カテゴリー「小説に描かれた直木賞」の20件の記事

2009年11月15日 (日)

直木賞とは……ちょっとした主婦でも知ってるよ。「一夜で有名になる」代表的な出来事だってことをね。――丹羽文雄『樹海』

091115 丹羽文雄『樹海』上・下(昭和57年/1982年5月・新潮社刊 -> 昭和63年/1988年2月・新潮社/新潮文庫

 おいらみたいな素人には、とうてい理解できないけど、戦後の流行作家三羽ガラス、丹羽文雄舟橋聖一石川達三は、「大衆小説」じゃないのだそうで。いいじゃん、大衆小説で。何が悪いのさ。……と言ってみたところで、少なくともご本人たちのなかには、歴然たる区別意識があったそうで。

 舟橋さんが戦前、菊池寛親分から直木賞選考委員になってもらえないか、と打診を受けたのに、断ったとか。それで、芥川賞委員ならば、ひょいひょい引き受けちゃうとか。

 戦後に両賞が復活するとき、石川さんははじめ直木賞選考委員を務める予定で、昭和23年/1948年の段階では、直木賞の選考会に出席していたくせに、昭和24年/1949年になったら、なぜか澄ました顔して芥川賞の選考委員の座におさまっていたとか。

 永井龍男さんも、井伏鱒二さんも、水上勉さんも、何年にもわたって直木賞委員を務めていたはずが、何の未練もなく急に芥川賞委員に鞍替えしちゃったりして。何なんだ、あなたたちは。そんなに直木賞がイヤか。

 丹羽文雄さんが、そんな方たちと同類かどうかは異論あるところでしょうけど、それにしても直木賞オタクとしては、丹羽さんの動向は、舟橋聖一・石川達三とともに、研究欲をかき立ててくれます。たぶんワタクシは生きているあいだに、それに手を付けるところまで到達できないでしょうけど。なにせ丹羽山脈は標高もたかく、面積も広大すぎます。

 ……と言いつつ、丹羽さんが昭和50年/1975年にもなって、まだ、とある一つの信念を貫いていたかと見ると、まあ彼が直木賞について何かを語るなんて、あるわきゃないな、と納得してしまいます。

 とある一つの信念とは、「通俗雑誌にのった小説は、絶対に純文学ではない」ってものです。

091115_4  昭和50年/1975年の第11回谷崎潤一郎賞にて。丹羽さんは候補作品に、ある作品を推薦します。ところが、ふたをあけてみると……。

「私(引用者注:丹羽自身)がその作品を推したのである。しかし、その小説をよんでいなかった。作者の名をみて、書下ろしの長篇ではないかと思い、その作者なら必ずよみごたえのあるものを書いているだろうと思ったからである。選考会で、私が推したのが通った。が、一読して、私がまちがっていたことを知った。候補作品にはなりかねないものであった。筆がひどく荒れていた。作者がその雑誌の特色に多分に迎合して書いているようであった。そのため今後は、掲載誌を厳重に調査することになった。」(昭和51年/1976年11月・講談社刊『創作の秘密』「作者の持味」より)

 すげえぜ、丹羽親分。作品を読まずして、作者の名と「書下ろしだろう」との当て推量で、推薦するたあ。候補作の作者名と作品名、掲載誌(または出版社名)だけ見て賞のなりゆきを予想する、我らみたいな素人とほとんど同じレベルじゃないかよ、すげえぜ。

 いやいや丹羽親分は、自分自身や他の作家たちのこれまでの長ーい経験に裏打ちされた理論を持っていたのですから、おいらたちと一緒にしちゃあいけません。たぶん。

「が、私がかんじんの内容を知らずに、その名前だけで推薦したというのも、かねてからその作者の持味に期待をかけていたからである。その持味は、文学的にもかなり高いものであった。が、いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く、持味が十分に生かされていなかった。これも一種の作者の不幸というべきであろう。」(同「作者の持味」より)

 このエッセイでは、谷崎賞5つの候補作のうち、水上勉『一休』、安岡章太郎『私設聊斎志異』、中村真一郎『四季』の3つについて実名を挙げて詳細に論じていて、すると残るは2作品。まさか丹羽親分が「いつも発表する雑誌が大衆的なものが多く」と評したのが、古井由吉さんであるわきゃないもんね。……ってことで、その作家とは容易に野坂昭如さんのことだとわかるわけです。

 しかしまあ、丹羽親分いわく、この一件はご自身の責任っていうより運営者側の「谷崎賞候補を選ぶときの手落ち」だそうですし、野坂昭如は、通俗的な雑誌に書くと手加減をくわえる(あるいは手を抜く)から、とうてい推せないんだ、でも俺はちがう、「私はいろんな雑誌、新聞に作品を発表しているが、かつて手加減を加えたということは一度もなかった」んだそうです。

 おお、偉大なるかな、キング・オブ・ブンダン。かわゆすぎます。

 ……でもまあ、これが丹羽さんのお人柄なのだとしたら、そりゃあ周りに敵が多そうだな。

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2009年11月 8日 (日)

直木賞とは……噂をするなら匿名で。だって悪口いってるのがバレたら、とれなくなっちゃうもん。――夢枕獏『仰天・文壇和歌集』

091108 夢枕獏『仰天・文壇和歌集』(平成4年/1992年5月・集英社刊 -> 平成14年/2002年6月・集英社/集英社文庫

 小説でもエッセイでも、「文学賞をネタにする」っていうのは、飛び道具みたいなところがありますよね。あ、飛び道具というか、低俗、ゴシップ、卑しい、下品、文学の本筋とは関係のない傍流。

 それでたいていの良識人は、あえて文学賞について深く語ったりしないものらしいですけど、性格上、ついついネタにしちゃう人もいます。たぶん、夢枕獏さんもそのひとりです。

 キマイラ、サイコダイバー、餓狼伝。昭和50年代後半(1980年代)に、一気にノベルス・文庫界隈で売れっ子になり、『上弦の月を喰べる獅子』で無冠の座から脱却(第10回日本SF大賞)。これが平成1年ごろのことで、ちょうど獏さんにとって一回目のお仕事自重期のころなんですが、このあたりから獏さんからは文壇ネタ、文学賞ネタが一気に噴き出していきます。

 そのなかの一作である『仰天・文壇和歌集』(初出『小説すばる』平成2年/1990年11月号、平成3年/1991年3月号、8月号、10月号~平成4年/1992年4月号)より。まずは一首。

