カテゴリー「同人誌と直木賞」の35件の記事

2018年2月18日 (日)

『VIKING』…昭和30年代、続々と加入した新顔が、直木賞からの息吹を送り込む。

『VIKING』

●刊行期間:昭和22年/1947年10月~(70年)

●直木賞との主な関わり

  • 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和40年/1965年上半期)
    ※そのうち第39回のみ、別の同人誌に発表した作品での候補
  • 川野彰子(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
    ※そのうち第50回は、別の雑誌に発表した作品での候補
  • 津本陽(候補1回+受賞 第56回:昭和41年/1966年下半期~第79回:昭和53年/1978年上半期)

 一回のエントリー程度で、この雑誌のことは何ほども語れないことはわかっているんですが、日本の文学史にそびえ立つ巨大マガジン『VIKING』、あまりにそびえ立ちすぎて、なぜか芥川賞じゃなく直木賞界隈くんだりにまで顔をのぞかせてしまった、偉容にして偉観を誇る同人雑誌です。

 創刊以来70年を超え、関わってきた作家、詩人、評論家、その他もろもろを挙げれば数知れず。ということで、いまさらこんなブログで、創刊までに至るプロセスとかに触れても仕方ありません。ここはひとつ、島尾敏雄さんたちの退会、あるいは小島輝正さんたちの脱退といった、解散・消滅にいたりかねない危機をひらりと回避したのちに、同誌から直木賞候補やら芥川賞候補やらが、ざっくざっくと誕生しはじめる、いわゆる「VIKINGルネサンス」と称された昭和30年代ごろの話題に、絞ってみたいと思います。

 ところで、文学賞の候補作が、どの出版社から出たものか。あるいは、どの雑誌に載ったものか。……というのは一般的に、文学賞を誰がとったか、というのと同じくらい、どうでもいいことでしょう。しかし、どうでもいい文学賞関連事項のなかでは、ある程度、意味のある事柄に属します。

 少し前に取り上げた同人誌『小説会議』では、同人のなかから伊藤桂一さんや早乙女貢さんなど、直木賞の受賞者が生まれました。当然、そのつど同人仲間たちは喜んだんですが、しかし、その一方で「ただ、受賞作が、「小説会議」から出なかったことは、残念なことであった。」(『小説会議』40号・昭和49年/1974年11月「小説会議十八年の振幅」田島啓二郎)と、あとになって愚痴る人もいたぐらいで、自分たちの同人雑誌に載せた作品が、商業編集者に注目されて、出版社まわりの文学賞に選ばれる、というのはやはり、雑誌にとって一層の励みになることはわかります。

 その伝でいうと、『VIKING』の場合、同人たちが他で発表したものが、賞の候補になったり受賞したりすることはあっても、この雑誌に載ったものが、そういうかたちで注目されることは、ほとんどありませんでした。ワタクシの知っているのは、第2回戦後文学賞(昭和25年/1950年度)の候補になった、富士正晴さんによる「一駒」(『VIKING』19号)の一例ぐらいです。

 そもそも、賞で扱われないような作品こそ好んで載せる、みたいな風合いの雑誌だったらしいので、賞に見向きもされないのは、むしろ願ったり叶ったりだったかもしれません。

 しかし、そうはいっても、雑誌に載ったものが文芸誌に転載されたり、賞の候補になったりすれば、ワッと人の目が集まる。それを機に稿料の稼げる作家にもなれる。といったことに、興味のある同人がいたって、別にいいわけです。いつもワイワイガヤガヤ、冗談の掛け合いのような、怒鳴り合いのような同人例会に参加するだけじゃ満足できず、もう少し外界での評判ってやつを存分に浴びながらの同人活動もしたいものだ! ……という空気が出てきたのかどうなのか、しかし編集および発行が、新しい人たちの手にどんどん引き継がれるうちに、少しずつ雑誌の性格にも変化が現われたものでしょう。

 そこに登場したのが、北川荘平さんです。ご存じ、と言いますか、また取り上げるのもためらわれるぐらい、何度もうちのブログに登場してもらっている、直木賞界きっての同人雑誌の雄です。

 くどくなるので、ここはさらっと流しますが、同人雑誌『状況』の行き詰まりを経て、高橋和巳さんの紹介で『VIKING』にやってきた北川さんは、加入して早速、『文學界』編集部からボツを食らって発表場所を失っていたという百数十枚の「企業の伝説」を115号(昭和35年/1960年3月)に発表。これが、『VIKING』誌上はじめて直木賞候補に選ばれることになります。ちなみに、そのときまだ、同誌の掲載作で芥川賞候補になったものはありません。

 116号から加入を許された竹内和夫さんによれば、この当時、『VIKING』はそれまでになく同人の出入りが激しく、誌史において激動の、画期的な時代に突入していた、ということなんだそうです。

 それから約3年後、北川さんのもとに、『VIKING』の編集人をやらないか、という話が持ち込まれ、150号(昭和38年/1963年5月)からその任を負うことになりますが、そのころの編集人ぶりを竹内さんはこう振り返っています。

「彼は当時『VIKING』の編集人をやっていて、「瀬戸内の航海を打ち切れ」などというVIKINGへの陰の評判を真に受けて、自らの作品を押し出すことによって、VIKINGを大海に漕ぎ出す一役を担おうとする、気負いに満ちた顔をしていた。そうした意味で彼は一種の野心家であったが、テレず、臆せず、気負いを素直に声や表情に出すのは、嫌みがなく、むしろ壮快であった。」(平成19年/2007年3月・編集工房ノア刊 竹内和夫・著『幸せな群島――同人雑誌五十年』所収「北川荘平『青い墓標』の発刊」より 初出:『関西文学』昭和56年/1981年10月)

 仲間内だけでケナし合ってハイ終わり、というような狭い活動に甘んじずに、その誌面づくりや掲載作品によって『VIKING』をもっと広く世間に知らしめる。そういった気概が北川さんにはあったのだ、ということです。

 そしてその「野心」は大いに効果を上げ、北川さんが編集している時代に、次から次へと、この雑誌から直木賞候補作、あるいは芥川賞候補作が生まれました。

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2018年2月11日 (日)

『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。

『城』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~平成20年/2008年?(54年)

●直木賞との主な関わり

  • 滝口康彦(候補2回 第55回:昭和41年/1966年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※他、別の媒体での発表作で合計6回の候補

 何か月前に、古川薫さんの、長い長い直木賞候補歴の始まりとなった同人誌『午後』を取り上げました。その古川さんの、盟友とも言うべき直木賞候補者が、二人います。言わずもがな、白石一郎さんと滝口康彦さんです。

