カテゴリー「犯罪でたどる直木賞史」の26件の記事

2018年12月 9日 (日)

昭和42年/1967年・いさかいにも構わず、日本翻訳家協会の新会長を引き受けた木々高太郎。

出版ブームにともなって脚光を浴びだした翻訳家の集団「日本翻訳家協会」(引用者中略)に“お家騒動”が起こり、二人の会長が出現した。

(引用者中略)

同協会はさる二日、役員改選のための定期総会を渋谷区の青山学院大学で開いたがまとまらず、十八日継続総会を開き、会長に慶大名誉教授林髞(推理作家、木々高太郎)を選出、副会長には慶大教授平松幹夫氏が留任。(引用者中略)

ところが総会前まで平松氏とともに副会長だった児童文学者村岡花子女史、理事の上智大教授刈田元司氏らは、それまで十一年間会長をつづけてきた青山学院大教授(英語学)豊田実氏(八一)が、二日の総会でまた会長に留任したと主張、文部省や協会員に訴え出た。

――『読売新聞』昭和42年/1967年6月23日「翻訳家協会“お家騒動” 保守、革新二人の会長」より

 別に江戸に限りません。喧嘩というのは、たいていの地域、たいていの時代において、ひとつの華です。自分から仕掛けたり、望まないところで巻き込まれたり、その形態はさまざまあると思いますが、下手にこじれると犯罪事件に発展することもある、なかなか油断のできない、面白い華です。

 犯罪としての要件を満たしていない百花繚乱の喧嘩や事件。こういうものまで取り上げていくと、ブログのテーマからは外れる一方なんですが、何といっても木々高太郎さんにまつわるいざこざを知ってしまっては、とても心穏やかではいられません。ということで今週は、推理文壇の嫌われ隊長こと木々さんが参加していた日本翻訳家協会の内紛を取り上げることにします。犯罪一歩手前、のようなお話です。

 木々さんは昭和41年/1966年、以前も触れた小島政二郎さんと合わせて、「三田」の仲間同士、同じタイミングで直木賞の選考委員を退任、もしくはクビになりましたが、これが年齢でいうと68歳のとき。二度目の結婚生活も充実して、選考委員を辞めたあとも多忙な日々を送った、と伝えられています。じっさい、昭和42年/1967年には外国に出かけて日本を不在にしましたが、そんな留守中に勃発したのが日本翻訳家協会の騒ぎです。

 この協会は昭和29年/1954年、日本ペンクラブのなかにあった「日本翻訳委員会」と、鈴木信太郎さんが議長を務める「外国文学者協会」とが合体し、辰野隆さんを初代会長として創設されたもので、昭和39年/1964年には創立10周年を機に、翻訳者を顕彰する「日本翻訳文化賞」を、翌年からは出版社を顕彰する「日本翻訳出版文化賞」を設定。国際翻訳家連盟(FIT)に加盟する日本代表の団体と位置づけられ、基本的に文学専門というよりは、もっと幅広く学術全般の研究者や翻訳家を数多く擁して、地道に活動を続けていました。いわば由緒正しい団体です。

 ところが、会費の未払いや運営の遅滞などでグダグダになってきたこの組織を、何とかして改革しようと事務局長の座についた森川宗興さんが、どうやら盛んに入会を勧誘した結果、収入基盤を安定させたらしく、それはそれでよかったのですが、森川某ってやつはロクな翻訳の業績もないくせに、ひとりで勝手にやりすぎだ、と苦々しく思う会員を、一部で生んでしまったといいます。昭和42年/1967年6月、役員改選の総会がひらかれると森川さんの留任が拒否される風向きに。

 火ダネは他にもありました。長期政権だった高齢の豊田実さんを会長職から降ろし、新しい体制でやっていきたいと考える平松幹夫さんの仲間たちと、いやいや豊田会長のままでいいじゃないか、だいたい平松という人間が偉そうにのさばっているのが気に食わん、と敵愾心むきだしの勢力と、両者の折り合いがつかず、豊田体制の続行派とは別に、後日正規の手続きを踏んで新しい体制を決定したのだと主張する平松グループとが正面から対立。どちらも正統な「日本翻訳家協会」だと名乗ることになって、この状態は平松さんたちの協会が平成9年/1997年に解散するまで、30年にわたって続きました。

 ここで、あわや告訴か裁判か、というところまで話がこじれたのは、ひとつには金銭問題が絡んでいたからだ、と言われます。豊田派の中心にいた佐藤亮一さんに言わせれば、森川某という人間が何よりのクセモノで、協会の出納簿を見せろといってもゴマかして公開しない、あんなやつ信用できるか、と猛烈に個人批判を展開。対する平松グループの旗頭、森川さんも黙ったままではありません。前任の事務局長だった佐藤氏のほうが経理的な仕事のできない無能な役員だったじゃないか。しかも事務局長の引き継ぎのときに印刷代と称して5万円を持っていったが、あとで印刷会社から協会に5万円の請求書が来た。こんなの立派な背任横領だ。などと暴露する有り様です。

 佐藤亮一は背任横領の罪がある、と森川さんが糾弾する。逆に佐藤さんは、帳簿を隠している森川こそ横領罪に問われるべきだと言い返す。……両者、あるいは両グループによる罵倒の投げつけ合いは、『週刊読売』昭和42年/1967年9月8日号「有名大学教授たちのオソマツ騒動記 金と肩書きで分裂した日本翻訳家協会」にみっちりと記録されていて、どちらも言いたい放題のヒートアップが止まりません。こういう派手な公開喧嘩を「華」と呼ばずして、いったい何を華というのでしょうか。

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2018年12月 2日 (日)

昭和48年/1973年・「四畳半襖の下張」掲載での告訴と裁判を受けて立った野坂昭如。

永井荷風作と伝えられる戯作春本「四畳半襖(ふすま)の下張」を雑誌「面白半分」に掲載して、わいせつ文書販売罪に問われた作家の野坂昭如(五〇)と、元面白半分社社長の佐藤嘉尚(三七)両被告に対する上告審で、最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)は二十八日午前、わいせつ文書の処罰は憲法違反に当たらないとした上で「この文書は主として読者の好色的興味に訴えるものと認められ、一、二審の判断は正当」として一、二審の有罪判決を支持し、被告・弁護側の上告を棄却する判決を言い渡した。

(引用者中略)

(引用者注:判決理由のなかで)わいせつ性を判断する際に「芸術性・思想性」も考慮に入れるべきだ、とした点は、これまでわいせつ性と芸術性・思想性などを「別」としてきた最高裁判例を実質的に手直ししたものといえる。

――『朝日新聞』昭和55年/1980年11月28日夕刊「「わいせつ」判断に新基準 最高裁「四畳半」などの上告は棄却」より

 文学というのは、それ自体がすでに犯罪だ。……と高らかに宣言したのは誰だったでしょうか。ほとんど詭弁か修辞の類いという感じもしますが、けっきょく文学は何モノにだって置き換えられる、その実体性のなさを表現したかったのかもしれません。

 実体性のなさ、というか、正解のなさ、と言ってもよさそうですけど、そういう文学の自由すぎる風合いが、無理やりにでも決まりや定義をつくりたがる法曹の体質と、派手にぶつかって大きな騒ぎをもたらすことがあります。たとえば、昭和48年/1973年~昭和55年/1980年の7年にわたる、野坂昭如さんを中心とした「四畳半襖の下張」裁判です。

 野坂さんたちが問われた罪状は、さほど複雑なものではありません。

 大正13年/1924年に永井荷風さんが書き上げたと伝えられる「四畳半襖の下張」という題名の戯作があります。昭和22年/1947年、一般流通に出まわらないかたちで松川健文(夏川文章)さんの手によって秘密出版され、たちまち警察当局に猥褻文書扱いされて、裁判に持ち込まれた結果、発行者に懲役三か月執行猶予二年の有罪判決がくだされた作品です。

