2025年5月18日 (日)

清水正二郎…直木賞から声がかからず、エロ小説の帝王になったところで、改名という大勝負に打って出る。

 いつまでやってもラチが明きません。まあ、こんなブログは始めたときから、絶対にラチが明かないことが確定している、と言えばそうなんですけど、「直木賞と別の名前」のテーマもだらだらやって一年間。今週で終わりにしたいと思います。

 で、せっかく最後なので、パーっと陽気に行きたいな、と思うんですけど、直木賞の歴史に現われた作家で、明るくて華があって、しかも別の名前での活動も目覚ましかった……となると、どうしてもこの人を取り上げたくなるのは自然でしょう。〈清水正二郎〉さんです。

 困ったときのシミショウ頼み、うちのブログではもう何度も何度も、しつこいほどに登場願いました。似たようなハナシをこすりすぎて、別に新たに書けるような情報もないんですけど、直木賞を受賞したときの名前がある、それとは違う別の名前もスゴい、という対比の面でも、シミショウさんの例は明らかに直木賞史に残る代表的なエピソードです。いいかげん、この人ばかりに頼りっきりで申し訳ないんですが、やはり取り上げないわけにはいきません。

 戦争中にはいわゆる外地で時を過ごし、終戦とともにひっとらえられて、苦しい苦しい抑留生活を送ったあと、昭和22年/1947年に命からがら復員すると、くそーっ、この経験を無駄にしてなるものか、という生来の負けん気だましいを発揮して、吉村隊事件、いわゆる「暁に祈る事件」の証言者として突如として世に出ます。

 何といってもシミショウさんには、現実のことがらにゴテゴテと脚色を乗っける、嘘つきの才能、というか物語を語る力がありました。さんざんツラい思いをしてきたけれど、男一匹、腕二本、文章を書いて名を上げんと、小説の世界に飛び込んで、昭和30年/1955年下期、30歳のときに「壮士再び帰らず」で第7回オール新人杯を受賞。懸賞のひとつでもとってなきゃ参加資格がない、とも言われた大衆文芸の同人雑誌『近代説話』の創刊同人のひとりとして名を連ね、以来、直木賞、直木賞、おれは直木賞をとるんだ、とウワゴトのように繰り返しながら、ぶんぶんとペンを走らせます。

 ただ、これと合わせて、シミショウさんは作家としての顔以外に、有名なふれこみで知られるようになります。源氏鶏太さんの「精力絶倫物語」のモデルとなった、要は一日に何度も女性と交わらないと生きられない、セックス・シンボル(といっていいのか)としての一面です。

 書く作品がよかったのなら、そういう悪目立ちする枝葉の部分は、直木賞とれる・とれない、とはあまり関係なかったかもしれません。ただ、シミショウさんは運がいいことに……いや、運が悪いことに、同じ『近代説話』同人がぞくぞくと直木賞の候補になって、落とされたり受賞したりいるなかで、まるでその戦線からは蚊帳の外に置かれてしまいます。なぜこの時期、シミショウさんが一度も候補に挙げられなかったのか。正直、理由は不明です。

 それでも人間、ペン一本で食っていくと決めたからには、注文があれば読者を楽しませるために何でも書くぞと鼻息荒く、とくに多くの人に喜ばれるエロティックな方向性に無類の文才がギラギラときらめき、書くは書くはの大回転、昭和44年/1969年までの10数年で、およそ500冊はエロの本を書きまくった……と言われます。だれもその数を正確に数えた人はいないはずですけど、少なくとも100冊、200冊は確実に出版されていたようです。

 ところがこのままで満足するようなタマではありません。安定した物書き稼業じゃなく、おれが欲しいのは、もっと別のことなんだ、と思いを決めると、それまでのシミショウ・ワールドをバッサリ封印。世界を放浪する旅に出て、その成果を古巣の『オール讀物』に持ち込んで採用されたのが昭和52年/1977年1月号の「父ちゃんバイク」。このとき、まったく生まれ変わったことを知らしめるために、別のペンネームを使い始めます。

 名前を変えたことがよかったのか。変えなくても同じだったのか。こればっかりはたしかなことは言えません。すべては作品本位で、誰がどんな状況で、どこの出版社から発表したものか、なんてハナシは文学性とは関係がないですし、直木賞の候補になるかならないか、とるかとらないかは、そんな卑俗なことに左右されるはずがないじゃないか!

 ……と言い切れる人は、まずこの世の中にはいないでしょう。少なくともワタクシは言えません。シミショウさんが再起を計った作品集『旅人よ』(昭和56年/1981年5月・光風社出版刊)のうちの、二つの短篇で、あれほど恋焦がれて手の届かなかった「直木賞候補」に選ばれてしまったのは、結局のところ、人と人との縁の大切さ、あるいは直木賞ならではの話題づくり、といった風合いを感じないではいられません。

 というのも、はじめてシミショウさんが直木賞の候補になった第85回(昭和56年/1981年・上半期)、タレント議員、青島幸男さんの候補入りと受賞、という多くのマスコミが沸き返ったこの回ですら、シミショウさんが候補になったこともそれに並ぶ(?)話題だった、と言っている人がいるからです。

「今回第八十五回直木賞の選考過程で浮上した胡桃沢耕史氏(56)は、かつて“絶倫作家”の異名をとりエロ本五百冊をもとにした清水正二郎氏の生まれかわりなのだ。

胡桃沢耕史氏の「ロン・コン〈母の河(メコン)〉で唄え」は最後まで競り合い、結局、青島幸男氏に決まった。「しょうがねェや」という無念の“シミショウ”こと清水正二郎氏だが新しいペンネーム、胡桃沢耕史氏に大変身するまでは苦節の歳月があった。

(引用者中略)

『近代説話』時代からの友人・寺内大吉氏はいう。

「(引用者中略)これからは胡桃沢耕史を含めてシミショウであり、シミショウを含めて胡桃沢なんでね。その全体が評価されていくと思いますよ」」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年7月31日号「直木賞もう一つの話題、胡桃沢耕史氏の変身譚」より)

 まるで直木賞には遠いと思われたセクシーの帝王シミショウが、ほんとに名前を変えたことで直木賞に振り向いてもらえたのなら、それはそれでハナシとしては面白いです。小説だけでなく生き方そのものでも人を楽しませようとしたシミショウさんが、一世一代の大勝負に打って出た改名劇。もし最終的にそれが失敗したら、それはそれでシミショウさんは暴れ回って話題をさらに振りまいたでしょう。でも、うまく行ってよかったなと思います。

          ○

 まあ、こんなブログを書いていても全然ラチが明きません。

 どうせラチが明かないのなら、ワタクシは直木賞のことを考えつづけて人生を終えたい。ということで、来週からはまた違ったテーマで、直木賞に多少なりとつながりそうなことを書いていきたいと思います。

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2025年5月11日 (日)

野原野枝実…二度の改名を経て、最初にロマンス小説でデビューしたときのペンネームに、あえて戻してみせる。

 「直木賞と別の名前」とテーマを決めて一年間書いてきました。相変らず、ぜんぜん直木賞と関係ないじゃん、みたいなハナシばかりですし、ネタも枯れ果ててきたので、このテーマもあと少しで終わろうと思います。

