カテゴリー「これぞ名候補作」の56件の記事

2009年6月14日 (日)

新しさや斬新さが何もないのだとしても、それが小説として劣っていることにはなりません。 第140回候補 北重人『汐のなごり』

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第140回(平成20年/2008年・下半期)候補作

北重人『汐のなごり』(平成20年/2008年9月・徳間書店刊)

 「これぞ名候補作」のエントリーは、これで56本目、ほぼ1年間書いてきたことになります。とりあえずの一区切りです。

 最後ぐらいは「今」につながる最新の候補作を取り上げたいなと思って、第140回(平成20年/2008年・下半期)の候補作のなかから選びました。受賞しなかった4つの候補のうちの一つです。

 こないだの直木賞――半年前の第140回は、いろいろな注目点があったと思います。いつもと同様に。そのなかで一部のマスコミの取り上げた視点がありました。「50代以降の作家が3人(も?)候補になった。そのうち2人は50歳をすぎてからの割りと遅いデビューだった」っていうものです。

 おっと、もうこれだけで、団塊のアレがどうしたこうした、と続くお決まりのハナシを想像させて、ややうんざり。と、眉をひそめる40代以下の小説愛好者が続出したとかしないとか。さらに言えば、オーバー50歳のお三方とも、その候補作は時代小説なんだとさ、ふん、じじいは時代小説ばっかだな、とせせら笑うミステリー愛好者がわんさかいたとかいないとか。

 50歳というラインに、なんか意味があるとは思えません。また、時代小説がおじさん・おじいさんたちだけのものではない、と固く信じます。けれど、「時代小説がいま若い女性に人気」とか、ことさら書き立てる文章に出会うと、ふむ、世の中には時代小説はじじいのものと信じている一派があるんだなと勉強になります。

 関川夏央さんに、その題もずばり『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(平成18年/2006年2月・岩波書店刊)っていう著書があります。最後のほうにこんな一節があります。

「これまで時代小説というものがあることは知っていたけれども、なんの興味もなかった。自分には関係ないと思っていた人が多いでしょう。では時代小説は誰に関係があるかというと、おじさんに関係があると思っていたわけですね。で、おじさんというのは得体の知れない暗黒大陸の住人のようなもので、彼らがなにを好んでなにを読もうと関係ない、それが素直な気持だったと思います。」(『おじさんはなぜ時代小説が好きか』より)

 ほう、そうですか。時代小説=おじさん、っていう構図はそんなに一般的ですか。

 それと関川さんは、こんなことも指摘しています。

「おじさんと時代小説の相性のよさは、たしかに「保守化」と関係があるでしょう。」

 いいでしょう。受け入れましょう。時代小説は、保守的な世界を味わわせてくれるものだと。いつもそこに、そのかたちであることの安心感。なごみ。しみじみ。地道。そして地味。

 ……と、ここまで書いて、ワタクシはこう続けたいわけです。『汐のなごり』や『いのちなりけり』がいかに、『きのうの世界』や『カラスの親指』に比べて、地味であるか。人の目をひかないか。注目度が低かったか。と。

 でもね、そんな暴論はとても吐けません。6人の候補作家のなかでは恩田陸さんだけズバ抜けて著作数も多いし固定読者も多いと思いますけどね、あの人は別格です。

 ちなみに、うちのちっぽけな親サイトのアクセス数を見てみますか。第140回の候補が発表された平成21年/2009年1月5日から、選考日前日の1月14日までの総数で、各作家のページのアクセス比率は、以下のとおりでした(恩田陸さんを100として計算しました)。

  1. 恩田陸………100
  2. 天童荒太……65
  3. 北重人………58
  4. 山本兼一……55
  5. 道尾秀介……45
  6. 葉室麟………39

 って、うちのサイト程度のデータじゃ何の参考にもなりませんか。そうですよね。どうもすみません。

 ワタクシもおそらく、おやじの一人にカウントされても、とくに文句の持って行き場のない人間です。仮に、おじさんの好きな小説、ってことだけで興味を失うような愚かな読者がいるとは思えませんので、堂々と胸をはって言いましょう。

 ワタクシは『汐のなごり』が好きです。時代小説として好き、っていうより、単純に小説として好きです。それだけです。

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2009年6月 7日 (日)

とある組織をあたふたさせた、一人の女の余計な発言と、一人の男の怒り。 第128回候補 横山秀夫『半落ち』

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第128回(平成14年/2002年・下半期)候補作

横山秀夫『半落ち』(平成14年/2002年9月・講談社刊)

 第128回(平成14年/2002年・下半期)は、ほんとは直木賞史のなかでも、のちのち語り継がれるほどの特異な回であるはずでした。ワタクシ、直木賞オタクなものですから、正直いってそのテーマで一本エントリーを書き尽くしたかったのです。

 でも、たぶんよほどの直木賞オタクでないと、その特異さは理解していただけないし面白がってもらえないと推測します。なので、やっぱり今日は、多数の方が興味をもたれるハナシを書くことにします。

 うちの親サイトは、一年のうち2か月を除いて、平常はさしてアクセス数の多くないサイトです。そんな低アクセスの時期でも、けっこう見に来てくれる人の多いページがあります。「横山秀夫氏の「直木賞決別宣言」について」です。

 ほんと、あなたも他人の揉めゴトがお好きですのう。えへへ。ワタクシもそうです。人気作家が直木賞候補になって、落とされて、どうやらその選考の経過に不満を抱いて、もう金輪際おれの作品を候補にするのはやめてくれと、堂々、宣言したと。

 うちの親サイトのページを書いたのが平成15年/2003年6月末。それから先、大して調査を深めることもせず、放ったらかしにしてしまいました。当該ページでは、事実関係について6年ぶりに加筆したんですが、そいつをもとに余聞と余分な事項を、ここに書かせてもらいます。

 まず、横山秀夫さんの直木賞決別宣言にまつわる事柄を、時系列でまとめてみます。

  • 平成14年/2002年9月 講談社より『半落ち』刊行(初出は『小説現代』平成13年/2001年3月号~平成14年/2002年4月号)

  • 同年12月 『このミステリーがすごい!2003年版』(宝島社刊)の国内編で『半落ち』が第一位となる。

  • 同年12月 『週刊文春』(文藝春秋刊)の「ミステリーベスト10」国内部門で『半落ち』が第一位となる。

  • 平成15年/2003年1月 第128回直木賞候補となる。

  • 同年1月16日 選考会が開かれ落選。この回は受賞作なし。

  • 同年同日 選考後に、選考経過を林真理子委員が記者会見。

    「林さんは『半落ち』について、ミステリーとしてでき過ぎではないか、アルツハイマーの奥さんを殺す設定は安易じゃないか、あまりにも善意の人に満ちていて最後が弱く、小説としても決定打に欠けるという意見が大勢を占めた、と選考経過を紹介した。

     さらに(1)北方謙三さんから、受刑者はドナーとして提供できないという指摘があった(2)渡辺淳一さんから、そういう欠陥があるのに誰もわからなかったのか、今のミステリー業界はちょっとよくないんじゃないか、という発言があった――とも明らかにした。」
    (『毎日新聞』夕刊 平成15年/2003年5月28日「小説と現実の間で 広がった不幸な溝」より 執筆:重里徹也)

  • 同年1月23日 『毎日新聞』夕刊が、直木賞選考会が『半落ち』にはミスがあると指摘したことを重点的に取り上げる。

    (引用者注:選考会で)北方謙三さんが、物語のポイントについて「基本的な事実関係の解釈に間違った点がある」と指摘した。(引用者中略)落選したのは、この理由ばかりではないが、出版界では北方さんの指摘が話題になっている。(引用者中略)

     横山さんはこれらの事態について「この問題は承知していた。そのうえで、警部にどんな行動をさせたらふさわしいかを考えた。彼の内面を重視した物語にしたかったので現行の形で書いたのです」と語る。講談社も「致命的な思い違いがあるわけではない」として、書き直しの検討などは考えていない。」
    (『毎日新聞』夕刊 平成15年/2003年1月23日「直木賞候補『半落ち』で評価真っ二つ ミステリーの現実性めぐり議論」より 執筆:内藤麻里子)

  • 同年その頃 講談社がホームページ上で、選考経過への反論を掲載。

    「これに対し、出版元の講談社はすぐに文芸局長名の反論をホームページに掲載。「充分(じゅうぶん)な調査を重ねた上で、このケースは妥当な設定であると判断……問題の核心に迫る先見性を備えている」と、欠陥説を一蹴(いっしゅう)した。」(『朝日新聞』平成15年/2003年3月19日「小説「半落ち」は欠陥作か傑作か 主人公の行動可能?…異例の論争」より)

  • 同年その頃 横山氏自身、「欠陥」と指摘された箇所について、あらためて再取材を行う。その結果、作品のなかに事実誤認はなかったと確信、主催者の日本文学振興会に、事実の再検証をするように申し入れる。

  • 同年2月20日頃 『オール讀物』3月号発売。直木賞の選評が掲載される。ここでも記者会見の内容と同様の、「この作品には事実誤認がある」「それを見抜けなかったミステリー界にも問題がある」「それにもかかわらずこの本はいまだに売れ続けている」といった文章があった。

  • 同年3月 横山氏、おおやけに選考会での指摘に対する反論を行う決意を固める。

  • 同年3月19日 『朝日新聞』が文化欄に「小説「半落ち」は欠陥作か傑作か 主人公の行動可能?…異例の論争」を掲載。横山氏からの反論を載せる。ここで横山氏は(直木賞に)今後、作品をゆだねる気には到底ならない」とコメント。

  • 同年3月31日 上記のコメントを受けて、『上毛新聞』が横山氏へのインタビュー記事「人間の矜持保ち次の一歩進める 直木賞への決別宣言 「半落ち」の横山秀夫さん」を掲載。