 じっさい、これが秘密に出版されるまで、あるいは警察に目をつけられるまでの経緯そのものに、永井さんをはじめ、平井呈一さん、猪場毅さんなどなどの、幾人もの思惑、迷惑、私情、激憤といった感情がからみ合っていて、一つの叙事詩を形成するぐらいの物語が介在しているらしく、そこがもう最高にエキサイティングなんですが、それは脇におくとしましょう。この作品に高い文学的価値があると考えたひとりが、昭和43年/1968年1月に第58回直木賞を受賞、いっそう目立った活躍をしていた野坂昭如さんで、昭和47年/1972年、自分が編集長を務める『面白半分』7月号に、その全文を再録。すると、やっぱり取り締まり当局に摘発されて、昭和48年/1973年2月、野坂さんと『面白半分』発行人の佐藤嘉尚さん、両者合わせて東京地検に起訴されます。刑法175条、猥褻文書販売の罪ということだったんですが、罰則は大して重いものではありません。

 しかし、そこでよーし、裁判で争ってやろうじゃないかと、腕まくりするところが、野坂さんの面目躍如たるところでしょう。興行的なパフォーマンスを文学的な話題と結びつける野坂さんの稀有な才能がここでも開花、名前の知られた作家や評論家、メディアなどを味方につけて、ぞくぞくと裁判に動員し、大したことがなかったはずの単なるポルノ小説摘発事件を、一大文学ニュースに仕立て上げてしまいます。

 もちろん野坂さんは、裁判に勝つ気満々だったはずですが、と同時に、いまの時代における「猥褻な表現」とは、いったい何なのか。警察官や検察官、裁判官といった人たちが、猥褻かそうでないかを決定することの不条理性。そういった一種の問題提起を、とくに出版に携わる立場ではない、一般の人たちに関心を持てる話題として投げかけて、広げていくことも、野坂さんの目的のなかには確実にあったと思われます。

 ふだんは意識しないで生活している環境のなかに、マスコミをも活用することでニュース性をもたせ、社会の関心事のなかに文学(もしくは出版)を位置づける。……その考えかたは、ほどんど直木賞と同じです。直木賞、いやその他の多くの文学賞は、すでに名をなした客の呼べる作家を、選考委員に据えることで、注目されやすい姿を構成している一面がありますが、それと同様、「四畳半襖の下張」裁判の被告側も、弁護人や弁護側の証人として、次つぎに人気の作家、いっぱしの評論家を裁判所に連れ出し、そのことでニュースの重みと重要性を、世間に知らしめようとはかります。

 ということで、被告の野坂さんおよび『面白半分』側を援助するために立ち上がったのが、特別弁護人の丸谷才一さん、そして第一審で証人席に立った14名。五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、石川淳、有吉佐和子、金井美恵子、田村隆一、吉田精一、榊原美文、中村光夫、寺田博、奥平康弘、水沢和子といった人たちです。水沢さんは主婦なので別として、ほかは作家、詩人、研究家、評論家、編集者、学者といった面々を揃えました。

 「法廷は“文学講演会”さながらの異色の証人調べが続けられて来た。」「さしずめ、「現代日本文学全集」(丸谷氏の話)」(『朝日新聞』昭和50年/1975年11月28日)といった表現も飛び出す有り様で、とりまく記者たちも巻き込んで、真剣に文学のことで楽しんでいた様子がよくわかります。

 「四畳半襖の下張」がいかに文学性のある作品か。表現の自由と猥褻との線引きはどこまで可能か。昭和48年/1973年9月10日の初公判以来、2年近くかけて文学関係者がそれぞれ熱い主張を繰り広げます。その結果、昭和51年/1976年4月27日に東京地裁で出された判決が、野坂さん罰金10万円、佐藤さん罰金15万円の有罪判決。昭和54年/1979年3月20日、東京高裁の控訴審判決も、一審を支持して有罪。昭和55年/1980年11月28日、最高裁上告審また同様。……何年もかけていろいろ騒いだわりには、何かチッポケな話だよな、と不満げにつぶやいた記者が、いたとかいなかったとか。

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2018年11月25日 (日)

昭和28年/1953年・松川事件に関心を寄せ、裁判の傍聴に出かけた池田みち子。

控訴審は昭和二六年一〇月二三日から仙台高裁鈴木禎次郎裁判長の法廷で始まった。弁護団は自由法曹団を中心に約一三〇人で編成、このころ作家の広津和郎、宇野浩二らも裁判の成行きに関心を示し、のち広津は「松川裁判」という著作を発表する。また、二人が世話人となり川端康成、武者小路実篤、吉川英治らの作家も「裁判の公正をのぞむ」むねの要請文を裁判所に出し、チェコや中国からも被告たちに激励のカンパが送られてきたりした。

――昭和55年/1980年10月・第一法規出版刊、田中二郎、佐藤功、野村二郎・編『戦後政治裁判史録(1)』「14 松川事件」より

 長く続いた昭和の時代、しぶとく作家として生き残った池田みち子さんが、70歳を過ぎて刊行した作品集に『カインとその仲間たち』(昭和58年/1983年11月・福武書店刊)があります。一読、うわあ池田さんってこんなに面白い作家だったんだと、正直驚いたんですが、何といってもその魅力の詰まっているのが、収録作のひとつ「市ヶ谷富久町」(初出『海』昭和50年/1975年4月号)です。

 語り手は〈西田千世子〉という名前の老年作家。自分がまだ若かったころ、上京したばかりの身で参加した赤色救援会の、かつて事務所があったと思われる市ヶ谷の街を歩くうちに、当時のことを回想する、というのが大枠の流れです。救援会というのは、左翼関係で収監された人たちを刑務所の外から支援する活動もしていた団体で、語り手の〈西田〉もまた、幾度となく検挙されては、留置所暮らしを経験。しかし収入や生活を考えたときに、どうしても続かなくなって活動から離れ、そのことをずっと負い目に感じながら、やがて物書きの道に入っていくという、その過程についても触れられています。モデルは当然、池田さん自身です。

 戦後には、食べていかなければならないという事情もあって、少しエロティックな方向から現代風俗に取材した小説を次々と書き飛ばし、世相とそこに生きる人間を切り取った、文芸色の強い中間小説の世界で活躍。第30回(昭和28年/1953年・下半期)に直木賞の候補になった「汚された思春期」なども、いま読むといったい何のことやら、と目が点になるくらいの、巷の男女の惚れた腫れたを描いた埋もれるべくして埋もれる一短篇なんですが、その後、池田さんが関心をもって書くようになるのが、売春婦や、ドヤ街山谷に暮らす人びと、ということで、常に社会構造的に弱い立場にある人たちに目を向けてきた作家であることは間違いありません。

 ちなみに「汚された思春期」は、『小説公園』昭和28年/1953年10月号に発表されたものですが、その次に同誌に書いたのが、昭和29年/1954年3月号掲載の「松川事件(私は何を信じればよいか)」になります。

 池田さんがいっとき熱心に現地に足を運び、被告やその家族などから話を聞いて、裁判の行方を見守った松川事件。そこでは、昭和28年/1953年12月、大原富枝さんとともに仙台で行われた控訴審の公判を傍聴しに訪れたときの見聞と、池田さんの考えるこの裁判の問題点などが綴られています。

