2026年5月17日 (日)

「九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。」…桐野夏生、第173回直木賞の選評より

 昨年令和7年/2025年5月25日から、うちのブログは19期めに突入し、「選考とは関係ない選評」を昔のものから順に取り上げてきました。

 さすがに近年、すっとんきょうな選評を書く人は、さほどいなくなったようにも思います。それが一抹の(いや、大いなる)寂しさを感じさせますが、まじめにやって、まじめに書いている人たちに、遠くから文句を投げても仕方ありません。直木賞の選考委員のなかに、それならわたしが「選考とは関係ない選評」をどんどん書いて選評の場をかき回してみせるわ、という猛者が現れることを期待するばかりです。

 で、このテーマでブログを書くのは今週がラストになります。

 注目するのは第173回(令和7年/2025年・上半期)の選評です。ほとんど昨日のような出来事です。

 あまりに記憶が新しすぎて、わざわざ解説するのも馬鹿バカしいですが、昨年7月、直木賞ともう一つの賞、同日同時刻に選考会が始まる二つの文学賞で、両方ともに該当作なし、となったという例の回です。

 受賞作がなしになると、とたんに選評に、選考とは関係ない話題が飛び出してくる。……というのは、この一年間、いろいろな回の選評を読んでわかったことですが、まあそんなことを知ったところで、何の腹の足しにもなりません。別に面白くも何ともないんですけど、ただ、今後いずれやってくる該当作なしの回のときに、さあ、今度はだれがどういうふうに関係ないハナシで行数を稼いでくるか、とわくわくしながら『オール讀物』の発売日を待てる、というおまけが付いてきます。正直、直木賞の楽しみ方としては、邪道も邪道、といったところでしょう。

 ともかくハナシは第173回です。

 候補作は6作ありました。青柳碧人さん『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』、芦沢央さん『嘘と隣人』、塩田武士さん『踊りつかれて』、夏木志朋さん『Nの逸脱』、柚月裕子さん『逃亡者は北へ向かう』、そして今日(令和8年/2026年5月17日)「高校生直木賞」を受賞した逢坂冬馬さん『ブレイクショットの軌跡』です。

 たとえ、これらの作品の水準が低かったとしても、何作かが拮抗して受賞作を決めあぐねたとしても、何といっても第136回(平成18年/2006年・下半期)以来18年間、36回も該当作なしになったことがないんだから、今回だって、選考委員か司会をやっている文藝春秋社員が妙案をしぼり出して受賞作を出すんだろう、と鼻クソをほじりながら待つこと4時間近く。日本全国のうちの、ほんの一部の人たちが驚くような、該当作なしの発表となったわけです。

 え。まじかよ。誰と誰の意見がぶつかり、誰と誰が殴り合って、こんな結論になったんだ。これはもう選評を読むしかない。と、これもまた、日本のほんの一部の人たちが、『オール讀物』直木賞発表号の発売を心待ちに待ちました。ワタクシもその一人です。

 で、目を皿にして選評を確認したんですが、そうか、別に全体的に候補作が低調だという評価だったわけじゃないんだな、それぞれの推し作が最後まで行っても噛み合わずに、どれか一作ないしは二作に決めかねた、という感じの展開だったんだな、とうすうす理解しました。

 じっさいどうだったかは、これはもうわかりません。もしかしたら、相当な論戦が繰り広げられて、キーキーとわめき声を上げる人、顔を真っ赤にして怒り狂った人もいたりして、あわや一触即発のところまで熱くなった……のかもしれません。実態がわからないのは、密室選考会をつづける文学賞の限界です。

 わからないことを、いくら想像したってどうしようもないので、あとは選評を楽しみましょう。

 第173回、この回の選考に直接的な関係があるのかないのか、微妙な文章から書き始めた人がいます。桐野夏生さんです。

「一九九七年の十二月、第百十八回直木賞の候補作が発表になった。京極夏彦さんの『嗤う伊右衛門』や私の『OUT』を含め、五作が候補になった。その時はこんな結果が待ち受けているとは思いもしなかった。

翌九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。残雪が凍って、道路は車の轍の痕が固く盛り上がっていた。

待ち会のレストランで、「該当作なし」という報せがもたらされた時、編集者たちが一斉に立ち上がり、電波の通じない地下の店から、階段を上って行ったのを見て、落選は辛いことだと、初めて知った。やがて芥川賞も「該当作なし」だと知り、こういうケースは、東京會舘での贈呈式もなくなると聞いて驚いた。ともかく寒く、そして暗い冬だった。

長々と昔話をして申し訳ない。まさか今回も、芥川直木ともに「該当作なし」という結末になるとは思いもよらなかったし、このようにメディアで騒がれるとも思っていなかった。」(『オール讀物』令和7年/2025年9・10月合併号、桐野夏生「選評」より)

 ふだんの直木賞であれば、桐野さんの選評といえば、候補作それぞれに対する感想・批評に終始しています。あまりに温度感の違うこの書き出しに、思わず身を乗り出してしまった選評読者は、きっと多かった……かどうかはわかりませんが、少なくともワタクシはドキリとしました。

 ちなみに、すごくトリビアチックなどうでもいいことを言うと、現在のように直木賞の候補作発表が12月→1月選考、6月→7月選考、というふうに1か月程度まえになったのは、そんなに昔のことじゃありません。第150回(平成25年/2013年・下半期)1月選考の候補作が前年の12月20日に発表されたのが、前月発表の最初です。それより前は、思い出せばおわかりかと思いますが、第149回(平成25年/2013年・上半期)までは、選考会の2週間程度まえ、さらにさかのぼって第133回(平成17年/2005年・上半期)までは、選考会の1週間まえに、各新聞の夕刊に候補作発表の記事が載るのがお決まりでした。

 つまり、桐野さんが回想している第118回(平成9年/1997年・下半期)、一般に候補作が発表されたのは、選考会のちょうど1週間まえ、平成10年/1998年1月9日です。おそらく各候補者には、平成9年/1997年12月のうちに知らせが入っていて、それで桐野さんもうっかり不正確なことを書いてしまったのかもしれません。

 まあ、そんなことは直木賞オタクぐらいにしか意味がないどうでもいいことです。すみません。

 重要なのは、当時の選考会を寒い冬の日のこととして記憶し、落選とは辛いことだと初めて知った日だと、桐野さんが語っていることにあります。

 文学賞の選考はたいてい水モノです。確実にこうなる、と断言できることは、昔もいまも、そんなにありません。該当作なしになることだって、そりゃあ当然あるでしょう。

 ……とは思うんですが、受賞作のないことがニュースになり、それを受けた選考委員の桐野さんが、ふだんならまず回想しないであろう昔の候補者時代のことを、どうしても書かなくてはいられなくなる。それだけでも、該当作なしになった意義はあったじゃないかと、選評を毎回楽しみに読んでいる者としては、思ってしまいます。

