2024年9月 8日 (日)

氷川瓏…直木賞候補になろうが落とされようが、本名名義での文学修業をやめずに続ける。

 氷川瓏。ひかわ・ろう。いい名前です。ロマンチックで蠱惑的で、強烈なインパクトがあります。

 作家として有名か有名じゃないかでいったら、おそらく有名じゃないほうの部類です。だけど、ミステリー(というか推理小説)のアンソロジーとかでたまに氷川さんの作品を見かけることがあって、そういうものを読んだときから、いやあ、いい名前だよなあ、とかすかに意識させられた覚えがあります。直木賞ばっかり追っていないで、たまには別の本を読むのも大事ですよね。

 ちなみに直木賞の候補者リストを何回見ても、氷川さんの名前は出てきません。幻想的な小説が多かったようだし、それはそれで仕方ないか、と思うんですが、ところがずらずらと並んだ候補者のなかに、実は氷川さんの本名がまじっている、と知ったのはいったいいつのことだったか。すっかり忘れてしまいましたが、ともかく「氷川瓏」とは似ても似つかぬ、堅苦しくて実直そうな名前が氷川さんの本名で、たしかに第27回(昭和27年/1952年・上半期)の候補のひとりに挙がっています。作品名は「洞窟」、初出は『三田文学』です。

 氷川さんは昭和10年/1935年、東京商科大学(のちの一橋大学)専門部を出ています。そういう人が、どうしてペンネームとは別に本名で小説を書いているのか。詳しい動機はすでに熱心なミステリー研究者が調べ上げていることでしょう。

 それはともかく、どうして一橋の同窓生が慶應義塾と縁ぶかい『三田文学』に登場しているのか、どうして、そんなお固い同人雑誌に載った片々たる短篇が文芸のなかでも邪道といわれる直木賞なんかの候補になったのか。そちらのほうは、何となく理由は察せされます。はっきり言って木々高太郎さんのおかげです。

 木々高太郎。あんまりいい名前じゃありません。……と、そういうテキトーな個人的な感想はおいときまして、戦前はじめて探偵小説で直木賞を受賞し、戦後その実績から直木賞の選考委員に列せられると、まわりにいた文学志望者たちに直木賞をとれ、直木賞をとらなきゃ駄目だと言わんばかりにケツを叩いたという、いわずもがなの直木賞の申し子です。

 慶應出身の木々さんは、戦後『三田文学』の再建者のひとりとして編集の中枢に据えられます。探偵小説はまた文学として評価されるものでなければならない、と強い信念を持ち、同じような考えをもつ探偵作家たちと気炎を吐いたのは、まだ戦後まもなくの頃。その若い仲間たちのなかに、氷川さんもいました。

 氷川さん自身はそこまで自分で探偵小説を書いていこう、という欲があったようには見えませんが、昭和21年/1946年『宝石』の通巻2号目、5月号に江戸川乱歩さんの引きで「乳母車」が掲載されて、探偵文壇の人として遇されます。

 そちらのグループのほうでは、たしかに商業的に原稿が売れることもあって、氷川さんが作家・文筆業としてやっていくには「探偵小説・推理小説」の看板は、決して無意味なものだったとは言えません。しかし、本人は文学をやっていきたいとする気持ちが捨てられず、とくに木々さんが盛んに大口を叩いていた「探偵小説は文学たれ」に深く共鳴します。

 そうして書いた小説が、木々さんにも受け入れられ、木々さんたちがやっている『三田文学』に掲載。さらには、木々さんには『三田文学』から直木賞・芥川賞を! の思いが強かったので、その意向に沿ったかたちで第27回の直木賞の候補にねじ込まれた……といういきさつは容易に想像できるところです。

 けっきょく直木賞は全然だめでしたが、なんだよ木々先生、選考会で強く推してくれなかったのかよ、と逆恨みすることなく、氷川さんはその後も木々さんと(だけじゃなく、乱歩さんとも)友好的な関係を保ちます。さすが人間ができていますね、氷川さん。

 山村正夫さんによれば、それまで乱歩さんの邸宅で新年会がひらかれるのが恒例だったのを見て取った木々さんが、うちでもやろうと思いついたのかどうなのか、昭和31年/1956年から毎年木々さんの家でも行われるようになったそうですが、このとき幹事役を仰せつかったのが氷川さんです。

「たまたま氷川氏が、(引用者注:昭和31年/1956年)一月八日に個人で木々先生のお宅へ年賀におもむいたところ、先生より提案があり、「人選は、大坪砂男君と相談して、きめてほしい」と言われたという。」

そこで大坪、氷川両氏が幹事役となり、先生のお宅へ集まったのは、両氏のほかに渡辺啓助、永瀬三吾、日影丈吉、中島河太郎、阿部主計、夢座海二、朝山蜻一、古沢仁、宇野利泰、今日泊亜蘭、松本清張らの諸氏で、十三名だった。

(引用者中略)

「氷川氏の話によると、この新年会は年を追うごとに盛会になり、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎、小山いと子、松井玲子などの諸氏が新たに参集した。これがしだいに発展して、先生主宰の純文学志望作家の集いになり、昭和三十八年にはこれらの諸氏の手で同人雑誌『詩と小説と評論』(原文ママ)が創刊され、現在に至っている。」(昭和48年/1973年10月・双葉社刊、山村正夫・著『推理文壇戦後史』より)

 ふむふむ、こういうハナシを読むと、言い出しっぺというのはだいたい呑気だけど、その意向に従って別に仕事でも何でもないのに、きちんと場を設けてあげた下働きの人の偉さに、思いを馳せないわけにはいきません。伝説の同人雑誌『小説と詩と評論』ができて、そこから何作も直木賞候補が生まれて、といった直木賞の歴史は、煎じ詰めれば、このときに嫌な顔ひとつせず(?)新年会の開催に尽力した氷川さんいればこそ、だったんですね。

 ちなみに氷川さんは、やはり本名で『小説と詩と評論』に参加しています。そちらでは、もう一切、自分が直木賞の候補に挙げられることはありませんでしたが、それでもずっと木々さんのもとに付いて、文学修業に励んだというのですから、その実直さが胸にしみます。

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2024年9月 1日 (日)

影山雄作…純文学を書いて10年、身も心ももたなくなってキッパリと創作から手を引く。

 先週は三谷晴美さんのことを取り上げました。もとはその名前で少女小説を書きながら、もっと「文学」チックなものを書こうと挑戦したとき、筆名を変えたという昔の例です。

 昔は昔なんですけど、そんな例は現在も含めて、たぶん古今東西くさるほどあります。だけど「たぶん」で済ませられないのが、直木賞オタクの面倒くささで、それぞれがどういう背景をもった例なのか、一つひとつの事案を見ていかないと胸にマグマがたまって熟睡もできません。

 ということで、今週もまたそんなハナシです。作品ジャンルをがらりと変えるタイミングで筆名もバッサリと変更した人。影山雄作さんのことに触れたいと思います。

 影山さんが小説家デビューしたのは平成4年/1992年のことで、およそ40歳前半のときでした。三谷晴美さんや北原節子さんなどと圧倒的に違うのは、それまでまったく小説や文学なんてものには興味がなく、作家になりたい、文学で生きていきたい、などとはまったく考えていなかったところです。

 ほんとに考えていなかったんでしょうか。影山さんのエッセイやインタビューでたびたびそう語られているだけのことなので、真意はいっさいわかりません。ただ疑っても仕方ないので、そこは信じて先に進みます。

 大学を卒業して影山さんは東洋経済新報社に就職しますが、そこで編集者になったわけじゃなく、企業広告を手がけるコピーライターとして会社から月給をもらいます。へえ、東洋経済にはそんな部署もあるんだ、出版社の世界もなかなか奥が深いもんですね。会社員生活を18年間つづけます。

