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<title>直木賞のすべて　余聞と余分</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>日本で最も有名な大衆文芸賞「直木賞」の非公式サイト「直木賞のすべて」を、インターネットの片隅で細々と運営しつづけていますが、直木賞に関することだけでブログをやってみたらどんな感じになるか、ちょっと興味がわいたので、やってみます。</description>
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<dc:date>2012-05-20T22:15:12+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/121111999-6c36.html">
<title>佐藤賢一（第121回　平成11年/1999年上半期受賞）　「時期尚早だよ」「順調な人生だね」などと言われて、「違う！おれだって苦労してきたんだ！」と叫ぶ31歳。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/121111999-6c36.html</link>
<description>佐藤賢一。『王妃の離婚』（平成11年/1999年2月・集英社刊）で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。 　よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。 　あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」な...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/05/20/120520.jpg&quot; title=&quot;120520&quot; alt=&quot;120520&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun121SK.htm&quot;&gt;佐藤賢一&lt;/a&gt;。『王妃の離婚』（平成11年/1999年2月・集英社刊）で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」などと呼んだら違和感ありますか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、まあ、アレです。「同じ舞台に立った他の誰よりも地味」っていう意味で、村山由佳さんより桐野夏生さんよりマイナー感を放っていますよね、いまでも。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「デビューの頃というと、あまり明るい思い出がない。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;デビュー作が売れていれば、もとの有頂天を取り戻せたのかもしれない。が、現実は甘くなかった。ぽっと出の新人が簡単に売れたり、話題になったりするものではないと、そういう慰め方も私にはできなかった。同時受賞が村山由佳さんで、その受賞作が今頃になって映画化されるまでもなく、いきなりベストセラーになったからだ。同じ年の純文学のほう、すばる文学賞が引間徹さんだったが、こちらも受賞作が芥川賞の候補になった。今年出た新人として、三人で左右に並んでおきながら、私ひとりが売れず騒がれずに埋没する体だったのだ。」&lt;/span&gt;（『青春と読書』平成19年/2007年2月号　佐藤賢一「苦悶煩悶の二年間」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ははあ。引間さんはどうだったか詳しくありませんが、村山さんを取り巻くビジュアル戦略まじりのスタート・ダッシュこそ、異常だったと思います。「小説すばる新人賞」受賞ぐらいでは、基本、それほど売れないでしょうなあ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　村山さんとの同時受賞だったのが運のツキと言いますか。売れない、目立たない。その状況を佐藤さん、「一度死にかけた」と回想しています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　新人賞を取ったときは、みんな「これで未来が開けた」みたいな気持ちになるわけなんですが、実際この世界って新人賞を取っただけで消えていく人もたくさんいるわけですから。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　僕はそういった新人生き残りレースで、一度死にかけたところがあるわけで、そのときは非常に苦しかったですね。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　そのときはもう苦しい苦しいだけだったんですが、あとで振り返ると「おれはあのとき死にかけたんだな」と。僕は、単行本が出てそれが文庫本になるまで４年かかってるんです。普通は３年なんですが、僕は３年目では生き残れていなくて、その後でやっと生き残れたんで文庫になったんです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;宮崎&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;（引用者注：宮崎緑）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　文庫になることが作家として生き残ったということなのですか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　何冊か続けて出る見込みがないと文庫にはなりませんから。僕はデビューしてから次回作が出るまで２年くらいかかったんですよ。その次回作が何とか出たんで、デビュー作も文庫にしてもらえた。だから、あのときに２作目を出せなかったら作家として死んでたんだなと思いますね。」&lt;/span&gt;（『週刊読売』平成11年/1999年10月10日号「宮崎緑の斬り込みトーク」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;









&lt;p&gt;　４年だの３年だのと、具体的な数字を出して話してくれるところが、ワタクシ、好きです。歴代の小説すばる新人賞受賞者のうち、「死んでしまった」認定された人は誰だったかな、と調べるときには集英社文庫リストを見ればいいので便利です（って、こらこら）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それは冗談としまして。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　新人賞のときだけではありません。直木賞のときも、佐藤さんのかたわらには、きらびやかな女性が立っておりました。多くの人の視線が、隣に向いてしまう事態、パート２です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：桐野夏生と）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;東京会館の記者会見と文藝春秋の社屋で、二度ほど顔を合わせているが、たいへん御綺麗な方であることも手伝って、私は大いに気後れしたことを覚えている。記事や広告等々で何度も写真を拝見していたため、こちらは即座に桐野さんを見分けられた。有名人と会った、と些か興奮したくらいだ。が、桐野さんのほうは私の顔も名前も、全くの初見、初耳という感じだったに違いない。佐藤賢一？　誰だ、それ。記者会見場の衝立に潜みながら、そんな記者さんの言葉を現に私は聞いている。怒るより、苦笑する。無理もない、と思うからである。桐野さんに比べると、我ながら、ぽっと出の小僧の感が否めない。」&lt;/span&gt;（『青春と読書』平成11年/1999年9月号　佐藤賢一「冠の戴き方」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　「佐藤賢一？　誰だ、それ」。……いいなあ、その言葉が耳に入ってきたことを忘れずにおいて、受賞記念エッセイに書きつける姿勢が。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　晴れの舞台で、スポットライトを同時受賞者に奪われてしまう星のめぐり合わせ。さすが佐藤さん、モッてますねえ。そういうとこ、大好きなんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　上記のちょっとした引用でもおわかりのとおり、少なくとも当時の佐藤さんは、ずいぶんと「売れる」「騒がれる」「他の作家と比べてどう」といったことに敏感でした。そして敏感な感覚をインタビューやエッセイなどで披露してくれています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これはワタクシの当て推量というより、佐藤さん自身が語っています。いまはそういうことを考えなくなったが、かつては気にしていた日々があった、と。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「売れるとか、騒がれるとか、他の作家さんと比べてどうとか、そんなことも考えなくなったからには、自信も回復したのだろう。音楽に譬えるならば、純文学はクラシックのようなもの、エンターテインメントのなかでも恋愛小説はポップス、ミステリーはロック、してみると、歴史小説は演歌なのだ。他と比べても仕方がない。苦節十年二十年は当たり前で、すぐには芽が出ない。爆発的に売れるジャンルでもないが、地道に続けてさえいれば、必ずや報われるのだ。」&lt;/span&gt;（前掲「苦悶煩悶の二年間」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　そうであってほしいものだと思います。ほかの同種文学賞に比べて、直木賞はとくに歴史小説や時代小説にも温かい賞ですが、その姿勢がミステリー愛好者からボロクソ言われて歩んできました。苦節ン十年、地道に続けてきました、そんな直木賞は、いま報われていますもんね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……ん？　報われているのかな。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　佐藤さんが直木賞をとるまでの道のりは、「苦節十年」というには短すぎます。しかし、どう見ても部外者に「苦節」と受け取らせてしまう、濃厚な内容のエッセイが、受賞発表の『オール讀物』に載りました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　過去、同誌に掲載された「受賞記念エッセイ」のなかでも、一、二位を争う名エッセイ。といいますか問題作だと、勝手にワタクシは思っています。『オール讀物』平成11年/1999年9月号の「七年間の手帳」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　平成4年/1992年7月、第5回小説すばる新人賞に「傭兵ピエール」が最終候補に残ったところから始まり、平成11年/1999年7月、直木賞を受賞するまで。東北大学大学院生だった佐藤さんが、研究者になるか作家になるか、迷い惑わされながら最終的に作家への道を選ぶ、そんな経緯が描かれています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　登場人物はほとんど仮名です。仮名なんですが、時期と人物関係がわかりやすいように書かれているため、ちょっと調べれば誰が誰だかわかってしまうのではないか、とドキドキさせる読み物になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　カタキ役っぽく書かれている、研究室のＣ教授とか。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：平成6年/1994年）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;四月十五日、大学研究室の新入生歓迎コンパ。退官なされたＡ教授に代わり、研究室のトップになったＣ教授に、皆の前で「作家気取り」と嫌味をいわれる。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：平成7年/1995年）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;六月十六日、Ｅ助教授に呼ばれる。学会報告の予定が反故になる。（以下、メモ欄）私は推薦したんだが、Ｃ教授が、あいつは駄目だと反対してね。理由は髪が長いから。そんな言い種があるか。睨まれていることは前々から感じていたが、はっきり形になるとショック。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：平成9年/1997年）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;四月十六日、&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;よくしてくれた先生もいるので、一方的に大学を否定したくない。現に古いタイプの学者には嫌われなかった。Ａ教授然り、Ｅ助教授然り。理解があるというのではない。学問至上主義なので、小説など「女子供が読むもの」と、はなから相手にしていない。良くも悪くも、自信があるということか。この人達は高度な学術論文しか書かない。逆に一般向けの本を書きたがり、あるいは講演に出掛け、あるいは評論家と対談に臨み、あるいは雑誌にエッセイを書くような、新しいタイプの学者がＣ教授。Ａ教授が退官なされ、頭上の重しがなくなるや、急に派手な仕事を始めた。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　などなど。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まあ、佐藤さんの主観による表現なので、じっさいのＣ教授がどうなのかは知らないのですけど、『王妃の離婚』が誕生するまでには、たしかに大学内の人間関係で神経ささくれる経験を経たらしいです。Ｃ教授もまた、直木賞劇の重要な登場人物、と言えなくもありません（いや、言えないか）。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「――学究の徒としては、前途を嘱望されていたにもかかわらず、挫折してしまうフランソワのキャラクターは、大学院の博士課程を中退したというご自分と、意識的に重ねるものがあったんですか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　そうですね。自分と全く同じキャラクターではないですけど。やっぱり学問の世界での挫折や失望というのは独特の感覚があると思うんですよ。外から見たら、大学なんてあんなとこ、という感じもあるでしょうけど（笑）。実際に自分がそういう世界にいたことは、フランソワのキャラクターづくり、心の動きに確かに反映されてると思います。」&lt;/span&gt;（『オール讀物』平成11年/1999年9月号　「藤沢周平さんがいなければ小説はやめていた」より―聞き手：池上冬樹）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　一作の小説が生まれるまでには、そりゃあ、こんなブログじゃ紹介し切れない要素がたくさん重なっていると思います。佐藤さん自身が明かしているところだと、塩野七生『チェーザレ・ボルジア　あるいは優雅なる冷酷』、ギー・ブルトン『フランスの歴史をつくった女たち　第二巻』。あるいはバリー・リード『評決』。それらの本との出会いが、『王妃の離婚』執筆へのきっかけになったり、物語展開に影響を与えたと。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、そのうえでやはり、大学の研究室で進路に悩んでいた、悩まされていた状況で書かれた、つうハナシは外せません。佐藤さんの直木賞受賞は31歳です。チャラチャラの若手です。見ようによっては、デビュー6年で直木賞は順調そのものです。「なに？　全然順調なんかじゃなかった、大変だったんだ！」と我が身の苦労を再確認するには、かっこうの苦労話と言えましょう。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　人生順調にやってきた人よりは、いろんな失敗を経験してきた人のほうがよく書けるとは思いますね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;宮崎&lt;/strong&gt;　ということは、これまでの人生、とくに20代にとんでもない挫折感を味わったこともあるのですか？&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　20代はハッピーじゃなかったですね。本当に何をやってもうまくいかなかった時期とかありましたから。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;宮崎&lt;/strong&gt;　ああ、やっぱり。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;佐藤&lt;/strong&gt;　というのも、デビューから6年で直木賞を取ったというと、皆さん大変順調な作家人生だと思われるでしょうけど、その過程ではすごく苦労したんですよ。」&lt;/span&gt;（前掲「宮崎緑の斬り込みトーク」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;









&lt;p&gt;　売れなくて地味な歴史小説がようやく直木賞を受賞しました、涙・涙、っていうかげには、やっぱり何か「苦労」がくっついてきていないと、サマになりませんものね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　サマになるかどうかは別としましても、この時期の佐藤さんには「おれは苦労してきたんだ」みたいな実感が必要だった、とは言えそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『本の雑誌』ベストワン、なんちゅう、それこそ小説好き以外、格別関心を抱くこともない評価しか受けていない。同じくデビューした誰それは、もはや売れっ子作家。心の支えは、コツコツやっていけばいつか報われる、という信念のみ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　突然に直木賞候補になり、突然に受賞しました。そのとき、佐藤さんの耳にどんな声が聞こえてきたか。ワタクシらのような能天気な観客どもが発する、心ない声でした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「実際、時期尚早であるとか、複雑怪奇な選考の綾が生み出した、偶然の産物であるとか、そんな辛い批評が私本人の耳にも届いている。選考の結果を伝える新聞、週刊誌のコメントにも、ものによっては、そんなニュアンスが感じられないではない。」&lt;/span&gt;（前掲「冠の戴き方」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　わかる。わかります。わけ知り顔の、いわゆる「直木賞ツウ」は、ツウぶって、これまでの直木賞の傾向からすると……などと言いたがるものです。ワタクシもそうですから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この回の直木賞の下馬評と、開けてびっくり玉手箱、の様子については、『読売新聞』が次のように伝えてくれています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「今回ほど、いわゆる〈下馬評〉が、いかに当てにならないかを証明したこともない。自戒を込めて分析してみれば、そこにはやはり、「ベストセラー話題作」と直木賞受賞作は違う、という当たり前の事実がある。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　選考前、評論家や出版関係者の間でもっぱら本命視されていたのは、天童荒太氏の「永遠の仔」（幻冬舎）。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　改めて複数の選考委員に聞いてみると、そこには、高い下馬評が及ぼした「逆効果」もあったようだ。「ものすごく期待したのに、評判ほどではなかった」と漏らす委員もいた。もし「永遠の仔」がそれほど知られていない作品だったら、評価は多少変わっていたかもしれない……と想像しても、意味はないのだが。」&lt;/span&gt;（『読売新聞』平成11年/1999年7月21日「直木賞に“大穴”「王妃の離婚」」より　―署名：（汗））&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　「ロック」な「ミステリー」愛好者たちの、ぶうぶう言う声が、裏から聞こえてきそうですよね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でも、佐藤さんにとっちゃ「偶然の産物」とか言われて、ムッとしたかもしれません。おれだってこんなに苦労してきた、苦節の作家なんだ、偶然なんかじゃない、胸を張ったっていいんだ……と自分に言い聞かせたかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「苦しみながらも書き続けて、デビュー六年目の九九年には、直木賞までいただけることになった。&lt;u&gt;&lt;strong&gt;苦しんだという自覚が、そのまま自信になっていた。&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;それが自惚れでなく、一定の評価も得られたと思えば、いよいよ私は大きな顔で作家を名乗るようになった。」&lt;/span&gt;（『小説すばる』平成15年/2003年12月号　佐藤賢一「十年目の苦悩」より　―太字下線は引用者による）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　どうぞどうぞ、大きな顔でいてください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　50年後、100年後……。村山由佳も桐野夏生も天童荒太も、だーれも読んでいないけど佐藤賢一の小説は読み続けられている、なんちゅう状況になるのかどうか、ワタクシも確認してみたいものです。それまで生きていられないのが残念です。&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-05-20T22:15:12+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/102119893-8196.html">
<title>星川清司（第102回　平成1年/1989年下半期受賞）　文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/102119893-8196.html</link>
<description>星川清司。「小伝抄」（『オール讀物』平成1年/1989年10月号）で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。 　きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。 　その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース（？）の上位に食い込み、俄然注目を浴びることにな...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/05/13/120513.jpg&quot; title=&quot;120513&quot; alt=&quot;120513&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun102HS.htm&quot;&gt;星川清司&lt;/a&gt;。「小伝抄」（『オール讀物』平成1年/1989年10月号）で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース（？）の上位に食い込み、俄然注目を浴びることになるとは。想像だにしなかった事態に直面して、驚いた方も多いと思います。ワタクシもそのひとりです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「小説「小伝抄（こでんしょう）」で直木賞を受賞した作家、脚本家の星川清司（ほしかわ・せいじ、本名・星川清＝きよし）さんが、肺炎のため平成20年7月25日に死去していたことが分かった。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　星川さんは東京都生まれ。脚本家としては市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズなどを手がけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　家族によると、大正15年10月27日生まれと公表してきた生年月日は、じつは大正10年で、亡くなったのは86歳だった。平成2年に直木賞を受賞したときは68歳で、古川薫さんが持っている受賞最年長記録より年長だったことになる。星川さんは家族に、自身の死を公表しないように伝えていた。大正15年生まれの妻に「運が強いから大正15年生まれをもらうよ」と語っていたという。」&lt;/span&gt;（『産経新聞』平成22年/2010年4月10日「訃報　星川清司氏死去　直木賞「最年長」受賞」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ほんとは68歳で直木賞受賞。なのに5歳サバ読んで、63歳で受賞、ってことにしていたという。68歳の受賞ともなれば、堂々の最高齢受賞です。タイトルホルダーです。直木賞のことが大好きな新聞各紙は、当然、この件にガツガツ食らいつきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　おそらく、生前の星川さんは、こういう事態になるのがイヤだったんだろうなあ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　星川さんは、平成2年/1990年1月に直木賞を受賞しました。以後いくつかの場で、自分のことを語らざるを得ない状況に陥ります。彼はどう処したか。嘘（というか省略）をかなり含みつつ、自分を語りました。年齢のこと、名前のこと、小説執筆の遍歴のこと、などなど。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;（引用者注：桂三枝）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　「星川清司」さん……きれいなお名前ですね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　そうでしょうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　これ、ペンネームですよね、もちろん。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　いえ、本名です。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　ご本名ですか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　はい。」&lt;/span&gt;（『週刊読売』平成3年/1991年9月29日号「三枝のホンマでっか」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;











&lt;p&gt;　おお。この流れるような受け答え。とうてい嘘をついているようには読めませんが、星川さん、本名は「清（きよし）」さんというのだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この対談では『オール讀物』に登場するまでの経緯も語られています。こんな感じです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　小説書いてもそれを発表する場所のあてはなかった。あるとき、友人に聞いたんです。新人が最も登場しにくいのはどこだと。「オール読物」だろうという答えでした。まず新人賞に応募して、それを取って筋道をつけてから登場していくものだと、そう言うんです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　それで……？&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　ですが、私はもう若くはなし、そんな暇&lt;/span&gt;（ルビ：いとま）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;はない、そう思いましてね。どのみち、これは腕だめしだから持ち込み原稿をやろうと、自分で決めたんです。それで「オール読物」編集部を訪れまして……。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　全然、面識なかったんですか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　はい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　向こう、何者だろうと思ったでしょうねえ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;星川&lt;/strong&gt;　まあ、私が映画の世界にいた人間だということは知ってましたけれど……。そのとき渡しました作品が「小伝抄」です。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;