          ○

 「選考と関係ない選評」のハナシは、とりあえず今週でひと区切りです。また来週から、別のテーマで直木賞の(周辺の)ことを調べていきたいと思います。……が、ちょうど来週日曜日の5月24日は、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇というものが、二日公演の最後の本番をやっている日に当たります。

 うーん。このブログをきちんとアップできるのか、厳しいところではあるんですけど、その日は文士劇についてのエントリーを投稿して、お茶を濁すかもしれません。

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2026年5月10日 (日)

「もちろん今年の大河ドラマも観ています」…宮部みゆき、第167回直木賞の選評より

 直木賞の選評は『オール讀物』に掲載されます。

 この雑誌に、小難しい文学理論や批評性を期待している読者なんて……そりゃあ皆無ではないんでしょうけど、基本的にはみんな面白い小説とか面白い記事を求めて読んでいます。そのなかで半年に一回まじってぶっ放される直木賞の選評というのは、存在そのものが異色です。

 たとえば一般のわれわれに提供される直木賞関連のコンテンツとして、候補作の発表、受賞作の発表、選評の発表、という3段階があるとします。そのうち、圧倒的に話題にならないのが、最後の「選評の発表」なわけで、いったいこんなもの誰が読んでいるんだ、と愚痴った選考委員がいたとか、いないとか、真偽はちょっとわかりませんけど、その後、それらがまとめられて本になる、という展開も一部の委員を除けば、まずありません。悲しいといえば悲しいです。

 どんな選考委員だって、まあ誰も読んじゃいないんだからとテキトーに書き流しているわけではない、と思います。たぶん。少しでも、読んでくれる読者を楽しませようと、百人百様、あれやこれやの手を使って、選評にエンタメ要素を加えようとしてきた委員も、けっして皆無ではありませんでした。

 ということで前置きが長くなりましたが、そういう観点で直木賞の選評を見たとき、絶対に取り上げなきゃいけない人がいます。宮部みゆきさんです。

 宮部さんの選評の特徴とは何か。それはあまりにだらだらと長すぎることだ。……という直木賞界の定説があります。

 でも、どうしてそんなに長いのか。それは、本論ともいえる候補作、候補作家についての論評を展開するにあたって、現実社会に存在する映画やらアニメやらスポーツやらから固有名詞をバンバン出して、いいように形容したり喩えたり、枝葉にも見える読者サービスの遊びの部分が、やたらとたくさんあるからです。

 そんなこと言う必要がないといえばありません。だけど、宮部さんが軽やかに繰り出す比喩表現を心待ちにしている選評読者も少なくはありません。少なくないかどうかは知りませんが、少なくともワタクシはいつも楽しみにしています。やはり宮部さんの選評には、そういう〈飾り〉の部分は欠かせないものと言っていいでしょう。いくら文章が長くなっても。

 ためしに第167回(令和4年/2022年・上半期)の選評を見てみます。宮部さんはこんなふうなことを書いています。

「私はまるっきり不勉強のくせに、歴史小説の鎌倉ものが大好きです。それは永井紗耶子さんと同じ名字の大先達である永井路子さんの作品に触れたことから始まりまして、もちろん今年の大河ドラマ(引用者注:「鎌倉殿の13人」のこと)も観ていますが、思い出深いのはやっぱり永井路子さん原作の『草燃える』――というのはさておき、勃興から衰退滅亡まで山のように書く材料がある鎌倉幕府と北条氏の歴史のなかで、(引用者後略)(『オール讀物』令和4年/2022年9・10月合併号、宮部みゆき「幸せな読み心地」より)

 要するに永井紗耶子さんの候補作『女人入眼』を語るに際して、これだけのマクラというか、装飾を施しているわけですね。そりゃあ選評も長くなるはずだわ、としか言いようがありません。

 だけど、選考に関係のないことを語るにしても、いまやっている大河ドラマのことを持ち出す辺りが、一般読者に少しでも興味をもってもらおうとする宮部さん独特のサービス精神です。平成・令和の時代に降臨した「選考とは関係ない選評」を書く最高の女神といえば、やっぱり宮部さんです。

 次の第168回(令和4年/2022年・下半期)でも、当然、そのおちゃめな手法は健在です。

(引用者注:小川哲『地図と拳』について)私はミーハーなことを書きたいと思います。冒頭の登場時から気の毒なほど船酔いしている丸眼鏡の青年・細川は、私の頭のなかでは俳優の神木隆之介でした。受難のクラスニコフ神父はマッツ・ミケルセン。ストーリー上はすぐ姿を消してしまうけれど、実はラストまでキーパースンであり続ける高木大尉は山本耕史。須野明男はいろいろ迷いました(なにしろ「万能計測器」ですから)が、賀来賢人がいいかな。青白い顔の中川は滝藤賢一で(梨をむさぼり食うシーンが目に浮かぶ!)、安井は意外に佐藤二朗がぴったり?」(『オール讀物』令和5年/2023年3・4月合併号、宮部みゆき「大風呂敷と幻術」より)

 令和5年/2023年の日本に生きる人たちに向けて全力で俳優たちの名前を羅列しています。神木隆之介さんもマッツ・ミケルセンさんも山本耕史さんも賀来賢人さんも滝藤賢一さんも佐藤二朗さんも、さすがに自分の名前が直木賞の選評で触れられようとは、意外ちゅうの意外でしたでしょう。

 かといって、ほんとに宮部さんが自分のミーハーなところだけを見せつけたかったのか、といえば、そうでもありません。そういうふうに登場人物たちに現実の俳優を当てて楽しんでしまえる、『地図と拳』という小説は一級のキャラ小説でもあるのだ、と後段で主張しています。そういう意味では、全然「選考に関係ない」とは言えないかもしれません。

 ただ、選評というと畏まっていて真面目な舞台、と思われてしまうのを、どうにかして防ぎたいという宮部さんの思いが、脱線のようなハナシを繰り出すことになり、こうしてどんどん選評が長くなってしまう、というのは否めません。今後も、宮部さんの「選考に関係ない」部分にもっと注目が集まってほしい、と願っています。

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2026年5月 3日 (日)

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。」…林真理子、第164回直木賞の選評より

 これから先、だれか奇特な人が現われて、直木賞の歴史をひもとこう、そして書き残してやろうと思ったとします。そういう人にとって絶対に避けて通れない、ここ数年の直木賞にまつわる事象とは何でしょう。