 三人ともに、同人雑誌とゆかりの深い作家でありながら、関わり方は当然、三者三様、ひとつの類型にくくれないところが、同人雑誌界の豊潤さ、と言いますか、正解のない直木賞の手広い性格を物語っています。

 古川さんと違って滝口さんは、同人雑誌で注目された人ではありません。20代、自身も病弱で、家族を養いながら、炭鉱での貧乏暮らし、そんな折りに雑誌の浪曲台本の募集記事を見て、試みに応募してみたところ見事に入選、何か月分かの稼ぎを一気に賞金で得ることができたのに味をしめて、投稿生活に入ったのだとか。そのうち、何度めかの挑戦で、第10回オール新人杯(昭和32年/1957年)でいいところまで行き、受賞は佐藤明子(のちの来水明子)さんの「寵臣」に譲りましたが、「高柳父子」が佳作に入って、『オール讀物』に掲載されますと、これが運よく第38回(昭和32年/1957年・下半期)の直木賞候補に挙げられます。

 住んでいたのは佐賀県多久。当時、県内でもこの作家のことを、ほとんど知る者はいなかった、ということです。いまとは微妙にその盛り上がり方も違っていたでしょうが、しかし、選考会の日が近づけば候補者に記者やら何やらが接触し、選考会当日には受賞の会見をやる、という文化はすでに芽生えていて、佐賀のほうでも新聞各社の記者が集まって、滝口さんの共同会見を用意していた……と、当時、西日本新聞佐賀支局にいた桐原一成さんは回想しています。

 けっきょく第38回は、該当作なしの結果となったので、記者たちの興奮もスッと引いたと思いますが、このとき滝口さんが記者たちに語った言葉が、桐原さんによって残されています。

「少しもしょげていなかった。「直木賞は受けられなくても、まだあとに機会があるだろう。これまでの苦しい歩みが世間に認められる。苦労したかいがあった。これからは、文学だけに生死をかけて生きていける」と、少しほおを赤らめて淡々と語る滝口さんからは、自信に似たものがうかがえた。」(『城』89号[平成16年/2004年9月] 桐原一成「作家デビューその夜」より)

 このとき滝口さん33歳。直木賞の候補を機に文筆一本で食っていく決心をし、「佐賀に在住する唯一の職業作家」と呼ばれる、なかなかのイバラの道を選んで歩きはじめました。

 しかし、です。何十(あるいは何百)と出ている数々の雑誌に、作家として原稿を書いて稿料を得る人たちは、昭和30年代のころにも何百人といて、それはそれでいいんですが、一度候補になったからといって、直木賞の候補にふたたび顔を出すのは、かなりの難関です。「職業作家としてやっていけているんだから、もう直木賞はいいだろう」という考え方も、当然あります。別に直木賞は、がんばっている職業作家の背中を押すために始めた賞じゃありません。そのまま行って、滝口さんが二度目の候補に挙がるのは、何か奇跡でも起きないかぎり、まず無理でした。

 というところで、奇跡が起きてしまいます。なかなか文学活動が育たないと言われていた佐賀の地で、純文学の方面に熱をあげる人たちがつくり、どうにか続けていた『城』という同人誌に、時代小説作家の滝口康彦さんが、ついつい幸運にも出会ってしまったからです。

 『城』が生まれたのは、さかのぼって昭和29年/1954年の終盤ごろ。それまで、佐賀県下の文学青年たちは、いくつか雑誌をつくっては長く続かず、お隣り福岡の『九州文学』に参加したりしていましたが、やはり自分たちの地元で自前の同人雑誌をつくりたい、という熱が高まり、1号でつぶれてしまった『未知派』同人の田中艸太郎、都筑均、大塚巖などなどと、佐賀大学の教授を務めていた内山良男、松田又七、水之江有義などなどの、二つのグループが中心となって合体。ここから『城』創刊へと至ります。

 スタート以降、『城』同人の活躍は順調に注目されていき、昭和33年/1958年に田内初義さんの『文學界』同人雑誌優作作転載と芥川賞候補に湧くと、田中艸太郎さんは群像新人文学賞の最終候補入り、昭和34年/1959年その田中さんの評論「地方在住作家、芸術家についての覚書」が『文學界』に転載され、井原淳子さんは女流新人賞候補、昭和35年/1960年に山田敦心が『新潮』全国同人雑誌推薦小説特集に採用されるあいだ、松浦沢治さんは『村芝居』『熊襲部落』を刊行する、といった按配。

 ところが、ただ同じ地域に住んでいる、というだけで集まったグループですから、ちょっと火種がくすぶれば、ハナシがこじれることもあるでしょう。昭和38年/1963年、池正人さんから提出されたランボオの訳詩が、何だこれは誤訳ばっかりじゃないか、こんなもの掲載するな、と木元光夫さんと白川正芳さんが主張したにもかからわず、けっきょく編集委員たちの判断で掲載されてしまったものですから、総会の席で口論となり、こんな同人誌やめてやる、じゃあこっちも、などとヒートアップ。同人は二派に分裂し、第二次『城』と『文学佐賀』に分かれてしまいます。

 滝口さんが、第二次『城』の田中艸太郎さんと知り合ったのは、そのころだったそうです。

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2018年2月 4日 (日)

『文学世紀』…直木賞なんかはさておいて、何と言っても特筆すべきは、地味さと執念深さ。

『文学世紀』

●刊行期間:昭和38年/1963年9月~昭和53年/1978年?(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 姫野梅子(候補1回 第58回:昭和42年/1967年下半期)

 ちょうど50年まえに行われた第58回(昭和42年/1967年・下半期)の直木賞。1月に候補者が発表されたところ、野坂昭如さん、三好徹さん、筒井康隆さんという、すでに名の売れていた人が混ざっており、けっきょくそこから野坂&三好の二名が選ばれて、「冒険ぎらい」の直木賞クオリティをまざまざと見せつけることになるんですが、プロ作家だった早乙女貢さんは別として、いわゆる「同人誌作家」が、そこに3名含まれていました。神戸『風塵』の原田八束さん、京都『三人』の加藤葵さん、そして東京『文学世紀』の姫野梅子さんです。

 このうち、ナゾ中のナゾ、とも言うべき存在が『文学世紀』の姫野さんでしょう。新日本文学会に所属しながら、無報酬で書きたい小説を書く、あまたの同人誌作家のひとりだった、ということ以外、よくわかりません。目ぼしい発表作もなく、ワタクシも直木賞候補になった「首謀者」のほかには、読んだことがありません。

