清水正二郎…直木賞から声がかからず、エロ小説の帝王になったところで、改名という大勝負に打って出る。
いつまでやってもラチが明きません。まあ、こんなブログは始めたときから、絶対にラチが明かないことが確定している、と言えばそうなんですけど、「直木賞と別の名前」のテーマもだらだらやって一年間。今週で終わりにしたいと思います。
で、せっかく最後なので、パーっと陽気に行きたいな、と思うんですけど、直木賞の歴史に現われた作家で、明るくて華があって、しかも別の名前での活動も目覚ましかった……となると、どうしてもこの人を取り上げたくなるのは自然でしょう。〈清水正二郎〉さんです。
困ったときのシミショウ頼み、うちのブログではもう何度も何度も、しつこいほどに登場願いました。似たようなハナシをこすりすぎて、別に新たに書けるような情報もないんですけど、直木賞を受賞したときの名前がある、それとは違う別の名前もスゴい、という対比の面でも、シミショウさんの例は明らかに直木賞史に残る代表的なエピソードです。いいかげん、この人ばかりに頼りっきりで申し訳ないんですが、やはり取り上げないわけにはいきません。
戦争中にはいわゆる外地で時を過ごし、終戦とともにひっとらえられて、苦しい苦しい抑留生活を送ったあと、昭和22年/1947年に命からがら復員すると、くそーっ、この経験を無駄にしてなるものか、という生来の負けん気だましいを発揮して、吉村隊事件、いわゆる「暁に祈る事件」の証言者として突如として世に出ます。
何といってもシミショウさんには、現実のことがらにゴテゴテと脚色を乗っける、嘘つきの才能、というか物語を語る力がありました。さんざんツラい思いをしてきたけれど、男一匹、腕二本、文章を書いて名を上げんと、小説の世界に飛び込んで、昭和30年/1955年下期、30歳のときに「壮士再び帰らず」で第7回オール新人杯を受賞。懸賞のひとつでもとってなきゃ参加資格がない、とも言われた大衆文芸の同人雑誌『近代説話』の創刊同人のひとりとして名を連ね、以来、直木賞、直木賞、おれは直木賞をとるんだ、とウワゴトのように繰り返しながら、ぶんぶんとペンを走らせます。
ただ、これと合わせて、シミショウさんは作家としての顔以外に、有名なふれこみで知られるようになります。源氏鶏太さんの「精力絶倫物語」のモデルとなった、要は一日に何度も女性と交わらないと生きられない、セックス・シンボル(といっていいのか)としての一面です。
書く作品がよかったのなら、そういう悪目立ちする枝葉の部分は、直木賞とれる・とれない、とはあまり関係なかったかもしれません。ただ、シミショウさんは運がいいことに……いや、運が悪いことに、同じ『近代説話』同人がぞくぞくと直木賞の候補になって、落とされたり受賞したりいるなかで、まるでその戦線からは蚊帳の外に置かれてしまいます。なぜこの時期、シミショウさんが一度も候補に挙げられなかったのか。正直、理由は不明です。
それでも人間、ペン一本で食っていくと決めたからには、注文があれば読者を楽しませるために何でも書くぞと鼻息荒く、とくに多くの人に喜ばれるエロティックな方向性に無類の文才がギラギラときらめき、書くは書くはの大回転、昭和44年/1969年までの10数年で、およそ500冊はエロの本を書きまくった……と言われます。だれもその数を正確に数えた人はいないはずですけど、少なくとも100冊、200冊は確実に出版されていたようです。
ところがこのままで満足するようなタマではありません。安定した物書き稼業じゃなく、おれが欲しいのは、もっと別のことなんだ、と思いを決めると、それまでのシミショウ・ワールドをバッサリ封印。世界を放浪する旅に出て、その成果を古巣の『オール讀物』に持ち込んで採用されたのが昭和52年/1977年1月号の「父ちゃんバイク」。このとき、まったく生まれ変わったことを知らしめるために、別のペンネームを使い始めます。
名前を変えたことがよかったのか。変えなくても同じだったのか。こればっかりはたしかなことは言えません。すべては作品本位で、誰がどんな状況で、どこの出版社から発表したものか、なんてハナシは文学性とは関係がないですし、直木賞の候補になるかならないか、とるかとらないかは、そんな卑俗なことに左右されるはずがないじゃないか!
……と言い切れる人は、まずこの世の中にはいないでしょう。少なくともワタクシは言えません。シミショウさんが再起を計った作品集『旅人よ』(昭和56年/1981年5月・光風社出版刊)のうちの、二つの短篇で、あれほど恋焦がれて手の届かなかった「直木賞候補」に選ばれてしまったのは、結局のところ、人と人との縁の大切さ、あるいは直木賞ならではの話題づくり、といった風合いを感じないではいられません。
というのも、はじめてシミショウさんが直木賞の候補になった第85回(昭和56年/1981年・上半期)、タレント議員、青島幸男さんの候補入りと受賞、という多くのマスコミが沸き返ったこの回ですら、シミショウさんが候補になったこともそれに並ぶ(?)話題だった、と言っている人がいるからです。
「今回第八十五回直木賞の選考過程で浮上した胡桃沢耕史氏(56)は、かつて“絶倫作家”の異名をとりエロ本五百冊をもとにした清水正二郎氏の生まれかわりなのだ。
胡桃沢耕史氏の「ロン・コン〈母の河(メコン)〉で唄え」は最後まで競り合い、結局、青島幸男氏に決まった。「しょうがねェや」という無念の“シミショウ”こと清水正二郎氏だが新しいペンネーム、胡桃沢耕史氏に大変身するまでは苦節の歳月があった。
(引用者中略)
『近代説話』時代からの友人・寺内大吉氏はいう。
「(引用者中略)これからは胡桃沢耕史を含めてシミショウであり、シミショウを含めて胡桃沢なんでね。その全体が評価されていくと思いますよ」」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年7月31日号「直木賞もう一つの話題、胡桃沢耕史氏の変身譚」より)
まるで直木賞には遠いと思われたセクシーの帝王シミショウが、ほんとに名前を変えたことで直木賞に振り向いてもらえたのなら、それはそれでハナシとしては面白いです。小説だけでなく生き方そのものでも人を楽しませようとしたシミショウさんが、一世一代の大勝負に打って出た改名劇。もし最終的にそれが失敗したら、それはそれでシミショウさんは暴れ回って話題をさらに振りまいたでしょう。でも、うまく行ってよかったなと思います。
○
まあ、こんなブログを書いていても全然ラチが明きません。
どうせラチが明かないのなら、ワタクシは直木賞のことを考えつづけて人生を終えたい。ということで、来週からはまた違ったテーマで、直木賞に多少なりとつながりそうなことを書いていきたいと思います。
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