2024年3月 3日 (日)

高野一郎・きぬ子(家具職人とその妻)。幼い娘を残して戦場に行った父、晩年まで娘と離れず暮らした母。

 直木賞を受賞した人の親には、履歴の知られた有名な人もいます。ただ、だいたいの親は一般には知られることのない普通の無名人です。

 そんな人たちのことを知ってどうするんだ。という気がしないではありませんが、いや、そんなこと言いはじめたら、世のなかのすべてが「知ってどうするんだ」ってことになっちゃいます。ここは自分の興味の向くままに、直木賞に関する「知っても何の役にも立たないこと」を調べつづけるしかありません。

 一般には知られることのない無名な人。だけども、子供である作家が書き残したことで、われわれ無関係な読者にも、ほお、こういう人がいたんだ、と知られるようになったケースは数多くあります。たとえば第109回(平成5年/1993年・上半期)直木賞を受賞した北原亞以子さんの場合も、そのひとつです。

 31歳で作家デビューしてから苦節20年。『深川澪通り木戸番小屋』で第17回泉鏡花文学賞を受賞し、その勢いで(?)4年後には『恋忘れ草』で直木賞の候補に初めて挙がり、そのままズバッととりました。そのあたりのアレコレは、昔、うちのブログでも触れたことがあるように記憶しています。

 直木賞をとった頃からは順調に原稿の注文が引くこともなく押し寄せて、数々の著作を残しましたが、そのなかで新潮社の『波』で連載したのが「父の戦地」(平成18年/2006年10月号~平成19年/2007年12月号)でした。平成20年/2008年7月に新潮社から単行本となり、平成23年/2011年8月には新潮文庫に入っています。

 タイトルのとおり、これは北原さんが自身の父親のことを書いたものです。と同時に、もちろん父親のまわりにいた母親や係累のことにも筆が及んでいます。

 父親は高野一郎。生まれはだいたい明治の末ごろ。明治45年とすれば西暦で1912年の時代です。実家は東京・芝で家具をつくっていた職人の家で、父にあたる銀次郎さんは椅子の製作を専門にしていたんだとか。もちろん息子の一郎さんに後を継がせて家具職人になってもらおうと思っていたらしいんですけど、一郎さんはそちらのほうにはからっきし興味がなく、イラストとか漫画を描くのが大好きな少年でした。

 11歳のとき、母の〈タマ〉さんが数え30歳で亡くなってしまい、やがて父の銀次郎さんは若い娘さんを後添いに迎えます。新しい継母は、一郎さんとは6歳しか違わない若さだったもので、二人は気安く口を聞き合う仲のいい親子になりますが、そのことが後年までズルズルと尾を引きます。

 尾を引くとはどういうことか。そこに登場するのが一郎さんと結婚することになる〈きぬ子〉さんです。一郎さんのお嫁さん候補を探していたとき、たまたまその継母の従妹にあたる〈きぬ子〉さんに白羽の矢が立てられて、昭和8年/1933年ごろに二人は首尾よく結ばれます。甘ーい甘ーい新婚生活のスタートです。

 ところが、家族関係というのはどこで問題を起こすかわかりません。一郎さんは継母とは軽口や冗談を叩き合って、キャッキャ、キャッキャと打ち解けあう。お嫁さんの〈きぬ子〉さんも二人といっしょに話したいと輪に入っていこうとするんですが、そこで継母が「あなたが来るとおもしろくなくなる」と憮然とした態度をとってくる。それには一郎さんもとくに反論することもなく、ただ黙っていて、〈きぬ子〉さんもしゅんとなってしまいます。ああ、かわいそうな〈きぬ子〉さん。

 結婚して5年め、昭和13年/1938年の正月に待望の第一子が誕生します。美枝(よしえ)と名づけられたこの女の子が、のちに作家となる筆名・北原亞以子さんです。

 その後、昭和16年/1941年に一郎さんは兵隊にとられ、高野一家も銀次郎さんが亡くなって家具づくりの仕事場も閉鎖、〈きぬ子〉さんと娘の北原さんは千葉県成田に疎開して、生活が苦しくなる戦争のあいだ、南方に派遣された一郎さんからぞくぞくと妻子のもとにイラスト入りのハガキが送られてくるんですが、昭和20年/1945年4月29日、一郎さんは従軍先のビルマ、サルウィン川の河口で敵機から銃弾を浴びて死亡。30代半ばの若さでした。

 ……といったあれこれの経緯の詳細は『父の戦地』を読んでいただくとしまして、終戦後、〈きぬ子〉さんは再婚を決意。北原さんも新しい父をもうけることになります。

 〈きぬ子〉さんは北原さんに対して、もとの夫の一郎さんのことはあまり語ることのないまま生活を送ったそうです。あるいは語るにしても、けっこう辛辣に一郎さんのことを悪く言う思い出ばなしが多かったようで、父に対して恋しさを募らせる北原さんは、そういう悪口を聞くのが嫌いでした。母親は、おそらく再婚相手に気を遣ってわざともとの夫をよくは言わなかったのではないか、それと新婚時代に継母と仲良くして言いなりだった夫に、軽く恨みをもっていたのではないか、というのが後年、北原さんが書いている憶測です。

 それで「直木賞と親のこと」のハナシなんですけど、当然、父・一郎さんは北原さんが受賞したときには、この世にいません。母・きぬ子さんも、北原さんが新潮新人賞と小説現代新人賞(佳作)を受けた昭和44年/1969年には存命でしたが、作家としてきちんと食っていけるようになる前には、あの世に旅立ってしまった模様。娘が直木賞を受ける姿を見ることはありませんでした。

 しかし、父のことをずっと恋しく思い、母については「自分はマザーコンプレックスだ」というほど人生の岐路では常に母親との生活を優先してきた北原さんです。きっちりと、直木賞を受賞したときのエッセイに二人のことを書き残しています。

(引用者注:「恋忘れ草」に出てくる)国芳は武者絵が有名だが、私は、わずかしかない彼の風景画に惹かれた。彼の風景画に出てくる人物が、何となく父を想像させたのだ。

(引用者中略)

苦労して育った母の口癖は、「もったいない」だった。私が捨てようとしたものも母は器用に再生し、古いブラウスもスカートも、一部が座布団カバーになったりした。(引用者中略)晩年はミシンを踏まず、針箱を引き寄せては着物を縫い返していたが、私には、その姿と、つましい暮らしをしていたにちがいない江戸の女達の姿が重なって見えるのである。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 北原亞以子「木々の香」より)

 そして、父と母が、自分を決して丈夫ではなく幼少期から弱いからだで生んでくれたからこそ、自分は作家になったのだと思う、と書いています。名もなき二人の両親のことを、自分が受賞者になったということを活かして直木賞の歴史に刻んでくれた北原さん。心がしみじみします。

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2024年2月25日 (日)

井上修吉(薬局店主)。作品を発表したら直木三十五からハガキをもらった。と息子は語る。

 こないだの令和6年/2024年2月23日、「南国忌」の催しがありました。

 前回は令和2年/2020年ですから、ちょうど4年前のことです。それからコロナ感染拡大防止という名目で、3年ほど中止がつづき、今回はひさしぶりに墓前祭と講演会が復活しました。講演者は、うちのブログで何度も取り上げている元・文藝春秋の高橋一清さん。著書にかかれたエピソードなどを中心に、直木賞が決まるまでの過程とか、心にのこった受賞や選考の思い出を、穏やかな口調で話していました。じかに聞けてよかったです。

 と、南国忌といえば、何といってもお楽しみは講演会です。だれが何のテーマで何を話すか。これまでも直木賞とか直木三十五とか、それとは関係ないこととかを演題として、(中止の年を除いて)毎年ひらかれています。じゃあ、過去にはどんな講演があったんだろうか。一覧化したものがあると便利だなと思って、うちのサイトに「南国忌について」のページをつくってみました。

 今日はせっかくなので、この一覧に出てくる直木賞受賞者から、「親」にまつわるエピソードを取り上げたいと思います。

 南国忌の講演は、そのたび実行委員の人ががんばってテープ起こしをして、南国忌の会の会報に掲載されます。それらをまとめた『南国忌の会のあゆみ』という冊子もこれまで2度出ているので、昔の講演を振り返ることができるんですが、そこで親のことを語った受賞者がいないかな。と思ってダラダラ読んでいたところ、ふっと目にとまったのが、第23回南国忌(平成17年/2005年)の講演録です。

 演者は、第67回(昭和47年/1972年・上半期)受賞者の井上ひさしさん。当時は直木賞の選考委員もしていましたので、実行委員の人たちもなかなかの大物をひっぱり出してきたな、という感じです。