 明らかに挙げられるのが、コロナ禍での選考会、ってやつです。

 少し前にうちのブログでも、昭和11年/1936年に二・二六事件の戒厳令下で選考会が行われたうんぬん、というテッパンなエピソードを取り上げました。そういう視点で言えば、誰がどう見たって、いつもとは違うかたちでの開催を強いられた、あの数年に及ぶコロナウイルス流行下でのあれこれは、後世の直木賞史家にとって、かならずや面白く見えるに違いありません。

 令和2年/2020年4月、政府から緊急事態宣言が出て、日本全国、上を下への大騒ぎ。まだまだ社会的に厳戒態勢のとられるなか、その年の7月に直木賞では第163回(令和2年/2020年・上半期)の選考会が行われました。ほんの6年前のハナシです。

 ああ、もう6年も経ったのか、と言っていいかもしれません。時の流れをどう感じるかは人それぞれ、「もう」でも「まだ」でも、どっちでもいいんですけど、このとき新喜楽の選考会場には、何の効果があるのかだれもよくわからないながら、委員たちのあいだにアクリル板が置かれ、なるべく興奮したり激高したりしてツバを飛ばさないように注意して、2時間ちょっとの議論を乗り切った……ということです。

 ところが、いまとなって当時の選評を読み返してみると、その選考会がコロナ禍が渦巻く状況で行われたことを指摘している人はだれもいません。そうか、周囲がどれほど騒いでいようが、小説を論評すること、あるいは直木賞にふさわしいかどうかを議論したこととは何の関係もないもんな。と、うなずけるものがあるんですけど、いや、間違えました。だれもいなくはありません。一人だけコロナのことを書いている委員がいました。林真理子さんです。

「コロナ禍の中で選考会は、いつもと違い、広い座敷でアクリル板越しに行なわれた。といっても、活発な論議は通常どおりだったと思う。」(『オール讀物』令和2年/2020年9・10月合併号、林真理子「馳カラーに染まる」より)

 正直、別に選評で言及するまでもないこういうことを、ポロッと最初に書いちゃう林さんの、相変わらずの手グセと言いますか。それか、読者というものは委員たちの生真面目な小説批評だけが読みたいわけではなく、時事ネタや話題のニュースにからめたハナシも大好きなのだ、ということを体感として知っているのかもしれません。たしかに6年経って、こういうふうに取り上げてしまうクソ・ブロガーがいるんですから、まんまとワナにハマってしまった感はあります。みなさんも、ワタクシのようにならないように気をつけてください。

 受賞記者会見も、出席記者の数を極力おさえて、お互いが近づかないようなかたちで行われましたし、それからしばらく直木賞の選考会はこれまでと違って、委員同士の席を遠ざけ、アクリル板で仕切り、あるいはリモートでの参加もOK、というパンデミック体制のもとで開かれます。第163回の馳星周さんの『少年と犬』、西條奈加さん『心淋し川』、佐藤究さん『テスカトリポカ』、澤田瞳子さん『星落ちて、なお』……と続いていく受賞作が、いったいコロナ禍の選考会によって何らかの影響があったからなのか、それとも外部の社会的環境とは関係はなかったのか、未来の直木賞史家がおそらく検証してくれるでしょう。

 それはそれとして、コロナ禍2度めとなる第164回(令和2年/2020年・下半期)選考会は、年が明けて令和3年/2021年1月に開催されています。いまだ、今日の感染者報告が何人だ何百人だと、喜々として取り上げられていた頃です。さすがにこれだけ異様な状況が続くと選評でコロナのことに触れる人も少し増えて、宮部みゆきさん、伊集院静さんなどが、いまだコロナ禍が続いていて日本人たちも閉塞した気分にある、といったようなことを書いています。

 とくに踏み込んだ表現をしているのが宮部さんです。

「今回、私は、できることなら二作受賞にしたいと願っていました。コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言下で迎えた選考会で、世の中全体が塞ぎ込み疲れ切っているところに、物語の魅力がまったく異なる二作を直木賞受賞作としてプレゼンテーションできたら、本屋さんの店頭も華やぎ、明るい話題も二倍になるのではないかと思いましたし、二作受賞に充分値する候補作が揃ったと思っていました。」(『オール讀物』令和3年/2021年3・4月合併号、宮部みゆき「タイトルは大事です」より)

 うーむ、まじでこのとき西條さんの『心淋し川』だけでなく、もう一つ受賞作を選べていたら……とくに加藤シゲアキさんの『オルタネート』などが受賞していたら、本屋の店頭も各種メディアも大いに盛り上がって華やいだと思います。そうなっていたら、宮部さんの上記の選評も伝説化して後世まで語り継がれたでしょう。そう考えると残念でしかありません。

 半年まえ、いち早く「コロナ禍」を選評に刻印したのは林真理子さんでしたが、ではこのときはどんなことを書いていたのか。冒頭を読み直してみますと、こんな感じでした。

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。今回は全作が初ノミネートということであり、とても面白く興味深く呼んだ。」(同号、林真理子「プロの技」より)

 よくよく読むと、やっぱり冒頭の一文と、その次の文章は有機的につながっているとは言えません。前回に続いてアクリル版で仕切られた選考会だったからどうなのか。林さんの選評を読んでも、何もわかりません。

 ただ、林さんの独特な嗅覚で、選考と関係ないことであっても世のなかに注目される切り口がある、とわかっていたんだろうと思います。おそらく。

 けっきょくそのワナに引っかかって、またしても馬鹿な顔して取り上げてしまいました。ああ、われながら不甲斐ないです。

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2026年4月26日 (日)

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。」…伊集院静、第161回直木賞の選評より

 かつて、文学賞メッタ斬り!というものがありました。

 直木賞やら何やらの受賞予想をする。それだけでは終わらせずに、結果が決まったあとの選評についても、あれこれイジッて論評する。あらためて、いい企画だったと思います。

 直木賞で言いますと、最大にして最高のターゲットが渡辺淳一さんだった、というのは誰にも異論がないところでしょう。しかし惜しまれながら渡辺さんが委員を降りたあと、みんなが優等生のようにソツのない選評を書き続けるなかで、この人はとメッタ斬り!対談で目をつけられたのが伊集院静さんだった……と記憶しています。

 では、伊集院さんの選評の特徴とは何でしょうか。

 それは、候補作ひとつひとつに対して型にハマった論評を連ねるだけではなく、それ以外に、時代や社会に対する自分の感慨、感想などをつらつらと語り流していた、というところです。要するに「選考とは関係ない」選評の部分こそが、直木賞委員・伊集院さんの魅力だった、と言っても過言ではありません。

