カテゴリー「同人誌と直木賞」の14件の記事

2017年9月17日 (日)

『層』…刊行中は直木賞も芥川賞も受賞しなかったけど、あとからじわじわ効いてくる。

『層』

●刊行期間:昭和40年/1965年11月~昭和45年/1970年9月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 井出孫六(候補1回→受賞 第55回~第72回:昭和41年/1966年上半期~昭和49年/1974年下半期)
    ※ただし第72回は単行本

※直木賞を受賞した同人:

  • 色川武大(候補1回→受賞 第77回~第79回:昭和52年/1977年上半期~昭和53年/1978年上半期)

 同人誌と直木賞の関連史を見通したとき、やはり第54回(昭和40年/1965年下半期)を境として、前半と後半に分けられると思います。

 その後半部分、要するに同人誌と直木賞の両者が、徐々に離れていって疎遠になっていく時間のなかで、ひょっこり登場するやいなや一躍(?)有力同人誌の座にのぼりつめ、にもかかわらず、たった10号で潔く幕を下ろしてしまったのが、『層』です。

 『層』というのは刊行中、直木賞にも芥川賞にも候補者を出し、しかし受賞者はひとりも送り出せず、あるいは小田三月さんやら武田文章さんやら室生朝子さんやら、作家の二世たちが何人か参加していたことで知られ……ているのかどうなのか、微妙なところではありますけど、少なくとも中心にいたのが夏堀正元さんであることは、間違いありません。

 昭和27年/1952年ごろ、夏堀さんは親しい付き合いのあった藤原審爾さんから、ひとりの男を紹介されます。これが当時20代前半だった色川武大さん。ウマが合ったか、夏堀・色川の二人の仲はどんどん接近し、いっときは色川さんが夏堀夫妻の家に転がり込んで、ほとんど同居の態で暮らしていたそうですが、色川さんの文学的才能を買った夏堀さんは、知り合いだった中央公論社の笹原金次郎さんに色川さんを引き合わせ、締め切りは守れないかもしれないがきっと傑作を書く男だからと、公募のはずの中央公論新人賞で、下読みの一次選考をすっ飛ばし、編集部での最終選考に入れ込んでくれと、コンプライアンス的に大いに問題のあるルートを依頼。これが、色川さんの作家デビューにつながるんですから、まあ炎上しなくてよかったですね、という感じです。

 しかし二作目以降、目に見えてスランプ状態に陥った色川さんは、夏堀さんに二人だけで同人誌をやろうと言い出します。夏堀さんも、その気になって準備に動きますが、やはり締め切りの守れない色川さんは、いつまで待っても原稿ができず。うかうかしているうちに、夏堀さんの中央公論の担当編集者だった井出孫六さんが、おれも仲間に入れてくれと割り込んできて、じゃあみんなでやるかと夏堀さん、方向転換をはかり、昭和40年/1965年に『層』創刊号ができあがりました。

 柱はどう見ても、色川さんだったはずですが、ここでいきなり注目を浴びてしまったのが、小説なんか初めて書いたんだよ、という井出さんです。創刊号に載った「非英雄伝」が、『文學界』の同人雑誌評でも取り上げられるわ、直木賞の候補に選ばれるわ、とちょっとした井出バブルが起こります(……起きてないか)。

 候補になったけど、このときはさらりと落選しまして、井出さん打ちひしがれたのか。といえば、そんなことはなく、花田清輝さんとの交友記のなかで、

「花田さんは、その後私が同人雑誌に書いた小説を送るたび、読後感をハガキにしたためて寄せてくれた。いつかそのひとつが直木賞候補にあげられ、みごと選にもれたとき、「君の文章は、絶対に賞の対象にはならぬものだ。それを名誉のことと思え」との趣旨をハガキをくださった。私はなんとなく嬉しくなり、以来その趣旨を拳々服膺してきたのだが、今回私は、はからずも直木賞を授かることとなった。」(『群像』昭和50年/1975年4月号 井出孫六「花田清輝流の取材」より)

 と回想。あははは花田清輝といえども、さすがにおれが賞に選ばれることまでは見通せなかったか……なんて勝ち誇ったりはせず、受賞したということは、おれの文章が変わってしまった証しなのか、花田さんにスマない気がする、と良識のあるところを見せています。

 それはそれとして、井出さんは『層』の参加者のなかでも、あまり同人雑誌の経験のなかった人、と言っていいようです。それだけに、同人誌の群衆に置かれると、どこか新鮮な作風であり文章であると見なされ、だからこそ直木賞候補に選ばれる道に通じていたのかも、と思いますけど、その井出さんが、『層』について綴ったエッセイがあります。『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号の「同人雑誌という道場」です。

 同人誌に集う人たちの、その真剣な批評のやり合いに、ドギモを抜かれた、と語っています。

「同人雑誌の鬼ともいうべきヴェテラン大森光章さんの参加は、たぶん三号の頃だったろうか。ぼくは三号に「太陽の葬送」という作品を載せてもらったのだが、合評の席上、大森さんから痛烈な批評をたまわったのをおぼえている。大上段からふりおろされた大森さんの剣が、いきなりぼくのメンをとらえたのであった。うまれて二度目に書いた作品であるから、まるでぼくの腰は定まらず、ヴェテランの剣をどう避けるかもわからず、丸腰で名人に立ち向かったようなものであったから、大森さんの一戟でぼくはたちまち脳震とうを起こしてひっくり返ってしまったようなていたらくであった。」(『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号 井出孫六「同人雑誌という道場」より)

 『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)とかで垣間見せる大森さんの、太刀筋のするどさが、いかにも想像できるような回想で、たしかに、そそくさと逃げ出しくなる雰囲気ですね、これは。

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2017年9月10日 (日)

『下界』…商業誌じゃなく、あえて、あえて同人誌をつくったつもりが、直木賞の餌食に。

『下界』

●刊行期間:昭和29年/1954年5月~昭和45年/1970年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回~第51回:昭和33年/1958年上半期~昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回以外は別のところで発表した作品

※直木賞を受賞した同人:

  • 榛葉英治(受賞 第39回:昭和33年/1958年上半期)
  • 渡辺喜恵子(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 杉森久英(候補1回→受賞 第42回~第47回:昭和35年/1960年下半期~昭和37年/1962年上半期)
  • 和田芳恵(候補2回→受賞 第27回~第50回:昭和27年/1952年上半期~昭和38年/1963年下半期)