 で、終わる前に、やっぱりレジェンド級の人を取り上げておかないと、どうにも締まりがつきません。今週は、直木賞に現われた「別の名前」界のレジェンドのおハナシです。

 ……とか何とか言いつつも、人によっては「どこがレジェンドなんだ」と怒り出すでしょう。いまでも現役バリバリ、直木賞では選考委員を務めている現存の作家だからです。

 有名な人なのでWikipediaにもありますし、何ならそこには「ペンネーム」なる項目まで立っています。よほどこの作家にはペンネームのエピソードが付いてまわる。という意味でもレジェンド級に違いない、と強弁しておくことにします。

 ペンネームの変遷はたしかに相当独特です。まず本名がある。シナリオ養成講座に通ったものの、そちらではモノにならず、小説を書いてサンリオロマンス賞に応募したのが昭和59年/1984年です。このとき自ら付けたペンネームがのちのち江戸川乱歩賞をとってよく知られる名前になるんですけど、『熱い水のような砂』(昭和61年/1986年2月)、『真昼のレイン』(同年7月)とサンリオニューロマンスとして出版されたあと、改名を余儀なくされ、〈桐野夏子〉として『夏への扉』(昭和63年/1988年3月)、『夢の中のあなた』(平成1年/1989年1月)と双葉社の双葉レディース文庫で本になります。

 しかし、どうやらその名前も本人としては意に沿わず、再びの改名を決断します。付けた名前が〈野原野枝実〉で、これは森茉莉さんの小説『甘い蜜の部屋』(昭和50年/1975年8月・新潮社刊)の登場人物からとられているんだそうです。読み方も原作にあるものを踏襲して「のばら・のえみ」となっています。

 何か『甘い蜜の部屋』に強い思い入れがあったわけじゃなく、たまたま小説のなかに出てくる名前をパッと付けた、という説もあります。もうここら辺の理由は、当時の彼女の心境次第で、よそからとやかく推測できるものでもありません。『恋したら危機(クライシス)!』(平成1年/1989年8月・MOE出版/MOE文庫)を皮切りに13冊の小説を〈野原野枝実〉名義で書きました。

 ハナシによれば、おのが手で小説を生み出してお金を得る仕事は、自分に合っていそうだ、とこの辺から思い始めたそうです。と同時に、むくむく不満と欲求が募ってきた、と本人の回想に書いてあります。

「ジュニア小説は読者が若いということもあって、どうしても内容に飽き足らなかった。コミックの原作も、空想を自由に遊ばせられるという意味では楽しいが、すべて自分の物ではないという不満足感が伴う。自分が読みたいと思える小説を自由に書いてみたかった。」(平成15年/2003年9月・メディアパル刊『そして、作家になった。 作家デビュー物語II』所収 桐野夏生「自由に書きたい」より)

 そうして自分が書きたいものをのびのびと書いた、というのが「冒険の国」と題された原稿で、昭和63年/1988年の第12回すばる文学賞最終候補に残りました。

 なるほど、すばる文学賞の締切は昭和63年/1988年4月30日ですので、MOE文庫から〈野原野枝実〉さんの本が出る前です。年譜を見ると、昭和61年/1986年ごろから「ロマンス小説」の依頼が増え、レディース・コミックの森園みるくさんとのコンビもスタートする、とあります。おそらくこれらの仕事が軌道に乗るかなり早い段階から、もっと自由にものが書きたい、という衝動に駆られたんでしょう。自分が書きたいものを書く。それがお金になれば、なお素晴らしい。ほんとにその通りです。

 それで平成5年/1993年、江戸川乱歩賞に応募したその原稿で、見事に受賞ということになるんですけど、ここで元々自分が最初につけたペンネームを、もう一回復活させたところに、本人の気概を感じないわけにはいきません。

 ジャンルが違う小説で再出発をはかるとき、また別の筆名を付ける、という例は一般によくあることかと思います。直木賞でも、そういうふうに別名義で再デビューした人が、候補になったり受賞したり、ということは決して珍しくありません。

 しかし、〈野原野枝実〉さんの場合は違います。サンリオのロマンス小説で活動していた昔の名前を、もう一度、名乗ったわけです。あたしゃ、自分の付けたい名前で自分のやりたいように小説を書いていくのさ。と、言ったかどうかはわかりませんけど、はたから見ている側にしてみれば、何がしかのこだわりを感じないではいられません。

 ペンネームの変遷だけでも、作家の覚悟を感じさせてしまう。すでにもうレジェンドです。

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2025年5月 4日 (日)

堀江林之助…生まれ持っての小児麻痺。それでも単身上京してラジオドラマの世界で(地味に)名を残す。

 何週か前に奥村五十嵐さんのことを取り上げました。

 直木賞の初期も初期、当時は最終候補に挙がる前にどういうふうに予選が行われたのか、ポロッと書いちゃう委員がいたおかげで、直木賞がどんな作家やどういう作品を、予選のところで対象にし、上に引きあげたり地に落としたりしていたのか、あとの者にも伝わる仕掛けになっています。残念ながら現在は、直木賞の運営をしている人たちの頭の中に、「直木賞のあれこれを後に残そう」という感覚があるようには見えません。おそらく何十年か経って、平成・令和の直木賞の予選に挙がった作家や作品のことを知りたいと思っても、まずほとんどわからないでしょう。悲しいハナシです。

 とまあ、いまのことは、どうでもいいんです。今週もうちのブログは、昔むかしの、覚えていようが忘れちゃおうが、どうでもいい直木賞に、ほんの一瞬だけ顔を見せた作家について書いてみようと思います。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)、いまから85年も前のとおの昔に、直木賞では何名・何作かの作品が予選の段階で俎上に乗せられたと言われています。

 そのなかで、子供の頃から重い持病をもっていたため、学校にもろくに通えず、独学でものを書き始めた人、……ということになれば、その第11回で受賞した堤千代さんがまず名前に上がりますが、もう一人、似たような境遇ながら不屈のブンガク魂で自らの人生を切り開こうとしている36歳の男がいました。第11回の予選時に挙がったその名前は、ペンネームで、いまとなってはまず無名中の無名の名前なんですけど、本名のほうはそれよりかは多少、歴史に残っているものと思われます。〈堀江林之助〉さんです。

 なんだよ。だれだ、それ。……と、今回もまた、ついついワタクシはつぶやいてしまいますが、直木賞にとっては大恩ある『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の入選者のひとりだそうなので、ここは丁重に紹介させてもらいます。

 明治37年/1904年6月、福岡県鞍手郡木屋瀬町の出身。父親は小林儀一さんという人で、何をなりわいとしていたのかは不明ですけど、三男に生まれた〈林之助〉さんは堀江さんちの清光さんのもとに養子に出されます。

