カテゴリー「同人誌と直木賞」の44件の記事

2018年4月22日 (日)

『日輪』…将棋の世界を描いた吉井栄治、何の奇跡か直木賞候補になる。

『日輪』

●刊行期間:昭和24年/1949年10月~昭和25年/1950年8月?(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 吉井栄治(候補1回 第23回:昭和25年/1950年上半期)

 昔の直木賞のことなど調べて何の意味があるんだ。と、よく言われます。

 いちいち意味を考えて、そこに価値があると判断してから動くような、スマートな生きかたがどうしてもできません。何の意味があるのか、自分でもいまだに不明です。

 ……ということを改めて思い返したのは、春日井ひとしさんが平成25年/2013年から作成されている冊子《昭和八年 文学者のいる風景》シリーズというものがあり、少し前に、その8編目に当たる『昭和八年の織田作之助・上 三高の青春』(平成30年/2018年1月)を頂戴したんですが、うはあ、細かいところまで調べ上げているぞ、さすがだなあ、と感嘆しながら読んでいたところ、織田作之助さんの高津中学時代の親友、吉井栄治さんのハナシがそこに出てきたからです。

 吉井さんという人は、直木賞の候補一覧の、第23回(昭和25年/1950年・上半期)のところに登場する人物ですけど、ふつうに暮らしていて、まず目にする名前ではありません。いったいこの人は何者なのか。候補作はどんな作品なのか。どうしても知りたくなって、やむにやまれず調べたことがあります。

 いまだったら、このブログに書くところですが、当時はまだ本体のサイトしかなかったので、「小研究」コーナーに「将棋・オダサク・直木賞~吉井栄治メモリアル」という調査ページをつくりました。かれこれ10数年前のことで、まだ『文学雑誌』に杉山平一さんが存命だったころです。問い合わせの手紙を送ってみたら、ご返信があったんですが、そこに杉山さんがこんなふうに書かれていたことを思い出します。どうして、いま吉井栄治などに興味をもったんですか――と。

 どうしてなんでしょう。答えは見つかっていません。だけど、いつの時代の直木賞でも、それに関わるあれこれを知るのは無上に楽しい、というたしかな実感だけはあります。それで十分といえば十分です。

 と、10数年前にやっていたレベルから、いまも全然成長していなくて、まあこれが自分の限界だから仕方ないんですが、吉井さんの候補作が載った同人誌『日輪』を、いま一度「同人誌と直木賞」のテーマのなかに置いてみると、他とは明らかに違う様相、性格、歴史的背景をもった一誌だと、これは断言することができます。

 直木賞が同人誌の、とくに東京以外で発行されている同人誌の掲載作を当たり前のように候補に挙げはじめるのは、昭和30年/1955年前後からです。ちなみに『文學界』で同人雑誌評がスタートしたのが昭和26年/1951年、『新潮』で全国同人雑誌推薦小説特集をやり出したのが昭和25年/1950年で、文芸出版社の同人誌に対する注目度が勢いよく増していた状況が、なぜか大衆文芸を標榜していたはずの直木賞にも波及したという、なかなか震える展開を見せた一現象ではあるんですが、『日輪』から候補が選ばれたのは、それよりもっと前の時代です。

 関西方面でこっそり出された、有名でも何でもないこの同人誌が、日本文学振興会の予選の人たちの知るところとなったのは、何の風が吹いたのでしょう。たまたまだとしたら奇跡に近く、やはりこれは当時、候補作選びの参考アンケートを依頼される立場だった藤沢桓夫さんが、推薦したのに違いない。可能性としては、それぐらいしか思い浮かびません。

 『日輪』は、そのころ芦屋市に住んでいた中野繁雄さんと吉井さんが、おそらく戦後に湧き上がったお互いの創作欲をぶつける場として創刊したものと思われる、ほんとうに小規模な雑誌です。じっさい創刊経緯は不明なんですけど、編集兼発行人は最初から最後まで中野さん、ただし創刊号のみ、編集部は吉井さんの自宅に置かれたようです。

 中野さんのほうはともかく、吉井さんは昭和14年/1939年に織田さんに誘われて『海風』に加わると、『大阪文学』(昭和16年/1941年~昭和18年/1943年)へと移り、戦後には、藤沢桓夫さんが中心となった『文学雑誌』(昭和22年/1947年~)に同人として参加、『文学雑誌』が休刊していた昭和24年/1949年から昭和25年/1950年のほんのいっとき、『日輪』を興して作品を発表しました。『文学雑誌』はまもなく復刊して、のちにまで残りましたが、『日輪』のほうはすぐにつぶれてしまった、と見られます。

 かたや、戦後ぐずぐずしながら昭和24年/1949年にようやく復活した直木賞ですが、復活の第1回(通算第21回)が富田常雄、第2回が山田克郎と、選考委員のお仲間か、ちょっと後輩ぐらいの、作家歴の古い人に贈られ、第23回(昭和25年/1950年・上半期)にいたってその路線がくっきり明瞭になってしまいます。「今さらか、みたいな人ばかりが受賞して、つまらないな」という感情は、いまの直木賞をリアルタイムで見ている人たちには共感できるものかと思いますが、当時もそういう批判が直木賞に対して結構飛びました。

 だけども、そういうなかで、吉井栄治という、世間でおなじみじゃない人を、しれっと候補に選ぶこの心意気。単に藤沢桓夫さんの(文藝春秋周辺における)存在感が、当時は尋常じゃないぐらい重かった、ということかもしれませんが、大衆文芸の新人を同人誌から発掘しようという風潮のまだ薄かった昭和25年/1950年に、それをやってのけた直木賞の姿を見て、ワクワクと心弾まない人がいるのだとしたら、そういう人はどうかしていると思います。

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2018年4月15日 (日)

『暖流』…新橋遊吉の受賞の影で、ひっそり徳島に帰った中川静子の、その後。

『暖流』

●刊行期間:昭和36年/1961年10月~昭和52年/1977年12月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 中川静子(候補2回 第52回:昭和39年/1964年下半期~第53回:昭和40年/1965年上半期)
    ※ただし第52回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 ああ、新橋遊吉さん。ついに帰らぬ人となってしまいました。

 新橋さんといえば、同人誌の作品で直木賞を受賞した数少ない体験者ですから、当然、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでは重要人物のひとりです。あまりに重要だったもので、『讃岐文学』のエントリーを書くときにさっさと触れてしまい、改めて語ることもないんですが、もう一誌、直木賞に関連した同人誌で、新橋さんと縁のあったものがあります。せっかくなので、今週はそれで。

