カテゴリー「犯罪でたどる直木賞史」の15件の記事

2018年9月23日 (日)

昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。

目白の高田農商銀行ギヤング事件が神戸で逮捕されたアナ系の相澤尚夫(二八)の指導下に行はれ、しかも一味の間に重大な陰謀計畫が進められてゐることがわかつたので警視廳特高課では十一夜來俄然緊張、全課員及び各署特高係をそれぞれ待機せしめたうへ十二日拂曉を期しアナ系分子の大檢擧を開始(引用者中略)このアナ系大檢擧によつて大杉榮の死後漸次沒落の過程をたどりつゝあつた無政府主義者がフアツシヨ非常時下にもぐつて從來の理想的觀念論を揚棄して極左及び極右の組織的行動の長所を取入れ一切の權力を否定する建設的テロリズムによる暴力革命を決行するためにすでに昨年六月「日本無政府共産黨」を結成して暗躍してゐた怖るべき全貌が暴露された

――『読売新聞』昭和10年/1935年11月13日夕刊「暴力革命を企らむ “無政府共産黨”の全貌 五十三名打盡さる」より

 直木賞の特徴のひとつに「歴史の長さ」が挙げられます。そのため、しょうもない作品が受賞作に選ばれても、伝統ある賞、というイメージのおかげで、何かエラいもののように感じる人が後を絶たないという、得がたい効果が発生するわけですが、昭和10年/1935年から80余年も続いているので、候補に挙がった人数も優に500人以上。当然それぞれに違った人生があり、彼らの小説を読むという行為とはまた別に、さまざまな候補者の来歴を知ろうとする楽しみも、直木賞を見るときの面白さにつながっています。

 直木賞が始まったのが昭和の初期。ということで、ある程度の時代まで、候補者のなかには政治思想を理由に警察に検挙されたことのある作家が、何人か見受けられます。いまとなっては、とうてい犯罪者の枠には入りませんけど、国家権力や社会の仕組みに反旗をひるがえすことで辛酸をなめた人が、候補者として重要な歴史を刻んでいるのも、長く続けられている直木賞の一側面でしょう。

 第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)、混乱とゴタゴタのなかで行われた戦後復活1回目の直木賞に、候補として名前の挙がったひとりが、菊岡久利さんです。候補作は「怖るべき子供たち」。これのどこが大衆文芸なのか、さっぱりわかりませんが、とりあえず直木賞を運営する日比谷出版社の『文藝讀物』に掲載された作品だから候補になったんだろうとしか思えない、この図式からして伝統的な直木賞の姿を垣間見せる、なかなか唐突で面白い候補選出だったと思います。

 たどってみると菊岡さんの履歴は、もし彼が女性だったらいまごろ桐野夏生さんあたりが小説化していてもおかしくないぐらいに波乱に富んでいる、と言ってもいいものですが、昭和20年/1945年に日本の政治情勢がガラリと変わるまでは、年がら年じゅう留置所に入れられていたそうです。

 平成21年/2009年に青森県近代文学館の館長として「生誕一〇〇年 菊岡久利の世界」展を企画した黒岩恭介さんの『綺想の風土あおもり』(平成27年/2015年5月・水声社刊)によると、菊岡さんは大正15年/1926年、17歳のときに秋田県で小坂鉱山煙害賠償労働争議に参加。社会的に弱い立場にある人たちへの思い入れがすさまじく、社会問題への関心を深めるとともに、思索的のみならず行動的でもあった菊岡さんは、この年、『小樽毎日新聞』に古田大次郎さんの原稿を載せた科でしょっぴかれ、留置されます。

 翌年、上京すると、石川三四郎さんのもとに拠り、鷹樹寿之介と名乗ってアナキズム運動に本格的に邁進。歯止めの効かない危ない奴、というか、誰の前に出ても決してひるまずに自分をさらす無鉄砲さが、あるいは通じたものか、文壇の作家たちにもけっこう可愛がられました。なかでも横光利一さんとはかなり相性がよかったらしく、菊岡さんは長く横光さんを敬愛し、また横光さんのほうも、ゆくゆくは小説を書いていきたいという菊岡さんに、それならと「菊岡久利」のペンネームを与えます。これは、菊池寛、岡鬼太郎、久米正雄、横光利一の4人の名前から一字ずつ取ったものだそうです。

 ともかく10代の少年だった頃から40代に至るまで、本人によれば、留置所入りは30回、監獄入り3回を経験した(『新潮 別巻第一号 人生読本』昭和26年/1951年1月「文士ゆすり顛末記」)というのですから、ツワモノには違いありません。そのひとつひとつの詳細は、なかなか追いきれませんが、なかで最もマスコミを賑わせた事件というと、昭和10年/1935年秋、「黒色ギャング」と書き立てられた銀行襲撃からの、日本無政府共産党一斉検挙事件になるでしょう。

 さかのぼること2年前、昭和8年/1933年12月はじめごろに、アナキストによる革命団体をつくる目的で集結した植村諦聞、相沢尚夫、入江汎、二見敏雄、寺尾実の5人が〈日本無政府共産主義者連盟〉を結成、翌昭和9年/1934年1月に〈日本無政府共産党〉と改称したこの組織の、大きな問題の一つは資金をどうやって調達するかだった、ということが、のちに相沢さんが回想した『日本無政府共産党』(昭和49年/1974年6月・海燕書房刊)で詳細に触れられています。しばらくは知り合いからの寄付金で、どうにか賄っていたものの、すぐに底をつく有り様。もうこれは、どこか金融機関を襲って奪い取るより他はない、という結論に達し、馬橋郵便局にするか、いや駒場郵便局にするかと物色するうちに、最終的に標的となったのが、目白に住む二見さんに土地勘のあった高田農商銀行です。昭和10年/1935年11月6日朝、二見さんと小林一信さんの二人で同銀行に赴き、脅迫のうえ金を奪取しようとしますが、結果は大失敗。これをきっかけに同党および、無政府共産主義者たちの一大検挙へと拡大していきます。

 その後、官憲の目をかいくぐって逃げ回っていた二見さんも、12月24日、クリスマスイブの夜に銀座の街頭で特高に捕えられ、昭和14年/1939年5月8日の一審では死刑判決が下され、昭和15年/1940年2月8日東京控訴院の二審で無期懲役の判決を受けます。ただし、まもなく2月11日に、紀元2600年の恩赦によって懲役20年となり、刑務所暮らし。5年ほど経って、日本が降伏した直後の昭和20年/1945年10月4日、マッカーサーの政治犯釈放命令によって出獄したのが39歳のときで、すぐに政治運動に戻りますが、日本自治同盟が数年で解散したあとは主だった活動はなかったらしく、昭和42年/1967年に没しました。

 その二見さんとかつて共同生活を営んでいたのが、友人の菊岡さんです。銀行襲撃の失敗で、警察の手から逃れようとする二見さんの、逃亡期間中の生活費の一部を、菊岡さんが出してあげていたとも言います。数百人に及んだと伝えられるこの一斉検挙の対象のひとりとして代々木署に留置され、一週間ぐらいで帰されたそうですが(『思想の科学』昭和40年/1965年11月号 秋山清「無政府共産党事件」)、しかし菊岡さんの履歴を見ると、処女詩集『貧時交』(第一書房刊)の出た昭和11年/1936年1月には、まだ勾留中の身だったとも言われていて、いつ入って、いつ出てきたのか、よくわかりません。