&lt;p&gt;　この対談以外でも、星川さんは、似たような説明をしたのかもしれません。昭和46年/1971年、中央公論社の人に焚き付けられて何篇かの小説を書いたものの、それは別として、本気で小説を書こうと思って発表にいたった第一作が「小伝抄」、それで突然直木賞を受賞……みたいなストーリーです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、このハナシ、信用できるでしょうか。星川さんが別に書いた自伝、「不運と幸運が綯い交ぜで」では、少し様相がちがっているんです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「わたしはよっぽど強運なやつらしくて、「オール讀物」編集部に電話紹介してくれるひとがあらわれた。あす、文藝春秋へすぐにいきなさいという。もうすこし書きためてと思っていたのだけれど、あわてて原稿を持参した。当時編集部次長の設楽さんとおめにかかった。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　「稀なる幸運に恵まれた」と設楽さんがいった。持ち込んだ原稿のうちのひとつ、百枚のものが、渡してから五日ほどして、「オール讀物」に掲載が決まった。」&lt;/span&gt;（『オール讀物』平成2年/1990年3月号　星川清司「不運と幸運が綯い交ぜで」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　これが星川さんの『オール讀物』初登場作、「闇のささやき」（昭和63年/1988年11月号）の掲載経緯だといっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いったいこの食い違いは何なのでしょう。なぜ対談では、自分で持ち込んだように聞こえる言い方にしたのか。……「電話紹介してくれたひと」だの「編集部次長の設楽さん」だのの存在を敢えて省略したのかもしれません。彼らに要らぬ迷惑がかかることを避けるために。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　新人の作品で百枚、百五十枚の長さのものは、そうやすやすと載せてくれるわけがなくて、昭和63年/1988年に第一作が出てから、約1年間、時間がかかった、その2作目がみなさんご存じの直木賞受賞作です、などといちいち説明するのは、たしかにかったるい。「小伝抄」より前に作品を発表していたことなど、どうせ多くの人は興味がないだろうから、そこは省いてしまおう、とも考えたかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　どうなんでしょう。正直わかりません。なにせ、星川さんは身の上話をイヤイヤしていたような人です。ワタクシらのような興味本位至上人間に、ほじくり返されるのがお気に召さないかのごとく。そんな彼の語ることの、どこまでを信用していいのでしょう。お手上げです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「自伝とかいうようなものは、これから先、もう書かないつもりだ。書きたくない。これはいわば直木賞受賞者の義務だから、致し方なく、需めに応じて書くことにした。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　身上咄の類いは、もうこれでおしまい。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　まあたしかに、自分の死でさえも世間に隠そうとしていたほどですからねえ。よほど、身の上話を避けたかったようで。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ええ、そう考えますと、なぜ5歳年齢を詐称したのか。「寅年生まれは運が強いからと寅年の大正15年/1926年生まれを称した」と明かされたその理由までも、まだ真実を語っていないのではないか、と疑いたくもなろうというもんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　と思っていましたら、「年齢詐称の理由は、そりゃひとすじなわでは解釈できないよ」と疑念を呈する方が、すでにいました。ああ、やはり。そうなんですね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　浦崎浩實さんです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「脚本家から小説家に転じた星川清司氏が08年7月25日に亡くなっていたと、この4月になって新聞などが報じた。その際、生年も従来の１９２６（昭和１）年生れではなく、本当は１９２１（大正10）年生れとご遺族から公表された由。26年寅年の縁起を担いだそうだが、理由はそれだけだろうか？」&lt;/span&gt;（『キネマ旬報』平成22年/2010年7月下旬号　浦崎浩實「映画人、逝く」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　というのも、星川さんは昔から、何度か年齢詐称の前歴（？）があって、かならずしも大正15年/1926年と称してきたわけではなかったのだそうです。浦崎さんが紹介してくれている例は以下の二つ。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;&lt;li&gt;媒体：『キネマ旬報別冊』「名鑑」（昭和34年/1959年）……生年：大正12年/1923年&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;媒体：『シナリオ』「シナリオ作家名鑑」（昭和40年/1965年1・2月合併号）……生年：大正14年/1925年&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;



&lt;p&gt;　なある。たしかに、「寅年の縁起かつぎ」だけでは説明のつかない詐称ぶりです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　浦崎さんの推測をご紹介しますと、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「少しずつサバを読んで、昭和生れに辿り着いた趣である。三島由紀夫（大正14＝１９２５年生れ）が大正生れを嫌い、久しく１９２６（大正15・昭和１）年生れを自称したのは有名だが、星川氏も昭和に拘泥があったかもしれない。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　とのことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ははあ。昭和生まれでありたい！と願う人は、1926年を「大正15年」ではなく「昭和元年」と解釈しちゃうんですね。星川さんもそのひとりだったのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、ワタクシのような直木賞オタクからしてみれば、アレです。つい妄想が膨らんでしまうのです。「小伝抄」が望外の直木賞候補作に選出されて、日本文学振興会からプロフィールの提出を求められた場面のことを。星川さんは「自分が最高齢受賞になる可能性があるぞ」と、ふと気づいてしまったのじゃないか、と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　過去の直木賞の最高齢は、調べればすぐにわかります。平成2年/1990年段階で、その記録の保持者は佐藤得二さん、64歳です。自分の年齢を数えてみる。68歳。まずいまずい。以前に自分がサバ読んだ大正14年/1925年生まれなら、どうか。64歳。まだ駄目だ。最高齢記録にならんでしまう。きっとマスコミなどで騒がれるに決まっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……「最高齢」の話題の餌食になることを避け、目立たなくするには、もう一年ごまかして、大正15年/1926年生まれにしちゃえばいいじゃん。つうことで、思い切って5年も若いことにしたのじゃなかろうか、と想像しちゃうのですよ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　星川さんのもくろみは成功しました。直木賞ではじめて星川さんを知る、ワタクシのような門外漢たちをケロリとだましおおせました。過去の年鑑をひっぱりだしてきて、「いや、星川さん、あなた最高齢受賞じゃないですか！」と告発するようなやつなど一人もいない、としっかり見抜いておりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　星川さんの正確な生年が広まったのは、亡くなった後でした。ただ、没する平成22年/2010年7月より前に、生年はきちんと公表されていたんですね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　佐藤忠男・編の『日本の映画人―日本映画の創造者たち』が刊行されたのは平成19年/2007年6月です。ここでは星川さんの生年月日が「大正10年（1921年）10月27日」と記載されていました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そのときに、「おやおや。ってことは星川さんが最高齢受賞者じゃないか」と気付けなかったのかpeleboよ。まったく面目ありません。直木賞を愛し、直木賞の情報を愛する者として、不覚でした。まだまだ精進が足りませんね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　星川さんが小説の世界で名を知られたのは60歳すぎでした。ただ、若いころからずーっと、文学に対する憧れというか関心は強かったみたいです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　身すぎ世すぎのために、シナリオ作家の道に入ったものの、「自分はこのままでいいのかという思いが、絶えずあった」と言います。昭和45年/1970年に「わが父北斎」のシナリオを書いて、芸術祭賞などを受賞しました。それをしおに、シナリオ執筆を休むことにしたんだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「この作品&lt;/span&gt;（引用者注：「わが父北斎」）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;の後、賞をいただいて一区切りになったし、しばらく休もうと思いました。というのは、自分はこのままでいいのかという思いが、絶えずあったんです。でも、何をやるかはっきりしない。それなら、二、三年やめて、身の振り方を考え直そうと思いました。子供はいませんし、それなりに気楽に生きていかれるほどの蓄えはありましたから。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　そうしたら、「中央公論」から呼ばれまして「あなたのエッセーを読んだが、小説を書けるはずだから、書いてみませんか」って言うんです。それで、平安朝を舞台にした、『菩薩のわらい』というのを八十枚ほど書いてお渡ししました。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』平成2年/1990年3月1日号「行くカネ来るカネ　私の体を通り過ぎたおカネ」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　どうやら中央公論の担当者に、そうとう見込まれたらしく、「なんとか小説で身の立つようにしてあげるから」とまで言われました。星川さんも「幾つかの短篇を載せてもらい、小説に専念しようかと思った」と回顧しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　じっさい、シナリオ書きを休んだ矢先に、小説を何篇か書いて発表していたわけですから、「小説に専念した」と表現してもいいと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そこからもう一度、余儀なくシナリオライターの道に逆戻りしました。星川さんの回想によれば、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「うかつにも保証人になって判をついたばかりに、あからさまに金額を申し上げるのはイヤですけれども、莫大な借財を背負い込みました。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ということで、小説では稼げないし食えない、カネを稼げるのはシナリオの仕事だ、っていうんで借財を返済するために、10数年せっせとシナリオを書いたのだという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それで返済が終わったのち、星川さんの決意した道は「小説を書くこと」でした。よほど文学に惚れ込んでいたんでしょう。あるいは、「シナリオを書き続けることは、自分の望む道ではない」とはっきり認識していた、というべきでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　再出発の小説の世界で、運よく直木賞なんてものを受賞してしまいます。認められることは嬉しかったでしょう。反面、「直木賞」はなにしろ傍若無人なパワーを振り回してきます。作者自身のことがいろいろ世間に知られ、望むと望まざるとにかかわらず、有名人として遇されることとなってしまいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　星川さんが、その境遇を心底うれしがった、とはにわかには信じられません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　晩年のエッセイに「身の置きどころ」っていうのがあります。星川さんの好む生き方の一端が、うかがい知れる一篇です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「わたしは世にいう偉い人物を書くのは苦手で、興味もない。ましてや、歴史をひっくりかえしてみせるというような仕事は、まっぴら御免で、いちばん好きなのは、巷をうろついている男や女たち。得体のしれぬ群集のすがたである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　遊行者、流離者、放下、遊狂、風狂という世捨人ばかりに惹かれるのは何ゆえだろうか。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　身の置きどころが気に入っている作者の一人に、Ｂ・トレイヴンというひとがいる。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　わからないことばかりの作者で、どこにいるかわからない。国籍がわからない。年齢がわからない。顔を見た者は誰もいないという念の入りよう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　世捨ての極みで羨しいかぎり」&lt;/span&gt;（『オール讀物』平成13年/2001年2月号「身の置きどころ」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;









&lt;p&gt;　自分には世捨ての覚悟はない、でも世捨てに憧れる、と綴っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自身の正体をつかませず、世俗的なことから距離をおいて作品を発表する作家、それを「世捨て」として気に入る星川さん。そりゃもう、そんな星川さんですもの。直木賞の台風に取り込まれるにあたって、本名を隠したり、年齢で嘘ついたりしたのは、自然なことなのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文学賞のなかでもとくに「個人情報暴露機能」の発達した直木賞に対して、めいっぱい抵抗し、立ち向かった人でした。そういった人物として、星川さんが直木賞史に多大なる名を残し、ワタクシはうれしく思います。けっきょく星川さん自身はイヤでしょうけど。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-05-13T23:03:12+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/11051993-545e.html">
<title>大沢在昌（第110回　平成5年/1993年下半期受賞）　ライバル作家に続いて、遅まきながらいよいよこの人も。文学賞をとって大にぎわい。……ってハナシは3年前に終わってますけど。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/11051993-545e.html</link>
<description>大沢在昌。『新宿鮫　無間人形』（平成5年/1993年10月・読売新聞社刊）で初候補、そのまま受賞。「感傷の街角」でのデビューから14年半。37歳。 　ひとりの直木賞ファンとして、「くやしい」作家ってのがいます。大沢在昌さんはまさに、多くの直木賞ファンをくやしがらせた人、と言っていいでしょうなあ。 　というのも、「大沢在昌ブレイク」の手柄を、みんな他に奪われてしまったからです。 　91年版...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; alt=&quot;120506&quot; title=&quot;120506&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/05/06/120506.jpg&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun110OA.htm&quot;&gt;大沢在昌&lt;/a&gt;。『新宿鮫　無間人形』（平成5年/1993年10月・読売新聞社刊）で初候補、そのまま受賞。「感傷の街角」でのデビューから14年半。37歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ひとりの直木賞ファンとして、「くやしい」作家ってのがいます。大沢在昌さんはまさに、多くの直木賞ファンをくやしがらせた人、と言っていいでしょうなあ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　というのも、「大沢在昌ブレイク」の手柄を、みんな他に奪われてしまったからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&#39;91年版の「このミス」（平成3年/1991年1月・ＪＩＣＣ出版局刊『このミステリーがすごい！&#39;91年版』）にはじまって、平成3年/1991年春の吉川英治文学新人賞、それから日本推理作家協会賞。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『新宿鮫』（平成2年/1990年9月刊）の一作は、大沢在昌ここにあり、を世間に知らしめた記念碑的な作品でしたが、まず読者たちから熱い称賛を受けました。永久初版からの脱出を果たしました。そして、平成2年/1990年刊行物を対象とした賞レース。直木賞はボヤボヤして、何もからむことができませんでした。くやしいと言うほかありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　元来、文学賞は良さ、利点、うまみといったものも持っています。そのことを先に大沢さんに教えたのは、くやしいかな、吉川新人賞のほうでした。直木賞でなくて。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「今回の受賞&lt;/span&gt;（引用者注：吉川英治文学新人賞受賞）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;で自分は物凄く幸せだと思ったことがあるんです。例えば吉川賞のとき、推理作家協会理事の山村正夫さんが「飲みに出ておいでよ」とおっしゃってくれたし、選考委員の謙ちゃん&lt;/span&gt;（引用者注：北方謙三）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;も「大沢、出てこい」って。彼は「大沢に対して強い立場にあったけど、これでもう俺は権力を失った」なんていってましたけど、自分のことのように喜んでくれました。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　小説家というのは、お互い友だちであると同時にライバルでもあるわけです。だから、誰かが賞を取ると“良かったな”と思う反面、“ちくしょう。どうして俺じゃないんだ”と思う部分がないといえば嘘になる。なのに、みんながみんなと言っていいほど、僕の受賞を凄く喜んでくれました。僕はこの人たちに嫌われてなかった、良かったと、しみじみ思いました。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』平成3年/1991年4月25日号「行くカネ来るカネ　私の体を通り過ぎたおカネ　大沢在昌」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　でしょう、でしょう。自分自身の喜びを超えて、まわりの人たちも喜んでくれる、文学賞の温かさ。それを、大沢さんに実感してもらうチャンスは（『新宿鮫』一作の件でいえば）、先に直木賞のほうにあったのに……。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「この原稿は、吉川英治文学新人賞の授賞式の翌日に書いている。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;正直、プレッシャーに怯えていた。これほどにも運に恵まれた作品のシリーズ第二作、手が動かないのではないだろうか、と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　だが、不思議なことに、至極スムーズに手は動いた。なぜだろう、たぶん、ふたつの賞&lt;/span&gt;（引用者注：吉川新人賞と日本推理作家協会賞）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;の重みが、私の手を動かざるをえないようにしているのだ。つまり、上からの圧力ではなく、中からの圧力として働いて。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　恥ずかしい作品は書けない。が、これも不思議なことだが、恥ずかしい作品にならない予感もある。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　いただいてわかったこと。賞とは、もの書きにとり、すばらしい栄養剤である。」&lt;/span&gt;（平成10年/1998年1月・小学館／小学館文庫　大沢在昌・著『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』所収「栄養剤二本」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　でしょう、でしょう。文学賞ってすばらしいものでしょう。だけど、そのすばらしさを伝え得たのは、直木賞ではなかったわけで……。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大沢さんは平成3年/1991年、『新宿鮫』がダブル受賞！って話題を受けて、数多くのメディアに登場しました。3年後、平成6年/1994年に第110回直木賞を受賞したときも、同じくさまざまなインタビューを受けました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　語ることといえば、子ども時代の読書体験、慶應大学で遊び呆けて中退し、父親に怒られたこと、小説推理新人賞をとるまでの経緯、とってからの「売れない」期間の長さ、「永久初版作家」と言われたこと、冒険作家クラブを中心としたライバル作家たちの交流、などなど……。直木賞後に語られるハナシはほとんど、3年前に、吉川新人賞・推理作家協会賞のときに流布したストーリーの繰り返し、といっていいほどだったんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この展開を目の当たりにして、くやしくならない直木賞ファンなどいるのでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大沢さんと賞、っていう世界のなかでは、直木賞なんてのは、同じ味の料理のおかわり、と言いますか。視聴率を集めたドラマの昼間の再放送、と言いますか。それはそれで意味はあるけど、新鮮味に欠けるのはいかんともしがたい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大沢さんに言わせますと、直木賞とは、以前の賞に比べて、この程度の違いしかなかったようなのです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;（引用者注：桂三枝）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　やっぱり直木賞受賞すると、周りの雰囲気とか変わってくるもんですかね。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;大沢&lt;/strong&gt;　四年前に『新宿鮫』というのを出しまして、それで賞をもらって、本も急に売れるようになったんです。そういう意味では多少、免疫ができていたつもりでいたんですけれども、やはり、ちょっと違う賞かなと。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;三枝&lt;/strong&gt;　ほおぅ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;大沢&lt;/strong&gt;　例えば、この前、飲んでたら、伊集院静さんに呼び出されまして、何人かお連れの方がいらしたんですが、「こちらが直木賞とった大沢さんだよ」って伊集院さんが言うと、座ってた人たちが一斉に、「あッ」と言って立ち上がるんですね。これが直木賞かいなあ、とねえ（笑）。」&lt;/span&gt;（『週刊読売』平成6年/1994年2月20日号「三枝のホンマでっか！」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　何だか文学賞を毛嫌いする人たちが、なぜ毛嫌いするのか、その理由がわかるようなエピソードじゃありませんこと？　作品の内容とか、作家としてのこれまでの歩みとか、そういうのを語らずして、単に「何何賞をもらった」というだけで周囲の扱いが変わる気持ち悪さ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文学賞のおいしいところは全部、吉川新人賞あたりに持っていかれてしまい、イヤな面、チャカされる面、馬鹿にされる面を直木賞がひっかぶる構図、とでも言いましょうか。まあ、そうですよね、直木賞ってけっこう損な役回りですもんね、と愛おしくなる場面でもあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『新宿鮫』でだって、四作も待たずに、ズバッと一作目で受賞させて、おお直木賞もなかなかヤルじゃん、と拍手されるチャンスはあったのに。いや、それ以前だって、プロフェッショナルなエンタメ作家、でもあまり世間に評価が広がっていない作家、そういう人を世に紹介する、なんちゅう直木賞が威力を発揮する恰好の舞台が、大沢在昌さんのまわりには何年もあったのに。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞君。かわいそうだけど、あなたの損な役回りは自業自得のようです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　大沢さんの作家デビューは昭和54年/1979年。冒険小説「黄金の80年代」前夜でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当時、冒険小説とくくられるような、ハードボイルドっぽいもの、血湧き肉躍る大活劇などは、直木賞からツレなく扱われていました。扱われていたんですが、まったく無視されていたわけではありません。このころから一気に花開く冒険小説群のうち、谷恒生さんの『喜望峰』や『ホーン岬』、山田正紀さんの『火神を盗め』などを代表に、何作品か何作家かは、順次、直木賞の候補に選ばれていきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、それら多くの小説は、「劇画」「映像的」「こんなもの文学じゃない」みたいな、直木賞おなじみの刀でバッサリ斬られちゃいます。こぼれ落ちる諸作家の受け皿となったのが、昭和55年/1980年からはじまった吉川英治文学新人賞だった、っていうのは以前軽く触れたことがありました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さらに後発の山本周五郎賞も、こういったジャンルの小説には寛容な路線を敷きます。ってことで、80年代の小説界を牽引したこれらの作家が、続々と文学賞をとっていくこととなりました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;大沢&lt;/strong&gt;　&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;僕たちがハードボイルドのパイを大きくしたという自負はものすごくある。だって、昔は五千人ぐらいしか読者いなかったんですから。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;阿川&lt;/strong&gt;　僕たちというのは、他にどなたがいらっしゃるんですか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;大沢&lt;/strong&gt;　北方謙三さんとか、同期で言うと、逢坂剛さん、志水辰夫さん、船戸与一さん、佐々木譲さん、西木正明さん、つまり冒険作家クラブの初期メンバーですよね。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』平成8年/1996年3月7日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　彼らにとって文学賞とは、冗談を飛ばしたり、酒のサカナにしたりするための、一種の道具であったでしょう。とろうがとるまいが、何か重要で根源的なものではない、けれど作家として自分をふるい立たせ、発奮の材料には十分なり得る、大切なエネルギー源であり、イベントではあったようです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「作家商売では、仲間は友だちであると同時にライバルだ。口ではおめでとうをいいながらも、心のどこかで「なんで俺でなくお前なんだ」という気持がある。あって当然だ。私だって、過去いくどとなくそういう気分を味わった。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　祝福とはそれらをすべて乗りこえたものだ。互いに見あい、目の奥をのぞきこみながら、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;（くそ、先を越されたぜ、でも負けねえぞ）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　と、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;（どうだ、くやしかったらこっちへこい）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　で、握手している。私は北方謙三氏や船戸与一氏、逢坂剛氏ら、すばらしい仲間たちと何度となくそういう握手をした。」&lt;/span&gt;（平成6年/1994年11月・集英社刊　大沢在昌・著『陽のあたるオヤジ』所収「直木賞」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;