 昭和36年/1961年に創刊された『暖流』は、徳島出身の貴司山治さんが主宰格となって率いた雑誌です。徳島から日本の文壇に通用する作家を育てて羽ばたいていってもらおう、というのを目的のひとつに掲げ、当時なかなかキテた新進の佃實夫さん、岡田みゆきさん、近藤季保さんなどの参加を見て、同人からの会費徴収は0円、掲載にかかる費用も0円、お金は全部、貴司さんが負担するという、丹羽文雄さんみたいな太っ腹なことをしていました。その創刊理念や発刊経緯を見てもわかるとおり、徳島ラブな心を芯にもつ、徳島人のための同人誌です。

 しばらくはそれで順調に号数を重ねていきますが、カネも払わず原稿だけを同人誌に書く、という構造が当事者意識の薄れにつながったものか、だんだん原稿の集まりが悪くなっていきます。これじゃいかんと貴司さん危機感を抱いて、同人たちに相談のうえ、ふつうの同人誌みたいに会費をとり、メンバーは徳島人だけで構成するという縛りもやめて、再スタートを切ったのが第6号(昭和41年/1966年1月)からでした。

 そこで新規に加入してきたのが、お隣り香川県で自前の同人誌をやっていた永田敏之さんや亀山玲子さんで、これはもともと『四国文学』を主宰していた佃さんが、亀山さんの筆力と情熱に感心していたところ、『暖流』の門戸が開かれたタイミングで、彼女を誘ったそうです。また、佃さんと永田さんは旧知の間柄でしたから、二人の加入は何の障害もなかったものと見られます。

 しかし、亀山玲子のいるところ、だいたい髪結いの亭主がくっついてくる……という法則が、あったわけじゃないんでしょうが、亀山さんの旦那、新橋遊吉さんは、妻が新たに入るという『暖流』の、同人の顔ぶれを見て、こんな立派な人たちがいる雑誌なら、おれも入りたいなあ、と口走ったとか何だとか。とはいえ、そのとき彼には『行人』に発表した「内輪外輪」と、『讃岐文学』の「八百長」ぐらいしか作品がなく、まだおれには『暖流』の仲間になるほどの資格はない、とあきらめますが、直後に「八百長」が第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補に選ばれたことがわかり、しかも誰もがびっくり仰天したことに、一発で受賞までしてしまいます。

 そういった縁で、新橋さんは『暖流』のほうにも「『暖流』の人びとと共に」(7号・昭和41年/1966年7月)というエッセイを載せ、あるいは佃實夫さんによる「東京例会の記――新橋遊吉祝賀会――」(同号)や「『八百長』出版記念会の記」(8号・昭和42年/1967年4月)などの紹介文が載り、祝賀ムードを『暖流』に送り込みます。かつて、直木賞と芥川賞ができた当初、どうせこんな賞はすぐにやめるだろうと憎まれ口を叩いて菊池寛さんにムッとされた、『暖流』の親分、貴司さんとしても、やはりこうして縁のある人が直木賞受賞でパーッと騒がしくなることには、ご機嫌だったようです。

「受賞式の翌日の夕刻、内幸町もとのNHKの前あたりの地下レストランで「暖流」主催の受賞記念パーティが東京在住の同人によって催された。(引用者中略)新橋遊吉は名前を変え芥川賞を狙え、次は亀山が直木賞を獲れ。貴司先生がいったのか、佃氏がいっているのか、ビール瓶とコップのかち合う音とともに聞えて来たのがまだ耳もとに残っている。」(『讃岐文学』25号[昭和49年/1974年11月] 永田敏之「なつかしい貴司先生」より)

 と、いや、これは佃さんのテンションが上がったのかもしれませんが、貴司さんがこの受賞を歓迎したのは次の文章を読んでも間違いありません。

「暖流の会の改組は成功だったようだ。

新しい会員がいろいろはいってきて、それが新しい血液となり、徳島の同人の創作慾を刺戟もしたらしい。

ことにそういうイミの一と騒ぎが生じたのは新橋遊吉君の直木賞受賞事件だった。」(『暖流』7号[昭和41年/1966年7月] 貴司山治「暖流雑記」より)

 ほとんど忘れられたプロレタリア作家、と見られておかしくなかった貴司さんが、ふるさと徳島のために私財を投じてつくった雑誌が、こうやって盛り上がって一つの成功を見たのですから、よかったよかった。とホッとしたのも束の間、創刊時から『暖流』を支えつづけてきた佃さんが、自作『阿波自由党始末記』について貴司さんから酷評のような私信が送られてきたことにブチ切れて、10号の編集途中で憤然と脱退。別のハナシによれば、「○○はおれが育てた」ふうの偉そうな姿勢をとりつづける貴司さんの傲慢さに耐えられなかったのでは、ともいいますが、ともかく10号以降は、有力な同人がごっそりと抜けて、なかなか苦しい同人誌活動となり、昭和48年/1973年11月、貴司さんが亡くなると、もはや立て直す余力もなく、昭和52年/1977年に3年半ぶりに第17号を出して、おそらく誌命も尽きたかっこうです。

 などと、『暖流』の盛衰の流れを追っている場合ではありません。新橋さんの直木賞受賞の盛り上がりとは別に、やはり『暖流』といえば、中川静子さんが二期連続で候補入りした話題に尽きるでしょう。他人の不幸を見て喜ぶ人たちにとっては、きっと好物にちがいない、いわゆる文壇残酷物語的な、直木賞史上でも有数の悲哀に満ちた中川さんのエピソードについては、後半で触れてみようと思います。

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2018年4月 8日 (日)

『無頼』…同じ回で直木賞の候補になった草川俊と福本和也、二人で組んで同人誌を出す。

『無頼』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和43年/1968年5月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回、第40回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 直木賞の候補一覧を見ていると、同じ回の候補に選ばれやすい作家ペア、というのが存在します。

 いちばん多いのが、61回、62回、65回、71回と、藤本義一さんが候補に挙がった4回すべてで、ともに候補になった阿部牧郎さん、というペアです。あまりにバッティングしすぎて、当時、二人のことを好敵手として比較する雑誌の記事まで書かれました。

 その他、同じタイミングで3度、候補に挙がったペアには、海音寺潮五郎×濱本浩とか、田岡典夫×神崎武雄とか、長谷川幸延×中村八朗とか、古川薫×もりたなるおとか、連城三紀彦×高橋治林真理子×落合恵子乙川優三郎×宇江佐真理東野圭吾×真保裕一、東野圭吾×伊坂幸太郎葉室麟×道尾秀介……といった組み合わせがあり、これが2回となると、さらにその数が急増します。今日は、たまたま直木賞で同じ回に候補になった、というそんな縁で結ばれた人たちの、同人誌にまつわるおハナシです。

