カテゴリー「初候補で受賞した作家列伝」の47件の記事

2012年5月20日 (日)

佐藤賢一(第121回 平成11年/1999年上半期受賞) 「時期尚早だよ」「順調な人生だね」などと言われて、「違う!おれだって苦労してきたんだ!」と叫ぶ31歳。

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佐藤賢一。『王妃の離婚』(平成11年/1999年2月・集英社刊)で初候補、そのまま受賞。「ジャガーになった男」でのデビューから6年。31歳。

 よほどの小説好き以外、名を知られていない。そんな作家に、パッと一瞬光が当たる。光の余韻が解けるころにはまた、よほどの小説好き以外、名を知られていない作家に戻っていく。……直木賞劇の見どころ・見せどころです。

 あ。佐藤賢一さんを「名を知られていない作家」などと呼んだら違和感ありますか?

 ただ、まあ、アレです。「同じ舞台に立った他の誰よりも地味」っていう意味で、村山由佳さんより桐野夏生さんよりマイナー感を放っていますよね、いまでも。

「デビューの頃というと、あまり明るい思い出がない。(引用者中略)

デビュー作が売れていれば、もとの有頂天を取り戻せたのかもしれない。が、現実は甘くなかった。ぽっと出の新人が簡単に売れたり、話題になったりするものではないと、そういう慰め方も私にはできなかった。同時受賞が村山由佳さんで、その受賞作が今頃になって映画化されるまでもなく、いきなりベストセラーになったからだ。同じ年の純文学のほう、すばる文学賞が引間徹さんだったが、こちらも受賞作が芥川賞の候補になった。今年出た新人として、三人で左右に並んでおきながら、私ひとりが売れず騒がれずに埋没する体だったのだ。」(『青春と読書』平成19年/2007年2月号 佐藤賢一「苦悶煩悶の二年間」より)

 ははあ。引間さんはどうだったか詳しくありませんが、村山さんを取り巻くビジュアル戦略まじりのスタート・ダッシュこそ、異常だったと思います。「小説すばる新人賞」受賞ぐらいでは、基本、それほど売れないでしょうなあ。

 村山さんとの同時受賞だったのが運のツキと言いますか。売れない、目立たない。その状況を佐藤さん、「一度死にかけた」と回想しています。

佐藤 新人賞を取ったときは、みんな「これで未来が開けた」みたいな気持ちになるわけなんですが、実際この世界って新人賞を取っただけで消えていく人もたくさんいるわけですから。

 僕はそういった新人生き残りレースで、一度死にかけたところがあるわけで、そのときは非常に苦しかったですね。(引用者中略)

 そのときはもう苦しい苦しいだけだったんですが、あとで振り返ると「おれはあのとき死にかけたんだな」と。僕は、単行本が出てそれが文庫本になるまで4年かかってるんです。普通は3年なんですが、僕は3年目では生き残れていなくて、その後でやっと生き残れたんで文庫になったんです。

宮崎(引用者注:宮崎緑) 文庫になることが作家として生き残ったということなのですか。

佐藤 何冊か続けて出る見込みがないと文庫にはなりませんから。僕はデビューしてから次回作が出るまで2年くらいかかったんですよ。その次回作が何とか出たんで、デビュー作も文庫にしてもらえた。だから、あのときに2作目を出せなかったら作家として死んでたんだなと思いますね。」(『週刊読売』平成11年/1999年10月10日号「宮崎緑の斬り込みトーク」より)

 4年だの3年だのと、具体的な数字を出して話してくれるところが、ワタクシ、好きです。歴代の小説すばる新人賞受賞者のうち、「死んでしまった」認定された人は誰だったかな、と調べるときには集英社文庫リストを見ればいいので便利です(って、こらこら)。

 それは冗談としまして。

 新人賞のときだけではありません。直木賞のときも、佐藤さんのかたわらには、きらびやかな女性が立っておりました。多くの人の視線が、隣に向いてしまう事態、パート2です。

(引用者注:桐野夏生と)東京会館の記者会見と文藝春秋の社屋で、二度ほど顔を合わせているが、たいへん御綺麗な方であることも手伝って、私は大いに気後れしたことを覚えている。記事や広告等々で何度も写真を拝見していたため、こちらは即座に桐野さんを見分けられた。有名人と会った、と些か興奮したくらいだ。が、桐野さんのほうは私の顔も名前も、全くの初見、初耳という感じだったに違いない。佐藤賢一? 誰だ、それ。記者会見場の衝立に潜みながら、そんな記者さんの言葉を現に私は聞いている。怒るより、苦笑する。無理もない、と思うからである。桐野さんに比べると、我ながら、ぽっと出の小僧の感が否めない。」(『青春と読書』平成11年/1999年9月号 佐藤賢一「冠の戴き方」より)

 「佐藤賢一? 誰だ、それ」。……いいなあ、その言葉が耳に入ってきたことを忘れずにおいて、受賞記念エッセイに書きつける姿勢が。

 晴れの舞台で、スポットライトを同時受賞者に奪われてしまう星のめぐり合わせ。さすが佐藤さん、モッてますねえ。そういうとこ、大好きなんです。

 上記のちょっとした引用でもおわかりのとおり、少なくとも当時の佐藤さんは、ずいぶんと「売れる」「騒がれる」「他の作家と比べてどう」といったことに敏感でした。そして敏感な感覚をインタビューやエッセイなどで披露してくれています。

 これはワタクシの当て推量というより、佐藤さん自身が語っています。いまはそういうことを考えなくなったが、かつては気にしていた日々があった、と。

「売れるとか、騒がれるとか、他の作家さんと比べてどうとか、そんなことも考えなくなったからには、自信も回復したのだろう。音楽に譬えるならば、純文学はクラシックのようなもの、エンターテインメントのなかでも恋愛小説はポップス、ミステリーはロック、してみると、歴史小説は演歌なのだ。他と比べても仕方がない。苦節十年二十年は当たり前で、すぐには芽が出ない。爆発的に売れるジャンルでもないが、地道に続けてさえいれば、必ずや報われるのだ。」(前掲「苦悶煩悶の二年間」より)

 そうであってほしいものだと思います。ほかの同種文学賞に比べて、直木賞はとくに歴史小説や時代小説にも温かい賞ですが、その姿勢がミステリー愛好者からボロクソ言われて歩んできました。苦節ン十年、地道に続けてきました、そんな直木賞は、いま報われていますもんね。

 ……ん? 報われているのかな。

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2012年5月13日 (日)

星川清司(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 文学賞の候補になるのは嬉しい。でも「世俗」は嫌い。そんな彼が選択した手法は年齢詐称。

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星川清司。「小伝抄」(『オール讀物』平成1年/1989年10月号)で初候補、そのまま受賞。「菩薩のわらい」での小説家デビューから19年。68歳。

 きらびやかなものが嫌いで、恥ずかしがり屋で、地味で。どう考えても、星川清司さんは、直木賞のなかでも「ひっそりと陰に咲く名無し草」っぽい役回りです。

 その星川さんがまさか21世紀に、直木賞トップ・ニュース(?)の上位に食い込み、俄然注目を浴びることになるとは。想像だにしなかった事態に直面して、驚いた方も多いと思います。ワタクシもそのひとりです。

「小説「小伝抄(こでんしょう)」で直木賞を受賞した作家、脚本家の星川清司(ほしかわ・せいじ、本名・星川清=きよし)さんが、肺炎のため平成20年7月25日に死去していたことが分かった。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。

 星川さんは東京都生まれ。脚本家としては市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズなどを手がけた。

 家族によると、大正15年10月27日生まれと公表してきた生年月日は、じつは大正10年で、亡くなったのは86歳だった。平成2年に直木賞を受賞したときは68歳で、古川薫さんが持っている受賞最年長記録より年長だったことになる。星川さんは家族に、自身の死を公表しないように伝えていた。大正15年生まれの妻に「運が強いから大正15年生まれをもらうよ」と語っていたという。」
(『産経新聞』平成22年/2010年4月10日「訃報 星川清司氏死去 直木賞「最年長」受賞」より)

 ほんとは68歳で直木賞受賞。なのに5歳サバ読んで、63歳で受賞、ってことにしていたという。68歳の受賞ともなれば、堂々の最高齢受賞です。タイトルホルダーです。直木賞のことが大好きな新聞各紙は、当然、この件にガツガツ食らいつきました。

 おそらく、生前の星川さんは、こういう事態になるのがイヤだったんだろうなあ。

 星川さんは、平成2年/1990年1月に直木賞を受賞しました。以後いくつかの場で、自分のことを語らざるを得ない状況に陥ります。彼はどう処したか。嘘(というか省略)をかなり含みつつ、自分を語りました。年齢のこと、名前のこと、小説執筆の遍歴のこと、などなど。

三枝(引用者注:桂三枝) 「星川清司」さん……きれいなお名前ですね。

星川 そうでしょうか。

三枝 これ、ペンネームですよね、もちろん。

星川 いえ、本名です。

三枝 ご本名ですか。

星川 はい。」(『週刊読売』平成3年/1991年9月29日号「三枝のホンマでっか」より)

 おお。この流れるような受け答え。とうてい嘘をついているようには読めませんが、星川さん、本名は「清(きよし)」さんというのだそうです。

 この対談では『オール讀物』に登場するまでの経緯も語られています。こんな感じです。

星川 小説書いてもそれを発表する場所のあてはなかった。あるとき、友人に聞いたんです。新人が最も登場しにくいのはどこだと。「オール読物」だろうという答えでした。まず新人賞に応募して、それを取って筋道をつけてから登場していくものだと、そう言うんです。

三枝 それで……?