 〈林之助〉さんは先ほど書いたとおり、生まれつき小児麻痺を患っていて、自分の足で歩くことがままなりません。学校に通ったという履歴もなく、独学で勉学に励みます。

 その後、何がどうしたのか、昭和3年/1928年で単身上京、これが24歳ぐらいのときです。不自由なからだで、さぞかし苦労したとは思うんですが、そのあたりのことは、もっとくわしい堀江林之助研究者の手にまかせることにしまして、すでに文学のなかでも詩作に興味があったものらしく、昭和のはじめ頃にはそういった詩の作品がチョロチョロ文献に見られます。

 しかしその後〈林之助〉さんは劇作のほうに進みます。昭和12年/1937年に発表した「雲雀」は、〈林之助〉さんが劇作家として界隈で知られるようになった最初期の一作だそうですが、このとき33歳。遅いといえば遅いスタートです。

 と同時に、『サンデー毎日』大衆文芸にも投稿を重ねるわけですが、昭和3年/1928年乙種で〈小林林之助〉という人の「落武者」が当選していて、これが〈堀江〉さんのことだそうです。となると、このとき『サン毎』で当選したことが、彼自身の文学で身を立ったるぜ、の心に火をつけ、単身で上京するきっかけになったのかもしれません。

 東京に出てきてからも、おそらく何度か投稿したものでしょう。そのうち、「燃ゆるボタ山」が昭和13年/1938年上期で選外佳作、「男衆藤太郎」が昭和15年/1940年上期でついに当選を果たします。〈林之助〉さんが唯一、ほんのちょっとだけ直木賞と交わったのが、この「男衆藤太郎」が直木賞予選の作品に入っていたことで、その後、いくつか大衆小説は書きましたが、むしろ〈林之助〉さんが活躍したのはラジオドラマの脚本の分野でした。

 ラジオドラマ。いまでもあります。しかし、大正から昭和の半ばごろまで、ラジオドラマと大衆文芸は、仲のいい兄弟のように密接・密着した世界だったと言われます。〈林之助〉さんは小説も書き、演劇のほうも手がけますが、何といっても数百を数えたと言われるラジオドラマの書き手として、一時代を担ったそうです。不屈の〈林之助〉、活躍の場があってよかったです。

 ちなみに、活躍していた頃の『人事興信録』にはこんな文章があります。

「昭和三年単身上京爾来小説劇作其他主としてユーモラスなる筆致にてヒユマーンなるものを底流せしめ地味な存在を保ち殊に近年は民話劇の分野に一風を拓き昭和二十八年度芸術祭に於ける放送劇「昔話源五郎」は文相より奨励賞を受く」(昭和30年/1955年9月・人事興信所刊『人事興信録 第十八版 下』「堀江林之助」の項より)

 こんなもの、だいたい自分で書くものだと思うので、おそらく〈林之助〉さん本人による自分評でしょう。「ヒユマーンなるものを底流せしめ」と、自分で自分の作品を解説するのもこっ恥かしかったんじゃないかと想像しますが、「地味な存在を保ち」、この表現にはハタと膝を打ちました。

 偉い、偉いぞ、〈林之助〉。自分が地味な存在だということを自覚していたなんて。直木賞にはまるでその足跡は残せなかった人ですけど、むくむく好きになりました。

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2025年4月27日 (日)

らもん…27歳の青年が、ふと自費でつくった作品集の、直木賞とのつながり。

 人は誰しも若いころには、文章を書いたり絵を描いたりして自分で本をつくったことがあるものです。

 勝手なこと言うな、そんな経験おれにはないぞ、という方もいるでしょう。ないならないで、それは平和なことですが、ハナシが続かなくなるので、多くの人はそういうことをやっている、として許してもらいたいと思います。

 まあ相変わらず、だんだん直木賞とは関係のない領域に入ってきましたけど、今週取り上げる例も、ほとんど直木賞とは接点がありません。第106回(平成3年/1991年・下半期)、いまから30年以上前に『人体模型の夜』ではじめて直木賞の候補に挙げられると、第109回『ガダラの豚』、第112回『永遠も半ばを過ぎて』がちょうど1年半ごとに予選を通過。しかし直木賞はいつだって時の運で、受賞させることはかなわなかったものの、それでもメディアで大人気の書き手だったので、数多くの仕事と伝説を残し、「直木賞があげることのできなかった人気作家」の一角を占めるに至り、没後なお人々の心をひきつけている……というのが今週の主役です。

 本名は本名で〈裕之〉(ゆうし)という名前を持ちながら、一般的には、かなり印象的なペンネームのほうで知られています。知られていますというか、ワタクシだって、そのペンネームでのお仕事しか知りません。

 で、ものの本によれば、平仮名二文字の、そのペンネームの名前のほうは、もともとは最後に〈ん〉の文字が付いていたそうです。元に別のペンネームがあった、ということでは、「別の名前で活動した人」リストに加えてもいいんじゃないかと思い、取り上げてみることにしました。

 昭和50年/1975年、大阪芸術大学に通っていたときに学生結婚、翌年、働き手でもあった妻が妊娠して、大学を卒業した〈裕之〉さんは印刷会社の「大津屋」で働きはじめます。そこで働いたのは昭和55年/1980年までだったようなので、都合4年ほどに過ぎませんが、そこからコピーライター養成講座に通って広告の世界に目標を向けると、昭和56年/1981年に広告代理店の「日広エージェンシー」に入社、昭和57年/1982年には『宝島』誌に掲載のかねてつ食品の広告ページを担当するようになって「啓蒙かまぼこ新聞」なる誌面を展開。このときペンネームを、本名の苗字と、〈らもん〉から〈ん〉をとったものを組み合わせて使い始めた、ということでそこから数々の伝説が生まれていきます。

 ということで、〈裕之〉さんが〈らもん〉という名前を使ったのは、期間にして2、3年ほどだったみたいです。この名前の由来は、無声映画時代の剣戟スタア〈羅門光三郎〉からとったと言われていますが、よほど本人がこの役者に思い入れがあったのか、あるいは単なる思いつきだったのか。おそらく後者だと思いますけど、その辺はよくわかりません。

 何といっても羅門光三郎といえば、直木三十五さんの代表作『南国太平記』が映画化されたときに、主役の一人に立てられ、大ヒットを飛ばした人物です。当時の大衆文芸は映画という大衆娯楽のおかげでさらに活字文化として勢いを増した、という面は否定できません。そう考えると羅門さんは直木さんにとっても縁があるどころか恩人には違いなく、そこから名前を拝借するとは、なかなかの慧眼だと言えなくもありません。まあ、〈裕之〉さんがそんなことまで意識していたとは思えませんけど。

 〈らもん〉名義でどんな活動をしていたのか。おそらく唯一といっていい発表物が、昭和54年/1979年に自費出版の態で100部ほどつくられた『全ての聖夜の鎖』です。平成26年/2014年7月に復刊ドットコムから新装版として復刊されたおかげで、ワタクシみたいな一般人でも手軽に(?)手にすることができるようになりました。ありがとう、復刊ドットコム。

 中身を読んでみると、三つの短編(掌編)が収められています。いずれも詩的で、幻想的で、それでいて現実の世界が基盤になっていて、どこかの同人雑誌とかではよく載っているような、あるいは文学フリマとかに行けばいまでも売っている人がいそうな、イタイタしさと才能をまぜこぜにしたような作品集です。のちのこの作家の業績を見る上では、間違いなく必読の処女作と言っていいでしょう。