 うちのブログで取り上げる時代が、だんだん「近い過去」になってきて、なかなかピックアップしたくなる選評、選者も少なくなっているんですが、そういうなかでも今週はやはり伊集院さんの、エッセイがかった選評をもう一度、じっくり噛みしめながら味わおうと思います。

 平成が終わって令和に変わったあの頃。第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)の直木賞です。

 この回の直木賞候補といえば、一般的には何といっても「全員が女性作家だった」というところを語りたくなるはずです。

 大島真寿美さん、朝倉かすみさん、窪美澄さん、澤田瞳子さん、原田マハさん、柚木麻子さん。候補者が全員女性だから何なんだ、そんなことで騒ぎ立てるな……と当時も言われていましたし、たしかに直木賞の動向だけを注目したところで、あまり意味のある知見は得られない、というのは昔も今も同じです。

 ちなみに、似たような時期に行われた文学賞でいえば、第40回(平成31年/2019年3月決定)吉川英治文学新人賞の候補は、塩田武士さん、藤井太洋さん、呉勝浩さん、三秋縋さんが男で、武田綾乃さんだけ女、第32回(令和1年/2019年5月決定)山本周五郎賞の候補は、朝倉かすみさん、芦沢央さん、澤田瞳子さんが女、赤松利一さんが男、木皿泉さんが夫婦共作。

 これもまた、だから何なんだ、というような「ちなみに」でしたね。すみません。

 で、選評のほうでもやはり、「候補者が全員女性」の件をスルーできない人がいました。ひとりは林真理子さんです。

「今回の直木賞は、候補の作家が全員女性ということで話題をまいた。が、女性とひと括りにされても、どれも作風が全く違い、選考は楽しく、かつ難しかった。」(『オール讀物』令和1年/2019年9・10月合併号、林真理子「楽しくかつ難しく」より)

 話題になったかどうか、そういうポイントがあればすぐに選評で言及してしまうのが、林さんのクセですが、要するに全員女性だと言っても作風がバラバラで、選考そのものは何の影響もない、と言っています。そりゃそうだろうな、と思います。

 東野圭吾さんも、選評の冒頭にその話題を出しています。

「候補作の作者が全員女性だということに驚きはない。むしろ、初めてだと聞いて意外に思った。」(同号、東野圭吾「選評」より)

 この感覚は、たしかにそうだな、とうなずけるものがあります。そもそも直木賞の歴史上、候補者が男か女かを気にしている人なんて、直木賞専門サイトの制作者ぐらいしかいないでしょう。

 ということで、「全員女性」に関する選評を書いた3人目の委員、それが伊集院静さんです。他の2人と違って、思いのままに綴ったエッセイふう選評の一節なので、何を主張したいのか、読み取るのが難しくもあります。

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。さらに純文学に対して大衆文学とも言う。そんな間抜けなことを言っているのは日本だけである。

但し、ヨーロッパでもアメリカでもジャンルの分け方はある。直木賞は新人賞であるが、ずぶの素人、もしくは新人の作品が賞の候補になることはない。或い力、或る作品、読者を持っている新人作家の作品の中で受賞が競われる。その点では、海のものとも山のものともわからぬ候補作を読まされることはあまりない。そこは選考委員として、いささかの安堵を持てるが、今回のように候補作すべてが女性作家によるものとなってしまうと、男である私はいささか淋しい気がした。」(同号、伊集院静「選評」より)

 日本で言われる純文学・大衆文学の呼称問題が、どういう思考の経路をたどって、男として淋しい気がする、というところに到達するのか。ううむ。少なくとも上記に引いた箇所は、第161回直木賞の選考には関係がない、と思うんですけど、つまりは女性が書いた、男性が書いた、というふうに外野がレッテルを張るのは、純文学・大衆文学の呼称と同様、間抜けなことだ……と言いたいのかな、と想像できたりします。

 となると、文学か文学でないか、直木賞にふさわしいかそうでないか、直木賞にまつわるおおよそすべての現象がレッテルだらけです。そう考えると、直木賞って間抜けなことだよね、と言いたかったのかもしれません(たぶん違う)。

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2026年4月19日 (日)

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、」…高村薫、第158回直木賞の選評より

 いま小説界で話題になっていること。それは何でしょうか。AIです。

 ……と、ほんとに話題になっているのか、世事にうといので、さっぱりわかりませんが、世の中のほとんどの小説がAI作成によるものになっても、個人的にはそれでいいと思います。

 ただ、いまのところ小説を書く人間がまったくいなくなる、という未来は、まだまだ先のハナシでしょう。書きたい人間がいれば、それを読みたい人間もいる。偉そうにそれを読んで批評したがる人間もいれば、そこに賞の枠組みをかぶせたがる人間たちも、当分いなくなる気はしません。いったいそこにAIが、どういうふうに入り込んできて、ぐちゃぐちゃになるのか。外野から見ているだけのこちらは気楽です。

 さて、直木賞の選評のなかに「AI」という言葉が最初に登場したのがいつなのか。直木賞選評研究家の緻密な調査を待ちたいと思いますが、順々に直木賞の選評を読んできて、パッとワタクシの目に入ってきたのが第158回(平成29年/2017年・下半期)の選評です。いまから8年ほどまえに書かれたものです。

 この回の候補作は5つ。候補が明らかになってから、何といってもいちばん話題になったのは、〈SEKAI NO OWARI〉のSaoriこと藤崎彩織さんの書下ろし小説『ふたご』が、版元・文藝春秋による批判覚悟のプロモーション戦略の一環なのか、小説家プロパーの面々の作品に並んで候補作の一つに食い込んだことでしょう。何だか、もはや懐かしいです。

 懐かしがっている場合じゃありません。いま現在の直木賞にとっては、すぐそばのような時代です。受賞したのは門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』で、宮城谷昌光さんとか、東野圭吾さんとか、おそらく受賞には反対しなかったんだろうけど、そこまで高く評価したわけじゃなさそうだ、といった選評もありましたが、いちおう「ほぼ満場一致」の受賞だったそうです。

 いつも、おおよその候補作に厳しめの選評を書く高村薫さんも、たぶん『銀河鉄道の父』を褒めています。

 この作品について高村さんは、「門井流の、この適度な軽さ」と表現し、作者の目指す方向が、宮沢賢治の文学的昇華などではなく、かなりドラマ的な展開を意識した父子の物語にあったのだろう、と指摘しています。その点で、ごちゃごちゃ小難しいところを取っ払ってうまく読ませる小説にしている点を、手錬れによる作品だと、評価したみたいです。

 門井さんの小説にだいたい漂っている「まあ、ハナシとしてはすいすい読めるんだけど、何か物足りない感じ」を、軽いなりのよさというかたちで評価するところが、さすが高村さんだ、と感じさせられます。そりゃあ、重たくてコテコテに厚い小説ばかりが評価される世の中は、つまんないですからね。いいんじゃないでしょうか、直木賞を軽い小説がとっても。