 「首謀者」は、だいたい150枚程度と、同人誌に載せるにはかなり長めの作品です。昭和20年/1945年の終戦直後、といいますから小説が書かれた頃から見て、約20数年前。大分県にある漁村S町で、とある事件が勃発します。町にはN鉱業の製錬所があり、敗戦によって一時、操業停止に陥っていて、そこにいた何百人という鉱員たちは日々、窮乏の生活にさらされていたんですが、一部の鉱員たちが、地元の漁師たちが手がける生け簀に夜な夜な侵入、魚を盗み出しているところを発見されたのです。

 盗みを働いた連中は、所内に逃げ帰りますが、漁師たちは、当然のこと激怒。警察が仲介に入り、話し合いを進めたものの、N鉱業側は、こんな不祥事を表立てたくはないので、穏便にお金を払うかたちでの示談を提案します。しかし漁師たちは、人の首をとらなきゃ収まりがつきません。ちゃんと首謀者を出頭させろ。じゃなきゃ許さん。と一歩も引かない構えです。

 N鉱業のほうでは、さんざん揉め、しかし最終的に自分が首謀者として名乗り出ようと手を上げる男が現れます。当時、主任の職にあった小郡富雄です。病弱な妻を抱える、責任感の強い男で、本人は盗みに加担していたわけではありませんが、部下たちの行動に事前に不審を抱いていながら、止めることのできなかった自責もあり、過去、自分のせいで事故を起こしたのに、戦時中だからと不問に付されたことが胸にわだかまってもいて、みずから首謀者と名乗り出ることを決意します。

 すると、その日から、小郡夫妻の家に、事情を知らない人たちによって、パシンパシンと石が投げつけられることに。けっきょく、S町を追われるかたちで小郡は異動。「S町事件の首謀者」というハナシは、行く先々にも付いてまわり、N鉱業にとっても、不祥事を救ってくれた英雄でありながら、しかし重職に就かせるわけにはいかない、ある意味でお荷物の社員となります。折りあれば辞表を出したいと願いながら、鉱山を転々とさせられる小郡でしたが、やがて、この夫妻にひとつの転機が訪れます。妻のおなかに、二人の子供がやどったのです。

 ……といったような内容なんですけど、会社の論理に翻弄される一労働者の、華やかではないが打ち捨てることのできない、生活・人生信条が全篇をとおして静かに通底していて、これぞ、ザッツ・地道、と呼んでいいでしょう。

 姫野さんの参加した『文学世紀』というのは、そもそも、新日本文学会とは一心同体の、日本文学学校から生まれた同人雑誌です。いまもある大阪の文学学校では、機関誌の『樹林』とは別に、受講生やOBたちがさまざまにグループとなって、いくつもの雑誌が誕生していますが、それと同様、東京のほうの文学学校でも、『新日本文学』という中核的な月刊誌だけじゃなく、やはり、把握できないほどのグループ雑誌がつくられました。『文学世紀』もそのひとつです。

 つくったのは、同校研究科の17期の受講生たち。チューターを務めた小沢信男さんは語ります。

「日本文学学校研究科の小沢組の人達が、修了後もグループを作って、定期に研究会をつづけ、同人誌「文学世紀」を出すに至った。それを幸いに、私はその後、何期か組会のチューターを勤めるたびに、終了後は有志の人を文学世紀の会に送りこんだのだ。アフタ・ケアの合理化。あとは皆さんでよいように切磋琢磨なさるだろう。

はたせるかな、この会は、ある時期を活発に活動して、雑誌も二十数号を重ねたのだ。研究会は回数が記録されていて、二百回に届いたのではなかったか。」(昭和61年/1986年3月・作品社刊 小沢信男・著『書生と車夫の東京』所収「微笑の人」より)

 別の文献では、研究会は300回を超えて続けられた、とも言います。15年も続いたグループは、日本文学学校のなかでも長寿の部類だったそうです。やはりこれは、中心となって支えた同人たちの熱意のたまものでしょう。直木賞の候補作に選ばれたことがある、という誌歴がその長寿にどの程度、影響していたのか、不明ではありますが、おそらくほとんど影響はなかったものと思います。

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2018年1月28日 (日)

『小説会議』…直木賞はなかなかとれず、でも賞を目標にはしないと言い切る大衆文芸グループ。

『小説会議』

●刊行期間:昭和31年/1956年11月~昭和56年/1981年11月(25年)

●直木賞との主な関わり

  • 金川太郎(候補2回 第38回~第54回:昭和32年/1957年下半期~昭和40年/1965年下半期)
  • 左舘秀之助(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 畷文兵(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 早乙女貢(候補2回+受賞 第56回~第60回:昭和41年/1966年下半期~昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回受賞は単行本として発表した作品

 今週の主役『小説会議』は、これまで取り上げてきた同人雑誌とは、画然たる違いがあります。「大衆文芸」の同人誌であることを、声高らかに標榜していたからです。

 いまとなっては、「もうそんなのどっちでもいいじゃん」とツッコみたくなる案件ですけど、しかし出版事情も、人間の心理も、この何十年かで大きく変わったはずなのに、いまだに「純文学と大衆文学の区分けなど、何の意味もない!」と、どこか不愉快そうに言い募る人が、けっこう居残っています。こう発言したがる、ということは、「現実に、純文学と大衆文学は区分けされている」と、認識している人がいまでもいるんですね。当然、こういう議論は、ただボーッと80ン年の直木賞史を眺めているだけでも、気持ちわるくなるほど数多く目に入ってきますので、よっぽど、みんな口を出したくなるテーマなのでしょう。

 まあ、ワタクシもそのひとりなので、人サマのことを言えた義理じゃないんですが、とりあえず、大衆文芸というものの立ち位置の歴史は、たしかに、見ているだけでエキサイティングです。無数にある直木賞の魅力のなかでも、この「大衆文芸が負ってきた歴史」からくる面白さは、相当な量を占めていると思います。「文学といえば別に本道がある、大衆ナンチャラなんか傍流中の傍流じゃないか」と、意識裡に、無意識裡に思われていたさなか、文学のほうの芥川賞に比べて何百分の一、何千分の一程度しか注目されずに誕生した、という経緯からして、バツグンの魅力を放っています。

