2026年7月12日 (日)

第175回(令和8年/2026年上半期)直木賞を予想するふりして運勢占いしてみる。

 近年、直木賞を楽しむためには「予想」というものが不可欠になりました。

 いや。不可欠というのは、さすがに言いすぎですね。いったい何が受賞するのか、事前に予想などしなくても直木賞が十分に楽しめるイベントなのはたしかです。

 ただ、なぜなんでしょう。直木賞の決定日が近づいてくると、おのずと自分で予想したり、人の予想を聞きたくなってくる。心理学的に「直木賞予想症」とも言われるこの摩訶不思議な心の動きは、きっと少なくない数の現代日本人が抱えていると思われます。ワタクシもそうです。ほんとに不思議で、心が躍る、くだらない心理現象です。

 ところで、直木賞の予想というのは、いったい何の意味があるんでしょうか。

 おそらく天気予報だとか、運勢占いだとか、そういう類いのものだと言って間違いありません。何だか気になるから、つい目をとめる。だけど、結果が外れたからといって、「おい、あんたの予想を信じて高い単行本を買ったのに、なんだよ受賞しなかったじゃないかよ、責任とれよ」と文句をつけたところで、お金を返してくれるような殊勝な予想屋は、たぶんいません。

 その程度といえば、その程度のものです。あと数日たてば結果が判明するものに対して、わざわざ予想することに大した意味がないのは自明のハナシです。

 ということで、うちのブログも無責任な予想屋さんを真似てみることにしました。

 図書館から何冊か占いの本を借りてきましたので、候補者それぞれの令和8年/2026年7月15日の――第175回(令和8年/2026年・上半期)の選考会が開かれる日の運勢を占ってみます。

 運勢もいろいろと種類が細分化されているようです。受賞すれば100万円がゲットできるので、まずは「金運」。

 それから、直木賞を受賞したということになれば先の仕事もどっと増えるはずなので「仕事運」。

 恋愛運とか健康運とかは、さすがにあまり直木賞には関係ないかということで飛ばしまして、最終的にその日、その人の総合的な運勢。それらを並べて、今度の直木賞の受賞作を予想してみます……いや、占ってみます。

金運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『青天』 努力が実を結び、思いがけない収入やうれしい臨時収入のチャンスが訪れるかも。大きなお金の動きがある場合も、冷静な判断がさらなる豊かさを引き寄せます。
2 『けんぐゎい』 安定した金運です。大きな利益よりも、良い買い物ができる・お得な情報を得られる将来に役立つ出費ができる、といった「満足度の高いお金の使い方」ができそうです。
3 『見えるか保己一』 安定した金運です。臨時収入よりも、将来につながる自己投資・必要なものを良い条件で購入できる・家計や資産管理を見直す、といった行動が吉となります。
4 『多類婚姻譚』 大きな波はありませんが、安定しています。衝動買いよりも、将来のための貯蓄や自己投資などが満足につながります。お得な情報や割引に縁があるかも。
5 『#台所のあるところ』 金運は一時的に足踏み気味ですが、大きなトラブルを示す運気ではありません。家計の見直しや財布の整理をすると、停滞していた運気が少しずつ動き始めそうです。

 何はなくともおカネは大事です。直木賞を創案した菊池寛さんも、昭和初期の『文藝春秋』のみなさんも、直木賞をつくる理由の一つが、作家におカネをあげること、だったのですから、「金運」を持っている人は、選考会でも上位にくるはずです(たぶん)。

 さすがに7月15日当日に、バカバカ無駄づかいしておカネを減らそうという候補者はいない、とは思うんですけど、そしておカネに困っているような候補者もいないとは想像しますけど、占い的に「無駄づかい」は厳禁です。

 ……って、そんなこと占うまでもなく、だれにでも当てはまるようなことのような気もします。

仕事運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『#台所のあるところ』 好調な一日です。人をまとめる役割で力を発揮でき、長く温めてきた計画を動かし始めるのに良い日です。派手なアピールよりも、誠実さや細やかな気配りが高く評価されます。
2 『多類婚姻譚』 新しい企画やアイデアが評価されやすい上、長く続けてきた努力に良い反応が返ってくるでしょう。リーダー役よりも、調整役や橋渡し役を意識すると、さらに評価が高まりそうです。
3 『見えるか保己一』 周囲から頼りにされ、また新しい役割やチャンスが巡ってくる可能性が高い一日です。「私にはまだ早いかも」と思うような話でも、前向きに引き受ける価値があります。
4 『けんぐゎい』 集中力が散漫になりやすく、うっかりミスに注意したい日です。慣れた作業ほど確認を怠らないことが大切。焦らず丁寧に進めることで、運気は徐々に安定していきます。
5 『青天』 思い通りに進まない場面が重なりやすい一日です。無理に挽回しようとすると、さらに状況が複雑になる可能性があります。今日は攻めるより守る姿勢を意識し、確認作業や整理整頓など、足元を固めることが明日への飛躍につながるでしょう。

 仕事の運をはかる、というのはなかなか難しい試みです。

 仮に当日の運気が下降してても、たいていの仕事は連続性があるので、翌日にはまた取り返してトントン、なんてことはざらにあります。

 直木賞をとれば、確実に仕事は増えるでしょうが、直木賞をとらなくても仕事が順調に進んで結果問題なし、なんて人もたくさんいるでしょう。そういう人の仕事運はどうランクを付ければいいんでしょうか。占い界の偉い人、教えてください。

総合的な運勢ランキング

順位 候補作 コメント
1 『けんぐゎい』 これまでの努力や人とのつながりが良い形で実を結びやすい一日です。明るさや包容力が周囲に伝わり、人から頼られたり、感謝されたりする場面がありそうです。自分から積極的に動くよりも、自然体でいることが幸運を引き寄せます。
2 『見えるか保己一』 直感と行動力のバランスが取りやすく、普段は迷っていたことに自然と答えが見えてきそうです。新しい挑戦や、人前で自分の考えを伝えることにツキがあります。一方で、周囲への気配りも忘れないことで、さらに運気が安定します。
3 『#台所のあるところ』 周囲との関係が穏やかに進みやすく、これまで誠実に積み重ねてきたことが評価されるタイミングです。急いで結果を求めるよりも、目の前のことを丁寧にこなすことで、思いがけない良い知らせやチャンスが舞い込むでしょう。
4 『青天』 慎重な行動が求められる一日です。大きな決断や新しい挑戦は急がず、情報を集めることを優先すると安心です。今日は「守り」を意識するほど、明日以降の運気につながります。
5 『多類婚姻譚』 この日は思い通りにいかないことが重なりやすく、気持ちが揺れやすい一日になりそうです。しかし、こんな日こそ無理をせず、自分を守る選択をすることが大切。大きな決断は先送りにし、休息や身の回りの整理に時間を使うことで、運気の流れは少しずつ好転していくでしょう。

 ほんとかよ、という感じですが、これが第175回直木賞、選考会の日の運勢です。責任はすべて、神にあります。

          ○

 とか何とか、だらだらと、運勢占いの順位を書いていると、だから何なんだ、とむなしくなりますよね。

 けっきょくのところ、占いにしても予想にしても、むなしさとの闘いから逃れられません。いや、ひょっとしたら、直木賞をとろうがとるまいが、だから何なんだ、という直木賞がまとっている根本的なむなしさも、似たようなものだったりします。

 だいたい候補作それぞれが小説として楽しく読めるんだから、それ以上、運勢もなにもありません。

 今週水曜日、7月15日には選考会が行われます。運勢がどうなのかはともかくです。候補者のみなさんには事故や事件にあわず、平穏無事に一日を過ごせることを願うのみです。

| | コメント (0)

2026年7月 5日 (日)

講演ぎらいの山本周五郎、無理やり頼まれて中央大学出版部の講演(昭和36年/1961年5月)に出る。

 公式の記録のうえで、直木賞の受賞をただ一人辞退した、ということなっているのが山本周五郎さんです。

 どうして山本さんは直木賞を拒否したのか。これまで、いろいろな理由を、いろいろな立場の人が、証言したり回想したり推測したりと、これはこれで、だれかが受賞したエピソードと同じくらいに楽しい様相を見せてくれているんですが、そのなかのひとつに、菊池寛さんへの反発、というものがあります。

 これもすでにうちのブログでは触れたかもしれません。自分のまわりに文学を志望する若い男女をはべらかし、小遣いをやったり世話したりしながら徒党を組んで、いかにも文壇を牛耳っているふうを隠さない。だれかの下に付きたくない山本さんにとっては、できるなら関わりたくない相手だった、ということもあったかもしれませんし、ただ単に菊池さんとは性格的な相性がよくなかっただけかもしれません。

 つまりは、文学っていうものは、文字の羅列によって世界を構築するだけじゃない。宣伝とか、作者の肉声とか、ゴシップとか、賞による権威づけとか、そういう周辺の充実によって多くの人たちに関心を呼び、文学として成り立つことができるのだ……といったようなことを実践した菊池さんと、いいや、おれはそんな瑣末な世事はいっさい捨てて、原稿用紙に向かって小説を書くことで文学をやっていきたいんだ、と思っていた山本さん。相性が合うはずがありません。

 たとえば、山本さんと親密に付き合いを重ねた編集者、木村久邇典さんにこんな文章があります。

「山本周五郎さんほど、小説一本に打込んだ小説家をわたくしは知らない。

(引用者中略)

