カテゴリー「犯罪でたどる直木賞史」の5件の記事

2018年7月 8日 (日)

昭和59年/1984年・「ロス疑惑」報道事件でゴシップメディアに重宝された小林久三。

ロス疑惑事件をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして、三浦和義被告(四九)が新聞社に損害賠償を求めた二件の訴訟の上告審判決が二十七日、最高裁第三小法廷であった。

(引用者中略)

夕刊フジの発行元の産経新聞社と作家の小林久三氏に計五百万円の慰謝料を求めた訴訟では、二審判決が「夕刊紙は、帰宅途上のサラリーマンを対象として主に興味本位の記事を掲載するもの。読者は大げさな憶測記事として一読したに過ぎない」としていた。

しかし、この日の判決で園部逸夫裁判長は「興味本位の編集方針をとっていても、報道媒体である以上は、読者も記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、記事にいくぶんかの真実も含まれているものと考えている」と述べて、二審判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻した。

――『朝日新聞』平成9年/1997年5月27日夕刊「「夕刊紙にも真実ある」 名誉棄損に新判断 ロス疑惑で最高裁判決」より

 犯罪事件が起こると、それに対して当事者や捜査機関ではない第三者の立場から意見や推論を述べる、あまり尊敬されない役割を担う人が登場します。〈コメンテーター〉と呼ばれたりします。

 さまざまな職種の人が、その役割を押しつけられ、また自ら望んで担ってきましたが、伝統的に重宝されてきた職種のひとつが、推理小説作家です。

 直木賞と縁のある作家のなかからも、やはり何人かが狩りだされ、犯罪史ならぬ日本の犯罪報道史を色どり豊かに彩ってきました。とくに昭和50年代から平成はじめごろにかけて、多くのメディアに登場、どこか胡散くささをまといながら、しかし大きな功績を残した人といって思い浮かぶのが、直木賞候補者、小林久三さんです。

 小林さんは、もとは松竹で映画の制作に携わり、助監督時代にはストーリーや脚本を書いたりしていた人ですが、昭和47年/1972年に冬木鋭介のペンネームでサンデー毎日新人賞(推理小説部門)を受賞、2年後、「暗黒告知」で江戸川乱歩賞を受賞し、それがそのまま直木賞の候補にも残って、小説家としての道が開けます。次第に活動分野はひろがって、週刊誌、スポーツ紙、夕刊紙といった、ちょっといかがわしいけど、楽しさ満点の、大衆向けメディアにも積極的に登板、多忙な作家生活を送ります。

 そんな小林さんが昭和57年/1982年に見舞われたのが、盗用・盗作事件です。

 明らかに小林久三の作品は盗作だ! と思いっきり全国紙の紙面で糾弾されることになったのは、『週刊大衆』に連載した「ノンフィクション・ノベル 帝銀事件」および、『小説現代』に発表した小説「マッカーサー謀殺事件」が、轍寅次郎こと和多田進さんの出版した『追跡・帝銀事件』の内容を大きくパクったもので、転用・借用、数限りなく、許容範囲を超えていて、参考資料にしたという言い訳は成り立たない、として和多田さんが抗議。裁判も辞さないとする和多田さん、それなら受けて立つと構える小林さん、双方の主張を報じたのが、『読売新聞』昭和57年/1982年7月3日夕刊の記事「売れっ子推理作家 小林久三氏 「帝銀事件」盗作トラブル」でした。

 この記事になるまでに、両者は代理人を通じて話し合いをもち、謝罪文の掲載、慰謝料の支払いなど、示談の要件を詰めようとしていたけれど、折り合いがつかず、ということで表沙汰になった感じですが、その後、両者の知人でもあった森村誠一さんがあいだに入り、和解金200万円の支払い、単行本化は見送る、ということを条件にして昭和57年/1982年10月29日に双方和解(昭和58年/1983年6月・幸洋出版刊 片野勧・著『マスコミ裁判―戦後編』)。立件されることもなく、また某かの文学賞の候補に挙げられていたわけでもなかったので、「○○賞は死んだ」などと、まわりから煽り立てる声も起こらずに、穏便なところに着地します。