 松川事件というのは、もうあまりに有名で、説明の必要はなさそうですけど、便宜上概略だけ記しておけば、昭和24年/1949年8月17日未明、東北本線の上野行き旅客列車が福島県金谷川駅と松川駅の間を走行中に脱線転覆、3人の乗務員が死亡します。現場検証の結果、レールの継ぎ目板や犬釘が何者かによって外されていた形跡があり、人為的に脱線を狙った者がいるとされて、国鉄労組と東芝松川工場労組の組合員が共同して犯行に及んだ、という線で捜査が進み、まもなく9月から10月にかけて汽車顛覆致死容疑で計20名が検挙。同年12月から公判がひらかれて以降、途中、何人かに死刑判決や無期懲役の判決がくだされたりもしましたが、昭和38年/1963年9月、二度目の上告審で最終的に全員の無罪が確定したという、その経緯から、警察・検察などの権力が無辜の労働者たちに罪をかぶせようとした、戦後の代表的な大規模冤罪事件として知られています。

 いっぽう文壇史の側面から言っても、広津和郎さんという当時60代に差しかかった著名な大物作家が、第一審の有罪判決に対してこの裁判はおかしいのではないかと批判を始め、他の文学者たちのあいだにも関心が広がっていき、批評、随筆、記録、小説、戯曲などなど、これに関する文章が数多く発表された犯罪事件として、歴史にその名を刻んでいます。

 昭和28年/1953年10月26日、控訴審の仙台高裁鈴木禎次郎裁判長に宛てて提出された、ぜひとも公正な裁判を望むという内容の要請書は、広津さんや宇野浩二さんが先頭になってつくられたものだそうですが、そこに志賀直哉、川端康成、武者小路実篤、河盛好蔵、尾崎士郎といったメンツの他に、井伏鱒二さんや吉川英治さんも名を連ねていた、ということからも、直木賞という文学賞と、いくぶんかの縁がなかったわけではありません。

 そういったなかで、まったく個人的な興味によって、この事件および裁判の記事を外から眺めていた池田さんが、ほんとうのところはどうなんだろう、と身軽に腰を上げて、実地検証に参加したり、裁判を傍聴するために出かけていき、それに関する文章をいくつか発表。マスコミなどでは、松田解子さんや佐多稲子さん、大原富枝さんなどとともに、女性作家によって結集した松川裁判弁護一派のひとり、みたいに扱われました。

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2018年11月18日 (日)

昭和42年/1967年・名誉毀損だとしてデヴィ夫人に告訴された梶山季之。

インドネシアのスカルノ氏のデビ夫人(二七)=日本名、根本七保子=は弁護士、平井博也氏を通じて九日、小説『生贄(いけにえ)』を執筆した作家・梶山季之氏と出版元の徳間書店(徳間康快代表取締役)を名誉棄損で東京地検に告訴するとともに、二人を相手どって毎日、朝日、読売新聞に謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。

――『毎日新聞』昭和42年/1967年9月9日夕刊より

 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノさん――ここでは当然〈デヴィ夫人〉という表記で統一しますけど、彼女の個性そのものが、単なるお騒がせの域を超えて、事件性をはらんだ存在であり、文化をゆるがす現象でもあることは、一介の直木賞オタクでしかないワタクシにも、何となくわかります。

 昭和36年/1961年、一国の国家元首の夫人となる前後には、富と権力というものに象徴されるエスタブリッシュメントの住人と見なされ、そういう立場の人がおおむね背負わされる一般大衆からの反感ややっかみにさらされた時代もありました。しかしその頃からいまにいたるまで、お高く止まりきらない俗っ気のせいか、多くの人に面白がられてイジられるぐらいの、ユルい魅力も兼ねそなえながら、その履歴のなかに国際問題、社会経済、女性の生き方、芸能、出版、犯罪などなど、あらゆる要素が混ざり込んでいるという、ともかく稀有な人物です。

 と、デヴィ夫人の生涯を追うだけで、直木賞(に関連したあれこれ)との接触や接近の話題をいくつも挙げることができそうですけど、今日のエントリーでは、もう一方の主人公の座に梶山季之さんを据えたいと思います。いまから55年前、第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞に落ちたところから、終生直木賞のようなものを痛烈に批判する側にまわった大作家のひとりです。

 ところで、梶山さんの作家的な特徴とは何でしょう。そんな難しいことは、ワタクシもよくわかりませんが、ひとつには市井に生きる有象無象の人間たちの視点を常に意識し、そのなかで悪戦苦闘、新たな物語表現を模索したことが挙げられます。

 新しいことに挑戦しようとすれば、旧弊とのぶつかり合いが起こるのは自然の流れです。しかも梶山さんはその売れっ子ぶりも破格でしたから、余計に揉めごとやいざこざに巻き込まれやすくなる。とくに国家権力に目をつけられて、何度も問題視されたのが、「ポルノ小説で荒稼ぎした」と自称・自嘲する梶山さんの、小説における猥褻表現でした。

 梶山作品がはじめて猥褻文書販売・所持の嫌疑をうけて摘発されたのが、昭和41年/1966年『週刊新潮』に連載中の「女の警察」5月14日号分の描写です。そのころ梶山さんは政財界の暗部をえぐる類いの取材も精力的におこない、その成果を広く発表していたため、それに対する権力側の制裁と警告の意味合いもあったんじゃないか、などとまことしやかに囁かれた、といいます。もしそうだとしたら、権力としてあまりにやることがショボくてセコすぎるとは思うんですが、たしかにそう考えたほうが話は面白いでしょう。けっきょくこの件は、翌昭和42年/1967年8月22日付で罰金5万円の略式命令を受けて、落着します(平成10年/1998年8月・季節社刊『積乱雲 梶山季之――その軌跡と周辺』所収「仕事の年譜・年譜の行間」)。

 以来、昭和43年/1968年には『週刊現代』4月25日号の連載小説「かんぷらちんき」、『週刊新潮』5月4日号の読切小説「スリラーの街」とたてつづけに2度、昭和49年/1974年には『問題小説』7月号に掲載された「銀座ナミダ通り」シリーズの一作が、それぞれ同じように猥褻表現を含んでいると見られて、押収、回収の対象になっています。

 4度にわたって同じ罪状で摘発されるというのは、警察側が懲りなかったのか、梶山さんのほうが懲りなかったのか、もはやよくわからないイタチごっこですが、そのたびに新聞で報道されるところが人気の作家の証し、ということかもしれません。少なくとも、これで梶山さんが委縮したとか、御上の意向に従順になったとか、そんなことはまったくなく、男一匹、雑草ダマシイを失わずに、権威や権力に対峙するかたちで作家活動をつづけました。

 ということで、いつの間にかアンチ直木賞もさまになる、直木賞があげそこねた作家の代表的な存在となった梶山さんが、政財界のゴシップを大胆に取り入れて、たくましく生きる悪女の姿を描き出そうという気概で筆をとったのが、『週刊アサヒ芸能』に昭和41年/1966年5月29日号~昭和42年/1967年1月22日号まで連載された「生贄」です。

 中学の国語教師〈外岡秀哉〉が、新宿の喫茶店でウェイトレスをしていた昔の教え子〈笹倉佐保子〉と偶然再会するところから話が始まります。結婚相手の伯父である怪しげな実業者〈中内栃造〉の仕事を手伝うことになった〈外岡〉は、その関係からアルネシア連邦と日本との戦後賠償の交渉に関わることに。来日したアルメニアの大統領〈エルランガ〉は、無類の女好きで、ファッションモデルの〈伊東さき子〉を見初め、さっそく肉体関係をもち、自国に連れ帰りますが、そこがエルランガの弱点だと知った〈外岡〉は、何が何でも有名になりたい、お金持ちになりたいという〈佐保子〉に知恵を授け、エルランガのもとに送り込むことを計画。同じく第三夫人の座を狙う〈さき子〉を蹴落とし、自らの野望を実現しようとする〈佐保子〉の立身出世の夢は、果たして成功するのでしょうか……。