 そして、昭和30年代から昭和40年代、直木賞は同人雑誌に積極的に手を伸ばそうとします。この時期、同人雑誌界の充実ぶりは右肩あがりで、数も種類も増えつづけていました。なかで、ひとつの特徴と言っていいのが、大衆文芸の世界にも有力、有望視される同人誌が生まれたことでしょう。双璧をなすのが、『近代説話』(昭和32年/1957年創刊)と、『小説会議』(昭和31年/1956年創刊)です。

 『近代説話』については、いずれ触れる機会もあるので、ここでは深く立ち入りませんが、どちらの雑誌も、「すでに懸賞小説で選ばれた実績のある、新人の若手たちが集まってできた」という共通項があり、また、直木賞に何度も何人も候補に挙げられた、という点でも肩を並べました。両方を掛け持ちした同人もいます。

 しかし、両者のその後の道のりは、大きく変わっていきます。『近代説話』からは、そこに掲載された作品で直木賞を受賞する人が続出、直木賞史上もっとも愛された同人雑誌の地位を確立し、いまも語り継がれる存在にまでなりました。

 当時の、同誌の勢いはすさまじいものがあり、同人だった尾崎秀樹さんなどは、大衆文芸や直木賞受賞者の素顔を語れる稀有な人材としてフル回転。ライバル誌、というか類似の雑誌として、こちらも何度か直木賞の候補を出していた『小説会議』も、メディアの注目を集めるほどの『近代説話』の活躍に脱帽、改めてお礼を語っているほどです。

「それにしても、志を同じくしている「近代説話」の躍進程心強いものはない。われわれの前途に、大きな光明と自信とを植えつけてくれる結果になったことに対し、ここにお礼を申述べたい。われわれも似た山道を、営営として死ぬまで登り続けてゆきたい。」(『小説会議』13号[昭和36年/1961年5月]「編集後記」より ―署名:谷中初四郎)

 しかし、こちらの『小説会議』は、候補になれどもなれども賞を贈られることはなく、創刊時の同人20人のうち、直木賞候補になった人は7人、うち2人しか受賞しませんでした。賞の面では大きな差がつき、それが影響してか、いまにいたっても『近代説話』に比べて顧みられる機会のかなり少ない雑誌となっています。

 せっかくなので、ここに創刊時の同人名を挙げておくことにします。生田直親、井口朝生伊藤桂一、池上信一、氏家暁子、太田久行(童門冬二)、小橋博、阪本佐多生、早乙女貢、高村暢児、田島啓二郎、豊永寿人、畷文兵、中川童二、福島郁男(赤江行夫)、福本和也、松浦幸男、村上尋、森山俊平(川上直衛)、輪田加寿子。

 ……読んだことのない作家ばっかり、といえば、ばっかりです。

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2018年1月21日 (日)

『農民文学』…直木賞候補がきっかけで人に言われた言葉が、何十年も生き続ける。

『農民文学』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~(62年)

●直木賞との主な関わり

  • 真木桂之助(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)

 本屋大賞の最終ノミネート10作発表とか、小室哲哉さんの引退会見で、早くも直木賞の話題はふっとんでしまった感がありますが、基本、直木賞は、時事ニュースでもありながら、時事ニュースではなし。一瞬の盛り上がりのためにやっている事業じゃないので、そこを掛け違えず、これからも淡々と直木賞と付き合っていきたいと思います。

 それで、今週、直木賞関係の同人誌として注目したいのが、『農民文学』です。いまも(ほそぼそ)出ています。

 いまから40数年まえ、同誌が100号を迎えたときには、『読売新聞』「風知草」で、「オヤ、そんな雑誌が今でも出ているのか、というひとがいるかもしれぬが、」(昭和46年/1971年9月26日)などと書かれ、すでに当時から時代遅れの匂いをぷんぷんさせていたらしいんですけど、いまも変わらず、時代遅れの風味を醸し出している安定感。世の趨勢とは別の価値観で思いをかたちにしていこうという、同人雑誌のあるべき姿を、長年培っている、言わずもがなのレジェンド雑誌のひとつです。

 雑誌はともかく、「農民文学」と呼ばれる文学が、日本で最も隆盛を誇ったのはいつだったか。いろいろ議論はあるんでしょうけど(あるんでしょうか)、昭和初期、プロレタリア文学の流行がピークを超えて収束したあたりから、昭和10年代に戦争が激化するころまでに、ひとつ、農民文学の大きな盛り上がりが見て取れます。ちょうど直木賞がつくられた時代です。

 そのころには、純文芸誌だけじゃなく、『オール讀物』をはじめとする、いわゆる軽薄(……?)読み物雑誌にも、農民・農村をテーマにした小説が続々と載り、ここらあたりから直木賞が何か一つ、選び取ってもおかしくなかったんですが、「視野を広げていきたい」という直木賞の考えとは裏腹に、なかなかこの賞の運営はうまくいかず、けっきょく、ユーモア文学とか、科学小説とか、その当時ぐいぐいキテたジャンル小説と同様、農民・農村小説も、直木賞からは弾かれつづけてしまいます。

 しかし、この文学グループの偉いところは、この時期早くも、自前で文学賞を創設したことです。……いや、別に偉くはないかもしれません。ともかく昭和14年/1939年には、有馬賞と称される農民文学の賞をスタートさせ、昭和10年代から続々とできた文学賞のなかの一つを、このグループが担うことになりました。探偵小説・推理小説がこういう賞をつくるのは戦後になってからですけど、文学グループとしての結束を固め、かつ新しい書き手を顕彰し、外に向けて存在感を示していこうとするときに、文学賞を活用する、というのは、文学賞界にとっても新しい発見だった、と言っていいでしょう。農民文学、なかなかの優秀さです。

 戦時下では、他のあまたの作家たちの例に洩れず、国策の文学へと変貌させられ、明けて戦後しばらくは、その反動、反省などから大きく勢いを失ったんだそうですが、そんなことじゃヘコたれないのが人間のたくましいところ。昭和24年/1949年から、『家の光』によく書いていた文学者が「麦の会」という親睦団体を結成していましたが、そろそろ新たな時代に、新たな農民文学は必要だし、またそれを目指して立ち上がらなければいけない。と、戦前の農民文学の雄、伊藤永之介さんや和田伝さんなどを中心に、「麦の会」を前身として結成を呼びかけたのが「日本農民文学会」。その機関誌として、季刊を念頭に『農民文学』が創刊されたのが、昭和30年/1955年、折りしも石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞して、文学賞がもう一段階、ステップアップする(?)ほんの少しまえのことでした。