 と、ここまでが、いわゆる「直木賞決別宣言」までのおおまかな流れです。

 3月19日の朝日新聞の記事は、『半落ち』に関して論争がまきおこってますよ、と伝える主旨のものでした。たとえば佐野洋さんとか北上次郎さんとかのコメントを載せつつ、北方謙三さんが選考会で行った「欠陥に対する指摘」は正しかったのかを検証しています。そのなかで作者本人が、作品内容の重要なことを明かしてまで反論するに至ったことを記事にしたものです。

「『半落ち』は選考会後も3度の増刷がかかり、現在27万部。「欠陥」説に反論するためには、結末を明かさざるを得ず、作者・出版社にとって、正面から受けて立ちにくい状況だった。

 しかし、「オール読物」3月号の選評に「落ちに欠陥がある……しかし、それほど問題にもならず、未(いま)だに本は売れ続けている。一般読者と実作者とは、こだわるポイントが違うのだろうか」(林さん
(引用者注:林真理子))と書かれていたため、横山さんは「読者までも侮辱された」と感じ、作者として反論する意思を固めた。

 横山さんは「ミスではないと思っている。たとえミスがあったとしても、作品個々の良しあしを論ずるべき選考会の講評で、ミステリーという特定のジャンル批判に及ぶなど言語道断。その後もあらぬ批判が繰り返され、直木賞という権威を笠に着たおごりとしか思えない。今後、作品をゆだねる気には到底ならない」と怒りを隠さない。」
(前掲『朝日新聞』記事より)

 事実上、このコメントをもって、横山秀夫さんの直木賞決別宣言が行われた、ととることができます。

 ただ、これだけではまだ、売り言葉に買い言葉ふうで、怒った勢いで語ってしまったコメントとも読めます。いや、横山さんは本気で、今後いっさい直木賞の候補になるのを拒否するんだな、とワタクシたちに知らされたのが、『上毛新聞』のインタビューでした。

「―「事実誤認はない」のだから、直木賞の主催者、日本文学振興会に疑義を呈した。

「できないと断ずる根拠を示してほしいと申し入れたが、明確な回答がないまま2カ月以上も店晒(たなざら)しにされた。その間、主催者や選考会が再検証を行ったという話も聞かない。要するに、権威ある直木賞選考会の決定は絶対であり、ノミネート作品が傷つこうが死のうが、知ったことではないということだ。それがために、ミスがあったという誤った事実が一人歩きを続け、揚げ句は、ミステリー界や読者を誹謗(ひぼう)する論外な発言までをも誘発した」

―「今後、直木賞に作品を委ねる気はない」と発言しているが。

「もちろん欲しい賞だった。『黙して次のチャンスを待つ』というさもしい考えが頭にちらついたことも確かだが、読者との暗黙の約束もある。これまで、窮地に追い込まれても次の一歩を踏み出す人間の矜持(きょうじ)を描いてきた。作者と作品は無縁ではあり得ない。今回のことを看過してしまっては、作家として一歩も前に進めない。一行たりとも書くことができない」」
(前掲『上毛新聞』記事より)

 それ以後、「決別宣言」に関する記事はいくつかの新聞・雑誌に載りますが、そこで横山さんが語る決別の真意は、ほぼこの記事どおりのものです。

 まあ、横山さんの怒りを沸騰させたのは、主催者の日本文学振興会が、横山さんからの訴えを無視した、っていう姿勢にありそうです。でもさかのぼれば、そもそも騒動に火をつけた真犯人が、林真理子さんであったことは自明の理。

 作品の論評だけしてりゃよかったものをねえ。わざわざ、ミスを見抜けなかったミステリー界がどうだだの、欠陥作品を感動作とか言って買ってる読者のなんとまあ多いことよだの、作品評とは関係ないことを、ぬけぬけ語っちゃう真理子さん。そうか、彼女が一介のコピーライターからここまで人気を博してやってこれたのも、歯に衣きせぬ発言っていいますか、けっこう多くの人が不快に思うにちがいないことをあえて口に出してきたからだもんなあ。それで、支持を得たり、はてまた面白がられたりして、それが真理子さんの魅力、そして嫌われるポイントだろうからなあ。

 その真理子マジックに、まんまとヤられたのが『半落ち』であり、横山さん。それと横山さんの直木賞受賞を心待ちにしていた担当編集者や、多くのファン。プラス、悪者に仕立てあげられることになった日本文学振興会。もっとも心を痛めたのはきっと、文藝春秋で横山さんを担当していた編集者だったかも。

 おお。真理子マジックよ。周囲に迷惑をかけることで、その存在意義を輝かせる負のパワーたるや。さすがです。惚れ惚れします。

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2009年5月31日 (日)

史上唯一の70代候補。年下の連中から酷評されて、受賞の望みも断たれて、ややムッとする。 第112回候補 池宮彰一郎『高杉晋作』

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第112回(平成6年/1994年・下半期)候補作

池宮彰一郎『高杉晋作』(上)(下)(平成6年/1994年11月・講談社刊)

 前クール(平成21年/2009年3月1日付)のエントリー田口ランディさんの『モザイク』を取上げました。ならば当然、この方を無視しちゃいかんぞな、さあ池宮彰一郎さんに壇上に姿をさらしていただこう。ってわけじゃありません。盗作ファンのみなさま、申し訳ございません。

 そうは言っても、池宮さんを語るにあたって、『遁げろ家康』や『島津奔る』の一件(いや、二件)を省いて進めるほど、ワタクシも紳士じゃないもので。まずは、そこから触れます。

 『遁げろ家康』は、平成9年/1997年1月3日・10日号~12月26日号に『週刊朝日』に連載。その後、単行本化、文庫化と順調に版をかさねたものの、平成14年/2002年の9月にいたって版元の朝日新聞社に、読者から指摘が寄せられる。いわく、司馬遼太郎の『覇王の家』と、よく似た表現・記述が多いのではないか、と。それで平成14年/2002年12月25日付で絶版、および自主回収。

 『島津奔る』は、平成8年/1996年7月18日号~平成9年/1997年10月23日号に『週刊新潮』に連載。その後、単行本化(第12回柴田錬三郎賞も受賞)、文庫化と、かなりの売上げを稼いだものの、平成14年/2002年の12月にいたって版元の新潮社に、読者からまたも指摘が突きつけられる。いわく、司馬遼太郎の『関ケ原』と、まるで引き写しに近い表現・記述が多いんじゃないかコノヤロ、と。それで平成15年/2003年4月1日付で絶版、および自主回収。

 池宮さんご本人の、類似表現をまねいてしまった原因の説明やお詫びについては、他のサイトをご覧ください。人の作品から表現を盗むなんざ、ひでえ奴だ、それで作家を名乗るとは言語道断、ってご意見が出るのもごもっとも、そんな切れ味鋭いコメントの類も、どうぞ他のサイトをご覧ください。

 ここでは、これら二件で、ああ、池宮さん残念だよ、しょぼーんとなってしまった、池宮さんに近しい方々の思いを、ちょこっと引用しておきます。

 まずは、栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史――市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)でも触れられた『朝日新聞』の記事、「「類似表現で絶版」慎重に 池宮彰一郎「島津奔る」問題で識者指摘」より。お二方のコメントです。

「「類似即絶版」という流れが定着することへの、懸念の声も上がっている。歴史作家の安部龍太郎氏(47)は「同じ史料や軍記などを参考に事件を描けば、似た描写や表現になることはある程度やむをえない。先行作品と似ているから絶版という措置を取られると、歴史小説の自由な表現をそがれる恐れがある」とする。

 文芸評論家の縄田一男氏(45)も「原史料との厳密な照合が必要で、表面上の類似だけの即断はさけるべきだ」と話す。」
(『朝日新聞』夕刊 平成15年/2003年4月9日より)

 プラス、この記事を書いた佐藤憲一記者の感想も。

「作家にそれなりの事情があったとしても、連載、単行本化、文庫化まで三度の編集作業を経た出版社側がなぜ長年、類似を発見し改善できなかったのか。両作とも十万部以上のベストセラーで、柴田錬三郎賞を受賞した『島津―』が、近年の歴史小説の名作と評価されていることを考えれば、残念でならない。」

 さらに池宮さんが亡くなったときの、『朝日新聞』と『読売新聞』の記事があります。これらもやっぱり「池宮作品=盗作のイメージが残っちゃって、いやあ残念だ」の路線を継承しています。

 『朝日新聞』の編集委員、白石明彦さんは「作家・池宮彰一郎さん 歴史小説に斬新な人物像」のなかで、こう嘆きました。

「「司馬史観を超えなければ新しい歴史小説は生まれない」と熱く語る言葉が今も耳に残る私は、あの独創的な発想の持ち主がなぜ、という思いが消えない。」(『朝日新聞』夕刊 平成19年/2007年6月1日「惜別」より)

 いっぽう、拙ブログ二度目のご登場となるのが、『読売新聞』文化部記者、石田汗太さん。「作家・池宮彰一郎さん 無頼が描く「美しい生」」なる記事を書きました。

「同年生まれの司馬遼太郎氏を敬愛し、「常にその背中を追いかけていた」(司さん(引用者注:息子で作家の池上司))。それだけに、柴田錬三郎賞を受賞した「島津奔(はし)る」など2作が「司馬作品との類似表現多数」との指摘を受け絶版・回収になったのは、皮肉としか言いようがない。「島津奔る」は、司馬氏が「定見なし」と切り捨てた薩摩の島津義弘を正反対の視点から英雄的に描いた代表作で、作家にとっても、小説界にとっても、計り知れない傷を残した。

 この件について、作家に直接尋ねる機会は、ついに訪れなかった。最後の連載担当を務めた角川書店常務の新名新さん(53)によれば、一時「筆を折る」とまで漏らしたという。いかなる葛藤(かっとう)が胸の内にあったのか、もう知るすべはない。」
(『読売新聞』夕刊 平成19年/2007年6月5日「追悼抄」より)

