2024年10月13日 (日)

花村奨…いっとき使った小説家としてのペンネームは忘れられても、それを蹴散らすほどの仕事を成し遂げる。

 約100年も前の大正15年/1926年に始まった『サンデー毎日』大衆文芸懸賞という企画があります。うちのブログでは、さんざん取り上げてきましたが、作家の名前というテーマで見たときにもやはり、この企画のことは外せません。

 当時、ペンネームで懸賞に当選したり選外佳作になったりした人が、のちに別の名前で有名になった、なんちゅう例がゴロゴロしているからです。最も有名なのは〈沢木信乃〉を名乗った井上靖さんかと思いますが、それ以外にもたくさんいます。今週はそのなかの一人、昭和14年/1939年度上期で選外佳作になった花村奨さんを取り上げてみようと思います。

 花村奨……というこの名前がのちに有名になったかどうかは、ちょっと疑わしい気もしますけど、大衆文芸の世界では見過ごせない偉業をなした人と言って、おそらく異論は出ないものと思います。それは実作者というより、宝文館の、そして新鷹会『大衆文芸』の、有能な編集者だったからです。

 これは前に書いたハナシかもしれませんが、あらためて言いますと、戦後第22回(昭和24年/1949年・下半期)の受賞者に、山田克郎さんがいます。受賞作の「海の廃園」は『文藝讀物』に載った短篇で、受賞したのはいいものの、雑誌を読んでなけりゃだれもその受賞作は読めません。

 しかも、『文藝讀物』を出していた日比谷出版社は、直木賞の運営母体(いまでいえば文藝春秋)の一翼を担っていながら、あっさりと戦後経済の荒波にもまれてハジけ飛んでしまい、雲散霧消。せっかくの受賞作を本にしてくれるはずの後ろ盾を失って、山田克郎さん、困ったことになりますが(ほんとうに困ったかどうかは知りませんけど)、そこに手を差し伸べたのが宝文館の編集者だった花村さんだ、と言われています。『海の廃園』はどうにか宝文館から書籍され、多少のお金が山田さんのもとにも入った……はずです。

 花村さんは直木賞の候補になった戦前からずっと大衆文壇でやってきましたので、山田さんとも友人の仲。困った人を見ると見逃せない花村さんの男気が、宝文館唯一の「直木賞受賞作本」に結びついたというわけです。

 編集者としての花村さんの足跡は、没後に編まれた『行路 花村奨文集』(平成5年/1993年10月・朝日書林刊、山本和夫・編)の一冊からも感じ取れるところです。ネットでは、皓星社の河原努さんが「趣味の近代日本出版史」のなかできっちりと取り上げてくれています

 あるいはその人柄は、これもまた友人の真鍋元之さんが『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』(昭和56年/1981年8月・光人社刊)で、花村さんのことをこう評しています。

(引用者注:真鍋の住む)板橋にはまた、詩人の江口榛一も住んでいたが、この江口を、わたしに紹介したのも、花村である。かれらふたりは、おそらく詩を介して知り合ったのであったろう。

(引用者中略)

われわれ三名のうち、もっとも冷静に、事務的な頭がはたらくのは、花村であった。」(真鍋元之・著『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』より)

 ほかにも「万事に気のまわる花村奨」との表現も出てきます。戦後、宝文館の社長だった大葉久治さんは、疎開中だった花村さんをいち早く東京に呼び寄せて、出版事業の再建に乗り出したそうで、よほど編集者として信頼されていたことがうかがえます。

 ちなみに宝文館では、『令女界』や『若草』の編集もしていましたが、同じ職場には山崎恵津子さんがいました。昭和22年/1947年、梅崎春生さんと結婚する女性ですけど、こんなところでも花村さんは直木賞と縁があったんですね(すみません、ちょっと縁というには遠すぎました)。

 花村さんがペンネームで書いた「首途」という直木賞候補作は、発表された時期も時期で、要するに日本が軍国化を推し進めるその土壌の上に書かれた作品です。いまとなっては顧みる人がいるとは思われない、なかなか不幸な時代背景を負った候補作なんですが、しかし戦後、花村さんが本名で書き続けた数々の小説や読み物はさることながら、宝文館で数々の雑誌、書籍の編集稼業のなかから生み出した作品群や、『大衆文芸』に拠って仲間や後輩たちに叱咤激励をかけながら、長谷川伸さん亡きあともこの雑誌を長らくつくりつづけた功績は、もうひれ伏すしかありません。

 直木賞の候補者だった、ということより、そちらのほうの業績を、もっと掘り起こすべき人でしょう。ワタクシなんぞが出る幕ではありません。

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2024年10月 6日 (日)

江夏美子…直木賞の候補になったあとに、心機一転、名前を変えたらまたも直木賞の候補に。

 先週取り上げたのは、一つの名前を二人の作家が使った、という珍しい例でしたが、今週はもう少し一般的です。一人の作家が二つ(以上)の名前で小説を発表した、というおハナシです。

 そんなものは、別に珍しいことじゃありません。ただ、直木賞という狭い舞台に限っていうと、一人のひとが違う名前で複数回、候補に挙がったというのは、そんなに当たり前でもありません。あまりない、と言ってもいいと思います。

 第50回(昭和38年/1963年・下半期)候補になった『脱走記』と、第52回(昭和39年/1964年・下半期)候補の「流離の記」。それぞれの作者は、最後の一文字が違うだけの似通った名前の持ち主ですけど、正真正銘、同一人物です。本名は中野美与志さんと言います。女性です。

 うちのブログもだらだら長くやっているので、中野さんについては、すでに以前に触れたことがあります。中野さんが主宰する同人雑誌『東海文学』にスポットを見ててみたときです。

 果たして中野美与志とは何者か。ワタクシだってそこまで詳しく知っているわけじゃないんですけど、ざっと履歴をおさらいしてみますと、中野さんが初めに創作をスタートさせたのは、戯曲やドラマの分野だったと言われています。

 昭和18年/1943年、大阪商工会議所主催の戯曲募集に投じた「母ぐるま」が入選、というのが最も古い受賞歴です。当時、旧姓・吉山美与志さんは大阪で中野茂さんと結婚し、その地で暮らしていたので、大阪商工会議所の企画に名を止めたものだと思われます。20歳のころです。

 以来、ペンネームは〈江夏美子〉と決めて、戦後NHKラジオ脚本でも入選を果たします。やがて視線は小説のほうに向いていき、次々生まれる子供を育てながら、家事のかたわら原稿用紙に張りつきますが、そこでも名前は〈江夏美子〉を使いつづけ、『文芸首都』に投稿したり、新潮文学賞や『文學界』の懸賞に応募したりするうちに、次第にその名が知られるようになります。

 当時、女性の作家は、まったくいなかったわけではありません。だけど男性と比べて比率は少なく、中野さんの作品が高く評判を呼んでいるのを見て、こんなことを言う人がいたそうです。

 女の作家は希少価値があるからね、だから優遇されているだけだろ、とか何だとか。

 〈美子〉という名前がいかにも女性っぽい。……というわけでもなかったでしょうが、いつの時代も口さがない輩というのはいるものです。女性だから得している、などとまわりから雑音が聞こえて、中野さんもそりゃあムッとしただろうと思います。