 そして、この雑誌は創刊2号にして早くも「農民文学賞」の設立を宣言。やがて原稿を公募するようになって、他の文芸誌の新人賞っぽいテイストを身にまとうことになりますが、創設のころは、すでに発表された作品のみを対象にしていた、非公募の文学賞で、その点は有馬賞の衣鉢を継いだかのような、ジャンル小説のために設けられたものです。

 コノー、農民文学のみなさん、よっぽど文学賞が好きなんですね。……という感じで、ついニコニコとしてしまうのは、もしかしてワタクシだけかもしれません。賞の創設から8年ほど経った『農民文学』の編集後記には、こんなふうなことが書かれているからです。

「賞は、作品に与えられる結果の問題であることは明白です。「賞を目標の里程塚にするおろかさ」という評がわれわれに与えられたことがありましたが(後略)(『農民文学』36号[昭和39年/1964年9月]より ―署名:(島))

 ああ。農民文学の人たちも、文学賞を抱えていて、まわりから何だかんだと、心ない批判を受けたんでしょう。いかにも正しいのはおれだ、ってイバり腐って「愚かさ」を語る人、ほんと、いやですね。めげずに頑張ってほしいと思います。

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2018年1月 7日 (日)

『詩と真実』…芥川賞ではなかなか候補にならず、いきなり決まったのが直木賞候補。

『詩と真実』

●刊行期間:昭和23年/1948年11月~(69年)

●直木賞との主な関わり

  • 谷崎照久(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)

 昭和23年/1948年11月、と言いますから、69年も時間がさかのぼる、気の遠くなるほどの昔のこと。熊本市に住んでいた伊吹六郎さんが、自宅の倉庫を地元の文化人あるいは文化好きの仲間たちに開放したのが、運のつきでした。

 にわかに人が押し寄せ、30人、40人、50人と、集まるは集まるは。まもなく、にぎやかで流血必至の宴の場、と化したのだと思われますが、だれが言い出したか「おれたちで熊本ペンクラブをつくろうぜ」と気炎が上がり、機関誌もつくらなきゃならんな、おーし、それじゃゲーテの自伝から採って『詩と真実』にしよう! と、ある種、熱に浮かされていなければ、なかなか越えることのできない産みの苦しみを難なく跳躍して、(おそらく)意気軒昂に始まったのが、同人誌界のレジェンド雑誌『詩と真実』。いまもなお、800号を超えながら月刊を守り続刊中、という恐ろしいことになっています。

 創刊当初から、荒木精之さんとか、森本忠さん、永松定さんなど、東京でも名の(ほんの少し)知られた人たちが参加し、その動きは、注目されるに値する芽をもっていましたが、何といっても忘れちゃいけないのが、同人たちが積極的に、東京の出版社・雑誌のやっている懸賞に挑戦、そこで好成績を残したことでしょう。

 たとえば森川譲(甲斐弦)さんは、『太陽』の織田作之助賞、桜菊書院の夏目漱石賞などに原稿を投じ、上位に選ばれましたし、坂口䙥子さんは新潮社文学賞に受賞して『新潮』に登場、発行の中心人物のひとり伊吹六郎さんも、『悲劇喜劇』戯曲募集で入選を果たします。

 文壇に出る手段、といいますか、東京の出版社やそのまわりにいる作家、評論家、編集者たちに注目される手段として、「同人雑誌に書くこと」と「懸賞(文学賞)に応募すること」は、おそらく二大ルートだった、と言っていいと思います。どちらか一方だけを選択したわけではなく、これらがからみ、もつれ合って、無名作家から新人作家の周囲をとりまく大きな文化を築き上げてあげてきました。『詩と真実』もその一角を担う存在だった、ということに他なりません。

 べつにみんな、賞をとるために書いていたわけじゃない、というのは当然のこととしても、「おれたちは誰も、みずからジャーナリズムまみれのクソ文学に身を投じるつもりはない、だから懸賞など見向きもしない」と言い張らないところが、この雑誌のゆるさ、あるいは、柔軟さだと思います。長くつづく雑誌というのは、たいていそういう性格を備えているものかもしれませんけど。

 いわば、同人雑誌にしろ、懸賞への応募にしろ、それぞれの人が、みずからの文学的決意をもって能動的に選ぶ道だ、ということは共通しています。そこに尊さが湧き出る余地もあります。

 対して、直木賞や芥川賞は、事情が違います。書いている人たちの思惑とは関係なく、勝手にやってくるものです。

 だからこそ、こういう文学賞は、はたから見ている野次馬にとって面白い(!)わけですが、『詩と真実』の場合もやはり、この「やっている人たちの思惑」とは無縁の歴史が刻まれてしまいます。

 芥川賞よりも先に、直木賞のほうがこの雑誌の作品を候補にしてしまったのです。

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2017年12月31日 (日)

『集団55』…注目を浴びたほとぼりが覚めるまで、創作から離れる相見とし子。

『集団55』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~昭和42年/1967年?(12年)

●直木賞との主な関わり

  • 相見とし子(候補1回 第37回:昭和32年/1957年上半期)

 ひとつの作品が、直木賞と芥川賞の同時候補。というハナシが出ると、いつもワタクシは北川荘平さんのことにばかり触れますが、一般的には柴田錬三郎さんのことを引き合いに出すのが自然だと思います。

 しかし考えてみると、同時候補の経験者のなかで、ただひとりの女性である相見とし子さん(当時32歳)にも、もう少し光が当たってもいい気がします。

 どうして相見さん、地味な存在なのか。ひとつには候補に挙がった「魔法瓶」が、文章が難解だ、稚拙だ、と言われ、とくにこれを強く推す委員もおらず、そこまでハネる要素がなかったこと。と同時に、何といっても相見さんの、「注目されぎらい」と言いますか、たかだか候補に残っただけで、スゴいの何だのと、作品を読まずに持ち上げようとする一般の声に、かなりの嫌悪感をもっていました。

 こういう人ですので、はじめて書いた小説が、二つの賞の候補になり、その事実だけをもって騒ごうとする風潮に、はっきり背を向けます。その精神の根っこには、同人雑誌に書く人ならだいたいそなえ持っている「ギャーギャー騒ぐ軽薄さがイヤ」という感覚があったものでしょう。「魔法瓶」以降、相見さんはじっと息をひそめて、小説の発表を控えた、と言うのです。