 文壇の人たちから愛され、また文壇を愛した文芸編集者、和田芳恵さんは、どうにも儲からない雑誌をつくったり、とても儲かるわけもない小説を書いたりしました。それでもめげず、ひたむきに打ち込むけなげな姿勢が、さらに周囲の人に好感を抱かせる一因となったものと思います。

 大地書房で『日本小説』を編集、しかし小出版社の悲しさか、はてまた読者の好みを誌面に反映する才に欠けていたのか、よくわかりませんが、けっきょく志半ばで廃刊に。借金を抱えて、かなり精神的に傷を負ったはずのところ、そんなことで沈み込まないタフな和田さんは、またいっちょ、雑誌をつくってやろうかと意欲を燃やしていたそうです。

 その雑誌の名前が『下界』。武田麟太郎さんの小説『下界の眺め』の題名を気に入っていた和田さんが、そこから拝借したものだということです。

 発刊に関わった竹内良夫さんが回想しています。

「この雑誌(引用者注:『日本小説』)がつぶれると、(引用者注:和田芳恵は)小説上手なのに未だ書こうとせず、さらに雑誌発刊をたくらんでいた。「下界」という名前が気に入って、資金調達に奔走していた頃、私はかなり和田と親しくなり、

「和田さん、その下界という雑誌を同人誌にして、和田さんも書きなさい。それが一番よろしい」

ともちかけた。(引用者中略)

「うん、しかしこれは営業雑誌にして出したいからな」

「和田さんは小説の名人と皆さん言ってる。雑誌を出すよりも小説を書きなさい、それが一番いいんだ」

私は若くて気が早くて、和田が迷っているうちに、ついに同人誌「下界」発刊を急ピッチに他の連中とも相談して、出す運びにしてしまった。」(昭和54年/1979年4月・講談社刊 竹内良夫・著『文壇資料 春の日の會』より)

 いっぽう和田さんが回想しているところでは、『日本小説』がつぶれたあとに、同人誌を出そうと話し合っていた「下界の会」という集まりがあり、海音寺潮五郎さんの家に行ったり、「文学論争」と呼ばれる殴り合いをしたり、いいオジさんたちが、たぎる情熱を発散していたような会があって、その「下界の会」は「波の会」へと変わりながら、野村尚吾、杉森久英、榛葉英治、八木義徳、野口冨士男、進藤純孝などの面々との、親睦がつづいてきた、と言っています。

 ともかくも、発足からしてセミプロ文学者たちがウジャウジャと蠢くなかで出てきた同人誌『下界』。昭和20年代から30年代は、こういう同人誌も続々と生まれました。

 すると、中年にさしかかった売文ライターたちの、文学に賭けたいという強い思いを受け止めようとした直木賞が、プロの読み物作家、あるいは無名の素人作家などに紛れ込ませるかたちで、彼らの作品も候補のなかにぶち込むことになりまして、鮮やかというか渾沌としたというか、どうにも整理のつかないムチャクチャな状況が、直木賞のなかに展開することになります。

 そのなかで、とくに『下界』のメンバーが直木賞の場に召喚されたのは、やはり選考委員の海音寺潮五郎さんの存在が、大きかったことでしょう。『下界』がつくられるに当たっても、それはいいことだと、ポンと援助資金を提供。普段から、いっしょに同人たちと語らったりしていたことが、彼らを光の当たるところに押し上げたい、という気持ちに直結するだろうことは、容易に想像ができます。

 まあ、現に榛葉英治さんの書下ろし小説『赤い雪』の版元を、海音寺さんが紹介してあげたりしていたそうですし。……ってことは、前にもうちのブログで触れましたね。

 文筆歴は古いけど、いまいちパッとしない書き手が、同人雑誌で改めて修業に励むうちに、直木賞の威光の恩恵を受けて、ひとり、またひとりと表舞台へと上げられていく。苦労が実ってよかったですね。と、つい言いたいところではあります。だけど、単純に「よかった」と言って終わってしまっていいのか。ここが、同人誌という多面的な性質をもった存在をとらえるときの、難しいところに違いありません。

 『下界』にしてもそうです。結果的に、同人から直木賞の受賞者が次々と生まれましたけど、いや、そもそもそういうために発刊した雑誌じゃなかったでしょ? と疑義を投げかける人もいました。池田岬さんです。

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2017年9月 3日 (日)

『文学61』…流行作家になりたい? 同人雑誌ってそういうもんじゃないでしょ。と金子明彦は言う。

『文学61』

●刊行期間:昭和37年/1962年~昭和39年/1964年(2年)?

●直木賞との主な関わり

  • 金子明彦(候補1回 第47回:昭和37年/1962年上半期)

 金子明彦さんという人がいました。

 もちろんワタクシは会ったこともなく、直木賞候補作一覧のなかに出てくる、「格子の外」の作者、という程度の知識しかないんですが、残されたエッセイや文章のいくつかを拾い読みするうち、浮き世の栄華に背を向けた反骨の人、という側面がかなりあった俄然興味のわく人物だと知りました。その金子さんが、(おそらく)中心となって大阪で創刊された同人誌が、『文学61』です。

 創刊号は昭和37年/1962年4月10日発行。巻末に28人の同人氏名が掲載され、そのうち小川悟、重本利一、芝弘、加藤あき、脇田澄子、金子明彦の6人が「編集委員」となっています。発行所は、大阪市住吉区長居町東六丁目Cノ三八六号金子明彦方 文学61の会、です。

 この号には、創作として金子さんの「格子の外」のほか、加藤あき「悪意」、詩は竹信恵「海鳴」、評論・批評に重本利一「海外文学の展望 《形而上学派》の再認識」、中川喜久雄「小林秀雄私語」、小川悟「批評を歪曲するもの」、随筆に芝弘「国語問題考」、脇田澄子「団地の学校」、大島加代子「うららかな日に」が寄せられていて、執筆者紹介によれば、金子・重本・竹信・小川・芝・加藤の諸氏はみな関西大学の出身(中退も含む)ということになっています。どういうことでつながった仲間でしょうか。よくわかりません。

 金子さんはそれ以前から文筆歴があったらしく、戦中の15歳ごろには句作をはじめ、戦後、日野草城の『太陽系』、あるいは下村槐太の『金剛』に拠り、自身では林田紀音夫さんと同人誌『嶺』を発行したりしています。いっぽうでは、