 被害を訴える側は、これは明らかな盗作だと主張し、訴えられた本人も、たしかに参考にしたのは事実だと認めている。それでも、作家生命が断たれるほどのことはなく、先の道を歩んでいくのが一般的な展開です。小林さんも例に洩れません。「推理作家」の看板を降ろすことはなく、歴史に関する文献を読み込み、気になる犯罪事件があれば取材し、求められれば、事件に対する自分の感想や推理もお話しする。相変らず仕事に忙しい日々を送りました。

 というところで、昭和59年/1984年に小林さんが遭遇した、遭遇してしまうことになったひとつの事件があります。さかのぼること約2年前、昭和56年/1981年11月18日に、三浦一美さんがロサンゼルスで銃撃された事件の真相をさぐるという名目で、夫・三浦和義さんを追いまわす、度を超えた過熱報道が日本中を席巻した、という事件です。

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2018年7月 1日 (日)

昭和29年/1954年・「幹事長と女秘書」事件で佐藤栄作から訴えられた宮本幹也。

判決

(引用者中略)文筆業 宮本幹也こと 宮本正勝

大正二年三月二十日生

(引用者中略)会社員 丸尾文六

明治四十二年八月三日生

右両名に対する名誉毀損被告事件について、次のとおり判決する。

主文

被告人宮本正勝を罰金五万円に処する。(引用者中略)

被告人丸尾文六を罰金五万円に処する。

――『判例時報』昭和32年/1957年8月11日号「判例特報(1) モデル小説と名誉毀損罪の成立」より

 とりあえず直木賞は、文学の賞を名乗っています。文学にまつわる犯罪といって、やはりひとつの軸となるのは、発表された作品をめぐる抗議、告発、難癖などが引き起こす訴訟・判決でしょう。

 直木賞も80年以上やっていますから、受賞者や候補者の書いた小説が、道義的もしくは法的に非難され、告訴にまで至った例は、数多く見受けられます。せっかくいま、芥川賞のほうが盗作関係のハナシで盛り上がっているので、直木賞の、過去の盗作エピソードを振り返ってみるのも悪くないかな。とは思いましたが、準備もできておらず、それはまた後日、時機を見てからということにして、今日は盗用・盗作と並ぶ、「文学上の二大犯罪」のひとつ、モデル小説による権利侵害の話題でいきたいと思います。

 さかのぼってみますと、直木賞の受賞作や候補作で、特定の人物をモデルにしたと言われる小説は、古くからけっこうありますが、そのことが実在の相手や周辺人物たちに問題視され、異議を唱えられた一例が、有馬頼義さんの「終身未決囚」事件です。

 「終身未決囚」は、はじめは同人誌『文学生活』に発表されました。そのときは何の話題にもなりませんでしたが、これを表題作とした短篇集が、第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞を受賞。実際に目にする読者がにわかに増えたことで、早速、口を挟んでくるクレーマーが現われます。評論家の津久井龍雄さんです。

 本作で描かれた登場人物〈宮原基〉は、どう読んでも大川周明がモデルである。歴然と明確なモデルのある小説で、事実と異なるストーリーを都合よく並べたうえ、戦犯の容疑で法廷に立たされた彼が、精神病者と認定されて釈放されたのは、ウソの発狂を装ったからだ、などと大川氏を貶めるような内容を堂々と展開しているのは、大川氏本人や彼を尊敬する多くの人を冒涜するものだ。うんぬん。