 井上さんの両親は、父も母もよく知られています。……いや、井上さん自身が有名人になったおかげで、よく知られるようになりました。

 たとえば母親のマスさんです。井上さんを育てた肝っ玉かあさんとして、メディアにもたびたび登場。『人生は、ガタゴト列車に乗って』(昭和58年/1983年3月・書苑刊)をはじめ、何冊か著書も出しました。明治40年/1907年2月15日生まれで、次男のひさしさんが直木賞をとったときには65歳。そこからマスさんは、第二なのか第三なのか、何度目かの青春を謳歌して、若いころから好きだった文章を書く、という世界でも活躍してしまいます。ひさしさんは直木賞の受賞によって、かなりの母親孝行を果たした、と言ってもいいでしょう。

 いっぽう、ひさしさんの父親はどうかというと、若くして死んでいます。当然ひさしさんが直木賞をとるなんて、想像することもなくあの世に旅立ったんですが、南国忌の講演でひさしさんが語った親のハナシは、その父親のエピソードでした。

 井上修吉。明治38年/1905年10月7日生まれ、昭和14年/1939年6月16日没。実家は山形県東置賜郡小松町、酒づくりの名家「井上酒造」の分家の分家。そこら辺りではけっこう裕福な地主の家でもありました。

 修吉さんは山形中学から東京薬専を卒業。薬剤師となって新宿の病院で勤めていた頃に、看護婦見習いだったマスさんと出会って恋に落ちます。昭和2年/1927年、二人は周囲の反対を押し切っていっしょになると、修吉さんのふるさと小松町に移り住みますが、若い修吉さんは文学やら演劇やら、そちらの方面に興味があって、末は物書きになりたいと思っていたそうです。

 小松町では薬局(の看板をかかげたよろず屋)を営みながら、米沢で劇団を立ち上げたり、農地解放の運動に邁進したり。地主だった父親とは折り合いが悪く、うちの修吉め、東京でアカになって帰ってきよった、と苦い顔をされ、治安維持法違反で留置場に入れられたりもします。ひさしさんの記述によると、留置場で拷問に近い暴力を受けて、修吉さんはからだを壊したんだとか。

 その間も修吉さんの文学熱は収まらず、文学といえば芸術的な文学に進みそうなものを、なぜか大衆文芸にも興味を持ち、『サンデー毎日』の懸賞に何度か投稿を試みます。そのうち〈小松滋〉なる筆名で応募した「H丸伝奇」が首尾よく入選を果たしたのが昭和10年/1935年10月発表の第17回大衆文芸懸賞です。このとき井上靖さんが同じく入選をしていた、というのはひさしさんやマスさんが繰り返し語ったおかげで、チョー有名な逸話となりました。

 実は修吉さんはそのとき(あるいは、その頃に)、直木三十五さんから直筆のハガキをもらっていた……ということが、ひさしさんの南国忌の講演で明かされています。

 短い文章で修吉さんの作品に対する感想が書かれたハガキだった、それを母親のマスさんはずっと大切に持っていて、ひさしさんは何度も見せられた、それが自分が直木三十五という人を知ったきっかけだった、と言うのです。

「私が物心ついた頃に母親が「お前の死んだお父さんはこういう偉い人にほめられたのだよ」と聞かされましてそれがずっと頭に入っておりました。

(引用者中略)

直木三十五と私の関係は、もちろん直木賞を頂いたということはありますが、その前に母親が何かあるごとに見せてくれたちょっと黄ばんだ葉書ですね。「読みました。本当によかった」という三行くらいの短い感想でしたが今も目の奥に残っています。」(『南国忌の会会報』No.23[平成18年/2006年8月] 井上ひさし「特別講演 直木三十五と落語」より―文責・編集部)

 感動的な(?)ハナシだとは思うんですけど、ほんとうにそんなハガキがあったのか、はっきりしたことはわかりません。

 というのも、修吉さんが『サンデー毎日』大衆文芸で入選したのが昭和10年/1935年。直木さんが死んだのは昭和9年/1934年ですから、感想が送られてきたとすればその入選作に対するものではあり得ません。それより前、修吉さんは同誌昭和6年/1931年の懸賞実話「旅で拾つた話」に入選したことがあるそうですが、そんな実話の懸賞ものに直木さんがいちいち感想を送るだろうか、と思います。

 ちなみに桐原良光さんは『井上ひさし伝』のなかで、こんなハナシを紹介しています。

「ひさしの弟、修佑は、母マスが宝物のように大事にしていたはがきがあったのを覚えている。吉川英治からのはがきで、作品は素晴らしい、すごい才能があるのだから上京して活躍しなさい、といった内容だったという。」(平成13年/2001年6月・白水社刊、桐原良光・著『井上ひさし伝』より)

 たしかに吉川さんなら、そんなハガキを送りかねません。

 要するに、ひさしさんの記憶が吉川さん→直木さんにすり替えられたか、あるいは講演の席ですから、ちょっとしたリップサービスで、吉川さんを直木さんに置き換えて話したか、そんなところではないか、という仮説が成り立ちます。

 懸賞に入選した父親が、直木三十五さん本人からじきじきにハガキをもらった。その意志を継いだかっこうの息子が、のちのち直木三十五の名を冠した賞を受賞した。ちょっとハナシとしては出来すぎです。出来すぎではあるんですけど、マスさんが大事にしていたハガキの実物が、その場になかった以上、つくり話かどうかわからない。こういう小説家っぽい真偽不明なハナシが飛び出すのも、講演というものの一つの魅力です。

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2024年2月18日 (日)

澤田ふじ子(作家)。権威に寄り添うな、と言い聞かせて育てた娘が何の因果か直木賞をとる。

 直木賞が決まると、どうしても気になることがあります。受賞者や候補者の〈親〉のことです。

 ……というのはさすがに言いすぎですけど、直木賞のことなら何でもかんでも興味が沸く。そのことに嘘いつわりはありません。とくに、親のだれかが文章を売って生活している物書きだったりすると、候補者本人の作品はわきにおいて、その親が書いたものを漁ってしまう変な癖までつきました。まあ、悪性の直木賞病です。

 最近でいうと、第165回(令和3年/2021年・上半期)を受賞した澤田瞳子さんの親御さんが、よく知られた物書きです。ワタクシも瞳子さんが受賞したと聞いたとき、「ああ、お母さんも作家だったか、名前は知ってるけど、いったいどんな人だったっけ」と急激に興味をもってしまって今に至ります。哀しき直木賞ファンのサガ、というやつでしょう。この病気は治りそうもありません。

 それはともかく、澤田さんのお母さんのことです。

 澤田ふじ子。昭和21年/1946年9月5日生まれ。ふるさとは愛知県半田市で、そこで「人はおのれの分を知らなきゃ駄目だぞ」と親に言われながら育ち、愛知県立女子大の文学部を卒業。高校の国語教師になります。

 ところが、どうも自分は教師としては不適格だと思い始めたところ、岐阜県に伝統工芸を伝えるための民芸村をつくろうじゃないか、と夢を語る出版社の社長がいて、まあそれはいいわねと共感。そうか、じゃあ、ふじ子さんはそこで織物を担当してくれ、ということになって、26歳で教師を辞め、西陣のつづれ織を学ぶために京都に移ります。ちなみに、その民芸村の構想は途中で挫折して、話はアワと消えちゃいましたが、出版社の経営が立ち行かなくなったその男こそ、ふじ子さんといっしょになる旦那さんです。

 せっかく民芸村のために織物を学んでいたのに、どうしたものかと次の一歩を決めかねますが、ふじ子さん、小説書きませんか、と勧めてきたのがその旦那さんでした。昭和50年/1975年、28歳のときに「石女(うまずめ)」で第24回小説現代新人賞を受賞。作家デビューを果たします。

 それから2年後、夫にいろいろと教えてもらいながら小説を発表しているさなかに一人の子供を授かって、かわいいかわいい女の子が誕生します。瞳子さんです。

 瞳子さんが自分の名前で本を出すのが平成16年/2004年、徳間文庫の『大江戸猫三昧 時代小説傑作選』の選者としてなので、生まれてから30年弱。幼少期、青春期、ものを書き始めるそれまでのあいだ、瞳子さんはどんなふうに生きてきたんでしょうか。

 「直木賞をとるまでの歩み」というのは、直木賞に関するさまざまな記事のなかでも多くの人が興味をもつ人気コンテンツです(……た、たぶん)。本人が自分で語ったり語らされたりする回想も、もちろん大事なんですけど、親が物書きの人の場合は、その親がかつて子供のことを書いたエッセイやらがけっこう残されています。発表された当時は、なにげない身辺雑記だったものでも、のちに直木賞関連資料になったりするのですから油断できません。

 たとえば、ふじ子さんが平成6年/1994年『読売新聞』に連載した「つれづれ草紙」というものがあります。平成7年/1995年に『京都 知の情景』(読売新聞社刊)となり、平成12年/2000年『京都 知恵に生きる』(中公文庫)として刊行されました。