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2018年9月16日 (日)

昭和43年/1968年・公職選挙法違反に問われ、起訴猶予になった今東光。

【大阪】去年四月に行われた大阪市議選に同市此花区から自民党公認で立候補して落選した大谷保一(三五)派(引用者中略)の選挙違反を捜査していた大阪地検特捜部は、作家の今東光(六九)(引用者中略)と、今の秘書の千葉たみ子(三七)(引用者中略)が、大谷から現金をもらった事実をつかみ、公選法違反(被買収)の疑いで調べていたが、三日午後「犯罪は構成するが、反省の色が濃い」として、二人を起訴猶予処分にした。今は佐藤首相から要請され、ことしの参院選全国区に自民党公認候補として立候補する予定で、その処分が注目されていた。

――『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)の直木賞は、今東光さんと穂積驚さんの二人に贈られました。穂積さん44歳に対して、今さん58歳。……いまとなっては、とくに珍しくない受賞年齢ですが、それまで50代で受賞した人すらひとりもいなかったのに、いきなり最年長記録を60歳近くまで伸ばしたのですから、とくに今さんの受賞は、一部に大きな驚きを与えた、と伝えられています。

 いや、年齢など些末な話題にすぎません。今さんが直木賞史のなかに残した爪痕といえば、受賞した後の圧倒的なマスコミ露出。これに尽きるでしょう。

 芥川賞に石原慎太郎(第34回 昭和30年/1955年・下半期)あれば、直木賞に今東光(第36回)あり。……と表現したのは、誰だったでしょうか。スター性の面では、たしかに石原さんには勝てないでしょうけど、「かしこまって偉ぶるのではなく、少し崩した口調・文体で、場所柄わきまえず放言する」というスタイルが多くの人にウケたおかげで、小説の出来うんぬんはさておき、作家であり僧侶であり毒舌家、という方向で世間に知れ渡るようになります。直木賞では珍しいことです。

 そういうなかで実施されたのが昭和43年/1968年の参議院選挙です。著名人やタレントが続々と候補者に名乗りを挙げたことから、政治もここまで落ちぶれたかと言われ、いつもいつも、ついに落ちぶれたかと言われている文学賞の姿を、どことなく思い起こさせる様相がありましたが、石原さんと並んで自民党公認で出馬した今さんも、事前から「タレント候補者」の有力者だ、と見られていたといいます。そのことでもわかるとおり、直木賞・芥川賞の受賞者のなかではタレントに分類して違和感のないくらい、とくに顔も名前も売れていたひとりです。

 と、ここで今さんがぶち当たった法律があります。公職選挙法です。

 以前より今さんは、公選法に対して文句があったらしく、ずいぶん悪口を叩いていました。たとえば昭和42年/1967年には、現行の公選法は結局ダメな政治家しか選べないダメ法律だと、お得意の鋭い舌鋒を披露。なぜ戸別訪問やビラに禁止条項があるんだ、そんなどうでもいいことをいちいち条文に示しているから、おれはこの法律が嫌いなんだ、と言い張っています。

 そしてこう書きます。

「買収や供応が悪いことは言うまでもなく、それをする奴や、それに応ずる奴は下等至極な奴で、そんな者を罰するために吾々まで罰則の適応を受ける理由はないのだ。いかなる罰則を制定しても、罪人はこの世の中から無くなるものではないのだ。買収や供応をする候補者には投票しないことが即ち罰則なのだ。

何もそれを法律で規正する必要はあるまい。」(『週刊サンケイ』昭和42年/1967年5月22日号 今東光「東光毒舌説法(21) 選挙法という悪法」より)

 何でも罰則で縛ろうとする法の存在と、今さんの考え方もしくは生きざまは、しょせん相容れないもの同士、ということかもしれません。買収・供応をする奴、応ずる奴、どちらも下等だとかました今さん自身が、実際そのルールにひっかかり、選挙前から後まで、とにかく「今東光といえば選挙違反」という妙な展開へと転がっていってしまうのです。

 この年の春、大阪市議選に応援演説に狩り出された今さんは、候補者だった大谷保一さん派の運動員から10万円を受け取ります。日頃から講演を依頼されること数限りなく、しかも今さんは、たいてい相場より高い講演料を要求することで知られていたそうで、人前に立ってしゃべる、お金が発生する、これ当然、という世界で生きていたものですから、深い考えもなく謝礼を受け取ったところ、法的にはアウト。7月末から2回にわたって取り調べを受け、事実関係を全面的に認めたうえで、「自民党の公認を受けながら、自分が違反をおかしたことをはずかしく思う」(『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より)と反省の姿勢を見せたことが効いて、法律違反ではあるが起訴猶予、という結果に落ち着きました。

 何が選挙法違反だ。何の悪気もなくやったことなんだから、いいじゃないか。と、いつものように開き直ればよかったと思うんですけど、ここで反省してみせるところが、今さんの正直さかもしれません。あるいは、なんだかんだ言っても法の下にある社会集団の一員として、多少は折り合いをつけないと生きてはいけない俗世のつらさを垣間見せ、何だこのクソ坊主は、と批判する人たちを生んでなお、自身の参議院選挙に影響するところは、ほとんどなかったようです。

 天台宗務庁からは昭和43年/1968年4月、大僧正の呼称が贈られ、選挙戦が始まれば、若いころからの友人、川端康成さんが応援演説に立ったと言っては話題となり、自分でも行く先々で、何が佐藤内閣だ、これをぶっ壊せるのはおれだ、と自民党公認でありながら自民党を批判して喝采を浴びる、いまでもよく見かける戦法をとって有権者の心をつかみ、きっちりとこの戦いを乗り切って、100万票以上を獲得して全国区4位当選。直木賞受賞者にして国会議員、という前代未聞の道をきりひらきます。……いやいや、芥川賞のほうはその3倍近い票が石原慎太郎に入ったじゃないか、やっぱり芥と比べたら直っていつもパッとしないんだな、というボヤキは、このさい封印しておきましょう。

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2018年9月 9日 (日)

昭和38年/1963年・盗用だと言われたことに怒って、名誉棄損だと訴えた三好徹。

黒沢プロの映画「天国と地獄」のシナリオのトリック部分を作家三好徹氏が推理小説「乾いた季節」のなかで盗用している―と同プロと東宝が十九日発表したことについて同氏は二十一日午後「誤解もはなはだしい。盗作をいわれることは作家としての生命が奪われることにひとしい」と東京地検に同プロ側を名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和38年/1963年2月22日「三好氏、名誉棄損で告訴」より

 人はさまざまな理由によって怒りを感じますが、たとえば自分が考え出したストーリーなりアイデアなりが、知らないところで他人に使用されていたとき、発生する種類の怒りがあります。

 アイデア盗用が疑われる案件を目にした人たちが、当事者でないにもかかわらず、パクリだ何だと声高に騒ぎ立てて面白がる光景が、日常的に展開されてきた現実を見るかぎり、どうやらそういう種類の怒りは、多くの人間に通用する感情のようです。

