カテゴリー「犯罪でたどる直木賞史」の39件の記事

2019年3月17日 (日)

昭和22年/1947年・GHQ/SCAPの指令による公職追放の該当者になった菊池寛。

中央公職適否審査委員会では七日付官報号外で十一月十六日より同卅日までの審査結果を発表した、今回の審査対象は主として各省二級官吏で審査件数四、一三四件中非該当決定人員三、九四七名、該当決定人員一八五名、審査未了件数二となつており、追放該当者中には前国務大臣衆議院議員林平馬氏、元大映社長菊池寛、厚生省顧問吉岡彌生、元通信次官大和田悌二氏ら知名の士も含まれ梨本守正氏外十氏の元皇族も正規陸海軍将校として該当決定となつた、

――『読売新聞』昭和22年/1947年12月7日「林元国務相ら追放 元皇族十一氏も 百八十五名該当決定」より

 直木賞というと、どんなイメージがあるでしょうか。業界内の評判はさておいて、たとえば一般的には「売れる」とか「読みやすい」とか「スゴい業績」とか「もう落ち目」とか、いくつか挙げられると思いますが、その一角に確実に入ってくる強烈なイメージがあります。「エラそうだ」ないしは「イバっている」というものです。

 何をもってエラそうと感じるのか。それは直木賞というより、これをまわりから見ているワタクシたちの感覚の問題でもあります。時代や立場によって、物事を目の前にしたときに沸いてくる感情は、当然ちがうはずですから、直木賞のやっていることや仕組みが変わらなくても、世間一般の受け取り方が変わることはあり得る話です。これから小説家として歩いていく未来ある人たちに向けて、たかだか何十年か長くこの世界で生きているというだけの高齢者たちが、自身の書く小説の出来不出来をタナに上げて、好きか嫌いかの私的な理由で他人の作品をケナしたりする。その言っていること、ことごとくがエラそうだ。……と、『オール讀物』に載っている選評を読んで不快な気分になる人がいても、おかしくはありません。

 もちろん、そうやって嫌われないように、ある選考委員は口当たりのいい表現を並べ、ある選考委員は候補者や候補作に対してわざわざ謝ったりし、ある選考委員は自分がどれに投票したのかバレないように書いているわけですが、けっきょくのところ選考会ではみんな、作品に○△×をつけて票を入れています。口の悪い委員も、やさしそうな委員も、おしなべてやっていることはエラそうだ、ということになります。

 選考委員の座にすわるのは、キャリアのある既成の作家。選考の対象になるのは、それよりキャリアの浅い既成の作家、という文学賞は直木賞の他にもありますが、おおむねこの「エラそうな」構造から逃れられません。しかし直木賞(+もうひとつの兄弟賞)と、それ以外の文学賞には、現状埋めることのできない最大級のちがいがあります。メディアに取り上げられる頻度や量が圧倒的に多いことです。どこの新聞でもネットのニュースでも、賞の名前や存在がいつでも目につく。べつに大した賞でもないのに、やたら権威だ何だと持て囃されている。何だかエラそうだ。ということで、直木賞のエラそうなイメージは肥大化するいっぽうです。

 前置きが長くなりました。今週取り上げる菊池寛さんは34歳のとき、大正11年/1922年の暮れに『文藝春秋』を創刊してから、ずっと文藝春秋社の社主・社長の座にあり、昭和13年/1938年には直木賞や芥川賞などの授賞機関である日本文学振興会をつくって初代理事長に就任、昭和21年/1946年に文藝春秋社を解散させ、昭和23年/1948年に突然倒れて死亡。30代から50代まで、出版界もしくは文芸界のカリスマ的な扱いを受け、若くして「大御所」と呼ばれたりした人です。

 菊池さんが物書きとして輝いていたのは大正時代、昭和に入って以降はだれかに代作させたり、読み物雑誌に登場するぐらいなものでしたし、経営者としても自分で会社を畳み、出版界や映画界から身をひいてから、すぐにこの世を去っています。可能性から考えて、そのまま忘れ去られても不思議ではなかったはずですが、これがのちにまで、天才だった、才人だった、慧眼の持ち主だった、と賞讃されるようになったのは、明らかに『文藝春秋』を受け継いで文藝春秋新社を興した佐佐木茂索さんや池島信平さんなどに才覚があったおかげです。

 59年の人生だったとはいえ、ノッていた時期には自ら各種団体や組織をつくり、また人に頼まれて要職についたりしました。そうなれば当然、味方も増えれば敵も多くなる。毀誉褒貶に包まれるのは避けられません。訴えようとしたり、訴えられたり、事件性を帯びたいざこざに巻き込まれたことも多少見受けられますが、そのなかでも昭和22年/1947年10月に公職追放の対象リストに名前を挙げられ、審査の結果、11月にたしかに追放の該当者に入れられたという一件は、やはり無視して通り過ぎるわけにはいきません。

 公職追放は、純粋な犯罪事案とは言えないでしょうけど、法令によって処分される、という意味では犯罪に準ずるもの、と見なすこともできます。これが出版人としての菊池さんの総決算となったのですから、直木賞などの文学賞も無関係な話ではなくなってきます。

 順番を追ってみると、日本が降伏したのが昭和20年/1945年8月。ときに『文藝春秋』は休刊中でしたが、まもなく秋には復刊を果たし、直木賞・芥川賞もとりあえず1回だけ、昭和20年/1945年上半期の該当者なし、という発表をして継続しかけます。しかし翌年、昭和21年/1946年3月に菊池さんは、主に経営難を理由として文藝春秋社の解散を断行。文学賞の去就はこれで宙に浮いてしまったかっこうです。さらに次の昭和22年/1947年3月には、菊池さんはみずから大映の社長も辞任して、筆一本の作家の立場に戻ることに。「先の戦争を先導した責任をとった」なんて反省を対外的に口にすることはありませんでしたが、内心ではどんな考えが渦巻いていたのか、もはやわかりません。

 ちなみに寛さんの孫、菊池夏樹さんの『菊池寛と大映』(平成23年/2011年2月・白水社刊)を読んでみると、昭和21年/1946年正月にGHQから呼び出された菊池さんは、公職追放の指令を出され、その影響が文春の解散、大映の社長辞任へとつながる、という流れをとっています。しかし、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が日本政府に公職追放指令を出したのが昭和21年/1946年1月4日。この時期に、民間の一言論人が追放リストに入れられていた、と見るのは、どうにも早すぎるようです。

 だれかに命令されてしぶしぶ辞めたのか、先に自分の意思で辞めたのか、というのはけっこう重要なことだと思うんですが、菊池さんの場合は後者だった、ということになります。人からの指示に殊勝に従うようなタマじゃありません。

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2019年3月10日 (日)

昭和43年/1968年・『深層海流』の一部は著作権侵害だと告訴された松本清張。

著述業三田和夫氏は、二日午後、作家松本清張氏を著作権侵害の疑いで警視庁捜査二課に告訴。

告訴状によると、三田氏の著書「赤い広場―霞ヶ関」(昭和三十年七月三十日、二十世紀社)から松本氏が著書「深層海流」(昭和三十六年新年号から十二月号まで文芸春秋本誌に連載後、三十七年十一月二十日、文芸春秋新社から出版)に、大きな部分で二か所、小さな部分では十か所ほど盗作しているという。

――『読売新聞』昭和43年/1968年4月3日「松本清張氏 告訴される」より

 直木賞の候補経験があり、やがて選考委員も務めた松本清張さんは、長年にわたって魅力的な作品を生み出しました。作家としての力量はまったく申し分がありませんが、その反面、本人の人格はこのうえなく最低だった、というエピソードもたくさん残されています。至るところに転がっていて、とうてい追いきれません。