 ほんとほんと、「もう知るすべはない」んですけど、少しだけ想像しますとね。版元から「司馬さんの作品と、似てる表現があるみたいですよ」と知らされたときに、池宮さん自身がどれだけショックを受けたことか。……このショック、たぶん年齢を重ねた者のみが体験することを許されたものだったりして。ねえ、池宮さん。

「人間の老化は、十八歳ごろから始まるという。

 その自覚症状は、四十歳台からである。頭髪に白髪がまじり、薄くなる。観た映画の俳優の名を忘れる。読んだ小説の作中の人物が思い出せない。(引用者中略)

 六十歳になると、ど忘れが頻発する。いま手許にあった物が突然亡失する。ひょいと置いた眼鏡や煙草がどうしても見当らない。

 七十歳近くになると、老人惚けが顕著になる。思いついた事があって茶の間に行く途中、妻が台所で首を傾げて立っている。聞けば用向きを忘れたという。惚けを笑って、さてわが身となると、こちらも用件を失念して、どうしても思い出せない。

 そういう身で、時代小説を書く事自体無理である。史料を漁り史実を確めるのは、壮齢の人間の想像を越えた手間暇がかかる。せめて時間の余裕があれば、と思うが、原稿依頼には必ず期限が附せられる。締切間近となる辛さは筆舌に尽し難い。無理して書くには体力が続かない。」(平成9年/1997年2月・新潮社刊『義、我を美しく』所収「時計の音」より ―初出『歴史ピープル』平成7年/1995年春号)

 若いころから段違いに記憶力がよくて、それでまわりの人から褒められている人ほど、たぶん「自分がいつの間にか忘れてしまっている」ことに気づいたときのショックは大きいんじゃないかなあと。……あくまで想像です。

「池宮さんと親しかった新潮社の元編集者宮澤徹甫さんは語る。「酒席で人の脚本をそらんじたことがあり、後でその映画を見て一字一句一致しているのに驚いた。司馬さんの小説を読み込み、類似表現が無意識のうちに出たのだろう」

 長男で作家の池上司さんも父の異常な記憶力について触れ、「暗唱できるほど記憶の中に刷り込まれていた司馬さんの文章が、創作の最中に自分の文章と判別できなくなったのではないか」という。」
(前掲『朝日新聞』夕刊「惜別」より)

 ワタクシだって老いる身ですし、いや、そろそろ物忘れ攻撃を食らいはじめてもいて、あんまり当時の池宮さんを老人老人とあげつらいたくはないんですけど。いちおう今日のエントリーで書こうとすることも、年齢のことでして。

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2009年5月24日 (日)

迷惑と心配をかけた家族のために、お父さんは40歳をすぎてから書き始めました。 第110回候補 小嵐九八郎『おらホの選挙』

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第110回(平成5年/1993年・下半期)候補作

小嵐九八郎『おらホの選挙』(平成5年/1993年10月・講談社刊)

 山口洋子女史が阪神タイガースの大ファンで有名だとするならば、この方だって相当なもんです。

 本名、工藤永人さんはペンネームをつけるときに、タイガースの応援歌「六甲おろし」からの連想で、「小嵐」としたのだとか。しかも、小説デビューとなった作品は題名が「嗚呼、虎が吼えずば」。作品中に昭和60年/1985年の阪神快進撃と優勝のことが織り込まれていて、さすが虎キチ、念が入っています。

 もっとも、「嗚呼、虎が吼えずば」辺りのハナシは、それほど小嵐さんのプロフィールに書かれることがなくて、あれ、あんまり言っちゃいけなかったんですか? ううむ、たとえば胡桃沢耕史ぐらいになるともはや、「性豪」とか言われて伝説にまでなるんでしょうけど、有名になる前にポルノチックなもの(あるいはポルノそのもの)を書いていたって履歴は、ふつうは筆歴にかぞえないんだろうなあ。姫野カオルコさんを例に出すまでもなく。

 小嵐さんの前歴といえや、そりゃあ、新左翼、社青同解放派の活動家だったことが知られています。そこから離れて、金を稼ぐために物書きになった、その入り口がポルノ分野だった、とはご自身の弁。たとえばこんなインタビュー記事があります。

「作家になったのは金のためと言う。

「刑務所から出てきたら、組織が割れてた。組織の専従者って、労働者のカンパで食ってるんだけど、労働者はみんな右のほうにいっちゃってた。でも、ぼくは左が好きだから」

 しょうがないからポルノを書いて売り込みに行った。(引用者中略)

 もっとも、小嵐九八郎のポルノを探しても無駄である。すべて別のペンネームで書かれている。(引用者中略)

 ポルノの原稿は安い。これではたまらないと、書いた小説が『小説クラブ』で佳作になった。そこで小嵐九八郎の誕生となる。」(『噂の真相』平成8年/1996年1月号「メディア異人列伝」 インタビュー・構成/永江朗 より)

 いやいや、桃園書房の『小説CLUB』だってバリバリのポルノ系小説誌じゃないの? とかいうツッコミは、そうですよね、大人げないですよね。

 それで昭和61年/1986年の第9回小説CLUB新人賞の佳作に入ったのが「嗚呼、虎が吼えずば」(掲載は同年7月号)でした。ちなみにこのときの受賞は、千代延紫さんの「ピンキードリーム」。とかいって、小説CLUB新人賞については、ワタクシもよく知らないんですが、同賞受賞作家でもある冴島学さんが、ご自分のホームページでまとめられています。

 小説の原稿料のことは詳しくありませんけど、そうですか、ポルノは安いんですか。だとすると、『小説CLUB』に「小嵐九八郎」名義で発表するようになってからも、そんなに稼げるようになったわけじゃないのかもしれません。まもなく小嵐さんはちがう分野に進出していきます。

「十三年ほど前か、ある小説誌の佳作に入選した時に、編集者が我が家に遊びに来た。

 編集者は、居間に大きなびくがあり、釣り用のどでかいマグロ鉤も視野に入れ、竿があるのも見て、

「君は魚を釣るのかね」

 と尋ねた。

「まあ、想像に任せますよ」

「どんなもの釣るの」

「まあ、あのびくを見ればわかるでしょう」

 おれはいい加減に答えておいた。

 が、後日、その編集者は勝手に、「君は釣り名人だ。小説家としての売りのコピーが決まった」といいだし、おれの処女長編『巨魚伝説』(祥伝社刊)を出したのであった。」(平成12年/2000年4月・青樹社刊 小嵐九八郎・工藤紘子・著『川崎山王町 小嵐家の台所 都会でできる田舎暮らし』より)

 それでも小嵐さんは「釣り作家」として一家を成すような道には進みませんでした。編集者の狙いは失敗したわけですが、頼もしいことに小嵐さんは別の方向で、しっかりとおのれの小説世界を切りひらいていきます。元・新左翼の活動家、大学生の頃から40歳ごろまでずっと「現役」で、その間に刑務所ぐらしも経験、といったところから、特異な小説を次々と生んでいくことになるのでした。

 特異、と言っていいんでしょうねえ。それまで主にノベルスや文庫を出しつづけてきた小嵐さんが、自身の遍歴を想像させる、左翼運動にのめり込んでいく青年とその家族のことを小説にしてハードカバーで刊行、そしたら、版元が実業之日本社だっつうのに、いきなり直木賞の候補に挙げられて、小嵐九八郎ここにあり、の姿を見せてくれたんですもの。

 ……と、ここまで来て、今週とりあげる名候補作は、まさにその『鉄塔の泣く街』(第106回 平成3年/1991年・下半期 候補)です、あらすじは……と続けたいところなんですが、ストップ。

 ご紹介するのは、第110回候補の『おらホの選挙』です。なぜか。『鉄塔の泣く街』より、『清十郎』(第108回 平成4年/1992年・下半期 候補)より、「風が呼んでる」(第112回 平成6年/1994年・下半期 候補)より、ワタクシが好きな小説だからです。ただそれだけです。

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2009年5月17日 (日)

「くるくる」に凝縮された、地方の作家志望者がかかえるモヤモヤと、あきらめきれない夢。 第98回候補 長尾宇迦「幽霊記」

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第98回(昭和62年/1987年・下半期)候補作

長尾宇迦「幽霊記」(『別冊文藝春秋』180号[昭和62年/1987年7月])

 世間の潮流にまどわされず、あえて自分の信じる道を進もうとする姿は、いつの時代も美しいもんです。文学を志すぞ、よし、俺もいつかは芥川賞を、とか言っている連中とは一線を画して、昭和30年代にわざわざ「大衆文学同人誌」と銘打ったものを、なけなしの費用をはたいて出す、っていうのは、偉いもんだよなあ。

 以下は、当時『文學界』の「同人雑誌評」で、林富士馬さんが語った一節。

「チェーホフも、先ず何より短く書く練習といったことを、文学的才能のために、説いていたと思う。ショート・ショートの流行というのは、はじめから、読物としての技術の話であって、文学とは又別な噺である。又尤も、人生は何も文学万能の筈もなく、文学であろうが無かろうが、そんなことには拘りなく、自分には娯楽読物だけが必要だという人だっているし、現に、大衆娯楽専門の同人雑誌だって、幾つか存在している。「東北文脉」(盛岡市、二集)などもその一例。」(『文學界』昭和37年/1962年7月号「同人雑誌評」より)

 頼もしいじゃないですか、『東北文脈』。これの編集兼発行人こそが、若かりし頃(つっても30代なかば)の長尾宇迦さん。同誌は顧問に先輩作家の鈴木彦次郎さんと、岩手放送社長の太田俊穂さんを担ぎ上げているものの、同人はキッパリ三人きりです。発行所の名前も「三人の会」。

「第一号では、多くの人たちから好意をいただいた。改めて感謝しておく。

 また、会に加わりたいという方もあったがまづ、当分は、我儘を許してもらいたいと思う。(引用者中略)

