「現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。」…川口松太郎、第77回直木賞の選評より
ワタクシは生粋の直木賞ファンです。世のなかにもきっと、たくさんの直木賞ファンがいることと思います。
それぞれに「好きな直木賞の時代」というものがあるはずですが、ワタクシの場合、しいて挙げるとするならば、昭和50年代前半、1970年代ごろの直木賞が一、二位を争うほど大好きです。なぜか。受賞作が全然出なかったからです。
直木賞が好きなくせして、受賞作が出なかった時代が好きとは、よっぽどコイツはおかしな奴だと思います。だけど、好き嫌いに理屈なんかないので仕方ありません。
第70回(昭和48年/1973年・下半期)なし。第71回、第72回は運よく受賞者が選ばれましたが、第73回なし。第74回で受賞があったあと、第75回なし。第76回では受賞者を出しながら、第77回、第78回(昭和52年/1977年・下半期)と連続なし。……これがいまのところ、最後の「直木賞二期連続該当作なし」の記録となって残っています。
来年1月、第174回(令和7年/2025年・下半期)でもしも該当作が選べなければ連続の「なし」となるので、ようやくその歴史が上書きされるんですが、さて、どうなることやら。がんばれ、直木賞。
と、それはそれとして選評のハナシです。
該当作なしばっかりだったこの時代、やはり面白いものを残してくれたということでいえば、授賞することができなかったときの選評がたくさん書かれたことです。今日出海さんはどこに芯があるのかわからないノラリクラリを繰り返す。司馬遼太郎さんは、基本的にグチばっか。石坂洋次郎さんはマイペースに、自分の郷里に対する愛情を隠すことなくぶっぱなす。
直木賞が受賞作を出せなくたって、出版世界に目を映せば、小説が書かれなくなるわけじゃなく、新しくて面白い小説はどんどん生まれていきます。そのなかで粛々と、該当作なしの選評だけが積み上がっていく。無意味なようでいて、意味がありそうなこの展開を、まるで無責任な立場で外から眺めてみる。面白くないはずがありません。
第77回(昭和52年/1977年・上半期)は前述のように該当作なしの回でした。とりあえず推した委員がいた、ということで、色川武大さんの『怪しい来客薄』から「空襲のあと」「墓」、井口恵之さんの「つゆ」が『オール讀物』昭和52年/1977年10月号に再録されたうえで、選考委員9人の選評が載っています。
今回取り上げるのは直木賞選考会では圧倒的な欠席率を誇る書面回答キングこと、川口松太郎さんの選評です。
ちなみに川口さんは旅行中だったため、この回も書面で回答しましたが、選考会で最後まで議論された『怪しい来客簿』も「つゆ」も、全然高い点をつけていなかったそうです。そしてこんな老人のつぶやきを残します。
「作品の非難は控えるが、現実に私は委員中の最高年齢に達してしまった。年の哀れはもうどうしようもない。若い人たちに追い着こうと思う気もなく、自分は自分なりにやって行くより方法はない。とすると、今や文壇最高の登龍門ともいえる直木賞の委員に長くとどまるべきではない、という気がして来たのだ。
(引用者中略)
鬢髪を染めた実盛の故事を学ぶまでもない。老兵は消えるのみ、とマッカーサー将軍はいった。私も同じ心持でいる。」(『オール讀物』昭和52年/1977年10月号、川口松太郎「選評」より)
このとき川口さんは77歳。同じ日に選考会をやっている芥ナンチャラ賞のほうでは、瀧井孝作さんが83歳にしてまだ選考委員をやっていましたので、居座ろうと思えば川口さんも続けられたでしょう。
だけど、たしかに外野から「老害」と言われてもおかしくはありません。それをはっきり自覚して書き残すところが、川口さんらしいです。
で、この回をもって退任するのか。と思ったら、けっきょくそれから約2年、第80回(昭和53年/1978年・下半期)まで在留してしまったのは何なのか。文春の人に引き止められたのかもしれませんし、川口さん自身、なかなか辞める決断ができなかったのかもしれません。老害は老害で、そう簡単に消えることもできず、大変なんだろうなと思います。





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