&lt;p&gt;　ちなみに時系列で並べるとこんな感じです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;&lt;li&gt;昭和58年/1983年　北方謙三、第4回吉川英治文学新人賞&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;昭和60年/1985年　船戸与一、第6回吉川英治文学新人賞&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;昭和62年/1987年　逢坂剛、第96回直木賞&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;昭和63年/1988年　西木正明、第99回直木賞&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;平成2年/1990年　佐々木譲、第3回山本周五郎賞&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;









&lt;p&gt;　そして次に、いよいよ大沢さんの受賞。つうわけですが、平成3年/1991年、第12回吉川英治文学新人賞受賞。これにて、とりあえず彼らの文学賞への登場第一章が終了しちゃいます。前の段でさんざん言ったように、この流れのなかに「大沢在昌、直木賞受賞」のハナシが出る幕はないのでした。しょぼーん。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……あ。あれ。志水辰夫さんはと。うーん、大沢さんがなかなかとれなかった日本冒険小説協会大賞を、何度も受賞しているので、まあよしとしましょう（よくはない！）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○

&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　デビュー後10年あまり、大沢さんは文学賞に縁がありませんでした。しかし、上で見てきたように、周囲の仲良したちの受賞に何度も立ち会い、そのうち自身も受賞するに及んで、文学賞と縁深い人となりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大沢さんなりの文学賞観も、かように形成されていった模様です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「特に若い世代はそうですけど、妬みとか僻みを作品の糧にしようとはせず、人間らしく生きようと考えているような気がします。だからみんなさっぱりしているし、ストレートなもののいい方をするんです。作家として成功するために人間らしさを捨てちゃうみたいな発想ってあるでしょう。でも、もうそういう時代じゃないと思いますよ。」&lt;/span&gt;（前掲「行くカネ来るカネ　私の体を通り過ぎたおカネ」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　あ、すみません。文学賞観を語っているわけじゃなかったですね。でもまあ、「妬みとか僻み」のことを持ち出しているので、ある意味、文学賞観に通ずる考えととらえてもいいのじゃないかなと。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そんな大沢さんが、文学賞を主催する責任者となる日がやってきました。平成13年/2005年、日本推理作家協会の理事長に就任したことで、おのずと、同協会賞の運営に責任者の立場で関わることになったわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それより前、理事だったころに協会賞を語った文章があります。大沢さんは、この賞をこう紹介しました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「我が国では数少ない、出版社や自治体などの後押しがない文学賞である。」「選ぶ側も選ばれる側もプロ作家である以上、交流がある。これをお手盛りにせず、厳正に審査していくのは、物理的にも精神的にも大変な作業である。」&lt;/span&gt;（前掲『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』所収「推理作家協会賞」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　文学賞というと、ふつうは「文学」の賞だと思います。「出版社や自治体の後押しのない文学賞」は数少ないでしょうけど、いくつかの同人誌で行われていたりしますし、あるいは文学をこよなく愛する読者たちの手でつくられたりしています。そこに、あまり儲けや採算は考慮されません。「文学」を愛する人にとって、そんなことは屁でもありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、大沢さんは青年の頃から、文学臭のする連中に接して、ほとほと辟易してきた人です。プロフェッショナルな小説家たることを目指し、それに徹してきた人です。小説を書くことのみならず、文学賞もまた、続けていくことが大変なことを、きっと知っています。協会賞を長く続けていけるように、大胆な改革を施しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　短編部門（平成19年/2007年から）、長編および連作短編部門（平成20年/2008年から）において、「各出版社からの候補作推薦制度」っていうのを設けました。候補選出のさいの労をなるべく軽減するために、定められた出版社については、版元のほうから作品を推薦してもらう制度です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　出版社が優秀なものより売りたいものを優先して推薦してくることもあり得るのでは？　ほんとうに厳正と言えるの？　「出版社が後押しする文学賞」と同様に営業戦略に組み込まれちゃうんじゃないの？　と心配したくもなりますよね。でも、大沢さんは、出版界全体を考えるプロ作家です。協会賞が出版界のなかで長くつづいていくためには、この方法が良策だと信じたのにちがいありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ちなみに、短編部門にこの制度を導入したはじめての年、受賞作が出ませんでした。そのときに大沢さんが洩らした感想がこちら。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「今回から「小説現代」「野性時代」など小説誌の編集部から短編候補の推薦を募った。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「作家と編集者は作品の両輪。賞を励みに編集者が短編に前向きになってくれれば」（大沢さん）と変更を決めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　候補にはミステリーらしい短編が並んだが、受賞には至らなかった。お手盛りではない誠実な選考結果だと大沢さんは納得もする。」&lt;/span&gt;（『毎日新聞』平成19年/2007年5月18日「憂楽帳　なぜ出ない！」より　―署名：内藤麻里子）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ええ、お手盛りではないでしょうけどねえ。……思うのですけど、たとえば直木賞が「不公正だ」と言われる理由の大半は、選考委員がどうのこうのではなく、候補作を決める予選の段階にあるわけなので。協会賞も今後、直木賞みたいにアレコレとケチをつけられなければいいなあ、と祈っています。予選は、あまり人の目に触れず、しかし根気の要る大変な作業だと思いますが、大沢さんが協会賞にこめた思いが伝えられていくといいですね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……あらら。けっきょく今日は最後まで、直木賞受賞者としての大沢さんには、あまり触れられなかったなあ。ぐわあ、くやしいーッ！&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-05-06T22:13:15+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/54401965-4958.html">
<title>千葉治平（第54回　昭和40年/1965年下半期受賞）　この人のせいで二人の選考委員のクビが飛んだ！とさえ言われてきた、強烈な受賞者の誕生。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/54401965-4958.html</link>
<description>千葉治平。「虜愁記」（『秋田文学』23号～27号［昭和39年/1964年8月～昭和40年/1965年11月］）で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。 　第54回（昭和40年/1965年下半期）の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役、新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; alt=&quot;120429&quot; title=&quot;120429&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/29/120429.jpg&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun54CJ.htm&quot;&gt;千葉治平&lt;/a&gt;。「虜愁記」（『秋田文学』23号～27号［昭和39年/1964年8月～昭和40年/1965年11月］）で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第54回（昭和40年/1965年下半期）の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役、新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物、千葉治平さんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　どちらの人も地方の同人誌作家でした。東京の商業誌にまったく登場したことがありません。受賞直後、選考経過をまとめるにあたって新聞記者はこう書きました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「今回の直木賞は、将来に期待できる新鮮な人を選んだのが特色。」&lt;/span&gt;（『毎日新聞』昭和41年/1966年1月18日「芥川賞高井有一氏　直木賞新橋、千葉氏　選考経過」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　しかし奥さん。あなたは、その後の千葉治平さんの活躍をご存じですか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　千葉さんは身のほどをわきまえた方でした。「賞」に躍らされて東京進出、なんちゅう愚行をするはずがありません。秋田の地で定職に就きながら、終生、こつこつとおのれの道を邁進いたしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高橋春雄さんにいわせると、こういうことです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「直木賞受賞後は『八郎潟・ある干拓の記録』等のほか創作は寡作。「虜愁記」では中国の風土に圧倒されている作者のロマンティシズムのふくらみが、職業作家に堪えられる質のものでなかったかとも思われ、思想の上の低迷があったかとも思われる。プロ作家になりきった新橋遊吉と対照的である。」&lt;/span&gt;（『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より　―執筆担当：高橋春雄）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　寡作。いやもう、寡作どころの騒ぎじゃありません。まもなく、秋田を離れた地では、千葉さんのお名前や作品を見かけることが、ほぼなくなったほどです。受賞作の「虜愁記」ですら、文藝春秋がいちど単行本化しただけで、そのほかで読むことができない、という直木賞受賞者としては珍しい状況がつくり上げられていきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だからでしょう。かの有名な（？）直木賞の定説まで誕生してしまったのです。直木賞が「将来職業作家としてやっていける人」ではなく、「すでに職業作家として人気を勝ち得ている人」を選ぶようになったのは、昭和40年/1965年下半期のこの回が分岐点だった、っていう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ええ、そうですね。この定説を語るのであれば、二人の選考委員のハナシを抜かすわけにはいきませんよ。小島政二郎さんと木々高太郎さんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　お二人とも、第54回が終わってまもなく選考委員を辞任。いや、辞任といいますか、以前に小島政二郎「佐々木茂索」のエントリーでも確認したように、主催者日本文学振興会（つまり文藝春秋）の意向により解任されたらしいのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文壇周辺の界隈では、その件に関して、あるウワサ話がまことしやかに流れました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　どんなウワサでしょう。以下、うちのブログでは何度か引用した文章ですが、念のためもう一度。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「青山&lt;/span&gt;（引用者注：青山光二）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人&lt;/span&gt;（引用者注：第54回受賞の新橋と千葉）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」&lt;/span&gt;（平成17年/2005年12月・筑摩書房刊　大川渉・著『文士風狂録　青山光二が語る昭和の作家たち』より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ふうむ。このウワサ話、あらためて読み直すと、どうにも気色悪いですよね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　というのもアレです。新橋・千葉という『オール讀物』向きでない人を受賞させたのは、いかにも小島さんと木々さんの責任だと匂わせているからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だって、『オール讀物』の常連作家を生み出すのが直木賞の目的なのであれば、そうなりそうもない人を、予選で通過させなきゃいいだけのハナシですもん。文藝春秋の人たちが。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自分たちで候補に残しておきながら、いざ選ばれたら、ブウブウ文句を言うってどういう了見ですか。意図どおり動かない選考委員を解任できる力があるんなら、はじめから新橋さんや千葉さんを候補にするなよ、と言いたくもなります。どう見ても、新橋さんと千葉さんが選ばれたのは、文春の責任でしょう。なのに、小島・木々二人の批評眼をおとしめるようなウワサばかりが面白おかしく語り継がれるという。ああ、気色悪い。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「このとき新橋、千葉の二人をつよく推した三人の選考委員のうち小島、木々の二人はこの回を最後に委員を辞任し、次回からは新たに柴田錬三郎、水上勉の二人が新委員に任命された。」&lt;/span&gt;（大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　新橋・千葉の受賞をつよく主張した委員が、小島・木々など3人いた。……っていいますけど、ほんとですか？　選評を読んでもそうは分類できませんけど。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　村上元三さんはこう分類していますし。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「大仏&lt;/span&gt;（引用者注：大佛次郎）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;、木々、小島の&lt;/span&gt;（引用者注：日露）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;戦前組は新橋遊吉氏の「八百長」を推し、源氏&lt;/span&gt;（引用者注：源氏鶏太）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;、松本&lt;/span&gt;（引用者注：松本清張）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;、村上の戦後組が千葉治平氏の「虜愁記」を推した。そして、ちょうど“戦中派”の海音寺潮五郎氏は中立という具合に色分けができた。その結果、二作とも受賞ときまったのです。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』昭和41年/1966年2月21日号「盛会の芥川・直木賞授賞式」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　事実はあやふやです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それでも、なにせ千葉さんのその後の活躍ぶり（不活躍ぶり？）が強烈すぎました。「職業作家として使えない」度は、天下一品です。その千葉さんの姿に引きずられて、この回の受賞者を推した小島・木々の二人が、その責をとらされて解任された、みたいな風評は絶えることなく受け継がれてきたのでしょう。たぶん。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞において千葉さんの存在が重要である、と思わされるゆえんです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　……なあんていうドロドロした魑魅魍魎どもの駆け引きのハナシは、これぐらいにしまして。千葉さんと直木賞、といえば他に、もっと心のあたたまる、ナミダナミダのエピソードがあります。そっちもご紹介してバランスをとっておきましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　中央文壇の連中の意向なんて、些末なことです。千葉さんの20年にわたる努力に比べれば。千葉さんは昭和21年/1946年に小説を書き出してから約20年、広く認められることのない秋田の同人誌を中心に活動してきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　突然、直木賞の候補に挙げられました。身近な人以外からも、自分の書いたものが認められたあかしです。千葉さんはマジ泣きしたんだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「高井、新橋両氏にくらべれば千葉治平氏（本名堀川治平）はベテランといっていい。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;このベテランの千葉氏が、直木賞候補に残ったことを知ったとき、自宅の裏の田圃で子供のように大声を上げて泣いたという。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「受賞がきまった瞬間より、候補になったときの方が何倍も感激しました。オレもとうとうここまで来たかと胸がいっぱいになりました」」&lt;/span&gt;（『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号「三人の新芥川・直木賞作家」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　とうとうここまで来たか、ですか……。20年ですもんね。家庭生活上の苦しみと、わが身に宿る病と付き合いながら20年弱、小説に心を注いできた千葉さんならではの言葉と思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和21年/1946年、千葉（本姓は堀川）さん24歳のころ。婿入りのかたちで結婚しました。相手は、同じ村の千葉ルリなる女性でした。しかし3～4か月で別居、事情はよくわかりませんが実家に戻る破目になってしまいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そのころ書いた「蕨根を掘る人々」を『月刊さきがけ』の懸賞に応募、一席入選を果たしました。選者をしていたのは伊藤永之介さんです。伊藤さん。この人がいてくれなければ、千葉さんのその後の歩みはきっと違っていたでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「千葉治平と金沢蓁が、同人雑誌発刊の企てを持って、横手に伊藤永之介を訪ねたのは&lt;/span&gt;（引用者注：昭和）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;二十二年の夏である。千葉たちは、懸賞に応募するために小説を書いてみたのだが、自分の作品が入選してみると、いよいよ創作熱がたかまった。仲間を集めて、自分たちの作品を発表する雑誌をつくりたいと思った。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　千葉たちは、同人が集まり、原稿が集まり、同人たちが会費を出し合えば、雑誌は出せるものと簡単に思っていた。雑誌発行の前に、編集や校正などの仕事があることを知らなかった。そこで、編集の実際まで永之介がしてやった。」&lt;/span&gt;（『第四次秋田文学』10号［平成11年/1999年4月］　小野一二「「秋田文学」の発刊」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　昭和23年/1948年、『秋田文学』を興した折りも折り、千葉さんは胸を患い療養生活に入ります。昭和25年/1950年には妻のルリが肺結核で死去、千葉さんは戸籍上、堀川姓に戻りましたが、筆名は変えませんでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和26年/1951年、療養所で知り合った幸子さんと二度目の結婚。しかし、この妻も病気に侵されてしまい、千葉さんは看病と仕事と文学の日々。9年後、幸子さんを結核で喪います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　すでに『秋田文学』同人仲間として知り合っていた百合子さんと、昭和36年/1961年に三度目の結婚。生涯の伴侶となります。そして、この百合子さんなかりせば、千葉さんの生涯は、今や相当忘れ去られていたかもしれません。ワタクシがこのエントリーで書いている千葉さんの生涯は、ほぼ、百合子さんの編んだ『千葉治平年譜』（平成11年/1999年11月作成、平成14年/2002年6月改訂）に負っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それと百合子さんは、受賞直後に貴重な手記も残してくれています。選考会の前日、40過ぎのオッサンである千葉さんが、大声で泣きはらしたときの心境を、百合子さんが書き留めてくれているのです。心して味わいましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　千葉さんが友人の家で酒を飲み、帰途についたときの場面です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「帰り道で、だんだんと時間がすぎて、明日に近づくのを感じると、オレは、意気地のない話だけンども、からだが震えてきた。オレは、自分の姿が、山奥の木から落ちた一枚の葉っぱみたいに思われてきたな。その葉っぱが、誰の注目も受けずに、谷間の水を流れたり、岩にぶっつかったり、腐った葉っぱの下をくぐりぬけたりして、二十年間も、旅をしてきた。もう誰も見つけ出してくれる人はいない、という気がしていたのに、その葉っぱを拾いあげてくれたのが、こんどの直木賞だった。オレは、自分と、自分の作品がいじらしくてならなかった。とたんに、涙が出てきたんだ。よし、誰も見ていない道だ、思いきり泣いてやれと思ったら、大声で泣けてきた……」&lt;/span&gt;（『婦人生活』昭和41年/1966年3月号　堀川百合子「直木賞をかちとったこの喜びの涙」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　その翌日、千葉さんが受賞していなかったらどうでしょう。けっきょくこのときの涙や、千葉さんの思いなどは、発表されなかったかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でも、直木賞の候補になるってことは、ひとりの男を号泣させるほどの重み、というか意義があったんですよねえ。ワタクシのような、直接関係のない第三者の胸をもゆすぶる場面です。受賞風景に、まったく引けを取りません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ほんと直木賞って、受賞したどうだで騒ぐだけではもったいないですよね。それぞれの候補者の、それぞれの歩みと、直木賞と接触したときのドラマにも、心ひかれるよなあ、とつくづく思わされます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　直木賞を受賞したら、ドシドシ書かなきゃいけない、と強迫観念にかられる一部の人がいます。しかし千葉さんは強い人でした。そんな曖昧な直木賞臭に染まることなく、自分の信じるところを信じるように進みました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　受賞直後に、はっきりとそのむねを表明しています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「会社のご好意で、夫は勤めをやめずに書きつづけてもいいということになりました。夫としても地味な作風を自分で承知していますから、秋田にとどまって、いままで通りのペースで書いて行くと言っています。」&lt;/span&gt;（前掲　堀川百合子「直木賞をかちとった喜びの涙」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　『オール讀物』からの「使えない」宣告も、直木賞作の絶版、復刊の気配なし、なんて状況もどこ吹く風、そんなことでしょんぼりする千葉さんではありません。妻・百合子さんいわく、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「現代の華やかさに背を向けて、歴史小説を書いた」&lt;/span&gt;（平成3年/1991年12月・盛岡タイムス社刊『南部牛方ぶし』　堀川百合子「風の山　あとがきにかえて」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　てなふうに、せっかく「直木賞」っていう華やかさが向こうから近寄ってきたのに、敢然としりぞけて生きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和41年/1966年1月、44歳で直木賞に発見してもらって涙を流すも、東北電力での仕事は継続。昭和51年/1976年、55歳で退職、あとは存分に執筆活動に勤しもうと考えます。しかし、なにせ書き流すことを許さない千葉さん、多くの作品を残す前に、昭和57年/1982年に病気にかかり、ふたたびの療養生活に入ります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以後、亡くなるまでの10年ほどは、かなり厳しい病状のまま過ごしたそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そんな千葉さんが没して早20年。秋田のほうでは、百合子さんや、奥田敦夫さん（元・角館町教育長）などが、千葉さんの業績や作品を絶やさぬよう、あるいは再評価につながるよう、いろいろ努力されているようです。しかし、東京のほうではサッパリです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「残念ながら、千葉治平の文学は正当に評価されているとは言いがたい。しかし幸いなことに、彼の遺した資料、蔵書、書簡等五千七百二点が、妻の堀川百合子氏によって整理の上、仙北市に寄贈されている。故郷との絆が結ばれたのである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　作家を知る状況は整った。それだけに、作品を苦労せずに読むことができる環境の実現を願わずにはいられない。」&lt;/span&gt;（平成18年/2006年12月・秋田魁新報社刊　高橋秀晴・著『七つの心象　近代作家とふるさと秋田』「心象　その六　千葉治平」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ええ、まったく。そのとおりなんですけど、未来の直木賞ファンが、「苦労せずに」千葉さんの作品を読めるようになるイメージが、いまのワタクシにはまったく沸いてきません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だって千葉さんですもん。地味の極致。読者に退屈を感じさせてしまう物語展開。きっと今後も、ワタクシたちは千葉作品に触れようとするとき苦労を強いられるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　へへん。苦労が何だって言うんですか。千葉さんの作家人生に伴った苦労に比べれば大したことありませんよ。直木賞受賞者として千葉さんの名が刻まれているだけで十分じゃないですか。直木賞の力を舐めちゃいけません。直木賞の候補になった、という事実があれば、苦労してでも読んでみようっていう意欲が沸いてきますもん。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　沸いてきますよね？&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-04-29T22:04:15+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/54401965-e1c7.html">
<title>新橋遊吉（第54回　昭和40年/1965年下半期受賞）　大衆小説文壇に、いきなり現われていきなり去っていき、独自の道を駆け抜けた。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/54401965-e1c7.html</link>
<description>新橋遊吉。「八百長」（『讃岐文学』13号［昭和40年/1965年8月］）で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。 　そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。 　「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/22/120422.jpg&quot; title=&quot;120422&quot; alt=&quot;120422&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun54SY.htm&quot;&gt;新橋遊吉&lt;/a&gt;。「八百長」（『讃岐文学』13号［昭和40年/1965年8月］）で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「この作品は新橋さんの第一作。その後は、三十九年&lt;/span&gt;（引用者注：昭和39年/1964年）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;暮れに夫婦で同人になった豊中の同人雑誌「行人」に「内輪外輪」を発表しているだけである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　だから直木賞受賞に驚いたのは新橋さんだけではない。マスコミ関係者も驚いた。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「ほんまに新橋さん、書きはったんですか」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　新進作家に対してたいへん失礼な愚問がでる。」&lt;/span&gt;（『週刊サンケイ』昭和41年/1966年2月7日号「女房が授けた直木賞・新橋遊吉」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　32歳になるまで、いったい新橋さんは何をしてきたのか。どうして突然、小説など書いたのか。ってことを少し追ってみたいと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　同記事で妻の玲子さんが、こんな証言をしてくれています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「この人はテレ性なんで、人さんの前ではウマのことばっかりいうてますけど、病気のときは小説や文学もずいぶん読んでたようですよ」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　そうかあ、新橋さん、テレ性なのかあ。だから、いつも冗談みたいなことばっかり言って、どこまでがホントで、どこからが脚色なのか判然としないんだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ってことはですよ。直木賞を受賞してから、各媒体で語ったこと書いたことも、きっと新橋さん、面白おかしく誇張したり省略したりしたんだろうなあ、とは想像がつきます。そのせいなのでしょう、新橋さんのプロフィールは、書く人によって微妙に細部が違っているんですよ。んもう。研究者泣かせなんだから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　たとえば、武蔵野次郎さんはこんな文を書いています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「初芝高校卒。七年間にわたる療養生活をおくり職業も転々としたが、その間も小説勉強に励み、昭和四〇年下期第五四回直木賞を『八百長』（昭和四一・四　文芸春秋）で受賞。」&lt;/span&gt;（昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典　第二巻』より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　「その間も小説勉強に励み」ってどういうことなのでしょう。なにしろ新橋さん本人は、「八百長」まで小説を発表したことがないと証言しています。小説をたくさん読んできた、とは言っていますが、通俗小説ばかりだったそうで、とうてい小説勉強に励んできた形跡がありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　はて。武蔵野さんは、どんな具体的な行為を指して「小説勉強に励み」なる表現にたどりついたのでしょうか。不明です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あるいはもうお一人。木村行伸さんは、こう解説します。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「初芝高校卒。七年間の療養生活や、様々な職業を転々としていたが、昭和40年に作家を志して同人誌「讃岐文学」に参加。そこで発表した『八百長』（昭41）が直木賞を受賞。」&lt;/span&gt;（平成16年/2004年7月・明治書院刊『日本現代小説大事典』より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ははあ。「小説勉強」の部分をばっさりカットしちゃっていますね。昭和40年/1965年『讃岐文学』に参加したタイミングを、「作家を志した」時と認定しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いったい、どういうことなんでしょう。「小説勉強」とは何だったのか。作家を志したのは、ほんとに『讃岐文学』に入った頃なのか。その点に注目しながら、いくつかの文献を読んでみました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そもそも新橋さんと『讃岐文学』との縁を取り持ったのは、妻の玲子さんでした。これはどうやら確かなようです。前掲の記事によれば、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「新橋さんは、療養中に玲子夫人と知り合い、玲子さんが同人雑誌「讃岐文学」の同人だったことから玲子さんのすすめで、この会合に顔を出しはじめたのである。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　玲子さんと新橋さんとは半年の交際の後、三十八年十月十日、堺の天神さんで結婚式をあげた。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　新橋さんは昨年&lt;/span&gt;（引用者注：昭和40年/1965年）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;の春ごろから正式に「讃岐文学」の同人になった。どこの同人誌にも“書かざる同人”はいるものだが、新橋さんもその例にもれず、最初のうちは、いっこうに小説らしいものは書かなかった。」&lt;/span&gt;（前掲『週刊サンケイ』記事より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　この経緯だけ追えば、作家を志したから昭和40年/1965年に正式な同人になったのだろうな、とは読めます。読めるんですが、新橋さんののらりくらりな証言は、その認定に水を浴びせてしまうのです。困った人です。6年後にこんな回想を残しています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「早いもので私が讃岐文学十三号に「八百長」を発表してから、今年で七年が経つ、思えばその頃、女房曰く、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「あんたの話は聞いていると面白い、小説に書けばいい作品が出来るかも…」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　などと調子よくおだてられ、主宰者の永田敏之さんに、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「ほんなら一丁、大小説を同人雑誌に発表するべェか」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　などといい、私の方は冗談半分であったのに、永田さんが本気で受け取り、「貴兄の作品を十三号の巻頭に持ってゆきたい、ぜひとも年末までに脱稿の上、郵送されたし……」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　と十二月に入ってから矢の如き催促、&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　十二月も半ば過ぎると寒く、この年はときどき雪がちらついた。貧乏暮らしなのでガスストーブは費用がかさむと敬遠され、石油ストーブで暖をとりながら日付けが変る頃まで、私は「八百長」を女房はオール読物新人賞に応募するのだといい「天保の乱余聞」を書いていた。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;それでも何とか間に合って&lt;/span&gt;（引用者注：『讃岐文学』発行所のある）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;高松へ送った。」&lt;/span&gt;（『讃岐文学』21号［昭和47年/1972年9月］　新橋遊吉「あれから七年」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;













