2026年6月14日 (日)

第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。

 ついこないだ、令和8年/2026年6月11日に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞の候補作が発表されました。

 半年に1回、定期的にやってくるお決まりのニュースなので、わざわざブログで言及するほどのことでもありません。……とは思ったんですけど、今回は最近ではあまり珍しいとは言えなくなった「芸能界で活躍中の方が候補入り」という意味で、朝のワイドショーからスポーツ新聞からネットのSNS界隈まで、直木賞だ直木賞だと騒がしくなっています。こういう光景を見るのが、人生最上の幸せと感じるタチなので、今週はうちのブログも、芸能人と直木賞のことに目を向けたいなと思います。

 とは言いましても、今年のブログのテーマは「講演会と直木賞」です。芸能人に触れるにしても、やはりその路線に沿って書いてみよう、と先週の自分のブログを見返したところ、ちょうど直木賞が始まる直前に、文藝春秋社が盛んに文藝講演会をひらくようになった、というハナシに注目したところでした。

 その流れで言うと、重要になってくるのが第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞の授賞式です。

 いまとなっては、直木賞の授賞式というと、招待者・関係者しか入れない閉鎖的な行事になっています。しかし第1回当時は事情が違って、このときは『文藝春秋』の読者たちに向けた「東京愛読者大会」のプログラムの一つとして、多くの一般観衆の面前で直木賞の贈呈式が行われました。

 実際この頃の文春は、とにかく外に出ていって、じかの読者に対して事業を展開し、少しでも雑誌の宣伝になって実売部数を増やしたい、というモードに突入していた時期に当たります。昭和9年/1934年に東北、九州、近畿中国とまわったのにつづいて、昭和10年/1935年になると、他の各地でも文藝講演会をぞくぞくと開催しています。こんな感じです。

日程 場所 講師
昭和10年/1935年
3月6日
静岡(葵文庫) 小島政二郎、吉川英治、大佛次郎、横光利一、佐佐木茂索、菊池寛
3月7日 名古屋(公会堂)
3月8日 岐阜(公会堂)
9月13日 松本(公会堂) 大佛次郎、久米正雄、吉川英治、菊池寛、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月14日 長野(図書館講堂)
9月15日 新潟(白山小学校)
9月16日 富山(県会議事堂)
9月17日 金沢(公会堂)
9月26日 青森(公会堂) 片岡鉄兵、岸田国士、阿部眞之助、小林秀雄、三上於莵吉、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月27日 札幌(公会堂)
9月28日 小樽(議事堂)
9月29日 函館(松風小学校)
9月30日 秋田(記念会館)
10月1日 山形(第一小学校)
11月24日 和歌山(公会堂) 佐佐木茂索、大佛次郎、小林秀雄、小島政二郎、菊池寛

 この途中の10月28日に日比谷公会堂で東京愛読者大会を、11月25日に中ノ島公会堂で大阪愛読者大会を、12月26日に日比谷公会堂で第二次東京愛読者大会をそれぞれ開き、8月に決まった直木賞についても10月28日に贈呈式を挙行した、というわけです。

 では愛読者大会というのは何をしたのか。内容を見ると、やはりお得意の講演会があって、講師は穂積重遠さん、兼常清佐さんのほか、文芸畑からは久米正雄さんと小島政二郎さんが出ています。それから直木賞ともう一つの賞の贈呈式、および「余興」と称する出し物も行われ、二三吉さん、松原操さん、大辻司郎さん、古川緑波さん、徳川夢声さんが出演しました。

 この贈呈式で、第1回を受賞した川口松太郎さんはどんなことをしゃべったのか。ご本人による回想が残っています。

「授賞式は日比谷公会堂で、芥川賞の石川(引用者注:達三)と並んで受け、そのあとでこんなあいさつをした。

「直木は私に、小説家にはなれそうもないから思切れといった。その私が第一回の直木賞を受けてしまった。彼の先見の明を裏切ったような気がするので、多磨墓地の墓へ行ってあやまって来ます」

来会者は笑って拍手してくれた。いっしょに目を細めて、わが子の成功を見るように喜んでくれた菊池寛の顔は今でも目の前にある。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より)

 川口さん、このとき35歳。ちゃんと観衆から笑いが起こるような挨拶をするところが、さすが若くして立派なエンターテイナーです。

 それはそれでいいとして、ここで注目したいのは余興者の一人に徳川夢声さんがいることです。

 徳川さんといえば、先週のブログに書いた昭和9年/1934年文春講演旅行のなかにも名前が出ていました。活動弁士から出発して、俳優として舞台に上がりながら、ひとりで漫談もやってのけてしまうという、当時でもけっこう知る人の多かった芸能人です。そして『新青年』で多くのエッセイ、回顧録を書いているうちに、ユーモア小説も手がけるようになって、その文才は一般読者のみならず作家や編集者をもうならせていました。

 菊池寛さんや文藝春秋の人たちにも、相当かわいがられます。徳川さんが大辻司郎さんや古川緑波さんたちと喜劇団(おそらく「笑の王国」)をつくるときには、おれもできるだけ協力するよ、と菊池さんから温かい声援を受けたんだとか何だとか。ともかく、舞台の上に立って観衆を楽しませることにかけては筋金入り、それでしかも面白い小説が書ける、ということになれば、菊池さんが主導した文藝講演会の講師にもうってつけの存在だったわけです。

 昭和10年/1935年10月の、第1回直木賞贈呈式のときは、余興の出演者だったので講演会をしたわけではありません。ただ、講演もできる、余興で芝居や漫談もお手のもの、というのは、ふつうの作家にはできない芸当です。才人ムセイ、すでに直木賞ができたときから、文春のために大活躍していました。

 そばで見ていた、講師のひとり小島政二郎さんは、こんなふうに言っています。

「「文芸春秋」は毎年のやうに方々の劇場を借りて読者大会を催した。楽屋へ、いろいろの人が出入りをする。さう云ふ人達が、勢ひ菊池寛のまはりに集まつた。

ところが、見ると、もう一人自分のまはりに大勢の人を集めてゐる人物があつた。

それが徳川夢声だつた。云つて見れば、さながら菊池寛に対して一敵国を形づくつてゐる感じだつた。」(昭和27年/1952年8月・オリオン社出版部刊『夢諦軒句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)

 芸能の世界のスゴい人。その徳川さんの小説界に対する貢献を、どうにか形として示せないものかと、戦前の選考会ではたびたび議論に挙がったそうですし、戦後、第21回(昭和24年/1949年・上半期)のときには親友・獅子文六さんが猛烈に推して、芸能人・徳川夢声さんに直木賞が贈られる可能性は、そこまで低くなったんですけど、しかし結局、あげそこねてしまいました。

 直木賞の歴史に残る汚点の一つ、とも言われています(……いや、ワタクシが勝手に言っているだけです)。

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2026年6月 7日 (日)

文藝春秋の近畿中国地方講演会(昭和9年/1934年12月21日~26日、於・岡山・広島・呉・大阪・神戸・大阪)で川口松太郎が演台に立つ。

 講演会と直木賞。この2つには共通点があります。

 共通点と言おうか、そもそもが似た者同士と言おうか、それぞれが人間だったら、きっと隣人、親戚、あるいは親友ぐらいにはなっていたかもしれません。

 直木賞といえば、菊池寛さんが熱い友情と熱いカネ勘定を膨らませた結果、この世に生まれた事象です。いっぽう講演会のほうも、菊池さんがしょっちゅう企画しては一つの大きな事業として自分の会社の売りにしていました。また、どちらも菊池さんらが、若手、中堅どころの作家に収入の道を増やしてあげようとして必死に育てた、という点でも似ています。

 菊池寛。……有名人です。生前でも没後でも、いま現在でも、多くの人が興味をもって、語ったり批評したり、さまざまに研究されています。

 そのなかでもここで注目したいのは、菊池さんが大の講演好き、と言われていたことです。小島政二郎さんが言っています。

「菊池寛は講演が好きで、殆んど日本全国を回ったが、それほどではないまでも直木(引用者注:三十五)も好きで、菊池、芥川(引用者注:龍之介)、久米(引用者注:正雄)などと知り合った最初は、大阪で講演会を開いた時のことだった。」(「直木三十五」より ―『小島政二郎全集第三巻』昭和42年/1967年10月・鶴書房刊)

 そもそも「講演会」というものがなければ、直木さんと菊池さんが出会うこともなかった。というのは前週触れたとおりですが、いや、そこからハナシを延ばして、菊池さんが講演会に出ること、企画することが好きじゃなかったら、その後の『文藝春秋』の事業も違ったものになっていたでしょうし、文学賞をつくろう、なんて発想にも至らなかったのではないか。そう思われます。