 昭和41年/1966年11月、妊娠中に日本に一時戻ってきていたデヴィ夫人に対して、批判を前提としたような中傷、興味本位にプライバシーをほじくり返す記事が氾濫するなか、やはり『生贄』もその一種として発表された、というのは誰も否定できません。梶山さんや徳間書店は、これは特定の人物を描いたものではない、とさんざん強弁したんですが、多くの読者にデヴィ夫人をモデルにした小説だと思われたのは当然のことでしょう。そして、打たれても泣き寝入りせず、可能なかぎり反撃するというのが、デヴィ夫人の流儀だったようです。

 『生贄』が単行本化されて、しばらくたった昭和42年/1967年9月9日、デヴィ夫人は外人記者クラブで会見を開き、梶山さんと徳間書店、および「がんばれ、デビ夫人」の記事を掲載した『F6セブン』発行元の恒文社に対し、東京地検に告訴したことを発表しました。

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2018年11月11日 (日)

平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。

グリコ・森永事件を題材にした「週刊現代」の連載で犯人扱いされたとして、小説家の黒川博行氏らが発行元の講談社側に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(木内道祥裁判長)は11日の決定で講談社側の上告を退けた。名誉毀損などを認めて同社側に計583万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

――『読売新聞』平成26年/2014年11月14日「週刊現代で犯人視 講談社の敗訴確定」より

 高校の美術教師だった黒川博行さんが、第1回サントリーミステリー大賞に「二度のお別れ」を応募、最終候補に残りながら落選したのは昭和58年/1983年春のことです。翌年もまた同じように最終選考会で「雨に殺せば」が落選、しかし前年の作品を単行本化するという話が進み、昭和59年/1984年の夏すぎに、堂々と作家デビューを果たします。

 そのデビュー作『二度のお別れ』は、ちょうど世間を騒がせていた、のちに「グリコ・森永事件」と呼ばれることになる一連の事件のなかの、犯行手口の一部と酷似した描写があったものですから、俄然一般的にも興味を引かれ、8刷まで部数が伸びたと言われます。しかし、あまりにも現実の事件と似すぎているということで、10月のある日、兵庫県警本部捜査一課の警部補と、西宮署刑事二課知能犯係の巡査部長が、黒川さんのもとへ来訪。そのときの2人の刑事というのが、まるで生意気で礼儀を知らず、出版前に誰が読んだのかとか、トリックは自分で考えたのかとか、質問するだけしておいて、「先生が犯人やったら、ことは簡単に収まるのにねえ」と捨て台詞を残して去っていったらしく、嫌な思い出しかない、と黒川さんは回想しています。

 それから時が流れて12年後。平成8年/1996年下半期対象の第116回、黒川さんは『カウント・プラン』で、はじめて直木賞の候補に挙がりました。

 と、そういうデビューにまつわるあれこれだけでも、黒川さんは「犯罪でたどる直木賞史」のテーマにふさわしい作家だ、と言いたくなるところなんですが、もちろん話の中心はそこではありません。以降、『疫病神』『文福茶釜』『国境』と候補歴を重ね、いい線まで評価されながら落とされていって、『悪果』が候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)。デビューから数えて23年、しかしこの5度目のチャンスのときも、選考会は黒川さんに賞を与えませんでした。

 もはや次の機会があるとは思えなかったこのベテラン作家が、まさかの6度目の候補入りを果たすことになるのが、さらに6年半もたった第151回(平成26年/2014年・上半期)なんですが、6年も7年も経てば、人や状況はさまざまに移り変わります。黒川さんも例外ではなく、候補5度目と6度目のあいだの平成23年/2011年、「じつはグリ森事件の真犯人だった」と、かなり本気で取り上げられると、かなり本気で激怒して、その取り上げた相手の岩瀬達哉さんと講談社を向こうにまわし、名誉毀損とプライバシー侵害の訴訟を起こす、という大騒動がありました。

 ノンフィクション作家の岩瀬さんが『週刊現代』で連載した「かい人21面相は生きている」には、黒川さんも取材対象のひとりとして協力し、平成22年/2010年末ごろから都合3度、インタビューを受けたそうです。そのとき、岩瀬さんは「今度の記事を読まれると、不快な思いをされるかも」とか、「黒川さんを真犯人として書くと、うまく辻褄が合うんです」とか、そんなことを言っていたらしく、たしかに連載の結末、「スクープ ついにたどり着いた この男が「21面相」ではないのか」(平成23年/2011年10月8日号)と最終回の「スクープ直撃! あなたが『21面相』だ」(10月15日号)という記事を読んで、黒川さんは驚愕します。グリコ・森永事件の犯人のひとりだという〈浜口啓之〉なる仮名の人物が、自分がインタビューで答えたようなことを、都合よく編集されて語っていただけでなく、黒川さんの妻の妹の勤め先や、実妹の息子のことなどにも触れられ、またそれが事実とは異なっていたからです。

 あくまで仮名です。黒川博行が犯人だ!とは一言も書かれていません。なので黒川さんの名誉を毀損したわけではない、という考え方もありますが、黒川さんのほうはそうは受け取らず、講談社に乗り込んでいって説明を求めます。しかしラチが明かずに、『週刊文春』(10月27日号と11月3日号)や『週刊朝日』(10月28日号)に、岩瀬さんと講談社の対応を非難する手記を発表して反撃。すると講談社側は、連載はいずれ単行本にするつもりです、手記は書かないでください、提訴も勘弁してください、などと穏便なかたちで逃げようとしたものですから、黒川さんも軟化することはなく、けっきょく法廷で争うことを選択します。さらには連載中に、講談社の編集者の判断で、不正に黒川さんの住民票を取得していたことも発覚。怒りの火に油がそそがれます。

 平成23年/2011年11月10日、講談社、『週刊現代』編集長、岩瀬さんに対し、計3300万円の損害賠償などを求めて東京地裁に提訴し、合わせて講談社には、プライバシー侵害の件で550万円の賠償を求めます。それから法廷で争うこと約2年、平成25年/2013年8月30日に、被告側に583万円の支払いを命ずる一審判決が出ますが、被告側はただちに控訴して、争いは継続することに。

 その年の12月25日、東京高裁も一審判決を支持して、控訴は棄却されるのですが、引くに引けなくなったか、被告側はさらに上告。そんな折りの平成26年/2014年7月、黒川さんは『破門』で第151回直木賞を受賞すると、受賞第一作の『後妻業』での著者インタビューでは、

(引用者注:作中で描いた)弁護士の戦術については、自分がグリコ・森永(引用者中略)で裁判をしましたから、参考になりました」(『産経新聞』平成26年/2014年9月29日)

 と語るなど、もはや法廷闘争は終わった感をにじませていたところで、やはり11月11日、上告をしりぞける最高裁の判断が決定。黒川さんの勝訴が確定することになります。

 名誉の毀損にもいろいろなかたちがあるのでしょうが、なかでも「犯罪事件の犯人だ」と類推できる記事を書かれることは、そのことで社会的な評価が低下した、と見られるそうです。直木賞の場合は、それとは逆で、たとえば公式に最終候補に残っていないのに「○○氏は直木賞の候補にあがったことがある」という、たとえば荒木一郎さんや早乙女勝元さん、曽我得二さんなどに関する記述を見かけることがありますが、やはりそういう文章の裏には、この作家や作品の社会的な評価をなるべく上げたい、という思いが垣間見えるのは否定できません。