&lt;p&gt;　これを信ずるなら、新橋さんがはじめての小説「八百長」を書いたのは昭和39年/1964年暮れです。作家を志したのは、昭和40年/1965年になる前だった、と解釈せざるを得ません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だいたいアレです。少なくとも『讃岐文学』より以前に、新橋さんはほかの同人誌に属していた経験があるんですもの。昭和40年/1965年に突如、小説を書く気になったと考えるのは違和感があります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号の記事では、「大阪の同人雑誌の会合で知り合った亀山玲子さん（筆名）と結婚。」と紹介されています。「大阪の同人雑誌」の誌名は紹介されていませんが、新橋さんが『讃岐文学』や『行人』を知る前であることは確実です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その同人誌の候補をひとつだけ挙げておきます。堺市の『文学地帯』です。かつて北原亞以子さんが所属していたことでも知られる雑誌ですが、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「文学地帯」は&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;現在の関西の同人誌の中では、「ＶＩＫＩＮＧ」「文学雑誌」「雑踏」などに続く歴史を持ち、直木賞作家の新橋遊吉さんや、企業小説の門田泰明さんらを送り出している。」&lt;/span&gt;（『読売新聞』夕刊［大阪版］平成5年/1993年8月17日「直木賞作家支える同人誌」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　なあんて語られていたりするわけです。武蔵野次郎さんはこの辺りを意識して「小説勉強に励み」と書いたのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、作家業に憧れを抱き、同人誌に参加したからといって、小説勉強に励んでいたとは限りません。この辺が新橋さんの、いわゆる療養生活中のあやふやなところです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　胸を病んで療養中、昭和31年/1956年のことです。石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞しました。このころのことを、新橋さんはこう振り返っています。&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「石原慎太郎が湘南地方の若者の風俗を描いた『太陽の季節』で芥川賞を受賞、学生作家としてデビューした。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　私が文学に対して関心を持つようになったのもこの頃からで、原稿を書いて銭になれば、こんないいことはないと思ったものの、とても自信などなく、いたずらに無為徒食の日が明け暮れた。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　ただ、まだ働くということは無理な身体だったので、療養中の大義名分があったから、精神的にはそれほど苦痛を感じなかった。」&lt;/span&gt;（昭和60年/1985年6月・グリーンアロー出版社／グリーンアロー・ノベルス　新橋遊吉・著『競馬有情　無頼編』より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　7年の療養とは言いますが、実際には3年ほどで全快し、その後4年は仕事を探しながら無職の日々を送っていたそうです。推測するに、昭和30年代前半、健康が回復するにつれて作家を志すようになり、大阪の同人誌に顔を出すようになったのではないでしょうか。しかし実際に小説を書くことはできず、「書かざる同人」のまま、競馬・競輪などにうつつを抜かしていたと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そこで亀山玲子さんと出会い、また永田敏之さんとも縁ができたのが運のツキでした。書いたらいいよ、書け書けと背中を押す人が現われたのです。せっつかれて、ようやく昭和39年/1964年、第一作を書き上げることができた。……っていうのが、「八百長」完成までの流れなんだろうなあ、と思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　と、ここまで書いてきて今さらですけども。新橋遊吉さんってごぞんじですか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　文学への興味を募らせながら小説を書かず、突然筆をとった第一作で、女房もうらやむ直木賞受賞。その後、直木賞や芥川賞を物差しとするようなチッポケな世界に安住せず、文芸評論家たちの目のとどかない「競馬小説」なる未開の大海原に乗り出し、一部ファンたちから圧倒的な支持を得る流行作家になってしまった、ハイパー直木賞作家なのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　新橋さんが競馬に魅了されたきっかけは、昭和24年/1949年、16歳の高校生だったとき。兄に連れられて、はじめて競馬場に足を踏み入れました。以来、新橋さんは競馬とともに歩み、競馬に一生を捧げることになりましたが、その運命を決定づけたのは、一頭の名馬との出会いでした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「正確には昭和24年12月10日だが、この日にウイザートと出逢い、そして魅せられて大きく運命が変わることになるのだが、とにかく一目惚れしたほどの素晴らしいサラブレッドであった。」&lt;/span&gt;（昭和60年1985年6月・グリーンアロー出版社／グリーンアロー・ノベルス　新橋遊吉・著『競馬有情　風雲編』より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ウイザート。新橋さんを競馬の世界にのめり込ませた馬です。いや。のめり込ませる、なんて甘っちょろい表現では足りません。それから十数年後、新橋さんに「八百長」を書かせ、直木賞をとらせ、小説家という職業を与えてくれた馬でした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「私はウィザートの悲運な生涯を文章に綴りたいと思った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　作家志望の女房も大いに賛成してくれた。小説を書くのは初めての経験だったし、それほどよい頭脳を持ち合わせてもいず、果たして文章に成るか成らぬか、小説らしい物語りに纏まるかどうか不安だった。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　作品のなかではウィザートはハヤテオーに改名された。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;作品「八百長」に出てくるハヤテオーの生涯はだいたいにおいてウィザートの生涯を忠実に描いている。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　私のウィザートに対する愛情は受賞作「八百長」を通じて、生涯不滅の絆に結ばれていくことであろう。」&lt;/span&gt;（『時』昭和41年/1966年5月号　新橋遊吉「わが愛の1/4自叙伝」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　このときから新橋さんは小説家としても、競馬と生涯不滅の絆を結ぶことになりました。否も応もなく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　受賞数か月後の段階。同じときに芥川賞をとった在阪の高井有一さんと仲良くなり、雀卓を囲んでこんな会話が交わされました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「――新橋くん、道頓堀を書けよ。きっと、きみなら書けるがなァ」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「――いや。当分、競輪と競馬や」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　競輪と競馬に限定するのもいい。が、高井氏のいうように、彼なら道頓堀を書けるだろうとひとりうなづいた。風俗としてばかりでではない市井事を、描きうる作家は少ない。描こうとして描き切れなかったひとりとして、ぜひ、彼に書いてほしいとさえ、ねがっているのだが。」&lt;/span&gt;（『日本読書新聞』昭和41年/1966年12月26日号　石浜恒夫「人物スケッチ　新橋遊吉　競輪と競馬をやる」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　周囲からのアドバイスを蹴散らし、早くも、競輪そして競馬モノで飯をくう覚悟を表明しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　月日は流れて受賞7年後。競馬小説でうなるほど稼ぎまくって、脱け出せなくなっている様子が垣間見えます。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：「八百長」が直木賞を受賞して）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;それからあとのことは何とか文筆で飯が食え、好きな競馬は大っぴらで通えるし、単行本は二十冊近く出したがいずれもよく売れ、重版に次ぐ重版で税務署が嫌いになったぐらいである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　しかし、いつまでも競馬小説でもあるまいと思い、他の作品を書きたいのだが、とにかく競馬小説の注文が多くてその暇がなく、少しは断わればよさそうなものだが、頼まれると厭とはいえず、不本意な顔をして原稿に向かっている。」&lt;/span&gt;（前掲『讃岐文学』21号［昭和47年/1972年9月］「あれから七年」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　競馬小説ばかり書いて、しかも売れちゃうという、唯一無二の直木賞作家道を邁進しました。ほとんど誰も追いつけなくなり、その背を遠くで見ながらさびしくなった人からは、当然こんな言葉をもらうことになります。受賞後10年ほどの頃です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;/span&gt;（引用者注：競馬という）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;素材の特異性に寄りかかった作品ばかりでなく、解説的、叙述的な描写だけでなく、生きた人間をまるごととらえる筆の力と、確かな構成に支えられた作品を期待したい。そのためには少し馬から離れた世界を書くことも必要なのではないか。脱皮への冒険が鶴首させる。」&lt;/span&gt;（『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「直木賞作品事典　八百長　新橋遊吉」より　―執筆担当：青山孝行）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　脱皮への冒険よりも、新橋さんは、一つの道を究めることを選びました。ここら辺りが、どんなジャンルも器用にこなして新境地を模索しがちな並の直木賞作家とは、一線を画すところなんですよねえ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　新橋さんはシャカリキになって突き進みました。そんな怒濤の競馬小説量産も、昭和60年代に終焉を迎えることとなります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和60年/1985年の『競馬有情』を最後に新作の発表が途絶えました。そのころでもまだ、双葉社や角川文庫では新橋さんの本が出ていて、しかも重版は続いていたそうですが、おしどり夫婦と言われた玲子さんからは、はっきり言われたそうです。「アンタは過去の人よ」と。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「新作が十年近くも出ないと、移り変りの激しい出版の世界では、新橋遊吉の名は、すでに消えたも同然である。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　配偶者からは二年ばかり前に、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「アンタはすでに過去の人よ」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　と冷酷非情な宣言を受けていた。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　いつまで経っても、小説らしきモノを書かずに、遊んで怠けている私を、発奮させるためにいった、言葉であるのはわかるのだが、聞いた方はショックでもある。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;（ふん、過去の人なら仏壇の過去帳に、俺の名前を書いとけや）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　といささか、むかついたものである。」&lt;/span&gt;（『讃岐文学』49号［平成8年/1996年7月］　新橋遊吉「十年遊んで目が覚めた」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;