星川 ですが、私はもう若くはなし、そんな暇(ルビ:いとま)はない、そう思いましてね。どのみち、これは腕だめしだから持ち込み原稿をやろうと、自分で決めたんです。それで「オール読物」編集部を訪れまして……。

三枝 全然、面識なかったんですか。

星川 はい。

三枝 向こう、何者だろうと思ったでしょうねえ。

星川 まあ、私が映画の世界にいた人間だということは知ってましたけれど……。そのとき渡しました作品が「小伝抄」です。」(同)

 この対談以外でも、星川さんは、似たような説明をしたのかもしれません。昭和46年/1971年、中央公論社の人に焚き付けられて何篇かの小説を書いたものの、それは別として、本気で小説を書こうと思って発表にいたった第一作が「小伝抄」、それで突然直木賞を受賞……みたいなストーリーです。

 しかし、このハナシ、信用できるでしょうか。星川さんが別に書いた自伝、「不運と幸運が綯い交ぜで」では、少し様相がちがっているんです。

「わたしはよっぽど強運なやつらしくて、「オール讀物」編集部に電話紹介してくれるひとがあらわれた。あす、文藝春秋へすぐにいきなさいという。もうすこし書きためてと思っていたのだけれど、あわてて原稿を持参した。当時編集部次長の設楽さんとおめにかかった。

 「稀なる幸運に恵まれた」と設楽さんがいった。持ち込んだ原稿のうちのひとつ、百枚のものが、渡してから五日ほどして、「オール讀物」に掲載が決まった。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 星川清司「不運と幸運が綯い交ぜで」より)

 これが星川さんの『オール讀物』初登場作、「闇のささやき」(昭和63年/1988年11月号)の掲載経緯だといっています。

 いったいこの食い違いは何なのでしょう。なぜ対談では、自分で持ち込んだように聞こえる言い方にしたのか。……「電話紹介してくれたひと」だの「編集部次長の設楽さん」だのの存在を敢えて省略したのかもしれません。彼らに要らぬ迷惑がかかることを避けるために。

 新人の作品で百枚、百五十枚の長さのものは、そうやすやすと載せてくれるわけがなくて、昭和63年/1988年に第一作が出てから、約1年間、時間がかかった、その2作目がみなさんご存じの直木賞受賞作です、などといちいち説明するのは、たしかにかったるい。「小伝抄」より前に作品を発表していたことなど、どうせ多くの人は興味がないだろうから、そこは省いてしまおう、とも考えたかもしれません。

 どうなんでしょう。正直わかりません。なにせ、星川さんは身の上話をイヤイヤしていたような人です。ワタクシらのような興味本位至上人間に、ほじくり返されるのがお気に召さないかのごとく。そんな彼の語ることの、どこまでを信用していいのでしょう。お手上げです。

「自伝とかいうようなものは、これから先、もう書かないつもりだ。書きたくない。これはいわば直木賞受賞者の義務だから、致し方なく、需めに応じて書くことにした。

 身上咄の類いは、もうこれでおしまい。」(同)

 まあたしかに、自分の死でさえも世間に隠そうとしていたほどですからねえ。よほど、身の上話を避けたかったようで。

 ええ、そう考えますと、なぜ5歳年齢を詐称したのか。「寅年生まれは運が強いからと寅年の大正15年/1926年生まれを称した」と明かされたその理由までも、まだ真実を語っていないのではないか、と疑いたくもなろうというもんです。

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2012年5月 6日 (日)

大沢在昌(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) ライバル作家に続いて、遅まきながらいよいよこの人も。文学賞をとって大にぎわい。……ってハナシは3年前に終わってますけど。

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大沢在昌。『新宿鮫 無間人形』(平成5年/1993年10月・読売新聞社刊)で初候補、そのまま受賞。「感傷の街角」でのデビューから14年半。37歳。

 ひとりの直木賞ファンとして、「くやしい」作家ってのがいます。大沢在昌さんはまさに、多くの直木賞ファンをくやしがらせた人、と言っていいでしょうなあ。

 というのも、「大沢在昌ブレイク」の手柄を、みんな他に奪われてしまったからです。

 '91年版の「このミス」(平成3年/1991年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'91年版』)にはじまって、平成3年/1991年春の吉川英治文学新人賞、それから日本推理作家協会賞。

 『新宿鮫』(平成2年/1990年9月刊)の一作は、大沢在昌ここにあり、を世間に知らしめた記念碑的な作品でしたが、まず読者たちから熱い称賛を受けました。永久初版からの脱出を果たしました。そして、平成2年/1990年刊行物を対象とした賞レース。直木賞はボヤボヤして、何もからむことができませんでした。くやしいと言うほかありません。

 元来、文学賞は良さ、利点、うまみといったものも持っています。そのことを先に大沢さんに教えたのは、くやしいかな、吉川新人賞のほうでした。直木賞でなくて。

「今回の受賞(引用者注:吉川英治文学新人賞受賞)で自分は物凄く幸せだと思ったことがあるんです。例えば吉川賞のとき、推理作家協会理事の山村正夫さんが「飲みに出ておいでよ」とおっしゃってくれたし、選考委員の謙ちゃん(引用者注:北方謙三)も「大沢、出てこい」って。彼は「大沢に対して強い立場にあったけど、これでもう俺は権力を失った」なんていってましたけど、自分のことのように喜んでくれました。(引用者中略)

 小説家というのは、お互い友だちであると同時にライバルでもあるわけです。だから、誰かが賞を取ると“良かったな”と思う反面、“ちくしょう。どうして俺じゃないんだ”と思う部分がないといえば嘘になる。なのに、みんながみんなと言っていいほど、僕の受賞を凄く喜んでくれました。僕はこの人たちに嫌われてなかった、良かったと、しみじみ思いました。」(『週刊文春』平成3年/1991年4月25日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 大沢在昌」より)

 でしょう、でしょう。自分自身の喜びを超えて、まわりの人たちも喜んでくれる、文学賞の温かさ。それを、大沢さんに実感してもらうチャンスは(『新宿鮫』一作の件でいえば)、先に直木賞のほうにあったのに……。

「この原稿は、吉川英治文学新人賞の授賞式の翌日に書いている。(引用者中略)正直、プレッシャーに怯えていた。これほどにも運に恵まれた作品のシリーズ第二作、手が動かないのではないだろうか、と。

 だが、不思議なことに、至極スムーズに手は動いた。なぜだろう、たぶん、ふたつの賞(引用者注:吉川新人賞と日本推理作家協会賞)の重みが、私の手を動かざるをえないようにしているのだ。つまり、上からの圧力ではなく、中からの圧力として働いて。

 恥ずかしい作品は書けない。が、これも不思議なことだが、恥ずかしい作品にならない予感もある。

 いただいてわかったこと。賞とは、もの書きにとり、すばらしい栄養剤である。」(平成10年/1998年1月・小学館/小学館文庫 大沢在昌・著『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』所収「栄養剤二本」より)

 でしょう、でしょう。文学賞ってすばらしいものでしょう。だけど、そのすばらしさを伝え得たのは、直木賞ではなかったわけで……。

 大沢さんは平成3年/1991年、『新宿鮫』がダブル受賞!って話題を受けて、数多くのメディアに登場しました。3年後、平成6年/1994年に第110回直木賞を受賞したときも、同じくさまざまなインタビューを受けました。

 語ることといえば、子ども時代の読書体験、慶應大学で遊び呆けて中退し、父親に怒られたこと、小説推理新人賞をとるまでの経緯、とってからの「売れない」期間の長さ、「永久初版作家」と言われたこと、冒険作家クラブを中心としたライバル作家たちの交流、などなど……。直木賞後に語られるハナシはほとんど、3年前に、吉川新人賞・推理作家協会賞のときに流布したストーリーの繰り返し、といっていいほどだったんです。

 この展開を目の当たりにして、くやしくならない直木賞ファンなどいるのでしょうか。

 大沢さんと賞、っていう世界のなかでは、直木賞なんてのは、同じ味の料理のおかわり、と言いますか。視聴率を集めたドラマの昼間の再放送、と言いますか。それはそれで意味はあるけど、新鮮味に欠けるのはいかんともしがたい。

