に2回ひらかれます。暑い夏の7月と、寒くて凍えそうな冬まっただなかの1月です。

 思い返せば半年前の夏の選考では、とくにどの地方のおハナシといった地域性を感じさせない短篇を多く収録した『ツミデミック』が受賞しました。

その前の冬の選考では、北海道東部の白糠付近と、京都を舞台にした『ともぐい』『八月の御所グラウンド』が受賞に選ばれ、さらに一回さかのぼった夏の選考は、京都や鎌倉その他、描かれる地域のばらけた『極楽征夷大将軍』と、物語は江戸で展開するものの、そもそも主人公がどこの地域の人なのかボンヤリしている『木挽町のあだ討ち』が受賞しました。

 その前は冬の選考で、満洲の『地図と拳』と石見地方の『しろがねの葉』、とどちらも地域性ぬきでは語れない小説が選ばれましたが、それより一回前の夏の選考では、どこのハナシと指し示すことの難しい短編集『夜に星を放つ』がとっています。

 ……と、どんどん時代を巻き戻しながら直木賞のことを考えるのは楽しんですけど、そればっかりやっていると夜が明けちまいそうです。ともかく最近の冬の選考では、特定の地域が前面に押し出された作品が、より多く受賞している、ということが言いたかったわけです。

 で、今回の第172回(令和6年/2024年・下半期)は今週の水曜日、1月15日に選考会がひらかれます。いわずもがな真冬の回です。

 候補作には5つが選ばれています。どれがとるかは、いまの段階ではまったくわかりませんが、5つの作品に共通していることといえば何でしょうか。どれも、それぞれ豊かな地域性をもった小説だ、ということです。

 ネットで直木賞の動向を見てみても、小樽出身の人が小樽を舞台にして候補になった!とか、今回は徳島を舞台にした歴史小説が候補になった!とか、京都の闇社会をあますところなく描き切った小説が候補になった!とか、そんなハナシがたくさん目につきますよね。おそらくみなさん、冬の直木賞は地方色が強ければ強いほど受賞しやすいんだ、ということが共通認識としてあるんだと思います。

 となると、やはり気になるのは、5つの候補作のなかでどれが一番、地域に密着しているのか、ということです。

 そんなもん、目に見えて比べられるもんじゃないだろ。とは思うんですけど、そんな正論に従っていては面白くありません。せっかくなので、うちのブログでは無理やりな手法をとることで、小説の地域密着度を計ってみることにしました。

 『よむよむかたる』は「小樽」、『藍を継ぐ海』は「見島」「東吉野」「長与」「野知内」「姫ケ浦」、『飽くなき地景』は「東京」、『秘色の契り』は「徳島」、『虚の伽藍』は「京都」。……それぞれ作品で何回、この地名が登場するか、その回数を数えてみます。

          ○

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 月村了衛さんの『虚の伽藍』が長篇小説のなかに249回も「京都」という文字を出現させて、見事トップに輝きました。おめでとうございます。

 京都がつく地名には府もあれば市もありますし、京都駅、京都弁など、なじみのある単語も数々あります。歴史的に長く日本の中心だった伝統の厚みもあいまって、納得の1位といったところでしょう。

 2番目につけた伊与原新さんの『藍を継ぐ海』は、今回の候補作中ただひとつの短編集です。収録された5つの短編それぞれが、その土地でなければ話が成り立たない、というぐらいに地域に密着していて、「夢化けの島」の「見島」(78回)、「狼犬ダイアリー」の「東吉野」(13回)、「祈りの破片」の「長与」(16回)、「星隕つ駅逓」の「野知内」(33回)、「藍を継ぐ海」の「姫ケ浦」(47回)、全部合わせて187回となりました。

 しかも5つの作品がすべて、それぞれの土地にピンポイントに焦点を合わせていて、好感をいだかせる点でもバツグンです。直木賞に極めて近い、と評価する人がいるのもよくわかります。

 3番目、木下昌輝さんの『秘色の契り 阿波宝暦明和の変 顚末譚』では、対象の地名を「徳島」にするか「阿波」にするか悩みましたが、藩の名前を優先することにして「徳島」で数えました。出現回数は169回。ちなみに「阿波」の回数を数えてみるとそちらは168回と、ほぼ同数という結果です。

 ただ、まあタイトルの副題に「阿波」と地名が入っていることからも、この作品が対象の地方に相当みっちりくっついているのはたしかです。「徳島」と「阿波」でちょっと分散しちゃいましたが、その内容は実質1位だった、と言えないこともありません。

 4番目になると、がくっと回数が減ります。荻堂顕さんの『飽くなき地景』は、「東京」という地域の街並みについて、歴史的な変遷が物語の骨組みを支えている小説ですが、「東京」という単語が出てくるのは87回でした。

 なかには「東京大学」とか「東京国立博物館」とか、そういった単語も出てきて、出現回数を押し上げていますが、いくら東京のことを書いた小説だからといって、いちいち東京、東京と書くのも不自然です。ことさら言うまでもない地名だったがために、無念、4番に甘んじた、と見るのが適切かと思います。

 そして、5作品中、最少回数となったのが朝倉かすみさんの『よむよむかたる』でした。意外や意外、作中に「小樽」の二文字が出てくるのは18回しかありません。

 だけど、この本の宣伝展開から見ると、あるいはあらすじを読むと、まず目に入る地名が「小樽」です。どこの街でこんな読書会が行われていても不自然じゃないとは思うんですが、しかし『よむよむかたる』で、読者の印象に残る土地は小樽です。最少の回数で、そのように読者に思わせるところが、書き手に熟練の技が備わっているあかしです。