たとえば山本さんは、持込まれたいっさいの賞をうけなかった。文学賞の審査員にもならなかったし、お祭りさわぎの文士劇に登場したこともなかった。もし出演交渉にいったりすれば、その担当者はただちに出入りを差しとめられてしまいそうな雰囲気が、山本さんの人柄には、あった。」(昭和45年/1970年4月・中央大学出版部刊『定本山本周五郎・全エッセイ集』所収「改題」より)

 賞も文士劇も、菊池寛さんが力を入れてやっていた事業です。文学賞、文士劇、いずれも山本さんがぴしゃりと拒絶したということであれば、文藝春秋社が得意としていた地方をまわっての文芸講演会など、当然、山本さんが引き受けるはずもありません。

 しかし、その山本さんが聴衆を目のまえに講演会を開いたことがあります。企画したのは、やはり山本周五郎といえばこの人、という木村久邇典さんで、その頃企画していた山本さん初の随筆集に講演録も収録する目的で、どうにか山本さんを説き伏せて、中央大学出版部『中央評論』編集部の主催で公開講座が催されました。

日程 場所 講師・演題
昭和36年/1961年
5月12日
中大会館大会議室 山本周五郎
「歴史と文学」

 作家のなかには、人前でしゃべることが得意な人、あるいは好きな人がいます。これまで紹介してきたとおり、菊池寛さんなどはその一人です。

 対して、人前でしゃべりたくないから自分は小説なんか書いているんだ、何の罰ゲームでこんな場に立たせられなきゃならないんだ、と講演のときに不平不満をたっぷり語る人もいます。山本さんは、そちらのタイプでした。さすがに菊池さんとは対照的です。

 対照的どころか、文芸講演会というものについて、当日、山本さんはこんなことをしゃべったそうです。まあ、講演録というものはあとで本人の修正が入って、じっさいの発言とはまるで違うものになることが多々ある、とはよく聞くところではありますけど、いちおう活字として残されている山本さんのハナシなのはたしかです。

「私は、講演会というものはきらいでして、学術会議とか、または教授、助教授が講壇上から、それぞれの課目について講義をなされる場合には、きわめて意味がはっきりしておりますし、聞くほうでも、もちろん目的意識があって、それをはっきり受け取ることができるのですが、文芸講演というものくらい曖昧なものはないんだと思います。

私も若いころ、文学青年時代に、いくたびか、作家、評論家たちの文芸講演をききましたけれども、そういうことをつくづく考えてみますと、文芸講演というものは、演壇にのぼってなにか話をする人たちは、まあ一概にはいえませんけれども、たいてい頭のよくない人たちが、頭のよくないことを、頭のよくない表現で、なにかしゃべっている。――壇の下にいて、その話を聞いていらっしゃる皆さんの中には、壇上の人よりも博学多識で、賢くて多少意地悪な人たちが多い。それがあまり賢くない壇上の人の、あまり賢くない話を聞きながら、クスクス笑ったり、ないしはゲラゲラ笑っている人がある。これが、だいたい文芸講演会というものの実態ではないかと思っております。(笑声)」(昭和37年/1962年1月・中央大学出版部刊、山本周五郎・著『随筆 小説の効用』所収「歴史と文学――社会情勢を正当づける歴史――」より)

 なるほど、「文学青年時代」というので大正から昭和の初めごろ、山本さんも何度か文芸講演会を聴きに行ったんですね。だれの、どんな講演会だったのか、興味はわくところですけど、おおむね聞きながら、「作家とか言っているけど、何も知らない奴だなあ」とか「しゃべり方が下手くそだなあ」とか、そんな印象を持ったんじゃないか、と思わされるような発言です。

 そう考えると、とくに文芸をテーマにした講演会っていうのは、いったい何の意味があるのか。有名な作家、流行の作家がしゃべるから、という動機でわざわざ聴きに行って得られるものなどあるのか。よくわかりません。

 直木賞のハナシからどんどん離れていくので、今週はこの辺でやめておきたいと思いますけど、山本さんの感覚を借りるなら、文芸講演会は頭のよくない人が頭のよくない表現でしゃべるもの。文学賞は頭のよくない人が頭のよくない読解でひとさまの小説を評価するもの。といったところでしょう。

 けっきょくは講演会も文学賞も似たもの同士。小説はだれかが書いてだれかが読む、というそれだけをやっていればいいものを、そこに何らかの意味を持たせたり、作者を書斎からひっぱり出して公衆の面前にさらしたりする、余計なものといえば余計なものです。

 そして、その余計なものっぷりが、魅力の源泉には違いありません。

| | コメント (0)

2026年6月28日 (日)

ウォレス・スティーグナーの講演(昭和26年/1951年1月)で聴講者・小山いと子が手を挙げる。

 直木賞に関連して、という前提で講演会の歴史を見たときに、植村宗一さんによる主潮社の講演、菊池寛さんによる文春講演会と文藝銃後講演会、これらは確実に重要な部類に入ると思います。

 それらと並んで、他にどんなものがあるか。そう考えると、コレなんかも最重要の講演会と言っていいでしょう。ウォレス・スティーグナーさんによる慶應義塾大学での連続講演です。

 うちのブログでも、これまでさんざんコスり倒してきました。相変わらず同じネタの使いまわしで、芸がないのが恥かしいですけど、当然「講演会と直木賞」というテーマでいえば外すことができません。あらためて取り上げておきます。

 ウォレス・スティーグナー Wallace Stegner さんです。はてさて、だれでしょう。

 明治42年/1909年2月18日、アメリカ・アイオワ州生まれ。平成5年/1993年4月13日没。О・ヘンリー賞をたびたび受賞したほか、ピューリッツァー賞(昭和47年/1972年)を受賞した"Angle of Repose"とか、全米図書賞(昭和52年/1977年)を受賞した"The Spectator Bird"などの作品で知られている……のかどうなのか、ワタクシもよくわかりませんが、以前うちのブログでは小説教室のことを調べているときに話題に挙げたことがあります。大学で創作科というものをつくり、自身が作家でありながら、生徒に小説の実作を教えたり論じたりしていた人でもある、ということです。

 そのスティーグナーさんが、ロックフェラー財団から委嘱されて、世界にはたくさんの文学者が活動している、うちがお金を出してあげるから、各地をめぐりながら彼らと交流をはかってきてほしい、とハナシを受けて、昭和25年/1950年8月に家族をともなってアメリカから旅に出ます。

 ドイツ、フランス、イタリア、エジプト、インド、タイ、フィリピンとめぐったのちに、たどりついたのが極東の敗戦国、日本です。昭和26年/1951年1月22日にマニラから羽田空港に到着し、その日の午後には宿泊先の東京・目黒の「雅叙園」に移動して、記者たちを相手に会見を開きました。

 おお、あのキラキラしたカッチョいいアメリカからわざわざ、こんなドス汚い日本のために、ど偉い先生が足を運んでくださった。やった、やった、いらっしゃいませ、と当時の日本人記者たちもうれしかったのかもしれません。ともかくこれが新聞記事になるぐらいには、ニュース価値があることだったようです。

 日本にやってきて、あまり休むひまもなく、スティーグナーさんは慶應義塾の演台に立ちます。そこで何を語ったのか。基本的にはアメリカにおける文学の歴史とか昨今の事情などを話してくれたそうです。

日程 場所 講師・演題
昭和26年/1951年
1月24日から
約1週間(6回)
慶應義塾大学 ウォレス・スティーグナー
  • アメリカ文学の伝統
  • 現代アメリカ文学の主潮
  • 作家志望学生の諸問題
  • 現代米国作家の当面する諸問題
  • アメリカの文藝ジャーナリズム
  • 現在及び将来の文学の国際性

 何ひとつ直木賞なんちゅうクサれ文学賞とは関係がなさそうな講演だったんですが、その聴衆のひとりに小山いと子さんがいたものですから、事件が起こります。

 あるいは、小山さんがいたから、というか、講談社の編集者だった大久保房男さんがその場にいて、何が起きたかの回想を『終戦後文壇見聞記』(平成18年/2006年5月・紅書房刊)に書き留めておいてくれたから、それから70年以上もたって「直木賞」にまつわる講演会の出来事として取り上げることができるわけです。大久保さんのおかげかもしれません。

 同書によると、講演の質疑応答のときに、やおら観客席にいた小山さんが発言を求めて、スティーグナーさんとのあいだにこんなやりとりがあったのだと伝えられています。

(引用者注:小山いと子は以下のように発言した)「わたしが純文学として書いた小説に大衆小説の賞が与えられた」「日本では自分のことを書いた私小説しか純文学とは認めなくて、虚構の小説は大衆小説とされてしまう、それは文学者だけでなく、文藝雑誌の編集者も同じように考えている」

(引用者中略)

ステグナー博士は小山女史に、あなたの高いクオリティーの小説に大衆小説の賞が与えられて、多くの読者に迎えられたことは大変羨しいことである、といったようなことを答えた。」(大久保房男・著『終戦後文壇見聞記』より)

 小山さんが「執行猶予」で直木賞を受賞したのは第23回(昭和25年/1950年・上半期)です。受賞が決まったのは昭和25年/1950年9月4日のことで、もともと小山さんが純文学と見られるフィールドで活動してきたこと、なかんずく「執行猶予」という小説が総合雑誌の『中央公論』に掲載された作品だったことから、ほんとにこれが直木賞でいいのか、などなど、受賞直後から文壇界隈ではちょっとした炎上案件になっていました。