 影山さんが小説を書いてみる気になったのは、会社を辞める少し前ぐらいのことだったようです。それまで小説なんて大して読んでこなかった中年オヤジが、なぜそこで初めて小説を書いてみようなどと思ったのか。そこら辺が人間心理(あるいは環境)のめぐり合わせの不思議ですけど、ちょうどその頃、デジタル化の波がうねりを上げて社会全体に広がってきていた時代に当たり、影山さんも仕事柄、企業の最新動向には目を配らせていましたから、そこで出会った素材を前にして、うん、何だかこれを核にして小説にしてみたい、と思ったんだそうです。会社勤めのかたわら、しこしこ原稿を仕上げまして中央公論新人賞に応募。それが「俺たちの水晶宮」です。

 語り手は海浜幕張にある、世界一巨大なコンピューターメーカーWBMの幕張テクニカルセンターに勤める男、加藤武志。出身は佐賀県ですが、やたらと田舎くさいものを毛嫌いしています。

 同じSE仲間の長崎顕代は富山の出身で、〈俺〉の目から見ると田舎もんも田舎もんだったんですが、彼女には圧倒的なプログラミングの才能があって、とにかく無駄のないシステムをつくっちゃうデキる人でした。と、それ以上に長崎には特徴的なことがあって、それは容姿、スタイルが異様にセクシーだったこと。彼女を見た男は、だれであっても欲情を持たずにはいられない女性なんだそうで、現に職場で彼女に襲いかかった男もいたほどです。その暴行未遂事件の場にいて、たまたま彼女を助けたことから、〈俺〉と長崎は急速に近づき、いちおう付き合っているカップル、というかたちに発展します。

 〈俺〉と長崎には、また信じがたいような共通点もありました。お互いに「佐賀の霊」「富山の霊」という、本人たちにしか見えない幽霊がときどき近くに現われることです。

 「見えない」といえば、彼らが携わっているシステムというやつも、全体的には目で見ることはできません。どこでどうタスクがつながって、どのように機能し合っているのか。見えないはずのシステムを、しかしCGの技術で可視化できるものも、WBMでは開発されたらしく、SEたちがおのおのの仕事を目で見る場面なども出てきます。このあたりが影山さんが小説の構想のタネになった一つの素材なのかな、と思うんですけど、詳しいことはわかりません。

 ともかくこの小説が、平成4年/1992年度の中央公論新人賞を受賞して、影山さんは作家として世に登場します。ただ、もののハナシによりますと、小説を書き上げて応募した段階で、影山さんは会社を辞め、受賞が決まったときには無職(いや、フリー)になっていたとも言いますので、40歳をすぎて組織のなかに縛られた状況を、影山さんはどうにか変えたいと思っていたんでしょう。運よく「俺たちの水晶宮」が受賞できたおかげで、小説家として立つことができました。

 以来約10年。平成14年/2002年ごろまで『中央公論文芸特集』や『文學界』などに小説を発表します。

 影山さんの回想によると、その頃は、おれは純文学作家なんだ! という強烈な思い込みに縛られたらしく、慣れない酒を飲み、生活は貧乏の極みを尽くして、そこから生まれてくる感覚を創作に向けていたんだとか何とか。

「言葉にすれば、人間の地肌が書きたかったということになるんだと思いますが、果たして何を表現しようとしたかったのか……逆にそれを分かりたくて、自分を限界まで追い込みました。まだ四十歳というのは若いですから、水はこぼれるまで注ぐことが、ガマの油だったらたらたら垂れるところまで追い込むのが、自分の役割だと思っていたんです。今になってみると非常に幼稚なことですが、全然アルコールには強くないのに、朝まで飲んでみるとか(笑)。

ところがそれを十年続けているとさすがに辛くなりました。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、宮城谷昌光、青山文平「受賞記念対談 「自分には書くことしかない」」より)

 それで思い切りよく、小説を書くことには区切りをつけて、昔とった杵柄なのかどうなのか、フリーライターとして文章を書いてお金を稼ぐ、それはそれで厳しい世界にシフトして8~9年ほどを過ごします。

 ところがフリーライターも、純文学作家と同じくらい不安定な職業です。そこまで儲かる商売でもなく、貯金なんてほとんどたまりません。このまま自分が死んだら、きっと我が妻は路頭に迷う。これじゃいかん。と影山さんが、「将来のおカネに困らなくなるような」策として考えたのが、商業作家になることでした。

 純文学作家が今度は長編の時代小説を書いて松本清張賞に応募、見事一発で受賞してしまいます。どうして他の新人賞とか、日経小説大賞とかじゃなくて、清張賞だったのか。……将来的に食っていけるほどの作家になるには、運営企業のバックアップ、それまでの実績などを鑑みて、なるほど清張賞が最も最適解に近かったのだろう、とは想像できるんですけど、ほんとにそんな理由で清張賞を選んだのか、影山さんはそういうことをあまり語るタイプの書き手じゃないので、現実にはよくわかりません。

 筆名もまたそうです。それまでの名前「影山雄作」を捨てて、どうして新しい名前で再出発を図ろうと思ったのか。

 そんなことは、わざわざ自分で語るまでもない、という信念があるような様子が、直木賞受賞時のエッセイを読んでも垣間見えます。

「「自分のことはペラペラしゃべらない」。子供の頃から、父にそう諭されて私は育ちました。「訊かれたときだけ話す。あとは、人の話をよく聴くようにしなさい」。

ずっと言われた通りにしてきたものだから、六十七になった今でも、その縛りが抜けません。」(『オール讀物』平成28年/2016年3月号、青山文平「私なりの自伝的エッセイ」より)

 たしかに、自分のことをペラペラしゃべる人より、こういう人のほうが信用はできる気がします。

 でも、「訊かれたときだけ話す」とあるので、もしかしたら訊いたら答えてくれるのかもしれません。どうして古い筆名のままじゃなくて、別の筆名に変えようと思ったのか。ぜひ誰か訊いてみてください。

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2024年8月25日 (日)

三谷晴美…少女小説から私小説に脱皮して、名前も本名に変更する。

 何週か前に取り上げた北原節子さんは、はじめに直木賞の候補に挙がってから、結局は、もうひとつの文学賞のほうに選ばれました。

 直木賞にしろ、もうひとつの賞にしろ、そこら辺の線引きはだいたいテキトーにやっています。なので、そういうことが起きるのも別に不思議じゃないんですけど、純文学の同人雑誌や純文学誌で注目された人が、向こうの賞の候補には挙がらずに、直木賞のほうでしか選考されなかったケースなんてのも、昔は当たり前のように発生したりしました。テキトーに線引きされている、と言われるゆえんです。

 まあ、「当たり前のように」かどうかは異論のあるところでしょう。直木賞だけで候補になった純文学作家って誰なんだ、具体例を100個挙げてみろ、とナイフを突きつけられると、もろてを上げて降参するしかありませんが、今週取り上げる三谷晴美さんは、いったいどちらに入るのか。少なくとも、芥ナントカ賞の候補になったことが一度もないのはたしかです。

 〈三谷晴美〉というのはペンネームですが、もとは戸籍上の本名だった名前です。……と、わざわざハナシを始めるのも恥かしくなるぐらい、後年チョー有名になった作家なので、プロフィールをなぞるのは、ほどほどにしておきます。

 ともかく、子供時代の本名が〈三谷晴美〉で、昭和4年/1929年、7歳のときに一家を上げて養子縁組したことで姓が変わります。昭和25年/1950年、結婚生活を自ら投げ捨ててわたしは小説を書いていきたい、と一人暮らしを始めた頃合いに、とにかくおカネになることはないかと頭をひねって、子供時代の名前〈三谷晴美〉で『少女世界』に投稿したところ、それが採用されて同誌でデビュー。以来、少女小説をたくさん書いて生計を立てますが、わたしがしたいのはこんなことじゃないんだと、まもなく丹羽文雄さんに会いに行き、『文学者』の同人にしてください、と頼み込みます。