 およそ同人誌が結成される背景といえば、「同じ学校に通っている」「同じ地域に住んでいる」というのが二大定番でしょう。そこにあとから「同じ小説教室に通っている」というのが三つ目の定番として加わりますが、マイナーな経緯のひとつに、同じ文学賞に関係した人たちの集まり、というのがあります。たとえば『小説会議』などがそうです。

 しかし、同人誌をつくりました、なかから直木賞の候補者が出ました、という順番はよく見かけますが、まず直木賞の候補になり、それがきっかけで同人誌結成の話が持ち上がった、などという例は、かなり稀だと思います。いや、この『無頼』の他にそんな例があるんでしょうか。

 『無頼』は、福本和也さんと草川俊さん、二人の作家によってつくられました。きっかけとなったのは正真正銘、直木賞……というかそれを取り仕切る文藝春秋の計らいだったと伝えられています。

 お互いに、二度ずつ直木賞の候補になってまもなくの昭和35年/1960年ごろ、文藝春秋がオール新人杯受賞者や直木賞の候補者などに声をかけて、懇談会を開いたことがあったんですけど、そこで隣の席になったのがご両人。後日、二人で酒を飲む機会を得たところ、福本さんから強引に同人誌の結成を誘われたのだ……と、『大衆文学研究』に(K)さん、おそらく草川さんが書き残しています。

「三人ぐらいで同人雑誌をやらないかといい出した張本人は、福本和也である。相談を受けたのは草川俊だった。この二人は全く未知の人間だった。どうやら意識の中に、お互いの名前を刻みつけたのは、三十三年の上期と下期に、つづけて同じく、直木賞候補に名を連ねて以来のことだろう。

(引用者中略)

草川は、実のところ福本をよく知らないので、半信半疑でいたが、思いがけず福本が積極的に動き出し、草川が引きずられる恰好になった。あとで草川が感心したことだが、若いからという理由ばかりでなく、福本は全てに積極的で、行動派の人間である。」(『大衆文学研究』7号[昭和38年/1963年7月] 「大衆文学・同人誌めぐり(その五) 無頼の六人」より ―署名:(K))

 創刊は昭和36年/1961年11月で、誌名の『無頼』は、『オール讀物』編集部の某氏にも相談して決まった、ということですから、商業出版の世界に片足を突っ込んだような成り立ちです。

 草川さん47歳、対して福本さん33歳。年齢層も経歴も作風もほとんど交わるところのない二人が意気投合して手を組み、数年、同人誌を出しつづけたのは、いかなるタマシイの交流があったものか。うかがい知れませんけど、明らかに雑食の傾向が強いと言っていい直木賞予選の特徴が、このときばかりはうまく働いたものでしょう。

 草川さんは『東北作家』や『下界』などで長く同人誌経験を積んだ人でもあります。年もくっています。そんなことから彼が、編集から経理処理などもろもろの雑誌づくりを担当、おかげで8年ぐらいは続いたようです。

 他の同人には、ゴルフ雑誌の編集者だった文芸評論の田野辺薫さん、サンケイ新聞に勤める戸山草二さん、花や虫や貝殻の収集・取引で生活している二宮泰三さん、電通の名古屋支社に籍をおく朝倉文治郎さんなどがいて、それぞれの文業をとらえようと思っても、なかなか困難が伴いますが、草川さんと福本さんに関しては、この『無頼』を十二分に活用し、次の新たな展開につなげることに成功しました。

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2018年4月 1日 (日)

『風群』…純粋芸術を指向する文芸同人誌が、いきなり直木賞のほうに巻き込まれる。

『風群』

●刊行期間:昭和42年/1967年4月~昭和50年/1975年9月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 原田八束(候補3回 第58回:昭和42年/1967年下半期~第60回:昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

 今日は一日、うちのサイトの本体で「本屋大賞のすべて」というコンテンツを出しています。せっかくなので、ブログでも「同人誌と本屋大賞」みたいなことが書ければ美しいな。……とは思ったんですが、何といっても同人誌と本屋大賞では、まるでソリが合わないと言いますか、同人誌と最も離れたところにある文学賞、と言ってもいい本屋大賞を、このテーマで語るのはいくら何でも苦しすぎます。やはり今週も、最後まで直木賞の話題で押し通すつもりです。

 さて、50年ほどさかのぼって昭和42年/1967年、文学に取り憑かれた40代のひとりの男が、神戸の地で勢いよく立ち上がりました。同人誌『風群』の創刊です。

 集まった同人および会員は、合計34人。同人誌を、自己表現の研鑽の場にしていこうという人、あるいはスキあれば文壇進出を狙っている野心家、はたまた、ただ小説や評論を読むのが好きだから参加してみました、というけなげな読書家まで、来る者は拒まずの姿勢で、同人誌経営という荒波に果敢に挑みはじめたその男とは、だれでしょう。松田達郎さんです。

 ご出身は京都府ですが、昭和13年/1938年に彦根高商を卒業すると、住友銀行に入行。その後、三菱電機に移ってからもメキメキと働き、やがて松田土地建物や住友建設工業の設立に関わって、それぞれ社長に就任。という、ビジネスパーソンとして大活躍した人ですが、そのいっぽうで文学の世界にもハマり、自身でも小説だの何だのを書いていました。

 しかし、文学とは特定の好事家だけがひっそり愛でるようなものではない、広く一般の人たちが日常生活のなかで文学精神をはぐくみ、触れられるようなものでなければ……という強い考えがあったようで、『風群』の運営に際しても、まずはその立脚点から外れないよう、書きたい人も読みたい人も、みんな仲間だ、何だったら文学に関心があり、自分の文学ゴコロを高めていきたいと向上心をもつ人間は、誰だって仲間だ、というような熱い思いで雑誌づくりに乗り出します。

 目指したのは「純粋芸術を指向する作品の創造」(『読売新聞』昭和43年/1968年6月2日「われらのグループ」)。ということで、創刊号に小説5編、評論2編、詩3編、随想4編を掲載して以来、一年に二冊、三冊のペースで刊行を続けますが、なかでも、昭和39年/1964年に群像新人文学賞に当選していた評論家、松原新一さんが同人に加わり、その松原さんが評論はもちろん、小説や詩などを発表した、という点に注目が集まるところでしょう。

 ところが、スタートして間もなく、この雑誌は松田さんの思惑とは微妙に異なる事態に遭遇することになってしまいます。

 同人の原田八束さんが発表した「風塵」(第2号)が、『文學界』同人雑誌評で好評裡に扱われてベスト5入り。次の号の稲垣麻里さん「序章」(3号)は、これもまた高く評価されて『文學界』昭和43年/1968年1月号に転載されることに。……と、ここまでは、順調な運びです。