「勝手に候補にしておきながらこの賞が欲しければもっと勉強しろと言って落選させた審査員がいたようないないような」(『仰天・文壇和歌集』「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 終わりかたに、やや腰の引けた感じが残っています。

 いかんいかん、これじゃ面白がってもらえんぞ、と切り替えたのかどうなのか、そのあとは賞を欲しがる作家の心情とか生態とかを、次々にネタにしていきます。

 なにせ、ちょうど昭和の末から平成のはじめごろっていえや、あれです、「推理小説では直木賞はとれない」(昭和30年代~昭和40年代)、「SF小説では直木賞はとれない」(昭和40年代~昭和50年代)などと、各グループで怨みまじりの気炎が上がったのと同様、夢枕獏さんの周辺の冒険小説グループが、直木賞から迎え入れたり拒否られていたりした時代ですもん。獏さんも、文学賞ネタには事欠かなかったようで。

「あの賞を取ったあいつの作品より取らぬおれの本の方が売れている

と言う君の酒は五杯目である」(同「一、仰天・文壇和歌集の一人百首」より)

 ははあ。たくさん本が売れること……人気作家っていう座を何年も持続できること。それも作家の価値のひとつと認めて、直木賞を与える理由として採り入れたっていいじゃないか、とのちに北方謙三さんが提示する土壌が、このあたりに垣間見えたりもします。

 それから獏さんは、賞に対して作家たちが裏で悪口を叩き合っている図、なんてのも描きます。

「欲しい賞の悪口けして言わないあなたは世渡り上手」

「もらってしまった賞の悪口しか言わないあんたが大将」

「あの賞の悪口急に言いはじめた同業者(ルビ:きみ)を見て きみがエロスとバイオレンスでやってゆく決心をしたことを知る」(以上三首「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 悪口を言い出すと、それが噂となってどこかの出版社あたりに流れて、もうその賞から声がかからなくなる、っていう原理。くーっ、まったくこの世は生きづらいもんなんですね。たとえば文学賞が「発表された小説のなかで、最高のものを選び出す」っていう理念があったとしても、なかなかその理念どおりに事が運ばんのも、わかります。

「「ぼくは一度あの賞の候補になりました」「おれは三度なった」とらぬどうしで哀しくはないか」(同「三、仰天・文壇和歌集の懲りない逆襲」より)

 なあんてことを、あまり「文学賞の候補者」ってかたちで表沙汰になったことのない獏さんがつぶやくから、クククッと黒い想像の広がる一首です。

 ……と、あまり引用ばかりしていくと、面白くなって止まらなくなりそうなので、ここらでやめときます。もっと出てくる文学賞ネタについては、同書をチェックしてみてください。

 それにしても、あの賞あの賞、としか言わず、いちいち固有名詞を出さないところが、獏さんも自嘲ぎみに「世渡り上手」と詠っちゃうところなんですけど。ただ、本書のなかではっきりと「欲しい」とネタにされて具体的に賞名の挙がっているものが、二つだけあります。

 芥川賞と直木賞です。

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2009年11月 1日 (日)

直木賞とは……「とれば周囲の目が変わる」。と思われていることそのものが、ユーモアのネタになる。――奥田英朗「妻と玄米御飯」その他

091101 奥田英朗「妻と玄米御飯」(平成19年/2007年4月・集英社刊『家日和』所収)その他

 精神科医・伊良部一郎のもとに訪れたのは、すでに著作数200冊を超える人気大衆作家、彼はここ最近悩んでいて、数年前からN木賞の選考委員を務めているのですが、かつては自分の物差しで「推す」小説と「推さない」小説をきっぱり決断できていたのに、急にどの小説を読んでも良し悪しが判断できなくなってしまって、選考会に出ては胸をはって発言することができず、冷や汗のかきどおし……。

 とかいう伊良部シリーズがあってもよさそうなんですけど、そんな小説ありません。残念。

 奥田英朗さんに、文学賞(とくに直木賞ふうのもの)が出てくる小説が、まったくないわけじゃありません。ただし、それぞれがズバリ直木賞、って書かれ方はしていないし、文学賞をネタにしているっていうより、登場人物である作家を肉付けするような小道具程度のものですけど。

 ってことで、今日のお題は、「妻と玄米御飯」その他。たぶん「その他」のほうに多くの文量を割くことになりそうです。

 「その他」その1。『ララピポ』(平成17年/2005年9月・幻冬舎刊)から行きますか。

091101_2  『ララピポ』第5話の「I SHALL BE RELEASED」の主人公は、作家の西郷寺敬次郎です。いや、官能作家の、と言い換えておきましょう。桃園書院の書き下ろしシリーズとか、月刊誌『小説エロス』『桃色ノベル』、週刊誌『実話パンチ』、夕刊紙『夕刊トップ』の締め切りを控える、人気者です。

 でも西郷寺先生、むかしは純文学を志していました。文壇デビューは20年前、日本を代表する老舗出版社の「世界文藝社」(わざわざ「藝」と書いてあるところがミソ)が主催する世界文藝新人賞を受賞したことにあります。しかし、文学に賭ける志は途中でどっかに行ってしまい、今じゃ官能小説専門。そんな西郷寺先生ですが、もう一度、純文学をどこかに発表できないかと、短篇を何本か書き溜めています。

 それで、西郷寺先生と、三流出版社(利益の大半は官能小説で上げている)の桃園書院編集者、石井との会話。

「「ところで、近頃はどんな小説が売れてるわけ?」(引用者中略)

「文芸ですか。うちの本ではあまり……」

「別に桃園書院のことを聞いてるわけじゃないの。世間一般のことだよ」

「さあ。宮部あけみ先生とか、浅田一郎先生とか、そういった方なんじゃないでしょうか」

「この前、賞を獲った翠川輝夫はぼくの同人誌時代の後輩だけどね」(引用者中略)「小説のイロハを教えてやったのはぼくだよ。あいつも長かったね、地味な私小説ばかり書いてて。食えるようになったのは最近だろう」」(『ララピポ』「I SHALL BE RELEASED」より)

 へえ、翠川輝夫が獲った賞って、どんな賞なんだろ。同人誌出身というから純文学系の可能性もあるけれど、長い作家歴、それから小説で食えるようになった、ってぐらいですからねえ。直木賞・山周賞・吉川新人賞、その辺の系列ですかね。

