2025年11月 9日 (日)

「現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。」…川口松太郎、第77回直木賞の選評より

 ワタクシは生粋の直木賞ファンです。世のなかにもきっと、たくさんの直木賞ファンがいることと思います。

 それぞれに「好きな直木賞の時代」というものがあるはずですが、ワタクシの場合、しいて挙げるとするならば、昭和50年代前半、1970年代ごろの直木賞が一、二位を争うほど大好きです。なぜか。受賞作が全然出なかったからです。

 直木賞が好きなくせして、受賞作が出なかった時代が好きとは、よっぽどコイツはおかしな奴だと思います。だけど、好き嫌いに理屈なんかないので仕方ありません。

 第70回(昭和48年/1973年・下半期)なし。第71回、第72回は運よく受賞者が選ばれましたが、第73回なし。第74回で受賞があったあと、第75回なし。第76回では受賞者を出しながら、第77回、第78回(昭和52年/1977年・下半期)と連続なし。……これがいまのところ、最後の「直木賞二期連続該当作なし」の記録となって残っています。

 来年1月、第174回(令和7年/2025年・下半期)でもしも該当作が選べなければ連続の「なし」となるので、ようやくその歴史が上書きされるんですが、さて、どうなることやら。がんばれ、直木賞。

 と、それはそれとして選評のハナシです。

 該当作なしばっかりだったこの時代、やはり面白いものを残してくれたということでいえば、授賞することができなかったときの選評がたくさん書かれたことです。今日出海さんはどこに芯があるのかわからないノラリクラリを繰り返す。司馬遼太郎さんは、基本的にグチばっか。石坂洋次郎さんはマイペースに、自分の郷里に対する愛情を隠すことなくぶっぱなす。

 直木賞が受賞作を出せなくたって、出版世界に目を映せば、小説が書かれなくなるわけじゃなく、新しくて面白い小説はどんどん生まれていきます。そのなかで粛々と、該当作なしの選評だけが積み上がっていく。無意味なようでいて、意味がありそうなこの展開を、まるで無責任な立場で外から眺めてみる。面白くないはずがありません。

 第77回(昭和52年/1977年・上半期)は前述のように該当作なしの回でした。とりあえず推した委員がいた、ということで、色川武大さんの『怪しい来客薄』から「空襲のあと」「墓」、井口恵之さんの「つゆ」が『オール讀物』昭和52年/1977年10月号に再録されたうえで、選考委員9人の選評が載っています。

 今回取り上げるのは直木賞選考会では圧倒的な欠席率を誇る書面回答キングこと、川口松太郎さんの選評です。

 ちなみに川口さんは旅行中だったため、この回も書面で回答しましたが、選考会で最後まで議論された『怪しい来客簿』も「つゆ」も、全然高い点をつけていなかったそうです。そしてこんな老人のつぶやきを残します。

「作品の非難は控えるが、現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。年の哀れはもうどうしようもない。若い人たちに追い着こうと思う気もなく、自分は自分なりにやって行くより方法はない。とすると、今や文壇最高の登龍門ともいえる直木賞の委員に長くとどまるべきではない、という気がして来たのだ。

(引用者中略)

鬢髪を染めた実盛の故事を学ぶまでもない。老兵は消えるのみ、とマッカーサー将軍はいった。私も同じ心持でいる。」(『オール讀物』昭和52年/1977年10月号、川口松太郎「選評」より)

 このとき川口さんは77歳。同じ日に選考会をやっている芥ナンチャラ賞のほうでは、瀧井孝作さんが83歳にしてまだ選考委員をやっていましたので、居座ろうと思えば川口さんも続けられたでしょう。

 だけど、たしかに外野から「老害」と言われてもおかしくはありません。それをはっきり自覚して書き残すところが、川口さんらしいです。

 で、この回をもって退任するのか。と思ったら、けっきょくそれから約2年、第80回(昭和53年/1978年・下半期)まで在留してしまったのは何なのか。文春の人に引き止められたのかもしれませんし、川口さん自身、なかなか辞める決断ができなかったのかもしれません。老害は老害で、そう簡単に消えることもできず、大変なんだろうなと思います。

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2025年11月 2日 (日)

「「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう」…石坂洋次郎、第69回直木賞の選評より

 直木賞は毎回のように注目されます。何が候補になるのか、だれが受賞するのか。社会や経済がどんな状態であろうともお構いなし、戦後から平成、令和と、おおよそ直木賞は毎回毎回、懲りずに注目されてきた、と言ってしまいたいと思います。

 で、注目されているから何なのか。オレはおめえみてえなゴシップ厨じゃねえんだ、そんなチャラチャラした世界に興味はないよ。と背中を向けるのも全然アリでしょう。「多くの人が注目している」というその一点の印象だけで目をそむけてしまうなんて、それ以外のところで直木賞の歴史が積み重ねてきた面白さに出会うことができないじゃないか、もったいないことをする人だなあ、とは思いますけど、何を好きになるかは人それぞれです。無理に引き止める気は起きません。

 それはそれとして、直木賞です。

 今年の7月に選考会のあった第173回(令和7年/2025年上半期)は該当作なしとなって、さあその次はどう出るのか、「なし」のあとにやってくる特有の注目性は高まるばかりですが、いまから50数年まえの第69回(昭和48年/1973年・上半期)のときもやはり、一つ前の回が該当作なしでした。今度もまた受賞作なしになるのか。それとも……という雰囲気が、選考会の前からまわりには漂っていたものと思います。たぶん。