 そちらでも、はじめは〈三谷晴美〉の名前で書いていましたが、ようやく作品が載り始めたところで『文学者』が休刊に陥ります。いやだいやだ、わたしはもっと書きたいんだ、と同棲していた文学の先輩、小田仁二郎さんたちといっしょに『Z』を始めると、そのときに7歳のときから使っている本名を、筆名として切り替えました。

 その頃を知る中村八朗さんの文章を引きますと、

「「文学者」は休刊になってしまったが、彼女は小田仁二郎と共に同人雑誌をやった。「Z」「題名のない雑誌」「A」等の雑誌を続け、「Z」を代表して「新潮」同人雑誌コンクールに「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受けるまでに成長した。瀬戸内の才能がようやく小田の指導でみがきがかかり、少女小説の世界から脱皮したのだ。彼女はもう三谷晴美のペンネームは使うことはなかった。」(中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』より)

 少女向け小説を書いていた人が、のちに大人向け小説を書くようになる、というケースは別に直木賞界隈に限らず、異常にたくさんあるので、別に珍しいことじゃないんでしょうけど、筆名の変更がそこにからんでくるのが、また名前のもつ不思議さです。

 実際、名前を変えずにジャンルを横断縦断する人もいます。書いている人は同じ人間なのに、どうして名前を変える例が断たない(?)のか。変えたところで何が起きるのか。べつに名前なんて何だっていいじゃん、と思っている派からすると、そこら辺の感覚はナゾ中のナゾです。

 ただ、そこでこねくり回した筆名をつけず、自分の本名を使い始めた、というところに三谷さんの腹の据わった感じがよく出ています。

 同人雑誌賞を受賞したその年、『新潮』に発表した「花芯」が子宮作家だ何だと文壇界隈で話題になり、以来5年ほど、いわゆる純文芸の雑誌からは声がかからなかった、ということなんですけど、自らが手がける同人雑誌のほか、『小説新潮』だの『講談倶楽部』だの中間・大衆小説誌からの注文はぞくぞく引き受けて、「世間から消えた」ふうになることもなく、その間も順調に名を上げました。腹が据わっています。

 あるいは、世に出てまもなくの数年間、読み物小説のほうにしか活路がなかったのが、三谷さんが芥ナントカ賞の候補にならなかった最大の原因かもしれません。まあ、あっちの賞は頭がバカみたいに固くて、中間小説誌に載ってるやつは絶対に候補にしようとはしませんからね。アホくさくて、興味をもつにも値しません。

 ひるがえって直木賞のほうは、中間誌、大衆誌はもちろんのこと、純文学誌に載ってるものだってウェルカム。おかげで、三谷さんが純文学誌に復帰し、そこに発表した連作のうちの一篇「あふれるもの」(『新潮』昭和38年/1963年5月号)を、堂々と予選通過作に選んでしまいました。さすが直木賞、そのテキトーさのおかげで自分の賞の候補者リストに、のちに大活躍する作家の名前を刻むことができました。

 で、三谷さんは直木賞候補になったときの本名=筆名のほかにも、昭和48年/1973年に得度・出家してから名乗るようになった法名もあります。その法名は、直木賞を日本文学振興会から授かった人――今東光さんが名づけたもの、ということで、三谷さん自身、ほとほと直木賞には縁がある人ではあるんですけど、雑誌に載った一短篇じゃなくて、もっと読みでのある作品で候補に上げてりゃ、直木賞受賞者リストのなかにその名を入れられたかもしれないのに、と当時の文春の下読み編集者たちは、あとになって悔やんだとか、悔やまなかったとか。

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2024年8月18日 (日)

(栄)…『朝日新聞』将棋の観戦記で名を馳せた人の、昔の直木賞候補作が、2024年に復活する。

 直木賞が決まって一か月が経ちました。早く次の回が来ないかなあと毎日祈ってるんですが、こればっかりはいくら祈っても駄目みたいです。あと4~5か月、冴えない日々を送りながらそのときを待ちたいと思います。

 そういえば、第171回(令和6年/2024年・上半期)が決まった7月半ば、直木賞に関連して、うわっ、まじか、と仰天するような出来事がありました。それは一穂ミチさんが受賞したことです……と続けたいところですが、今回取り上げるのはそのことじゃありまけん。

 ワタクシが腰を抜かしちゃったのは、令和6年/2024年年7月に『将棋と文学セレクション』(将棋と文学研究会・監修、矢口貢大・編、秀明大学出版会刊)という本が発売されたからです。

 直木賞とはあまり関係なさそうなアンソロジーではあるんですけど、いやいや、ここに小説「北風」が載っているという衝撃の事実!

 21世紀のこの世のなかに同作が復活したのを目撃できて、もう思い残すことなんか何もありません。正直いますぐ死んでもいいぐらいです(というのは、さすがに言いすぎです)。

 「北風」を書いたのは誰なのか。『朝日新聞』大阪本社で長く将棋を担当していた学芸記者です。後年『朝日』の観戦記では名前の一字をとって(栄)という署名を使いました。あるいは本名よりもそちらのほうが有名なのかもしれません。と、将棋の世界はよくわからないので、テキトーなことを言っときます。

 (栄)さんは大正2年/1913年に生まれました。前半生は国家あげての戦争が、かなり色濃く影響を及ぼした時代です。そんななかでも(栄)さんは、子供の頃から文学をやっていきたい意欲が高かったおかげで、友人たちと同人雑誌をつくっては、ああだこうだと議論を交わし、お互い友情を深め合った……んだと思います。

 文学史上(栄)さんが最も有名なのは、自身が直木賞候補になったことではなく、友人の織田作之助さんと旧制中学時代からズルズルとつるんで、20代半ばには織田さんの紹介で『海風』という同人雑誌に参加、自身も編集に携わって織田さんの「夫婦善哉」を載せたことでしょう。自分自身が書かずともこういう作品を世に出せたんですから、それだけで(栄)さんの人生、万々歳です。

 しかし(栄)さんの人生はまだまだ続きます。昭和18年/1943年、30歳で『朝日新聞』大阪本社に入り、戦後になって系列の『大阪日日新聞』に出向。そこで升田幸三さんと大山康晴さんの世紀の一戦の現場に出くわし、にわかに将棋(および将棋を差す人間たち)に興味を掻き立てられると、将棋記者の道を敢然と歩み出します。

 ただ、文学への思いを捨てたわけじゃなく、師と仰いだ藤沢桓夫さんたちといっしょに『文学雑誌』を発行します。そういう時期の昭和25年/1950年、直木賞もまだまだ戦後復興が軌道に乗らない混乱期に同人雑誌『日輪』に載せた小説でポロッと直木賞候補に挙げられたのが第23回(昭和25年/1950年・上半期)のことでした。当然のように受賞には遠く及ばず、(栄)さんと直木賞の縁はそれっきりで終わります。

 その後(栄)さんは新聞社の社員として将棋の世界を渡り歩きます。『将棋と文学セレクション』で「北風」の解説を書いた小笠原輝さんによると、昭和43年/1968年に『朝日』を定年するおおよそその時期から(栄)名義で観戦記を書き始めたんだそうです。昭和47年/1972年ごろには『名人戦名局集 思い出の観戦記1』や『名棋士名局集 付・盤側棋談』という本も出し(ともに弘文社刊)、日本将棋連盟から長年の観戦記者としての功績からか表彰も受けて、やはり(栄)さんの後半生は将棋とともにあった、と言えるでしょう。

 それはそうなんですが、とにかく(栄)さんが直木賞の候補になった「微笑」と「北風」が読みたくて、ワタクシも相当苦労しました。自分のサイトにもその苦労の一端を書いたことがあって、そんなものは単なる直木賞オタクのたわごとだったんですけど、昔の直木賞候補作が一つでも多く復活して、新しい読者に読まれるチャンスが与えられればいいな、と思って書いたのは間違いありません。