 もう一場面、引用します。西郷寺先生が、銀座で艶聞社ってところの接待を受けている最中に、たまたま同じ文壇バーに高橋なるミステリー作家が、編集者を引き連れてやってきたところです。

「「高橋先生」ママが華やいだ声をあげ、駆け寄った。ほかのホステスたちも一斉に立ち上がる。

 テレビや雑誌でよく見かけるミステリー作家だった。大半の作品がドラマや映画になっていて、賞の選考委員もいくつか兼任している文壇の大御所だ。」

 その高橋を接待しているのが、先にご紹介した世界文藝社なんでした。

「向こうのテーブルは端から賑やかだった。ミステリー作家は両脇にホステスを抱え、大物ぶっている。

 ふん。たかが三文推理小説だろう。何を大きな顔をしているのか。こっちは純文学作品を書いていたことだってあるのだ。」(同「I SHALL BE RELEASED」より)

 ふふふ。小物感・俗物感たっぷりの中年作家の、ドロドロした心理をあぶり出すために、文学賞が使われているんですね。

 自分は、先ごろ賞をとった後輩作家とは、知らぬ仲じゃないってことで、優越をひけらかす。対して、賞の選考委員をしているのみならず、それを「いくつか兼任する」ほどの流行作家には、バーのママやホステスの態度――つまり世間の目の違いを見せつけられ、めらめら怨念を燃やす。

 ちなみに、この『ララピポ』第5話が発表されたのは、幻冬舎の『ポンツーン』誌、平成16年/2004年4月号だそうで。とりあえず、奥田さんが直木賞を受賞(平成16年/2004年7月)する前のことです。

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2009年10月25日 (日)

直木賞とは……エンタメ小説に与えられる賞。と、言い切りたいけど言い切れない。――柴田よしき『Miss You』

091025missyou 柴田よしき『Miss You』(平成11年/1999年6月・文藝春秋刊)

(←左書影は平成14年/2002年5月・文藝春秋/文春文庫

 ふいに、こんな推薦文を見せられたとき、どんな対応をとるかによって、あなたの直木賞ハマり度が測れます。

「しかし何よりも読ませるのは、ここまで書くかという業界の内幕話だろう。具体的に読んでのお楽しみだが、この暴露度は筒井康隆「大いなる助走」以来と言ってもいい。出版界に興味のある読者には、たまらない一冊だと思う。」(『北海道新聞』平成11年/1999年8月22日「書評 Miss You 出版界の内幕徹底暴露」茶木則雄・著 より)

 直木賞オタクとしての正解は……ほお、評者は茶木則雄さんか、しかもその前段では「本書ほど徹底して“業界”を舞台にした作品は、ことミステリーに限って言えば、おそらくないのではあるまいか。」などと、あまりにも言いすぎ・暴論の勢いだもんな、こりゃとても信用できんな、としてスルーする。

 っていうのは冗談ですけど、もうちょっと信頼感のありそうな(こらこら)長谷部文親さんは、こう語ります。

「もちろん本書はミステリーの形式を踏んだフィクションには違いないが、あえて作家や文芸編集者の生態を掘り下げたところにドラマを構築した点で、含蓄に富んだ新機軸と呼べるのではないかと思う。」(『THE 21』178号[平成11年/1999年9月]「ミステリーから現代を読む」長谷部文親・著 より)

 ああ、柴田よしきさん。何にでも手を出す彼女の活躍ぶりは、ワタクシみたいな偏向読者にとっては、ただ指をくわえて遠くから眺めていることしかできません。なので、ワタクシは厚顔無恥を承知のうえで邪道を歩かせてもらいまして、村上緑子もリアルゼロも炎都もすっとばして、いきなり『Miss You』に手を出してしまうわけです。

 『Miss You』では、現実の出版界を想像させながらも、スレスレのところでモデルを特定させない配慮が、いたるところにまぶしてあります。

 主人公の江口有美の勤める会社が「文潮社」、担当雑誌が「小説フロンティア」。ここ一流出版社だそうで、東大卒の学生が就職先に選ぶ部類の会社だそうで、他にファッション誌とかも出しているらしくて、「小説フロンティア」は公募の新人賞も主催していて、そこには五人の選考委員がいて……。

 競合の出版社は、「講論社」と「丸川書房」。この作品にはいろいろと文学賞(っていうかミステリー賞)が出てくるんですけど、意識的にか無意識的にか、まず最初に出てくるのは、この競合二社のものです。

「講論社のコナン・ドイル賞は推理小説の新人賞としてはいちばん知名度があり、受賞者は新人のエリートコースに乗ることが出来る。」(『Miss You』「第一章 砂の城」より)

 はい、ここで講談社の江戸川乱歩賞以外の、現実の賞をパッと頭に思い浮かべた人がいたら、挙手をお願いします。

「丸川書房のミステリ新人賞でデビューしていきなりベストセラー作家になってしまった新田恒星、」(同「第一章」より)

 デビュー作『霧の迷路』は公称50万部突破、だそうじゃないですか。すごいですね。それにしても、この賞もまたミステリー対象なんだそうで、ははあ、平成の世の出版界を映しているような気がしたり、しなかったり。

 それで、直木賞っぽい文学賞がもうちょっと後にエピソードとして出てきます。「いや、それって別に直木賞をモデルにしたわけじゃないから」と、言い逃れできてしまいそうな記述が、ちょこちょこと差し挟まっているのが特徴です。

 このエピソードは、江口有美の先輩編集者、竹田沙恵にからめた話です。竹田沙恵と、作家・石田瑛との関係が語られています。

「竹田ってのは、ドライでバリバリのようでいて、妙なところで女っぽいというか、女性特有の面倒見のよさを発揮することもあったな。去年、立木賞とった石川瑛、あの人は丸川書房の新人賞で出たんだが、受賞作も大して当たらなくてその後もパッとしないまま三年沈んでたんだ。」(同作「第二章 予兆」より)

 なんだよ、石川瑛さんもやっぱりミステリー系かよ。

 竹田沙恵はその石川瑛の作品に惚れ込んで、女房のように尽くしてあげて、「自分が売ってみせる」との宣言どおり、石川瑛さん立木賞受賞。と、実はそこでは竹田沙恵の周到な(あるいは、必死の)戦略も、功を奏したらしいんです。こんなふうに。

「「(引用者前略)竹田の宣言通り、石川さんはいきなり立木賞をとって大復活、うちは受賞第一作を連載でもらえてほくほくもんだ。だが、あの立木賞をとったやつがなぜうちから出ないで他から出たのか」