 菊池さんの感覚のなかでは、講演会も文学賞も、文芸にまつわる事業として近いところにあったのはたしかです。芥川さんが自殺したとき、『文藝春秋』として昭和2年/1927年9月号を「芥川龍之介追悼号」としたのにとどまらず、その年の10月には、「芥川龍之介全集刊行会」同人との共催というかたちで、「芥川龍之介追悼講演会」を順次開催。東京の報知講堂、朝日講堂から、大阪、京都など全国各地をまわって、直接、生の作家が聴衆にハナシをする、というものをやりました。

 その講師は、菊池さんのほか、久米正雄さん、佐藤春夫さん、佐佐木茂索さん、谷崎潤一郎さん、小島政二郎さん、室生犀星さん、宇野浩二さん、久保田万太郎さん、小穴隆一さん、萩原朔太郎さん……と名前を並べてみれば、それから7年後につくられる芥川賞の、ほとんど選考委員のメンバーじゃん。というところからも、当時の菊池さんの交友関係、ないしは事業を始めるにあたっての仲間意識がうかがい知れます。

 以降、文藝春秋にとって、作家を招いての講演会は大きな柱の一つとなりました。昭和9年/1934年暮れに、直木賞と芥川賞、二つの文学賞をつくることになったその頃にも、文芸ってものはな、書かれた文章だけで大きなウェーブを起こすことはできないんだぞ、と言わんばかりに、リアルな読者や観衆を集めてのイベントに、文春の人たちは力を入れます。

 何より、直木賞にしろ講演会にしろ、自分の雑誌(文藝春秋)の宣伝のためにやるのだ、とはっきり菊池さんが書いているところが同じです。両者は、いわば親戚どころか「兄弟」事業と言ってもあながち間違いではありません。

 ということで『文藝春秋』は直木賞の創設が発表される前後、昭和9年/1934年9月~12月に、全国で「文藝講演会」を開きます。

日程 場所 講師
昭和9年/1934年
9月21日
盛岡(公会堂) 吉川英治、子母沢寛、小島政二郎、横光利一、菊池寛、佐佐木茂索
9月22日 仙台(東二番町小学校)
9月23日 福島(公会堂)
10月6日 小倉(九電集会所) 久米正雄、大佛次郎、小島政二郎、徳川夢声、菊池寛、佐佐木茂索
10月7日 八幡(大蔵集会所)
10月8日 福岡(公会堂)
10月9日 熊本(公会堂)
10月10日 長崎(公会堂)
10月11日 佐世保(佐世保会館)
12月21日 岡山(公会堂) 小島政二郎、小林秀雄、川口松太郎、菊池寛、佐佐木茂索
12月22日 広島(袋町小学校)
12月23日 呉(呉会館)
12月24日 大阪(中ノ島公会堂)
12月25日 神戸(青年会館)
12月26日 京都(日之出会館)

 終盤の12月は、すでに各新聞などで直木賞が創設されると発表されたあとでしたし、創設宣言が載った『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号も発売されたあとでした。きっと、これらの賞のことも、講演会のどこかで誰かがしゃべって、観衆を沸かせたのではないか、と推察しますが、現状その確証はありません。

 この期間中には、さらに文春は「愛読者大会」という催しを東京で2回、大阪と京都で1回ずつやっています。そこで菊池さんらの講演と同時に、例の伝説となった(?)文士劇が始まったと伝えられていて、そういう意味では文士劇もまた、直木賞とは「兄弟」事業と言っていいのかもしれません。わかりません。

 それはともかく、やはりひときわ目を引くのが、近畿中国地方講演会の講師のひとりに川口松太郎さんが入っていることでしょう。まだ第1回の直木賞が決まるまえの川口さんです。

 そうなんだ、このとき川口さんが文春の講演会に登壇したから、文春が運営する直木賞をもらうことができたのだ……といった回想ないし回顧録は、ワタクシも読んだことはありませんけど、少なくとも初回から無名の新人にあげることができなかった直木賞の、直木賞らしい姿は、これらの講演会からも激しく理解できるところです。

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2026年5月31日 (日)

主潮社主催の藝術講演会(大正9年/1920年11月18日・19日、於・大阪中之島中央公会堂)が直木賞を生む。

 直木賞はなぜできたんでしょうか。

 設問としては単純です。だけど、けっこうな難問です。

 なぜできたか、と言われたところで、そもそも理由を一つに絞って語ることなどできるはずがありません。森羅万象、世のなかの多くの出来事と同じように、直木賞にだってさまざまな背景があります。ひとまずその背景と思われる細い糸を、さかのぼって追ってみます。

 背景の細い糸。つまりはざっくり言うと、直木三十五さんという人が文藝春秋社と深い関係があった、あるいは菊池寛さんと強い友情を結んでいた、ということです。

 直木賞を見る上では絶対に欠かせない最重要な要素なんですが、そのハナシをたどっていくと、かならずぶち当たるものがあります。それが「講演会」です。

 有名なエピソードらしいので、いまさら繰り返しても仕方ないんですが、のちに『文藝春秋』を創刊することになる菊池寛さんと、直木賞の名前のもとになった直木三十五さん(本名・植村宗一)がどこでどうやって知り合ったのか。大正9年/1920年11月18日と19日、大阪中之島にある中央公会堂で藝術講演会というのが開かれました。二人の結びつきは、すべてそこから始まります。

 菊池さんはちょうどそのとき『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』で「真珠夫人」を連載していた頃にあたり、いわば「いまキテる」脂の乗った若手どころの作家です。年はだいたい31歳のころ。

 いっぽう直木さんは、まだ「直木三十五」という名前などこの世に影もかたちもなく、本名の植村宗一として活動していた頃です。早稲田大学を中退して、大日本薬剤師会に書記として務めたものの半年でやめると、美術研究会、あるいは新興美術社という組織に勤めを見つけて、美術雑誌の編集者となります。美術関係の名もなき記者、といったところで泥水をすすって生きながら、『トルストイ全集』の刊行を企てたところ、これがちょっと売れておカネになり、そこから神田豊穂さんと春秋社を、鷲尾浩さんと冬夏社を、と出版社の経営に乗り出しますが、借金ばっかり膨れ上がらせる疫病神の異名を拝命。それでもやたらと事業欲が旺盛で、画家の矢野橋村さんが結成した美術集団「主潮社」に参加して、雑誌『主潮』を刊行します。年は菊池さんの1年ちょっと下ですので、おおよそ30歳ぐらい。はっきり言って、文学関係者でその名を知る人はほとんどいませんでした。

 矢野さん率いる「主潮社」では、福岡青嵐さん、名越国三郎さん、福田恵一さんといったお仲間たちの作品を一般に見てもらう美術展覧会を催します。第1回は大正8年/1919年、大阪と東京それぞれで開催したらしいんですが、翌大正9年/1920年秋、その第2回目の展覧会をすることになったとき、どうやら直木=植村さんが一つのアイデアを出したのだと言われています。

 展覧会の前に、お客さんを呼べるような藝術、文芸に関する講演会をやったらどうだろう、と。

 基本的にこのときの企画は、植村さんが主導してやったらしいです。だれに講演をお願いするか。その人選や、じっさいの依頼、交通・宿泊の手配なども、植村さんが準備したのだ、ということです。

 このとき植村さんが声をかけた演者のうち、面識があったのは、早稲田の同窓で作家としてちょっと名前が売れていた田中純さんだけでした。他に植村さん自ら直接お願いしに回ったという久米正雄さんも、宇野浩二さんも、芥川龍之介さんも、そして菊池寛さんも、それまでまるで赤の他人です。こんなドコのドイツかわからない無愛想で気味のわるい男の依頼を、みんなよくぞ受けたものだ、と思います。

 実際どんな感じの講演会になったのか。当時の新聞記事を引くと、こうです。

「主潮社主催藝術講演会は既報の通り(引用者注:大正9年/1920年11月)十八日夕より中之島公会堂にて開催された聴衆は定刻前より詰めかけて政党演説会にも劣らぬ盛況で、入江(引用者注:入江來布)氏の開会の辞の後植村宗一氏は文藝講座開放に関して会衆に訴ふる所あり次いで田中純氏は「藝術は実感の貯蔵なり」と題して聴衆を激励し次に真珠夫人の作者として最近全市の人気を湧き立てゝ居る本社員菊池寛氏は大拍手の裡に登壇、時々警妙な皮肉と警句を交へながら「藝術の利益と必要」の題下に満場を唸らせ京大助教授澤村専太郎氏は「現代日本画に於ける写真問題」と題してその選考する東洋美術史の立場から蘊蓄を披露し盛況裡に閉会した」(『大阪毎日新聞』大正9年/1920年11月19日「藝術の炎を捲き揚げた 主潮社の講演会」より)

 何といっても目玉は、「真珠夫人」の作者菊池さんの生のハナシが聴ける、というところにあったのでしょう。のちの菊池さんの文章(「講演」)によれば、聴衆2000人以上は詰めかけたんだとか。その点、植村さんの試みは成功しました。