 ものの噂によれば、小笠原さんはうちのサイトも見てくれたそうで、こんなしがないサイトでもやめずに置いといてよかったな、と思うばかりです。その小笠原さんが「北風」について、誰が誰のモデルだといった詳しいハナシを含めて、同書に解説を書いてくれています。ありがたいです。

「老松町の辻八段は、吉井が惹かれた升田の師匠である木見金治郎九段がモデルである。そこに主人公の彦沢銀六が入門し、升田をモデルとした竹田と切磋琢磨するが、煙草屋の娘初江との愛欲に迷い、少しずつ棋力の差をつけられていく。同い年の竹田が出世するなか「消える寸前の灯火のきらめき」となっている銀六の姿は、織田作之助と吉井の関係性に近いものがある。(引用者中略)「北風」は、当時の吉井の心境を表現した作品であると言える。」(『将棋と文学セレクション』所収 小笠原輝「愛欲の棋士 北風 吉井栄治」解説より)

 おおっ、そうか。「北風」に出てくる悲しき将棋差しの銀六は、(栄)さん自身が投影されているとも読めるんだ! この解説に接するまでまったく気がつきませんでした。

 他人が昔の小説をどう読もうが関係ないじゃん、という自我の発達した人もたくさんいるでしょう。ただワタクシは、だいたい頭の構造が幼稚なので、よその人の評価を見るのが大好きです。しかも、これまで一度も単行本に収録されたことのない半世紀以上前の小説に、いまとなってこんな立派な解説がつくんですからね。そりゃあ腰を抜かして、しばらく立ち上がれなくても仕方ありません。

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2024年8月11日 (日)

杉浦英一…処女作は本名で発表したものの新人賞に応募するときにペンネームをつける。

 毎日暑いですね。暑い夏といえばいったい何か。日本では戦争モノと相場が決まっています。

 いや、決まっちゃいない気もします。とにかくあまりに毎日暑すぎて頭がボーッとしているもので、いつも以上に(いつも通りに)テキトーなことを書き流すだけになりそうです。

 いい年こいて、相変わらずテキトーに生きていて恥じ入るばかりなんですが、第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞を受賞したこの方の書いたものや、あるいは当人が死んだ後に出版されたいくつかの伝記を読んでいると、思わずシャッキリ背筋が伸ばされます。本名、杉浦英一さん。今週はこの人のハナシで一週分をしのいでみます。

 「杉浦英一」というのは本名なんですが、知られるとおり、小説家としてペンネームで商業デビューを果たす前にこの名前で上下巻におよぶ立派な本を出しています。『中京財界史』(上巻=昭和31年/1956年1月、下巻=同年2月・中部経済新聞社刊)です。その意味では、「別の名前での著作活動があった」と見なしても問題ありません。

 いや、評伝を読んでみると、杉浦さんには文學界新人賞を受賞するまでにも、いくつか文学の上での著作が発表されていたと書いてあります。一つには詩人としての活動です。

 戦後、大学に入るために英語を学ぶことに決めた杉浦さんは、英語を教えてくれる個人講師を知り合からの紹介されます。それが小林歳雄さんとの出会いで、小林さんの孤高な姿勢とゆるぎない文学への傾倒に感銘を受けて、杉浦さんはずぶずぶと文学に関心を深めていきます。昭和21年/1946年、杉浦さんが19歳ごろのことです。

 そのあたりから東海アララギ会に入って短歌を詠みはじめます。昭和21年/1946年、東京商科大学予科に入ったあとは哲学研究会に参加。小難しい観念的な哲学の世界に、これもまたゾッコン心をもっていかれて、あまり友達づきあいもせず、静かに文献と向き合います。大学には、そういう人もよくいます。

 昭和24年/1949年、一橋大学とその名が変わった同学の本科に進み、理論経済学を専攻しますが、おおよそそのころ病気に罹り、結核と診断されてしばらくの療養生活です。ああ、おれはこのまま死んでしまうのか。思い悩む青年の心は、えてして文学の方向に向くようで、杉浦さんもこのころ盛んに詩を書き、『流れやみて』という詩集を私家版でつくったそうです。

 病状はその後回復して、杉浦さんは学校にも復帰しますが、一度しみついた詩への興味は絶ちがたく、北川冬彦さん主宰の『時間』や、山本太郎さん主宰の『零度』に加わって、学業のあいま熱心に詩をつくりました。

 昭和27年/1952年に一橋大学を卒業すると、まもなく愛知学芸大学岡崎分校助手として大学の先生への道を歩み出します。専門は経済学ではあったんですが、おれには文学が必要だとウズウズする心が抑えきれず、昭和29年/1954年にはかの有名な「くれとす」という読書会を、4人の知人たちと始めます。

 同じころ、名古屋で出ていた『近代批評』という同人雑誌にも加わって、批評・評論を書いたそうなんですが、並行して小説のほうも書く意欲があり、当時書かれた作品のことを、『城山三郎伝 筆に限りなし』(平成21年/2009年3月・講談社刊)の加藤仁さんや、『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』(平成23年/2011年3月・ミネルヴァ書房刊)の西尾典祐さんが紹介してくれています。

 なかでも〈杉英之〉という署名で書かれた「鈴鹿」という作品は、ガリ版刷り16ページでつくられたもので、のちに『大義の末』として出される作品の原型と見なすことができる、と西尾さんは解説しています。内容はもちろんのこと、ここで杉浦英一ではなく〈杉英之〉とペンネームを使っていることが気になります。

 他に〈十時和彦〉と名が記された「婚約」という原稿も残っているそうです。いずれも、広く使われずに消えていった筆名ですが、杉浦さんのなかで小説を書くには本名じゃないほうがしっくりくる、何かしらの感覚があったんでしょう。たぶん。

 ……とか言いつつ、本人のなかでこれが小説の処女作だと認めた作品は、『近代批評』7号[昭和31年/1956年12月]に本名名義で発表したものだということです。「生命の歌」という小説で、直木賞を受賞した直後の昭和34年/1959年5月に講談社から出た『事故専務』という作品集に収められました。戦争末期、海兵団の練習生としてつらい軍隊生活を経験した青年が、同じ教班でいっしょだった青年のことを日記に書けつけたもの、という体裁で構成された小説です。

 その後まもなく杉浦さんは引っ越しをして、転居先の辺りの地名をもとに新たなペンネームを考案、それで応募した第4回文學界新人賞(昭和32年/1957年)でズバッと受賞を果たし、その受賞作「輸出」がそのまま直木賞の候補にまで推されて、一気に新しい筆名のほうで文壇に躍り出ます。

 このとき本名で出していれば、あるいは〈杉英之〉〈十時和彦〉で出していれば、その後の賞の当落とか、作家としての歩みも変わったかもしれませんが、そんなことを想像しても意味はなさそうです。ともかく新しい筆名は据わりがよく、一度の直木賞候補を経て、翌年には直木賞の受賞まで達してしまいます。

 そのペンネームの由来は、有名すぎていまさらなぞるのも気が引けますけど、評伝のほうには他の理由もちょこっと書かれています。こんな感じです。

「(引用者注:転居先の)すぐ近くに城山八幡宮があり、時は三十二年三月だったから、その二つを組み合わせ、ペンネームを「城山三郎」とした。三郎には長男の弱々しさを払拭する意味も込められていた。」(西尾典祐・著『城山三郎伝 昭和を生きた気骨の作家』より)

「たまたま移り住んだ土地が古くから「城山」と呼ばれていたので、その「城山」を姓とし、三月だったので「三郎」と名をつけた。本名のままでもよかったのだが、教鞭をとる大学の同僚や学生たちに二足の草鞋を知られたくなかった。また、愛知県には「杉浦」姓がおおく、小説家ではすでに杉浦明平がいたので、それを避ける意味もあった。」(平成23年/2011年3月・扶桑社刊、植村鞆音・著『気骨の人 城山三郎』より)