 この〈らもん〉による『全ての聖夜の鎖』は、いまから見ると奇跡的な出版物です。別に自分でもの書きになろうとも何とも思っていなかった神戸の27歳の青年が、ぱっと思いついて書き上げた作品を、自分で印刷物に仕立てようと思ったところも、奇跡といえば奇跡ですし、平成26年/2014年、没後10年して復刊ドットコムが本にしても奇跡。そして、平成12年/2000年に、作者がまだ存命中に、文藝春秋から復刻版を出したのもまた、裏の事情がよくわかりませんが、奇跡だったと言っておきたいと思います。

 このときのあとがきである「二十年たって」から引いておきます。

「その頃おれは印刷屋の営業マンをして、先ゆき自分が文筆でメシをということは考えもしなかった。

野心がない。

その分、ピュアな一冊だといえる。」(平成12年/2000年12月・文藝春秋刊『全ての聖夜の鎖』「二十年たって」より)

 いいですね、ピュア。文学賞をとったとか落ちたとか、そんな世俗的な汚らしさがなくて、すがすがしいです。

 〈らもん〉さんが最後に直木賞の候補になったのが平成6年/1994年・下半期ですから、それから約6年。直木賞とはついに離れた頃のときが経って、直木賞の勧進元・文藝春秋から、直木三十五と縁のふかい羅門光三郎にあやかったペンネームの〈らもん〉名義で、ピュアな処女作が復刊される。一般的には、まあたまたまの偶然だよね、といった感じでしょうけど、直木賞を中心にしてみれば、奇跡的な出来事でした。

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2025年4月20日 (日)

幸田みや子…文章を書いてお金を稼ぐことを選んだ女性たちの、ささやかで希望に満ちた共同名義。

 出版業界に生きている人は、だいたいいくつかの名前を持っています。

 いや、出版業界に限ったことじゃありません。他の世界でも、屋号やら、雅号やら、ペンネームやら、場面や状況に合わせて一人でいくつもの名前を使い分けている人は、たくさんいます。直木賞に関わった人たちも、もちろんそうです。どんな名前で活躍していたのか。こういうものを調べ出すとキリがないんですけど、毎週毎週、直木賞のことに触れていたい人間にとっては、キリがないのは幸せなことです。何といっても時間がつぶせます。

 それはそれとして、直木賞の候補になったり受賞したりする人は、小説だけ書いている人もいますが、そうじゃない人もけっこうまじっています。今週取り上げようと思う人もまたその例にもれず、作家として著名なだけじゃなく、エッセイストとして、あるいはドラマの脚本家として、とにかく仰ぎ見るほどの有名人です。亡くなって40年以上も経ちますが、いまだに関連書籍がたくさん出ています。

 そういう本をチラチラと覗いてみると、この方もまた、本名で売れる前に、いくつか別の名前で活動していたんだ、ということが書かれていました。

 昭和4年/1929年、一家の長女として生まれ、子供のころは父親の仕事の関係で日本各地を転々とします。戦後、昭和25年/1950年に実践女子専門学校を卒業、本人はまだまだ学び足りずに大学に行って学びたがったようですが、親から反対されて、財政文化社に入社したものの、うーん、わたしのやりたい仕事はこれじゃない、と思い悩んだ末に、すっぱり転職して昭和27年/1952年に出版社の雄鶏社に入社します。

 うんうん、これこれ、文章を書いて表現したり、ものをつくったりするのがわたしの水には合っているのよ、と言わんばかりに仕事に張り合いが出て、編集者として働きますが、やがて自分でも組織のなかで働くのではなく、自由な身分でものを書いてみたいと思うようになり、昭和32年/1957年、28歳ぐらいのときに内職で他の会社の雑誌記事なども手がけるようになります。

 本職がありながら、また別のところで仕事もする。……といったところで登場するのが別の名前です。よその仕事を本名でやるわけにはいかない、というところから彼女が考えたのが〈幸田邦子〉という名前だった、ということです。

 〈幸田〉というと、すでに明治以来から有名な作家がいて、またその娘も随筆家として活躍中でした。珍名というわけではありませんが、そう大量にいる苗字でもないからか、〈幸田邦子〉と名乗って名刺を渡すと、幸田文さんのお嬢さんですね、と言われてこともあったと「モンロー・安保・スーダラ節」(『女の人差し指』所収、初出『人間・平凡出版35年史』昭和55年/1980年10月刊)に書いてあります。

 この名前で1年半ほど、『週刊平凡』のアンカー・ライターの仕事をしたそうで、年譜でいうとだいたい昭和35年/1960年ごろのことでしょう。会社勤めでありながら、ライターとして別に収入を持ち、そういったアルバイト代を家族のために使ったりしていたことが、妹・和子さんの回想録にも出てきます。頼りがいのある姉さんです。

 それが昭和36年/1961年に『新婦人』で「映画と生活」というコラムを書く段階では本名を使うようになるんですが、これはおそらく前年に雄鶏社を退社したことが理由なんでしょう。もはや別名を名乗る必要もなく、女一匹、堂々と本名をさらして書いていくぞ、という決意の現われ……と言っていいのかどうなのか、単に本名で書くほうが自然だと思っただけかもしれません。短い〈幸田邦子〉時代はこうして終わりを迎えました。

 そしてもう一つ、その時期に彼女が名乗った(?)別名といって挙げておきたいのが〈幸田みや子〉です。同じ女性ライター仲間と共同で原稿を書くときに使ったもの、だということです。

 その女性ライター仲間、福島英子さん(のち加藤英子)が振り返っています。

「私も向田さんも、そのころは本業は雑誌の編集者で、同時にフリーのライターでもある二足のワラジ組だった。ひと足先にライターになっていた宮坂幸子さん(現・甘糟幸子さん)の紹介で、三人で西銀座デパートの地下にある有料待合室「ブリッジ」で顔を合わせたことだけは確かだが、何を話したのか全く覚えていない。

(引用者中略)

宮坂さんと私は、「ガリーナ・クラブ」という名のグループをつくっていた。あとから向田さんも迎え入れて、三人になった。命名は露文出の宮坂さん。めんどり三羽で、おおいに金の卵を産むつもりだったが、やがて私と宮坂さんはこども(引用者注:こどもに傍点)を産んで、金の卵は向田さんだけのものになった。」(平成11年/1999年8月・文藝春秋/文春文庫『桃から生まれた桃太郎』所収、加藤英子「解説 私が触れた向田さん」より)

 おそらく当時のことは、福島=加藤さんだけじゃなく甘糟さんも回想の原稿を書いていると思います。出版業界に多少なりともおカネや未来があった1960年代。フリーの女性3人がどのように夢をもち、どのように壁にぶつかり、乗り越えていったのか。と、そういうふうに想像するだけで胸が熱くなるところです。