 そこには夫のことや娘さんのことが、ときどき出てくるんですが、こんなイカすエピソードが収められています。

「「小説がちっとも売れない――」

時代が悪い、本を読む人が少なくなったのだと、しきりに嘆いていた十年ほど前、稚拙な文字でわたし宛てに一通の封書がとどいた。

――私は澤田ふじ子さんの小説が大好きです。どんどん小説を読んでいます。もっともっとたくさんいい小説を書いてください。

封書の裏に住所はなく、つくりものめいた名前が書かれていた。

稚拙な文字にはっきり見覚えがあった。

それは娘がわたしの嘆きを心配するあまり、わたしをはげます気で書いた手紙だった。

(引用者中略)

いまでもわたしはこの封書を、〈心の宝石〉のつもりでもっている。」(澤田ふじ子・著『京都 知恵に生きる』所収「離俗の精神――あとがきをかねて――」より)

 ちょっと長めに引用してすみません。こういう思いやりある関係性を家族どうしで築いてきた澤田家の教育は、やはりイカしていると思って紹介してみました。

 その後、娘の瞳子さんはのびやかに成長します。昔の美術史にも異常にくわしい父親と、こつこつと歴史小説を書く母親。そういう家庭環境からおそらく影響を受けて、美術史を専門で学ぶ道に進み、ガチガチの研究者になるかと思いきや、やがて創作を公に発表するようになって小説家としてもデビュー。10年ほど書き続けたところで、令和3年/2021年に直木賞をとるわけです。

 直木賞は一般には「権威」の権化と思われています。エラいもんだとみんなからチヤホヤされ、ゴマすり、追従、いろいろと誘惑の手も伸びてくる……かどうかはワタクシもわからないんですが、いまのところ澤田さんが悪い人たちにそそのかされて、堕落していく気配はないようです。

 ふじ子さんがかつてエッセイに書いた、我が子に対する教育方針の一節に、こんなものがあります。

「私はわが子に、権威に寄り添うな、弱い立場の相手を決していじめてはならないといいきかせ、これまで育ててきた。

自分の強い立場をひけらかすほど、愚かで見苦しいものはないと、私は考えている。」(『潮』平成10年/1998年12月号、澤田ふじ子「へそまがり」より)

 この教えが瞳子さんの心に植えつけられているかぎり、わたしは直木賞をとったんだ、そうじゃない連中は黙ってろ、とふんぞり返る未来は、おそらく今後もこないでしょう。

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2024年2月11日 (日)

神崎ヤス(麻雀店女将)。息子が直木賞を受賞した作品名を、店の名前につけて経営する。

 直木賞の歴史はムダに長いです。なので、親にまつわるエピソードもさまざまあります。

 親のことを書いた小説で候補になる(ないしは受賞する)っていうのが、だいたいメインの親バナシなんですが、あとは、直木賞を受賞したときに親御さんが生きていれば、受賞者の親が子供の直木賞についてコメントを発したりする。そういうものが新聞を中心にたくさん残ります。みんな合わせて直木賞を取り巻く一大文献です。

 と、そういうなかで、この人の親はなかなか珍しいな、と思うのが神崎武雄さんのお母さんです。長谷川伸門下の新鷹会のことを調べていると、ときどき目にします。

 神崎さんのことは、4~5年まえに一回うちのブログでも取り上げました。そのときに触れたかどうか忘れちゃいましたが、神崎さんという人は直木賞の歴史でも一番の記録を持っている重要な人です。最も若くして亡くなった直木賞受賞者。それが神崎さんだからです。

 ここで一つ触れておくと、「最年少」といえば直木賞では堤千代さんの名前は外せません。公式の記録では大正6年/1917年生まれ、昭和30年/1955年没、享年38……のはずなんですが、ワタクシの調べたところ、年齢のサバを読んでいたことはまず疑いがなく、亡くなったのはおそらく40歳を過ぎてからです。対して神崎さんは明治39年/1906年生まれ、昭和19年/1944年没。享年38。直木賞受賞者として太平洋戦争の犠牲になったただ一人の作家でもあります。

 本人が若くして亡くなった。ということはどういうことでしょう。その親がその後長く存命だった可能性が高くなるわけで、神崎さんの場合も例にもれません。母親が亡くなったのは昭和44年/1969年ごろです。つまり子供より25年ほどこの世に生きていたことになります。

 神崎ヤス。「靖子」と表記することもあるようです。明治22年/1889年頃、兵庫県淡路島の南にある沼島の生まれ。やがて両親たちに連れられて、ヤスさんを含めたきょうだい6人も大阪に移り住みますが、生活は窮乏の一途をたどります。そんななかでもヤスさん踊りや三味線を習いはじめて芸事の楽しみに目覚めます。親戚から声がかかって、博多のほうへ芸者になるための修業に出向いたところ、いったいどうした縁なのか、小倉で弁護士をやっている男と知り合って、一人の生命を孕みます。生まれてきたのが武雄さん。ヤスさん17歳のときでした。

 ちなみにヤスさんに子ダネを残したその弁護士は、武雄さんの実の父親に当たるわけですが、のちのち判事になって千葉へ行った、ということのほか、詳細はわかりません(『真世界』昭和33年/1958年8月号、星野武男「母は生きている」)。ヤスさんは門司で芸者を勤めることになり、息子の武雄さんは、ふるさと沼島に居をもった祖母の〈かん〉さんのもとで育てられます。

 やがてヤスさんは、新派の俳優だった後藤良介さんと結婚したのを機に、11歳になった武雄さんを呼び寄せて、家族3人で暮らし始めますが、後藤さんが鉛毒のせいで脳をやられ、大正9年/1920年に病没してしまいます。大正11年/1920年には母の〈かん〉さんも喪うという不幸が続き、ええい、こうなりゃ女手ひとつでやっていくしかないよ、とヤスさんは腹をくくって昭和のはじめに、門司で「竹の家」という料亭を開店させ、人生の荒波に立ち向かいます。

 そのとき精神的な支えになったのが国柱会の教えだった。……ということで、神崎家では〈かん〉さんの代から、この仏教団体の強烈な信者で、ヤスさんも、息子の武雄さんも、みんなそろって日蓮聖人ラブな人たちでした。こうしてしがない直木賞オタクが、〈神崎武雄の母親〉なんちゅう、ほとんどの人が興味をもたない人物の生涯を追っていけるのも、国柱会の雑誌『真世界』にその来歴が書き残されているからです。ありがとう国柱会。

 息子の武雄さんは優秀な生徒として、また祖母・母ゆずりの熱心な国柱会会員としてすくすくと成長しました。早稲田文科の学生だったときに、日蓮主義の田中澤二さんの講演で、立憲養生論をきいて感銘をうけ、早稲田をやめて奈良晋蔵さんとともにハルピンにロシヤ語の留学生として渡ります。そのうち、ううむやっぱり俺は政治家より文学の道が向いていそうだ、と決心して、新派の瀬戸英一さんの門を叩き、それから『都新聞』に勤めたりしながら小説修業に励んでいるうちに、昭和18年/1943年2月、第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞を受賞しました。

 そのおかげで武雄さんはちょっとした文士扱いされる立場になり、海軍の報道班員を拝命して南洋へ。そしてそこで命を落とした、といったようなことは、先のブログ記事に書いたとおりです。ここでは省きます。

 母親のヤスさんが、直木賞と接点を持った、といえるのは、武雄さんが亡くなったあとのことです。

 武雄さんと、妻の愛子(よしこ)さんも戦中に亡くなって、残された子供が5人。その苦境を見るに見かねた新鷹会の長谷川伸さんや村上元三さんが、相当骨を折って、ヤスさんの働き口として、東京・京橋の西八丁堀に麻雀荘を開くことになりました。店の名前が「寛容クラブ」。武雄さんが直木賞を受賞した作品名からとったわけです。

 新鷹会の会員、山岡荘八さんも、句会の報告記でこう書いています。

「こゝ数年ずつとこの会の会場になつてゐる寛容クラブは、われ等の親友、故神崎武雄君の母堂の家である。

寛容クラブの「寛容」は、故人が直木賞をとつたときの作品名、それをそのまゝクラブの名にした徂春師の命名揮毫はいまも部屋にのこつてゐる。(引用者中略)

神崎君が戦死する少し前に、彼の夫人も産後の患ひで亡くなつて、おさない孫に取りまかれ、空襲下の東京に茫然と取残された当時の母堂の姿は、思ひ出すと今も胸がつまつて来る。」(『ゆく春』昭和28年/1953年11月号、山岡荘八「山の会漫語」より)