 源氏鶏太さんの選評によれば、第69回の選考会は初めから、前回は該当作を出せなかったから今回こそは何としてでも授賞を出したい、という空気に包まれていた、ということです。

 それでも、みんなが一斉に票を入れる絶対的な作品が候補のなかにあればよかったんですが、そうはならないのが直木賞の常らしく、今回も低調だなと嘆く委員あり、おれはこれがいい、いや、これは駄目だ、と評価が割れる作品もあり、どこに正解があるのかわからない議論が、数時間交わされたと言います。

 それでけっきょく、長部日出雄さんの「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」と藤沢周平さんの「暗殺の年輪」、二人に授賞することが決まりました。当初の雰囲気どおり、二期連続での該当作なしを避けることに成功したというわけですが、こうなると「選考とは関係のない選評」を書かせたら右に出る者なし、と言われた王者・石坂洋次郎さんの腕が鳴るのも自然だったことでしょう。

 何てったって、受賞者の一人が津軽の人ですからね。だれが何といおうと選評には郷土愛を炸裂させることを第一の目的としていた(……?)石坂さんが、ここで津軽の話題を書かないはずがありません。

 ちなみにこの回の石坂さんの選評は、1行14字詰で全53行、そのうち落選した候補作についてはまったく触れず、受賞の一人藤沢さんの作品のことはたった4行で、それ以外はほぼ、長部さんの津軽ものと郷土のことばっかり書きました。マジでやりすぎです。

「私自身は候補作品七篇を読んで、長部君の津軽物二篇に一番牽かれた。しかし私はそういう自分を警(ルビ:いまし)めもした。何故なら私は二篇の舞台になっている津軽の出身であり、お目にかかったことはないが作者の長部君も同郷人だというし、もう一つ「津軽世去れ節」を出版した津軽書房の高橋君とは顔なじみであり、それやこれやで「世去れ節」的な理屈抜きの親近感を抱くおそれが大いにあったからである。

(引用者中略)

私は「津軽じょんから節」を読んでいて、チビで酒好きで狂人染みて芸熱心である「桃」という人間は、津軽が生んだ破滅型の作家・葛西善蔵にそっくりなタイプだと思った。農民相手の芸能人であるから、同じ破滅型とは言っても、大地主の家に生れ、知的要素も多い太宰治とは表向き大分ちがってはいるが……。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号、石坂洋次郎「よかった、よかった」より)

 葛西善蔵とか太宰治とかに対する石坂さんによる人物評が、この回の直木賞の選考と関係ないことは言うまでもありません。この能天気な姿勢が、まさしく石坂さんの持ち味です。

 そして、何をおいても白眉はこの選評の終わり方です。おそらく以前にも何かの機会にうちのブログでは紹介した覚えもあるんですが、「選考に関係ない選評」史上、関係なさでいったらたぶんトップクラスに位置づけられるに違いない、直木賞選考委員・石坂さんを代表する一節だと思うので、あらためて引いておきます。

「最後に津軽書房の高橋君よ、直木賞通過で「津軽世去れ節」がよく売れたら、季節を待っておいしい林檎を五、六箱、文藝春秋の直木賞係りの皆さんに贈るよう、郷土の先輩として勧告する。とび上るほど嬉しかったろうから……。」(同上)

 津軽書房の高橋彰一さんといえば、戦後日本の出版史のなかでもかなりの有名人です。なので、この石坂さんの勧告を受けて、果たして高橋さんが文春にリンゴを贈ったかどうしたか、回想なり資料なりも残っているかもしれません。

 こんなことを選評の場で堂々と言われて、さすがに高橋さんも無視はしなかったと思うんですが、どうしたんでしょうか。気になります。ご存じの方がいればお教えください。

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2025年10月26日 (日)

「次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」…今日出海、第65回直木賞の選評より

 昭和46年/1971年・上半期、第65回の直木賞も、該当作なしで終わったたくさんある回のうちの一つです。いまから約54年まえの昔のハナシです。

 候補のなかには、押しも押されもしない人気作家、笹沢左保さんの股旅モノが入っていました。これを推す人もいましたが、断固として否定する人の声も大きく、こんなの西部劇か「ひとり狼」そのまんまじゃないか、と結構ボロクソ言う選考委員もいたらしいです。笹沢さんへの受賞の芽はもろくもついえてしまいます。

 あとは、テレビに盛んに出ていた藤本義一さんも注目どころの一人でした。しかし「この人には作家としての定着性がない、という意見がつよく、」「テレビタレントであるということが損をしている」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、水上勉の選評より)などと、いまならまず炎上するに違いないようなことを選評で言われて、こちらもけっきょくしりぞけられます。

 それで、この回に書かれた「選考とは関係ない選評」といえば、やはり前週も登場いただいた司馬遼太郎さんの文章は見逃せません。奇をてらってか、いきなり冒頭から直木賞とは全然関係ないことを書いています。

「いつだったか、陳舜臣氏と神戸で食事をしていて、はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある。

なるほど中国人というのは詩文で何千年苦労してきただけに、おもしろい詩論があるものだとおもった。むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいいが、いずれにせよ、薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする。

ところで、怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない。」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号、司馬遼太郎「怨みと志」より)

 うんぬん、といった感じで、今回の直木賞の候補作やその選考、自分の評価のことには触れないままで、だらだらと随想めいたことを続けています。

 なるべく個々の作品については語らずに、総論的なハナシでお茶を濁すというのは、該当作がなかったときに、委員の誰かが繰り出すお約束のようなフォーマットではありますが、なにしろ直木賞の選考にそこまでやる気を見せようとしなかった、と伝わる司馬さんのことです。こういうかたちの選評が多くなってしまうのも仕方ありません。