 ……という、ヤフーコメントに載っていてもおかしくないような言いがかりを、『出版ニュース』昭和29年/1954年10月上旬号が掲載。同号で有馬さんは、モデルがあったことは事実だが何も大川周明のことを書いた小説ではない、と反論に打って出て、これが他の文学賞だったら議論の盛り上がり方も多少違ったかもしれません。しかし、他ならぬ直木賞をとった作品でもあり、それだけで文学的には数等落ちる、と本気で信じられていた時代です。とくに犯罪認定されることもなく、収束していきます。

 けっきょく直木賞が騒動にさらされることはありませんでしたが、昭和29年/1954年のこの年は、「小説のモデル」問題が、ついに文壇のせせこましい枠を超え、裁判で争われることになった重要な年です。その経緯は、直木賞とは直接の関係がなく、このブログで扱うには不適なんですけど、しかしそこには「純文芸の人たちによる大衆文芸差別」という、直木賞の置かれた当時の文芸状況が密接にからんでいて、その後の直木賞関係の、小説モデル事件を見るうえでも欠かせない歴史的な事件だった、と思います。俗に「幹事長と女秘書」事件と言われる一件です。

 光文社の出していた大衆小説誌『面白倶楽部』に、宮本幹也さん作「幹事長と女秘書」が田代光さんの挿絵付きで載ったのが、昭和29年/1954年11月号のこと。主人公は、疑獄事件の渦中にあり、自民党幹事長の職を辞す決意をかためた代議士、後藤大作と、彼のもとに突如現われた20歳前後の若い女性、若月ミチコで、ミチコの自由奔放な言動にふりまわされる後藤と、彼の実兄で同じく代議士の岸井新介や、古田総理とのやりとりをはじめ、後藤がかつて愛した赤坂の芸者とのあいだには美しい娘がいる、といった逸話を、巧みに入れ込んで読ませる楽しい小説なんですが、なにしろ田代さんの描いた挿絵の人物が、実在の政治家と瓜二つ。だれが何を言わなくてもこれが、当時自由党幹事長を辞めたばかりの佐藤栄作さんをモデルにしていることは、明らかでした。

 本文末尾に「この小説にはモデルはありません」の断りが付けられていましたが、そんな言い訳に何の効果もなく、雑誌発売直後の9月末に、当の佐藤さんが名誉毀損だとして告訴。その直前、光文社の編集部に抗議に乗り込んできたのが、「佐藤氏から世話になっている者だ」という殉国青年隊顧問の男とその部下たち、いわゆるそのスジの、右翼ったコワい人たちだったこともあり、創作の自由をこういう威圧的な手法で封じようというのはおかしいじゃないか、と『面白倶楽部』編集長の丸尾文六さん、作者の宮本幹也さんともに、徹底抗戦の構えを見せます。

 それまで、モデル小説で告訴された平林たい子さん「栄誉夫人」、由起しげ子さん「警視総監の笑い」などは、当事者間の話し合いや、金銭の授受で示談になっていましたが、当案件は被告側が示談を拒否。ついに起訴されるに至り、法廷で争うことになります。

 しかし、このとき文学関係者が見せた反応は、かなり鈍いものでした。

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2018年6月24日 (日)

昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。

一昨年の朝鮮動乱二周年記念日に新宿スケートリンクで開かれた「国際平和の集い」に集った群衆の流れが新宿駅前東交番などを襲い火炎ビンを投げつけ集団暴動を働いた事件の判決公判は十日午前十時五十分から東京地裁二十一号法廷で加納裁判長係で開かれ、次の判決言渡しがあった。

▽懲役一年、小林勝(求刑懲役三年)公務執行妨害、銃砲刀剣所持違反

――昭和29年/1954年7月10日『毎日新聞』夕刊「小林に懲役一年 新宿火炎ビン事件に判決」より

 東京・新宿駅の東口および歌舞伎町の周辺は、常に何かが暴発しそうな、毒々しさに満ちた一帯ですが、昭和27年/1952年6月25日水曜日夜、その付近に集まった熱気あるデモ隊が、仕事熱心な警官隊と正面衝突。報道陣を含め負傷者20数名を出すという大騒動が起こりました。