          ○

 相変わらず「だから何なんだ」というハナシをだらだら書いていますが、こんなふうに直木賞の選考会まで待つのが、個人的に楽しいんだから仕方ありません。

 直木賞は、東京に会社がある文藝春秋が、東京の料亭で選考会を運営し、受賞者の記者会見も翌月おこなわれる授賞式もみんな東京でやってしまう、という狭い世界のイベントです。だけど、候補者や候補作それぞれに地域性があるおかげで、全国各地で盛り上がることができる、というすばらしい特徴があります。

 1月は外にもあまり出たくないような寒い季節ですが、作品が舞台にしている地域に思いを馳せながら選考会の結果発表を聞く。これを至極の幸福と言わずして何と言う、という感じです。

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2025年1月 5日 (日)

村田春樹…乗りに乗った流行作家になったあと、なぜか変名で時局に即した小説を書く。

 新年一発目ということで、今年もまたこの作家のことから始めたいと思います。

 直木賞とめちゃくちゃ関係がありそうで、でも賞が始まる頃にはすでに死んでいたので、本人そのものとは別に関係なんかない……でおなじみの、昭和9年/1934年2月にあの世に旅立っちゃった大衆文芸作家です。

 昨年5月から、うちのブログでは、直木賞の候補に挙がったときの名前とは別の名でも知られているような、そんな人たちの例をさぐっています。一つの名前で小説を書きつづける人も多くいるなかで、あれやこれや、そのときの事情で名前を変えて活動した人は、けっこういます。いったい「名前」って何なのか……。よくわかりませんけど、とにかく不思議で面白い世界なのはたしかです。

 で、直木賞の候補になった人たちより何より、何といっても「直木賞」の賞名に冠された人物こそ、筆名をたくさん変えたことで有名です。とりあげないわけにはいきません。

 最も知られているのは、〈三十一〉から始めて年が変わるごとに〈三十二〉〈三十三〉、一個とばして〈三十五〉と自分の数え年に応じてコロコロ筆名を変えたエピソードです。名前なんて何だっていいじゃん、と世の中を舐め腐っているこの人の性格がよく出ています。

 そのほかにも、本名の〈植村宗一〉でものを書いていた時期がありますし、〈竹林賢七〉〈閑養軒〉〈香西織恵〉といったペンネームを使ったこともあります。どれもこれも、まだ彼が大衆作家として有名になる前のことですから、名前を変えて遊んでも、別に問題はありませんでした。

 そんな彼が筆名を固定したのが大正15年/1926年1月からで、佐佐木茂索さんあたりに、年齢ごとに名前を変えるなんてつまんねえこともうやめろよ、と助言を受けたのがきっかけだったらしいです。つまらないことをつまらない、とはっきり言ってくれる友人は大切ですね。

 筆名をひとつに決めてからは、なぜか運もツイてきたかぞくぞくと原稿が売れはじめ、時代長篇を書けば大評判。『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」(昭和4年/1929年)とか『サンデー毎日』の「風流殺法陣」(同年)あたりで勢いよく波に乗り、昭和5年/1930年から始めた『東京日日』『大阪毎日』連載小説「南国太平記」で完全に名前が売れて大衆文壇であばれまわる流行作家、っていう地位を手に入れました。貧乏からも脱出しました。

 そう考えると、筆名をひとつに決めたことも彼にとっては重要だったのかもしれません。これで物書きとしても土台が安定して、各メディアで言いたい放題、書き放題。有名作家の仲間入りです。よかったよかった。

 ……と、その後はたしかに「直木賞」に名を残す一つのペンネームで活躍をつづけたんですけど、まるで違う名前を名乗って『文藝春秋』に長篇を連載したことがあります。いったいなぜに魔がさしたのか。いや、魔がさしたというより、このテキトーさ、自由な風合いが彼の本領だったとも言えるでしょう。昭和6年/1931年2月号から8月号まで「太平洋戦争」という現代の国際情勢に根ざした仮想政治小説を連載します。使ったペンネームは〈村田春樹〉といいます。

 〈村田春樹〉というのが、何を由来にした名前なのか。わかりませんけど、『文藝春秋』連載中から実はその正体は、例のイケイケ大衆作家だと公然とバレていたそうです。何のための変名なのか。この人のやることには、なかなかついていけないものがあります。

 小説を始める前の冒頭に「現在の出来事に就て」なる、作者自身による解説めいたものが付いているのも、ギョッとします。自信家でならした彼の、やたらと高い調子の文章が続くんですが、その一端だけ引いておきたいと思います。

「自分は、現在の日本の、国勢及び、国情を基礎としてその延長線の上に、一つの事件を構成し、これを、小説的形式として描き「太平洋戦争」と、題した。

(引用者中略)

この多方面の、情勢を描くに当り、諸君は、必ずしも、その全部に、通じては居られまいと思うから、簡単に、今日の日本が、何ういう状態に在るか、ということを、次に、説明しておきたい。これは、この小説に於て、重要なる役目を務めるばかりでなく、これ自らのみでも、猶、相当の価値と、興味とが、あるとおもう。」(『文藝春秋』昭和6年/1936年2月号「太平洋戦争 第一回」より ―引用原文は『直木三十五全集 第18巻』)

