カテゴリー「同人誌と直木賞」の23件の記事

2017年11月19日 (日)

『早稲田文学』…直木賞作品とは思えないものを候補にする、不思議な直木賞。

『早稲田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和9年/1934年~昭和24年/1949年(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 佐藤善一(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 まだ出たばかりの新刊、小谷野敦さんの『純文学とは何か』(平成29年/2017年11月・中央公論新社/中公新書ラクレ)を読んでいて、思わずひざを打つ思い、と言いますか、こういうかたちで直木賞のことを、折りに触れて書けてしまう小谷野さんの、貴重な仕事ぶりに改めて感嘆しています。

 と言うのも、純文学/大衆文学の差や違いを語るときに、数多くの評論家、作家、文筆家、ライター、文芸記者などなどが、さらっと「芥川賞/直木賞」の枠組みを持ち出してくる場面を、気絶するほど数多く目にしてきました。だけど、じっさいに芥川賞の受賞作や候補作だけじゃなく、直木賞の受賞作・候補作、あるいは通俗的だと言われるユーモア小説の類や、倶楽部雑誌に載っている時代ものや情愛もの、はたまたノベルスを読んだりしているうち、直木賞が大衆文学を代表しているとは、とうてい思えなくなってきます。純文学=芥川賞はいいとして、大衆文学=直木賞、という切り取りかたに、強い違和感をおぼえるのです。

 じゃあ、いったい直木賞は何なのか。……というところで、『純文学とは何か』では「第五章 謎の直木賞」として、直木賞みたいなもののために一章分もページを割き、はっきりこうだと定義できない直木賞の不思議さと特異さを説明してくれています。

 くわしくは、じっさいにこの本を読んで堪能していただくとして、今週とりあげる雑誌『早稲田文学』は、とくに小谷野さんの本とは関係がないんですが、しかし『早稲田文学』に載った小説を候補に挙げちゃう直木賞って、やっぱり謎だよな、と思うしかありません。

 『早稲田文学』はいまも頑張って第十次のものが出ていて、ここから芥川賞の受賞作も生まれているので、基本的には大衆文学のための雑誌とは言えません(いや、基本的もクソもないぐらいです)。第九次以前だって、やはりその性質はさほど変わらず、最も直木賞との関連が深いのは、おそらく第七次に立原正秋さんや有馬頼義さんが編集長をした時代かと思いますが、これとて、こういう人たちがいかに純文学への関心が高かったか、を示すものでしかなく、この雑誌と直木賞とが直結している、と見た人はまずいないでしょう。

 歴史全体を通して、まず直木賞とは世界が違う、としか見えない『早稲田文学』から、唯一、直木賞の候補が選ばれたのは、谷崎精二さんが編集のトップに立った第三次のころ。昭和19年/1944年の下半期です。

 一次・二次と違って第三次は、同人が編集だけじゃなくて販売から何から雑誌経営(お金のやりくり)全般を一手に担う、ということで始めたそうで、当時の編集後記や、谷崎さんの回想、あるいは浅見淵さんの文壇回顧ものを見ても、その苦心惨憺のさまがいろいろ描かれています。同人雑誌でもあり営利雑誌でもある、というのは相反した性質なのかどうなのか、たしかにお金を出して書店で買える同人雑誌は、とくに『早稲田文学』の専売特許でもなかったはずですが、しかし、売れないと続けて出しつづけることができない経済社会のなかの一誌として、何次になっても苦労が絶えないようです。

 そのなかでも『早稲田文学』が、常に持ちつづけたのが、新人作家を積極的に起用する心でした。この雑誌の公募の新人賞は、いままた、続いているのかどうかわからない段階に入ってしまいましたが、第三次の終盤ごろからこの手の企画を繰り返しています。おそらくは、この雑誌の「新しい作家よ出でよ」の精神が、公募賞の開催というかたちで現われているものでしょう。

 谷崎さんの書くところによれば、こうなります。

「営利雑誌となるためには資本が足りないし、と云って純然たる同人雑誌になるためには新人の発見育成と云う、半ば公式に托された任務を捨てなければならない。勿論現在どの文藝雑誌でも新人の発見には努めているが、『早稲田文学』同人の眼ざすところは我々の後継者として新人の育成である。」(『早稲田文学』昭和24年/1949年5月号 谷崎精二「雑誌経営十五年」より)

 ということで、既成の同人だけじゃなく、門戸をひらいて誌面を提供し、新しい人たちにうちの雑誌から巣立っていってもらおう! とこれは、昭和9年/1934年に第三次として復刊して以来、『早稲田文学』のひとつの核ともなり、尾崎一雄、浅見淵、野村尚吾、逸見広と、中心の編集担当が変わっても受け継がれていきます。他の商業文芸誌とまざって、新人が作品を持ち込む先に、並の同人雑誌とは違う一種の格のあるメディアとして、どうやら認識されるようにもなったらしく、岩手師範を出て教員をしていた佐藤善一さんの小説が、この雑誌に採用されることになったのも、(おそらく)『早稲田文学』の新人待望熱が強かったおかげでした。

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2017年11月12日 (日)

『花』…いきなりブレイクしかけた葉山修平、しかし生涯、同人誌に生きる。

『花』(第一次)

●刊行期間:昭和33年/1958年~昭和45年/1970年(12年)

●直木賞との主な関わり

  • 葉山修平(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)

 何か月か前、『文芸日本』のことを取り上げました。1950年代、榊山潤さんが親分となって、尾崎秀樹さんが編集実務を切り盛りしていた雑誌ですが、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞候補のなかに名を見せる同人誌『花』は、どうやらこれと多少の縁があったようです。

 『花』の創刊号に、尾崎さんが「ノラのゆくえ 魯迅研究ノート・I」という評論を寄せています。どうしてそこに至ったか。創刊までの経緯を少しさかのぼってみますと、もともと千葉の郷土誌に葉山修平さんが書いた小説を、『東京タイムス』で同人雑誌評を担当していた林富士馬さんが褒め、まもなく同人雑誌界の集まりの席ではじめて挨拶を交わして以来、葉山さんは林さんと意気投合。たびたび林さん宅を訪れるうち、同人誌『玻璃』の創刊から参加することになりますが、林さんの隣の家に住んでいたのが榊山潤さんです。「だれかいい新人作家がいたら紹介してくれよ」とつねづね頼まれていた林さんが、榊山さん、この人はどうですかと引き合わせたことから、おのずと葉山さんは尾崎さんとも顔なじみになりました。

 いっぽうで、『玻璃』で知り合った詩人、太田浩さんともお友だちに。やがて『玻璃』がつぶれる折りには、『文芸日本』の会に入っていながら作品を載せてもらえない人たちを誘ったりして、新しい同人誌をつくろうという機運が生まれ、宇井要子さん(直前に葉山さんと結婚)や井上清さんなどが参集、世阿弥の「風姿花伝」からとって『花』と命名されます。葉山さんが付けたそうです。