 大沢さんに言わせますと、直木賞とは、以前の賞に比べて、この程度の違いしかなかったようなのです。

三枝(引用者注:桂三枝) やっぱり直木賞受賞すると、周りの雰囲気とか変わってくるもんですかね。(引用者中略)

大沢 四年前に『新宿鮫』というのを出しまして、それで賞をもらって、本も急に売れるようになったんです。そういう意味では多少、免疫ができていたつもりでいたんですけれども、やはり、ちょっと違う賞かなと。

三枝 ほおぅ。

大沢 例えば、この前、飲んでたら、伊集院静さんに呼び出されまして、何人かお連れの方がいらしたんですが、「こちらが直木賞とった大沢さんだよ」って伊集院さんが言うと、座ってた人たちが一斉に、「あッ」と言って立ち上がるんですね。これが直木賞かいなあ、とねえ(笑)。」(『週刊読売』平成6年/1994年2月20日号「三枝のホンマでっか!」より)

 何だか文学賞を毛嫌いする人たちが、なぜ毛嫌いするのか、その理由がわかるようなエピソードじゃありませんこと? 作品の内容とか、作家としてのこれまでの歩みとか、そういうのを語らずして、単に「何何賞をもらった」というだけで周囲の扱いが変わる気持ち悪さ。

 文学賞のおいしいところは全部、吉川新人賞あたりに持っていかれてしまい、イヤな面、チャカされる面、馬鹿にされる面を直木賞がひっかぶる構図、とでも言いましょうか。まあ、そうですよね、直木賞ってけっこう損な役回りですもんね、と愛おしくなる場面でもあります。

 『新宿鮫』でだって、四作も待たずに、ズバッと一作目で受賞させて、おお直木賞もなかなかヤルじゃん、と拍手されるチャンスはあったのに。いや、それ以前だって、プロフェッショナルなエンタメ作家、でもあまり世間に評価が広がっていない作家、そういう人を世に紹介する、なんちゅう直木賞が威力を発揮する恰好の舞台が、大沢在昌さんのまわりには何年もあったのに。

 直木賞君。かわいそうだけど、あなたの損な役回りは自業自得のようです。

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2012年4月29日 (日)

千葉治平(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) この人のせいで二人の選考委員のクビが飛んだ!とさえ言われてきた、強烈な受賞者の誕生。

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千葉治平。「虜愁記」(『秋田文学』23号~27号[昭和39年/1964年8月~昭和40年/1965年11月])で初候補、そのまま受賞。「蕨根を掘る人々」でのデビューから19年半。44歳。

 第54回(昭和40年/1965年下半期)の直木賞は二人の受賞者を生みました。先週の主役、新橋遊吉さん。そして、もうおひとりは直木賞史を語るうえで絶対欠かすことのできない方。「超」が10個ぐらい付くほどの重要人物、千葉治平さんです。

 どちらの人も地方の同人誌作家でした。東京の商業誌にまったく登場したことがありません。受賞直後、選考経過をまとめるにあたって新聞記者はこう書きました。

「今回の直木賞は、将来に期待できる新鮮な人を選んだのが特色。」(『毎日新聞』昭和41年/1966年1月18日「芥川賞高井有一氏 直木賞新橋、千葉氏 選考経過」より)

 しかし奥さん。あなたは、その後の千葉治平さんの活躍をご存じですか?

 千葉さんは身のほどをわきまえた方でした。「賞」に躍らされて東京進出、なんちゅう愚行をするはずがありません。秋田の地で定職に就きながら、終生、こつこつとおのれの道を邁進いたしました。

 高橋春雄さんにいわせると、こういうことです。

「直木賞受賞後は『八郎潟・ある干拓の記録』等のほか創作は寡作。「虜愁記」では中国の風土に圧倒されている作者のロマンティシズムのふくらみが、職業作家に堪えられる質のものでなかったかとも思われ、思想の上の低迷があったかとも思われる。プロ作家になりきった新橋遊吉と対照的である。」(『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:高橋春雄)

 寡作。いやもう、寡作どころの騒ぎじゃありません。まもなく、秋田を離れた地では、千葉さんのお名前や作品を見かけることが、ほぼなくなったほどです。受賞作の「虜愁記」ですら、文藝春秋がいちど単行本化しただけで、そのほかで読むことができない、という直木賞受賞者としては珍しい状況がつくり上げられていきました。

 だからでしょう。かの有名な(?)直木賞の定説まで誕生してしまったのです。直木賞が「将来職業作家としてやっていける人」ではなく、「すでに職業作家として人気を勝ち得ている人」を選ぶようになったのは、昭和40年/1965年下半期のこの回が分岐点だった、っていう。

 ええ、そうですね。この定説を語るのであれば、二人の選考委員のハナシを抜かすわけにはいきませんよ。小島政二郎さんと木々高太郎さんです。

 お二人とも、第54回が終わってまもなく選考委員を辞任。いや、辞任といいますか、以前に小島政二郎「佐々木茂索」のエントリーでも確認したように、主催者日本文学振興会(つまり文藝春秋)の意向により解任されたらしいのです。

 文壇周辺の界隈では、その件に関して、あるウワサ話がまことしやかに流れました。

 どんなウワサでしょう。以下、うちのブログでは何度か引用した文章ですが、念のためもう一度。

「青山(引用者注:青山光二)は、『オール讀物』編集部が直木賞選考に強い不満を抱いているということも耳にした。直木賞というのは『オール讀物』の常連作家を補充するという意味合いもあるが、「今回の二人(引用者注:第54回受賞の新橋と千葉)は使えない」と編集部が考えているというのである。そうした文藝春秋側の意向も働いたのか、木々と小島の二人は次の回から選考委員をはずされた。」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊 大川渉・著『文士風狂録 青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 ふうむ。このウワサ話、あらためて読み直すと、どうにも気色悪いですよね。

 というのもアレです。新橋・千葉という『オール讀物』向きでない人を受賞させたのは、いかにも小島さんと木々さんの責任だと匂わせているからです。

 だって、『オール讀物』の常連作家を生み出すのが直木賞の目的なのであれば、そうなりそうもない人を、予選で通過させなきゃいいだけのハナシですもん。文藝春秋の人たちが。

 自分たちで候補に残しておきながら、いざ選ばれたら、ブウブウ文句を言うってどういう了見ですか。意図どおり動かない選考委員を解任できる力があるんなら、はじめから新橋さんや千葉さんを候補にするなよ、と言いたくもなります。どう見ても、新橋さんと千葉さんが選ばれたのは、文春の責任でしょう。なのに、小島・木々二人の批評眼をおとしめるようなウワサばかりが面白おかしく語り継がれるという。ああ、気色悪い。

「このとき新橋、千葉の二人をつよく推した三人の選考委員のうち小島、木々の二人はこの回を最後に委員を辞任し、次回からは新たに柴田錬三郎、水上勉の二人が新委員に任命された。」(大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十二章」より)

 新橋・千葉の受賞をつよく主張した委員が、小島・木々など3人いた。……っていいますけど、ほんとですか? 選評を読んでもそうは分類できませんけど。

 村上元三さんはこう分類していますし。

「大仏(引用者注:大佛次郎)、木々、小島の(引用者注:日露)戦前組は新橋遊吉氏の「八百長」を推し、源氏(引用者注:源氏鶏太)、松本(引用者注:松本清張)、村上の戦後組が千葉治平氏の「虜愁記」を推した。そして、ちょうど“戦中派”の海音寺潮五郎氏は中立という具合に色分けができた。その結果、二作とも受賞ときまったのです。」(『週刊文春』昭和41年/1966年2月21日号「盛会の芥川・直木賞授賞式」より)

 事実はあやふやです。

 それでも、なにせ千葉さんのその後の活躍ぶり(不活躍ぶり?)が強烈すぎました。「職業作家として使えない」度は、天下一品です。その千葉さんの姿に引きずられて、この回の受賞者を推した小島・木々の二人が、その責をとらされて解任された、みたいな風評は絶えることなく受け継がれてきたのでしょう。たぶん。

 直木賞において千葉さんの存在が重要である、と思わされるゆえんです。

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2012年4月22日 (日)

新橋遊吉(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) 大衆小説文壇に、いきなり現われていきなり去っていき、独自の道を駆け抜けた。

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新橋遊吉。「八百長」(『讃岐文学』13号[昭和40年/1965年8月])で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。

 そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。

 「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです。

「この作品は新橋さんの第一作。その後は、三十九年(引用者注:昭和39年/1964年)暮れに夫婦で同人になった豊中の同人雑誌「行人」に「内輪外輪」を発表しているだけである。

 だから直木賞受賞に驚いたのは新橋さんだけではない。マスコミ関係者も驚いた。

「ほんまに新橋さん、書きはったんですか」

 新進作家に対してたいへん失礼な愚問がでる。」(『週刊サンケイ』昭和41年/1966年2月7日号「女房が授けた直木賞・新橋遊吉」より)