 と大きく振りかぶって、「一、経済に就て」「二、支那に就て」「三、満洲に就て」「四、アメリカの対満野心」「五、軍備に就て」「六、科学」「七、太平洋戦争」と、作者が考える現状ってやつを書いています。

 彼が死んだのはそれから3年後、43歳のときでしたが、年齢からいってもっと生き延びてもおかしくはなく、40代、50代、60代と年を重ねていれば、きっと彼自身、興味と関心をそそぎ込んだ日本の中国進出、あるいは満州国の行く末もその目で確認できたはずです。負けん気の強い人だったみたいなので、日本の敗戦を見ても、別に自分が好戦的だったことも忘れて責任逃れの文章を書きまくっていたでしょう。

 とうてい文学賞の賞名に付けられるような人物ではなかった、と思ういっぽうで、日本の戦争の行方を知らずに昭和9年/1934年で死んだからこそ、「直木賞」なんてものがつくられたことを思えば、やっぱり運のいい人だったんだな、と言えなくもありません。

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2024年12月29日 (日)

木元正二…直木賞の候補になったことで、物書きの道に光明を見出して改名する。

 今年も一年を振り返る季節になりました。

 直木賞のほうでは第170回(令和5年/2023年下半期)と第171回(令和6年/2024年上半期)、きっちりと2回、新しい選考会が行われて、これまでと変わりない楽しい姿を見せてくれたのが何よりの収穫です。出版業界は、いつつぶれたっておかしくありません。こんなオワコンでも粛々と続いていく様子をこの目で見られるのは幸せなことだ、と思います。

 個人的なことでは、今年も変わらず続けたことでいえば、盛厚三さんがつくっている同人雑誌の『北方人』に、休むことなく原稿を載せてもらえたことが最大のニュースです。

 43号、44号、45号と、今年『北方人』は3号出ました。それぞれワタクシの原稿は、まったく代わり映えもせずに昔の直木賞候補者のことを調べて書いたものなんですが、あらためて振り返ってみると、3人とも、広く(?)知られる筆名とは別に、違った名前でも原稿を書いていたことがある人たちです。2024年回顧の週なので、今週はそのうち一人の作家のことを取り上げて、一年をしめくくりたいと思います。

 第43回(昭和35年/1960年・上半期)の直木賞で一度だけ候補になりました。大正元年/1912年生まれなので、候補になったときには47歳。『大阪毎日新聞』の記者として、あるいはその系列の夕刊紙『新大阪』の幹部社員として、社会人としてけっこうさまざまな経験を経てからの直木賞候補入りです。

 小説を書き始めたのも、イイ大人になってからだった、と言われます。同じ大阪の『毎日新聞』で同僚でもあった井上靖さんが昭和25年/1950年に芥川賞を受賞、その様子を見て、くそーっ、おれだってあいつぐらいの小説は書けるはずだ、負けてられるか、と対抗心に火がついたのがきっかけだったとか、何だとか。不純な動機といいますか、いや、人に負けたくないと思うことが原動力になるんですから意外と純真な性格だったのかもしれません。

 それで小説を書いてみて、自分でもイケると思ったものか、六興出版社の中間小説誌『小説公園』に託したところ、さらっと採用されてすんなりデビューを果たします。ううむ、あまりにうまく行きすぎている。しかし、ここで彼が偉かったのは、自分をたのんでそのまま職業作家になろうとしなかったことで、まだまだ小説の勉強をしなけりゃいけないと殊勝に考えた結果、長谷川伸さんたちの新鷹会に参加します。

 おれは書きたいんだ、書きたいことはたくさんあるんだ。とばかりに、新聞社に務める忙しい身でありながら、積極的に小説を執筆すると、その勢いに応えて新鷹会の『大衆文芸』誌もぞくぞくと掲載。「弁慶像」(昭和34年/1959年11月号)を皮切りに、「霧の夜の基督」(同年12月号)、「れせ・ふえーる」(昭和35年/1960年1月号)、「刀塚」(同年3月号)、「絵筆」(同年5月号)……と発表が続きました。そのうち直木賞候補に挙げられたのが「刀塚」です。

 「刀塚」の題材は、まさに自身が経験した戦後夕刊紙の風雲児『新大阪』の経営の裏話です。瀬戸保太郎さんをモデルにした〈玄海壮太郎〉なる男の、豪放な経営手法が描かれたもので、著者が後年得意としたノンフィクション+フィクションの経済読み物にも通じる小説世界といっていいでしょう。

 直木賞のほうでは最終選考に残ったものの、あっさり落とされます。しかし、おれは直木賞の候補にまでなったんだ、と本人はどうやら発奮したらしく、これからもっともっと小説を書いていきたい、と意欲を固めます。

 そのときに彼が向かったのが「改名」です。

 本名で発表することをやめて、別の名前を名乗りはじめます。読みは本名と同じ、でも漢字を変えて〈木元正二〉としました。

(引用者注:『大衆文芸』に発表した)当時は本名(木本正次)を使つていましたが、今年から文字を変えて新しく筆名を用いていますので、本書はそれに従いました。ご諒承を願います。

第一集のあとがきにも書いたことですが、私は一種の社会小説を念願しております。大げさにいうと、社会的リアリズムの基盤の上に、ロマンチシズムの花を開かせたいのです。その意味からいつて(引用者注:本書『泣き女』の収録した)三作ともフィクションであり、特定の人物や事件をモデルにしたものでないのはもちろんですが、しかし、それぞれの時代の社会については、あくまでも『真実』を描こうと、作者は努めたつもりです。」(昭和36年/1961年6月・大和出版刊、木元正二・著『泣女(なきめ)』「あとがき」より)