 このとき、「葉山修平」という、ひとりの無名作家にとっての順風が、明らかに吹いてきていました。葉山さんが『文芸日本』に載せた「バスケットの仔猫」は、まったく思いがけず室生犀星さんの目に留まり、直接お褒めのハガキが送られてきたりして、葉山さん大感激。褒めてくれた先輩にズブズブと心酔していく、という感情は、誰しも理解できる一般的なものだと思いますが、やはり葉山さんもその例に洩れません。室生さんを師とあおぎ、『花』を創刊するときにも室生さんに相談したそうですし、その『花』に発表した「天皇の村」(未完)を、室生さんの紹介で東西五月社から処女出版することになって、師弟の絆はいっそう強まったものと思います。

 いっぽうで葉山さんは、林富士馬という人を通じて、当時、若手の有力作家と呼ばれていた人たち、庄野潤三さんや吉行淳之介さんなどと交歓をもったと言いますし、林―榊山―尾崎というラインからは、『文芸日本』の伊藤桂一さんや大森光章さんといった面々ともつながりを持ちます。

 林さんに連れられて、佐藤春夫さんに会うことが叶ったのも、そのころのことです。会話のなかから、ふと「バスケットの仔猫」が室生さんに褒められたことが話題に出ると、すかさず佐藤さんが言ったのが、「室生君が褒めたものなら間違いないだろう、僕が芥川賞の候補に推薦しておこう」とのお言葉。文学青年として有頂天にならないはずがありません。

 しかし、結局この作品は芥川賞の予選は通らず、

「やがて芥川賞候補の作者と作品が新聞に掲載された。彼の名前はどこにもなかった。(引用者中略)太宰治が芥川賞の候補になって、ぜひ受賞したいからと選者の佐藤春夫に手紙で真情を綴った手紙を書いたが、それを佐藤春夫が公表したことのあるのを、何の脈絡もなく思い出していた。なるほど、春夫は若い人を励まし鼓舞する名人だ、と思い、しかし、なにか裏切られた気持になった。」(平成25年/2013年11月・龍書房刊 葉山修平・著『処女出版―そして室生犀星』より)

 と、人に期待をもたせてしまう佐藤さんの、巧みな人心掌握術にひっかかったらしいとわかって、少し悲しみを覚えることになったのも、この時期、葉山さんが急速に「文壇」の端っこで注目されだしていた証しでしょう。

 以来、葉山さんは、高校の先生から、千葉大学講師、駒沢短大では助教授・教授・名誉教授と進む教育者として、長年勤めをもちながら、各地のカルチャーセンターでわいわい生徒たちと文学について語らって暮らす、そんな道のりを歩んでいきます。

 文学研究のかたわら、自身での創作も続け、どうやら文学のジャーナリズム化や商業化に対しては抵抗感があったらしく、そういうものと距離を置いたところで活動をつづけます。あるいは、自分の書いたものが、商業出版界では受け入れられず、ほんとうは作家で食っていきたかったのに、それが果たせなかった、という面もあったのかもしれませんけど、とにかく「私がつくっては潰し、つぶしては作ってきた同人雑誌」(「わが百花譜抄」)と自分でも振り返るほどに、数々の同人誌を、息つくひまもなくつくり続けたことが、何と言っても葉山さんの、特筆していい業績です。

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2017年11月 5日 (日)

『半世界』…文壇への足がかりにするつもりはない、と言いながら創刊されて幾星霜。

『半世界』

●刊行期間:昭和32年/1957年10月~平成14年/2002年1月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 稲垣真美(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 粂川光樹(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 梶野豊三(候補1回 第59回:昭和43年/1968年上半期)

 平成29年/2017年、創刊から60年もたつのに、同人誌『半世界』に対してこんなに気軽に親近感が抱けるのは、確実に『晩鐘』(平成29年/2017年9月・文藝春秋/文春文庫 上・下)を書いた佐藤愛子さんのおかげです。

 田畑麦彦さんをモデルにし、彼との出会い、結婚、文壇デビュー、離婚、さらに時が経って彼の死、とそういった変遷が軸となった物語ですから、当然、二人とその仲間たちが創刊した『半世界』のことにも、かなりのボリュームで触れられています。

 『晩鐘』に出てくる人物名・固有名詞をカッコ付きで補足しながら、『半世界』の前半期までをたどりますと、昭和20年代なかば、有名・有力同人誌『文芸首都』(『文芸キャピタル』)に参加した20代の若手たちが、「ロマンの残党」と名乗るグループを組みます。筆名「天笠人誌」を使う天笠一郎(天野梧一)、筆名「荘司重吉」の庄司重吉(庄田宗太)、マッサージ師の林圭介(森健郎)、その林に強引に誘われて同人になった筆名「田畑麦彦」篠原省三(畑中辰彦)、それと佐藤愛子(藤田杉)、などなどです。

 エネルギーの有り余った若者たちの青春群像、って感じで、それぞれ他人の作品に文句をつけながら、小説やら評論やらを書いたりしていましたが、田畑さんと佐藤さんが結婚した頃から、天笠さんが見る見る距離をおくように。やがて俺は文学から足を洗うと捨て台詞を残して、天笠さんが脱退し、「ロマンの残党」は解体します。

 しかし、やっぱり俺たちは俺たちの信念のもとで同人誌をつくらなければ、と気負いを見せたのが田畑さん。荘司さんもそれに賛同し、ほうぼう仲間たちに声をかけて、昭和32年/1957年に出来上がったのが『半世界』です。当初は北杜夫、川上宗薫(川添卓次)、日沼倫太郎(生沼慎一)、宇能鴻一郎、原子朗、小池多米司、津島青などなどが参加しました。

 べつにこの雑誌を、文壇に出るための足がかりにするつもりはない、と田畑さんは豪語していたそうです。しかし、そうは言ってもかたくなにジャーナリズムを拒絶するわけじゃなく、やはり多くの人目に触れて感想のひとつでも言ってもらえれば、うれしいには違いありません。創刊から14号まで出したところで、荘司さんがボヤいています。

「自分の作品は多くの人の眼にふれるほうがのぞましい。同人雑誌の発行部数などはタカがしれたもので、そういう意味で私たちにとって商業雑誌というものはたいへん魅力ある存在であるが、そういうところでは私たちの作品は面白くないので問題にされはしない。まったくいつものとおり年月だけが過ぎて行くのである。」(『新潮』昭和37年/1962年3月号 荘司重吉「「半世界」の立場」より)

 たしかに荘司さんの作品は、さほど問題にされなかったかもしれません。しかし他の同人たちは次々と商業誌にデビューを果たし、あるいは芥川賞の候補になったりして注目されまして、ついには昭和37年/1962年、主宰格の田畑さんが、第1回文藝賞の中短篇部門に応募した「嬰ヘ短調」で、みごと受賞に輝きます。追ってまもなく佐藤さんも、『半世界』に発表した「ソクラテスの妻」(第16号[昭和38年/1963年春])が、おっとびっくり『文學界』に同人雑誌推薦作として転載。そのまま芥川賞候補になってしまったうえに、落選後には『文藝春秋』でもお披露目されることになって、俄然、美貌の新進女性作家としてデビュー。何だかみんな『半世界』を土台にエラくなりましたね、よかったよかった……というのが『半世界』史、前半までの概略となります。