 で、二週連続で司馬さんのボヤきを紹介して終わりにしよう……かとも思ったんですけど、該当作がなかったときの選評は、みな委員それぞれ苦労するらしく、他にも「それって選評なのか」というような文章を連ねた人がいます。今日出海さんです。

 今さんのことも、何週か前に取り上げました。個々の作品について語るより、もうちょっと引いて、よく言えば俯瞰的に、ぶっちゃけて言えば当たり障りのない総論を書きたがる選考委員でしたが、第65回の直木賞でもその性格をいかんなく発揮します。

 御説、拝聴しましょう。

「川口松太郎氏は常に大衆小説の血脈を新人作家の作品に求めている。純文芸とか大衆文学というのは単なるジャーナリスト評論家が便宜上つけた分類的名称で、ジャンルとして劃然と区別されている本質的な問題とは思えない。文学への情熱に変りはないのだから、作家はやはりそのような人為的な区別を取立てて意識する必要はあるまい。それよりも中途半端な観念的抽象的な小説が横行して、文学の危機を招いている時、直木賞作家の本質的な健康さをむしろ要望したいのである。ただ次元の低さを大衆的と考えるのでは、むしろ大衆への侮蔑であり、軽視である。」(同号、今日出海「直木賞について」より)

 いったい今さんが何を言いたがっているのか。難渋というか、未整理というか、なかなかつかみづらく、正直ワタクシの頭にはスッと入ってきませんでした。

 そもそも、純文芸とか大衆文芸とか分けることに反対しているのか。何か曖昧です。「次元の低さを大衆的と考えるのでは」うんぬんという文章なんかも、いったい何に掛かった意見なんでしょう。選考会の現場では、何かそういう議論でも交わされたのかもしれません。よくわかりません。

 やや混乱した選評を書かせてしまうほど、該当作なしのときというのは、何をどういうか委員の人たちは苦労する、ということなんでしょう。たぶん。

 あるいは今さんが、人を煙に巻く文章を書く力に長けていた、という可能性も当然あり得ます。それか、単にワタクシに人の文章を読む力がないだけか。ううむ、直線的でない選評って、やっぱ難しいっす。

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2025年10月19日 (日)

「わるい時期に顔を出したと思っている。」…司馬遼太郎、第62回直木賞の選評より

 世の中には「司馬遼太郎信者」みたいな人がいます。いや、いまとなっては「いました」と過去形で表現したほうがいいかもしれません。

 別にワタクシも司馬さんのことが嫌いなわけじゃないんですが、生きているときは、国民作家だと持てはやされ、司馬史観なる単語まで登場し、ひとたび誰かが司馬さんの小説を否定しようものなら、うるせえ、シバリョウほどの学識もないくせに、てめえは黙っとけ、とさんざんに叩かれ、ボロクソに言われるような時代があった……などと洩れ聞いています。

 司馬さん自身はそこまで尊大な人ではなかったでしょう。ただ、司馬作品に惚れ込んでいる人たちが、なぜか自分たちの知識をひけからすことに快感を覚えて、やたらとエラそうにしていた、というのも、個人的になかなかその界隈に近寄りたくはないなと思う理由の一つです。

 いやまあ、それはともかく、司馬さんといえば司馬さんですよ。第42回(昭和34年/1959年・下半期)で受賞し、その10年後に選考委員を拝命して、第62回(昭和44年/1969年・下半期)~第82回(昭和54年/1979年・上半期)の約10年、忙しいさなかに委員として選考会に関わりつづけた直木賞にとっての優等生です。激務を縫って、選考会が終わるたびに選評も書いてくれています。取り上げないわけにはいきません。

 今週は、そのいちばん始めの始め、司馬さんが直木賞の選考会に加わった第62回のときの選評です。年齢でいうと46歳のとき。いまでいえば、40代で委員になった三浦しをんさんとか、辻村深月さんとか、米澤穂信さんとか、そのくらいの感じ……と思ってみると想像がつきやすいと思います。いわば、選考委員会のなかでもペーペーです。

 この回は、候補作が8つありました。が、多くの委員は、どうもいいのが見当たらないなと、相変わらずの不平不満を腹のうちに抱え、そのなかでも授賞するならと、田中穣さんの『藤田嗣治』に高評価をくだした人が何人かいたんですが、ノンフィクション作品に直木賞を与えるべきかどうか、おそらくは選考会のなかで大激論があったらしく、けっきょくは「授賞なし」に落ち着いたという、直木賞の歴史のなかでも他の回と同様に、注目されるべき回だったと言っていいでしょう。

 その中で、初めて選考会に参加した司馬さんは、やはり他の委員と似たような感想をもったらしく、8つの候補のなかで直木賞に値するのはなかった、と選評で言っています。で、そう考えた理由を語りはじめる選評の冒頭のところで、なかなか意味深いことを書きました。

「直木賞的な分野にあたらしい小説がおこることは、ここしばらくないかもしれないと悲観的な、というより絶望的な予想をもっていたやさき、皮肉にも審査員の末席につらなることになった。

わるい時期に顔を出したと思っている。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号、司馬遼太郎「わるい時期」より)

 と、これを「意味深い」と受け取ってしまったのは、ワタクシも司馬さんの魔術にハマっただけかもしれません。すみません。別にそんなに深い意味などないようにも読めてきました。