 「刀塚」の背景や登場人物なども、ことごとくフィクションだと言い張っています。ふうむ、木元さん本人の意識はそうだったのかもしれません。でも、ここにモデルがない、というのはさすがに嘘だろうと思います。

 ……嘘かまことか、そんなことは本人にしかわからないので、勝手に決めつけてはいけませんね。すみません。

 ともかく、社会的リアリズムってやつをもとにして、おれはフィクションを、創作をやっていくのだ。と40歳をすぎた社会的地位もあるおじさんが、やる気を出して前のめりになったその界隈に、直木賞と改名の二つがあったのはたしかなことです。

 残念ながら、その後、木元さんはガチガチのフィクションの方面ではあまり評価されず、より事実に近い、新聞報道の延長線のようなノンフィクションもので名を上げることになって、すぐに名前も本名のほうに戻してしまいました。直木賞と改名、この二つは本人にとっては(たぶん)いい思い出として、過ぎ去った記憶のあくたのなかに埋もれていくことになった、と思われます。

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2024年12月22日 (日)

彩河杏…自分の書きたいことを小説に書くまでに、ペンネームをとっかえひっかえ。

 作家デビューにもいろいろあります。見出されるまでの経緯もそうですし、何をもって「デビュー」とするのか、定義のしかたもいくつかあります。

 というのも、小説には(いや、小説以外もそうですけど)「習作」期間と呼ばれる、線引きの難しいやつが昔っから存在しているからです。

 はじめて小説を書いたからって、それが処女作にはならない。何なら、書いた小説がだれかに評価されて、商業ベースに乗ったとしても、それをデビューと呼ばない場合だってある。……なんだか文学の世界は難しいです。あんまり入り込みたくありません。

 で、直木賞の候補者や受賞者のなかでも、「作家デビューはいつなんだ」問題を抱えている人がちらほらいます。何人か、いや何十人ぐらいいるかもしれません。わかりません。

 とくに厄介なのは、彼ら作家の履歴のなかに、はじめて「一般小説」を書いた、みたいな表現がゴロゴロ転がっているからです。なんだよ一般小説って。という感じですけど、たとえば、戦前でいうと堤千代さんとか、戦後でいうと新章文子さんとか瀬戸内晴美さんとか、それからぐっと時代がくだって桐野夏生さんとか山本文緒さんとか唯川恵さんとか姫野カオルコさんとか、そういう人たちのデビュー作は何なのか。

 見る人によってさまざま分かれるでしょう。何なら本人が何と言っているのか、という問題もあります。難しいです。

 ということで、今週取り上げるこの人も、代表的な「作家デビュー作を複数もつ」直木賞候補者のひとりです。芥川賞の候補に何度かなったあと、第128回(平成14年/2002年・下半期)に『空中庭園』で直木賞の候補になり、第132回(平成16年/2004年・下半期)『対岸の彼女』で受賞しました。いまでは選考委員もやっています。

 大学在学中にいったん作家デビューしました。昭和63年/1988年、第11回コバルト・ノベル大賞を〈彩河杏〉名義「お子様ランチ・ロックソース」で受賞したのがきっかけです。

 なぜペンネームが〈彩河杏〉なのか。すでにこのときから、少女向けの小説は自分の書いていきたいものとはちょっと違う、という感覚があったのかもしれません。編集者がつけたかもしれませんし、子供時代から使っていた名前なのかもしれません。しれません、しれません、ばっかり言っていて気持ちわるいですが、彩河杏がその後、コバルトを牽引するような人気作家になったのなら、逸話ももっと伝説化したでしょうけど、『胸にほおばる、蛍草』『彼の地図 四年遅れのティーンエイジ・ブルース』『憂鬱の、おいしいいただき方』『あなたの名をいく度も』『三日月背にして眠りたい』『満月のうえで踊ろう』『メランコリー・ベイビー』と、昭和63年/1988年10月から平成2年/1990年4月の1年半のあいだに7作を出したところで、担当編集者に呼ばれ、もう原稿を書かなくていいです、とバッサリ打ち切りの憂き目に遭いました。

 ただ、コバルトシリーズで書いているあいだい、本人のなかではずいぶん悩みがあった、とのちにいろんなインタビューやエッセイで回想しています。子供の頃から憧れていた「もの書き」になれたのに、人間、幸せに生きるのは難しいもんですね。

 回想のうちのひとつ、『文藝』で特集されたときの「自筆年譜」にこうあります。

「一九八八年――実家を出て中野区野方でひとり暮らしをはじめる。少女小説は売れず、しかし休みはなく、卒論も重なり、チョコレート中毒になる。少女小説というものの目指す方向性と、私の書きたいことは、どうも相容れないのではないかとこの頃になってようやく気づき、脱出をはかるべく他の文芸誌に応募する。これも最終選考で落ちる。」(『文藝』平成17年/2005年春季号[2月]「自筆年譜&アルバム」より)

 順番でいうと、そもそも最初に『すばる』のすばる文学賞に応募したのが、昭和62年/1987年4月30日締め切りの第11回。そのときは本名で最終選考にまで残り、受賞はできなかったものの、集英社の編集者に声をかけられて、コバルト・ノベル大賞応募のために書いたのが昭和63年/1988年1月10日締め切りの回です。