 しかし、そうはいっても疑問に思います。アートの展覧会の客寄せのために、どうして新進作家たちを招いての講演会を思いついたのか。そこのところが、植村さんの回想を読んでもよくわかりません。

 わからないので、ここは専門家のお知恵を拝借しましょう。昭和48年/1973年に刊行された『近世大阪藝文叢談』(昭和48年/1973年3月・大阪藝文會刊)に、親和女子大学図書館の田熊渭津子さんが「直木三十五と主潮社文芸講座」という文章を発表しています。

 それによると、植村さんが文藝に関する講演会をやったのは、菊池さんと出会ったその一回きりではなく、後年にいたるまで約2年にわたって続いた、けっこう気合いを入れた事業だった、ということです。

 大正10年/1911年1月から、大阪時事新報社の後援を受けて「主潮社自由大学文芸講座」が開講します。その予告ビラを田熊さんが紹介していて、おそらくこれは植村の手による文章ではないか、と推察されているんですが、ワタクシもそれにのっかって、植村さんがこのとき、どうして大阪で文藝講演会を企画しようとしたかの理由が、ここにうかがい知れると見ます。

「嘗て近松を有し、西鶴を有したる地は、今日、只一個物質上の富のみを以て、満足し得べきに非ず、他都市に優る多くの外観的文化設備を有し乍ら、其内面に於ける貧弱さを思ふ時、我輩は先づ何よりも第一に此運動の必要なるを感じる。」(「主潮社自由大学文芸講座」予告ビラ ―引用原文は『近世大阪藝文叢談』所収、田熊渭津子「直木三十五と主潮社文芸講座」より)

 大阪という都市は、むかしは文化的な風土があったのに、現在(大正中期当時)それが衰退してしまっている、だから私は文芸についての講座を開くんだ、という宣言です。

 最初の想定では、開催は月一回の夜間、会員制度をとって約500名を上限とし、会費は一回につき金一円、と決定します。その後、大正11年/1912年11月の第15回まで開かれたという記録があるそうで、事業欲の旺盛な植村さんらしく、そして始めるのはいいけどすぐにポシャらせてしまう経営センスのない植村さんらしく、この連続講演会によって何がどう実現したのか、振り返られることなく、きっぱりと終わってしまいました。

 植村さん、のちの直木さんがどんな考えで、どういう生き方をしたのかは、文学賞としての直木賞とは何の関係もありません。それはそのとおりです。

 だけど、植村さんが書物の上だけでコショコショ文章を書くことのみが大切だ、なんて考えをしていたら、まず熱心に文芸講演会など開かなかったでしょうし、菊池寛さんと会うこともなく、ひいては直木賞が設立される未来も訪れなかった……というのはたしかでしょう。

 直木賞というものができるためには、文章表現のよしあしだけではなく、人間がしゃべってそれを人間が聴くリアルな空間、リアルな時間が、最初から欠かせないものとして存在していたのだ。と考えれば、たとえば現在、直木賞の受賞作や候補作を読んで、その小説に対する批評だけが直木賞だ、と見るのは、やはり不自然です。

 受賞者が記者会見でしゃべったり、その後に、彼らがテレビやラジオでしゃべったりするのもまた、直木賞の一部と見ていいのではないか。いいですよね? とそういうものも好きなワタクシは、勇気を得た気分です。

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第20期のテーマは「講演会・トークショー」。文芸の世界と縁がなさそうでありそうな、直木賞とも関係が深いこの催しを追ってみます。

 何でもいいから、直木賞にまつわることを調べてみたい。……そんな衝動に駆られるままに、これまで1週間に1本ずつブログを書いてきました。この5月で20年目に入っています。

 要は19年もだらだらとやってきたんですけど、ちっとも直木賞に詳しくなれた気がしません。よっぽどワタクシの頭がポンコツなのに違いない。というのはまったくその通りですし、直木賞のまわりに広がる関連事項の果てなき多さに、いまさらながら呆然としています。

 直木賞といえば、その中心にあるのは小説であり小説家です。それはもちろんそうなんですが、しかし、ただ小説を読んでいるだけでは、直木賞という現象のほんの爪の先を撫でただけ、といったむなしさが残るのはなぜなんでしょう。直木賞を知りたいと思ったら、おそらくは小説にくわしくなるだけでは不足があって、出版のこと、同人雑誌のこと、映画のこと、芸能のこと、あるいは文壇ゴシップのこと、いろんなところに目を向けなければ、全然直木賞を味わった気になれません。

 いや、頭のデキがすぐれた人なら、パッと見ただけで即座に直木賞のことがわかるのかもしれません。ああ、ワタクシもこんなことに無駄な時間を費やす人生ではなく、そういう優秀な頭で生まれたかったなあと悔しく思います。残念です。

 で、ぐだぐだと愚痴を続けるのはこれぐらいにして、ブログ20年目の今年はどうしようかと悩んだあげく、直木賞と縁ぶかい一つの社会的な事象(?)にスポットを当てて、直木賞との関連を調べていこうと思い立ちました。

 講演会です。

 時代がくだって現代に近づくと、トークイベントとかトークショーとか呼ばれることもあります。一人の人間が(あるいは複数のこともあるかも)演台に立ったり前方に用意された椅子にすわり、目のまえにいる何人、何十人、何百人の聴き手に向かって、肉声を発することで何らかの話題をしゃべる。いまでも全国各地で行われていますし、直木賞が創設された昭和9年/1934年当時も、さまざまな会場で開かれていたと言われる、例のアレです。

 小説といえば、紙に印刷されて(いまではデジタル機器に表示されて)一人ひとりがその文章を読むもの、と相場が決まっています。講演とかおしゃべりとかは、直接的な関係はありません。

 たぶん関係はないんでしょう。ただ、講演会が直木賞という事業と相性がいいのは明らかです。受賞者はもちろん、候補者や選考委員には講師として声がかかり、ときにノリノリで、ときに気乗りがしないままに壇上に立たされる。文芸評論家や書評家といった類いの人たちも、直木賞というものをテーマに講演をして人を集める。いつの頃からか、そんな風景が日本の社会では当たり前のように生まれ、確実に根づいてきました。

 できれば、直木賞とは直接の関係はないけど、作家や文学・出版関係者による講演会というものの発生や変遷など、その歴史も調べてみたいと思います。ただ、毎年毎年、ブログのテーマを決めるのはいいとして、調査も足りないままネタ切れのようになっていくのがうちのブログの日常です。今年もそんなふうになるんじゃないかと不安を抱えて、とりあえずスタートしてみます。

 最初はどこから行こうかと考えましたが、そりゃあ、直木賞が直木賞としてこの世に誕生したそもそもの背景に、文芸に関する講演会があったのだ、ということは間違いありません。直木賞創設からさかのぼること14年前、大正中期に企画されたその講演会のことから書いてみたいと思います。

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2026年5月24日 (日)

日本文藝家協会の文士劇について(その2)。裏方の人たちの印象と本番最終日のこと。

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令和8年/2026年5月24日
閉演後のロビー撤去風景と
舞台裏に置かれた各出演者のドリンク
(自分の名前をどう書くかに個性が見える)。

 昨日のエントリーのつづきです。

 今日、令和8年/2026年5月24日(日)、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇「風と共に去りぬ」の最終公演が13時から、東京新宿・紀伊國屋ホールで行われました。

 こっちは端役中の端役ですから、別に大したことはしていません。なのに、こんなにへとへとだ。ということは、主役級の人たちはさることながら、裏で動いた人たちはどれだけ疲れたんだろう、と容易に想像できるところです。

 そうだ、文士劇は出演者だけで成り立っているわけではない! ……というのは当然すぎて、いまさら大声で言うことでもないでしょう。ワタクシの大好きな文学賞だって、最後に選考する委員とか、受賞者、候補者とかは、文学賞を形成するほんの一部にすぎず、見えないところで準備したり打ち合わせしたり、つつがなく終わるように動いている裏の人たちが、その何十倍も存在します。

 なので、せっかく文士劇に携わるなら、オモテに出ない人たちのことも知っておきたい。と、ずっと思ってはいたんですが、いったいどこの誰なのか、ワタクシが顔と名前を認識できる関係者は、たぶん一割もいません。残念です。

 ただ、一割以下でも、だれにも触れないよりはましだろうと思って、ワタクシのわかる範囲で印象を記録しておくことにしました。

 こんなこと書いて何の役に立つんでしょうか。たぶん役には立ちません。だけど、うちのブログはそもそも、ひま人によるウワゴトの垂れ流しです。許してやってください。


4.なるべく裏方の人たちの印象を

 昨日にひきつづいて敬称略です。

五戸真理枝(ニックネーム:まりりん)

