2025年6月15日 (日)

「芥川賞はもう決まったの?」「いえ、ちょっと休憩しまして、その間に直木賞のほうをやっているのです。」…室生犀星&進行係、第13回直木賞の選評より

 直木賞は、いま現在リアルタイムで盛り上がっています。なのに昔のことなんか調べて何が楽しんだ。たしかにワタクシも思います。

 ……そうは思うんですけど、こないだ候補作が発表された最新の第173回(令和7年/2025年・上半期)の直木賞に接すると、テンション爆上がりでウキウキしてくるのは言うまでもない。だけど、これまで刻々と築かれてきた歴史的な直木賞の流れだって、それぞれの時代、それぞれの回が同じくらいに面白い。となれば、いま直木賞を面白がるのと同じくらいに、昔の直木賞を面白がるのも当然じゃないか、と思わないでもありません。

 とか何とかグダグダ言いながら、うちのブログではひきつづき昔の昔、日本が戦争をおっぱじめた、あるいはこれから新しい戦いに臨もうとしていた昭和10年代のハナシに目を向けることにします。今週は第13回(昭和16年/1941年・上半期)のときの選評についてです。

 無駄に長い直木賞の歴史のなかで、この第13回というのは、特異中の特異な選評を後世に残したことでも知られています。

 何が特異か。といえば、選考委員ひとりひとりが自分で原稿を書いて発表する、いつもながらの形式ではなく、昭和16年/1941年7月29日午後6時から、赤坂星ケ岡茶寮で行われた審議の様子を、座談会形式で筆記、それをもって選評ということにしているからです。こういう回は、これ一回きりしかありません。

 その日出席したのは、直木賞専任の白井喬二さんと、この回から新たに委員に加わった片岡鉄兵さん、それと芥川賞兼任の小島政二郎さん、佐佐木茂索さんの4名。いちおう第10回から、先週触れたとおり芥川賞の委員も直木賞の審議に参加する、という建て前があったはずですが、選評の様子を見るかぎり、もはやそんなことはやめちゃったらしく、芥川賞のほうの佐藤春夫さん、宇野浩二さん、瀧井孝作さん、室生犀星さん、横光利一さんは、直木賞のほうでは発言していません。

 『文藝春秋』に載った審査録は、一行20字詰めで全685行に及びます。最初に芥川賞のほうの審査が始まり、それが途中まで行ったところで直木賞、その直木賞のほうが議論が済んだら再び芥川賞について話し合われた……という体裁です。

 じゃあ、それぞれの賞にどれだけの発言の分量が割かれているか、行数を数えてみました。芥川賞が546行(全体の79.7%)、それに対して直木賞は139行(20.3%)。記号で示すと ■■□□□□□□□□ (←■が直木賞、□がもう一つの賞)となります。

 審議録の次のページに、当日欠席した吉川英治さんが「直木賞席外寸言」として20字×45行の選評を書いています。だけど、それを足したところで量の上では焼け石に水です。何つったって、じつに5分の4、芥ナントカ賞とかいうどうでもいい賞のハナシで占められているんですからね。何じゃこりゃ、と直木賞ファンにとっては怒りに打ちふるえるしかありません。

 誌面の上では、はっきりとどこからが直木賞で、どこからが芥、と標題で区切りられているわけじゃありません。なので今週は、この全部を「直木賞選評」と見なしたところで、直木賞に関する議論がひと段落ついたらしい、その次の辺りに載っている会話の部分を、「関係のない選評」としてピックアップすることにします。

 そこから登場した室生犀星さんと、進行係とのやりとりです。

「室生(引用者注:犀星)(出席)芥川賞はもう決まつたの?

進行係 いえ、ちよつと休憩しまして、その間に直木賞のはうをやつてゐるのです。それぢや、芥川賞に戻りませう」(『文藝春秋』昭和16年/1941年9月号「芥川龍之介賞 直木三十五賞 委員会記」より)

 彼らが本腰を入れているのはあくまで芥ナントカで、直木賞はその休憩のあいまにやっている。そんな雰囲気を露骨に現わしたやりとりかと思われます。

 ちなみにこの「進行係」というのは、文藝春秋社の社員で、吉川英治さんの「直木賞席外寸言」を見ると、どうも永井龍男さんだったらしいです。さすが永井さん、後年、直木賞の選考委員をやりながら、どうも気乗りがしないとわがままを言い出し、芥ナントカ賞の委員に変えてもらった途端、妙にやる気を見せて長年その役目を務めた、というぐらい、直木賞に対して関心の薄かった人ようなので、その感覚が当時からきちんと発揮されていたんでしょう。

 第13回の直木賞のことについても、とくに語るべきものがなかったか、永井さんは『回想の芥川・直木賞』でも触れてはいませんが、戦前の直木賞委員会の雰囲気について、「直木賞下ばたら記」というエッセイで書かれた表現を、ここでは引かせてもらいます。

「両賞の委員を兼任した人には、自づと生じる委員会の雰囲気の相違が気になつたらしく、小島氏(引用者注:小島政二郎)なぞは、よく直木賞委員会の「低調」さをなげいていた。

新聞や雑誌の連載二追われる委員達は、芥川賞に比して出席率なぞも悪く、寸暇をさいて出席しても、候補作品に読みもらしがあるといつたことも、時々あつた。後に、両賞委員会を一本にして、芥川賞委員からも発言してもらうように、一時銓衡規定を改めたことがあるのも、そんな処から出たものである。」(『別冊文藝春秋』昭和27年/1952年10月「直木賞下ばたら記」」より ―引用出典:昭和31年/1956年2月・四季社刊『酒徒交伝』)

 直木賞の選考会全体を覆っていた、そういうやる気のなさが、事務係をしていた永井さんにも自然と伝播した、だから直木賞に冷たくなった(?)というだけなのかもしれません。

 にしても、です。昔の直木賞を調べれば調べるほど、いつも日陰で、そんなに相手にもされない直木賞の姿を目にすることになってしまいます。やっぱ今の直木賞だけ見ているほうが、気分が上がるのは間違いなんですが、日陰だった頃の直木賞をさびしく鑑賞するのも、それはそれで味があっていいじゃないですか。ほんの一コマだけでも、そういう雰囲気を残しておける選評という存在は、なかなか重要だな、と改めて思わされるところです。

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2025年6月 8日 (日)

「九州文学の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に読んだ」…瀧井孝作、第10回直木賞の選評より

 第10回(昭和14年/1939年・下半期)の直木賞は相当モメた、と言われています。

 あまりにモメすぎて、本来選評が載るはずだった『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号には間に合わず、とりあえずそのときはアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の選評だけが掲載されて、翌月4月号に直木賞だけの選評がこっそり公けにされたという、なかなかいわくつきの回でした。

 「いわく」になってしまった最大の原因は、この回から直木賞の選考は、直木賞委員だけじゃなくアクタ何トカ賞というどうでもいい賞の委員も含めて行われたことにあった。と、これも後世にまで語り継がれています。

 大衆文芸? そんなクソみたいな分野のことはオラ知らね。と、ツバを飛ばして馬鹿にした委員はいなかったとは思いますけど、何がいい大衆文芸なのか、何が直木賞にふさわしいのか、議論紛糾、委員のあいだでまったくまとまらないまま、けっきょく直木賞は授賞なしに落ち着いてしまいます。