 長男の弱々しさを払拭するとか、既成の作家の苗字を避けようとしたとか、そういう理由もあったのかもしれません。そのあたりを気にかける感覚があった、というのも杉浦さんの一つの個性です。

 だけど、本名の〈杉浦英一〉ってじゅうぶんカッコいい名前だと思うんだけどな。わざわざそれを排してペンネームをつけがたった、というのも、杉浦さん本人のセンスでしょう。それで成功したんですから、わきからとやかく言う筋合いもありません。

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2024年8月 4日 (日)

原耿之介…昔好きだった人の名前がペンネームの由来だったときにはうまく行かず、最後に妻の名前から一字借りる。

 どうして人はペンネームをつけたがるのか。たぶん理由はさまざまあるでしょう。

 その一つひとつの理由を調べていけば、何がしかの研究になるかもしれません。ただ、そんなことをやっても、けっきょく疲れがたまるだけなので、好んでやってみようという気も起こりません。

 だけど、直木賞に関することならハナシは別です。疲れるとか無意味だとか、そんなことは空の彼方にふっとびます。とにかく直木賞にまつわることなら無条件で知りたくなる。直木賞病の典型的な症状っていうやつです。

 それで直木賞の候補者を見てみると、とっかえひっかえいくつものペンネームを使った人がけっこういます。今週はそのなかの一人の作家について取り上げてみようと思います。

 原耿之介さんです。

 ……といっても、あまりなじみのないペンネームすぎて伝わりようがないんですが、本名は佐々木久雄さん。昭和6年/1931年3月27日生まれ。学生の頃から文学の熱に強烈に浮かされ、自分でもいつかは作家になりたいと創作を始めた人です。

 のちに作家になるまでの道程を、当時の文章を再掲しながら綴った『なにがなんでも作家になりたい!』(三好京三・著、平成15年/2003年9月・洋々社刊)という本が出ています。それよりずっと以前に書いた『わが子育て論』(昭和52年/1977年11月・講談社刊)の「I 教師として、作家として」なども、かなり自伝的な要素を含んだ回想です。そこら辺りを参考に、佐々木さんのペンネーム遍歴を追ってみることにします。

 初めて使ったペンネームは、どうやら戦後昭和21年/1946年、15歳の中学三年のときです。地元・岩手県胆沢郡で出ていた同人雑誌『北斗』に随筆「夏の死」と詩「釣心」を載せています。このときの名前は「笹原寿緒」。由来はよくわかりませんが、「笹」は自分の姓が「佐々木」なので何となくわかるとして、「原」とは何か、「寿緒」とはどこから来たのか。今後だれかが研究してくれることを期待したいと思います。

 その後、やはり別の同人雑誌『作風』に所属することになって、そのときは本名の「佐々木久雄」で小説を書いていたんですが、再び佐々木さんはペンネームを付けることに執着しはじめます。『なにがなんでも作家になりたい!』によれば、昭和25年/1950年3月、19歳のときには「笹原耿二」という名前で自分のノートに文章を書いていたそうですし、昭和26年/1951年、自分がこれからどういうふうに作家になっていこうか、いろいろ考えたことをノートに記したときにも、わざわざ「ペンネームはどれにするか。」と項を立てて、いくつかの案を挙げています。京耿二、笹原耿二、原耿二、滝三千夫、笹原三千夫、野原三千夫。「原」と「耿」、それから「二」か「三」の漢数字がお気に入りだったようです。

 その佐々木さんが初めて岩手県内で有望な書き手として知られることになるのが昭和33年/1958年、『北の文学』に投稿して採用された「聖職」です。このとき使ったのは、先にいくつかの案のなかにもあった「笹原耿二」。ささはら・しゅうじ、と読むんでしょうか。いよいよ、佐々木さん、夢の作家人生に向かって大きな一歩を踏み出しました。

 と、しかしいきなりここで身近なところからケチがつきます。すでに結婚していた妻の京子さんから、どうもそれでは映画俳優の鶴田浩二みたいでにやけた感じがする、と言われたそうで、「笹原耿二」から鶴田浩二を連想する京子さんの感性もなかなかぶっ飛んでいると思うんですけど、佐々木さんもこれにはムウッと返す言葉がなく、最初の一字をとって「原耿二」で行こう、といったんは心を決めます。

 ところが、どうにもこれではしっくりこない、と思ったものか、翌年昭和34年/1959年に『北の文学』に「ヤスマ島」という小説を寄せた際には、さらに筆名を変えて「原耿之介」と名乗りをあげます。『なにがなんでも作家になりたい!』での記述によれば、佐々木さんは「之介」のところに男っぽさを感じさせたかったようです。そこから10数年、このペンネームを使いつづけました。

 東北の土地で三人の作家が、おれたち大衆文芸で名を上げてやるぜ、と集結してできた同人雑誌『東北文脈』。同人は大正十三造さん、長尾宇迦さん、そして原耿之介さんです。といったことは、以前うちのブログで触れたことがあります。佐々木さんはこのペンネームをひっさげて、同人雑誌に書きながら小説誌の新人賞――大正さん、長尾さんという先輩二人が講談倶楽部賞、小説現代新人賞と、講談社の読み物雑誌で賞をとった人だったので、佐々木さんも小説現代に狙いを定めて、毎回毎回、がんばって応募を続けたのだと言います。

 しかしそうこうするうち時は過ぎ、原耿之介・名義の作品はいっつも予選通過どまり。うーん、これはなかなか芽が出そうもないな、と佐々木さんは頭をしぼり、次なる一手に打って出ます。ペンネームをがらりと変えたのです。

 まあ「一手」というほど大した戦略ではないんですけど、昭和49年/1974年、狙いを『小説新潮』に変えて、ここで毎月募集されていた「小説新潮サロン」に投稿を始めるときに、佐々木さんは新しい名前を考えました。「森笙太」です。回想によれば、山村大森に住む、昔、笙子という女性に思いを寄せた男、ということで「森笙太」だったんだそうです。いちおう効果があったものか、小説新潮サロンで採用され、その年の小説新潮新人賞への応募権利を勝ち取ると、「兎」という小説を書いて送ってみたら最終候補作にまで残ります。昭和50年/1975年のことでした。

 そうか、ペンネームを変えると次の段階にステップアップできるんだ! と佐々木さんが思ったかどうかはわかりません。ただ、その年の10月に締め切りの文學界新人賞に応募するとき、森笙太をやめて、本名に戻ることなくさらに新たな名前をつけたのは、もうヤケクソといいますか、わらをもすがす思いといいますか、佐々木さんのペンネームに対する強い執着がよく見て取れます。

「それまでの原耿之介や森笙太には、昔の恋人の名前の一部を使っていたが、今度こそ最後、ということで、妻の京子の一字を用いた。三好は「炎の人」を書いた三好十郎が好きになっていたのでその姓を借り、最後の「三」は、すぐれた作家の名前に割に多く漢数字が使われているので、やはりそれを真似た。伊藤桂一、五木寛之、庄野潤三などだ。身近な作家には内海隆一郎がいる。」(『なにがなんでも作家になりたい!』より)

 いやいや、漢数字が使われていない作家のなかにだって「すぐれた作家」はたくさんいるんじゃないか。と思うんですけど、どっちにしたって名付けの由来なんて、こじつけとか思い込みとか、ほとんどが気持ちの持ちようの問題です。ツッコんでも仕方ありません。

 ともかく、文學界新人賞のときに付けた名前で、ついに新人賞を受賞し、そのまま直木賞までとってしまったので、これにて佐々木さんのペンネーム史も打ち止めとなりました。ずっと昔好きだった女性の名前の一部を名乗るよりも、いまの伴侶の名前を使っていたほうが、世間的な体裁もよく、家族の関係もうまくいった……かどうかは微妙なところですが、しかし最後まで作家をつづけ、京子さんとも添い遂げたんですから、それでよかったんだと思います。

