2026年9月 6日 (日)

昭和58年/1983年、近ごろは面倒になって講演の話もほとんど断わっている、と池波正太郎はいう。

 「講演は、その人を映す鏡」ということわざがあります。

 ほんとうに、そんなことわざがあるんでしょうか。だいたい、こういうカッコつけた書き出しをするもんに、ロクなヤツはいない、というのが人間社会の真理でしょう。ワタクシは、文学賞に興味をもっている段階ですでにロクな者ではないんですが、これよりさらに人間のレベルが下がらないように気をつけたいと思います。

 さて、そんなハナシはどうでもいいです。直木賞の受賞者、候補者、選考委員は、もはや誰も調査し尽くせないほどの講演を、さまざまな土地で、さまざまな人たちに向けてやってきているわけですが、講演会というものにどう相対するか、その姿勢は十人十色、おのずと個性がにじみ出ます。

 たとえば今週取り上げる池波正太郎さんは、後年たくさんの人に読まれたエッセイからもうかがえますけど、まあ、個性のカタマリのような作家です。

 大正生まれの戦前育ち、苦労しながら劇作そして小説創作を勉強しはじめ、新鷹会のお兄さんがたの猛烈な期待をしょい込むかたちで、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞を受賞します。

 その後、中間小説誌、あるいは週刊誌全盛時代の申し子の一人として、多くの読者に愛される人気作家となっていくんですが、こうなると小説書き以外にもさまざまな仕事が舞い込んでくるのが世の習いです。池波さんのところにも、講演の依頼がいくつかやってきて、「おれはそんな面倒なもんは受けねえ!」などと、タンカを切るほど我がままではなく、頼まれればネタを用意して、与えられた時間はまじめにこなす。律儀なところを発揮します。

 律儀というか、あるいは不器用だったのかもしれません。講演に呼ばれていくときの自分の姿勢を、池波さんはこんなふうに書いています。

「私は、目的以外のことを、

「ついでにやる……」

ことができない。

たとえば、出版社の講演旅行を三、四日つづけるとなれば、講演以外の事は絶対にしない。

講演する土地が、いま自分が執筆している小説の舞台になってい、見たり調べたりすることがあっても、ついでにはやらない。あらためて今度は取材のために同じ土地へ来る。」(昭和56年/1981年7月・新潮社刊、池波正太郎・著『旅は青空』「アルルの酒」より)

 ついでにやる、という気持ちじゃなくて、講演と取材、二つの仕事を同じくらいの温度感でやればいいだけのハナシなのでは……と思わないでもありませんが、人間、そう簡単に気持ちがつくれるものじゃない、というのもわかります。それだけ講演のときは、講演のことで頭をいっぱいにして集中する、ということなんでしょう。

 おなじみ文藝春秋の文化講演会にも何度か呼ばれました。自作で舞台にした土地からは、先生、ぜひ来てくださいと言われて、忙しい執筆のあいまを縫って、旅をしたりもしました。はなから講演を毛嫌って、なるべくそういう雑事から逃れたい、ということでもなかったようです。

 しかし、池波さんは1980年代ごろには、講演の依頼を極力断わるようになった、と言っています。自己分析によると、それは年齢ゆえのことのようです。

「人にもよるだろうが、私の場合は、小説を書いて暮していると、どうしても人びととの交際がおろそかになってしまう。

それでも若いうちは、酒を酌みかわす友人もいたし、つきあいの時間も現在よりは豊かだった。

しかし、齢をとるにつれて、そうしたことが、だんだんに面倒となり、酒飯のつきあいのみではなく、たとえば講演のようなものをたのまれても、十年ほど前までは年に七、八回は出かけていたのに、ちかごろはほとんど断っている。」(平成15年/2003年6月・講談社刊、池波正太郎・著『作家の四季 池波正太郎未刊行エッセイ集5』所収「年賀状」より)

 このエッセイが収められた『作家の四季』によると、これは昭和58年/1983年に書かれたもののようで、池波さんはおおよそ60歳ごろ。まだそんなに老け込む年でもない気がしますが、年をとるにつれて若い頃には何でもなくこなしていたことが徐々に面倒になる、という気持ちはよくわかります。それから7年ほど、池波さんは生きましたが、つまり50代後半から亡くなるまでの晩年は、ほとんど講演というものに出なかったそうです。

 50代後半からの晩年……ということで思い出されるのが、池波さんが直木賞の選考委員をやっていた時期です。

 池波さんが選考委員になったのは、まさにちょうどその頃、第86回(昭和56年/1981年・下半期)からですから、58歳のときです。そもそもが律儀な人だったらしいので、候補作はきちんと読み、選考会ともなれば相当真剣に向き合った、と伝えられていますが、何といっても、講演に行くのも面倒になっちゃった頃に引き受けたお役目です。きっと直木賞も面倒なことの一つだったんじゃないか、と申し訳ない思いでいっぱいです。

| | コメント (0)

2026年8月30日 (日)

昭和38年/1963年に直木賞で落選した梶山季之、その翌年から文藝春秋主催の講演会の常連となる。

 先週は五木寛之さんを取り上げました。作家とは物を書くことばかりが仕事じゃないんだ、と言わんばかりに、講演だって表現手段の一つなんだから、れっきとした「作家のお仕事」だという方向性を打ち出した人です。

 人前に出て、ある程度のスジをもったハナシを、まとまった時間しゃべることができる。……全国各地で文芸講演会というものが多く行われるようになればなるほど、そういった才能のある作家は重宝されます。

 それがベストセラー作家となれば、なおさらです。本がたくさん売れて名前が通っている。そういう人は講演をやっても人が呼べるからです。

 昭和から平成、令和と数々のベストセラー作家が現われ、あまりオモテに顔を見せない人も少なからずいましたが、積極的に講演仕事を受けて東奔西走、全国をめぐりめぐった人もいます。たとえば梶山季之さんです。

 梶山さんがどの程度、講演の数をこなしたのか。具体的な数は、すみません、ワタクシにはわかりません。

 ただ、直木賞の候補になった第49回(昭和38年/1963年・上半期)の段階で、すでにトップ屋として文藝春秋とはズブズブの関係にあり、『黒の試走車』(昭和37年/1962年・光文社/カッパ・ノベルス)をはじめ、本から雑誌から原稿を猛烈に書きまくる筆の力はよく知られるところ、まず下馬評では有力候補のひとりと目されていながら、けっきょく直木賞を受賞させることができなかった、直木賞史上にいくつか残る汚点のひとつとして、いまも語り継がれています(たぶん)。

 いまの世のなかだったら、2度、3度、と候補に挙がっているうちにそのうち、梶山さんも直木賞受賞者になったかもしれません。しかし、昭和38年/1963年ごろには、いちおう直木賞は新人賞なので、その受賞をもって世間にお披露目をするという役割がある、だから名が知られたり将来にわたって小説をガシガシ発表していく手づるに事欠かない売れっ子は、もはや直木賞を送る意味がない……といった考え方が残っていた時代でもあった、と洩れ聞いています。

 その意味では梶山さんが2度め以降の候補入りから(意識的には無意識的にか)外されたのは、とくに理由のないことではありませんし、直木賞をもらわなくたって、その後、読者にわくわくドキドキを提供する娯楽小説を大量に提供できたのだから、直木賞などというお墨付きは梶山さんには不要だった、と言っちゃってもいいと思います。まあ、梶山さんは直木賞をけっこう欲しかったみたいですけど。