 山岡さんも「われ等の親友」と言っていますが、村上元三さんも「親友」といった表現を使っていました。神崎さん、ずいぶん新鷹会では愛された人だったようです。明日をも知れぬヤスさんと5人の孫が、どうにか生き延びた一つの背景に、武雄さんと新鷹会の深い結びつきがあったのは、まず間違いありません。

 その後、ヤスさんは国柱会の三田三郎さんに世話されて、昭和29年/1954年には料亭「芙蓉」を任されるようになり、昭和32年/1957年にはついに独立して人形町に北京料理「神崎」を開店。というふうに、直木賞からは離れていったので、もはやうちのブログで触れるような直木賞との関わりはありません。

 気にかかるのは、ただ一つです。室積徂春さんが揮毫したという「寛容」の文字の入った看板は、その後どうなったんでしょうか。直木賞の歴史にひっそり現れた、しかし人と人との縁を感じさせる貴重な歴史遺産だと思うんですけど、まあ、どこにも残っていないでしょうね。この目で見ることができないのが残念です。

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2024年2月 4日 (日)

松井新七(割烹料理店主)。京都祇園に店を出し、40数年後、その店で娘の直木賞受賞を知る。

 小説にはいろんなジャンルがあります。いろんなことが書いてあります。それでも直木賞の受賞作や候補作を読んでいると、何だかこんなハナシが多いな、と感じる系譜めいた流れがあります。たとえば、芸能人・芸術家を描いた小説です。

 まあ、第1回(昭和10年/1935年・上半期)の川口松太郎さんからして、受賞作のひとつ「鶴八鶴次郎」は芸に生きる男女のおハナシです。直木賞はもともとそういう賞ともいえますし、いや、日本の小説史(大衆文芸史)は、芸ゴトを描く作品によって支えられてきた、と断言しちゃってもいいんでしょう。

 摂津茂和「ローマ日本晴」、玉川一郎「人情サキソフォン」、瀧川駿「小堀遠州」、小泉譲「君が火の鳥」、長谷川幸延「桂春団治」、有吉佐和子「白い扇」、山崎豊子『花のれん』、戸板康二「團十郎切腹事件」、夏目千代「絃(いと)」、安藤鶴夫『巷談本牧亭』、田中穣『藤田嗣治』、三樹青生「終曲」、井上ひさし「手鎖心中」、長部日出雄「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」、藤本義一「鬼の詩」、井出孫六『アトラス伝説』、赤江瀑「金環食の影飾り」、宮尾登美子『一絃の琴』、中山千夏「子役の時間」、つかこうへい『蒲田行進曲』、加堂秀三『舞台女優』、高橋治『絢爛たる影絵』、難波利三『てんのじ村』、もりたなるお「画壇の月」、阿久悠「喝采」「隣のギャグはよく客食うギャグだ」、杉本章子『東京新大橋雨中図』、星川清司「小伝抄」、古川薫『漂泊者のアリア』、内海隆一郎『百面相』、なかにし礼『兄弟』、原田マハ『楽園のカンヴァス』『ジヴェルニーの食卓』『暗幕のゲルニカ』『美しき愚かものたちのタブロー』、安部龍太郎『等伯』、澤田瞳子『若冲』『星落ちて、なお』、藤崎彩織『ふたご』、大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』……。

 これで全部かどうかもよくわかりませんが、ともかく昔からいままで、よりどりみどり。今後も芸ゴト小説は、直木賞の柱として、この賞をどんどん賑わせてくれるはずです。

 とか言いながら、上記のリストをつくるときに(わざと)大切な作家を書き落としておきました。松井今朝子さんです。

 幼い頃から小説を書くようになるまで、バリバリの歌舞伎ダイスキっ子。小説を書き始めて、直木賞の候補にあがった『非道、行ずべからず』(第127回・平成14年/2002年上半期)、『似せ者』(第128回・平成14年/2002年下半期)、『吉原手引草』(第137回・平成19年/2007年上半期)とも、もう江戸時代の芝居や役者が当たり前のように登場する芸ゴト小説です。

 いったいどんな家庭環境で育つと、それほど歌舞伎にハマって、直木賞候補に上がるまでになれるのか。……受賞当時、いろいろとそんな記事が出ましたが、いちおう「直木賞と親のこと」という観点で、そこら辺をおさらいしておきたいと思います。

 松井今朝子さんが生まれたのは京都市、四条大橋そばの日本料理店。お父さんは、その世界では相当名の知られた名物料理人でした。

 松井新七。大正15年/1926年2月4日生まれ。実家は京都・聖護院の近くで古くから料亭「森桝楼」を営んでいた村井さんです。なので新七さんは、生まれたときは〈村井英夫〉さんだったわけですが、それが松井新七となるまでには、それはもう、丁寧に説明されてもよくわからないような複雑な(というほどでもないか)料亭界の事情があったらしいです。

 それについては、今朝子さんも『師父の遺言』(平成26年/2014年3月・NHK出版刊)のはじめのほうで、詳しく書いてくれています。また、早瀬圭一さんの『奇人変人 料理人列伝』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)でも一章を割かれ、新七さんご自身が語ったその来歴が紹介されています。それらをまとめて以下、書いてみますが、間違っていたらすみません。

 村井家に生まれた英夫さんは、地元の桃山中学を出て立命館大学理工学部に進学します。しかし、時はちょうど日本の戦局がメタメタに激しくなる時代。理学系の学生ということで、英夫さんが戦地に行かされることはなかったそうですが、国内で窮乏の生活を強いられ、やがて終戦を迎えます。

 戦後、大学に復学すると文学部に転じたそうです。そこで同人誌『楽久我記』というのをつくり、英夫さんもいくつか作品を発表したと言います。将来おれも作家か何かになりたいぜ、と夢を持っていたのかどうか、定かではありませんが、料理人の子は料理人。20歳なかばのときに、同じ市内で料亭「千本(ちもと)」をしていた松井家から、おたくの息子さん、養子にもらえませんか、と村井家に打診があり、それを承諾して英夫さんは松井家に入りました。

 どうして松井家が村井家にハナシを持ってきたかというと、そもそも「千本」をやっていた松井新七(初代)さんの三男が、「森桝楼」の村井家に養子に入り、そこで生まれた二番目の男の子が英夫さんだった、という経緯があったからです。それで今度は逆に、村井家から松井家に養子に入ることになった、という。なかなか一般家庭にはなじみの薄い世界です。

 養子に入るに当たって、だれかと結婚して夫婦で松井家に入ってほしい、と要望があり、英夫さんは大阪の老舗旅館「大野屋」の今井信子さんと見合いして、昭和26年/1951年にゴールイン。晴れて二人で「千本」に入ります。

 ところが、そのまま「千本」を継ぐかと思いきや、親父さんに当たる松井新七(二代)さんが、妙に二人によそよそしくなってしまいます。どうやら二代目には外の女性に生ませた子供がいるらしく、せっかく養子に入った新七・信子さんペアは居場所がない。昭和28年/1953年には可愛い娘(今朝子さん)も生まれていましたが、ええい、もうこんなところ飛び出して、自分たちで一から店をやろうぜ・やりましょう、と手に手を取り合って、屋台のおでん屋を始めます。これが新七さん30歳のときでした。一大決心です。

 屋台での商売は順調にお客さんも付き、やがて店を借り、昭和35年/1960年には京都・祇園に割烹「川上」をオープンさせます。

 土地柄、その辺りは芝居や芸能の香りも漂い、近くには「南座」もあります。今朝子さんも両親に連れられて、小学生のころから芝居を観にいくようになり、とくに中村歌右衛門の歌舞伎に出会って、ぞっこんハートマーク。今朝子さんの歌舞伎ラブの人生がそこから始まりました。

 ちなみに平成29年/2007年、父の新七さんは80歳を越してなおも元気いっぱい。直木賞をとった人の父親であり、京都で有名な(?)料理人として、喜びの声を多くの新聞に寄せています。

 そのうち『京都新聞』の記事を引いてみます。

「松井今朝子さんの実家は、祇園(京都市東山区)の京料理店。祇園祭・神幸祭の十七日夜、店内で娘の受賞を聞いた父の新七さん(八一)は、知人や常連客から次々と祝福の電話を受けながら「ほんまにうれしい。三度目の正直ですわ」と喜んだ。

(引用者中略)

一番の今朝子ファンを自認し、作品をすべて読んでいるという新七さん。受賞作については「今までと違い、いろんな人が語る面白い書き方やった。言葉もいいし、そのまま芝居のセリフに使える」と熱い口調で語った。」(『京都新聞』平成19年/2007年7月18日「「三度目の正直ですわ」 松井さん 直木賞受賞 祇園 京料理店主の父に朗報」より)

 親バカ爆発、といった感じです。

 しかし、その日の夜もきちんと店に立ち、娘の受賞の報も自分の店で聞いた、というのがいいじゃないですか。今朝子さんの歌舞伎熱も、ひいては直木賞受賞も、すべては新七さんと信子さんが祇園に店を持ったことから始まった、と言ってもいいからです。