 32歳になるまで、いったい新橋さんは何をしてきたのか。どうして突然、小説など書いたのか。ってことを少し追ってみたいと思います。

 同記事で妻の玲子さんが、こんな証言をしてくれています。

「この人はテレ性なんで、人さんの前ではウマのことばっかりいうてますけど、病気のときは小説や文学もずいぶん読んでたようですよ」(同)

 そうかあ、新橋さん、テレ性なのかあ。だから、いつも冗談みたいなことばっかり言って、どこまでがホントで、どこからが脚色なのか判然としないんだそうです。

 ってことはですよ。直木賞を受賞してから、各媒体で語ったこと書いたことも、きっと新橋さん、面白おかしく誇張したり省略したりしたんだろうなあ、とは想像がつきます。そのせいなのでしょう、新橋さんのプロフィールは、書く人によって微妙に細部が違っているんですよ。んもう。研究者泣かせなんだから。

 たとえば、武蔵野次郎さんはこんな文を書いています。

「初芝高校卒。七年間にわたる療養生活をおくり職業も転々としたが、その間も小説勉強に励み、昭和四〇年下期第五四回直木賞を『八百長』(昭和四一・四 文芸春秋)で受賞。」(昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典 第二巻』より)

 「その間も小説勉強に励み」ってどういうことなのでしょう。なにしろ新橋さん本人は、「八百長」まで小説を発表したことがないと証言しています。小説をたくさん読んできた、とは言っていますが、通俗小説ばかりだったそうで、とうてい小説勉強に励んできた形跡がありません。

 はて。武蔵野さんは、どんな具体的な行為を指して「小説勉強に励み」なる表現にたどりついたのでしょうか。不明です。

 あるいはもうお一人。木村行伸さんは、こう解説します。

「初芝高校卒。七年間の療養生活や、様々な職業を転々としていたが、昭和40年に作家を志して同人誌「讃岐文学」に参加。そこで発表した『八百長』(昭41)が直木賞を受賞。」(平成16年/2004年7月・明治書院刊『日本現代小説大事典』より)

 ははあ。「小説勉強」の部分をばっさりカットしちゃっていますね。昭和40年/1965年『讃岐文学』に参加したタイミングを、「作家を志した」時と認定しています。

 いったい、どういうことなんでしょう。「小説勉強」とは何だったのか。作家を志したのは、ほんとに『讃岐文学』に入った頃なのか。その点に注目しながら、いくつかの文献を読んでみました。

 そもそも新橋さんと『讃岐文学』との縁を取り持ったのは、妻の玲子さんでした。これはどうやら確かなようです。前掲の記事によれば、

「新橋さんは、療養中に玲子夫人と知り合い、玲子さんが同人雑誌「讃岐文学」の同人だったことから玲子さんのすすめで、この会合に顔を出しはじめたのである。(引用者中略)

 玲子さんと新橋さんとは半年の交際の後、三十八年十月十日、堺の天神さんで結婚式をあげた。(引用者中略)

 新橋さんは昨年(引用者注:昭和40年/1965年)の春ごろから正式に「讃岐文学」の同人になった。どこの同人誌にも“書かざる同人”はいるものだが、新橋さんもその例にもれず、最初のうちは、いっこうに小説らしいものは書かなかった。」(前掲『週刊サンケイ』記事より)

 この経緯だけ追えば、作家を志したから昭和40年/1965年に正式な同人になったのだろうな、とは読めます。読めるんですが、新橋さんののらりくらりな証言は、その認定に水を浴びせてしまうのです。困った人です。6年後にこんな回想を残しています。

「早いもので私が讃岐文学十三号に「八百長」を発表してから、今年で七年が経つ、思えばその頃、女房曰く、

「あんたの話は聞いていると面白い、小説に書けばいい作品が出来るかも…」

 などと調子よくおだてられ、主宰者の永田敏之さんに、

「ほんなら一丁、大小説を同人雑誌に発表するべェか」

 などといい、私の方は冗談半分であったのに、永田さんが本気で受け取り、「貴兄の作品を十三号の巻頭に持ってゆきたい、ぜひとも年末までに脱稿の上、郵送されたし……」

 と十二月に入ってから矢の如き催促、(引用者中略)

 十二月も半ば過ぎると寒く、この年はときどき雪がちらついた。貧乏暮らしなのでガスストーブは費用がかさむと敬遠され、石油ストーブで暖をとりながら日付けが変る頃まで、私は「八百長」を女房はオール読物新人賞に応募するのだといい「天保の乱余聞」を書いていた。(引用者中略)それでも何とか間に合って(引用者注:『讃岐文学』発行所のある)高松へ送った。」(『讃岐文学』21号[昭和47年/1972年9月] 新橋遊吉「あれから七年」より)

 これを信ずるなら、新橋さんがはじめての小説「八百長」を書いたのは昭和39年/1964年暮れです。作家を志したのは、昭和40年/1965年になる前だった、と解釈せざるを得ません。

 だいたいアレです。少なくとも『讃岐文学』より以前に、新橋さんはほかの同人誌に属していた経験があるんですもの。昭和40年/1965年に突如、小説を書く気になったと考えるのは違和感があります。

 『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号の記事では、「大阪の同人雑誌の会合で知り合った亀山玲子さん(筆名)と結婚。」と紹介されています。「大阪の同人雑誌」の誌名は紹介されていませんが、新橋さんが『讃岐文学』や『行人』を知る前であることは確実です。

 その同人誌の候補をひとつだけ挙げておきます。堺市の『文学地帯』です。かつて北原亞以子さんが所属していたことでも知られる雑誌ですが、

「「文学地帯」は(引用者中略)現在の関西の同人誌の中では、「VIKING」「文学雑誌」「雑踏」などに続く歴史を持ち、直木賞作家の新橋遊吉さんや、企業小説の門田泰明さんらを送り出している。」(『読売新聞』夕刊[大阪版]平成5年/1993年8月17日「直木賞作家支える同人誌」より)

 なあんて語られていたりするわけです。武蔵野次郎さんはこの辺りを意識して「小説勉強に励み」と書いたのかもしれません。

 しかし、作家業に憧れを抱き、同人誌に参加したからといって、小説勉強に励んでいたとは限りません。この辺が新橋さんの、いわゆる療養生活中のあやふやなところです。

 胸を病んで療養中、昭和31年/1956年のことです。石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞しました。このころのことを、新橋さんはこう振り返っています。

「石原慎太郎が湘南地方の若者の風俗を描いた『太陽の季節』で芥川賞を受賞、学生作家としてデビューした。(引用者中略)

 私が文学に対して関心を持つようになったのもこの頃からで、原稿を書いて銭になれば、こんないいことはないと思ったものの、とても自信などなく、いたずらに無為徒食の日が明け暮れた。

 ただ、まだ働くということは無理な身体だったので、療養中の大義名分があったから、精神的にはそれほど苦痛を感じなかった。」(昭和60年/1985年6月・グリーンアロー出版社/グリーンアロー・ノベルス 新橋遊吉・著『競馬有情 無頼編』より)

 7年の療養とは言いますが、実際には3年ほどで全快し、その後4年は仕事を探しながら無職の日々を送っていたそうです。推測するに、昭和30年代前半、健康が回復するにつれて作家を志すようになり、大阪の同人誌に顔を出すようになったのではないでしょうか。しかし実際に小説を書くことはできず、「書かざる同人」のまま、競馬・競輪などにうつつを抜かしていたと。

 そこで亀山玲子さんと出会い、また永田敏之さんとも縁ができたのが運のツキでした。書いたらいいよ、書け書けと背中を押す人が現われたのです。せっつかれて、ようやく昭和39年/1964年、第一作を書き上げることができた。……っていうのが、「八百長」完成までの流れなんだろうなあ、と思います。

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2012年4月15日 (日)

中島京子(第143回 平成22年/2010年上半期受賞) 家族たちがかもし出す静かで温かな受賞光景。出版界の馬鹿さわぎがかすんで見えてきます。

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中島京子。『小さいおうち』(平成22年/2010年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『FUTON』での小説家デビューから7年。46歳。

 ついこないだの出来事です。誰の記憶にも、きっと新しいはずです。

 うちのブログはたいがい、古い時代のハナシにばかり目を向けて、ご機嫌をうかがっています。何でまた、2年も経っていない中島京子さんの受賞のことを取り上げるのか。……といえば中島さんが「初候補で受賞した」人だからです。

 初候補での受賞は、第131回(平成16年/2004年上半期)の熊谷達也さん以来、6年ぶりでした。じつは初候補受賞者を手ぐすね引いて待っていた人たちが世のなかにはたくさんいたらしくて、中島さんの受賞が決まるや、いっせいに喜びを爆発させました。

 その一端は直接、中島さんの耳にも届いたそうです。

「初ノミネートでいきなり受賞は珍しいと、いろんな人に言われた。」(『毎日新聞』夕刊 平成22年/2010年7月29日 中島京子「直木賞に選ばれて 「とにかく、書く」ということで」より)