 しかしそれはそれ、直木賞に落選しようが、それは別に文壇からハブられたことを意味しません。逆に活発・活動的な梶山さんは、講演会の主催者にとっては呼びやすく、名も売れている、話題も豊富、ユーモアもある、と講演にはうってつけの作家になっていきます。

 『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』(昭和56年/1981年5月刊)にある「梶山季之完全年譜」を見ると、昭和38年/1963年9月のところに第49回直木賞の落選のことが出ていますが、その翌年から毎年のように「文春講演」という項目が入っています。

日程 講演名 場所
昭和39年/1964年
5月
文春講演 山陰地方
昭和40年/1965年
3月
文春講演 北九州地方
昭和41年/1966年
4月
文春講演 山陽地方
同年
5月
文春講演 北陸地方
同年
6月
文春講演 近畿地方
昭和42年/1967年
2月
文春講演 沖縄地方
同年
3月
文春講演 近畿地方
同年
5月
文春講演 九州地方・近畿地方
同年
10月
文春講演 九州地方
昭和43年/1968年
4月
文春講演 四国地方
同年
6月
文春講演 九州地方
同年
7月
文春講演 中部地方
昭和45年/1970年
6月
文春講演 東北地方
昭和46年/1971年
5月
文春講演 北陸地方
昭和47年/1972年
11月
文春講演 関東地方
昭和48年/1973年
4月
文春講演 北九州地方
同年
9月
文春講演 山陰地方
昭和49年/1974年
5月
文春講演 南紀地方

 そして昭和50年/1975年5月、取材先の香港で吐血し、45歳で亡くなりました。

 文春の講演というのは作家に対する慰安旅行のような性格も兼ねていたとは思いますが、これだけひんぱんに駆り出され、おお、行く行く、と本人も乗り気で縦横無尽に駆け巡ったのですから、カジさん、働きすぎだよ、とまわりからさんざん言われた、という逸話があるのもうなずけます。

 この『追悼文集』には、講演会にまつわるエピソードもいくつか入っていますが、文藝春秋の名物社員だった樋口進さんは、こんなことを書いています。

「その日の聴衆を見て講演内容を決めるのはなかなか出来ないことだが、梶山さんはそれが出来た一人である。」(『積乱雲とともに 梶山季之追悼文集』所収 樋口進「文チン対漫チン」より)

 だれもができるわけじゃありません。梶山さんが小説を書く能力とは別に(あるいは関係があるのかもしれませんが)備えた一種の才能でしょう。デキる作家、梶山季之は、デキル講演者でもあった、というわけです。

 まあ少なくとも、第49回の直木賞を受賞したおジイちゃん佐藤得二さんには、これだけ精力的に物語を生み出し、全国を講演してまわるパワーがなかったのは、たしかなことでしょう。第49回の直木賞が梶山さんに授賞できなかったのは、やはり、あーミスっちまったな直木賞、と後世に伝えつづけるべき失敗だと思います。

| | コメント (0)

2026年8月23日 (日)

直木賞をとって有名になった五木寛之、講演会に呼ばれれば積極的に全国を飛び回る。

 直木賞がどうしてこんなに多くの人に知られる存在になったのか。それはもう石原慎太郎さんのおかげです。

 ときは昭和31年/1956年ですから70年まえのハナシで、別にワタクシもその現場に立ち会ったわけじゃないので、どの程度の爆発だったのかは文献で知るしかないんですが、そりゃまあ、石原さんがナンチャラ賞をとったそのあとからの数か月か1年ぐらいは、すさまじい騒ぎだった、と言われています。

 まだ大学に通っていた頃のちょっとスマートな青年が、文壇ではスゴいとされている新人賞をとった、しかもその作品のなかみが、古い世代のジイさんバアさん辺りが眉をひそめるような、暴力と無軌道を当たり前のようにさらしている若い男女の生態を描いたものだった……ということで、世間もマスコミもギャーギャー騒いだんだそうです。

 突如現われた現代のヒーロー、石原慎太郎、ということでそのハナシが紹介されるときに、たびたび出てくるのが講演会のエピソードです。

 いわく、ナンチャラ賞をとったことで、全国各地で行われる文化講演会の講師の一人となった石原さんが、壇上に現れると、若い女性たちがキャーキャー黄色い声を上げて、それはもう従来の講演会の様子とはかけ離れた、映画スターかアイドル歌手の舞台公演かのような雰囲気になった、というヤツです。なるほど、そんなこともあったんだろうな、とは思います。

 しかし、だいたい先に話題になるのは、直木賞じゃなくてもう一つの賞だ、というのは、覆すことのできない歴史的な事実です。「ワーキャー人気」もその例にもれず、直木賞にそういう状況が訪れるのは、それから10年あとの第56回(昭和41年/1966年・下半期)まで待たなくちゃいけません。

 直木賞を見るというのは、イコール待つことである、という至言があります。

 1度や2度候補になったぐらいじゃまだまだ青い、候補を重ねるのを待たなきゃいけないとか、発表時刻は常にナンチャラ賞のほうが先で、直木賞の発表はそれから数十分待たなきゃいけないとか、選評が読めるのも先に世に出るのは兄弟賞のほうなので、直木賞の選評を読むのも待たなきゃいけないとか、とにかく直木賞ファンは多くの場面で待たされます。これはもう仕方がありません。

 で、それはそれとしてワーキャー人気の件です。

 奇しくも石原さんとまったく同じ年の、同じ日に生まれた男が、10年のときを経て今度は直木賞に「ワーキャー」を持ってきてくれました。五木寛之さんです。

 直木賞をとったとき、五木さんは34歳。青年というにはちょっと薹が立っている気もしますが、でもやっぱり若々しくて凛々しいビジュアルをしていましたし、公衆の前に出ていくことを厭うタイプの人ではなかったので、顔も売れて、行く先々でワーキャー言われた……と伝えられています。

 これもまた五木さんの受賞は60年近くまえのことですので、ワタクシは目撃したわけじゃありません。すべてが誰かの受け売りです。

 受け売りではあるんですけど、過去の直木賞とその周辺のことをすべて目にして体験した、という人間は、残念ながらいまの世の中、ひとりも存在していません。けっきょくのところ、直木賞のことを語る場合は、ほんのちょっとの自分自身で知り得たことと、だれかの受け売りにならざるを得ず、そこはあきらめて、だれかの言っていることを拾い集めて、直木賞とは何なのかを考えていく他ありません。

 ハナシがまた逸れてきました。講演会のことに戻します。

 作家のなかには、講演が苦手だ、小説家なら小説を書くことが本業でそれ以外は極力避けて通りたい、という人が一定数存在します。それはそれでいいんですけど、直木賞にワーキャーを起こした救世主、五木さんはそれとはまったく別の考えを持つ人でした。

 自分の考えていることを文章で伝えることと同じように、直接、人の前で話をしていきたい。ものすごく講演会に積極的な姿勢を打ち出します。

 直木賞をとり、直木賞の選考委員にもなってから相当経った後年のことですけど、五木さんに「わが講演に悔いなし」という文章があります。講演というものに対する五木さんの考えを表したものです。