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2024年7月28日 (日)

北原節子…同姓同名の相手とぶつからないように、直木賞の候補になる1年ぐらい前にペンネームを変える。

 世のなか、同姓同名の人はたくさんいます。偶然といえば偶然、そこから巻き起こるスッチャカメッチャカの大騒動、なんてのも小説の題材になりやすく、これまで同姓同名に関する作品がさまざまに書かれてきたものと思います。ひまな人は調べてみてください。

 直木賞は無駄に歴史が長いので、候補者だけで500人を超える人数がいます。同姓同名の作家が候補になった、みたいなケースがあっても別におかしくはないんですけど、さすがにそういう例はまだありません。作家の場合、小説を出すときにどういう名前で行こうか自分で決めるタイミングがありますので、よし、おれはわたしは、既存の作家と同じ名前を使ってこれからやっていくぞ、とわざわざ同姓同名を選ぶ人は、相当な変わり者なんでしょう。これからも直木賞史上、別の人物が同じ名前で候補になる、なんて組み合わせは、発生しづらいかもしれません。

 それはそれとして、直木賞の過去の候補者のなかには、同姓同名に関する有名なエピソードをもつ人がいます。今週は、その人のハナシで乗り切りたいと思います。

 昭和3年/1928年6月5日、福井市佐佳枝中町で生まれた北原節子さんです。父は絹織物づくりの会社に勤めていた北原芳司さんで、北原家は長野県高遠町にルーツをもつお家柄だった、と伝わっています。

 そこから何がどうなって小説を書くようになり、直木賞候補になり、けっきょく芥川賞なんかを受賞したのか。北原さんは有名な人ですので、そこら辺りの情報は、ゴロゴロ転がっています。そういうものをつなぎ合わせて読んでみると、北原さんが小説を書きはじめたのはだいたい昭和26年/1951年頃、学習院大学短期大学部に入ってまもなくの頃だったらしいです。

 最初に原稿がまとまって活字になったのは『少女世界』に掲載されたいわゆる「少女小説」と呼ばれるものですけど、そこで北原さんはあえてペンネームを付けることなく本名で勝負しています。勝負というか何というか、別段、「北原節子」という名前がイヤだったわけでもなく、自然と本名のままで物書き人生をスタートした、といったところでしょう。

 少女小説を書けば原稿料が入ります。次々とそれらのジャンルを書きながら、しかし自分はブンガクの作家としてやっていきたい、と強い夢を抱いていた北原さんは同人雑誌もつくります。それが縁で吉村昭さんと知り合い、急速に惹かれ合って昭和28年/1953年に結婚。相手の籍に入って本名は吉村節子と変わりましたが、ものを書くときはそれからも「北原節子」の名前を使いつづけます。

 なかなかの才能があったおかげで、少女小説にもたしかにファンができる。同時雑誌に書いた小説も、そのスジの評論家たちから好評で新聞、雑誌の同人雑誌評などで褒められる。「北原節子」の名前が徐々に知れ渡るようになった頃、この状況にドキッと驚き、戦々恐々の複雑な心持ちを抱いていた人がいます。北原節子さんです。

 何が何やら……という感じですが、同姓同名の人たちのことを文章にするのって難しいですよね。小説でぐいぐい注目された「北原節子」さんは、のちに直木賞候補・芥川賞受賞者になった人ですが、「最近、小説のこと取り上げられているらしいね」と知り合いから声をかけられ、いや、それって私のことじゃないから、と思っていた「北原節子」さんは、実業之日本社に勤めていた編集者です。大正14年/1925年長野県生まれ。詩を書いたり随筆を書いたり、ちょこちょこ物も書くタイプの人でした。

 二人の北原さんのうち、先に本を出版したのが後者の北原さんです。『空はいつも光っている』(昭和32年/1957年11月・学風書院刊)という本で、同書の最後に急きょというかたちで収められたエッセイがその名も「同姓同名」。知り合いから、きみ、小説も書いているんだね、と声をかけられることが増え、まったく同じ本名をもつ女性が活躍し出したことを知り、うーん、わたしもそのうち小説を書きたかったのに、いつか書く機会がきたら相手に遠慮して、こちらが名前を変えることになるかしら、と思い始めたのだと言います。

 ところが、二人のことを知る青山光二さんが、作家の北原さんに編集者・詩人の北原さんの存在を伝えたところ、作家の北原さんは相手に手紙を送ります。どうやら二人、同じ名前のために送り物の誤配などが発生していたらしく、ともかくこれを機に文通が始まり、作家の北原さんは自分の所属する同人誌『Z』を相手に献本、良好な関係を築き上げることになります。

 何かのパーティで二人は初めて顔を合わせ、その後、編集者・詩人の北原さんが初の出版を祝って祝賀会が開かれた折には作家の北原さんも招待されました。そこでいきなりスピーチを振られた作家の北原さんは、会場にいた佐多稲子さんや壺井栄さんに、「もしいつか私の本が出ることがあったら、同姓同名の北原さんにあやかって、先生方にご出席いただけたらどんなに嬉しいだろう」(平成25年/2013年10月・河出書房新社刊、津村節子・著『人生のぬくもり』所収「生きるということ――大原富枝」)と言って、会場を沸かせた、とのことです。

 しかしこの頃には、作家の北原さんは、やはり自分のほうが名前を変えようと決意していたようで、編集者・詩人の北原さんのエッセイにそのことが出てきます。

「実は、大変申しわけないことになったのだが、先日、『Z』の同人である瀬戸内晴美さんにおめにかかった時、あちらの北原節子さんが、もしかすると、名前を変えて、ご主人の姓である吉村を名乗ることになるかもしれないということを仰言られた。

それは、私が最近ある雑誌に数年前に書いた小説のようなものを、本名で発表してしまったことから、きっと、そういうことになったのだと思う。

(引用者中略)

せっかく北原節子という名前で小説を書いていらしたのを、こちらがいわば営業妨害してしまったようなことになったのであるから、私こそ引っこめばいいと申しわけない気持だけれど、どうやら、私の方は、まだ当分の間、姓の変る宛もなさそうである。

(引用者中略)

北原節子という名前が好きで、やっぱりどんな名前にもしたくないと仰言られていたというあちらの北原節子さんから、もう一人の北原節子はこんなやつだったのかと思われないように、せめて、これなら、名前だけは許してやろうと思っていただけるように、と心の中ではひそかに願ってはいるけれど、さて、どういうことになるだろうか。」(『空はいつも光っている』所収「同姓同名」より)

 そして作家の北原さんは昭和33年/1958年、ついに筆名を変えます。結婚後の姓名そのままでもよかったようなところ、しかし、あえて「津村」というペンネームを選択。相手の北原さんから遅れること1年半、昭和34年/1959年3月に初の作品集『華燭』(次元社刊)を出しました。

 ちなみに『華燭』に収録されたのは3つの作品で、「華燭」「孔雀」「模造」のうち、「模造」はもともと「北原節子」名義で発表された短篇です。初めて本を出したその時期、第41回(昭和34年/1959年・上半期)に「鍵」で初めて直木賞の候補に挙げられたんですが、どうやら参考作品として『華燭』も選ばれたようで、中山義秀さんなどは「華燭」「孔雀」「模造」も合わせてこの作家の作品を褒めています。

 ともかく、このとき使っていたのは、すでに新しいペンネームです。旧姓のまま使っていたその名を変えようという決断が、あと数年遅れていたら……。直木賞の候補作家リストに「北原節子」という名前が刻まれたかもしれません。大してドラマチックな展開じゃなくて申し訳ないんですけど、これも同姓同名が生んだ一つの小事件です。

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2024年7月21日 (日)