 そもそも三人が仕事のうえで協力して、〈幸田みや子〉という名前を生み出したことが胸アツの青春です。果たして三人で書いたのか、あるいは〈幸田〉さん+宮坂=〈みや〉子さんの二人で書いたのか。このあたり、共同執筆の分担をあとから分析するのは難しいですが、金の卵というか、直木賞の卵が、そんなところにもひそんでいたんだと考えると、読み捨てられる運命にあった雑誌に載っている一本一本のナニゲない記事が、愛おしくなってきます。

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2025年4月13日 (日)

奥村五十嵐…ペンネームを使って小説を書いたりして、少し背のびしすぎじゃないか、と言われる。

 直木賞の候補作家のことを調べていると、たびたび見かける周辺人物、みたいな人がいます。村島健一さんとか。山田静郎さんとか。あるいは今週取り上げる〈奥村五十嵐〉さんなんかもその一人です。

 まず何といっても名前が個性的です。

 オクムラはいいとして、イガラシなる名前。親か親戚か、いったい誰が名づけたのか。どんな由来があって付けられたのか。〈奥村〉さん自身、生前たくさんの原稿を書きましたので、どこかで自分の名前についても書いている気はします。ただ、こちらが不勉強のせいで、いまもまだそういった文章には出会っていません。

 それはともかく〈奥村〉さんです。かなりの苦労人だったと言われています。

 明治33年/1900年、熊本県玉名郡天水町に生まれ、熊本高等工業に進んだものの、学問らしい学問を修めたというよりは、早くに手に職をつけなきゃいけない境遇だったんでしょう、若い頃には紡績工、あるいは機械技術員として汗水垂らしながら暮らしました。勤務先としては八幡製鉄にいた、と『大衆文学大系29 短篇上』(昭和48年/1973年・講談社刊)の略歴には書かれています。

 それから大阪に移り、泥水をすする労働生活を送るうちに、こんなんじゃ駄目だと人生大きく舵を切ろうとしたか、上京したのが大正7年/1918年のこと。すでに齢18歳を迎えていた頃合いです。〈奥村〉さんが目指した人生の道とは何だったか。文学に携わることでした。

 大正後期、詩誌『未踏路』の同人として活動していたことは、のちに有名になる北川冬彦さんがこの雑誌にいたことで、何とか動向として残っています。他にも同人雑誌にはいくつか参加していたっぽいんですが、全貌は明らかになっていません。もはや〈奥村〉さんに興味を持つ人が現れる気配もありませんので、おそらくこのまま埋もれていくんだと思います。

 〈奥村〉さんの名前が文学(の裏面)史にちょくちょく出てくるのは、もう一つ、職場が新潮社だったことが大きいです。何のツテか上京した〈奥村〉青年は新潮社に入社すると、佐左木俊郎さんなどといっしょに雑誌編集に勤しみます。『文学時代』とか『日の出』とかの編集部で働いたこともあり、後輩社員だった和田芳恵さんが、これもまたあとになって著名な書き手になったおかげで、先輩・奥村五十嵐の編集部での行状の一端が後世に残されることになります。

 当時流行作家だった三上於莵吉さんに原稿をもらうことになったんですが、まあ三上さんといえば、家にいることが少なくて待合を転々とする放蕩児です。しかも機嫌が一定しておらず、正直扱いづらい作家だったそうで、原稿をとりにくる来る編集者には酒を飲ませ、少しでも気に入らないことがあると、せっかく書いた原稿を編集者に渡さず破いちゃったとか何だとか。

 さすがに〈奥村〉さんもなかなか原稿ができない三上さんの日常に我慢ができず、何かの拍子で三上さんの胸ぐらをつかんで一触即発の場面を引き起こします。こういうときに分が悪いのは、どうしたって編集者のほうなのは、文壇ゲンカのあるあるです。〈奥村〉さんは会社にいづらくなり、和田さんによればそれがきっかけで新潮社を去ることになったと言われています。昭和10年/1935年ごろ、ちょうど直木賞が始まるかどうかという時代のことでした。

 〈奥村〉さんはそれからはフリーになって、いわゆる一介のライターとして身すぎ世すぎを送ることになるんですけど、在社中から創作、評論、批評などけっこう原稿を売っていたみたいです。自身で書く小説も、徐々に大衆向けのほうにシフトしていきますが、生活のため、と考えればその方向性も他人が否定するべきものじゃありません。

 となれば、ツルむ仲間もやはり大衆文壇に近いほうに固まっていきます。昭和14年/1939年、海音寺潮五郎さんたちが創刊した大衆文芸方面の同人雑誌『文学建設』という一誌があって、前にもうちのブログで触れた気がしますが、〈奥村〉さんもその中心人物の一人として参加。大衆小説の作家としての道を歩み出しました。ときに39歳。いい年齢です。

 新しくペンネームもつけました。そちらの名前で戦中にはバリバリと小説、読み物を発表し、中の一作『日の出島』(昭和17年/1942年7月・春陽堂書店/海洋小説叢書)という時代モノの長編が、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞のときに、予選担当の小島政二郎さんの目に触れて、作品名だけ選評のなかで言及されています。これを「直木賞候補作」と呼ぶのは、さすがに無理があるので、うちのサイトでは「推薦候補」とかテキトーな名称をつけましたが、〈奥村〉さんが作家として直木賞と交錯したのはこの一回きりです。

 直木賞はとりあえず措いておきましょう。名前の件です。ペンネームのことです。

 どうして〈奥村五十嵐〉を捨てて違う名前にしたのか。理由は定かではありません。ただ、のちに交流のあった森本忠さんが、こんな回想を残しています。

「私は奥村五十嵐を想ひ出す。彼は炭坑の町荒尾の貧しい家に生れて、学校も小学校位しか出てなかったが、講談社お抱への大衆作家になった時、何と納言恭平といふ勿体ぶったペンネームを名乗ったものだ。

大分久しい以前のことだが或る正月、永福町の福田清人君の新居で、皆と酒を飲んで歌ったり議論したりしてゐた時、何かの拍子に僕はちょっと奥村に、

「君はすこし背のびしすぎやしないか。人間はありのままの自分をさらけ出しとればいいので、何も爪先立って自分を自分以上に見せかける必要はない」

といふ意味のことをいったのがいけなかったらしく彼は急に怒り出して

「森本ッ! 表へ出ろ」といきり立ち、皆がなだめるのに大騒ぎしたことがあった。あとで伊藤整が

「君が独逸語の歌なんか歌ったのもいけなかったな。外国語を知らぬことで彼はひどくひけめを感じてるんだよ」

といったことがあった。(引用者中略)戦後亡くなって、或る雑誌に田村泰次郎が小説に書いてゐたが、奥村の性格の中にあるコンプレックスを見事に描き出している。」(昭和43年/1968年・日本談義社『僕の詩と真実』より)

 田村さんが書いたという小説の中の〈奥村〉像は、ワタクシ自身は未読です。

 ただ、森本さんが〈奥村〉さんに学歴や生い立ちに対するコンプレックスがあった、と見ているのが面白いです。九州でろくに学校も通わず、それでも何とか生活を築き、同時に文学のほうにも野心を抱いて、がんばってきたんですもの。コンプレックスもあったでしょう。