「講演というものを、私はこれまで仕事と考えたことがない。辻説法だと思っている。自分の考えていること、感じていることを、対面して人びとに伝える。そのために自分で会場を借りたり、人を集めたりする必要がないというのは、じつに有り難い。

言いたいことがあれば文章を書けばいいではないか、という意見もあるだろう。だが、私はそうは思わない。話を聞きに集まってくる人びとは、必ずしも活字に親しんでいる読者ではないのだ。いや、本を読まない人たちが多いからこそ、しゃべりに出かけるのである。」(平成18年/2006年7月・講談社刊『新・風に吹かれて』所収「わが講演に悔いなし」より)

 平成31年/2019年2月に東京堂出版から出た『作家のおしごと』でも「講演について」と一章を割き、みずからのたどってきた仕事の重要なひとつに講演を位置づけています。

 何だか、ここまで行ってしまうと、直木賞がどうのこうのとかは関係ない、えらく遠い世界の人物のようです。こういう化け物級のエンタテイナーを生み出してしまったのも、直木賞の功ないしは罪、どっちなのかわかりませんが、直木賞があったからこそ出現した現象なのは間違いないでしょう。

 直木賞をとる。それを契機に発生する「講演のお仕事」をまったく嫌がったり拒否したりすることなく、みずからの表現手段の一つとして全国各地を飛び回る。それによってまた、直木賞というものの存在も、五木さんのおかげで各地に広げていってもらえる、という寸法です。あるいは、直木三十五さんや菊池寛さんも、こういう作家の誕生を待ち望んでいたかもしれません。

| | コメント (0)

2026年8月16日 (日)

邱永漢、株の講演会で、文芸講演会をしていたころより5倍も10倍も聴衆を集める。

 講演会とひと口でいっても、その種類は多種多彩です。

 うちのブログで取り上げているのは「文芸」にまつわるもので、実態は単なる世間話か思い出バナシか、そういうものであったとしても小説家を演台に立たせている以上、多少は「文芸」の講演が期待されています。

 ただ、それ以外の他の事柄、人間が関心をもつありとあらゆるジャンルをテーマに講演会は開かれつづけています。一回ぽっきり、エラい先生のお話を聴いただけでいったい何になるのか、よくわかりませんけど、何百人と聴衆を集める講演会は珍しくはありません。生身の人間がしゃべっているのを、目前できちんと見ながら話を聴く。そういう経験を重要視する感覚は、オンライン全盛の現在でも残っているのかもしれません。

 それはそれとして、直木賞です。対象となるのは、かつて戦前には戯曲も入っていたことがありましたが、おおよそ小説です。受賞するのは小説家、ということで関係する講演会も「文芸」をテーマにしたものが中心になります。

 しかし、何といっても直木賞は無駄に歴史が長いので、これまでいろんな人が候補になり、いろんな人が受賞してきました。小説家として人生をまっとうした人ばかりではなく、直木賞をとったあとに紆余曲折を経て、また別の方面で有名になった人もけっこういます。たとえば邱永漢さんです。

 邱さんのことも、うちのブログでは何度も取り上げてきました。第34回(昭和30年/1955年下半期)の直木賞を受賞したのが31歳のときで、それからしばらくは物書きとして活躍したものの、『金銭読本』(昭和34年/1959年・中央公論社刊)の評判がよかったことをきっかけに株を勉強しはじめ、積極的に株式投資の世界に進出し、みずからビジネスを興し、失敗し、そういったなかで経営コンサルタントを看板に掲げたりしておカネを稼ぐほうにシフトを移していった末に創作をやらなくなったという、直木賞史のうえでも独特な道を歩んだ人です。

 ということで邱さんは、はじめの頃は直木賞を受賞した作家として、いわゆる文芸講演会の演者になっています。直木賞受賞から約2年後、昭和33年/1958年に井上靖さん、檀一雄さん、森田たまさんといっしょに高知に招かれて講演をした、という記録が残っています。

 おそらくそのときのエピソードだと思うんですが、邱さんはのちに回顧し、

「私は、檀一雄さんや井上靖さんたちと土佐の高知に講演旅行に出かけたことがあるが、檀さんは居並ぶ主催者や知人たちのいる前で、

「この人は、二、三年前は、もう文学なんかやめて香港へ帰るといっていたんですよ。僕がこの人の文学的才能に手形を書き、佐藤春夫先生が裏書をしたのに、まだだめだといってね」

と私をひやかした」(昭和46年/1971年10月・徳間書店刊『邱永漢自選集VIII 私の金儲け自伝・日本天国論』所収「私の金儲け自伝」より)

 と言っています。檀さんがどれだけ邱さんを高く評価していたかがわかるハナシです。

 しかし、と言いますか、必然的にと言いますか、邱さんは「小説家」というチッコい肩書きでの仕事には満足せず、物書きのために用意された狭くて安い世界を抜け出して、投資家として名をならします。すると今度は、そっち方面からの講演依頼もぞくぞくと舞い込んでくるようになり、そちらでもずいぶん場を沸かせたようです。

 文芸講演会から投資講演会への移行に関して、先述の「私の金儲け自伝」から邱さん自身の言葉を引いてみます。

「私は小説の次に株式投資を選んだが、世の中で株式投資に関心を持つ人は小説を読む人よりも数が多い。小説家として私は、しばしば、講演会にひっぱり出されたことがあるが、株の講演をするようになると、その五倍も十倍も聴衆が集まった。そんなとき、私はそれを自分の人気のせいだとは思わないで、聖徳太子さまの人気のせいだと思うことにした。いついかなる時代でも、お金は一番人気がある。その人気にあやかって、生活をしていく方法もある。」(前掲「私の金儲け自伝」より)

 喩えに「聖徳太子」を使っているところが時代を感じさせますが、株の講演会というのはずいぶん集客能力があったようです。そういうものをまざまざと体験したら、とうてい小説を書くことや、それに付随するチマチマした仕事に戻る選択肢が、邱さんの頭からなくなったのも自然でしょう。

 ということで、小説家は大して儲からない、お金を稼ぐには他にいくらでも道がある、という邱さんお得意の主張が活きてくるわけです。これは聖徳太子のころも渋沢栄一になっても、あまり変わらないかもしれません。

| | コメント (0)

2026年8月 9日 (日)

昭和38年/1963年、杉本苑子が直木賞受賞直後に母校で講演会の壇上に立つ。

 直木三十五さんの作品は、いまではもうほとんど読まれていません。

 いや、直木さんだけじゃありません。直木賞を受賞した人はこれまで200人以上いますが、死んだあとならなおさら、存命であっても、広く読まれている作家がどれだけいるんでしょうか。長く読まれるか、そうでないか。けっきょくのところ文学賞とはあまり関係がなく、いま読まれているかどうかを直木賞のテーマとして語るのは、正直、おカドちがい感が拭えません。

 といった書き出しで、この人のことを取り上げるのが合っているのかよくわかりませんけど、今週の主役は杉本苑子さんです。

 第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞を受賞して、現役時代は小説だのエッセイだのを書きまくり、その後にいくつかの大きな賞もとって、紫綬褒章から文化功労者、文化勲章と、何だかエラそうに見えるアレコレも次々に贈られました。

 平成29年/2017年に没。来年で没後10年になります。とりあえず、いまも改版されたり再版された文庫が新刊で手に入るので、もうしばらくは読みつづけられる作家……なのだと思います。

