2026年10月 4日 (日)

昭和48年/1973年、直木賞を受賞したばかりの藤沢周平、生まれ故郷での講演会で教え子に会う。

 こないだ久しぶりに山形に行ってきました。

 この時期はちょうど直木賞の話題がひと段落して、ワタクシのような中毒者にはつらい季節です。世間を見たって、直木賞のことを熱心に語っている人は、そんなにいません。

 じゃあ直木賞の風を味わうにはどこへ行けばいいか。それはもう山形に決まっているじゃないか! ということで、我慢できずに北に向かった……というわけでもないんですけど、ともかく直木賞に関するエピソードが山形県にもゴロゴロ転がっているのは事実です。

 ということになれば、もちろんご登場いただく方は、だいたい決まっています。うちのブログでも何度もコスッてきました。第69回(昭和48年/1973年・上半期)受賞者にして、第94回(昭和60年/1985年・下半期)から10年ちょい、選考委員も務めてくれた藤沢周平さんです。

 藤沢さんと直木賞、というと、それだけでおそらく2冊も3冊も本ができるぐらいに、いろいろな角度のハナシが残っています。そのうちの一つが「講演会」です。

 いっとき学校の先生をしていたとはいえ、基本的に人前に出ていくタイプの人ではありません。講演というものに対しては、藤沢さん自身苦手意識をもっていた、とも言われます。しかしそれでも、人間社会のなかで生きていれば、強く頼まれてしまうとなかなか無下に断わることもできません。藤沢さんもほうぼうでマイクの前に立たされ、聴衆に向かってナマの言葉を語る経験をさせられたようです。

 とくに藤沢さん自らが振り返る講演のハナシでは、故郷の鶴岡をはじめ山形県の各所から招かれたときのことが、印象ぶかく語られています。

 藤沢さんもこんなことを書いています。

「十月の半ばから一週間ほど、山形県の鶴岡市に行ってきた。というとことごとしいが、つまりは里帰りで、鶴岡は私の郷里である。

この里帰りの日程の中に、講演が三つほどはさまっていて、そのひとつは、私が出た村の小学校で話すことだった。

鶴岡は、山形県の海岸よりにひろがる平野の中にある。一望の田園の涯に、月山、鳥海山の山稜がつらなる風景は美しく、たべものもうまい。ことに魚がおいしい。家では、生きているか死んでいるかわからないような暮らしをしている私も、ここへ帰ると急に元気になって、講演ぐらいいくらでも引きうけようという気になる。」(平成24年/2012年4月・文藝春秋/文春文庫、藤沢周平・著『周平独言』所収「ある講演」より ―初出『中央公論』昭和53年/1978年12月号)

 なるべく講演の依頼は引き受けない方向でやっていきたい、という姿勢で作家生活を送っていた藤沢さんにして、こんなことを言わしめるのですから、やはり故郷というものの持つ偉力は絶大です。

 しかも、何年もまえに故郷を離れて都会で暮らしていた人が、たまに里帰りしている、という状況もまた「講演熱」(……と言っていいのかどうか)を掻き立てる一助になっていたものと思います。そこには郷愁がある。旅情がある。あるいは、聴衆のなかに見知った顔がちょろちょろあるという安心感もある。苦手意識を薄めるような要素がそろっています。

 直木賞との関連でいうと、昭和48年/1973年に受賞してまもなく、故郷のほうに呼ばれていくつか講演をしたというエピソードにも触れないわけにはいきません。

 さすがにそのときは、作家としてもまだまだこれからの途上でもあり、ふるさとでの講演だからといって藤沢さんもワクワクとして演台に立ったわけではなかったらしいですが、しかし忘れがたい経験をもたらしたのも、講演会の力でした。

「故郷に錦を飾るという古めかしい言葉がある。私はその言葉がはっきり言えば嫌いだが、ある文学賞をもらったあと、故郷の町に講演に呼ばれたときは、その言葉を思い出さないわけにいかなかった。面はゆくて閉口した。しかし故郷は、ボロを着てはなかなか帰りにくい場所でもある。やむを得ず帰郷して、あちこちと講演して回った。

私は、二十数年前に教師をしていた中学校にも行った。そこで私は、いきなり胸がつまるような光景に出くわした。(引用者中略)会場の聴衆の前列にそのときの教え子たちがいた。男の子も女の子も、もう四十近い齢になっていた。それでいて、まぎれもない教え子の顔を持っていた。

私が話し出すと女の子たちは手で顔を覆って涙をかくし、私も壇上で絶句した。(引用者中略)講演が終わると、私は教え子たちにどっと取り囲まれた。あからさまに「先生、いままでどこにいたのよ」と私をなじる子もいて、“父帰る”という光景になった。教師冥利に尽きるというべきである。」(平成2年/1990年1月・文藝春秋/文春文庫、藤沢周平・著『小説の周辺』所収「再会」より ―初出『出会い』昭和56年/1981年6月号)

 直木賞を受賞したことを祝って講演会が開かれる、というのは1970年代にはすでによくある展開だったらしいです。以来、昭和の後半から平成、令和と、出版やメディア環境はいろいろ変わりましたが、いまのいまに至るまで、講演会と直木賞とは不可分な関係性を保っていると言っていいでしょう。

 そのなかでも、おそらく藤沢さんが出くわしたこの経験は、そうとう上位に入るほどの感動的なものだった……とは思うんですが、いやいや、ほんとうに上位かどうかはわかりません。直木賞っていうのは、本人以上にまわりの心を躍らせるもので、そういったまわりの人たちが直接受賞者と出会うことのできるリアルな場、講演会では、何がしかドラマチックなことが起こる磁力を秘めています。

 藤沢さん以外にも、こういった再会劇は、いまの直木賞にも豊富に生まれているに違いありません。

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2026年9月27日 (日)

昭和33年/1958年、小田武雄、講演会で松山に来た今日出海からオール新人杯を授与される。

 東京にはたくさんの出版社があります。直木賞をとりまく商業小説のあれこれも、そのほとんどが東京に集まっています。

 そのおかげで、東京ではない土地に住んでいる人が候補になったり受賞したりすれば、それはそれで話題になりますし、受賞作を出した雑誌とか出版社とかが東京以外に本拠地をもっていれば、なおさらです。昔から現在までそういう例は、なさそうでありそう、ありそうでなさそうな微妙なラインと言ってもよく、うちのブログもいつか「東京以外の直木賞」ということをテーマにしてみたいなとも思います。