 まったく、よけいな連中が選考に加わったからだ、と当時の直木賞ファンたちが怒り狂った。……というウワサは聞いたことはありません。ただ、船頭多くしてナンとやら、人が増えればそれだけまとまりづらくなるのは、当然といえば当然です。

 で、この先数回ほど、直木賞の選評なのにアクタ何とか賞の委員が文章を書いている、という異様な光景が展開されることになりました。今週はそのなかでも瀧井孝作さんの直木賞選評から、「え。そんなことも直木賞のほうに書いちゃうんだ」と全国の直木賞ファンが目を点にした、関係ないっちゃ関係ないハナシを引かせてもらいます。

 こんな文章です。

「ぼくはこれまで大衆文藝はよみ馴れず、こんど初めて勉強して讀んだが、右の候補作品(引用者注:岩下俊作「富島松五郎伝」、堤千代「小指」、宇井無愁「お狸さん」、松坂忠則「火の赤十字」、大庭さち子「妻と戦争」)では、「宮島(引用者注:原文ママ)松五郎傳」がやはり一番感情が深く殘つてゐる。作中人物が自然な人間らしく呼吸してゐる感がある。ついでに、九州文學の勝野ふじ子氏の「蝶」といふ小説を芥川賞選の折に讀んだが、「蝶」は、女學生上りのフラツパー振りが出てゐて、これは大衆文藝とすれば面白いものだらうと――純文學の肌ざはりではない筆だから――よみ乍ら考へたが、結末でイヤになつた。その結末は前のフラツパー振りの性格を全部打消す仕組で、折角の性格がゆうれいの如く消失せて、この手法はヘタ糞だと思つた。そして氣味のわるいものがあとに殘つた。この結末で作中人物が人間らしいのは隣家の母娘だけで、主要人物は悉皆お化けのやうな氣がした。あんんまり諄く作りすぎてあるからだ。讀後に、人間らしいものが素直にまつすぐに來る小説でないと、ぼくはイヤだ。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号「大衆文學に就て――直木三十五賞経緯――」より)

 選考委員として自分はどんな小説を評価するのか。たしかにそれを例示している箇所ではあるので、直木賞の選評として全然見当違いのことを言っているわけじゃありません。

 だけど、それを語るときの例として、直木賞の候補作じゃなくてアクタ何とか賞の下読みのときに読んだ小説をあえて持ってくる、というのは何なのか。直木賞を馬鹿にしてんのか。これだから、いまでも直木賞ファンのなかに瀧井さんを嫌う人が多い、というのもうなずけるわけです。

 いや。嫌っている人がいるのかいないのか、ワタクシは知りませんけど、前号の『文藝春秋』3月号に載った芥川龍之介賞経緯のほうでは、勝野ふじ子さんの「蝶」について一行も批評を費やしていないのに、なぜか直木賞の場を借りて、別の文学賞の予選で読んだ小説の感想を書いちゃうんですから、おうおう、ようやってくれたな、という感じです。

 それはそれとして、いきなり直木賞の選評に書かれた勝野ふじ子さんのことです。

 むさくるしい『九州文学』のなかでは珍しかった女性の書き手で(というか当時はどこの同人雑誌でも女性の数は少なかったかもしれません)戦争中の昭和19年/1944年に29歳で亡くなってしまいます。残された作品は少なく、それらをすべてまとめて1冊にした『勝野ふじ子小説全集』(平成5年/1993年7月・K&Y Company刊)が出たのは、いまからもう30年ほど前のハナシです。

 「解説」を三嶽公子さんが書いています。勝野さんの生涯を知るにはとてもためになる素晴らしい解説なんですが、もちろん、それを読んでもどこにも直木賞のナの字も登場しません。当たり前です。勝手に瀧井さんが、ついつい筆が滑った、って感じで直木賞のほうで言及しただけのことですからね。勝野さんと直木賞。別に関係はありません。

 関係はないはずなんですけど、しかし宮崎の文学者、黒木淳吉さんがこんなふうに書いているのは、いったい何がどうしたんでしょうか。昭和59年/1984年、小倉で開催された「九州文学の歴史展」を見ての感想の部分です。

「中でも初期の昭和十四年ころの(引用者注:『九州文学』の)隆盛はすばらしいものがあった。たとえば、芥川賞候補に阿蘇藤蔵、矢野朗、劉寒吉、原田種夫の四氏、直木賞候補に勝野ふじ子、岩下俊作(富島松五郎伝)、山田牙城の三氏と、七人の候補作家が数えられる。」(昭和61年/1986年3月・鉱脈社刊、黒木淳吉・著『宮崎文化往来』所収「雑誌の回顧展と笑顔と」より)

 うっ。直木賞候補として勝野さんの名前が堂々と挙げられている……。しかも山田牙城さんまでがなぜか加えられている……。

 何だか、いま我々が見ている直木賞の歴史とは別の、まったく違う事実が、黒木さんの見た歴史展では紹介されていたのかもしれません。ほんとにそうなら、それはそれは貴重で面白いんですが、勝野さんとか山田さんとかが、うるせい、こちとら純文学を書いたんだ、だれが直木賞だ、ふざんけな……と怒ってなきゃいいなとも思います。

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2025年6月 1日 (日)

「「破船」当時の私の姿をさえ、涙ぐましいユーモアの中に、点出した事すらあるように憶えている。」…久米正雄、第6回直木賞の選評より

 直木賞の選評なのに、直木賞とは関係ないことが書いてある。

 ……と、そうは言ってもさすがにまったく関係がないと言えるのか、書いている選者本人のなかでは、その回の直木賞の選考から派生して、あるいは連想を働かせて書かれたものでしょうから、まったく関係がないと断言できるものは、さすがにそれほどはないような気がします。今回取り上げる選評も、多少は直木賞とつながりがあります。

 ときは第6回(昭和12年/1937年・下半期)の直木賞です。大衆文芸プロパーの新進作家を見まわしても、賞をあげるにふさわしい人が見当たらないな、と選考委員みんなが思っていたところ、「直木賞は、いわゆる大衆文芸畑の外にどんどん目を向けていくべきだ」という意見の急先鋒、大佛次郎さんが、純文芸の作家と見られていた井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』を見つけてきて、こういうものにこそ直木賞はふさわしいんじゃないか! と一席ぶって授賞が決まったんだそうです。

 選評は『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号に載りました。病床にあって欠席した三上於莵吉さんを除いて、選考委員7人、そのうち菊池寛さんは「話の屑籠」のほうでその選考に触れ、残る6人は「直木三十五賞経緯」としてその選評を発表しています。

 どうして純文芸でがんばっている立派な井伏に、クソみてえな大衆文芸の賞が贈られなきゃならねえんだ。というような、かならず外野から飛んでくるに違いないツッコミに、各人それぞれ、井伏さんに直木賞を贈る理由をつらつら書いています。どんなことにも根拠はあるもんです。