 びっくり、といえばそれから6年後、佐藤さんがせっせと商業誌のために書いた『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞しました。ブンガク、ブンガクと高らかに声を上げていた『半世界』の同人から、まさか直木賞の受賞者が出るとは、と激震が走ったことでしょう。もうそれだけでも『半世界』は、直木賞史に現われた同人雑誌のひとつとして重要なポジションを占めるわけですが、創刊当時の有力な同人がひとり、またひとりと商業的なライトを当てられて、去っていくなかで、この雑誌を守った人たちのことを見逃すわけにはいきません。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)から第59回(昭和43年/1968年・上半期)まで、都合3度も、『半世界』の作品が直木賞候補に挙げられました。それは明らかに、その人たちの継続力に負うところが大きく、そこから『半世界』の第二章が始まったと言っても過言ではないからです。

 ひとりは、取り残された「ロマンの残党」こと荘司重吉さん。というのはいいとして、いまひとりは、第17号から編集同人に加わった稲垣真美さんです。

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2017年10月29日 (日)

『状況』…直木賞と芥川賞の同時候補で、一気に注目を浴びた北川荘平の、矜持の会社員生活。

『状況』

●刊行期間:昭和33年/1958年6月~昭和34年/1959年?(1年?)

●直木賞との主な関わり

  • 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和41年/1966年上半期)
    ※ただし第39回以外は別の同人誌に発表した作品

 朝日新聞に野波健祐さんという記者がいます。

 前回第157回(平成29年/2017年・上半期)の直木賞が決まるまえ、話題のひとつは、宮内悠介さんという、直木賞と芥川賞の候補を行ったり来たりしている(させられている)作家がいよいよ受賞するんだろうか……ということでした。そこで果たして、この二つの賞にはいかなる違いがあるのか、昔はどうだったのか、今後はどうなるのか、などなど、あまりに深淵すぎて絶対に答えの出ないことが確実視されるテーマで、何か記事が書けないだろうか。そんなことを野波記者が考えた、としておきましょう。

 そんな折り、直木賞の「すべて」などという、大風呂敷も甚だしいサイトの名前を見た野波さんが、ここの管理人ならきっと両賞の違いについてスッキリした見解を持っているんじゃないか、と期待したのかどうなのか、秋葉原の喫茶店で直接会ってお話しすることになったんですけど、なにしろこちらは文学に興味がありません。大衆文学と純文学の違いなんて何ひとつわかりません、わかるわけがありません、すみません、と延々と謝ることに終始。あとは、「両賞の交差」についての雑談を少しして別れました。

 このときの雑談に、当然出てきたのは、柳本光晴さんの『響~小説家になる方法~』の話題です。二つの賞で同時に候補になるとかあり得るんですかねえ、昔は何人かいたようですけどねえ、みたいな話です。

 同一作品で同時に候補、というのを経験した人は、これまで4人いますが、いま一般的に名前が通じるのは、柴田錬三郎さんぐらいでしょう。『響』の作中でも、芥川賞受賞者の鬼島仁が、テレビ番組での解説で、唯一、過去の例として名前を挙げているのがシバレンぐらいですから、その通じやすさは相当だとわかります。ただ、じっさいその候補作「デスマスク」は、さほど面白い小説ではありません。

 小説の面白さからいって、同時候補になったのも当然だ、といまでも思えるのは、第39回(昭和33年/1958年・下半期)北川荘平「水の壁」しかない、これに尽きる。とワタクシはかねがね思っています。しかしキタガワソウヘイなどと言っても、たいがい話は通じず、言ったこちらが変人扱いされるのが関の山でした。ところが、野波記者、「水の壁」を読んでいたらしく、「あれは面白いです、絶対に復刊すべきです」と語りはじめたので、正直こちらが驚く展開に。じっさい後日、『朝日』の紙面で「古い候補作を読む」(平成29年/2017年7月21日大阪夕刊)と題する、「水の壁」礼讃の記事を書いてしまうぐらいの熱い思いに、たじろぎながらも、まさか北川荘平の話でだれかと盛り上がることができるなんて、長生きはするもんだな、と思わぬうれしさを噛みしめた夜でした。

 ……と、心温まる(?)思い出はそのくらいにして、北川さんの「水の壁」ですが、昭和33年/1958年に『状況』という、大阪で創刊されたばかりのチッポケな同人誌に発表されたものです。その後何号まで出たのかも判然としない、正真正銘、チッポケな雑誌です。

 いったい『状況』とは何なのか。どんな経緯で創刊されたのか。北川さんの「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」(『別冊文藝春秋』117号[昭和46年/1971年9月]、のち『孤高の鬼たち 素顔の作家』平成1年/1989年11月・文藝春秋/文春文庫に所収)に、けっこうくわしく書かれていることを知りました。

 京都大学在学中に、文学を介して親しくなった高橋和巳さんが、みんな卒業して社会人になった昭和31年/1956年、同人誌『対話』の創刊を画策したそうです。参加者たちが集まって議論は白熱する、しかし雑誌がなかなか出ない。ようやく1号、2号と出るなかで、高橋さんと喧嘩したり仲直りしたり、北川さんは作品を書くこともできないまま、どうも思い描く同人誌の姿ではない気がして見切りをつけたところ、たまたま旧制大阪高校の同級生、天野政治さんから新たな同人誌の結成に誘われます。

 津田考、村山兼夫、亀山英夫、開高健……と昔の同級生に声をかけて創刊準備にとりかかっていた昭和32年/1957年、ちょっとした事件が起こりました。参加予定者に名を連ねていた開高健さんが、文芸誌に作品を発表、燦然とデビューしてしまったのです。さらに年が明けて1月には、その開高さんが芥川賞を受賞。と幸先がいいというか、出鼻をくじかれたというか、なかなか衝撃を受けるような出来事に見舞われたなかで、北川さんは昼間サラリーマンとして勤めながら、はじめて本格的に小説の執筆にのめり込み、どうにか他の人の原稿も集まって、昭和33年/1958年6月、『状況』創刊号の完成までこぎつけます。

 無名な仲間たちが集まって、どうにか手づくりで出した同人誌。いったいこれを誰が興味をもって読んでくれるのか、と不安は高まるばかりです。しかし、まもなく北川さんの身に、当初考えていた以上の反響と騒動と困惑が、次々と襲いかかってきます。

 新潮社からは新作執筆の打診が届き、文藝春秋からは『文學界』同人雑誌優秀作への転載(7月8日発売・8月号)の連絡、7月5日の朝には『文學界』編集部から芥川賞候補内定の報せが入ったと思ったら、午後には日本文学振興会から直木賞候補への推薦のハガキが届く。『文學界』が発売され、新聞各紙で直木賞・芥川賞候補が発表されると、あちこちの文芸誌から注文がくるわ、週刊誌から取材依頼が押し寄せるわ、という状況に、