「私が小説を書いたのは学生時代からのことで、小説や評論や詩を書く友人ばかりの中で、やむなく書きはじめていただけのこと(引用者後略)(『十七音詩』66号[昭和57年/1982年1月] 金子明彦「誤伝」より)

 との回想もあるように、句作と並行するかたちで小説もぼちぼち書いていたそうです。金子さんの『十七音詩』に参加していた北条沖也さんはこう書きます。

「金子明彦は切支丹弾圧を主題とする小説をはじめから書いたのではなく、はじめは日本の植民地時代の朝鮮の民族解放闘争を主題とする小説を書いていた。私はそのころの金子明彦とは会うこともなく、文通もなく没交渉であったが、金子明彦が小説を書く一作ごとに評判になったので、よくわかった。そうだ。彼の小説が発表されるごとにその同人雑誌は、新聞・雑誌の批評欄で激賞されるのが常であった。(引用者中略)

昭和三十六年の暮だったか、明彦の小説が直木賞候補にあげられているのを新聞で見て、私は驚いた。しかし驚くことではなかったのである。彼の小説はそのたびごとに朝日新聞や毎日新聞の批評欄で激賞されていたのである。」(『十七音詩』48号[昭和53年/1978年1月] 北条沖也「金子明彦覚え書ノオト(一)」より)

 その激賞された数々の小説が、いったい何というどこに載った作品なのか、いまではもはや、パッと調べることのできないのが、もう悲しさ満点なところで、なかに金達寿さんが褒めた「北漢山の雪」という小説もあるみたいなんですけど、人が褒めたことはわかっても、どこで読めばいいのかわかりません。つらいです。

 「激賞」と言えるかどうかは、賛否があるでしょうが、同人誌に書かれた金子さんの小説が、たとえば『文學界』の同人雑誌評でいくつか取り上げられたことはほんとうで、「長袴抄」(『黄土』創刊号[昭和29年/1954年12月])、それから「格子の外」は本文での言及がないままベスト5のひとつに選ばれていたりしますし、「天涯」(『文学61』3号[昭和38年/1963年11月])もベスト5になっています。

 1960年代の前半は、金子さんが林田紀音夫、堀葦男の両氏とはじめた『十七音詩』もまだ続いていましたけど、小説でもチラリと光が当てられそうになった時期にあたり、金子さん自身、小説執筆の意欲も十分にあったと思われます。

 この状況が突如、変わるのが昭和43年/1968年のこと。金子さん、もうイヤになっちゃって、小説の筆を折ってしまいます。

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2017年8月27日 (日)

『炎』…10年つづいて、それぞれの思い出を後に残した、女性だけの同人誌。

『炎』

●刊行期間:昭和35年/1960年~昭和45年/1970年(10年)

●直木賞との主な関わり

  • 村山明子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)

 どこの同人誌にいた誰それが、よそに移ったり新たな雑誌をつくった……とか、同人同士が糾合したり、仲たがいしたりして、別の同人誌が生まれた、またはつぶれた……とか、同人誌の世界っていうのは、古代中国やら戦国時代をほうふつさせるその、集合体同士の離合集散を含めた興亡史が、なにより面白いことは確実です(なのか?)。

 大所帯の有名誌ならともかく、ほんの数年しか活動しなかった、いまはもうなくなってしまった雑誌のことは、ほんとよくわからないので、歴史のかげにうずもれてしまうんですが、そのなかでも、東京で出ていたという『炎』は、多少は語られる機会の多かった雑誌かもしれません。これも、紆余曲折のすえに生まれた雑誌だったそうです。

 もとは丹羽文雄さん傘下の『文学者』というチョー有名な同人誌があり、昭和25年/1950年から、十五日会が出していました。これが昭和30年/1955年、惜しまれつつもいったん休刊。それじゃあ私だけで集まって新雑誌をつくりましょうかと、『文学者』同人のなかの女性たち……瀬戸内晴美さんや河野多恵子さんなどが音頭をとって出発を切ったのが同人誌『女流』です。昭和31年/1956年~昭和34年/1959年までつづきます。

 ところが昭和33年/1958年、早くも『文学者』が再刊されることになって、『女流』に参加した人たちのほとんどは、『文学者』へ戻っていってしまった、といいます。残されたのは、『文学者』とは、とくに縁のない旧同人たち。んもう、こうなったら自分たちだけで新しいものをつくりますか、と言って立ち上がったのが、『炎』だ、とのことです。

 『女流』には第二号から参加した人で、のちに『炎』の生んだ最大の職業作家ともいうべき存在となる、中山あい子さんが書いています。

「私は女流に二度か三度作品が載って、当時の文学界の同人誌批評と云うのに取りあげられ面白いと云われた。云われたがストーリーテラーで、むしろ中間小説だと書かれた。私には中間小説も純文学も分らなかった。

モナミで散々会合を重ね、結局、自分たちで別の新しい本を作ろうと云うことになり、七、八人が残った。勿論そんな頼りない集まりに後援を云い出す会員はなかった。

本の名前をと決め、発行所を私の住む英国大使館にし、編集責任者は私になった。校正も印刷も、前の女流の頃に覚えたので、印刷所も暫くは同じ処だった。」(昭和63年/1988年5月・海竜社刊 中山あい子・著『私の東京物語』「同人仲間と東中野」より ―太字下線は原文では傍点)

 『文學界』の同人雑誌評で、『女流』掲載作として名が挙がったのは、小滝和子、中野雅子、片野純恵、中山あい子、岸田和子、山村錦子、森志斐子、および〈岡本かの子論〉を連載した西岡久子、といった面々でしたが、これが『炎』に移ってからは、中山あい子、森志斐子、山村錦子という3人の作品が、ひきつづき同コーナーでは数多く取り上げられるようになります。

 そこから中山さんは、昭和38年/1963年終盤に、創設されたばかりの第1回小説現代新人賞を受賞、以来中間読物誌を主戦場としながら、エッセイ、対談、テレビ出演で顔と名前がバンバン売れるいっぽう、文学賞という文学賞には何ひとつカスりもしなかったという、身ぎれい極まりない作家人生を歩みました。なので、直木賞とはほとんど関係がありません。