 とくに『点と線』(昭和33年/1958年)以降、ベストセラー連発の流行作家に躍り出てからは、へいこら追従する出版社の人間ないしは多彩な人脈を使って、姑息なかたちで他人を蹴落とそうとしたり潰しにかかったりした、と言われています。そのやり口のあまりの卑怯さに、被害に遇った人たちや風聞を耳にした人たちが、あるときは怒り、あるときは面白がって、いろいろな回想、伝聞を書き残しましたが、そういうトラブルのなかから、じっさいに「著作権侵害」という理由で告訴されたのが、今週取り上げる一件です。松本さんが直木賞の選考委員になって約7年ほどの、昭和43年/1968年のことでした。

 告訴の内容は単純明快と言っていいでしょう。昭和37年/1962年に刊行された小説『深層海流』のなかに、昭和30年/1955年に三田和夫さんが発表した『赤い広場―霞ヶ関』というドキュメント作品から、表現や構成を含めてほぼコピペ、丸パクした箇所が何か所もある。それが著作権侵害に当たる、と三田さん本人が親告した、ということです。

 じっさいに照合してみると、人名や漢字のひらきに多少の差があるだけで、両者、たしかに何行にもわたってほとんど同じ文章が見られます。偶然同じになった、と言い逃れするのは、客観的に見てもまず無理なレベルです。

 当時、三田さんが発表した「私はなぜ松本清張を告訴したか」(『20世紀』昭和43年/1968年7月号)という記事があります。告訴相手の松本さんに一矢報いてやろうと、皮肉を利かせたり凝った表現を弄したりしている、あまり上品とは言えない攻撃的な文章なんですが、本人の心情はさておくとしても、そこで紹介されているところによれば、文部省著作権課長だった佐野文一郎さんも「文章を見る限りでは、著作権侵害の疑いがあり、同時に、著作権法第十八条の、著作者の人格権侵害の疑いもある」と東京新聞の記者にコメントしたそうです。まあ多くの人はそう見るでしょう。

 人から教えられてその酷似ぶりに気づいた三田さんは、はじめは訴えを起こすつもりはなかったといいますから、展開次第ではそのまま収束していたかもしれません。しかし、三田さんの怒りに火がつきます。松本さんの対応がひどかったからです。

 まず三田さんは、昭和42年/1967年10月に、この問題をどうお考えかと、松本さんに宛てて内容証明郵便を送ります。『経済往来』昭和42年/1967年10月号には、松本さんへの公開質問状として「「清張工房」の内幕」を発表。きっと何か返答があるだろうと思って待っていたところ、10月14日、三田さんのもとになぜか講談社の取締役、久保田裕さんから速達が届きます。そこには、松本氏は三田さんの本は読んでいないそうです、剽窃なわけがありません、今後は私が松本氏の代理人となるので、連絡があるなら私までどうぞ……とありました。

 松本清張に手紙を送ったのに、松本さん本人ではなく、『深層海流』版元の文藝春秋でもない、講談社のお偉方から返答がきた。ん? なぜでしょう。それは当時、読売新聞社を辞めてフリーのライターとなっていた三田さんの、大きな仕事先のひとつが講談社の『ヤング・レディ』誌だったからだ、と三田さんは判断します。しょせんライターは下請け稼業。発注元の編集局長が相手をすれば強くも出られず、矛を収めるしかなくなるだろう、ということで、対応を人まかせにしやがったな、このやろう、何と傲慢な態度なんだ。三田さんはムッとして、みずから『ヤング・レディ』との絶縁を宣言。徹底抗戦の構えをとることを決意します。

 そこであらためて松本さんの仕事ぶりを取材してみたところが、どうも松本さんは自分で取材して文章を書いているわけではなく、データや素材集め、原稿作成などを「秘書」役にやらせているらしい。なかでも、松本さんの評価を高めた現代史のノンフィクション物と呼ばれる『昭和史発掘』などは、大部分が文藝春秋の嘱託記者だった大竹宗美さんの手によるもので、しかし大竹さんの下原稿が杜撰だったためか、いっとき『田中義一伝』や森長英三郎さんの論文を盗作したものだと関係者から抗議が上がったとのこと。そのときも松本さんは自分で対処に当たらず、抗議してきた人を説得できそうな他の人物に手をまわし、表沙汰にならないように火消しを図っていた。こんな人間が、社会の不正を暴く正義派の作家だとか言われてまかり通り、それに出版界全体が加担している。何と腐り切っているのだ! 三田さんは怒ります。

 向こうは押しも押されもしないベストセラー作家です。こっちは新聞記者あがりの一介の無名ジャーナリスト。だから何だ。上等じゃないか。こんな作家がデカい顔をしている腐敗した出版界に一石を投じてやる。と使命感にかられて三田さんは告訴に踏み切った、ということです。

 ちなみに松本さんのほうは、この程度のことは軽く逃げ切れると踏んだらしく、黙殺を決め込みます。かつて松本さんの口述筆記を引き受けていた速記者の福岡隆さんによると、

「『深層海流』は、後年、思わぬところから火の手が上がり、松本さんが北ベトナムに旅行中、盗作うんぬんで某氏から訴えられたが、松本さんはこれを無視した。相手の売名行為に乗ぜられるからである。」(昭和43年/1968年11月・大光社刊、福岡隆・著『人間・松本清張』「第十九話 評論家ぎらい」より)

 ということになっています。「後年」というのは『深層海流』の刊行からしばらく経ってからという意味で、福岡さんの上の文章は、三田さんが告訴してまもない、まさに松本さんが無視している最中に発表されたホヤホヤの文章なんですが、なるほど、高名な自分を訴えるのは売名行為にすぎない、と対外的に言っておくのは、著名作家にとってはなかなか賢い逃亡手段に違いありません。

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2019年3月 3日 (日)

昭和23年/1948年・夜道で女性を襲って強姦未遂の罪になった八匠衆一。

終戦後間もない頃、甚佐は東京である事件を起した。酒の上深夜の路上でひとりの婦人を襲おうとしたのである。その頃流行しはじめていたヒロポンや睡眠剤の影響もあったが、原因はただ単にそれだけでもないようであった。その頃の暗い世相、我執に満ちた人間の在り方、それに対する憤怒や懐疑、そのなかで死を思い、一日一日その方向へでも引きずられてゆくように、彼の心も頭も、錯乱し節度を失いはじめていたのかもしれなかった。

(引用者中略)

その頃はそんな事件が横行している時代だった。それに、刑事訴訟法も改正になったばかりで、四十八時間以内に起訴しなければ、取調べを続行することが出来なかった。

彼は自分の行為をなんと説明していいか分らなかった。自分で自分の気持さえ判断しかねていたのである。従って、羞恥のため顔をあげることも出来ず、答弁もしどろもどろだった。それがいっそう疑いを濃くする結果にもなった。刑事達もその改正に慣れていなかったし、一応はなんでも起訴した。

起訴され、忌わしい罪名が付されると、それだけでも大きな罪の結果になった。

――昭和56年/1981年11月・作品社刊、八匠衆一・著『地宴』「第二章」より

 第34回(昭和30年/1955年・下半期)の直木賞候補になった「未決囚」と、その作者八匠衆一さんのことを、以前うちのブログで取り上げたことがあります。平成20年/2008年12月ですから、もう10年以上まえのことです。

 そのときは簡単なあらすじと、この小説の書かれた背景などに触れたんですが、要するにその中心にあったのは犯罪事件です。直木賞といえば犯罪、犯罪といえば直木賞。両者の縁の深さに、当時は全然気づいていなかったですけど、おそらく昔の候補作を読むなかでこの賞を構成する多面的な要素のなかでも「犯罪事件」とからんだときの直木賞の面白さに無意識に反応して、うっかりブログに書いてしまったものと思われます。10年もたってけっきょく同じエピソードを取り上げるわけですから、ワタクシも全然成長していないんだな、とかなり悲しくなる瞬間でもあります。