 スティーグナーさんの講演会はそれからまだ半年足らずの出来事です。小山さんもまわりからいろいろ言われて、よほど憤然としていたのだろう、と想像できます。

 しかし考えてみれば、直木賞はたしかに大衆小説のための賞とは言っていますけど、どうして純文学のつもりで書いた小説に与えてはいけないのか。一つや二つそういうものに与えただけで、どうしてギャーギャーとまわりで騒ぎ立てる人が増えるのか。小山さんの例だけでなく、戦前の井伏鱒二さんから始まって、事あるごとにそんなギャーギャー騒動が繰り返されてきました。直木賞をめぐる周辺状況にとっては、おそらく永遠のテーマにはちがいありません。

 その永遠性のある疑問を、たくさんの聴衆がいる講演会の場で、受賞者みずからが提示した、というのは小山さん、グッド・ジョブだったと称えるしかないんですけど、もしかしたらこの辺りの感覚はいまでもあんまり変わっていなくて、たとえば純文学でデビューした人が純文学のつもりで書いた小説に、いま直木賞が与えられたら、おそらくギャーギャー言う人はたくさん出てきそうです。

 今度、そういう例が出たら、当の受賞者がどんな発言をするのか、講演会をやってもらってぜひ観に行きたいと思います。

| | コメント (0)

2026年6月21日 (日)

文藝銃後運動の樺太行(昭和16年/1941年7月)が長谷川幸延に直木賞を受賞させる芽を摘む。

 時代はどんどん進んでいます。

 なのに、戦前の文春がどうとか、菊池寛がどうとか、昔のことをだらだら調べていったい何になるんだ、と思わないでもありません。しかし、どれだけ直木賞が「講演会」と密接な関係だったかを見るには、やはり戦前・戦中をガッツリおさえておかなかいと駄目なんじゃないか。と、強く自分に言い聞かせて、今週も飽きずに、昭和10年代のハナシをつづけます。

 昭和10年代の文藝春秋社といえば何でしょう。何はなくとも、戦争協力です。

 日本がよそさまの国にまでわざわざ乗り出していって、威張りくさった態度で増上慢に振る舞った10年かそこらのあの時期です。菊池寛さん以下、文藝春秋社の人たちも、会社を守るために仕方ないところはあったんだろうとは思いますが、メディアを使って戦意高揚を煽り立てて、イクサだイクサだと拳をぶん回します。

 まあ、これは別に文藝春秋社に限ったことではありません。新潮社も講談社も中央公論社も改造社も、出版社という出版社は軒並み、拳をどれだけ盛大に振りまわすか、競い合っていました。

 そのなかで文春の特徴といえば何なのか。これはもう、会社のトップが顔も名前も知れ渡った有名作家だったこと。これに尽きると断言できます。

 いや。そんな簡単に断言なんかしてはいけません。ボロが出ないうちに、さっさと撤回しておきますが、ともかく文藝春秋といえば菊池寛、菊池寛といえば文藝春秋。それは広く世間が共有していたイメージなのはたしかでしょう。

 で、有名作家が出版社を采配していたから何なのか。というと、人間の動静そのものが注目を浴びています。おかげで、その立ち居振る舞いがそのまま抜群の宣伝効果につながる、ということです。

 これから戦争をやっていこうとするときに、菊池さんは自ら宣伝塔になり得ることを自覚して、かなり積極的に戦意高揚を打ち出して立ち回ります。それを見て、あたら好戦的な気持ちを加熱させたり、自ら戦地に赴いて命を落としたり、そういう人は決してゼロではなかったでしょう。このあたりの責任は、菊池さんや文藝春秋社に対する悪感情を、いまでも根強く育てることになっているのかどうか、よくわかりませんが、ひとまずこのブログで触れたいのは「講演会と直木賞」のことです。難しいハナシはさておいておきます。

 昭和15年/1940年から、文藝春秋社は文藝家協会との共催というかたちで「文藝銃後運動」を始めます。共催とは言っても、どちらもカシラは菊池寛さんです。両者、ほぼいっしょくたみたいな存在です。

 それで、戦地ではなく銃後の位置にいて、文藝の方面からどんな運動をするというのでしょう。菊池さんたちが選んだのが、全国各地を作家やら文学者やらが回りつつ、多くの聴衆を集めてハナシをする……つまり講演会をやる、ということだったのが、講演大好き菊池さんらしいと言いますか、けっきょく過去にやったことを繰り返しただけと言いますか。よほど生身の人間が生身の人間たちに対して語ることの効果を認めていたんだろうと思います。

日程 場所 講師
昭和15年/1940年
5月
東海・近畿(浜松、静岡、岐阜、名古屋、京都、大阪、神戸、和歌山) 久米正雄、岸田国士、横光利一、林芙美子、中野実、吉川英治、菊池寛
6月 甲信越・北陸(甲府、松本、長野、新潟、富山、金沢、福井) 久米正雄、小島政二郎、川口松太郎、小林秀雄、中野実、北村小松、菊池寛、富澤有為男
7月 東北(仙台、盛岡、弘前、秋田、山形、福島) 佐々木邦、中山義秀、今日出海、阿部知二、日比野士朗、久米正雄
7月6日 東京(神田共立講堂) 中村武羅夫、石川達三、吉屋信子、吉川英治、菊池寛
7月8日 東京(早稲田大隈会館) 阿部知二、川端康成、林芙美子、広津和郎、豊島与志雄
7月10日 東京(青山会館) 片岡鉄兵、芹沢光治良、下村海南、横光利一、里見弴
7月12日 東京(本所公会堂) 中野実、舟橋聖一、長谷川時雨、佐々木邦、久米正雄
7月14日 東京(日比谷公会堂) 久米正雄、林房雄、尾崎士郎、豊島与志雄、吉川英治、菊池寛
7月15日 横浜 木々高太郎、長谷川伸、小島政二郎、大佛次郎、久米正雄
7月18日 千葉 上司小剣、岡田三郎、式場隆三郎、尾崎士郎、高田保
7月20日 水戸 村松梢風、甲賀三郎、石川達三、吉川英治、徳川夢声
7月21日 宇都宮
7月23日 高崎 林房雄、辰野九紫、藤森成吉、河上徹太郎、子母沢寛
7月24日 前橋
7月25日 浦和 片岡鉄兵、丹羽文雄、今日出海、白井喬二、辰野九紫
8月 朝鮮・満洲(釜山、大邱、京城、平壌、新京、大連、奉天、ハルビン) 菊池寛、久米正雄、大佛次郎、中野実、小林秀雄、木村毅
8月 北海道(函館、小樽、札幌、旭川、室蘭) 白井喬二、吉川英治、片岡鉄兵、石川達三
9月 中国(姫路、鳥取、松江、岡山、呉、広島) 島木健作、片岡鉄兵、上田広、久米正雄、加藤武雄
10月 四国(高知、徳島、高松、松山) 横光利一、林芙美子、高見順、浜本浩、高田保
11月 九州(小倉、宮崎、鹿児島、熊本、長崎、佐世保、久留米、大分) 小島政二郎、石川達三、日比野士朗、島木健作、小林秀雄、久米正雄
12月 那覇、台湾(台北、台中、台南、高雄、新竹)、広東 菊池寛、中野実、久米正雄、火野葦平、吉川英治
昭和16年/1941年6月 甲信越 中村武羅夫、新居格、井伏鱒二、亀井勝一郎、日比野士朗
7月 樺太 菊池寛、久米正雄、富澤有為男
8月 北海道 久米正雄、和田伝、中島健蔵、石坂洋次郎、大佛次郎(青森のみ)
8月 関東 久米正雄、舟橋聖一、日比野士朗、上田広
9月 満洲 小島政二郎、片岡鉄兵、久米正雄
9月 近畿・中国 河上徹太郎、石川達三、中山義秀、阿部知二
10月 北九州 竹田敏彦、中野実、井伏鱒二、舟橋聖一、今日出海
12月8日 大宮 菊池寛、横光利一、水原秋桜子
12月10日 八王子 菊池寛、瀧井孝作、林芙美子

 いったい、この2年間の運動が実を結んだのかどうなのか。

 社会に起きるたいていの出来事は、原因と結果が一直線で結びつくことは稀なので、作家たちが意気揚々と全国をめぐったこの試みが、多くの人に「よし、それなら日本全国一致団結して戦いに臨んでやろう!」という気を起こさせたのかは、もはやよくわかりません。

 わかることといえば、こんなことをやらなければ、おそらく「直木賞史上最もツイていない男」長谷川幸延さんが直木賞を受賞していた過去があり得た、ということです。

 昔むかし、うちのブログでも取り上げました。戦前・戦後と直木賞の候補に7回挙げられ、けっきょく受賞しなかった長谷川さんが、最も受賞に近づいた瞬間。第14回(昭和16年/1941年・下半期)です。このときの候補作は「模型飛行機」と「幼年画報」で、選考会は昭和17年/1942年2月に行われました。

 小島政二郎さんが猛烈に推しに推したものの、大勢の賛同を得られず、とくに菊池寛さんが、うーん、それほどの作品じゃないな、と乗り気を見せずに落選させてしまいます。ところが、あとになって菊池さんが、長谷川さんの旧作「冠婚葬祭」や「末広」を読んで、うおー、これはなかなかのもんじゃないかと意見を改めて、

「審査決定後、同君の「冠婚葬祭」や「末広」などの旧作品を読んだが(これは、昨年候補に上ったのだが自分は樺太旅行のためよまなかったのだ)、これらは大衆文学として相当な作品である。自分が、これらの作品を読んでいたら、小島君の主張に賛成したかも分らないと思うので、同君には少し気の毒に思っている。」(『文藝春秋』昭和17年/1942年3月号「話の屑籠」より)