 それで作家ビューを果たしながら、自分の書きたいこととの溝を感じ、別の文芸誌に応募したのは、だいたい1年ほど経った頃かと思われます。自筆年譜などを参考にすれば、大学を卒業した平成元年/1989年の春先にはコバルトの編集者から〈解雇〉通告を受けたらしいので、その応募作はちょうどその頃から少し後に書かれたもののようです。応募先はいまはなき『季刊フェミナ』が発表媒体となっていた第2回フェミナ賞です。締め切りは平成元年/1989年10月31日。ちなみに、実際に最終候補になって受賞を果たし、「文壇デビュー」と呼ばれる第9回海燕新人文学賞は、締め切りが平成2年/1990年6月30日で、このあたりの1、2年はギュッと詰まっています。

 『海燕』のほうは、いまも使い続ける本名名義で受賞したんですけど、ギュっと詰まったこの時期は、本人によればいろいろとペンネームを使って書いていたんだとか。その頃、仕事で書いた雑誌の記事や、テレビ番組のノベライズ本などは、ペンネームで発表したらしいです。

 フェミナ賞のほうも最終候補に残ったものは、本名名義での応募ではありませんでした。第2回の記録を見ると、受賞者は田村総さんと加藤博子さんの二人。ほかに候補は4人いて、江藤あさひさん、津田美幸さん、菊野美惠子さんは、他に別の作品を書いているので、何となくわかります。たった一人、正体のわからないのが「純粋家族」という作品で応募した〈椎橋りん〉さんです。

 椎橋りん……。ほんとうにそれが、フェミナ賞に応募したときの別名義なのか、正直定かではありません。のちに『海燕』というしっかりした(?)雑誌でデビューしたので、もうそれはどうでもいいことなんでしょう。自分の進む道にもまだ先の見えなかった苦しい時代、ペンネームをとっかえひっかえすることは、どんな作家にもある……のかどうなのか、ともかく彩河杏さんはそうだった、ということのようです。

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2024年12月15日 (日)

伊達歩…小説家になんかなるよりも、作詞の世界でたくさん稼げたヒットメーカー。

 名前というのは、軽い気持ちで踏み込んじゃいけない、ちょっと腰が引ける問題をはらんでいます。

 まあ、イイ年こいて腰を引いている場合じゃないんですけど、歴史的に見ると、やっぱり名前というのはナイーブです。直木賞の場でも、あまり無遠慮に扱うのに躊躇するような例はあるような気がします。たとえば、国家や民族のことがからんでくるハナシなどは、その一例です。

 いかにも日本で使われそうな姓、付けられそうな名前をしたペンネームの作家が、ほかの民族にルーツを持つ人だ、ということはけっこうあります。

 直木賞の受賞者でいえば、立原正秋さん、つかこうへいさん、東山彰良さんなどがそのなかに含まれるでしょうし、候補者にまで範囲を広げるともっといます。

 どうして本名で活動をしないのか。本名だとどんな支障が出かねないのか。そういうことを考えていくと、「日本人っぽくない名前」に対してとやかく言い出す奴がかならず現われるという、我々が暮らしている社会の、イヤーな部分に直面しなきゃいけなくなります。まったく腰の引ける話題です。

 と、そういうなかで昭和25年/1950年に山口県で生まれた趙忠來さんは、朝鮮半島にルーツを持つ方ですが、名前に関してもなかなか他では見ない道のりを刻んできた人です。

 趙さんはのちに日本に帰化して〈西山忠来〉という別の名前をもつことになります。別の名前というか、そっちが本名ですから、〈趙忠來〉というのは生まれてからしばらく使っていたという意味で、こちらのほうが別の名前と言えなくもありません。人生、ひとすじ縄ではいきません。

 大学卒業後、広告代理店に勤め、そちらの業界で働きます。そのときには〈趙忠來〉の名前で仕事をしていたので、趙さん趙さんと呼ばれていたそうです。また人付き合いもよく、俳句の会合にも参加しますが、そこでは〈昆陽面〉という俳号を使いました。相当ユニークな句を詠んでいたそうです。

 広告の世界ではプロデュースにするにしろ何にしろ、言葉づかいの感覚が大事だということかもしれません。まったく広告にはうといので、わかりません。しかし趙忠來、なかなかデキる奴だと評判はうなぎのぼりに広がり、そのうち歌謡界でも頭角を表して、歌の詞を書く仕事も舞い込んできます。作詞家〈趙忠來〉……でもよかった気もしますけど、そこで付けたか、付けられたかした名前が〈伊達歩〉です。

 いまでは天下のWikipediaに「伊達歩が制作した楽曲」というカテゴリーがつくられるほど、多くの歌を書き、またなかには爆発的にヒットする曲も出て、作詞家として成功した人物のひとりと言っていいでしょう。本人はこんなふうに言っています。

「誰かが調べてくれたんだけど、私は作詞家として、いわゆるヒット曲が三十八曲あるんだって。

(引用者中略)

じつは小説家になっても作詞家の収入を越えてない。「小説は儲かるでしょう」と妙なことを言われるんだけど、作詞家のほうがはるかに良かった。筒美京平さんからは最後まで「伊達さんをこっちに取り返さなきゃ」と言ってもらった。ありがたいことです。」(平成26年/2014年11月・扶桑社刊、重松清・著『この人たちについての14万字ちょっと』所収「伊集院静 狂気の流儀」より)