 だいたい「時期がどうのこうの」と言いたがるのは、一つひとつの状況を無理やりにでも歴史の流れに置いて考えたがる歴史小説家の悪いくせです。そんなこと言い出したら、1960年代後半から1970年代、直木賞的な分野(って、これも具体的に何を指しているのか曖昧ですが)に新しい小説はどんどん生まれていたじゃないか、と思います。

 じっさい、司馬さんの言ったとおり、その後の直木賞は該当作なしがたくさん発生し、いかにも「わるい時期」を示すかのような暗黒時代を迎えました。ううむ、さすがは司馬史観、直木賞の近未来をも予見していたのか! ……となかば感動してしまうなりゆきではあったんですが、いやいや、よく考えれば「該当作なし」がそこまで多くなった戦犯のひとりが、委員をしていた司馬さん自身なのはたしかです。

 「わるい時期」に委員になったとボヤきながら、みずから「わるい時期」のお先棒を担ぐことになった司馬遼太郎さん。もしも司馬さんが委員に入っていなかったら、もうちょっと直木賞の受賞作が増えたんじゃないか、とも思います。これを「予見」と呼んでいいんでしょうか。……自らが最初に言ったことを、自らの手でつくり上げていった「有言実行」の男、と言っておきたいと思います。

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2025年10月12日 (日)

「故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家」…石坂洋次郎、第61回直木賞の選評より

 いまの直木賞の特徴といえば何でしょう。

 さかしらげに「コレだ!」と断言できるようことは、ワタクシには思いつきませんけど、何となく感じるのは、やたらと全国各地、地域性に密着した盛り上がりがたくさん出てきたな、ということです。

 受賞者の会見などが顕著ですけど、その作家がどこで生まれたのか、どこで育ったのか、どこの学校に通った、どこで働いていた、どこに住んでいる、あるいは受賞作の舞台がどこなのか……ということを含めて、異様なほどに地域色が注目されます。けっきょくのところ同じ日本国内で活動している作家ですし、もっと言えばどいつこいつも同じ地球上の人間です。こんなところで狭い地域の関係性をほじくり返して、いったい何になるんでしょうか。正直よくわかりません。

 まあ、そんなことはどうでもいいです。

 何が言いたいかといえば、これまで170ン回の直木賞の歴史のなかで、選評に書かれたハナシのうち、印象に残る地域といえばいったいどこか、それは青森だ。と言いたかっただけのことです。

 直木賞の選評にはなぜか、チョコチョコと青森のことが言及されています。いや、言及されていました。いっとき直木賞の委員をしていた石坂洋次郎さんが、それって選考とどんな関係があるんだ、というツッコミを待っているんじゃないかと思うほどに、青森がどうだこうだと、選評のあちこちに書き残しています。先週のうちのブログでも取り上げたとおりです。

 先週は、第57回(昭和42年/1967年・上半期)で候補に挙がった平井信作さんのことを同郷人だと言っている石坂さんの文章に触れました。それから2年後の第61回(昭和44年/1969年・上半期)、ふたたび石坂さんの青森愛がマグマの底から沸いてきて、神聖な(?)直木賞選評の場に、自分の郷土の話題をぶちまけます。

 この回、直木賞の候補は7人いました。受賞した佐藤愛子さん(大阪府生まれ)をはじめとして、阿部牧郎さん(京都府)、藤本義一さん(大阪府)、勝目梓さん(東京)、利根川裕さん(生まれは千葉県ながら出身は新潟県)、黒部亨さん(鳥取県)、渡辺淳一さん(北海道)……と、だれひとり、青森出身の人など見当たりません。いや、しかしここで青森、というか石坂さん自身の出身、津軽のことをネジ込んでくるところが、石坂さんの石坂さんたるゆえんです。

 佐藤愛子さんの候補作は、単行本の『戦いすんで日が暮れて』ですが、石坂さんのもとに来ていた情報では、同書に収録された「戦いすんで日が暮れて」「佐倉夫人の憂愁」の2作だったようです。こんなふうに言っています。

「佐藤さんの二作が、今回の直木賞作品に選ばれたが、それについて私は〈よかった〉という私的な親近感を覚えた。というのは、佐藤愛子さんの父君・故佐藤紅緑は、私の郷里・津軽出身の先輩作家であり、太宰治が陰性な破滅型の人物であったとすれば、紅緑は陽性な破滅型――あるいは豪傑型の人物であり、その血が娘である愛子さんにも一脈伝わっているような気がして、同じ郷土気質をいくらか背負っている私をさびしく喜ばせたのである。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号、石坂洋次郎「津軽の血」より)

 あまりに「私的な」感想すぎて、見ているこちらは茫然とするしかありません。

 佐藤紅緑さんが生まれたのは明治7年/1984年、石坂さんは明治33年/1900年と、26歳離れていますが、同じ青森県弘前市で生まれ、中学は現在弘前高校となっている前身の学校に通っていたという先輩後輩のあいだがらです。その後に歩んだ道は違えども、石坂さんとしても親近感を持っていたんだろうと思います。

 それはそれでいいんですが(って、よくはないか)、佐藤愛子さんの作品を評するはずの場所で、父親がどうだの、血がどうだのと、思わず筆を滑らせてしまうというのは、何なのか。他の候補作家にとっては、貴重な選評の場をそんなことで埋めてしまう耄碌ジジイがいるというのは、いい迷惑だったかもしれませんが、石坂さんが愉快な人だったのは、直木賞の選評からもよく伝わります。

 ぜひ青森の人たちには、直木賞の選評で型破りの郷土愛を書き残した伝説の委員、石坂洋次郎さんを(そういった観点から)もっともっとフィーチャーしてほしいものだと、切に願います。