 演出の人。つまりは今回の文士劇を司った中心にいる太陽です。ウワサによれば、なるべく出演者と揉め事を起こさないような優しい演出家を、というハナシで選ばれたとも聞きますが、◯◯氏の暴走や△△氏のワガママに接しても、一瞬、困ったような顔を見せながら、たいていの意見を聞き入れて、調整したり修正したりしていくバキューム並みの吸収力。うん、まじでスゴかった。

日沼りゆ(ニックネーム:りゆどん)

 演出助手の人。ふだんは自分で舞台に立つ女優さんでもあるらしい。オジさん、オバさん(というか、ジイさん、バアさん)が大半を占める稽古現場で、キビキビ、シャキシャキと動きまわる若きエネルギーが、活気の一助となっていた。何があっても動じないあの頼もしさは、どこからくるのか。演劇の世界にも変人たちがうじゃうじゃいて、あるいはこんな現場は慣れっこなのかもしれない。

道又力(ニックネーム:ミッチー)

 脚本を担当した人。ふだんは盛岡に在住で、5月なかばの集中稽古の初日から今日まで約2週間、東京にウィークリーマンションを借りて現場に来ては目を光らせていた(滞在費はすべて自腹らしい)。わたくしは岩手から来た田舎者です、という言葉をかならず吐くのを一種の芸にしているが、それを隠れ蓑にしながら、心の奥底に何かどでかい野心を秘めているんでしょう(おそらく)。

制作、音響、衣装、ヘアメイク、美術、照明の人たち

 一人ひとりに挨拶してまわりたいところだったが、さすがにそんな出すぎた真似はできなかった。すいません。ただ、どうすれば演出に合った舞台にできるかと、パッパッと判断が早い人たちばかりだったのはたしかで、今回は彼らプロ集団のおかげで文士劇がかたちになったんだな、とひしひし実感した。どの世界にもデキる人たちというのはいるもんです。

日本文藝家協会事務局の人たち

 それぞれ個人名を挙げると誰かに怒られそうなので、自粛しときます。というか、事務局の人なのはわかるけど、誰が誰やら、名前のわからない人も多数。彼ら彼女らが、作家や文学者たちのこの狂態(?)をまぢかで見て、いったいどう感じたのか。仕事を離れての正直な感想をぜひとも聞いてみたい、と切に思います。

マスコミ取材の人たち

 稽古の模様、あるいは記者会見の様子は、『婦人画報』『朝日新聞』『産経新聞』『東京(+中日)新聞』『読売新聞』『毎日新聞』『日本経済新聞』《共同通信配信》《時事通信配信》などで紹介されました。

 取材のあるときは稽古の最初で軽く紹介があるので、ああ、だれか来ているんだなとわかりますが、わざわざ全員に挨拶してくれる殊勝な記者やカメラマンがいるはずもなく、部屋の端のほうで亡霊のように座っている記者の姿を、こちらは遠くから眺めるだけでした。

 2時間、3時間、ただ見学していてもひまだろうなあ。少しだけでも一緒に稽古に入って、自分で体験してみればいいのになあ。……と内心思っていましたけど、人さまの取材方法を批判しても仕方ありません。ああ、文芸記者よ、影なる存在よ。新聞も出版も苦しいこの時勢、みんながんばって生きていきましょう。


5.最終公演と打ち上げで印象に残ったこと5選

 昨日につづいて、最終日は13時からの公演で千秋楽。15分間の休憩を挟んで一幕六場、二幕十二場、2時間15分ほどの公演でした。

 今日の出来事でワタクシの印象に残ったこと5選は以下のとおりです。

1●文学賞にひっかけたアドリブが増えた。

 「山本周五郎賞」というのは、台本のセリフにないのに昨日の段階ですでに登場していたが、ムラマサ(村上政彦)の芥川賞に関するアドリブに触発されたか、ササちゃん(笹公人)も、そしてサエちゃん(佐伯順子)までもが、突如、芥川賞にからめたセリフを付け足してウケていた。文学賞大好き人間としては、それを近い距離で聞けたことにシビれました。

2●芝居の微調整を怠らないサガワくん・なめ子さんコンビのまじめな姿。

 サガワくん(佐川光晴)が舞台に出ていって、それを見たなめ子さん(辛酸なめ子)が「見つけたわ」というシーンがある。一公演目よりも二公演目、二公演目よりも三公演目のほうがウケていた。おそらくそれぞれのタイミングを直しながら、最も面白く見えるように工夫した結果なんだと思う。サガワくんもなめ子さんも、まじめだぜ。

3●ダジャレに賭けるアンナさんの並々ならぬ思い。

 アンナさん(荻野アンナ)といえばダジャレだが、同じダジャレを言うのでも、三公演目はなるべくお客さんにわかりやすいように、丁寧な前ふりとか、最後のダジャレが引き立つような新たな一言とか、少し変えていた。聞くと、稽古中の段階でわざわざ演出のまりりん(五戸真理枝)に電話をかけて、どこにどういうダジャレを入れるか綿密に相談していたらしい。こ、こだわり方がエグい。

4●貫禄あるケイコちゃんの演技と配役の妙。

 今回ケイコちゃん(谷口桂子)は男性の役だった。出演者一同が一目を置く医者の役どころで、最後までその落ち着きと貫禄がぴったりハマッていたが、打ち上げの席で、どうしてあの配役だったのか、ケイコちゃんが演出のまりりんに聞いたところ、はじめの頃の稽古でみんなでゲームをしたり、「昨日の私」という作文を即興で書いてみんなで読み合いをしたことがあった。それを見ていて、ケイコちゃんならこの役ができる! と見抜いたらしい。ううむ、そうだったのか。あのハマり役の裏側が聞けてよかった。

5●打ち上げの席でのりゆどん(日沼りゆ)の挨拶。

 打ち上げのときの挨拶で、演出助手のりゆどん(日沼りゆ)が、文士劇に参加したみなさんが、次に新しい戯曲を書いてくれることを願っています! と発言。わーあ、と盛り上がった。きっと若い作家の誰かがチャレンジしてくれるでしょう。


 今回出演した作家たちが、文士劇で何を感じ、どういう感想をもったのか。きっとそれぞれが、今後何らかの文章を発表していってくれることでしょう(くれますよね?)。それらを読み比べることのできる日が、遠くない将来に訪れることを、一読者として楽しみにしています。

 ワタクシ自身は別に何モノでもないので、明日からはまた、ただ文学賞が大好きなふつうのオジさんに戻るだけです。「文士劇のこと、きちんとまとめて記録として残しておいてくださいよ!」と、ミッチーこと脚本の道又さんには、別れぎわにも釘をさされてしまいましたが、いやそう言われても、どういうかたちで記録すればいいのか……。そのうち考えておきます。

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2026年5月23日 (土)

日本文藝家協会の文士劇について(その1)。参加の経緯と出演者の印象。

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令和8年/2026年5月23日終演後の舞台と
集英社から届いたという差し入れの一部。

 令和8年/2026年5月23日(土)と24日(日)の両日、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇「風と共に去りぬ」が東京新宿・紀伊國屋ホールで行われます。

 今日23日は、13時からと17時30分から、予定どおり二回の公演がありました。先ほど無事に終わったところです。

 ……と、いきなり書き出しましたが、どうして「直木賞のすべて」というデータベースサイトにこんな文章を残すのか。もちろん、サイト運営者であるワタクシがこの文士劇に参加しているから、ではあるんですけど、正直こういうものは自分ひとりの経験であり、遊び、娯楽にすぎません。あえて人サマに言うことでもなく、別に何かを書こうとは思っていませんでした。

 ところが先日、稽古に来ていた脚本担当の道又力さんに言われました。……出演をお誘いする人としてあなたの名前を出したのは私なんですけど、それはなぜか。この文士劇のことを後世のために記録しておいてほしいからですよ。そりゃそうでしょう? と。

 うぐっ。なかば脅しのような文句に、思わず後ずさりしたんですけど、うんまあ、考えてみればそれもそうか、と思い直しました。

 文士でもなけりゃライターでもない一介の素人であるワタクシが、いったい文士劇の経験をどんなかたちで還元できるのか。それは追い追い考えていきたいと思います。

 では、とりあえず、すぐにできそうなことって何だろう。本番を迎えるまでにワタクシ自身がどんなことを見聞きしたのか、書いておく程度のことならできそうです。ひとまずこれも記録の一種と思って残しておくことにします。

 以下、5月12日に一度ブログに書いたことですが、情報解禁日よりも先に公開してしまうという一般人まるだしの失態をしたため、これまで控えていました。今回、改めてアップします。


1. どうして参加するに至ったのか

 まずは、ワタクシが文士劇に参加するまでの経緯です。

 昨年令和7年/2025月11月4日(火)、まったく唐突に、それまで会ったことのない文藝家協会事務局の方から一通のメールが届きました。件名は「文士劇ご出演のお願い」。