 怒りを持つぐらいであれば、実害は少なく、周囲をまきこんだ炎上、という程度で済むかもしれません。済まないかもしれません。事情は案件ごとに違うでしょうけど、怒りと怒りがぶつかり合って法廷に訴えを持ち込み、あるいは持ち込まれた結果、2年間にわたって裁判で争った直木賞受賞者がいます。三好徹さんです。

 いまから50年以上前の、昭和38年/1963年2月から昭和40年/1965年2月。三好さんが『風塵地帯』ではじめて直木賞の候補に挙がったのが昭和41年/1966年下半期のことですから、それより前の、新進の推理作家として売り出していた矢先のころでした。

 三好さんが作家デビューしたのは、文學界新人賞に「遠い声」を応募して佳作に入った昭和34年/1959年ですが、はじめて本になった小説は、推理小説の『光と影』(光文社/カッパ・ノベルス)です。これが昭和35年/1960年11月のときのこと。

 読売新聞の社員として『週刊読売』編集部に籍を置きながら、急激に小説を書く意欲を燃え上がらせ、昭和36年/1961年には5月に『炎の街』(雪華社)、11月に『死んだ時代』(光風社)を刊行。そんなさなかの10月に、河出書房新社から何か作品をお願いできないかと打診され、12月ごろにはある程度のプロットやトリックを編集担当に話したところ、それは面白そうですねと話がまとまって、原稿にとりかかります。途中で病気になったために少し遅れたものの、翌昭和37年/1962年7月になって脱稿したのが、『乾いた季節』です。

 いっぽうその頃、新しい映画制作にとりかかっていた黒沢プロでは、黒沢明さんが読んだエド・マクベイン『キングの身代金』(昭和35年/1960年8月・早川書房/ハヤカワポケットミステリ)を下敷きに、舞台を現代の日本に置き換えて脚本をつくる作業が、黒沢・菊島隆三・小国英雄・久板栄二郎の4人のあいだで進みます。なかに出てくる身代金受け渡しの場面をどうしようかと悩むうちに、特急電車のトイレの窓から金を投げ落とさせるというアイデアが生まれ、昭和37年/1962年1月ごろに国鉄から資料を入手、それをもとにシナリオを仕上げた結果、同4月5日には『天国と地獄』第一稿のシナリオが90部印刷されて報道関係者に配られると、4月30日、さらに650部がマスコミ関係者たちの手に渡った、ということです。

 三好さんが当初の予定どおり、春の脱稿を死守していれば、その後の展開も変わったかもしれませんが、7月に版元の手に渡った原稿は、刊行形態について社内で検討するのに少し時間がかかり、同年12月に《Kawade Paperbacks》の20冊目の作品として出版されるに至ります。すると、昭和38年/1963年2月5日、菊島隆三さんが市川崑さんと話しているうち、『天国と地獄』に似た場面が、この小説で描かれていることがわかったものですから、黒沢プロ・東宝側で調べてみたところ、あまりにも似すぎている、ということになり、またその間、2月14日にフジテレビで放送された『少年探偵団・地獄の仮面』にも「外から電話で指示して電車のなかから身代金を落とさせる」という場面があったことが判明します。

 映画制作サイドでは、三好さんと、『少年探偵団・地獄の仮面』脚本担当の内田弘三さんに対して、アイデア盗用だと抗議しようと話し合いを進めますが、東宝の宣伝部や文芸部に出入りしていた新聞記者たちに、その話が伝わってしまい、正式な抗議を待たずに、朝日・毎日・読売が各紙そろって報道したのが2月20日朝のこと。これによって騒動の幕が切って落とされました。

 ……といった経緯やその後の展開については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に取り上げられており、同書を読めば十分でしょう。仮にアイデアの盗用があったとしても、それを法的に著作権侵害だと確定させるのは相当に難しく、道義的に許せない怒りの気持ちと、何かの罪に問う話とは、おおむね別問題のようです。

 しかし、この騒ぎは表沙汰になって早々に裁判へと発展していきます。のちに「聖少女」という、家庭裁判所の話を書いて直木賞を受賞する三好さんが、この段階で自ら裁判を経験した、という点に思わず身を乗り出さない直木賞ファンなど、果たしているのでしょうか。

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2018年9月 2日 (日)

大正3年/1914年ごろ・業務上横領罪で監獄に入ったと語る橘外男。

「判決を、いい渡す」

と裁判長が、視線をくれる。

「被告を、懲役一年半に処す」

(引用者中略)

一審服罪と決めたから、それから二週間ばかりの時を隔てて、控訴期限が切れると同時に、私の刑は確定した。業務上横領罪、一年半の懲役囚として、いよいよ札幌市外扇池にある、札幌監獄へ移送されることになったのであった(引用者後略)

――昭和35年/1960年2月・中央公論社刊、橘外男著『ある小説家の思い出』より

 この世で最も愚かな行為とは何か。それは、橘外男の経歴・履歴をあたかも事実という前提で語ることだ。と、これまで評論家や研究者など、数多くの先人たちが書いていたような気がします。たしかにそうだと思います。

 自分には前科がある、という内容の作品で知られた直木賞受賞者とくれば、「犯罪でたどる」というテーマには恰好の対象でしょう。しかし、この人に関することは、だいたい虚実が判然としません。思い切って無視してしまおうか。とも考えたんですが、やはり素通りするのは難しそうです。今週は、橘さんの告白した犯罪について触れることにします。

 橘さんが中学(旧制)で問題行動を起こした挙句、厳格な父親から勘当を言い渡され、親戚がいるということで預けられた札幌の地で、一人の若い芸者屋のおかみと出会い、いろいろあったのち、札幌を去る。……というストーリーは、いくつかの橘外男作品に描かれている、自伝的な要素です。その「いろいろ」のなかに、自身思い出したくもないと語った犯罪および服役が含まれているわけですが、一部のことはじっさいに橘さんの身に起こったことで、一部はつくり話、と見られています。

 作家が書いたものをいちいち事実だと信用するわけにはいかない、というのは正論に違いありません。ただ、そこで納得していてもラチが明きません。いちおうここでは、橘さんの青春時代までを別の人が実話ふうに仕立てた「小説 橘外男」(『妖奇』昭和27年/1952年5月号 並木行夫)と、橘さんが公に発表するつもりで書いたわけではない、和田謹吾さんに宛てた昭和29年/1954年の私信(『原始林』昭和37年/1962年8月号、9月号掲載、昭和40年/1965年・北書房刊『風土のなかの文学』所収)、この2つを軸に見てみることにします。

 まずは両親を怒らせ、匙を投げられるにいたった中学時代のことですが、退役軍人の父親、橘七三郎さんの地元、群馬県高崎市にあった高崎中学に入り、そこで教師と対立して退校。それから地元を離れ、東京の成城中学の寄宿舎に入れられて、同校に通いますが、やはり長続きしません。つづいて群馬に戻され、沼田中学で学ぶことになったものの、ここでも問題を起こした結果、放校。と、並木さんの「小説 橘外男」では3つの学校が紹介されています。橘さんが直木賞をとる前、『文藝春秋』昭和12年/1937年5月号に発表した「春の目覚め」では、「N町」の中学に通う自画像が描かれていますが、あるいはこれは沼田中がモデルかもしれません。