 というところで、今週紹介したいのは高村さんの選評なんですが、注目したいのは『銀河鉄道の父』を評した部分ではありません。藤崎さんの『ふたご』を「個人的な関心事を連ねただけでは内輪のブログにしかならない。」とズバッと酷評した部分でもありません。

 選評の冒頭です。なぜかAIの話題から始めています。

「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、実際には、右の四つだけでは万人に読まれる小説は生まれない。小説は、生きた作家の手による足したり引いたりの匙加減や、緩急の間合いや、言葉の音と意味の派生効果がさまざまに利いているのであって、数値化されないこれこそが、小説が小説になる秘密であり、小説家が小説家である所以と言っていい。」(『オール讀物』平成30年/2018年3月号、高村薫「選評」より)

 すでにこの頃には、直木賞の選評にもAIが小説を書いたらうんぬんのハナシが出てきていたんですね。将来、だれかAI生成小説の歴史(と人類の反応)をまとめるときには、ぜひ高村さんの選評も紹介してください。お願いします。

 この先、高村さんは第172回(令和6年/2024年・下半期)をもって選考委員を退任しちゃうので、残念ながら(あるいは、幸運なことに)直木賞の選考の場でAIが書いた小説を審査する、という場面にぶち当たることはありませんでした。実際にそういう小説が候補になったときに、どんな表現で酷評してくれるのか。ないしはAIと人間が書いたものの区別がつかずにトンチンカンなことを語るのか。……それが見られなくて残念です。

 でも、将来、直木賞でそういう楽しい選考が実現しないものとも限りません。がんばれ、AI(いや、がんばれAI研究者)。

 高村さんがなし得なかった「AI小説を直木賞で選考する」経験を、だれか何年後か何十年後かの選考委員たちが、どういうふうに受け止めることになるのか。いまから楽しみです。

 まあ、それまでこちらが生きていられるかどうか、わかりませんけど。あとから生まれてくる直木賞ファンが、うらやましくてなりません。

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2026年4月12日 (日)

「何回目の選考になるのだろうか。」…北方謙三、第148回直木賞の選評より

 うちのブログではこの一年、「選考に関係ない選評」について書いています。基本的には、創設された頃の昔から始めて、時代の経過に沿いながら順番に見ていっているところです。

 なので今週は、前回取り上げた第150回(平成25年/2013年・下半期)よりも新しい回の選評に注目しよう。と思っていたんですが、つい先日、本屋大賞の発表があったので急きょ少し時計を巻き戻して、第148回(平成24年/2012年・下半期)直木賞の選評で行くことにしました。いまから13、14年ほどまえのハナシです。

 第148回の直木賞とはどんな回だったか。

 何といっても耄碌じじいだの老害だのと、さんざん世間から(いや、一部の人たちから)批判を受けまくっていた選考委員の渡辺淳一さんが、直木賞の場でいきなり若き新星、朝井リョウさんを激賞して、そうか、あの爺さんの目もそこまで狂ってはいなかったのか、と周囲がほっと胸をなでおろした(?)とも言われています。

 いいや、テキトーなこと言うな、渡辺淳一の選考はマジでひどかった! 朝井リョウを推したなんて、たまたまだ。……とナベジュン嫌いの人はいまでもツバを飛ばして主張するかもしれません。というか、渡辺淳一が好んだのと同じ作家を、今回、全国の書店員たちが大賞に選んだんだろ、ってことは、ナベジュンも書店員=一般人も、文学に関しては同じくフシアナであることが証明されたじゃないか! と声高に叫びつづける人もいるでしょう。たぶん。

 まあ、渡辺さんがどの程度、へんな選考をしていたのか。各自、当時の選評を読み込んでいただくとしまして、ここではそういうハナシは省きます。うちのブログの焦点は「選考とは関係ない選評」です。

 第148回では、候補作が6作品ありました。

 朝井さんの『何者』のほかには、安部龍太郎さんの『等伯』、有川浩さんの『空飛ぶ広報室』、伊東潤さんの『国を蹴った男』、志川節子さんの『春はそこまで』、そして西加奈子さんの『ふくわらい』です。

 選評を読むかぎりでは、このなかで圧倒的に『何者』と『等伯』が票を集めたらしく、エッジの効いた作品と、平穏・安定感のある作品、といった感じで対照的な二作が受賞圏内に入りました。ほかの4者は、なかなか厳しいことを言われつつ、それでも西さんの『ふくわらい』だけは選考委員に好印象を残しつつ、受賞には至らず、といった恰好です。

 それで、選評ではどの委員ももちろんそれぞれの候補作を自分がどのように読み、どこがいいと思い、どこが問題だと見たのかを書いています。あまり脇道にそれて原稿量を稼ぐような人は、少なくともこの回は見られません。

 といったなかで、やや異質な顔を見せたのが北方謙三さんです。

 北方さんというと、だいたいいつも選評の冒頭に、簡単な概説めいたことを書くのがお約束のようになっていましたが、第148回ではその路線を継承しつつ、妙におセンチなことを書きました。こんな感じです。

「何回目の選考になるのだろうか。この賞をジャンピングボードにした人が、どれだけいるのか。知らぬ間に沈黙してしまった受賞者が、果しているのかどうか。そんなことを考えた。賞の社会的な波及性は、作家の人生にも波及することがあると思えるが、そこまでの顧慮は選考にバイアスがかかりそうである。」(『オール讀物』平成25年/2013年3月号、北方謙三「バランスのいい二作」より)

 ずいぶん意味深です。どうしたんでしょうか。

 さかのぼると、北方さんは直木賞を受賞しないままで作家人生を歩みつづけていたところ、第123回(平成12年/2000年・上半期)から選考委員に就任した人です。つまり、この回で26回分、13年間、選考会に出席してきたことになります。

 いろんな受賞者を選びました。なかで小説をほとんど書かなくなった人なんて、ほんとにいるのか。

 たとえば、金城一紀さんがいます。それから山本文緒さんは、深刻なうつ病で執筆ペースに支障をきたしていた頃合いでした。

 直木賞の場合、そもそもプロ作家としてある程度、活躍してきた人がいるせいで、受賞したあとに消えた作家はそんなにいない……というのが定説です。

 あるいは、このとき受賞者として選ぶことになった朝井さんが、23歳とかなりの若年者で、デビューしてまだ2年ほどの実績しかなかったことから、北方さんの頭のなかに、「直木賞をしてから、プレッシャーを感じたり、あるいは他のことに興味を持ったりして沈黙する」作家に対する不安が、ふときざしたのかもしれません。正直、真意はわかりません。