 ん? と思って本文を読んでみると、これがもう、のけ反るような内容で、来年5月に開催予定の文士劇に、脚本の道又力さんから「川口さんをお誘いしては?」という声が上がったので、出演を検討いただけないかというハナシです。ちなみに道又さんとも、それまでワタクシは面識はありません。

 いやいや、なんでオレなんだよ、と強く思いましたが、文士劇をやることは知っていたし、チケットを買って観に行こうと思っていたぐらいには、こういう「文芸の周辺・周縁にある現象」には関心があります。なので出演者としてではなく、裏方としての参加ができるなら、ぜひ携わらせてください、みたいなメールを返しました。

 ところが、これに対する回答によると、出演者を募ったところ、女性の枠はすぐに埋まったが、男性のなり手が少なくて、いま各所に声をかけているのです。舞台に上がるという以外に参加する道はありません。どうぞご検討ください、とのことでした。

 ううむ。何かを発言したり感想を抱くなら、まずは自分で行ったり見たりしてからにしろ、というのがワタクシの流儀です。文士劇もまた、外から見ていると、だはっ、作家が何やってるんだよ恥ずかしい、とバカにするのは簡単ですけど、自分が行って見てみたら別のものが見えてくるかもしれません(見えてこないかもしれません)。

 ……迷ったあげく、こういうものの裏側を見ることのできる機会はなかなかないだろうと思って、では出演するかたちで参加させてくださいと、お答えしたのが11月12日(水)になります。


2. 出演者たちの印象

 本番を迎えるまでに、計22回(12月2回、1月3回、2月3回、3月3回、4月4回、5月7回)の稽古、および直前3日間の場当たり・ゲネプロがありました。

 出演者の初の顔合わせは12月23日(火)、場所は日本大学大講堂にて。出演者として来ていたのは12人で、いちおう最初に自己紹介がありましたが、声が聞きとりづらい人もいて、フルネームを把握できたのは7人程度です。しかも全員が来ていたわけではないらしく、そもそも全体で何人の出演者がいるのか、まったくわかりません。

 ワタクシ自身が専業の物書きではなく、時間のとれる日が限られているため、その後、参加した稽古は12回だけです。全貌の概略を知ったのも、2月13日(金)に公にニュースリリースが出てからなので、まあワタクシみたいな末端出演者には大した情報は流れてこないんだろうな、と思いながらも、時が経つにつれて参加者たちの人となりも徐々にわかってきました。

 ということで、今日はこれまでにワタクシが見た出演者たちの姿を紹介してみます。

 何の客観性もないので、大した参考にはならないでしょうけど、ひとまずの印象ということで。以下敬称略でいきます。

林真理子(ニックネーム:真理子さん)

 見ると、だいたい疲れている。はじめは、真理子さんが歌うパートもあったんですが、どうやら練習に時間がとれないと固辞したらしく、残念ながらその部分はなくなっちまいました。

阿部公彦(ニックネーム:アベっち)

 いつも大局を眺めてひょうひょうとしている品のいい人。……だとは思うんだけど、ちょっとしたスキに鋭いことを言うので油断できない。話せば冗談の一つや二つも返してくれる優しい人です。

井沢元彦(ニックネーム:モッちゃん)

 稽古終わりの打ち上げの席を毎回準備するなど、「影の座長」と言っても過言ではない。岩手の文士劇で長くやってきた経験を少しでも生かそうと、文藝家協会にいろいろアイディアを進言したらしいが、なかなか実現に至らないとボヤいていた。

岩井志麻子(ニックネーム:ヒョウちゃん)

 強烈な個性は、テレビ画面越しで観ているのとまったく変わらない。真面目なシーンでもすぐに腰を振り、スキあらばシモネタを繰り出してくるハートの強さ。どうやったらまともに会話を交わせるのか。いまだにワタクシもわかりません。

荻野アンナ(ニックネーム:アンナさん)

 「いまから面白いこと言いますよ」という雰囲気を微塵も見せずに、次々とダジャレを言うところは、まんま以前からの印象どおり。稽古中も、セリフの途中でダジャレを言っては、笑いをとったりスベったり。ただ、どちらであっても平然としているのが恐ろしい。

岳真也(ニックネーム:ガクしゃん)

 去年足を傷めたらしく、杖をついて参加している。長いあいだ物書きとしてやってきたプライドが、言葉の端ばしから、いや全身からにじみ出ている。どんな会話の流れでも、自分の言いたいことはテコでも曲げない気難しいジイさんだが、話すとけっこう面白い。

河原啓子(ニックネーム:カワハラちゃん)

 気さくにしゃべってくれるフレンドリーな人。4人のスカーレットの妹役だが、だれとやってもカワハラちゃんが妹に見えてくる、というのは演技力のたまもの(もしくは生来もっている“かわいさ”ゆえ)に違いない。だけど自分ではいつも謙遜している。

佐伯順子(ニックネーム:サエちゃん)

 大学で授業をしながら、それでも積極的に稽古に参加していたまじめな人。丁寧で腰が低くて、話していると、こちらが恐縮してしまう。それでも、やわらかな物腰を貫いてくれるので、おのずと穏やかな気持ちで話ができます。

佐川光晴(ニックネーム:サガワくん)

 2011年に坪田譲治文学賞の授賞式を観にいったとき、壇上でしゃべっていたサガワくんのまんま、稽古中も飾らない人柄で感動した。台本を読み合わせるときには、ココはこういう背景があるからこういう意味じゃないか、といろんな知識を披露して語っていた。なるほど、実作家というのは日ごろそういうふうに物事を見ているのか、と話を聞いているだけで面白い。

笹公人(ニックネーム:ササちゃん)

 最初に稽古で会ったときに自ら名刺をくれたのはササちゃんだけだった。「真理子さんはアグネス・チャンの歌をうたえばいいのに。40年越しの和解で」とか、常に面白いことを考えている人という印象。今日の本番でも渾身のアドリブをぶち込んでウケていた。

島田雅彦(ニックネーム:ジュゼッペ、ボリスなど毎回変わる)

 容易には話しかけづらいオーラをビンビンに出しているオジサンだけど、単に皮肉屋で照れ屋なだけなのかもしれない。芝居慣れしていて、稽古までにセリフを頭に入れてくる生真面目さがある。

辛酸なめ子(ニックネーム:なめ子さん)

 感情が激しいはずのスカーレットのセリフを、ほぼ棒読みのようにツラツラ語るところが、味になっている。稽古中、バトラー役の三田誠広に「お兄さま」と呼びかけるセリフを、「おじいさま」と言い間違えたときは大爆笑した。面白い人です。

蝉谷めぐ実(ニックネーム:セミちゃん)

 大阪の「なにげに文士劇2024」にも出ていて、セリフに感情を乗せて言うさまが堂に入っている。「いやもう、わたしなんか若輩者ですから」という空気を常に出しているけど、こういう人はベテラン作家になったときにどうなるんだろう。興味がある。

谷口桂子(ニックネーム:ケイコちゃん)

 なにせこちらが直木賞・芥川賞のことを調べている人間なので、ケイコちゃんの『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)にはずいぶんお世話になった。実際に会うと泰然とした人で、とうてい打ち解けて話せそうな感じではなかったが、稽古が進むにつれてだんだんとやわらかな印象に変わってきた。

三田誠広(ニックネーム:マサくん)

 稽古が熱心なのはいいとして、打ち上げに行くと酒を飲み、あれ、寝ちゃったのかな、と思うことしばしばだが、人の言うことは耳に入っているらしく、サッと会話に入って自らの知見を披露する。親友ガクしゃんの言うことはどんなことでもうんうんと優しくうなずいて、友情の深さが伝わってくる。

宮尾壽里子(ニックネーム:ジェイ)

 しとやかで気品のある雰囲気を醸し出しているが、役に入ったときのセリフまわしには、つい爆笑してしまう。ハマり役といおうか、彼女にしかできない演技を、早くからモノにしていてスゴみを感じる。あれは笑っちゃいますよ、ジェイさん。

村上政彦(ニックネーム:ムラマサ)

 稽古でいっしょになったことが少なく、言える印象はあまりないが、スカーレット役に決まったなめ子さんが最初しり込みしたときに、「ぼくはなめ子さんのスカーレット、支持しますよ!」とテラいなく堂々と声をあげたのを見て、むむ、やるな、と感心した。

村山由佳(ニックネーム:ナッちゃん)

 忙しくて家も遠いのに、毎回楽しそうに稽古に来ている様子には心洗われた。いつもニコニコしているアノ裏には、さまざまな修羅場をくぐってきた経験が隠されているんだろうな……とつい思ってしまうのは、こちらのウガチすぎかもしれない。明るくフレンドリーな人です。

山内マリコ(ニックネーム:マリちゃん)

 声色ひとつで、かよわそうな女性、強くたくましい女性を、一瞬にして切り替えて演じ分けてしまうという、文士劇にはドストレートの適任者。わたし間違ったことは許しません、という姿勢がいかにもまぶしくて、絶対この人とモメたくありません。