「文學界に掲載されることだけでも、処女作をやっと書いたばかりのわたしには大事件だった。そこへこの幸運のダブルパンチである。くらくらして、事態の意味がしばらくはよくわからなかった。」(北川荘平「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」より)

 との回想を残しています。

 しかも「水の壁」一作が特異なのは、候補になっただけじゃなく、直木賞では最終の本選で何人もの選考委員がこれを推し、芥川賞側でもほんのちょっぴり褒められたこと。要するにほんとに惜しかった、ってところです。おそらく可能性は直木賞受賞のほうが高かったんですが、芥川賞発表号の『文藝春秋』本誌のほうに、落選したけど惜しかった候補作として、またも転載され、さらに大勢の人の手に行き渡ることに。

 作品は、掛け値なしに面白いです。スポットライトが当たって、ワーキャー騒がれるのも当然でしょう。しかしここからが、また北川さんのイイところなんです。直木賞・芥川賞同時候補だ、脚光が当たって注文も殺到だ、という局面を受けて、浮かれた考えへと傾かず、ずっとサラリーマン生活を続けたことです。

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2017年10月22日 (日)

『一座』…けっきょく無名作家で終わることを敢然と受け入れる、大人な同人たち。

『一座』

●刊行期間:昭和26年/1951年11月~昭和42年/1967年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※ただし第57回は別の同人誌に発表した作品

 直木賞史に出現した『一座』……というと、その主役は鬼頭恭而さんなんでしょうが、ハナシの順番からして、やはり同誌の主宰者のことから触れなきゃなりません。

 森田雄蔵さんです。明治43年/1910年東京生まれ、法政大学英文科を卒業後、岩手の釜石に行ったり満洲で暮らしたりと青年期の自由な生活を謳歌しながら、終戦を迎えた外蒙古で俘虜となり、昭和22年/1947年に帰国。九段の料亭「いちまつ」を経営するかたわらで、もとより文学に対する関心が高く、『一座』と題する同人雑誌を始めたころには、40歳を超えていました。

 これがまあ、当時『文學界』の同人雑誌評を受け持った山本健吉さんからは、ボロカスに言われまして、

「私が編集委員に加はつてゐる雑誌にも五十を越した社会人が何を発心したのか、暇と金が出来たせいか、小説を持込んでくるが、年だけは取つたがいつかう利口にならないと言つた俗臭の強い作品が多い。(引用者中略、注:『一座』創刊号のうち)一つ『蘇苔』(森田雄蔵)といふのを読んだが、案の定であつた。お妾小説で、所々性描写を交へ、年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさと、「手紙を、ふてくされて、投げ棄てると、畳の上に、気弱な短音となつて、醜く姿をさらした」といつた幼稚な文学青年的表現と混り合つてゐて滑稽でもある。

ジイドは「物を書かないといふ屈辱に堪へられないから書くのだ」といふ意味のことを言つたが、この人たちには「物を書くといふ屈辱」を教へた方がよささうである。」(『文學界』昭和27年/1952年2月号 山本健吉「同人雑誌評」より)

 と、360度どこから見ても、完全なるボロカス評です。

 山本健吉さんはこのとき40代半ば、同世代でしたから、オジさん世代はこんなふうに批判されてもさしてヘコまない、ということはわかっていたと思います。森田さんはまったくめげずに、ここからえんえんと、創作や同人雑誌運営に没入することになるわけです。

 捨てる神あればナントヤラで、昭和29年/1954年には、『一座』に発表した「はがゆい男」が芥川賞の候補に。昭和33年/1958年、やはり『一座』に書いた「岳父書簡撰」が、久保田正文さんの目にとまり、ちょうど久保田さんが日本文芸家協会『創作代表選集』の編集委員をしていたものですから、そこに推薦されたところ、同じく編集委員だった正宗白鳥さんも大絶賛、『読売新聞』で正宗さんに激賞されるという思いがけない展開に。

 昭和36年/1961年には、とにかくスキさえあれば人に推理小説を書かせようと目論んでいた江戸川乱歩さんから、とある短篇について、長篇に書き直したらいいと勧められ、森田さん悪戦苦闘、ようやく河出書房新社から『あたしが殺したのです』として上梓されると、森田さんの文芸ものを高く買っていた中島河太郎さんが、ぜひともどうぞと日本探偵作家クラブへの入会を承認。以来、同会の会員として名を連ねます。

 『一座』の刊行は徐々に、年一回出せればいいぐらいに減っていき、森田さんの主戦場は、師事していた木々高太郎さん主宰の『小説と詩と評論』に移行。昭和44年/1969年に木々さんが没すると、すでに還暦近い森田さんの、同人誌に賭ける熱烈さ、東京の真ん中で料亭を経営するところから湧き出る(?)経済力、仲間たちをまとめて事業を持続させる統括力、などもろもろの理由から、『小説と詩と評論』の中心人物へと押し上げられ、これを亡くなるまで守りぬきました。

 同人誌『藝文』代表の森下節さんも、この森田さんのオトナな人格(山本健吉さんに「年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさ」と言われた、例のアレ)には、敬服の言葉を送っています。

「同人はそれぞれが一家言を持った、一匹狼的個性の強い集団であってみれば、それを巧みにリードしながら運営して行かなければならない。へたをすれば忽ち空中分解する運命を、同人雑誌は宿命として持っている。あちら立てればこちら立たずという現実のはざ間に立って、大所帯を切り盛りしてゆくだけの能力がなければ、文学集団は永続しない。

森田雄蔵は作家としての地歩も確立したが、それと同時に人間としての人生の表裏にもたけた人物像を確立した。」(森下節・著『新・同人雑誌入門』「第三章 風土の下の地方文壇」より)

 それで、昭和50年/1975年に、数多くの同人誌・同人グループが集まってできた「全国同人雑誌作家協会」(現・全作家協会)の、初代理事長に推薦されることになり、のちには会長に就任。商業誌ではほとんど名前を見ないが、同人雑誌界ではいわゆるカオ、というまぎれもない同人雑誌史の偉人として、年を重ねても書くことはやめず、平成1年/1989年『小説と詩と評論』11月号に、自身の来歴や女遍歴などを織り交ぜた「虚妄」を発表。これを置き土産のようにして平成2年/1990年に死の床に就く、という同人誌作家の鑑のような終焉を迎えました。

 この「虚妄」のハイライト版、として『新潮45』平成2年/1990年2月号に掲載されたのが「文学八十年のなれの果て」。ついに文学賞をもらうことができなかった作家人生を、

「私の関係した同人誌の仲間は次々と直木賞とか芥川賞になった。ずっと後でプロ作家になった人たちを数えてみたら若い人をふくめて数十人はいた。いかに自分がおいてき堀=江戸の言葉=の人間であったかが判ったが、すべて後の祭りで、アンフェイマスオーサーという、英文学史の中の人間みたいになってしまった。」(『新潮45』平成2年/1990年2月号 森田雄蔵「文学八十年のなれの果て」より)