「竹田さん、他社に売り込んだんですね」

「そういうことだな。そこに竹田の計算があったんだと思う。立木賞はあの前年と前々年、二年続きでうちの作品がとっていた。いくら何でも三年続けば裏があるんじゃないかと勘ぐられる。主催しているミステリ協会としても、痛くもない腹を探られるのはできたら避けたいと思うだろうさ。よほどぐうの音も出ない大傑作でもない限り、あの年、うちの作品が受賞する可能性は薄かった。竹田は会社を裏切ってでも、石川瑛を復活させようとしたんだ。」(同「第二章」より)

 おっと。立木賞の主催者は、ミステリ協会なんですか。ミステリーミステリー、って柴田さん、それで押しますね。

 さらに本作では、「立木賞をとること」は、「人気作家になること」とほぼ同義って感じで書いてあります。

 平成10年/1998年前後のエンターテインメント文芸界は、もうほとんどミステリー(って名を付けたもの)で埋め尽くされていた、っていう世界観は、まあある意味正しいかもしれません。でも、この賞の主催者を、あえて出版社ではなく「ミステリ協会」なる団体に設定しておきながら、なぜに「ミステリ大賞」とか、そういう毒にも薬にもならない名称にしなかったんでしょう。「立木賞」だなんて。まるで、現実のなにかを連想させるような賞名にしたりして。

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2009年10月18日 (日)

直木賞とは……受賞後に書きつづけることができないと、自嘲の対象になる。――岡田誠三『定年後』

091018 岡田誠三『定年後』(昭和50年/1975年3月・中央公論社刊)

 直木賞がまだ、佐佐木茂索&池島信平イズムにどっぷりと塗りつぶされる前のころ……。香西昇さんたちが、なけなしの奮闘ぶりを発揮するその礎にさせられる前のころ……。「原始直木賞」の終焉は、太平洋戦争が終わるころに訪れました。

 戦中最後の受賞者、第19回(昭和19年/1944年・上半期)の岡田誠三さんです。

 だいたい世の中には、「直木賞作家なんて、受賞後、あまり活躍できない人も結構いる」とかなんとか、やっかみ混じりの妙なイメージをもつ人がいるらしいです。それ、正しい見立てかもしれないけど、別の視点でみたら、間違いかもしれません。

 とくに、戦時下に受賞した作家たちと言ったら、あなた。その後のたくましい躍進ぶりは、なかなかエラいもんです。

 早くに亡くなった神崎武雄さんは、まあ措いときましょう。

 「没落受賞作家」の代名詞、河内仙介さんにしたって、戦争終結前はけっこう、ぶいぶい活躍してたんじゃないですか?

 堤千代さんは、家庭誌・女性誌をメインに、一時期は超流行作家。戦後に直木賞が復活するときには、選考委員に予定されているメンバーの一人として名が挙がっていたほどです。木村荘十さんは、戦後の出版復興期には、各誌からひっぱりダコ。森荘已池さんは、宮沢賢治のことならまずこの人に聞け、と言われるほどの賢治研究の大家にのぼりつめちゃったし。

 田岡典夫さんは、渋いながらも良心的な歴史小説で長らくご活躍。村上元三さんの、佐々木小次郎旋風と、それからの重鎮化にいたる道のりは、「直木賞作家」としてバツグンの優等生です。

 で、岡田誠三さん。いやあ、さすがにこの人は、戦争モノ中の戦争モノで唐突にポロッと受賞できただけの人だからな、早々と表舞台から名前が消えちゃったよな。……と戦後、30年間も、言われつづけました。おそらく。

 昭和50年/1975年に、『定年後』なる半自伝的な、爆弾小説が投下されるまでは。

 朝日新聞記者の岡田さん、受賞のころやその後のことを、あくまでサラッと、『定年後』のなかで触れてくれています。

 岡田さん流の、なかなかコネくられヒネくられた文章ですので、注意深く読んでみましょう。

「受賞してから私を見る周囲の目が微妙に変ってきたことを私は皮膚の上に感じる。廊下ですれ違うたびに故上野精一社長が「岡田はん、書いてるか」と、その丸く禿げた頭と同じソフトな大阪弁でいう。敗戦前後へかけての内面の振幅がまぎれるにつれ、それ以後の中年サラリーマンの惰性的ぬるま湯へまたしても私は徐々に首まで漬っていった。受賞の記憶はやがて虚称と化して空転しはじめる。」(『定年後』「1 定年葬」より)

 虚称。……ははあ。そうなんですか。コイツは、職業作家じゃない人間にとっての、正確な直木賞観でしょう。

 さらに、つづいてもう一段落、その「虚称」が具体的にどう空転していったかを述懐しています。

「戦後社会が深まる中でおおかたの人は私の作品の意味を問わずに受賞のことにふれる。虚栄心のくすぐられる限界効用が逓減して自身にむなしいコッケイさを感じながら、「イヤ、あれはもう、時効にかかりましたよ」と受け流す文句を編み出しながら私は、「直木賞をもらった男」という自嘲的短編の幻想の主人公の姿を自分の中に見ていた。」(同『定年後』より)

 「自嘲」と来ました。

 受賞当時のことをひるがえって見ますと、昭和19年/1944年には、新聞の従軍記者が戦地の状況を報告する文章なんか、山ほど発表されていて、『新青年』にだって、そんな散文はいろいろ出ていたはずです。そのなかで、作家として何の実績もない岡田誠三なる記者の、「讀切長篇 報道小説」と角書きを付した小説とも現地報告文ともとれる文章に、よくぞまあ、直木賞は賞を授けたものだな。……と思うわけですけど、岡田さんが単なる従軍記者、ジャーナリストであったなら、もしかして、こんな虚称になんか無関心を貫けたかもしれません。

 ところがです。岡田さんはどうやら、からだの奥底に「作家」の魂を持っていました。戦争だあ国策だあってことで鑑賞眼が曇りがちな戦時下に、そういう人の書いたものを、ビシッと探して出してきて、文学の賞を与えてしまった直木賞たるや。むむ。なかなかやるな。

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2009年10月11日 (日)

直木賞とは……人間の自尊心を侮辱し、愚弄する非人間的なシステム。――小林信彦『悪魔の下回り』

091011 小林信彦『悪魔の下回り』(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊)