 関係があるのは、『炎』で書いてただひとり直木賞の候補に挙げられた村山明子さんです。

 この村山さんという方が、まあ謎に満ちた、と言いますか、何がどうなって『炎』に参加し、その後、何がどうなったのか、皆目つかめない人なんですが、『炎』に載せた何気ない一作「指のメルヘン」が第51回(昭和39年/1964年・上半期)直木賞の候補になったり、昭和44年/1969年には「蛙」が、『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれたりし、昭和45年/1970年に『炎』に終止符が打たれて以降、もはや消えてしまった伝説の直木賞候補者になりかけたところ、昭和57年/1982年になっていきなり、福沢英敏さんの近代文藝社から旧作を集めた『指のメルヘン』を、今沢明子名義で刊行。

 昔の自作を同人誌に埋もれさせておかず、とりあえず単行本にして、同時代、あるいは後世の読者にその刻印を伝え残す、という意味では、かなりありがたい出版です。だけど、ひょっとして本人にとっては単なる思い出づくり? ……と心配に思うのは、べつにワタクシだけじゃなかったらしく、この本に寄せた宣伝文で、中山さんも書いています。

「20年経ったいまも、彼女の作品が新しいことに改めておどろいている。

これを機会に今沢さん自身も、もう一度、書く姿勢を取り戻してくれたらと、私は本気で考えているのだ。これをただ思い出の作品集で終らせたくない。」(『群像』昭和57年/1982年12月号「近代文藝社の本」広告より)

 しかし、どうやら中山さんの願い空しく、村山=今沢さんが、書く姿勢を取り戻した気配はなかったものですから、ここに一点の曇りもない、消えてしまった伝説の直木賞候補者が完成してしまいました。ああ、どうなったんでしょうかね、今沢さん。

 と、ここからは「ちなみに」のハナシなんですけど、『炎』からは一人の直木賞候補者が生まれたあと、3年後に今度は、芥川賞候補者が出ることになります。北條文緒さんです。こちらは、どうなったか不明なんてことはなく、とりあえず、「のちに自分の候補入りをどう感じたか」などの回想文も残っています。賞違いではありますが、後半はそっちのほうで。

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2017年8月20日 (日)

『文学街』…文学賞ごときで、反逆児の文学熱は動揺しない……ものなのかどうなのか。

『文学街』

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和42年/1967年(10年)、平成10年/1998年8月~

●直木賞との主な関わり

  • 古川洋三(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 直木賞はともかく、芥川賞の世界では、受賞作でしか知られていないような一発屋が多い、いや、べつに芥川賞イコール、レベルが高かったり何十万部も売れたりするわけじゃないのだから、じつは一発も当てていないうちに消えていっちゃった受賞者がゴロゴロいる……などと言われます。

 たしかにそうなんでしょう。わざわざ「じつは」などと、大げさに言うほどの事実じゃない気もしますが、一発も当てていないうちに消えた人といって、まず外せないのが、川村晃さんです。おそらく。

 芥川賞のハナシなんで、駆け足で振り返ります。

 美馬志朗さんを中心にして、昭和32年/1957年に創刊した同人誌『文学街』。あまりに文学への情熱が大きすぎて、月刊で出す! と決めたのがよかったのか悪かったのか、とにかくその、無益だ何だとまわりから冷たい目で見られる時期を過ごすこと5年。さすがに毎月ですから、載せる原稿も底をつきはじめ、同人だった川村さんも仕方なしに、10日ほどかけて新作を書き上げます。するとこれが、『文學界』の「同人雑誌評」で高評価を得て、同誌に転載、まもなく行われた第47回(昭和37年/1962年・上半期)芥川賞でも、文壇ズレしていない素人くさいところが逆にウケてしまい、さらっと受賞に決まります。

 いまから60年も前のことですけど、受賞と決まるとそこにワッと群がるマスコミの狂乱、というステレオタイプな受賞光景が、当時も相当ゲスな感じで展開されたらしく、わいわい持ち上げられる受賞者、それを祝いながらしかし嫉妬を隠せない同人誌仲間、みたいなかなり楽しい(楽しくはないか)状況が生み出されたそうです。

 自身、同人誌『藝文』を運営していた森下節さんは言います。

「「文学街」を主宰した美馬志朗は、下町の印刷所の社長で、自らも文学を目指し同人誌を出しつづけた。

しかし、同人の中から芥川賞作家が出て以来、妙に同人会のムードがぎくしゃくするようになり、川村晃との仲も次第に冷えたものとなった。」(昭和55年/1980年9月・皓星社発売 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第一章 同人雑誌作法」より)

 芥川賞がもたらすひとつの打撃は、受賞者本人だけにおさまるものじゃなく、とくに同人誌に所属している人が受賞することの自然だった時代には、同じ同人、もしくは同人誌の主宰者にも、かなりの衝撃を与えたとは、たしかによく聞くところです。

 ここで、周囲の彼らがどんな反応を示すか。公にどんな文章を残すか。芥川賞と関わった同人誌を見るときの、大きな注目どころでしょう。

 ちなみに美馬さんは、川村さんの受賞のすぐあとで、『文学街』に「川村晃の芥川賞受賞を祝す」という一文を書きました。マスコミが食い散らかす「芥川賞」報道の軽薄さと、それへの嫌悪感、というのは当然のようにコンコンと綴られているんですが、いっぽうでは、自分の心にある嫉妬かもしれない感情を素通りせずに、さすがそこにも分け入ろうと努力しています。

「一昨日ぼくのうちにやつてきた週間文春(原文ママ)の若い記者から、名刺を貰うなり、「同人の方が受賞されると本当にうれしいものですか」と聞かれたとき、ふと頬のこわばるのを意識したのがどうにも苦がくて忘れきれないでいる(引用者中略)「本当にうれしいものですか?」これ程他人の心をのぞきこもうとする無礼な言葉もないが、反面、これほど真実を問うという意味できびしい言葉もないようだ。「本当に」という言葉ほど、ぼく等の世界に生きる人間にとつて恐ろしく苦しい道はない。それをかきわけて生きねばならぬ文学青年のはしくれとして、ぼくはいまなお自分に問うているのである。「おまえは果たして川村さんの受賞を本当によろこんでいるのか」と。」(『文学街』昭和37年/1962年8月号 美馬志朗「川村晃の芥川賞受賞を祝す」より)