 と総括するに至っているんですが、そのアンフェイマスオーサー仲間、と言いますか、森田さんの小説などに「K」とか「K・K」とかの名でよく出てくる、東京都庁に勤める地方役人が鬼頭恭而さんです。なぜか芥川賞ではなく直木賞の候補に二度もなった、なんとも古風で骨太な小説を書く、森田さんに負けず劣らずの無名作家です。

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2017年10月15日 (日)

『讃岐文学』…地方文化振興に、文学賞も利用する同人雑誌界の偉人・永田敏之。

『讃岐文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年5月~平成14年/2002年12月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 新橋遊吉(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 昭和のころの同人雑誌を見ていると、ときどきぶつかる文章があります。

 ……同人の仲間から、たとえば芥川賞・直木賞の受賞者が出ると、とたんに人間関係がギクシャクしだし、休刊・廃刊・再編成される雑誌も多い。……

 たしかに芥川賞のほうでは、そうなのかもしれません。あんまり興味がないので、他の誰かに調べてほしいですけど、少なくとも直木賞に関しては、まずその風聞はデマです。知るかぎり、有馬頼義さんの受賞後に『文学生活』が新たな同人組織に変化した、という例があるくらいで、まあそもそも、同人誌を中心に書いていた人が受賞した例が、直木賞では少ない、ということもあるんでしょうが、仮にそういう人が受賞して華々しく商業ジャーナリズムに乗り出していっても、もといた同人誌が混乱、つぶれる、なんてことは、直木賞ではほとんどありません。

 『讃岐文学』もそうです。掲載作がそのまま直木賞受賞にまでつながった、数少ない同人誌として脚光を浴びながら、21世紀までコツコツと誌歴を重ね、四国の文学史に燦然とその名を残すことになりました。ポッと出の、同人だかどうだかもわからないぐらい怠け者だったヤツが、東京の文学賞をとったことに、嫉妬のあまり悔し涙を流す同人続出……となってもおかしくないところ、そうはならなかったのは、おそらく主宰者の器のデカさ、と言いますか、文学賞に対してうまく距離を取る主宰者がいたから、なんでしょう。おそらく。

 『讃岐文学』を主宰した永田敏之さんは昭和7年/1932年10月31日生まれ。平成15年/2003年2月23日に70歳でこの世を去りました。かたちや対象を変えながら日本にいまも綿々とつづく同人誌世界のなかで、この永田さんは、確実に偉人と言っていいと思います。とにかく身の入れかたが、ハンパじゃありません。

 まえにも紹介した昭和29年/1954年創設の大阪文学学校。永田さんはその第二期の修了生に当たります。そこを終えて、香川の高松に戻ったとき、文校在校中から胸にあたためていた同人雑誌をつくりたい、という希望をどうにかかたちにしました。昭和31年/1956年のことです。

 永田さん自身は、ほとんど創作らしい創作はせず、しかし文学に対する旺盛な情熱があふれ出て、評論や研究をもっぱらとし、仲間とともに文学を語らい、あるいは励ましたりしながら、年に1~2回のペースで『讃岐文学』を続刊。しかし、昭和35年/1960年に経営していた会社が倒産、翌年には妻と離婚、一時東京に住まいを移すことになって、以来少しのあいだ休刊しなければならないことに。

 なかなかつらい時期だったとは思うんですが、これが次なる展開を生み、永田&『讃岐文学』と直木賞とを結びつけていくのですから、不思議な縁です。創刊同人のひとり、永田さんとは高校時代の文芸部でいっしょだった亀山玲子さんという、こちらも相当に文学熱の高い女性がいて、永田さんから、しばらく『讃文』を出せないからその間、大阪の同人誌に参加してみたら? とすすめられたので『文学地帯』に参加。すると、そこで出会ったのが、病み上がりで何かほっとけない男、新橋遊吉さんだった、というところから二人は交際を深めて、結婚するにいたります。

 その後、永田さんが1年ほどのブランクを経て『讃文』を復活させると、亀山さんは『文学地帯』を抜けて『讃文』へ帰還。いっしょにダンナの新橋さんもくっついてくることになるんですが、亀山さんのほうがオール讀物新人賞の最終候補に残るぐらいには、実力ある書き手だったのに比べ、新橋さんはとくにそれまで小説を書いたことがなく、まあ、永田さんからしてみれば、有力同人といっしょになった、得体の知れないダンナ、ぐらいだったに違いありません。

 昭和39年/1964年、新橋・亀山夫妻に第一子が誕生したとの報を受けた永田さん、高松からわざわざお祝いに駆けつけます。ここで、「得体の知れないダンナ」とも一晩、文学を語り合うことになりまして、どうやらお互いに気が合ったらしく大いに盛り上がり、永田さんが「あんたも小説書いてみないか」と誘えば、新橋さん、「よーし、いっちょ大作書いてやりますか」と応じる、楽しい酒の一場面が繰り広げられたそうです。

 酒のうえでのハナシかと思っていたら、ここが『讃文』発行に賭ける永田さんの情熱だと思いますが、高松に帰ってからも、毎週のように新橋さんに手紙を送り、また電話もかけるなどして、催促を切らしません。毎日、町工場で旋盤工の仕事をしていた新橋さんは、その永田さんの思いを受けて気合いが入り、仕事から帰ってきては夜な夜な、小説を書きつづけて、原稿用紙100枚強、だいたい10日間ほどで完成させました。

「今度の受賞に関する限り、はっきり断言出来るのは、「讃岐文学」の主宰者である永田敏之氏の暖たかい理解と協力なくしては、実現しなかったことであろう。(引用者中略)

他の同人雑誌の主宰者なら、おそらくあの「八百長」という作品を掲載してはくれなかったであろう。(引用者中略)私も熱意を以って書き上げた「八百長」を讃岐文学以外に載せたくはなかったし、兄貴分の永田氏だからこそ安心して託したのである。」(『讃岐文学』14号[昭和41年/1966年5月] 新橋遊吉「直木賞を受けて」より)

 と、新橋さんが書いているのは、『讃文』に寄稿する受賞エッセイだからそのくらいのリップサービスはしますよね、というのをさっぴいても、しかし苦しい私生活を経てもなおこの雑誌だけは刊行しつづけようと努力する永田さんの、熱心さに打たれた新橋さんが、正直な思いを吐露したひとつかと思います。

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2017年10月 8日 (日)

『外語文学』…直木賞なんてものは、酒のサカナにしかならない、とわかっている同人たち。

『外語文学』

●刊行期間:昭和40年/1965年6月~平成1年/1989年11月(34年)

●直木賞との主な関わり

  • 三樹青生(候補1回 第64回:昭和45年/1970年下半期)
  • 小山史夫(候補1回 第67回:昭和47年/1972年上半期)