 ワタクシは、中野さんとじかに接したこともなく、勝手に想像することしかできませんが、その後めげずに小説を書きつづけ、それだけじゃ飽き足らずに自ら同人雑誌まで主宰して、ぐいぐい、ずんずんと歩みつづけたぐらいの人です。しおらしさや、かよわさとは縁のない骨の太い人柄だったことでしょう。

 じっさいに中野さんと何度も語り合ったことのある岩倉政治さんは、彼女についてこんなふうに回想しました。

「時として自信過剰を思わせる無邪気さで、ひとをめんくらわせることもあったし、作家として思想の重要性を口にしていた彼女自身、もっと歴史観、社会観について自分に課していたものもあったに違いない。もし彼女がさらに生きのびて、それらの課題を深めた暁には、例えば宮本百合子や野上弥生子らと肩を並べるような大成を果たしたかもしれぬとぼくは思うのである。

(引用者中略)

彼女はやはり彼女らしい負けん気を、みずからのいのちを断つ仕方で、つらぬいた。つまりガンが持ち込もうとしていた死についての主導権を自分が取りガンに死刑を与えたのだ。」(『民主文学』昭和58年/1983年1月号、岩倉政治「江夏美好さんを悼む」より)

 「自信過剰を思わせる無邪気さ」という表現が印象的です。うん、そんな人、世のなかにはけっこういるもんなあ。

 それで筆名のことなんですけど、おそらく中野さんほどの思慮深い人ですから、その付け方にはきっと重い理由があったものと思います。

 そもそもなぜ〈江夏美子〉という名前を付けたのか。長く使いつづけたその名前を、『東海文学』での「脱走記」の連載が終わって単行本化されたのを機に、いったん脱ぎ捨て、昭和38年/1963年に改名しますが、そのとき付けた〈古賀由子〉という名の由来は何なのか。

 よしこ、という読みに何か思い入れでもあるのかと思いきや、〈古賀由子〉の名前はあっさり撤回し、ふたたび〈江夏〉の姓に戻して、再々度、別の筆名を名乗りはじめます。名前をあれだこれだと変えたこの時期に、二度も直木賞の候補になったのですから、直木賞ファンとしても、知らない顔はできません。

 ううむ、これら命名の変遷には、中野さんのどんな心境が反映されていたんでしょうか。くわしい人の解説を待ちたいと思います(と、けっきょく人まかせ)。

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2024年9月29日 (日)

山手樹一郎…一人の若手作家が使っていたペンネームが、別の人に受け継がれて直木賞候補になる。

 直木賞の歴史は無駄に長いので(と、いつもこんな書き出しですけど)、変なことがときどき起こります。候補者の名前についても例外じゃありません。

 過去、直木賞の授賞がいったん決まりながら本人が辞退して授賞なしといった例は、第17回(昭和18年/1943年・上半期)の一回だけです。その辞退した作家は、戦中・戦後におよんで多くの読者を魅了し、直木賞そのものを追い抜いちゃうほどの知名度を獲得したので、彼の生涯や作品を対象にした研究や評論は、いまも絶え間なく生み出されつづけています。

 そのなかの一つに、彼が使った筆名・ペンネームの研究という分野があります。

 清水三十六さんという本名を持ちながら、直木賞の候補になって受賞辞退としたときの筆名はもちろんのこと、他にも数々の筆名を使っていて、いったいどれだけの名前があったのか、いまも全貌はわからないらしいです。竹添敦子さんや末國善己さんなどの熱心な研究のおかげで、〈甲野信三〉名義の作品が発掘されたのは、つい10数年前のことです。記憶に新しいかと思います。

 有名になる前に、さまざまな筆名を使い分けるのは、清水さんだけの特徴とはいえませんが、たとえば戦前には〈俵屋宗八〉〈佐野喬〉、戦後になっても〈黒林騎士〉〈折箸蘭亭〉〈風々亭一迷〉〈覆面作家〉などなど、やたらと多くの名前で作品を発表しています。名前なんてどうだっていいじゃないか、作品がどれだけ読者の心に届くかが重要なのさ、と言わんばかりの乱発ぶりです。

 それで、そういうペンネームのなかに〈山手樹一郎〉もあった、というのですから仰天です。直木賞の歴史を見ても、こんな事態をつくり上げたのは、おそらく彼だけでしょう。

 この辺りの事情は、あまりにも有名なハナシすぎて、いまさらナゾるのも気が引けるんですが、しかし直木賞エピソードにもつながることですから、いちおうさらいしておきます。

 清水さんがまだ駆け出し作家だったころ、親しかった編集者に井口長次さんがいました。小学新報社の雑誌『少女号』の編集をしていた頃に清水さんと知り合い、原稿を売り買いする間柄になりますが、井口さんが博文館の『少年少女 譚海』に移ってからもその関係は変わらず、井口編集長は清水さんの話づくりのうまさと面白さを買って、時代小説、探偵小説、冒険小説を次々と雑誌に掲載します。

 井口さんはのちに回想しています。

「しまいには時代小説、冒険小説、探偵小説なんでもござれとよくこなして、おもしろいから変名で二つぐらいずつ載せるようになった。或る時なにかの都合で三つ載ることになり、もう一つペンネームが必要になった。たしか現代物だったと思うが、ぼくはそれに山手樹一郎という筆名をつけた。山手はぼくの母方の姓で、山本の山がおなじだから、山手線一郎としゃれようかと思ったが、それではあまりふざけすぎると考え、樹一郎にした。」(昭和30年/1955年5月・和同出版社刊、山手樹一郎・著『山手樹一郎短篇小説全集 第一巻 うぐいす侍』「後記 めくら蛇の記」より)

 ふうむ、もしこのとき井口さんが悪ノリしちゃう性格の人だったら、ペンネームは山手線一郎になっていたかもしれません。

 直木賞は麻布競馬場さんが候補になって、浅田次郎さんにペンネームのことでイジられるぐらいなので、「山手線一郎」が出てきても別に全然よかったんですけど、残念ながら井口さんの生真面目さがそれを阻みます。

 しかし、けっきょく清水さんの数あるペンネームの一つとして付けられた〈山手樹一郎〉は、数奇な運命をたどることになりました。その後、井口さんが『サンデー毎日』大衆文芸に応募するときに、井口さん自身が使用。すると、その名前で小説家として立つようになったおかげで、第15回(昭和17年/1942年・上半期)「余香抄」が直木賞の最終予選一歩手前まで行ったあと、第19回(昭和19年/1944年・上半期)に「檻送記」で、直木賞の最終候補として議論の場に挙げられます。

 一人の若手作家が、かつて使っていたペンネームが別の人に受け継がれ、当の若手作家も候補になる、受け継いだ人まで候補になる、というペンネームマジックが直木賞の歴史に刻まれたわけです。おお、アメージング。

 ……と、こんなことで興奮するのは、直木賞オタクだけですか。そうですよね。あまりにどうでもいいことすぎて、名前なんてどうだっていいだろ、と言う人の気持ちも、わからないではありません。