 その意味だけで言うと、名誉毀損の裁判の途中に、直木賞を受賞した黒川さんは、「社会的評価」と呼ばれる実体のとらえづらい風聞のなかの、プラスとマイナス、両者ごった煮の状況を経験したという、稀有な人だ、と言えるのかもしれません。

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2018年11月 4日 (日)

昭和53年/1978年・子供たちの麻薬所持事件を、やがて戯曲に仕立てた川口松太郎。

作家川口松太郎、女優三益愛子さん夫妻の次男、元新派俳優川口恒(三三)、三男の芸能マネジャー厚(二六)ら川口兄弟の麻薬不法所持事件を調べている警視庁保安二課と赤坂署は二十九日夜、同家の長女で新派俳優の川口晶(二八)(引用者中略)に任意出頭を求め、麻薬取締法、大麻取締法違反の疑いで取り調べた。調べに対し晶は、容疑事実を全面的に認めたため、同署は近く東京地検へ書類を送る。これで川口家では兄妹四人中三人までが麻薬類に手を染めていたことが明らかになった。

――『朝日新聞』昭和53年/1978年6月30日夕刊「川口晶も麻薬汚染 容疑、全面的に認める」より

 昭和10年/1935年、第1回直木賞を受賞した35歳当時から、川口松太郎さんの快活でざっくばらんな性格は、一部の人たちから慕われるいっぽうで、一部では強烈に嫌われていた、と伝えられています。そこがまた直木賞の、栄光一辺倒ではない歴史を象徴しているようでもあり、まさしく直木賞そのもの、と言っていい作家のひとりです。

 かくいうワタクシは、川口さんがいかに現役時代、老害と言われるほどに屹立していたのか、生きた時代が違うのでよくわかりません。筒井康隆さんの『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)に醜悪なかたちで登場する〈直廾賞〉選考委員のひとり〈鰊口冗太郎〉のモデルとして、はじめて知った口なんですが、〈鰊口〉の娘は〈鰊口早厭〉といい、離婚歴があり、交通事故を何度も起こし、麻薬中毒者の、まるで手がつけられないお騒がせタレント、というふうに描かれています。ちなみに、この作品の初出は『別冊文藝春秋』昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月です。

 ということで、昭和53年/1978年といえば、年齢でいうと78歳、晩年を迎える川口さんの身に思わぬ犯罪事件がふりかかってきた年に当たります。息子二人による麻薬取締法・大麻取締法違反と、そこから派生した一連の出来事です。

 川口さんは、いったい何人の女性と関係をもち、何人の子供を設けたのでしょう。正確な数字はよくわかりませんが、女優だった妻、三益愛子さんとのあいだには4人の子供がいました。そのうち、昭和41年/1966年に芸能界デビューした次男の恒さんが、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕された、と報道されたのが昭和53年/1978年5月22日のこと。追って6月6日には三男で、昭和46年/1971年にデビュー、しかし昭和51年/1976年に俳優を引退したのち、三浦友和さんのマネージャーをしていたという厚さんも、兄と同じ法律に触れて警察に連行されます。

 さらに、前年には酒と睡眠薬を飲んだ状態で、子供を乗せた車を運転し、ガードレールに突っ込んだ〈じゃじゃ馬娘〉こと、長女の晶さんもまた、麻薬なんか多くの芸能人がやっていることでしょ、でもだいたい興味本位の軽い遊び心よ、などとケロッとしながら、やはりLSDや大麻を所持。6月29日に東京地検に書類送致されることが決まり、川口一家にそそがれる世間の視線も、一気に熱がこもることになりました。

 芸能人の犯罪事件のなかには、いわゆる「二世もの」と呼ばれるカテゴリーがあります。著名な親のもとに生まれ、厳しく育てられたか甘やかされたか、どちらにしても飢えることなく成長するなかで、親と同じ芸能の世界で仕事をしはじめた子供の一部が、違法行為で逮捕されて、ゴシップジャーナリズム大騒ぎ。川口家の場合は、長男の俳優、浩さんまでもが、若いころはずいぶんひどい所業をやらかしていたのだ、両親の金品を黙って持ち出しては遊興費に変えていたし、無免許運転、スピード違反、酔っ払い運転、婦女暴行など、「ひととおりの悪業は経験した」(『週刊新潮』昭和58年/1983年8月31日号「愛人が「愛人の物」を持ち出したらどういう事になるか「川口恒」の場合」)などと書かれて、昔のことを掘り返されたりします。

 もちろん有名人である親のほうも、無傷では済まされません。芸能一家だとか調子こいて、一般社会の通念からかけ離れた生活を送るうち、善悪の判断ができなくなったんだろう、親の教育が悪い、親も同罪なのだから反省して償え……などなど、単純なバッシングが盛り上がっては、すぐに覚めていく、という伝統的な展開です。いまでもよく見かけます。

 その後まもなく、恒さんと厚さんについては東京地裁で公判がひらかれ、恒さん懲役一年・執行猶予三年、厚さん懲役十か月・執行猶予三年の判決がくだされます。もはや俳優を続けていく道の閉ざされた恒さんは、都内で喫茶店兼スナックを開店し、厚さんのほうは明治座の営業部に引き取られ、そこで更生を目指すことに。晶さんは、起訴猶予処分となって裁判はありませんでしたが、芸能界に未練はなかったらしく、ほぼ引退状態のまま、翌年には再婚。川口家薬物汚染の嵐のような騒ぎは、ほんの数か月で終わり、またたく間に過ぎ去っていきました。

 その間、川口さん自身はどうだったかというと、作家活動はやむことなく、昭和53年/1978年7月14日に行われた第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の選考会にも3期ぶりに出席しています。直接の面識があり、ある意味面倒をみていた若い劇作家のひとり、若城希伊子さんの候補作に対して「全員否決なのに驚いた。そんなに悪い作品とも思わない」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号)と、かなり甘い見方をしながら、谷恒生さんの大冒険小説に対しては「文学に昇華していないのが大欠点だ」(同)などと偉そうな評を書くという、いつもどおりの口さがない老作家を気取ったりしています。

 たしかに川口さんに関する文献を読んでいると、口は悪いかもしれないし、情実で選考しているかもしれない、それは間違いのないところでしょう。ただ、その反面、本人はいたって謙虚な人だという感を強くするのも事実です。「文学の流れが変って私なぞはもう過去の人間になっていた。」(『小説新潮』昭和54年/1979年12月号「すぎこしかた」)という言葉などは、ずいぶん正確な自己評価だと思います。主観的なものの見方を、いかにも客観視しているように表現できるところが、晩年まで保った川口さんの信条です。

 子供たちの麻薬に関する有罪判決についても、やはりそうです。嵐の渦中にいるときは、どうせ週刊誌や新聞が好き勝手に書くだけだから、とそのことに触れるのを避けていた川口さんでしたが、ゴシップ乞食がよそに移ったと見るや、これを題材にひとつの作品を仕立ててしまいます。『すばる』昭和55年/1980年3月号に載った戯曲「魔薬」。事件からわずか2年後のことです。

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2018年10月28日 (日)

昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。

田中清玄一派の再建共産黨資金局員曾木克彦に黨資金を提供したプロ作家同盟委員長藤森成吉、プロ文士林房雄こと後藤壽夫ら五名にかかる治安維持法違反事件はかねて東京地方裁判所潮裁判長、丸検事係で審理中であつたが八日午前十一時左の通り判決言渡しがあつた

▲懲役六年 曾木克彦(二九)

▲同三年 大村英之助(二九)

▲同二年 立野信之(三一)

▲同一年 後藤壽夫(三一)

▲同二年 藤森成吉(四二)