 昭和40年代、全国に同人誌は何百とありました。そこの掲載作が直木賞の候補に選ばれるのは、よほどのことと言っていいでしょうけど、さらに一つの同人誌から違う二人の作品が、予選を通過するのは、これは並の「よほど」を上まわるハイレベルな「よほど」のことで、しかしそれを成し遂げてなお、全貌のよくつかめない雑誌が『外語文学』です。

 全貌がつかめない、などと言いながら、大して調査を進めてこなかった怠惰なおのれを呪うしかありませんが、以前、『外語文学』の三樹青生さんのことを取り上げたことがあり、もうほとんど、そのときのネタを使い回して終わりそうな気がします。なので、「直木賞史に登場する同人誌」のことを知るにはもってこいの(はずの)、『文學界』同人雑誌評を、まずは利用させてもらうことにします。

 『外語文学』は昭和40年/1965年に創刊、中心的な同人のひとり、評論家の原田統吉さんが亡くなって、その追悼的な文章をおさめた第21号(平成1年/1989年11月)まで確認できています。21冊、というのはけっして多い号数じゃありませんが、同人雑誌評、各月のベストファイブに掲載作が選ばれること6度。うち1度は、同人雑誌推薦作として『文學界』への転載を果たすという、かなりの好成績です。

 とくに、「首」(創刊号)と「股嚢(ルビ:またぶくろ)」(6号)の2度、ベストファイブに挙げられたほか、いくつかの機会に雑誌評で触れられたのが森葉児さん。ん? 何となくこの名前、見たことがあるな、と思ったら、始まったころのオール讀物新人賞(当時はオール新人杯)に何度か最終候補にのぼり、第4回(昭和29年/1954年)で佳作、第8回(昭和31年/1956年)で寺内大吉さんといっしょに受賞をした方だそうです。

 『経済往来』昭和45年/1970年6月号に載っている略歴によれば、大正7年/1918年生まれ、本籍は福島県いわき市、大阪外語大学フランス語部卒業、本名、高木敏夫。……ということで、大阪外語大出身であるところから、『外語文学』に参加した模様なんですが、それこそ寺内大吉さんといえば、オール新人杯をとったあとに、同人誌をつくり、商業誌じゃなくそっちに書いた小説で直木賞を受賞してしまった人でもあります。そういうかたちでの、直木賞との関わり方も、そこまで珍しい路線ではなかったんでしょう。

 じっさい、森さんの小説が直木賞の候補になる可能性だって、なくはなかったと思います。なかでも「股嚢」は、評者の小松伸六さんから、

「大型新人の作品といえそうである。その博識と反語精神は花田清輝、大才ぶりは初期の司馬遼太郎をおもわすが、この作品は、コロンブスの巨根伝説にからめて、イスパニア王室のアメリカ探検を風刺しているような異色作なので、私にはちょっと鑑定しかねるところがある。コロンブス=ユダヤ人説、ドン・キホーテのモデルはコロンブス、股嚢の風俗史考と巨根伝説など、エッセイとしておもしろい。」(『文學界』昭和45年/1970年2月号 小松伸六「同人雑誌評 学園紛争のあとから」より)

 と、おそらく賛辞かと思われる評がつき、たしかに面白そうな作品だな、と思われるんですけど、なかなか手軽に読める状況でもないので、残念ながらワタクシは未読です。直木賞の候補になっていればなあ、どうであっても優先して読んだだろうに、と考えるとこのまま見過ごすのも癪なので、どうにかして読んでみたいと思います。

 それで現実に、『外語文学』から出た最初の直木賞候補作は、森葉児さんをさしおいて、次の第7号に載った三樹青生さん「終曲」でした。

 こちらもやはり、その月のベストファイブにすんなり入るほどの大好評作。たいていの作品に厳しい評を連ねる駒田信二さんが、これは相当に褒めちぎります。

「今月、私が最も感銘を受けた作品は、『外語文学』(七号・東京)の三樹青生の「終曲」であった。(引用者中略)四〇〇枚になんなんとする長い話を一気に読ませるこの作者の、ストーリー・テラーとしての力量には瞠目すべきものがある。傲慢で奔放な天才的なピアニストの、これはなれの果ての物語ともいえなくはないが、そこに作者が一種の共鳴音を響かせていることが、この作品の最もすぐれている点であろう。その共鳴音を読者が聞くことのできることが。」(『文學界』昭和45年/1970年11月号 駒田信二「同人雑誌評 現代の憂欝と孤独」より)

 これはその後に直木賞の候補にまで残り、単行本が古本屋で容易に入手できたので、ワタクシも読みました。おっしゃるとおりのサスペンスフル、あるいは読みやすさが光り、音楽家を志望しながら、でもなり切れなかった語り手の、天才ピアニストに対する複雑な心理が揺れ動くさまに、ゾワゾワさせられます。

 候補になるぐらいなので、べつにこれが直木賞をとってもよかったと思いますが、この回は、武田八洲満「紀伊国屋文左衛門」もあれば、豊田穣『長良川』、梅本育子『時雨のあと』、あるいは広瀬正『マイナス・ゼロ』と、同人誌に載ったものが注目されて本になったという、同人誌上がりの作品が、バラエティ豊かに並んでいて、そのうち最も重厚で、古風なナリをした『長良川』に、いちばん票が集まったというのは、「昔ながら」のものに共感を示す直木賞っぽい展開で、それはそれで、べつに文句を言う気はありません。

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2017年10月 1日 (日)

『現代人』…直木賞をとってから今官一がつくった、楽しい集まりの場。

『現代人』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和51年/1976年11月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 平井信作(候補1回 第57回:昭和42年/1967年上半期)

※直木賞の候補になった同人:

  • 桂英澄(候補1回 第67回:昭和47年/1972年上半期)

 青森県弘前生まれの今官一さんが、直木賞を受賞したのが、第35回(昭和31年/1956年・上半期)のときです。

 現在にまでつづく直木賞文化のひとつに、「受賞者の生まれた・育った・何らかの関係がある」土地の人たちが、ほとんど手放しで祝賀ムードを盛り立てる、というのがありますが、今さんの時代もそうだったようです。貧乏作家(だったはずの)今さんは一躍、地元の名士となりました。

 しかし今さんという人は、直木賞の選評でもさんざん批評されているように、とうてい商業的にカネのとれる作風ではなく、「直木賞のあげまちがい」とさえ言われているような人ですから、受賞後も地道で、光の当たりづらい作家の道を歩きます。自身、『海豹』とか『日本浪曼派』とか、伝説と呼ばれる同人誌で仲間たちと揉んだり揉まれたり、そういった活動のなかで文学の心を育んできた、からなのでしょう、受賞して4年後、自分が主宰となってひとつの同人誌を創刊します。『現代人』です。

 「発行者」としてこの雑誌の運営を中核で支えたのが、山岡明さん。大正9年/1920年高知県東洋町に生まれ、ジャーナリストとして活躍、カストリ雑誌をはじめ数々の専門テーマを抱えていた人らしいですが、小説も書き、『現代人』に発表した諸作を中心に編まれた短編集『小説・稲垣足穂』(昭和45年/1970年10月・東洋出版刊)もあります。