 当日は午後5時半から、歌舞伎町にあった東京スケートリンクで、渡辺三知夫さんを委員長とする芸術家集団が、「国際平和記念大会」ないし「国際平和のつどい」と称する大会を企画、そこに2500人ほどが集結していたと言います。朝鮮動乱とも朝鮮戦争とも呼ばれる、コリア半島を舞台にした南北分かれての、例の争いが始まって、ちょうど丸2年となった6月25日、日本に住む朝鮮の人たちをはじめ、日本人の学生、労働者などがぞくぞくと集まり、半島の平和を願いながら、その争いに荷担しようとする日本国家のやり口に不平不満を高め合うこと数時間、盛り上がりのボルテージが上がったまま閉会を迎えたのが午後9時すぎのことです。

 どうやら今日の集まりは(も)過激な参加者が多く、箱詰めの火炎ビンや硫酸ビンが用意されているらしい、との噂を耳にした警視庁は、早くから警備体制を整え、淀橋署の警戒本部に約1000人という、なかなか大人数の警官たちを待機させて、状況を見守ります。

 すると大会終了後、興奮状態を持ち越すかたちで、掛け声を上げ、アジビラを撒きながら新宿駅までやってきた大群が、東口前のあたりに陣取って、インターナショナルを歌いながらビラをまく。これは不穏な雰囲気になってきたぞと判断した警察は、躊躇なく1000人の警官隊を送り込む。怒号やら悲鳴やらが新宿の街にこだまする展開となったところで、ここぞとばかりにデモ隊の一部が、警官隊に向かって火炎ビンや硫酸ビンを投げ込みはじめます。ハナシによれば、その数50本以上。

 押し合いへし合い、混乱は東口から西口にも拡大し、平日夜の新宿駅付近といえば、いまとは様相も違っていたでしょうが、デモとは関係のない帰宅途中の一般人や酔っ払いなども大勢いたと言われていて、デモ隊はそういった群衆にまぎれ込みながら、警官隊に抵抗。そんなことが30分ぐらい続くうちに、警察の制圧が効いて騒ぎは徐々に収束し、検挙者30名ほどを出しながら、26日午前0時すぎに警戒態勢は解除となりました。

 そのなかで、とくにハジけた行動をして目をつけられたのでしょうか、4人が起訴されるまでにいたります。会社員黒沢洋さん、無職金南燮さん、分離公判となった平田虎雄さん、そして雑誌編集業の小林勝さんです。

 このとき、小林さんは24歳。どうしてその場にいたのか、とたどってみると、小林さんの両親は大正3年/1914年ごろ、日本の支配の及ぶ朝鮮に渡った、在朝の日本人で、おのれにとっての朝鮮とは、生誕の土地であり、故郷であり、この国というか民族というか土地との関係性は、小林さんの思想を形成してきた重要な礎です。朝鮮戦争の動向はヒトゴトではありませんし、しかも小林さんは、昭和23年/1948年に日本共産党に入党すると、早稲田大学の在学中にレッド・パージ反対闘争を指導して停学処分を受けるなど、いわゆるバリバリの、バリバリな歩みを見せた人で、昭和27年/1952年の事件のときは、『人民文学』に参加して編集に当たっていたという、正真正銘、バリバリの人でした。

 そのころはまだ、元気と威勢のいい一介の共産党員、ぐらいだったかもしれません。そこから昭和28年/1953年1月に保釈されて以降、小説を書く勉強をはじめ、昭和29年/1954年7月には、一審で有罪の判決を受けたものの、控訴。裁判を争うあいだに新日本文学会に入り、昭和31年/1956年に「フォード・一九二七年」を『新日本文学』に発表します。朝鮮・洛東江上流の山深い町を舞台に、ただ一台の自動車を所有するトルコ人、原住の朝鮮人、植民地化後に入植してきた日本人の関係性を、戦争を背景にして描いたもので、これが芥川賞の候補に選ばれることになったために、一躍、注目の新進作家として名を挙げます。