 それはともかく、八匠さんです。

 大正6年/1917年生まれなので昭和23年/1948年で31歳。このときは〈松尾一光〉という本名で小説を書いていました。日本大学芸術科で講師をしていた伊藤整さんのもとで学んだ門下のひとり、はてまた中央線沿線に住む外村繁さんとはかなり親しい間柄にあったそうですが、30歳を越えて小説家としてはまだまだ新進、いや無名に近い境遇にいた、と言っていいでしょう。戦後のゴタゴタした世相のなかで坂口安吾さんや太宰治さんなどの、いわゆる無頼派の文学に心を寄せていた、という説もあります。

 「若い」と呼ぶにはもうかなり年を食っていて、焦燥感やら不遇感やら、どこか満たされない思いを抱えていたのではないか、と推察しますが、答えはどこにもないので臆測で語るのはやめておきしょう。ともかく八匠=松尾さんはやってしまいます。

 ある日の深夜、酔って道を歩いていた松尾さんは、前を歩いていた女性に近づくと、いきなり手を出し、乱暴しようと試みた。女性が叫び声を上げ、松尾さんはぶっ倒れ、その場で取り押さえられた。……というのが最初の犯行状況だったそうです。

 その後、警察で取り調べを受け、強姦未遂という罪名が付きます。このときは執行猶予がついて服役は免れましたが、未遂とはいえ、いや未遂だからこそ「強姦」という、自分に下された罪名に松尾さんは苦しむことになり、クスリに逃げ、そして前後不覚のまま似たような犯行に及んだために、今度こそはたしかに監獄行きが決定します。三十路を過ぎて観念的な世界にとりつかれた文学青年の哀れな末路、といったふうに見られるのはどうしようもなく、師ともいうべき伊藤整さんや、家に住まわせたり仕事先を紹介してもらったりしていた友人の梅崎春生さんに、これらのいきさつを小説のネタにされた、ということを以前ブログに書きました。

 しかし、気の迷いか悪酔いしたせいか、小説家を志す男が女性を襲おうとしたためにお縄にかけられて、一巻の終わり。……というのは、イエローなジャーナリズムが好きそうなゴシップではありますが、単なるゴシップではありません。いや単なるゴシップかもしれません。それはどっちでもいいことです。

 少なくとも松尾さんが勾留されて有罪となり、小菅から札幌の刑務所に移され、刑に服したのちに、八匠衆一という新たな名前を携えてふたたび小説を書き始めるというこの貴重な経験が、昭和31年/1956年1月、38歳で直木賞の候補に入るところから、作家賞(昭和33年/1958年)、もしくは平林たい子文学賞(昭和57年/1982年)へと連なる、八匠さんの少なくて輝ける文学賞の歴史を築くことになるのです。

 なあんだ文学賞か、けっきょくゴシップの話じゃないか。と馬鹿にする意見も、きっとおありでしょう。しかし、ひとつひとつの文学賞を見るときに訪れる一種の興奮の展開がそこにあることに間違いはありません。

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2019年2月24日 (日)

昭和8年/1933年・税金を滞納していると税務署に暴露された直木三十五。

文士連のそうくつの觀ある藤澤、茅ヶ崎、鎌倉等湘南各地をなは張りとする藤澤税務署では文士連の税金滯納に惱まされ續けてゐたが我慢がし切れず大衆作家直木三十五こと植村宗一氏の滯納税金を取立てに同氏作『青春行状記』(中央公論社版)の著作權を差押へることに決し二十六日その旨直木氏竝に版元へ通告正式手續きをとつた(引用者中略)

同署の言によると――直木氏は昭和四年度所得税の一部と七年度のそれと合計九百八十圓を滯納、再三の督促にも應じないし殊に最近居所が一定しないので各方面を調査した結果、目下麹町區紀尾井町三に居住することをつきとめさてこそ著作權差押への處分に及んだもの

――『東京朝日新聞』昭和8年/1933年6月28日「直木三十五氏に税務署が又奥の手 「青春行状記」版権差押へ」より

 今日は2月24日です。いったい何の日でしょう。

 そう聞かれて、直木三十五の命日ですよね、などと即答してしまうと、たいてい気持ち悪がられるので、なるべく口にしないようにしていますが、今年はたまたま日曜日です。毎年、横浜市富岡の長昌寺で行われる「南国忌」の催しと命日がちょうど重なり、100名弱の参会者が直木さんを偲ぶ1日でもありました。こうなるとやはり、うちのブログでも直木さんの話をしないわけにはいきません。

 それで直木さんには、犯罪や事件にまつわるエピソードはそんなにないんですけど、友達と興した会社のカネを使い込み、迷惑をかけて喧嘩別れ、世が世なら訴えられてもおかしくないくらいに、人道に悖ると言われかねない個性の持ち主だったと伝えられています。その直木さんが、昭和9年/1934年2月24日に43歳で亡くなるまぎわの最後の最後で、危うく犯罪者……というか予期せず罪をかぶりそうになった事件があります。昭和8年/1933年6月に勃発した、直木三十五脱税疑惑事件です。

 直木さんといえば、貧乏だったころも人気作家になってからも、とにかくカネに関する話題には事欠きません。終始、浪費・濫費のレベルが度を超していたらしく、昭和2年/1927年10月に1万5000円~2万円程度のまとまった収入があったときには、ほぼ1か月で1万円以上を使ってしまい、もう4000円しか残っていない、みたいなことを書いています(『不同調』昭和3年/1928年1月号「金持になって不愉快な話」)。入ってくるほうもザル勘定、出ていくほうもザル勘定。一銭、一円のお金をちまちま数えて将来の設計を立てるような作家でなかったのは明らかです。

 自身が満35歳となる大正15年/1926年に、筆名を〈直木三十五〉に定めてまもなく、映画界から身をひいて原稿一本の生活に入ったのが翌昭和2年/1927年のことです。各雑誌・各新聞に連載や単発ものを大量に書き出し、当然収入もにわかに増えていったはずですが、なにしろズボラで、カネがあればすぐに使ってしまう人間ですから、一年分の収入から割り出された所得税を翌年に支払う、という納税制度にぶち当たって悶着を起こしてしまったのは、あるいは自然だったかもしれません。

 「税務署のやり方」(『文藝春秋』昭和8年/1933年8月号)で直木さんが語るところによれば、税務署が出してくる収入査定額というやつがとにかく納得できなかったらしいです。税務署いわく、昭和6年/1931年度の直木さんの収入総額は、およそ2万円弱。文筆業に関してはその4割を〈生産費〉として差し引く内規があるので、査定結果は1万1000円少しになり、これを繰り上げて収入査定額は1万2000円だ。と言われたものですから、直木さん、いやいやそれはおかしいぞと不服を申し立てて、行政訴訟に持ち込みます。

 税務署は少しでも多くの税金を確保するために、高額所得者に目をつけて、根掘り葉掘り収入状況を調査します。そして算定した納税額を払え払えと言い募る。いっぽう高額所得者のほうは、横暴で居丈高な役人たちの態度に気分を害して、たくさんお金を稼げば稼ぐほど、どうしてこんなに税金が高いのかと不満をぶちまける。……古今東西、めんめんと続いてきた伝統的な悶着のひとつかもしれません。直木さんも思いがけず作家として売れてしまったせいで、この伝統の洗礼を受けることになってしまいました。