 それで、杉本さんと講演会……ということなんですけど、まずは講演に対して杉本さんはどんな考えを持っていたのか。小説家は小説を書けばいいのであって他のことはなるべく排したい、と考えていたようで、われがわれがと積極的に人前に出ていくタイプではなかった、と伝えられています。

 たとえば杉本さんは、自分は小説家だ、だから小説には楽しく挑めるけど、随筆は苦手なんだと表明した「モグラのひとりごと」(初出『流動』昭和49年/1974年7月)というエッセイがあります。こんなふうに言っています。

「小説家は、小説を書くべきであり、小説家にはまた、小説を書かせるべきであるというのが、私の持論である。

随筆、脚本、評論、紀行、対談、講演、座談会、テレビ、ラジオ、あるいはインタビューしたり逆にコメントを取られたりというように、現代のごとくマスコミが発達し多様化し、出版物の数がおびただしくなると、しかし、とても、

「小説家は、小説だけ」

 というわけにはいかなくなる。さまざまな分野での仕事をいやおうなく押しつけられ、消化しなければならないのが現状だが、少し厳密に、あるいは良心的に考えると、こうした現象は、よいこととは思えない。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊『片方の耳飾り 随想集』所収「モグラのひとりごと」より)

 本来的にいえば、小説家は小説だけ、というのが理想であって、自分もまたその路線で生きていきたい。だけども、現代社会ではそれでは成り立たない。と言っています。

 いまでもきっと、事情はそこまで変わっていません。マスコミそのものの発達・多様化は、50年近くに比べたって相当様子が変わっているはずですが、小説だけ書いていたい人はけっこういるでしょうし、そんな小説家を人前に立たせたがる人たちも一定数います。「講演したくない」と「お願いしたい」とのツバぜり合い。これも、昭和から平成・令和につづいてきた文芸周辺の、歴史の一端でしょう。

 それはそれとして、どうして杉本さんのハナシをわざわざ取り上げたかといえば、杉本さんが直木賞を受賞した昭和38年/1963年1月、受賞発表のわずか4日後に、おそらくかなり熱心にせがまれて、講演会を開いているからです。

日程 場所 催事名 講師
昭和38年/1963年
1月26日
駒沢学園記念講堂 直木賞受賞記念講演会 杉本苑子

 1月26日というのは、駒沢学園にとっては道元禅師の誕生日に合わせて学園の誕生を記念する大事な「誕生記念日」だということで、まさに直木賞を受賞したばかりの、駒沢学園(駒沢高女)出身者、杉本さんにお願いして講演に来たもらった……ということのようです。

 当日は、受賞作となった『孤愁の岸』で描かれた濃尾平野の治水工事に関してを語ったそうで、

「これらのこと(引用者注:『孤愁の岸』に描かれた話)を事実とフィクションを織り交ぜて長時間にわたって話しつづけた杉本苑子は話術の方も「超一級」であり、教員も生徒も始終、水を打ったように熱心に傾聴した。」(昭和62年/1987年10月・駒沢学園刊『駒沢学園六十周年史』より)

 と、さっと壇上にあがってテキトーに短時間ですませるのではなく、きちんと講演に当たったことが記録として残っています。

 いまに置き換えてもそうでしょうが、当時だって、相当ネジ込んだ感のある講演だったに違いありません。だって、受賞が発表されてすぐに依頼したとしても、杉本さんには3日しか準備期間がなかったんですよ。よくぞ受けたものですし、あるいは、よほどの母校愛があったんじゃないか、とも思います。

| | コメント (0)

2026年8月 2日 (日)

昭和33年/1958年に「芥川賞作家講演会」が開かれ、2年遅れて「芥川・直木賞記念講演会」が催される。

 芥川龍之介さんが死んだとき、文藝春秋社は追悼講演会を開きました。それなのに直木三十五さんが死んだときには、似たような追悼企画をやった形跡がありません。代わりに、文学賞をつくることで直木さんの追悼としたのでした……といったようなことを、何週か前に書いた覚えがあります。

 要は、直木賞とアクタ何とか賞、創設の頃から二つの賞は並び称される存在で、正直、両賞に違いがあろうがなかろうが、どっちでもいいハナシではあるんですけど、こまかく見ていけば、直木賞には片一方にはない特徴があるし、逆もまたそうだ、みたいなことが講演会についても当てはまるのだということです。もちろん、そりゃそうです。

 直木賞ともう一つの賞は、扱う対象の作品種別が違う、ということ以外に、さまざまな違いがあります。両賞の違いについては、うちのブログでもけっこうコスッてきました。ただ、どうしても心が傷んでくるのを抑えられません。昭和の半ば(ひょっとしたら昭和の終わりごろ)まで、直木賞はいーっつもアクタ何とか賞の影に隠れた……隠された存在だったからです。

 なんだか、うちのブログを始めた十数年前から、こんなことばっかり書いている気がします。

 ワタクシもときどき、リアルな世界で、おれは・わたしは文学について一家言あります! といった他人と、直木賞のことを語り合う機会をもったりします。しかし、いくらこちらが「直木賞はかわいそうだ、歴史的にもう一つの賞に比べてあまりに扱いがひどすぎる期間が長かった!」と主張しても、ほとんどの相手はぽかんとして、何いってんの、このキモいおじさん、という目で見られてばかりです。もしかしたら、ワタクシの感覚がよほどズレているのかもしれません。

 だけど、何度でも、何十度でも、繰り返して書いておきます。どうして直木賞は、これほどわきに追いやられなければいけなかったんだ。どう見てもカワイソすぎるだろ、と。

 文藝春秋社の頃から講演会は、この会社のおはこのイベントでしたが、戦後、社長が佐佐木茂索さんになって文藝春秋新社と組織が変わっても、やはりその伝統が受け継がれます。毎年恒例、全国各地で作家や文化人たちによる講演会をひらく催しは、昭和27年/1952年に復活し、その後、えんえんと行われました。

 その講演会の講師として、直木賞やもう一つの賞の受賞者も駆り出された……というところが、直木賞が講演会と縁ぶかい文学賞だと言える大きな理由なんですけど、文春の社史『文藝春秋七十年史』(平成3年/1991年12月・文藝春秋刊)を見てみると、その名もずばり、文学賞の名前を講演会のほうにも掲げて、定期的に大きな会場をおさえてイベントをやっていたことがわかります。

 こんな感じです。

日程 場所 催事名 講師
昭和33年/1958年
7月26日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 石川達三
  • 井上靖
  • 遠藤周作
  • 石原慎太郎
  • 大江健三郎
昭和34年/1959年
2月14日
一ツ橋共立講堂 芥川賞作家講演会
  • 佐藤春夫
  • 堀田善衛
  • 松本清張
  • 五味康祐
  • 芥川比呂志
昭和35年/1960年
2月15日
東京産経ホール 芥川・直木賞記念講演会
  • 丹羽文雄
  • 開高健
  • 邱永漢
  • 戸板康二
  • 司馬遼太郎

 いったいどうして昭和33年/1958年夏に、このような催しを計画することになったのか。調べていけば、きっとこれぞという開催理由が見つかるかもしれませんが、上記社史の本文ではくわしくは触れられていません。