 文字(原文ママ)の道は、きびしいものとは、心得ているつもりだが、ふと無駄なことをしているような、さみしさにおそわれることもある。

 ただ、出来ることなら、偉大なる無駄にしたいものである。」(『東北文脈』2号[昭和37年/1962年4月] 長尾宇迦「編集後記」より)

 高校教員として勤めながら、長尾さんは『北の文学』誌などに投稿、地元ではちょっと名の知れた作家になって、この『東北文脈』を経て、昭和39年/1964年には第2回の小説現代新人賞を受賞します。

 しばらく「小説現代専門作家」みたいな道を歩んだのち、昭和46年/1971年にいたって、つまり45歳ごろにとうとう教員を辞め、作家一本でいくことを決めたのだそうです。

「かつて岩手にあった「北の文学」の流れをくむ「文芸岩手」(水沢市)が今年(引用者注:昭和46年/1971年)八月、丸二年ぶりに第八号を発行、注目を集めた。創刊以来陰の力となってきた長尾宇迦氏が、教員と作家の二足わらじに別れを告げ、この春一本立ちの作家として東京に移住したことに刺激されての発行だった。」(昭和47年/1972年3月・五月書房刊『同人誌年鑑 一九七二年度版』所収 岩手日報学芸部・及川和哉「概観 岩手」より)

 そこからさらに、長尾さんの情熱と執念の生活が(おそらく)深まっていったことでしょう。10数年たって長尾さんはエッセイ「妻への詫び状」にて、

「最初に私は、決して入婿の身の上ではないことを断っておきたい。が、ツマの前では、ともすると、「申しわけネ」といってしまうのだ。私の住んでいる岩手あたりでは、(申しわけない)とは、感謝、ありがたい、という意味がつよく、とくに「ネ」の発音に、いわくいいがたい微妙な加減がある。(引用者中略)

 とかくするうち、教員稼業にもやや情熱を失ないかけて、チョンにした。「申しわけネ」と、ツマにいったが、相手は福々しく笑っていた。」(『小説現代』昭和58年/1983年2月号「妻への詫び状 ヒョーショージョもの」より)

 上京したはずの長尾さんが、どうやらまた故郷に舞い戻ったらしいのを見て、事情は存じませんけど、作家稼業の大変さがにじんでいるようでもあり。

 50代を超して還暦をすぎ、やあ、よくぞ大衆文学の道を投げ出すことなく、邁進していただきました。昭和62年/1987年、『別冊文藝春秋』にご登場。よっ、待ってました。

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2009年5月10日 (日)

この無冠の士の前を、直木賞もやっぱり素通り。そのかわり半年で700万円を落としていきました。 第87回候補 飯尾憲士「自決」

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第87回(昭和57年/1982年・上半期)候補作

飯尾憲士「自決」(『すばる』昭和57年/1982年6月号)

 2週前第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補、田中穣『藤田嗣治』をとりあげました。このあと、直木賞ではプチブームが起こります。伝記もの(とくに近現代に生きた著名人の伝記)がさかんに候補に挙げられたのです。

 福岡徹さんの『軍神』(第63回)と『華燭』(第66回)、梅本育子さんの『時雨のあと』(第64回)、藤本義一さんの「生きいそぎの記」(第65回)などなど。ただ、推理小説やSFがそうであったように、伝記ものもやはり、直木賞の本流とはなりませんでした。

 もうひとつ、『藤田嗣治』からこっち、直木賞のなかを吹き荒れた風があります。ノンフィクションです。

 今の直木賞は、小説小説したものしか眼中に入らなくなってしまったようで、よほど予選選考している文春社員が気張らないと、ノンフィクションなど候補に挙がらないでしょう。でも、平成の声を聞くまでの十数年間、確実にノンフィクションが直木賞の骨格をささえていた時代がありました。

 その代表選手といって思い浮かぶのは、これでしょう。飯尾憲士さんの「自決」。副題は「森近衛師団長斬殺事件」。

 初出は『すばる』誌の昭和57年/1982年6月号です。どどっと520枚一挙掲載。これの単行本化を待たずして、昭和57年/1982年の上半期の候補としてすくい上げた、当時の日本文学振興会の目配りの広さに、ワタクシは拍手を送りたい。

 この作品は、田中穣『藤田嗣治』とちがって、はじめっから自分がノンフィクションであることを宣言していました。

 『すばる』誌の表紙と目次に、編集者がこう書いています。

「日本終戦史の謎に挑む長篇ノンフィクション」

 ははあ。ノンフィクション。あの飯尾憲士さんがねえ。熊本の同人誌『詩と真実』にのっけた「炎」に始まり、中央文壇に足がかりを得たのちの「ソウルの位牌」「隻眼の人」と3度も芥川賞候補になったことのある、あの飯尾さんが。520枚のノンフィクション。

 さすがにこの作品を、芥川賞候補にはできないもんなあ。長さといい、体裁といい。ほとんど枠組みをもたない直木賞なんてものがあったおかげで、ほんと幸いでした。作品の性質上、もしかして直木賞の候補になどならずとも、単行本『自決』は売上げを伸ばしたとは思いますが、直木賞候補作の名は多少なりとも後押ししたことでしょう。それで、筆一本で生きていた飯尾さんの懐がちょっとでも潤ったのなら、ほんとよかった。

「この七、八年間で、いっぺんだけ大いに収入があった。『自決』という本が集英社から出版されたとき、アレヨアレヨで、半年間で七〇〇万円以上ザクザクと手にした。友人と一〇〇万円程飲んで、あとは全部細君にやった。私は、背広一着も作らなかった。一つだけ買った。下駄である。いい下駄であった。」(平成5年/1993年11月・蝸牛社刊『怨望―日本人の忘れもの』所収「ユダよ、あなたの誠実を謳う」より)

 おせっかい焼きの直木賞も、時には、人助けをすることもあるみたいです。

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2009年5月 3日 (日)

1970年代、NOWでHOTなフィーリングが、直木賞の扉をたたく。 第73回候補 楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」

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第73回(昭和50年/1975年・上半期)候補作

楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号)

 70数年におよぶ直木賞の歴史をひもとくにあたって、若さ・年齢・世代、そういったものを尺度に持ってくるやりかたも、きっとアリです。

 たとえば、もうひとつの文学賞のほうでは、20歳を下まわる手垢のついていない女のコとか、ドロドロした実社会にさらされる前の、何か新しいものを持っていそうな学生サンたちを、ときどき候補に挙げる手法を使って、世間の気をひいたりします。それに比べて、こちらの文学賞は、そういう切れ味するどい武器を持っていません。それでも、作家の年齢をテーマに一ネタ、いや一冊の本になるぐらいのネタはたぶん詰まっています。

 それでご登場願うのが、楢山芙二夫さんです。直木賞の世界では「ナラヤマ以前、ナラヤマ以後」っていう言葉がひんぱんに使われる……かどうかは知りませんけど、いや、そのくらい重要な作家なんですよ。

 戦後世代にして初めて、直木賞候補になった方だからです。

 昭和23年/1948年6月生まれ。候補になったのは第73回、昭和50年/1975年7月ですから27歳になったばっかのとき。

 いわゆる団塊のアレなわけです。そりゃあ、この世代の作家やら作家志望者やらの数だって、カタマリをなすほど多かったはずでして、でもそういった人たちはたいてい、もうひとつの文学賞の領域に心奪われてしまって、直木賞のほうの世代交代はもう少し時間が必要でした。そして楢山さんにしても、一歩間違えば向こうの文学賞に持っていかれかねない素質の持ち主だったんですけど、おっとびっくり、なぜか直木賞候補。カタマリの群れを抜け出して、「直木賞史上初の戦後作家候補」なんちゅう、どえらい座を射止めてしまったのでした。

 昭和50年代のときにまだ30歳前。いまの時代でもまだまだ現役。つうか作家としてはこれからが楽しみな世代。なはずなのに、すでに楢山さんが一仕事終えて、遠くに去ってしまったのは寂しいなあ。

 楢山さんの直木賞劇場への登場は、たしかに刺激的でした。作者本人が「新しい世代」であった、という他にも、候補作の「ニューヨークのサムライ」がこれまた「いかにも」と膝を叩かせる体裁だったからです。つまり、楢山青年、岩手の片田舎から上京してきて学校で演劇を学ぶも、卒業後すぐさま単身アメリカに渡り、そのときの経験を生かしてニューヨークの若者文化を題材に小説を書いた、と。

 ……なんかこれだけ聞くと、それこそ団塊のアレにはゴロゴロいそうな、若さと無鉄砲さだけを売りにして、海の向こうを旅して、そのことを書いて、でもそれだけしかなくてすぐ消えていった根なし草野郎のひとりか、で終わりそうです。でも、楢山さんは詩人であり、それ以上に小説家でした。

 そのことを「ニューヨークのサムライ」一篇から見抜いた、当時(第46回)のオール讀物新人賞の選考委員たち、その選評の一節とともに紹介させていただきます。

 伊藤桂一さん。かなり推しています。

「「ニューヨークのサムライ」は、ときに逸脱をしながらも、若いエネルギーを全力的にぶっつけて、自身の可能性をどこまでも追求してゆこうとしていて、壮快な後味が残る。頭のよい、手ぎわのよい、タレント的感性も、ある。」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号選評「二篇をともに推す」より)

 吉村昭さん。褒めた上に、心配までされています。

「「ニューヨークのサムライ」に、感心した。文章、構成すべてがのびやかで、このような才に恵まれた新人はめったに出るものではないと思った。二十六歳という若さは一般的な意味で貴重なのだろうが、そうとばかりは言えない気もする。ひとたび些細な個所でバランスをくずすと、たちまち全体が乱調におちいるような旋律に似た文体。そのようなあやうげな歌を若くして歌い、今後も長い歳月歌わねばならぬだろう作者は、果してしあわせなのか、などとそんなことまで考えさせられた作品であった。」(前掲選評「若さと才能」より)