(←左書影は昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫

 選考委員がぶっ殺される、二大“直木賞”本のうちのひとつを、そりゃあ素通りするわけにはいかないだろうな。拙ブログで、『大いなる助走』は何度も登場しているのに、本書にまで筆が及んでいなかったのは、ただワタクシが筒井康隆さんの本ほど、小林信彦さんのものを読んでこなかった個人的事情、以外には何もないわけでして。

 『悪魔の下回り』を語った文章は、おそらくたくさんあるはずです。たとえば藤脇邦夫さんは、

「この小説を読むと、誰しも筒井康隆の『大いなる助走』を連想することだろう。この二つの作品を並列して論じた評論もあったが、(引用者後略)(昭和61年/1986年12月・弓立社刊『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』「第三章 道化師の回帰」より)

 と、さらりと述べています。

 そうだよな、筒井作品では選考委員を殺すのは同人誌作家で、小林作品では、雑誌編集者だもんな。お互いの発表時期や発表媒体をながめてみても、前者は『別冊文藝春秋』第141号[昭和52年/1977年9月]~第146号[昭和53年/1978年12月]、後者は『週刊文春』昭和55年/1980年1月3日号~10月23日号だもの、比較したくなる心をよけい熱くさせてくれるしな。両者の作品にくわしい人たちが、すでに、いろいろと評してくれているんだろうなあ。ぜひあなたも、そんな評論を探して読んでみてください。

091011_2  で、身近なところで、前出の藤脇邦夫さんの評論本と、それから文壇揶揄小説の解説者としておなじみ(?)大岡昇平さんの『悪魔の下回り』文庫解説を読んでみまして、やや違和感をおぼえた人間が、ここにひとりいる、ってことをまず宣言しておきたいと思います。

「大体、この出版社(引用者注:『悪魔の下回り』を連載した『週刊文春』の発行元、文藝春秋)が主催する芥介賞(原文ママ)の明らかなモジリである(いや直木賞のニュアンスもある)青田刈賞(このネーミングを考えついた著者はエライ!)がこの小説では徹底的に糾弾(いや、もっといじわるいコキおろしといった方がいい)されているのだから。何か故意に(下線部は原文傍点)連載中止になればいいような意図があって、書かれているようにも思える。」(藤脇邦夫―前出『定本小林信彦研究「仮面の道化師」』より)

「「青田刈賞」は芥川賞と直木賞をいっしょにしたようなものだが、私の芥川賞選考の経験では「根回し」はなかった。縁故や交友関係から有利になる程度である。」(大岡昇平―昭和59年/1984年4月・新潮社/新潮文庫『悪魔の下回り』「解説」より)

 ほお、本作の後半部のものがたりを支配する文学賞「青田刈賞」は、芥川賞と直木賞の混合とおっしゃる。

 そりゃあね、文壇、文学世界、の領域で、出版社が主催する薄汚れた賞(……おっと、失礼。)といえば、その世界にいる人も、あるいは普通の読者も、まずは「芥川賞」を思い浮かべるんでしょう。ネーミングも、あおたがり <-> あくたがわ、ってことですから、「青田刈賞」を構成する要素に「芥川賞」は外せない、って感触もわかります。

 でも、この「青田刈賞」って、意外に、現実の直木賞のほうと瓜二つじゃん。逆に芥川賞っぽい要素なんて、薄くないかい?

 悪魔(=挫折した文学中年・笹井に化けている)が、よろず評論家の首沢に、「どの賞がもっともショウ的要素が大きいでしょうか」と尋ねたところ。

「「それは、もう……」と首沢はにやにやして、「同朋社の青田刈賞だな。この賞は、純文学とか大衆小説とか区分けをしないので、数年まえまでは軽く見られていた。しかし、今の若者は、やれ文学だ、非文学だ、といった発想がない。〈面白ければいい〉〈面白い小説を読ませろ〉――これ一本だ。(引用者中略)この賞は、昭和十年代の代表作家、故青田刈甚輔の〈これからの純文学は、大衆小説の要素も持たなければならない〉という、当時としては破天荒な説にもとづいて設定されたものだ。あの説が、ようやく実を結んだというべきだろう」(『悪魔の下回り』「第八章 賞の周辺」より)

 常識としては、直木賞は「大衆文学の賞」ってことになっていますけど、実際は(少なくとも1980年代ごろまでは)全然そんなことなかった、っていうのは、ご存じのとおりです。

 かつては「直木賞=第二芥川賞」と揶揄されたとかされないとか、要は大衆文学の仮面をかぶって、机の下では純文学に手を差し出していて、さらにはノンフィクションからもエッセイ風散文からも自分の賞に取り込んでやろうと頑張っていて、ああ、まさしく「純文学とか大衆小説とか区分けをしない」姿。なんだ、青田刈賞って直木賞そのまんまじゃないですか。

 だいたい、『悪魔の下回り』では芥川賞のことは「芥川賞」として別に触れられていますしね。

 直木賞マニアの目から見れば、どう考えも本作は、直木賞っぽい賞を主たる攻撃目標として、そのまわりの事象を黒グロしい笑いで蹴っ飛ばしてやろう、としているとしか思えません。

 で、物語のなかでは選考会が近づくにつれて、もっともっと直木賞度は高まっていきます。

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2009年10月 4日 (日)

直木賞とは……当落はさして意味がない。多くの人に読まれるチャンスなのが重要なのだ。――吉村昭『一家の主』、津村節子『重い歳月』

091004091004_2 吉村昭『一家の主』(昭和49年/1974年3月・毎日新聞社刊)

(←左書影は平成1年/1989年3月・筑摩書房/ちくま文庫

津村節子『重い歳月』(昭和55年/1980年4月・新潮社刊)

(←左書影は平成8年/1996年5月・文藝春秋/文春文庫

 今週はお二人そろってお出でいただきました。昭和30年代、第40回ごろ~第50回台前半の直木賞・芥川賞を、作家の側から語るに最もふさわしい人たちです。

 なにしろ、何度も自分が落選させられっぱなし、の体験だけでも貴重なのに。さらに、ほかの人の落選劇をかなり身近なところで目撃し続けた、とくるんですからねえ。その経験で二人にかなう人はいません。

 妻・津村節子さんの「玩具」での芥川賞受賞は昭和40年/1965年。夫・吉村昭さんの『戦艦武蔵』での遅まきながらの大ブレークは、昭和41年/1966年。それから以後、それぞれが当時の状況を振り返りつつ、またネタにしつつ、小説とか自伝をいくつか書きました。