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2025年10月 5日 (日)

「同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」…石坂洋次郎、第57回直木賞の選評より

 選考とは直接的な関係がない選評を書きがちな直木賞委員、というのはいつの時代にも見当たります。

 久米正雄さんとか小島政二郎さんとか今日出海さんとか、そのあたりが一般によく知られている……のかどうなのか、ワタクシも全然知らないんですけど、そんな直木賞の歴史のなかでも燦然と輝く「どーでもいいことを選評に書く」トップ・オブ・トップというと、いったい誰でしょうか。これはもう、石坂洋次郎さんをおいて他にはいません。

 直木賞ももうひとつの文学賞もとっていないけど超絶な流行作家街道を驀進し、67歳の高齢になってから、なぜか直木賞の選考委員のお声がかかって11年。ボケ老人として直木賞の選考会をかきまわした人、として、うちのブログでもさんざんイジくり回してきました。石坂さんこそ、「選考とは関係ない選評」のテーマにはぴったりの人です。

 はじめて選考に参加したのが第57回(昭和42年/1967年・上半期)のときです。候補者は9人。そのうち、中田浩作さんの「ホタルの里」、平井信作さんの「生柿吾三郎の税金闘争」、生島治郎さんの『追いつめる』の三作を高く評価した、と自身で選評に書いています。

 ただ、けっきょく票が集まって受賞することになった『追いつめる』を、なぜ石坂さんが評価したのか。選評を読んでも、よくわかりません。

 Aという作品のどこかがよかった、Bという作品はどこが駄目だった、とそんなことを選評で示すのは常人のやることで、石坂さんくらいになると、もはや自分がなぜ票を入れたかなんてことは、わざわざ書くまでもない、ということなのかもしれません。

「結局、手慣れた書き方で、暴力団を追及する元刑事を描いた生島治郎「追いつめる」が第五十七回の直木賞に選ばれた。おめでとう。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号、石坂洋次郎「はじめて審査に参加して」より)

 という部分が、おおよそ石坂さんが『追いつめる』に関して、何がしかの判断を示している(?)と思われます。ともかくは気に入った作品だったようです。

 他の二作については、もうちょっと突っ込んで作品に対する感想を述べています。

 たとえば、中田さんの「ホタルの里」は僻地に赴任した若い青年教師が主人公です。このあたりが石坂さんのカワユイところだと思うんですけど、石坂さんは、自分がそうだったという理由で、そういう地方の学校教師を描いた作品が直木賞の候補になると、妙に甘い点をつけちゃったりします。ただ、直木賞と僻地の教師、といってまずパッと頭に思い浮かぶ三好京三さんの『子育てごっこ』が、のちの第76回(昭和51年/1976年・下半期)で候補に挙がってきたときには、石坂さんは痛烈な批判を繰り出して、その受賞に反対しました。教師を描いた小説だからって、何でもかんでも評価したわけではなかったようです(……って、まあ、そりゃそうか)。

 もう一つ、第57回で石坂さんが高い点をつけたのが、平井さんの「生柿吾三郎~」ですが、それについて書かれた選評こそ、まさに石坂ブシ炸裂、と言っていいでしょう。

「平井信作「生柿吾三郎の税金闘争」は細かい文学的センスなどにこだわらず、体当りで題材にとり組んでいるのがいい。同郷人の平井君が今度の選に洩れたのは残念。」(同)

 石坂さんは青森県弘前市の出身で、平井さんは青森県津軽郡浪岡村の出身。青森のなかでもいわゆる「津軽地方」と呼ばれる同郷人です。

 そんな候補者が受賞することができなかったことは残念だ、という。正直な心のうちを明かした一文には違いありませんが、選考委員が語る選評として、これほどどーでもいいハナシは、そうそう見当たりません。

 燦然と輝く「直木賞の選考とは関係ない選評」の歴史に新たな息吹を与えた選考委員、石坂洋次郎さんの、どーでもよさは実にここから始まりました。今後も、何かしら紹介する機会が出てくるかと思います。燦然と輝いています。

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2025年9月28日 (日)

「きらびやかな才能は、人を眩惑させるが、底浅いはかなさに魅力のあるうちが花である。」…中山義秀、第56回直木賞の選評より

 今日は令和7年/2025年9月28日です。

 ということは何でしょうか。さあ、それでは声を合わせてご一緒に。せーの、「第31回中山義秀文学賞が決まった日です!」。

 ……一年に一回、日本の秋の風物詩といえば、これにまさるイベントはありません。義秀賞の公開選考会が、今年もつつがなく福島県白河市の新白信ビルイベントホールで、にぎやかに、いや、ひそやかに公衆の面前で決定・発表されました。

 基本的に人さまの名前を冠した文学賞は、その人物とはほとんど関係がない、というのが常識です。直木賞もそうですし、アクタ何とか賞も、まあ賞名についた作家とは関係なく運営されています。

 中山義秀文学賞も、義秀さんと関係がない、と言ってしまえばそれまでです。ただ、いちおう運営している人たちは、故郷の生んだシブくて地味な義秀さんの精神を誇りに思い、文学賞のほうもシブくて地味な路線を喜んで貫いていきたい、という思いでやっているっぽいです。

 ということで今週の直木賞の選評は、どうあっても中山義秀さんの言葉を取り上げたいな、と思って探してみました。

 ただ、義秀さんというのは無駄なことはなるべく省いて、必要なことだけをまっすぐ伝えることに長けた人です。選評のほうでも、遊びが少なく、候補作のこと、それを自分がどう読んだのか、ということを愚直に書き連ねているものがほとんどで、「選考とは関係ない」選評がほとんど見当たりません。