 そうか、別の名前はコンプレックスから生まれることもあるのか。……〈奥村〉さん自身が、ほんとうに背伸びして本名で書くのをやめたのか、最初に書いたとおり詳細は不明ですが、それでもまあ、何らかの思いで付けられたペンネームが、直木賞の選評のなかに一回でも刻まれて、直木賞ファンとしてうれしく思います。

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2025年4月 6日 (日)

木村外吉…小説を書いて評価された直後に、脳出血で人事不省に陥る。

 今週は本屋大賞ウイークです。

 とはいえ、本屋大賞メインでブログを書けるほど、ワタクシも深く知っているわけじゃありません。それはそれ、これはこれと割り切って、今週も、この時期になるとほとんど話題にあがらない直木賞のハナシで押し切ろうと思います。

 今回取り上げるのは〈木村外吉〉さんです。誰でしょうか。本名です。有名なのか無名なのか、そんなことは知ったこっちゃありませんが、第44回(昭和35年/1960年・下半期)といいますからいまから半世紀以上も前に、一回こっきり直木賞の候補に挙がりました。

 そのときはペンネームを使って小説を書いていました。うちのブログもこれまで長くやってきましたが、あまり〈木村〉さんのことに触れたことはありません。古い人について書こうとすると、不勉強モノにはハードルが高く、何を書くにしてもわからないことだらけです。〈木村〉さんについても、その作家的な履歴はまだまだ研究の余地が残っています。

 とか何とか言い訳しながら、ざっと生涯をなぞってみます。生まれは大正2年/1913年4月20日。石川県金沢市の出身です。富山師範学校に通って卒業したのが昭和9年/1934年のこと。富山県で教員の職に従事します。

 何に対してどういう興味を持ちながら20代の日々を送っていたのか。それはもう、詳しいことは不明なんですが、昭和14年/1939年に発表された朝日新聞社主催、大蔵省後援の国民貯蓄奨励脚本募集という、劇化・映像化を前提とした懸賞に、西礪波郡醍醐村尋常小学校に勤めるかたわら応募してみたところ、見事に入選を勝ち取ります。「恩愛遮断機」という作品で、じっさい映画化もされたみたいです。

 日本の戦時下、富山の土地の学校の先生としてどんなふうに日々を送っていたのか、それもまた詳細はわかりません。ともかく日本はドカンと攻め込み、ドカンとやられ、昭和20年/1945年8月には降伏を受諾。〈木村外吉〉32歳、まだまだ人生はこれからだ、と空を仰いだか涙に暮れたか、その年の9月にはさっぱりと教職の道を捨て、まるで違う種類の職場に転職を果たします。北日本新聞社という地方新聞社でした。すでに愛妻〈かの〉さんと二人の女児を抱える身の上で、生活のためもあったかもしれません。わかりません。

 ともかく新聞記者となってあわただしい戦後の日本を生き抜くうちに、さらに二人の子供が生まれ、一家六人、愛する家族たちを養うために、お父さんは働きます。北日本新聞のなかでも順調に出世して、西礪波支局長に就任。

 その間、かつて脚本募集で入選してから文学に対する情熱もからだのなかに充満させ、小説なんてものを書いているうちに、当時、大衆読み物の懸賞ではまあまあ知名度もあった講談倶楽部賞に応募を重ねると、昭和31年/1956年「遠火の馬子唄」が入選作に選ばれます。同時に受賞した〈福田定一〉さんは奇しくも関西の産経新聞で働く同業者で、新聞記者が小説を書くのも珍しくないこの時代を象徴するかのような受賞風景でした。

 人生の歯車がうまく回りはじめた。と思われたちょうどその直後、〈木村〉さんの身に想定外の不運が襲います。ある冬の日、突然、脳出血に見舞われて入院さわぎ。その影響でいっとき、生死をさまよい、言葉も出ず、ものもわからず、休職しなければならなくなったのです。

 のちに書かれた〈木村〉さんの経歴紹介文にこうあります。

(引用者注:昭和)三十六年一月、同人雑誌「小説会議」に発表した「妖盗蟇」が第四十四回直木賞候補に指名された。各紙記者が予定稿出稿のためインタビューを申し入れてくるほどの有力候補であったが、ギリギリのところで選にもれた。これを機に闘志をかきたて創作に専念した。二年後に小説集「天平のむらさき」を東方社から出版し、高い評価を受けた。東京へ出て本格的に作家活動を展開しようともくろんだ矢先、過労から脳卒中で倒れた。以後、創作活動にブレーキがかかった。」(昭和59年/1984年10月・北日本新聞社刊『富山県民とともに 北日本新聞百年史』より)

 第44回直木賞は寺内大吉さんと黒岩重吾さんが受賞した回ですが、たしかに〈木村〉さんの候補作を源氏鶏太さんは推奨したものの、有力候補だったという形跡はなく、また当落ギリギリだったかどうかも眉ツバです。

 と、それはそれとして、気にかかるのは出来事を並べる順番です。この紹介文だと、いかにも脳卒中で倒れたのは、直木賞候補になったり『天平のむらさき』(昭和39年/1964年1月・東方社刊)を出したりしたあと、と読めますが、〈木村〉さんが本名で出した『ノイローゼを脱け出て』(昭和53年/1978年6月・柏樹社刊)の記述などをたどっていくと、どうやら〈木村〉さんが倒れたのは昭和32年/1957年冬。つまりは直木賞の候補になる前のことだったはずです。

 どうしてこんなことになったのか。〈木村〉さんの小説がその後、全国的に注目される機会がなかったことを、病気で倒れたせいにしたかったのか、書いた人の感情はわかりません。

 むしろ、講談倶楽部賞をとってさあこれからだ、というときに病に倒れ、強いノイローゼにかかり、不安や自己憐憫などから一時は自殺も考えたほどだったのに、そこから再起して小説に戻った結果、直木賞の候補に挙がるまでになった……としたほうが、ぐっと感動する人も多そうな気がします。少なくとも、〈木村〉さんが直木賞候補になった前後のことを調べていて、ワタクシ自身は、ぐっと来ました。よくぞ人生あきらめずに立ち直ったなと。

 直木賞をとる、とらない以前に、やっぱ人間は生きていてこそのものです。

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2025年3月30日 (日)

大岡鉄太郎…本名で書くわけにはいかない、という業界内の慣例か、別の名前でも仕事する。

 どうして人は、自分に別の名前をつけたがるのか。

 ……つけたがる、というと語弊がありますけど、名前なんて一つあればいいところ、二つも三つも別の名前をもつ人がいます。直木賞の界隈にもたくさんいます。

 昭和63年/1988年上半期、第99回のときに直木賞を受賞したこの人も、受賞したときの作家名は本名で、一般的にもその名前でよく知られている人ですが、他にいくつかの名前を使ったと言われています。

 いやまあ、言われていますというか、この人が活躍していた頃の同時代を生きた人は、まだまだこの世にどっさりいます。そういう人たちの思い出や記憶のなかに、彼の姿はくっきり刻まれていることでしょう。うちのブログが知ったかぶって書き記すほどのことではないんですが、昭和終わりの直木賞の歴史を彩ってくれた大恩ある作家なのはたしかです。やっぱり一週分書いておこうと思います。