 と言うに及んだものですから、長谷川幸延、どんだけツイていないんだよ、と後世に生まれたワタクシをガックリさせた一件です。

 たしかに前回、長谷川さんが候補になった第13回(昭和16年/1941年・上半期)は選考会が昭和16年/1941年7月に開かれています。委員のうち、菊池さん、久米正雄さん、大佛次郎さんの3人が「文藝銃後運動」のために欠席。菊池、久米の両名は樺太に行っていました。

 せっせと講演会をひらいたことが、一人の作家の(いや、もっといるかも)直木賞受賞という未来を阻んでしまった、と言うこともできます。ツイてる・ツイてない、で済ませていいのか、という感じもしますが、長谷川さんもそして直木賞も、講演会のほうに事情を優先されてしまって、まったく可哀想なことです。

| | コメント (0)

2026年6月14日 (日)

第1回直木賞贈呈式が文藝春秋愛読者大会(昭和10年/1935年10月28日、於・日比谷公会堂)の中で挙行される。

 ついこないだ、令和8年/2026年6月11日に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞の候補作が発表されました。

 半年に1回、定期的にやってくるお決まりのニュースなので、わざわざブログで言及するほどのことでもありません。……とは思ったんですけど、今回は最近ではあまり珍しいとは言えなくなった「芸能界で活躍中の方が候補入り」という意味で、朝のワイドショーからスポーツ新聞からネットのSNS界隈まで、直木賞だ直木賞だと騒がしくなっています。こういう光景を見るのが、人生最上の幸せと感じるタチなので、今週はうちのブログも、芸能人と直木賞のことに目を向けたいなと思います。

 とは言いましても、今年のブログのテーマは「講演会と直木賞」です。芸能人に触れるにしても、やはりその路線に沿って書いてみよう、と先週の自分のブログを見返したところ、ちょうど直木賞が始まる直前に、文藝春秋社が盛んに文藝講演会をひらくようになった、というハナシに注目したところでした。

 その流れで言うと、重要になってくるのが第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞の授賞式です。

 いまとなっては、直木賞の授賞式というと、招待者・関係者しか入れない閉鎖的な行事になっています。しかし第1回当時は事情が違って、このときは『文藝春秋』の読者たちに向けた「東京愛読者大会」のプログラムの一つとして、多くの一般観衆の面前で直木賞の贈呈式が行われました。

 実際この頃の文春は、とにかく外に出ていって、じかの読者に対して事業を展開し、少しでも雑誌の宣伝になって実売部数を増やしたい、というモードに突入していた時期に当たります。昭和9年/1934年に東北、九州、近畿中国とまわったのにつづいて、昭和10年/1935年になると、他の各地でも文藝講演会をぞくぞくと開催しています。こんな感じです。

日程 場所 講師
昭和10年/1935年
3月6日
静岡(葵文庫) 小島政二郎、吉川英治、大佛次郎、横光利一、佐佐木茂索、菊池寛
3月7日 名古屋(公会堂)
3月8日 岐阜(公会堂)
9月13日 松本(公会堂) 大佛次郎、久米正雄、吉川英治、菊池寛、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月14日 長野(図書館講堂)
9月15日 新潟(白山小学校)
9月16日 富山(県会議事堂)
9月17日 金沢(公会堂)
9月26日 青森(公会堂) 片岡鉄兵、岸田国士、阿部眞之助、小林秀雄、三上於莵吉、佐佐木茂索(+文藝講談:山野一郎)
9月27日 札幌(公会堂)
9月28日 小樽(議事堂)
9月29日 函館(松風小学校)
9月30日 秋田(記念会館)
10月1日 山形(第一小学校)
11月24日 和歌山(公会堂) 佐佐木茂索、大佛次郎、小林秀雄、小島政二郎、菊池寛

 この途中の10月28日に日比谷公会堂で東京愛読者大会を、11月25日に中ノ島公会堂で大阪愛読者大会を、12月26日に日比谷公会堂で第二次東京愛読者大会をそれぞれ開き、8月に決まった直木賞についても10月28日に贈呈式を挙行した、というわけです。

 では愛読者大会というのは何をしたのか。内容を見ると、やはりお得意の講演会があって、講師は穂積重遠さん、兼常清佐さんのほか、文芸畑からは久米正雄さんと小島政二郎さんが出ています。それから直木賞ともう一つの賞の贈呈式、および「余興」と称する出し物も行われ、二三吉さん、松原操さん、大辻司郎さん、古川緑波さん、徳川夢声さんが出演しました。

 この贈呈式で、第1回を受賞した川口松太郎さんはどんなことをしゃべったのか。ご本人による回想が残っています。

「授賞式は日比谷公会堂で、芥川賞の石川(引用者注:達三)と並んで受け、そのあとでこんなあいさつをした。

「直木は私に、小説家にはなれそうもないから思切れといった。その私が第一回の直木賞を受けてしまった。彼の先見の明を裏切ったような気がするので、多磨墓地の墓へ行ってあやまって来ます」

来会者は笑って拍手してくれた。いっしょに目を細めて、わが子の成功を見るように喜んでくれた菊池寛の顔は今でも目の前にある。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より)

 川口さん、このとき35歳。ちゃんと観衆から笑いが起こるような挨拶をするところが、さすが若くして立派なエンターテイナーです。

 それはそれでいいとして、ここで注目したいのは余興者の一人に徳川夢声さんがいることです。

 徳川さんといえば、先週のブログに書いた昭和9年/1934年文春講演旅行のなかにも名前が出ていました。活動弁士から出発して、俳優として舞台に上がりながら、ひとりで漫談もやってのけてしまうという、当時でもけっこう知る人の多かった芸能人です。そして『新青年』で多くのエッセイ、回顧録を書いているうちに、ユーモア小説も手がけるようになって、その文才は一般読者のみならず作家や編集者をもうならせていました。

 菊池寛さんや文藝春秋の人たちにも、相当かわいがられます。徳川さんが大辻司郎さんや古川緑波さんたちと喜劇団(おそらく「笑の王国」)をつくるときには、おれもできるだけ協力するよ、と菊池さんから温かい声援を受けたんだとか何だとか。ともかく、舞台の上に立って観衆を楽しませることにかけては筋金入り、それでしかも面白い小説が書ける、ということになれば、菊池さんが主導した文藝講演会の講師にもうってつけの存在だったわけです。

 昭和10年/1935年10月の、第1回直木賞贈呈式のときは、余興の出演者だったので講演会をしたわけではありません。ただ、講演もできる、余興で芝居や漫談もお手のもの、というのは、ふつうの作家にはできない芸当です。才人ムセイ、すでに直木賞ができたときから、文春のために大活躍していました。

 そばで見ていた、講師のひとり小島政二郎さんは、こんなふうに言っています。

「「文芸春秋」は毎年のやうに方々の劇場を借りて読者大会を催した。楽屋へ、いろいろの人が出入りをする。さう云ふ人達が、勢ひ菊池寛のまはりに集まつた。

ところが、見ると、もう一人自分のまはりに大勢の人を集めてゐる人物があつた。

それが徳川夢声だつた。云つて見れば、さながら菊池寛に対して一敵国を形づくつてゐる感じだつた。」(昭和27年/1952年8月・オリオン社出版部刊『夢諦軒句日誌二十年』所収 小島政二郎「初対面の頃」より)

 芸能の世界のスゴい人。その徳川さんの小説界に対する貢献を、どうにか形として示せないものかと、戦前の選考会ではたびたび議論に挙がったそうですし、戦後、第21回(昭和24年/1949年・上半期)のときには親友・獅子文六さんが猛烈に推して、芸能人・徳川夢声さんに直木賞が贈られる可能性は、そこまで低くなったんですけど、しかし結局、あげそこねてしまいました。

 直木賞の歴史に残る汚点の一つ、とも言われています(……いや、ワタクシが勝手に言っているだけです)。

| | コメント (0)

2026年6月 7日 (日)

文藝春秋の近畿中国地方講演会(昭和9年/1934年12月21日~26日、於・岡山・広島・呉・大阪・神戸・大阪)で川口松太郎が演台に立つ。

 講演会と直木賞。この2つには共通点があります。

 共通点と言おうか、そもそもが似た者同士と言おうか、それぞれが人間だったら、きっと隣人、親戚、あるいは親友ぐらいにはなっていたかもしれません。

 直木賞といえば、菊池寛さんが熱い友情と熱いカネ勘定を膨らませた結果、この世に生まれた事象です。いっぽう講演会のほうも、菊池さんがしょっちゅう企画しては一つの大きな事業として自分の会社の売りにしていました。また、どちらも菊池さんらが、若手、中堅どころの作家に収入の道を増やしてあげようとして必死に育てた、という点でも似ています。

 菊池寛。……有名人です。生前でも没後でも、いま現在でも、多くの人が興味をもって、語ったり批評したり、さまざまに研究されています。

 そのなかでもここで注目したいのは、菊池さんが大の講演好き、と言われていたことです。小島政二郎さんが言っています。

「菊池寛は講演が好きで、殆んど日本全国を回ったが、それほどではないまでも直木(引用者注:三十五)も好きで、菊池、芥川(引用者注:龍之介)、久米(引用者注:正雄)などと知り合った最初は、大阪で講演会を開いた時のことだった。」(「直木三十五」より ―『小島政二郎全集第三巻』昭和42年/1967年10月・鶴書房刊)

 そもそも「講演会」というものがなければ、直木さんと菊池さんが出会うこともなかった。というのは前週触れたとおりですが、いや、そこからハナシを延ばして、菊池さんが講演会に出ること、企画することが好きじゃなかったら、その後の『文藝春秋』の事業も違ったものになっていたでしょうし、文学賞をつくろう、なんて発想にも至らなかったのではないか。そう思われます。