 そのなかで今週取り上げたいのは久米正雄さんの選評の一節です。直木賞と井伏さんへの授賞のことを語っているんですが、その合間合間に、ふっと脇道にそれたハナシを差し挟んでいます。

「「ジヨン萬」(引用者注:「ジョン万次郎漂流記」)は、前に書いた「青ケ島」(引用者注:「青ヶ島大概記」)などゝ共に、井伏君が純文學として書いたものであるが、其時代小説としての興味も、大衆性を含んでゐるばかりでなく、此の位の名文は、當然此の大衆文學の世界に、持ち込まれなくてはならぬものである。井伏君としては、或ひはかう云ふラベルを貼られる事は、厭かも知れないが、然しレツテルラベルは、其人の眞價には毫も關係なく、寧ろかう云ふ場合は、名譽と思つて貰はなければならない。尾崎君(引用者注:尾崎士郎)の「人生劇場」をも、大衆文學と思つてゐる私は、君がそんな偏見に囚はれず、視野を廣くし、本來の稟質を伸ばして、是を轉機に、「意識的」にでも其處へ進んで呉れたならば、地下の直木は莞爾たる事勿論、日本大衆文壇のために、どんなに愉快な事か分らない。此の外に君には、現代ユーモア小説の一手があり、是も純文學誌に載つて、――いつかは雑司ケ谷の墓地を描いて、「破船」當時の私の姿をさへ、涙ぐましいユーモアの中に、點出した事すらあるやうに憶へてゐる。――相當の定評はあるものだが、それとてもつと尻の穴の廣い世界へ、大手を振つて出た方が、もつと文學的効果があるに違ひない。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号「直木三十五賞経緯」より)

 最後のほうの「――」で囲んだくだりのところは、別に書かなくたって成り立ちます。それをわざわざ書いてしまう久米さんのお茶目さが、きっとこの人の人柄なんでしょう。

 作品名は挙がっていませんが、井伏さんが雑司ヶ谷墓地の一景を描いた作品、ということになると、おそらく「喪章のついてゐる心懐」のことを言っているものかと思われます。初出は『行動』の昭和9年/1934年2月号で、直木賞受賞からさかのぼって4年ぐらい前の作品です。

 「喪章の〜」では、友人だった青木南八さんが雑司ヶ谷の墓地に眠っている、というハナシから、夏目漱石さんのお墓の話題に移ります。漱石さんが死んだのが大正5年/1916年12月、そのとき、とりあえずの墓標が霊園内につくられましたが、一周忌を機会に園内で墓所も移して、立派な墓石をたてることになり、そのお披露目が大正6年/1917年12月に行われました。そのとき、早稲田大学に入ってまもなくの学生、井伏さんも、様子を覗きに行った、という回想になっています。

 ずっと時代がくだった昭和40年/1965年には『漱石全集』(岩波書店刊)第一巻の月報に「五十何年前のこと」というのを井伏さんが寄せています。そちらには、当時、雑司ヶ谷を散歩コースのひとつにしていた井伏さんが、たまたまお墓のあたりを歩き過ぎようとしたところ、何やら人が集まって騒がしく、近づいてみたら漱石一周忌だったとのこと。そこに集まっていた芥川龍之介さんの顔を認識していたり、女学生らしい人が赤木桁平さんの存在をわかっていたり、「喪章の〜」の記述とはいろいろ違いはありますが、いずれにしてもそこに久米正雄さんの姿が出てくるのは共通しています。

 で、問題なのは久米さん自身が読んだはずの「喪章のついてゐる心懐」のほうです。久米さんの姿はこんな表現で記されています。

 「新しく見える背広を着て、歩くとき大股に足を踏み出すのが特徴」「墓前に進み出たとき、見物していた女子大学生はひそかにその光景をカメラで撮影し、「静かなる荘厳ですわね」と連れの女に囁いた。」

 ……とまあ、これだけのことなんですけど、久米さんと漱石の娘、筆子さんとのあいだの結婚バナシが破断となったのが、ちょうど一周忌を迎える直前のことだった、墓参する久米さんの心境おだやかならざるものがあった、というその場面に、若き日の井伏さんが出くわしたわけです。

 しかし、「喪章のついてゐる心懐」を読んで、そこに何がしかのユーモアを感じたのは、当時の人たち特有の感覚なのか、よくわかりませんけど、いま読んでもこの一作にどんなユーモアがひそんでいるのか、ワタクシにはピンと来ません。これを井伏流現代ユーモア小説のひとつの例に挙げたのは、単に久米さんが、おれのことを書いてくれた作品があるんだね、おれもちゃんと読んだんだよ、と言いたかっただけじゃないのかと勘ぐりたくもなります。

 ともかく漱石さんの一周忌のときには、雑司ヶ谷の墓地にはジョン万次郎さんのお墓はなかったそうですが、大正時代に墓園のなかに移されて、首尾よく漱石・ジョン万ふたりが同じ土地の下に眠ることに。それが十数年たって、『ジョン万次郎漂流記』を直木賞の一つに選べたのですから、久米さんにとっては、奇縁も奇縁のめぐり合わせだったでしょう。井伏鱒二さんがその懸け橋となり、そのことを記すにあたって選評というかたちで直木賞が場を提供できたのだとしたら、直木賞ファンとしてもうれしいことです。

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2025年5月25日 (日)

「市街では戒厳令が敷かれてゐた。」…白井喬二、第2回直木賞の選評より

 直木賞の歴史のなかで、伝説の選評、と言われるものはいくつかあります。

 まあ直木賞ごときの、たかが数十年の短い歴史で、伝説もへったくれもないんですけど、ほとんどの人が直木賞の受賞者とか、そのきらびやかとかに興味はあっても選評なんかに興味をもたない、と言われつづけて90年。そのなかで多くの人が、好んで引用してきた選評があります。

 はじまりもはじまり、第2回(昭和10年/1935年・下半期)のときに白井喬二さんが書いた選評の一節です。

 おそらく白井さんがどんな作品を推奨し、どんな姿勢で直木賞に向っていたのか、知っている人はいないと思います。ワタクシも知りません。しかし、第1回(昭和10年/1935年・上半期)~第16回(昭和17年/1942年・下半期)の8年の選考委員生活のなかで、大衆文芸畑だけでなく、純文学……とくに芥川賞に興味をもつような変人たちにまで、なぜか白井さんの選評はたくさん取り上げられてきました。

 そして、その一節は、直木賞の候補作・候補者に対する感想や批評とは、まったく関係がないというオマケつきです。選評というのは、選考のことを書いていないほうがよっぽど人に注目されるのだな、と広く世間に知らしめた(?)代表的な一例でもあります。

 こんな文章です。

「市街では戒厳令が敷かれてゐた。新聞の號外、ラヂオをとほして刻々の實状を気遣ひながら、直木賞のことがフイフイと頭の中を去来した。彼の楠木正成や大阪落城の中にふんだんに現はれる戒厳令風景――さうした関係かも知れない。」(『文藝春秋』昭和11年/1936年4月号「直木三十五賞経緯」より)

 とくに冒頭の二文は、第2回の直木賞が……というより第2回の芥川賞が昭和11年/1936年に起きた二・二六事件の最中に選考会議を開いていた、ということをよりナマナマしく伝えるために引かれたりします。

