花村奨…いっとき使った小説家としてのペンネームは忘れられても、それを蹴散らすほどの仕事を成し遂げる。
約100年も前の大正15年/1926年に始まった『サンデー毎日』大衆文芸懸賞という企画があります。うちのブログでは、さんざん取り上げてきましたが、作家の名前というテーマで見たときにもやはり、この企画のことは外せません。
当時、ペンネームで懸賞に当選したり選外佳作になったりした人が、のちに別の名前で有名になった、なんちゅう例がゴロゴロしているからです。最も有名なのは〈沢木信乃〉を名乗った井上靖さんかと思いますが、それ以外にもたくさんいます。今週はそのなかの一人、昭和14年/1939年度上期で選外佳作になった花村奨さんを取り上げてみようと思います。
花村奨……というこの名前がのちに有名になったかどうかは、ちょっと疑わしい気もしますけど、大衆文芸の世界では見過ごせない偉業をなした人と言って、おそらく異論は出ないものと思います。それは実作者というより、宝文館の、そして新鷹会『大衆文芸』の、有能な編集者だったからです。
これは前に書いたハナシかもしれませんが、あらためて言いますと、戦後第22回(昭和24年/1949年・下半期)の受賞者に、山田克郎さんがいます。受賞作の「海の廃園」は『文藝讀物』に載った短篇で、受賞したのはいいものの、雑誌を読んでなけりゃだれもその受賞作は読めません。
しかも、『文藝讀物』を出していた日比谷出版社は、直木賞の運営母体(いまでいえば文藝春秋)の一翼を担っていながら、あっさりと戦後経済の荒波にもまれてハジけ飛んでしまい、雲散霧消。せっかくの受賞作を本にしてくれるはずの後ろ盾を失って、山田克郎さん、困ったことになりますが(ほんとうに困ったかどうかは知りませんけど)、そこに手を差し伸べたのが宝文館の編集者だった花村さんだ、と言われています。『海の廃園』はどうにか宝文館から書籍され、多少のお金が山田さんのもとにも入った……はずです。
花村さんは直木賞の候補になった戦前からずっと大衆文壇でやってきましたので、山田さんとも友人の仲。困った人を見ると見逃せない花村さんの男気が、宝文館唯一の「直木賞受賞作本」に結びついたというわけです。
編集者としての花村さんの足跡は、没後に編まれた『行路 花村奨文集』(平成5年/1993年10月・朝日書林刊、山本和夫・編)の一冊からも感じ取れるところです。ネットでは、皓星社の河原努さんが「趣味の近代日本出版史」のなかできっちりと取り上げてくれています。
あるいはその人柄は、これもまた友人の真鍋元之さんが『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』(昭和56年/1981年8月・光人社刊)で、花村さんのことをこう評しています。
「(引用者注:真鍋の住む)板橋にはまた、詩人の江口榛一も住んでいたが、この江口を、わたしに紹介したのも、花村である。かれらふたりは、おそらく詩を介して知り合ったのであったろう。
(引用者中略)
われわれ三名のうち、もっとも冷静に、事務的な頭がはたらくのは、花村であった。」(真鍋元之・著『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』より)
ほかにも「万事に気のまわる花村奨」との表現も出てきます。戦後、宝文館の社長だった大葉久治さんは、疎開中だった花村さんをいち早く東京に呼び寄せて、出版事業の再建に乗り出したそうで、よほど編集者として信頼されていたことがうかがえます。
ちなみに宝文館では、『令女界』や『若草』の編集もしていましたが、同じ職場には山崎恵津子さんがいました。昭和22年/1947年、梅崎春生さんと結婚する女性ですけど、こんなところでも花村さんは直木賞と縁があったんですね(すみません、ちょっと縁というには遠すぎました)。
花村さんがペンネームで書いた「首途」という直木賞候補作は、発表された時期も時期で、要するに日本が軍国化を推し進めるその土壌の上に書かれた作品です。いまとなっては顧みる人がいるとは思われない、なかなか不幸な時代背景を負った候補作なんですが、しかし戦後、花村さんが本名で書き続けた数々の小説や読み物はさることながら、宝文館で数々の雑誌、書籍の編集稼業のなかから生み出した作品群や、『大衆文芸』に拠って仲間や後輩たちに叱咤激励をかけながら、長谷川伸さん亡きあともこの雑誌を長らくつくりつづけた功績は、もうひれ伏すしかありません。
直木賞の候補者だった、ということより、そちらのほうの業績を、もっと掘り起こすべき人でしょう。ワタクシなんぞが出る幕ではありません。
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