綿矢りさ(ニックネーム:りーちゃん)

 スカーレットといえば天衣無縫。その役づくりをしているのかなと思いきや、笑顔を見せずにズバッと、ブスッと人にツッコんでいるふだんの会話を聞いていると、あるいは天衣無縫が、りーちゃんの素なのかもしれない。

川口則弘(ニックネーム:オジさん)

 そしてワタクシ。出演者中、圧倒的に最も無名、何をしている人間なのか(自分でも)わからないということもあり、なるべく最後まで傍観していたい。とは思うんですが、要らぬことをボソッと言って場を白けさせないように、こわごわと生きています。


 せっかくなので、今さっき終わった本番のハナシも、多少書いておこうと思ったんですが、すみません、すでに疲労困憊です。なので、とりあえず個人的に見た初日2公演で、印象に残ったハプニング(?)5つを、なるべく3公演目を観る人の興味を削がないように気をつけながら挙げるにとどめます。

3.初日2公演で印象に残ったこと5選

1●上に挙げた出演者のほかに、幕間の解説役として出る方もいるんですが、その方が1公演目だけ来られないことになり、真理子さんが代役をする。結構、準備していないはずのことも言って、そして結構ウケていた。ううむ、あれが人前でしゃべることに慣れた人のワザ、ってやつか。

2●稽古では大丈夫だったはずのセリフを、トバしてしまう人続出。なにしろ容易なことでは間違えそうもないマリちゃんですら、セリフを言い直していたぐらいなので、あせった。ある出演者いわく「やはり舞台に魔物はいた」。

3●昼の部、夕方の部、どちらとも、お客さんの反応がいいことに気をよくしてか、みんなアドリブの増加傾向が止まらない。この人は言わないだろうと思っていたガクしゃんまでが、アドリブをやり始めたので驚いた。

4●個人的には、ムラマサのアドリブ(自虐ネタ)がやたらと仕上がっていて面白かった。それを受け取るマサくんのアドリブ返しもまた、いい。

5●客席のどこかに、舞台の上から見てもわかるぐらいの特徴的な姿をしたお客さんがいたらしい。しかし、いや、あれは現実の存在ではなく、舞台に上がった者にしか見えない神秘的(もしくは霊的)なものなのではないか、という説がささやかれた。真相はわからない。

そのほかのハナシは、また明日にでも。

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2026年5月17日 (日)

「九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。」…桐野夏生、第173回直木賞の選評より

 昨年令和7年/2025年5月25日から、うちのブログは19期めに突入し、「選考とは関係ない選評」を昔のものから順に取り上げてきました。

 さすがに近年、すっとんきょうな選評を書く人は、さほどいなくなったようにも思います。それが一抹の(いや、大いなる)寂しさを感じさせますが、まじめにやって、まじめに書いている人たちに、遠くから文句を投げても仕方ありません。直木賞の選考委員のなかに、それならわたしが「選考とは関係ない選評」をどんどん書いて選評の場をかき回してみせるわ、という猛者が現れることを期待するばかりです。

 で、このテーマでブログを書くのは今週がラストになります。

 注目するのは第173回(令和7年/2025年・上半期)の選評です。ほとんど昨日のような出来事です。

 あまりに記憶が新しすぎて、わざわざ解説するのも馬鹿バカしいですが、昨年7月、直木賞ともう一つの賞、同日同時刻に選考会が始まる二つの文学賞で、両方ともに該当作なし、となったという例の回です。

 受賞作がなしになると、とたんに選評に、選考とは関係ない話題が飛び出してくる。……というのは、この一年間、いろいろな回の選評を読んでわかったことですが、まあそんなことを知ったところで、何の腹の足しにもなりません。別に面白くも何ともないんですけど、ただ、今後いずれやってくる該当作なしの回のときに、さあ、今度はだれがどういうふうに関係ないハナシで行数を稼いでくるか、とわくわくしながら『オール讀物』の発売日を待てる、というおまけが付いてきます。正直、直木賞の楽しみ方としては、邪道も邪道、といったところでしょう。

 ともかくハナシは第173回です。

 候補作は6作ありました。青柳碧人さん『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』、芦沢央さん『嘘と隣人』、塩田武士さん『踊りつかれて』、夏木志朋さん『Nの逸脱』、柚月裕子さん『逃亡者は北へ向かう』、そして今日(令和8年/2026年5月17日)「高校生直木賞」を受賞した逢坂冬馬さん『ブレイクショットの軌跡』です。

 たとえ、これらの作品の水準が低かったとしても、何作かが拮抗して受賞作を決めあぐねたとしても、何といっても第136回(平成18年/2006年・下半期)以来18年間、36回も該当作なしになったことがないんだから、今回だって、選考委員か司会をやっている文藝春秋社員が妙案をしぼり出して受賞作を出すんだろう、と鼻クソをほじりながら待つこと4時間近く。日本全国のうちの、ほんの一部の人たちが驚くような、該当作なしの発表となったわけです。

 え。まじかよ。誰と誰の意見がぶつかり、誰と誰が殴り合って、こんな結論になったんだ。これはもう選評を読むしかない。と、これもまた、日本のほんの一部の人たちが、『オール讀物』直木賞発表号の発売を心待ちに待ちました。ワタクシもその一人です。

 で、目を皿にして選評を確認したんですが、そうか、別に全体的に候補作が低調だという評価だったわけじゃないんだな、それぞれの推し作が最後まで行っても噛み合わずに、どれか一作ないしは二作に決めかねた、という感じの展開だったんだな、とうすうす理解しました。

 じっさいどうだったかは、これはもうわかりません。もしかしたら、相当な論戦が繰り広げられて、キーキーとわめき声を上げる人、顔を真っ赤にして怒り狂った人もいたりして、あわや一触即発のところまで熱くなった……のかもしれません。実態がわからないのは、密室選考会をつづける文学賞の限界です。

 わからないことを、いくら想像したってどうしようもないので、あとは選評を楽しみましょう。

 第173回、この回の選考に直接的な関係があるのかないのか、微妙な文章から書き始めた人がいます。桐野夏生さんです。

「一九九七年の十二月、第百十八回直木賞の候補作が発表になった。京極夏彦さんの『嗤う伊右衛門』や私の『OUT』を含め、五作が候補になった。その時はこんな結果が待ち受けているとは思いもしなかった。

翌九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。残雪が凍って、道路は車の轍の痕が固く盛り上がっていた。

待ち会のレストランで、「該当作なし」という報せがもたらされた時、編集者たちが一斉に立ち上がり、電波の通じない地下の店から、階段を上って行ったのを見て、落選は辛いことだと、初めて知った。やがて芥川賞も「該当作なし」だと知り、こういうケースは、東京會舘での贈呈式もなくなると聞いて驚いた。ともかく寒く、そして暗い冬だった。

長々と昔話をして申し訳ない。まさか今回も、芥川直木ともに「該当作なし」という結末になるとは思いもよらなかったし、このようにメディアで騒がれるとも思っていなかった。」(『オール讀物』令和7年/2025年9・10月合併号、桐野夏生「選評」より)

 ふだんの直木賞であれば、桐野さんの選評といえば、候補作それぞれに対する感想・批評に終始しています。あまりに温度感の違うこの書き出しに、思わず身を乗り出してしまった選評読者は、きっと多かった……かどうかはわかりませんが、少なくともワタクシはドキリとしました。

 ちなみに、すごくトリビアチックなどうでもいいことを言うと、現在のように直木賞の候補作発表が12月→1月選考、6月→7月選考、というふうに1か月程度まえになったのは、そんなに昔のことじゃありません。第150回(平成25年/2013年・下半期)1月選考の候補作が前年の12月20日に発表されたのが、前月発表の最初です。それより前は、思い出せばおわかりかと思いますが、第149回(平成25年/2013年・上半期)までは、選考会の2週間程度まえ、さらにさかのぼって第133回(平成17年/2005年・上半期)までは、選考会の1週間まえに、各新聞の夕刊に候補作発表の記事が載るのがお決まりでした。

 つまり、桐野さんが回想している第118回(平成9年/1997年・下半期)、一般に候補作が発表されたのは、選考会のちょうど1週間まえ、平成10年/1998年1月9日です。おそらく各候補者には、平成9年/1997年12月のうちに知らせが入っていて、それで桐野さんもうっかり不正確なことを書いてしまったのかもしれません。

 まあ、そんなことは直木賞オタクぐらいにしか意味がないどうでもいいことです。すみません。

 重要なのは、当時の選考会を寒い冬の日のこととして記憶し、落選とは辛いことだと初めて知った日だと、桐野さんが語っていることにあります。

 文学賞の選考はたいてい水モノです。確実にこうなる、と断言できることは、昔もいまも、そんなにありません。該当作なしになることだって、そりゃあ当然あるでしょう。

 ……とは思うんですが、受賞作のないことがニュースになり、それを受けた選考委員の桐野さんが、ふだんならまず回想しないであろう昔の候補者時代のことを、どうしても書かなくてはいられなくなる。それだけでも、該当作なしになった意義はあったじゃないかと、選評を毎回楽しみに読んでいる者としては、思ってしまいます。