 そこで今回は苦しまぎれに、おそらく義秀さんとしてはその回の選考について脳みそに宿った考えを書いたんだろう、と思いながらも、いかにも義秀さんらしい表現をしている箇所に光を当ててみることにしました。

 ときは第56回(昭和41年/1966年・下半期)。いまから60年近くも前の直木賞です。

 受賞者は、いわずと知れた直木賞が生んだトップスター、といいますか、この人が受賞したから直木賞はいっそうキラびやかな存在として世間の人から見られるようになった、と言っちゃってもいい歴史的な受賞を果たした作家。五木寛之さんです。

 選評を読んでもとにかくみんな褒めています。選考会が始まってまず選考委員たちが自分の意中の候補者を示したとき、だれもかれもが五木さんの名前を挙げていきなりの満票。話し合うこともほとんどなく、そうだよね、そりゃ今回はこの人だよね、と委員たち全員が納得して、およそ1時間程度、という直木賞選考会では極端に短い時間で決まってしまったと言います。

 だいたいいつも、他の人とは全然違う方向で順番をつける中山義秀さんですが、それでもやっぱりこの回は、五木さんを褒めています。いや、たぶん褒めているんだと思います。

「当選作者による三つの作品、「GIブルース」、「蒼ざめた馬を見よ」、「艶歌」はみな面白かった。五彩の花火を観るようで、消えた後残るものはない。きらびやかな才能は、人を眩惑させるが、底浅いはかなさに魅力のあるうちが花である。」(『オール讀物』昭和42年/1967年4月号、中山義秀「妄評」より)

 いちおう公式には全会一致、すべての選考委員が最初から満票で五木さんを推賞した、ということになっています。なので、義秀さんも五木さんに票を入れたんだ、と考えれば、たぶん受賞者のことを褒めているんでしょう。義秀さんなりに。

 しかし、さすがと言いますか、何と言いますか。消えた後残るものはない、と言い切ってしまう義秀さんの感覚は、特定の候補者や候補作について語っているようでいて、その後に続く「きらびやかな才能は~」のところは、もう完全にあまねくこの世のことを義秀さんの視線でとらえた、人生訓、ないしアフォリズムと言っていいと思います。

 はてさて、五木さんの小説が、これから先も残っていくのかどうか。作家の大半は、死んじゃったらそれでおしまい、というのが普通ですけど、直木賞の星・五木寛之さんといえども、その運命に抗うことはできないかもしれません。いや、できるかもしれません。まったくわかりません。

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2025年9月21日 (日)

「読んだ資料を袋に入れたまま横須賀線電車の網棚に忘れて降りた。」…大佛次郎、第53回直木賞の選評より

 横須賀線という鉄道路線があります。東京から東海道本線に乗ってガタガタゴトゴト西に向かい、決して短くはない時間を過ごしたあと、大船から南にくだって三浦半島のなかを突き進みます。

 かならず知らなければいけない知識というわけでもなく、一生乗らなくたって何の問題もありません。……とか断言してはいけませんね。問題があるのかもしれません。少なくともワタクシは、まったく詳しくありません。

 ともかく、古い頃から、東京の人が鎌倉に、あるいは鎌倉にいる人が東京方面に出かけるときは、横須賀線を利用してきた……というのは容易に想像できます。ただ、言うまでもなく直木賞とは関係がありません。残念です。

 いや、関係がないはずなんですが、今週は横須賀線と直木賞選評のおハナシです。まるで結びつきようのないこの二つを、美しく連結させた稀代のマジシャンこと、大佛次郎さんが直木賞の選考委員にいたおかげです。

 大佛さんといえば、代表的な(?)鎌倉文人として知られているかと思います。奥さんとのあいだに子供はなく、鎌倉の家はそこらじゅう猫だらけ。鎌倉の人ということの他に、こよなく猫を愛した人としても有名ですが、そこら辺りのことが直木賞の選評に出てくるのですから、これは見逃せません。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)は、直木賞では珍しく同人雑誌の掲載作ばかり8作が、最終候補に残りました。一般に名の通った職業作家は見当たらない、という混沌とした候補群のなかで、受賞と決まったのは「虹」を書いた藤井重夫さんです。

 ただ、誰がなにをどんなふうに読んだのかは、受賞結果からは全然わかりません。

 こちらとしては『オール讀物』を入手して、あるいは古いバックナンバーの置いてある図書館に行って、選評を読むしかないんですけど、いつもにもまして今回はどの候補作も面白かった、と言う中山義秀さんみたい委員もいれば、今回はどれも低調でこれじゃ受賞作なしだと思った海音寺潮五郎さんや松本清張さんみたいな人もいました。

 候補作や当時の読み物小説全般のことを語るのがおおよその選評なのに、何だか妙な書き出しで、この回の選評を始めている人がいました。それが大佛さんです。

 冒頭からしばらくは、ほとんどエッセイです。

「委員会の帰りに、読んだ資料を袋に入れたまま横須賀線電車の網棚に忘れて降りた。未知の親切な方が私のものと見て横須賀駅の忘れ物係にとどけて下さったと電話があった。認め印を持って横須賀まで受取りに行かなければならないが、小人数の家で、沢山にいる猫の奴はこの使者の役に甚だ不向き。そこで怠けたまま資料なしに、記憶に残った印象からこの文を綴る。従って、作品名も作者名も正確を期しがたく記さない。ぼんやりと記憶の影をつかまえる話である。」(『オール讀物』昭和40年/1965年10月号、大佛次郎「記憶を辿って」より)