 駒田信二さん。やや、つくりすぎなところをたしなめています。

「「ニューヨークのサムライ」は、うまい、達者な小説である。アメリカ文明の一面をするどく突いている眼もあって、話もおもしろく、なかなかの力作だと思ったが、イタリーでの「カツオ」の話や、ニューヨークの婦人警官のプロスティチュートの話など、つくりすぎの感じられる点が気になった。」(前掲選評「さまざまなタイプ」より)

 井上ひさしさん。少しの留保つきで、大きな才能をたたえています。

(引用者前略)事柄をそのまま記すのではなく、いったんは自分の「個性」という坩堝をくぐらせ、なにかほかのものにたとえてゆくやり方、これが作家の「錬金術」というものだろうと考えるが、この作品にはそれがいたるところにあった。またニューヨークという大都会に作者が真正面からぶつかって、すこしも負けていないところにも大きな才能を感じさせられた。

 もっとも心配もないではない。この作品はいってみればバラエティショーである。そしてドラマをこなせるかどうかはまた別の問題だからだ。」(前掲選評「坩堝の火度」より)

 黒岩重吾さん。酔っています。「酔う」とは黒岩さんが選評でしばしば使う賛辞です。

「「ニューヨークのサムライ」を読み始めて直ぐ、私はこの作品に酔い始めた。(引用者中略)婦人警官と主人公との絡みの場面に来て、一瞬、私の酔いは醒めかけた。何故、こんな作り話を入れたのか、と残念だった。だがそれにも拘らず、読み終った後、私は矢張り酔っていた。

 もう二十年若く、健康だったなら、世界を放浪してみたい、とさえ思った。それ程、素晴らしい作品であり、才能である。

 もしこの作者が、若さと才能に溺れなかったなら、一時代を築く可能性を秘めているような気がする。」(前掲選評「衝撃的な「ニューヨーク」」より)

 この回のオール讀物新人賞では、「やっとこ探偵」でデビューする前の下田忠男さん――のちの志茂田景樹さんが「大寄進」で最終候補にまで残っていて、伊藤桂一さんが「この人は長続きするだろう」と慧眼を発揮しちゃったりしているんですが、まあそれは措いときます。

 楢山さんは受賞して、直木賞候補に二度なって、それからハードボイルド系に進みます。正直、黒岩重吾さんの言う「一時代を築く」ところまでは行かなかったと思いますが、逆に、少ないながらも「楢山芙二夫はオレだけの作家だ」と深ーく愛する読者たちを獲得しました。

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2009年4月26日 (日)

小説すぎたので候補に挙げられ、小説すぎたので落とされた稀有な作品。 第62回候補 田中穣『藤田嗣治』

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第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補作

田中穣『藤田嗣治』(昭和44年/1969年10月・新潮社刊)

 ひとつの場所にじっとしていられない直木賞は、ときどき「大衆文学」なる領域から、外に手を出そうと試みます。そのため時に、よそから煙たがられたり、人の人生を迷わせたりとよけいな迷惑をかけます。

 このハナシで代表的な例を挙げるとすると、たいてい「純文学」に対するチョッカイです。檀一雄さんや梅崎春生さんなんて、ねえ。直木賞のせいで、いったいどれだけイヤな思いをさせられたことか。ほんと、すみません。

 読売新聞の美術記者、田中穣さんも、もしかしたら直木賞のお節介のおかげで、要らぬ障害と戦わなきゃならなかった人かもしれません。

 穣さんは、芸術家の伝記っていう世界に大いなる足跡を残したと思います。でも、あまりに読みやすく、エピソードとストーリー性に富んで、そのおかげでワタクシみたいな無知な一般読者に受け入れられる反面、「評伝としては軽すぎて、資料的には見るに値しない」とか言われていたとしたら、穣さんには心外なのかもしれないな。

「フジタの生いたちから死までの“人と作品”の全容を、フジタと直接かかわりあった人たちの記録や談話を通じて浮き彫りしようとした私の最初の『藤田嗣治』は、まず総合雑誌「自由」に連載された。昭和四十三年(一九六八)十月号から翌年四月号まで(引用者注:実際は昭和43年/1968年11月号から翌年5月号まで)の七回、巻末の小説的な読物の扱いを受けた。連載がはじまって二回目が店頭に並んだとき、新潮社の出版部から本にしたいという申し入れがあり、連載後に加筆したものが昭和四十四年(一九六九)十月に出版されたのである。」(昭和63年/1988年2月・芸術新聞社刊『評伝藤田嗣治』所収「あとがき」より)

 「巻末の小説的な読物の扱いを受けた」なる表現に、穣さんの口惜しさが滲んでいる気がします。

 扱いを受けたも何も、事実、『自由』誌に連載したときは、題名が「小説 藤田嗣治」でした。題名にどれほど穣さんの意思が反映されていたか事情は知りませんけど、これが新潮社から本になるときには「小説」の言葉を外して、『藤田嗣治』となります。

 でも、それでも世間は、これを小説的な扱いでもって裁こうとします。直木賞のなかでも、とくに領域拡大の先頭にあった大佛次郎さんが、こいつをわざわざ、小説しか議論しないはずの直木賞の場に引きずり込みます。

 せっかく「小説」の文字を消したのに、お節介な直木賞ったら、またも『藤田嗣治』に小説っていう色眼鏡を当てちゃったのね。そこで議論ふんぷん、直木賞史上に残るせめぎ合いの選考があって、結局受賞はのがすのですが、穣さんはやっぱり「小説」のレッテルを剥がしたいと思ったのでしょうか。

「こうして(引用者注:直木賞の審査で最後まで問題にされて)私の『藤田嗣治』は、一応の話題を呼んだことで、よく売れた。初版の部数は、そうながい期間を経ないうちに一冊も残さずに売り切れ、以来、私がいうのもおかしいが、伝記上の藤田を知るには欠かせない必読書の一つのように美術界では見られてきている。これを文庫でとか、あるいは単行本で復刻再版したいとかいった希望が、二、三の出版社から寄せられてきてはいたが、私はいつか機会を見てこれに大きく手を加えたい気持を持っていた。(引用者中略)

 一九八六年(昭和六十一年)は、フジタの生誕百年に当たる。このときに当たって、まずフジタを語る本格的な連載を、「アート・トップ」でやり、それを一冊の本にして出さないか、という話が芸術新聞社から私に寄せられてきた。この本を決定的なフジタ評伝とし、美術界といわず広く世界の読書界に送りこもうではないか、という気宇壮大な申し入れに、私は喜んで共鳴した。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第一章 数々のフジタ伝説をめぐって」より)

 『アート・トップ』での連載のときは「星がまたたいていた――ピエロ愛し レオナルド・フジタの立像(ルビ:スタチュー)――」なる題だったんですが、本にするときに題名を変えて、バシッと『評伝藤田嗣治』。「評伝」の二文字に、小説じゃないんだよ、あんなものと一緒にするな、っていう穣さんの長年の苦しみが籠もっているようでもあり。

 『評伝藤田嗣治』は、新潮社版『藤田嗣治』での基本的な解釈や筋のながれを踏襲しつつも、大幅に加筆されています。その新たな筆の部分にも、やっぱり穣さん、小説として見られたのはイヤだったんだな、と思わせる箇所があります。

(引用者前略)私は、フジタの実像に迫るのに、フジタならびにその周囲の調査取材を可能な限り徹底してきた。取材を密にして、すでに他界したフジタの内面を探ってきたわけである。が、今回は、これまで主として外から攻めてきたフジタの内部に、あえて評者の私がはいりこんでみることにした。フジタの内側から、フジタのなまの声を聞きとろうとする試みである。これまでの取材調査で、外にあらわれたフジタのおよその言動は押えてあるので、これからの私の試みはまちがっても読むにたえぬ“三文小説”や、見るにたえぬ“三文オペラ”式のものにはならないと思う。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第十章 さようなら、日本」より)

 ただ残念ながら、評伝として読めと言うけど、穣さんの想像を、それと断りもなく入れすぎじゃない? って読まれかねない危険はあるんでしょう。芸術家の評伝を専門とされているらしい湯原かの子さんは、平成18年/2006年の段階で、

「そこ(引用者注:パリ滞在中のフジタが最初の妻とみに宛てた書簡)には、たとえば田中穣の評伝『藤田嗣治』(一九六九)――これは美術記者ならではの裏話にも富み、ケレン味のきいた面白い読み物なのだが――に描かれた軽薄で冷酷な藤田とは異なって、真剣に芸術に取り組み精励刻苦する無名時代の藤田の意外に真面目で真摯な一面が読み取れて、きわめて興味深いのである。」(平成18年/2006年3月・新潮社刊『藤田嗣治 パリからの恋文』より)

 などと、あっさり「読み物」扱いしちゃったりして。

 ああ、小説にしては評伝すぎ、評伝にしては小説すぎる穣さんの『藤田嗣治』。たしかに境界線上の好きな大佛次郎さんが、賞賛するのもわかります。ワタクシまでも面白がって、直木賞の名候補作として取り上げちゃって、穣さん、心からすみません。あとに生まれた人間が、好き勝手なことぬかすのは、後出しジャンケンしている特権なのでして。許してください。

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2009年4月19日 (日)

執念に憑かれると成功とか不成功はどうでもよくなる。うん、わかる、わかるなあ。 第60回候補 浅田晃彦「乾坤独算民」

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第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補作

浅田晃彦「乾坤独算民」(『小説と詩と評論』62号[昭和43年/1968年11月])

 いつもながら唐突ですが、まずは浅田晃彦さんが候補になった証拠物件から。そのときに主催者から送られてきた2種類の通知書の、全文を引用します。

「前略 此の度貴作品「乾坤独算民 小説と詩と評論11月」が直木賞予選作品に推薦されておりますので、今後の参考に致したいと存じますから、誠に御手数ながら折返し左記の箇条につき御回答下さい。