 カネになることも、成功のひとつに数えて間違いありません。しかし、趙さんは、西山さんは、伊達さんは、どうにもそれでは満足できずに小説を書き始めました。

 小説を書くときのペンネームについては、それで何よりも有名になりましたし、直木賞もとりましたし、生涯のペンネームとして使われつづけたので割愛します。そこに大して意味はなく、ほとんど字面と雰囲気だけで付けられたような逸話が残っていて、その由来は由来で有名(?)なのだろうとも思います。妻となった夏目雅子さんに、そんな名前やめなよ、趙忠來のほうがいいよ、とさんざん言われた、というエピソードも含めて。

 けっきょくは名前なんかどうでもよかった、と考えるべきか。それとも、さすが広告業界は言葉の世界だ、名前の字面と響きのおかげで小説家としても大成できたのだ、と見るべきか。何をいっても結果論なので、いずれにしてもどっちもどっちです。

 いくつもの名前を変遷しながら、しかし何より大切なのは、どんな作品を残し、どんな生き方をしてきたのか。その一点に尽きる。ということを、最後の最後まで貫いた人だろうと思います。

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2024年12月 8日 (日)

南條道之介、有馬範夫…適当につけたペンネームかと思いきや、直木賞候補になったことで、それらを組み合わせた名前が固定化する。

 直木賞の候補になったのはすべて歴史もの。受賞した小説も主人公は遣唐使です。

 だけど、歴史・時代小説家なのかといえば、まあその一面は多分にあるんですけど、現代ミステリーや風変わりな伝奇小説もあって、とうてい一つのジャンルではくくれません。しかも本業は、まるで小説とは関係がない経済・金融を研究する学究の人だった、というんですから恐れ入ります。本名は古賀英正さん。第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞した人です。

 なぜ大学のまじめな先生が、面白ければそれでいいさの大衆小説などを書きはじめたのか。動機は本人が書き残しているのでよく知られています。

 昭和19年/1944年に町田波津子さんと結婚し、昭和20年/1945年に長女の正子さん、昭和22年/1947年には次女の良子さんが生まれて、一家を支えるお父さんになりますが、なにしろ私学の教員は給料が安くて、家計をまわすのに四苦八苦。何とか家計の足しにできる副業はないものかと、思いながら生活していたところ、たまたま見かけた懸賞小説の広告にぴぴんと反応し、昭和25年/1950年、『サンデー毎日』の戦後第2回千葉賞に応募して選外佳作。『週刊朝日』の朝日文芸「百万人の小説」百万円懸賞に応募してユーモア小説として入選。前者は選外なので賞金は出なかったでしょうが、後者は入選者として10万円を受け取りました。要するに金を稼ぐために小説を書き始めたというわけです。

 そのとき付けた筆名が〈南條道之介〉というものです。由来はよくわかりませんけど、別に長く使うつもりもなく、適当につけたんじゃないかと思います。

 味をしめて、昭和26年/1951年には『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説に筆名〈有馬範夫〉として現代小説を応募すると、それも二席入選を果たして賞金10万円を獲得。、このときは諷刺小説のほうでも〈南條道之介〉名義で応募して、そちらは選外佳作になりました。

 さらには昭和30年/1955年、『サンデー毎日』大衆文芸三十周年記念百万円懸賞に時代小説を投じて入選となって30万円をゲットします。そちらの筆名は〈町田波津夫〉、これはもう明らかに奥さんの旧姓の名前が由来でしょう。

 ともかく、でかい大衆文芸系の懸賞があればたいてい名前が残る、という賞金あらしとして名を馳せたわけですが、先週取り上げた戦前デビューの女性作家の場合とは違って、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんは懸賞小説から出てきても、さして屈託はありません。

 別にこれで生きていく必要もない大学の先生です。小説に本腰を入れようという気がどこまであったのか。よくわかりません。

 しかし、昭和27年/1952年に『オール讀物』の始めた公募型新人賞「オール新人杯」の第1回に応募して受賞してしまったのが運命の分岐点だったでしょう。大衆文芸の場合、懸賞から出てきた作家だからといって馬鹿にするというような、狭い心の文壇意識みたいなものは存在せず、大正の末期に大衆文芸という用語が生まれた当時から、懸賞からデビューした人はその後、大きく活躍しましたし、その系列に属する直木賞も、海音寺潮五郎さんとか大池唯雄さんとか村上元三さんとか、懸賞出の人に賞を贈ってぐいっと背中を押してあげる伝統がありました。

 しかも、今度は直木賞のおひざ元『オール讀物』が運営する懸賞です。そこから出てきた人を手厚く助け、直木賞をとらせて大きな作家に育てたい……といった文藝春秋新社の編集者たちの期待を受けて、〈南條道之介〉=〈有馬範夫〉さんもぞくぞくと同誌掲載のチャンスを与えられ、直木賞の候補に挙げられます。

 運命の分岐点というのは、その「オール新人杯」のときに使った、また別の筆名を終生変えずに固定化することになるからです。

 昭和63年/1988年に書かれた年譜には、こうあります。

「昭和二十八年(一九五三) 四十五歳

三月、「子守の殿」が第一回「オール讀物」新人杯を受賞。

五月、「不運功名譚」を「オール讀物」に発表、両作とも第二十九回直木賞候補となる。このときの筆名が南條範夫。〈模範的な夫〉という意味。」(昭和63年/1988年8月・講談社刊『日本歴史文学館7 室町抄/覇権への道』所収「年譜」より)