 これだけ稼いだんだからきちんと払え、いや、そんなに稼いでないから払えん、といったやりとりは、税務署のほうから見ると〈税金の滞納〉と表現されるわけですが、直木さんだけでなく、たとえば広津和郎さんや、菊池寛さん、久米正雄さん、室伏高信さん、山内義雄さんなども同じように滞納が問題視されていたそうです。これが昭和8年/1933年、いよいよ新聞にも大きく取り上げられることになったのは、もちろん直木三十五といえば人気作家、という共通認識が報道する側や読者のあいだにあったからでしょう。

 人気作家、と言ってもいろいろあります。じっさい書く小説が読者から喝采を浴びた、ということの他に直木さんに人気のあった大きな要因があって、それは、腹の立つことやおかしいと思うことがあれば躊躇せず、紙面、誌面を使って自分の立場や考えをさらけ出しながら戦闘姿勢をとる、いわば血の気の多い作家だったことです。

 昭和8年/1933年は、直木さんも健康状態が思わしくなく、腰痛はひどくなる、激しく咳き込んだりするそんな折りでしたが、降りかかってきた税金の問題にも、まるで引くことなく、税務署の横暴や不勉強を訴え、著作権の差し押さえなどできるもんならやってみろ、と啖呵を切る有りさま。このころの直木さんは、軍部や統制国家に協力の意を示すいっぽうで、税に関しては国家権力を批判するという、小説以外のところで注目を浴びる存在だったわけです。

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2019年2月17日 (日)

昭和52年/1977年・改造ライフル銃が自宅から見つかり、現行犯逮捕された小嵐九八郎。

最高裁判所裏庭に先月三十日、火炎びん二十本が投げ込まれた事件を調べている警視庁公安部は二十九日、神奈川県川崎市内の内ゲバ三派の一つ「革労協(社青同解放派)」の幹部アパートを捜索したところ、実弾入りモデル小銃一丁を見つけた。

(引用者中略)

同裁判所火炎びん事件に関連して、火炎びん使用処罰法などの疑いで家宅捜索を受けたのは、川崎市川崎区(引用者中略)革労協総務委員、元早大生工藤永人(三三)。工藤のアパートを捜索していたところ、鉄パイプ六本とともにコタツのわきから、バスタオルでくるんだモデル小銃一丁が見つかった。このため公安部は、工藤を銃刀法違反の現行犯で逮捕した。

――『朝日新聞』昭和52年/1977年11月30日「革労協幹部宅から改造銃 手製銃身で殺傷力 川崎のアパート 実弾をセット」より

 昭和19年/1944年生まれの小嵐九八郎さんが、多感すぎる10代を通りすぎ、晴れて(?)20歳となったのは昭和39年/1964年のことでした。通っていたのは、学生運動の渦中にあった早稲田大学です。最初のころはサークルをいくつも渡り歩くノンポリ学生でしたが、大学二年生も終わりに差しかかった昭和41年/1966年、いかなるきっかけがあったものか、学費値上げや学生会館の管理運営権をめぐる闘争に参加したところから、過激派と呼ばれる革命的労働者協会(社青同解放派)の一員に。そこから1980年代なかばの40歳すぎまで、愛する妻と子供たちに負担を強いながら、いわゆる〈活動家〉として、あるいは〈職業革命家〉としての生活を送ります。

 小嵐さんには『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(平成15年/2003年4月・講談社刊)という一冊があります。1960年代から70年代・80年代ごろに新左翼の世界に生きた人たちのなかから、志なかばで斃れた人、自ら死を選んだ人などのことを、小嵐さんの20年近くに及ぶその実体験を通して描いたものですが、「さまざまな過去のまつわりついて離れないことが今の私と新左翼にはあって、伸び伸び、自由、奔放に書けないわけがあり、」(「あとがき 死して、死せざる日日に」)とも書いてあって、とくに小嵐さん自身が何を考え、どうやって生きていたのか、系統立って明かされているわけではありません。

 そのなかでも「ぶきっちょな解放派のごり」と題された第十七章・第十八章は、社青同解放派の中原一(本名・笠原正義)さんが中心になった章で、「正直中の正直をいうと、この章を書きたくて、わたしゃ、物書きになった。」と、本音なのか照れ隠しなのかわからないようなことをポロッと吐露しているだけあって、やはり小嵐さんにとっては影響されるところの大きかった人らしく、他の章にも増して気合と情熱のこもった内容になっています。

 ということで、小嵐さんがある時期、身を捧げた革命的労働者協会=革労協とは何なのか。そこに触れないわけにはいきません。

 ところがこれがまた、どういう歴史的経緯で発生して、どこにつながって、何がどう争ったのか、専門の研究家や専門書は山ほどあり、とうてい追いきれません。それを言ったら直木賞というものをとりまく小説の世界だって、何だかわかったような顔をして解説する人は後を絶ちませんが、けっきょく直木賞がどんな賞でどういう小説を選ぼうとしてきたのか、支流や沼地がたくさんあり、全体としては正直よくわからないので、追いきれない、ということだけを確認して、強引にまとめてみます。

 昭和35年/1960年、いまはなき日本社会党が青年組織としてつくった日本社会主義青年同盟=社青同というものがあります。人が集団としてまとまれば、意見の合うやつ合わないやつ、派閥めいたものができるのが世の習いです。具体的に何が直接の火種になったのか、もはや数々の争点がありすぎてよくわかりませんが、はじめに主導権を握っていた構造改革派が、協会派や解放派などのセクトから強烈な攻撃を受けて影響力をなくすと、今度は協会派と解放派がずいぶんとやり合うことになります。

 組織のなかでは協会派のほうが上手に立ちまわったそうですが、過激な行動力を秘めた解放派のほうは昭和40年/1965年に「解放派結成宣言」を出して元気に社会を攪乱、学生運動などにも積極的に手を伸ばすなど、なかなか勢力を拡大していきます。さすがにこいつらヤバいな、と社会党や社青同の中央機構側では眉をひそめるなか、解放派は昭和44年/1969年に革命的労働者協会を名乗り出し、成田闘争や狭山闘争にあっては、トイレに爆弾をしかけるは、ダンプカーを炎上させるは、高裁判事を襲うはと暴れまくり、中核、革マルの過激派二派と並び称される、マジでヤバい団体へと育っていった、ということです。

 その社青同解放派から、革労協と名乗りはじめる頃には、すでに小嵐さんはずっぷりと革命を目指す立派な戦士になっていて、昭和42年/1967年からは、ことあるごとに逮捕、逮捕、逮捕の連続。一つひとつの罪状や逮捕理由は調べ切れていませんが、昭和44年/1969年10月「国際反戦デー」に参加して、公務執行妨害、凶器準備集合罪の疑いでお縄にかかったことは判明しています。

 これと『蜂起には至らず』の記述とつなげてみると、その直後の11月に大菩薩峠で起きた赤軍派の検挙や、翌昭和45年/1970年11月の三島由紀夫さん自刃の時期には、未決囚として中野刑務所に拘置されていたそうです。昭和47年/1972年2月、連合赤軍浅間山荘事件のときには保釈中、その様子をテレビを観てはがんばれがんばれと、連合赤軍のほうに声援を送っていた、との回想もあります。

 けっきょくは最終的に、往年の左翼小僧、菊岡久利さんのようなかたちで出たり入ったりを繰り返し、逮捕歴は10回か11回かそのくらいを数えたと言うのですが、報道によればその8回目の逮捕に当たるのが、冒頭に引用した一件になります。被差別部落出身の男性が、女子高生に対する強盗強姦ほかの罪に問われて起訴された狭山事件。昭和52年/1977年、被告側の上告が棄却され、二審でくだされた無期懲役が確定しましたが、そのことを不当と訴える革労協は、10月30日、高速道路から最高裁の裏庭に火炎びん20本を投擲します。その捜査に当たった警視庁公安部が、11月29日、川崎市に住む革労協幹部の小嵐さんの家を捜索したところ、改造したライフル銃を所持していたことが見つかり、銃刀法違反の罪で現行犯逮捕されたものです。各紙を通じて、小嵐さんのことが顔写真付きで大きく取り上げられ、明るく前向きだったとばかりは言えない時代の、物騒な雰囲気を紙面に残しています。