 なぜか。この回の選考経緯のなかで、一度目の会合がまさに二・二六事件が発生した2月26日に開催されたことを伝える文章は、末尾の「委員会小記」にある「第一回芥川・直木賞委員会を、二月二十六日二時よりレインボー・グリルに開く。恰も二・二六事件に遭遇したので、(引用者後略)」うんぬんという箇所以外、白井さんの選後評にしか登場しないからです。

 芥川賞のほうで選評を寄せた人は7名います。佐藤春夫さん、久米正雄さん、室生犀星さん、川端康成さん、瀧井孝作さん、小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、そのうち誰かが選評内で二・二六に触れていれば、さすがに芥川賞ラバーの諸氏たちも、そちらを引用したと思いますが、誰もそんなことは一言も書いていなったので、しかたなく直木賞のほうの、白井さんの文章を引かざるを得なかったのでしょう。

 そんなことでしか注目されない直木賞というのも、悲しい存在ではありますが、直木賞はだいたい昔からそんなもんです。

 それはそれとして、白井さんの選評のことです。

 昭和11年/1936年2月26日(水)14時から、先のとおり東京市麹町区内幸町の大阪ビル内「レインボー・グリル」というレストランで、直木賞の第1回会合が開かれます。出席者は、直木賞から白井喬二さん、吉川英治さん、両賞かけもちの小島政二郎さん、佐佐木茂索さん、芥川賞から瀧井孝作さん、室生犀星さんの計6人です。

 二・二六事件のうち、すでに高橋是清さん、斎藤実さん、渡辺錠太郎さんの自宅が襲われ、首相官邸を一団が占拠し、東京の各所には武装兵がウロウロして、14時ごろには文春=レインボー・グリルのある辺りも相当普段と違う状況だったはずですが、『文藝春秋』同号の「社中日記」で、社員の大草実さんが当日15時まで二・二六事件のことをまったく知らなかった、とイジられているように、委員が集合した段階では、いったいいま何が起きているのか、知る人はいなかったものと思います。まだ戒厳令も敷かれていません。

 その日の夜、彼らが解散したあとで、政府のなかですったもんだの議論の末に戒厳令の施行が決められて、明けて27日に施行されます。直木賞の第2回委員会はそれから約1週間後の3月7日(土)16時から、同じくレインボー・グリルで行われ、ここで本格的な議論が交わされました。直木賞の委員は、白井さん、吉川さんの他、大佛次郎さん、菊池寛さん、久米正雄さん、佐佐木、小島の両名の7人出席。欠席は三上於菟吉さんただひとりでした。風邪を引いていたんだそうです。

 この議論を通じて、ほとんど鷲尾雨工さんに授賞することが決まったと伝えられています。ただ、芥川賞のほうがどうも揉めたらしく、この日、二つ揃っての授賞発表とはならずに、結局、3月12日(木)になって、直木賞は鷲尾さん、芥川賞は該当者なしと発表されました。白井さんの選評は2回目の会合から発表までの期間に書かれたものと思われます。

 3月7日~12日の期間ということは、二・二六事件が起きてから首謀の青年将校たちがぞくぞくと逮捕されてとりあえずの鎮圧を見たのち、ということです。それでもわざわざ、選評をそこから始めるくらいですから、鎮圧されたあとも、二・二六事件は一般生活、あるいはジャーナリズム界隈の人にとって、強く影響を与えていたんだろうな、と思います。

 ……思うんですけど、それが直木賞の選考に何か影響を及ぼしたのか、と考えると、別にそういうものはなかったようです。直木さんの作品のふしぶしに、戒厳令を想起させるものがあったからといって、鷲尾さんの『吉野朝太平記』を推奨する直接的な要因にはならなかったでしょうし、むろん芥川賞のほうだって、授賞者を出せなかったのは二・二六事件があったせいじゃありません。

 いうなれば、直木賞ともう一つの賞にとって、二・二六事件は大した関係がない。ということなんですけど、白井さんがその関係ないことを選評に書かなかったら、(ワタクシを含めて)のちに生まれた者たちが、わざわざ両賞と二・二六を結びつけて文章に書く機会は、かなり減ったに違いありません。白井さんの選評のなかで、後世にまで残る文章が直木賞とは関係ない部分だった、というのは、選評というものの面白さを如実に示しています。

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第19期のテーマは「選考とは関係のない直木賞選評」。作品を評価するばかりが選評じゃないぜ、と世に知らしめた文章を取り上げてみます。

 このブログを始めたのは平成19年/2007年5月6日です。それから18年が経ちました。

 どうしてブログなんか始めようと思ったのか。すでにそのとき「直木賞のすべて」というサイトをつくって7年ほど経っていましたが、毎日毎日データベースをつくっていても、直木賞については知らないことがたくさんある。もっと直木賞のことを調べていこう、調べるだけだと忘れる一方でなので、少しずつ書き残しておこうと思い立った……んだと思います。正直ブログを始めた理由なんか、まったく覚えていません。

 で、一週に一回ずつ書きつづけ、直木賞が決まる前後には追加のエントリーをアップなどしたりして、こないだ記事数が1000本を超えました。18年で1000本。うーん、これだけやっても、直木賞について詳しくなったという実感が全然わきません。ほんとに無駄な時間を過ごしてきたな、と思います。

 いやまあ、そんなことはどうでもいいんです。全人類にとって無駄であっても、ワタクシひとりが楽しく過ごせればそれでいい。……ということで、この5月からまたテーマを変えて、どこかで直木賞と結びつくハナシを書いていきたいと思います。

 令和7年/2025~令和8年/2026年の一年間は、改めて直木賞の選評を読み直してみることにしました。

 直木賞には毎回、選評が書かれます。文学賞と呼ばれるものの選評のなかで、最も面白い部分はどこでしょうか。それは、候補になっている作品とか作家とかにはあまり関係ないことが書かれているところです。

 誰の、どの作品が、どういうふうによくて、どういうふうに悪いのか。自分はそれに対してどう感じ、どんな評価を下したのか。選考委員たちの意見をうかがい知るのが、選評を読む楽しみなのはたしかですけど、実際には、そういうハナシとは関係がない、選者のエッセイふうな、あるいは詩的な、あるいは単なる無駄バナシのような部分が、直木賞の選評には数多く記されてきました。

 それをいまさら取り上げたところで、何ひとつ文学に資するものはありません。無駄中の無駄です。しかし、そういう選評に出会うとワクワクしちゃう自分もいます。ええい、文学なんて知ったことか。おれは直木賞の全体、細部、そのすべてが楽しいんだ。ということで、これから一年間、過去の選評のなかから、選考とはまず結びつかなそうな箇所をピックアップしていくことにしました。

 まず最初は、ずっとさかのぼって直木賞が始まったころ。誰も直木賞の選評なんて夢中になって読む奴はいない、と当時ですら言われていたときに書かれ、しかしその後「伝説的な選評」にまで格上げされてしまった、一人の選考委員の選評から始めます。

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2025年5月18日 (日)