 これがそののち、原田さんの「風塵」が芥川賞じゃなくて直木賞の候補になり、稲垣さんにお声がかかったのが純文芸誌じゃなくて『小説現代』だったところから、何だか不穏な空気が漂いはじめます。

 松田さんには、同人誌はそれぞれが孤城を守るのではなく大同団結していかなければいけない、という持論があったそうなのですが、どうも原田、稲垣両同人への、急激な注目の集まり方に、松田さん自身、不快な経験をさせられたことが、その信念を固める一要因となった様子なのです。

 ある座談会での発言を引きます。

「極端にいえば、たとえば北川(引用者注:北川荘平さんが直木賞をとられた。直木賞作家になっちゃった、こういう仮定がありますね。そうすると、北川さんが直木賞作家になられたという底辺には、『VIKING』の異常な熱意と、異常な支持と異常な努力が積み重なって一人の作家が生まれるわけですね。それが生まれた瞬間から、大きな出版社が独占してしまうということ、これが現実なんです。それに対してわれわれ(引用者注:同人雑誌の側)は別に還元を要求はしないけれども、しかし、それでいいんだろうか。

(引用者中略)

ぼくらでも、早い話が、非常にむかつくのは、たとえば一人ちょっとこう、ピュッと顔を出すと、パーッと出版社から直通でまず発行所へ来よりますわ。そこまではよろしんやけども、あとはもう飛ばしてしもうて、本人に直結でパパパーッとこう、マスコミの線に乗せてしまいますわね。そういう非礼ですな、非礼を防止し、してやらんことには、あまりにも大出版社が気まますぎますね。」(『関西文学』昭和44年/1969年1・2月合併号 「座談会 同人雑誌を語る」出席者:北川荘平、松岡昭宏、松田達郎、尾下欣一、中川九郎、横井晃、司会:八橋一郎より)

 具体例は出していませんが「ぼくらでも、非常にむかつく」という表現をしています。出版社のやっている文学賞が、同人雑誌の人たちから見て、ある面で憧れの対象でありながら、ある意味で憎悪されているのは、このシステムを「非礼」だと見る感覚が、当時まだ、同人雑誌文化のなかに残っていたからかもしれません。いま、同じことを「非礼」と感じる人が、果たしているんでしょうか。

 そう考えると、純粋芸術を目指してやっている、と言っているのに、芥川賞ならともかく、そうでもない奴が、勝手に目をつけて、勝手に候補にして、勝手に落選させるというのは、非礼・オブ・非礼でしかない。と、直木賞のその立場が極めて悪く映ったとしても文句は言えません。しかも、二期も連続して、この雑誌から候補作を引き抜いているのですから、やりもやったり直木賞め、という状態です。

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2018年3月25日 (日)

『立像』…「森敦の手にかかれば直木賞も芥川賞も間違いなし」伝説の、一挿話。

『立像』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~平成13年/2001年6月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 今官一(候補1回+受賞 第34回:昭和30年/1955年下半期~第35回:昭和31年/1956年上半期)
    ※ただし第35回の受賞作は単行本作品によるもの

 昭和20年代後半、〈カネはないが言うことはデカい男〉こと森敦さんは、東京の東大久保に下宿していました。その家には、日常生活に疲れ果てた人たちが、夜な夜な集結し、目を輝かせて文学談義に明け暮れていたそうですが、当の森さんが山形県の月山山麓に引っ越すことになったため、仲間たちは突如、行き場をなくしてしまいます。

 そのひとりが、毎日新聞社に勤めていた柴田四郎、筆名・斯波四郎さんです。どうにも寂しさに耐えきれず、自分で同人雑誌をつくってしまおうと思い立ち、森さんの他、今官一、河北倫明、島尾正、島田家弘、藤田博司、山内豊喜といった人たちを編集同人にして『立像』を創刊します。費用は斯波さんが全額を負担するという、もう心の寂しさがよくわかる成り立ちの雑誌でした。

 そこから斯波さんが代表として発刊した2年半、第7号までの歴史のなかで、最大にして奇天烈極まりない事件と言われたのが、今官一さんが第2号に発表した「銀簪」の、直木賞への候補入りです。つづいて今さんは、まず売れないのを承知のうえで芸術社から刊行した作品集『壁の花』が第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞する、という直木賞の振り切った天然ぶりに見事にマッチしてしまいます。

 何といっても、『立像』のメンバーがメンバーです。このような同人雑誌から、まず最初に直木賞のほうの受賞者が出てしまった、というのは、いま考えても痛快このうえありません。

 いっぽう、読みづらくて難解な作風、と言われた斯波さんのほうは、それでも引き続き読みづらくて難解な小説を書きつづけましたが、多少は読みやすい部類だという「山塔」が『早稲田文学』に載り、今さんの直木賞から遅れること3年、首尾よく第41回(昭和34年/1959年・上半期)の芥川賞を受賞。寂しい孤立から一転、もう同人誌をやっているどころではなくなって、自然と『立像』は休刊状態に入ります。

 と、ここで終わっていたらどうなっていたでしょう。「芥川賞の受賞者が出ると、その同人誌はだいたいすぐつぶれる」という都市伝説を補強する、恰好の事例になったかもしれません。しかし世の中そう単純なものでもなく、斯波さんのあとを継いで『立像』を続けていこう、と手を挙げる勇敢または無謀な男が登場します。桂英澄さんです。

 話によれば、もともと桂さんは、お互いに太宰治さんの信奉者、という太い(?)糸で結ばれた今官一さんの誘いに乗って、『立像』に参加。同誌の精神的支柱だった森敦さんとは、会ったことはなかったけれど、『立像』をきっかけに手紙でやりとりするうちに、その深淵な……ぶっちゃけて言うと、なまじの頭では理解の不能な文学理論に、すぐさま膝を屈することになり、尊敬の意を表します。森さんが山形を引き払って東京に戻ってくる、と聞けば、いろいろつてを頼って、森さんの働き先を探してまわるなど、人のよさもバツグンだった桂さんは、森さんからも大いに愛され、第二次『立像』をすくすくと育てていきました。その経費、運営費などに、桂さん、かなりお金をつぎ込んたとも言います。

 その当時、同誌の例会はどんな様子だったか。昭和46年/1971年から『立像』に参加した境経夫さんが回想しています。境さんは、以前に紹介した今官一さん主宰の同人誌『現代人』への参加経験もあったため、両者のことを比較しながら、こんなふうに語ります。

「今先生主宰の「現代人」の例会は、二の橋の先生宅の狭い茶の間で畳に座布団という、ごく家庭的な雰囲気の中でだった。「立像」の当初の同人で直木賞作家の今先生は、合評のやりとりに時たま言葉を挟む位だったが、書き手にとってはどんな作品も一期一会のものだと、訥々と説いたりもされた。(引用者中略)