          ○

 「選考と関係ない選評」のハナシは、とりあえず今週でひと区切りです。また来週から、別のテーマで直木賞の(周辺の)ことを調べていきたいと思います。……が、ちょうど来週日曜日の5月24日は、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇というものが、二日公演の最後の本番をやっている日に当たります。

 うーん。このブログをきちんとアップできるのか、厳しいところではあるんですけど、その日は文士劇についてのエントリーを投稿して、お茶を濁すかもしれません。

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2026年5月10日 (日)

「もちろん今年の大河ドラマも観ています」…宮部みゆき、第167回直木賞の選評より

 直木賞の選評は『オール讀物』に掲載されます。

 この雑誌に、小難しい文学理論や批評性を期待している読者なんて……そりゃあ皆無ではないんでしょうけど、基本的にはみんな面白い小説とか面白い記事を求めて読んでいます。そのなかで半年に一回まじってぶっ放される直木賞の選評というのは、存在そのものが異色です。

 たとえば一般のわれわれに提供される直木賞関連のコンテンツとして、候補作の発表、受賞作の発表、選評の発表、という3段階があるとします。そのうち、圧倒的に話題にならないのが、最後の「選評の発表」なわけで、いったいこんなもの誰が読んでいるんだ、と愚痴った選考委員がいたとか、いないとか、真偽はちょっとわかりませんけど、その後、それらがまとめられて本になる、という展開も一部の委員を除けば、まずありません。悲しいといえば悲しいです。

 どんな選考委員だって、まあ誰も読んじゃいないんだからとテキトーに書き流しているわけではない、と思います。たぶん。少しでも、読んでくれる読者を楽しませようと、百人百様、あれやこれやの手を使って、選評にエンタメ要素を加えようとしてきた委員も、けっして皆無ではありませんでした。

 ということで前置きが長くなりましたが、そういう観点で直木賞の選評を見たとき、絶対に取り上げなきゃいけない人がいます。宮部みゆきさんです。

 宮部さんの選評の特徴とは何か。それはあまりにだらだらと長すぎることだ。……という直木賞界の定説があります。

 でも、どうしてそんなに長いのか。それは、本論ともいえる候補作、候補作家についての論評を展開するにあたって、現実社会に存在する映画やらアニメやらスポーツやらから固有名詞をバンバン出して、いいように形容したり喩えたり、枝葉にも見える読者サービスの遊びの部分が、やたらとたくさんあるからです。

 そんなこと言う必要がないといえばありません。だけど、宮部さんが軽やかに繰り出す比喩表現を心待ちにしている選評読者も少なくはありません。少なくないかどうかは知りませんが、少なくともワタクシはいつも楽しみにしています。やはり宮部さんの選評には、そういう〈飾り〉の部分は欠かせないものと言っていいでしょう。いくら文章が長くなっても。

 ためしに第167回(令和4年/2022年・上半期)の選評を見てみます。宮部さんはこんなふうなことを書いています。

「私はまるっきり不勉強のくせに、歴史小説の鎌倉ものが大好きです。それは永井紗耶子さんと同じ名字の大先達である永井路子さんの作品に触れたことから始まりまして、もちろん今年の大河ドラマ(引用者注:「鎌倉殿の13人」のこと)も観ていますが、思い出深いのはやっぱり永井路子さん原作の『草燃える』――というのはさておき、勃興から衰退滅亡まで山のように書く材料がある鎌倉幕府と北条氏の歴史のなかで、(引用者後略)(『オール讀物』令和4年/2022年9・10月合併号、宮部みゆき「幸せな読み心地」より)

 要するに永井紗耶子さんの候補作『女人入眼』を語るに際して、これだけのマクラというか、装飾を施しているわけですね。そりゃあ選評も長くなるはずだわ、としか言いようがありません。

 だけど、選考に関係のないことを語るにしても、いまやっている大河ドラマのことを持ち出す辺りが、一般読者に少しでも興味をもってもらおうとする宮部さん独特のサービス精神です。平成・令和の時代に降臨した「選考とは関係ない選評」を書く最高の女神といえば、やっぱり宮部さんです。

 次の第168回(令和4年/2022年・下半期)でも、当然、そのおちゃめな手法は健在です。

(引用者注:小川哲『地図と拳』について)私はミーハーなことを書きたいと思います。冒頭の登場時から気の毒なほど船酔いしている丸眼鏡の青年・細川は、私の頭のなかでは俳優の神木隆之介でした。受難のクラスニコフ神父はマッツ・ミケルセン。ストーリー上はすぐ姿を消してしまうけれど、実はラストまでキーパースンであり続ける高木大尉は山本耕史。須野明男はいろいろ迷いました(なにしろ「万能計測器」ですから)が、賀来賢人がいいかな。青白い顔の中川は滝藤賢一で(梨をむさぼり食うシーンが目に浮かぶ!)、安井は意外に佐藤二朗がぴったり?」(『オール讀物』令和5年/2023年3・4月合併号、宮部みゆき「大風呂敷と幻術」より)

 令和5年/2023年の日本に生きる人たちに向けて全力で俳優たちの名前を羅列しています。神木隆之介さんもマッツ・ミケルセンさんも山本耕史さんも賀来賢人さんも滝藤賢一さんも佐藤二朗さんも、さすがに自分の名前が直木賞の選評で触れられようとは、意外ちゅうの意外でしたでしょう。

 かといって、ほんとに宮部さんが自分のミーハーなところだけを見せつけたかったのか、といえば、そうでもありません。そういうふうに登場人物たちに現実の俳優を当てて楽しんでしまえる、『地図と拳』という小説は一級のキャラ小説でもあるのだ、と後段で主張しています。そういう意味では、全然「選考に関係ない」とは言えないかもしれません。

 ただ、選評というと畏まっていて真面目な舞台、と思われてしまうのを、どうにかして防ぎたいという宮部さんの思いが、脱線のようなハナシを繰り出すことになり、こうしてどんどん選評が長くなってしまう、というのは否めません。今後も、宮部さんの「選考に関係ない」部分にもっと注目が集まってほしい、と願っています。

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2026年5月 3日 (日)

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。」…林真理子、第164回直木賞の選評より

 これから先、だれか奇特な人が現われて、直木賞の歴史をひもとこう、そして書き残してやろうと思ったとします。そういう人にとって絶対に避けて通れない、ここ数年の直木賞にまつわる事象とは何でしょう。

 明らかに挙げられるのが、コロナ禍での選考会、ってやつです。

 少し前にうちのブログでも、昭和11年/1936年に二・二六事件の戒厳令下で選考会が行われたうんぬん、というテッパンなエピソードを取り上げました。そういう視点で言えば、誰がどう見たって、いつもとは違うかたちでの開催を強いられた、あの数年に及ぶコロナウイルス流行下でのあれこれは、後世の直木賞史家にとって、かならずや面白く見えるに違いありません。

 令和2年/2020年4月、政府から緊急事態宣言が出て、日本全国、上を下への大騒ぎ。まだまだ社会的に厳戒態勢のとられるなか、その年の7月に直木賞では第163回(令和2年/2020年・上半期)の選考会が行われました。ほんの6年前のハナシです。

 ああ、もう6年も経ったのか、と言っていいかもしれません。時の流れをどう感じるかは人それぞれ、「もう」でも「まだ」でも、どっちでもいいんですけど、このとき新喜楽の選考会場には、何の効果があるのかだれもよくわからないながら、委員たちのあいだにアクリル板が置かれ、なるべく興奮したり激高したりしてツバを飛ばさないように注意して、2時間ちょっとの議論を乗り切った……ということです。

 ところが、いまとなって当時の選評を読み返してみると、その選考会がコロナ禍が渦巻く状況で行われたことを指摘している人はだれもいません。そうか、周囲がどれほど騒いでいようが、小説を論評すること、あるいは直木賞にふさわしいかどうかを議論したこととは何の関係もないもんな。と、うなずけるものがあるんですけど、いや、間違えました。だれもいなくはありません。一人だけコロナのことを書いている委員がいました。林真理子さんです。

「コロナ禍の中で選考会は、いつもと違い、広い座敷でアクリル板越しに行なわれた。といっても、活発な論議は通常どおりだったと思う。」(『オール讀物』令和2年/2020年9・10月合併号、林真理子「馳カラーに染まる」より)