 ただ、昭和33年/1958年のトピックスとして、第38回(昭和32年/1957年・下半期)のアクタ何とか賞における開高健さんと大江健三郎さんの一騎打ち(結果、開高さんの「裸の王様」が受賞)と、翌第39回(昭和33年/1958年・上半期)大江さんの受賞のことに結構な行数が割かれています。

「石原慎太郎以来、というよりも、受賞のその日からマスコミ沙汰となったのは、この一騎打ち以後としたほうが正確であるかもしれない。

(引用者中略)

大江もまた、開高以上に、マスコミに追われる身となったことはいうまでもない。芥川龍之介の名を冠する賞にこれほどふさわしい若き鬼才はいないと、だれもが感じとったからである。それと選考委員会で、もはや新人に非ず、賞の資格なしと強硬に主張する委員もあり、かなり揉めたことが伝えられていた。そのこともあずかって話題を大きくした。」(『文藝春秋七十年史』より)

 開高さんの受賞でマスコミの異常な過熱ぶりが噴出したのが昭和33年/1958年1月。大江さんのすったもんだの受賞が決まったのが同年7月21日。そして「芥川賞作家講演会」に、いま話題の受賞者ということで大江さんが演台に立たされたのが、それから一週間も経たない7月26日です。

 こんな急ピッチな出番を、よくまあ大江さんも受けたものだな、と思いますが、それはともかく、石原さんから開高・大江ご両人の受賞が、ジャーナリズムにとって、あるいは文藝春秋新社にとっても、アクタ何とか賞が相当おいしい飯のタネになるぞと気づいて、はあはあゼエゼエよだれを垂らしてガッつきはじめたことはわかります。

 それに比べて、直木賞はどうだったか。いや、直木賞だって十分マスコミに取り上げられて話題になっていたはずだ、というのは、ワタクシも理解できるんですけど、でもどうして講演会を開くときに、アクタ何とか賞にスポットを当てるのが先で、昭和35年/1960年になってようやく両賞並列の企画にしたのか。そりゃないぜ、文春の企画担当者よ、とまた今週も愚痴を言いたくなりますが、1960年前後、直木賞がどう見られていたのか、こういうところにも一端が表われているものとして、黒歴史のひとつとして挙げておくことにします。

| | コメント (0)

2026年7月26日 (日)

今東光、直木賞受賞の年(昭和32年/1957年)に少なくとも60回以上、講演・講話の席に立つ。

 直木賞を受賞した人は、なんだかんだと講演会に呼ばれる機会が増えると言われます。

 半年たって新しい受賞者が生まれても、「直木賞を受賞した人」という過去が消えるわけではありませんから、本人が嫌がったり拒絶したりしなければ、ひきつづき声がかかるもの……らしいです。

 いまを生きている我々には、何の違和感もない「直木賞受賞後あるある」でしょう。ただ、これがだいたいいつ頃から始まったハナシなのか。やっぱり気になります。

 もちろん講演会は全国各地、津々浦々で行われ、その一つひとつをすべて調べきることはとうていできません。興味はあるけど調べ方もわからず、ワタクシなど茫然とするほかないんですが、直木賞の歴史上、「講演」をたくさんやった人として特徴的な受賞者がいたことを、まずは取り上げてみたいと思います。

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)に受賞した今東光さんです。

 何といっても今さんといえば、作家でもありながら、人の前に出てべらべらしゃべることに慣れていました。仏教にまつわる逸話や教訓を織り交ぜながら、ある程度の時間、しゃべりで間をもたせる「説法」というやつです。

 その技を磨きに磨いたところで、58歳になった直木賞をとったものですから、さあ大変です。直木賞と講演会の組み合わせがスパークを起こし、いや今さん自身がこのスパークを起こさせ、この賞の歴史に「多くの聴衆に話を聞かせる」というかたちで金字塔をうちたてたのは、ある意味、自然ななりゆきでした。

 矢野隆司さんがまとめた驚愕の年譜『今東光[全年譜]』(令和6年/2024年3月・今東光[全年譜]刊行事務局刊)によると、昭和32年/1957年1月21日、『お吟さま』での直木賞を受賞が決まった日以降、その年だけでも以下のような講演・講話をこなしたようです。

日程 場所 講師・演題
昭和32年/1957年
1月23日
新大阪ホテル ライオンズクラブでの講話
1月26日 大阪・貝塚公民館 貝塚公民館読書友の会 講演「現代の文学」
2月8日 真宗大谷学園大谷高校 大谷高校宗教部主催講演会「他人のためには涙を」
2月9日 近畿財務局 講演
2月10日 京都・中心社 講演
2月16日 八尾図書館 講話
2月18日 今橋クラブ 社長会 講話「世相辻説法」
2月20日 大阪・都島 鐘紡本社 講演
2月23日 東京・国際観光ホテル (直木賞受賞パーティー)
3月1日 大阪・心斎橋そごう 一業クラブ 講演
3月5日 枚方・香里園 税務講習所 講演
3月8日 八尾特定郵便局局長会 講演
3月9日 大阪文学関係の会合 講話
3月16日 京都商工会議所 講演
3月16日 大阪・貝塚公民館 貝塚婦人会 講演
3月24日 大阪・堺 徳泉庵 講話
3月30日 京都・都ホテル 外国人教師の会合 講演
4月4日 那智妙法鉱山文化部 講話
4月9日 大阪青年会議所 講演
4月12日 大阪・中央電気倶楽部 講話
4月18日 久我商店 講話
4月20日 豊岡高校(母校) 達徳会 講演
4月23日 関西経営者協会 講演「仏教は日本文学のバックボーン」
4月28日 久留米・ブリヂストン 講演
4月29日 大川市 講演
4月30日 長崎・精養軒 講演
5月3日 大手前金蘭会 講演
5月12日 浪花短期大学 講演
5月13日 大阪・東住吉郵便局 講話
6月1日 尼崎・住友鋼管 講演
6月5日 堺市教育委員会関係の会合 講演
6月14日 芦屋・田中千代服飾専門学校 講演
6月30日 山本婦人会 講話
7月9日 大阪府庁 講話
7月15日 地元校 講演
7月19日 堺市役所 成人学校 講演
7月22日 島根・玉造温泉 第10回鉄道講習会 講演
7月24日 兵庫県主催行事 講話
7月27日 大手前会館 未生流夏期華道綜合講座 講演「文芸談」
8月9日 高知経営者協会 講演
高知市立公民館 高知市夏期大学 講演「現代文学管見」
8月21日 大阪府立中之島図書館 大阪府民教養講座 講演
8月24日 裏千家今日庵夏期ゼミナール 講演
9月13日 今橋クラブ 総務、庶務部課長懇談会 講演「みみずく説法」
9月14日 今橋クラブ 婦人部懇話会 講演
9月26日 毎日婦人会 講演
9月27日 岡山天満屋葦川会館 天満屋母の会9月例会 講演
10月1日 中之島公会堂 新聞週間 講演
10月2日 堺市堺高校 講話
10月19日 主婦の友着物ショー 講演
10月25日 神戸・全国統計大会 講演
10月29日 能勢・歌垣小学校 講演
10月31日 関西学院高等部 講演
11月5日 大阪銀行協会 講話
国際見本市会館ホテル 大阪関東織物振興会 講演
11月11日 東京・共立講堂 婦人公論講演会
11月20日 八尾・龍華小学校 講演
11月22日 大阪市立西船場小学校国語研究会 講話
11月29日 大阪北浜・清友会館 講演
12月4日 市中銀行従業員組合連合会 講演
12月10日 西宮市立鳴尾小学校PTA 講演
12月14日 毎日新聞大阪本社 毎日婦人文化センター主催「第4回婦人のための講演会」
講演「今年の文学界とベストセラーズについて」
尼崎市文化会館 講演
12月23日 公安局 講演