続きを読む "昭和52年/1977年・改造ライフル銃が自宅から見つかり、現行犯逮捕された小嵐九八郎。"

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2019年2月10日 (日)

昭和61年/1986年・結婚を断られた女性に嫌がらせの電話をかけつづけて有罪になった川本旗子=一條諦輔。

付き合っていた兵庫県内の有名私立大助教授の女性に結婚を断られ、交際も断たれた腹いせに百回以上も電話で嫌がらせを続けていた元直木賞候補作家の一條諦輔(四一)(引用者中略)が十八日、神戸地裁から脅迫罪で起訴された。一條は直木賞の候補にのぼった前後、文芸春秋、講談社などから単行本を数冊出しているが、最近はこれといった作品もなく人気も下降線だった。

(引用者中略)

一條は先月二十九日、同地検に逮捕され、拘留中。今回の事件とは別に、別れ話のこじれから五十九年にA子さんの父親をなぐり、傷害罪に問われ、同年十一月、東京地裁で懲役一年六月(執行猶予四年)の判決を受けている。

――『毎日新聞』昭和61年/1986年8月19日「直木賞候補作家が脅迫 フラれて腹いせ電話100回」より

 直木賞の場合、受賞してから消える作家はほとんどいません。しかし、候補に挙がった程度のことでは、何かの切符を手にしたわけでもなく、その後消えてしまう人はけっこういます。なかには、消える原因の大きな一端が犯罪事件だった、という人までいます。

 その代表格に挙げられるのが、第87回(昭和57年/1982年上半期)で候補になった川本旗子さんです。

 名前は女性のように見えますが、これは当時『オール讀物』にスチュワーデス物の連作が書かれたときに使われた名前で、本人はれっきとした男性です。元の本名は庄子亜郎(つぐお)さん、一般には〈一條諦輔〉という名で知られています。いや、知られていました。

 写真でみるかぎり麻原彰晃を彷彿させるひげを生やしたポッチャリ型、というような見た目は措いておくとしても、自身の語る履歴や挙動、振る舞いが、もう胡散くさいを地で行くようなイカガワしさに満ちあふれています。渋谷の一角に事務所を構え、二、三人の女性秘書を雇い、事務所には自慢のギターコレクションのほかに、彫刻、宝石などが飾られていたそうで、世界各国ほとんどを旅したと豪語、25歳のときから7年間、ロンドンに住んでいたころは、数多くの芸術家と交流があったのだとか何だとか。作詞作曲をこなし、〈Mr.George〉というブランドをもつファッションデザイナーとしての顔を持ちながら、小説を書く、80年代の言葉でいうところの「マルチな人」という感じでいくつかの記事に取り上げられましたが、この取り上げられ方が、はっきりいって胡散くさいです。80年代という時代が一面で持っていた胡散くささ、と言ってもいいです。

 それはともかく、一條さんが音楽の世界から出てきたことは間違いありません。仙台一高に通っていたころにギターにハマり、卒業後に上京してギタリストとして歩み始めますが、やがてギターづくりの修行のために渡欧。結局、ギターを中心とした輸入業者となって帰国しますが、とにかく自分を大きく見せて吹きに吹きまくっているうちに事態が好転したらしく、ブティックを始め、音楽プロデュースの道を渡り歩き、そこでたくさんの曲をつくるうちに、今度は小説にも手を伸ばして、『面白半分』に投稿した「ロンドン・ロンド」が〈一條諦輔〉の名で掲載されたのが昭和54年/1979年のこと。さらにこの年には『野性時代』に「ダーティー・ジョーク」が掲載されると、勢いに乗って〈森道郎〉の名で中央公論新人賞に投じた「耳」が翌年昭和55年/1980年度の最終候補にまで残り、徐々にそちらのほうでの活動を増やしていきます。

 『小説現代』に小説を書き、それらをまとめた『シンプル・ペイン』(講談社刊)が昭和56年/1981年9月に刊行され、いよいよ一條さん単行本デビューを果たしたのが36歳のときです。イケイケというか、乗りに乗った一條さんはそこからも攻勢ゆるめず、文芸誌界に進出していくのですが、好事魔多し、じつはこのとき、やがて訪れる犯罪の種が撒かれていた、ということになります。この本の出版記念会を開いたときに、秘書の知人ということで出席していた、当時東京の大学で助教授をしていた女性と知り合い、深い仲になり、関係をもったことが、事件への扉を開けてしまいました。

 その後、一條さんは、川本旗子というスチュワーデスを語り手にした「翔んで翔んで」(フライト・オン・フライト)を『オール讀物』に発表、セックスにあけすけな若い女性の生態を、イマドキな語り口で書いたところに編集部が食いついたものか、直木賞の候補にまで選ばれます。同誌では、一條名義で「この世の外なら何処へでも」というやはりセックスを題材にとりいれた小説を書いたりして、一応新進作家として注目を浴びるにいたりますが、どうも調子に乗りすぎたのか、傲慢な性格が表に出たものか、編集者の評判はかなり悪かった、と伝えられています。

「「一條は人間としてホントに下司(ルビ:げす)な奴ですよ。自分の思い通りにならないと、すぐに暴れたりする。つまり、幼児性と狂暴性があるんですよ。編集者はずいぶんイヤな目に遭っています。例えば、今回、あなたの作品は見送らせて頂きますなどと言うと、夜中から明け方までずっと、“ぶっ殺すぞ”“テメエのガキの顔に硫酸ぶっかけるぞ”などと脅迫電話をかけて来たりする。ヤクザ同様の手口で、実際、パンチパーマのそれ風の男を連れて編集者の家に押しかけたこともあるんですよ」(某編集者)」(『週刊新潮』昭和61年/1986年9月4日号「「直木賞候補」にバラ撒かれた女の助教授「大醜体」」より)

 売れている作家ならともかく、まだ駆け出しの、一回変名で直木賞の候補になったぐらいの作家に、そんな態度をとられたら、編集者だって付き合いきれなくなるのはよくわかります。一條さん、やりすぎです。

 そして直木賞の候補となってからわずか2年後、『この世の外なら何処へでも』が文藝春秋から発売された昭和59年/1984年、ついに一條さんが私生活でやらかしてしまいます。

 先に触れた、出版記念会で知り合った大学教師の女性との関係がうまくいかず、昭和59年/1984年4月、一條さんは無理やり彼女のマンションのベランダから部屋に侵入、たまたま上京していた彼女の父親と争ったすえに殴りつける、という暴行事件を起こします。また、このとき一條さんは、あいだに子供を二人もうけた妻がいて、こちらからも別れ話を切り出されていました。どうやら話がこじれたのか、妻の関係者にも暴力をふるった。ということで、二つの事件によって、同年11月、懲役1年6月(執行猶予4年)という有罪判決がくだされます。妻だった女性とは、その月に離婚したそうです。

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2019年2月 3日 (日)

平成15年/2003年・大麻取締法違反で有罪判決を受けた中島らも。

大麻を所持したとして大麻取締法違反の罪に問われた作家の中島らも=本名・中島裕之(ゆうし)=被告(51)に対し、大阪地裁は26日、懲役10月、執行猶予3年(求刑・懲役10月)の有罪判決を言い渡した。

(引用者中略)

判決言い渡し後、西田裁判官は「再び執筆活動に期待している読者の存在を忘れないように」と諭した。中島被告は兵庫県出身。92年に小説「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。直木賞候補にも3回なった。