 それはともかくです。来年の5月頃までは「直木賞と講演会」をテーマにして調べを進めていくつもりですけど、講演会ネタというと、「東京以外」のハナシがけっこう多いのはたしかです。

 それは、直木賞と講演会というと、真っ先に来るのが文藝春秋の文化講演会ですから、当然といえば当然といえるかもしれません。文春の講演会は、日ごろお世話になっている作家や評論家たちに向けて文春が提供する慰安旅行のサービス、という面があります。おのずとエピソードは、東京を離れた旅行先での出来事、という風合いが多くなりますし、紀行文とか、地方の歴史にからめたハナシとか、講演会にかこつけて、そういうエッセイを残す作家も、ちらほら見かけます。

 では、彼ら東京からやってくる作家を迎え撃つ、地方在住の人たちはどうでしょう。

 雑誌や本でしか名前を知らない有名な先生が、自分たちのまちにやってくる! じかに接したい、この目に生きた姿を焼きつけたい、と思った人たちも多かったことでしょう。手軽に遠距離を移動できるわけではなかった時代の人なら、当然の感情です。

 今回取り上げるのは愛媛県です。

 いまから60年も70年も前の1950年代、愛媛に住みながら直木賞の候補に2度ほど挙げられた作家がいます。小田武雄さんです。

 大正2年/1913年生まれといいますから、最初に直木賞候補になった第38回(昭和32年/1957年・下半期)の段階で44歳です。それまでは会社員や教員を務めながら俳句の世界でひそかに活動をつづけていたようですが、戦後は散文の、しかも純文学ではない大衆文芸=歴史小説にも軸足を伸ばして、サンデー毎日大衆文芸懸賞ではしばしば入選するほど評価を受けます。

 勢いはさらに他の雑誌にも波及して、いずれも公募型の懸賞応募ではありましたが、第4回小説新潮賞を「舟形光背」で、第11回オール新人杯を「紙漉風土記」で受賞します。オール新人杯といえば、直木賞にびっちり直結したコンクールでしたので、昭和32年/1957年12月号の『オール讀物』に載った受賞作がそのまま、文藝春秋新社の予選を通って直木賞の候補に挙げられました。

 直木賞の候補はともかく、オール新人杯についてはれっきとした受賞者です。通常であれば選考委員たちも出席のうえで、主催者から受賞杯やら賞金やらをもらうようなイベントが行われてしかるべきだったんですが、小田さんは当時、生まれ故郷の愛媛県松山市に住んでいました。

 松山と東京。いまとは違って、そうやすやすと行ったり来たりできる距離ではありません。このとき小田さんは、東京の文藝春秋新社を訪ねることもなく、地元松山にとどまっていたと言います。

 ではどうしたか。

 小田さんの受賞を決めた5人の選考委員、梅崎春生さん、今日出海さん、富田常雄さん、浜本浩さん、吉田健一さんのうち今さんが、文春の文化講演会で四国を旅するというので、小田さんに渡す賞品・賞金を携えて愛媛にやってきます。

「新人杯の受賞は道後温泉の鮒屋旅館で、折よく文芸春秋の講演会に見えられた今日出海先生の御手から戴くことが出来た。小野詮造編集長立会いである。その時、今先生は身に余る過賞と激励を下さつた。その折、先生は「何事も職業となるとむずかしいもんです」と仰言られたが、この言葉はその時も今も私の肝に銘じている。」(昭和33年/1958年9月・東京文芸社刊『代表作時代小説 昭和33年度』所収、小田武雄「紙漉風土記 作者のことば」より)

 「講演会」というのは、人が壇上に立って多くの人に何かを語るものですが、ただそれだけの行事ではない、ということがわかるエピソードです。講演者にとっては、多くの場合それは旅行とセットとなり、また時には懸賞小説……文学賞の贈呈までも付いてくる。人が物理的に移動するというのは、何かといろいろなものを孕んでいます。

 まだ、素人作家に毛が生えたような小田さんも、直接、今日出海さんとか、文春の小野さんと会って、おそらく感激したんでしょう。その後、「紙漉風土記」を含む作品集『うぐいす』が、第41回直木賞(昭和34年/1959年・上半期)でもう一度候補になって、思うところがあったものか、ふるさとを離れて東京に居を移します。

 今日出海さんが言ったという「何事も職業となるとむずかしいもの」という言葉を、小田さんはどのように理解し、消化し、受け入れて上京したのか……。その心境はまったくわかりません。出版社の集まる東京にやってきて、意に沿う仕事、沿わない雑事、もろもろ波に流されながら亡くなるまで文筆生活を続けた、と伝えられています。

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2026年9月20日 (日)

昭和43年/1968年、直木賞をとった野坂昭如、憧れだった文春文化講演会に参加する。

 基本、職業作家は人気商売です。小説を書いて、多くの人に本を買ってもらう。それが自身の生活費になります。

 「小説を書いて発表すること」そのものは、べつに客商売でも何でもありませんが、それを商業出版社を介して作品を売るということになれば、途端に人気が生活を左右します。不思議な世界です。

 こういう職業作家像の成り立ちに、リキを入れて取り組んだのが菊池寛さんで、文藝春秋社に勤める人たちも菊池さんの方針のもとで働いていましたので、そういう中から生まれた直木賞は、当然といいましょうか、職業作家に贈られる(ないしは贈ったあとに職業作家になる)ことを念頭においています。

 その前提がベースにあるので、とうてい職業作家としてやっていけそうもない人が受賞すると、あれはないんじゃないか、選考がおかしいんじゃないか、などとまわりにいるクソみたいな連中がツバを飛ばして批判する……という極上の風景が展開されたりします。佐藤得二さんが受賞したときとか。千葉治平さんのときとか。まわりを巻き込むいざこざは、はたから見るとやはり面白いです。

 直木賞を楽しむためには、じっさいに小説家になって候補になりそうな界隈に身を置くよりも、ちょっと距離をとった場所からその様子を眺めるほうがいい、と確信するゆえんなんですが、そんなこと言っても世の中には、作家になりたい人や直木賞をとりたい人はたくさんいるでしょう。何に興味をもって何を優先させるかは、人それぞれです。