 10年経って、こんな文章を書きました。

「全く迷惑至極な話だった。芥川賞も直木賞も応募賞ではない。こちらの意志によらず、ことわりもなしに人前にひっぱり出すのは、傲慢といわれるかもしれないが、正直いって私を困憊させた。(引用者中略)「ここでばたばたと出なければ忘れられる」と、骨折ろうとしてくれた人もいた。「金がほしいから書くということはいやしいことではない」と忠告した人気作家の好意も憶えている。しかし、「作品」を書ける地点への距離は、いっこう縮まるものではなかった。私には私の歩き方よりない。それらは、何処か遠い場の声であった。」(『新潮』昭和43年/1968年6月号 相見とし子「異路回帰」より)

 慎ましやかさ、もしくは、地道なものへの親愛の情が、やはり相見さんの身上です。そもそも、芥川賞はともかく、どうしてこれが直木賞の候補にもなったのか、何かの手違いか間違いだった、という資料が発見されても、驚きません。

 相見さんはその後、京都にいる、ほんのちょっと有名な3人の女性作家……折目博子、田中阿里子、梁雅子といっしょに「華」の会を結成、同人誌『華』を発刊するわけですが、人選といいますか、いっしょのお仲間になった顔ぶれがもう、全国的に知られていそうで、知らない人も多そうな、絶妙なメンバーだと思います。

 さらに晩年に参加した『人魚』は、やはり田中阿里子さんや松本徹さんなど、昔からの(そしてプロと言ってもいい)書き手たちが揃っており、かなりすっきりとした体裁の、立派な同人雑誌です。

 今日は、年の最後の日でもあり、だらだらこれ以上書く気も起こらず、さらっと終わりにしたいと思います。

 だいたい、「二つの賞の同時候補」だからといって、無理に話題にしようとするほうが、変なんですよね。そんなことで注目されることを嫌がったという、相見さんの姿勢が、多くのことを物語っていると思います。

 さっさと終わります。

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2017年12月24日 (日)

『秋田文学』…受賞者が出て、祝福とともに微妙な空気が流れた、不思議な瞬間。

『秋田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和56年/1981年?(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 津田信(候補6回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
    ※うち第52回は別の媒体に掲載した作品での候補
  • 千葉治平(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 井口恵之(候補2回 第73回:昭和50年/1975年上半期~第77回:昭和52年/1977年上半期)

 先週は『山形文学』だったので、今週はお隣り、秋田の雑誌『秋田文学』です。

 直木賞で同人雑誌の掲載作が、そのまま対象となって受賞した例は、第157回までで14件あります。そのうち6つは『大衆文藝』の掲載作、これは半商業誌だと言えなくもありませんから、これを除けば、たったの8例。今後増えていく未来は、なかなか思い描けないので、もはやどれもレジェンド的な受賞例、と言ってしまっていいでしょう。

 そのなかのひとつが、『秋田文学』に1年余り連載された千葉治平さんの「虜愁記」です。受賞当時ですら、いったいどうしてこれが受賞したのか、同じく候補に挙がった人たち、出版関係者、一般読者を含めて、みんな理解に苦しんだという、いわくつきの受賞作です。

 千葉さんのことは、うちのブログで取り上げたこともありますが、大正10年/1921年10月に生まれ、戦後、20代のときに、すでに名をなしていた秋田出身の先達、伊藤永之介さんのもとに通って、同人誌『秋田文学』を創刊。これが「第二次」だそうですので、復刊と言うべきかもしれません。

 しかし、昭和29年/1954年ごろにいったん途絶し、あらためて創刊号と銘打って再出発をはかったのが昭和32年/1957年。千葉さんは、ここに創作「早春」を寄せていることからもうかがえるように、同誌の創作メンバーのなかで柱をなす、中心的な存在でもありました。

 当然、その同人はほとんどが秋田県在住の面々です。金沢蓁さん、雨宮正衛さん、谷川真吾さん、ほんまよしみさん……と挙げていっても、ワタクシなど、どういう方たちかまったくわかりませんが、「自分たちは、自分たちの拠って立つ土地で、新しい文学を生み出していこう」と気合の乗った人たちであることは、当時の誌面をのぞくと、おぼろげにわかります。千葉さんもまた、そのなかの一人でした。

 ところが、この状況に突如、風穴を開けてしまった異端児が登場します。東京に住みながら『秋田文学』に参加した津田信さん 、という男です。

 津田さんのハナシも、やはりうちのブログで何度も触れてきたので、またかよ、という気はします。だけど、やっぱり『秋田文学』と直木賞の話題に、この人の存在は、絶対に欠かすことができません。

 日本経済新聞社の記者だった津田さんは、第35回(昭和31年/1956年・上半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、同人雑誌『貌』に書いた小説で二度、芥川賞の候補に挙がります。〈芥川賞候補〉というのは、当時でも一部の同人雑誌関係者たちにとっては、憧れの対象、一目おかれる存在だったらしく、同じ日経の秋田支局で働いていた小国敬二郎さんに、おれのやっている同人誌に参加してみない? と誘いの声がかかります。出された条件は、同人費は免除、枚数の制限もなし、書きたいものを書いてくれればよい、というもの。……同人仲間というよりは、外部からの有力な書き手として厚待遇で招聘された、といった感じです。

 ここに参加してからのことは、津田さんがのちに長篇小説『日々に証しを』(昭和53年/1978年10月・光文社刊)に書いています。『秋田文学』の合評会に参加したときの、いきなり東京からやってきた人間に対する、同人たちのよそよそしい、だけど東京の文壇への関心を隠せない雰囲気やら、ひとりの女性同人と深い仲になり、孕ませて、降ろさせて、また孕ませての、ナマナマしいなりゆきなど、そういうことが綴られた小説です。「私小説」に強い思い入れのあった津田さんですから、いくらかは(いや、ほとんどは)事実に即した内容かもしれません。

 ともかくも、とくに直木賞や芥川賞と縁のない、かなり地味な存在だった『秋田文学』に、〈文学賞〉という、騒がしい物体が通ずることになったきっかけを、外部からの参加者、津田信さんがもたらしたことはたしかです。

 このとき、同人たちは、この状況を歓迎しました。(K)という署名の、おそらく金沢さんの手になる編集後記を見ると、こう書かれています。

「勿論、文学賞受賞やその候補になることだけがぼくらの目指す到達線ではないのだが、受賞せぬより受賞した方がいいと、これは正直に言えると思うし、同人の士気を鼓舞することになるとも言える。

よく考えてみると、「日本工作人」は未完のため、今回は、厳密には候補ではなかったかも知れぬし、してみれば、完成次第再び銓衡対象ともなり得るのではないか。それを作者と共に期待したい。」(『秋田文学』5号[昭和33年/1958年9月] 「後記」より―署名:(K))