 この雑誌に参加した同人、安田保民さんによれば、『現代人』という有力同人誌の発行者だったこともあって、山岡さんは直木賞・芥川賞の予選がどのように進行しているかも、なんとなく把握していたらしい……というのは、以前うちのブログで紹介した気がしますが、あらためて触れておきます。

「私の作品「立暗(原文ルビ:たちくらみ)」をも載せた「現代人」第六号(昭和三十九年六月発行)の合評会が、新宿の喫茶店で開かれたが、その席上で冒頭、発行人の山岡明さんから、

「安田君の『立暗』が芥川賞候補に名前が出たが、すぐ消えた」

と報告がなされた。(引用者中略)

山内七郎さんという同人も、直木賞候補にあげられたが、この方も私と同じように、世間一般でいう最終候補者ではなかった。

あとで判ったのであるが、日本文学振興会から「直木賞(または芥川賞)候補選考に当たって、○○の作品掲載誌五部、至急送付してほしい」旨の通知がくる。

たぶん、私の「立暗」の場合も、これではなかったかと思われたが、実は山岡明さんは「芥川賞」の予選委員をしておられたのだった。」(平成15年/2003年4月・私家版 安田保民・著『直木賞作家 今官一先生と私』所収「「現代人」のこと」より)

 芥川賞はまあどうでもいいんですけど、直木賞の予選に諮られたという山内七郎さんは、朝日新聞の校閲部で働いていた人だそうで、発表当初、『文學界』の同人雑誌評でも評判をとった「小説『言海』」(『現代人』5号[昭和38年/1963年11月])という作品があります。もしかしたら予選で議論されたのはこれなのかな、とも思いますが、確証がないので、不明です。

 とりあえず、安田さんの『直木賞作家 今官一先生と私』は、タイトルから容易に想像がつくとおり、今さん礼讃の流れが貫かれているので、そこは踏まえて受け取らないといけないんでしょうが、『現代人』を主宰する今さんに、多くの人が、人間としての魅力も感じていたことはたしかなようです。たとえば吉澤みつさんは、青森市出身の友人からの誘いで「棟方志功アンデパンダン展受賞、今官一直木賞受賞」の祝賀会に出席し、今さんと面識を得たという人ですが、「太宰治のかつての妻・初代の叔父、吉澤祐に後妻として嫁いだ」という関係から、桜桃忌で今さんと顔を合わせることもあって、のちに『現代人』にも参加。その同人会で韮澤謙さんと知り合いになり、そういう縁から韮澤さんのやっている審美社から4冊のエッセイ集を出したりしています。

 その一冊『青い猫』に収められた「谷底の火皿 三田小山町」より。

「同人誌は、一年に三冊位出る。新しい同人誌を手にして集まり、各々の作品についての、批評をする。その時の会合が楽しみであった。褒めることにおいてはみな吝かでないが、あまり欠点について言わない。言うにしても、言葉を慎んで、核心を衝くことは避ける。(引用者中略)それらの有象無象をうち眺め、穏やかな表情にホンの少し靄をかけ、紙巻き煙草をパイプで燻らしながら、含羞にも似たやさしい微笑を見せていた今先生であった。」(平成12年/2000年1月・審美社刊 吉澤みつ・著『青い猫――自分史的人名録 続』より)

 文学に魂を奪われた連中が、ムキになって峻烈な批評を交わせ、怖くなってみんな泣いちゃうような同人会だったら、さすがにこういう感想は出てこないでしょう。今さんの人柄あってこその、『現代人』の歩みだったことと思います。

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2017年9月24日 (日)

『新文学』…文学賞の候補になって騒がれても、舞い上がったりせず澄ました顔、の土壌。

『新文学』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和54年/1979年7月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 田中ひな子(候補1回 第55回:昭和41年/1966年上半期)

 創作なんてものはな、学校で学べるようなものじゃないぞ……といった感覚は、いまではもう時代遅れな、口にするだけで変人扱いされる類いのものだと思いますが、おそらくカルチャーセンターというものが世間的に認知されだす1970年代後半から80年代まで、昭和29年/1954年創設の大阪文学学校は、「わざわざカネ払って小説の書き方を学んだって、書けねえやつは書けねえよ」などと、さんざん言われ倒してきたことでしょう。

 創設から9年後の昭和38年/1963年、松田伊三郎さんいわく「一つの大きな転換点にさしかかっていた」(『新日本文学』昭和53年/1978年10月号「大阪文学学校の現在」)年に当たるそうで、学校事務局が独立した事務所を借りて移転、本科を半年制から一年制に変え、昼間部、通信教育部を新設するなど、なかなか大きなチャレンジに足を踏み出しますが、機関誌として出されていた『大阪文学学校』とは別に、活版の『新文学』を創刊したのも、そのひとつです。

 この雑誌はやがて、昭和40年/1965年4月号から月刊となり、昭和54年/1979年に『文学学校』、昭和59年/1984年に『樹林』と、誌名を変えながら号数を継承して生き残り、いまもなお600号を超えて、学校の「顔」として刊行されつづけている、というモンスター級の「同人雑誌」なわけですが、ここに載った在学生やら卒業生やらの創作が、芥川賞の候補に選ばれたケースは、3回あります。

 第63回(昭和45年/1970年・上半期)奥野忠昭さんの「空騒」(『新文学』63号)、第85回(昭和56年/1981年・上半期)上田真澄さんの「真澄のツー」(『文学学校』増刊〈アロトリオス〉)、第121回(平成11年/1999年・上半期)玄月さんの「おっぱい」(『樹林』406号)です。

 しかし、『樹林』からさかのぼる『文学学校』『新文学』の長い歴史のなかで、おそらくここに載せたからと言って瞬時に何かが起こるとか、書き手からして期待していないかのようなこの舞台から、芥川賞よりも先に、まず候補作をつかみ取ってしまったのが、そう、われらが直木賞。第54回(昭和40年/1965年・下半期)に、よりによって同人雑誌作家2人に受賞させて直木賞界隈をドッチラケさせてから日も浅い第55回のことでした。

 このとき候補になった田中ひな子さんは、一回候補になって一回落ちたぐらいで、とやかく騒ぐような人ではなかったらしく、……というか、身近に直木賞候補のベテラン、北川荘平さんもいたという、候補者として恵まれた(?)環境にあったからでしょうか、直木賞候補のことをクドクドと語ったりはしません。

 あるいは、田中さんは「文学学校と私」のエッセイで、こう書いています。

「話しても話しても話しても、なお話したりぬ対話の場を、文学々校は提供してくれたように思う。(引用者中略)対話の中から、いくら議論してみても作品で示さねば、という考え方――というよりは実感――がひきおこされていった。私はいま、自分の作品評にムキになることが少なくなったように思う。いくらか客観的に受けとめられるゆとりができたのかもしれない。どう注釈づけても書いたものは変らないという認識、何といわれようと書かずにはいられないという一種の図太さみたいなものを、私なりに体得してきたのであろうか。」(『新文学』昭和44年/1969年7月号 田中ひな子「繊細さと図太さと」より)