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2024年9月22日 (日)

テディ片岡…軽妙なコラムや読み物で人気を集めた人が、小説を書き始めるとともに名を変える。

 日本の大衆文芸、エンターテインメント小説の分野は、だいたいいつの時代も賑やかです。

 新しい書き手がどんどん出てくるわ、新しい作品が絶え間なく生まれるわ。そこの土台に乗っかっている直木賞も、一年に二回じゃ足りないぐらいに、受賞にふさわしい作家が次々と出てきます。昔もいまも。

 だけど、直木賞の歴史を見ると、授賞なしが連続したり、断続したりしていた時期が、明らかに存在します。直木賞、いったいお前は何をやっていたんだ、とあきれられてもおかしくありません。時代でいうと1970年代、昭和50年なかばの頃です。

 そんな時代に候補に挙げられながら、直木賞はとらなかったけど、ずっと商業ベースの小説を書き続け、ファンの心をがっちりつかんできた作家がたくさんいます。今週はそのなかから、第74回(昭和50年/1975年・下半期)に「スローなブギにしてくれ」で候補になった作家のことを少し書いてみることにしました。候補になったときに使っていた作家名とは別に、違う名前でも一世を風靡(?)した人だからです。

 昭和43年/1968年、KKベストセラーズから出た『意地悪な本 あなたもやってみませんか!』は、伝えられるところによると12万部も売れたそうです。著者は、しとうきねおさんと、テディ片岡さん。少し発想をひねった物の見方と、軽くてユーモアあふれるマンガないし文体をひっさげて、大いにウケた……と言われています。

 このうち、テディ片岡さんのほうが、のちに直木賞の候補になった人なんですが、1960年代、テディさんはまだ早稲田大学の学生だった頃から『マンハント』の雑誌あたりに続々と文章を発表して、昭和37年/1962年に大学を出たあとも、サラリーマンにはなり切れず、文章を書くことで生計を立てます。

 翻訳ミステリ雑誌から出てきて、その後、『C調英語教室』(昭和38年/1963年2月・三一書房/三一新書)や『味のある英会話』(昭和40年/1965年4月・三一書房/三一新書)を出すなど、コテコテの日本式・和風なテイストをとっぱらったアメリカンな装いが、きっと新しい感覚と見られたものでしょう。まじめぶらずに、おふざけの要素を強く入れ込んでいるのも、テディさんの特徴ですが、時代が求めるものは硬派より軟派だったでしょうから、他の同時代のコラムニストに共通する特徴だったかもしれません。

 このあたりはもう、60年代、70年代の異様に熱を帯びていた雑誌文化にくわしい人はたくさんいるので、後から生まれた世代はそういうオジサン・オバサン(ジイサン・バアサン)たちの、自慢話と思い出話の境のあいまいな回想録を読んで、そのころの時代の風を感じるしかありません。ともかく、そういったイケイケの出版文化のなかで、テディさんも若者たちから熱烈な支持を受けることになります。

 そんなテディさんが、どうして30歳をすぎて小説なんてものを書き始めるのか。ヒトさまの心持ちはまったくわかりませんけど、だいたい32~33歳ごろからテディさんは小説の方向に向かいはじめます。と同時に「テディ片岡」の名前を脱ぎ捨てます。

 テディさんが編集者として、あるいは書き手として創刊に関わった雑誌に『ワンダーランド』(昭和48年/1973年6月創刊)があります。その頃の回想を、オジイサンもオジイサン、津野海太郎さんが書き残してくれていますので、正座して耳を傾けてみましょう。

(引用者注:テディ片岡は)年齢でいえば私と似たようなものだったが、なにしろハワイの日系人二世の息子だから、アメリカかぶれの要素などカケラもない。かぶれも反撥もひっくるめての日本人のアメリカ幻想のみならず、アメリカさえも内側から突っぱなして見ているような気配があって、こいつはちょっとレベルがちがうな、とおもった。優劣の問題ではない。日本のなかでもアメリカでも異物。立っている土台がはじめからちがう。

ただし、この(引用者注:『ワンダーランド』創刊の)段階でそのことに気づいていた人間はかならずしもおおくはなかったろう。だいいち、かれ自身がまだ雑文家「テディ片岡」の尻尾をひきずっていた。そのテディ氏が創刊号から『ロンサム・カウボーイ』という連作を書きはじめ、そのことで「片岡義男」という作家が誕生する。かれがじぶんから書くといったのか、ほかのだれかがそうすすめたのかは失念。おそらく前者だったのだろうとはおもうが――。」(平成20年/2008年10月・本の雑誌社刊、津野海太郎・著『おかしな時代――『ワンダーランド』と黒テントへの日々』より)

 失念するあたりが(「失念」と書くあたりが)津野さんらしいよな、と思います。ただ、仮にだれかに勧められて新しい名義で「ロンサム・カウボーイ」を書きはじめたのだとしても、まもなく『野性時代』のほうでは完全に「テディ片岡」を捨てて小説に向かっているので、やはりご本人の意欲・意思が、創作した物語をある程度の文量で書く小説の形式にあったのは、たしかです。

 そうして違う分野にやってきたテディさんの小説を、すぐさま候補に挙げた直木賞の予選は、なかなかあなどりがたいものがあります。作者35歳、このときの選考委員は50代3人、60代3人、70代3人。……と、何でもかんでも世代論で片づけるわけにはいかないな、と思うのは、御年75歳の石坂洋次郎さんが「スローなブギにしてくれ」を大変褒めているからですが、あまりにサラッとした作品だったために、まるで受賞にはからめずにしりぞけられてしまいます。

 まあ、直木賞は昔っから重苦しいものが大好きです。人の好みは千差万別、落選するのもしかたありません。

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2024年9月15日 (日)

谷川早…別の名義で書いた作品と同じ回に、直木賞の選評にその名が登場する前代未聞の作家。

 直木賞の歴史は無駄に長いです。

 無駄に長いので、いまじゃ考えられないようなことが起こったりすることもありました。この賞の歴史をえんえんとたどる醍醐味は、そういうものに遭遇するところにあるのだ、と言っても過言じゃありません。

 いまから84年前の第11回(昭和15年/1940年・上半期)、昔も昔で、当時の直木賞のことをリアルタイムで覚えている人は誰もいないでしょうけど、『文藝春秋』昭和15年/1940年9月号に載った選評(選考経緯)において、直木賞史上、驚天動地の事態が巻き起こりました。

 同一人物の作品が、二つの別の作者名で議論の俎上に上がったことが、選評のなかで明らかにされていたからです。

 ……と、それを書いた宇野浩二さんは、別にそれぞれの作者が同じ人物だと指摘しているわけでもなく、勝手にワタクシが興奮しているだけなんですけど、このとき直木賞にはかる参考作品として主催の日本文学振興会がつくった資料に、谷川早「平賀源内捕物帳」(『講談倶楽部』)1・2・5、というものが挙がっていました。