 正直、別に選評で言及するまでもないこういうことを、ポロッと最初に書いちゃう林さんの、相変わらずの手グセと言いますか。それか、読者というものは委員たちの生真面目な小説批評だけが読みたいわけではなく、時事ネタや話題のニュースにからめたハナシも大好きなのだ、ということを体感として知っているのかもしれません。たしかに6年経って、こういうふうに取り上げてしまうクソ・ブロガーがいるんですから、まんまとワナにハマってしまった感はあります。みなさんも、ワタクシのようにならないように気をつけてください。

 受賞記者会見も、出席記者の数を極力おさえて、お互いが近づかないようなかたちで行われましたし、それからしばらく直木賞の選考会はこれまでと違って、委員同士の席を遠ざけ、アクリル板で仕切り、あるいはリモートでの参加もOK、というパンデミック体制のもとで開かれます。第163回の馳星周さんの『少年と犬』、西條奈加さん『心淋し川』、佐藤究さん『テスカトリポカ』、澤田瞳子さん『星落ちて、なお』……と続いていく受賞作が、いったいコロナ禍の選考会によって何らかの影響があったからなのか、それとも外部の社会的環境とは関係はなかったのか、未来の直木賞史家がおそらく検証してくれるでしょう。

 それはそれとして、コロナ禍2度めとなる第164回(令和2年/2020年・下半期)選考会は、年が明けて令和3年/2021年1月に開催されています。いまだ、今日の感染者報告が何人だ何百人だと、喜々として取り上げられていた頃です。さすがにこれだけ異様な状況が続くと選評でコロナのことに触れる人も少し増えて、宮部みゆきさん、伊集院静さんなどが、いまだコロナ禍が続いていて日本人たちも閉塞した気分にある、といったようなことを書いています。

 とくに踏み込んだ表現をしているのが宮部さんです。

「今回、私は、できることなら二作受賞にしたいと願っていました。コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言下で迎えた選考会で、世の中全体が塞ぎ込み疲れ切っているところに、物語の魅力がまったく異なる二作を直木賞受賞作としてプレゼンテーションできたら、本屋さんの店頭も華やぎ、明るい話題も二倍になるのではないかと思いましたし、二作受賞に充分値する候補作が揃ったと思っていました。」(『オール讀物』令和3年/2021年3・4月合併号、宮部みゆき「タイトルは大事です」より)

 うーむ、まじでこのとき西條さんの『心淋し川』だけでなく、もう一つ受賞作を選べていたら……とくに加藤シゲアキさんの『オルタネート』などが受賞していたら、本屋の店頭も各種メディアも大いに盛り上がって華やいだと思います。そうなっていたら、宮部さんの上記の選評も伝説化して後世まで語り継がれたでしょう。そう考えると残念でしかありません。

 半年まえ、いち早く「コロナ禍」を選評に刻印したのは林真理子さんでしたが、ではこのときはどんなことを書いていたのか。冒頭を読み直してみますと、こんな感じでした。

「前回にひき続き、アクリル板で仕切られた選考会である。今回は全作が初ノミネートということであり、とても面白く興味深く呼んだ。」(同号、林真理子「プロの技」より)

 よくよく読むと、やっぱり冒頭の一文と、その次の文章は有機的につながっているとは言えません。前回に続いてアクリル版で仕切られた選考会だったからどうなのか。林さんの選評を読んでも、何もわかりません。

 ただ、林さんの独特な嗅覚で、選考と関係ないことであっても世のなかに注目される切り口がある、とわかっていたんだろうと思います。おそらく。

 けっきょくそのワナに引っかかって、またしても馬鹿な顔して取り上げてしまいました。ああ、われながら不甲斐ないです。

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2026年4月26日 (日)

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。」…伊集院静、第161回直木賞の選評より

 かつて、文学賞メッタ斬り!というものがありました。

 直木賞やら何やらの受賞予想をする。それだけでは終わらせずに、結果が決まったあとの選評についても、あれこれイジッて論評する。あらためて、いい企画だったと思います。

 直木賞で言いますと、最大にして最高のターゲットが渡辺淳一さんだった、というのは誰にも異論がないところでしょう。しかし惜しまれながら渡辺さんが委員を降りたあと、みんなが優等生のようにソツのない選評を書き続けるなかで、この人はとメッタ斬り!対談で目をつけられたのが伊集院静さんだった……と記憶しています。

 では、伊集院さんの選評の特徴とは何でしょうか。

 それは、候補作ひとつひとつに対して型にハマった論評を連ねるだけではなく、それ以外に、時代や社会に対する自分の感慨、感想などをつらつらと語り流していた、というところです。要するに「選考とは関係ない」選評の部分こそが、直木賞委員・伊集院さんの魅力だった、と言っても過言ではありません。

 うちのブログで取り上げる時代が、だんだん「近い過去」になってきて、なかなかピックアップしたくなる選評、選者も少なくなっているんですが、そういうなかでも今週はやはり伊集院さんの、エッセイがかった選評をもう一度、じっくり噛みしめながら味わおうと思います。

 平成が終わって令和に変わったあの頃。第161回(平成31年・令和1年/2019年・上半期)の直木賞です。

 この回の直木賞候補といえば、一般的には何といっても「全員が女性作家だった」というところを語りたくなるはずです。

 大島真寿美さん、朝倉かすみさん、窪美澄さん、澤田瞳子さん、原田マハさん、柚木麻子さん。候補者が全員女性だから何なんだ、そんなことで騒ぎ立てるな……と当時も言われていましたし、たしかに直木賞の動向だけを注目したところで、あまり意味のある知見は得られない、というのは昔も今も同じです。

 ちなみに、似たような時期に行われた文学賞でいえば、第40回(平成31年/2019年3月決定)吉川英治文学新人賞の候補は、塩田武士さん、藤井太洋さん、呉勝浩さん、三秋縋さんが男で、武田綾乃さんだけ女、第32回(令和1年/2019年5月決定)山本周五郎賞の候補は、朝倉かすみさん、芦沢央さん、澤田瞳子さんが女、赤松利一さんが男、木皿泉さんが夫婦共作。

 これもまた、だから何なんだ、というような「ちなみに」でしたね。すみません。

 で、選評のほうでもやはり、「候補者が全員女性」の件をスルーできない人がいました。ひとりは林真理子さんです。

「今回の直木賞は、候補の作家が全員女性ということで話題をまいた。が、女性とひと括りにされても、どれも作風が全く違い、選考は楽しく、かつ難しかった。」(『オール讀物』令和1年/2019年9・10月合併号、林真理子「楽しくかつ難しく」より)

 話題になったかどうか、そういうポイントがあればすぐに選評で言及してしまうのが、林さんのクセですが、要するに全員女性だと言っても作風がバラバラで、選考そのものは何の影響もない、と言っています。そりゃそうだろうな、と思います。

 東野圭吾さんも、選評の冒頭にその話題を出しています。

「候補作の作者が全員女性だということに驚きはない。むしろ、初めてだと聞いて意外に思った。」(同号、東野圭吾「選評」より)

 この感覚は、たしかにそうだな、とうなずけるものがあります。そもそも直木賞の歴史上、候補者が男か女かを気にしている人なんて、直木賞専門サイトの制作者ぐらいしかいないでしょう。

 ということで、「全員女性」に関する選評を書いた3人目の委員、それが伊集院静さんです。他の2人と違って、思いのままに綴ったエッセイふう選評の一節なので、何を主張したいのか、読み取るのが難しくもあります。

「よく日本では純文学という言葉を使う。文学に純も、濁もあるはずがない。さらに純文学に対して大衆文学とも言う。そんな間抜けなことを言っているのは日本だけである。

但し、ヨーロッパでもアメリカでもジャンルの分け方はある。直木賞は新人賞であるが、ずぶの素人、もしくは新人の作品が賞の候補になることはない。或い力、或る作品、読者を持っている新人作家の作品の中で受賞が競われる。その点では、海のものとも山のものともわからぬ候補作を読まされることはあまりない。そこは選考委員として、いささかの安堵を持てるが、今回のように候補作すべてが女性作家によるものとなってしまうと、男である私はいささか淋しい気がした。」(同号、伊集院静「選評」より)

 日本で言われる純文学・大衆文学の呼称問題が、どういう思考の経路をたどって、男として淋しい気がする、というところに到達するのか。ううむ。少なくとも上記に引いた箇所は、第161回直木賞の選考には関係がない、と思うんですけど、つまりは女性が書いた、男性が書いた、というふうに外野がレッテルを張るのは、純文学・大衆文学の呼称と同様、間抜けなことだ……と言いたいのかな、と想像できたりします。

 となると、文学か文学でないか、直木賞にふさわしいかそうでないか、直木賞にまつわるおおよそすべての現象がレッテルだらけです。そう考えると、直木賞って間抜けなことだよね、と言いたかったのかもしれません(たぶん違う)。

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«「題材とプロットとキャラクター、そして文章力の四つが揃えば小説は書ける――。仮にこれが事実なら、小説はいずれAIが書くようになるだろうが、」…高村薫、第158回直木賞の選評より