&lt;p&gt;　で、その間新橋さんが何をして稼いでいたかといえば、やっぱり競馬・麻雀なのだそうで。仕事場として借りているマンションの家賃が月16万円、年間200万円ほどの資金を、旧作の重版と、それらギャンブルで賄っていた、という。さすが新橋さんですな。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　10年の沈黙（？）を経て、『大穴一直線』（平成7年/1995年8月・飛天出版／ヒテンノベルス）、『蒼き潮流の狼たち――異説・村上水軍叛逆の譜』（平成10年/1998年4月・双葉社刊）を上梓しました。そして今また、新橋さんは、競馬場や直木賞受賞パーティーなどに行かないとお目にかかれない領域に入ってしまったようです。いま、どのあたりを駆けていらっしゃるのでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　先に引用したエッセイは、平成7年/1995年8月に執筆されたものでした。そこでは新たな小説の構想として、「インドを舞台の大きな作品」や「役の小角の話」などが挙げられています。昭和8年/1933年のお生まれですから、もうじき80歳。どんな直木賞受賞者とも違う、真似のできない作家人生を歩んできました。そんな新橋さんの新作を読める日がくるのだろうかと、ワタクシはドキドキしながら待っています。&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-04-22T22:41:05+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/143222010-9898.html">
<title>中島京子（第143回　平成22年/2010年上半期受賞）　家族たちがかもし出す静かで温かな受賞光景。出版界の馬鹿さわぎがかすんで見えてきます。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/143222010-9898.html</link>
<description>中島京子。『小さいおうち』（平成22年/2010年5月・文藝春秋刊）で初候補、そのまま受賞。『ＦＵＴＯＮ』での小説家デビューから7年。46歳。 　ついこないだの出来事です。誰の記憶にも、きっと新しいはずです。 　うちのブログはたいがい、古い時代のハナシにばかり目を向けて、ご機嫌をうかがっています。何でまた、2年も経っていない中島京子さんの受賞のことを取り上げるのか。……といえば中島さんが「初候補で...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/15/120415.jpg&quot; title=&quot;120415&quot; alt=&quot;120415&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun143NK.htm&quot;&gt;中島京子&lt;/a&gt;。『小さいおうち』（平成22年/2010年5月・文藝春秋刊）で初候補、そのまま受賞。『ＦＵＴＯＮ』での小説家デビューから7年。46歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ついこないだの出来事です。誰の記憶にも、きっと新しいはずです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　うちのブログはたいがい、古い時代のハナシにばかり目を向けて、ご機嫌をうかがっています。何でまた、2年も経っていない中島京子さんの受賞のことを取り上げるのか。……といえば中島さんが「初候補で受賞した」人だからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　初候補での受賞は、第131回（平成16年/2004年上半期）の熊谷達也さん以来、6年ぶりでした。じつは初候補受賞者を手ぐすね引いて待っていた人たちが世のなかにはたくさんいたらしくて、中島さんの受賞が決まるや、いっせいに喜びを爆発させました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その一端は直接、中島さんの耳にも届いたそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「初ノミネートでいきなり受賞は珍しいと、いろんな人に言われた。」&lt;/span&gt;（『毎日新聞』夕刊　平成22年/2010年7月29日　中島京子「直木賞に選ばれて　「とにかく、書く」ということで」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　「喜びを爆発させた」は、ちょっと表現が間違ったかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　うちのブログでは昨年6月より毎週、「初ノミネートでいきなり受賞」した作家を紹介しています。今週の中島さんで42人目です。まだあと23人もいます。直木賞史においては、とくに珍しくこととは言えませんよね。中島さんのまわりにいる直木賞に詳しい人たちも、んなことは先刻ご承知でしたでしょう。それでも、「珍しい」などと口走ってしまったのは、6年も待たされた反動から、つい嬉しくなっちゃったからなのだろうな、と推察したわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いっさい新人賞をとった経験のない作家。デビューして7年、小説13冊目。着実に新作を上梓しつづけているものの、時代小説とかミステリーとかＳＦとかホラーとかラノベとか、そういうわかりやすいジャンル区分の世界にはいない、基本、初版止まり作家。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こういう人に、バシッと一発目で賞を授けることができたのです。直木賞にとってこのうえなく理想的で、ある種「直木賞らしい」ともいえる授賞です。……直木賞の好きな人たちが、ついつい喜んでしまったのも、故なしとしません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ワタクシにとっても嬉しい出来事でした。そして、あまりの嬉しさに、口が滑らかになってしまった人もいました。選考委員の林真理子さんです。お得意の、記者会見で余計な発言を炸裂させてくれました。よっ！　待ってました、真理子さん。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「こうして今回は芥川賞、直木賞ともに初候補作品が受賞という、珍しい結果に終わった。さらにもう１つ異例といえるのが、林&lt;/span&gt;（引用者注：林真理子）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;選考委員が総括として「今回は、全体として作品が小粒だった。小説が売れない時代に、直木賞は指針を示すものでなければならない」と、小説界全般に対して直木賞が果たすべき役割を言明したことだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　文学界の権威の選考によって小説の魅力を位置づける直木賞。だが、最近は「本屋大賞」のような作家以外の人による小説のランク付けに販売力で及ばないなど、影響力の低下がささやかれる。林委員の発言は、こうした危機感の表れといえるだろう。」&lt;/span&gt;（『日経エンタテインメント！』平成22年/2010年9月号「選考委員の平均年齢も若返り　“売れる”本に言及した直木賞」より　―文：土田みき）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ははあ、なるほど。そんな意識が、1年後の第145回（平成23年/2011年上半期）で展開された、林さんの『ジェノサイド』推しにつながっているのかな、などと想像させてくれたりもして。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まあ、林さんは、何に対してそんな使命感を燃やしているのか、とツッコミを入れたくなるほど、直木賞の受賞を過大に考えるきらいのある方ですから。仮想の敵と常に闘う女、マリコ嬢。温かく見守ってあげたいなと思います。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;林&lt;/strong&gt;　偉そうなことを言いますけど直木賞がゴールじゃなくて、これからが頑張りどきですよ。気を緩めているとすぐに忘れられてしまいます。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;私も書き続けて、後世の語り部にならなきゃいけない使命を帯びているんじゃないかと思うんです。ほんとに中島さんには頑張ってほしいなと思います。私たちって大量に書き続けなきゃいけないわけで。直木賞を獲ったからって安心できないんですよ、活字文化にとってやさしい時代でもないですしね（笑）。」&lt;/span&gt;（『オール讀物』平成22年/2010年9月号　林真理子×中島京子「受賞記念対談　戦前日本は、明るく豊かだった」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　またそうやって、直木賞をとって寡作を貫いたような、信念の作家を「直木賞受賞者としては傍流」みたいに、決めつけちゃうのですね。林さんの直木賞観はあまりに熱くて濃くて、そして狭すぎて、肩がこりますよ。忘れられるのが、そんなに恐怖ですか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞はもっと自由なものだと思います。たかが直木賞です、気楽にいきましょうよ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当の中島さんは、直木賞のことをかなり自由な発想でとらえてくれているようで、なんだかホッとしました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「直木賞は伝統のある文学賞で、懐の深い賞でもある。ベテラン作家に授与されることもあれば、私のようなものが受賞することもある。そうなるときっと、直木賞の意味合いも受賞者によって違うと解釈すべきだろう。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　これからどんな作家人生が待ち受けるのか想像もつかないが、「とにかく、書く」ということで。後のことは、またまた運に任せるしかない。」&lt;/span&gt;（前掲「「とにかく、書く」ということで」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　直木賞は懐が深い！との指摘に、思わずうなずいてしまいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まったくです。100人の直木賞受賞者がいれば、100通りの直木賞があるってわけでして。「直木賞とは、どんな賞か」と問われて、最も的確な答えは、「自由な賞である」というものでしょうから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　受賞傾向も「自由」なら、受賞者の筆歴、作家としての歩みもバラバラ。とったあとの活動だって、当然、書いたっていいし書かなくたっていい。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;豊崎&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;（引用者注：豊崎由美）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;わたしは中島さんが直木賞を受賞して、ほんとうによかったと思っているんです。大きな賞をとると、より書きたいものが書ける自由を得るという利点がありますから。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;中島&lt;/strong&gt;　そういえば山田詠美さんもすごく喜んでくださって、「実用的な賞だからとっておくといいわよ」とおっしゃっていました。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;豊崎&lt;/strong&gt;　その通り。これまで以上に書きたいものを書いてください。」&lt;/span&gt;（『書評王の島』4号［平成22年/2010年12月］　「ロングインタビュー「中島京子」ができるまで」より　―聞き手：豊崎由美、構成：石井千湖）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　そして、書けば書いたで、ワタクシらのような無責任な読者からは「濫作だ」「紙の無駄づかい」とあしざまに言われ、本が出なくなると「低迷」「地味」「忘れられた」と言われる。それもこれも全部含めての直木賞。何と魅惑的で心おどる事象なんでしょう！&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　中島さんの場合、受賞後の記事の多くで、家族の存在が色濃く描かれた、っていうのも特徴のひとつでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　とくに、やはり姉・中島さおりさんとのハナシを差し挟まないわけにはいきません。直木賞を受賞するまでの道程のなかで、さおりさんとの関係が重要な節目となっているからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　人生ではじめて中島さんが触れた本は『あいうえお絵本』だったそうですが、これは、さおりさんがいたから出会えたものです。また小学校時代に、二人で「出版社ごっこ」で遊んでいた、っていうことが、よく知られることとなりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　中島さん「人生初の」長篇小説も、これまた最初の読者は姉さおりさんだったんだとか。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「高校時代に、人生初の長編小説を書き始め、大学生のときに完成させた。書き始めたのは高校二年生のときで、うっかりページを広げたままトイレに行くと、戻ってきたときに姉に読まれていたという失策をおかす。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　ところが、思春期三年間ほとんど口を利かなかった姉（当時大学二年生）が、「おもしろいからもっと書いて読ませろ」という。」&lt;/span&gt;（『オール讀物』平成22年/2010年9月号　中島京子「いつでもどこでも書いていた」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「私としては腹を立ててもいい状況なのに、「面白い」といわれたものだからめちゃくちゃうれしかったんですよね。「でしょ！」みたいな（笑）。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;姉を通して読者を喜ばせる楽しさを知りましたしね。私、いまだに一人でコツコツ、誰にも見せないで書くのって駄目なんです。」&lt;/span&gt;（前掲『書評王の島』「ロングインタビュー」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　いつかは小説家になりたいと強く思いつつ、20代はライターやったり編集者やったりで日常の仕事に忙殺されて、小説を書くことから離れます。そこからもう一度、自分のやりたかった「小説を書くこと」に戻るときの場面にも、やっぱり頼れる姉さんが登場するわけです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;さおり&lt;/strong&gt;　なくちゃん&lt;/span&gt;（引用者注：京子の愛称）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;、たった一度だけ、「作家にならないかもしれない」と、こぼしたことがあったね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;京子&lt;/strong&gt;　あった、あった。編集者生活を送りつつ30歳を超え、自分が自活の道を探って右往左往している間に、気がついたら同世代の女性作家がいっぱいデビューして、活躍してた。もう、私が入り込む余地はない、10年培った編集者としてのキャリアも捨てるのは怖いし、二足のわらじを履けるほど器用じゃない。そう話したら、ぱっちゃん&lt;/span&gt;（引用者注：さおりの愛称）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;別れ際、理解不能の面持ちで、「でも、小説家になってね」と捨て台詞みたいに。（笑）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;さおり&lt;/strong&gt;　なんか茫然としちゃってね。私が心の底から「なくちゃんは小説家になって大成する！」と信じ続けてきたのは、一体なんだったの？　と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;京子&lt;/strong&gt;　ぱっちゃんは高校時代から書いてる私を知ってる唯一の人間でしょう。高校生の私に詰め寄られてるみたいな気がした。あのとき、このまま会社に居続けるのは、いちばんやりたかったことを諦めることだと思って、退職し、約１年間ぶらぶらしたの。そうしたら、また書きたくなってきて。楽しみながら仕上げたのが『ＦＵＴＯＮ』だったのよね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;さおり&lt;/strong&gt;　ようやくデビューしてくれて、そうそう、こうなのよ、こうなるはずだったのよって、嬉しかった。だって、私は20歳そこそこの頃から20年くらい「妹は作家になる」と思い続けてたんだから。」&lt;/span&gt;（『婦人公論』平成22年/2010年10月7日号　中島京子×中島さおり「仲良し姉妹対談　９歳の姉、６歳の妹で始めた、「出版社ごっこ」が作家の原点」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;









&lt;p&gt;　何とまあ、鉄壁の信頼感！　思い続けた姉も姉なら、新人賞の応募などの手を頼らず、30代後半で自力で処女作出版への道をこじあけた妹も妹。よくぞデビューしました。涙、涙。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　先日のエントリーでご案内しましたように、山本一力さんの受賞で「よーし、おれも」「わたしも！」とやる気になる人もいるくらいです。きっと中島さんの受賞も、自身の行く先に悩む30代女性に大いなる励ましを与えたことでしょう（……って、知らないんですけど）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　デビュー作の『ＦＵＴＯＮ』は、その発想も含めてちょっとした話題になりました。ワタクシが細々やっているサイトでは、直木賞になりそうな（あるいは、とってほしい）作品を投票してもらう「大衆選考会」なる企画があるんですが、当時、この作品を推薦してくださった人もいました。見ている人は、見ているものですなあ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その『ＦＵＴＯＮ』の構想にも、さおりさんが一枚噛んでいたそうで。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;阿川&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;（引用者注：阿川佐和子）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　田山花袋の『蒲団』をベースにして書くという発想はどこから？&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;中島&lt;/strong&gt;　姉がフランスに住んで長いので、日本語の活字に飢えるらしいんです。で、教科書で名前を見たことのある『蒲団』を読んで、「これ、面白い」って言うんですよ。それで私も読んだらすごく面白くて。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』「阿川佐和子のこの人に会いたい」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　あなたも、子供のころからの夢をあきらめそうになったとき、どうしていっていいか悩んだときには、長年かたわらにいて、信じ続けてくれているお姉さんに、ぜひ相談してみてください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　というのは冗談としまして。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、中島さんは直木賞選考会の当日、編集者たちに囲まれて発表を待つ「待ち会」を、断固ことわり、自宅でひとりで結果を待っていたそうですが、直木賞に接するこの場面でも、彼女のまわりには、姉のさおりさんや、あるいはご両親が存在感をもって描かれています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞っつうのは、編集者や記者たちの騒ぎにもみくちゃにされがちです。このあたり、中島さん流の受賞光景といえるのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「文学界では「待ち会」といって、作家が親しい編集者と選考結果を待つ会を設けるのが慣例となっているようだが、それを頑なに「やりません」と固辞して一人で電話を待っていたのだって、期待と諦念の間、秒単位であっちへいったりこっちへいったりする動揺を人に見せたくないからに決まっている。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「日本文学振興会です」という電話がかかってきてみると、思っていたのと勝手が違った。母親と姉と出張中のボーイフレンドに続けざまに短い電話をしたのだが、&lt;/span&gt;（引用者後略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;」&lt;/span&gt;（『読売新聞』平成22年/2010年7月22日　中島京子「直木賞を受賞した日　喜び湧く前　奇妙な時間」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ここに登場するのは、ごく親しい人たちだけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　姉の子供2人は、叔母の受賞のために、自分たちなりの祈りを捧げてもくれていました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「フランスに住んでいる姉一家が、夏休みを過ごしに東京・杉並の実家に来ている。十一歳の姪と八歳の甥は、叔母が直木賞候補になっていると聞いて、なにやら奇妙な祈祷を始めた。正座して、ちょんと拍手めいたものを一つ打った後で両腕を高く上げ、「中島京子様が」と、いきなり身内に「様」づけ。そして、体を折り、頭を床に擦り付けるようにして「ナオキショーをとりますように」と、唱える。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　姪と甥はこの祈祷のおかげで、叔母が歴史ある文学賞を授与されたのだと信じている。」&lt;/span&gt;（前掲「「とにかく、書く」ということで」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ナオキショーが何だか知らないのに、それでも目いっぱい祈ってくれる。ありがたい二人です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして、やはりこの方々にも登場していただかなければ場が収まりません。中島さんと姉に幼いときから、文章を読む環境、文章を書く厳しさを与え、教えてくれた両親です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞候補となることが決まってから、マスコミに発表される前に、中島さんがそのことを伝えたのも、両親二人でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いや、正確には母親に伝えただけです。しかし、認知記憶障害にある父親にも、伝わるように。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「直木賞候補になったとき、私は、賞を主催する日本文学振興会の方に「マスコミ発表があるまでは誰にも言わないで下さい」と釘を刺された。それでも誰かに言いたくて、実家の母に電話した。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「お母さん、私、直木賞の候補になっちゃった。でもね、これ、あと二週間くらいは内緒にしとかなきゃいけないの。だから、誰かに言いたくなったらさ、お父さんに言って。お父さんなら、すぐ忘れちゃうから」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　わかったと、母は言った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　夕食時に、どうしても話したくなった母は、私に言われたとおりにこう言った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「お父さん、京子が直木賞の候補になったの」「ほー。すごいな。ナオキショウって、なんだ」「小説の、立派な賞」「ほー。偉いもんだな」「まだ、誰にも言っちゃいけないんだって」「ほー」「だけど、お父さんにだったら言ってもいいっていうの。ほら、お父さん、すぐ忘れちゃうから」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　それを聞いた父は、何を思ったかうれしそうに胸を張り、言ったそうである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「ほー。さすがは、お父さんだな！」」&lt;/span&gt;（『文藝春秋』平成22年/2010年10月号　中島京子「父のたわごと」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;