 どうして、1と2と5だけなのか。よくわからないナゾだらけの資料ですが、そもそも〈谷川早〉って何者だ、という感は否めません(否めるか)。書いているのは『講談倶楽部』のこのシリーズと、昭和15年/1940年4月に博文館から出た『顎十郎捕物帖』だけ。で、《顎十郎~》は『奇譚』という雑誌で、そもそも〈六戸部力〉なる作者が書き継いでいた連作なのに、どうして単行本のときに〈谷川早〉と名乗り直しているのか。ナゾもナゾです。

 ただ、この作家はその後、戦後になって直木賞を受賞していますし、いや、賞なんかとは関係なく、その作品に惚れ込む人たちがいまに至るまで大勢います。どうして、これらの捕物帳だけ〈谷川早〉の名前を使ったのか、とっくのとうに調査・分析・解明されていることでしょう。いまさらうちのブログでだらだら取り上げるまでもありません。

 でもまあ、うちは直木賞専門ブログです。直木賞のことなら書かずにはいられません。探偵小説から海外物、何のこっちゃのおハナシまでいろいろ書いた本名・阿部正雄さんが、どうして直木賞の場では(第11回の「葡萄蔓の束」を除いて)時代物ばっかりで候補になったのか。これも、無理やり言えばナゾめいていると言えなくもありません。

 と思ったら、すでに阿部さんの直木賞候補と時代物について、川崎賢子さんが書いていました。……自分が考えるようなことは、だいたい誰かがすでに思いついているものです。阿部さんぐらいの作家になれば、研究の歴史も長く、なおさらです。

 戦時中に作家になった阿部さんのことを、川崎さんは書いています。

「十蘭はひどい時代に小説家となった。(引用者中略)初めて久生十蘭の筆名を用いたのは「金狼」発表時、一九三六年で二・二六事件、戦線の拡大と文学者動員の圧力はやむことなかった。

(引用者中略)

ひどい時代には時代物に現代を託する、歌舞伎ジャンルの方法を十蘭も受け継いでいる。史実と創作、史料と偽書が縦横にないまぜにされている。贋金造りのように嘘を実録らしくみせるのが小説の醍醐味だというのが久生十蘭のポーズである。」(平成27年/2015年2月・河出書房新社/文芸の本棚『久生十蘭 評する言葉も失う最高の作家』所収、川崎賢子「十蘭つれづれ 偽書をかきわけながら」より)

 おそらく川崎さんが論じたい部分とは全然違う方向での引用になって、すみません。

 直木賞との関係を、ここからワタクシなりに解釈すると、つまりこういうことです。戦争が出版物や創作のうえで多くの縛りを設けさせた直木賞の戦前期。阿部さんも、その時代にまだしも存在を許された「時代物」という形式をとらざるを得ず、おのずと候補に挙がる作品も時代物ばかりになってしまった……と。

 時代物に見せかけて、実はつくりにつくった虚構の世界、という阿部さんの本領は、戦前の直木賞ではいまいち評価されずに終わります。谷川早の名前で挙がった諸作も、だれがどんな意図で直木賞の参考作にしたのか、どれだけの選考委員がそれを読んでどんな感想をもったのか、もはやすべては霧の中です。

 ところが戦後、昭和26年/1951年にもなって、またまた阿部さんの作品が直木賞に図られて、けっきょく直木賞のほうが、参りました、遅くなってすみません、もらってやってください、とこうべを垂れることになるんですけど、それがまた「鈴木主水」という時代物(に見せかけたナントヤラ)だったのが、直木賞の歴史にぐっと深みを与えています。戦前から戦後まで、阿部さんのやっていることは何も変わっていない、ということをあえて時代物を候補に挙げることで示してみせた上で、あのときは直木賞の側が理解できなかったんだと詫びる姿勢を公然と見せた(ように見える)からです。

 ああ、あのときは間違っていた、とあとで気づいたら、正直にその非を認めるのは大切です。そのことをワタクシは第26回の直木賞から学びました。

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2024年9月 8日 (日)

氷川瓏…直木賞候補になろうが落とされようが、本名名義での文学修業をやめずに続ける。

 氷川瓏。ひかわ・ろう。いい名前です。ロマンチックで蠱惑的で、強烈なインパクトがあります。

 作家として有名か有名じゃないかでいったら、おそらく有名じゃないほうの部類です。だけど、ミステリー(というか推理小説)のアンソロジーとかでたまに氷川さんの作品を見かけることがあって、そういうものを読んだときから、いやあ、いい名前だよなあ、とかすかに意識させられた覚えがあります。直木賞ばっかり追っていないで、たまには別の本を読むのも大事ですよね。

 ちなみに直木賞の候補者リストを何回見ても、氷川さんの名前は出てきません。幻想的な小説が多かったようだし、それはそれで仕方ないか、と思うんですが、ところがずらずらと並んだ候補者のなかに、実は氷川さんの本名がまじっている、と知ったのはいったいいつのことだったか。すっかり忘れてしまいましたが、ともかく「氷川瓏」とは似ても似つかぬ、堅苦しくて実直そうな名前が氷川さんの本名で、たしかに第27回(昭和27年/1952年・上半期)の候補のひとりに挙がっています。作品名は「洞窟」、初出は『三田文学』です。

 氷川さんは昭和10年/1935年、東京商科大学(のちの一橋大学)専門部を出ています。そういう人が、どうしてペンネームとは別に本名で小説を書いているのか。詳しい動機はすでに熱心なミステリー研究者が調べ上げていることでしょう。

 それはともかく、どうして一橋の同窓生が慶應義塾と縁ぶかい『三田文学』に登場しているのか、どうして、そんなお固い同人雑誌に載った片々たる短篇が文芸のなかでも邪道といわれる直木賞なんかの候補になったのか。そちらのほうは、何となく理由は察せされます。はっきり言って木々高太郎さんのおかげです。

 木々高太郎。あんまりいい名前じゃありません。……と、そういうテキトーな個人的な感想はおいときまして、戦前はじめて探偵小説で直木賞を受賞し、戦後その実績から直木賞の選考委員に列せられると、まわりにいた文学志望者たちに直木賞をとれ、直木賞をとらなきゃ駄目だと言わんばかりにケツを叩いたという、いわずもがなの直木賞の申し子です。

 慶應出身の木々さんは、戦後『三田文学』の再建者のひとりとして編集の中枢に据えられます。探偵小説はまた文学として評価されるものでなければならない、と強い信念を持ち、同じような考えをもつ探偵作家たちと気炎を吐いたのは、まだ戦後まもなくの頃。その若い仲間たちのなかに、氷川さんもいました。

 氷川さん自身はそこまで自分で探偵小説を書いていこう、という欲があったようには見えませんが、昭和21年/1946年『宝石』の通巻2号目、5月号に江戸川乱歩さんの引きで「乳母車」が掲載されて、探偵文壇の人として遇されます。

 そちらのグループのほうでは、たしかに商業的に原稿が売れることもあって、氷川さんが作家・文筆業としてやっていくには「探偵小説・推理小説」の看板は、決して無意味なものだったとは言えません。しかし、本人は文学をやっていきたいとする気持ちが捨てられず、とくに木々さんが盛んに大口を叩いていた「探偵小説は文学たれ」に深く共鳴します。