 ともかく、現在にまで至るその後の朝井リョウさんの活躍を、北方さんはおそらく喜んでいるだろうとは思います。

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2026年4月 5日 (日)

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。」…浅田次郎、第150回直木賞の選評より

 おそろしいことに、次の7月で直木賞は第175回を迎えます。

 何がおそろしいのか。といえば、130回とか140回とかそんな時代の直木賞で楽しんでいたのがつい最近のような気がするのに、それから半年に1回ずつ、槍が降ろうが竹が降ろうが粛々とやり続けて、いつの間にやら「175」という異常に大きな回数にまで到達している事実です。

 要は、直木賞を見ているこちらが年をとった、というだけなんでしょうけど、おそらくみんなそれぞれ、直木賞に注目していた頃が第何回ぐらいだったのか、みずからの人生に思いを馳せると、そうか、すっかりこっちが直木賞に飽きてチェックしなくなってから、もうン年(ン十年)も経ったんだなあ、とふと時の流れを実感する。……いわゆる、直木賞あるある、でしょう。

 そう考えると第150回(平成25年/2013年・下半期)なんて、ほんの昨日のように思えます。しかし、あれから12年が経っています。12年。けっこうな年つきです。

 12年前を一生懸命思い出してみたんですが、いったい第150回の直木賞って盛り上がったのか、それともイマイチだったんでしょうか。

 盛り上がったような気もする。だけど、区切りのいい記念回だ何だと無理やり盛り上げようとしていたのは主催者とかマスコミだけで、一般的には他の平常回と変わらず、ボチボチに受賞作が売れ、さっさとみんなの記憶から去っていった、そよ風の吹いた程度の回だったような気もします。

 選考委員のメンツを振り返ってみますと、この回が最後となった(そして欠席した)渡辺淳一さんと、こちらはきちんと出席した阿刀田高さん、2人が退場するのに合わせて新委員として高村薫さんと東野圭吾さんの2人が加わりました。すでにその2人とも、直木賞の選考会からは去ってしまって、ともに面白かったアノ選評を読むことはかないません。やっぱ12年の時の流れは、なかなか長いです。

 候補作6つのなかから、ともに50代の女性作家、朝井まかてさんの『恋歌』と姫野カオルコさん『昭和の犬』が受賞しました。その2人はもちろんのこと、受賞しなかった千早茜さん、万城目学さんはのちに受賞者に加わりますし、同じく候補者、伊東潤さんも柚木麻子さんも、いまでも第一線で活躍しています。

 だれがどうして受賞したのか。だれがどうして受賞しなかったのか。まだまだ現在進行形の、ちょっと昔のそんな選考を、いまここで振り返っても大して意味はありません。

 まあ、直木賞のことを調べて知ろうとする、それ自体が大して意味があるものじゃないのはたしかですから、ことさら言い立てることでもないんですけど、第150回のこのときも、6作の候補に対する選考とは、ちょっと外れた話題を選評に書いた人がいました。となると、「選考とは関係ない選評」ファンとしては黙って見過ごすことはできません。

 その委員というのが浅田次郎さんです。

 受賞2作品については、まったく異存なしと両作を褒め称え、ほかの候補作については手厳しく注文、または批評を繰り出したあとで、なぜか選評の最後に、付け足しのような蛇足を加えました。

「今回の選考は直木賞の百五十回という節目で、世間の注目を集めた。しかしやはり、前途有望な新人作家の登竜門であるという本義を見失ってはなるまい。惜しくも受賞に至らなかった諸氏は謙虚に受賞作を読み、ことに両作が共有する文学作品としての品性の正しさを学ぶべきである。また周辺のみなさまも、作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたいと思った。能力と努力と環境とが、受賞した二作品にはそれぞれに備わっていたと思うからである。」(『オール讀物』平成26年/2014年3月号、浅田次郎「孤高と勇気」より)

 上記のなかで「作家にとって最も有効な作品発表の形態を考慮していただきたい」と言っています。これは前の選評を読むと、受賞となった朝井さんの『恋歌』は書き下ろし、それに比して万城目さんの『とっぴんぱらりの風太郎』は週刊誌連載のせいか、あまりに長すぎる、みたいなことを言っているハナシをまとめたものでしょう。

 最も有効な作品発表の形態が望ましい。まったくそのとおりです。別に第1回だろうが第150回だろうが、そもそも文学賞の場だろうがそうじゃなかろうが、わざわざ書くことでもありません。書くほどのことでもないのに書かざるを得なかった、というところに、浅田さんの気持ちが乗っているのが見て取れます。同じ実作家としては、発表形態の重要さは、日々感じるところだったのかもしれません。

 しかし、直木賞の150回という節目で世間の注目を集めた、という文章はどうでしょうか。こう書くぐらいですから、世事に疎いと、いつもご自分で言っている浅田さんをして、何らか世間の注目を感じていたのには違いありません。

 まわりで見ていた身としては、別に第150回だからといって、そこまで騒がれていた記憶はないんですが、中にいる人やそばにいる人と、引いた立場にいる人間との温度差が埋めがたいほどに激しく横たわっている、というのもまた、歴史的にみて直木賞のあるあるです。

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2026年3月29日 (日)

「私の脳裡には、イギリスのW・スコット、フランスのA・デュマ、アメリカのS・クレインなどの作家名が浮かんだ。」…宮城谷昌光、第146回直木賞の選評より

 歴史もの、時代もの、というと直木賞の王道だと言われたりします。

 いったいだれがそんなことを言っているのか。もしかしたら言われちゃいないかもしれません。わかりませんけど、日本の小説界、とくにエンターテインメント方面の小説界隈にとっては、「歴史・時代もの」の動向は、切っても切り離せない関係なのはたしかです。

 直木賞にはン十年にわたる無駄に長い歴史があります。そのなかで、推理・ミステリーがどう現われて扱われてきたのか。SFは。ノンフィクションは。……といったレベルと同じくらいに、歴史・時代ものがどのように評価され、またケナされてきたのか。その歴史的な推移は、個人的にはとても興味があります。いつか調べたいな、とは思うんですけど、やりたいやりたい、と言いながら何もできずにそのうち死んでしまうんでしょう。

 それはそれとして、昭和10年代の戦前から、戦後、経済成長下のイケイケな出版事情を経て、平成、令和とたくさんの歴史小説・時代小説が候補に挙げられ、ときどき受賞して、他はもろとも落とされてきました。

 第146回(平成23年/2011年・下半期)、このときも例に洩れません。候補6つのうち、3分の1にあたる2作は歴史・時代ものでした。そのうち一つは受賞しましたが、一つは落とされます。すべての候補が受賞できるわけではない、というシステム上、仕方のないことです。