清水正二郎…直木賞から声がかからず、エロ小説の帝王になったところで、改名という大勝負に打って出る。

 いつまでやってもラチが明きません。まあ、こんなブログは始めたときから、絶対にラチが明かないことが確定している、と言えばそうなんですけど、「直木賞と別の名前」のテーマもだらだらやって一年間。今週で終わりにしたいと思います。

 で、せっかく最後なので、パーっと陽気に行きたいな、と思うんですけど、直木賞の歴史に現われた作家で、明るくて華があって、しかも別の名前での活動も目覚ましかった……となると、どうしてもこの人を取り上げたくなるのは自然でしょう。〈清水正二郎〉さんです。

 困ったときのシミショウ頼み、うちのブログではもう何度も何度も、しつこいほどに登場願いました。似たようなハナシをこすりすぎて、別に新たに書けるような情報もないんですけど、直木賞を受賞したときの名前がある、それとは違う別の名前もスゴい、という対比の面でも、シミショウさんの例は明らかに直木賞史に残る代表的なエピソードです。いいかげん、この人ばかりに頼りっきりで申し訳ないんですが、やはり取り上げないわけにはいきません。

 戦争中にはいわゆる外地で時を過ごし、終戦とともにひっとらえられて、苦しい苦しい抑留生活を送ったあと、昭和22年/1947年に命からがら復員すると、くそーっ、この経験を無駄にしてなるものか、という生来の負けん気だましいを発揮して、吉村隊事件、いわゆる「暁に祈る事件」の証言者として突如として世に出ます。

 何といってもシミショウさんには、現実のことがらにゴテゴテと脚色を乗っける、嘘つきの才能、というか物語を語る力がありました。さんざんツラい思いをしてきたけれど、男一匹、腕二本、文章を書いて名を上げんと、小説の世界に飛び込んで、昭和30年/1955年下期、30歳のときに「壮士再び帰らず」で第7回オール新人杯を受賞。懸賞のひとつでもとってなきゃ参加資格がない、とも言われた大衆文芸の同人雑誌『近代説話』の創刊同人のひとりとして名を連ね、以来、直木賞、直木賞、おれは直木賞をとるんだ、とウワゴトのように繰り返しながら、ぶんぶんとペンを走らせます。

 ただ、これと合わせて、シミショウさんは作家としての顔以外に、有名なふれこみで知られるようになります。源氏鶏太さんの「精力絶倫物語」のモデルとなった、要は一日に何度も女性と交わらないと生きられない、セックス・シンボル(といっていいのか)としての一面です。

 書く作品がよかったのなら、そういう悪目立ちする枝葉の部分は、直木賞とれる・とれない、とはあまり関係なかったかもしれません。ただ、シミショウさんは運がいいことに……いや、運が悪いことに、同じ『近代説話』同人がぞくぞくと直木賞の候補になって、落とされたり受賞したりいるなかで、まるでその戦線からは蚊帳の外に置かれてしまいます。なぜこの時期、シミショウさんが一度も候補に挙げられなかったのか。正直、理由は不明です。

 それでも人間、ペン一本で食っていくと決めたからには、注文があれば読者を楽しませるために何でも書くぞと鼻息荒く、とくに多くの人に喜ばれるエロティックな方向性に無類の文才がギラギラときらめき、書くは書くはの大回転、昭和44年/1969年までの10数年で、およそ500冊はエロの本を書きまくった……と言われます。だれもその数を正確に数えた人はいないはずですけど、少なくとも100冊、200冊は確実に出版されていたようです。

 ところがこのままで満足するようなタマではありません。安定した物書き稼業じゃなく、おれが欲しいのは、もっと別のことなんだ、と思いを決めると、それまでのシミショウ・ワールドをバッサリ封印。世界を放浪する旅に出て、その成果を古巣の『オール讀物』に持ち込んで採用されたのが昭和52年/1977年1月号の「父ちゃんバイク」。このとき、まったく生まれ変わったことを知らしめるために、別のペンネームを使い始めます。

 名前を変えたことがよかったのか。変えなくても同じだったのか。こればっかりはたしかなことは言えません。すべては作品本位で、誰がどんな状況で、どこの出版社から発表したものか、なんてハナシは文学性とは関係がないですし、直木賞の候補になるかならないか、とるかとらないかは、そんな卑俗なことに左右されるはずがないじゃないか!

 ……と言い切れる人は、まずこの世の中にはいないでしょう。少なくともワタクシは言えません。シミショウさんが再起を計った作品集『旅人よ』(昭和56年/1981年5月・光風社出版刊)のうちの、二つの短篇で、あれほど恋焦がれて手の届かなかった「直木賞候補」に選ばれてしまったのは、結局のところ、人と人との縁の大切さ、あるいは直木賞ならではの話題づくり、といった風合いを感じないではいられません。

 というのも、はじめてシミショウさんが直木賞の候補になった第85回(昭和56年/1981年・上半期)、タレント議員、青島幸男さんの候補入りと受賞、という多くのマスコミが沸き返ったこの回ですら、シミショウさんが候補になったこともそれに並ぶ(?)話題だった、と言っている人がいるからです。

「今回第八十五回直木賞の選考過程で浮上した胡桃沢耕史氏(56)は、かつて“絶倫作家”の異名をとりエロ本五百冊をもとにした清水正二郎氏の生まれかわりなのだ。

胡桃沢耕史氏の「ロン・コン〈母の河(メコン)〉で唄え」は最後まで競り合い、結局、青島幸男氏に決まった。「しょうがねェや」という無念の“シミショウ”こと清水正二郎氏だが新しいペンネーム、胡桃沢耕史氏に大変身するまでは苦節の歳月があった。

(引用者中略)

『近代説話』時代からの友人・寺内大吉氏はいう。

「(引用者中略)これからは胡桃沢耕史を含めてシミショウであり、シミショウを含めて胡桃沢なんでね。その全体が評価されていくと思いますよ」」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年7月31日号「直木賞もう一つの話題、胡桃沢耕史氏の変身譚」より)

 まるで直木賞には遠いと思われたセクシーの帝王シミショウが、ほんとに名前を変えたことで直木賞に振り向いてもらえたのなら、それはそれでハナシとしては面白いです。小説だけでなく生き方そのものでも人を楽しませようとしたシミショウさんが、一世一代の大勝負に打って出た改名劇。もし最終的にそれが失敗したら、それはそれでシミショウさんは暴れ回って話題をさらに振りまいたでしょう。でも、うまく行ってよかったなと思います。

          ○

 まあ、こんなブログを書いていても全然ラチが明きません。

 どうせラチが明かないのなら、ワタクシは直木賞のことを考えつづけて人生を終えたい。ということで、来週からはまた違ったテーマで、直木賞に多少なりとつながりそうなことを書いていきたいと思います。

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2025年5月11日 (日)

野原野枝実…二度の改名を経て、最初にロマンス小説でデビューしたときのペンネームに、あえて戻してみせる。

 「直木賞と別の名前」とテーマを決めて一年間書いてきました。相変らず、ぜんぜん直木賞と関係ないじゃん、みたいなハナシばかりですし、ネタも枯れ果ててきたので、このテーマもあと少しで終わろうと思います。