 そうして書いた小説が、木々さんにも受け入れられ、木々さんたちがやっている『三田文学』に掲載。さらには、木々さんには『三田文学』から直木賞・芥川賞を! の思いが強かったので、その意向に沿ったかたちで第27回の直木賞の候補にねじ込まれた……といういきさつは容易に想像できるところです。

 けっきょく直木賞は全然だめでしたが、なんだよ木々先生、選考会で強く推してくれなかったのかよ、と逆恨みすることなく、氷川さんはその後も木々さんと(だけじゃなく、乱歩さんとも)友好的な関係を保ちます。さすが人間ができていますね、氷川さん。

 山村正夫さんによれば、それまで乱歩さんの邸宅で新年会がひらかれるのが恒例だったのを見て取った木々さんが、うちでもやろうと思いついたのかどうなのか、昭和31年/1956年から毎年木々さんの家でも行われるようになったそうですが、このとき幹事役を仰せつかったのが氷川さんです。

「たまたま氷川氏が、(引用者注:昭和31年/1956年)一月八日に個人で木々先生のお宅へ年賀におもむいたところ、先生より提案があり、「人選は、大坪砂男君と相談して、きめてほしい」と言われたという。」

そこで大坪、氷川両氏が幹事役となり、先生のお宅へ集まったのは、両氏のほかに渡辺啓助、永瀬三吾、日影丈吉、中島河太郎、阿部主計、夢座海二、朝山蜻一、古沢仁、宇野利泰、今日泊亜蘭、松本清張らの諸氏で、十三名だった。

(引用者中略)

「氷川氏の話によると、この新年会は年を追うごとに盛会になり、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎、小山いと子、松井玲子などの諸氏が新たに参集した。これがしだいに発展して、先生主宰の純文学志望作家の集いになり、昭和三十八年にはこれらの諸氏の手で同人雑誌『詩と小説と評論』(原文ママ)が創刊され、現在に至っている。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊、山村正夫・著『推理文壇戦後史』より)

 ふむふむ、こういうハナシを読むと、言い出しっぺというのはだいたい呑気だけど、その意向に従って別に仕事でも何でもないのに、きちんと場を設けてあげた下働きの人の偉さに、思いを馳せないわけにはいきません。伝説の同人雑誌『小説と詩と評論』ができて、そこから何作も直木賞候補が生まれて、といった直木賞の歴史は、煎じ詰めれば、このときに嫌な顔ひとつせず(?)新年会の開催に尽力した氷川さんいればこそ、だったんですね。

 ちなみに氷川さんは、やはり本名で『小説と詩と評論』に参加しています。そちらでは、もう一切、自分が直木賞の候補に挙げられることはありませんでしたが、それでもずっと木々さんのもとに付いて、文学修業に励んだというのですから、その実直さが胸にしみます。

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2024年9月 1日 (日)

影山雄作…純文学を書いて10年、身も心ももたなくなってキッパリと創作から手を引く。

 先週は三谷晴美さんのことを取り上げました。もとはその名前で少女小説を書きながら、もっと「文学」チックなものを書こうと挑戦したとき、筆名を変えたという昔の例です。

 昔は昔なんですけど、そんな例は現在も含めて、たぶん古今東西くさるほどあります。だけど「たぶん」で済ませられないのが、直木賞オタクの面倒くささで、それぞれがどういう背景をもった例なのか、一つひとつの事案を見ていかないと胸にマグマがたまって熟睡もできません。

 ということで、今週もまたそんなハナシです。作品ジャンルをがらりと変えるタイミングで筆名もバッサリと変更した人。影山雄作さんのことに触れたいと思います。

 影山さんが小説家デビューしたのは平成4年/1992年のことで、およそ40歳前半のときでした。三谷晴美さんや北原節子さんなどと圧倒的に違うのは、それまでまったく小説や文学なんてものには興味がなく、作家になりたい、文学で生きていきたい、などとはまったく考えていなかったところです。

 ほんとに考えていなかったんでしょうか。影山さんのエッセイやインタビューでたびたびそう語られているだけのことなので、真意はいっさいわかりません。ただ疑っても仕方ないので、そこは信じて先に進みます。

 大学を卒業して影山さんは東洋経済新報社に就職しますが、そこで編集者になったわけじゃなく、企業広告を手がけるコピーライターとして会社から月給をもらいます。へえ、東洋経済にはそんな部署もあるんだ、出版社の世界もなかなか奥が深いもんですね。会社員生活を18年間つづけます。

 影山さんが小説を書いてみる気になったのは、会社を辞める少し前ぐらいのことだったようです。それまで小説なんて大して読んでこなかった中年オヤジが、なぜそこで初めて小説を書いてみようなどと思ったのか。そこら辺が人間心理(あるいは環境)のめぐり合わせの不思議ですけど、ちょうどその頃、デジタル化の波がうねりを上げて社会全体に広がってきていた時代に当たり、影山さんも仕事柄、企業の最新動向には目を配らせていましたから、そこで出会った素材を前にして、うん、何だかこれを核にして小説にしてみたい、と思ったんだそうです。会社勤めのかたわら、しこしこ原稿を仕上げまして中央公論新人賞に応募。それが「俺たちの水晶宮」です。

 語り手は海浜幕張にある、世界一巨大なコンピューターメーカーWBMの幕張テクニカルセンターに勤める男、加藤武志。出身は佐賀県ですが、やたらと田舎くさいものを毛嫌いしています。

 同じSE仲間の長崎顕代は富山の出身で、〈俺〉の目から見ると田舎もんも田舎もんだったんですが、彼女には圧倒的なプログラミングの才能があって、とにかく無駄のないシステムをつくっちゃうデキる人でした。と、それ以上に長崎には特徴的なことがあって、それは容姿、スタイルが異様にセクシーだったこと。彼女を見た男は、だれであっても欲情を持たずにはいられない女性なんだそうで、現に職場で彼女に襲いかかった男もいたほどです。その暴行未遂事件の場にいて、たまたま彼女を助けたことから、〈俺〉と長崎は急速に近づき、いちおう付き合っているカップル、というかたちに発展します。

 〈俺〉と長崎には、また信じがたいような共通点もありました。お互いに「佐賀の霊」「富山の霊」という、本人たちにしか見えない幽霊がときどき近くに現われることです。

 「見えない」といえば、彼らが携わっているシステムというやつも、全体的には目で見ることはできません。どこでどうタスクがつながって、どのように機能し合っているのか。見えないはずのシステムを、しかしCGの技術で可視化できるものも、WBMでは開発されたらしく、SEたちがおのおのの仕事を目で見る場面なども出てきます。このあたりが影山さんが小説の構想のタネになった一つの素材なのかな、と思うんですけど、詳しいことはわかりません。

 ともかくこの小説が、平成4年/1992年度の中央公論新人賞を受賞して、影山さんは作家として世に登場します。ただ、もののハナシによりますと、小説を書き上げて応募した段階で、影山さんは会社を辞め、受賞が決まったときには無職(いや、フリー)になっていたとも言いますので、40歳をすぎて組織のなかに縛られた状況を、影山さんはどうにか変えたいと思っていたんでしょう。運よく「俺たちの水晶宮」が受賞できたおかげで、小説家として立つことができました。