 第58回(昭和42年/1967年・下半期)に直木賞を受賞した野坂昭如さんも、小説を書いて生活することに強烈な憧れを持っていた、と伝えられています。

 小説なんか書かなくって、人前に出ていって目立つことをやるのはやめられない、雑文・戯文を書く能力に長けていたのでライター稼業を続けたって食うには困らなかったでしょう。それでも当時まわりにいた人たちは(というか日本じゅうの風潮として)電波やら映像の世界に携わっていても尊敬されず、出版の世界でも短い文章をチョコマカ書いたところで、文芸誌・読物誌に名前がバーンと出ている小説家より立場が数段落ちる……と言っている。野坂さん自身もまた、その状況をみっちり実感して、「文壇で活躍する小説家」に憧れていたらしいです。

 ということで「講演会」の出番となるわけですが、なんで小説家に対する憧れと講演会が結びつくのか。まったく不思議なハナシですけど、野坂さんの感覚のなかでは、講演会……とくに文春主催の文化講演会というものが「文壇の小説家」の象徴のように見えていたからです。

 『文壇』(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊)から一節を引いてみます。

「(引用者注:直木賞の)受賞後、原稿の注文が増えると聞かされていた。すでに、いわゆる三誌のうち二誌に毎月執筆の感じだったが、変化はインタビュー、対談、講演会講師の注文殺到。(引用者注:昭和43年/1968年)四月、文藝春秋主催文化講演会を依頼された。これで受賞の実感が少し湧いた。ほぼ毎月の印象で、この講演会に伴った編集者の、随行記が本誌見開き二頁で掲載され、会場となった町の描写、聴衆の反響はともかく、講演後、講師ともどもドンチャン騒ぎをするらしい。

(引用者中略)

二十年代の半端仕事、三十年代初期のラジオ・TV時代、小説家を羨ましく思ったかなりの部分に、この賑々しい宴会があった。」(野坂昭如・著『文壇』より)

 この引用箇所のうしろでは、実際に昭和43年/1968年4月、講演会旅行に出かけたときのことも出てきます。開催地は宮崎、大分、別府で、同行の講師は今日出海さんと開高健さん。そちらの記述でも「憧れの、「文藝」ではなく「文化講演会」」というふうに表現されています。

 この引用箇所のうしろでは、実際に昭和43年/1968年4月、講演会旅行に出かけたときのことも出てきます。開催地は宮崎、大分、別府で、同行の講師は今日出海さんと開高健さんだったそうですが、そちらの記述でも野坂さんは「憧れの、「文藝」ではなく「文化講演会」」というふうに表現しています。

 公衆の面前でべらべら、あることないことしゃべるのは、野坂さんの得意技です。おそらく直木賞受賞直後の興奮もあいまって、各地では大いに盛り上がったのだろう、と思います。

 そんな講演会に出ることに憧れて作家生活に入った人間を、邪道とみるか王道とみるか。これもまた見る人によってさまざまな感想がありそうですけど、ワタクシ自身は、こうして直木賞をめざし、直木賞を利用してくれる人がいたことが、心から嬉しいです。

 だれしも人生一度っきり。まわりがどう思おうが、どんな動機であろうが、小説を書きたい人は書きゃいいし、小説を書かずに満身直木賞を楽しみたい人はそうすればいいんだと思います。

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2026年9月13日 (日)

昭和47年/1972年より始まった文藝春秋の海外文化講演会で、直木賞受賞者たちが重宝される。

 昭和40年代、1960年、70年代は日本にとってどんな時代だったか。……という問いがあったとすれば、その答えのなかに確実に入ってくるのが「国際化」です。

 一度、海の外に乗り出そうとして思いっきり失敗し、敗戦の宣告を突きつけられてから10年、20年。もう一度、日本人の誰それ彼それが海の外に対する憧れを抱き出して、チャレンジしようと立ち上がります。

 そんな熱い思いが、狭っ苦しい文壇のなかでピーピーやっているだけの直木賞にも、確実に影響が現われた……みたいなハナシはうちのブログでも以前取り上げたような気がします。五木寛之さんの「さらば、モスクワ愚連隊」による登場が昭和41年/1966年の頃ですから、まあそんな時代です。

 直木賞……というか、読み物文芸の世界と言い換えてもいいんですけど、そういった分野で仕事している作家や編集者が、日本だけじゃなくて海外、外国、海の向こうを取り入れようとした、ということはどういうことか。商業をやっている出版社がそっちにも手を広げようとした、ということです。もちろんそうです。直木賞がそれ自身単独で何か新しい方向に行くはずがなく、その背景には日本社会全体の動きと何かしらリンクしています。

 というところで注目したいのが「講演会」です。

 講演会をどこでやるか。自分の住んでいる近くの会場、あるいは少し遠出して数泊しながら巡回する。いろいろな形態で発展してきたなかで、世に国際化の波が押し寄せたタイミングで、やっぱり講演会も日本を飛び出します。海外です。

 何の使命にかられたのか、文藝春秋は戦前の菊池寛さんの頃から必死に毎年講演会をひらいていました。うちのブログでもたびたび触れているのは、それは直木賞も、その「文化講演会」の試みも、菊池さんやら佐佐木茂索さんやらその他、周辺にいた文春社員たちの手によって事業化されたものだからです。

 その文春が、全国各所のみならず海外に講演会の会場を求めたのは昭和47年/1972年の年からでした。こんな感じです。

日程 講演名 場所 講師
昭和47年/1972年
6月16日~28日
『文藝春秋』創刊50周年記念文化講演会 ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、ミラノ、パリ
  • 司馬遼太郎
  • 江藤淳
  • 池島信平
昭和49年/1974年
10月19日~26日
海外文化講演会 サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク
  • 柴田錬三郎
  • 城山三郎
  • 山崎朋子
昭和51年/1976年
10月19日~26日
海外文化講演会 バンクーバー、メキシコシティ、ロサンゼルス、ホノルル
  • 高木俊朗
  • 戸川昌子
  • 村上元三

 ちなみにこのあとも、同様の海外での講演会はまだまだ開催されていくんですが、ひとまず今週は最初の3回のみを挙げておきます。

 これを見てわかることといえば、直木賞の受賞者のほうが、もう一つのアクタなんちゃら賞より重宝されていることです。

 海外向けの講演会は、現地にいる日本文化・日本文学に関心のある外国人も想定された聴衆の一群ではあったみたいですが、基本的にはそれらの地域に住む邦人の駐在会社員、学生などが主たる対象です。

 ハナシによればどの会場も大盛況で、パリでは800人が集まり入場制限がかかった、とも言います。日本の地方都市の人口ぐらい、当時すでに海外の街には日本人が住んでいた……といえるかどうかはわかりませんが、ただ、日本の情報や文化に飢えた気持ちの邦人に、文学のこむずかしいハナシよりも、もう少しくだけた話題を提供できる、しかも名前も知られている有名作家を連れていきたい! となったときに、おのずと直木賞の受賞者たちにお声がかかったんでしょう。直木賞、やってて無駄じゃなかったんですね。