 けっきょくその後、「日本工作人」は完結後に現代社から単行本となり、盛大な出版記念会も開かれ、期待どおりに第40回(昭和33年/1958年・下半期)の候補に推され、選考委員の小島政二郎さんひとりにやたらと推奨されたものの、他の委員にはあまりピンとこなかったのか、受賞はならず。津田さん自身は、ここから書けども書けども受賞に届く日は訪れず、そうとうヤサぐれた気分にもなり、あきらめた境地と、悔しさとを混ぜ込んだ、まあ自分だったら味わいたくはないツラい時間を経ることになって、しかし書くことはやめず、もう一度、作家として復帰することになるんですが、ほかの『秋田文学』同人にとっては、自分の雑誌から候補が出たこだけで、かなり興奮し、テンションが上がった様子です。たとえば、先の金沢さんの「後記」もそうですし、千葉さんも、津田さんの作品が直木賞候補になったり本になったりしたことで、同人たちに勇気を与えた、と振り返っています。

 べつに、文学賞に取り沙汰されようが、されまいが、気にしない人はしないわけで、というか、そんなのを気にしていると軽蔑されるのが世の習いですから、それはどっちでも構わないんですけど、津田さんのせいで文学賞の匂いを嗅がされた『秋田文学』の同人たちも、それで文学に向かう姿勢が変わった感じは、うかがえません。……うん、そりゃそうでしょう。

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2017年12月17日 (日)

『山形文学』…「直木賞の候補」程度では道を踏み外さない、硬派な同人雑誌。

『山形文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年~(61年)

●直木賞との主な関わり

  • 柴田道司(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

 次の第158回(平成29年/2017年・下半期)は、1月16日が選考会で、候補作の発表が12月20日。と、まだ先の話でもあり、うちのブログで触れるタイミングではないんですが、とりあえず先週、直木賞界隈でとうてい無視できない事象が発生したものですから、今週はまずそこから行きます。

 12月15日、〈サイゾーウーマン〉が「セカオワ・Saori、『ふたご』直木賞ノミネート決定! 『火花』の再来狙う文藝春秋の思惑」という記事をネット配信しました。

 直木賞(と芥川賞)の候補作というのは、下半期であれば12月の上旬のうちには、日本文学振興会という名の、文藝春秋の外郭団体みたいなところが最終決定をくだします。それぞれの候補者に「候補入りを承諾するか」連絡をとったのち、報道各社にリリースが流されるのは、およそ12月の半ばごろです。ただ、振興会・報道各社・関係する候補者や担当編集者、お互いの約束ごととして、振興会の決めた発表日(今回は12月20日の、新聞朝刊、ネットであれば朝5時)までは、情報を洩らさないように、と決められているので、誰の、何という作品が候補になったのか、事前に公になることは、まずありません。

 しかし「極秘」とはいえ、日本中ですでに何百人(いや、何千人?)規模の人間は、知っています。洩れることは当然あり得るでしょう。しかも今回のように、その対象が芸能人ですと、「報じる人たちの文化」もまた文芸界隈とは違うらしく、こういうかたちで取り上げられてしまいました。公式の発表を待たずして、「(何だか知らないけど)文学賞の候補なんて、スゴい!」「直木賞おめでとう」「さすがにルールを破って、事前にリークするのはマズいのでは?」「芸能人への注目度に頼る文芸界の、哀れな末路だ」うんぬんと、いろいろな声が出はじめるという、楽しい直木賞の姿が、早くも展開されているわけです。

 この記事に書かれていることが、ほんとうに正しいのか。それは、うちのブログのテーマとは、あまり関係ないので(どうせ12月20日になれば、みんなの知ることですし)無視することにして、ここで取り上げたいハナシは別にあります。「文学賞の候補を、そもそも選考日よりも前に発表する」という慣例についてです。

 日本にある文学賞のすべてが、こうやって候補作を事前に公表するわけではありません。直木賞も芥川賞も、この制度を採りはじめたのは、だいたい戦後になってから。昭和20年代ごろには、両賞ともある程度の(ベタ記事程度の)ニュース価値をもつ存在でしたから、1月・7月になると、「予選通過作一覧」がちょくちょくと新聞に現われはじめます。

 しかし、どんな施策にも、メリットとデメリット、両面があります。「事前に候補を発表する、それが新聞で報道される」というこの直木賞・芥川賞のかたちは、多くの悲劇や喜劇(?)を生んだと伝えられ、人権を踏みにじる悪のシステムとして、両賞を批判する声が挙がることにもなりました。そこで思い出されるのが、同人雑誌からの声です。

 鹿児島で長くつづいている同人雑誌『火山地帯』に、島比呂志さんという主宰者がいましたが、猛烈に批判の声を上げたひとりが、その島さんです。

 以前も、うちのブログで触れたことがあります。選考会の前に、候補作を明らかにすることには、そこに名前の挙がった人間に、望まぬ動揺と混乱をもたらすという害が、確実にある。真摯にひたむきに文学に向き合おうとする人間に、そんな一過性の騒ぎが、益になるとはとうてい考えられない。日本文学振興会よ、候補作の事前発表をやめろ。絶対にやめたほうがいい。……といった感じの、一理も二理もある、まっとうな意見を表明しています。

 たしかに、候補が発表されてから当落が出るまでの、アノ(あるいは、いまワタクシたちが直面しようとしている)騒がしい時間は、果たして必要なんでしょうか。

 とくにこれまで、芥川賞のほうでは、川端康成さん、遠藤周作さん、池澤夏樹さんなどの選考委員が、選評で「候補が発表されてからの、あまりに騒ぎすぎる世間の風潮」に、ことあるごとに苦言を呈してきました。しかし、いまのいままで、それで報道側が委縮したり、主催者が反省して、候補発表と事前の盛り上げをなくそう、ということにはなっていません。

 ワタクシなどは、さらにその外側にいる、ただ文学賞を観戦して楽しみたいだけの、いわゆる外道というか、「悪のシステム」の保全を支える一般大衆のひとりです。島さんみたいな人に叱られると、身を縮こませるしかありませんけど、しかし、文学賞を外から見て味わうこの楽しい感覚は、どこまで害悪なんでしょうか。……当事者でない立場で、いかに「節度ある楽しみかた」ができるのか、それを考えつづけていくしかなさそうです。

 それで、このまま『火山地帯』の話題に入っていけたらいいんですが、残念なことに、この雑誌は芥川賞とは縁があっても、一度も直木賞の候補作を出したことがありません。ブログのテーマは「同人誌と直木賞」ですので、ここは泣く泣く、『火山地帯』ではない別の雑誌に目を向けたいと思います。