 このあたりで芥川賞でもとっていれば、のちの展開を含めて、間違いなく大きな話題となり、芥川賞も「ニュースの女神に愛された文学賞」と呼ばれるその特徴を、存分に発揮してくれたと思いますが、昭和34年/1959年、保釈手続きの不備によっていったん収監されるという余波を経て、7月7日、最高裁で判決が確定。懲役一年の実刑、ということで、戦後の作家としてはじめて実刑による刑務所生活を経験することになり、獄中で戯曲「檻」を執筆。翌昭和35年/1960年に出所するとたちまち、『文藝春秋』に「刑務所紳士録」を発表するは、「檻」が劇団民芸で上演されるは、これが第6回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)を受賞するは、「架橋」が3度目の芥川賞候補になるは、と話題性の風は確実に、小林さんのほうに吹きはじめました。

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2018年6月17日 (日)

昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。

警視庁保安課は十七日までに神奈川県鎌倉市二階堂二四七作家清水正二郎(四一)をワイセツ文書販売、同目的所持の疑いで取調べ、出版関係者五人とともに書類送検した。これと同時に十七日までに(中略)去る三月から清水が書いた六十二種の単行本のうち、四十五種計四万一千冊余を押収した。

――昭和40年/1965年12月18日『朝日新聞』夕刊「清水正二郎ら書類送検 ワイセツ文書販売など」より

 他人に対する憎悪と怨嗟で生きている、と言いながら、パフォーマンスや自己売り込みをやってのけ、直木賞史上もっともパンクな作家人生を歩んだ受賞者、と称されることになった胡桃沢耕史さんは、呼吸をするようにゴシップを生産してしまう、という特異な人柄からか、うちのブログでも何度となく取り上げてきました。「犯罪」の観点から見ても間違いなく、忘れることのできない人物です。

 数々ある胡桃沢さん関連の犯罪事件のうち、いちばん有名で、根が深く、また直木賞も関わっているのが、昭和24年/1949年「暁に祈る」事件でしょう。

 胡桃沢さんが清水正二郎の名ではじめて出版した、自費出版だったとも言われる『国境物語』(昭和24年/1949年)は、ぼくはカルチャーセンターに通う主婦みたいに自分の体験そのままの小説は書かない、と豪語するようになる胡桃沢さんの、原点と言ってもいい作品で、モンゴル・ウランバートルの俘虜収容所に抑留されたときの自身の体験を軸としながらも、伝聞、取材、脚色、妄想をふんだんに盛り込んで物語性を高め、いかにもホントのことっぽく仕立てた小説ですが、最大のセールスポイントは、昭和24年/1949年3月15日に『朝日新聞』に掲載され、じつはデッチあげだったと一説に言われる記事から始まった「暁に祈る」事件の実態を、元吉村隊員という触れこみの書き手が、その残虐で非人道的な私刑の様子を描いた、というところにあります。

 ここで胡桃沢さんは『週刊朝日』の座談会に声がかかって出席するなど、あたかもこの事件の暗部を知るスポークスマン役を買って出て乗りだしていくと、吉村久佳=本名・池田重善以外にも悪人はまだまだいる、そのひとりが永井正だと、同誌5月1日号に載った手記(のような小説)「パン」のなかで糾弾、当の永井さんから名誉毀損で告訴される流れになったらなったで、「パン」の内容は創作だったと自分で認めながら、それでも強硬に対決姿勢を崩さない、というハートの強さを見せつけます。