 ほとほと困った両親が、なかば追い出すかっこうで橘さんを預けた先が、札幌の鉄道院に勤めていたという叔父です。たいてい「叔父」と表現されていますが、これは「男色物語」(昭和27年/1952年10月号~12月号)にもあるように、母にとって唯ひとりの甥、つまり橘さんから見ると「従兄」というのが正しい続柄だそうです(和田謹吾宛の私信)。名前は山口金太郎(「小説 橘外男」)。

 この山口さんというのは、もちろん正真正銘、実在の人物で、元福井藩士の士族山口平三郎さんの長男として明治5年/1872年5月に生まれた、と言いますから、橘さんとは22歳離れており、そういう年齢差もあって「オジさん」と呼んでいたらしいです。東京帝大工科大学を卒業後、日本鉄道株式会社に入社したのち、明治40年/1907年に帝国鉄道庁へと移った人で、橘さんを引き取った当時は、北海道鉄道管理局の札幌工場長の職にあったのだとか。その後、九州の小倉工場に異動、あるいはニューヨークに派遣されたりしたあと、大正11年/1926年に民間の日本車輌製造へと転じ、名古屋商工会議所議員などを務めた、という記録を確認することができます。前述の「春の目覚め」では、「坂口」という姓で出てきます。

 オジさんの世話によって札幌工場の最下級の乙種雇人になりますが、なにしろ安月給で、しかもオジ家族からは冷淡に扱われる始末。ヤサぐれた気分がおさまらず、手を染めることになったのが、街をうろついて恐喝まがいに金を巻き上げる追いはぎの類でした。いよいよ不良青年ここに極まれり、というところにまで落ち込んだ矢先に、とある年上の女性に出会います。金を奪おうと近づいたところ、逆に叱責され、こんなことしていては駄目じゃないのと諭されたことが、橘さんの心に重く響いたらしく、後年その芸妓屋の年若い女将は、橘作品のいくつかに描かれることになります。

 といいますか、並木さんの「小説 橘外男」などは、そのエピソードが物語の中心です。「桃千代」と名乗る彼女に対して、不良青年・外男は、恋愛感情といったものは持ちようがなかったが、札幌を離れてもずっと、その面影は忘れがたく、自分を厭世の底から救ってくれた第一の恩人として、常に心のなかにあった……ということです。

 その後に橘さん自身が書く「若かりし時」(初出『旅』昭和28年/1953年8月号~昭和29年/1954年1月号「青春の尊かりし頃」+「わが青春の遍歴」、昭和29年/1954年1月・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 橘外男集』に収録)、あるいは『ある小説家の思い出』などの、一部の基本的なストーリーは、まさしくこれです。

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2018年8月26日 (日)

昭和58年/1983年・取材先で聞いた西東三鬼スパイ説をそのまま書いて敗訴した小堺昭三。

謝罪広告

著者小堺昭三、発行所株式会社ダイヤモンド社として刊行した小説「密告」九八頁中俳人故西東三鬼を「特高のスパイ」と断定し、それを前提として九九頁、一〇一頁、一〇二頁にこれを敷衍した文章は、事実に反し、故西東三鬼氏に対する世人の認識を誤らしめるものであり、そのために同氏の子息である貴殿の名誉を毀損致しました。

よって、ここに深く陳謝し、将来再びこのような行為をしないことを誓約致します。

小堺昭三

株式会社ダイヤモンド社

大阪府泉大津市(引用者中略)

斎藤直樹殿

――『毎日新聞』昭和58年/1983年4月30日「謝罪広告」より

 第44回(昭和35年/1960年下半期)の直木賞候補になった小堺昭三さんの「自分の中の他人」は、いかにも文学臭の強い、あまり面白みのない一篇ですが、その後の小堺さんといえば、まるでこの作品からは想像できない領域と言っていい、実在の人物を実名で描く、いわゆる実録物で活躍した作家です。

 そんな小堺さんが『文藝春秋』昭和53年/1978年12月号に「弾圧と密告者――『昭和俳句事件』の真相――」を発表するのと相前後して、同年末ごろに出版した『密告 昭和俳句弾圧事件』(昭和54年/1979年1月・ダイヤモンド社刊)という一冊があります。これもやはり、関係者への取材を重視した、小堺さんお得意の技を存分に感じさせる一作でしたが、発売されたとたん、俳壇界隈に騒ぎを巻き起こしてしまいます。昭和15年/1940年「京大俳句」に所属する何人もが、治安維持法違反で検挙されたという新興俳句弾圧事件。そのとき同じ仲間だったはずの西東三鬼さんが、特高警察のスパイとして動いていた、と断定して書かれていたからです。

 『密告』は、国家権力が難癖をつけながら市民の言論を封じ込めようとする時代背景のなか、実力ではなく権力側に取り入って俳壇でのし上がろうとした小野蕪子さんに照準を合わせ、こういう社会は再現してほしくないという小堺さんの危機感を込めた、ノンフィクションとも小説とも、あるいは読み物とも言える作品です。西東さんに触れた部分はあまり多くありません。

 しかし、じつは「京大俳句」検挙の裏には、俳壇の情報を特高に教えたり、彼らの句のなかに天皇制反対・政府転覆に通じる考えで詠まれたものがあるという解釈を、警察に対して講義した内通者ないしは密告者がいたらしい、という噂があったことに触れる流れのなかで、西東三鬼もそのひとりだった、と紹介。昭和15年/1940年2月と同年5月、「京大俳句」グループの主要メンバーが身に覚えのないまま捕えられ、取り調べを受けるという名目で留置所に入れられてなお、しばらく泳がされて8月まで捕まらなかった西東さんは、その間に特高から協力を求められて、仕方なしにそれに応じたのだ、と小堺さんは書きました。

 何の証拠もない話です。臆測です。西東さんは昭和37年/1962年に没し、すでにこの世におらず、過去の俳壇史を見渡しても、いっしょに検挙された俳人、あるいは編集者、研究者、だれひとりとしてこの噂話を確定した人はいません。それなのにスパイだったと断定するのは事実を捏造していると言う他なく、死者への冒涜にあたり、また俳句に誠実に向き合っていた仲間思いの三鬼の名誉を不当に傷つけるものだ、と三鬼の遺族、もしくは三鬼を敬慕する同輩、後輩たちが声を上げ、何度か小堺さんとダイヤモンド社に抗議文を送ったのに突っぱねられたものですから、ついには提訴するに至ります。昭和55年/1980年7月のことです。

 この裁判の経緯や争点などは、大阪地裁堺支部で判決が出た直後の『俳句研究』昭和58年/1983年8月号「特集・西東三鬼の名誉回復」のなかで、充実した資料とともに紹介されており、三鬼スパイ説の撤回に向けた大勢の人たちの情熱ぶりを、よく汲み取ることができます。三鬼の次男、斎藤直樹さんの心情はわかるとしても、鈴木六林男さんをはじめとする俳句関係者たちの、ここまでムキになれるものかというほどの献身と闘争心には、若干の怖さも覚えるところです。