 それからもしばらくは、新七さんは「川上」の顔として腕をふるいましたが、平成21年/2009年に現役を退き、そして令和3年/2021年5月13日、95歳で没しました。戒名は、早瀬圭一さんが『奇人変人 料理人列伝』を書いた平成22年/2010年の段階で、すでに友人の僧侶に頼んで決めてあったそうで、たぶんそれが付けられたんだと思います。

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2024年1月28日 (日)

鈴木正弘(開業医)。医者になることを期待していた息子が、まさか直木賞の受賞者に。

 昨年(令和5年/2023年)も何人かの直木賞受賞者が亡くなりました。西木正明さんもそのひとりです。訃報が流れてきたのが年末の12月、ついこのあいだのことです。享年83。

 西木さんの直木賞受賞は第99回(昭和63年/1988年・上半期)ですから、ざっといまから30数年まえのことです。また今週も昔むかしのハナシですみません。

 昭和63年/1988年とは、いかなる年だったのか。……それはもう人によって印象はバラバラ、こんな一年だったと、誰が何を言い張ってもたいてい通用するとは思いますけど、西木さんをハタから見たときに、外せないキーワードが2つあります。「直木賞」と「父親」です。

 西木さんのお父さんは、そこまで全国的に有名な人ではありません。もちろんワタクシもほとんど何も知らないんですが、西木さんの回想をたどってまとめてみると、こうなります。

 鈴木正弘。明治42年/1909年4月1日、秋田県仙北郡西明寺村生まれ。実家は「正左衛門」という屋号の農家だった、ということですが、正弘少年は、いいや、おれは医者になりたいんだ、と懸命に勉学に励んで、秋田中学、新潟医科大学と進みます。

 その新潟で、秋田高女を出た小室アキさんというかわいい(?)女性と知り合ったところ、お互いが惚れ合う間柄に。モゴモゴ、ングングしているうちに子供ができてしまって、昭和15年/1940年、新潟の地で男の子を世に生み出します。父親の「正」と母親の「アキ」をとって「正昭」と命名。それがのちの西木正明さんです。

 まもなく正弘さんは大学を卒業して、東京の前田外科病院に職を見つけます。しかし日本はすでに戦争状態、昭和17年/1942年、正弘さんも軍に引っ張られて軍医となり、南方パラオに派遣されます。残されたのは妻のアキさんとまだ2歳だった西木さんです。また、アキさんのからだの中にはいずれ生まれる、西木さんの妹もいましたが、ともかく次に家族が揃うのは戦争が終わった昭和20年/1945年暮れ。秋田に復員してきた正弘さんを角館駅で出迎えたときだ、ということです。

 正弘さんは、故郷の西明寺村でたったひとりの医者として医院を開業します。土地の人たちの健康を一手にみなければならない貴重な役目です。長男の西木さんも、いずれは親父さんの後を継いで、村で唯一の医者を継げ、とまわりの人たちからも期待されていましたし、正弘さんもそんな思いで教育を受けさせました。

 ところが西木さんは、まったく医学に興味がありません。そんなものよりおれはマスコミの世界でヒリヒリした人生を送りたいんだ。と、思いっきり青年病を発揮させて、おやじ、おれは医者にはなれない、許してくれ、と父に頭を下げて早稲田に進学します。

 それまでおやじさんはいつも厳しくて、このときも反対されるかと覚悟していたそうですが、意外にも、そうか、おまえの好きな道に進みなさい、と正弘さんは温かく送り出してくれたらしいです。……なぜそんなに温かかったのか。理由の一端を知るのは、西木さんが物書きになってからでした。

 西木さんが初めて本を出したのは昭和55年/1980年。直木賞の候補にもなった『オホーツク諜報船』です。そのとき父の正弘さんは70歳すぎでしたが、西木さんが驚くほどに、息子が本を出したことを喜んだそうです。そりゃあ、親なら子供が何か一つ事を成し遂げたら喜ぶのが普通だろう、とは思うんですけど、西木さんは叔父からこんなハナシを聞かされて、びっくりします。

「お前の親父さんは、若い頃文学を志し、事情が許せば小説家として人生を過ごすことが夢だったんだぞ。だから、お前がその道に入り込んだ時、あいつは俺がやろうとして出来なかったことに立ち向かっている、と言ってよろこんでいたんだ。」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母 PartII』所収 西木正明「父の夢」より)

 親は何でもかんでも子供にしゃべるわけじゃない、自分の若い頃のハナシとなればなおさらで、西木さんはこのとき初めて、作家になるというのは父の夢で、それを自分が受け継いだかたちになったんだ、と悟ります。ええハナシや。

 『オホーツク諜報船』から8年後。すでに西木さんは手いっぱいの仕事を抱え、もう直木賞なんかとらなくてもいいや、と思っていたところ、第99回受賞が決まります。昭和63年/1988年7月、このときまだ父の正弘さんは79歳でご存命でした。

 しかしその年の11月19日、正弘さんはあの世に旅立ちます。よしよし、小説家として食っていくというおれの夢を、よくぞかなえてくれたな。と西木さんに声をかけてから逝ったのかどうなのか。いまワタクシの手もとに資料が揃っていないので、よくわかりません。

 ただ、息子の直木賞受賞を喜ばなかったわけがありませんよね。長いあいだ、山村でひとり医者として奮闘してきた男が、最後の最後で出会った幸せな出来事。それが第99回直木賞だったのだと思います。

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2024年1月21日 (日)

植村惣八(古着商)。息子から東京に出てこいと言われてもかたくなに大阪を離れなかった頑固親父。

 いつも直木賞が発表されると、それから数週間はからだのフシブシが痛いです。いわゆる「直木賞疲れ」というやつです。

 こないだの水曜日に第170回(令和5年/2023年・下半期)が発表されました。まだ数日しか経っていないので、疲労感に苦しんでいます。うちのブログもふだん通りに戻るつもりですけど、手もちのネタもそんなにありません。なので、今週は「直木賞と親のこと」のテーマの番外編です。そもそも直木賞がいまここにある原因のモトのモト、直木三十五さんのことです。

 直木さんはふだんから人を食ったような、なかなか常人が付き合いづらいタイプの人間だったらしいんですが、そうであっても人の子です。父がいれば母もいます。直木賞の父親・母親は、この賞をつくろうぜと言い出した菊池寛さんや佐佐木茂索さんだったと言われますが、直木さん本人がこの世に生まれていなかったら、その計画もなかったと思うと、直木さんの両親もやはり直木賞の親、と言っていいのに違いありません。

 父・植村惣八。嘉永3年/1850年生まれ。実家は大和国、奈良県北部の大野あたりでは名の知られた名家の植村さんちで、惣八の父・常右衛門さんは郡山藩で侍講を務めていたといいます。

 惣八さんも子供のころは、〈ええとこの坊っちゃん〉のように育てられたのではないかと思いますが、詳細はよくわかりません。ともかく息子の直木さんがのちに書いたところによると、江戸幕府がガタガタと音を立てて崩れ、藩政なる制度がなくなっちゃうのが、惣八さんが10代後半のころ。ちょうど青年から大人に差しかかる頃合いです。植村家もただ飯食らいの子供たちは邪魔者扱いされたんでしょう、こんなとこにいたってしょうもないわ、と惣八さんは単身大阪にやってきて、大丸屋呉服店にもぐり込みます。

 しかし、呉服店の仕事もどのくらい続いたものか。24~25歳になる頃には、大丸をやめて、そのときの商売の知識を活かして自分で服を商う店を始めます。住まいは大阪市南区安堂寺町2丁目の長屋。いまでいうと、地下鉄の「谷町六丁目」駅から歩いて数分のところだった……と伝えられています。

 そこで惣八さんはお嫁さんをもらうことになりますが、それが直木さんの母親の〈しづ〉さんです。文久2年/1862年、大野にあった植村家より東寄りにあった下水村の出身で、名家・植村家に嫁いできたと思ったら貧乏くさくて狭っ苦しい家だったんで驚いたんだとか何だとか。二人が結婚したのは明治16年/1883年のころで、惣八さん32歳、しづさん21歳。

 以来、大阪の下町でコツコツ古着を扱いながら、つつましい暮らしを続け、そして子づくりに励んだ結果、明治24年/1891年、結婚8年目でようやく、かわいいかわいい男の子を授かります。宗一、と命名されたその植村家待望の長男が、いずれ紆余曲折の末に小説家になる直木三十五さんです。

 直木さんも東京に出てきて以降は、やたらと逸話の多い変人ですが、親父さんもまたかなりの偏屈者でした。こないだ紹介した村松梢風さんが、直木さんのことを書くところで、親父・惣八さんのことをこう書いています。