厚川昌男…直木賞を受賞しても奇術師としての心を忘れない。

 こないだ第171回(令和6年/2024年・上半期)直木賞の選考会がありました。青崎有吾さんの『地雷グリコ』が候補の一つに挙がっていました。そして落ちました。

 候補になったものが落ちることは、別に珍しいことじゃありません。無駄に長い直木賞の歴史上、候補になった作品はたくさんありますけど、その8割、9割は落選作です。そして、その落ちたものがキラキラ、ギラギラと光を放ち、多くの読者の心を動かして、日本の小説界に大きな影響を与えることも、けっこうあります。なので『地雷グリコ』が落ちたのは、そう悲観することでもありません。

 まあ、だれも悲観なんかしちゃいないかもしれませんけど、それはそれとして、この作品が候補になったのを見て、ふとワタクシの頭をよぎったのが、一人の直木賞候補者(受賞者)です。

 はじめは、あまりにパズル性の強い、トリックだのアリバイだのといった強烈な匂いのする推理小説を書いてデビューし、そのうちの一作『乱れからくり』が第79回(昭和53年/1978年・上半期)の候補に挙がったところ、選考会でも案外面白がられながら当然のように落選し、それから候補6度。12年後の第103回(平成2年/1990年・上半期)でようやく選考委員側が折れて(?)受賞してしまった作家がいます。日本の探偵小説・推理小説・ミステリー界の歴史を変えたうちの一人、とも言われます。

 ミステリーの世界には、作家のこと、作品のことを、マニアックに調べ上げる異常性をもった(褒め言葉です)人たちがうじゃうじゃいますので、もちろんこの作家のことも、情報があふれています。ありがたいことです。

 本名、厚川昌男さんは昭和8年/1933年、東京生まれ。実家は紋章上絵師を営む「松葉屋」で、厚川さんが三代目です。

 ものの本によれば、厚川さんが手品に興味をもったのは小学生の頃だったそうで、縁日で買い求めた手品の種が面白く、手品少年になります……。いや、ならなかったかもしれません。ともかく時は国家あげての戦争に突き進み、それが終わって、厚川さんは定時制の九段高校に通いながら、建設業者や金融会社で働きます。まだ10代後半の頃です。

 ところが、勤め先が倒産して無職となった頃、柴田直光さんの『奇術種あかし』(昭和26年/1951年12月・理工図書刊)と出会って、ふむふむ、これは面白いなとマジックにぞっこん。そこから厚川さんの手品にのめり込む奇特な人生が動き出します。

 奇術クラブに入会し、そこで知り合った耀子さんと結婚したのは、厚川さんのマジック人生のいちばんの収穫でしょうけど、昭和43年/1968年には優れた奇術師に贈られる第2回石田天海賞を受賞します。いまのところ、石田賞と直木賞の二冠をもっているのは、厚川さんただひとりです。

 さらには何といっても、厚川さんが初めて出した本が小説ではなく、厚川昌男名義の『ゾンビボールの研究』(昭和43年/1968年9月・力書房刊)だったことが重要です。重要ですというか、後年小説を書くときには、自分の名前をならべ替えてわざわざ筆名をつけたのに、奇術書を出すときには、本名を使っている。紋章上絵師が本職で、小説を書くのは第二の職業、それらに比べて奇術というのは、アマチュアの手すさび程度の存在だったでしょうが、しかし厚川さんという人間にとって、奇術師としての顔がすべての大モトにあったのは間違いありません。

 そんなことは、これまでもいろんな人が指摘してきたことなので、いまさらこのブログでなぞる必要もありません。とにかく、ここで書くとしたら、やはり直木賞のハナシです。

 第103回の直木賞贈呈式は平成2年/1990年8月20日に行われました。それを報じた『読売新聞』の記事が残っています。

「泡坂氏は“職人”らしい羽織、はかま姿で出席。同氏が趣味にしているマジックの仲間がお祝いにかけつけ、舞台で手並みを披露して拍手をあびていた。」(『読売新聞』平成2年/1990年8月23日夕刊「第103回芥川・直木賞贈呈式」より)

 厚川さんは外出するときに、かならず手品の種を一つ二つと仕込んでいて、いつどんなときでもマジックが披露できるようにしていたらしいです。直木賞の贈呈式でも、仲間といっしょに何らかその手並みをお披露目したんでしょう。どんなマジックをやったのか。気になるところですが、知っている方がいたら教えてください。

 それと、贈呈式よりも前、直木賞の場合は受賞が決まったときにも全国のニュースで取り上げられます。こないだ一穂ミチさんがマスク姿で受け答えしていた例のアレです。第103回でももちろん記者会見が開かれて、厚川さんもお出ましになったんですが、そのときの記事にも手品のことが出てきます。

「趣味は手品。受賞後の記者会見で、記者団からそのことを聞かれると、ポケットから赤いボールを取り出して鮮やかな手つきで”名人芸”を披露、会見は一転して和やかな雰囲気になった。」(『西日本新聞』平成2年/1990年7月17日「ひと 泡坂妻夫さん」より)

 うわっ、さすがだ……。何を聞かれるかわからない状況で、赤いボールを持っていく厚川さんの奇術師だましい。直木賞の受賞会見で手品をやってみせた受賞者は、おそらくこれまでのところ、厚川さんただひとりです。

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2024年7月17日 (水)

第171回直木賞(令和6年/2024年上半期)決定の夜に

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 今日の東京も蒸し暑い日でした。

 蒸し暑い夏といえば直木賞。奇数回のときは毎年こんな感じです。今日7月17日(水)、第171回(令和6年/2024年・上半期)の受賞が発表されました。ニュースで報じられているとおりです。

 ウワサによると、こんな面白い行事が定期的にあるのに、候補作をいっさい読まず、ニュースで知るだけ、っていう人が世の中にはたくさんいるんだとか。

 マジでもったいない。と思うんですけど、まあこっちだって、直木賞以外の、おそらく楽しい世の中のイベントや出来事は、ほとんど知らないまま生きています。どっちもどっちです。

 いずれにしても、直木賞を楽しめるかどうかは、世間の動向とは関係ありません。半年のあいだ待ちに待ち望んで、ようやくやってきた新しい直木賞も、候補作のすべてが面白くて、それがいちばんの満足でした。どれが受賞したとかは、正直、些細なハナシです。

 麻布競馬場さんに授賞したら、直木賞も大化けできたのに……。直木賞にとっては、チャンスを逃したかたちになって残念です。『令和元年の人生ゲーム』を読んでいると、描いている世界は新しいのに人間を見つめようとする小説家としての腕の確かさに、感嘆しきりでした。麻布競馬場さん、また直木賞の場にきてください。そして直木賞にリベンジの機会を与えてやってください。

 それにしても、こんなに正統派で、作者の思いのこもった小説が候補ですから、一発で岩井圭也さんが受賞するのかと思っちゃいましたよ。『われは熊楠』の何がどうケチをつけられたのか。いまのところはよくわかりませんが、ほんのちょっと委員の機嫌が違えば、直木賞の一つや二つ、岩井さんが受賞する日は近いはずです。「あげるのが遅い」が直木賞の代名詞。あきらめてその日を待ちます。

 青崎有吾さんの『地雷グリコ』は、世間の評判がものすごくて、読む前から身構えてしまったんですけど、いやいや、あまりの鮮やかな設定と展開に参りました。次はどうなる、最後にどうなる。このとてつもないドキドキ感。読書の醍醐味を味わわせてもらったので、文学賞とかはどうでもいいです。これから追いかけていきたい作家がまた一人見つかりました。

 鼻から火を吹く『あいにくあんたのためじゃない』のパワフルさ。かつ繊細さ。柚木麻子さんが、自分の行く道から逸れずに、ずっとアップデートを続けているその姿に思わず感動しました。6回も落としたからってそれが何だ、直木賞だって人の子だ、7回8回と続けば、いつか直木賞が折れるかもしれん。っつうか、柚木さんのほうがウンザリしちゃってるかもしれない。すみません、直木賞のために、これからも候補入りの話、断らないでください。