 みんなべつに賞が欲しくて文学を志しているわけじゃない、だから賞をとろうがどうだろうが、その作品の本質には何ひとつ関係がない。というのは、まず当たり前です。当たり前すぎて、言葉としても、ものの考え方としても、かなり薄いです。

 自分でも小説を書いているのに、他の同人が賞をとって、ほんとにうれしいものなのか。と聞かれて反射的にムッとした心根の底に何があるのか、そこを考え抜かなくては、どうにも目覚めが悪い。というところから書かれた美馬さんの文章は、やはり面白く、そう考えても美馬さんのような方も、明らかに芥川賞劇場の登場人物のひとりとして数えてもいいものと思います。

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2017年8月13日 (日)

『日本文学者』…戦時下だからこそ直木賞の候補作にも選ばれた、一種の盲点。

『日本文学者』

●刊行期間:昭和19年/1944年4月~昭和21年/1946年3月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 中井正文(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 8月なかば、夏まっさかりの日本です。となれば、やはり戦争にからんだハナシでもしないと、収まりがつきません。

 ……ということで、今週の同人誌は『日本文学者』です。

 仲がいいのか悪いのか、まるで違う志向性をもった数多くの文学青年(と、少しの文学女子)たちが、無理やりのように集められ、みんなで団結すれば絶対に勝てるんだ!と、ほんとに信じていた人もいるでしょうけど、懐疑的な人だっていたにちがいなく、それより何より、「へこへこと体制に追従しなきゃいけない、そんなことまでして文学やりたいのか?」と、きっと自問自答で苦しんだはずのところ、それでもいいから小説書いたり、批評したりしたいんだよお、と同人誌活動をやめることのできなかった人たちの、悲しみの詰まった非営利な雑誌。『日本文学者』です。

 ものの本によりますと、昭和15年/1940年12月、主に同人誌で書いていた人たちが〈日本青年文学者会〉という名前の組織に集められ、その流れから、昭和17年/1942年1月、東京周辺で刊行されていた同人誌のうち、55誌が統合したり、学内雑誌に吸収されたり、廃刊になったりして、結果8つの雑誌に減らされます。『文芸主潮』『辛巳』『正統』『文芸復興』『新文学』『新作家』『昭和文学』『青年作家』(のち『小説文化』)です。じっさいのところ、日本青年文学者会の自発的な措置、ということになっていますが、もちろんそんなことはなく、大政翼賛会文化部、情報局、警視庁という3つの組織からの圧で、仕方なしにまとめさせられたものです。

 そのうち『文芸復興』の切り盛り役を担った妻木新平さんは、戦後になって「日本青年文学者会――戦時下若い作家たちの生態――」を『碑』に連載しました。数々の資料、メモ、内部にいた人からの実感などで構成された、妻木さん最後の大仕事、ともいうべき回想録ですけど、たとえば『碑』13集掲載の第7回には、妻木メモによる、これら8誌の発行部数が記録されています。

 『文芸主潮』1500部、『辛巳』1000部、『正統』700部、『文芸復興』1400部、『新文学』2000部、『新作家』1000部、『昭和文学』1200部、『青年作家』1200部。

「創刊号からその配給会社(引用者注:配給元の日本出版配給株式会社)を通じて、一般書店の店頭にもわれわれの雑誌はならべられたのである。爾来、昭和十九年二月までの二ヶ年間、これら内容外観共同じ八つの文芸同人雑誌が、時を定め、毎月一つせいに発刊され店頭にすがたを見せつづけたのである。八誌とも三種郵便の認可をとり、有料広告原稿をとって……。売上げも相当の成績があがつた。はげしい戦時下によくも……と思う反面、戦時下なればこそ又それが可能であったのかもしれない、この逆説も成りたつかもしれない。一種の盲点だつたようにも思われる。」(『碑』13集 妻木新平「日本青年文学者会(七)――戦時下若い作家たちの生態――」より)

 へえ、けっこうよく売れたんですね。さすが「国家公認」の威力なのか、何でもいいから活字を読みたい人たちの、読書熱のなせるわざなのか、詳細はわかりませんけど、妻木さんが「一種の盲点だった」と感想を抱いているので、そういう面もあったんでしょう。

 上記の8誌体制は、芥川賞のほうでも第15回(昭和17年/1942年・上半期)以降の、候補作の並びに影を落とすことになって、倉光俊夫さんの「連絡員」という受賞作も誕生。同人誌といえば、たいがいは純な文芸を目指すものらしいので、まあ芥川賞に影響が出るのは自然だろうな、と対岸から見物するしかありません。直木賞のほうでは、かつて第12回(昭和15年/1940年・下半期)の候補になった『麦』の古澤元さんが『正統』の中心人物となったことが、めぼしい活躍といえるぐらいで、ほかに直木賞の付け入る隙は見られませんでした。

 ところが、このままで終わらないのが、平時じゃない時代の奇怪なところ。……といいますか、文学賞っていうのは、平時であろうが、およそ奇怪なイベントかもしれませんが、しかしその後の展開は、やはり「奇怪」というしかありません。

 奇怪さを演出することになったのが、8誌体制の崩壊です。昭和19年/1944年4月にいたって、『日本文学者』という、たった1誌に統合させられてしまいます。

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2017年8月 6日 (日)

『新誌』…仲間が受賞すれば狂喜もするけど、同人みんなマイペース。

『新誌』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和58年/1983年5月(20年)

●直木賞との主な関わり

  • 安西篤子(受賞 第52回:昭和39年/1964年下半期)

 神奈川県の鎌倉で、昭和28年/1953年から年2~3回程度刊行されていた同人誌『南北』が、とくに休刊のことばもなく第15号[昭和34年/1959年12月]でお休みに入り、心機一転、新しい仲間も加わって、昭和38年/1963年に再スタートを切ったのが、「新しい雑誌」と書いたこの『新誌』です。

 ……と言いながら、誌名の由来は全然知らないんですけど、これまでブログで取り上げた同人誌と変わらず、これもほとんど、いわゆる大衆文芸とは関係のないところで活動していた雑誌です。

 直木賞というのは、外部にいるワタクシのような人間から見ると、「えっ? どうしてこういう候補作を入れてくるんだ!」と、思わず叫びたくなることが結構あります。たとえば、佐藤正午『月の満ち欠け』なんか、こんなベテランの作品を候補に入れてくることがもう、相当オカしいです。まあ、こういうことを好んで仕掛けてくるのが、直木賞の候補選びの、昔からの伝統かもしれません。