一、本名と筆名(両方にふりがなをおつけ下さい)

一、現住所(電話番号、又は連絡先もお書き下さい)

一、略歴(生年月日、出生地、学歴、職業等)

一、作品歴(掲載誌、月号、発行年月、及び発行所等、単行本についてもお書き下さい)

一、顔写真(鮮明なもの、後程お返し致します)

以上要用のみ 匆々

 昭和四十十二十三

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦様

 そして、もう一通。

「謹啓 先般来御履歴や作品 お写真などでは お手数を煩わせました 有難く御礼申し上げます

第六十回芥川賞直木賞の選考委員会は 来る一月二十日(月)夜 築地の新喜楽で開かれ決定発表は例年七時半か八時頃になります その時 早速貴殿の当落をお知らせいたしますので当夜その頃においでの場所と電話番号を承りたく存じます

御多用中恐入りますが 折返し御返事下さい

尚 両賞の贈呈式は 来る二月七日(金)夕六時より 第一ホテル(港区新橋一ノ二ノ六)で開かれます 受賞のお方には 御出席頂くことになりますので 予めお含み置き下さいますよう 先ずは右お願いまで 末筆ながら 御自愛祈り上げます

匆々

昭和四十四年一月八日

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦殿

 以上はともに、『図録 第6回記念展 桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦―』(平成10年/1998年10月・群馬県立土屋文明記念文学館刊)より、筆写引用しました。上が、「直木賞予選作品通知(昭和43年12月13日付)」、下が「直木賞予選通過通知(昭和44年1月8日付)」、ともに土屋文明記念文学館蔵です。

 太字+下線の部分はペンの手書き箇所、他は印刷された字面です(前者の「直木賞」のところだけは、見るかぎり、ゴム印っぽいです)。

 もうこんな文面を見たら、ねえ、誰だって、この前後の時期(第58回第59回第67回)に候補になった筒井康隆さんの、あの『大いなる助走』を見返してみたくもなりますよね。さあ、あなたもお手元にあるこの小説の、ACT3/SCENE10と、ACT4/SCENE8に掲げられた2つの通知書と、見比べてみてください。

 『大いなる助走』では年月日は省かれていましたが、前者の通知では「昭和四十 年」と、一ケタ目の数字を記入すればいいようになっていて、なるほど十年単位で使いまわす心積もりだったんだなと、ほほ笑ましいかぎりです。

 いや、こんなふうに書き出したからといって、今回は『大いなる助走』をどうのこうの語るつもりはありません。主役は浅田晃彦さんです。愛情を込めてテルさんと呼ばせてもらいます。

 「乾坤独算民」、いやあ知的興奮に満ちあふれた楽しい小説じゃないですか。群馬の文学史に興味も関心もなく、浅田テルさんの名などはじめて聞いた、って方にもぜひおすすめしたい一篇です。

 とか言って毎度嘆かなきゃいけないのは芸がないんですが、テルさんを、群馬一地方の偉大な文化人ってだけで置いておくのはもったいないよなあ。

 テルさんは謙虚な方だった(らしい)から、すぐこんなこと言うんですけど。

(引用者注:船医になったのは)船に乗りながら傑作をものし、芥川賞かなんか取って職業作家になるもくろみだった。「オレンジの皮」「潜める声」で作家賞という同人雑誌賞をもらったが、海の生活にくたびれてしまい、陸に上がることにしたのだった。

 作家賞の作品を見て『文学界』から「次作を見たい」と声がかかった。勇躍して「サイゴンの夜」を持ち込んだ。担当は田中健吾という美青年(後の文春編集長)だったが、突っ込みが足りないという判決だった。奮発して「狐穴」を提出した。これも採用されなかった。僕はあんな若造に文学が分かるものかと諦めてしまった。(引用者中略)

 文学の方には運がなかった。直木賞候補になった「乾坤独算民」は落選し、次の「帝王切開事始」は候補に上がらなかった。運ではなく才能がないのである。

 すでに七十七歳、この道を行くしかない。医者になりそこない、作家にもなりそこなった生涯である。」(『風雷』第115号[平成5年/1993年5月] 「往事茫々(十)」より)

 あるいは、こんなふうなことも。

「船医になった僕は『マラリア戦記』という長編小説を書き溜めた。自分の体験をもとに、戦争中マラリア研究に挺身した青年軍医の行状を描いたのである。これを朝日新聞の一千万円懸賞小説に応募してみた。落選して賞金は夢に終わったけれど、出版者に採り上げられて鉄道ペンクラブ賞を受けた。

 その後直木賞候補に挙げられたこともあるが、世の注目浴びるほどの作品は書けず、すでに老衰してしまった。文学史に名を残す夢も見果てぬまま終わるのである。」(『風雷』第118号[平成6年/1994年2月] 「往事茫々(十三)」より)

 文学史に名が残っている、と誰がなにをもって判定するのか、ワタクシは知りません。ただ、勝手に判定させてもらうなら、テルさんの名はくっきりと直木賞史のなかには刻まれています。名候補作「乾坤独算民」とともに。

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2009年4月12日 (日)

オトナな自主規制で、この作品の落選理由まで封印しようとしたって、そうはさせんぞ。 第43回候補 葉山修平「日本いそっぷ噺」

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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作

葉山修平「日本いそっぷ噺」(『花』4集[昭和35年/1960年5月])

 なにしろ第40回台前半(昭和35年/1960年ごろ)の直木賞は、推理小説たちの暴れっぷりが強烈すぎて、ワタクシなど、そのことに目を眩まされます。どれくらい強烈かといえば、「推理小説では直木賞はとれない」っていう、あの有名な法則は、きっとこの時期に誕生しました。

 なぜ推理小説では駄目なのか。いちおう、推理小説の多くは文学とは認められないから、っていうことになっています。当時の直木賞委員には、木々高太郎なんていう大御所がいて、ははあ、文学性重視の木々高さんだからなあ、しかたないか、と思わないでもありません。

 ただ、もう少し深く突っ込んでいきますと、なぜ直木賞は文学性を重んじるのだ、と疑問が沸いてきます。そもそも、その当時ほんとにすべての回において、文学性の有無(濃淡)が、授賞の条件とされていたんでしょうか。

 案外、文学性がどうのこうのと言うウラには、何か真の理由があったのじゃなかろうか。

 それを考えるに、第43回(昭和35年/1960年・上半期)の選考っていうのは、そうとう重要なものを孕んでいます。

 たとえば、候補作の「錯乱」は大して褒められていないのに、池波正太郎さんがポロッと受賞したところ。または、売れ線の軌道にのっていた推理小説ジャンルの三人衆、水上勉黒岩重吾佐野洋が、そろって落とされたところ。もうひとつ、葉山修平「日本いそっぷ噺」と小泉譲『小説 天皇裕仁』の二作品が、候補にえらばれ、あっさり落とされたところです。

 いや、「日本いそっぷ噺」は、あっさりではなかったかもしれません。

 もしも直木賞が、文学性の尺度でもってのみ優秀な新人の大衆文学を選ぶ性格をそなえていたなら、第43回受賞作は、おそらく「日本いそっぷ噺」だったでしょう。

 じっさいはどうだったか。まずは、なぜこの作品が受賞できなかったのかを知るために、以下の選評(『オール讀物』昭和35年/1960年10月号)を読んでみてください。

「さて、では今回は僕はどれを切り札にしたか。第一「日本いそっぷ噺」(葉山修平)である。ところがこれは如何にもワイセツである。そこで部数の多い公刊物にはどうかと思っていると果して二三の委員からその点で抗議が出た。やむなく除外したが、この作者を是非見守り度い。この作品をよみながら、僕は伏字の効用ということを思い出した。伏字でもいい、オールやその他大雑誌に書かせ度い。」木々高太郎「努力賞では不満」より)

「今度は、ないと私は決めた。そのくせ、葉山氏の「日本いそっぷ噺」に感服し、北川氏(引用者注:北川荘平の「企業の伝説」のドライな面白さを勇ましく直木賞にしたく願った。「日本いそっぷ噺」は人間もよく描けているし何よりも生命で充実していた。あくどいところはあるが、ほんものであった。(引用者中略)「日本いそっぷ噺」は、同人雑誌以外には発表され得ない社会的障礙がある、現代では、直木賞のみならず他の賞の場合も失格するだろう。残念だが目をつぶることに成る。そこで私はこの二つを斥けるならば、他の作品も直木賞に値せぬものと見たかった。(引用者中略)「日本いそっぷ」は文学で、手腕、確かである。今度はないと決めて出席したら、なしではいけないと言う主張が委員たちを支配した。「企業」は採決に敗れ、「いそっぷ」は同情されながら除かれた。」大佛次郎「豹変記」より)

「うまい、といえるのは葉山修平氏の「日本いそっぷ噺」だが、ほかの材料を扱った作品に期待したい。」村上元三「推理小説への疑問」より)

「もっとも小説らしい小説としてそのてん「日本いそっぷ噺」にたいへん感心した。文章が上手である。構成もいい。こうまで男女の露醜を文字にしなければこれが書けないかという描写力への非難もあったが、私はこんどの全作品中の首位に推してもいいほどにこれは高く評価していた。けれどべつな問題がある。作品の可否とはべつに直木賞として挙げ難い危惧があった。」吉川英治「自愛を祈る」より)

 理解できましたか? どうやらワイセツな表現が問題視されたっぽいです。

 いや、でもよく読むと、どうもそれ以外に重大な「問題」があったらしいことがわかります。もうそれは、文学性があるとかないとか、そういう正面切って選評で威勢のいい意見を書き込めるテーマとはちがう、「作品の可否とはべつ」の問題が。

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2009年4月 5日 (日)

まことのようなウソを書くのも芸のうち。でも、あまりにも上手にウソつきすぎたのが、運のツキ。 第32回候補 石川桂郎『妻の温泉』

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第32回(昭和29年/1954年・下半期)候補作

石川桂郎『妻の温泉』(昭和29年/1954年7月・俳句研究社刊)

