三ノ瀬溪男…大衆読み物誌の懸賞に送るときに別名を名乗ったものが、そのまま直木賞候補になる。
先日、新しい直木賞が決まりました。
直木賞発表の騒ぎは、基本的には一過性です。ほかにあまたある時事ニュースの例にもれません。ひと晩経てば、もう7~8割の人が興味をうしなっているとも言われ、そのまま時の流れに逆らえず忘れられていきます。
そのとおりです。直木賞のことなんて別に覚えている必要はありません。小説なんて、読みたい人が読めばいいし、読まなくたって大丈夫という、その程度のもんでしょう。直木賞の受賞作だからといって、読まなきゃいけない度合いが上がるわけじゃありません。
で、何が言いたいかというと、直木賞のことに関心を失う人が多かろうがどうだろうが、うちのブログには何の関係もないっす、っていうことです。ワタクシ自身が直木賞についてもっと知りたい、という気持ちは、他人の動向で変わる手合いのものでもありません。今週以降も、ただただ、この無駄に長い歴史をもつ文学賞に、何かしら関係のあるハナシを、ブログに書きつづけていきたいと思います。
さて、今週注目するのは、昭和37年/1962年といいますからいまから63年も前に第46回直木賞(昭和36年/1961年・下半期)を受賞した昔の作家です。
生まれたのは大正6年/1917年ですから、もうじき生誕110周年を迎えようかという人です。昭和のはじめ、少年から青年へと成長していく頃には、もう詩をつくることに夢中で、原稿用紙を埋めては投書雑誌に送りつづけます。その頃、彼にとっては毎月、どこかに自分の作品が載ることのみが生きがいで、それ以外に何の楽しみもなかった、と言っています。いまでも、そういう人はよく見かけます。
ちなみに投書先としてわかっているのは『日本詩壇』とか『蝋人形』とか『若草』とか『文藝首都』とかです。『文藝首都』には昭和10年/1935年4月号の「短篇欄」に「祖父一家」という作品が採用されました。これは、のちに使いつづけることになる本名名義で載っています。
しかし投書ばかりしていても食えるはずはありません。とくに戦争化に向かって社会全体がうめうめと揺れ動いた時期です。昭和13年/1938年、20歳をちょうど越えた頃に軍隊に拾われることになり、そこから断続的に戦地生活を送ることになります。その間、文学への情熱は持ちつづけますが、なにせ発表舞台がどんどんなくなってしまい、こつこつと手帳に歌や句、文章を書き留めて心を癒していたんだとか何だとか。
そんな彼の文学への風向きが変わり出すのは、終戦を迎え、日本が再出発をはかったことが大きかった、と断言しておきましょう。出版界も息を吹き返し、少しずつではありましたが、少しずつ活字の舞台も復活。彼自身も、一兵卒として軍隊生活を長く経験した、ということが生み出す作品にも如実に現われ、その力量が徐々に知られることになります。
このとき、彼の前にあったのが原稿を募集する懸賞制度です。またぞろ昔の投書癖を取り戻すと、書いては送り、名前が雑誌に載っては喜ぶ日々を繰り返します。
以前のように本名で送ったものもあったとは思いますが、この時期に入選、佳作など彼の受賞歴と知られるものの多くは、ペンネームでした。
〈伊勢夏之助〉の名前で応募したのが、昭和24年/1949年『群像』小説・評論募集や、昭和25年/1950年『宝石』百万円懸賞コンクールC級(短篇)など。
〈春桂多〉の名前で応募したのが、昭和27年/1952年『講談倶楽部』の公募新人賞、講談倶楽部賞。
それから同年、伝統ある『サンデー毎日』大衆文芸のほうにも入選を果たし、入選作のなかから選ばれる年間最優秀賞の意味合いがあった「千葉賞」を受賞しますが、そのときは〈伊藤恵一〉の筆名を使いました。
以降、同人雑誌に発表した作品で第27回(昭和27年/1952年・上半期)と第29回(昭和28年/1953年・上半期)の二度、芥川賞候補に挙げられ、おお、大衆文芸だけじゃなくて純文学でもいいもん書くやつがいるぞ、と一部で名を知られるんですけど、彼がはじめて直木賞候補になったのはそのあとです。
昭和29年/1954年、第5回オール新人杯で「最後の戦闘機」が候補に残り、これが佳作に選ばれて『オール讀物』に掲載されると、そのまま第33回(昭和30年/1955年・上半期)直木賞の予選を通過してしまうのです。
ちなみにそのとき、彼は本名ではなくペンネームを使いました。〈三ノ瀬溪男〉といいます。名前の由来はよくわかりません。
応募する先に応じて、とっかえひっかえペンネームを変える。それぐらいのことは多くの人がやっていると思いますが、芥川賞候補入りの経験があるとはいえ、まだ世に出たとは言いがたいこの時期に、まるで本名とは結びつかない名前で直木賞の候補に挙がった。これはかなり稀少な出来事です。
そのことについて、本人はどんなふうに振り返っているのか。ズバリの回想をまだ目にしたことがありません。ワタクシの調査もまだまだ甘っちょろいな、とうなだれるしかしないんですけど、代わりに、当時のことを書いた文章を引いておきたいと思います。昭和28年/1953年ごろ、『文學界』の座談会が終わったあとの場面です。
「同席していた吉行淳之介が私に、
「あんたは純文学と大衆文学を両方書きわけているが、純文学と大衆文学は、発想と文体がどう違うのか、発想は同じで文体が違うのか、よくわからない。どうなんだ?」
と、きかれた。
吉行淳之介が、なぜ私にそんな質問をしたかというと、私は「雲と植物の世界」のほかに「アリラン国境線」という小説が「講談倶楽部賞」に入選、「夏の鶯」が「サンデー毎日大衆文芸」に入選していたからである。
(引用者中略)
私にも、明確な解答は出なかった。(引用者中略)上手には答えられなかった。
「同人雑誌に書く時は、純文学として作品を書くし、『講談倶楽部』に書く場合は、大衆文学として書く。むろん、発想も文体も違う。しかし、断定はできない。」」(平成9年/1997年4月・講談社刊、伊藤桂一・著『文章作法 小説の書き方』より)
これは純文学と大衆文学の書き分けの話題です。ひょっとしてペンネームも、同人雑誌では本名を使い続けていることを見れば、大衆文芸の懸賞に応募するときには、そのままじゃ気分がしっくりしないので、あえて変名をつけていたのか……とも思うんですが、『群像』にも〈伊勢夏之助〉名で出していますし、はっきりとはわかりません。
ただ、同人雑誌に書いた作品で、芥川賞の候補になり、また直木賞も受賞しながら、大衆読み物誌の『オール讀物』には別の名義で書いてそれが直木賞の候補に挙がった、というのは、両者の垣根のそばをいつも歩いていた彼自身の作家的履歴を象徴しているのは、あきらかです。
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