 大忙しというか、大活躍というか。戦後復興10数年、直木賞なんちゅうシガない文学賞でも、これだけの波及力があったんだな、と思わず心強くなってしまいます。

 いや。直木賞の波及力はもちろんあったんでしょうけど、文壇カムバックとか何とか言われて各種メディアで話題の渦中にいる受賞者が、人の前でしゃべることにまるで消極的ではなかった。むしろ、人を笑わせ、楽しませるぐらいのことはお手のもの、といった技量を備えた人が、直木賞をとったことが、これほどの大活躍の原因だったろうと思います。

 学校に行き、企業に呼ばれ、地方公共団体の催しにも、文化センターの企画にも顔を出し、地元の公民館、図書館でも講話・講演する、というフットワークの軽さ。

 まだ直木賞も、36回ぐらいしかやっていないので、歴史が浅いといえば浅い時期ですが、直木賞をとることと講演会とのあいだに存在する、いまとなっては当然の関係性を、今東光さんがうまく活かした、あるいは今さん自身が築き上げた……と見るのは、そう不自然ではないかと思います。

| | コメント (0)

2026年7月19日 (日)

胡桃沢耕史、直木賞をとった直後(昭和58年/1983年10月)に講演会小説「青木賞の取り方」を発表する。

Photo_20260719225301
胡桃沢耕史の墓のほうから直木三十五の墓(右)を眺める。

 先日、7月15日(水)の夜に第175回(令和8年/2026年・上半期)直木賞に関することで、ブログを一本のせました。

 そこでも書いたんですが、ここ4年ばかり、毎年7月の直木賞の日には、横浜・長昌寺にある直木三十五さんのお墓に行っています。直木賞というものが、そもそも直木さんを追悼する発想で生まれたものだからです。

 直木さんのお墓に参る。……ということは、どういうことか。自動的に、胡桃沢耕史さんのお墓を詣でることになります。

 第89回(昭和58年/1983年・上半期)直木賞受賞者、胡桃沢さんのことは、うちのブログでもクドいくらいに紹介してきました。もちろんそんなもの、胡桃沢さんの長い作家歴のなかでほんの一握りの、ほとんど触れていないに等しいぐらいのエピソードでしかなく、それが悲しくもありますが、今年も直木さんの横にある胡桃沢さんの墓石に手を合わせながら、ああ、そういえば胡桃沢さんも講演会と直木賞、というテーマでは、当然取り上げておかなきゃいけない人だった、と思い出しました。

 なので、今週は昭和50年代なかば、講演会と直木賞の関係性がジュクジュクと熟していたそのころに直木賞を受賞した胡桃沢さんのハナシを書いておくことにします。

 いまさら言うまでもなく(とか言いながら、繰り返し言いますけど)、胡桃沢さんは若いうち――およそ30代の頃から、まわりにいた仲間たちがぞくぞくと直木賞をとって「エラい人」扱いされていくのを体験し、そのうちおれも、とせっせと小説を書きつづけましたが候補にも挙がらない時期が続くうちに、おカネの稼げるエロティックな領域で職業作家となったものの、いつまでも満たされないものを感じていたのか、もう一度、中間小説・大衆小説の王道で直木賞にチャレンジしたい、と昭和50年代に筆名を改めて書きはじめたところ、これはこれで話題になるかも、と文春の人たちに思われたのか候補に挙がるようになって、ああだこうだ、とマスコミに登場しては直木賞に対する執念を語り続けるうちに、第89回のとき『黒パン俘虜記』で受賞を果たします。

 ときに胡桃沢さん58歳。選考委員で「先輩」と見なせるのは、村上元三さん、源氏鶏太さんの2人ぐらいのもので、水上勉さんもギリ先輩といっていいでしょうけど、そのほかの人は同輩や後輩ばかり。とくに受賞後に起きた、城山三郎さんの委員辞任事件とか、池波正太郎さんとの確執とか、胡桃沢さんの「ヤラかし芸」が冴えまくって、直木賞の歴史に、ポッと妖しげな光をともしてくれました。

 その胡桃沢さんに、直木賞をとったあとの講演会に関するこんな文章があります。

「それにしても直木賞の価値はやたらに高くなった。いまでは数ある賞の中で最大の騒がれ方をする、社会的な行事になってしまった。文化勲章だってあんなに大きく報道されない。

(引用者中略)

直木賞に対する世間の評価というのは、想像以上に高い。ぼくは愛媛県で講演をしたことがあるが、会場に行ったら、入り口に大きな看板が立っていた。「直木賞作家講演会」とあって、肝心の胡桃沢耕史の名前がない。要するに直木賞作家ならだれでもいいわけだ。」(平成3年/1991年4月・廣済堂出版刊、胡桃沢耕史・著『翔んでる人生』所収「直木賞の取り方を教えます」より)

 この「直木賞の取り方を教えます」は、初出が『正論』平成2年/1990年10月号です。それからいまは36年たちましたが、こないだも芦辺拓さんがXで、映画『宝島』の原作クレジットの扱いが、作家の名前ではなく「直木賞受賞作」を大きく出したことをポストしてバズっていました。やたらと「直木賞」という三文字を強調させる風潮は、残念ながら当時から変わっていないようです。

 胡桃沢さんはエッセイにしろ発言にしろ、けっこうモるくせがあることで知られています。じっさいの愛媛県での講演で、ほんとうにそんな大看板が出ていたのか、これはもう愛媛に住む直木賞オタクのどなたかが調べてくださることを期待するしかないんですけど、でも、たしかに「直木賞作家講演会」とドドーンと出ているのに講演者の名前がない、というのはいかにもありそうな風景です。

 もうひとつ、胡桃沢さんが世間に放った「講演会と直木賞」に関する遺産(?)があります。「青木賞の取り方」という小説です。

 どちらかというと、こちらのほうが、直木賞の歴史に刻まれるべき「講演会にまつわる事象」のひとつかもしれません。というのも、胡桃沢さんが直木賞を受賞したのが昭和58年/1983年7月で、その受賞決定と選評は同年『オール讀物』10月号に出たんですが、それと書店で並べられるタイミングの『問題小説』10月号で、胡桃沢さんはこの小説を発表しているからです。話題になりそうなら、すぐさまペンをとって挑戦的なタイトルの小説を書き上げてしまう。さすが胡桃沢さんしかできない芸当だ、と言っておきましょう。

 この小説はのちに光文社文庫(平成4年/1992年9月)に収められています。まだ直木賞をとる前の胡桃沢さん自身を彷彿させる〈澄川正太郎〉なるエロジャンルで食ってきた小説家が、大衆文芸勉強会10月例会の講師となって、120人ほどの聴衆を前に、うらみまじり、くやしさまじりに文学賞「青木賞」はどうやったらとれるかを講演する、という内容です。