 ちなみに、このとき海外での講演会を仕掛けたトップは、社長の池島信平さんでしたが、池島さんには講演会について綴ったエッセイがあり、こんなことを書いています。

「テレビがいくら普及しようが、やはりナマの話やナマの印象は強いものである。文芸講演会という形式は、これからも地方の人々によろこばれ、つづいてゆくことだろう。」(昭和48年/1973年6月・文藝春秋刊、池島信平・著『池島信平文集』所収「文芸講演」より ―初出:『中部日本新聞』昭和36年/1961年6月14日)

 テレビの普及から、いまではインターネットの普及になりましたが、文芸に関する講演はいまでもいろんなところで行われています。直木賞はそのうち廃れていくだけの右肩下がりの運命かもしれませんけど、講演会にそんな日が来ることは、相当遠い未来までなさそうです。

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2026年9月 6日 (日)

昭和58年/1983年、近ごろは面倒になって講演の話もほとんど断わっている、と池波正太郎はいう。

 「講演は、その人を映す鏡」ということわざがあります。

 ほんとうに、そんなことわざがあるんでしょうか。だいたい、こういうカッコつけた書き出しをするもんに、ロクなヤツはいない、というのが人間社会の真理でしょう。ワタクシは、文学賞に興味をもっている段階ですでにロクな者ではないんですが、これよりさらに人間のレベルが下がらないように気をつけたいと思います。

 さて、そんなハナシはどうでもいいです。直木賞の受賞者、候補者、選考委員は、もはや誰も調査し尽くせないほどの講演を、さまざまな土地で、さまざまな人たちに向けてやってきているわけですが、講演会というものにどう相対するか、その姿勢は十人十色、おのずと個性がにじみ出ます。

 たとえば今週取り上げる池波正太郎さんは、後年たくさんの人に読まれたエッセイからもうかがえますけど、まあ、個性のカタマリのような作家です。

 大正生まれの戦前育ち、苦労しながら劇作そして小説創作を勉強しはじめ、新鷹会のお兄さんがたの猛烈な期待をしょい込むかたちで、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞を受賞します。

 その後、中間小説誌、あるいは週刊誌全盛時代の申し子の一人として、多くの読者に愛される人気作家となっていくんですが、こうなると小説書き以外にもさまざまな仕事が舞い込んでくるのが世の習いです。池波さんのところにも、講演の依頼がいくつかやってきて、「おれはそんな面倒なもんは受けねえ!」などと、タンカを切るほど我がままではなく、頼まれればネタを用意して、与えられた時間はまじめにこなす。律儀なところを発揮します。

 律儀というか、あるいは不器用だったのかもしれません。講演に呼ばれていくときの自分の姿勢を、池波さんはこんなふうに書いています。

「私は、目的以外のことを、

「ついでにやる……」

ことができない。

たとえば、出版社の講演旅行を三、四日つづけるとなれば、講演以外の事は絶対にしない。

講演する土地が、いま自分が執筆している小説の舞台になってい、見たり調べたりすることがあっても、ついでにはやらない。あらためて今度は取材のために同じ土地へ来る。」(昭和56年/1981年7月・新潮社刊、池波正太郎・著『旅は青空』「アルルの酒」より)

 ついでにやる、という気持ちじゃなくて、講演と取材、二つの仕事を同じくらいの温度感でやればいいだけのハナシなのでは……と思わないでもありませんが、人間、そう簡単に気持ちがつくれるものじゃない、というのもわかります。それだけ講演のときは、講演のことで頭をいっぱいにして集中する、ということなんでしょう。

 おなじみ文藝春秋の文化講演会にも何度か呼ばれました。自作で舞台にした土地からは、先生、ぜひ来てくださいと言われて、忙しい執筆のあいまを縫って、旅をしたりもしました。はなから講演を毛嫌って、なるべくそういう雑事から逃れたい、ということでもなかったようです。

 しかし、池波さんは1980年代ごろには、講演の依頼を極力断わるようになった、と言っています。自己分析によると、それは年齢ゆえのことのようです。

「人にもよるだろうが、私の場合は、小説を書いて暮していると、どうしても人びととの交際がおろそかになってしまう。

それでも若いうちは、酒を酌みかわす友人もいたし、つきあいの時間も現在よりは豊かだった。

しかし、齢をとるにつれて、そうしたことが、だんだんに面倒となり、酒飯のつきあいのみではなく、たとえば講演のようなものをたのまれても、十年ほど前までは年に七、八回は出かけていたのに、ちかごろはほとんど断っている。」(平成15年/2003年6月・講談社刊、池波正太郎・著『作家の四季 池波正太郎未刊行エッセイ集5』所収「年賀状」より)

 このエッセイが収められた『作家の四季』によると、これは昭和58年/1983年に書かれたもののようで、池波さんはおおよそ60歳ごろ。まだそんなに老け込む年でもない気がしますが、年をとるにつれて若い頃には何でもなくこなしていたことが徐々に面倒になる、という気持ちはよくわかります。それから7年ほど、池波さんは生きましたが、つまり50代後半から亡くなるまでの晩年は、ほとんど講演というものに出なかったそうです。

 50代後半からの晩年……ということで思い出されるのが、池波さんが直木賞の選考委員をやっていた時期です。

 池波さんが選考委員になったのは、まさにちょうどその頃、第86回(昭和56年/1981年・下半期)からですから、58歳のときです。そもそもが律儀な人だったらしいので、候補作はきちんと読み、選考会ともなれば相当真剣に向き合った、と伝えられていますが、何といっても、講演に行くのも面倒になっちゃった頃に引き受けたお役目です。きっと直木賞も面倒なことの一つだったんじゃないか、と申し訳ない思いでいっぱいです。

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2026年8月30日 (日)

昭和38年/1963年に直木賞で落選した梶山季之、その翌年から文藝春秋主催の講演会の常連となる。

 先週は五木寛之さんを取り上げました。作家とは物を書くことばかりが仕事じゃないんだ、と言わんばかりに、講演だって表現手段の一つなんだから、れっきとした「作家のお仕事」だという方向性を打ち出した人です。

 人前に出て、ある程度のスジをもったハナシを、まとまった時間しゃべることができる。……全国各地で文芸講演会というものが多く行われるようになればなるほど、そういった才能のある作家は重宝されます。