 で、終わる前に、やっぱりレジェンド級の人を取り上げておかないと、どうにも締まりがつきません。今週は、直木賞に現われた「別の名前」界のレジェンドのおハナシです。

 ……とか何とか言いつつも、人によっては「どこがレジェンドなんだ」と怒り出すでしょう。いまでも現役バリバリ、直木賞では選考委員を務めている現存の作家だからです。

 有名な人なのでWikipediaにもありますし、何ならそこには「ペンネーム」なる項目まで立っています。よほどこの作家にはペンネームのエピソードが付いてまわる。という意味でもレジェンド級に違いない、と強弁しておくことにします。

 ペンネームの変遷はたしかに相当独特です。まず本名がある。シナリオ養成講座に通ったものの、そちらではモノにならず、小説を書いてサンリオロマンス賞に応募したのが昭和59年/1984年です。このとき自ら付けたペンネームがのちのち江戸川乱歩賞をとってよく知られる名前になるんですけど、『熱い水のような砂』(昭和61年/1986年2月)、『真昼のレイン』(同年7月)とサンリオニューロマンスとして出版されたあと、改名を余儀なくされ、〈桐野夏子〉として『夏への扉』(昭和63年/1988年3月)、『夢の中のあなた』(平成1年/1989年1月)と双葉社の双葉レディース文庫で本になります。

 しかし、どうやらその名前も本人としては意に沿わず、再びの改名を決断します。付けた名前が〈野原野枝実〉で、これは森茉莉さんの小説『甘い蜜の部屋』(昭和50年/1975年8月・新潮社刊)の登場人物からとられているんだそうです。読み方も原作にあるものを踏襲して「のばら・のえみ」となっています。

 何か『甘い蜜の部屋』に強い思い入れがあったわけじゃなく、たまたま小説のなかに出てくる名前をパッと付けた、という説もあります。もうここら辺の理由は、当時の彼女の心境次第で、よそからとやかく推測できるものでもありません。『恋したら危機(クライシス)!』(平成1年/1989年8月・MOE出版/MOE文庫)を皮切りに13冊の小説を〈野原野枝実〉名義で書きました。

 ハナシによれば、おのが手で小説を生み出してお金を得る仕事は、自分に合っていそうだ、とこの辺から思い始めたそうです。と同時に、むくむく不満と欲求が募ってきた、と本人の回想に書いてあります。

「ジュニア小説は読者が若いということもあって、どうしても内容に飽き足らなかった。コミックの原作も、空想を自由に遊ばせられるという意味では楽しいが、すべて自分の物ではないという不満足感が伴う。自分が読みたいと思える小説を自由に書いてみたかった。」(平成15年/2003年9月・メディアパル刊『そして、作家になった。 作家デビュー物語II』所収 桐野夏生「自由に書きたい」より)

 そうして自分が書きたいものをのびのびと書いた、というのが「冒険の国」と題された原稿で、昭和63年/1988年の第12回すばる文学賞最終候補に残りました。

 なるほど、すばる文学賞の締切は昭和63年/1988年4月30日ですので、MOE文庫から〈野原野枝実〉さんの本が出る前です。年譜を見ると、昭和61年/1986年ごろから「ロマンス小説」の依頼が増え、レディース・コミックの森園みるくさんとのコンビもスタートする、とあります。おそらくこれらの仕事が軌道に乗るかなり早い段階から、もっと自由にものが書きたい、という衝動に駆られたんでしょう。自分が書きたいものを書く。それがお金になれば、なお素晴らしい。ほんとにその通りです。

 それで平成5年/1993年、江戸川乱歩賞に応募したその原稿で、見事に受賞ということになるんですけど、ここで元々自分が最初につけたペンネームを、もう一回復活させたところに、本人の気概を感じないわけにはいきません。

 ジャンルが違う小説で再出発をはかるとき、また別の筆名を付ける、という例は一般によくあることかと思います。直木賞でも、そういうふうに別名義で再デビューした人が、候補になったり受賞したり、ということは決して珍しくありません。

 しかし、〈野原野枝実〉さんの場合は違います。サンリオのロマンス小説で活動していた昔の名前を、もう一度、名乗ったわけです。あたしゃ、自分の付けたい名前で自分のやりたいように小説を書いていくのさ。と、言ったかどうかはわかりませんけど、はたから見ている側にしてみれば、何がしかのこだわりを感じないではいられません。

 ペンネームの変遷だけでも、作家の覚悟を感じさせてしまう。すでにもうレジェンドです。

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2025年5月 4日 (日)

堀江林之助…生まれ持っての小児麻痺。それでも単身上京してラジオドラマの世界で(地味に)名を残す。

 何週か前に奥村五十嵐さんのことを取り上げました。

 直木賞の初期も初期、当時は最終候補に挙がる前にどういうふうに予選が行われたのか、ポロッと書いちゃう委員がいたおかげで、直木賞がどんな作家やどういう作品を、予選のところで対象にし、上に引きあげたり地に落としたりしていたのか、あとの者にも伝わる仕掛けになっています。残念ながら現在は、直木賞の運営をしている人たちの頭の中に、「直木賞のあれこれを後に残そう」という感覚があるようには見えません。おそらく何十年か経って、平成・令和の直木賞の予選に挙がった作家や作品のことを知りたいと思っても、まずほとんどわからないでしょう。悲しいハナシです。

 とまあ、いまのことは、どうでもいいんです。今週もうちのブログは、昔むかしの、覚えていようが忘れちゃおうが、どうでもいい直木賞に、ほんの一瞬だけ顔を見せた作家について書いてみようと思います。

 第11回(昭和15年/1940年・上半期)、いまから85年も前のとおの昔に、直木賞では何名・何作かの作品が予選の段階で俎上に乗せられたと言われています。

 そのなかで、子供の頃から重い持病をもっていたため、学校にもろくに通えず、独学でものを書き始めた人、……ということになれば、その第11回で受賞した堤千代さんがまず名前に上がりますが、もう一人、似たような境遇ながら不屈のブンガク魂で自らの人生を切り開こうとしている36歳の男がいました。第11回の予選時に挙がったその名前は、ペンネームで、いまとなってはまず無名中の無名の名前なんですけど、本名のほうはそれよりかは多少、歴史に残っているものと思われます。〈堀江林之助〉さんです。

 なんだよ。だれだ、それ。……と、今回もまた、ついついワタクシはつぶやいてしまいますが、直木賞にとっては大恩ある『サンデー毎日』大衆文芸懸賞の入選者のひとりだそうなので、ここは丁重に紹介させてもらいます。

 明治37年/1904年6月、福岡県鞍手郡木屋瀬町の出身。父親は小林儀一さんという人で、何をなりわいとしていたのかは不明ですけど、三男に生まれた〈林之助〉さんは堀江さんちの清光さんのもとに養子に出されます。

 〈林之助〉さんは先ほど書いたとおり、生まれつき小児麻痺を患っていて、自分の足で歩くことがままなりません。学校に通ったという履歴もなく、独学で勉学に励みます。

 その後、何がどうしたのか、昭和3年/1928年で単身上京、これが24歳ぐらいのときです。不自由なからだで、さぞかし苦労したとは思うんですが、そのあたりのことは、もっとくわしい堀江林之助研究者の手にまかせることにしまして、すでに文学のなかでも詩作に興味があったものらしく、昭和のはじめ頃にはそういった詩の作品がチョロチョロ文献に見られます。