 菊池さんの感覚のなかでは、講演会も文学賞も、文芸にまつわる事業として近いところにあったのはたしかです。芥川さんが自殺したとき、『文藝春秋』として昭和2年/1927年9月号を「芥川龍之介追悼号」としたのにとどまらず、その年の10月には、「芥川龍之介全集刊行会」同人との共催というかたちで、「芥川龍之介追悼講演会」を順次開催。東京の報知講堂、朝日講堂から、大阪、京都など全国各地をまわって、直接、生の作家が聴衆にハナシをする、というものをやりました。

 その講師は、菊池さんのほか、久米正雄さん、佐藤春夫さん、佐佐木茂索さん、谷崎潤一郎さん、小島政二郎さん、室生犀星さん、宇野浩二さん、久保田万太郎さん、小穴隆一さん、萩原朔太郎さん……と名前を並べてみれば、それから7年後につくられる芥川賞の、ほとんど選考委員のメンバーじゃん。というところからも、当時の菊池さんの交友関係、ないしは事業を始めるにあたっての仲間意識がうかがい知れます。

 以降、文藝春秋にとって、作家を招いての講演会は大きな柱の一つとなりました。昭和9年/1934年暮れに、直木賞と芥川賞、二つの文学賞をつくることになったその頃にも、文芸ってものはな、書かれた文章だけで大きなウェーブを起こすことはできないんだぞ、と言わんばかりに、リアルな読者や観衆を集めてのイベントに、文春の人たちは力を入れます。

 何より、直木賞にしろ講演会にしろ、自分の雑誌(文藝春秋)の宣伝のためにやるのだ、とはっきり菊池さんが書いているところが同じです。両者は、いわば親戚どころか「兄弟」事業と言ってもあながち間違いではありません。

 ということで『文藝春秋』は直木賞の創設が発表される前後、昭和9年/1934年9月~12月に、全国で「文藝講演会」を開きます。

日程 場所 講師
昭和9年/1934年
9月21日
盛岡(公会堂) 吉川英治、子母沢寛、小島政二郎、横光利一、菊池寛、佐佐木茂索
9月22日 仙台(東二番町小学校)
9月23日 福島(公会堂)
10月6日 小倉(九電集会所) 久米正雄、大佛次郎、小島政二郎、徳川夢声、菊池寛、佐佐木茂索
10月7日 八幡(大蔵集会所)
10月8日 福岡(公会堂)
10月9日 熊本(公会堂)
10月10日 長崎(公会堂)
10月11日 佐世保(佐世保会館)
12月21日 岡山(公会堂) 小島政二郎、小林秀雄、川口松太郎、菊池寛、佐佐木茂索
12月22日 広島(袋町小学校)
12月23日 呉(呉会館)
12月24日 大阪(中ノ島公会堂)
12月25日 神戸(青年会館)
12月26日 京都(日之出会館)

 終盤の12月は、すでに各新聞などで直木賞が創設されると発表されたあとでしたし、創設宣言が載った『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号も発売されたあとでした。きっと、これらの賞のことも、講演会のどこかで誰かがしゃべって、観衆を沸かせたのではないか、と推察しますが、現状その確証はありません。

 この期間中には、さらに文春は「愛読者大会」という催しを東京で2回、大阪と京都で1回ずつやっています。そこで菊池さんらの講演と同時に、例の伝説となった(?)文士劇が始まったと伝えられていて、そういう意味では文士劇もまた、直木賞とは「兄弟」事業と言っていいのかもしれません。わかりません。

 それはともかく、やはりひときわ目を引くのが、近畿中国地方講演会の講師のひとりに川口松太郎さんが入っていることでしょう。まだ第1回の直木賞が決まるまえの川口さんです。

 そうなんだ、このとき川口さんが文春の講演会に登壇したから、文春が運営する直木賞をもらうことができたのだ……といった回想ないし回顧録は、ワタクシも読んだことはありませんけど、少なくとも初回から無名の新人にあげることができなかった直木賞の、直木賞らしい姿は、これらの講演会からも激しく理解できるところです。

| | コメント (0)

2026年5月31日 (日)

主潮社主催の藝術講演会(大正9年/1920年11月18日・19日、於・大阪中之島中央公会堂)が直木賞を生む。

 直木賞はなぜできたんでしょうか。

 設問としては単純です。だけど、けっこうな難問です。

 なぜできたか、と言われたところで、そもそも理由を一つに絞って語ることなどできるはずがありません。森羅万象、世のなかの多くの出来事と同じように、直木賞にだってさまざまな背景があります。ひとまずその背景と思われる細い糸を、さかのぼって追ってみます。

 背景の細い糸。つまりはざっくり言うと、直木三十五さんという人が文藝春秋社と深い関係があった、あるいは菊池寛さんと強い友情を結んでいた、ということです。

 直木賞を見る上では絶対に欠かせない最重要な要素なんですが、そのハナシをたどっていくと、かならずぶち当たるものがあります。それが「講演会」です。

 有名なエピソードらしいので、いまさら繰り返しても仕方ないんですが、のちに『文藝春秋』を創刊することになる菊池寛さんと、直木賞の名前のもとになった直木三十五さん(本名・植村宗一)がどこでどうやって知り合ったのか。大正9年/1920年11月18日と19日、大阪中之島にある中央公会堂で藝術講演会というのが開かれました。二人の結びつきは、すべてそこから始まります。

 菊池さんはちょうどそのとき『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』で「真珠夫人」を連載していた頃にあたり、いわば「いまキテる」脂の乗った若手どころの作家です。年はだいたい31歳のころ。

 いっぽう直木さんは、まだ「直木三十五」という名前などこの世に影もかたちもなく、本名の植村宗一として活動していた頃です。早稲田大学を中退して、大日本薬剤師会に書記として務めたものの半年でやめると、美術研究会、あるいは新興美術社という組織に勤めを見つけて、美術雑誌の編集者となります。美術関係の名もなき記者、といったところで泥水をすすって生きながら、『トルストイ全集』の刊行を企てたところ、これがちょっと売れておカネになり、そこから神田豊穂さんと春秋社を、鷲尾浩さんと冬夏社を、と出版社の経営に乗り出しますが、借金ばっかり膨れ上がらせる疫病神の異名を拝命。それでもやたらと事業欲が旺盛で、画家の矢野橋村さんが結成した美術集団「主潮社」に参加して、雑誌『主潮』を刊行します。年は菊池さんの1年ちょっと下ですので、おおよそ30歳ぐらい。はっきり言って、文学関係者でその名を知る人はほとんどいませんでした。

 矢野さん率いる「主潮社」では、福岡青嵐さん、名越国三郎さん、福田恵一さんといったお仲間たちの作品を一般に見てもらう美術展覧会を催します。第1回は大正8年/1919年、大阪と東京それぞれで開催したらしいんですが、翌大正9年/1920年秋、その第2回目の展覧会をすることになったとき、どうやら直木=植村さんが一つのアイデアを出したのだと言われています。

 展覧会の前に、お客さんを呼べるような藝術、文芸に関する講演会をやったらどうだろう、と。

 基本的にこのときの企画は、植村さんが主導してやったらしいです。だれに講演をお願いするか。その人選や、じっさいの依頼、交通・宿泊の手配なども、植村さんが準備したのだ、ということです。

 このとき植村さんが声をかけた演者のうち、面識があったのは、早稲田の同窓で作家としてちょっと名前が売れていた田中純さんだけでした。他に植村さん自ら直接お願いしに回ったという久米正雄さんも、宇野浩二さんも、芥川龍之介さんも、そして菊池寛さんも、それまでまるで赤の他人です。こんなドコのドイツかわからない無愛想で気味のわるい男の依頼を、みんなよくぞ受けたものだ、と思います。

日程 場所 講師
大正9年/1920年
11月18日
大阪中之島
中央公会堂
田中純、菊池寛、沢村専太郎
11月19日 芥川龍之介、久米正雄、林久男

 実際どんな感じの講演会になったのか。当時の新聞記事を引くと、こうです。

「主潮社主催藝術講演会は既報の通り(引用者注:大正9年/1920年11月)十八日夕より中之島公会堂にて開催された聴衆は定刻前より詰めかけて政党演説会にも劣らぬ盛況で、入江(引用者注:入江來布)氏の開会の辞の後植村宗一氏は文藝講座開放に関して会衆に訴ふる所あり次いで田中純氏は「藝術は実感の貯蔵なり」と題して聴衆を激励し次に真珠夫人の作者として最近全市の人気を湧き立てゝ居る本社員菊池寛氏は大拍手の裡に登壇、時々警妙な皮肉と警句を交へながら「藝術の利益と必要」の題下に満場を唸らせ京大助教授澤村専太郎氏は「現代日本画に於ける写真問題」と題してその選考する東洋美術史の立場から蘊蓄を披露し盛況裡に閉会した」(『大阪毎日新聞』大正9年/1920年11月19日「藝術の炎を捲き揚げた 主潮社の講演会」より)

 何といっても目玉は、「真珠夫人」の作者菊池さんの生のハナシが聴ける、というところにあったのでしょう。のちの菊池さんの文章(「講演」)によれば、聴衆2000人以上は詰めかけたんだとか。その点、植村さんの試みは成功しました。

 しかし、そうはいっても疑問に思います。アートの展覧会の客寄せのために、どうして新進作家たちを招いての講演会を思いついたのか。そこのところが、植村さんの回想を読んでもよくわかりません。

 わからないので、ここは専門家のお知恵を拝借しましょう。昭和48年/1973年に刊行された『近世大阪藝文叢談』(昭和48年/1973年3月・大阪藝文會刊)に、親和女子大学図書館の田熊渭津子さんが「直木三十五と主潮社文芸講座」という文章を発表しています。