 8人ばかり、作家の名前を並べてみます。

 鮮烈なデビューを果たした落語フリーク、宇井無愁。兵隊ものに始まり兵隊ものに尽きる、棟田博。青森が生んだ爆裂詩人、菊岡久利。喜劇一路そのじつ怒らせたら天下一品、飯沢匡。こころ優しき鬼ひとり、鬼生田貞雄。畑ちがいここに極まれり、今官一。沖縄被虐の歴史の語りべ、石野径一郎。いつのまにやら木々高ファミリー、藤井千鶴子

 そして9人め。江戸っ子床屋職人、またの名を風狂を地でゆく俳人、石川桂郎。ああ、今年こんなブログをやっていてグッド・タイミングでした。上のみなさん、今年平成21年/2009年が生誕100年、明治42年/1909年生まれの方々です。

 そのなかでもワタクシお気に入りの小説は、桂郎さんの『妻の温泉』。好きです。おすすめです。

 とか言って調べてみたら、なぬ、桂郎さんの小説はぜんぶ絶版なんですと? 昭和48年/1973年の読売文学賞[随筆・紀行賞]受賞作の、『俳人風狂列伝』(昭和48年/1973年10月・角川書店刊)からして、まずもって、新刊の書店ではお目にかかれないというありさまで。どういうことだ。『妻の温泉』も、それに先立つ『剃刀日記』も、古書マニアたちがその狭い世界のなかでニタニタ笑いながら取り引きするだけの、悲しい運命におちいっているとは。

 生誕100年のメモリアルを機に、ここはぜひとも思い切って桂郎小説の1冊や2冊、復刊されたりしないかあ。松本清張さんの棚のスペース、桂郎さんのためにちょこっと譲ってもらってもいいんじゃないですか。太宰治さんのスペースでもいいです。

 『妻の温泉』には、その題もずばり「太宰治氏のこと」って一篇も収録されていることですしね。太宰人気に便乗するようで胸糞は悪いですけど、このさい桂郎さんとか今官一さんとかの旧作が、生誕100年フェアをにぎわすためにも装いも新たに登場するなんて趣向も、きっとアリです。

 桂郎さんの「太宰治氏のこと」の一節。

「太宰氏は明治四十二年六月十九日に生れ「この年に生れた人で幸福な人はひとりもない。やりきれない星である」と書いてゐる。実は私も太宰氏と同じ年の酉・一白・水星。太宰氏の予言どほり、実にやりきれない星を負はされて生きて来てゐる。酉の一白の男は、お洒落で気が弱く、だからお人好、と暦の後にちやんと出てゐるし、私はいちいちその通りで苦情はないけれども、太宰といふ人はまるで異ふ、そんな筈はない。どうしてどうして(原文踊り字)粘りのある執拗な、芯の岩乗な人だと私は思ひ、信じてゐた。遠く「晩年」のむかしから太宰治の小説を読み作品を通してさう信じてゐた。さうして佐藤春夫の小説「芥川賞」を読むに及んで、ますますその思ひを固めた。こいつは大変な大物だ、酉の一白侮るべからず。」

 筆はその後、「私」がたった一度だけ太宰治と会ったときのこと、戦中に河上徹太郎宅で、「見上げる様に背の高い痩せた人」=太宰と、「もう一人肥つた人」=田中英光と一晩飲み明かしたときのことに及んでいます。

 と、太宰ネタを掘り下げるのはこのくらいにします。それにしても桂郎さんの『剃刀日記』にしろ『妻の温泉』にしろ、こりゃ随筆だ、いや純然たる小説だ、と議論を引き起こしたわけですが、それはこの「太宰治氏のこと」を読んだだけでうなずけます。見た目まぎれもなくエッセイの面構え、でも何にせよ虚実の境の一定しない嘘つき桂ちゃん、どこまでホントでどこから創作かはわかりません。そもそも、随筆か小説かなんてそんなに大事か、っていうのが何も考えずに受容さえしていればいい無責任読者の本心です。

 桂郎さんの散文は、果たして小説か随筆か。まず桂郎さん自身については、水原秋櫻子のこんな表現があります。

「誰も知るように、石川桂郎君は奇行で名高い人であつたが、その奇行と語りつたえられているものが、本当の話であるか、或は多分の創作が加えられていて、追究して行くと泡沫のように消えてしまうものか、そこのところがよくわからない。(引用者中略)いろいろ綜合して見ると、どうも創作の方が多くて、真相は平凡のことであつたようだ。しかし主人公が桂郎君となると、まんざら嘘でもないような気がして可笑しいのである。」(『俳句』昭和51年/1976年3月号 水原秋櫻子「朝凪の舟唄」より)

 こういう人物が生み出す文章が、随筆の態をなした随筆ならざるもの、となってしまうのはよくわかります。そんな素人俳人・桂郎さんを見て、うむ、彼ならおもしろい散文が書けるに違いないと最初に見込んだのが石塚友二さんであって、その石塚さんの慧眼が見事にマトを得ていた、という評価は、清水基吉さんが指摘しているとおりでしょう。つまり石塚さんは、俳句仲間の桂郎さんをみて「普段話す話術がそのまま生きれば、ちゃんとした文章になる」と見通したというのです。

「「話術の独自さ」は虚実入り交った風狂的な仮面ともなって、こちらは石川桂郎という人物にかなりな人気と誤認とをあたえてきた。然し、その虚実交ったポーズも、「物語り的な文章作家」としての一資質だったと言えるかも知れぬ。」(『俳句研究』昭和51年/1976年3月号 清水基吉「作者・石川桂郎」より)

 その慧眼の主、友二さんはやはり最後まで散文家(というより小説家)としての桂郎さんに期待を寄せていたようです。

「桂郎は、文筆業者としてよりは、一層色濃い俳人として終つた感がある。これはまた、充分に称へられて然るべき業績を残したことは衆目の視る通りとして、再び、しかし、と私は言ひたい気がするのである。『俳人風狂列伝』以外に、もつと、もつと小説を書いて欲しかつた、と。」(『俳句』昭和51年/1976年3月号 石塚友二「桂郎のこと」より)

 ははあ、友二さんにとっては、『俳人風狂列伝』も小説だったと。読む人によって小説でもあり、また随筆(風)でもあり、ここらが桂郎散文の面目躍如たるところです。

 もちろん『妻の温泉』もその面目が全面にみなぎった一冊です。だからこその直木賞候補作です。直木賞史上にのこる重要な候補作となった、と言ってもたぶん過言じゃないでしょう。

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2009年3月29日 (日)

「三田派」にとっては異端で傍流だとしても、直木賞のなかでは「三田派」の正統。 第27回候補 渡辺祐一「洞窟」

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第27回(昭和27年/1952年・上半期)候補作

渡辺祐一「洞窟」(『三田文學』昭和27年/1952年1月号)

 この時代に出現した数々の名候補作のなかから、何を取り上げようかと悩みました。

 ここ何週かミステリー畑がご無沙汰ですから、氷川瓏こと渡辺祐一「洞窟」にしようかな、いや、ふしぎ小説で再評価の機運高まる三橋一夫の『天国は盃の中に』にしようかな。おっと、日本探偵作家クラブ賞を受けつつ直木賞の場では歯牙にもかけられなかったビリヤード屋のおやじ、永瀬三吾の「売国奴」もいいなあ。でもこれは第32回(昭和29年/1954年・下半期)の候補だから、順番からして今週取り上げるわけにはいかないか。

 挙句に選んだのが「洞窟」なんですけど、あれ、この三人って偶然にも共通点があるじゃないですか。そしてその共通点は、明らかにこの時代の直木賞を語る上で、忘れちゃならない重要な意味を含んでいるじゃないですか。

 それは「三田派」である、ってことです。

 もとい、三人とも『三田文学』誌に作品を発表したことがあって、「やや三田派」である、ってことです。

 永井荷風とか水上瀧太郎とかの『三田文学』を研究している人たちは、まず絶対に、直木賞にあらわれた『三田文学』のことになんぞ興味がないと思います。でも直木賞の側では、ほんの一時期、賞の新しい方向性をになうものとして、『三田文学』をターゲットにしたことがありました。直木賞と『三田文学』の関係、は十分にテーマになり得るんです。

 前回この時代を扱ったエントリーでは、松本清張の「或る『小倉日記』伝」を持ってきましたが、これなんてまさしくそうです。それから、和田芳恵が昭和39年/1964年にとうとう直木賞をとるにいたったその礎は、昭和20年代の『三田文学』にあります。礎って意味では、藤井千鶴子だってそう、一色次郎こと大屋典一だってそう。のちに純文学大嫌い人間になる柴田錬三郎だって、直木賞受賞作「イエスの裔」は『三田文学』で地味に文学修業していた頃の作品だったりします(そしてこれが同誌から生まれた唯一の直木賞受賞作)。

 この時期、なんで『三田文学』から直木賞の候補作が次々に選ばれているのか。もちろん、木々高太郎が選考委員をしていたからです。中でも渡辺祐一や藤井千鶴子は、木々が『三田文学』から離れた後も、木々のグループに属して『小説と詩と評論』に参加したりします。

「もともと純文学指向のあった著者(引用者注:氷川瓏)は、木々高太郎が編集に当っていた「三田文学」に本名で「天平商人と二匹の鬼」(五一年九月号)、「洞窟」(五二年一月号)の二篇を発表、後者は三橋一夫の長篇『天国は盃の中に』などとともに五二年度上半期の第二七回直木賞候補になっている。」

「江戸川乱歩賞の予選委員を長く務めるなど、ミステリ界とのつながりは保っていたものの、創作の分野では純文学の方向に大きくシフトし、六一年から同人誌「文学造型」を主宰。六三年からは木々高太郎が主宰した「詩と評論と小説」(原文ママ)にも参加している。」(平成15年/2003年8月・筑摩書房/ちくま文庫『怪奇探偵小説名作選9 氷川瓏集 睡蓮夫人』所収 日下三蔵「解説」より)