日程 場所 講師・演題
昭和58年/1983年
10月26日
東京・飯田橋駅近く
山形書店 7階ホール
大衆文芸勉強会 十月例会
澄川正太郎
「青木賞の取り方」

 ちなみに会場の「山形書店」というのは、いわゆる本屋ではなく、

「山形書店は飯田橋駅から歩いて十分のところにある中級の出版社である。『歴史と真実』という雑誌を刊行するときに、大崎の口ききで、この勉強会所属の作家の協力を受けたので、月に一回の例会には、無料で会議室を開放してくれ、女子社員の一人を残業させて、お茶の仕度までしてくれた。」(「青木賞の取り方」より)

 かつて『歴史と旅』を出していた秋田書店を思い起こさせます。

 まあ、この作品に出てくる架空の固有名詞が、じっさいは誰の何をモデルにしているのか、それを追っていってもキリがありません。それより、やはりこの作品が面白いのは、怨念たっぷりの作家が、作家志望者を含む百ン十人の聴き手を相手に、青木賞という文学賞のことを講演する、という形式を選んだところです。

 なぜ対面式で主人公に語らせるかたちをとったのか。胡桃沢さん自身が、このころ一気に市民権を得はじめていた「カルチャーセンター」の講座に、猛烈な反発を抱いていたため、それを逆手にとったパロディを、人々に語る形式でやってみただけかもしれません。作意はもはやわかりません。

 ただ、先の胡桃沢さんのエッセイで書かれていたことではありますけど、直木賞というものが文学やら楽しい読み物やら、そういった枠組みを超えて、いわば「社会的な行事」になった、ということを示すとき、本を読む種類の人たちではない大衆に向けた講演会、というものが、やたらと世間で評価が高いこの賞の姿を、たしかに象徴していると思います。

 直木賞は、じっさいに候補作や受賞作を読まなくたって、人々の関心の対象になる。きっと胡桃沢さんは自身の経験から、その性質を十二分に味わっていたので、受賞第一作(のひとつ)としてこういう講演会小説を書いたんでしょう。

| | コメント (0)

2026年7月15日 (水)

第175回直木賞(令和8年/2026年上半期)決定の夜に

Photo_20260715233701
直木三十五の墓と第175回候補作5つ

 直木賞に興味をもって早ン十年。だれが候補になってだれが受賞しようが、すべては他人サマの出来事です。それでも半年に一回、これが決まる日になると、興味まんまん、直木賞の専門サイトをつくって以来、関心のレベルが落ちたことがありません。落ちたのはこちらの体力ぐらいです。

 そうなんですよ、年々、直木賞の決定を知った瞬間からドッと疲れるようになりました。しかも、夏の直木賞の日は猛暑のことが多く、疲労感もひとしおです。今日、令和8年/2026年7月15日(水)も、いまはもう夜が深いですが、何だか知らないうちにヘトヘトです。

 まあ、だれに強制されたわけでもなく勝手に興奮して、勝手に疲労しているんですから、正直、ひとに誇れるような生き方じゃありません。

 それでも命が尽きるまで、直木賞に対する興味のなくなる気配が、いまのところありません。このまま死んでいければ、直木賞のサイト運営者としては本望でしょう。

 で、今日も疲れたんで、このまま疲労と快楽に包まれながら寝ちゃいたい。……とは思ったんですが、いくら疲れていようが、これだけは書いておかないと寝入れません。

 第175回(令和8年/2026年上半期)の候補作は5つありました。5人ものの人が、候補になることを承諾してくれたのですから、直木賞大好き人間にとってこれほど幸せなことがあるでしょうか。ガヤガヤと騒がしいこの期間に我が身を置くことを引き受けてくださって、面白い小説を読ませてくれている候補作家の方がたには、腰を折り、這いつくばって、御礼を申し上げたいと思います。

 ス、ス、スカーレットさん! いいや、蝉谷めぐ実さん!! 直木賞をとろうがとるまいが、『見えるか保己一』は個人的に一生の思い出になる小説になりました。これはもう感謝どころの騒ぎじゃなく、いったい何をすればこのご恩に報いれるんでしょうか。正直思いつかないほどの読書体験&今日までの興奮体験でした。蝉谷さんには、これからいくらでも直木賞の機会は訪れると確信していますが、今回のことで、直木賞を嫌いにならないでくれることを心から願います。

 『#台所のあるところ』に収められた一編一編、趣向を変えたハナシを楽しみながらも、いったい最後にどこに連れていかれるのか。最大の楽しみが最終編で訪れるという、小説を読む楽しみに没入しました。原田ひ香さんの手腕には、うならずにはいられません。文学賞とは関係なく、多くの人に読んでもらいたい小説であることは明らかです。そんな小説、これからもどんどん読ませてください。

 心理的などんでん返し。叙述の妙による逆転の展開。凪良ゆうさんの作品は、どこにもミステリーとは書いていないのに、確かにミステリーの魅力がぎっちり詰まっています。今回候補になった『多類婚姻譚』もまたそうです。読んでいるあいだじゅうこれほどドキドキ・ワクワクさせられて、凪良ゆうという作家のスゴみを今作も堪能しました。ニワカのファンすぎて大きな声で言うのは恥かしいので、これからは小さな声で、ワタクシは凪良ゆうファンです、とこっそりつぶやいていきます。

 候補作の発表以来、若林正恭さんのおかげで、今回の直木賞が何百倍か楽しくなった! ということは、多くの人が賛同してくれると思います。しかし、若林さんと直木賞の話題を語る人の何割かが『青天』を読んでいないことを知って、ワタクシは愕然としました。いや、マジかよ。こんな面白い小説を読まずに、ニュースだけ見て面白がっているの? もったいない。きっと若林さんの小説二作目は『青天』を超えてくるものと期待して、次なる機会を待ちたいと思います。またぜひ候補入り、承諾してくださると嬉しいです。

          ○

 感慨・イズ・ザ・無量です。受賞しましたか。ついに受賞してくださいましたか。

 朝倉かすみさんの『けんぐゎい』を読み進めているときに感じた緊張感と高揚感。終盤に近づくにつれて、物語が終わってしまうことの淋しさと、いま自分はスゴいもんを読んでいるんじゃないかという幸福感。

 朝倉さんにはもう少し早い時期に直木賞がやってきてもよかったはずだ、とはたから見ていると思いますが、ただ、この辺りの感覚は、ご本人だけにしかわからない思いがきっとあるでしょう。今後、受賞記念のエッセイなどで、そういうのを読めることを楽しみにしていますが、1年半まえの冬、第172回(令和6年/2024年下半期)のとき、いっしょに直木賞の結果発表を待たせてもらった小樽の方がたが、いまごろ、どれだけ喜ばれているか。それを想像するだけでもう、感慨・イズ・ザ・無量です

» 続きを読む

| | コメント (0)

2026年7月12日 (日)

第175回(令和8年/2026年上半期)直木賞を予想するふりして運勢占いしてみる。

 近年、直木賞を楽しむためには「予想」というものが不可欠になりました。

 いや。不可欠というのは、さすがに言いすぎですね。いったい何が受賞するのか、事前に予想などしなくても直木賞が十分に楽しめるイベントなのはたしかです。

 ただ、なぜなんでしょう。直木賞の決定日が近づいてくると、おのずと自分で予想したり、人の予想を聞きたくなってくる。心理学的に「直木賞予想症」とも言われるこの摩訶不思議な心の動きは、きっと少なくない数の現代日本人が抱えていると思われます。ワタクシもそうです。ほんとに不思議で、心が躍る、くだらない心理現象です。