 しかしその後〈林之助〉さんは劇作のほうに進みます。昭和12年/1937年に発表した「雲雀」は、〈林之助〉さんが劇作家として界隈で知られるようになった最初期の一作だそうですが、このとき33歳。遅いといえば遅いスタートです。

 と同時に、『サンデー毎日』大衆文芸にも投稿を重ねるわけですが、昭和3年/1928年乙種で〈小林林之助〉という人の「落武者」が当選していて、これが〈堀江〉さんのことだそうです。となると、このとき『サン毎』で当選したことが、彼自身の文学で身を立ったるぜ、の心に火をつけ、単身で上京するきっかけになったのかもしれません。

 東京に出てきてからも、おそらく何度か投稿したものでしょう。そのうち、「燃ゆるボタ山」が昭和13年/1938年上期で選外佳作、「男衆藤太郎」が昭和15年/1940年上期でついに当選を果たします。〈林之助〉さんが唯一、ほんのちょっとだけ直木賞と交わったのが、この「男衆藤太郎」が直木賞予選の作品に入っていたことで、その後、いくつか大衆小説は書きましたが、むしろ〈林之助〉さんが活躍したのはラジオドラマの脚本の分野でした。

 ラジオドラマ。いまでもあります。しかし、大正から昭和の半ばごろまで、ラジオドラマと大衆文芸は、仲のいい兄弟のように密接・密着した世界だったと言われます。〈林之助〉さんは小説も書き、演劇のほうも手がけますが、何といっても数百を数えたと言われるラジオドラマの書き手として、一時代を担ったそうです。不屈の〈林之助〉、活躍の場があってよかったです。

 ちなみに、活躍していた頃の『人事興信録』にはこんな文章があります。

「昭和三年単身上京爾来小説劇作其他主としてユーモラスなる筆致にてヒユマーンなるものを底流せしめ地味な存在を保ち殊に近年は民話劇の分野に一風を拓き昭和二十八年度芸術祭に於ける放送劇「昔話源五郎」は文相より奨励賞を受く」(昭和30年/1955年9月・人事興信所刊『人事興信録 第十八版 下』「堀江林之助」の項より)

 こんなもの、だいたい自分で書くものだと思うので、おそらく〈林之助〉さん本人による自分評でしょう。「ヒユマーンなるものを底流せしめ」と、自分で自分の作品を解説するのもこっ恥かしかったんじゃないかと想像しますが、「地味な存在を保ち」、この表現にはハタと膝を打ちました。

 偉い、偉いぞ、〈林之助〉。自分が地味な存在だということを自覚していたなんて。直木賞にはまるでその足跡は残せなかった人ですけど、むくむく好きになりました。

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2025年4月27日 (日)

らもん…27歳の青年が、ふと自費でつくった作品集の、直木賞とのつながり。

 人は誰しも若いころには、文章を書いたり絵を描いたりして自分で本をつくったことがあるものです。

 勝手なこと言うな、そんな経験おれにはないぞ、という方もいるでしょう。ないならないで、それは平和なことですが、ハナシが続かなくなるので、多くの人はそういうことをやっている、として許してもらいたいと思います。

 まあ相変わらず、だんだん直木賞とは関係のない領域に入ってきましたけど、今週取り上げる例も、ほとんど直木賞とは接点がありません。第106回(平成3年/1991年・下半期)、いまから30年以上前に『人体模型の夜』ではじめて直木賞の候補に挙げられると、第109回『ガダラの豚』、第112回『永遠も半ばを過ぎて』がちょうど1年半ごとに予選を通過。しかし直木賞はいつだって時の運で、受賞させることはかなわなかったものの、それでもメディアで大人気の書き手だったので、数多くの仕事と伝説を残し、「直木賞があげることのできなかった人気作家」の一角を占めるに至り、没後なお人々の心をひきつけている……というのが今週の主役です。

 本名は本名で〈裕之〉(ゆうし)という名前を持ちながら、一般的には、かなり印象的なペンネームのほうで知られています。知られていますというか、ワタクシだって、そのペンネームでのお仕事しか知りません。

 で、ものの本によれば、平仮名二文字の、そのペンネームの名前のほうは、もともとは最後に〈ん〉の文字が付いていたそうです。元に別のペンネームがあった、ということでは、「別の名前で活動した人」リストに加えてもいいんじゃないかと思い、取り上げてみることにしました。

 昭和50年/1975年、大阪芸術大学に通っていたときに学生結婚、翌年、働き手でもあった妻が妊娠して、大学を卒業した〈裕之〉さんは印刷会社の「大津屋」で働きはじめます。そこで働いたのは昭和55年/1980年までだったようなので、都合4年ほどに過ぎませんが、そこからコピーライター養成講座に通って広告の世界に目標を向けると、昭和56年/1981年に広告代理店の「日広エージェンシー」に入社、昭和57年/1982年には『宝島』誌に掲載のかねてつ食品の広告ページを担当するようになって「啓蒙かまぼこ新聞」なる誌面を展開。このときペンネームを、本名の苗字と、〈らもん〉から〈ん〉をとったものを組み合わせて使い始めた、ということでそこから数々の伝説が生まれていきます。

 ということで、〈裕之〉さんが〈らもん〉という名前を使ったのは、期間にして2、3年ほどだったみたいです。この名前の由来は、無声映画時代の剣戟スタア〈羅門光三郎〉からとったと言われていますが、よほど本人がこの役者に思い入れがあったのか、あるいは単なる思いつきだったのか。おそらく後者だと思いますけど、その辺はよくわかりません。

 何といっても羅門光三郎といえば、直木三十五さんの代表作『南国太平記』が映画化されたときに、主役の一人に立てられ、大ヒットを飛ばした人物です。当時の大衆文芸は映画という大衆娯楽のおかげでさらに活字文化として勢いを増した、という面は否定できません。そう考えると羅門さんは直木さんにとっても縁があるどころか恩人には違いなく、そこから名前を拝借するとは、なかなかの慧眼だと言えなくもありません。まあ、〈裕之〉さんがそんなことまで意識していたとは思えませんけど。

 〈らもん〉名義でどんな活動をしていたのか。おそらく唯一といっていい発表物が、昭和54年/1979年に自費出版の態で100部ほどつくられた『全ての聖夜の鎖』です。平成26年/2014年7月に復刊ドットコムから新装版として復刊されたおかげで、ワタクシみたいな一般人でも手軽に(?)手にすることができるようになりました。ありがとう、復刊ドットコム。

 中身を読んでみると、三つの短編(掌編)が収められています。いずれも詩的で、幻想的で、それでいて現実の世界が基盤になっていて、どこかの同人雑誌とかではよく載っているような、あるいは文学フリマとかに行けばいまでも売っている人がいそうな、イタイタしさと才能をまぜこぜにしたような作品集です。のちのこの作家の業績を見る上では、間違いなく必読の処女作と言っていいでしょう。