&lt;p&gt;　忘れっぽい症状の中島父まで、直木賞を媒介にして、なんだか誇らしげな気分をもってくれたのですね。ああ、直木賞ファンとしては嬉しいの極みです。&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-04-15T22:35:05+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/86561981-8821.html">
<title>光岡明（第86回　昭和56年/1981年下半期受賞）　よーし、小説どんどん書くぞ、の意欲を封じ込めてでも生きる、デキる地方在住ビジネスマンのジレンマ。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/86561981-8821.html</link>
<description>光岡明。『機雷』（昭和56年/1981年・講談社刊）で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。 　中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。 　光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。 「受賞決定の目ま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; alt=&quot;120408&quot; title=&quot;120408&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/08/120408.jpg&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun86MA.htm&quot;&gt;光岡明&lt;/a&gt;。『機雷』（昭和56年/1981年・講談社刊）で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「受賞決定の目まぐるしさから一段落した光岡は「これまで以上にスピードを上げて書き続ける覚悟は、もう完全に据わった」と言った。芥川賞候補に四回挙げられ、同人誌にも属さず独力でやってきた自負もさることながら、直木賞の性格から、今後も小説を書き続けられる人間と認められたという重みを身にしみて感じ取っている。「『機雷』はデビュー作と考えたい。代表作はこれから。六十五歳ぐらいまでは全力を挙げて取材する覚悟で」。」&lt;/span&gt;（『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　……ええと、こんなにヤル気まんまんだったのに、受賞してから遺作まで、光岡さんが出すことのできた小説は、『千里眼千鶴子』『前に立つ空』『薔薇噴水』のわずか3冊。エッセイやノンフィクションの類を加えても、10冊にも達しません。うおう。せつない。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「熊本市での受賞祝賀会で、出版社関係から「どうか地方の名士に祭り上げてくれるな」という意味の挨拶があったが、頼まれてもそうなるような人柄ではないというのが、周囲の一致した見方。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ああ。ため息が洩れちゃいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「頼まれてもそうなるような人柄ではない」ですと？　どなたですか、そんな無責任なこと言ったのは。頼まれて頼まれて頼まれ尽くして、光岡さん、そうなっちゃったんじゃないんですか？&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「５２歳で新聞社を辞め、８５年～９５年まで、熊本近代文学館の初代館長に。県や市の各種委員就任への依頼は増え、「書く時間が足りない」とぼやいたが、「むげに断れるほど偉くない」とエッセーに書いている。」&lt;/span&gt;（『朝日新聞』夕刊　平成17年/2005年1月31日「惜別　作家・元熊本近代文学館館長　光岡明さん　記者意識、礎に」より　―署名：渡辺淳基）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　周囲の人には、地元の名士に祭り上げる気はなかったかもしれません。だけど結果、「県在住の唯一の直木賞作家」みたいな肩書きが、光岡さんの創作時間を奪い取り、寡作作家へのレールを敷いたことは否定できません。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「館長時代は時間が細切れにしか取れず、小説もなかなか書けませんでした。十年間で短編二本ぐらいでしょうか。」&lt;/span&gt;（『西日本新聞』平成7年/1995年5月30日「近況　公職やめ小説に専念、光岡明」より）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「昨年三月、新聞社退職後、十年間務めた熊本近代文学館長を退いた。「在任中は企画展が年四回、各種審議会の委員が三十三も重なる」相当な激務。小説を書く心境ではなかったようだ。」&lt;/span&gt;（『西日本新聞』平成8年/1996年10月27日「ひと・仕事の内そと　短編小説集を刊行した、光岡明さん」より　―署名：藤田中）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　ちなみに光岡さんの年譜は、井上智重さんが『恋い明恵』（平成17年/2005年8月・文藝春秋刊）の巻末「光岡明さんのこと」内でまとめてくれています。それによると、直木賞受賞の49歳のときには熊本日日新聞社編集局次長の職にあり、同年、論説副委員長。さらに熊日情報文化センターに社長として出向後、昭和60年/1985年に退社、52歳で熊本近代文学館館長に就任します。そこから10年。平成7年/1995年までの10年間、62歳まで、館長としての激務――言い換えれば地元の名士として熊本県文化向上のために精一杯つくした、と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　65歳までは全力を挙げて取材するのじゃ！と創作意欲もえたぎっていた光岡さんの、貴重な貴重な10数年でした。でしたのに。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、「直木賞作家」の肩書きだけのせいじゃありません。なにせ光岡さん自身、真面目で誠実で、打ち込むとなればトコトン打ち込む人です。しかも50歳。まわりのことや社会のことを考えなければいけない、いい大人です。頼まれれば断らない、それどころか小説執筆をおいてまで、「地元の名士」に情熱を傾けました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「新聞社にいたときは記者として、文学館に移ってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。同時にその人脈は県内の行政、民間の両方にまたがって隈なく拡がっていた。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読む、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡さんは思っていた。」&lt;/span&gt;（井上智重「光岡明さんのこと」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　周囲の人たちがもう少し、光岡さんへの公職依頼を遠慮していてくれたら。光岡さんがもう少し、わがままを通す人で作品を生み出すほうに専念していてくれたら。まだあと何作も、ワタクシたちは光岡作品を読めたかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　きっと光岡さん自身も悩んだことでしょう。あたら「直木賞」などという、虚飾の最たる肩書きを背負わされたばっかりに、思い通りの執筆活動ができなくて。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞が運んでくるのは、職業作家への扉をあけるカギばかりではない、地元民たちの期待にくるまれた社会的な役割までも、どっさりと押し付けられる……。デキる作家でもあり、デキるビジネスマンでもあった光岡さんは、そんな直木賞の性格を、痛いほどに体感させられたのでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「――受賞時は熊本日日新聞の編集局次長でしたね。作家との両立は大変だったでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;光岡&lt;/strong&gt;　作品に対して与えられた賞が、同時に社会的地位を高めるということを実感しましたね。講演依頼やいろんな委員会の委員就任要請が殺到し、受賞後の二、三年は異常な状況でした。新聞記者なので地域社会のお役に立ちたいという気持ちはあったが、一方で書く時間がなくなる。正直言って、私の心の中ではかなりの葛藤（かっとう）がありました。」&lt;/span&gt;（『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1　賞の意味」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　光岡さんは、ついに、直木賞をとりながら寡作のままで逝ってしまいました。誰の責任でしょうか。直木賞のせい。地元の人たちのせい。光岡さん自身のせい。……ううむ、どれとも言いがたい。せつないです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　光岡さんが、はじめて小説の世界で注目されたのは昭和50年/1975年、42歳のときでした。昭和47年/1972年ごろから『日本談義』の荒木精之さんに、小説を書けと言われて書きはじめたらしいです。同誌昭和50年/1975年2月号に掲載された「卵」が、『文學界』に全国同人雑誌優秀作として転載されました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　地方紙記者の光岡さんが、なぜ小説を書くようになったのか。最も有力な説は、昭和48年/1973年に父親が死んだこと、なのだそうです。有力な、と言いますか、光岡さんご本人が書いています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「小説は日記ではない。発表を前提としない人はいないだろう。その上、一人でも多くの人に読んでもらいたい、というのが本心であるはずだ。さて、とそこで立ち止まる。だれが私の書いたものに興味を持ってくれるか。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　私は父の死亡記事を私が働く新聞に書く段になって、全く父のことを知らないことに気がついた。父の死亡記事は葬儀日取りを含めて七行で終った。百字あまりである。私が小説を本気で書き出したのはそれからだが、父がもしいまも生きているとして、父が喜んで私の書いたものを読んでくれるだろうか。」&lt;/span&gt;（昭和53年/1978年9月・文藝春秋刊　光岡明・著『草と草との距離』「あとがき」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　「本気で」書き出したのは、41歳からだった、と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　では、本気でなくともいいから、光岡さんが小説を書き出した経緯はどこにあったんでしょう。ってことを追ってみますと、もう少し昔までさかのぼれます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　井上智重さんの「光岡明さんのこと」によれば、熊本の宇土高校時代に、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「文芸部と演劇部に属し、好きな女の子が出てくる小説を書くなど、積極的で成績も優秀であったという。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　とあります。また、熊本大学を経て熊本日日新聞に入社後、昭和36年/1961年に見合い結婚をするのですが、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「最初のデートのとき、「僕は小説を書いている」と打ち明けたという。」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　小説への関心はずーっと光岡さんのなかにあったようです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、実はルポライターに憧れていた、っていう説もあります。いや、説と言いますか、これもご本人が言っていることです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　光岡さんは昭和41年/1966年～昭和45年/1970年、33歳～37歳のときに東京支社で働いています。この間、ルポを書くことの魅力にハマったらしいんですね。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「西南と東北」と題した民俗的で、土着性の強いルポを連載した。実に数多くの作家、画家、芸能人たちに会っている。「日本談義」昭和四十三年一月号に「東京の中の熊本人」として活写しているが、彼が意図的に会っているのは演劇関係だ。」&lt;/span&gt;（&lt;a href=&quot;http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2329.html&quot;&gt;〔熊本県教育委員会〕ホームページ&lt;/a&gt;　井上智重「光岡明の風景　その生涯と作品」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　在京中には大宅壮一ノンフィクション塾にも入塾しました。「西南と東北」という記事は『熊本日日新聞』に連載され、じつは文藝春秋主催の第1回大宅壮一ノンフィクション賞に、予選候補のひとつとして挙げられたりしたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　塾生だから予選候補になったのか、それとも逆なのか。判然としません。いずれにせよ光岡さんが、そこから先、新聞記者活動の延長として、ノンフィクション物を書いて脚光を浴びる可能性は十分にありました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところがこの時期に、光岡君、きみにはルポは向いていないね、とアドバイスしてくれた人がいました。大宅塾塾監の草柳大蔵さんでした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;光岡&lt;/strong&gt;　私は、もともと新聞記者で、それもルポライターになりたいと思っていた。ところが、東京支社勤務時代に大宅壮一さんの塾生になり、塾監の草柳大蔵さんに私の原稿を見せたところ「君はルポライターよりも小説家の方が向いている」と言われ、それからですよ、小説を書き始めたのは。当時、三十七歳だったかなあ。スタートとしてはかなり遅かった。」&lt;/span&gt;（前掲「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1　賞の意味」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　37歳。昭和44年/1969年か昭和45年/1970年ごろのことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　光岡さんに小説を勧めたのは、果して草柳大蔵か先か、荒木精之が先か。そんな問題を突きつけられて、ワタクシは回答できず、たじろぐばかりです。ただ、ああ光岡さん、奇しくも昔から文藝春秋とは縁があったのだなあ、とその運命の面白さに、のんきに詠嘆しているところです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　全国同人雑誌優秀作として「卵」を引き上げてくれたのも、文藝春秋の『文學界』。その後、4度の芥川賞候補はいずれも、『文學界』掲載の作品。直木賞を受賞して、発表の舞台が広がるかと思いきや、光岡さんの小説が載った媒体は、いずれも文藝春秋の発行する『オール讀物』か『別冊文藝春秋』か『文學界』。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして、とった賞が文藝春秋の直木賞。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　書き下ろしの受賞作『機雷』だけが、講談社から出版されたものでした。これがかなり浮いて見えるほど、光岡さんといえば（小説家としての顔に絞って見れば）文藝春秋専属のおもむきです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小説を書きはじめたころ、光岡さんは後輩記者に、こう言っていたそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「新聞社に入社したばかりの三十年近く前、昼休みに光岡さんから喫茶店に誘われた。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　身を固くしている新米に、既に俊才の誉れが高かった学芸記者は言った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　「おれは新聞記者とモノ書きの二足のわらじを履いている。いずれ文壇で名を成して見せる」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　自信をみなぎらせた表情に、「この人はただ者ではない」と畏敬（いけい）と憧憬（しょうけい）の念を抱いた。」&lt;/span&gt;（『熊本日日新聞』平成16年/2004年12月23日「評伝　光岡明さん」より　―署名：龍神恵介）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　いずれ文壇で名を成す。……直木賞をとったぐらいで「名を成した」と思ってくれるオメデタイ人は少ないでしょうけど、果たして光岡さんは宣言どおり、文壇で名を成したと評価していいのでしょうか。たとえば、たった一つの出版社だけじゃなく、もっともっと多くの雑誌に小説を書いてくれて、広く評価されていたと認識できれば、ワタクシも気持ちよく、光岡さんは名を成した、と言い切れるのですけど。今は何とも、ムニャムニャした気分です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、亡くなってまもないころ、安永蕗子さんは堂々と言ってくれました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「昨年１２月に７２歳で亡くなった直木賞作家、光岡明さんを偲（しの）ぶ会が１０日、熊本市の市民会館で開かれた。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;親交のあった熊本市在住の歌人、安永蕗子（ふきこ）さんは「光岡さんの文字と言葉は長く生き続ける」と述べた。」&lt;/span&gt;（『朝日新聞』西部地方・熊本版　平成17年/2005年2月11日「功績・人柄、400人が偲ぶ　直木賞作家・光岡明さん」より　―署名：渡辺淳基）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　そうだそうだ、長く生き続けてほしいぞ。『機雷』の重厚な感じも捨てがたいんですが、文学館館長の激務から解放されてのちに出した『薔薇噴水』なぞも、かなりイッちゃっている設定の、楽しい短篇集です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ほんと、地方の名士に祭り上げたままにしておいてほしくないよなあ。&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-04-08T21:58:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/4134195910-af15.html">
<title>渡辺喜恵子（第41回　昭和34年/1959年上半期受賞）　直木賞をとったら華やかに活躍しなきゃいけない、とは誰も期待せず、本人も意識しないで書き続けた栄光。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/4134195910-af15.html</link>
<description>渡辺喜恵子。『馬淵川』（昭和34年/1959年5月・光風社刊）で初候補、そのまま受賞。『いのちのあとさき』でのデビューから17年。45歳。 　昭和34年/1959年上半期の直木賞は、女性2人が受賞しました。同時受賞者がともに女性、っていうのは初めてでした。 　時にマスコミこぞって「文壇才女時代」なる言葉に囚われていた頃です。当然、才女だ才女だと煽り立てようとしました。 「芥川賞は斯波（引用者注：斯...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; alt=&quot;120401&quot; title=&quot;120401&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/01/120401.jpg&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun41WK.htm&quot;&gt;渡辺喜恵子&lt;/a&gt;。『馬淵川』（昭和34年/1959年5月・光風社刊）で初候補、そのまま受賞。『いのちのあとさき』でのデビューから17年。45歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和34年/1959年上半期の直木賞は、女性2人が受賞しました。同時受賞者がともに女性、っていうのは初めてでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　時にマスコミこぞって「文壇才女時代」なる言葉に囚われていた頃です。当然、才女だ才女だと煽り立てようとしました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「芥川賞は斯波&lt;/span&gt;（引用者注：斯波四郎）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;と決定した。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;別室では直木賞作家が誕生している。渡辺喜恵子の「馬淵川」と平岩弓枝の「鏨（たがね）師」。両女流作家の登場である。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　新聞・テレビの記者は、発表をきくと同時に、深夜を八方にとんだ。三人の受賞者を追いもとめながら。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　だれかがいっていた、今年の文学も、また才女時代と新聞記者作家がまだつづくのか、と。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　直木賞受賞の二人の女流作家の方が、話題となるのではないかとみる人もいる。直木賞の歴史を考えてみても、一度に二人の女性が受賞した記録はないし、衰えかかった才女時代という看板をたて直すにはまたとない好機だからだ。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』昭和34年/1959年8月3日号「文壇のニューフェース　25年目の芥川賞・直木賞」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;