――『毎日新聞』平成15年/2003年5月26日夕刊「大麻所持で作家・中島らも被告に猶予判決 「読者の存在、忘れぬよう」」より

 直木賞の長い歴史を通じても、中島らもさんという候補者はその作品の味わい、発言、行動などの面白さがあまりに際立っていて、直木賞ゴシップしか書かないうちのようなブログにとっても、まず無視できない存在です。これまで何度も触れてきて、いまさら追加する直木賞の話題はないんですが、違法と適法のあいだを自由に泳ぐ中島さんが、とりあえず何度か直木賞とからんでくれた現実に喜び震えながら、懲りずに犯罪事件のことを取り上げます。

 といいながら、犯罪よりも先に文学賞の話から始めますと、世のなかには、直木賞よりも数倍、いや数十倍スゴい、と一部で言われている吉川英治文学新人賞という文学賞があります。平成4年/1992年、『今夜、すべてのバーで』でこの賞を受賞しているのですから、中島さんのスゴさもよくわかりますが、アル中の男の放埓というか真摯というか、性懲りもない可愛げのある姿をあますところなく描いたこの作品に、文学の賞を贈ってしまおうと判断した吉川新人賞はやっぱり、直木賞などとは比較にならないくらいに偉大です。

 直木賞のほうは、第106回(平成3年/1991年・下半期)から第112回(平成6年/1994年・下半期)までの3年間で、3度中島さんを候補に残しましたが、結局賞を贈ることはありませんでした。しかし、それでもこの日本は「本屋には直木賞をとった人の小説しか並ばない」などという不自由な社会ではなかったので、ひきつづきパンクで優しい中島作品が次から次へと誕生し、またたく間に小説家としても一家を成します。

 仮にあそこで直木賞をとっていたとしても、文壇の中心になったりはせず、中島さんのスタンスはさほど変わらなかっただろう――という夢枕獏さんの言葉を、以前も引用したような記憶があります。たしかに中島さんが変わるイメージは沸きませんし、大麻を所持して逮捕される未来も、そのままだった可能性はあります。ただ、直木賞によって変わるのは、それを取り巻く読者を含めた一般の人たちのほうだ、というのは過去にいくらでも例があり、この場合、本人のスタンスはあまり関係ないかもしれません。直木賞の受賞者が大麻で捕まったとなれば、それはそれは、騒ぎも確実に各方面に飛び火したでしょう、そういう場面を見ることができなかったのは残念です。

 ともかくも、社会ルールをきまじめに守る品行方正な作家像とは、まったく相容れることなく、そこから人間のおかしみと哀しみをあぶり出す中島さんの作品は、それだけでこの世界に存在する価値のあるものばかりですが、麻薬と呼ばれるもののなかでも、大麻は人間に害などない、禁止するのではなく逆にもっと保護すべきだ、と考える人は日本にも少なからずいて、そういう人から大麻を入手した中島さんは、精神的に追い詰められたり、つらくなったときなどに吸引していたそうです。睡眠薬中毒から、ブロン中毒、アルコール中毒、そして躁鬱病の持ち主と、こういうなかで生きていることも、中島さんのひとつの個性でした。

 それが当局にタレコまれたか、厚生労働省近畿厚生局の麻薬取締部に知られるところとなり、平成15年/2003年2月4日、いきなり家宅捜索の襲撃を受け、自宅にあった乾燥大麻や〈マジックマッシュルーム〉を押収され、現行犯逮捕されます。話によれば、21歳のころには自身で大麻を大量に栽培し、周囲に分け与えたりしていたそうですが、押収された大麻類を使用しはじめたのは逮捕される前年の平成14年/2002年10月ごろから。日本以外の、大麻が合法化されている国で吸引したその経験が忘れられず、また創作に行き詰まった心の苦しみを埋めるために手を出したのだ、と罪状の多くを認めています。

 法律は法律、たしかにそこは守らなければならない。だけど、そんなにいきり立って大麻を取り締まるのが、ほんとうの正義なのだろうか。……と、思わせてしまうところが中島さんの底知れなさです。

 勾留中から躁の症状を見せては、留置所のなかで苦笑、微笑、混乱を巻き起こし、保釈されてマスコミに取り囲まれたときにも、「驚くほどのハイテンション」(『日刊スポーツ』平成15年/2003年2月26日)と言われるほど手がつけられず、記者陣をけむに巻く一大会見をやってのけます

 熟慮や熟考などくそくらえ。とばかりに、『牢屋でやせるダイエット』(平成15年/2003年8月・青春出版社刊)というタイトルの書き下ろしを、ものの数か月で仕上げてしまうスピーディーな筆の乗りにも、ハイテンションの一端は現われていると思いますが、「前科がついた」事件からのアゲの展開は、とどまるところを知りません。

 あまりに躁がひどくなって保釈後まもなく大阪市立総合医療センターに入院、初公判の4月14日、大阪地裁に病院から出向くことになった中島さんは、投薬の影響で最初は口が重かったそうですが、しかし徐々にしゃべりたがりの性格が顔をのぞかせ、大麻解放論を語り出し、弁護人から注意されたりした、とも言います。とうてい懲りていたとは思えない振る舞いですが、5月26日にくだされた判決では、これからの執筆に再起をかける意欲が強く反省の情もある、と認められて、懲役10月に執行猶予3年がつきました。

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2019年1月27日 (日)

昭和48年/1973年・盗用したと断定する記事を書いた朝日新聞に対し、訴えを起こした山崎豊子。

作家の山崎豊子さんは一日午後、朝日新聞社(広岡知男代表取締役)を相手どり「朝日新聞が十月二十一日付朝刊で、サンデー毎日連載“不毛地帯”中に無名作家の作品から盗用と報ぜられたのは事実ではない」と民放七二三条に基づき謝罪広告掲載を求める名誉回復請求訴訟を大阪地裁に起こした。創作における資料引用をめぐって争われる珍しい裁判となりそう。

(引用者中略)

また、山崎さんは同日大阪法務局人権擁護課に朝日新聞の行為は人権侵害だとして文書で訴えた。

――『毎日新聞』昭和48年/1973年11月2日「山崎さん、朝日新聞を訴え 「不毛地帯」問題」より

 小説は作品だけで判断せよ。という一見まともで正しそうな考え方があります。

 一見ではなく、ほんとうに正しいのかもしれませんが、残念ながら現実の人間たちにとっては、まず実現するのが不可能な、ファンタジックな理想論です。小説を作品単体で読むことに、なにがしかの価値がある、と信じる人は、この夢を追いかけるのも無駄ではないと思います。とくに止めません。ただ、作品の書かれるにいたった事情とか、作者の立場とか、歴史的経緯における作品の位置づけとか、もっと話を広げてその作品が関係者、第三者、読者、読んでもいない野次馬たちにどのような影響を与えたのか、そういう背景というか枝葉というか、こぼれた話題まで含めて小説に接するほうが、明らかに面白いです。

 さて、ここに山崎豊子さんという有名な直木賞受賞者がいます。デビュー作の『暖簾』(昭和32年/1957年)以来、山ほどたくさんの作品が残されていて、作品にまつわる何の知識もなく読んでも十分に楽しめるものばかりだとは思いますが、これもまた残念なことに、山崎豊子という人間のもつ面白さが尋常ではなかったために、作品の内容とは直接的な関係のない数多くのトラブルやいざこざがジャーナリズムを賑わせました。

 その最も代表的なひとつが、他人の著作物の一部を、自分なりの表現に書き換えて使用する、という執筆作法です。作品全体をパクったりしているわけではないので「盗作」とは呼びづらいですが、作品の部分的な「盗用」とは言えると思います。