 「喜びを爆発させた」は、ちょっと表現が間違ったかもしれません。

 うちのブログでは昨年6月より毎週、「初ノミネートでいきなり受賞」した作家を紹介しています。今週の中島さんで42人目です。まだあと23人もいます。直木賞史においては、とくに珍しくこととは言えませんよね。中島さんのまわりにいる直木賞に詳しい人たちも、んなことは先刻ご承知でしたでしょう。それでも、「珍しい」などと口走ってしまったのは、6年も待たされた反動から、つい嬉しくなっちゃったからなのだろうな、と推察したわけです。

 いっさい新人賞をとった経験のない作家。デビューして7年、小説13冊目。着実に新作を上梓しつづけているものの、時代小説とかミステリーとかSFとかホラーとかラノベとか、そういうわかりやすいジャンル区分の世界にはいない、基本、初版止まり作家。

 こういう人に、バシッと一発目で賞を授けることができたのです。直木賞にとってこのうえなく理想的で、ある種「直木賞らしい」ともいえる授賞です。……直木賞の好きな人たちが、ついつい喜んでしまったのも、故なしとしません。

 ワタクシにとっても嬉しい出来事でした。そして、あまりの嬉しさに、口が滑らかになってしまった人もいました。選考委員の林真理子さんです。お得意の、記者会見で余計な発言を炸裂させてくれました。よっ! 待ってました、真理子さん。

「こうして今回は芥川賞、直木賞ともに初候補作品が受賞という、珍しい結果に終わった。さらにもう1つ異例といえるのが、林(引用者注:林真理子)選考委員が総括として「今回は、全体として作品が小粒だった。小説が売れない時代に、直木賞は指針を示すものでなければならない」と、小説界全般に対して直木賞が果たすべき役割を言明したことだ。

 文学界の権威の選考によって小説の魅力を位置づける直木賞。だが、最近は「本屋大賞」のような作家以外の人による小説のランク付けに販売力で及ばないなど、影響力の低下がささやかれる。林委員の発言は、こうした危機感の表れといえるだろう。」(『日経エンタテインメント!』平成22年/2010年9月号「選考委員の平均年齢も若返り “売れる”本に言及した直木賞」より ―文:土田みき)

 ははあ、なるほど。そんな意識が、1年後の第145回(平成23年/2011年上半期)で展開された、林さんの『ジェノサイド』推しにつながっているのかな、などと想像させてくれたりもして。

 まあ、林さんは、何に対してそんな使命感を燃やしているのか、とツッコミを入れたくなるほど、直木賞の受賞を過大に考えるきらいのある方ですから。仮想の敵と常に闘う女、マリコ嬢。温かく見守ってあげたいなと思います。

 偉そうなことを言いますけど直木賞がゴールじゃなくて、これからが頑張りどきですよ。気を緩めているとすぐに忘れられてしまいます。(引用者中略)私も書き続けて、後世の語り部にならなきゃいけない使命を帯びているんじゃないかと思うんです。ほんとに中島さんには頑張ってほしいなと思います。私たちって大量に書き続けなきゃいけないわけで。直木賞を獲ったからって安心できないんですよ、活字文化にとってやさしい時代でもないですしね(笑)。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 林真理子×中島京子「受賞記念対談 戦前日本は、明るく豊かだった」より)

 またそうやって、直木賞をとって寡作を貫いたような、信念の作家を「直木賞受賞者としては傍流」みたいに、決めつけちゃうのですね。林さんの直木賞観はあまりに熱くて濃くて、そして狭すぎて、肩がこりますよ。忘れられるのが、そんなに恐怖ですか?

 直木賞はもっと自由なものだと思います。たかが直木賞です、気楽にいきましょうよ。

 当の中島さんは、直木賞のことをかなり自由な発想でとらえてくれているようで、なんだかホッとしました。

「直木賞は伝統のある文学賞で、懐の深い賞でもある。ベテラン作家に授与されることもあれば、私のようなものが受賞することもある。そうなるときっと、直木賞の意味合いも受賞者によって違うと解釈すべきだろう。(引用者中略)

 これからどんな作家人生が待ち受けるのか想像もつかないが、「とにかく、書く」ということで。後のことは、またまた運に任せるしかない。」(前掲「「とにかく、書く」ということで」より)

 直木賞は懐が深い!との指摘に、思わずうなずいてしまいます。

 まったくです。100人の直木賞受賞者がいれば、100通りの直木賞があるってわけでして。「直木賞とは、どんな賞か」と問われて、最も的確な答えは、「自由な賞である」というものでしょうから。

 受賞傾向も「自由」なら、受賞者の筆歴、作家としての歩みもバラバラ。とったあとの活動だって、当然、書いたっていいし書かなくたっていい。

豊崎(引用者注:豊崎由美) (引用者中略)わたしは中島さんが直木賞を受賞して、ほんとうによかったと思っているんです。大きな賞をとると、より書きたいものが書ける自由を得るという利点がありますから。

中島 そういえば山田詠美さんもすごく喜んでくださって、「実用的な賞だからとっておくといいわよ」とおっしゃっていました。

豊崎 その通り。これまで以上に書きたいものを書いてください。」(『書評王の島』4号[平成22年/2010年12月] 「ロングインタビュー「中島京子」ができるまで」より ―聞き手:豊崎由美、構成:石井千湖)

 そして、書けば書いたで、ワタクシらのような無責任な読者からは「濫作だ」「紙の無駄づかい」とあしざまに言われ、本が出なくなると「低迷」「地味」「忘れられた」と言われる。それもこれも全部含めての直木賞。何と魅惑的で心おどる事象なんでしょう!

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2012年4月 8日 (日)

光岡明(第86回 昭和56年/1981年下半期受賞) よーし、小説どんどん書くぞ、の意欲を封じ込めてでも生きる、デキる地方在住ビジネスマンのジレンマ。

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光岡明。『機雷』(昭和56年/1981年・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「卵」での文芸誌デビューから6年半。49歳。

 中間小説誌に一度も登場したことのない地味な作家が、書き下ろし長篇を発表。突然、直木賞が授けられました。

 光岡明さんです。受賞してまもなく、その後の20年におよぶ光岡さんの活動を、ある意味予見するような記事が書かれました。いま読むと、何だかせつなくなります。

「受賞決定の目まぐるしさから一段落した光岡は「これまで以上にスピードを上げて書き続ける覚悟は、もう完全に据わった」と言った。芥川賞候補に四回挙げられ、同人誌にも属さず独力でやってきた自負もさることながら、直木賞の性格から、今後も小説を書き続けられる人間と認められたという重みを身にしみて感じ取っている。「『機雷』はデビュー作と考えたい。代表作はこれから。六十五歳ぐらいまでは全力を挙げて取材する覚悟で」。」(『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点」より)

 ……ええと、こんなにヤル気まんまんだったのに、受賞してから遺作まで、光岡さんが出すことのできた小説は、『千里眼千鶴子』『前に立つ空』『薔薇噴水』のわずか3冊。エッセイやノンフィクションの類を加えても、10冊にも達しません。うおう。せつない。

「熊本市での受賞祝賀会で、出版社関係から「どうか地方の名士に祭り上げてくれるな」という意味の挨拶があったが、頼まれてもそうなるような人柄ではないというのが、周囲の一致した見方。」(同)

 ああ。ため息が洩れちゃいます。

 「頼まれてもそうなるような人柄ではない」ですと? どなたですか、そんな無責任なこと言ったのは。頼まれて頼まれて頼まれ尽くして、光岡さん、そうなっちゃったんじゃないんですか?

「52歳で新聞社を辞め、85年~95年まで、熊本近代文学館の初代館長に。県や市の各種委員就任への依頼は増え、「書く時間が足りない」とぼやいたが、「むげに断れるほど偉くない」とエッセーに書いている。」(『朝日新聞』夕刊 平成17年/2005年1月31日「惜別 作家・元熊本近代文学館館長 光岡明さん 記者意識、礎に」より ―署名:渡辺淳基)

 周囲の人には、地元の名士に祭り上げる気はなかったかもしれません。だけど結果、「県在住の唯一の直木賞作家」みたいな肩書きが、光岡さんの創作時間を奪い取り、寡作作家へのレールを敷いたことは否定できません。

「館長時代は時間が細切れにしか取れず、小説もなかなか書けませんでした。十年間で短編二本ぐらいでしょうか。」(『西日本新聞』平成7年/1995年5月30日「近況 公職やめ小説に専念、光岡明」より)

「昨年三月、新聞社退職後、十年間務めた熊本近代文学館長を退いた。「在任中は企画展が年四回、各種審議会の委員が三十三も重なる」相当な激務。小説を書く心境ではなかったようだ。」(『西日本新聞』平成8年/1996年10月27日「ひと・仕事の内そと 短編小説集を刊行した、光岡明さん」より ―署名:藤田中)