 オール新人杯をとったこともさることながら、受賞第一作とともにいきなり直木賞候補作に挙げられたことが、この筆名に落ち着くきっかけとなった、と言うこともできそうです。

 にしても、奥さんの名前を筆名にしてみたり、〈模範的な夫〉を生涯の筆名にしたり、ほとほと家庭的だったんでしょう。まあ、小説を書きはじめた動機が、家族に苦労をさせずになるべく豊かに生活するためのお金稼ぎだったわけですからね。そのあたり、古賀先生の小説に向かう姿勢は一貫しています。

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2024年12月 1日 (日)

岬洋子…夫の帰ってこない家で娘二人を育てながら、こらえ切れずに創作に立ち向かう。

 人の人生はさまざまです。「直木賞研究家」などと珍妙な肩書をかかげながら、別に体系だった調査をするわけでもなく、ただ自分の気になった事象や人物の表面だけをすくっているような野郎には、あまたいる直木賞候補者の人生の、何ほどもわかるはずがありません。

 いま同じ時代を生きている作家はもちろんですし、昔の人となればなおさらです。いったいどこで生まれ、何を考え、どういう生活信条で小説を書き、そして死んでいったのか。正直ほとんどわかりません。

 戦前の直木賞候補者であるこの人も、その一人です。第10回(昭和14年/1939年・下半期)で「妻と戦争」が、第14回(昭和16年/1941年・下半期)で「花開くグライダー」が直木賞の候補になりました。生まれは明治37年/1904年6月、本名を片桐君子さん、といいます。

 ただ、いったい両親はどんな人だったのか。まずそれが不明です。本人が語るところによると、「片桐」姓を名乗って君子さんを育ててくれた両親は、血を引いた実の親ではなく、自分にタネを残した男、腹をいためて産んだ女は、ほかにいたそうです。しかし、実の母親は東京・烏森で芸者か何かをしていた人、と聞いたことがある程度で、君子さん本人も、生みの親が何者だったのかよくわからないと語っています。

 それで、何の縁でか京都に住む牧場経営者の片桐治郎吉さんとその妻に引き取られて、戸籍上は「片桐君子」となった。というわけですが、本名での活動のほか、彼女もいくつかの筆名をつけ、そのなかの一つで世に知られるようになります。

 結婚したのは昭和3年/1928年、24歳のときでした。まだそのころは本名で女学校の英語教師をしていた頃で、文壇的には木村毅さんとか大宅壮一さんなどとは知り合っていたそうですけど、小説家としては無名も無名です。結婚したとはいっても、相手が片桐家に婿入りしたようで、君子さんの本名は変わらず、そのまま名乗りつづけます。

 しかし、娘を二人生むなかで、夫との生活は苦労の連続です。なにしろ夫の武さんは稼いだ給料は家には入れず、自分の交際費にほとんど使って、家にもあまり帰ってこなかったというんですから、君子さんじゃなくても、そりゃムカつきます。ムカつくなかで君子さんが手をつけたのが、小説の執筆。吐き出したいもの、叩きつけたいものは、鬱憤としてたまっていたことでしょう。

 君子さんは振り返っています。

「父はまもなく自分の仕事に失敗して、財産どころか、借金を背負わされるし、良人は殆んどもって帰らないし、子供は生れるしで、それから(引用者注:結婚してから)の十何年間を、私は毎日の新聞さえろくに読むひまもない貧乏世帯のやりくり生活をつづけた。少々の才能なんか、きれいにすりへらして、愚痴っぽい糠味噌女房になってしまったが、それでも子供たちが小学校へ通い出してやっと僅かなひまをみつけると、私は家計の赤字を埋めるために、家事のかたわら原稿でも書いてみようという気になった。

(引用者中略)

大衆小説、詩、短歌、歌謡曲、しまいには標語や告白もの類まで手あたりしだいに送った。こまかいものの当選は、大方忘れてしまったし、没となって陽の目を見ずにしまったのも数多かったが、三百円という当時としては大金の懸賞金を貰って、今に忘れられないのは、昭和十一年の週刊朝日に「ラーゲルの人々」が一席に、つづいて翌年「タイモリカル」が二席に当選したことである。五つばかりの筆名を使っていたが、大庭さち子は「ラーゲルの人々」に初めて使ったものである。」(『出版ニュース』昭和28年/1953年6月中旬号 大庭さち子「私の処女作と自信作 自信作など一つもなし」より)

 ちなみに、長女を生んだのが昭和3年/1928年、次女が昭和5年/1930年です。〈岬洋子〉の筆名で「光、闇を貫いて」が『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の選外佳作になったのは昭和8年/1933年なので、ほんとうに子供が学校に通うようになってから書き始めたのか、ちょっとつじつまが合わない気がします。

 さらにいえば、それより前、昭和6年/1931年には『主婦之友』4月号に「読者の実験談 恋愛結婚と媒酌結婚と果して何方がよかつたか?」に、兵庫県在住の〈大庭さち子〉名の体験談が載っていて、内容からして、うーん、これも君子さんの書いたものじゃなかろうか、だとすると「ラーゲルの人々」で初めてその筆名を使ったという証言も信じがたいんだが……と疑おうと思えば、果てしなく疑いは増すばかり。ぐるぐる目まいがしてきます。まあ小説家の回想ですから、事実関係にウソが交じっていても、目くじら立てちゃいけないよ、ということかもしれません。