 それで第52回(昭和39年/1964年・下半期)、『新誌』に載った安西篤子さんの作品が、いきなりナ・オ・キ・ショ・ウの候補に挙がったのを見て、「えっ? どうして……」と反応した人がいたのも、よくわかります。この雑誌に同人として参加していた石塚友二さんが書いています。

(引用者注:安西篤子が)若し候補者となり、受賞するとなれば、芥川賞の方こそ相応しい、さういふ作家と考へてゐたのであつた。その安西さんが「新誌」四号に発表した、歴史小説といふよりは、幾らかメルヘン風な作品で以て直木賞の受賞者となつたのだから、その意外さに驚かざるを得なかつたのである。

(引用者中略)

安西さんは直木賞の受賞前に出た「新誌」五号に『うそつき張』といふ題で、やはり中国と中国人を題材とする作品を発表してをり、この作品もなかなかの好短篇であるが、『張少子の話』同様、娯楽的読物の要素といふものはないので、直木賞の概念が、孰れかといへば、中間小説風な作品に対する授賞といふに近い点で、幾らか読者を戸惑はせるものがあらうかと思はれる。範疇を云ふならば純文学に属する性質のものだからである。」(昭和48年/1973年12月・学文社刊 石塚友二・著『日遣番匠』所収「直木賞安西篤子氏のことなど」より)

 つかみどころのない直木賞のふるまいに、驚かされた、ということです。

 だいたい、「この作家は(あるいはこの作品は)純文学だから、芥川賞で評価されるほうがふさわしい!」という発言を、まわりから誘発するのも、立派な「直木賞あるある」のひとつです。とくに珍しい反応じゃないかもしれません。

 このあたり完全に、直木賞の術中にハマっている感はありますが、選評を読んでも選考委員からして、安西さんや「張少子の話」を、大衆文芸の新人とその佳作、と見ることに、数多く疑問符が付けられています。なのに、これを受賞作のひとつに選んでしまったのは、安西さんの師匠・中山義秀さんが選考会にいたことが、他の委員に何らか精神的な影響を与えたんだろうか……と、そういう「場の雰囲気」ってものは、もはや論証の不可能な、単なる臆測でしか語れない事柄ですから、とうてい採用できる説じゃありませんけど、この回前後の選評を読むかぎり、『オール讀物』をはじめとする読み物誌に、すいすいと掲載されるような手アカのついた作風は、あまり直木賞では評価したくない、という考えが、何人かの委員たちに共有されていたことは、たしかなようです。

 でも、そういう直木賞側の事情で、本来、芥川賞が手を出す筋合いのものを直木賞にねじ曲げられた文芸同人誌って、けっこう迷惑だったんじゃないかなあ、と思うと、ちょっと背筋がゾワッとします。どうだったんでしょう。

 この辺、こと『新誌』に関しては、あまりそういうことに右往左往するような雑誌ではなかったみたいです。

 受賞後、安西さんは長く『新誌』に参加しつづけ、大衆読み物誌でバンバン活躍するという路線には進みませんでしたし、同誌の中心的な存在、清水基吉さんも、こう指摘しています。

(引用者注:『新誌』の同人たちは)流行に色目がなく、作風に色気のとぼしいことが長所であり欠点だが、同人は自己の個性に忠実に、マイペースでやっている。そこにおのずから「新誌」の大人(オトナ)的な性格があるといえよう。」(『読売新聞』昭和43年/1968年10月27日「われらのグループ 「新誌」」より ―署名:清水基吉)

 ううむ。こういう雑誌から、何の前触れもなくポロッと無名の人を候補に挙げて、最終的に受賞までさせちゃうのですから、ほんと直木賞というのは、つかみどころがありません。

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2017年7月30日 (日)

『文芸日本』…直木賞の候補にあげられて、たちまち勘違いした新人が、いたとかいなかったとか。

『文芸日本』(第二次)

●刊行期間:昭和28年/1953年1月~昭和35年/1960年8月(7年)

●直木賞との主な関わり

  • 藤井千鶴子(候補3回 第37回:昭和32年/1957年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第42回・第51は別で発表した作品
  • 福本和也(候補2回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第40回:昭和33年/1958年下半期)
  • 水島多樓(候補1回 第39回:昭和33年/1958年上半期)

 先週のエントリーで、ちょっとだけ名前が出てきた大森光章さんですが、『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)という本を書いています。

 これがまた、無類に面白い文壇回想録で、「ちょっと純文学で注目されかかったこともあったけど、まもなく売文稼業に身をやつしてしまった作家が、ひがんでいるという自覚を隠さずに綴った、折り折りに出会った作家・評論家・編集者たちの言動」という風合いがあり、武田泰淳、榊山潤、色川武大、菅原国隆、中河与一、駒田信二、松村肇、尾崎秀樹、西野辰吉、林富士馬、萩原葉子、と章の名前になった人々をはじめ、いまだから言える、というエピソードが満載。「これを楽しんで読んでしまう、あまりにゴシップ好きな自分」に気づいて、つい暗い気持ちになってしまうこと請け合いです。

 それはともかく、大森さんと関わりの深かった雑誌のひとつに『文芸日本』があります。同書にも登場します。

 定価をつけて販売し、昭和30年/1955年までは書店でも売っていたそうですから、いわゆる半商業誌的な性格があったはずですが、『文學界』同人雑誌評の対象になっている、という意味では同人誌の一種と見てもいいでしょう。

 昭和14年/1939年、それまであった『東陽』誌の後継のような位置づけで、尾崎士郎、富沢有為男、大鹿卓といった面々が同人に名を連ねて『文芸日本』創刊。その編集長の座にあったのが牧野吉晴さんで、終戦間近に休刊したのち、昭和28年/1953年にいたって同じタイトルの雑誌を再創刊することになるんですが、いったんは、モンココ化粧品の経営者の家族だった大鹿卓さんが、多少は裕福ということもあって編集発行人となり、金園社に勤める伊藤桂一さんがせっせと雑誌づくりに当たっていたものの、やがて榊山潤さんが編集責任者格で、実質上のトップにつきます。

 牧野さんは戦後、大衆雑誌、倶楽部雑誌でかなりの金を稼げる作家になっていたので、復刊した貧乏所帯の『文芸日本』には、相当な金銭的援助をつづけたそうです。しかし何より大きかったのは、当時まだ編集者だった尾崎秀樹さんを個人的な秘書役として抱え、毎月の給料を与えながら、『文芸日本』の編集を手伝うように、榊山さんのもとに行かせたこと、だったと思います。