 それによると、植村さんが文藝に関する講演会をやったのは、菊池さんと出会ったその一回きりではなく、後年にいたるまで約2年にわたって続いた、けっこう気合いを入れた事業だった、ということです。

 大正10年/1911年1月から、大阪時事新報社の後援を受けて「主潮社自由大学文芸講座」が開講します。その予告ビラを田熊さんが紹介していて、おそらくこれは植村の手による文章ではないか、と推察されているんですが、ワタクシもそれにのっかって、植村さんがこのとき、どうして大阪で文藝講演会を企画しようとしたかの理由が、ここにうかがい知れると見ます。

「嘗て近松を有し、西鶴を有したる地は、今日、只一個物質上の富のみを以て、満足し得べきに非ず、他都市に優る多くの外観的文化設備を有し乍ら、其内面に於ける貧弱さを思ふ時、我輩は先づ何よりも第一に此運動の必要なるを感じる。」(「主潮社自由大学文芸講座」予告ビラ ―引用原文は『近世大阪藝文叢談』所収、田熊渭津子「直木三十五と主潮社文芸講座」より)

 大阪という都市は、むかしは文化的な風土があったのに、現在(大正中期当時)それが衰退してしまっている、だから私は文芸についての講座を開くんだ、という宣言です。

 最初の想定では、開催は月一回の夜間、会員制度をとって約500名を上限とし、会費は一回につき金一円、と決定します。その後、大正11年/1912年11月の第15回まで開かれたという記録があるそうで、事業欲の旺盛な植村さんらしく、そして始めるのはいいけどすぐにポシャらせてしまう経営センスのない植村さんらしく、この連続講演会によって何がどう実現したのか、振り返られることなく、きっぱりと終わってしまいました。

 植村さん、のちの直木さんがどんな考えで、どういう生き方をしたのかは、文学賞としての直木賞とは何の関係もありません。それはそのとおりです。

 だけど、植村さんが書物の上だけでコショコショ文章を書くことのみが大切だ、なんて考えをしていたら、まず熱心に文芸講演会など開かなかったでしょうし、菊池寛さんと会うこともなく、ひいては直木賞が設立される未来も訪れなかった……というのはたしかでしょう。

 直木賞というものができるためには、文章表現のよしあしだけではなく、人間がしゃべってそれを人間が聴くリアルな空間、リアルな時間が、最初から欠かせないものとして存在していたのだ。と考えれば、たとえば現在、直木賞の受賞作や候補作を読んで、その小説に対する批評だけが直木賞だ、と見るのは、やはり不自然です。

 受賞者が記者会見でしゃべったり、その後に、彼らがテレビやラジオでしゃべったりするのもまた、直木賞の一部と見ていいのではないか。いいですよね? とそういうものも好きなワタクシは、勇気を得た気分です。

| | コメント (0)

第20期のテーマは「講演会・トークショー」。文芸の世界と縁がなさそうでありそうな、直木賞とも関係が深いこの催しを追ってみます。

 何でもいいから、直木賞にまつわることを調べてみたい。……そんな衝動に駆られるままに、これまで1週間に1本ずつブログを書いてきました。この5月で20年目に入っています。

 要は19年もだらだらとやってきたんですけど、ちっとも直木賞に詳しくなれた気がしません。よっぽどワタクシの頭がポンコツなのに違いない。というのはまったくその通りですし、直木賞のまわりに広がる関連事項の果てなき多さに、いまさらながら呆然としています。

 直木賞といえば、その中心にあるのは小説であり小説家です。それはもちろんそうなんですが、しかし、ただ小説を読んでいるだけでは、直木賞という現象のほんの爪の先を撫でただけ、といったむなしさが残るのはなぜなんでしょう。直木賞を知りたいと思ったら、おそらくは小説にくわしくなるだけでは不足があって、出版のこと、同人雑誌のこと、映画のこと、芸能のこと、あるいは文壇ゴシップのこと、いろんなところに目を向けなければ、全然直木賞を味わった気になれません。

 いや、頭のデキがすぐれた人なら、パッと見ただけで即座に直木賞のことがわかるのかもしれません。ああ、ワタクシもこんなことに無駄な時間を費やす人生ではなく、そういう優秀な頭で生まれたかったなあと悔しく思います。残念です。

 で、ぐだぐだと愚痴を続けるのはこれぐらいにして、ブログ20年目の今年はどうしようかと悩んだあげく、直木賞と縁ぶかい一つの社会的な事象(?)にスポットを当てて、直木賞との関連を調べていこうと思い立ちました。

 講演会です。

 時代がくだって現代に近づくと、トークイベントとかトークショーとか呼ばれることもあります。一人の人間が(あるいは複数のこともあるかも)演台に立ったり前方に用意された椅子にすわり、目のまえにいる何人、何十人、何百人の聴き手に向かって、肉声を発することで何らかの話題をしゃべる。いまでも全国各地で行われていますし、直木賞が創設された昭和9年/1934年当時も、さまざまな会場で開かれていたと言われる、例のアレです。

 小説といえば、紙に印刷されて(いまではデジタル機器に表示されて)一人ひとりがその文章を読むもの、と相場が決まっています。講演とかおしゃべりとかは、直接的な関係はありません。

 たぶん関係はないんでしょう。ただ、講演会が直木賞という事業と相性がいいのは明らかです。受賞者はもちろん、候補者や選考委員には講師として声がかかり、ときにノリノリで、ときに気乗りがしないままに壇上に立たされる。文芸評論家や書評家といった類いの人たちも、直木賞というものをテーマに講演をして人を集める。いつの頃からか、そんな風景が日本の社会では当たり前のように生まれ、確実に根づいてきました。

 できれば、直木賞とは直接の関係はないけど、作家や文学・出版関係者による講演会というものの発生や変遷など、その歴史も調べてみたいと思います。ただ、毎年毎年、ブログのテーマを決めるのはいいとして、調査も足りないままネタ切れのようになっていくのがうちのブログの日常です。今年もそんなふうになるんじゃないかと不安を抱えて、とりあえずスタートしてみます。

 最初はどこから行こうかと考えましたが、そりゃあ、直木賞が直木賞としてこの世に誕生したそもそもの背景に、文芸に関する講演会があったのだ、ということは間違いありません。直木賞創設からさかのぼること14年前、大正中期に企画されたその講演会のことから書いてみたいと思います。

| | コメント (0)

2026年5月24日 (日)

日本文藝家協会の文士劇について(その2)。裏方の人たちの印象と本番最終日のこと。

260524_1x800
260524_2x800
令和8年/2026年5月24日
閉演後のロビー撤去風景と
舞台裏に置かれた各出演者のドリンク
(自分の名前をどう書くかに個性が見える)。

 昨日のエントリーのつづきです。

 今日、令和8年/2026年5月24日(日)、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇「風と共に去りぬ」の最終公演が13時から、東京新宿・紀伊國屋ホールで行われました。

 こっちは端役中の端役ですから、別に大したことはしていません。なのに、こんなにへとへとだ。ということは、主役級の人たちはさることながら、裏で動いた人たちはどれだけ疲れたんだろう、と容易に想像できるところです。

 そうだ、文士劇は出演者だけで成り立っているわけではない! ……というのは当然すぎて、いまさら大声で言うことでもないでしょう。ワタクシの大好きな文学賞だって、最後に選考する委員とか、受賞者、候補者とかは、文学賞を形成するほんの一部にすぎず、見えないところで準備したり打ち合わせしたり、つつがなく終わるように動いている裏の人たちが、その何十倍も存在します。

 なので、せっかく文士劇に携わるなら、オモテに出ない人たちのことも知っておきたい。と、ずっと思ってはいたんですが、いったいどこの誰なのか、ワタクシが顔と名前を認識できる関係者は、たぶん一割もいません。残念です。

 ただ、一割以下でも、だれにも触れないよりはましだろうと思って、ワタクシのわかる範囲で印象を記録しておくことにしました。

 こんなこと書いて何の役に立つんでしょうか。たぶん役には立ちません。だけど、うちのブログはそもそも、ひま人によるウワゴトの垂れ流しです。許してやってください。


4.なるべく裏方の人たちの印象を

 昨日にひきつづいて敬称略です。

五戸真理枝(ニックネーム:まりりん)

 演出の人。つまりは今回の文士劇を司った中心にいる太陽です。ウワサによれば、なるべく出演者と揉め事を起こさないような優しい演出家を、というハナシで選ばれたとも聞きますが、◯◯氏の暴走や△△氏のワガママに接しても、一瞬、困ったような顔を見せながら、たいていの意見を聞き入れて、調整したり修正したりしていくバキューム並みの吸収力。うん、まじでスゴかった。

日沼りゆ(ニックネーム:りゆどん)

 演出助手の人。ふだんは自分で舞台に立つ女優さんでもあるらしい。オジさん、オバさん(というか、ジイさん、バアさん)が大半を占める稽古現場で、キビキビ、シャキシャキと動きまわる若きエネルギーが、活気の一助となっていた。何があっても動じないあの頼もしさは、どこからくるのか。演劇の世界にも変人たちがうじゃうじゃいて、あるいはこんな現場は慣れっこなのかもしれない。

道又力(ニックネーム:ミッチー)

 脚本を担当した人。ふだんは盛岡に在住で、5月なかばの集中稽古の初日から今日まで約2週間、東京にウィークリーマンションを借りて現場に来ては目を光らせていた(滞在費はすべて自腹らしい)。わたくしは岩手から来た田舎者です、という言葉をかならず吐くのを一種の芸にしているが、それを隠れ蓑にしながら、心の奥底に何かどでかい野心を秘めているんでしょう(おそらく)。