 ははあ、これはこれは……。

 大佛さん、お茶目ですね。って、候補者にとっては、こんなこと言われても何の腹の足しにもならないでしょうが、選評には何を書いたっていいわけですから、資料を置き忘れた顛末に、路線名とか、駅名とか、猫ちゃんたちのことを書いたって、別に構わないに決まっています。

 本題に入る前にマクラが長いというのは、あまり本題で語ることがないときの常套手段ではあるんでしょう。でも、みんながかしこまって、作品論を戦わす選評だけじゃなく、電車のなかにモノを忘れた失敗談から始めて場をなごませよう、というのは、あるいは大佛さんなりの心遣いだったのかもしれません。

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2025年9月14日 (日)

「フランスなどは雑誌が発達していないから、書き下ろし長篇のみが出版される」…今日出海、第50回直木賞の選評より

 直木賞と、もうひとつのアクタ何たら賞との違いは何か。この設問にはこれまでいろんな人がああでもないこうでもないと、こじつけ、思いつき、その他深淵な文学論まで数多く展開されてきました。当然、そんなものに、バシッと決まる絶対的な答えがないところが、直木賞と別賞の存在する大きな意義なんだろうと思います。

 ワタクシは単なる小説の読者にすぎませんので、二つの賞の違いなど、正直さっぱりわかりません。わかりたいという欲求もとくに沸いてきません。なので、このまま、訳もわからず進みます。

 両賞の違いを説明する言葉は、ワタクシも持っていなんですけど、直木賞のほうの特徴ということでいえば、一つ大きなものは思いつきます。短篇も短篇集も長篇も、全部いっしょくたに候補作になって選考にハカられる、という点です。

 いまでは「短篇」というのは直木賞候補に挙がることはまずありませんが、歴史的に見れば、最初のうちはだいたい候補作は雑誌に載った短篇、というのが基本です。やがて雑誌に連載された長篇とか、単行本になった長篇、もしくは短篇集(全部書下ろしのこともあれば、雑誌掲載作を収録したものあり)など、長短バラエティに富んだ候補作になっていきます。

 それは直木賞というのは新人賞の建前で始まっているので、新人作家の発表舞台といえばまずは雑誌が基本で、本をどんどん出せるような立場の作家は、おのずと直木賞の対象から卒業する、という事情もからんでいます。

 と同時に、文芸出版の世界のほうでも常に流行は流動的です。高波が襲ってきたり、さざなみで停滞したりと、カネのめぐりに揉まれて出版人たちが右往左往するうちに、新人であっても書下ろしの単行本が充実して出版されるようになる時代が訪れ、そんなこんなでみんなでワイワイ経済成長をやっているうちに、新人発掘はよその懸賞だの別の文学賞に担ってもらって、直木賞は、もう少し中堅ないしベテランのラインも視野に入れていく流れが無視できないものになっていきました。直木賞の歩みは、世の出版事情を抜いて語ることはできません。

 ある意味では選考にも関係がありそうで、その実、作品のよしあし、作家の将来性のあるなしを議論する文学賞の営みとは、遠いところのハナシです。直木賞の選評には、なぜか候補作のことでなく、こういう出版史にまつわる話題に触れている例が、いくつも見受けられます。

 第50回(昭和38年/1963年・下半期)、この回は演劇方面の書き手としてすでに世に出ていた安藤鶴夫さんみたいな有名人を、直木賞の対象にしちゃっていいのかどうなのか、熱い議論(?)が繰り広げられた回ですけど、そもそも安藤さんの『巷談本牧亭』は『読売新聞』夕刊に連載されたものが本になったもの、和田芳恵さん『塵の中』は旧作と書下ろしを合わせて出版された単行本、江夏美子さん『脱走記』は同人雑誌『東海文学』の連載を一冊にまとめたもの、戸川昌子さん『猟人日記』は江戸川乱歩賞受賞第一作として書下ろしで出版された長篇の単行本、野村尚吾さん『戦雲の座』は河出書房新社から出版されたこれも書下ろし長篇……と、単行本の候補作が5つ。

 ほかにも、樹下太郎さんの「サラリーマンの勲章」は『文藝春秋漫画讀本』に連載中の連作集でしたし、小松左京さんの候補作もハヤカワ・SF・シリーズ『地には平和を』のなかからピックアップされた2篇。ということで、長いものや本になったものが、ずいぶんと直木賞の予選を通過していました。

 ここで、御説を一発放ったのが選考委員の今日出海さんです。

「直木賞の候補作品が近年とみに量的に殖えたようだ。候補作品は十篇と大体定まっているから、単行本として出版された長篇小説が多くなったという言見である。出版屋が新人の書き下ろし力作を出版する傾向は非常にいいことだと思う。たとえ何かの賞になれば、売れ行きもよくなると先きを見込んだ商魂もあろうが、フランスなどは雑誌が発達していないから、書き下ろし長篇のみが出版されるわけで、新人の作品は既に出版社内の批評を一度経て世に出た以上、質的に悪いはずがない。」(『オール讀物』昭和39年/1964年4月号、今日出海「直木賞の特質」より)

 本になっているんだからマズい作品のはずはない、といういまやもろくも崩壊してしまった単行本信仰が、まだ健在だった頃のお言葉です。

 しかし、今さんのこの一節、なかなか理解しづらい箇所も含んでいます。「フランスなどは~」うんぬんの記述、そんなこと、ここで言う必要ある? と思わないわけにはいきません。フランスのことなんか知らんがな、という感じです。