一方、駅前の喫茶店での「立像」の例会は軽食に珈琲など啜りながらの同人諸氏の談論風発という形で、「現代人」とはまるで別世界のように明るかった。桂さんは当然ながら司会と一座のとりまとめをされていたが、歯切れのよい批評の後に、作者がそれからどう考えればよいかというアドバイスが繊細に裏打ちされていた。」(『立像』60号[平成13年/2001年6月] 境経夫「在りし日の記憶――桂先生と私」より)

 今さんが中心にいると重い、対して桂さんが取り仕切ると場が明るくなる……。『立像』がぎりぎり21世紀の平成13年/2001年まで続いたのは、桂さんの献身と人徳があったからだと、言ってしまっていいでしょう。

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2018年3月18日 (日)

『瀬戸内海文学』…没後の小林実に光を当てたのは、ふるさと山梨県。

『瀬戸内海文学』

●刊行期間:昭和30年/1955年2月~平成8年/1996年4月?(41年)

●直木賞との主な関わり

  • 小林実(候補1回 第38回:昭和32年/1957年下半期)

 作家への光の当て方として、「地元出身の作家」という方法が存在します。そして、そこには、かなり不思議な臭味が漂っています。

 こういう取り上げ方は、21世紀の現在では、ほぼ無条件で許容され、生まれ故郷やゆかりの土地、いっとき育った地方などがあれば、積極的に作家や作品と結びつけて宣伝に励む、というのは当たり前です。特別、だれかに危害を加えるわけでもないので、お子様にもおすすめできる安心・安全の地方振興策として華やいでいます。いや、現在に限らずとも、昔からずっとそうだったじゃないか、と言われれば、たしかにそうかもしれません。

 それを「臭味」などと呼ぶと、語弊がありそうですけど、そこに直木賞や、もうひとつの文学賞が関わりはじめると、とたんに味わいが変わるのはたしかです。「直木賞をとった名作」とか「直木賞をとった素晴らしい人」とか、そういう表現だけでも、如実にうさん臭さがあるのに、「直木賞受賞者を生んだ○○県スゴい」とか、「ここ数年で○○人もうちの県から直木賞が出ている」とか、そういう煽り方をされると、ちょっと腰が引けてしまいます。

 たくましい郷土愛が、直木賞の「実態や実状はさておいての、知名度とブランド力の高さ」とドッキングしたときに起きる、微笑んだほうがいいのか、シラけても構わないのか、判断に苦しむこの現象。多くの人がそれで元気になったり、張り切ったり、お金が動いたりするんだから、文句いわずにそっとしておきたい……とは思いますが、少なくとも直木賞の特性のひとつとして、見過ごすことのできない社会的な様相です。

 と、だらだら書いてきたのは他でもありません。今週触れようと思った同人誌『瀬戸内海文学』について、正直あまり知っていることがないからです。

 戦後の昭和20年代、岡山県に住む文学愛にあふれた人たちが盛り上がってできた岡山県文学連盟という組織があり、そういうなかから中務保二さんあたりが中心となって『山陽文学』が創刊されたのが昭和29年/1954年のことでした。そこから枝分かれしたか、あとを継いだか、一部の同人が昭和30年/1955年に同人誌『瀬戸内海』を立ち上げることになり、40円の定価をつけて500部ほど刷って、岡山や倉敷の書店に置いてもらったところ、またたく間に全部売れてしまう! というロケットスタートに成功します。第2号から誌名を『瀬戸内海文学』とし、以来、こつこつと誌歴を重ねて、ン十年。地域で愛される同人雑誌に育っていったことでしょう、おそらく。

 岡山の同人雑誌、というと、これは無数に存在するでしょうが、下江巖さん、右遠俊郎さん、小野東さんといった錚々たる(?)メンツを生んだ『遠景』、赤木けい子さん主宰の『真昼』などが、ちょうど昭和30年代、芥川賞が同人雑誌界に対しても歓迎ムードを醸し出していたころに岡山でブイブイ言わせて、よく注目されていました。そのなかで『瀬戸内海文学』がどういう位置づけを持っていたのか。ワタクシの知るところはありません。

 そこに『瀬戸内海文学』第3号に載った、小林実さんの「白い太陽」が第38回(昭和32年/1957年下半期)直木賞の最終候補に選ばれました。正直、これは文藝春秋の下読み編集者の、ナイスな選択だったと思います。

 敗戦から10数年を経て書かれたこの作品も、これまで何度か触れてきた「戦争中や戦争直後に、戦地にいた人たちのドラマ」を描いたものですが、魅力的な要素を散りばめているおかげで、深刻ぶった鈍重さを感じさせません。昭和20年/1945年8月15日、中国大陸の張北の地で敗戦を知った医師、瀬崎俊作が、身重の妻、絹江とともに、ふるさとの岡山県白石島に帰るため、群盗や匪賊の出没するというトロン砂漠(多倫高原)を越えて承徳へ、そこから列車に乗って錦州へ、と移動する引き揚げの道のりが終盤まで描かれます。

 この瀬崎が単なる医師ではなく、戦時中には特務機関から命を受け、何人もの人間を死に送り込んできたスパイの元締め役だった、という話を最初に明かし、身もとがバレれば無事ではすまない、その緊張感を演出。また、張北で瀬崎の知り合いだった牧場経営者、筑波一家の娘、久美子を、道中なにくれと瀬崎やその妻に遭遇させながら、男女間に発する緊張感も高めていく、という心にくさです。

 作者の小林さんは、直木賞の候補にあがったあとに、いろいろ公募の賞にも応募して、昭和34年/1959年には講談倶楽部賞を受賞しました。それもうなずけるうまさが、「白い太陽」を読んだだけでも感じます。

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2018年3月11日 (日)

『小説と詩と評論』…木々高太郎がいてもいなくても、直木賞を彩ってくれた、そのしぶとさ。

『小説と詩と評論』

●刊行期間:昭和38年/1963年3月~(55年)

●直木賞との主な関わり

  • 諸星澄子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)
  • 藤井千鶴子(候補3回 第37回:昭和32年/1957年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第51回以外は他の媒体に発表した作品による候補
  • 津田信(候補6回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
    ※ただし第52回以外は他の媒体に発表した作品による候補
  • 浅田晃彦(候補1回 第60回:昭和43年/1968年下半期)
  • 加藤善也(候補2回 第67回:昭和47年/1972年上半期~第69回:昭和48年/1973年上半期)