 ……と、本題に入るまでが長すぎて、今週もまたとっ散らかりそうな不安ばかりが募りますが、『火山地帯』の硬派なイメージにも似て、直木賞史にいくつも現われてきた同人雑誌のなかでも、とくに硬派……候補に挙がったからといって浮かれ騒がず、コツコツ自分たちの文学追求に邁進し尽くす集団、と勝手にワタクシが思っている同人雑誌が、『山形文学』です。

 一発屋ばかりを出す、出す、言われている芥川賞のなかでも、受賞してまもなく小説を書くのをやめてしまった後藤紀一さんという受賞者を、昭和38年/1963年上半期(第49回芥川賞)に送り出し、その意味では芥川賞によってパッと光の当たった感のある同人雑誌ですが、栄誉だの名誉だのを振り返らず、地道に刊行をつづけて平成23年/2011年に100号を突破、おそらく現在でも続刊中です。

 おちゃらけた気分ではとうていその小説世界に入り込めない、まじめな作品が並ぶなかで、そういうものをけっこう好む直木賞が、ついつい手を伸ばしたのは昭和40年/1965年のこと。『山形文学』が『ひろば』という名で創刊してから10年ほどの誌歴を積んだころでした。

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2017年12月10日 (日)

『作品』…ゴーストライターとして生きる鬼生田貞雄の、消え失せない文学ゴコロ。

『作品』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~昭和31年/1956年10月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼生田貞雄(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)

 『作品』。……という、何のひねりもない堂々たる名前をもつ雑誌は、歴史上いくつもあったと思いますが、直木賞史に登場する『作品』は、ただひとつ。昭和27年/1952年に創刊された『現象』という同人誌が、なぜか2年弱だけ『作品』と改題して続刊され、昭和32年/1957年にふたたび『現象』の名前に戻って、昭和45年/1970年ごろまで命を保ったその18年弱のあいだに、いっときだけ世に存在した『作品』の時代に掲載した作品のなかから、直木賞と芥川賞、それぞれ一作ずつ候補作が出たという、いわずもがな、純のほうの文芸同人誌です。

 『現象』は、よく知られた人では菊村到、垣花浩濤、赤松光夫、藤本泉などが、よく知られていない(ワタクシも知らない)人では、古賀孝之、南良太郎、白木良夫、高橋恒生などが同人に名を連ねましたが、いちおうその中心的な人物で、主宰だったとも称されるのが石上玄一郎さんです。

 石上さんといえば、戦前から、ほんの一部の文学同好者を魅了する作風でもって、とりあえず作家として活躍中の人でした。昭和26年/1951年ごろ、彼と交流のある無名の文学愛好者たちが集まり、みんなで新しい文学をつくっていこうではないかと気炎を上げて創刊の難事業をやりとげた。ということなんですが、同人たちの意見をまとめながら雑誌をつくる、それを何年もやり続けるのは、はっきり言って面倒なことです。

 面倒と言うか、同人誌の運営に向いている性格と、そうでない性格というのは、おそらくあるでしょう。石上さんは、精神的支柱として、この雑誌に欠かせなかったことは間違いありませんけど、しかし彼だけしかいなかったら、『現象』も『作品』もなかったかもしれません。

 これが10数年も続いたのは、明らかに鬼生田貞雄さんがいたからだ、と思われます。「影の主宰」とも目されます。

 性格は篤実で温厚。戦争をはさんで10数年、実業之日本社に勤め、出版、雑誌編集の経験は申し分なく、文学への熱中度も、高位置をキープ。戦前には藤口透吾さん、内田生枝さん、芝木好子さん、大原富枝さんなどと仲間となって同人誌に小説を書き、戦後は井野川潔さんと『文学世界』をつくるなど、仕事の合間に創作に打ち込みます。

 それでも文筆業として一本立ちしたい、という望みを捨てることができず、昭和27年/1951年、『現象』創刊の年に、きっぱりと実業之日本社を退職。一説では、鬼生田さんが編集長を務めていた『ホープ』の売れ行きが悪く、その責任をとらされた、とも言われますが、ともかく筆一本で一家の家計を支える身になりまして、数多くの原稿を書き、数多くの本を出します。

 とはいえ、自分の名前で発表できる環境は限られています。ほとんどが無署名、あるいはゴーストライターでのお仕事でした。

 著作の数は膨大にのぼるそうですが、とりあえず『アナタハン』(丸山通郎・著、昭和26年/1951年・東和社刊)、『グアム島 十六年の記録』(伊藤正・著、昭和35年/1960年・二見書房刊)、『式辞挨拶演説事典』(昭和35年/1960年・実業之日本社刊)、『手紙挨拶用語辞典』(昭和36年/1961年・実業之日本社刊)あたりは、鬼生田さんが書いたものだ、と言われています。二見書房からも、相当ゴーストの仕事を請け負ったらしいです。

 こういった身すぎ世すぎの売文生活のなかで、「文学的」だと己が信ずる創作への道を忘れず、耐えて忍んで無償の原稿を書きつづける……というのは、ある意味で、直木賞界隈では定番の一風景かもしれません。定番ということは、つまり一時期の、昭和30年代前後の直木賞は、こういう一面をたしかに持っていた、ということでもあります。

 鬼生田さんがどれだけ真剣に、文学に邁進しようと心に決していたか。『現象』創刊号の「編集後記」は、鬼生田さんの筆ですが、その一節を引いてみます。

「この第一歩を踏み出すために、私たちは約三ヵ月の間、暗黒のなかで陣痛の忍耐をつづけて来た。ただ、単に、雑誌を出すというだけのことであつてはならない、とふかく考えさせられていたからである。(引用者中略)どのような烈しい困難に出会おうとも、私たちは、声高らかに、自らの産ぶ声を高めつつ、自らの存在を押し進めて行かなければならないのだ。山頂への距離は全く不明だが、しかし、そのなかで、私たちは、これを押し進めて行くことそれ自身こそ、文学の持つ宿命であることを、自覚してかかろう。」(『現象』第1巻第1号[昭和27年/1952年3月]「編輯後記」より ―署名:(O生))

 こういう熱気あふれる状況を見て、こちらも胸が熱くなったり、思わずドン引きしてしまったり、いろいろな受け取り方があると思いますが、とても輪のなかに入っていく勇気は出ないけど、でもその一途な試みと実行力には魅惑的なものを感じてしまう、というところが、同人雑誌の本領と言うこともできます。『現象』もまた、その特徴をおのずと備えていた、ということでしょう。

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