 たとえば昭さんには、『一家の主(あるじ)』なる小説があります。『毎日新聞』夕刊に昭和48年/1973年6月1日~12月27日まで連載されました。平成1年/1989年3月にちくま文庫に入るにあたって、昭さんが寄せた「あとがき」によりますと、こんな作品です。

「私は、自分の過去についてかなりの数の私小説を書いている。その背景となっている時期は、大別して二つ(引用者注:一つは少年時代~終戦後、病臥していた時期。二つ目は昭和50年代~平成)である、と言っていい。(引用者中略)

 その二つの時期の間には十数年という歳月があり、今でも気持に変りはないが、その期間の私について書くのをためらう気持はきわめて強い。理由は、一言にして言えば照れ臭いからで、書く気になれないのである。

 この「一家の主」は、その空白の時期を敢えて書いた小説で、それだけに書いておいてよかった、と今にして思うのである。」(平成1年/1989年3月・筑摩書房/ちくま文庫『一家の主』「あとがき」より)

 「照れ臭い」っていうのが、ミソです。

 いっぽう、節子さんには、自伝的小説三部作ってのがあります。「茜色の戦記」と「星祭りの町」と、それから直木賞・芥川賞の連続落選のころまでを描いた「瑠璃色の石」。ということで、昭『一家の主』に対するものとして、節子『瑠璃色の石』でもいいんでしょうが、今日は、より虚構味の強い“自伝的”な小説のほうを選んでみました。『重い歳月』です。

 『新潮』昭和53年/1978年3月号に「暗い季節」として掲載。それを加筆・訂正のうえ、改題したものです。

091004_3  こちらについては、『瑠璃色の石』の「あとがき」にある、節子さんの言葉をご紹介しておきます。

「「重い歳月」は、代る代る文学賞の候補に上りながら落選を繰返す夫婦の相剋を書いている」(平成19年/2007年3月・新潮社/新潮文庫『瑠璃色の石』「あとがき」より)

 さあて。それじゃあ、昭『一家の主』と節子『重い歳月』を読み比べてみようぜ。

 と躍起になれば、そりゃあいくらでも切り口はあるでしょう。でも、ここは直木賞専門ブログです。あっちこっちと手を出して怪我するのもみっともないので、あえて一つの事象だけに絞ります。

 ズバリ、作家夫婦のもとに、はじめて直木賞の存在が身近にせまったときのこと。

 第41回(昭和34年/1959年・上半期)に、津村節子さんの「鍵」が、はじめて直木賞候補になった前後のことです。

 付け加えるなら、同じ回の芥川賞では、吉村昭さん「貝殻」が、自身二度目の候補になりました。

 まずは昭『一家の主』。そのころ、圭一(夫)・春子(妻)の夫婦は、マイホームを建築する準備を進めていました。

「棟上げは六月初旬におこなわれたが、その夜アパートにもどると、郵便受に速達の封筒が二通入っていた。封を切ってみると、圭一宛のものには芥川賞候補推薦、妻宛のものには直木賞候補推薦の通知が入っていた。」(『一家の主』「巣作りのこと」より)

 節子『重い歳月』。こちらは、すでに桂策(夫)がA賞の候補に二度あがったことになっていて、そのときは章子(妻)だけに通知がくることになっています。

「ある日、郵便受の中に、白い長封筒がはいっていた。自分の名が記されている表書のペン字に見覚えがあり、胸をとどろかせて裏を返すと、かつて桂策が二度候補にあげられて落ちた文学賞の運営にあたっている機関の名が印刷されていた。

 章子は息を詰め、封筒を手にしたままその場に佇立していた。開けば、玉手箱のように、中に書かれている文字が消えてしまうような恐れで、容易に開く決心がつかなかった。

 部屋に戻り、机の前に坐って鋏で一気に封を切った。ガリ版の印刷文の中に、そこだけペン字で同人雑誌に発表した章子の作品の題名が記されていて、今年度上半期のN賞の候補作に推されている旨が記されていた。N賞は大衆文芸作品に与えられる賞で、自分の作品にその要素が強かったのか、と章子は一瞬意外の感を抱いたが、それはすぐに単純な興奮に打消された。いずれにしても権威ある新人文学賞には違いないのである。

 章子は詰めていた息を、ちぎるように少しずつ吐いた。何度読み返しても、夢の中の出来事のようで、実感がせまって来なかった。」(『重い歳月』「一章」より)

 いやあ、一通の通知を受け取る場面だけでも、『一家の主』『重い歳月』でそうとうの違いが出ているなあ(って当たり前か)。こりゃあ節子さん、“作家であり妻である”主人公・章子のこころの動きを、こうまで綿々と綴っていくワザなんぞは、A賞じゃなくてN賞寄りだ、と判断されたとしてもおかしかないわけでして。

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2009年9月27日 (日)

直木賞とは……批評家がおのれの生命を賭けてまで取り組む世界じゃない。――大岡昇平「盗作の証明」

090927 大岡昇平「盗作の証明」(昭和54年/1979年6月・集英社刊『最初の目撃者』所収)

 そろそろネタに困ってきました。ほんとは「小説に描かれた直木賞」のことをツツキ回さなきゃいけないんですけど、今週は、中村光夫「『わが性の白書』」の回と同じような手法をとらせてもらいます。

 直木賞は登場しない、だけど登場しないところに存在感を見出す、ってやつです。

 短篇集『最初の目撃者』には、推理小説好きの大岡昇平さんが、30年の間に発表した推理短篇7つが収められています。

 昭和25年/1950年に文春の編集者・上林吾郎さんに無理やり書かせられた「お艶殺し」(『オール讀物』12月号)からはじまり、驚きの日本推理作家協会賞受賞(昭和53年/1978年)をへて、昭和54年/1979年の「最初の目撃者」(『オール讀物』5月号)まで。そのうち、最後に発表された「最初の目撃者」と、同じころの「盗作の証明」(『小説新潮別冊』昭和54年/1979年春号)は、ともに推理仕立てであるだけでなく、文壇まわりのことを扱っている面でも、共通点があります。

 文壇まわり、言い換えますと……作家が評論家・批評家に対して抱く、殺人にまで発展しちゃう恨みつらみ、みたいなものです。

 ゴシップ好きにとっては、それぞれの作品が、現実のどの作家、どの事案をモデルにしているのかな、と興味がわきますよね。「盗作の証明」については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に、「小説に描かれた盗作事件―小幡亮介「永遠に一日」」と一項が割かれて詳しく紹介されていますので、ぜひそちらをどうぞ。