 これを「不幸」と言っていいのかどうか、よくわかりませんが、昭和38年/1963年に創刊して以来、やたらとたくさんの直木賞候補作を出し、いまもなお、かなり刊行の頻度を絞りながら誌命を保っている『小説と詩と評論』は、幾度も『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれるような小説を掲載しながら、推薦作として同誌に転載されたことは一度もなく、また芥川賞にもまるっきり相手にされませんでした。なぜでしょう。あるいはこの雑誌を主宰した木々高太郎さんの祟り、なのかもしれません。

 木々さんの祟り、というより、木々さんに対して憎悪や嫌悪感をもっていた人たちの恨み、かもしれませんが、とにかく木々さんは、人の言わないことを堂々と主張したうえで論争・闘争に持ち込むのが大好きな人でした。当然、敵も多くて、しかも「敵をつくることを恐れるな。十人の敵ができれば、かならず十人の味方を得る。逆に十人の敵をつくるまいとすれば、十人の味方も失う」といったような信条を繰り出す、強靭なハートをお持ちだった、というのですから手に負えません。

 これまでもそんな話ばかり書いてきたので、また繰り返すことになりますけど、戦後に責任編集の一部を受け持った『三田文學』では、ここから芥川賞や直木賞の候補に挙がる作家を出していきたい、あわよくば受賞する人材も出していきたい、と高らかに宣言。じっさい、そのとおり実現させ、同時にまた敵をつくります。

 昭和37年/1962年1月には、伊藤桂一さんが第46回の直木賞を受賞。このとき、木々さんは選考委員をしていましたが、なにしろ伊藤さんはオモテ文壇はもちろんのこと、地下文壇……いや、同人誌界隈にも広く知り合いの多い人でしたから、祝賀パーティーにも種々もろもの顔ぶれが集まったそうです。木々さんもそのひとりです。

 その席で、だれかが「また同人雑誌やりたいなあ」と、つい声に出してしまったのがきっかけとなり、聞きつけた木々さんが、そうだ、やれやれ、おれが支援するから、とけしかけたところから、森田雄蔵、青木徹、伊東亨、城夏子、藤井千鶴子、渡辺祐一の6人が中心となって構想を練り、雪華社を発行所として昭和38年/1963年の創刊にこぎつけます。

 創刊号の同人名簿に名前をのこした人数、ざっと60人。なかには、これがはじめての同人雑誌経験、という人もいたとは思いますが、大半が、これまでも他のグループで、おのおの抑えきれない文学衝動に身を焦がしていた面々です。

 たとえば、木々さんの推輓で『三田文學』に作品を掲載していた藤井さんや渡辺さんは、そのまま木々さんを師と仰いで『小説と詩と評論』の中核メンバーになった人たちで、うちのブログでも何度か触れてきました。のちに直木賞の候補になる諸星澄子&加藤善也の夫婦は、もとは『文学四季』の同人だったところから、こちらに参加した人たち。夫のほうはともかく、妻の澄子さんは、それで運のめぐりが良くなったか、直木賞の候補に挙げられ、職業作家の道を切り開き、主にジュニア小説の分野で、超絶な売れっ子になっていきます。

 浅田晃彦さんは、戦前、慶應義塾の学生だったころに、医学部の助教授だった木々高太郎=本名・林髞の生理学の講義を受け、医学のことだけじゃなく文学について議論を交わす師弟の間柄だった、という古くからの知り合いですが、全国的組織をもつ『作家』の同人として、医師をやりながら小説を書いていました。

 いったい、どこに共通点があるんだ、という感じのバラバラな仲間たちです。こういう団体が、ひとつにまとまったかたちで船出し、刊行が続いていったのは、それだけ主宰・木々さんに求心力があったものかと思います。

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2018年3月 4日 (日)

『文学者』…直木賞&芥川賞の、両方で候補になる作家がぞくぞくと。

『文学者』

●刊行期間:昭和25年/1950年7月~昭和49年/1974年4月(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 広池秋子(候補1回 第31回:昭和29年/1954年上半期)
  • 武田芳一(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 瓜生卓造(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第38回:昭和32年/1957年下半期)
    ※ただし第38回は単行本作品による候補
  • 津村節子(候補3回 第41回:昭和34年/1959年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
  • 小堺昭三(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 林青梧(候補2回 第46回:昭和36年/1961年下半期~第63回:昭和45年/1970年上半期)
    ※ただし第51回と第63回は単行本作品による候補
  • 福井馨(候補1回 第49回:昭和38年/1963年上半期)
  • 太田俊夫(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)
  • 安達征一郎(候補1回 第70回:昭和48年/1973年下半期~第80回:昭和53年/1978年下半期)
    ※ただし第80回は単行本作品による候補

 これも、言わずと知れた大雑誌です。うちのブログでも何度も触れてきましたし、とくに付け加えるようなことはありません。

 だけど、「同人誌と直木賞」のテーマでやっているのに、これを取り上げないのは不自然ですよね。「出版社と直木賞」のテーマで、文藝春秋のことに触れないようなものですので(それは言いすぎか)、簡潔に振り返っておきます。というか、書いておかないと、主にワタクシが忘れてしまうからです。

 昭和20年/1945年、戦争に明け暮れる日々が終わり、海の向こうに行かされていた人たちが続々と帰ってきて、仕切り直しとばかりに出版の世界も盛り上がり、文学好きな紳士淑女の熱が、ふたたび燃えはじめたころ、昔から創作研究会「五日会」と称して集まっていた人たちを中心に、そろそろ自分たちも、何か新しく会を立ち上げてみようかと、昭和23年/1948年3月15日、有楽町の「レンガ」という店で第一回目の会合をひらいた「十五日会」。アドバイザー的に控えたのが、「五日会」時代からの参加者で、すでに流行作家の地位にあった丹羽文雄さんですが、実質的に会の運営に当たったのは、早稲田の後輩でもある石川利光さんでした。

 みんな集まえば、なにせ血の気の多い人たちですから、丁々発止の議論でやりあい、二次会では楽しく(あるいは、さらにケンカ腰で)飲み食いして……という感じで結束力を高めていましたが、やがてそれでは飽き足らず、機関誌のような雑誌が欲しい、と思い始めます。その意を汲んで、丹羽さんが手をまわし、世界文化社から新雑誌『文学者』を創刊(誌名を、戦前の同人雑誌『文学者』から継いだので、「復刊」とも言われます)。

 しかし、だいたい戦後まもなくに出発した雑誌は、1年、2年でつぶれる、と相場が決まっていて、いや、とくに決まっちゃいませんが、世界文化社はすぐさま経営難にあえぐこととなり、たった4冊で休刊の憂き目に。十五日会の人たちは、さあ困った、と頭を抱えながら、だけどみんな、新作を書いていきたい、とやたら意欲ばかりを募らせて、一時、『早稲田文学』の編集をそっくりそのまま受け持たせてもらったりしましたが、これも刊行元だった銀柳書房がつぶれて、3号でジ・エンド。んもう、こうなれば商業誌じゃなく同人雑誌にしてしまおう、カネはおれたちが援助するよ、と丹羽さんとか火野葦平さんなどが大枚をはたき、昭和25年/1950年7月に再出発を果たしました。これが「第一次」と呼ばれたりもする『文学者』です。