 それがベストセラー作家となれば、なおさらです。本がたくさん売れて名前が通っている。そういう人は講演をやっても人が呼べるからです。

 昭和から平成、令和と数々のベストセラー作家が現われ、あまりオモテに顔を見せない人も少なからずいましたが、積極的に講演仕事を受けて東奔西走、全国をめぐりめぐった人もいます。たとえば梶山季之さんです。

 梶山さんがどの程度、講演の数をこなしたのか。具体的な数は、すみません、ワタクシにはわかりません。

 ただ、直木賞の候補になった第49回(昭和38年/1963年・上半期)の段階で、すでにトップ屋として文藝春秋とはズブズブの関係にあり、『黒の試走車』(昭和37年/1962年・光文社/カッパ・ノベルス)をはじめ、本から雑誌から原稿を猛烈に書きまくる筆の力はよく知られるところ、まず下馬評では有力候補のひとりと目されていながら、けっきょく直木賞を受賞させることができなかった、直木賞史上にいくつか残る汚点のひとつとして、いまも語り継がれています(たぶん)。

 いまの世のなかだったら、2度、3度、と候補に挙がっているうちにそのうち、梶山さんも直木賞受賞者になったかもしれません。しかし、昭和38年/1963年ごろには、いちおう直木賞は新人賞なので、その受賞をもって世間にお披露目をするという役割がある、だから名が知られたり将来にわたって小説をガシガシ発表していく手づるに事欠かない売れっ子は、もはや直木賞を送る意味がない……といった考え方が残っていた時代でもあった、と洩れ聞いています。

 その意味では梶山さんが2度め以降の候補入りから(意識的には無意識的にか)外されたのは、とくに理由のないことではありませんし、直木賞をもらわなくたって、その後、読者にわくわくドキドキを提供する娯楽小説を大量に提供できたのだから、直木賞などというお墨付きは梶山さんには不要だった、と言っちゃってもいいと思います。まあ、梶山さんは直木賞をけっこう欲しかったみたいですけど。

 しかしそれはそれ、直木賞に落選しようが、それは別に文壇からハブられたことを意味しません。逆に活発・活動的な梶山さんは、講演会の主催者にとっては呼びやすく、名も売れている、話題も豊富、ユーモアもある、と講演にはうってつけの作家になっていきます。

 『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』(昭和56年/1981年5月刊)にある「梶山季之完全年譜」を見ると、昭和38年/1963年9月のところに第49回直木賞の落選のことが出ていますが、その翌年から毎年のように「文春講演」という項目が入っています。

日程 講演名 場所
昭和39年/1964年
5月
文春講演 山陰地方
昭和40年/1965年
3月
文春講演 北九州地方
昭和41年/1966年
4月
文春講演 山陽地方
同年
5月
文春講演 北陸地方
同年
6月
文春講演 近畿地方
昭和42年/1967年
2月
文春講演 沖縄地方
同年
3月
文春講演 近畿地方
同年
5月
文春講演 九州地方・近畿地方
同年
10月
文春講演 九州地方
昭和43年/1968年
4月
文春講演 四国地方
同年
6月
文春講演 九州地方
同年
7月
文春講演 中部地方
昭和45年/1970年
6月
文春講演 東北地方
昭和46年/1971年
5月
文春講演 北陸地方
昭和47年/1972年
11月
文春講演 関東地方
昭和48年/1973年
4月
文春講演 北九州地方
同年
9月
文春講演 山陰地方
昭和49年/1974年
5月
文春講演 南紀地方

 そして昭和50年/1975年5月、取材先の香港で吐血し、45歳で亡くなりました。

 文春の講演というのは作家に対する慰安旅行のような性格も兼ねていたとは思いますが、これだけひんぱんに駆り出され、おお、行く行く、と本人も乗り気で縦横無尽に駆け巡ったのですから、カジさん、働きすぎだよ、とまわりからさんざん言われた、という逸話があるのもうなずけます。

 この『追悼文集』には、講演会にまつわるエピソードもいくつか入っていますが、文藝春秋の名物社員だった樋口進さんは、こんなことを書いています。

「その日の聴衆を見て講演内容を決めるのはなかなか出来ないことだが、梶山さんはそれが出来た一人である。」(『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』所収 樋口進「文チン対漫チン」より)

 だれもができるわけじゃありません。梶山さんが小説を書く能力とは別に(あるいは関係があるのかもしれませんが)備えた一種の才能でしょう。デキる作家、梶山季之は、デキル講演者でもあった、というわけです。

 まあ少なくとも、第49回の直木賞を受賞したおジイちゃん佐藤得二さんには、これだけ精力的に物語を生み出し、全国を講演してまわるパワーがなかったのは、たしかなことでしょう。第49回の直木賞が梶山さんに授賞できなかったのは、やはり、あーミスっちまったな直木賞、と後世に伝えつづけるべき失敗だと思います。

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2026年8月23日 (日)

直木賞をとって有名になった五木寛之、講演会に呼ばれれば積極的に全国を飛び回る。

 直木賞がどうしてこんなに多くの人に知られる存在になったのか。それはもう石原慎太郎さんのおかげです。

 ときは昭和31年/1956年ですから70年まえのハナシで、別にワタクシもその現場に立ち会ったわけじゃないので、どの程度の爆発だったのかは文献で知るしかないんですが、そりゃまあ、石原さんがナンチャラ賞をとったそのあとからの数か月か1年ぐらいは、すさまじい騒ぎだった、と言われています。

 まだ大学に通っていた頃のちょっとスマートな青年が、文壇ではスゴいとされている新人賞をとった、しかもその作品のなかみが、古い世代のジイさんバアさん辺りが眉をひそめるような、暴力と無軌道を当たり前のようにさらしている若い男女の生態を描いたものだった……ということで、世間もマスコミもギャーギャー騒いだんだそうです。

 突如現われた現代のヒーロー、石原慎太郎、ということでそのハナシが紹介されるときに、たびたび出てくるのが講演会のエピソードです。

 いわく、ナンチャラ賞をとったことで、全国各地で行われる文化講演会の講師の一人となった石原さんが、壇上に現れると、若い女性たちがキャーキャー黄色い声を上げて、それはもう従来の講演会の様子とはかけ離れた、映画スターかアイドル歌手の舞台公演かのような雰囲気になった、というヤツです。なるほど、そんなこともあったんだろうな、とは思います。