 ところで、直木賞の予想というのは、いったい何の意味があるんでしょうか。

 おそらく天気予報だとか、運勢占いだとか、そういう類いのものだと言って間違いありません。何だか気になるから、つい目をとめる。だけど、結果が外れたからといって、「おい、あんたの予想を信じて高い単行本を買ったのに、なんだよ受賞しなかったじゃないかよ、責任とれよ」と文句をつけたところで、お金を返してくれるような殊勝な予想屋は、たぶんいません。

 その程度といえば、その程度のものです。あと数日たてば結果が判明するものに対して、わざわざ予想することに大した意味がないのは自明のハナシです。

 ということで、うちのブログも無責任な予想屋さんを真似てみることにしました。

 図書館から何冊か占いの本を借りてきましたので、候補者それぞれの令和8年/2026年7月15日の――第175回(令和8年/2026年・上半期)の選考会が開かれる日の運勢を占ってみます。

 運勢もいろいろと種類が細分化されているようです。受賞すれば100万円がゲットできるので、まずは「金運」。

 それから、直木賞を受賞したということになれば先の仕事もどっと増えるはずなので「仕事運」。

 恋愛運とか健康運とかは、さすがにあまり直木賞には関係ないかということで飛ばしまして、最終的にその日、その人の総合的な運勢。それらを並べて、今度の直木賞の受賞作を予想してみます……いや、占ってみます。

金運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『青天』 努力が実を結び、思いがけない収入やうれしい臨時収入のチャンスが訪れるかも。大きなお金の動きがある場合も、冷静な判断がさらなる豊かさを引き寄せます。
2 『けんぐゎい』 安定した金運です。大きな利益よりも、良い買い物ができる・お得な情報を得られる将来に役立つ出費ができる、といった「満足度の高いお金の使い方」ができそうです。
3 『見えるか保己一』 安定した金運です。臨時収入よりも、将来につながる自己投資・必要なものを良い条件で購入できる・家計や資産管理を見直す、といった行動が吉となります。
4 『多類婚姻譚』 大きな波はありませんが、安定しています。衝動買いよりも、将来のための貯蓄や自己投資などが満足につながります。お得な情報や割引に縁があるかも。
5 『#台所のあるところ』 金運は一時的に足踏み気味ですが、大きなトラブルを示す運気ではありません。家計の見直しや財布の整理をすると、停滞していた運気が少しずつ動き始めそうです。

 何はなくともおカネは大事です。直木賞を創案した菊池寛さんも、昭和初期の『文藝春秋』のみなさんも、直木賞をつくる理由の一つが、作家におカネをあげること、だったのですから、「金運」を持っている人は、選考会でも上位にくるはずです(たぶん)。

 さすがに7月15日当日に、バカバカ無駄づかいしておカネを減らそうという候補者はいない、とは思うんですけど、そしておカネに困っているような候補者もいないとは想像しますけど、占い的に「無駄づかい」は厳禁です。

 ……って、そんなこと占うまでもなく、だれにでも当てはまるようなことのような気もします。

仕事運ランキング

順位 候補作 コメント
1 『#台所のあるところ』 好調な一日です。人をまとめる役割で力を発揮でき、長く温めてきた計画を動かし始めるのに良い日です。派手なアピールよりも、誠実さや細やかな気配りが高く評価されます。
2 『多類婚姻譚』 新しい企画やアイデアが評価されやすい上、長く続けてきた努力に良い反応が返ってくるでしょう。リーダー役よりも、調整役や橋渡し役を意識すると、さらに評価が高まりそうです。
3 『見えるか保己一』 周囲から頼りにされ、また新しい役割やチャンスが巡ってくる可能性が高い一日です。「私にはまだ早いかも」と思うような話でも、前向きに引き受ける価値があります。
4 『けんぐゎい』 集中力が散漫になりやすく、うっかりミスに注意したい日です。慣れた作業ほど確認を怠らないことが大切。焦らず丁寧に進めることで、運気は徐々に安定していきます。
5 『青天』 思い通りに進まない場面が重なりやすい一日です。無理に挽回しようとすると、さらに状況が複雑になる可能性があります。今日は攻めるより守る姿勢を意識し、確認作業や整理整頓など、足元を固めることが明日への飛躍につながるでしょう。

 仕事の運をはかる、というのはなかなか難しい試みです。

 仮に当日の運気が下降してても、たいていの仕事は連続性があるので、翌日にはまた取り返してトントン、なんてことはざらにあります。

 直木賞をとれば、確実に仕事は増えるでしょうが、直木賞をとらなくても仕事が順調に進んで結果問題なし、なんて人もたくさんいるでしょう。そういう人の仕事運はどうランクを付ければいいんでしょうか。占い界の偉い人、教えてください。

総合的な運勢ランキング

順位 候補作 コメント
1 『けんぐゎい』 これまでの努力や人とのつながりが良い形で実を結びやすい一日です。明るさや包容力が周囲に伝わり、人から頼られたり、感謝されたりする場面がありそうです。自分から積極的に動くよりも、自然体でいることが幸運を引き寄せます。
2 『見えるか保己一』 直感と行動力のバランスが取りやすく、普段は迷っていたことに自然と答えが見えてきそうです。新しい挑戦や、人前で自分の考えを伝えることにツキがあります。一方で、周囲への気配りも忘れないことで、さらに運気が安定します。
3 『#台所のあるところ』 周囲との関係が穏やかに進みやすく、これまで誠実に積み重ねてきたことが評価されるタイミングです。急いで結果を求めるよりも、目の前のことを丁寧にこなすことで、思いがけない良い知らせやチャンスが舞い込むでしょう。
4 『青天』 慎重な行動が求められる一日です。大きな決断や新しい挑戦は急がず、情報を集めることを優先すると安心です。今日は「守り」を意識するほど、明日以降の運気につながります。
5 『多類婚姻譚』 この日は思い通りにいかないことが重なりやすく、気持ちが揺れやすい一日になりそうです。しかし、こんな日こそ無理をせず、自分を守る選択をすることが大切。大きな決断は先送りにし、休息や身の回りの整理に時間を使うことで、運気の流れは少しずつ好転していくでしょう。

 ほんとかよ、という感じですが、これが第175回直木賞、選考会の日の運勢です。責任はすべて、神にあります。

          ○

 とか何とか、だらだらと、運勢占いの順位を書いていると、だから何なんだ、とむなしくなりますよね。

 けっきょくのところ、占いにしても予想にしても、むなしさとの闘いから逃れられません。いや、ひょっとしたら、直木賞をとろうがとるまいが、だから何なんだ、という直木賞がまとっている根本的なむなしさも、似たようなものだったりします。

 だいたい候補作それぞれが小説として楽しく読めるんだから、それ以上、運勢もなにもありません。

 今週水曜日、7月15日には選考会が行われます。運勢がどうなのかはともかくです。候補者のみなさんには事故や事件にあわず、平穏無事に一日を過ごせることを願うのみです。

| | コメント (0)

«講演ぎらいの山本周五郎、無理やり頼まれて中央大学出版部の講演(昭和36年/1961年5月)に出る。