「直木の父は一生涯古着の小商人で終つたけれども、余程変人で、世話好きで依怙地な人だつたさうである。

(引用者中略)

とにかく大変貧乏だつたらしい。(引用者注:直木は)子供の時分玩具を持つて遊んだ記憶がないといふ。又菓子など買つて貰つたこともないといふ。」(昭和26年/1951年6月・創元社刊、村松梢風・著『近代作家伝 上巻』「直木三十五」より)

 その惣八さんは、子供には立派になってもらいたいと、教育にかけるおカネは惜しまず出しますが、医者とか学者とか、そういう人になってもらいたかったらしくて、まさか文学を志望するとは思っていません。直木さんがおれは文学がしたいと言ったとき、惣八さんは猛反対。東京で何か文章をモトデに暮らしていくなんて、とうてい納得できるものではなく、直木さんが後年、小説でおカネが稼げるようになって、おやじやおふくろを東京に呼ぼうと画策しても、おれはそんなところ行くもんかいと、大阪を離れず、貧乏長屋のボロい家から動こうとはしませんでした。変人かどうかはともかく、依怙地な性格だったのはたしかでしょう。

 昭和9年/1934年2月、直木さんは亡くなります。享年は43。その年、菊池さんと佐佐木さんが頭をひねって直木賞をつくるところまでこぎつけますが、このとき、惣八さんもご健在。ということは、直木賞が始まったのをこの目で見届けたことになります。

 いったい、偏屈な惣八さんは、せがれの名前を冠した賞なんかができてしまって、何を思ったか。当時の大阪の新聞などを丹念に調べれば、何か父親のコメントが見つかるかもしれません。あのかわいい息子が偉いもんになった、と褒めていてくれたら、直木さんもきっと喜ぶでしょう。その後、惣八さんは次男の清二さんが引き取って、大阪から松山に移り、そこで人生を終えました。息子の倍以上を生き、享年は88歳だったとのことです。

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2024年1月17日 (水)

第170回直木賞(令和5年/2023年下半期)決定の夜に

 面白いですよね、直木賞。こんなに面白い出来事がこの世にあっていいのか、と毎回ため息をついちゃいます。

 今日、令和6年/2024年1月17日の夕刻、第170回直木賞(令和5年/2023年下半期)が決まりました。候補者やその関係者の立場になれば、楽しんでばかりもいられないんでしょうけど、単なる一直木賞ファンが彼らの側に立ったふりしてシャラくさいこと言っても仕方ありません。まったく面白いものは面白いです。

 その面白さの一端は、候補作すべてをダダダダっと集中的に読む、その行為(つまり「読書」ですね)がもたらしてくれるのは間違いありません。受賞が決まったあとに受賞作だけを読むことに比べたら、候補作を全部読むだけで、もうそれだけで、1万倍くらい面白いです(たぶん)。

 そんなふうに読書の楽しさを与えてくれる候補作が、賞をとった・とらなかった、とたったそれだけのことで、一方は大きく取り上げられ、一方は急激に注目度を奪い取られるんですよ、直木賞っつうのは。まったく不条理にもほどがあります。

 世のなかは理不尽さなことだらけです。もう耐え忍んで生きていくしかないんですけど、ただ、候補作を読んでいるあいだはどの小説も楽しかったことに間違いはありません。直木賞という舞台に出てきてくれて、ありがとう。賞をとれなかった作品たちに感謝を述べたい気持ちでいっぱいです。

 加藤シゲアキさんの『なれのはて』には、正直ぶっとびました。チャラチャラしたアイドルが小説書きやがって、とか馬鹿にして、はなから手を出そうともしないジイさんバアさんたちに鉄槌をくらわす、重厚で大人びた小説。でもまあ、こういういかにも直木賞っぽい作品もいいんですけど、加藤さんはミステリーでもSFでも何でも書きこなせる方だと思うので、今度はぶっちぎりで新鮮な小説が読みたいです。よろしくお願いします。

 「こんな力のある作家が世の中にはいるんですよ」。と、新しく教えてもらえるから、直木賞を見るのはやめられないんです。今回、嶋津輝さんの小説を初めて読んで、すげえ作家が小説界にはうじゃうじゃいるんだな、と感動すら覚えました。『襷がけの二人』、直木賞じゃなくても何かのかたちでもっと脚光を浴びてほしいです。ドラマ化、映画化されるとか。

 しかし、ここで宮内悠介さんに受賞してもらうめぐり合わせが、どうして直木賞に訪れなかったんだろう。うう。おじさんは悲しいです。『ラウリ・クースクを探して』、いいっすよね。人生って何なのか、ぐっと考えちゃいますよね。宮内さん、すみません、煩わしいでしょうけど、まだまだこれからも直木賞とお付き合いください。

 さすがに毎回毎回、時代物が直木賞とったりしないよなあ。と思いながらも、村木嵐さんの『まいまいつぶろ』なら、そんな苦境を覆しちゃうかも、と頭をよぎっちゃったのはたしかです。いやあ面白い小説でした。また今後も候補になってくださると一読者としてうれしいです。

          ○

 それで、今回も大盤ぶるまいの二作授賞で、3期連続。あげたい人がわんさかいる、というのは、健全な精神の現われですよね(たぶん)。

 健全だと思います、河﨑秋子さんの作品を選んじゃうんですから。人によっては目をそむけたくなるはずの、容赦ない冷静な書きっぷり。これにイイぞと太鼓判を押す直木賞の感覚に、今回は納得しました。でもまあ、河﨑さんが文学賞をとったから何かを変えるような方とはとうてい思えません。もっともっとツラくてせつなくて救いのないもの、書き続けていってくれると期待しています。

 それと、嬉しいのはもう一人の受賞者が出たことです。ワタクシ自身、最近、生活がすさんでいるもんで、『八月の御所グラウンド』を読んで清らかな気分になりました。万城目学さんの、軽快でおかしくて、まったくブレない芯の強さが、ついに、いよいよ、ようやく、遅ればせながら、直木賞の委員に届いたんですよ。もう、じーんと胸に来ます。直木賞専門サイト&ブログを長年やってきてよかったです。

          ○

 今回の発表時刻は、以下のとおりでした。

  • ニコニコ生放送……芥:17時37分(前期比-15分) 直:19時08分(前期比+34分)

 芥川賞は前回より早めに、直木賞は逆に遅めに発表されたことで、直>芥の選考時間の長さが、また相当ひらきました。直木賞の選考委員のみなさん、お疲れさまでした。

 ちなみにワタクシは「直木賞を最大限、外から楽しむ」を人生の目標にしているので、今回は、一年ぶりに大阪・谷町にある直木三十五記念館の路地裏選考会に行ってみました。

 そしたら、いつも冗談まじりにテキトーなことをしゃべっている大阪のおじさん(=小辻事務局長)が、とるならコレとコレかな、と指さした2作品がズバリ的中。参会者も大盛り上がりでした。

 というか、なにしろ万城目さんは、直木記念館にとってはご当地、地元出身の小説家です。館の人たちも、この結果に半ば茫然としながら、涙を流して喜んでいました。こういう場所に立ち会うことができて、感慨もひとしおです。

 と、こう書いたあとは、もはや心は次の第171回(令和6年/2024年・上半期)に飛んでいっています。やっぱり候補作は5つよりも6つのほうが、6つよりも7つのほうが、断然面白いですよ、奥さん。次もどっさり候補作を読めることだけを楽しみに、数か月、命をつないでいきたいと思います。

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2024年1月14日 (日)

第170回(令和5年/2023年下半期)直木賞、候補者の親ってどんな人たち?