 しかし、だいたい先に話題になるのは、直木賞じゃなくてもう一つの賞だ、というのは、覆すことのできない歴史的な事実です。「ワーキャー人気」もその例にもれず、直木賞にそういう状況が訪れるのは、それから10年あとの第56回(昭和41年/1966年・下半期)まで待たなくちゃいけません。

 直木賞を見るというのは、イコール待つことである、という至言があります。

 1度や2度候補になったぐらいじゃまだまだ青い、候補を重ねるのを待たなきゃいけないとか、発表時刻は常にナンチャラ賞のほうが先で、直木賞の発表はそれから数十分待たなきゃいけないとか、選評が読めるのも先に世に出るのは兄弟賞のほうなので、直木賞の選評を読むのも待たなきゃいけないとか、とにかく直木賞ファンは多くの場面で待たされます。これはもう仕方がありません。

 で、それはそれとしてワーキャー人気の件です。

 奇しくも石原さんとまったく同じ年の、同じ日に生まれた男が、10年のときを経て今度は直木賞に「ワーキャー」を持ってきてくれました。五木寛之さんです。

 直木賞をとったとき、五木さんは34歳。青年というにはちょっと薹が立っている気もしますが、でもやっぱり若々しくて凛々しいビジュアルをしていましたし、公衆の前に出ていくことを厭うタイプの人ではなかったので、顔も売れて、行く先々でワーキャー言われた……と伝えられています。

 これもまた五木さんの受賞は60年近くまえのことですので、ワタクシは目撃したわけじゃありません。すべてが誰かの受け売りです。

 受け売りではあるんですけど、過去の直木賞とその周辺のことをすべて目にして体験した、という人間は、残念ながらいまの世の中、ひとりも存在していません。けっきょくのところ、直木賞のことを語る場合は、ほんのちょっとの自分自身で知り得たことと、だれかの受け売りにならざるを得ず、そこはあきらめて、だれかの言っていることを拾い集めて、直木賞とは何なのかを考えていく他ありません。

 ハナシがまた逸れてきました。講演会のことに戻します。

 作家のなかには、講演が苦手だ、小説家なら小説を書くことが本業でそれ以外は極力避けて通りたい、という人が一定数存在します。それはそれでいいんですけど、直木賞にワーキャーを起こした救世主、五木さんはそれとはまったく別の考えを持つ人でした。

 自分の考えていることを文章で伝えることと同じように、直接、人の前で話をしていきたい。ものすごく講演会に積極的な姿勢を打ち出します。

 直木賞をとり、直木賞の選考委員にもなってから相当経った後年のことですけど、五木さんに「わが講演に悔いなし」という文章があります。講演というものに対する五木さんの考えを表したものです。

「講演というものを、私はこれまで仕事と考えたことがない。辻説法だと思っている。自分の考えていること、感じていることを、対面して人びとに伝える。そのために自分で会場を借りたり、人を集めたりする必要がないというのは、じつに有り難い。

言いたいことがあれば文章を書けばいいではないか、という意見もあるだろう。だが、私はそうは思わない。話を聞きに集まってくる人びとは、必ずしも活字に親しんでいる読者ではないのだ。いや、本を読まない人たちが多いからこそ、しゃべりに出かけるのである。」(平成18年/2006年7月・講談社刊『新・風に吹かれて』所収「わが講演に悔いなし」より)

 平成31年/2019年2月に東京堂出版から出た『作家のおしごと』でも「講演について」と一章を割き、みずからのたどってきた仕事の重要なひとつに講演を位置づけています。

 何だか、ここまで行ってしまうと、直木賞がどうのこうのとかは関係ない、えらく遠い世界の人物のようです。こういう化け物級のエンタテイナーを生み出してしまったのも、直木賞の功ないしは罪、どっちなのかわかりませんが、直木賞があったからこそ出現した現象なのは間違いないでしょう。

 直木賞をとる。それを契機に発生する「講演のお仕事」をまったく嫌がったり拒否したりすることなく、みずからの表現手段の一つとして全国各地を飛び回る。それによってまた、直木賞というものの存在も、五木さんのおかげで各地に広げていってもらえる、という寸法です。あるいは、直木三十五さんや菊池寛さんも、こういう作家の誕生を待ち望んでいたかもしれません。

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2026年8月16日 (日)

邱永漢、株の講演会で、文芸講演会をしていたころより5倍も10倍も聴衆を集める。

 講演会とひと口でいっても、その種類は多種多彩です。

 うちのブログで取り上げているのは「文芸」にまつわるもので、実態は単なる世間話か思い出バナシか、そういうものであったとしても小説家を演台に立たせている以上、多少は「文芸」の講演が期待されています。

 ただ、それ以外の他の事柄、人間が関心をもつありとあらゆるジャンルをテーマに講演会は開かれつづけています。一回ぽっきり、エラい先生のお話を聴いただけでいったい何になるのか、よくわかりませんけど、何百人と聴衆を集める講演会は珍しくはありません。生身の人間がしゃべっているのを、目前できちんと見ながら話を聴く。そういう経験を重要視する感覚は、オンライン全盛の現在でも残っているのかもしれません。

 それはそれとして、直木賞です。対象となるのは、かつて戦前には戯曲も入っていたことがありましたが、おおよそ小説です。受賞するのは小説家、ということで関係する講演会も「文芸」をテーマにしたものが中心になります。

 しかし、何といっても直木賞は無駄に歴史が長いので、これまでいろんな人が候補になり、いろんな人が受賞してきました。小説家として人生をまっとうした人ばかりではなく、直木賞をとったあとに紆余曲折を経て、また別の方面で有名になった人もけっこういます。たとえば邱永漢さんです。

 邱さんのことも、うちのブログでは何度も取り上げてきました。第34回(昭和30年/1955年下半期)の直木賞を受賞したのが31歳のときで、それからしばらくは物書きとして活躍したものの、『金銭読本』(昭和34年/1959年・中央公論社刊)の評判がよかったことをきっかけに株を勉強しはじめ、積極的に株式投資の世界に進出し、みずからビジネスを興し、失敗し、そういったなかで経営コンサルタントを看板に掲げたりしておカネを稼ぐほうにシフトを移していった末に創作をやらなくなったという、直木賞史のうえでも独特な道を歩んだ人です。

 ということで邱さんは、はじめの頃は直木賞を受賞した作家として、いわゆる文芸講演会の演者になっています。直木賞受賞から約2年後、昭和33年/1958年に井上靖さん、檀一雄さん、森田たまさんといっしょに高知に招かれて講演をした、という記録が残っています。