――『読売新聞』昭和8年/1933年7月9日夕刊「藤森成吉氏に懲役二年言渡し 林房雄氏は一年=シンパ事件」より

 早くに亡くなった作家が、もっと長生きしていたら直木賞を受賞していたのではないか。と、そんな妄想を楽しんだことが、直木賞のファンなら一度や二度はあると思います。いや、他の人のことはわかりませんが、ワタクシはあります。

 なかでも受賞の姿が濃厚に目に浮かぶのが、太宰治さんです。作品の内容、発表媒体の広がり方、作家的な履歴。昭和23年/1948年の段階ですでに、直木賞ど真ん中だった、と言っていいんですが、何よりも、受賞すれば確実に、純文学偏愛者たちから「何で太宰が直木賞なんだ!」と多くの異論が上がる。絶対に上がる。そこのところが何とも、直木賞ど真ん中です。だいたい檀一雄さんを候補に選び、受賞させるような賞が、太宰さんのことを無視できたとは思えません。

 小林多喜二さんはどうでしょうか。さすがにこれは無理筋でしょうか。しかし、案外、可能性がゼロだとあきらめるわけにはいかないのは、ひとえに第28回(昭和27年/1952年下半期)の受賞者に立野信之さんがいるからです。

 大正後半から昭和のはじめ、うなりを上げて文壇を席巻したプロレタリア文学の作家のうち、その多くは官警に捕らえられ、取り調べを受け、裁判を争ううちに、無産派文学からの離脱を表明、いわゆる「転向」することになりますが、いったいどうして、そこから直木賞の受賞者が生まれたりするのか。展開のなりゆきが難解すぎて、にわかには付いていけません。

 とりあえず立野さんの場合の、経歴的な事項から追うと、関東中学に在学中あるいは中退したあと、『文章世界』(博文館)や『秀才文壇』(文光堂)などに小説や詩を投稿、いくたびか入選したり、選外佳作で名前だけ載ったりしていましたが、その後、短歌の同人誌『曠野』をつくるとき、投書雑誌の通信欄に「同人募集」のお知らせを出したところ、申し込んできたのが山田清三郎さんです。この山田さんが、とにかく文芸編集、雑誌づくり、もしくは創作活動に積極的に突き進む人だったものですから、立野さんもつられて熱を上げることになります。

 すると、まもなく大正11年/1922年11月には、立野さんにとってはじめてとなる留置所入りを経験。自分も創刊に関わった、無産者文学に特化した商業文芸誌『新興文学』の主催で、ロシア革命五周年記念の文芸講演会「新興芸術講演会」を開くにあたり、牛込駅付近でビラ配りをしていたところ、いきなり神楽坂署に連行されたといいます。23歳のときでした。

 立野さんの『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年/1962年1月・河出書房新社刊)や、山田さんの残したプロレタリア文学勢に関する歴史と回想などを混ぜ合わせると、常にそこには警察に引っ張られる危険と隣り合わせ、それでいて、いったい何のきっかけで誰が検挙されるのかよくわからない混沌とした状況のなか、懸命に文学活動に励む立野さん、あるいはさまざまな作家たちの生きざまを目にすることができます。懸命だから何なんだ、それと文学とは何の関係もないじゃないか、と思わないでもないですが、自分の信じる方向性で小説を書き、評論をまとめ、雑誌をつくったりすると、違法判断に直結することがけっこうあった土壌のなかから、立野さんという作家が出てきたのはたしかなことです。

 昭和3年/1928年、山田さんに誘われるままに書いた「標的になった彼奴」が『前衛』に、「赤い空」と「軍隊病」が『戦旗』に採用され、小説家としての出発を切った立野さんは、隣人で友人だった橋本英吉さんの見るところ、呆気にとられるほどの外交的手腕の持ち主だった(『民主文学』昭和47年/1972年2月号「立野信之の憶い出」)……ということらしく、組織のなかに生きることでさらに頭角を表わしながら、いっぽうでは共産党の党員になって活動することには消極的な姿勢をとり、外郭的な文学組織に籍を置いたところから、作家生活をつづけることを模索します。

 しかし、共産党に対する時の政府権力の取り締まりは、スキがあればいくらでも解釈を拡大して共産運動の殲滅をめざすもので、人道的かどうかと言えば、非人道的なやり口には違いありません。昭和5年/1930年5月から6月にかけて、共産党に資金提供をしたという嫌疑で文化人や文学者がぞくぞくと検挙された「共産党シンパ事件」で、ついに立野さんの自宅にも特高警察がやってきます。立野さんやその仲間たちは、資金難にあった党の活動のために、蔵原惟人さん、永田一脩さんを通じて微額ながら援助しており、それがバレた。ということなんですが、たまたま立野さんの家に仮寓していた小林多喜二さんもいっしょに、杉並署に連行されてしまいます。以来2か月ほど各署の留置所を転々とさせられたのち、7月下旬に起訴。送られたのが、中野の豊多摩刑務所です。

 そこで立野さんは検事にすすめられて、天皇制を認め、これからは合法面で共産主義運動をやる、といった内容の調書に拇印を捺すことになり、翌昭和6年/1931年2月に保釈。昭和8年/1933年7月に懲役2年の判決を受けますが、控訴審でも共産運動からの転向を訴えた結果、同年12月26日、東京控訴院で、懲役2年ただし執行猶予4年、という判決がくだされます(執行猶予5年とする文献もあり)。その後の立野さんは、当局の弾圧とともに、プロレタリア文学運動全体が下火になっていくなかで、日本とは何なのか、そのなかで培ってきた日本人の特性とは何なのか、という方向に作家としての関心を向け、戦中、戦後とかなり地道な執筆活動に終始しました。

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2018年10月21日 (日)

平成18年/2006年・子猫を捨てていたことでフランス刑法下での告発が検討された坂東眞砂子。

直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。

――『毎日新聞』平成18年/2006年9月22日夕刊「子猫殺し 告白の坂東眞砂子さんを告発の動き――タヒチ管轄政府「虐待にあたる」」より

 新しいものが生まれては、すぐに廃れていく、その代表的な現象に、ネットの炎上案件があります。いや。マスメディア経由だろうが直接の伝播だろうが、「ニュース」と呼ばれるものは、たいてい似たようなものかもしれません。直木賞の受賞決定報道なども、半年前に誰が受賞したのか思い出せない、という感想をたびたび目にしますが、それは直木賞のせいでも、現代の出版界のせいでもなく、ニュースというものがもつ普遍的な特徴に由来しています。次々と出てきては次々と忘れ去られていく。ニュースとはそういうものなんでしょう。

 さて、直木賞と炎上、ということで思い出されるのは、いまから12年前の平成18年/2006年8月18日、直木賞を受賞して9年を経過した坂東眞砂子さんが、『日本経済新聞』夕刊の「プロムナード」という連載エッセイ枠に「子猫殺し」と題する原稿を発表した一件です。直後から、ほぼ批判的意見を中心とした大反響が沸き起こり、いまなおネット上にたくさんの痕跡が残っているほど、荒れに荒れました。

 そういうものを改めてたどっていると、激怒した猫好きというのは、時に凶暴化するものなのだな、という恐怖心ばかりが思い返されますが、大半の人が「あらゆる物事に対して慈愛をもつ」世界を望んでいそうなのに、その考え方にくみしない人間に対してだけは慈愛をもたなくていい、というふうに感じさせるところが、最も恐ろしいのかもしれません。

 話がズレそうなので炎上の恐怖はともかく忘れましょう。このとき、坂東さんの行動や、その行動を新聞に公表することで問題を提起しようとした姿勢に対して、さまざまな批判と反論が向けられたことはたしかですが、そのなかのひとつに「それって違法行為ではないか」というものがありました。おまえは犯罪者だ、ないしは、こいつは犯罪者だ、と糾弾する行為は意外に大勢の目を引きつけるのに役立ち、糾弾の火の手を焚きつけるのには効果的な手法のようです。