制作、音響、衣装、ヘアメイク、美術、照明の人たち

 一人ひとりに挨拶してまわりたいところだったが、さすがにそんな出すぎた真似はできなかった。すいません。ただ、どうすれば演出に合った舞台にできるかと、パッパッと判断が早い人たちばかりだったのはたしかで、今回は彼らプロ集団のおかげで文士劇がかたちになったんだな、とひしひし実感した。どの世界にもデキる人たちというのはいるもんです。

日本文藝家協会事務局の人たち

 それぞれ個人名を挙げると誰かに怒られそうなので、自粛しときます。というか、事務局の人なのはわかるけど、誰が誰やら、名前のわからない人も多数。彼ら彼女らが、作家や文学者たちのこの狂態(?)をまぢかで見て、いったいどう感じたのか。仕事を離れての正直な感想をぜひとも聞いてみたい、と切に思います。

マスコミ取材の人たち

 稽古の模様、あるいは記者会見の様子は、『婦人画報』『朝日新聞』『産経新聞』『東京(+中日)新聞』『読売新聞』『毎日新聞』『日本経済新聞』《共同通信配信》《時事通信配信》などで紹介されました。

 取材のあるときは稽古の最初で軽く紹介があるので、ああ、だれか来ているんだなとわかりますが、わざわざ全員に挨拶してくれる殊勝な記者やカメラマンがいるはずもなく、部屋の端のほうで亡霊のように座っている記者の姿を、こちらは遠くから眺めるだけでした。

 2時間、3時間、ただ見学していてもひまだろうなあ。少しだけでも一緒に稽古に入って、自分で体験してみればいいのになあ。……と内心思っていましたけど、人さまの取材方法を批判しても仕方ありません。ああ、文芸記者よ、影なる存在よ。新聞も出版も苦しいこの時勢、みんながんばって生きていきましょう。


5.最終公演と打ち上げで印象に残ったこと5選

 昨日につづいて、最終日は13時からの公演で千秋楽。15分間の休憩を挟んで一幕六場、二幕十二場、2時間15分ほどの公演でした。

 今日の出来事でワタクシの印象に残ったこと5選は以下のとおりです。

1●文学賞にひっかけたアドリブが増えた。

 「山本周五郎賞」というのは、台本のセリフにないのに昨日の段階ですでに登場していたが、ムラマサ(村上政彦)の芥川賞に関するアドリブに触発されたか、ササちゃん(笹公人)も、そしてサエちゃん(佐伯順子)までもが、突如、芥川賞にからめたセリフを付け足してウケていた。文学賞大好き人間としては、それを近い距離で聞けたことにシビれました。

2●芝居の微調整を怠らないサガワくん・なめ子さんコンビのまじめな姿。

 サガワくん(佐川光晴)が舞台に出ていって、それを見たなめ子さん(辛酸なめ子)が「見つけたわ」というシーンがある。一公演目よりも二公演目、二公演目よりも三公演目のほうがウケていた。おそらくそれぞれのタイミングを直しながら、最も面白く見えるように工夫した結果なんだと思う。サガワくんもなめ子さんも、まじめだぜ。

3●ダジャレに賭けるアンナさんの並々ならぬ思い。

 アンナさん(荻野アンナ)といえばダジャレだが、同じダジャレを言うのでも、三公演目はなるべくお客さんにわかりやすいように、丁寧な前ふりとか、最後のダジャレが引き立つような新たな一言とか、少し変えていた。聞くと、稽古中の段階でわざわざ演出のまりりん(五戸真理枝)に電話をかけて、どこにどういうダジャレを入れるか綿密に相談していたらしい。こ、こだわり方がエグい。

4●貫禄あるケイコちゃんの演技と配役の妙。

 今回ケイコちゃん(谷口桂子)は男性の役だった。出演者一同が一目を置く医者の役どころで、最後までその落ち着きと貫禄がぴったりハマッていたが、打ち上げの席で、どうしてあの配役だったのか、ケイコちゃんが演出のまりりんに聞いたところ、はじめの頃の稽古でみんなでゲームをしたり、「昨日の私」という作文を即興で書いてみんなで読み合いをしたことがあった。それを見ていて、ケイコちゃんならこの役ができる! と見抜いたらしい。ううむ、そうだったのか。あのハマり役の裏側が聞けてよかった。

5●打ち上げの席でのりゆどん(日沼りゆ)の挨拶。

 打ち上げのときの挨拶で、演出助手のりゆどん(日沼りゆ)が、文士劇に参加したみなさんが、次に新しい戯曲を書いてくれることを願っています! と発言。わーあ、と盛り上がった。きっと若い作家の誰かがチャレンジしてくれるでしょう。


 今回出演した作家たちが、文士劇で何を感じ、どういう感想をもったのか。きっとそれぞれが、今後何らかの文章を発表していってくれることでしょう(くれますよね?)。それらを読み比べることのできる日が、遠くない将来に訪れることを、一読者として楽しみにしています。

 ワタクシ自身は別に何モノでもないので、明日からはまた、ただ文学賞が大好きなふつうのオジさんに戻るだけです。「文士劇のこと、きちんとまとめて記録として残しておいてくださいよ!」と、ミッチーこと脚本の道又さんには、別れぎわにも釘をさされてしまいましたが、いやそう言われても、どういうかたちで記録すればいいのか……。そのうち考えておきます。

| | コメント (0)

2026年5月23日 (土)

日本文藝家協会の文士劇について(その1)。参加の経緯と出演者の印象。

260523_1x800
260523_2x800
令和8年/2026年5月23日終演後の舞台と
集英社から届いたという差し入れの一部。

 令和8年/2026年5月23日(土)と24日(日)の両日、日本文藝家協会創立百周年記念の文士劇「風と共に去りぬ」が東京新宿・紀伊國屋ホールで行われます。

 今日23日は、13時からと17時30分から、予定どおり二回の公演がありました。先ほど無事に終わったところです。

 ……と、いきなり書き出しましたが、どうして「直木賞のすべて」というデータベースサイトにこんな文章を残すのか。もちろん、サイト運営者であるワタクシがこの文士劇に参加しているから、ではあるんですけど、正直こういうものは自分ひとりの経験であり、遊び、娯楽にすぎません。あえて人サマに言うことでもなく、別に何かを書こうとは思っていませんでした。

 ところが先日、稽古に来ていた脚本担当の道又力さんに言われました。……出演をお誘いする人としてあなたの名前を出したのは私なんですけど、それはなぜか。この文士劇のことを後世のために記録しておいてほしいからですよ。そりゃそうでしょう? と。

 うぐっ。なかば脅しのような文句に、思わず後ずさりしたんですけど、うんまあ、考えてみればそれもそうか、と思い直しました。

 文士でもなけりゃライターでもない一介の素人であるワタクシが、いったい文士劇の経験をどんなかたちで還元できるのか。それは追い追い考えていきたいと思います。

 では、とりあえず、すぐにできそうなことって何だろう。本番を迎えるまでにワタクシ自身がどんなことを見聞きしたのか、書いておく程度のことならできそうです。ひとまずこれも記録の一種と思って残しておくことにします。

 以下、5月12日に一度ブログに書いたことですが、情報解禁日よりも先に公開してしまうという一般人まるだしの失態をしたため、これまで控えていました。今回、改めてアップします。


1. どうして参加するに至ったのか

 まずは、ワタクシが文士劇に参加するまでの経緯です。

 昨年令和7年/2025月11月4日(火)、まったく唐突に、それまで会ったことのない文藝家協会事務局の方から一通のメールが届きました。件名は「文士劇ご出演のお願い」。

 ん? と思って本文を読んでみると、これがもう、のけ反るような内容で、来年5月に開催予定の文士劇に、脚本の道又力さんから「川口さんをお誘いしては?」という声が上がったので、出演を検討いただけないかというハナシです。ちなみに道又さんとも、それまでワタクシは面識はありません。

 いやいや、なんでオレなんだよ、と強く思いましたが、文士劇をやることは知っていたし、チケットを買って観に行こうと思っていたぐらいには、こういう「文芸の周辺・周縁にある現象」には関心があります。なので出演者としてではなく、裏方としての参加ができるなら、ぜひ携わらせてください、みたいなメールを返しました。

 ところが、これに対する回答によると、出演者を募ったところ、女性の枠はすぐに埋まったが、男性のなり手が少なくて、いま各所に声をかけているのです。舞台に上がるという以外に参加する道はありません。どうぞご検討ください、とのことでした。

 ううむ。何かを発言したり感想を抱くなら、まずは自分で行ったり見たりしてからにしろ、というのがワタクシの流儀です。文士劇もまた、外から見ていると、だはっ、作家が何やってるんだよ恥ずかしい、とバカにするのは簡単ですけど、自分が行って見てみたら別のものが見えてくるかもしれません(見えてこないかもしれません)。

 ……迷ったあげく、こういうものの裏側を見ることのできる機会はなかなかないだろうと思って、では出演するかたちで参加させてくださいと、お答えしたのが11月12日(水)になります。


2. 出演者たちの印象

 本番を迎えるまでに、計22回(12月2回、1月3回、2月3回、3月3回、4月4回、5月7回)の稽古、および直前3日間の場当たり・ゲネプロがありました。

 出演者の初の顔合わせは12月23日(火)、場所は日本大学大講堂にて。出演者として来ていたのは12人で、いちおう最初に自己紹介がありましたが、声が聞きとりづらい人もいて、フルネームを把握できたのは7人程度です。しかも全員が来ていたわけではないらしく、そもそも全体で何人の出演者がいるのか、まったくわかりません。