 もうじき決まる第170回(令和5年/2023年・下半期)の直木賞は候補者が6人います。

 作風も作家歴もバラバラです。このバラバラなところが直木賞の大きな特徴ですけど、それでもこの6人には紛れもない共通点があります。みんな父と母がいて、その子供として生まれた、ということです。

 ……と、半年まえの第169回のときも同じようなことを書いたような気がして、まったく芸がないんですが、いまうちのブログでは「直木賞と親のこと」のテーマで書いています。なので、せっかくですから、今週は候補者6人の親のことを取り上げることにしました。

 あなたの親は、どんな人ですか? と、候補者ひとりひとりに取材して回ろうかな、と思いましたが、いやいやもちろんそんな余裕もコネもありません。いつもどおり公に書かれた文章をもとにして、候補者それぞれどういうふうに自分の親のことを語っているのか見ていきながら、今週1月17日(水)の選考会を待ちたいと思います。

 以下、順番は年齢順にしようと思ったんですけど、やっぱり長く書きつづけていることに経緯を表しなければと思い直し、作家デビューが古い順番に挙げてみます。

          ○

■万城目学(47歳、平成18年/2006年デビュー)

 万城目さんは小説と同じく、エッセイも軽快で面白いので、すでに何冊もエッセイ集が出ています。

 親のハナシもそのなかにちょくちょく出てきますが、何といっても目を引くのが、いちばん最近の『万感のおもい』(令和4年/2022年5月・夏葉社刊)に収められた父親のエピソードです。

 万城目さんは書きます。作家としての自分をつくったのは、間違いなく父親だった、と。

「作家としての私を作ったのも間違いなく父だった。通勤の際の暇つぶしのために、父は三十歳を越えてから本を読み始めた。特に好きだった司馬遼太郎や山岡荘八や吉川英治の文庫本を読んだ端から本棚に並べていたため、それを中学生になった私が勝手に読み漁り、結果、作家になるための資産をたっぷりと蓄えることができた。」(『万感のおもい』所収「色へのおもい 第十色 二月」より)

 その父親が亡くなったのが平成28年/2016年2月。すでに万城目さんは5度、直木賞候補になっていて、そのたびにお父さんも期待したんじゃないだろうか、と思いますけど、いや、とれんかったものはしょうがない、と案外さっぱりしていたかもしれません。

          ○

■村木嵐(56歳、平成22年/2010年デビュー)

 今回の候補者のなかで、親もまた多少名前が知られている、といえば、宮内悠介さんと、この村木嵐さんということになるんでしょう。村木さんの父親は、映画監督だった南野梅雄さんです。

 平成22年/2010年、村木さんがデビューしたときには、何といっても「アノ司馬遼太郎の家の、最後のお手伝いさん」といった面が大きく取り上げられました。その後しばらく、インタビュー記事もたくさん書かれました。いくつかには、親のことも出てきます。

「――(引用者注:司馬遼太郎の)住み込みのお手伝いさんになる―と聞いて、ご両親は何かおっしゃいましたか

村木 「大丈夫か? できるのか? とにかくご迷惑をおかけしないように」と言われました。万一すぐに辞めるようなことになっても、いい経験ができると思ったようです。テレビの時代劇の監督をしていた父も司馬先生のファンでしたから。」(『産経新聞』平成25年/2013年10月21日大阪版夕刊「司馬さんがくれた夢(1)」より)

 父、南野さんの本棚には、司馬さんの本がずらり。村木さんも高校生の頃からそれらを数多く読んで、すくすくと(?)成長したとのことです。奇しくも万城目さんと少し話題がカブってしまいましたが、ううむ、やはり親の本棚は偉大ですね。

          ○

■宮内悠介(44歳、平成22年/2010年デビュー)

 まさか宮内さんがいまさら候補になるとは思っていなかったので(オイオイ)、宮内さんと親のことは、すでに2か月まえにブログで取り上げちまいました

 父親は作家の宮内勝典さん、母親は詩人の宮内喜美子さん。それぞれカワいいカワいい一人息子のことを数多く文章に残し、悠介さんが海外生活のなかでどういうふうに成長していったか、いまとなっては〈宮内悠介研究〉の大事な文献になっています。

 反対に、悠介さんも両親のことをいろいろな場所で、いろいろ書いているはずです。ただ、宮内さんってまだエッセイ集の類いは一冊もまとまっていないんですよね。何という文化的な損失。早くどこかの出版社、宮内さんのエッセイ集を出してください。

 今回は目についたなかから、宮内さんが母親のどじっぷりを甘ーく書いたエッセイを取り上げてみます。『3時のおやつ ふたたび』(平成28年/2016年2月・ポプラ社/ポプラ文庫)に収められた「チョココロネ」です。

 少年時代、ニューヨークのウクライナ人街に住んでいた宮内一家。母親がどこからか日本のチョココロネを調達してきたもんですから、悠介少年の目は輝きます。どうやったらおいしく食べられるか、思案した母親は、よし、フライパンで焼いてみよう、と主張。

「なぜだか嫌な予感がした。」「素晴らしいことを思いついたという顔を母がすればするほど、予感は確信に変わっていった。」「「母は絶対にこのパンを焦がす」」「と思った。」「家族という間柄では、ときおりこうした直感が働くものだ。ぼくは猛烈に反対し、そして母はぼくの反対を押し切り、やっぱりチョココロネを半分黒焦げにしたのだった。」

(引用者中略)

以来、母が何か素晴らしいことを思いついたという顔をして変なことを言い出したとき、」「「チョココロネ」」「とぼくは呪文を唱え、母もいったん立ち止まるようになった。」(『3時のおやつ ふたたび』所収「チョココロネ」より)

 微笑ましすぎて、喜美子さんのカワゆさがぐっと引き立っています。こんな文章をずらっと集めた宮内さんのエッセイ集、早く読みたいです。

          ○

■加藤シゲアキ(36歳、平成24年/2012年デビュー)

 他の候補者はともかくです。いまここで、加藤さんのエピソードをうちのブログなんかが書く必要あるのか? と正直気が引けます。だって、加藤さんのことなら何でも知ってる、みたいな猛者がこの世には何百人(何千人?)もいるんですもん。こわいです。

 それとまあ、アイドルの方ですから、よほど強烈なゴシップでもないかぎり、加藤さん自身が両親のことをあしざまに語ったりするはずもありません。とりあえず、山ほどある加藤さんの関連記事のなかから、とくに父親のことを話しているものが以下のインタビューです。

「――息子の立場として、大人になった今の加藤さんに対し、お父さまはどんな思いを抱いているだろうと想像しますか?

「誇らしいと思いますよ…あははは~。去年は僕が(第42回吉川英治文学新人賞を受賞するなど)文学賞ラッシュだったこともあり、父も鼻高々だったでしょうね。それこそ、この間「今年はお前、何かいいことないのか?」みたいなこと言ってきましたから。図々しい親だなと思いながら(笑)、「そんなもん、そうそうねぇよ!」って」」(『TVガイドperson』115号[令和4年/2022年3月]「特集 加藤シゲアキ 愛は限りなく、知は力となる」より―インタビュー:江藤利奈)

 それで今回の候補作が、母親のふるさと秋田のことを描いていて、それが直木賞候補にまでなって、ワーワー話題になっているのですから、両親の鼻タカダカ具合もひとしおなんじゃないでしょうか。

 古今東西、小説家にとって親の存在は、多くの創作のみなもとです。これからも加藤さんは、両親にどこか通じる作品を書いていってくれるものと思います。

          ○

■河﨑秋子(44歳、平成27年/2015年デビュー)

 候補作家と親のこと。いま、このテーマを書くのに最もタイムリーなのが、河﨑秋子さんです。というのも、現在、父親のことについて雑誌に連載まっただ中だからです。

 集英社の出している『青春と読書』っていうPR雑誌があります。そこに昨年令和5年/2023年9月号から河﨑さんの新連載が始まりました。タイトルは「父が牛飼いになった理由」。「理由」に「わけ」とルビが振ってあります。

 河﨑さんの実家は北海道別海町で酪農業をしています。父親の崇さんが脱サラして始めた牧場なんだそうですが、満州で生まれた崇さんがどこをどうたどって、〈牛飼い〉の仕事を始めることになったのか。その経緯を娘の秋子さんがさまざまに取材して書きつないでいます。きっと連載が終わったら単行本になるんでしょう。『青春と読書』をなかなか毎月入手して読みつづける気力もないので、そのときを心待ちにしています。

 この連載は、全編にわたって父親のことを綴っています。なかから一節を引用してもあまり意味がないんですけど、もしも河﨑さんが直木賞を受賞したときに父の崇さんがどう反応するか、それがわかる記述だけ触れておきます。

「父は今年で八十二歳になる。

存命ではあるが、約十四年前に脳卒中により高次脳機能障害を発症、自我とそれまでの記憶のほとんどを失った。(引用者中略)十四年の間に孫が増えたことも、自分のきょうだいが亡くなったことも、私が作家になったことも、何一つ理解することはなく、また、覚えておくこともできずにいる。」(『青春と読書』令和5年/2023年9月号「父が牛飼いになった理由」第1回より)

 直木賞のことを聞いても、まるで理解できない寝たきりの生活だそうです。直木賞のことがわからなくなる人生なんて、ワタクシ自身は考えたこともありませんが、そうあっても人は生きられる。うん、勇気をもって生きていこうっと。

          ○

■嶋津輝(54歳、平成28年/2016年デビュー)

 嶋津さんはオール讀物新人賞を受賞して今年で7年め。出した単行本は、今回候補に挙がった『襷がけの二人』が2冊めで、まだそれほど公に発表された文章も多くありません。

 いや、多いのかもしれません。嶋津さんの書いたものをすべて把握できたわけじゃないんですが、果たして自分の親のことをどう書いている(ないしは語っている)のか。嶋津さんの場合、よくわかりませんでした。残念。