 候補になった「善意通訳」(『新文学』16号)にも垣間見えていた、何ゴトが起きても暗く落ち込んだりしない、むしろ前向きに立ち向かう図太さは、田中さんの生来のものでもあるでしょうが、文学学校に通って体験した数おおくの議論が、さらに田中さんの強みとなって文章の端々に現われている、のかもしれませんね。

 この第55回の直木賞というのは、大阪文学学校の雑誌からはじめて候補を取り上げただけに終わらず、この学校でチューター(指導支援役)を務める北川荘平さんの作品もいっしょに候補に選び、北川さんと田中さんは、『VIKING』の先輩後輩、あるいは編集長と同人、でもありますから、結果次第では「後輩に一気に先を越された先輩作家の悲哀」とか、「講師役が卒業生に文学賞で負けた! 文学学校の悲惨!」などと、ゴシップ好き野次馬たちの心に火をつける可能性もあって、文藝春秋もなかなか鬼畜な企みを仕掛けてくるよな、という回だったんですが、二人とも、選考日までさんざんマスコミの取材攻撃を受けて辟易したぐらいで終わり、直木賞は、いわゆる商業誌にいるプロ作家へと流れていきました。

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2017年9月17日 (日)

『層』…刊行中は直木賞も芥川賞も受賞しなかったけど、あとからじわじわ効いてくる。

『層』

●刊行期間:昭和40年/1965年11月~昭和45年/1970年9月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 井出孫六(候補1回→受賞 第55回~第72回:昭和41年/1966年上半期~昭和49年/1974年下半期)
    ※ただし第72回は単行本

※直木賞を受賞した同人:

  • 色川武大(候補1回→受賞 第77回~第79回:昭和52年/1977年上半期~昭和53年/1978年上半期)

 同人誌と直木賞の関連史を見通したとき、やはり第54回(昭和40年/1965年下半期)を境として、前半と後半に分けられると思います。

 その後半部分、要するに同人誌と直木賞の両者が、徐々に離れていって疎遠になっていく時間のなかで、ひょっこり登場するやいなや一躍(?)有力同人誌の座にのぼりつめ、にもかかわらず、たった10号で潔く幕を下ろしてしまったのが、『層』です。

 『層』というのは刊行中、直木賞にも芥川賞にも候補者を出し、しかし受賞者はひとりも送り出せず、あるいは小田三月さんやら武田文章さんやら室生朝子さんやら、作家の二世たちが何人か参加していたことで知られ……ているのかどうなのか、微妙なところではありますけど、少なくとも中心にいたのが夏堀正元さんであることは、間違いありません。

 昭和27年/1952年ごろ、夏堀さんは親しい付き合いのあった藤原審爾さんから、ひとりの男を紹介されます。これが当時20代前半だった色川武大さん。ウマが合ったか、夏堀・色川の二人の仲はどんどん接近し、いっときは色川さんが夏堀夫妻の家に転がり込んで、ほとんど同居の態で暮らしていたそうですが、色川さんの文学的才能を買った夏堀さんは、知り合いだった中央公論社の笹原金次郎さんに色川さんを引き合わせ、締め切りは守れないかもしれないがきっと傑作を書く男だからと、公募のはずの中央公論新人賞で、下読みの一次選考をすっ飛ばし、編集部での最終選考に入れ込んでくれと、コンプライアンス的に大いに問題のあるルートを依頼。これが、色川さんの作家デビューにつながるんですから、まあ炎上しなくてよかったですね、という感じです。

 しかし二作目以降、目に見えてスランプ状態に陥った色川さんは、夏堀さんに二人だけで同人誌をやろうと言い出します。夏堀さんも、その気になって準備に動きますが、やはり締め切りの守れない色川さんは、いつまで待っても原稿ができず。うかうかしているうちに、夏堀さんの中央公論の担当編集者だった井出孫六さんが、おれも仲間に入れてくれと割り込んできて、じゃあみんなでやるかと夏堀さん、方向転換をはかり、昭和40年/1965年に『層』創刊号ができあがりました。

 柱はどう見ても、色川さんだったはずですが、ここでいきなり注目を浴びてしまったのが、小説なんか初めて書いたんだよ、という井出さんです。創刊号に載った「非英雄伝」が、『文學界』の同人雑誌評でも取り上げられるわ、直木賞の候補に選ばれるわ、とちょっとした井出バブルが起こります(……起きてないか)。

 候補になったけど、このときはさらりと落選しまして、井出さん打ちひしがれたのか。といえば、そんなことはなく、花田清輝さんとの交友記のなかで、

「花田さんは、その後私が同人雑誌に書いた小説を送るたび、読後感をハガキにしたためて寄せてくれた。いつかそのひとつが直木賞候補にあげられ、みごと選にもれたとき、「君の文章は、絶対に賞の対象にはならぬものだ。それを名誉のことと思え」との趣旨をハガキをくださった。私はなんとなく嬉しくなり、以来その趣旨を拳々服膺してきたのだが、今回私は、はからずも直木賞を授かることとなった。」(『群像』昭和50年/1975年4月号 井出孫六「花田清輝流の取材」より)

 と回想。あははは花田清輝といえども、さすがにおれが賞に選ばれることまでは見通せなかったか……なんて勝ち誇ったりはせず、受賞したということは、おれの文章が変わってしまった証しなのか、花田さんにスマない気がする、と良識のあるところを見せています。

 それはそれとして、井出さんは『層』の参加者のなかでも、あまり同人雑誌の経験のなかった人、と言っていいようです。それだけに、同人誌の群衆に置かれると、どこか新鮮な作風であり文章であると見なされ、だからこそ直木賞候補に選ばれる道に通じていたのかも、と思いますけど、その井出さんが、『層』について綴ったエッセイがあります。『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号の「同人雑誌という道場」です。

 同人誌に集う人たちの、その真剣な批評のやり合いに、ドギモを抜かれた、と語っています。

「同人雑誌の鬼ともいうべきヴェテラン大森光章さんの参加は、たぶん三号の頃だったろうか。ぼくは三号に「太陽の葬送」という作品を載せてもらったのだが、合評の席上、大森さんから痛烈な批評をたまわったのをおぼえている。大上段からふりおろされた大森さんの剣が、いきなりぼくのメンをとらえたのであった。うまれて二度目に書いた作品であるから、まるでぼくの腰は定まらず、ヴェテランの剣をどう避けるかもわからず、丸腰で名人に立ち向かったようなものであったから、大森さんの一戟でぼくはたちまち脳震とうを起こしてひっくり返ってしまったようなていたらくであった。」(『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号 井出孫六「同人雑誌という道場」より)

 『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)とかで垣間見せる大森さんの、太刀筋のするどさが、いかにも想像できるような回想で、たしかに、そそくさと逃げ出しくなる雰囲気ですね、これは。

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