 そのなかで、「三鬼がそんなことをするはずがない」という感情論ばかり唱えるのではなく、推論や伝聞に過ぎないことを断定口調で物語に組み込んだ小堺さんの書き手としての態度を、一貫して問題視しつづけた川名大さんの研究者ダマシイに心洗われる思いですが、基本的に原告、斎藤さん側の全面勝訴となって、被告側は控訴せず、『朝日新聞』『毎日新聞』の朝刊に1回ずつ謝罪広告を出すことと、小堺さんとダイヤモンド社各自30万円の慰謝料および、起訴されて以降の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを受け入れて決着しました。

 というところで、裁判周辺の話を読んでいると、三鬼がスパイだったなんてあり得ない、という原告側の主張のほうに分がある、と素人目にも思います。しかも裁判を起こされる前に、謝罪する機会は小堺さんの側にも十分与えられていました。いったい小堺さんはどこに勝算があると考えて裁判に臨んだのだろうか。疑問に思います。

 原告のほうも、やはりそれは謎だったらしく、人目をひく珍奇な説を採用することでことさら本の売り上げを狙った杜撰なルポライター、と小堺さんのことを評するに至っています。そう見るしか他に考えようがないくらい、小堺さんがほとんど納得のいく説明をすることができなかったからです。

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2018年8月19日 (日)

昭和62年/1987年・外為法違反で書類送検され起訴猶予になった、ココムへの密告者、熊谷独。

東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件で、東京地検は十九日、外為法違反で書類送検されていた同社工作機械事業部長(当時)ら幹部四人と、商談を持ちかけたソ連貿易商社「和光交易」(本社・東京)の取締役ソ連部長ら幹部三人の計七人を起訴猶予とした。同地検は理由について「東芝機械は逮捕した主犯の幹部二人をすでに起訴しており、和光交易は不正輸出に直接関与していなかった」としている。

――『毎日新聞』昭和62年/1987年6月20日「ココム違反の東芝機械幹部ら七人を起訴猶予」より

 国際情勢を背景にした小説というものがあります。一般的にも注目を浴びるジャンルですが、直木賞のなかでも、明らかに華のひとつです。

 「ナリン殿下への回想」「ローマ日本晴」「寛容」など戦前・戦中に発表されたものから、「香港」『ゴメスの名はゴメス』「蒼ざめた馬を見よ」『風塵地帯』、あるいは『喜望峰』『火神を盗め』『プラハからの道化たち』『元首の謀叛』『炎熱商人』『ぼくの小さな祖国』『カディスの赤い星』『脱出のパスポート』『海外特派員 消されたスクープ』『遠い海から来たCOO』『密約幻書』、近年でも『ジェノサイド』『ヨハネスブルグの天使たち』『アンタッチャブル』『暗幕のゲルニカ』などなど、もう枚挙にいとまがない、という手垢のついた常套句で逃げるしかないぐらい、たくさんの作品が候補に選ばれてきました。

 こう見ると、直木賞とは国際的な事象にも目を向けてきた賞だ。と表現したくなりますが、あまりに権威とか文壇ゴシップとか、そちらに光が当たりすぎて、ほとんどそういう評判は耳にしません。というか、山周賞も吉川新人賞も、その他エンタメ系文学賞の多くも、だいたい同じ程度に、世界的な政治状況を描いた小説を取り上げています。たしかに直木賞だけの特質ではありません。

 しかし、そのなかでも異質中の異質といえる、熊谷独さんのデビュー小説『最後の逃亡者』(平成5年/1993年11月・文藝春秋刊)を候補にしてしまう直木賞の、世間体を気にしない予選のありようは、さすがの大胆さでしょう。世の中、何が直木賞をとるのか気にする人は多くても、直木賞の候補に何が(だれが)選ばれるかに注視するのは、ごく少数です。文藝春秋がとってほしいと思う人を、どんどん候補にすればいいと思います。

 さて、熊谷さんですが、どこが異質なのか。いまから30年ほどまえ、国をあげて大騒ぎになった東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件というものがあり、この事件が明るみになるきっかけをつくった告発者として取り調べを受け、結果は起訴猶予とはなりましたが、犯罪行為スレスレどころか、その渦中に身を置いた対ソ貿易にくわしいビジネスマンです。デビューまで文学的履歴は皆無、エンタメ小説界にとっても、その存在そのものが爆弾のような、一種の不気味さ、凄みをもった候補者でした。

 熊谷さんは昭和60年/1985年、22年間務めた和光交易に自ら辞表を提出、退社します。妻ひとり息子ひとりの3人家族、49歳のときです。『モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景』(昭和63年/1988年1月・文藝春秋刊)によれば、直接の引き金になったのは、この年の人事異動で自分の名前が昇進者リストになかったこと、と言いますが、モスクワ事務所で対ソ貿易に従事するあいだ、KGB(国家保安委員会)とのやりとりで発生する、理不尽な交渉、心理的に追いつめられる間接の脅迫、腹芸などにほとほと辟易して疲れ果て、これ以上、この仕事は続けられない、ということで退社を決意したそうです。

 この段階で、取引相手のKGBにも信頼され、まじめに社益を考えながら、しかし一方では、不正な取引を裏づける多くのデータや資料をしっかりと記録していた、というのが熊谷さんの恐ろしいところで、それまでソ連相手の商売をしてきた人なら当然知りながら誰も大っぴらにしなかったその実態を、熊谷が公開しようとしているらしい、と噂が流れ、退社してから元の会社から懐柔の声がかかったり、またソ連側からも引き合いの話が持ち込まれますが、熊谷さんはこれを拒否。次第に、これはやはり明るみにしたほうがいい、するべきだ、という考えを固めていき、通産省に話を持っていこうとしますが、相手にされず、思い切ってパリにあるココム本部宛てに、告発状を送ったのが昭和60年/1985年12月のことです。

 ここからの日本政府、官僚たちの対応が、対米関係を含めて混乱と騒動をもたらした最大の要因、とも言われる空白の1年数か月が始まります。

 昭和62年/1987年3月に表沙汰になるまで、告発状を受け取ったココム本部からの問い合わせに、通産省は「そんな事実はない」とシラを切り、ちゃんと調べて答えているのか、とアメリカから執拗に追及されても、「不正な取引はどこにもない」とスットボける。通産省でも当然、告発者である熊谷独、本名・熊谷一男の名前は把握していたのに、直接話を聞こうとはせず、熊谷さんの経歴や素行を調べたうえで、会社を馘首になった腹いせに騒ぎ立てているだけで、他にも悪い評判ばかりがつきまとう、信頼性に欠ける人間だ、と完全無視を決め込みます。

 最初から通産省も非を認め、自浄で事をおさめる気があればよかったんですが、そんなこと、どだい無理な話かもしれません。アメリカ側は不満を募らせ、熊谷さんも想定していなかったような騒ぎへと転がっていき、日米経済摩擦に油をそそぎ、東芝製品不買運動を巻き起こし、日本の商社は武器商人へとなり下がったと叩かれ、そんななか発端となった熊谷さんも無傷では済まされず、業界の掟をやぶった裏切り者だの、私怨で他のサラリーマンまで巻き添えにした自己中人間だの、さんざんに中傷されます。