 榊山―尾崎ラインの、二人の編集上の役割は、もはや判然としませんが、しかし以来ぞくぞくと、同誌から直木賞(やらもうひとつの賞やら)の候補作が選ばれることになるからです。

「大鹿卓が編集発行人だった時代は、比較的ふるい作家、すでに文壇的地位をかためていた作家が多く登場したが、榊山時代に移ると積極的に新人を起用するようになった。伊藤桂一、大森倖二(光章)、葉山脩平(原文ママ)、福本和也、藤井千鶴子、林青梧、水島多樓(今日泊亜南(原文ママ))などである。後藤明生や吉村昭にも声をかけた。新人の作品の評価では私と意見が分れることも少くなかったが、榊山さんが後進にかける期待は絶大なものがあった。なかには芥川、直木賞にノミネートされ、最終まで残った作品もあった。」(平成12年/2000年10月・北溟社刊 尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「榊山潤」より)

 榊山さんが尾崎さんの手を借りて『文芸日本』を切り盛りするようになったのが、昭和30年/1955年秋ごろから。昭和28年/1953年にはすでに、新人・伊藤桂一さんの「黄土の牡丹」が載って、芥川賞の候補になっているので、彼らが同誌と直&芥との橋渡し役になった、とは言えないんですが、しかし昭和32年/1957年から昭和33年/1958年、突然のようにこの雑誌から直木賞候補が、バタバタッと出たのは、新人作家に門戸を開こうという編集方針が、うまく効いたものには違いありません。

 直木賞の候補になったそれぞれの作家が、どういった縁で、この雑誌に書くことになったのか、だいたいが不明ではあるんですけど、今日泊亜蘭さんについては、峯島正行さんがその評伝でこう記録しています。

「「文芸日本」に今日泊が執筆したのは、一に佐藤春夫の推輓による。

(引用者中略)

春夫は、今日泊の父、水島爾保布の友人であった。」(『大衆文学研究』111号[平成8年/1996年7月] 峯島正行「評伝・今日泊亜蘭(2) 処女作・桜田門」より)

 『東陽』のころから、そこにたむろっている人たちは、佐藤春夫門下だと見られていて、『文芸日本』もやはり、佐藤さん系列の雑誌、という性格があったようです。ということは藤井千鶴子さんも、夫が慶應出身の医師、それで戦後は『三田文学』の佐藤さんや木々高太郎さんに師事した、と言われていますので、その関係で『文芸日本』に作品を寄せ、掲載されたのかもしれません。

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2017年7月23日 (日)

『東海文学』…直木賞選考委員を敏感に反応させた、ちっぽけな(?)同人誌。

『東海文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年9月~昭和56年/1981年11月(22年)

●直木賞との主な関わり

  • 江夏美好(候補2回 第50回:昭和38年/1963年下半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
  • 井上武彦(候補2回 第53回:昭和40年/1965年上半期~第59回:昭和43年/1968年上半期)

 先週、新たに第157回(平成29年/2017年上半期)の直木賞が決まりました。こういうときはやはり、その受賞まわりに関連したエントリーが書けると美しいんですけど、まったく手持ちの話がありません。無理にあらがったりせず、今週も直木賞史に食い込んだ同人誌のことでいきたいと思います。

 名古屋で出されていた同人誌『東海文学』は、昭和56年/1981年、ちょうど80号で終刊しました。ここから選ばれた候補作は、芥川賞のほうは0、対して直木賞では4つ、という記録が残っています。

 もちろん(というか)べつに、この雑誌は「大衆文芸」を目指していたわけじゃありません。じゃあ、何で直木賞に? と思って調べてみると、この雑誌に連載されて本にまでなった江夏美好(当時の筆名は江夏美子)さんの『脱走記』が、直木賞の候補に挙げられる過程には、ひとりの直木賞選考委員の姿が、ちらちらと見え隠れしています。

 そもそも『東海文学』は、昭和32年/1957年に夫の仕事の都合で名古屋に移り住んだ江夏さんが始めた雑誌です。当時、すでに名古屋にあった『作家』の合評会に参加してみたけど、水が合わず、『文芸首都』に投稿をつづけたものの、遠隔の地ゆえなかなか満足いく批評も得られない、それじゃ自分たちでやろうか、という感じだったみたいです。

 すると創刊号から、『文學界』の「同人雑誌評」コーナーで取り上げられ、第3号に載った井上武彦さんの「被害者」が、『文學界』昭和35年/1960年11月号で同人雑誌ベスト5に選ばれるなど、早くから注目を浴びます。

 主宰の江夏さんの作品も、高評価をもって受け取られました。同コーナーでは、ほぼ常連のように批評の対象とされ、昭和36年/1961年4月号で「天狗の女」がベスト5、同年7月号には「幻想の刄」が優秀作として『文學界』に転載されたりします。当時の「同人雑誌評」の転載作・ベスト5は、ほとんど芥川賞候補のメッカと言ってよく、確実に江夏さんの作品も、芥川賞候補のそばまで行きました。ちなみに、「幻想の刄」が転載された号のベスト5は、江夏さんのほか、伊藤桂一「黄土の記憶」と大森光章「名門」。いずれも、のちに芥川賞の候補作になったものです。

 さあ、ここで登場するのが、芥川賞ならぬ直木賞。「大衆文壇の顔」と、どうしてもイメージされがちな川口松太郎さんです。

 「幻想の刄」を読んだ川口さんが、励ましのハガキを江夏さんのもとに送ったところから始まり、江夏さんの旧作に対する批評や、『東海文学』で連載のはじまった「脱走記」への、ほとんど叱咤の類いの手紙がバンバン送られることになって、江夏さんを震え上がらせ(?)、いや喜ばせ、完結した「脱走記」が光風社から本になるときに、よかったら帯の推薦文を書こうか、と川口さんみずからが声をかけた、ともいいます。