&lt;p&gt;　意味不明です。「衰えかかった才女時代という看板をたて直す」って、いったい誰視点なんでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかしです。せっかく誰かが目論んだ「才女時代のたて直し」も、残念なことに予想どおりにはいきませんでした。平岩さんはいいとして、一方が渡辺喜恵子さんですよ。45歳。地味。謙虚。コツコツ型。ゆっくりじっくり書く自分のペースを崩す気はまったくなし。……才女と呼ぶにこれほど似合わない作家がいたのか！っつうぐらいでして。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　賞さわぎの慌ただしさを経ても、渡辺さんは、自分の書きたいように書く、っていう考えを守りました。「直木賞受賞、即、流行作家」みたいな世間のイメージにさらされてしまって、困惑すらしています。まじめな人です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「賞をもらったからといって、何も昨日に変って突然偉くなったわけでもないのに、まして金持ちになったというわけでもないのに、時どき変なことをきかれて私は困ってしまう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　印税がたくさん入ったでしょうと電話をかけてよこす人があるかと思うと、あなた気をつけなさい、税務署が来るわよなどと、親切におどかしてくれる人もいる。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;いくら税務署だって、書きもしない、受けもしない稿料にまで税金をかけるわけはないのだから、相手はあんまり書けそうもない私をからかっているのだと思った。」&lt;/span&gt;（『朝日新聞』昭和34年/1959年9月6日　渡辺喜恵子「直木賞・それから　訪問客」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　「あんまり書けそうもない」ことは、渡辺さん自身、十分わかっていました。選考委員たちに、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「あとは書けまい」という声も委員中にはだいぶ出た」&lt;/span&gt;（『オール讀物』昭和34年/1959年10月号　吉川英治選評より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　だの、&lt;/p&gt;&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「大佛氏は「この作家は『馬淵川』一篇より書けないかも知れないが、それでもよいではないか。この一作だけに賞を贈りたい」といった。」&lt;/span&gt;（同　川口松太郎選評より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　だの、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「将来も職業作家として立って行ける人を選ぶ、という直木賞の条件に、こんどは頑迷なほどわたしはこだわって、渡辺喜恵子氏の「馬淵川」に初めから終いまで反対をした」&lt;/span&gt;（同　村上元三選評より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　だのと書かれますが、無理やり直木賞を押しつけられたかっこうの渡辺さんは、困惑したでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　家では商業写真家の木下利秀さんと二人暮らし。あくせく原稿を売り歩く必要はなく、目立たないように慎ましく生きていくことを信条としているかのような様子。小説も、ゆっくりと書くのを好む人です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「小説の場合、私は好んで長い作品を書きたがる。一気に書くより、ゆっくり書く方が性に合っているようだ。短篇小説の場合も長篇小説の場合も、とりかかるときの作者の心構えにそう変りはないと思うのだが、なぜか私は長篇の題材を選んでしまう。」&lt;/span&gt;（昭和56年/1981年12月・女子栄養大学出版部刊　渡辺喜恵子・著『北国食べもの風土記』「はじめに」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　また、渡辺さんはことさら大きなことを言って衆目を集める、みたいな人でもありません。きっと渡辺喜恵子さんと聞いて日本人の九割以上が「謙虚」を連想するほどです（……いや、連想してほしい）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　処女出版の『いのちのあとさき』の頃から、そうでした。クソまじめで面白みのない謙虚な文章。これぞ渡辺喜恵子その人です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「これは、私が始めて世に出す、まづしい作品集であります。志した文学の道ははるかに遠く、至りつくといふことの難しさを識りました。唯この作品集を世に出す所以は、私の文学修業の一つの標識ともなればといふ望みからであります。」&lt;/span&gt;（昭和17年/1942年9月・国文社刊　渡辺喜恵子・著『いのちのあとさき』「あとがき」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　あるいは、直木賞受賞後のインタビューでも。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「私は苦節10年といわれていますが、この年になりますと、この10年間は尊いものです。若い方たちのものおじのなさはうらやましいですが、私にはもう自分の限界もわかっていますし、いくじもなくなりますね」&lt;/span&gt;（『週刊読売』昭和34年/1959年9月20日号「書斎訪問」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　まあ、こういうこと言いながら、実は創作意欲旺盛で年に何冊も出したり、次々と連載小説に手を染めたりしたら、イヤな人です。渡辺さんは正真正銘、地道な人でした。受賞しても、同人誌が主な活動舞台だった頃と、ほとんど変わらない書きぶりを貫きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そんなふうに作家生活を送りましたので、小川和佑さんのように、こんな感想を持った方もいたことでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「より文学性の強い渡辺の作風は、マス・コミの中間小説の作風には向いていない。むしろ、長い時間をかけて自己の文学を育てていくタイプの渡辺には、受賞の騒音の去った後こそ、本来の仕事に還れるのであろう。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;u&gt;&lt;strong&gt;その文学の本質からいえば、直木賞作家というタイトルが今となってはあらずもがなではあるまいか。&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;」&lt;/span&gt;（『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より　―執筆担当：小川和佑　太字下線は引用者によるもの）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;　ええ。あらずもがな、でしょうね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、直木賞をとった人が一生「直木賞作家」と言われ続けるのは、強固な砦です。それを突き崩すのは困難なことです。ワタクシは渡辺さんを一人の直木賞受賞者として認識しています。それがそんなにイケないことですか？&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　受賞当時から、渡辺さんが獅子奮迅の大活躍をするだろうとは、まわりの人も期待していませんでしたし、本人も意識しませんでした。次第に知る人も少なくなり、その作品は忘れ去られ、光の当てられる機会が稀な作家となっていきました。そして、「華やかさのない直木賞受賞者」っていう、栄光ある地位を築いたのです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「直木賞作家のその後としては地味で、華やかに取り沙汰されることはなかったが、着実な歩みで自己の文学世界を熟成していった。」&lt;/span&gt;（平成18年/2006年1月・日本図書センター刊『日本女性文学大事典』より　執筆担当：林正子）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　一種の栄光ですよね、これは。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　旺文社文庫『馬淵川』（昭和51年/1976年3月）の巻末に、やや詳しめの「年譜」があります。気になるところをつまみ食いしながら、直木賞受賞までの道のりをたどってみます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　秋田県で育った渡辺さん（当時は旧姓の栗生沢［くりうざわ］）が上京したのは、能代高等女学校を卒業した昭和6年/1931年。17歳。叔父の家に寄宿し、花嫁修業に入ります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一時、文化学院で学んでいたらしいですが、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「が、文化学院の雰囲気は良妻賢母を叩きこまれた彼女にとって、ガマンのならぬものであったらしく、健康上の理由も手伝って、たちまち退学してしまう。」&lt;/span&gt;（『週刊女性自身』昭和34年/1959年8月7日号「女二人が占めた直木賞　27才のお嬢さん作家と苦節10年のエプロン作家」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　2年後、画学生の渡辺茂と婚約。昭和10年/1935年に結婚のため、広島に移りました。しかし翌年ごろから夫・茂さんが胸を病んでしまい、療養しながら四国、尾道、東京と転々。昭和14年/1939年に茂さんと死別します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ひとりになった渡辺さんは大平火災保険に1年勤め、昭和16年/1941年に友人とタイプ印刷の事務所を開きました。これは1年ほどで閉鎖したのですが、このころ「仕事のかたわら同人誌をつくる」とあり、小説を書き始めたようです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「九人兄妹の二番目なんですが、私のほかに文学の趣味のあるものはいないんです。私も、いつ小説をどうやって書き出したのか、はっきり覚えてません。はたちで結婚したが、やがて夫に死にわかれました。そんなことが動機になっているのかも知れません。」&lt;/span&gt;（前掲『週刊文春』記事より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　タイプ印刷事務所で知り合ったのか、同人誌が目に止められたのか、経緯はわからないんですが、知人の出版社社員にすすめられ、『いのちのあとさき』を刊行することに。しかし、ここでも渡辺さん、はたはた困惑させられる羽目になります。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「別に小説家になるつもりもなく、ただ好きで書いていたのが、知人の出版社員にすすめられたのだそうだ。「当時はしろうとの作品がかなりもてはやされていたせいでしょうね。出版社のかたから『早く堤千代さんくらいになって下さいよ』なんていわれて面くらいました」という。」&lt;/span&gt;（『朝日新聞』昭和34年/1959年7月23日「人　直木賞を受賞した渡辺喜恵子」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　処女出版がもたらしたのは、困惑だけではありませんでした。新たな同人雑誌仲間との出会いもありました。妻木新平、辻村もと子が訪ねてきたそうで、それが縁で『文藝主潮』に入会。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和19年/1944年3月から昭和20年/1945年9月まで、母の郷里である岩手県福岡町へ疎開。このときに、のちの『馬淵川』の原型となる伝説の2000枚原稿を書き上げた時期だったわけですね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　再び上京後は、妻木新平のはからいで『日本青年文学者』編集のお手伝い。昭和22年/1947年には、『馬淵川』の一部である「末のまつやま」を発表し、第2回女流文学者賞の候補にもなりました。丸岡明の紹介で『三田文学』に参加しはじめたのは、昭和24年/1949年だったそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この年の暮に、商業写真家の木下利秀と再婚。35歳でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小説執筆に関しては、もう渡辺さん、セミプロといっていい状況になっており、昭和25年/1950年には「紙が出まわりはじめて出版社が増え、この頃から原稿生活が軌道に乗るようになる。『明日』『女性改造』『新女苑』などに執筆」。何人かの直木賞受賞作家、候補作家を生んだ同人誌『下界』にも加わり、おそらくはその縁で光風社ともつながりができました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和30年/1955年から昭和32年/1957年にわたって『新文明』に「馬淵川」を連載。これをまとめて光風社から単行本として出版したのが昭和34年/1959年でした。直木賞を受賞しましたが、当時のマスコミで無理やり付けられたキーワードのうち、「才女」でも「苦節十年」でもなく、ただただやめずに淡々と書いてきた、って感じの人でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そして、昭和34年/1959年以降も、ただただやめずに淡々と書きつづけた……と表現すると語弊がありますか、そうですか。東京に住みつづけながら故郷（北東北）への思いは衰えず、鷲尾三郎さんによると、「主人公は、その九〇％までが東北出身の女性」というかたちで小説を書きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかも、渡辺さんは直木賞受賞者のなかでは地味トップクラスですが、一千万円の大金を寄付して、新たな文学賞をつくってくれた、っていう意味で文学賞界においては、なかなかの恩人なのでした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「渡辺の郷土に対する愛着もまた深い。地元紙の秋田魁新報社に一千万円を寄付し、「さきがけ文学賞」を作った（昭和五十九年度）が、毎年公募され、全国から六十編ほどが応募している。渡辺の意志は、東北を対象とした文学賞の基金にと申し入れたのを、同社が全国に拡大してしまったらしいが、自ら審査員を買って出、後輩の養成に尽力している。」&lt;/span&gt;（昭和63年/1988年12月・秋田文化出版社刊　鷲尾三郎・著『秋田を動かす25人』所収「渡辺喜恵子」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　そうですよね、東京なんぞの偏った出版事情によりその名が消え失せようとも、故郷に対する貢献、あるいは終生故郷を忘れなかった作家ですもの、秋田では、渡辺喜恵子さんの名前はしっかり語り継がれているんですよね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……と思ったら、あれ。ほんの3年前に赤坂憲雄さんが、こんなこと書いているではありませんか。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「わたしはじつは、渡辺喜恵子という名前を知らなかった。「消えた直木賞作家」といった本のなかに、その名前があった。秋田県出身ではじめての、東北でただ一人の女性の、直木賞作家である、という。奇妙な、いくらか不純でもある関心をそそられた。」&lt;/span&gt;（『河北新報』平成20年/2008年11月9日「東北　知の鉱脈　赤坂憲雄が行く（20）　渡辺喜恵子（北秋田市）」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　おお。赤坂さんも「消えた直木賞作家」に関心をそそられますか。ワタクシもです。嬉しいですなあ。……ってことは措いときまして。問題は、この文章の後半部分です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「第一の故郷ともいうべき秋田では、渡辺喜恵子の名前はなかば忘れられている気配があった。４０代以上の人であれば、名前くらいは知っているかもしれないが、若い人たちは知らない、材木問屋の娘で、裕福な家に育ったこと、東京に出てしまったことなどが、郷土の作家というイメージを育ちにくくしている、そんな声を聞いた。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　えーっ。渡辺喜恵子を知らない秋田県人がいるの!?　「材木問屋の娘で裕福な家に育っ」ちゃうと駄目なんですか。呆然。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……ほんとに若い秋田県人が渡辺さんを忘れ去って安穏と暮らしているかどうかは、検証できていないので、突っ込まないことにしましょう。華やかさに欠け、直木賞受賞者のくせに文学味が強く、商業的にも旨みのない昔の作家。みんな忘れていくでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかしワタクシはなかば楽観視しているのです。日本中で絶対に渡辺さんの名前を忘れていない集団がいるはずですから。ええ、直木賞愛好グループなら、いくら若い人たちでも、渡辺さんを知らないわけありません。そして、今後も永く、彼女の名前や作品を語り継いでいくことでしょう。ですよね？&lt;/p&gt;
</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-04-01T21:50:35+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/11471995-213f.html">
<title>小池真理子（第114回　平成7年/1995年下半期受賞）　話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/11471995-213f.html</link>
<description>小池真理子。『恋』（平成7年/1995年10月・早川書房／ハヤカワ・ミステリワールド）で初候補、そのまま受賞。『第三水曜日の情事』『あなたから逃れられない』での小説家デビューから10年半。43歳。 　今年の芸術選奨［文学部門］は小池真理子さんですかあ。すっかり大御所の格ですね。よかったよかった。 　それで今日の主役は小池さんなわけですけど、今から16年前、直木賞をとったときに小池さんはこう言われま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; alt=&quot;120325&quot; title=&quot;120325&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/03/25/120325.jpg&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun114KM.htm&quot;&gt;小池真理子&lt;/a&gt;。『恋』（平成7年/1995年10月・早川書房／ハヤカワ・ミステリワールド）で初候補、そのまま受賞。『第三水曜日の情事』『あなたから逃れられない』での小説家デビューから10年半。43歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今年の芸術選奨［文学部門］は小池真理子さんですかあ。すっかり大御所の格ですね。よかったよかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それで今日の主役は小池さんなわけですけど、今から16年前、直木賞をとったときに小池さんはこう言われました。「もはや〈知的悪女〉を持ち出す必要がなくなった」と。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「知り合いの編集者に「実は小説が書きたいんです」と申し出たが、「小説など書かずに、結婚した方がいいよ」とにべもなく言われたのは、七八年の初エッセー集『知的悪女のすすめ』がベストセラーになった時だった。「でも、そのころの私は、そう言われても当然だった」と振り返る。小説に専念したのが八四年。そんなマスコミタレント的イメージとの戦いだったという。しかし今、この人を語るのに「知的悪女」を出す必要はもうないだろう。」&lt;/span&gt;（『読売新聞』平成8年/1996年1月12日「顔」より　―署名：文化部石田汗太）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　まったくです。もう必要はないでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、小池さんの直木賞までの道のりに、〈知的悪女〉の件が重要な役割を果たしたのは事実です。うちのブログは直木賞関連オンリーです。おさらいしないわけにはいきません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　昭和53年/1978年10月、小池さん25歳のとき、山手書房から『知的悪女のすすめ――翔びたいあなたへ』が出版されました。これが大層売れまして、同シリーズのエッセイを続々と刊行、講演会に呼ばれるは、テレビのコメンテーターの仕事が舞い込むはで「人気エッセイスト」の座をつかみました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、先の引用文にもあったように、小池さんにとっては「マスコミタレント的イメージとの戦い」でした。数々のエッセイやインタビューなどで明かされているとおりです。いや。シリーズ3冊目の段階ですでに、自分の考えと、世間の受け取られ方とにギャップを感じていました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「私が今まで書いたり語ったりしてきた“知的悪女”という一つの女の像が、果たして私の思っていた通りの形で読者に伝わっていたかというと疑問である。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　私の“知的悪女”はマスコミの男どもの手を経てかなり勝手に解釈され、ファッション化された。あるときはセックスのことのみ強調して語られ、またあるときは、不倫の恋のすすめがメインテーマであると言わんばかりに、不自然に本そのものが歪曲化された。」&lt;/span&gt;（昭和54年/1979年3月・山手書房刊　小池真理子・著『素肌でシェリー酒を――新・知的悪女のすすめ』より　―引用文は昭和57年/1982年4月・角川書店／角川文庫より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　なにしろ〈知的悪女の小池真理子〉の印象は鮮烈でした。何かにつけ知的悪女、知的悪女と言われる日々を送ります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　若いネエチャンが威勢のいいこと言ってるぞ、と世のオジサンたちの好奇の目にさらされ、もてあそばれる構図ですね。もちろん、小池さんの虚像を楽しんだのはオジサンだけではありません。あとに続く若いネエチャンからも、違ったかたちで標的にされたのでした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「最近、小池さんと同じ名前のコピーライターの林真理子さんが、小池さんとは逆の〈結婚願望〉をテーマにした著作を次々発表してマスコミをにぎわしています。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　〈やっぱり女はカワイくて愛される方が幸せだ……〉&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　として、時代の保守化の波にのってベストセラーを出している姿をみるとき、益々小池さんの存在の重さを感ぜずにはいられません。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　会田雄次氏や渡部昇一氏のような男性天敵のみならず、同性天敵とも闘っていかねばならぬからです。」&lt;/span&gt;（昭和58年/1983年9月・角川書店／角川文庫　小池真理子・著『結婚アウトサイダーのすすめ』所収　ばばこういち「解説」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　そうです。小池さんより数年遅れて現れた〈若いネエチャンエッセイスト〉希望の星、林真理子さんからの突き上げでした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「こういう女の下半身打ち明け話っぽいものが本になりはじめたのは、いったいいつ頃からだっただろうか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　私が思うに、小池真理子さんの「知的悪女のすすめ」なんかが先鞭をつけたと思う。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;最初にあの本を読んだ時、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「へえー、こんな卒論のできそこないみたいなものが本になるわけ――」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　と当時の私はかなりふんがいしたものである。彼女の美人ぶるのと、悪女ぶるのも、私には気にいらなかった。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　成功した有名女性の悪口をいうのは、彼女&lt;/span&gt;（引用者注：成蹊大出身の、林の友人）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;と私の共通の趣味なので、それから二時間以上も電話でエンエンと彼女の悪口をいってしまったのだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「だいたいねぇー、自分にちょっとバカな男が何人か寄ってくるからって、それにどうのこうの意味をもたせたり、カッコつけんの間違ってるわよ」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「それにさ、女同士でやるようなナイショ話を、本にするって根性セコイわね」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「よくいたじゃん、小学校の時、みなの話を聞くだけ聞いて、あとでひとりで先生にいいつけに行くコ」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「いた、いた、そういうコにかぎってわりと可愛いから、先生にかわいがられたりして」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「あらっ、小池真理子って可愛い？」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「よくいるタイプ、タイプ、赤坂のスナックなんかで塩コンブをつまんでほこりかぶってる……」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「あなたのほうがゼーンゼンいい女よん」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「ま、ありがと。色気だったらマリコ（私の方の真理子）の方があるわね」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　小池さん、ごめんなさい。市井の女たちというのは、こんなひどいことばっかりいってるものなんです。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　しかし、あのテの本を書く女性たちが、女たちから嫌われているのは事実ですね。」&lt;/span&gt;（昭和57年/1982年11月・主婦の友社刊　林真理子・著『ルンルンを買っておうちに帰ろう』「打ち明け話はもう古いつうもの」より　―引用文は昭和60年/1985年11月・角川書店／角川文庫より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





























&lt;p&gt;　なある。小池さんを目のカタキにしていたのは、良識派を気取る旧世代のおじさんおばさんだけじゃなかったのですなあ。林さん言う「女たち」も、また嫌っていたと。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でもまあ、林さんも「ごめんなさい」とフォローを打っているわけで、心底嫌っているっていうより、〈知的悪女の小池真理子〉像を題材にして茶々入れて、面白がっていたのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞受賞後の対談では、即行、詫びを入れちゃっていますし。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;林&lt;/strong&gt;　&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;私、小池さんに謝らなきゃ。十四年前の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で、失礼なこと書いちゃって……。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;小池&lt;/strong&gt;　ハハハ。いいですよ、そんなこと。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;林&lt;/strong&gt;　私もそうですけど、小池さんも『知的悪女のすすめ』みたいな、小説以外のもので一世を風靡しちゃうと、作家デビューしづらいところ、ありますよね。その後、小説書いても「お前なんか作家ヅラするな！」って。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;小池&lt;/strong&gt;　お互い最初、「きわもの」って感じで受け取られましたよね。でも、林さんの『ルンルン～』は、若い女のコの視点で素直に書いた本だから、あまりたたかれなかったでしょ？&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;林&lt;/strong&gt;　そんなことないですよー。「こんな下品な女、許せない」とか。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;&lt;strong&gt;小池&lt;/strong&gt;　ほんとに？　私も新宿のゴールデン街に行けなかった。「石投げて追い返してやる」とか言われてたらしいです。」&lt;/span&gt;（『週刊朝日』平成8年/1996年10月25日号　林真理子「マリコの言わせてゴメン！　ゲスト・作家小池真理子」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;