          ○

 聞くところによると、光文社の本で直木賞を受賞したのは、第57回(昭和42年/1967年・上半期)の生島治郎さん『追いつめる』以来、57年ぶりらしいです。とれそうでとれない。と、しばしば言われてきたこの出版社に、直木賞受賞を引っ張ってきた一穂ミチさんの強運ぶり(いや、実力)が、とにかくもう、すさまじいです。

 以前候補になった『スモールワールズ』『光のとこにいてね』とはまた一転、『ツミデミック』に収められたホラー味&ユーモア味&社会性もある犯罪小説の数々に、しびれました。これからも一転十転、歴史ものでもSFでも、多種多様な小説を書いていってくれるんでしょう。何でも書けちゃう一穂ミチ。恐ろしいです。

          ○

 今回は、第144回(平成22年/2010年・下半期)から続く伝統のニコ生放送が、サイバー何とかのせいで休止中。YouTubeのほうの「ニコニコニュース」で受賞者会見が中継されました。発表貼り出しの時間は以下のとおりです。

 うーん、わきの解説がなくてつまらないな。……と思ったからでもないんですけど、家でパソコンに張り付いていても暇なだけなので、蒸し暑いなか、えっちらおっちら電車を乗り継いで、横浜市金沢区にある直木三十五の墓に行ってきました。去年の夏もここで発表を待ったので、今年で2回目。長昌寺のご住職と、南国忌実行委員の重鎮お二人とともに、受賞の結果を直木さんの墓前にご報告しました。って、相変わらず何をやってるんだ、おれは。

 でもまあ、直木賞はいつ見ても、どんなふうに接しても絶対に面白いから、一生直木賞ファンはやめられません。今度は極寒の1月にやってくる第172回(令和6年/2024年・下半期)の候補作を読むことだけを楽しみにして、半年間の冴えない日常を過ごしたいと思います。ええい、早くこい。直木賞。

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2024年7月14日 (日)

直木賞がやってきた「逆説の選考」を、第171回(令和6年/2024年上半期)候補作にも当てはめてみる。

 今週水曜日、令和6年/2024年7月17日に第171回(令和6年/2024年上半期)の直木賞が決まります。

 半年に一度、これだけを楽しみに生きています。直木賞は万全の態勢でのぞみたい。ということで、候補作5つもきっちり読んだ。仕事の休みもとった。もうあとは待つだけです。

 決まってしまえば、受賞作(受賞作家)だけが突出して取り上げられて、ほかの候補作にはあまり光が当たりません。なので、どれがとるか、あれがいいか、と候補作すべてに可能性がある状態でいろいろと考えられるいまの時間が、直木賞ファンにとってはいちばん幸せです。

 それでアレコレ要らぬことまで考えるわけですけど、直木賞は何がとりそうか。過去の傾向をひっぱり出して、つらつら考えてみれば、直木賞の特徴といってはっきり言えることが一つあります。「おおよそ逆がくる」ということです。「逆説の選考」などとも呼ばれます。

 何が「逆」なのか。と言いますと、一般的に褒められるようなことは否定的に扱われ、マイナス要素と言えそうなことが高い評価を受ける、ということです。

 売れている本は駄目。面白い小説は駄目。すらすらと一気に読めるもの、性格のいい人や温かい雰囲気のものも駄目。あまり売れそうになく、読んでいても退屈で、ゴツゴツとした文体で書かれた、人のイヤな部分とか、負の感情が描かれて読後スカッとしないようなものが、直木賞では(いや、文学賞の多くでは)点を集めたりします。変な世界です。

 ということは、ですよ。候補作を読んで、これは駄目だな、と思えるような箇所が多ければ多いほど、受賞作になりやすい、と言っていいと思います。これは別にワタクシがあまのじゃくなわけではなく、これまでの直木賞の傾向がほんとうにそうなんだから、仕方ありません。

 じゃあ、今回の5つの候補作はどうなのか。基本的にどれもこれも、読んでいてケチがつけられるような小説は見当たりません。見当たらないんですが、駄目な点が多くないと受賞できない、というならハナシは別です。無理やりにでも、それぞれのマイナスになりそうなところを探してみることで、逆に受賞が決定することを願ってみたいと思います。

          ○

■青崎有吾『地雷グリコ』(令和5年/2023年11月・KADOKAWA刊)

 このブッとんだ超絶の傑作に、果たして落とし穴などあるんでしょうか。頭をしぼって、

  • いくら何でも射守矢真兎が事前に考えていた想定どおりに事が運びすぎ。ほとんどマンガ。
  • 設定や人間心理にリアリティがなさすぎる。
  • 読み終わって、だから何なんだ、と徒労感しか残らない。

 といった辺りを挙げてみました。これくらいツッコみどころの多い小説であれば、十分受賞の可能性はありそうです。

■麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(令和6年/2024年2月・文藝春秋刊)

 いまの時代の、いまを生きる人たちに向けた、ぐっとくるワードが満載の小説です。うーん、欠点というと何でしょう。

  • 連作を通して出てくる沼田の人物造型が、よくわからない。
  • 描かれている状況や設定が、現代の一部に寄りすぎていて、中高年以上の読者には付いていけない。
  • いかにも人間のイジ汚い部分にせまっているようで、そこまで鋭くはない。

 小説にとってプラスはマイナス。マイナスはプラス。本作もまた、熱く議論される箇所の多い小説だと思います。

■一穂ミチ『ツミデミック』(令和5年/2023年11月・光文社刊)

 一穂さんのこれまでの2度の候補作とはまた違っていて、作者の力量の幅広さがよくわかります。さすがにマイナス点を探すのには難渋します。

  • 話をつくりすぎていて、途中、興ざめしてくる。
  • これぞ作者の独自性! といった看板になるような魅力が希薄。
  • どれもまとまりがよすぎて、読後に強く残る印象がない。

 まあ、よくできた作品集ほど、こんな選評はよく見かけますが、けなす委員がいれば褒める委員もいる。それが直木賞です。

■岩井圭也『われは熊楠』(令和6年/2024年5月・文藝春秋刊)

 老成しているようで新鮮な、直木賞に受けるにふさわしい岩井さんの小説ですから、やはり駄目な点がきっとあるんだと思います。

  • どうしてそんなに夢のお告げみたいなものばかり繰り返されるんだ。飽きてくる。
  • 歴史的事実に忠実であろうとするあまり、展開が単調。
  • 熊楠の人物的な面白さが、小説としての面白さにつながっていない。

 つまらなければつまらないほど、直木賞に近づく、というのも不思議なものです。

■柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(令和6年/2024年3月・新潮社刊)

 出ました。これまでさんざん選評で酷評されてきたその蓄積が、ついに臨界点を超える段階にまできたのが柚木さんです。

  • どの話も展開がフリきりすぎていて、ドン引きする。
  • 感情や主張を、登場人物がしゃべりすぎ。余白や余韻がない。
  • けっきょく作者が言いたいことのためだけに話がつくられている、という印象から抜け出たものがない。

 とにかく首をかしげてしまう小説であれば、直木賞の受賞はまず間違いありません。

          ○

 だいたい、外部の野次馬が、候補作を読んでの感想を書いて、いったい直木賞の何になるんでしょうか。別に何にもなりゃしません。

 直木賞の楽しみは、まずは候補作をすべて読む。その状態で選考結果が出るのを待機して、出たら出たで、ワーッとその騒ぎを全身に浴びる。その快感を与えてくれる点で、いまのところ直木賞以上のものはありません。

 ただ、もしもとってほしい候補作がある人であれば、結果が出るまで気が気じゃないでしょう。そういうときは、推しの小説が持っている駄目なところをできるだけ数多くピックアップして、受賞を祈ることをおすすめします。

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