 ワタクシ自身が専業の物書きではなく、時間のとれる日が限られているため、その後、参加した稽古は12回だけです。全貌の概略を知ったのも、2月13日(金)に公にニュースリリースが出てからなので、まあワタクシみたいな末端出演者には大した情報は流れてこないんだろうな、と思いながらも、時が経つにつれて参加者たちの人となりも徐々にわかってきました。

 ということで、今日はこれまでにワタクシが見た出演者たちの姿を紹介してみます。

 何の客観性もないので、大した参考にはならないでしょうけど、ひとまずの印象ということで。以下敬称略でいきます。

林真理子(ニックネーム:真理子さん)

 見ると、だいたい疲れている。はじめは、真理子さんが歌うパートもあったんですが、どうやら練習に時間がとれないと固辞したらしく、残念ながらその部分はなくなっちまいました。

阿部公彦(ニックネーム:アベっち)

 いつも大局を眺めてひょうひょうとしている品のいい人。……だとは思うんだけど、ちょっとしたスキに鋭いことを言うので油断できない。話せば冗談の一つや二つも返してくれる優しい人です。

井沢元彦(ニックネーム:モッちゃん)

 稽古終わりの打ち上げの席を毎回準備するなど、「影の座長」と言っても過言ではない。岩手の文士劇で長くやってきた経験を少しでも生かそうと、文藝家協会にいろいろアイディアを進言したらしいが、なかなか実現に至らないとボヤいていた。

岩井志麻子(ニックネーム:ヒョウちゃん)

 強烈な個性は、テレビ画面越しで観ているのとまったく変わらない。真面目なシーンでもすぐに腰を振り、スキあらばシモネタを繰り出してくるハートの強さ。どうやったらまともに会話を交わせるのか。いまだにワタクシもわかりません。

荻野アンナ(ニックネーム:アンナさん)

 「いまから面白いこと言いますよ」という雰囲気を微塵も見せずに、次々とダジャレを言うところは、まんま以前からの印象どおり。稽古中も、セリフの途中でダジャレを言っては、笑いをとったりスベったり。ただ、どちらであっても平然としているのが恐ろしい。

岳真也(ニックネーム:ガクしゃん)

 去年足を傷めたらしく、杖をついて参加している。長いあいだ物書きとしてやってきたプライドが、言葉の端ばしから、いや全身からにじみ出ている。どんな会話の流れでも、自分の言いたいことはテコでも曲げない気難しいジイさんだが、話すとけっこう面白い。

河原啓子(ニックネーム:カワハラちゃん)

 気さくにしゃべってくれるフレンドリーな人。4人のスカーレットの妹役だが、だれとやってもカワハラちゃんが妹に見えてくる、というのは演技力のたまもの(もしくは生来もっている“かわいさ”ゆえ)に違いない。だけど自分ではいつも謙遜している。

佐伯順子(ニックネーム:サエちゃん)

 大学で授業をしながら、それでも積極的に稽古に参加していたまじめな人。丁寧で腰が低くて、話していると、こちらが恐縮してしまう。それでも、やわらかな物腰を貫いてくれるので、おのずと穏やかな気持ちで話ができます。

佐川光晴(ニックネーム:サガワくん)

 2011年に坪田譲治文学賞の授賞式を観にいったとき、壇上でしゃべっていたサガワくんのまんま、稽古中も飾らない人柄で感動した。台本を読み合わせるときには、ココはこういう背景があるからこういう意味じゃないか、といろんな知識を披露して語っていた。なるほど、実作家というのは日ごろそういうふうに物事を見ているのか、と話を聞いているだけで面白い。

笹公人(ニックネーム:ササちゃん)

 最初に稽古で会ったときに自ら名刺をくれたのはササちゃんだけだった。「真理子さんはアグネス・チャンの歌をうたえばいいのに。40年越しの和解で」とか、常に面白いことを考えている人という印象。今日の本番でも渾身のアドリブをぶち込んでウケていた。

島田雅彦(ニックネーム:ジュゼッペ、ボリスなど毎回変わる)

 容易には話しかけづらいオーラをビンビンに出しているオジサンだけど、単に皮肉屋で照れ屋なだけなのかもしれない。芝居慣れしていて、稽古までにセリフを頭に入れてくる生真面目さがある。

辛酸なめ子(ニックネーム:なめ子さん)

 感情が激しいはずのスカーレットのセリフを、ほぼ棒読みのようにツラツラ語るところが、味になっている。稽古中、バトラー役の三田誠広に「お兄さま」と呼びかけるセリフを、「おじいさま」と言い間違えたときは大爆笑した。面白い人です。

蝉谷めぐ実(ニックネーム:セミちゃん)

 大阪の「なにげに文士劇2024」にも出ていて、セリフに感情を乗せて言うさまが堂に入っている。「いやもう、わたしなんか若輩者ですから」という空気を常に出しているけど、こういう人はベテラン作家になったときにどうなるんだろう。興味がある。

谷口桂子(ニックネーム:ケイコちゃん)

 なにせこちらが直木賞・芥川賞のことを調べている人間なので、ケイコちゃんの『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)にはずいぶんお世話になった。実際に会うと泰然とした人で、とうてい打ち解けて話せそうな感じではなかったが、稽古が進むにつれてだんだんとやわらかな印象に変わってきた。

三田誠広(ニックネーム:マサくん)

 稽古が熱心なのはいいとして、打ち上げに行くと酒を飲み、あれ、寝ちゃったのかな、と思うことしばしばだが、人の言うことは耳に入っているらしく、サッと会話に入って自らの知見を披露する。親友ガクしゃんの言うことはどんなことでもうんうんと優しくうなずいて、友情の深さが伝わってくる。

宮尾壽里子(ニックネーム:ジェイ)

 しとやかで気品のある雰囲気を醸し出しているが、役に入ったときのセリフまわしには、つい爆笑してしまう。ハマり役といおうか、彼女にしかできない演技を、早くからモノにしていてスゴみを感じる。あれは笑っちゃいますよ、ジェイさん。

村上政彦(ニックネーム:ムラマサ)

 稽古でいっしょになったことが少なく、言える印象はあまりないが、スカーレット役に決まったなめ子さんが最初しり込みしたときに、「ぼくはなめ子さんのスカーレット、支持しますよ!」とテラいなく堂々と声をあげたのを見て、むむ、やるな、と感心した。

村山由佳(ニックネーム:ナッちゃん)

 忙しくて家も遠いのに、毎回楽しそうに稽古に来ている様子には心洗われた。いつもニコニコしているアノ裏には、さまざまな修羅場をくぐってきた経験が隠されているんだろうな……とつい思ってしまうのは、こちらのウガチすぎかもしれない。明るくフレンドリーな人です。

山内マリコ(ニックネーム:マリちゃん)

 声色ひとつで、かよわそうな女性、強くたくましい女性を、一瞬にして切り替えて演じ分けてしまうという、文士劇にはドストレートの適任者。わたし間違ったことは許しません、という姿勢がいかにもまぶしくて、絶対この人とモメたくありません。

綿矢りさ(ニックネーム:りーちゃん)

 スカーレットといえば天衣無縫。その役づくりをしているのかなと思いきや、笑顔を見せずにズバッと、ブスッと人にツッコんでいるふだんの会話を聞いていると、あるいは天衣無縫が、りーちゃんの素なのかもしれない。

川口則弘(ニックネーム:オジさん)

 そしてワタクシ。出演者中、圧倒的に最も無名、何をしている人間なのか(自分でも)わからないということもあり、なるべく最後まで傍観していたい。とは思うんですが、要らぬことをボソッと言って場を白けさせないように、こわごわと生きています。


 せっかくなので、今さっき終わった本番のハナシも、多少書いておこうと思ったんですが、すみません、すでに疲労困憊です。なので、とりあえず個人的に見た初日2公演で、印象に残ったハプニング(?)5つを、なるべく3公演目を観る人の興味を削がないように気をつけながら挙げるにとどめます。

3.初日2公演で印象に残ったこと5選

1●上に挙げた出演者のほかに、幕間の解説役として出る方もいるんですが、その方が1公演目だけ来られないことになり、真理子さんが代役をする。結構、準備していないはずのことも言って、そして結構ウケていた。ううむ、あれが人前でしゃべることに慣れた人のワザ、ってやつか。

2●稽古では大丈夫だったはずのセリフを、トバしてしまう人続出。なにしろ容易なことでは間違えそうもないマリちゃんですら、セリフを言い直していたぐらいなので、あせった。ある出演者いわく「やはり舞台に魔物はいた」。

3●昼の部、夕方の部、どちらとも、お客さんの反応がいいことに気をよくしてか、みんなアドリブの増加傾向が止まらない。この人は言わないだろうと思っていたガクしゃんまでが、アドリブをやり始めたので驚いた。

4●個人的には、ムラマサのアドリブ(自虐ネタ)がやたらと仕上がっていて面白かった。それを受け取るマサくんのアドリブ返しもまた、いい。

5●客席のどこかに、舞台の上から見てもわかるぐらいの特徴的な姿をしたお客さんがいたらしい。しかし、いや、あれは現実の存在ではなく、舞台に上がった者にしか見えない神秘的(もしくは霊的)なものなのではないか、という説がささやかれた。真相はわからない。

そのほかのハナシは、また明日にでも。

| | コメント (0)

«「九八年一月。選考会当日は、前日に降った雪が溶けきらない寒い日だった。」…桐野夏生、第173回直木賞の選評より