 エッセイによると、当時フランス領ポリネシアのタヒチに住んでいた坂東さんは、よくよく熟慮したうえで飼い猫に去勢手術を施さないことを決意。交尾した猫が子猫を生んだら、自分では責任をもって飼うことはできないからと、心を傷めながら家の裏に投げ捨てていたのだといいます。

 この内容と書きぶりに、ネットユーザーたちのボルテージ急沸騰。それを受けて、数日後には『日経』以外の各新聞がこの騒動を取り上げることになりますが、いくつかの記事は法律のことにも触れました。いわく、日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺すと1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる、タヒチに適用されるフランスの刑法でも、やはり違法と見なされる可能性がある、と。……おそらく、それを紹介することで、単なる感情論を超えた騒動であることを伝えようとしたわけです。

 さらにネットの盛り上がりのなかから、タヒチにある動物愛護団体「フェヌア・アニマリア」に、わざわざこの件を通告する人まで出現。すると、これを問題視した同団体では、地元の『ラ・デペッシェ』紙などに情報を提供、現地でもこれは違法ではないか、という動きに発展していきます。ついには、タヒチを統治するポリネシア政府が、坂東さんに対する告訴状を共和国検事に提出することを決めた、と発表されたのが9月13日。何に違反しているかといえば、フランス刑法第6巻第5題R655-1にある、家畜やペットをみだりに殺したり虐待したりすると罰金によって処罰される、という規定に触れるのだそうです。

 さあ大ゴトになってきた、政府まで動こうとしている、果たしてマサコ・バンドウはほんとうに法律に違反する行いをしているのか、と警察に呼び出されて、取り調べを受けて……といった顛末は、この年の『文藝春秋』12月号に坂東さん自身が寄稿した「「子猫殺し」でついに訴訟騒動に」で追うことができます。

 そこにも書かれていることですが、法的な見解の分かれ目は、日本にしろフランス圏にしろ、「みだりに」という言葉をどう解釈するか、ということになるでしょう。坂東さん本人は当然、理由もなく不必要に猫を捨てている、とは考えていません。しかし、親の猫に不妊手術を施すという「必要な」処置をせず、生まれてきた子猫を捨てるのは、あえて「不必要な」行動をとっているのだ、と言えなくはありません。

 日本でもタヒチでも、猫を捨てる人はたくさんいるのでしょうが、だれも自分がそういうことをしていると公言しないから違法と認定されないだけで、みずから発表してしまえば、取り締まりの対象になってもおかしくないでしょう。しかし、坂東さんが書くところでは、タヒチでは家で飼えない猫を捨ててしまったことで警察に逮捕される、というのはまず考えづらく、現に調書をつくったタラバオ警察署長のフィリップは、坂東さんの事情を聞いたうえで、エーテルを嗅がせてやるといいんだ、眠ったまま死ぬから、とアドバイスしてくれた、と言います。私だって捨てたくて捨てているんじゃない、という事情と心情は、「みだりに」殺しているわけではないものとして十分勘案される、ということです。

 結局のところ、政府の発表はその後うやむやのうちに消え失せます。坂東さんのもとにも告訴の件で連絡が入ることはなく、おそらく起訴も何もされませんでした。

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2018年10月14日 (日)

昭和61年/1986年・現実の犯罪にしか興味がない、空想の小説を書くのはアホらしいと語る西村望。

【高知】警察庁から凶悪犯総合手配で全国に指名手配中の殺人容疑者、(引用者中略)元鉱夫、西村楠義(五一)=写真=は十九日夜同県幡多郡佐賀町川内国鉄土讃線工事飯場で同県警に逮捕された。第三次手配七人目である。

西村は昭和二十四年一月愛媛県新居浜市角野町の前住所で妻キヨさん(三八)と長女の文香ちゃん(四つ)を殺し床下に埋めた。その後、長男の明君(一〇)二男の博君(六つ)をつれて坑夫生活をしていたが、博君が足手まといになるので同年二月高知県佐川町中山の谷間で絞殺して捨てた。さらに二十五年には自宅近くの斎藤アサ子さんをダイナマイトで爆殺した。

――『毎日新聞』昭和35年/1960年9月20日「「西村」逮捕 総合手配 妻子殺し」より

 10数年ブログ記事を書いていると、何度も取り上げることになる作家がおのずと出てきます。直木賞候補3回、西村望さんもそのひとりです。しかし、「犯罪でたどる直木賞史」というテーマに絶対外せない作家なのはたしかなので、いつもどおり芸がないですが、今回もまた西村さんの話です。

 直木賞で、犯罪そのものを題材にした小説が候補に挙がることは珍しくありません。第2回(昭和10年/1935年下半期)獅子文六さんの『遊覧列車』に収録されたいくつかの短篇をはじめとして、「推理小説」のジャンルに入るものは、ことごとくそうですし、いまの直木賞で犯罪にまつわる小説が主流を占めているのは間違いないところでしょう。はっきり言って「犯罪を描いた直木賞候補者」を取り上げていくだけでもネタは尽きないはずですが、なかでも西村さんは別格だと思います。

 ライター・文筆業の肩書をもちながら、物書きだけでは食べていけず、借金ばかりが増えていった西村さんの人生を変えたのが、犯罪です。犯罪事件との出会いです。

 ちなみに西村さん自身は犯罪者ではありません。本人いわく、小心者なので犯罪を起こすほどの度胸がないから、だそうです。ただひとつ思い出せる犯罪らしきものは、香川県高松からほど近くに浮かぶ故郷、男木島に暮らしていた昭和20年代後半ごろ、飲み屋の女と協力して前借詐欺を働き逃げてきた知人とその女を、小型の漁船に乗せて四国から逃がしてやったこと(『虫の記』所収「ぼくの唯一の犯罪」)だと言います。

 しかし何ごともなく平穏に過ごそうと思っても、どうしても人は犯罪にぶち当たってしまいます。かつて西村さんも警察の取り締まりにひっかかったことがありました。

 というのも西村さんは昭和32年/1957年、当時松本清張さんの「点と線」が連載されていた『旅』誌にルポ記事を投稿してみたところ、編集長の戸塚文子さんに評価され、いきなり1年間の連載を依頼されます。それがきっかけで連載終了後も、同誌の執筆陣のひとりとして文筆に励みますが、昭和36年/1961年、戸塚さんが退社してフリーとなると、西村さんは後任の編集長と喧嘩を起こして出入り禁止。お決まりの貧乏ライター生活に陥りますが、そんな西村さんのお得意先のひとつとなったのが、『笑の泉』別冊号です。泣く子も黙るエロの殿堂。そこに少し性的なエピソードを盛った読み物から、ノンフィクションから、あるいは小説から、いろいろ載せたそうなんですが、雑誌そのものが何度も猥褻文書扱いで警察の摘発を受け、発禁処分に。西村さんの記事も3回、処分対象となり、警察に出頭を命じられ、調書をとられたことがあった、ということです。

 そのころエロ雑誌の社長から、君ならいずれ直木賞ぐらいとれる、うちのようなエロ雑誌にばかり書いてちゃ駄目だ、と諭されますが(「子を捨てる」)、そこですぐに文芸路線に走る、という軽薄さがないのが、西村さんのいいところです。とうてい物書きでは生活できないからと故郷に帰り、土建業、野鳥園の経営、その他いったいどうやって妻と子供を養っていたのか、どうにかなっていたんでしょうけど、地元瀬戸内海放送のテレビ番組「土曜プラザ」の事件レポーターをやってみないかと声をかけられたのが昭和46年/1971年のこと。視聴者受けなどまるで眼中におかず、ズケズケとものを言い、気に入らないことはしない徹底したスタンスが味となって、長いこと起用されつづけました。