 そんな熊谷さんに反撃の場をつくったのが『文藝春秋』でした。昭和62年/1987年8月号と9月号、2か月にわたり「東芝機械事件・主役の告白 これがソ連密貿易の手口だ」「東芝事件・主役の告発手記第二弾 西側がつくるソ連空母」を掲載。編集部の担当者は木俣正剛さんだったそうですが、事件は収束に向かっていましたので、普通であればこのまま世間の関心も離れ、これで終わり、となりそうなところ、昭和63年/1988年には加筆修正、より熊谷さんの心境とソ連での商売の深部にまでせまった単行本が文藝春秋から出たのみならず、文春の息が存分にかかったサントリーミステリー大賞に、小説を書いて参加し、そのディテールを細かく積み上げる筆致が選考委員に褒められて受賞。すると文春の息が存分にかかった直木賞で、予選を通過する、というまさかの作家デビューを果たすのですから、才能はどこに眠っているかわかりません。

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2018年8月12日 (日)

平成11年/1999年・プライバシー侵害の裁判で和解を選んだ高橋治。

作家高橋治さん(69)の小説「名もなき道を」をめぐって、「兄をモデルにされ、プライバシーを侵害された」として、妹夫婦が高橋さんと出版元の講談社を相手に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審は八日、高橋さんと講談社が和解金を支払うほか、小説以外での作品化の場合には主人公の出身地を変えることなどを条件に東京高裁(青山正明裁判長)で和解が成立した。一審は高橋さん側が勝訴していた。

――『東京新聞』平成11年/1999年3月9日「小説「名もなき道を」 プライバシー訴訟 「精神的苦痛」認め和解 控訴審」より

 「犯罪」の範疇からは外れますが、民事であっても、訴訟にまで発展した小説作品はいくつかあります。ときに多くの報道がなされ、文学関係者の意見が飛び交い、一般社会の関心の目が小説界にそそがれる、という事態を引き起こすこともあって、社会通念に照らして「やってはいけないことをした」という印象をもたれてしまうのは、否定できません。

 直木賞の関係者(受賞者・候補者・選考委員)のなかで、そういう場面に遭遇した例として、まず取り上げておきたいのが高橋治さんです。

 直木賞受賞者のなかでも決して時代を画した流行作家とは言いがたく、読書好きならともかく、一般的には「え、だれそれ」と首を傾げられても仕方のない、淡々と我が道を歩きつづけた渋めの人ですが、直木賞受賞翌年に刊行された『風の盆恋歌』(昭和60年/1985年4月・新潮社刊)というベストセラーがあり、年を重ねてから読むとビシビシ心に突き刺さる作品を数多く残しています。

 『名もなき道を』(昭和63年/1988年5月・講談社刊)も、題名から連想させるとおり、華やかな栄達とは縁のなかった一人の男の、常人とは相容れない生き様を掘り起こしていく、なかなか地味な小説です。いったい何でこういう小説が問題になるのか、よくわかりませんが、しかし、珍しい判例を導き出した特殊な事例として、小説と裁判の歴史のなかではよく取り上げられています。

 この小説では、昭和59年/1984年~昭和60年/1985年に、地方各紙に連載されるに当たって、高橋さんが自分の旧制第四高校時代の同期生をモデルにした「槙山光太郎」を中心的に登場させ、じっさいにその妹夫婦にも取材したうえで、彼らもまた「武部保雄」「万里子」という名前で、重要な役を担って描かれます。連載終了後、昭和63年/1988年に単行本化、その年の10月には『別れてのちの恋歌』とともに、第1回柴田錬三郎賞を受賞。しかし、作中に描かれた説明などから、「槙山」や「武部」夫妻が誰なのか、その地元では容易に特定できるらしく、私生活上のことを公表されて名誉・プライバシーが侵害されたとして、「武部」夫妻のモデルとなった妹夫妻が平成1年/1989年12月に提訴。訴えられた高橋さんと講談社は、プライバシーの侵害には当たらないと主張して法廷で争い、平成7年/1995年5月19日、東京地裁(魚住庸夫裁判長)で判決が言い渡されました。

 当該作品の記述は、プライバシー侵害、名誉棄損としての違法性を欠く。原告の訴え棄却。要するに、高橋さん・講談社側の全面勝訴、となったのです。

 モデル小説をめぐるプライバシー侵害の裁判で、こういった判決が出たことは、いまにいたるまで重要な議論を残したと言われます。誰か特定の人をモデルにし、その私生活の、本人たちが知られたくないことまで題材にしても、違法と判断されない場合があるんだ、でもその線引きっていったいどこにあるんだろう……と、果てなき議論に、また一本薪をくべた、と言ってもいいです。もはや裁判の世界もわからないことだらけ、という感を深くしますが、そこに「文芸性、芸術性があるか、ないか」という、よけいに理解不能な文学の話がかぶさっている。善か悪か、判別の難しいことばかりのこの社会において、でもひとつの判決においてはどこかに線を引かなければならない、という人間的な不条理さが、より際立って見える事例でもありました。

 そのなかでも注目したいのは、このときの判決文で、実在の人物をモデルにしたことを、どの程度、売りにした作品か、それがプライバシー侵害と判断する材料にもなりうる、という文章が出てくることです。

 誰それをモデルにした、あるいは誰それの実生活を描いたと言って売り出す、暴露小説、実録小説の類なら、法に触れるかもよ、というわけです。『名もなき道を』は反対に、ことさら、そのことで読者の関心を煽った作品ではない、と判断されたために、被告の勝訴へと導かれた面が、多分にありました。

 この点、にぎやかで騒々しいことが性に合わず、テレビもほとんどつけずに、田舎暮らしを愛し、つねづねゴシップ的なジャーナリズムが大嫌いだと公言していた高橋さんの、その地味な精神が功を奏した、と言ってもいいでしょう。

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2018年8月 5日 (日)

昭和13年/1938年・『若い人』が告発された一件で、「軍人誣告罪」と表現した石坂洋次郎。

作家石坂洋次郎(三九)氏の小説「若い人」中に尊厳冒涜の節があると日本橋区蠣殻町三の四福島健氏から石坂氏並に改造社発行人山本三生氏を相手どり出版法第廿六条による告発が提訴されてゐたが(引用者中略)同氏はすでに秋田県立横手中学校の教職を去り謹慎の意を表したうへ「若い人」の題材、辞句についても変更或は訂正の意があるところを申出てゐるので結局起訴には至らぬものとみられてゐる

――『読売新聞』昭和13年/1938年11月15日「石坂氏を告発 検事局へ出頭」より

 石坂洋次郎さんは、直木賞や、もうひとつの兄弟賞は受賞していませんが、功成り名を遂げた昭和42年/1967年、67歳になってから直木賞の選考委員に就きました。

 先日、芦屋で行われた元・文藝春秋社長、平尾隆弘さんの講演でも、選考会にまつわる印象深いエピソードとして、議論とは関係ない場面でいきなり手を上げて「選考料は上がりましたか」などと質問する石坂さんの、茶目っけのある姿が語られ、笑いを誘っていましたが、約10年間その調子で務め上げ、77歳で退任するときには、老衰してたくさんの作品を読むのがつらくなった、とその理由を述べるなど、おおらかな自由人というか、気負いのない、あるいはつかみどころのない飄然とした態度に特徴のあった選考委員です。