&lt;p&gt;　なごやかで微笑ましいですね。〈知的悪女〉からの数年、小池さんは相当、精神的に苦しい思いをしたはずですけど、笑って話せてくれて、ホッとするヒトコマです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　〈きわもの〉エッセイストから小説家への転身。林さんの場合はすでにそのとき、直木賞騒ぎの渦中にいましたので、賑やか通しの転身でした。対して小池さんは状況が違っていました。スポットライトを浴びる舞台から、あえてひっそりした世界にもぐり込んだ、といったふうに思える転身でした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「初めて長編小説を書き出したのは、一九八四年ころ。集英社の担当編集者だったＮ氏に励まされ、書き直しを命ぜられたのもたった一度で済んだ。それが翌八五年に刊行された『あなたから逃れられない』というミステリ長編である。“悪名高き”エッセイを出してから七年後。二度目のデビューは、初めのデビューと違って静かなスタートを切った。騒々しいことが苦手な私にとって、これはとても嬉しいことだった。」&lt;/span&gt;（平成3年/1991年1月・角川書店／角川文庫　小池真理子・著『猫を抱いて長電話』所収「二度目のデビュー？」より　―初出『別冊小説宝石』平成1年/1989年9月）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　ううむ。初めのデビューのときは、よほど嬉しくない騒々しさだったのだな、と思うことしきり。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　小池真理子と直木賞、とくれば、誰しも（？）「藤田宜永」という言葉を思い浮かべるでしょう。小池さんが小説家としての一歩を踏み出そうとしていたこのとき、それは直木賞に至るスタートだったと同時に、「直木賞史上初の夫婦同時候補」への出発点でもありました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　藤田さんと出会った時期が、ちょうどこのころ、昭和58年/1983年だったからです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「藤田さんは早稲田大学中退後、文学や映画で心酔したフランスで七年間暮らす。しかし、「やっぱり小説を書きたい。自分が小説で勝負する土俵は日本しかない」と思い至り、一九八〇年に帰国。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その三年後、出版社のパーティーで小池さんと同席した。小池さんは七八年に出した初のエッセー集「知的悪女のすすめ」で一躍マスコミの寵児（ちょうじ）に。だが「何か違う。私が本当にやりたいのはテレビ出演ではなく小説」と悩んでいたころだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「互いに小説への思いが強く、同志的なところがあったせいか」、三か月後に一緒に暮らし始める。ともに三十代。「二十代のころなら『何、この生意気男』『そっちこそ』と思ったでしょう。いい時期に出会えました」&lt;/span&gt;（『読売新聞』平成8年/1996年12月23日「私のパートナー　作家・藤田宜永さん　VS作家・小池真理子さん」より　―インタビュー：猪熊律子）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　お互いに作家。と言うよりかは、お互いに「作家を志す物書きの端くれ」でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小池さんはこれまで書いてきたようなものを捨てて、自分の書きたい小説で勝負しようと決意していました。まだ当時、小池さんはエッセイを出し続けていましたが、すでにその文章を読んで、あ、彼女、書くものが変わったな、と気づいた人もいたそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「いとしき男たちよ」という文庫本だった。読んでいくうちに、小池真理子は変ったな、と思った。「キツーイ一言」とか「くたばれ!!　軽薄美男子」とか相変らずの小見出しがついていたが、読後感はいささか甘いのである。とくに最後の「解説」である。藤田宜永という男性が書いていた。のっけから、&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「僕のアイカタ、真理子です、よろしく」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　とある。なんじゃい、これは。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;それはそれとして、小池真理子が変った理由が私には分かったのである。行間に、きちんと真綿が敷きつめられてある。こんな彼女に変身させてしまった野郎は、などと声を荒ららげても仕方あるまい。男を見る目が変ってきたのは事実である。男のだらしなさに対する見方にも余裕が出来てきた。」&lt;/span&gt;（昭和62年/1987年1月・角川書店／角川文庫　小池真理子・著『二人で夜どおしおしゃべり』所収　江森陽弘「解説」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　二人の関係は、収入の面でも賞レースの面でも、常に小池さん一歩リード、っていうかたちで進んでいきます。共に処女作を出して、どちらかが書評に載ってはライバル心に火をつけられたり、どちらかの作品が褒められてれば嫉妬心を抱いたり……。そんな関係が10年つづく、という。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「お互いに物書き同士が一緒になったことを、たぶん死ぬまで後悔しないんじゃないかと思っています。それでも、腹が立つことはしょっちゅうあります。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　本が同時に出ることって、たまにあるでしょう。そうすると、書評はどっちが多いとか、この編集者と評論家はあなたのほうについているなんて、両方で票を取り合う。いまでは慣れっこになってしまって、ゲーム感覚で楽しんでいますね。」&lt;/span&gt;（『鳩よ！』平成8年/1996年10月号「ロング・インタビュー小池真理子」より　―インタビュー・構成・文：結城信孝）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　そんな状況で、平成8年/1996年1月を迎えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　夫・藤田宜永さんのほうは、前年10月ごろには次の直木賞で候補になりそうな感触をつかみ、いっぽう妻・小池真理子さんのほうは、自分の小説が直木賞なんて大きな賞の候補に取り上げられるとは想像もしていなかった平成7年/1995年下半期。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「夫婦同時候補」というのは、たぶんに文藝春秋の仕掛けの匂いがぷんぷんしますね。けどまあ、それは置いておきましょう。小池さんにとっては一大事でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;小池&lt;/strong&gt;　だって、ゼロで始めたんですよ、二人で。ほんとに海のものとも山のものともつかない状態で二人同時にスタート切って小説書き出して。バーボン空けながら夜な夜な小説の話してきた相手がね、一緒にやってきたやつがくすんでるというのは見たくもないし、見せてもらいたくないし。もう夫とか妻とか男女の関係じゃないんですね。うーん、何と言うんでしょう。戦友とか親友とかなんかそういうニュアンスだから。」&lt;/span&gt;（『週刊文春』平成15年/2003年10月30日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　小池真理子さんというと、直木賞をとる前からずいぶん売れていた印象がありましたけど、ご本人いわく「知名度先行型の人間」で、じっさい『無伴奏』までの小説はすべて初版どまりだったんだそうです。二人でゼロから始めて、ひとつひとつ〈売れない〉小説を書き続けてきた、っていうのが、小池さんにとっての直木賞までの10年だったんでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「戦友」つう単語には、なるほど、そういう思いがこもっているのか、と思わされます。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「一般読者のなかには、小池真理子はミステリに転向してからも本が売れ続けていると錯覚している人が多いが、現実はかなり違う。増刷がかかりはじめたのは『無伴奏』以降で、それまでは初版部数の八千から一万部の間を低迷。数字が大きく動きはじめたのは『恋』からで、過去の文庫本も軒並み部数を伸ばしている。&lt;/span&gt;（引用者注：以上、インタビューによる地の文）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;最初から小説家でデビューしていて、売れないにせよ地味に自分の小説で勝負してきた人間だったら、一回は大きな壁にぶち当たっていたはずです。ところが、わたしの場合はエッセイだった。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;いまは静かに自分の部屋で好きな世界を紡いでいる姿そのものが自分自身であり、それ以上ほしいものはありませんね。いまひとつ本が売れなくて悩んだ時期もありましたが、楽観的にやってこられたのは、昔の自分に戻るくらいなら、いまのほうが幸せだという意識が強かったからでしょう。」&lt;/span&gt;（前掲『鳩よ！』「ロング・インタビュー」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　どれだけ〈知的悪女〉時代は不幸な気分だったんだ！&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小池さんが多少苦しくても地道に書きつづけた背景として、〈知的悪女〉シリーズの影と、それから戦友・藤田宜永さんの存在を、どうしても重ねて見たくなるじゃないですか。とくにワタクシらのような第三者の立場の者は。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この背景があって、第114回（平成7年/1995年下半期）の直木賞があるわけです。ううむ。お膳立てした日本文学振興会め、おぬし策士よのう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小池さんは藤田さんとは別の場所で、選考結果を待っていました。結果を報せる電話がかかってきまして、切ったあと、涙を流したのだそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「&lt;strong&gt;小池&lt;/strong&gt;　受賞の発表のときは、旦那とは別々のところで電話を待っていたんです。で、電話が来たとき、「うちの藤田はどうなりました？」って先に聞いちゃったんですよ。そしたら、「残念ながら……」って言われて。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　次の会場に行く間に一人取り残されて、実家にうちの両親と妹が待ってましたから、実家に電話して。そしたら、うちの旦那のことみんな気にしてるから、妹が、「彼、どうだったの？」と聞くから、「だめだった」と言った瞬間に、なぜかね、二人で電話口で大泣きしちゃって。」&lt;/span&gt;（前掲「阿川佐和子のこの人に会いたい」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　もうドラマチックすぎます。そりゃあ第114回が、未来に書かれるかもしれない直木賞史のなかで、大きな事件として取り上げられるのは、確定したようなものです。おめでとうございます（……ん？）。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-03-25T22:28:46+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/49381963-3236.html">
<title>佐藤得二（第49回　昭和38年/1963年上半期受賞）　直木賞って作品の出来で決まるんですよね？ってことを忘れさせてくれるほど、もっともらしい噂バナシが巻き起こる。</title>
<link>http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/49381963-3236.html</link>
<description>佐藤得二。『女のいくさ』（昭和38年/1963年4月・二見書房刊）で初候補、そのまま受賞。同作での作家デビューから3ヶ月。64歳。 　直木賞と文壇ゴシップとは、不可分な関係にあります。直木賞の面白さの何割かは、ゴシップ的な魅力に負っている、と言っちゃってもいいでしょう（いいのかな？）。 　はて。ゴシップの面白さって何でしょう。耳にした瞬間に、「へえ、あの事象の裏にはそんな意外な事実が隠されていたの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img border=&quot;0&quot; src=&quot;http://naokiaward.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/03/18/120318.jpg&quot; title=&quot;120318&quot; alt=&quot;120318&quot; style=&quot;float: left; margin: 0px 5px 5px 0px;&quot; /&gt;
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun49ST.htm&quot;&gt;佐藤得二&lt;/a&gt;。『女のいくさ』（昭和38年/1963年4月・二見書房刊）で初候補、そのまま受賞。同作での作家デビューから3ヶ月。64歳。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞と文壇ゴシップとは、不可分な関係にあります。直木賞の面白さの何割かは、ゴシップ的な魅力に負っている、と言っちゃってもいいでしょう（いいのかな？）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　はて。ゴシップの面白さって何でしょう。耳にした瞬間に、「へえ、あの事象の裏にはそんな意外な事実が隠されていたのか」と驚かせてくれて、好奇心を満足させてくれるところ。ですよね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でも、それだけじゃありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　よくよく調べてみると、ゴシップがほとんど虚構と妄想で出来上がっていた、と発覚することがあります。よくもまあ、ウソッぱちな噂が、いかにも真実であるかのように語られたよなあ、と思わされたりして。そんなハナシをつい信じてしまった世間や自分が、急激に馬鹿バカしく見えてくるアノ瞬間。たまりません。ゴシップの醍醐味と言えましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さて、佐藤得二さんです。64歳での直木賞受賞は当時の最高齢記録、しかもまったくの処女作でした。新聞や雑誌では、異例の直木賞、と書かれたりしました。あまりに異例だったからでしょうか、この受賞に対しても、「いかにも」な噂バナシがささやかれ、広められたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ひとつ例を挙げます。第49回（昭和38年/1963年・上半期）直木賞で、佐藤さんとともに候補に挙げられた梶山季之さんの証言です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　以前、「噂」小説賞を紹介したときにも引用しました。楽しい文章なので、もう一度、繰り返し味わいたいと思います。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「『李朝残影』は、直木賞の候補となりました。この時&lt;/span&gt;（引用者注：第49回）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;の有力候補者は瀬戸内晴美《寂聴、作家・僧侶一九二二～》さんで、対抗が私と云うところでした。／ところが、フタをあけてみると、佐藤得二氏の『女のいくさ』が受賞となり、とんだ大アナが出ました。なんでも佐藤氏は、銓衡委員のＫ氏の同級生で、そのための同情票が集まったのだそうです。／しかし、佐藤氏は、その後、一作も書かずに死亡され、私は受賞決定の夜、銀座の酒場で銓衡委員の某氏から、／「キミだの、瀬戸内だのに、今更、直木賞をやるこたァねえやな……」／と云われました。／&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;私が「噂」の小説賞、挿絵賞を創設したのは、偏見にとらわれない、編集者が決定する賞があって然るべきだ……と考えたからであります。／既成作家が受賞者を撰ぶときには、自分の競争相手となりそうな若手を、どうしても蹴落そうとします。云う云わないとに拘らず、そうした心理が働いている。それを断ち切らねば、真の銓衡とは云えません。」&lt;/span&gt;（平成19年/2007年5月・松籟社刊『梶山季之と月刊「噂」』「第Ｉ部　「噂」と梶山季之　創刊　その意図したもの」橋本健午　より　―引用文の典拠元は集英社刊『梶山季之自選作品集8　わが鎮魂歌／李朝残影　他』「著者あとがき」で、「／」は改行、《　》内は橋本氏による注記）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　どうですか。何と巧みなゴシップでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　佐藤得二が受賞できたのは、選考委員に同級生がいたためで、しかも高齢であることから今後委員たちの競争相手にはなり得ない、と判断された（にちがいない）と。ほとんど被害妄想スレスレの考え方です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　既成作家に選考させては駄目だ、っていうんで梶山さんは、編集者たちの手で選考する「噂」小説賞を設立。ここから藤本義一、田中小実昌という二人の受賞者が生まれました。そこまではよかったんですが、二人とも、のちに直木賞選考委員たちにも、しっかり評価されてしまいます。果たして梶山さんの「既成作家が選考することの弊害」説が、正しかったのか間違っているのか、よくわからない事態に……。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まあ、それはそれとしましょう。いったい佐藤さんの『女のいくさ』に票が集まったのはなぜだったのか。選考委員のＫ氏が同級生……？　誰のことを言っているのやら。川端康成さんのこと？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　正確には、佐藤得二さんと一高・帝大と同級だった川端康成さんは、このとき芥川賞のほうの選考委員でした。『女のいくさ』刊行の折り、川端さんは推薦文を寄せました。しかし、そのことがどこまで直木賞委員たちの同情票を引き出せたのでしょう。かなりマユツバです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「川端は、当時、文化勲章受章者、日本ペンクラブ会長として、文壇の長老的存在に収まっていたが、堅物で知られた佐藤得二が大長編『女のいくさ』を書き下ろしたとあって、次のような力のこもった推奨の言葉を書いてくれたのである。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「佐藤得二さんは私の高等学校の同級だが、今ごろ、この処女作のやうな長編小説を書き、これが巧緻、達練、充実、みごとな作品なのに、びっくりした。昭和初年から今日までの、言はば『大河小説』で、その時代と世相のなかに、女を中心とした一家の人々の運命を確かに描いて、生彩がある。殊にけなげな女の愛と生とは、胸を打つものがある」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　文字数にして一八〇字足らずの文章だったが、文化勲章受賞&lt;/span&gt;（原文ママ）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;者にして、日本ペンクラブ会長川端康成の「巧緻、達練、充実」したみごとな推薦文は、六四歳の新人作品に、甚大なインパクトを与えた。」&lt;/span&gt;（平成21年/2009年11月・展望社刊　塩澤実信・著『ベストセラーの風景』「“年齢”も「褒賞」に価す」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　と、塩澤さんは解説しています。さすが「マユツバの塩澤」の異名をとる方の文章はちがいます。「甚大なインパクト」とは何なのか、どこがどう「みごとな推薦文」なのかは、触れずに筆をおいちゃっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『女のいくさ』は、初版三千部でしたが、発売後の売れ行きは思いのほか順調だったそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「昭和三十八年（一九六三）四月十二日、処女出版された『女のいくさ』は、一か月後に再販、二か月後には三版と版を重ね、すでに九千部を売り尽くしていた。」&lt;/span&gt;（平成11年/1999年6月・岩手県金ケ崎町刊　佐藤秀昭・著『教学の山河　佐藤得二の生涯』「郷愁」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　5月には『朝日新聞』の書評でも好意的に取り上げられたりしていました。このあたりの展開に、川端の推薦文が何らか役立った、といったことを塩澤さんは言いたかったのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、です。いくら文化勲章だろうが日本ペンクラブ会長だろうが文壇の長老格だろうが、その人の同級であることが、直接の関係がない直木賞選考委員の心まで動かすものでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ちなみに、「選考委員が同情して票を入れた」という説、これはひょっとすると元ネタがあった可能性が高いです。元ネタ……それは佐藤得二さん本人が、謙虚さの表現として語った受賞の感想です。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「受賞と聞いても、ピンとこない。つくづくと年齢を感じました。もう老い先みじかい身ですからね、今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;直木賞になったのも“六十をすぎて、こんなに長い小説を書いた”“ずぶのしろうとがわりと面白いものを書いた”という同情と驚きに原因があるのでしょう」&lt;/span&gt;（『週刊文春』昭和38年/1963年8月5日号「直木賞受賞「女のいくさ」のヒロイン　64歳の処女作で受賞した佐藤得二氏とそのモデル」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　本人が語る受賞理由（憶測）と、同級生に文壇の偉い人がいたという状況をつなぎ合わせて、梶山さん語るようなゴシップが生れた、と見えるのですが、どうでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ついでに、ゴシップネタをもうひとつ。川端さん関連より、こっちのほうがより深刻だと思います。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「「どうも、文学賞というのは、自分の家族をくどくど書いた方が有利みたいなだなぁ」私小説を否定する丸谷&lt;/span&gt;（引用者注：丸谷才一）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;がいっていた。&lt;u&gt;&lt;strong&gt;佐藤得二「女のいくさ」は、今日出海が強力に推し、佐藤は今の学生時代恩師だという。&lt;/strong&gt;&lt;/u&gt;石川利光は丹羽文雄が後押し、長年、「文学者」編集の功績といわれる、四十一年、芥川賞選考委員になった三島&lt;/span&gt;（引用者注：三島由紀夫）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;は、「候補者からの袖の下が届かないから拍子抜け」と冗談にいっていた。「にぎやかな街で」で最終に残りながら、丸谷才一が芥川賞受賞に至らないのは、その容赦ない三島批判のせいらしい。」&lt;/span&gt;（平成14年/2002年4月・文藝春秋刊　野坂昭如・著『文壇』より　―太字下線は引用者によるもの、引用文は平成17年/2005年4月・文藝春秋／文春文庫より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;　野坂さんはここで、文壇内の噂バナシってのは、かくも根拠に乏しい（あるいは間違っている）物語が、めんめんと語り継がれているものだ、と書いているのだと思います（ん。ちがうのかな）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　『女のいくさ』は直木賞委員だった今日出海が強力に推した、そして佐藤得二は今の学生時代の恩師だった、という。それっぽく聞こえるんですけど、何なんですか恩師って。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　佐藤さんは明治32年/1899年生まれ、今さんは明治36年/1903年生まれ。たった4歳しか違いません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　えっ。それで、お、お、おんし？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　佐藤さんと今さんが接触したのは、学生時代というより戦後でしょう。佐藤さんが文部省社会教育局長で、今さんが文化課長だった頃からの交流です。それにしたって、今さんの仕事がやりやすいように支援してくれた上司、といった程度のことでしょうから、「恩師」というほどの恩とは思えません。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「私は芸術祭を企画し、日展改組を目論んだ。佐藤さんは何でも賛成してくれる。嘗て文展時代に改組を思い立った松田文相は美術界の複雑怪奇さに手を焼き、辞職した例がある。日展に手をつけるのは危いと忠告がしきりにあったが、佐藤さんはその声を抑えて、私を断行に踏み切らせた。」&lt;/span&gt;（『文藝春秋』昭和38年/1963年9月号　今日出海「佐藤得二における人間の研究」より　―のち昭和38年/1963年11月・新潮社刊『迷う人迷えぬ人』に「野の花」として所収）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;　もしも、今さんが佐藤さんの『女のいくさ』に対して、作品内容に感銘を受けた、という他の感情が何かあったのだとしたら、「恩」では不自然です。どちらかというと「負い目」はあったかもしれませんが。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「六十を過ぎて、書いたこともない小説にいくら閑だとはいえ、筆を染めるとは飛んでもないことを言う人だと、私は一笑に付した。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;そして遂に千数百枚の小説を縄で縛って私の家へ持ち込んで来た。よくこれだけの仕事をしたというより、こんなものにいとど弱り果てた健康を捧げたのかと思うと、私は腹が立った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;　元来常軌に嵌らぬ人なのに、ここ十数年の病人生活で益々世の中から遠ざかり、ズレて来たなと思って、この小説の縄をほどいて読んでもみなかった。ところが出版社が出してくれるというのがあるからといって原稿を持ち帰ってしまった。」&lt;/span&gt;（同）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;





&lt;p&gt;　いわば、せっかくの縁を頼って、自分に小説を持ち込んでくれた人に対して、出版の労をとろうとせず、みすみす名作を無視しておいてしまった「負い目」。そのくらいはあったかもわかりません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、当時も今さんと佐藤さんの縁を知っている人は、文壇や出版界のなかにもいたことでしょう。裏の事情を読みたがる連中の目を意識してか、今さんは受賞決定直後にみずからそのことにも触れます。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「選考終了後、今日出海氏は「実はこの佐藤という人は、私が文部省にいた時の上司なので良く知っているのだが、六十二になってはじめて小説を書くといい出した時は驚いた。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;個人的に知っているからというのではなく、質、量（一二〇〇枚の長篇）とも群を抜いているということは他の選考委員も認めるところであった。&lt;/span&gt;（引用者後略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;」」&lt;/span&gt;（『週刊読書人』昭和38年/1963年7月29日号「芥川賞と直木賞　受賞作と選考経過」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　きっと今さんは強力に推したんでしょう。でも、それが直木賞受賞の決め手になったとはとうてい思えません。他の回を見ても、今さんの意向がそれほど選考会に影響を及ぼすわけがないからです。ただの一票だったはずです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、野坂さんの耳には、歪んだかたちで佐藤―今の直木賞受賞劇が伝わっていた。伝わっていた、っていうことが、直木賞を何倍にも面白く見せてくれます。それは否定できません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　直木賞をことさら矮小に仕立てようとするゴシップが流れる。それを受けて直木賞がひときわ輝く。輝けば輝くほど直木賞は、実態から離れていき、過大なものとして見まちがう人が増えていく。……止まらないスパイラルです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　　　　○&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　佐藤さんは、昭和38年/1963年に64歳で直木賞受賞後、6年半ほどで亡くなりました。71歳でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　すでに『女のいくさ』を書く何年も前から闘病生活を送っていて、常に身体に不安を抱えていた人でした。先に引用した本人の言葉でも「今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない」というように、この先の作家としての活躍など、まず期待されていない上での授賞でした。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「過去の直木賞では芥川賞とは異り、将来プロ作家として充分に活躍できるかどうかが選考基準の最大の条件だった。ところがこのときはその条件が初めから無視されたというか、忘れられた。推薦者の川口&lt;/span&gt;（引用者注：川口松太郎）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;はさすがその点が気になったのか、佐藤の他に将来性のある才能をもう一人出そうではないか、と諮ったが、多数の賛成を得られなかった。」&lt;/span&gt;（平成13年/2001年5月・筑摩書房刊　大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十章」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　はい、大村さんのおっしゃるとおりです。なぜ、初めから無視され忘れられたか。条件といえるほどの条件が、直木賞にはないからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　言い換えますと、その場その場で条件めいたものが話し合われるだけで、そんなものは次のときには容易くひっくり返されます。直木賞、それは例外の歴史の積み重ねだ、と言ってしまいたいほどです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　というわけで佐藤さんは、想像どおりに、『女のいくさ』以降、一冊の小説も出さずしてこの世を去りました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小説を書く構想は持っていました。受賞直後のインタビューではこう語っています。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「――もう書かない、というわけではないでしょうね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「ええ、材料は五つ、六つあるんです。いま一つ書こうと思っているのは、途中まではうまくいくんだが、なかなか結末がつかないんですよ。夜、寝ながら考えているんですが、どうもいい結末が思いつかない」&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;――これからは、小説の注文が殺到するでしょう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「書くつもりですが、締め切り日をいわれると困ってしまう。体の工合を考えながら、気ままに書いて、それから雑誌社に持ちこんで掲載してもらう、というのが一番気楽でいいですね。&lt;/span&gt;（引用者後略）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;」」&lt;/span&gt;（前掲『週刊文春』記事より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;







&lt;p&gt;　直木賞の意義などどこ吹く風の、気負わず無理をしない感じが佐藤さん、素晴らしいですね。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「新聞や雑誌の取材を受けたり、社内報まで含めたそれらへ、エッセイなどの短文を書き、講演依頼と、得二の体力では酷すぎる日々の中で、直木賞受賞後の小説らしい小説が発表されたのは、翌年の五月であった。」&lt;/span&gt;（前掲『教学の山河』「岩手山を見たい」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;　『オール讀物』昭和39年/1964年5月号の「婿」と、『小説新潮』同年5月号の「たくらみ」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　佐藤さんは、衰えゆく体力のせいで、小説を書く気力もあまり沸かなかったんでしょう。あるいは、先に挙げたような「作家になろうという気持ちも起きてこない」っていう述懐のとおり、小説家になろうとする意欲がそもそも希薄だったんでしょう。……と、てっきり思っていました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところが、そんな想像に異をとなえる人がいました。佐藤さんの一高時代からの親友、国際文化会館理事長の松本重治さんです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「小説の第一作で受賞してしまった佐藤は、第二作を色々計画していたようだが、結局書くことが出来ず、昭和四十五年二月五日病没した。&lt;/span&gt;（引用者中略）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;「何故第二作を書かなかったのでしょう」という筆者の問いに、松本&lt;/span&gt;（引用者注：松本重治）&lt;span style=&quot;color: #990033;&quot;&gt;は「賞なんかもらったからですよ、川端も同じですよ」と明快に斬って捨てた。」&lt;/span&gt;（『東京経済大学人文自然科学論集』77号［昭和62年/1982年12月］　石田望「研究ノート　『佐藤得二』研究（一）」より）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;



&lt;p&gt;　うわ。佐藤さんが小説を書かなくなったのは直木賞のせいでしたか。ごめんなさいごめんなさい。こら、直木賞め、トンデモない余計なお世話の、お邪魔ムシめ。このやろ。佐藤さんに謝りなさい。いけない子。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　……失礼。取り乱してしまいました。佐藤さんが二作目以降を書けなくなったのは直木賞をとったせい。そうかもしれません。でも、これもまた「文学賞をとると、その重みで次が書けなくなる」っていう、文壇ゴシップまがいの俗説から派生した説のようにも見えてきちゃいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　佐藤得二さん。つくづく、真偽不明なゴシップの似合う方です。&lt;/p&gt;
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<dc:subject>初候補で受賞した作家列伝</dc:subject>

<dc:creator>P.L.B.</dc:creator>
<dc:date>2012-03-18T22:13:23+09:00</dc:date>
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