 本ができあがったとき、どうして江夏の本の推薦文が川口松太郎なの? ……と、不思議がった人々のことを、江夏さんが書き留めています。

「外部のある人がこういった。「川口先生が……。へーえ、またどういう因縁があってでしょうかね」

と、それはまるで、川口先生と東海文学というこのちっぽけな同人雑誌とのあいだに、関連があってはならないものであるとも、あるいは逆に、なにか縁故関係の匂でもあるという風な口調なのである。私は、はじめ否定も肯定もしなかった。そのうちに、決然と眉をあげてこうこたえた。「先生とは個人的になんの関係もない。いえ、はじめはなかった。けれど先生が、こんなちっぽけな同人雑誌にまで、眼を通していて下さったことはたしかです」」(『東海文学』16号[昭和38年/10月] 江夏美子「記念会前後」より)

 「決然と眉をあげて」というあたりが、おそらく江夏さんの人となりの一端を、よく現わしているんでしょう(まあ、お会いしたことはないので、わかりませんけれど)。

 とにかく、同人誌の発行っていうのは、一冊一冊をつくり上げるのに、相当な苦労が必要です。そこまで苦労したって、江夏さんいわく、よほどの友人でないかぎり、感想や批評を返してくれる人など、まずいません。なのに、知り合いでもなければお金が発生するわけでもない相手の、同人誌に載っている作品に対して、こうしたほうがいい、これは駄目だ、とわざわざ手紙を送りつづけてくれる先輩作家の存在は、純粋に貴重なものだった、ということですね。

 「ろくに候補作も読んでこないくせに、テキトーな選考をして偉そうにしている大衆文壇の大家」という、まあ、直木賞選考委員というと、まじめな文学愛好者たちなら、つい抱いてしまいそうな印象がありますが、川口さんとのやりとりで、そういう思い込みはまったく覆された、といったようなことを江夏さんも書いています。「川口松太郎ってじつは謙虚だった」説を補強するエピソード、と言っていいかもしれません。はたからは、たとえば川口さんの選評を読んでもなかなかそうは思えない、というところが、また松太郎ブシのマジックといいますか、川口さんの魅力なんでしょう。

 それはともかく、『脱走記』が第50回の直木賞候補になったかげには、やはり川口松太郎さんの推薦の効果があったものと推測され、忙しいさなかでも同人誌の小説に目を通す、当時の選考委員の努力が、『東海文学』を直木賞の場にひっぱり込むきっかけになったことは、たしかです。

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2017年7月 9日 (日)

『北方文芸』…同人誌とも商業誌ともちがう茨の道を歩んだ志、あるいは執心。

『北方文芸』

●刊行期間:昭和43年/1968年1月~平成9年/1997年3月(29年)

●直木賞との主な関わり

  • 澤田誠一(候補1回 第60回:昭和43年/1968年下半期)
  • 木野工(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第66回:昭和46年/1971年下半期)
    ※ただし第47回は別の雑誌に発表した作品

 いったい「同人誌」って、どういう雑誌のことを指すんでしょうか。人によって定義は違うみたいです。

 「大衆文芸」にしろ「純文芸」にしろ、いや「ミステリー」「ホラー」「SF」をはじめ、その他多くの、直木賞まわりの用語は、けっきょく、どこに境目があるのかはっきり示せない類いの概念ばかりで、そういうなかで80何年もやっていれば、そりゃ、どこかムチャクチャな賞になるよなあ、と納得できないこともありません。

 いまや、主催者・日本文学振興会のサイト上での直木賞の説明が、「大衆文芸」ではなく「エンターテインメント作品」となり、また「単行本(長編小説もしくは短編集)のなかから」選ばれる、と変更されたことを見ても、まあ、定義のしづらい文学賞です。

 それで、同人誌のことですが、うちのブログは「同人誌のことを取り上げる」というより、「直木賞のなかでの同人誌を取り上げる」ことしかできません。直木賞が一時期まで担っていた、東京の文芸出版にとって新しい作家を見出して紹介する、という役割を考えたとき、ここでいう同人誌の性質も、おのずといくつかの条件に絞られていきます。

 取次を介した全国的な流通に載っていない。ということに加えて、日本文学振興会(あるいは『文學界』同人雑誌評コーナー)に定期的に寄贈を続けている。そういう雑誌です。

 前置きが長くなりました。今週の『北方文芸』は、札幌を中心とした書店で売られ、また原稿が載ればギャラもいくばくか支払われたと言い、同人以外の寄稿はお断りということもなく、要するに「地方(文芸)誌」のひとつなんですが、しかし商業誌とも言い切れないところが、大きな特徴のひとつだったようです。

「いわゆる同人雑誌とは一味違い、投稿や原稿依頼、地元同人雑誌からの再録など“開かれた同人雑誌”的性格を持っている。毎月の発行に必要な六十万円の経費は広告と販売収入、維持会員の会費などでまかない、「商業雑誌並みにはいかないが、安い原稿料と事務局のお嬢さんたちの犠牲で何とかやっている」という。」(『朝日新聞』昭和51年/1976年5月31日「百号を迎えた「北方文芸」」より)

 カネはない。しかし志はある。……というところで、約50年まえの昭和43年/1968年、小笠原克さんやその仲間たちが集まって、雑誌づくりの機運が盛り上がり、「たまには損する商売もやってみよう!!」(『北方文芸』昭和44年/1969年4月号「“汗顔”の辞」)とその刊行を引き受けたなにわ書房店主の浪花剛さんの英断で創刊されたそうですが、1年4か月、月刊で16冊出すまでのあいだに、赤字ばかりがどんどん膨れ上がり、志はあってもカネがない、という状況に陥って休刊を発表。

 すると、終わるとなったら、惜しむ声が沸き出してきて急に注目されはじめる、例の展開が待ち受けていたのは、『北方文芸』創設グループメンバーの、日頃からの人徳のたまものでしょう、即座に再建に向けていろいろと声もあがり、ほぼ1か月分のブランクを経て、巻号を継続して〈第二次〉『北方文芸』は再出発を切ることになります。

 その後は着々と、脈々と刊行をつづけ、カネがない、赤字つづきだ、とえんえんと言い続けながら30年弱。この夏には、北海道立文学館で特別展「「北方文芸」と道内文学同人誌の光芒」(会期:平成29年/2017年7月1日~8月27日)が開かれるほどに、地域でも(あるいは全国的にも)温かく愛される存在となりまして、平成9年/1997年に幕を閉じるまで、月刊の体制を維持しました。

 その紆余曲折のなかでも、この雑誌に載った作品を、早い段階で候補に選んだ文学賞が、直木賞です。芥川賞ではありません。

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