 その石坂さんの筆歴のなかには、自身が犯罪者にされそうになった、大きな事件が二つあります。昭和13年/1938年の『若い人』告訴と、昭和23年/1948年~昭和24年/1949年『石中先生行状記』猥褻文書摘発です。

 どちらも有名作品、しかも有名な逸話なので、いたるところで取り上げられてきましたが、前者の『若い人』事件には、確実に奇怪な点があります。「軍人誣告罪」って何なんだ、ということです。

 経緯を簡単にたどってみます。昭和8年/1933年~昭和12年/1937年にかけて『三田文学』に発表された石坂さんの「若い人」は、連載中から文壇内で大評判となり、昭和12年/1937年2月に前半が、同年12月に後半が、改造社から単行本化されます。これが売れに売れ、後半が書店に並ぶころには映画も公開されて、さらに多くの読者を獲得。ときに新進気鋭の作家として『東京朝日新聞』から連載小説の依頼も舞い込んで、石坂さん大喜び、昭和13年/1938年9月14日の紙面に、新連載の告知が出たところ、発表からかなり経った『若い人』に対して、ある右翼がかった人物からケチをつけられ、不敬罪および軍人誣告罪に当たるということで、検察局に提訴されてしまいます。そんな作家を起用する気かと追及された『朝日』は9月17日、わずか3日で連載予定をとりさげ、秋田県で中学の教師をしていた石坂さんも、不承不承、教職を辞す羽目になりました。……

 と、石坂さんがどうこうより、一部の人たちの朝日新聞に対する敵意が凄まじかった、ということのわかるイザコザに、石坂さんも巻き込まれたかっこうですが、ここに出てくる「不敬罪」が何なのか、それはわかります。しかし「軍人誣告罪」とは何でしょうか。

 これについては近年、小谷野敦さんによる、ブログ記事や『忘れられたベストセラー作家』(平成30年/2018年3月・イースト・プレス刊)での指摘があったおかげで、目からウロコが落ちました。「誣告罪で提訴された」という表現は、明らかな間違いです。もしくは勘違いです。

 作中、軍人の剣は鉛筆を削ったり果物の皮を剥くのにも使われる云々、と書かれた部分が、告発対象のひとつになったと言われています。だけど、そこで難癖をつけるなら、(当時の)刑法第2編第34章「名誉ニ対スル罪」のなかにある、第231条への抵触でしょう。事実ヲ摘示セスト雖モ公然人ヲ侮辱シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス。つまり「侮辱罪」です。

 刑法では、第2編第21章「誣告ノ罪」第172条に、いわゆる「誣告罪」も規定されていますが、誣告というのは、誰かに法的処分を受けさせようと企んで、虚偽の申告をすること。いわば、偽証に近い行為のことです。ブジョク罪とブコク罪。語感は似ていますが、意味は全然ちがいます。

 あるいは「誣言」と取り違えた、という可能性も考えられるでしょう。軍人に対する誣言、といえば、軍人に関する虚偽の事柄をでっち上げて触れまわる、といった意味でしょうか。言葉として通らなくはありませんが、だとしても、それは誣言であって、誣告ではありません。

 誣告罪。一般的になじみのない語句のほうが、いかにも法律用語らしいし、恰好いいです。いや、罪名に恰好よさを求める人など、いないのかもしれません。となると、戦後『若い人』が語られるとき、知名な著述家からそうでない著述家まで、こぞって「軍人誣告罪」という意味不明な表現を、平気で使い続けてきたこの状況は、いったいどういう事情によるのでしょうか。

 なにしろ何百例、何千例とありますから、それらの事情を一概に推しはかることはできません。しかし、有力な元凶をひとつ挙げるとすれば、告発された事情にくわしいはずの石坂さん本人が、いちばん最初に「軍人誣告罪」という言葉を使った。……これだろうと思います。

 戦争が終結してまもない昭和21年/1946年4月、『若い人』は改造社で復刊され、このとき上巻に、石坂さんによる「あとがき」(昭和21年/1946年1月付)が付きました。そこで作者自身が、この作品は「軍人誣告罪」で告発されたのだ、と二度も重ねて触れています。致命的といおうか、相当厄介なケースです。

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2018年7月29日 (日)

昭和47年/1972年・前年につづいて万引きで捕まった小島視英子と、黙ってやり過ごした夫・政二郎。

【鳥取】十二日午後五時五十五分ごろ、鳥取市川端二、鳥取県東部生協(広田幸一組合長)二階衣料品売り場で、中年の女性二人が、くつ下など衣料八点(九千九十円相当)を万引きしたのを、店員が見つけ、鳥取署に突き出した。

同署の調べでは、(引用者中略)作家小島政二郎氏夫人、視英子こと嘉子(四五)と、(引用者中略)無職和田美樹(三〇)で、(引用者中略)調べに対し、視英子は、はじめ和田嘉子と名乗り、万引きは、美樹がやったといい張ったが、追及され二人でやったと自供した。

――『読売新聞』昭和47年/1972年7月13日夕刊「里帰り先で万引き また小島政二郎氏夫人」より

 昭和10年/1935年上半期の第1回から、直木賞・芥川賞の兼任で選考委員になった小島政二郎さんは、8年ものあいだ両賞のために尽力した大偉人です。とくに直木賞の予選主査を務めるなど、こちらの賞の礎を築いた人、と紹介しても大げさではありません。

 昭和18年/1943年~昭和19年/1944年、戦争中の2年間は任から退きますが、戦後あらためて直木賞の委員に復活。「直木賞は(いや、直木賞といえども)文芸作品を選ばなければならない」という、難しくて険しい道を、頑固な文芸信者として押しすすめ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)の選考をもって、主催者側から退任をすすめられたところで、おそらく不本意ながら身をひきます。

 時に御年72歳。エッセイ『食いしん坊』で有名な老文士、という立場に甘んじ、もはや大衆文壇の第一線にいるわけでもなく、他の委員に比べて、一般的な人気はさほどなかったでしょう。鶴書房から『小島政二郎全集』の刊行が始まったのは、委員退任後の昭和42年/1967年からですが、当初計画されていた全12巻のうち、3巻を残して続刊は頓挫。余生というか、実質引退状態というか、終わった人というか、基本的には新たな活躍は望めない過去の作家、と見られていたなか、ここで〈小島政二郎〉の名を広く世間に知らしめたのが、昭和41年/1966年から同居、昭和42年/1967年4月に正式に婚姻届を出した32歳下の二番目の妻、視英子さんでした。