 おそらくそのときのエピソードだと思うんですが、邱さんはのちに回顧し、

「私は、檀一雄さんや井上靖さんたちと土佐の高知に講演旅行に出かけたことがあるが、檀さんは居並ぶ主催者や知人たちのいる前で、

「この人は、二、三年前は、もう文学なんかやめて香港へ帰るといっていたんですよ。僕がこの人の文学的才能に手形を書き、佐藤春夫先生が裏書をしたのに、まだだめだといってね」

と私をひやかした」(昭和46年/1971年10月・徳間書店刊『邱永漢自選集VIII 私の金儲け自伝・日本天国論』所収「私の金儲け自伝」より)

 と言っています。檀さんがどれだけ邱さんを高く評価していたかがわかるハナシです。

 しかし、と言いますか、必然的にと言いますか、邱さんは「小説家」というチッコい肩書きでの仕事には満足せず、物書きのために用意された狭くて安い世界を抜け出して、投資家として名をならします。すると今度は、そっち方面からの講演依頼もぞくぞくと舞い込んでくるようになり、そちらでもずいぶん場を沸かせたようです。

 文芸講演会から投資講演会への移行に関して、先述の「私の金儲け自伝」から邱さん自身の言葉を引いてみます。

「私は小説の次に株式投資を選んだが、世の中で株式投資に関心を持つ人は小説を読む人よりも数が多い。小説家として私は、しばしば、講演会にひっぱり出されたことがあるが、株の講演をするようになると、その五倍も十倍も聴衆が集まった。そんなとき、私はそれを自分の人気のせいだとは思わないで、聖徳太子さまの人気のせいだと思うことにした。いついかなる時代でも、お金は一番人気がある。その人気にあやかって、生活をしていく方法もある。」(前掲「私の金儲け自伝」より)

 喩えに「聖徳太子」を使っているところが時代を感じさせますが、株の講演会というのはずいぶん集客能力があったようです。そういうものをまざまざと体験したら、とうてい小説を書くことや、それに付随するチマチマした仕事に戻る選択肢が、邱さんの頭からなくなったのも自然でしょう。

 ということで、小説家は大して儲からない、お金を稼ぐには他にいくらでも道がある、という邱さんお得意の主張が活きてくるわけです。これは聖徳太子のころも渋沢栄一になっても、あまり変わらないかもしれません。

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2026年8月 9日 (日)

昭和38年/1963年、杉本苑子が直木賞受賞直後に母校で講演会の壇上に立つ。

 直木三十五さんの作品は、いまではもうほとんど読まれていません。

 いや、直木さんだけじゃありません。直木賞を受賞した人はこれまで200人以上いますが、死んだあとならなおさら、存命であっても、広く読まれている作家がどれだけいるんでしょうか。長く読まれるか、そうでないか。けっきょくのところ文学賞とはあまり関係がなく、いま読まれているかどうかを直木賞のテーマとして語るのは、正直、おカドちがい感が拭えません。

 といった書き出しで、この人のことを取り上げるのが合っているのかよくわかりませんけど、今週の主役は杉本苑子さんです。

 第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞を受賞して、現役時代は小説だのエッセイだのを書きまくり、その後にいくつかの大きな賞もとって、紫綬褒章から文化功労者、文化勲章と、何だかエラそうに見えるアレコレも次々に贈られました。

 平成29年/2017年に没。来年で没後10年になります。とりあえず、いまも改版されたり再版された文庫が新刊で手に入るので、もうしばらくは読みつづけられる作家……なのだと思います。

 それで、杉本さんと講演会……ということなんですけど、まずは講演に対して杉本さんはどんな考えを持っていたのか。小説家は小説を書けばいいのであって他のことはなるべく排したい、と考えていたようで、われがわれがと積極的に人前に出ていくタイプではなかった、と伝えられています。

 たとえば杉本さんは、自分は小説家だ、だから小説には楽しく挑めるけど、随筆は苦手なんだと表明した「モグラのひとりごと」(初出『流動』昭和49年/1974年7月)というエッセイがあります。こんなふうに言っています。

「小説家は、小説を書くべきであり、小説家にはまた、小説を書かせるべきであるというのが、私の持論である。

随筆、脚本、評論、紀行、対談、講演、座談会、テレビ、ラジオ、あるいはインタビューしたり逆にコメントを取られたりというように、現代のごとくマスコミが発達し多様化し、出版物の数がおびただしくなると、しかし、とても、

「小説家は、小説だけ」

 というわけにはいかなくなる。さまざまな分野での仕事をいやおうなく押しつけられ、消化しなければならないのが現状だが、少し厳密に、あるいは良心的に考えると、こうした現象は、よいこととは思えない。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊『片方の耳飾り 随想集』所収「モグラのひとりごと」より)

 本来的にいえば、小説家は小説だけ、というのが理想であって、自分もまたその路線で生きていきたい。だけども、現代社会ではそれでは成り立たない。と言っています。

 いまでもきっと、事情はそこまで変わっていません。マスコミそのものの発達・多様化は、50年近くに比べたって相当様子が変わっているはずですが、小説だけ書いていたい人はけっこういるでしょうし、そんな小説家を人前に立たせたがる人たちも一定数います。「講演したくない」と「お願いしたい」とのツバぜり合い。これも、昭和から平成・令和につづいてきた文芸周辺の、歴史の一端でしょう。

 それはそれとして、どうして杉本さんのハナシをわざわざ取り上げたかといえば、杉本さんが直木賞を受賞した昭和38年/1963年1月、受賞発表のわずか4日後に、おそらくかなり熱心にせがまれて、講演会を開いているからです。

日程 場所 催事名 講師
昭和38年/1963年
1月26日
駒沢学園記念講堂 直木賞受賞記念講演会 杉本苑子

 1月26日というのは、駒沢学園にとっては道元禅師の誕生日に合わせて学園の誕生を記念する大事な「誕生記念日」だということで、まさに直木賞を受賞したばかりの、駒沢学園(駒沢高女)出身者、杉本さんにお願いして講演に来たもらった……ということのようです。

 当日は、受賞作となった『孤愁の岸』で描かれた濃尾平野の治水工事に関してを語ったそうで、

「これらのこと(引用者注:『孤愁の岸』に描かれた話)を事実とフィクションを織り交ぜて長時間にわたって話しつづけた杉本苑子は話術の方も「超一級」であり、教員も生徒も始終、水を打ったように熱心に傾聴した。」(昭和62年/1987年10月・駒沢学園刊『駒沢学園六十周年史』より)