 しかしその間、昭和21年/1946年に結婚して以来、苦楽をともにした妻と昭和47年/1972年に死別。がっくり落ち込んで、酒を飲んでは吉村昭さんの小説ばかり読む生活を送ります。そんな折り、作家としてデビューした弟の西村寿行さんが、あれよあれよという間に出版界でのし上がり、人気作家、流行作家と華ひらくのを傍で見て、あんな下手くそな小説が売れるんなら俺もやってやろうかと思い立つと、少なくとも昭和50年/1975年ごろには、四国の鬼熊事件と言われた連続殺人事件の犯人のことを調べ、構想を練っていたと思われます。というのも、この年、佐木隆三さんが『復讐するは我にあり』を発表、新しい犯罪ドキュメント小説だと持て囃されるのを見て、まったく自分が考えていたのと同じ方向性の作品だったものですから、先を越されたと悔しがった、と回想しているからです。

 二番煎じだ、佐木隆三の真似ゴトだ、と言われるぐらいなら、いっそまた別の題材、別の内容を試してみる道もあったとは思うんですが、鬼畜と言っていいほどの所業をおかした人間に対する興味は膨らむばかり。もはや他人にどう思われようと構わない、という境地にあったことが功を奏したものでしょう。原稿用紙に向かいつづけ、一気呵成に書き上げた500枚ほどの作品が完成します。

 いったんは、伝手を通じて大手出版社の編集者に読んでもらったものの、酷評とともに返されるという不遇の目に遭いますが、それでもあきらめがつかない西村さんは、弟に頼る気はなく、本棚にあった長部日出雄さんの『死刑台への逃走』(昭和44年/1969年)という犯罪小説に目をとめると、奥付にあった版元の立風書房に、いきなり原稿を送ってみます。すると1週間ほどで同社社長の下野博さんから速達で返信が届き、そこにあったのは絶賛の文章。「これは直木賞ものの大変な作品だ」との表現もあったそうです。再婚した若い妻と二人で、泣きました。

 西村望さん52歳。『鬼畜 阿弥陀仏よや、おいおい』(昭和53年/1978年5月・立風書房刊)が刊行され、救いも何もない犯罪と人間の行動を冷徹に見つめる、暗黒犯罪事件専門の小説家がいよいよ世に姿を現します。

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2018年10月 7日 (日)

昭和58年/1983年・自分の名前や作品のことが詐欺行為に使われた向田邦子。

作家の故向田邦子さんと同姓であることを悪用して「オイ」だと名乗り、国際線スチュワーデスら八人から約三千万円を巻き上げ、指名手配されていた鹿児島県生まれ、住所不定、無職向田新作(三四)=写真=が九日、東京・高輪署に詐欺容疑で逮捕された。

向田の直接の逮捕容疑は、一昨年二月、東京都港区の一流ホテル内にある洋品店の店長A子さん(三二)に「結婚しよう」などと持ちかけ、二回にわたり計五十五万円をだまし取った疑い。

――『読売新聞』昭和60年/1985年2月10日「自称“向田邦子さんのオイ” 手配に観念、自首」より

 稀代のシナリオライター、向田邦子さんの名前は、仮に直木賞の受賞がなかったとしても、自然に伝説化したとは思いますが、直木賞という文学賞も、意外と大勢に知れ渡っています。直木賞きっかけで向田さんを知った人もいたはずですし、もとからドラマを観ていた視聴者にも、直木賞をとるなんてスゴい人だったんだ、と改めて見直した人はいたでしょう。

 まもなく向田さんが飛行機事故に巻き込まれたとき、彼女は直木賞に殺されたんだ、と嘆いた人がいたそうです。もちろんそんなことはありません。百歩譲って直木賞の影響があったとしても、直木賞をとったことで、それを見た人たちが向田さんに大量の仕事を依頼、忙殺されるなかで、台湾への取材旅行が組まれ、事故に遭った……要するに「直木賞のことをやたら特別視して、祀り上げようと駆け寄った人間たち」に殺された、ということになります。いつも非道なことをするのは人間であって、直木賞に責任を押しつけるのはまったく筋違いです。

 さて、それに比べればショボい犯罪かもしれませんが、ここに向田さんと同じ姓をもつ、とくに血縁関係のない一人の男性がいました。生まれは鹿児島ですが、大阪で育ち、市内の工業高校を卒業。宝石店などで働くうち、一つ年上のスチュワーデスと出会って妊娠させると、昭和47年/1972年に籍を入れることになります。21、22歳ごろのときです。

 仕事は貿易商と言っていたらしいですが、じっさいはほとんどカネがなく、持ち前の巧みな会話術でさまざまな女性に手を出しては、偽名や嘘の職業を騙ってお金をせしめるようなことを繰り返していたといい、そのことを知った妻はさすがにブチ切れて、家を飛び出すと、秋田の実家で子供を出産しました。

 ひとりになった男でしたが、まるで懲りることなく10人を超える女性に対し詐欺行為を重ねたそうで、ついには寸借詐欺2件、結婚詐欺1件、という内容で警察に捕まり、昭和49年/1974年に懲役6年の実刑判決をくらいます。その一年後に、正式に離婚が成立。

 満期でお務めを果たしたとすると、男が出所したのは昭和55年/1980年です。この年7月、向田邦子さんが直木賞を受賞したニュースも、娑婆のどこかで目にしたかもしれません。20代後半のほとんどを刑務所のなかで暮らし、多少は反省したものとは思うんですが、そこら辺の心境はまったく不明なので飛ばしまして、昭和56年/1981年から福岡市にマンションを借ると、近くのスーパーのなかに小さなブティック店を開店。いったいその資金はどこで調達したのか。それも不明です。いつもブランド品に身を包んで、店にはほとんど行かず、別れた妻から見聞していたスチュワーデスの生態を参考に、日航、全日空、外国航空、そこら辺りのスチュワーデスに次から次へ近づくと、事実と異なる自分の属性を語って相手を信用させ、ン万円からン百万円のお金を拝借しつづけます。相変らずの詐欺師生活です。

 ここで向田邦子さんが昭和56年/1981年に飛行機の事故で命を落としたのは、もちろんまったくの偶然でしかないんですが、そのころから男の手口が少し変わります。初対面の相手には、私は向田邦子の甥なんです、中央大の法科出身で、兄は検事、父は警察署長をしているんです、と自己紹介するようになり、一部のスチュワーデスのあいだでも男の存在はよく知られていた……ということを含めて、上記に挙げた男の来歴はほぼ『週刊新潮』昭和60年/1985年2月7日号「非公開捜査「向田邦子の甥」に結婚詐欺された女たちの「高いレベル」」から引き写しました。誰が書いた記事かわかりませんが、ありがとうございます。

 作家の名前が世間にひとり歩きすると、それを騙って悪さを企む人間が出てくる、といえば、海音寺潮五郎さんや村上元三さんも、知らないあいだに自分の名前を使われたことがありました。しかしそれは昔の話、こと直木賞に関していうと、時代が現在に近くなればなるほど、「有名になる」イコール「顔がマスコミでさらされる」というのが基本になるので、さすがに自分は受賞者本人だと嘘をつくのは難しくなります。そこで「親戚を騙る詐欺手口」が発生するわけですが、この男の場合、「向田邦子」の活用のしかたが絶妙というか悪質というか、単に信用度を上げるためだけでなく、会話を盛り上げる手段にもしていた、というのですから、なかなか罪深いです。

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