 自称〈悪妻〉。他称もやはり〈悪妻〉。翔んでるミセスとして、ほんのわずかの期間マスコミの表舞台でも活躍した人です。

 本名は嘉壽子といい、視英子というのは小島さんとの結婚後に、姓名判断に従って名乗りはじめた名前だそうです。ともかくオチャメでお転婆、歯に衣着せぬ放言や、だれに対しても物怖じしない屈託のない態度が興味をひかれ、『甘辛春秋』昭和43年/1968年夏号に書いた「マイ・ディア・ドンビキ」をきっかけに、いろいろと執筆の仕事が舞い込むようになり、翌年には『現代不作法教室』(昭和44年/1969年10月・二見書房刊)を刊行。いっぽう小島さんのほうも「若い妻と老いた作家」という題材を得て、私小説への情熱を燃え上がらせると、「眼中の人(その二)」「妻が娘になる時」「美籠と共に私はあるの」などなどを精力的に発表し、昭和45年/1970年1月、中央公論社から作品集『妻が娘になる時』が出たときには、久しぶりに自分の芸術小説の本が出ることになってうれしい! と喜びをあらわにしました。

 この「妻が娘に~」は同年、TBSテレビの東芝日曜劇場でドラマ化され、美貌でならした視英子さんは同局「あなたは名探偵」の解答者のひとりに大抜擢。『サンデー毎日』では夫婦そろって対談のホスト役を務める「不作法対談」の連載も始まり、小島政二郎、直木賞委員を退任してからの、まさかの大にぎわいです。視英子さんに負けず劣らず、自分の感情を包み隠さずぶつける小島さんの魅力が、ここにきてさらに花開いた、と言ってもいいでしょう。

 そんな「年の差婚」景気が、ばっさりと終わりを告げたのは、昭和46年/1971年6月15日、昭和47年/1972年7月12日、2度にわたる視英子さんの万引きと、それを大きく取り上げた新聞や週刊誌による報道だった。……というわけなんですが、叩くとなったら口きたない表現をこれでもかとつぎ込んで叩く、雑誌ライターの煽り立てるような文章・文体は、当然この時代も健在。ちょっと名のあるエロ爺いに取り入って、ちゃっかり妻の座におさまると、調子に乗っていろいろと顔を出すようになったけど、何だ、けっきょく幼稚な犯罪者じゃないか、といった感じの、他人を糾弾するときのライターたちのわくわく感が、どの記事からもよく伝わってきます。

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2018年7月22日 (日)

昭和62年/1987年・婦女暴行致傷罪で起訴された同棲相手のことを、記者会見で聞かれた山田詠美。

作家山田詠美さんの小説「ベッドタイムアイズ」のモデルとされる在日米空軍横田基地の技術軍曹A(35)が7日、東京地検八王子支部から東京地裁八王子支部に婦女暴行致傷罪で起訴された。

起訴状によると、Aは3月1日午前4時半ごろ、東京都福生市福生の公園で、帰宅途中の女性(46)に背後から抱きつき、約100メートル離れた自宅に引きずり込んで暴行し、顔などに2週間のけがをさせた、とされる。

――『朝日新聞』昭和62年/1987年7月8日夕刊「小説「ベッドタイムアイズ」のモデル黒人兵、女性暴行で起訴」より

 直木賞の受賞記者会見というのは、直木賞全体から見るとかなり局所的なイベントですが、それでも毎回、確実に関心をそそられます。

 その会見のなかで、直木賞史上最大の盛り上がりを見せた、と語り継がれているのが、第97回(昭和62年/1987年上半期)。いまから30年余りまえの、夏の出来事です。

 いつもは冴えない文芸記者しか集まらない会見場に、テレビから週刊誌からゴシップ誌から、カメラとフラッシュを抱えた取材陣が群れをなして押し寄せ、まるで芸能人の会見かと思わせた、と形容されるほどの千客万来ぶり。少なくとも文芸関連の行事という穏やかな様子は一変し、直木賞・芥川賞は完全にショー化した、というおなじみの論評がこのときも現われ、しかし以来30年、だれもそれを変えようとせず、いまだに「直木賞・芥川賞は完全にショーだ」と批判する人が後を絶たない、という記念すべき第97回直木賞。

 主役となったのは、山田詠美さんです。

 いや、山田さんの華やかさや話題性も相当でしたが、それだけが大勢の取材陣を動かしたわけではありません。直木賞の会見風景を一気に変貌させたその最大の要因は、明らかにひとつの犯罪事件でした。否定する人はいないと思います。

 報道によると、昭和62年/1987年3月1日明け方5時半ごろ。東京都福生市に住む会社員、46歳の女性が徒歩で帰宅中、ちょうど「わらつけ公園」を歩いていたところ、何者かに突然抱きつかれ、100メートルほど離れたマンション3階の一室に、強引に連れ込まれる事件が発生します。加害者は抵抗する女性を殴りつけ、レイプに及んだとのこと。被害を受けた女性はそのマンションの住人でもあったため、加害者の人体は把握しており、3月4日に被害届を警察に提出。その加害者とはアメリカ国籍をもつ氏名カールビン・ウィルソン35歳(ケルビン、カルビンと表記する文献もあり)、米軍横田基地の航空貨物補給部で働く技術軍曹で、福生署の捜査員は性犯罪ということもあって慎重に裏づけ捜査を進めますが、事実関係の捜査がかたまり、6月17日に逮捕。7月7日、東京地裁八王子支部に起訴されました。続報によれば、同年12月23日に同支部にて、求刑懲役四年に対し、懲役三年六か月の実刑判決が言い渡され、刑に服すことになった、ということです。

 そのウィルソンさんは、山田詠美さんの当時の同棲相手。処女作『ベッドタイムアイズ』のモデルのひとりとも言われて、デビュー直後から数々のメディアに取り上げられた山田さんとともに、マスコミに幾度となく登場していた人ですが、犯行のあった当日、山田さんはバリ島に取材旅行に出かけていて不在、その留守宅が犯行現場になった、という話から、二人の仲は最近ギクシャクしていたとか、山田さんの浮気に心痛めたウィルソンさんがそのフラストレーションを爆発させたのではないかとか、どうでもいいといえばどうでもいい事情が、週刊誌を中心に報じられます。

 ここで、いつもなら世の注目を浴びるのは芥川賞です。しかし、このときばかりは偶然にも直木賞に風が吹きました。7月7日起訴のニュースが新聞に載った翌8日、同じ日に日本文学振興会から直木賞・芥川賞の候補作の情報が解禁され、山田さんの名前が、それまで3度候補になった芥川賞ではなく、はじめて直木賞のほうの候補に入っていたからです。選考会は一週間後の7月16日。直木賞で山田さんの候補作はどう扱われるんだ、権威ある偉い人たちはまさか犯罪者の同棲相手を許したりしないだろうな、落ちろ、いや受賞して叩かれろ……などと、多くの記者やライターたちがウキウキと心を弾ませた、といいます。

 つまり「権威ある文学賞」と「犯罪事件」というイメージの落差に、多数の人間が魅了された、と言っても間違いではないでしょう。

 ひょっとすると第85回(昭和56年/1981年・上半期)ホンモノ芸能人・青島幸男さんが受賞したときや、第94回(昭和60年/1985年・下半期)テレビでおなじみ林真理子さん受賞のときを、しのいだのではないかと言われるほどの大量の取材陣が、直木賞という小さな行事のために予定を調整し、暑いなか都内ホテルの会見場に足を運ぶことになった、というわけです。

 景気のいい時代の日本人は、なかなかの浮かれ調子で、馬鹿なことをやっていたもんだな。あはははは。……と素直に笑えないのが、またつらいところです。

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