 ちなみに光岡さんの年譜は、井上智重さんが『恋い明恵』(平成17年/2005年8月・文藝春秋刊)の巻末「光岡明さんのこと」内でまとめてくれています。それによると、直木賞受賞の49歳のときには熊本日日新聞社編集局次長の職にあり、同年、論説副委員長。さらに熊日情報文化センターに社長として出向後、昭和60年/1985年に退社、52歳で熊本近代文学館館長に就任します。そこから10年。平成7年/1995年までの10年間、62歳まで、館長としての激務――言い換えれば地元の名士として熊本県文化向上のために精一杯つくした、と。

 65歳までは全力を挙げて取材するのじゃ!と創作意欲もえたぎっていた光岡さんの、貴重な貴重な10数年でした。でしたのに。

 もちろん、「直木賞作家」の肩書きだけのせいじゃありません。なにせ光岡さん自身、真面目で誠実で、打ち込むとなればトコトン打ち込む人です。しかも50歳。まわりのことや社会のことを考えなければいけない、いい大人です。頼まれれば断らない、それどころか小説執筆をおいてまで、「地元の名士」に情熱を傾けました。

「新聞社にいたときは記者として、文学館に移ってからは各種審議会、委員会の委員として、熊本県内は隅々まで歩き回った。同時にその人脈は県内の行政、民間の両方にまたがって隈なく拡がっていた。真面目な性格で、一度委員職につくと、資料を丹念に読む、周辺を勉強し、ときには事務局に出かけて行って質問し、データをもらった。ますます委員職がくるという悪循環のなかにいたが、「それが住むということだ」と光岡さんは思っていた。」(井上智重「光岡明さんのこと」より)

 周囲の人たちがもう少し、光岡さんへの公職依頼を遠慮していてくれたら。光岡さんがもう少し、わがままを通す人で作品を生み出すほうに専念していてくれたら。まだあと何作も、ワタクシたちは光岡作品を読めたかもしれません。

 きっと光岡さん自身も悩んだことでしょう。あたら「直木賞」などという、虚飾の最たる肩書きを背負わされたばっかりに、思い通りの執筆活動ができなくて。

 直木賞が運んでくるのは、職業作家への扉をあけるカギばかりではない、地元民たちの期待にくるまれた社会的な役割までも、どっさりと押し付けられる……。デキる作家でもあり、デキるビジネスマンでもあった光岡さんは、そんな直木賞の性格を、痛いほどに体感させられたのでしょう。

「――受賞時は熊本日日新聞の編集局次長でしたね。作家との両立は大変だったでしょう。

光岡 作品に対して与えられた賞が、同時に社会的地位を高めるということを実感しましたね。講演依頼やいろんな委員会の委員就任要請が殺到し、受賞後の二、三年は異常な状況でした。新聞記者なので地域社会のお役に立ちたいという気持ちはあったが、一方で書く時間がなくなる。正直言って、私の心の中ではかなりの葛藤(かっとう)がありました。」(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会1 賞の意味」より)

 光岡さんは、ついに、直木賞をとりながら寡作のままで逝ってしまいました。誰の責任でしょうか。直木賞のせい。地元の人たちのせい。光岡さん自身のせい。……ううむ、どれとも言いがたい。せつないです。

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2012年4月 1日 (日)

渡辺喜恵子(第41回 昭和34年/1959年上半期受賞) 直木賞をとったら華やかに活躍しなきゃいけない、とは誰も期待せず、本人も意識しないで書き続けた栄光。

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渡辺喜恵子。『馬淵川』(昭和34年/1959年5月・光風社刊)で初候補、そのまま受賞。『いのちのあとさき』でのデビューから17年。45歳。

 昭和34年/1959年上半期の直木賞は、女性2人が受賞しました。同時受賞者がともに女性、っていうのは初めてでした。

 時にマスコミこぞって「文壇才女時代」なる言葉に囚われていた頃です。当然、才女だ才女だと煽り立てようとしました。

「芥川賞は斯波(引用者注:斯波四郎)と決定した。(引用者中略)別室では直木賞作家が誕生している。渡辺喜恵子の「馬淵川」と平岩弓枝の「鏨(たがね)師」。両女流作家の登場である。

 新聞・テレビの記者は、発表をきくと同時に、深夜を八方にとんだ。三人の受賞者を追いもとめながら。

 だれかがいっていた、今年の文学も、また才女時代と新聞記者作家がまだつづくのか、と。

(引用者中略)

 直木賞受賞の二人の女流作家の方が、話題となるのではないかとみる人もいる。直木賞の歴史を考えてみても、一度に二人の女性が受賞した記録はないし、衰えかかった才女時代という看板をたて直すにはまたとない好機だからだ。」(『週刊文春』昭和34年/1959年8月3日号「文壇のニューフェース 25年目の芥川賞・直木賞」より)

 意味不明です。「衰えかかった才女時代という看板をたて直す」って、いったい誰視点なんでしょうか。

 しかしです。せっかく誰かが目論んだ「才女時代のたて直し」も、残念なことに予想どおりにはいきませんでした。平岩さんはいいとして、一方が渡辺喜恵子さんですよ。45歳。地味。謙虚。コツコツ型。ゆっくりじっくり書く自分のペースを崩す気はまったくなし。……才女と呼ぶにこれほど似合わない作家がいたのか!っつうぐらいでして。

 賞さわぎの慌ただしさを経ても、渡辺さんは、自分の書きたいように書く、っていう考えを守りました。「直木賞受賞、即、流行作家」みたいな世間のイメージにさらされてしまって、困惑すらしています。まじめな人です。

「賞をもらったからといって、何も昨日に変って突然偉くなったわけでもないのに、まして金持ちになったというわけでもないのに、時どき変なことをきかれて私は困ってしまう。

 印税がたくさん入ったでしょうと電話をかけてよこす人があるかと思うと、あなた気をつけなさい、税務署が来るわよなどと、親切におどかしてくれる人もいる。(引用者中略)いくら税務署だって、書きもしない、受けもしない稿料にまで税金をかけるわけはないのだから、相手はあんまり書けそうもない私をからかっているのだと思った。」(『朝日新聞』昭和34年/1959年9月6日 渡辺喜恵子「直木賞・それから 訪問客」より)

 「あんまり書けそうもない」ことは、渡辺さん自身、十分わかっていました。選考委員たちに、

「「あとは書けまい」という声も委員中にはだいぶ出た」(『オール讀物』昭和34年/1959年10月号 吉川英治選評より)

 だの、

「大佛氏は「この作家は『馬淵川』一篇より書けないかも知れないが、それでもよいではないか。この一作だけに賞を贈りたい」といった。」(同 川口松太郎選評より)

 だの、

「将来も職業作家として立って行ける人を選ぶ、という直木賞の条件に、こんどは頑迷なほどわたしはこだわって、渡辺喜恵子氏の「馬淵川」に初めから終いまで反対をした」(同 村上元三選評より)

 だのと書かれますが、無理やり直木賞を押しつけられたかっこうの渡辺さんは、困惑したでしょう。

 家では商業写真家の木下利秀さんと二人暮らし。あくせく原稿を売り歩く必要はなく、目立たないように慎ましく生きていくことを信条としているかのような様子。小説も、ゆっくりと書くのを好む人です。

「小説の場合、私は好んで長い作品を書きたがる。一気に書くより、ゆっくり書く方が性に合っているようだ。短篇小説の場合も長篇小説の場合も、とりかかるときの作者の心構えにそう変りはないと思うのだが、なぜか私は長篇の題材を選んでしまう。」(昭和56年/1981年12月・女子栄養大学出版部刊 渡辺喜恵子・著『北国食べもの風土記』「はじめに」より)

 また、渡辺さんはことさら大きなことを言って衆目を集める、みたいな人でもありません。きっと渡辺喜恵子さんと聞いて日本人の九割以上が「謙虚」を連想するほどです(……いや、連想してほしい)。

 処女出版の『いのちのあとさき』の頃から、そうでした。クソまじめで面白みのない謙虚な文章。これぞ渡辺喜恵子その人です。

「これは、私が始めて世に出す、まづしい作品集であります。志した文学の道ははるかに遠く、至りつくといふことの難しさを識りました。唯この作品集を世に出す所以は、私の文学修業の一つの標識ともなればといふ望みからであります。」(昭和17年/1942年9月・国文社刊 渡辺喜恵子・著『いのちのあとさき』「あとがき」より)

 あるいは、直木賞受賞後のインタビューでも。

「私は苦節10年といわれていますが、この年になりますと、この10年間は尊いものです。若い方たちのものおじのなさはうらやましいですが、私にはもう自分の限界もわかっていますし、いくじもなくなりますね」(『週刊読売』昭和34年/1959年9月20日号「書斎訪問」より)

 まあ、こういうこと言いながら、実は創作意欲旺盛で年に何冊も出したり、次々と連載小説に手を染めたりしたら、イヤな人です。渡辺さんは正真正銘、地道な人でした。受賞しても、同人誌が主な活動舞台だった頃と、ほとんど変わらない書きぶりを貫きました。

 そんなふうに作家生活を送りましたので、小川和佑さんのように、こんな感想を持った方もいたことでしょう。

「より文学性の強い渡辺の作風は、マス・コミの中間小説の作風には向いていない。むしろ、長い時間をかけて自己の文学を育てていくタイプの渡辺には、受賞の騒音の去った後こそ、本来の仕事に還れるのであろう。(引用者中略)その文学の本質からいえば、直木賞作家というタイトルが今となってはあらずもがなではあるまいか。(『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:小川和佑 太字下線は引用者によるもの)

 ええ。あらずもがな、でしょうね。

 ただ、直木賞をとった人が一生「直木賞作家」と言われ続けるのは、強固な砦です。それを突き崩すのは困難なことです。ワタクシは渡辺さんを一人の直木賞受賞者として認識しています。それがそんなにイケないことですか?