 「最初の目撃者」のほうは、昇平さんがこんなことを言っています。

「この作品は二十数年以前(引用者注:と言いますから、昭和30年/1955年前後?)、ある物故作家と物故批評家に関する文壇ゴシップにヒントを得ました。第1章の冒頭がそれですが、事件全体はまったくのフィクションです。実在の人名その他との一致は、偶然のものです。」(『オール讀物』昭和54年/1979年5月号より ―引用は『大岡昇平全集13』平成8年/1996年1月・筑摩書房刊「解題」より また『最初の目撃者』昭和54年/1979年6月・集英社刊「あとがき」にも全く同文がある)

 だそうです。つまり、第1章の冒頭とは、30代そこそこの新進批評家・建部隆之介が、銀座のバーで、批評家仲間や編集者を前にして、おれが電話すれば10歳以上年上の流行作家・安城光春は絶対にやってくる、と威張りちらし、電話をしたらほんとうに安城がひょいひょいやってきた、って場面でしょうか。

 そんなゴシップから昇平さんは、「ううむ、そりゃ作家の側に何か批評家に対して後ろめたいことがあったに違いない、その後ろめたさが増幅していくと相手を殺したくなるぐらいの事情が」……と想像力をふくらませます。そこに探偵役として推理作家・垂水兼人を登場させて、純文壇と推理文壇のあいだがらを、ちょっとしたトリックに使ったりするサービス精神まで発揮したりして。

 でも、今回のハナシは「最初の目撃者」のほうじゃありません。「盗作の証明」です。

 盗作騒動がこの物語の軸ですから、そっちの面を文壇ゴシップと混ぜ合わせて見ると、そりゃあ面白い。プラス、これを文学賞にまつわるせつない話、として読めば、さらに面白いってシロモノです。

 作品冒頭、実在の賞が二つ、こっそり登場します。

 『新文学』新人賞に応募していた同人誌作家・青井浩のところに、『新文学』の編集者から電話がかかってきます。青井の応募作が受賞作に選ばれた、と知らされる場面です。

「「受けて下さいますか」

 と相手は言ったが、これはほんの形式で、谷崎賞や日本文学大賞とは違う。新人賞を断る人間はいない。貰うために応募したのだ。」(「盗作の証明」より)

 公募の新人賞でも受賞を辞退する例は、なくはないみたいですけど、それはいいとして。公募じゃない、新人賞じゃない、そして辞退されることのある文学賞の例として、あえて二つ、昇平さんは谷崎潤一郎賞(中央公論社が勧進元)と日本文学大賞(新潮社)を例示しました。

 この小説は『小説新潮』なんて読物雑誌に載っているけど、物語の舞台は、純文学方面のことなんですよ、と最初に昇平さんは読者にやさしく教えてくれているのです。

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2009年9月20日 (日)

直木賞とは……文壇に出るためにどうしても欲しい賞。芥川賞候補を辞退してでも。――柴田錬三郎「わが青春無頼帖」

090920 柴田錬三郎「わが青春無頼帖」(昭和42年/1967年3月・新潮社刊『わが青春無頼帖』所収)

(←左書影は平成17年/2005年3月・中央公論新社/中公文庫

 一か月前に野口冨士男「真暗な朝」を取り上げたところで、柴田錬三郎さんのことに触れました。くどいですけど、もう一回、シバレンで行きます。

 文学に取りつかれた作家の卵たちが、狂おしいぐらいに芥川賞を欲しがる。……っていう、かなりステレオタイプな見立ては、それでも説得力があります。でも果たして、「直木賞」のほうを欲しがる文学青年なんて、これまでいったいどれほどいたのだろうか。それを考えると、なかなかセツないものがあります。

 浅田次郎さん、胡桃沢耕史さん、青島幸男さん、あたりが自他ともに認める「直木賞を欲しがった作家」たちでしょうか。みなさん、かなり年輪を重ねてきた海千山千のつわものどもですねえ。純文学に対する幻想的なあこがれ、なんて時代を、きっと乗り越えてきた人たちです。

 それより時代はさかのぼって、昭和26年/1951年ごろの柴田錬三郎。御年34歳。「青年作家」と言うには、やや年を食っちゃっていますが、同時代に芥川賞を受賞した辻亮一さん(第25回受賞、35歳)とか石川利光さん(第26回受賞、37歳)と比べても、まだまだ芥川賞にかぶれててもおかしかない世代です。

 でも、当時からすでに、錬三郎さんは私小説嫌い、虚構好きでした。

「僕は小説らしい小説を書くことを念願として来た。今もそうである。所謂面白い小説、どんな短いものでも起承転結のある小説、それぞれ色彩の異った素材の小説、そういう小説を書こうと心がけて来た僕は、ストーリイテイラーになりかねないと警告され、鬼面人を驚かすと非難され乍ら、どうしても私小説は書けないでいる。」(昭和23年/1958年2月・新紀元社刊『敗徳の夜』所収「『敗徳の夜』後書」 ―引用は平成2年/1990年8月・集英社刊『柴田錬三郎選集 第十八巻』より)

 そんな錬三郎さんが、流行作家になったのち、私小説のていをなした小説として放ったのが「わが青春無頼帖」です。あるいは、同題の短篇集に収めた「北の果から」や「先生と女と自分」です。

 そこでは、錬三郎さんが『三田文学』に「デスマスク」を発表することになる経緯やら、その後、「イエスの裔」で直木賞をとるところなどが描かれています。いかにも、私小説っぽく。

 作者・錬三郎が、登場人物・錬三郎(あるいは須藤三郎、R・S)に与えた役割は、こういうものです。――文壇に出たくて出たくてしょうがない、カストリ作家が、とある未亡人と関係を持ち、それが縁で、当の未亡人に好意を寄せる文壇の大家とのパイプができて、未亡人との関係を踏み台にして、文学賞受賞をねらった男。

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2009年9月13日 (日)

直木賞とは……日本の文学の世界とは、まったく関係はない。――上坂高生「清書」「選評」

090913 上坂高生「清書」「選評」(平成16年/2004年9月・武蔵野書房刊『賞の通知』所収)

 消えていくものや、忘れ去られていくものに、なぜか逆に愛着を感じてしまいます。じっさい、うちの親サイトの表テーマは、直木賞のことですけど、裏テーマがありまして、「まず今じゃ絶対に見向きもされない過去の作家たちのことを調べて、なるべく先ざきまで残しておきたい」ってことなんです。