 何よりも、どんなことを言えば話題になるのか把握し、実際にそういう言動をとるだけじゃなく、あまりに仕掛けてやろうという鼻息が荒すぎて、周囲がドン引きしてしまう、この展開が、のちの胡桃沢さんの原点だ、と言える点でしょう。三食ナマ肉を食べる性豪とか、一日に三発やらないと鼻血が止まらないとか、四人も五人も愛人を抱えているとか、性の面で脚光を浴びたときにしきりに繰り返した自己アピールに、一脈通じるものがあります。

 自分の受けた苦しみは、生涯忘れないしつこさ、というのも胡桃沢さんが終生言い続けた特徴です。現に、創作の原点にもなった抑留体験を常に大事に温めて、清水正二郎の名を捨てて新しい筆名になっても、その記憶と手法は捨てず、もう一度改めて書き直した『黒パン俘虜記』が、念願の直木賞受賞作となるのですから、作家として筋が通っている、と言えば、そう言えるのかもしれません。

 その胡桃沢さんが、刑事事件の被告となったのが昭和40年/1965年に送検された、猥褻文書販売・販売目的所持による、いわゆる「シミショウセクシー文学」事件でした。

 アンダーグラウンド小説界の帝王、隠れた流行作家と呼ばれた胡桃沢さん、いや当時は清水正二郎の筆名でしたが、昭和40年/1965年3月に『世界秘密文学選書』(浪速書房)の26点が摘発、5月から7月にかけて13点が追加されると、12月にはさらに4点、計43点が当局から猥褻文書とされて、検察に送られます。

 かつて、他の翻訳家のことを勉強が足りないとケナし、合法のなかで訳しきる技量があるのは自分一人しかいない、と言っていた胡桃沢さんでしたが、いざ違法だと摘発されて裁判となると、猥褻のどこが悪いのか、猥褻とは何なのかを論争したかったが向こうは相手にしてくれない、と検察批判を繰り出し、おれは検察ににらまれているが一度も留置所に入れられたことがないんだ、と呵呵大笑する有り様で、この強がりというか、負け惜しみというか、腹の底が見えない感じは、まったく変わりません。

 その打たれ強いはずの胡桃沢さんが、一斉40数点を猥褻文書と認定されて送検された昭和40年/1965年から、10年以上も経った昭和51年/1976年に筆名を変えたのは、いかなる理由があったのか。これがまた、謎ちゅうの謎に包まれています。

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2018年6月10日 (日)

昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。

有閑不善のバチルス麻雀賭博は先に久米正雄、里見弴氏等一流文士の大檢擧により同好者を戰慄せしめ一時その病根を絶やしたかと思はれたが、(中略)十六日午前五時を期し浦川捜査課長、田多羅係長、渡邊警部補以下卅名の刑事隊を動員し文字通り疾風的に關係者の寢込みを襲ひ、更に同日午後も引續き檢擧洩れの關係者を追窮して徹底的大檢擧を行つた、

(中略)

更に驚くべきことにはこの麻雀の一群は、同好の士の訃に接するやその靈を慰めると稱しては千點十圓の大賭博を開帳してゐたことが判明した(中略)三月一日には芝區田村町の吾妻屋旅館の一室で故直木三十五氏の靈を弔ふと稱して福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛、淵川銀次諸氏で同樣千點十圓の麻雀を開いてゐたものである

――昭和9年/1934年3月17日『都新聞』「麻雀賭博檢擧 文士畫家重役」(昭和40年/1965年5月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成 昭和編年史九年』より)

 だれか親しい人の死に接したとき、生きた人間たちはさまざまな行動をとりますが、そのいくつかは時代の記録に刻まれることがあります。われらが直木賞もその末席を汚す、しがない追悼企画のひとつですけど、人気絶頂の大衆作家と目された直木三十五が、昭和9年/1934年2月24日、43歳で亡くなったことに端を発する現象は、文学賞の創設だけに限りません。

 ここで出てくるのが、とある犯罪事件です。昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて俗世を騒がせたと伝えられる、文士賭博事件というものがありました。