 受賞当時から、渡辺さんが獅子奮迅の大活躍をするだろうとは、まわりの人も期待していませんでしたし、本人も意識しませんでした。次第に知る人も少なくなり、その作品は忘れ去られ、光の当てられる機会が稀な作家となっていきました。そして、「華やかさのない直木賞受賞者」っていう、栄光ある地位を築いたのです。

「直木賞作家のその後としては地味で、華やかに取り沙汰されることはなかったが、着実な歩みで自己の文学世界を熟成していった。」(平成18年/2006年1月・日本図書センター刊『日本女性文学大事典』より 執筆担当:林正子)

 一種の栄光ですよね、これは。

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2012年3月25日 (日)

小池真理子(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。

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小池真理子。『恋』(平成7年/1995年10月・早川書房/ハヤカワ・ミステリワールド)で初候補、そのまま受賞。『第三水曜日の情事』『あなたから逃れられない』での小説家デビューから10年半。43歳。

 今年の芸術選奨[文学部門]は小池真理子さんですかあ。すっかり大御所の格ですね。よかったよかった。

 それで今日の主役は小池さんなわけですけど、今から16年前、直木賞をとったときに小池さんはこう言われました。「もはや〈知的悪女〉を持ち出す必要がなくなった」と。

「知り合いの編集者に「実は小説が書きたいんです」と申し出たが、「小説など書かずに、結婚した方がいいよ」とにべもなく言われたのは、七八年の初エッセー集『知的悪女のすすめ』がベストセラーになった時だった。「でも、そのころの私は、そう言われても当然だった」と振り返る。小説に専念したのが八四年。そんなマスコミタレント的イメージとの戦いだったという。しかし今、この人を語るのに「知的悪女」を出す必要はもうないだろう。」(『読売新聞』平成8年/1996年1月12日「顔」より ―署名:文化部石田汗太)

 まったくです。もう必要はないでしょう。

 ただ、小池さんの直木賞までの道のりに、〈知的悪女〉の件が重要な役割を果たしたのは事実です。うちのブログは直木賞関連オンリーです。おさらいしないわけにはいきません。

 昭和53年/1978年10月、小池さん25歳のとき、山手書房から『知的悪女のすすめ――翔びたいあなたへ』が出版されました。これが大層売れまして、同シリーズのエッセイを続々と刊行、講演会に呼ばれるは、テレビのコメンテーターの仕事が舞い込むはで「人気エッセイスト」の座をつかみました。

 ただ、先の引用文にもあったように、小池さんにとっては「マスコミタレント的イメージとの戦い」でした。数々のエッセイやインタビューなどで明かされているとおりです。いや。シリーズ3冊目の段階ですでに、自分の考えと、世間の受け取られ方とにギャップを感じていました。

「私が今まで書いたり語ったりしてきた“知的悪女”という一つの女の像が、果たして私の思っていた通りの形で読者に伝わっていたかというと疑問である。

(引用者中略)

 私の“知的悪女”はマスコミの男どもの手を経てかなり勝手に解釈され、ファッション化された。あるときはセックスのことのみ強調して語られ、またあるときは、不倫の恋のすすめがメインテーマであると言わんばかりに、不自然に本そのものが歪曲化された。」(昭和54年/1979年3月・山手書房刊 小池真理子・著『素肌でシェリー酒を――新・知的悪女のすすめ』より ―引用文は昭和57年/1982年4月・角川書店/角川文庫より)

 なにしろ〈知的悪女の小池真理子〉の印象は鮮烈でした。何かにつけ知的悪女、知的悪女と言われる日々を送ります。

 若いネエチャンが威勢のいいこと言ってるぞ、と世のオジサンたちの好奇の目にさらされ、もてあそばれる構図ですね。もちろん、小池さんの虚像を楽しんだのはオジサンだけではありません。あとに続く若いネエチャンからも、違ったかたちで標的にされたのでした。

「最近、小池さんと同じ名前のコピーライターの林真理子さんが、小池さんとは逆の〈結婚願望〉をテーマにした著作を次々発表してマスコミをにぎわしています。

 〈やっぱり女はカワイくて愛される方が幸せだ……〉

 として、時代の保守化の波にのってベストセラーを出している姿をみるとき、益々小池さんの存在の重さを感ぜずにはいられません。

 会田雄次氏や渡部昇一氏のような男性天敵のみならず、同性天敵とも闘っていかねばならぬからです。」(昭和58年/1983年9月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『結婚アウトサイダーのすすめ』所収 ばばこういち「解説」より)

 そうです。小池さんより数年遅れて現れた〈若いネエチャンエッセイスト〉希望の星、林真理子さんからの突き上げでした。

「こういう女の下半身打ち明け話っぽいものが本になりはじめたのは、いったいいつ頃からだっただろうか。

 私が思うに、小池真理子さんの「知的悪女のすすめ」なんかが先鞭をつけたと思う。(引用者中略)最初にあの本を読んだ時、

「へえー、こんな卒論のできそこないみたいなものが本になるわけ――」

 と当時の私はかなりふんがいしたものである。彼女の美人ぶるのと、悪女ぶるのも、私には気にいらなかった。(引用者中略)

 成功した有名女性の悪口をいうのは、彼女(引用者注:成蹊大出身の、林の友人)と私の共通の趣味なので、それから二時間以上も電話でエンエンと彼女の悪口をいってしまったのだ。

「だいたいねぇー、自分にちょっとバカな男が何人か寄ってくるからって、それにどうのこうの意味をもたせたり、カッコつけんの間違ってるわよ」

「それにさ、女同士でやるようなナイショ話を、本にするって根性セコイわね」

「よくいたじゃん、小学校の時、みなの話を聞くだけ聞いて、あとでひとりで先生にいいつけに行くコ」

「いた、いた、そういうコにかぎってわりと可愛いから、先生にかわいがられたりして」

「あらっ、小池真理子って可愛い?」

「よくいるタイプ、タイプ、赤坂のスナックなんかで塩コンブをつまんでほこりかぶってる……」

「あなたのほうがゼーンゼンいい女よん」

「ま、ありがと。色気だったらマリコ(私の方の真理子)の方があるわね」

 小池さん、ごめんなさい。市井の女たちというのは、こんなひどいことばっかりいってるものなんです。

 しかし、あのテの本を書く女性たちが、女たちから嫌われているのは事実ですね。」(昭和57年/1982年11月・主婦の友社刊 林真理子・著『ルンルンを買っておうちに帰ろう』「打ち明け話はもう古いつうもの」より ―引用文は昭和60年/1985年11月・角川書店/角川文庫より)

 なある。小池さんを目のカタキにしていたのは、良識派を気取る旧世代のおじさんおばさんだけじゃなかったのですなあ。林さん言う「女たち」も、また嫌っていたと。

 でもまあ、林さんも「ごめんなさい」とフォローを打っているわけで、心底嫌っているっていうより、〈知的悪女の小池真理子〉像を題材にして茶々入れて、面白がっていたのかもしれません。

 直木賞受賞後の対談では、即行、詫びを入れちゃっていますし。

 (引用者中略)私、小池さんに謝らなきゃ。十四年前の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で、失礼なこと書いちゃって……。

小池 ハハハ。いいですよ、そんなこと。(引用者中略)

 私もそうですけど、小池さんも『知的悪女のすすめ』みたいな、小説以外のもので一世を風靡しちゃうと、作家デビューしづらいところ、ありますよね。その後、小説書いても「お前なんか作家ヅラするな!」って。

小池 お互い最初、「きわもの」って感じで受け取られましたよね。でも、林さんの『ルンルン~』は、若い女のコの視点で素直に書いた本だから、あまりたたかれなかったでしょ?