 よく知られていた最も大きな要因とは何か。といえば、1980年代、90年代、テレビ文化が日本のエンターテインメントの王者に君臨していた頃に、いろいろな場面で画面に登場していたからです。この人がもつ別名のひとつに〈フルハム三浦〉というものがありますが、これなども当時のバラエティ番組の文化が生んだ、世の中の事象や人物を茶化すことが面白いんだという発想から生まれた名前です。

 ちなみに〈フルハム三浦〉という名は、直木賞と縁がないこともありません。

 『遠い海から来たCOO』で直木賞を受賞したとき、『オール讀物』昭和63年/1988年10月号でその決定が発表されましたが、その誌面でもはっきりと、その名前のことが紹介されていたからです。

 以下はグラビアページのキャプションです。

「青島幸男氏にあこがれて、TV界入りした景山氏も、一時期はフルハム・三浦などと称してお茶の間に登場したこともあった。現在、殺到する仕事を氏の所属する事務所の社長でもある夫人と切り回しつつ、間もなく完成する長篇冒険小説の執筆に余念がない。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号より)

 〈フルハム三浦〉が一躍知れ渡ったのは、バラエティ番組のプロレス企画ですから、それはこのぐらいインパクトがある、ふざけきったパロディ精神全開のネーミングのほうがよかったのは納得できます。本名で出ても、たしかに別に面白くはありません。

 ただ、もう一つ『オール讀物』のこの号に出てくる、受賞者の別名については、ちょっと事情が違います。〈大岡鉄太郎〉という名前です。

 こちらは、受賞者本人がこれまでの人生や歩みを語る受賞記念エッセイのほうに出てきます。

 放送作家として数多くのテレビ局と番組に出入りしていた昭和50年代なかばのこと。最初に結婚した相手と離婚することになったため、その慰謝料を払わなくてはならなくなり、どんどん稼いでどんどん払う、狂騒の仕事生活を送ります。とにかく何でもかんでも手当たり次第といった感じで、仕事があれば次々と受けながら番組の台本を量産する日々。そのなかから〈大岡鉄太郎〉という名前も生まれた、ということです。

「離婚を成立させるためには、慰謝料と養育費の支払い能力のあることを(引用者注:家庭裁判所の)判事に信用してもらわねばならないから、レギュラーの仕事で稼いだ金のほとんどは、アチラの銀行口座行きだ。たまさか、今回みたいな飛込み単発仕事がくると、三業種四業種かけもちで受けて、並の放送作家の倍以上のギャラをふんだくる。それでも食っていけないとなると、NTVの『イレブンPM』の台本を書き終えたその足で、テレビ朝日に駆けつけて、真裏に当たる『23時ショー』の台本を書く。さすがに本名では書けないから、大岡鉄太郎という訳の分らぬペンネームで書く。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号「怪屋の怪人」より)

 わかったような、わからないようなハナシです。

 別のテレビ局の同じ時間帯の番組それぞれで、台本書きの仕事をする。そのときになぜ同じ名前で書いてはいけないのか。テレビの世界の慣例というか風習というか、そんなところなのかもしれませんが、だれがどういう理由で問題視するのか。見ているわれわれには、さっぱり理解できません。

 どうして人は、別の名前をつけたがるのか。本人にとっては、つけるもつけないも、まわりの状況から判断してそうするのが普通だ、と思っただけかもしれません。しかも、あれだけブイブイ言わせて人気者だった〈大岡鉄太郎〉さんが、直木賞をとったあとに、あんなことして、こんなふうになって、違うところに行っちゃうのですから。人の世はわからないことだらけです。

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2025年3月23日 (日)

のぶ・ひろし…放送業界のデキるクリエイターとして働くうちに疲労がたまる。

 別の名前をもつ直木賞関係者エピソード。ということで去年の5月ごろからやっていますが、だんだんネタに詰まってきました。

 困ったときはどうするか。有名作家のハナシで逃げる。これしかありません。

 いつもいつもこの人に頼ってばかりで、うちのブログも相変わらず芸がないなと思います。昭和7年/1932年9月生まれ、昭和41年/1966年に小説現代新人賞に投じた「さらば、モスクワ愚連隊」が受賞して文壇に登場したのが33歳のとき。すでにこのとき、近いうちに直木賞をとるだろうと囁かれたほどに、バツグンの新鮮さとスター性が現われていたと言われ、実際それから1年も経たないうちに第56回(昭和41年/1966年・下半期)直木賞を「蒼ざめた馬を見よ」で受賞すると、雑誌やらテレビやら、いろんなメディアで顔と名前が一気に売れて、出す本、出す本、ベストセラーに上がってしまったという、約半世紀もまえの伝説の直木賞受賞者です。いや、伝説というか、いまもご存命です。

 で、この人も直木賞をとったあとには、いったい何をしてきた人なんだ、どんな人物なんだ、と直木賞お決まりの報道が山ほど出ました。そのすべてをなかなか追うことはできないんですけど、中に、作家になる前に別の名前でやってきた仕事のことが取り上げられたものを、いくつか見たことがあります。「別の名前」でも多少は知られる人だったようです。

 その名前が〈のぶ・ひろし〉です。

 昭和27年/1952年、早稲田大学露文科に入学したものの、昭和32年/1957年、学費をまったく払えなくなって除籍。大学には6年在籍した、といった記述もけっこうあるんですが、昭和27年/1952年から昭和32年/1957年までということは、どう数えても5年か5年余りなんじゃないか、と思います。ただ、そんな細かいことはどうでもいいです。

 大学にいられなくなってその後は、『運輸広報』編集主任、業界紙編集長、広告代理店勤務、デザイン会社設立などなど、職を転々としながら20代後半を過ごします。そういう渡り鳥の職歴を経るうちに、嫁さんの姉婿という親戚関係にあった加藤磐郎さんが、三木鶏郎さん率いる「冗談工房」にいたもんですから、どうだい君も仲間になれよ、と誘われた結果、「冗談工房」の姉妹集団でもある「テレビ工房」という職人グループに参加。テレビやラジオの台本やコマーシャルソングを量産しました。そのときに使ったペンネームが〈のぶ・ひろし〉だったということです。

 つくったCMソングは100とも200とも言われます。いちおう当時の記事によると、最も知られているのは「日石灯油でホッカホカ~」というものなんだそうですが、いま聞くと、ナンじゃそりゃ、と思わずひざの力が抜けてしまいます。まあCMソングはこのぐらいの軽さが身上なのかもしれません。

 のちに当時のことを振り返った『デビューのころ』(平成7年/1995年10月・集英社刊)が発表されています。加藤さんから「ジングルのヴァースを書いてみませんか」と初めに誘われたときのことも回想されていますが、そのとき加藤さんとのあいだにこんな会話が交わされたそうです。