 ところが、会費を滞納するくせに、誤字ばっかりだとか、編集がなっていないとか、文句ばっかり言う同人たちに、編集委員たちは「じゃあ、おまえたちがやれよ」と憤然、あるいは辟易。どうにか5年間、64号まで続けましたが、こんなことなら一回やめちまおうと、丹羽さんの宣言で再び休刊すると、小田仁二郎さんと瀬戸内晴美さんによる『Z』、富島健夫さん、清水邦行さん、見島正憲さんたちによる『現実』、広池秋子さんや佐藤和子さんを中心とした『女流』などなど、おのおのの雑誌へと派生します。

 と思ったら、昭和33年/1958年には、新体制で第二次『文学者』が復刊することになり、こんどは、会費を払う払わないでモメゴトを起こすのもつまらないと、同人費なし、資金の一切は丹羽さんが面倒をみる、……ということを決めて、えんえんと月刊で出しつづけ、昭和48年/1973年、オイルショックによる紙不足をきっかけに、もう無理してやることもないだろう、という丹羽さんの判断のもと、終刊を迎えるまで生きました。

 その間、ここから巣立っていった作家や評論家に、どんな人がいたか。とか言って名前を挙げはじめたら、「『文学者』のすべて」みたいなサイトをつくったほうが早いんじゃないか、というくらい整理もつかなくなるので、やめておきます。とりあえず、直木賞と芥川賞の、候補に挙がったことがある人だけ書き出してみると、

●直木賞

中村八朗小泉譲新田次郎野村尚吾、瀬戸内晴美、広池秋子、武田芳一、瓜生卓造、津村節子、小堺昭三、林青梧、福井馨、梅本育子、太田俊夫、安達征一郎……

●芥川賞

石川利光、中村八朗、野村尚吾、近藤啓太郎武田繁太郎、小田仁二郎、富島健夫、西條倶吉、菊村到、塙英夫小島直記、広池秋子、瓜生卓造、中野繁雄斯波四郎吉村昭、津村節子、林青梧、小堺昭三、河野多恵子、小笠原忠山崎柳子須田作次、帯正子、高橋光子……

 これだけでも、もう整理がつきません。

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2018年2月25日 (日)

『冬濤』…暗かったり重かったり、直木賞(の予選)はそういうものに目がありません。

『冬濤』

●刊行期間:昭和21年/1946年3月~昭和56年/1981年10月(35年)

●直木賞との主な関わり

  • 三好文夫(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

 「冬濤」と書いて「ふゆなみ」と読みます。北海道の中央あたりに位置する旭川で産声をあげ、コツコツとつくられるうちに、作家・評論家が続々と輩出、いっときは東京の出版社のほうにも名を轟かせたという、なかなか恐るべき雑誌です。

 佐藤喜一、高野斗志美、木野工、三好文夫……などなど、『冬濤』に所属した人たち。「まるでキラ星のごとく」と表現するのは確実に間違っていると思いますが、華やかではないけど、しっかり地に足のついた、それぞれイブシ銀の文筆的業績で、多少の名をなした面々です。

 そして、やはり、といいますか、この雑誌もまた、直木賞の世界で輝いたというよりは、芥川賞とかそっちのほうの、文学か文学もどきかの口論で刃傷騒ぎが起きるような、ちょっとオッカない世界のほうで注目された、ヤクザな……いや、マジメな同人たちの集まりでした。

 もともとは昭和21年/1946年、旭川にいた堀井更生(新川浩三)さんや吉柳元彦さんなどが『冬濤』誌を創刊、しかし同人会費の回収がままならず、経営に四苦八苦しながら、誌名を『朱塔』としてみたり『北方浪漫』としてみたり、何とか号数を継承して続けていたんですが、昭和28年/1953年に編集発行人を佐藤喜一さんとし、雑誌の名前ももとに戻して、再出発をはかります。通算第7号のときです。

 そのころから、『文學界』の同人雑誌評でちょくちょく取り上げられるなど、少しずつ知られるようになりましたが、何といっても最初の爆発は、再出発をはかったこの年の年末、『冬濤』からの代表として木野工さんが『新潮』誌の企画に投じた「粧われた心」が、掲載対象12編のうちのひとつとして選ばれ、これがそのまま芥川賞の最終候補にまで残ったことでしょう。

「この小説は小山清らと二十八年下期(30回)の芥川賞候補となり、翌年の「新潮」六月号新人小説集に長谷川四郎吉行淳之介、福永武彦らにまじって「軍艦忌」が発表されるなど、その登場は鮮やかであった。

(引用者中略)

のちに北海道新聞文学賞を得た「襤褸」も直木賞候補になったが、一時期を画した作家である。第二次「冬涛」の編集者として「冬涛」の黄金時代を築いてもいる。」(昭和57年/1982年4月・北海道新聞社刊 木原直彦・著『北海道文学史 戦後編』より)

 と、木原さんによれば、『冬濤』には黄金時代というものがあったそうで、それを牽引したのは、実作者としても一躍名を知られるようになった木野さんの、編集力があったからだと解説しています。木野さんは、直木賞で2回、芥川賞で4回候補になりましたが、作品を読むかぎり、まずもって大衆文芸に進む気はなかったと見てよく、とりあえずチャラチャラした、流行の読み物の類いは、まったく鼻にもかけなかったことでしょう。

 それで、木野さんというと、戦後まもないころから北海日日新聞で働き、やがて北海タイムス社の文化担当記者としてメキメキと出世、2度目の直木賞候補となった「襤褸」(『北方文芸』昭和45年/1970年7月号、昭和46年/1971年7月号)発表のころには、論説委員となって東京の支社に在籍し、なんだか気軽に近寄るのも憚られるような「文学しているお偉い人」となっていたんですが、「襤褸」は北海道新聞文学賞を受賞したおかげで、新潮社から単行本化の声がかかり、忙しい仕事のあいまに、改稿に励みます。

 直木賞の候補に挙げられたのは、そんな折りのことでした。「襤褸」というのも、もうなかなかの、暗いハナシでして、旭川の遊郭で、まるで奴隷のように働かされた娼妓の世界を、ひたひたと克明に描いたもので、どこにいったいエンターテインメントの要素があるのか、これを堂々と候補に残す直木賞の、アンチ・エンタメな性格を感じ取らないわけにはいきません。