 と、さっと壇上にあがってテキトーに短時間ですませるのではなく、きちんと講演に当たったことが記録として残っています。

 いまに置き換えてもそうでしょうが、当時だって、相当ネジ込んだ感のある講演だったに違いありません。だって、受賞が発表されてすぐに依頼したとしても、杉本さんには3日しか準備期間がなかったんですよ。よくぞ受けたものですし、あるいは、よほどの母校愛があったんじゃないか、とも思います。

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2026年8月 2日 (日)

昭和33年/1958年に「芥川賞作家講演会」が開かれ、2年遅れて「芥川・直木賞記念講演会」が催される。

 芥川龍之介さんが死んだとき、文藝春秋社は追悼講演会を開きました。それなのに直木三十五さんが死んだときには、似たような追悼企画をやった形跡がありません。代わりに、文学賞をつくることで直木さんの追悼としたのでした……といったようなことを、何週か前に書いた覚えがあります。

 要は、直木賞とアクタ何とか賞、創設の頃から二つの賞は並び称される存在で、正直、両賞に違いがあろうがなかろうが、どっちでもいいハナシではあるんですけど、こまかく見ていけば、直木賞には片一方にはない特徴があるし、逆もまたそうだ、みたいなことが講演会についても当てはまるのだということです。もちろん、そりゃそうです。

 直木賞ともう一つの賞は、扱う対象の作品種別が違う、ということ以外に、さまざまな違いがあります。両賞の違いについては、うちのブログでもけっこうコスッてきました。ただ、どうしても心が傷んでくるのを抑えられません。昭和の半ば(ひょっとしたら昭和の終わりごろ)まで、直木賞はいーっつもアクタ何とか賞の影に隠れた……隠された存在だったからです。

 なんだか、うちのブログを始めた十数年前から、こんなことばっかり書いている気がします。

 ワタクシもときどき、リアルな世界で、おれは・わたしは文学について一家言あります! といった他人と、直木賞のことを語り合う機会をもったりします。しかし、いくらこちらが「直木賞はかわいそうだ、歴史的にもう一つの賞に比べてあまりに扱いがひどすぎる期間が長かった!」と主張しても、ほとんどの相手はぽかんとして、何いってんの、このキモいおじさん、という目で見られてばかりです。もしかしたら、ワタクシの感覚がよほどズレているのかもしれません。

 だけど、何度でも、何十度でも、繰り返して書いておきます。どうして直木賞は、これほどわきに追いやられなければいけなかったんだ。どう見てもカワイソすぎるだろ、と。

 文藝春秋社の頃から講演会は、この会社のおはこのイベントでしたが、戦後、社長が佐佐木茂索さんになって文藝春秋新社と組織が変わっても、やはりその伝統が受け継がれます。毎年恒例、全国各地で作家や文化人たちによる講演会をひらく催しは、昭和27年/1952年に復活し、その後、えんえんと行われました。

 その講演会の講師として、直木賞やもう一つの賞の受賞者も駆り出された……というところが、直木賞が講演会と縁ぶかい文学賞だと言える大きな理由なんですけど、文春の社史『文藝春秋七十年史』(平成3年/1991年12月・文藝春秋刊)を見てみると、その名もずばり、文学賞の名前を講演会のほうにも掲げて、定期的に大きな会場をおさえてイベントをやっていたことがわかります。

 こんな感じです。

日程 場所 催事名 講師
昭和33年/1958年
7月26日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 石川達三
  • 井上靖
  • 遠藤周作
  • 石原慎太郎
  • 大江健三郎
昭和34年/1959年
2月14日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 佐藤春夫
  • 堀田善衛
  • 松本清張
  • 五味康祐
  • 芥川比呂志
昭和35年/1960年
2月15日
東京産経ホール 芥川・直木賞記念講演会
  • 丹羽文雄
  • 開高健
  • 邱永漢
  • 戸板康二
  • 司馬遼太郎

 いったいどうして昭和33年/1958年夏に、このような催しを計画することになったのか。調べていけば、きっとこれぞという開催理由が見つかるかもしれませんが、上記社史の本文ではくわしくは触れられていません。

 ただ、昭和33年/1958年のトピックスとして、第38回(昭和32年/1957年・下半期)のアクタ何とか賞における開高健さんと大江健三郎さんの一騎打ち(結果、開高さんの「裸の王様」が受賞)と、翌第39回(昭和33年/1958年・上半期)大江さんの受賞のことに結構な行数が割かれています。

「石原慎太郎以来、というよりも、受賞のその日からマスコミ沙汰となったのは、この一騎打ち以後としたほうが正確であるかもしれない。

(引用者中略)

大江もまた、開高以上に、マスコミに追われる身となったことはいうまでもない。芥川龍之介の名を冠する賞にこれほどふさわしい若き鬼才はいないと、だれもが感じとったからである。それと選考委員会で、もはや新人に非ず、賞の資格なしと強硬に主張する委員もあり、かなり揉めたことが伝えられていた。そのこともあずかって話題を大きくした。」(『文藝春秋七十年史』より)

 開高さんの受賞でマスコミの異常な過熱ぶりが噴出したのが昭和33年/1958年1月。大江さんのすったもんだの受賞が決まったのが同年7月21日。そして「芥川賞作家講演会」に、いま話題の受賞者ということで大江さんが演台に立たされたのが、それから一週間も経たない7月26日です。

 こんな急ピッチな出番を、よくまあ大江さんも受けたものだな、と思いますが、それはともかく、石原さんから開高・大江ご両人の受賞が、ジャーナリズムにとって、あるいは文藝春秋新社にとっても、アクタ何とか賞が相当おいしい飯のタネになるぞと気づいて、はあはあゼエゼエよだれを垂らしてガッつきはじめたことはわかります。

 それに比べて、直木賞はどうだったか。いや、直木賞だって十分マスコミに取り上げられて話題になっていたはずだ、というのは、ワタクシも理解できるんですけど、でもどうして講演会を開くときに、アクタ何とか賞にスポットを当てるのが先で、昭和35年/1960年になってようやく両賞並列の企画にしたのか。そりゃないぜ、文春の企画担当者よ、とまた今週も愚痴を言いたくなりますが、1960年前後、直木賞がどう見られていたのか、こういうところにも一端が表われているものとして、黒歴史のひとつとして挙げておくことにします。

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