 別段、この回だけに特徴的な選考姿勢が展開された、というわけではないんですけど、じゃあ何でこの回のことに注目するかといえば、選評のなかで唐突に「歴史・時代もの」についての講釈を始めた人がいるからです。

 ザッツ・イミフ選評の書き手こと、宮城谷昌光さんです。

 「イミフ」とは言いましたけど、宮城谷さんの頭のなかでは必然的な文章・表現・論理なんだと思います。第146回のこの回は、けっきょく葉室麟さんの『蜩ノ記』一作受賞と決まりましたが、その選考を総括してどういうふうに選評を書き始めるか。

 渡辺淳一さんは「以下、主だった作品について感想を述べるが、」と書き出し、宮部みゆきさんは「葉室さん、おめでとうございます。」、阿刀田高さんは「『蜩ノ記』は、きっちりと創られた作品である。」、林真理子さん「受賞作、葉室麟さんの「蜩ノ記」は、端正な作品だ。」、浅田次郎さん「受賞作となった葉室麟氏「蜩ノ記」は、これまでの作品で瑕瑾と指摘されてきた点をおよそ克服していた。」、桐野夏生さん「「城を噛ませた男」/この作者には、書きたいことが溢れている余力を感じる。」、北方謙三さん「六本の候補作の中で、二本がいつまでも私の心に残り、ぞくりとする皮膚感覚と、微妙な不協和音を伝えてきて、最後まで評価に迷った。」、伊集院静さん「文学賞の選考に携わるようになって、若くて新しい人の作品にふれる愉しみもあるが、」うんぬん。

 当たり前ですけど、人それぞれです。

 なかで宮城谷さんの冒頭は、もういきなり突き抜けています。

「世界文学のなかの歴史・時代小説を考えたとき、私の脳裡には、イギリスのW・スコット、フランスのA・デュマ、アメリカのS・クレインなどの作家名が浮かんだ。が、それらの国に歴史・時代小説という文学的ジャンルが確立したとはおもわれない。そう考えれば、日本文学におけるこのジャンルは独自の発展をとげたのではあるまいか、と奇異に感ずるときがある。日本におけるこの文学形態の濫觴をどこに求めたらよいか、正確にはわからないが、曲亭馬琴の『里見八犬伝』などは、まぎれもなく歴史・時代小説であろう。それが明治の森鴎外の考証を経て、吉川英治、直木三十五などに承継されて、いまに到っている。」(『オール讀物』平成24年/2012年3月号、宮城谷昌光「おどろき」より)

 その後に、選評は個別の作品評として伊東潤さんの『城を噛ませた男』、葉室さんの『蜩ノ記』と、言及がつづきます。しかし、歴史・時代小説ジャンルの確立は諸外国には見られない、的な指摘だの、その始まりや承継のあいだいにいた具体的な作家名だの、そんな前段が何だったんだというくらいに、違うハナシに終始していて、目がテンになること請け合いです。

 おお、これぞ宮城谷マジックだ! と歓喜の声をあげたくなるのは、ワタクシだけではない、と信じたい。

 スコットもデュマもクレインも、直木賞とは何の関係もありません。関係がないんですけど、宮城谷さんの複雑怪奇な思考回路のなかでは、きっとこれ以外にはない、というくらいバッチリつながっているんでしょう。わけのわからないこの感じ。直木賞選評の一時代を築いた、と言っても言いすぎではありません。

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2026年3月22日 (日)

「昭和の時代、私はまだ子供ではあったが、東京生まれの東京育ちであった」…平岩弓枝、第141回直木賞の選評より

 文学賞の選評に、あまり私的なことは書くべきではない、という考え方があります。

 いっぽうで、別に直木賞の選評なんて一部の好事家以外に読まれているわけでもないんだから、好き勝手に書けばいい、という意見もあります。

 いずれにしても、小説とか文学とかと同じく、選評にも「何を書かなくちゃいけない」というルールはありません。思いのままに、それぞれの人がつらつらと書いているそのさまが展開されている。それを見られるだけで、こちらとしては満足です。

 それで今週は、選考委員のひとりが候補作に描かれた時代や土地柄に、思わず自らの思い出回路を刺激されて、選評なのに私的な回想を何行にもわたって書いてしまった人のことで行きたいと思います。平岩弓枝さんです。

 昭和7年/1932年、東京生まれ。実家は言わずと知れた代々木八幡宮の宮司さん一家。と、そんなことはもはや語るまでもない気もします。平岩さんが直木賞をとって、その後に選考委員にまでなったこととは、ほとんど関係がないからです。

 だけど、関係がないように見えて、どんなことでもつながりができてしまうのが、直木賞です。昭和のはじめに東京で生まれた……ということが、第141回(平成21年/2009年・上半期)の直木賞の選考に、不思議な縁として平岩さんのもとに降ってきます。

 このときの候補作は6つありました。西川美和さん『きのうの神さま』、貫井徳郎さん『乱反射』、葉室麟さん『秋月記』、万城目学さん『プリンセス・トヨトミ』、道尾秀介さん『鬼の跫音』、そして北村薫さん『鷺と雪』です。

 選評を見てみると、平岩さんは上記の6つのうち、2作品のことにしか言及していません。『秋月記』と『鷺と雪』です。

 しかも、どちらを推奨しているとか、どちらを批判としているとか、そういう白黒つけた感じでもなく、平岩さんお得意の「大量の参考資料とその扱い方」に関するハナシをこの2作にからめて語っている構図になっています。長い選考委員としての人生を通して、これほど数多くの回で参考資料のことについて筆を費やした人はまずいない、と思えるほどに平岩さんは何度も何度も同じ教訓を、手を変え品を変えて語りました。というハナシは、以前もうちのブログで取り上げた気がします。

 ただ、今回注目したいのは、そこの部分ではありません。北村さんの『鷺と雪』について語る段になった平岩さんが、急に遠い目をしながら(……って、実際にその姿を見たわけじゃありませんけど)回想している箇所です。

 『鷺と雪』はシリーズ物の連作集で、昭和初期、大きな戦争を始めようと国全体がじわじわ動き始めた時代の東京を舞台にしています。そこに平岩さんの琴線がビビッと揺れたらしく、選評の誌上で昔の思い出があふれ出します。

「ここに書かれている昭和の時代、私はまだ子供ではあったが、東京生まれの東京育ちであったから、両親や伯父、伯母、従兄姉達としばしば日本橋、銀座界隈、或いは上野公園なぞへ出かけた記憶は鮮明に残っている。