 この〈らもん〉による『全ての聖夜の鎖』は、いまから見ると奇跡的な出版物です。別に自分でもの書きになろうとも何とも思っていなかった神戸の27歳の青年が、ぱっと思いついて書き上げた作品を、自分で印刷物に仕立てようと思ったところも、奇跡といえば奇跡ですし、平成26年/2014年、没後10年して復刊ドットコムが本にしても奇跡。そして、平成12年/2000年に、作者がまだ存命中に、文藝春秋から復刻版を出したのもまた、裏の事情がよくわかりませんが、奇跡だったと言っておきたいと思います。

 このときのあとがきである「二十年たって」から引いておきます。

「その頃おれは印刷屋の営業マンをして、先ゆき自分が文筆でメシをということは考えもしなかった。

野心がない。

その分、ピュアな一冊だといえる。」(平成12年/2000年12月・文藝春秋刊『全ての聖夜の鎖』「二十年たって」より)

 いいですね、ピュア。文学賞をとったとか落ちたとか、そんな世俗的な汚らしさがなくて、すがすがしいです。

 〈らもん〉さんが最後に直木賞の候補になったのが平成6年/1994年・下半期ですから、それから約6年。直木賞とはついに離れた頃のときが経って、直木賞の勧進元・文藝春秋から、直木三十五と縁のふかい羅門光三郎にあやかったペンネームの〈らもん〉名義で、ピュアな処女作が復刊される。一般的には、まあたまたまの偶然だよね、といった感じでしょうけど、直木賞を中心にしてみれば、奇跡的な出来事でした。

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2025年4月20日 (日)

幸田みや子…文章を書いてお金を稼ぐことを選んだ女性たちの、ささやかで希望に満ちた共同名義。

 出版業界に生きている人は、だいたいいくつかの名前を持っています。

 いや、出版業界に限ったことじゃありません。他の世界でも、屋号やら、雅号やら、ペンネームやら、場面や状況に合わせて一人でいくつもの名前を使い分けている人は、たくさんいます。直木賞に関わった人たちも、もちろんそうです。どんな名前で活躍していたのか。こういうものを調べ出すとキリがないんですけど、毎週毎週、直木賞のことに触れていたい人間にとっては、キリがないのは幸せなことです。何といっても時間がつぶせます。

 それはそれとして、直木賞の候補になったり受賞したりする人は、小説だけ書いている人もいますが、そうじゃない人もけっこうまじっています。今週取り上げようと思う人もまたその例にもれず、作家として著名なだけじゃなく、エッセイストとして、あるいはドラマの脚本家として、とにかく仰ぎ見るほどの有名人です。亡くなって40年以上も経ちますが、いまだに関連書籍がたくさん出ています。

 そういう本をチラチラと覗いてみると、この方もまた、本名で売れる前に、いくつか別の名前で活動していたんだ、ということが書かれていました。

 昭和4年/1929年、一家の長女として生まれ、子供のころは父親の仕事の関係で日本各地を転々とします。戦後、昭和25年/1950年に実践女子専門学校を卒業、本人はまだまだ学び足りずに大学に行って学びたがったようですが、親から反対されて、財政文化社に入社したものの、うーん、わたしのやりたい仕事はこれじゃない、と思い悩んだ末に、すっぱり転職して昭和27年/1952年に出版社の雄鶏社に入社します。

 うんうん、これこれ、文章を書いて表現したり、ものをつくったりするのがわたしの水には合っているのよ、と言わんばかりに仕事に張り合いが出て、編集者として働きますが、やがて自分でも組織のなかで働くのではなく、自由な身分でものを書いてみたいと思うようになり、昭和32年/1957年、28歳ぐらいのときに内職で他の会社の雑誌記事なども手がけるようになります。

 本職がありながら、また別のところで仕事もする。……といったところで登場するのが別の名前です。よその仕事を本名でやるわけにはいかない、というところから彼女が考えたのが〈幸田邦子〉という名前だった、ということです。

 〈幸田〉というと、すでに明治以来から有名な作家がいて、またその娘も随筆家として活躍中でした。珍名というわけではありませんが、そう大量にいる苗字でもないからか、〈幸田邦子〉と名乗って名刺を渡すと、幸田文さんのお嬢さんですね、と言われてこともあったと「モンロー・安保・スーダラ節」(『女の人差し指』所収、初出『人間・平凡出版35年史』昭和55年/1980年10月刊)に書いてあります。

 この名前で1年半ほど、『週刊平凡』のアンカー・ライターの仕事をしたそうで、年譜でいうとだいたい昭和35年/1960年ごろのことでしょう。会社勤めでありながら、ライターとして別に収入を持ち、そういったアルバイト代を家族のために使ったりしていたことが、妹・和子さんの回想録にも出てきます。頼りがいのある姉さんです。

 それが昭和36年/1961年に『新婦人』で「映画と生活」というコラムを書く段階では本名を使うようになるんですが、これはおそらく前年に雄鶏社を退社したことが理由なんでしょう。もはや別名を名乗る必要もなく、女一匹、堂々と本名をさらして書いていくぞ、という決意の現われ……と言っていいのかどうなのか、単に本名で書くほうが自然だと思っただけかもしれません。短い〈幸田邦子〉時代はこうして終わりを迎えました。

 そしてもう一つ、その時期に彼女が名乗った(?)別名といって挙げておきたいのが〈幸田みや子〉です。同じ女性ライター仲間と共同で原稿を書くときに使ったもの、だということです。

 その女性ライター仲間、福島英子さん(のち加藤英子)が振り返っています。

「私も向田さんも、そのころは本業は雑誌の編集者で、同時にフリーのライターでもある二足のワラジ組だった。ひと足先にライターになっていた宮坂幸子さん(現・甘糟幸子さん)の紹介で、三人で西銀座デパートの地下にある有料待合室「ブリッジ」で顔を合わせたことだけは確かだが、何を話したのか全く覚えていない。

(引用者中略)

宮坂さんと私は、「ガリーナ・クラブ」という名のグループをつくっていた。あとから向田さんも迎え入れて、三人になった。命名は露文出の宮坂さん。めんどり三羽で、おおいに金の卵を産むつもりだったが、やがて私と宮坂さんはこども(引用者注:こどもに傍点)を産んで、金の卵は向田さんだけのものになった。」(平成11年/1999年8月・文藝春秋/文春文庫『桃から生まれた桃太郎』所収、加藤英子「解説 私が触れた向田さん」より)

 おそらく当時のことは、福島=加藤さんだけじゃなく甘糟さんも回想の原稿を書いていると思います。出版業界に多少なりともおカネや未来があった1960年代。フリーの女性3人がどのように夢をもち、どのように壁にぶつかり、乗り越えていったのか。と、そういうふうに想像するだけで胸が熱くなるところです。

 そもそも三人が仕事のうえで協力して、〈幸田みや子〉という名前を生み出したことが胸アツの青春です。果たして三人で書いたのか、あるいは〈幸田〉さん+宮坂=〈みや〉子さんの二人で書いたのか。このあたり、共同執筆の分担をあとから分析するのは難しいですが、金の卵というか、直木賞の卵が、そんなところにもひそんでいたんだと考えると、読み捨てられる運命にあった雑誌に載っている一本一本のナニゲない記事が、愛おしくなってきます。

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