 以来約10年。平成14年/2002年ごろまで『中央公論文芸特集』や『文學界』などに小説を発表します。

 影山さんの回想によると、その頃は、おれは純文学作家なんだ! という強烈な思い込みに縛られたらしく、慣れない酒を飲み、生活は貧乏の極みを尽くして、そこから生まれてくる感覚を創作に向けていたんだとか何とか。

「言葉にすれば、人間の地肌が書きたかったということになるんだと思いますが、果たして何を表現しようとしたかったのか……逆にそれを分かりたくて、自分を限界まで追い込みました。まだ四十歳というのは若いですから、水はこぼれるまで注ぐことが、ガマの油だったらたらたら垂れるところまで追い込むのが、自分の役割だと思っていたんです。今になってみると非常に幼稚なことですが、全然アルコールには強くないのに、朝まで飲んでみるとか(笑)。

ところがそれを十年続けているとさすがに辛くなりました。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、宮城谷昌光、青山文平「受賞記念対談 「自分には書くことしかない」」より)

 それで思い切りよく、小説を書くことには区切りをつけて、昔とった杵柄なのかどうなのか、フリーライターとして文章を書いてお金を稼ぐ、それはそれで厳しい世界にシフトして8~9年ほどを過ごします。

 ところがフリーライターも、純文学作家と同じくらい不安定な職業です。そこまで儲かる商売でもなく、貯金なんてほとんどたまりません。このまま自分が死んだら、きっと我が妻は路頭に迷う。これじゃいかん。と影山さんが、「将来のおカネに困らなくなるような」策として考えたのが、商業作家になることでした。

 純文学作家が今度は長編の時代小説を書いて松本清張賞に応募、見事一発で受賞してしまいます。どうして他の新人賞とか、日経小説大賞とかじゃなくて、清張賞だったのか。……将来的に食っていけるほどの作家になるには、運営企業のバックアップ、それまでの実績などを鑑みて、なるほど清張賞が最も最適解に近かったのだろう、とは想像できるんですけど、ほんとにそんな理由で清張賞を選んだのか、影山さんはそういうことをあまり語るタイプの書き手じゃないので、現実にはよくわかりません。

 筆名もまたそうです。それまでの名前「影山雄作」を捨てて、どうして新しい名前で再出発を図ろうと思ったのか。

 そんなことは、わざわざ自分で語るまでもない、という信念があるような様子が、直木賞受賞時のエッセイを読んでも垣間見えます。

「「自分のことはペラペラしゃべらない」。子供の頃から、父にそう諭されて私は育ちました。「訊かれたときだけ話す。あとは、人の話をよく聴くようにしなさい」。

ずっと言われた通りにしてきたものだから、六十七になった今でも、その縛りが抜けません。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、青山文平「私なりの自伝的エッセイ」より)

 たしかに、自分のことをペラペラしゃべる人より、こういう人のほうが信用はできる気がします。

 でも、「訊かれたときだけ話す」とあるので、もしかしたら訊いたら答えてくれるのかもしれません。どうして古い筆名のままじゃなくて、別の筆名に変えようと思ったのか。ぜひ誰か訊いてみてください。

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2024年8月25日 (日)

三谷晴美…少女小説から私小説に脱皮して、名前も本名に変更する。

 何週か前に取り上げた北原節子さんは、はじめに直木賞の候補に挙がってから、結局は、もうひとつの文学賞のほうに選ばれました。

 直木賞にしろ、もうひとつの賞にしろ、そこら辺の線引きはだいたいテキトーにやっています。なので、そういうことが起きるのも別に不思議じゃないんですけど、純文学の同人雑誌や純文学誌で注目された人が、向こうの賞の候補には挙がらずに、直木賞のほうでしか選考されなかったケースなんてのも、昔は当たり前のように発生したりしました。テキトーに線引きされている、と言われるゆえんです。

 まあ、「当たり前のように」かどうかは異論のあるところでしょう。直木賞だけで候補になった純文学作家って誰なんだ、具体例を100個挙げてみろ、とナイフを突きつけられると、もろてを上げて降参するしかありませんが、今週取り上げる三谷晴美さんは、いったいどちらに入るのか。少なくとも、芥ナントカ賞の候補になったことが一度もないのはたしかです。

 〈三谷晴美〉というのはペンネームですが、もとは戸籍上の本名だった名前です。……と、わざわざハナシを始めるのも恥かしくなるぐらい、後年チョー有名になった作家なので、プロフィールをなぞるのは、ほどほどにしておきます。

 ともかく、子供時代の本名が〈三谷晴美〉で、昭和4年/1929年、7歳のときに一家を上げて養子縁組したことで姓が変わります。昭和25年/1950年、結婚生活を自ら投げ捨ててわたしは小説を書いていきたい、と一人暮らしを始めた頃合いに、とにかくおカネになることはないかと頭をひねって、子供時代の名前〈三谷晴美〉で『少女世界』に投稿したところ、それが採用されて同誌でデビュー。以来、少女小説をたくさん書いて生計を立てますが、わたしがしたいのはこんなことじゃないんだと、まもなく丹羽文雄さんに会いに行き、『文学者』の同人にしてください、と頼み込みます。

 そちらでも、はじめは〈三谷晴美〉の名前で書いていましたが、ようやく作品が載り始めたところで『文学者』が休刊に陥ります。いやだいやだ、わたしはもっと書きたいんだ、と同棲していた文学の先輩、小田仁二郎さんたちといっしょに『Z』を始めると、そのときに7歳のときから使っている本名を、筆名として切り替えました。

 その頃を知る中村八朗さんの文章を引きますと、

「「文学者」は休刊になってしまったが、彼女は小田仁二郎と共に同人雑誌をやった。「Z」「題名のない雑誌」「A」等の雑誌を続け、「Z」を代表して「新潮」同人雑誌コンクールに「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受けるまでに成長した。瀬戸内の才能がようやく小田の指導でみがきがかかり、少女小説の世界から脱皮したのだ。彼女はもう三谷晴美のペンネームは使うことはなかった。」(中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』より)

 少女向け小説を書いていた人が、のちに大人向け小説を書くようになる、というケースは別に直木賞界隈に限らず、異常にたくさんあるので、別に珍しいことじゃないんでしょうけど、筆名の変更がそこにからんでくるのが、また名前のもつ不思議さです。

 実際、名前を変えずにジャンルを横断縦断する人もいます。書いている人は同じ人間なのに、どうして名前を変える例が断たない(?)のか。変えたところで何が起きるのか。べつに名前なんて何だっていいじゃん、と思っている派からすると、そこら辺の感覚はナゾ中のナゾです。

 ただ、そこでこねくり回した筆名をつけず、自分の本名を使い始めた、というところに三谷さんの腹の据わった感じがよく出ています。

 同人雑誌賞を受賞したその年、『新潮』に発表した「花芯」が子宮作家だ何だと文壇界隈で話題になり、以来5年ほど、いわゆる純文芸の雑誌からは声がかからなかった、ということなんですけど、自らが手がける同人雑誌のほか、『小説新潮』だの『講談倶楽部』だの中間・大衆小説誌からの注文はぞくぞく引き受けて、「世間から消えた」ふうになることもなく、その間も順調に名を上げました。腹が据わっています。