「じつのところ、当時の私自身はぜんぜん詩とか歌とかには縁のない人間だったのだ。

私がそのことを告げて躊躇していると、彼(引用者注:加藤磐郎)は笑いながら電話のむこうで言った。

「なにもそんなにむずかしく考えなくたっていいんです。商品名をならべて、あとはそれにワンとかニャンとかつけ加えればそれでOKなんですから。大丈夫ですよ」

「わかりました。じゃあ、やりましょう」

と、いうわけで、さっそく私は加藤さんと会って話を聞いた。ワンとかニャンとかいうのは私を安心させるための冗談だったらしい。やはり仕事ともなれば、そう簡単にいくわけはないのである。」(五木寛之・著『デビューのころ』「われは歌へど」より)

 ……商品名をならべて、あとはワンとかニャンとかつければCMソングはできる。冗談だったと回想されているとはいえ、案外、加藤さんも芯を食った表現だったように思います。そのくらいの肩の力の抜け方が、面白いといって評価される世界もあるでしょう。

 CMソング作詞者としてのペンネームが、全部ひらがなで〈のぶ・ひろし〉というのも、肩が抜けていてイイじゃないですか。って、ご本人がほんとうにそんな意図があって付けたかどうかはわかりませんけど。

 そういう軽さや楽しさが大きな文化を生んでいく放送業界に、20代から30代前半に身をおいて、〈のぶ〉さんはだんだんとからだに不調を覚えるようになり、ここからはいったん身をひかないとマズそうだ、と命の危険を感じます。そのまま、アッパラパー、と楽しくやっていける心根の人だったら、おそらく放送業界で活躍して、いっぱしの重鎮になったことだろうと想像しますが、トリロー工房が解散したのを機にドロップ・アウト。〈のぶ・ひろし〉の名前も捨てることになりました。

 直木賞にとっては、もちろん、そのおかげで歴史上の文壇スターを直木賞から生み出せたので、それはそれでよかったです。本人にとって、どちらの人生がよかったか。作家として大成功したので、普通に見ればイイに決まっていますが、人サマの人生をイイだの悪いだの判定しても仕方ありません。〈のぶ・ひろし〉という名前が続けて使われることなく消滅した、と言うにとどめておきたいと思います。

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2025年3月16日 (日)

岡田時彦…有名俳優の作品だと言って『新青年』にズブの素人の小説が載る。

 作家のなかには輝かしいデビューを飾った人が何人もいます。

 何人どころか、何十人、何百人かもしれません。この際、人数はどうでもいいんですけど、何をもって「輝かしい」とするか、見る人によって感覚は違います。結局はどのようにデビューしたところで「これは輝かしかった!」と言っちゃえば、言ったもん勝ちでしょう。

 無駄に長い歴史をもつ直木賞には、候補に挙げられた作家は数々います。もちろん、輝かしいと一般に思われるデビューを果たした人もたくさんいるはずですが、戦時中、第16回(昭和17年/1942年・下半期)のときに「オルドスの鷹」が、第17回(昭和18年/1943年・上半期)に「西北撮影隊」がそれぞれ、選考会で議論されたこの作家も、デビューにまつわる逸話の華々しさは相当なもんだと思います。

 年はおおよそ28歳の頃。とくに作家を志していたということもなく(たぶん)、学校の先生として教壇に立っていたそのときに、仲のよかった弟が東京でとある読み物雑誌の編集部にいた関係で、なぜか兄のところに原稿を書くハナシが舞い込んできます。今度うちの雑誌で、映画俳優が小説を書く、という企画をやるんだけど、兄さん、そのなかの一編を書いてみないかと。

 それが昭和4年/1929年のことです。担当することになった俳優は、当時、文章も書ける俳優として多少は知られていた(のかどうか)岡田時彦さんでした。

 まあ、岡田さん本人が書きゃあよかったとも思うんですけど、代作やゴーストは当たり前の業界ですし、当たり前の時代でもあります。よし、じゃあ〈岡田時彦〉になりきって、ちょっと不思議な話を書いてみようじゃないかと、その辺の執筆にいたった動機はもはやわからないんですが、ともかく一つの小説ができあがります。「偽眼のマドンナ」です。

 有名な俳優、タレント、芸能人が、いちおうその作者や書き手というかたちになっているけど、じっさいに文章を書いたのは別の人、という例は古今東西くさるほどあるかと思います。先週取り上げた〈田村章〉さんなども、いっときはゴーストライターとして相当稼いだとも言いますから、芸能人の名前を使ってものを売る、というのはけっこうなおカネになる(場合もある)ようです。不思議な世界です。

 ちなみに、いまもタレント本といえば基本はゴーストが書いている、というのが一般的に広まっている常識かと思われます。本人が書こうか、別人の作だろうが、そんな些細なことは気にしない、という感覚は健康的で別段批判するような状況でもないでしょうが、『新青年』が昭和4年/1929年6月号で映画俳優執筆小説の企画をやったときにも、やっぱり多くは本人が書いているかわからない、と思われてみたみたいです。

 そのなかでこんな文章があります。

「時彦(引用者注:岡田時彦)は文章をよくする。

俳優で彼ほどの名文家はない。「新青年」や「文藝倶楽部」を読まれる方は御存じの筈。俳優の文章は、代筆が多い世の中に、彼は自分で書いている。

(昭和4年/1929年8月・平凡社刊『映画スター全集2 夏川静江・林長二郎・八雲恵美子・岡田時彦』より)

 ほとんどの俳優の場合、代作の筆のなかで〈岡田時彦〉さんは珍しく自分で書いている、と言っています。

 その前年、〈岡田〉さんが前衛書房から『春秋満保魯志草紙』(昭和3年/1928年12月刊)という随筆集を刊行していること、さらにはその序文を、〈岡田時彦〉なる芸名の名付け親でもあった谷崎潤一郎さんが書いてその文章を推奨していることなども、岡田時彦といえば文章も書く、というイメージに一役買っていたんじゃないかと思います。

 そう考えると、昭和4年/1929年に『新青年』がどうして本人の筆による作品でなく、編集部員の係累であるまったくのズブの素人の作品を代作として載せたのか。「偽眼のマドンナ」を読んで、ううむ、さすが〈岡田時彦〉だ、面白い小説を書くなあ、と感嘆した読者も少なからずいただろうと想像すると、なかなか『新青年』も罪つくりな雑誌です。

 いや。罪をつくったのか、いいことをしたのか。こういうのも、人や場面によって考え方はいろいろです。

 有名俳優の新作だと言い張って読者をだましてまで掲載した小説のその作者は、むむ、こいつ書けるな、と編集部に思われたものか、兄さん、面白いもの書くね、と弟・渡辺温さんに褒められたものか、それとももともと本人が他にもさまざまな筋を思いついていて、小説を書きつづけたいと思っていたものか、〈岡田時彦〉名で発表したその2か月後の『新青年』昭和4年/1929年8月号では、本名名義の〈渡辺圭介〉で「佝僂記」を発表。生粋の『新青年』っ子、といった感じでそれから同誌に欠かせない書き手に育っていきました。

 そうした先に、直木賞のほうでは彼の作品を候補に残すことができたんですからね。直木賞にとっては、『新青年』、ナイス・ジョブだったぜ、と親指を立てて褒め称えなきゃいけないハナシでしょう。だいたいいつも、功と罪は表裏一体です。

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