 そんなことないですよー。「こんな下品な女、許せない」とか。

小池 ほんとに? 私も新宿のゴールデン街に行けなかった。「石投げて追い返してやる」とか言われてたらしいです。」(『週刊朝日』平成8年/1996年10月25日号 林真理子「マリコの言わせてゴメン! ゲスト・作家小池真理子」より)

 なごやかで微笑ましいですね。〈知的悪女〉からの数年、小池さんは相当、精神的に苦しい思いをしたはずですけど、笑って話せてくれて、ホッとするヒトコマです。

 〈きわもの〉エッセイストから小説家への転身。林さんの場合はすでにそのとき、直木賞騒ぎの渦中にいましたので、賑やか通しの転身でした。対して小池さんは状況が違っていました。スポットライトを浴びる舞台から、あえてひっそりした世界にもぐり込んだ、といったふうに思える転身でした。

「初めて長編小説を書き出したのは、一九八四年ころ。集英社の担当編集者だったN氏に励まされ、書き直しを命ぜられたのもたった一度で済んだ。それが翌八五年に刊行された『あなたから逃れられない』というミステリ長編である。“悪名高き”エッセイを出してから七年後。二度目のデビューは、初めのデビューと違って静かなスタートを切った。騒々しいことが苦手な私にとって、これはとても嬉しいことだった。」(平成3年/1991年1月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『猫を抱いて長電話』所収「二度目のデビュー?」より ―初出『別冊小説宝石』平成1年/1989年9月)

 ううむ。初めのデビューのときは、よほど嬉しくない騒々しさだったのだな、と思うことしきり。

続きを読む "小池真理子(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。"

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2012年3月18日 (日)

佐藤得二(第49回 昭和38年/1963年上半期受賞) 直木賞って作品の出来で決まるんですよね?ってことを忘れさせてくれるほど、もっともらしい噂バナシが巻き起こる。

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佐藤得二。『女のいくさ』(昭和38年/1963年4月・二見書房刊)で初候補、そのまま受賞。同作での作家デビューから3ヶ月。64歳。

 直木賞と文壇ゴシップとは、不可分な関係にあります。直木賞の面白さの何割かは、ゴシップ的な魅力に負っている、と言っちゃってもいいでしょう(いいのかな?)。

 はて。ゴシップの面白さって何でしょう。耳にした瞬間に、「へえ、あの事象の裏にはそんな意外な事実が隠されていたのか」と驚かせてくれて、好奇心を満足させてくれるところ。ですよね。

 でも、それだけじゃありません。

 よくよく調べてみると、ゴシップがほとんど虚構と妄想で出来上がっていた、と発覚することがあります。よくもまあ、ウソッぱちな噂が、いかにも真実であるかのように語られたよなあ、と思わされたりして。そんなハナシをつい信じてしまった世間や自分が、急激に馬鹿バカしく見えてくるアノ瞬間。たまりません。ゴシップの醍醐味と言えましょう。

 さて、佐藤得二さんです。64歳での直木賞受賞は当時の最高齢記録、しかもまったくの処女作でした。新聞や雑誌では、異例の直木賞、と書かれたりしました。あまりに異例だったからでしょうか、この受賞に対しても、「いかにも」な噂バナシがささやかれ、広められたのです。

 ひとつ例を挙げます。第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞で、佐藤さんとともに候補に挙げられた梶山季之さんの証言です。

 以前、「噂」小説賞を紹介したときにも引用しました。楽しい文章なので、もう一度、繰り返し味わいたいと思います。

「『李朝残影』は、直木賞の候補となりました。この時(引用者注:第49回)の有力候補者は瀬戸内晴美《寂聴、作家・僧侶一九二二~》さんで、対抗が私と云うところでした。/ところが、フタをあけてみると、佐藤得二氏の『女のいくさ』が受賞となり、とんだ大アナが出ました。なんでも佐藤氏は、銓衡委員のK氏の同級生で、そのための同情票が集まったのだそうです。/しかし、佐藤氏は、その後、一作も書かずに死亡され、私は受賞決定の夜、銀座の酒場で銓衡委員の某氏から、/「キミだの、瀬戸内だのに、今更、直木賞をやるこたァねえやな……」/と云われました。/(引用者中略)私が「噂」の小説賞、挿絵賞を創設したのは、偏見にとらわれない、編集者が決定する賞があって然るべきだ……と考えたからであります。/既成作家が受賞者を撰ぶときには、自分の競争相手となりそうな若手を、どうしても蹴落そうとします。云う云わないとに拘らず、そうした心理が働いている。それを断ち切らねば、真の銓衡とは云えません。」(平成19年/2007年5月・松籟社刊『梶山季之と月刊「噂」』「第I部 「噂」と梶山季之 創刊 その意図したもの」橋本健午 より ―引用文の典拠元は集英社刊『梶山季之自選作品集8 わが鎮魂歌/李朝残影 他』「著者あとがき」で、「/」は改行、《 》内は橋本氏による注記)

 どうですか。何と巧みなゴシップでしょう。

 佐藤得二が受賞できたのは、選考委員に同級生がいたためで、しかも高齢であることから今後委員たちの競争相手にはなり得ない、と判断された(にちがいない)と。ほとんど被害妄想スレスレの考え方です。

 既成作家に選考させては駄目だ、っていうんで梶山さんは、編集者たちの手で選考する「噂」小説賞を設立。ここから藤本義一、田中小実昌という二人の受賞者が生まれました。そこまではよかったんですが、二人とも、のちに直木賞選考委員たちにも、しっかり評価されてしまいます。果たして梶山さんの「既成作家が選考することの弊害」説が、正しかったのか間違っているのか、よくわからない事態に……。

 まあ、それはそれとしましょう。いったい佐藤さんの『女のいくさ』に票が集まったのはなぜだったのか。選考委員のK氏が同級生……? 誰のことを言っているのやら。川端康成さんのこと?

 正確には、佐藤得二さんと一高・帝大と同級だった川端康成さんは、このとき芥川賞のほうの選考委員でした。『女のいくさ』刊行の折り、川端さんは推薦文を寄せました。しかし、そのことがどこまで直木賞委員たちの同情票を引き出せたのでしょう。かなりマユツバです。

「川端は、当時、文化勲章受章者、日本ペンクラブ会長として、文壇の長老的存在に収まっていたが、堅物で知られた佐藤得二が大長編『女のいくさ』を書き下ろしたとあって、次のような力のこもった推奨の言葉を書いてくれたのである。

「佐藤得二さんは私の高等学校の同級だが、今ごろ、この処女作のやうな長編小説を書き、これが巧緻、達練、充実、みごとな作品なのに、びっくりした。昭和初年から今日までの、言はば『大河小説』で、その時代と世相のなかに、女を中心とした一家の人々の運命を確かに描いて、生彩がある。殊にけなげな女の愛と生とは、胸を打つものがある」

 文字数にして一八〇字足らずの文章だったが、文化勲章受賞(原文ママ)者にして、日本ペンクラブ会長川端康成の「巧緻、達練、充実」したみごとな推薦文は、六四歳の新人作品に、甚大なインパクトを与えた。」(平成21年/2009年11月・展望社刊 塩澤実信・著『ベストセラーの風景』「“年齢”も「褒賞」に価す」より)

 と、塩澤さんは解説しています。さすが「マユツバの塩澤」の異名をとる方の文章はちがいます。「甚大なインパクト」とは何なのか、どこがどう「みごとな推薦文」なのかは、触れずに筆をおいちゃっています。

 『女のいくさ』は、初版三千部でしたが、発売後の売れ行きは思いのほか順調だったそうです。

「昭和三十八年(一九六三)四月十二日、処女出版された『女のいくさ』は、一か月後に再販、二か月後には三版と版を重ね、すでに九千部を売り尽くしていた。」(平成11年/1999年6月・岩手県金ケ崎町刊 佐藤秀昭・著『教学の山河 佐藤得二の生涯』「郷愁」より)

 5月には『朝日新聞』の書評でも好意的に取り上げられたりしていました。このあたりの展開に、川端の推薦文が何らか役立った、といったことを塩澤さんは言いたかったのかもしれません。

 しかし、です。いくら文化勲章だろうが日本ペンクラブ会長だろうが文壇の長老格だろうが、その人の同級であることが、直接の関係がない直木賞選考委員の心まで動かすものでしょうか。

 ちなみに、「選考委員が同情して票を入れた」という説、これはひょっとすると元ネタがあった可能性が高いです。元ネタ……それは佐藤得二さん本人が、謙虚さの表現として語った受賞の感想です。

「受賞と聞いても、ピンとこない。つくづくと年齢を感じました。もう老い先みじかい身ですからね、今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない。(引用者中略)直木賞になったのも“六十をすぎて、こんなに長い小説を書いた”“ずぶのしろうとがわりと面白いものを書いた”という同情と驚きに原因があるのでしょう」(『週刊文春』昭和38年/1963年8月5日号「直木賞受賞「女のいくさ」のヒロイン 64歳の処女作で受賞した佐藤得二氏とそのモデル」より)

 本人が語る受賞理由(憶測)と、同級生に文壇の偉い人がいたという状況をつなぎ合わせて、梶山さん語るようなゴシップが生れた、と見えるのですが、どうでしょうか。

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