 あるいは、世に出てまもなくの数年間、読み物小説のほうにしか活路がなかったのが、三谷さんが芥ナントカ賞の候補にならなかった最大の原因かもしれません。まあ、あっちの賞は頭がバカみたいに固くて、中間小説誌に載ってるやつは絶対に候補にしようとはしませんからね。アホくさくて、興味をもつにも値しません。

 ひるがえって直木賞のほうは、中間誌、大衆誌はもちろんのこと、純文学誌に載ってるものだってウェルカム。おかげで、三谷さんが純文学誌に復帰し、そこに発表した連作のうちの一篇「あふれるもの」(『新潮』昭和38年/1963年5月号)を、堂々と予選通過作に選んでしまいました。さすが直木賞、そのテキトーさのおかげで自分の賞の候補者リストに、のちに大活躍する作家の名前を刻むことができました。

 で、三谷さんは直木賞候補になったときの本名=筆名のほかにも、昭和48年/1973年に得度・出家してから名乗るようになった法名もあります。その法名は、直木賞を日本文学振興会から授かった人――今東光さんが名づけたもの、ということで、三谷さん自身、ほとほと直木賞には縁がある人ではあるんですけど、雑誌に載った一短篇じゃなくて、もっと読みでのある作品で候補に上げてりゃ、直木賞受賞者リストのなかにその名を入れられたかもしれないのに、と当時の文春の下読み編集者たちは、あとになって悔やんだとか、悔やまなかったとか。

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2024年8月18日 (日)

(栄)…『朝日新聞』将棋の観戦記で名を馳せた人の、昔の直木賞候補作が、2024年に復活する。

 直木賞が決まって一か月が経ちました。早く次の回が来ないかなあと毎日祈ってるんですが、こればっかりはいくら祈っても駄目みたいです。あと4~5か月、冴えない日々を送りながらそのときを待ちたいと思います。

 そういえば、第171回(令和6年/2024年・上半期)が決まった7月半ば、直木賞に関連して、うわっ、まじか、と仰天するような出来事がありました。それは一穂ミチさんが受賞したことです……と続けたいところですが、今回取り上げるのはそのことじゃありまけん。

 ワタクシが腰を抜かしちゃったのは、令和6年/2024年年7月に『将棋と文学セレクション』(将棋と文学研究会・監修、矢口貢大・編、秀明大学出版会刊)という本が発売されたからです。

 直木賞とはあまり関係なさそうなアンソロジーではあるんですけど、いやいや、ここに小説「北風」が載っているという衝撃の事実!

 21世紀のこの世のなかに同作が復活したのを目撃できて、もう思い残すことなんか何もありません。正直いますぐ死んでもいいぐらいです(というのは、さすがに言いすぎです)。

 「北風」を書いたのは誰なのか。『朝日新聞』大阪本社で長く将棋を担当していた学芸記者です。後年『朝日』の観戦記では名前の一字をとって(栄)という署名を使いました。あるいは本名よりもそちらのほうが有名なのかもしれません。と、将棋の世界はよくわからないので、テキトーなことを言っときます。

 (栄)さんは大正2年/1913年に生まれました。前半生は国家あげての戦争が、かなり色濃く影響を及ぼした時代です。そんななかでも(栄)さんは、子供の頃から文学をやっていきたい意欲が高かったおかげで、友人たちと同人雑誌をつくっては、ああだこうだと議論を交わし、お互い友情を深め合った……んだと思います。

 文学史上(栄)さんが最も有名なのは、自身が直木賞候補になったことではなく、友人の織田作之助さんと旧制中学時代からズルズルとつるんで、20代半ばには織田さんの紹介で『海風』という同人雑誌に参加、自身も編集に携わって織田さんの「夫婦善哉」を載せたことでしょう。自分自身が書かずともこういう作品を世に出せたんですから、それだけで(栄)さんの人生、万々歳です。

 しかし(栄)さんの人生はまだまだ続きます。昭和18年/1943年、30歳で『朝日新聞』大阪本社に入り、戦後になって系列の『大阪日日新聞』に出向。そこで升田幸三さんと大山康晴さんの世紀の一戦の現場に出くわし、にわかに将棋(および将棋を差す人間たち)に興味を掻き立てられると、将棋記者の道を敢然と歩み出します。

 ただ、文学への思いを捨てたわけじゃなく、師と仰いだ藤沢桓夫さんたちといっしょに『文学雑誌』を発行します。そういう時期の昭和25年/1950年、直木賞もまだまだ戦後復興が軌道に乗らない混乱期に同人雑誌『日輪』に載せた小説でポロッと直木賞候補に挙げられたのが第23回(昭和25年/1950年・上半期)のことでした。当然のように受賞には遠く及ばず、(栄)さんと直木賞の縁はそれっきりで終わります。

 その後(栄)さんは新聞社の社員として将棋の世界を渡り歩きます。『将棋と文学セレクション』で「北風」の解説を書いた小笠原輝さんによると、昭和43年/1968年に『朝日』を定年するおおよそその時期から(栄)名義で観戦記を書き始めたんだそうです。昭和47年/1972年ごろには『名人戦名局集 思い出の観戦記1』や『名棋士名局集 付・盤側棋談』という本も出し(ともに弘文社刊)、日本将棋連盟から長年の観戦記者としての功績からか表彰も受けて、やはり(栄)さんの後半生は将棋とともにあった、と言えるでしょう。

 それはそうなんですが、とにかく(栄)さんが直木賞の候補になった「微笑」と「北風」が読みたくて、ワタクシも相当苦労しました。自分のサイトにもその苦労の一端を書いたことがあって、そんなものは単なる直木賞オタクのたわごとだったんですけど、昔の直木賞候補作が一つでも多く復活して、新しい読者に読まれるチャンスが与えられればいいな、と思って書いたのは間違いありません。

 ものの噂によれば、小笠原さんはうちのサイトも見てくれたそうで、こんなしがないサイトでもやめずに置いといてよかったな、と思うばかりです。その小笠原さんが「北風」について、誰が誰のモデルだといった詳しいハナシを含めて、同書に解説を書いてくれています。ありがたいです。

「老松町の辻八段は、吉井が惹かれた升田の師匠である木見金治郎九段がモデルである。そこに主人公の彦沢銀六が入門し、升田をモデルとした竹田と切磋琢磨するが、煙草屋の娘初江との愛欲に迷い、少しずつ棋力の差をつけられていく。同い年の竹田が出世するなか「消える寸前の灯火のきらめき」となっている銀六の姿は、織田作之助と吉井の関係性に近いものがある。(引用者中略)「北風」は、当時の吉井の心境を表現した作品であると言える。」(『将棋と文学セレクション』所収 小笠原輝「愛欲の棋士 北風 吉井栄治」解説より)