残念ながら、三越のライオンには乗ったことはなかったが、ブッポウソウ事件に関しては、なんとなく、ばらばらに憶えている。当時、我が家は神社の境内でアオバヅクが初夏の夜、啼いていて、まだお若い頃の野鳥研究家の中西悟堂先生がよく観察にお出でになったようで、それが御縁で、後年、物書きになってから中西先生にその当時の話をうかがった。もう一つ、伯母が古典芸能の愛好者で何故か伯母のお供をして梅若万三郎や観世左近の舞台をみせてもらっていた。今回の北村さんの作品は思いがけず幼女の頃の自分の姿へ束の間、私をひき戻し、すでに世にない、なつかしい人々の顔を瞼の中に甦らせてくれた。」(『オール讀物』平成21年/2009年9月号、平岩弓枝「作品と資料」より)

 ううむ。それが選考にどんな影響を与えたのか。与えていないわけはないと思うんですけど、さすがに自分の思い出を甦らせてくれたからといって高い点をつけた、なんてことは言うはずがなく、平岩さんの自伝の一節でも読んでいるような気分にさせる、稀有な選評になっています。

 別に評価だけを書くのが選評だと決まったわけじゃなし、こういうのもいいんじゃないでしょうか。

 そういえば上の文章のなかに、人々の顔が瞼の中に甦ったという言葉があって、これはやっぱり平岩さんですから、師匠の長谷川伸さんの「瞼の母」を意識した表現なのかとも思ったんですけど、とくに確証はありません。平岩さん当時77歳、昔のことを振り返っていろいろ語っても問題のないお年頃、けっきょくその次の第142回で直木賞の選考委員は退任しちゃうんですが、もう少し長く、選評で自分語りをする平岩さんの姿を見せてほしかった、と思います。

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2026年3月15日 (日)

「平和で豊かな世の中というのも、こと文学にとっては考えもの」…浅田次郎、第139回直木賞の選評より

 果たして直木賞って「文学」なのか、という議論があります。

 議論がある、んでしょうか。文学、文学と、そんなことばっかり選評に書いている選考委員は、これまでいなかったわけじゃないですけど、何といっても「直木賞」が指し示す文学なるものには、実体がありません。いまとなってはすでに「大衆文芸」といった言葉も、規定からは取り払われました。何を決めている賞なのか。正直よくわかりません。

 よくわからない、と言って無視したり批判したり揶揄したり、そういうことは簡単にできるんですが、そんなこと言ったらン十年まえに始まった当初から、直木賞が何を決めているのかよくわからない、というのは伝統っちゃあ伝統です。いまさら吠え立てたところで仕方ありません。

 いろんな受賞作が選ばれてきました。いろんな受賞者が生まれました。まったくの娯楽小説が「面白すぎる」と言って落とされたり、かといえば「文学性が足りない」と言ってしりぞけられたり、時代時代、一回一回の選考姿勢がそのつど変わり、よくいえばバラエティに富んだ、直截にいうと「直木賞に選ばれた」ということ以外にとくに共通点もつながりもない作家・作品が、この賞の歴史を築いてきました。

 たとえば、第139回(平成20年/2008年・上半期)に選ばれた井上荒野さん、受賞作『切羽へ』を、世の直木賞史家はどのように解釈し、どういった特徴で位置づけるんでしょう。ワタクシは非才なので、文学史のなかにこの受賞をどういうふうに据えるとうまくとらえられるのか、皆目見当もつきません。

 候補作は6作ありました。『切羽へ』以外では、荻原浩さん『愛しの座敷わらし』、新野剛志さん『あぽやん』、三崎亜記さん『鼓笛隊の襲来』、山本兼一さん『千両花嫁』、そして和田竜さんの『のぼうの城』です。

 ほんの18年ぐらい前に出版された作品たち。いったいいま、それらを好んで手にとる読者がどれくらいいるんでしょうか。それぞれ文庫になったりしているので、その後どれくらい売れたのか、いまも現役で新刊書店に売っているのか、図書館での貸し出し数は、……など実態を調べてみたいところです。勝手な印象でいうと、もしも仮に井上荒野さんが受賞していなかったら、『切羽へ』が最も人気が低く、すぐに重版未定になり、本も図書館閉架の奥の奥のほうでホコリをかぶっていたんじゃないか、と思います。

 この回の選評を読んでみると、各人各作を思い思いに評価していて、興味があれば『オール讀物』平成20年/2008年9月号のバックナンバーを探して読んでみていただればいいんですが、直木賞の選評の場でやたらと「文学」と言いたがる委員の、現代の代表格といって浅田次郎さんが、やはりこの回も文学、文学、言っているのが目にとまります。

 出だしからして、おう、直木賞の選評でそういうこと語っちゃうんだ、とちょっと読み手の腰が引けてしまう文章です。

「平和で豊かな世の中というのも、こと文学にとっては考えもので、小説家は本来文学の核となるべき苦悩を個人的に探し回らねばならない。」(浅田次郎「文学の核」より)

 読んでいくと、このあとで新野さんの『あぽやん』を自分は評価した、と語る前段として「文学の核となるべき苦悩と、作家」のハナシを持ち出してきたんだとわかります。そういう意味では選考とはまったく関係ないとは言えないんですが、文学かあ、苦悩かあ、と遠い目をしてしまいたくなる書き出しだったので、つい取り上げてしまいました。

 ちなみにこの回の浅田さんの選評は、和田さんの『のぼうの城』がけっこうな部数売れていることを前提の上で、こんなふうに締めくくられています。

「そもそも社会的効果と文学的価値は無縁である。

文学の核たるべき苦悩を免れたわれわれが「漠然たる不安」などと言わずにどうすれば小説をなしうるのかと、真剣に考えさせられる選考会であった。」(同上)

 ううむ。要するに芥川ナントカさんの書いたようなものが文学だ、と浅田さんは暗に示しているわけですね。

 「それを直木賞の選評で言うか!」ということを冒頭と末尾で呼応させて、ひそかに直木賞ファンにケンカを売っているに違いありません。……いや、売っていないかもしれません。

 そもそも直木賞の選考で文学を語って悪いことはありません。いくら、もう一つの賞の文学に「純」が付いていようが、おれはおれのやり方でいく、と頑張って何十年間もやってきたんだから、それでいいんだとは思います。ただ、どうも世間の反応を見ているかぎり、直木賞というとやっぱりもう一つの賞と同時にやっているためか、「エンタメ」「大衆性」のほうばかり気にされているのじゃないか。浅田さんの戦いは、まだまだ長く続きそうです。

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«「ある日、映画監督の周防正行氏のコメントを新聞で読んだ。」…林真理子、第136回直木賞の選評より