 それはそれとして、デビュー前に筆名を五つほど使っていた、と回想にあります。〈岬洋子〉はわかっているんですが、その他、いったいどんな名前で応募していたのか。子供の世話をしながら、君子さんはどういう気持ちで別の名前を自分につけ、原稿用紙に向かっていたのか。きっと心のうちに渦巻くモヤモヤと戦っていたんじゃないかと想像しますが、それはもう本人にしかわかりません。直木賞の周辺は、いくら調べたところでわからないことだらけです。

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2024年11月24日 (日)

今春聽…出家したあと法名も二転三転、しかし小説はもとの名前で書きつづける。

 今年一年、令和6年/2024年もいろんなことがありました。

 ……と、気分はすっかり年末ですけど、今年が終わるまでまだ1か月もあります。その間には、第172回(令和6年/2024年・下半期)の直木賞候補作発表があるはずです。年に二回の大イベントがまだこの先に残っている。それだけを楽しみに令和6年/2024年を生き抜きたいところですが、ふと振り返ると今年の直木賞の世界にも大きな出来事がたくさん(?)ありました。

 そのなかの一つが、矢野隆司さんが一人の直木賞受賞者の年譜を刊行したことです。

 令和6年/2024年3月のこと、全1096ページ+36ページに及ぶ人名索引を二分冊に分けて、手にとるだけでずっしりした重みに思わず涙ぐみそうになる箱入りの年譜が出ました。著者の矢野さんによって耕されてきたン十年にわたる地道な調査・研究の成果を、このようなかたちで目にすることができて、感動、尊敬、歓喜の思いが腹の底から湧いてきます。

 年譜と対象となっているのはいまから半世紀以上もまえの、第36回(昭和31年/1956年・下半期)を受賞した人ですが、それまでの履歴、受賞したあとの言動を含めて世間の人びとの耳目を引く圧倒的な個性に満ちあふれる作家でした。じっさい、この人に授賞したおかげで直木賞のほうもヒト皮フタ皮むけて次のステージに踏み上がった、といっても決して言いすぎではありません。そのくらい直木賞にとっても重要な受賞者だと思います。

 この方も名前は一つだけでなく、別の名前を持ちながら世を渡り歩いた人でした。いまうちのブログがやっているテーマにしっくり来る人なのは間違いありません。

 生れたのは明治31年/1898年3月26日、横浜市伊勢町です。子供の頃から頭がよく、さらには文章を書かせても光るものを持ち、小説、随筆、評論など数多く本名で発表しましたが、矢野さんの年譜によると昭和5年/1930年、32歳のころに出家を決意したとあります。茨城県水海道にあった天台宗の安楽寺住職、弓削俊澄さんに師事して、この年の10月、安楽寺徒弟として得度、法名〈東晃〉を授かります。12月には役所に届け出て、戸籍の名前も〈東晃〉に変えたんだそうです。

 新進の作家が出家した。ということでメディアの上でも話題になり、東晃さんも何かれと文章を発表しつづけましたので、出家したからと言って出版の世界から断絶したわけではない、ということを矢野さんの『全年譜』に教えてもらいました。仏教の界隈は娑婆の社会とも地つづきです。頭をまるめたところで、そうそう日常から消え失せるわけではありません。

 それはともかく名前のハナシです。昭和6年/1931年には新たに〈戒光〉という法名を名乗り出したらしいのですが、その年には再び改名を希望。矢野さんの記述によると、昭和6年/1931年秋以降に〈春聽〉の法名を使いはじめ、天台宗務庁に残る記録では昭和7年/1932年3月に〈春聽〉と正式に改名した、ということのようです。なぜ最初の〈東晃〉のままではイヤだったのか。理由はワタクシなぞの凡人には皆目わかりませんけど、いずれにしても、わざわざ改名を願い出るほどに、法名っつうのは本人にとっても重要なものだったんでしょう。

 『全年譜』から引かせてもらいます。

「加藤大岳の随筆によると、運命学者で五聖閣の熊崎健翁が新たな法名として「春聽」を選び命名。命名の翌日、加藤大岳が「命名書」を西片町の東光宅に届ける。ちなみに加藤大岳は佐藤春夫門下生でもあった。」(令和6年/2024年3月・今東光[全年譜]刊行事務局刊『今東光[全年譜]』1931年(昭和6年)夏の項より)

 よくわかりませんが、霊験あらたかな、ありがたい法名だったようです。

 その後、春聽さんは二つの名前で活動します。その法名=戸籍上の名前と、もとからの旧名と。

 出版物や書かれたものの署名にも二種類があります。おおむね小説の類は旧名を使ったようで、直木賞を受賞したときも名前は旧名、生まれたときに親がつけくれた名前です。

 のちに弟子になる瀬戸内晴美さんは、出家して名づけられた〈寂聴〉のほうを終生使いつづけました。そう考えると春聽さんのような名前の使用例は、けっして当然だったわけではなく、法名が本名となった段階でそちらの名前に切り替える道もあったはずです。直木賞受賞者〈今春聽〉。そんな未来もあったかもしれません。

 生まれたときの名前を、30歳すぎて改名して別の本名になったはずなのに、ものを書くときは旧名を捨てずにその名前で貫いた……ややこしい名前の変遷です。ややこしくはあるんですけど、これはもう、春聽さん自身の生きざまや活動範囲がややこしいことに由来するものだと思うので、それはそれで腑に落ちるややこしさ、のような気がします。

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