 ひとつネットの記事ですが、文春オンラインにある「本の話」のなかに、嶋津さんが「文豪の娘でありながら、芸者屋で女中をするほど家事の達人だった“作家・幸田文とわたしの関係”」というのを寄稿しています。

 作家になるまえに出会った幸田文さんの作品の魅力や、幸田さんと自分との関連性が書かれているんですが、そこにポロッとこんな表現が出てきます。嶋津さんが初めて新人賞の最終候補に残り、あっさりと落選したときのことです。

「結果は落選で、膨らんだ妄想ははかなく霧散した。私は「幸田文=私の運命のひと説」をすぐに捨て去ることができず、幸田文と私との共通項を見出すことで失意をなぐさめた。

ともに父親が厳しい。ともに離婚歴がある。出来のよい姉と末っ子長男に挟まれた真ん中っ子というところも同じ。なによりどちらも四十を過ぎてから筆をとった――。それ以外の共通していない数々の点には目をつぶり、このまま何も起こらないはずはないという寄る辺ない予感をよすがに、その後も細々と投稿生活を続けた。」ウェブ《本の話》の記事より)

 父親が厳しい……。文さんが書いた露伴の逸話を読んだうえでこう言っているぐらいですから、よほど嶋津さんのお父さんもガミガミ、ネチネチ娘を叱るタイプの人だったに違いありません。それは、今後、嶋津さんの活躍とともに徐々に明らかにされていくんだろうと思います。

          ○

 人さまの親のことを、人さまの文章から知って、何がどうなるというんでしょうか。よくわかりません。

 ただ、受賞する人によっては、上記のうちの親御さんの誰かがメディアの取材を受けて、コメントを語ることになるはずです。1月17日の選考結果と、そのあとの報道を期待して待っています。受賞者の親が、子供の受賞について何を語るか。

 直木賞のことなら何でもいいから知っておきたい。すみません、今回のブログも、もうワタクシが病気であることの証しです。

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2024年1月 7日 (日)

村松そう(作家の妻)。夫の女性関係に心を痛め、最後は直木賞候補の息子の家で死を迎える。

 直木賞は、文学のよしあしを決める行事ではありません。

 いや、間違えました。文学のよしあしを決める“だけの”行事ではありません。

 文字に書かれた芸術的な感興とは全然関係がない、現実世界の地縁や血縁や仕事の縁など、生きている人間どうしのつながりが大きく影響を及ぼす行事です。そりゃそうです。人間のやっていることですから。そういうものなしに事業として成り立つわけがありません。

 これまでの直木賞の候補者たちを見ても、誰が誰とつながっていて、誰と誰が仲が悪かった、といった縁の糸がやたらめったら絡み合っています。そのなかの代表的な一例が、村松家と直木賞の関係性でしょう。これまでも何度かうちのブログで書いてきました。

 そもそも大正時代に現われた有能エンタメライター村松梢風さんは、直木三十五さんと同時代人。直木賞の基盤を(偏向したかたちで)築き上げた選考委員の小島政二郎さんとは、ツーカーの間柄。といった直木賞草創期のハナシから始まって、梢風の息子、村松喬さんは新聞で学芸記者をしていた人ですが、いっとき自分で小説も書いて、二度の直木賞候補に挙がっている。その甥にあたる村松友視さんは三度も候補に選ばれて、三度目でおっとびっくりの受賞までしてしまいます。村松一家の物書きたちは、直木三十五~直木賞の流れと切っても切り離すことができません。

 ということで、「直木賞と親のこと」のテーマでも、村松さんちのことを取り上げたいな。と思ったんですけど、第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)に候補になった村松喬さんの親といえば、当然ですけど、梢風さんです。

 まあしかし、いまさら有名人の梢風さんをブログに書いても面白くありません。なので、今回は喬さんのもうひとりの親……母親のことに触れたいと思います。

 村松そう。旧姓・桑原。明治27年/1894年生まれ、出身は静岡県磐田郡西浅羽。父親の桑原源六さんは西浅羽の村長を務めたこともある地元の有力者でした。実家では大切に育てられ……たんだと思われます。静岡静華高等女学校を卒業。明治44年/1911年、18歳のときに同県周智郡飯田村の村松家の放蕩息子、義一との見合いがセッティングされ、お嫁に行かされます。そこでいっしょになった義一が、後年、文筆家として名をなした梢風さんです。

 〈そう〉さんは、村松家に入るや、語呂が悪いからと助言を受けて〈その〉と改名させられます。その後、〈かほる〉だの〈薫〉だのと改名を何度もしたそうで、いまとなっては何と表記していいのかわかりませんが、とりあえずここでは最初の〈そう〉で通させてもらいます。

 梢風さんとのあいだにできた子供は男ばかり4人。長男の友吾さん(大正1年/1912年生まれ)のことは、昔、友視さんのことを書いたエントリーで少し触れました。村松友視さんの早逝したお父さんです。その下に、次男の道平さん(大正3年/1914年生まれ)、三男・喬さん(大正6年/1917年生まれ)、四男・暎さん(大正12年/1923年生まれ)と続きます。

 夫の梢風さんが、とにかく女好きの自由人だったおかげで、本妻の〈そう〉さんはずいぶんつらく悲しい思いをした、と伝えられています。長男の友吾さんを失い、孫の友視さんを押しつけられて、郷里の静岡県で二人暮らしを強いられ、たまに帰ってくる梢風さんとはとくに親しげに話すこともなく、ただコツコツと孫のしつけと教育に当たっていた日々のことは、友視さんが繰り返し繰り返し書いてきました。最近では『ゆれる階』(令和4年/2022年10月・河出書房新社刊)にその辺のことがみっちりと出てきます。

 『ゆれる階』は、友視さんの自伝的な小説です。内容は、ご自身のことが中心ではあるんですけど、とにかく一族郎党のことが事細かく出てくるので、叔父にあたる喬さんの動向にもたくさん触れられています。

 喬さんが小説を書いて直木賞候補になった……みたいなことは出てきません。しかし、喬さんと選考委員だった小島政二郎さんの奇縁について書かれています。昭和36年/1961年頃のエピソードです。

 昭和36年/1961年2月、梢風さんが亡くなります。すると、すぐさま友人だった小島政二郎さんが、梢風さんとその女関係を題材に「女のさいころ 小説・村松梢風をめぐる女たち」という読物を『週刊新潮』に連載しました。昭和36年/1961年5月15日号から昭和37年/1962年8月13日号にかけてのことです。

 これを読んで、梢風さんの愛人、フクエさん(鎌倉のおばさん)が大激怒。小島さんに裏切られたと歯をギリギリきしませ、訴えてやると息まいたそうです。そのとき、フクエさんの側に立って小島さんと『週刊新潮』に抗議を申し立てた村松家の代表が、喬さんだったと言うのです。

「この連載は完結したものの、フクエと喬叔父が“プライバシーの侵害”という理由で作者に抗議したせいか、単行本として世に出ることはなかった。

(引用者中略)

梢風の死の前後となる時期、フクエは喬叔父との連絡を密にとって、彼を自分のうしろだてとする姿勢が顕著になり、葬儀の次第などさまざまな事柄についても頻繁に相談していたはずだ。喬叔父もまた、東京に身をおき毎日新聞社学芸部という、文士である父梢風との職業的近さをもつ環境で仕事をしている立場にあり、本来の長男である私の父友吾が他界して戸籍上の長男となった次男の道平叔父が、東京からは遠距離にある京都という土地に住んでいる以上、梢風の息子代表としての役を果すべきという自覚が強まっていたのだろう。」(村松友視・著『ゆれる階』より)

 喬さんが直木賞候補になったのが昭和32年/1957年頃。小島さんの「女のさいころ」への抗議は、それから5年ほどたった昭和37年/1962年頃。直木賞で議題に挙げられたとき、小島さんも選考委員でしたが、喬さんの作品に対してはあまり選評を残さず、いったい味方だったのか敵だったのか、態度は不鮮明でした。そんな落選させられた小島委員への意趣返しの気持ちが、いやいや、まさか喬さんにあったかどうかは藪の中ですけど、こういうかたちで関わるとは、やっぱり村松家と直木賞はいろいろ縁で結ばれているんですね。

 と、全然、母親の〈そう〉さんと関係ないハナシになっちゃいました。当時、まだ〈そう〉さんはご存命で、ということは息子・喬の小説が直木賞候補になったことも知っていたはずですが、子供が夫と同じく小説を書いたことをどう考えていたのか、〈そう〉さんの心中は詳しくわかりません。

 夫・梢風が巻き起こしたことに、晩年の〈そう〉さんはほとんど関わりを持たないまま、長く静岡県清水の家で暮らしていましたが、京都の道平さんの家に預けられたのち、一人で旅に出かけ、最終的には東京の喬さんの家にやってきて、そこで息を引き取りました。梢風さんが亡くなった翌年、昭和37年/1962年のことでした。

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