 盗用するのは悪いやつだ。とくに作家を名乗って、その原稿でお金を稼いでいる立場の人間が盗用するのは言語道断、無条件で悪い。という倫理観が、現代の日本にはあるようです。その盗用行為に犯罪を構成する要素が認められ、最終的に法の下で処罰されるに至るまでには高い壁があり、ほとんど犯罪事件になった例はありませんが、倫理的に許せないと思っている人が一定数いるために、盗用というのはしばしばニュース性を帯びることになります。

 山崎さんが最初に問題視された昭和43年/1968年『花紋』における盗用行為の展開などは、まさしくそのひとつでした。『婦人公論』に連載中だった「花紋」のなかで、主人公がパリで外国の記者に出会う場面に、レマルク作・山西英一訳『凱旋門』のなかの一部と似すぎている箇所がある、と読者からの投稿別名チクリがあり、他に芹沢光治良『巴里夫人』や中河与一『天の夕顔』などからも、まるでそのままと言っていいほど酷似した引き写しがある、と指摘されます。違法性があるとかないとか、それとは関わりなく、山崎さん本人もこれは作家としてやってはいけないことをしてしまった、と自らの非を認め、日本文芸家協会から退会。「山崎氏が今後筆を断つことが望ましい」「文壇的生命は一応終ったと考えられる」という協会側からのコメントまでもが新聞にも掲載され、作家的な、あるいは一般的な通念に照らして悪いことをしたので大きく取り上げられ、社会集団のなかで裁かれた、というところで終わりました。

 退会から1年半ほどで復帰を認められ、ふたたび山崎さんは表舞台で活躍しはじめますが、それからわずか3年ほど、今度は『サンデー毎日』で連載中の「不毛地帯」で発生した盗用の話が、またまた全国紙で取り上げられることになったとき、いよいよ告訴、裁判へと発展することになります。

 ここで注目しなければいけないのは、告訴したのが、盗用された『シベリヤの歌 一兵士の捕虜記』の著者、今井源治(いまい・げんじ)さんの側ではなかった点です。昭和48年/1973年11月1日、大阪地裁に訴えを起こした原告は山崎豊子さんのほうでした。訴えられた被告は、朝日新聞社です。

 たしかに山崎さんが今井さんの著作を参照にしたことは間違いなく、取材と称するかたちで面会もしていたのですが、どうやら山崎さん側の不手際で、今井さんの著作からどのように「不毛地帯」のなかに表現を使用するか了解をとりつけないまま、雑誌に載ってしまい、そのことで両者、お詫びの文章を出すことで事を収められないかと協議していたところ、『朝日新聞』が昭和48年/1978年10月21日に「山崎豊子さん、また盗用」の大きな見出しでスッパ抜いてしまいました。これに対して山崎さんが、名誉回復を請求し、謝罪広告を載せることを求めて訴えたのが、「不毛地帯」裁判です。

 はっきり言って、ねじれています。盗用したことが罪だ、いやそうじゃない、ということを争う裁判ではなかったからです。

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2019年1月20日 (日)

昭和46年/1971年・沖縄ゼネストの警備警官殺害事件で逮捕された佐木隆三。

【那覇支局十八日発】昨年十一月の「11・10沖縄ゼネスト」の際、警備中の山川松三警部(四八)が過激派集団に火炎ビンで襲われ死亡した事件で、琉球警察本部は十八日、作家の佐木隆三こと小先良三(三四)(引用者中略)、沖縄反戦委事務局長佐久本清こと租慶政一(三一)ら六人を凶器準備集合罪、公務執行妨害などの容疑で逮捕した。これで、同事件の逮捕者は計二十人となった。

――『読売新聞』昭和47年/1972年1月18日夕刊「沖縄の作家逮捕 11・10警官殺しに関連?」より

 先日決まった第160回(平成30年/2018年・下半期)の直木賞。今回もまた、いわゆるいくつかの「犯罪事件」を描いた小説が受賞しました。

 とくにここでは、その受賞作に触れるつもりはありませんけど、沖縄と直木賞、そして犯罪事件。……この3つの要素を組み合わせたとき、どうしても真っ先に取り上げたくなる人物がいます。佐木隆三さんです。

 佐木さんの場合、何という肩書きが適切なんでしょうか。昭和39年/1964年、27歳のときに八幡製鉄所を辞めて以来、昭和51年/1976年に直木賞を受賞するまでのあいだにも、生み出す対象は小説に限らず、ノンフィクション、ルポ、評論、その他雑文も含めてさまざまなものを書いては原稿収入を得る、フリーライター、もしくは売文業だった、と言われています。

 そのなかでも佐木さんの関心テーマのひとつに、政治状況と人びと、というものがありました。60年代後半、数々の政治的テーマのなかで佐木さんが興味をもったのが、日本に返還されるかされないか、という間際にあった琉球・沖縄のことです。主席公選の様子をルポするという仕事で、昭和43年/1968年秋にはじめて沖縄を訪れますが、政治に関する話題、反戦運動はもちろんのこと、娼婦たちの生態や生活にひときわ好奇心をかき立てられ、琉球の現状を伝える態の原稿をたくさん書くようになります。そのうち、生活の拠点を現地に移して、本腰を入れて仕事をしたいと考えるようになって、コザ市仲宗根に転居したのが、昭和46年/1971年5月のことです。

 沖縄で知り合った石垣島出身の女性と、いい仲になり、再婚したのが昭和46年/1971年10月。長女のふき子さんが生まれたのが昭和47年/1972年9月で、いずれも佐木さんが沖縄で生活を送っていたころのことです。仕事だけじゃなく人生の重大な局面に、沖縄の土地とその風土、出来事が大きくからんでくることになります。

 とくに、のちの直木賞受賞にも関わることになるのが、昭和46年/1971年11月10日、沖縄各地で展開された沖縄完全復帰要求ゼネストおよびこれに関する集会でした。

 この日、那覇市の与儀公園で開催された「沖縄返還協定の批准に反対し完全復帰を要求する県民総決起大会」では、数万人と言われる参加者が、浦添市のアメリカ国民政府庁舎までデモ行進を実施。そこで警備に当たっていた琉球警察警備部隊の山川松三さんが、数名の人間から狙われて、角材などを使って殴りつけられ、足蹴にされ、火炎びんを投げつけられ、はっきり「暴行」と呼ぶほかない攻撃を食らった末に、殺されてしまいます。殺人事件です。

 沖縄返還をこのまま進めたい政府権力にとって、協定の批准に反対する勢力は邪魔ものです。しかも警官がひとり殺されているのですから黙って見過ごせるはずもなく、11月16日、実行に加担した過激派幹部のひとり、と目されて松永優さんが逮捕されます。しかしこれが調べてみると、染色工芸の「紅型」を研究するために沖縄を訪れていた松永さんが、たまたま現場に居合わせた、というぐらいの事実しかないのに、殺人犯にでっち上げた、という杜撰な捜査だったらしく、那覇地裁での第一審(昭和49年/1974年10月7日)では傷害致死罪で懲役1年執行猶予2年の判決がくだされたものの、福岡高裁那覇支部の第二審(昭和51年/1976年4月5日)はこれを完全に覆して無罪判決。その後、松永さんは国を相手どり、そもそも検察官による公訴の提起・追行が違法なものだったと主張して、損害賠償の支払いと謝罪広告を求める民事裁判を起こします。

 松永さんが疑われた要因のひとつに挙げられているのが、平野富久さんが撮影したという現場の写真です。昭和46年/1971年11月11日『読売新聞』一面に載っています。被害者が暴行されている状況の一瞬を切り取ったもので、そこに実行犯たちが写っている!……ということなんですが、静止画一葉だけでは、当然だれが何をしているのかはわからず、解釈次第でどうとでも言えてしまいます。最終的に、こんなものに証拠能力はないと判断されて松永さんの嫌疑も晴れるのですが、ゼネストに伴うデモ隊決起の様子は、他にいくつも写真が撮られていて、そのなかに写っていた佐木さんのもとにもまた、警察が乗り込んできます。