 正直いって、フランスの出版事業が当時の直木賞の動向にするとはとうてい思えないんですが、そこはそれ、今さんのことだから常人にはうかがい知れない高尚な論理で、実は第50回の選考とフランスの書き下ろし長篇の出版が、太い糸で結ばれていることを表していた……ということなんでしょうか。うーん、これは直木賞とアクタ何とか賞との違い、以上に解き明かしがたい難問です。

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2025年9月 7日 (日)

「芥川龍之介の間接話法は短篇だから成功したに過ぎまい」…大佛次郎、第47回直木賞の選評より

 書評にはいろんなパターンがありますが、そのなかでよく見かけるのが、「古典の作品や、すでに評価が高い別の作家の昔の作品を持ち出してくる」という悪手です。

 いや、それが悪手かどうかは意見が分かれるところでしょう。深みや奥行きが出ているように見える場合もあれば、単なる評者の自己満足にすぎない場合もある。手法としては極めて簡単だし、大したチカラがなくてもすぐできるので、「困ったときの、昔の作品だのみ」になるのはよくわかります。扱いが注意なやり方であるのは、間違いありません。

 以前もブログで触れましたが、直木賞の選評でも「候補作そのものを評するというより、わざわざ昔の名作的なものを持ってきてイジる」という書き方はけっこう見かけます。今週のエントリーもやっぱりそのようなハナシです。扱い注意な選評です。

 第47回(昭和37年/1962年・上半期)では杉森久英さんの、ノンフィクションのようなそうでないような伝記小説『天才と狂人の間』が受賞しました。委員のなかには「今回は、授賞作品なしということになるのではないか、と思った。」(源氏鶏太さん)などとつぶやく人もいて、それはそれで多くの議論が交わされたよくある直木賞の選考会だったんだろう、と言っておきたいと思います。

 この回の選評のなかで、ベスト・オブ・ひと言、を選ぶとすると、中山義秀さんが結城昌治さん『ゴメスの名はゴメス』に対してサラッと言いのけた正直な感想をおいて他にありません。「推理小説は読めば依然として面白いが、クイズを解くみたいな頭脳の使い方は、老齢の私には堪えがたくなっている。」(中山義秀さん)

 ……うんうん、わかる、わかると思わずひざを叩いてしまうのは、完全にワタクシのほうも年をとった証拠なんですが、このとき中山さんは61歳。当時の日本男性の平均寿命は65歳ぐらいだったそうなので、感覚的にも、込み入ったパズルのような小説は読み通せなくてもおかしくありません。それをはっきり言っちゃうところが中山さんの素晴らしさです。

 ただ、この中山さんの感想はいちおう候補作に対するまっとうな評語なので、現在のうちのブログのテーマには適しません。今週のハナシは、選評に昔の作品を持ってきている実例を挙げたいということでした。

 『ゴメスの名はゴメス』については、木々高太郎さんが「ソマセット・モームを学ぶ必要がある」と書いています。受賞作『天才と狂人の間』については、小島政二郎さんが「ツヴァイクの「バルザック」は、伝記だが、小説的に肉迫して来るものを持っている。」と言い、それに比べて『天才と~』は……と一種の疑義を呈しています。

 そのなかで、二人の委員が同じ候補作に対する評のなかで、同じ過去の作家(および作品)のことに言及しているので、ここでピックアップしておきます。候補作は来水明子さんの『涼月記』、評した委員は小島さんと大佛次郎さんです。

「人間なり舞台なりすべてが、文章から離れて紙面から立ち上って来ないと小説の文章ではない。その点、なんとかして是非会得してもらいたい。芥川さんの「地獄変」など、そのいい参考にならないだろうか。」(『オール讀物』昭和37年/1962年10月号、小島政二郎「小説的盛上り弱し」より)

「前作もそうであったが、他人に語らせて重ねて話を進めて行く展開の技法が、込み入り過ぎて読みづらくするのである。複雑な性格をこれで描くので、女性らしい繊細な描写とともに明確さを失うのである。水に映る影のように間接で、揺れ漂って正体を捕えにくくするのである。(芥川龍之介の間接話法は短篇だから成功したに過ぎまい)」(同、大佛次郎「涼月記」より)

 ちなみに小島さんは『涼月記』をそこそこの評価でとどめたのに対し、大佛さんは、そもそも予選通過作にこの小説が入っていなかったのを不憫に思って委員特権を発動、わざわざ候補作にねじ込んだ、ということが選評で明かされています。その2人がともに、『涼月記』を語るうえで、芥川さんとか「地獄変」とかを引き合いに出している。選考会でそんな議論が出たのかもしれません。

 『涼月記』では、織田信長、明智光秀といった主人公として据えられた人物を、そのそばにいた人間が語っていくという形式がとられています。それがうまく行っているのかマズいのか、評価をしようというときに、芥川龍之介の「地獄変」を出してくるところが、「ん?」と首をかしげたくなります。

 芥川大好き人間の小島さんが、きっと言い出したんだろうな、それを聞いて大佛さんが、いや芥川の作法って短篇にしか通用しないんじゃないかと反応したんだろうな……と、想像することは可能です。ただ、実際のところは何もわかりません。

 直木賞だっていうのに、なぜか芥川さんの作風を持ち出されて評された来水さん。その後、もう一度候補になりますが、そのときも受賞できず、商業出版の世界から消えてしまったことが残念でなりません。

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