 いっぽう木野さんのほうは、直木賞だとか芥川賞だとか、そんな賞の候補に挙げられるのは、もう慣れっこさ、と余裕の顔を見せ、その当落でいちいち一喜一憂しませんよ、と回想。たしかに、こういう文学賞みたいな浅はかな制度に、公然と取り乱すイメージは、木野さんにはなさそうだなあ、と思うんですけど、しかし事態は少しおかしなことになってしまいます。

 この暗ーい「襤褸」が、あともう少しで受賞というぐらいに選考委員の一部に評価され、最終の二作にまで残ったからです。かなりの驚きです。

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2018年2月18日 (日)

『VIKING』…昭和30年代、続々と加入した新顔が、直木賞からの息吹を送り込む。

『VIKING』

●刊行期間:昭和22年/1947年10月~(70年)

●直木賞との主な関わり

  • 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和40年/1965年上半期)
    ※そのうち第39回のみ、別の同人誌に発表した作品での候補
  • 川野彰子(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
    ※そのうち第50回は、別の雑誌に発表した作品での候補
  • 津本陽(候補1回+受賞 第56回:昭和41年/1966年下半期~第79回:昭和53年/1978年上半期)

 一回のエントリー程度で、何ほども語れないことはわかっているんですが、日本の文学史にそびえ立つ巨大マガジン『VIKING』、あまりにそびえ立ちすぎて、なぜか芥川賞じゃなく直木賞界隈くんだりにまで顔をのぞかせてしまった、偉容にして偉観を誇る同人雑誌です。

 創刊以来70年を超え、関わってきた作家、詩人、評論家、その他もろもろを挙げれば数知れず。ということで、いまさらこんなブログで、創刊までに至るプロセスとかに触れても仕方ありません。ここはひとつ、島尾敏雄さんたちの退会、あるいは小島輝正さんたちの脱退といった、解散・消滅にいたりかねない危機をひらりと回避したのちに、同誌から直木賞候補やら芥川賞候補やらが、ざっくざっくと誕生しはじめる、いわゆる「VIKINGルネサンス」と称された昭和30年代ごろの話題に、絞ってみたいと思います。

 ところで、文学賞の候補作が、どの出版社から出たものか。どの雑誌に載ったものか。……というのは一般的に、文学賞を誰がとったか、というのと同じくらい、どうでもいいことでしょう。しかし、どうでもいい文学賞関連事項のなかでは、ある程度、意味のある事柄に属します。

 少し前に取り上げた同人誌『小説会議』では、同人のなかから伊藤桂一さんや早乙女貢さんなど、直木賞の受賞者が生まれました。当然、そのつど同人仲間たちは喜んだんですが、しかし、その一方で「ただ、受賞作が、「小説会議」から出なかったことは、残念なことであった。」(『小説会議』40号・昭和49年/1974年11月「小説会議十八年の振幅」田島啓二郎)と、あとになって愚痴る人もいたぐらいで、自分たちの同人雑誌に載せた作品が、商業編集者に注目されて、出版社まわりの文学賞に選ばれる、というのはやはり、雑誌にとって一層の励みになることはわかります。

 その伝でいうと、『VIKING』の場合、同人たちが他で発表したものが、賞の候補になったり受賞したりすることはあっても、この雑誌に載ったものが、そういうかたちで注目されることは、昭和30年代まで、ほとんどありませんでした。ワタクシの知っているのは、第2回戦後文学賞(昭和25年/1950年度)の候補になった、富士正晴さんによる「一駒」(『VIKING』19号)の一例ぐらいです。

 そもそも、賞で扱われないような作品こそ好んで載せる、みたいな風合いの雑誌だったらしいので、賞に見向きもされないのは、むしろ願ったり叶ったりだったかもしれません。

 しかし、そうはいっても、雑誌に載ったものが文芸誌に転載されたり、賞の候補になったりすれば、ワッと人の目が集まる。それを機に稿料の稼げる作家にもなれる。といったことに、興味のある同人がいたって、別にいいわけです。いつもワイワイガヤガヤ、冗談の掛け合いのような、怒鳴り合いのような同人例会に参加するだけじゃ満足できず、もう少し外界での評判ってやつを存分に浴びながらの同人活動もしたいものだ! ……という空気が出てきたのかどうなのか、編集および発行が、新しい人たちの手にどんどん引き継がれるうちに、少しずつ雑誌の性格にも変化が現われて、不思議ではありません。

 そこに登場したのが、北川荘平さんです。ご存じ、と言いますか、また取り上げるのもためらわれるぐらい、何度もうちのブログに登場してもらっている、直木賞界きっての同人雑誌の雄です。

 くどくなるので、ここはさらっと流しますけど、同人雑誌『状況』の行き詰まりを経て、高橋和巳さんの紹介で『VIKING』にやってきた北川さんは、加入して早速、『文學界』編集部からボツを食らって発表場所を失っていたという百数十枚の「企業の伝説」を115号(昭和35年/1960年3月)に発表。これが、『VIKING』誌上はじめて直木賞候補に選ばれることになります。ちなみに、そのときまだ、同誌の掲載作で芥川賞候補になったものはありません。

 116号から加入を許された竹内和夫さんによれば、この当時、『VIKING』はそれまでになく同人の出入りが激しく、誌史において激動の、画期的な時代に突入していた……ということなんだそうです。

 北川さんは、それから約3年後、『VIKING』の編集人をやらないか、という話が持ち込まれまして、150号(昭和38年/1963年5月)からその任を負うことに。そのころの、北川さんの編集人ぶりを、竹内さんはこう振り返ります。

「彼は当時『VIKING』の編集人をやっていて、「瀬戸内の航海を打ち切れ」などというVIKINGへの陰の評判を真に受けて、自らの作品を押し出すことによって、VIKINGを大海に漕ぎ出す一役を担おうとする、気負いに満ちた顔をしていた。そうした意味で彼は一種の野心家であったが、テレず、臆せず、気負いを素直に声や表情に出すのは、嫌みがなく、むしろ壮快であった。」(平成19年/2007年3月・編集工房ノア刊 竹内和夫・著『幸せな群島――同人雑誌五十年』所収「北川荘平『青い墓標』の発刊」より 初出:『関西文学』昭和56年/1981年10月)

 仲間内だけでケナし合ってハイ終わり、というような狭い活動に甘んじずに、その誌面づくりや掲載作品によって『VIKING』をもっと広く世間に知らしめる。そういった気概が北川さんにはあったのだ、ということですね。

 そしてその「野心」は大いに効果を上げた、と言っていいでしょう。北川さんが編集している時代に、次から次へと、この雑誌から直木賞候補作、あるいは芥川賞候補作が生まれました。

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