 そんな人間にとって、上坂高生さんの短篇集『賞の通知』は、こりゃあ宝石ですよ。

 「あとがき」で上坂さんは言っています。

「それにしても、賞がどんどん消えていくのには当該受賞者にとっては、嬉しくない。侘しいかぎりである。空しさに囚われてしまう。せめて書いて残さねば浮かばれない。」(『賞の通知』「あとがき」より)

 それでこの短篇集は、上坂さんが同人誌『碑』に発表した「文学賞もの」を中心に成り立っています。とくにそのうち、最初の二作「清書」と「選評」は、直木賞を愛する者にとっても、外せない短篇と言っていいでしょう。

 「清書」(初出『碑』79号[平成14年/2002年10月]「消えた賞」)は、上坂さんが昭和29年/1954年、第1回小説新潮賞に「みち潮」を応募して、当選した前後のことを描いています。

 上坂さんは丹羽文雄の『文学者』の集まりに属し、小学校の先生をしながら、こつこつ小説を書いていました。『新潮』『文學界』『群像』は毎月買い求めるけど、『小説新潮』『オール讀物』なんかの書店の棚には、まず近寄ったことがない、……っていう感じが、おお、生粋の通俗小説嫌いのかまえです。

 その『文学者』の集まりに、当時よく顔を出していた新田次郎さんのことを書いた箇所があるのですが、これを読んでワタクシは、ますます新田さんが好きになりました。

「当時、懸賞募集をしていたのは、「サンデー毎日大衆小説コンクール」というもの一つだけだった。南条範夫が時代小説、新田次郎が山岳・気象小説を書き、毎回二人が当選していた。新田さんは「文学者」によく顔を出していたが、通俗小説作家とみられ、軽視される傾向にあった。」(「清書」より)

 さて、ここで萎れたり、はてまたネジれた文学志向をもったりしないのが、新田さんの素晴らしいところです。

「しかし気象庁の技官である新田さんは、そんなことには意を介さない。ひたすら前進する逞しい男達を描く。それに共鳴する人は世間に多く、「サンデー毎日」に当選した作品を集めて『強力伝』として、単行本にする小出版社があって、直木賞を得た。気骨の新田さんは、庄野潤三小島信夫の作品を、あんなもので芥川賞か、とさんざんこきおろしていた。それに反論する者はいない。あるじ(引用者注:丹羽文雄、当時の芥川賞選考委員)は苦笑するばかりである。」(同「清書」より)

 そうだそうだ、芥川賞だから何だっつうんだ、そんなものばかり崇め奉る同人誌の小作家連中なんぞ、ぶっつぶしてしまえ。と、新田さんを応援したくもなります。

 つづく短篇「選評」(初出『碑』80号[平成15年/2003年4月])にも、前半部分で、『文学者』に集う者どもの逸話が出てきます。

 こちらの作は、上坂さんが名古屋の同人誌『作家』が主催する作家賞の候補に、何度も何度も挙げられ落とされる経緯がスジのハナシです。だいたい「作家賞」ってご大層なことぬかして全国の同人誌作品を候補にするくせに、けっきょく受賞作は、『作家』に掲載されたものばっかしじゃないのか、みたいな噂バナシのあとに、『文学者』のことが出てきます。

「丹羽文雄主宰の「文学者」では、「文学者賞」というのが作られていた。いつ始まり、いつ終わったかは定かではないが、三、四年は続いた、と思う。全くの内輪の賞で、私などにはぜんぜん関係がないといえた。あるじ(引用者注:丹羽)に近い年齢の先輩たちがごろごろしていて、その人たちが複数で編集委員となっており、委員の作品は優先して掲載された。三百人ほどが、「十五日会」で年一回投票するが、記名投票なので、その先輩たちに評(原文ママ)が集まってしまう。

「これ、インチキだよな」

 若手の同輩たちは、呟く。若い者が、そっぽを向いてしまうのは、当然といえた。」(「選評」より)

 そうだよなあ。この仕組みというか雰囲気を、黒岩重吾さんも唾棄しちゃったんだもんなあ。

 ええと、ちなみに威張りくさった先輩方を鞭打つつもりは毛頭ないんですけど、「インチキ」とまで言われた「文学者賞」の受賞者・受賞作品を、やっぱり知っておきたいですよね。中村八朗さん『文壇資料 十五日会と「文学者」』(昭和56年/1981年1月・講談社刊)からご紹介しますと、以下のとおり。

  • 第1回(昭和26年/1951年度) 武田繁太郎「風潮」、吉岡達夫「隠花植物」、浜野健三郎「非時香果」
  • 第2回(昭和27年/1952年度) 瓜生卓造「彷徨」、小田仁二郎「たん、たろう」、中村八朗「アチエの敗北者」
  • 第3回(昭和28年/1953年度) 十返肇「贋の季節」、近藤啓太郎「黒南風」、荒木太郎「湖のある風景」
  • 第4回(昭和29年/1954年度) 森啓祐「Xと物質」、見島正憲「低い土地」、村松定孝「日本文学の系譜」

「「文学者賞」は第四回までで終った。というのは、昭和三十年十二月号(通算六十四号)で「文学者」は休刊になるような情勢にあったので、その年の「文学者賞」は見送りになってしまった。第二次「文学者」が復刊になっても、「文学者賞」は復活しなかった。」(『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第六章 リッツからモナミ時代へ」より)

 だそうです。

 そうそう、上坂さんの「選評」に戻りますと、引用した箇所の直後に、一人の先輩会員が登場します。その場面が、ワタクシがこの作品のなかでいちばん好きな部分です。声を上げて笑っちゃいました。

「先輩のひとりが、「十五日会」のある日、私のところに、まっすぐ寄ってきた。日頃、会話を交わしたこともない人なので、私はひどく緊張した。

「君は第一回の小説新潮賞で、ずいぶん騒がれたね」

「は?」と私は目を見張る。ずいぶん昔の話ではないか。先輩は、つけ加えた。

「君はもう芥川賞候補にも直木賞候補にもなることはないよ」

 冷たい目でそう言うと、上席の方にさっさと大股で行った。私は呆然とする。なんでそんなことをこの先輩から宣告されねばならないのか。」(「選評」より)

 この先輩(某大学の文学部教授)の、ただ単純に後輩をイジめるためだけの、究極にくっだらない一撃。ぐわははは。もう笑いゴトです。

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