 おおっ、そうか。「北風」に出てくる悲しき将棋差しの銀六は、(栄)さん自身が投影されているとも読めるんだ! この解説に接するまでまったく気がつきませんでした。

 他人が昔の小説をどう読もうが関係ないじゃん、という自我の発達した人もたくさんいるでしょう。ただワタクシは、だいたい頭の構造が幼稚なので、よその人の評価を見るのが大好きです。しかも、これまで一度も単行本に収録されたことのない半世紀以上前の小説に、いまとなってこんな立派な解説がつくんですからね。そりゃあ腰を抜かして、しばらく立ち上がれなくても仕方ありません。

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2024年8月11日 (日)

杉浦英一…処女作は本名で発表したものの新人賞に応募するときにペンネームをつける。

 毎日暑いですね。暑い夏といえばいったい何か。日本では戦争モノと相場が決まっています。

 いや、決まっちゃいない気もします。とにかくあまりに毎日暑すぎて頭がボーッとしているもので、いつも以上に(いつも通りに)テキトーなことを書き流すだけになりそうです。

 いい年こいて、相変わらずテキトーに生きていて恥じ入るばかりなんですが、第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞を受賞したこの方の書いたものや、あるいは当人が死んだ後に出版されたいくつかの伝記を読んでいると、思わずシャッキリ背筋が伸ばされます。本名、杉浦英一さん。今週はこの人のハナシで一週分をしのいでみます。

 「杉浦英一」というのは本名なんですが、知られるとおり、小説家としてペンネームで商業デビューを果たす前にこの名前で上下巻におよぶ立派な本を出しています。『中京財界史』(上巻=昭和31年/1956年1月、下巻=同年2月・中部経済新聞社刊)です。その意味では、「別の名前での著作活動があった」と見なしても問題ありません。

 いや、評伝を読んでみると、杉浦さんには文學界新人賞を受賞するまでにも、いくつか文学の上での著作が発表されていたと書いてあります。一つには詩人としての活動です。

 戦後、大学に入るために英語を学ぶことに決めた杉浦さんは、英語を教えてくれる個人講師を知り合からの紹介されます。それが小林歳雄さんとの出会いで、小林さんの孤高な姿勢とゆるぎない文学への傾倒に感銘を受けて、杉浦さんはずぶずぶと文学に関心を深めていきます。昭和21年/1946年、杉浦さんが19歳ごろのことです。

 そのあたりから東海アララギ会に入って短歌を詠みはじめます。昭和21年/1946年、東京商科大学予科に入ったあとは哲学研究会に参加。小難しい観念的な哲学の世界に、これもまたゾッコン心をもっていかれて、あまり友達づきあいもせず、静かに文献と向き合います。大学には、そういう人もよくいます。

 昭和24年/1949年、一橋大学とその名が変わった同学の本科に進み、理論経済学を専攻しますが、おおよそそのころ病気に罹り、結核と診断されてしばらくの療養生活です。ああ、おれはこのまま死んでしまうのか。思い悩む青年の心は、えてして文学の方向に向くようで、杉浦さんもこのころ盛んに詩を書き、『流れやみて』という詩集を私家版でつくったそうです。

 病状はその後回復して、杉浦さんは学校にも復帰しますが、一度しみついた詩への興味は絶ちがたく、北川冬彦さん主宰の『時間』や、山本太郎さん主宰の『零度』に加わって、学業のあいま熱心に詩をつくりました。

 昭和27年/1952年に一橋大学を卒業すると、まもなく愛知学芸大学岡崎分校助手として大学の先生への道を歩み出します。専門は経済学ではあったんですが、おれには文学が必要だとウズウズする心が抑えきれず、昭和29年/1954年にはかの有名な「くれとす」という読書会を、4人の知人たちと始めます。

 同じころ、名古屋で出ていた『近代批評』という同人雑誌にも加わって、批評・評論を書いたそうなんですが、並行して小説のほうも書く意欲があり、当時書かれた作品のことを、『城山三郎伝 筆に限りなし』(平成21年/2009年3月・講談社刊)の加藤仁さんや、『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』(平成23年/2011年3月・ミネルヴァ書房刊)の西尾典祐さんが紹介してくれています。

 なかでも〈杉英之〉という署名で書かれた「鈴鹿」という作品は、ガリ版刷り16ページでつくられたもので、のちに『大義の末』として出される作品の原型と見なすことができる、と西尾さんは解説しています。内容はもちろんのこと、ここで杉浦英一ではなく〈杉英之〉とペンネームを使っていることが気になります。

 他に〈十時和彦〉と名が記された「婚約」という原稿も残っているそうです。いずれも、広く使われずに消えていった筆名ですが、杉浦さんのなかで小説を書くには本名じゃないほうがしっくりくる、何かしらの感覚があったんでしょう。たぶん。

 ……とか言いつつ、本人のなかでこれが小説の処女作だと認めた作品は、『近代批評』7号[昭和31年/1956年12月]に本名名義で発表したものだということです。「生命の歌」という小説で、直木賞を受賞した直後の昭和34年/1959年5月に講談社から出た『事故専務』という作品集に収められました。戦争末期、海兵団の練習生としてつらい軍隊生活を経験した青年が、同じ教班でいっしょだった青年のことを日記に書けつけたもの、という体裁で構成された小説です。

 その後まもなく杉浦さんは引っ越しをして、転居先の辺りの地名をもとに新たなペンネームを考案、それで応募した第4回文學界新人賞(昭和32年/1957年)でズバッと受賞を果たし、その受賞作「輸出」がそのまま直木賞の候補にまで推されて、一気に新しい筆名のほうで文壇に躍り出ます。

 このとき本名で出していれば、あるいは〈杉英之〉〈十時和彦〉で出していれば、その後の賞の当落とか、作家としての歩みも変わったかもしれませんが、そんなことを想像しても意味はなさそうです。ともかく新しい筆名は据わりがよく、一度の直木賞候補を経て、翌年には直木賞の受賞まで達してしまいます。

 そのペンネームの由来は、有名すぎていまさらなぞるのも気が引けますけど、評伝のほうには他の理由もちょこっと書かれています。こんな感じです。

「(引用者注:転居先の)すぐ近くに城山八幡宮があり、時は三十二年三月だったから、その二つを組み合わせ、ペンネームを「城山三郎」とした。三郎には長男の弱々しさを払拭する意味も込められていた。」(西尾典祐・著『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』より)

「たまたま移り住んだ土地が古くから「城山」と呼ばれていたので、その「城山」を姓とし、三月だったので「三郎」と名をつけた。本名のままでもよかったのだが、教鞭をとる大学の同僚や学生たちに二足の草鞋を知られたくなかった。また、愛知県には「杉浦」姓がおおく、小説家ではすでに杉浦明平がいたので、それを避ける意味もあった。」(平成23年/2011年3月・扶桑社刊、植村鞆音・著『気骨の人 城山三郎』より)

 長男の弱々しさを払拭するとか、既成の作家の苗字を避けようとしたとか、そういう理由もあったのかもしれません。そのあたりを気にかける感覚があった、というのも杉浦さんの一つの個性です。

 だけど、本名の〈杉浦英一〉ってじゅうぶんカッコいい名前だと思うんだけどな。わざわざそれを排してペンネームをつけがたった、というのも、杉浦さん本人のセンスでしょう。それで成功したんですから、わきからとやかく言う筋合いもありません。

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