 昭和47年/1972年1月18日朝7時すぎ、突然、佐木さんの家に琉球警察の刑事たちがやってきて、有無を言わせず逮捕されてしまったのです。

 そのときの状況から留置所暮らし、釈放されるまでの体験は、佐木さん自身が『新日本文学』昭和47年/1972年6月号、7月号、9月号にわたって「あなたにも迎えがくる」(6月号のみ「あなたにも迎えが来る」)で克明に記録しています。取材活動をおこなっていただけの佐木さんを、交番を襲撃し、警備隊と衝突し、自動車整備工場に対して火炎びんを投擲したグループの、実行犯のひとりだと言って逮捕した。普天間署の留置場に12日にわたって拘留した。……ということだそうです。自分がやってもいないことを、やっていると間違えられ、行動の自由を奪われ、それが新聞に報じられたことで、知り合いや親類縁者によけいな心配をかけ、40年以上もたってこんなブログであれこれホジくられるわけですから、佐木さんとしては怒りに怒り尽くせない激情もわいてきたと思いますし、「あなたにも迎えがくる」でも、私ははらわたが煮えくり返っていると書いています。

 しかしこの経験を、個人的な怒りや無駄な時間で終わらせなかったのは、おそらく物書きとしての佐木さんに柔軟性があったゆえでしょう。

 それまで芥川賞候補に1回(昭和42年/1967年・下半期)、直木賞候補にも1回(昭和43年/1968年・上半期)挙げられながら、小説家としては飯を食うことができず、琉球の地で逮捕されたときにも、過激派に属するイロ付きライターと見られ、ほとんど現実の事象を筆に起こしてお金を稼ぐような仕事に従事するようになった佐木さんが、この経験を経たことで次に関心の目を向けたのが、「犯罪事件」でした。

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2019年1月 6日 (日)

平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。

米国からのコカイン密輸入事件で麻薬取締法違反などの罪に問われた元角川書店社長角川春樹被告(58)について、最高裁第2小法廷は1日までに被告側の上告を棄却する決定をした。懲役4年の実刑が確定する。近く収監される見通し。

(引用者中略)

1審では、密輸入を実行したとされるカメラマンの「角川被告から指示された」との証言が有罪認定の決め手となり、千葉地裁は96年6月、懲役4年を言い渡した。2審でカメラマンは「密輸は自分の生活費を稼ぐためだった」と1審の証言を撤回したが、昨年3月の東京高裁判決は「信用できない」と新証言を退け、角川被告の控訴を棄却した。

――『日刊スポーツ』平成12年/2000年11月2日「角川春樹被告 コカイン密輸入事件 最高裁 被告側上告を棄却、実刑4年確定」より

 まもなく決定する第160回(平成30年/2018年・下半期)直木賞。史上はじめて、個人のフルネームの付いた出版社から候補作が選ばれた、ということで話題沸騰……しているのかどうなのか、そういう熱気はあまり伝わってきませんが、「犯罪でたどる直木賞史」にこれほど適した出版人が他にいるでしょうか。いや、いないに違いない。と、ひとりで勝手に納得したところで、今日はこの人。角川春樹さんのお話です。

 1970年代、角川書店の社長になったころの角川さんが、出版業界にもたらしたインパクトおよび混乱は、およそいろんなところで語られているので端折りますが、直木賞に与えた影響もまた甚大なものがありました。昭和49年/1974年に創刊した大型文芸誌『野性時代』から、創刊わずか2年目の昭和50年/1975年に早くも初の候補作(赤江瀑「金環食の影飾り」)が選ばれると、一気に直木賞の候補ラインナップに欠かせない出版社の地位を占めることになります。

 派手な宣伝を仕掛けての売上は文庫のほうで稼ぐいっぽう、活きのいい新人・中堅作家に積極的に発表の場を与え、付き合いを深めていく。次世代の出版への布石を怠らなかったこの姿勢が、直木賞(の予選)と相性がよかったのもうなずけます。角川書店の作品が直木賞を受賞して、いわゆる目立ったベストセラーとなるのは、第86回(昭和57年/1982年・下半期)のつかこうへい『蒲田行進曲』が最初と言っていいでしょうけど、売れる影にはオモテに現われない地道な努力があることは、もちろん角川書店も例外ではありません。

 しかし、あまりに度の外れた奇矯な出版戦略が、いろいろメディアで持て囃される状況を、苦々しく思う人が出てきたのもたしかです。

 とくにその急先鋒を自認していたのが、文春砲、つまりは『週刊文春』編集部で、「小誌はこれまで一貫して、角川春樹社長のいかがわしさ、経営手腕への疑問を取り上げてきた」(『週刊文春』平成5年/1993年9月9日号)などと見栄を切っています。平成5年/1993年7月9日、角川書店写真室の池田岳史さんがコカイン密輸入の現行犯で逮捕、8月には池田さんの供述をもとに、芸能プロ「北斗塾」役員の坂元恭子さんも自宅に大麻を所持していたところを警察に取り押さえられますが、その池田さんをとくに可愛がり、また坂元さんと10年近く同棲生活を送っていたという、当時角川書店社長だった春樹さんも、じつは麻薬とズブズブの生活を送っているらしいぞ! と大きく報じたのが、『週刊文春』9月2日号「独走スクープ 角川春樹社長コカイン常用の重大疑惑」です。

 じっさい、8月26日には角川本社が家宅捜索を受け、28日深夜、ついに角川さんが麻薬取締法違反で逮捕。そらみろ一時代を築いたヒーローが憐れな犯罪者に堕ちた、となればマスメディアが一斉に叩く側にまわる、というのはあまりに見慣れた光景ですが、根を掘り葉を掘り角川さんの私生活、女性遍歴、兄弟ゲンカなどなど、犬も食わない話題まで含めて徹底的に批判の対象となりました。

 そんなことは直木賞とは何の関係もないじゃないか。たしかにそう思わないでもありません。ただ、1970年代から80年代、あれだけ断続的にしばしば直木賞の候補になっていた角川の作品が、ぱたりと選ばれなくなるのが、第100回(昭和63年/1988年・下半期)から。以降、第114回(平成7年/1995年・下半期)まで7年に及ぶ「角川外し」の時代が到来します。偶然かもしれませんけど、直木賞=文春が、麻薬問題を抱えた角川から一歩距離をおいた、と見えるのは否めません。

 平成5年/1993年、逮捕の前日に取締役会が緊急の「社長辞任要求記者会見」を開き、9月2日に新社長が決まったことで、社長の座から追われることになった(公式には「辞任した」)角川さんは、平成6年/1994年12月に1億円の保証金を支払って保釈されるまで獄中生活を送ります。翌平成7年/1995年3月に、保有していた角川書店の株をすべて売却して、新たな出版社「角川春樹事務所」を設立。その間、麻薬取締法違反・業務上横領などの罪に問われた裁判はつづき、平成8年/1996年6月12日に、千葉地裁で懲役4年の実刑判決がくだりますが、無実を主張していた角川さんはすぐさま控訴します。

 平成11年/1999年3月1日、東京高裁の控訴審も一審を支持し、平成12年/2000年秋、最高裁が上告を棄却する決定したことで実刑が確定。平成13年/2001年11月15日から収監されて、平成16年/2004年4月8日に仮釈放されるまでの2年5か月、刑務所で服役しました。平成12年/2000年11月、上告棄却の段階で、角川さんは春樹事務所社長を辞任。お務めを終えて社会に復帰してしばらくは、同社の特別顧問として「映画プロデューサー」の肩書きで活動していましたが、平成21年/2009年11月ごろには、代表取締役会長兼社長として実務のトップに返り咲き、いまも同社の経営の舵をとっています。

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