 なにしろ世を騒がせたぐらいなので、この事件には数多くの回想、解釈、言い分が関係各所にあふれ返っており、とうてい全貌は把握しきれませんが、概略をまとめてみるとこうなります。

 昭和8年/1933年11月、東京市下で富裕な婦人や娘に金を貢がせては、淫靡な関係を結んで遊び、帝都の風紀を乱しているとして、ダンスホールで教師をしていた木村政雄こと車均敞や、田村一男などが警察に引致、取り調べを受けたところ、田村に令嬢や有閑マダムを斡旋していた人物として浮かび上がったのが、吉井勇伯爵夫人の徳子です。同月16日、徳子は警視庁に連行され、翌日から取り調べが始まりますが、彼女の証言によって、文士や画家たちのあいだで常習的に花札や麻雀の賭博が横行していることが判明したため、17日午後6時ごろから、名前の挙がった人たちが次々と検挙される事態となります。

 このとき対象となったのは、里見弴とその妻山内まさ、および内妻遠藤喜久、佐佐木茂索とその妻ふさ、中戸川吉二とその妻富枝、久米正雄とその妻艶子、小穴隆一、あるいは美川きよ、川口松太郎、島源四郎、野村真一郎、文藝家協会書記の松本喜郎といった面々で、みな賭博の事実はおおむね認めるいっぽうで、「娯楽でやっていたので悪いこととは思わなかった」と口々に言い、菊池寛が身許引き受けの一札を警察に提出したことが効いたのか、18日早朝には、おのおの釈放。まもなく書類送検され、翌年1月には里見と喜久、佐佐木、久米、中戸川、小穴、野村、島、徳子の9名が起訴、略式での罰金刑、と報じられました。

 しかし、賭け事をやっているのは彼らだけじゃないぞ、という情報を入手した警視庁は、その後も内偵を進め、さらに大勢の被疑者に目をつけると、検挙劇の興奮いまだくすぶる昭和9年/1934年3月16日、麻雀クラブの支配人たちを中心に、常習で麻雀賭博に興じていた医師、実業家、文士、画家などを一斉検挙。広津和郎とその内妻松沢はま、東郷青児などにつづいて、明けて17日には、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三といった文士から、松竹の女優、飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子まで、いっそう名の知れた人たちも連行されることになり、俄然と芸能ゴシップ屋の目をランランとさせる展開を引き寄せます。

 そうはいっても、だいたいが微罪中の微罪だったらしく、有名どころはすぐに釈放され、結局、警察が著名人にまで手を出したのは、世間の耳目を引こうという魂胆だったのではないか、と言われることになったこちらが、俗にいう「第二次文士賭博事件」です。

 うち、直木さんの死に関係しているのは、第二次のほうで、生前大いに可愛がられた福田蘭童さん(尺八奏者)などが2月24日の訃報に接してその死を悲しみ、3月1日、直木さんを追善するための麻雀会を、芝区田村町にあった東屋(吾妻屋)旅館で開催。多賀谷信乃(画家)、川崎備寛(文士)、淵川銀次(貴金属商)といったメンツの参集を見て、千符10円くらいの賭博を行っていたことが明らかになり、最終的に同年5月、この4人は起訴されることが決定して、略式命令による罰金刑が言い渡されました。

 死んでからこんなところに名前が出てきて、直木さんからすれば、トんだトバッちりだ、という感じかもしれませんけど、ともかくもこの事件は、直木賞が創設された時代背景をよく伝えてくれるものだと思います。

 当時の文芸界をとりまいていた国家権力と、遊興と、マスコミ、という三つの要素が勢揃いするなかで、文藝春秋社という、品行方正とは程遠いところにあった雑誌社が、そのいずれにも深く関与していた、ということです。そこには、直木賞がつくられる下地として、三つの要素が奇妙にからみ合う様子をうかがうことができるでしょう。

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