 たぶん渡辺さんの『小説と詩と評論』への関わり方は、だんだん参加なんてレベルを超えていきまして、中心的同人になっていきます(はじめからそうだったかもしれません)。昭和45年/1970年~昭和46年/1971年に『木々高太郎全集』全6巻が編まれたとき、第6巻に収録する随筆をえらぶにあたって、その任にあたったのは、医学の面からは須田勇、文学の面からは渡辺祐一さんでした。よほど渡辺さんが木々さんと近い存在であったかを想像させます。

 昭和20年代は、なにしろ今と違います。選考委員たちは、いずれも旧時代に育った人たちです。「旧時代」っていうのは、以前のエントリーで述べたように、「候補作は文春側・運営者側がえらぶのではなく、選考委員が決めるもの」という土壌のあった時代のことです。ですので、この時期、木々高太郎さんが自分が編集に参画していた『三田文学』から、数多く候補作をひっぱり上げてきているのは、当然の流れとも言えます。

 ただ、他の『三田文学』関係者とのあいだに、多少なりとも確執を生んだようですけど。

「昭和二十八年の暮にわたし(引用者注:松本清張のこと)は朝日新聞東京本社業務局広告部勤務となって出京した。目黒区祐天寺の木々高太郎氏の宅をしばしば訪問するようになり、木々氏はどういうつもりか、わたしを「三田文学」の編集委員にされた。ほかに和田芳恵さんが「任命」された。和田さんも慶応とは縁もゆかりもない。そのころ「三田文学」を長くみてこられた佐藤春夫氏と木々氏とのあいだが険悪であった。原因はいまもってはっきりわからないが、どうやら「三田文学」の編集方針が木々先生の独断専行の傾向にあるというのを佐藤氏が憤られたらしい。」(平成8年/1996年2月・文藝春秋刊『松本清張全集65』所収「運不運 わが小説」より)

 清張・芳恵のみならず、渡辺祐一さんも(おそらく藤井千鶴子さんも)慶應とは関係のないところから出てきていますからね。木々ナントカちゅう、医学部出の、くだらん大衆文学ばかり書いとるような奴に、なんで伝統ある『三田文学』をかき回されなきゃいかんのだ、と苦々しく思う人がいても、まあおかしくはないでしょう。

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2009年3月22日 (日)

西なら福岡、東は岩手。そんな「文学」のメッカにもいました、文学の小鬼が。 第20回候補 佐藤善一「とりつばさ」

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第20回(昭和19年/1944年・下半期)候補作

佐藤善一「とりつばさ」(『早稲田文學』昭和19年/1944年8月号)

 直木賞もずいぶん年をとりました。いろいろな社会の波に揉まれて白髪も生えたしシワも増えて、今じゃ誕生の頃の原型は、ほとんど残っていません。

 残っているのは賞名と、半年に1回授賞を決めること。それから、「大衆作家を見定めるには、一作だけじゃなくて、ある程度それまでの実績も見なければわからない」とかいう、大して根拠のない考えが、なぜか血のなか骨のなかに受け継がれていること、ぐらいです。

 あ、それともうひとつ、今まで一貫して直木賞が堅持してきたもの。受賞作は「文学」でなければならない、っていう基準がありましたね。

 でも、どうして、直木賞なんぞに「文学」が必要なんでしょう。それじゃあ芥川賞の対象とどこが違うんですか。今もって不明のままです。それでも「この作は文学ではない」が、候補作を落選させる理由として、今でも立派に罷り通っています。

 そんな直木賞の「文学」癖をたどりたどりますと。やっぱり根っこは戦前に行き着きます。昭和10年代です。

 井伏鱒二がその格調高い文章を評価されて受賞したのが、第6回(昭和12年/1937年・下半期)。ここで直木賞の舳先がグイと「文学性」のほうに曲げられます。そして、この方向の行く先で直木賞関係者の生み出した手法が、同人誌からも候補作を見つけてくる、ってことでした。

 と、ここまでは岩下俊作「富島松五郎伝」のエントリーで触れました。

 そこから戦況の悪化で第20回にて中断するまで5年間。直木賞が候補にしていった同人誌作家を挙げますとこうなります。古澤元(『麦』誌)、劉寒吉原田種夫我孫子毅(『九州文学』誌)、中井正文(『日本文学者』誌)。それと、今回の主役、佐藤善一さんです。

 劉さんは、候補になったのは『文藝讀物』に寄せた小説ですけど、九州在住だし、ホームグラウンドは何つったって『九州文学』ですからね、このリストに入れさせてもらいました。

 いやあ、奇妙だな、不思議だなと思わせる顔ぶれじゃありませんか。

 中井正文さんの戦前の文学行動にはあまり詳しくないんですけど、他の人たちは、ほら。岩下俊作さんを含めた『九州文学』の愉快な仲間たち、は言わずもがな、古澤さんと善一さんは武田麟太郎門下のお仲間で同郷人。そういやこの時期、岩手からは天才詩人・森荘已池さんも直木賞の畑に駆り出されていたっけ。直木賞が「文学性」を求めてさまよい始めたときに、『文學界』とか『文藝首都』とかの東京の同人誌じゃなくて、西なら福岡、東なら岩手、と両極端の方角に目を向けた、っていうのが、なんか意味ありげだなあ。

 文学に情熱を燃やしていた福岡の人たちも、まじめに文学に打ち込んでいた岩手の人たちも、きっと、格下感たっぷりの直木賞なんかに目をつけられちゃって、正直、迷惑だったでしょうが。

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2009年3月15日 (日)

自由で軽いものは、楽しくて魅力的。だけど、組織のなかでは恵まれない。 第2回候補 獅子文六『遊覧列車』

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第2回(昭和10年/1935年・下半期)候補作

獅子文六『遊覧列車』(昭和11年/1936年1月・改造社刊)

 説明不要です。あまりに有名、あまりに大家すぎます。だからでしょうか、この人はあまり直木賞とからめて語られる機会が薄いんですけど、「直木賞候補作家」の基本スタイルの祖といえば、断然、文六さんです。

 獅子文六ほどの人が、なぜ直木賞を受賞できなかったのか。きっぱり言っちゃえば、作風が軽すぎたんでしょう。とうてい文学的だとは受け取られなかったんでしょう。でも、たくさんの読者に大ウケしました。佐々木邦さんらとともに、ユーモア路線を広く普及させました。直木賞に認められなくても、十分職業作家としてやっていけるし、受賞作家と同程度には後世に名を残せることを、みごとに実証した作家第一号です。

 それで創設当時の直木賞の特徴で、文六さんにははっきりとした候補作品があまりありません。選考対象は「業績全般」、長篇でいえば「金色青春譜」バツグンのインパクト、「楽天公子」手堅い、「悦ちゃん」もうすでにベテラン売れっ子作家の匂いぷんぷん。といった中で、ここで名候補作リストに入れさせてもらうのは『遊覧列車』です。まだ文六さんが新聞とかに小説を書いて世間から喝采を受けられる人材なのか、誰もわからなかった時代に、きらめく才能で颯爽と登場した単行本です。

 なにせ、この本は、出だし迷走の直木賞の候補になるにふさわしい内容でした。いくつもの作品が収められているんですが、「短篇集」だとズバッと命名することを許しません。半読み物・半随筆・半短篇集……ってあいまいでゴチャまぜな感じ。おお、これこそ「ユーモア文学」、いや「諧謔文学」「滑稽文学」「明朗文学」の正統的なたたずまいじゃないですか。どんなものに賞を授けたらいいのかウロウロして目移りの激しかった直木賞君の好みにピッタリ適っています。そして結局、直木賞は重たーい玄人ウケしそうな小説を受賞圏内と定めることになっちゃって、軽いものは落とされる、の道をつくった意味でも、重要な候補作です。

 もうひとつ言えば、文六さんは文壇づきあい嫌いで鳴らした人ですが、そのことに由来するのか帰結するのか、まるで文学賞みたいなものに対して淡白な風合いが、どうにも「候補作家の基本スタイル」を思わせます。直木賞の場合は、自分で応募する公募の賞と違って、勝手に候補に挙げられるわけで、候補者のみんながみんな「直木賞とりたい!」って願っている連中ばかりじゃありません。おそらく歴代候補作家のうち、7:3か8:2ぐらいで「淡白派」のほうが多いんじゃないでしょうか。

 直木賞? ふーん、そういうのあんまし興味ないんだよね。っていうのは、別に時代が今に近づくにつれて日本人がクールになったから起こったわけじゃなさそうです。そのことを文六さんは教えてくれます。

 そんな基本スタイルを身につけた文六さんですから、自身の直木賞候補のことについて、ほとんど発言していません。なので代わりに、この時期、文六さんが書いたユーモア文学まわりのエッセイから、少々引用してお茶を濁すことにします。

(引用者注:夏目漱石の)「坊っちゃん」と「猫」とは、われわれの一番親しむべき古典である。漱石が純文学に転じないで、一生ユーモア文学を書いてくれたら、斯道の発達は目覚しき限りだっただろうと、残念でならない。「坊っちゃん」の方は小説らしい構成だけれど、われわれの勉強になるのは「猫」のデテールにありと思う。(引用者中略)漱石の眼と腕とハアトは、如何(ルビ:どう)考えても、過云の日本ユーモリストの最大なそれらである。漱石の仕事を凌駕することで、初めて今日のユーモア作家の面目ありだ。」(昭和44年/1969年8月・朝日新聞社刊『獅子文六全集 第十三巻』所収「ユーモア文学管見」 初出『新青年』昭和10年/1935年7月号 より)

「実際日本の小説家は、皆よく似てる一面をもってる。例えば、ファンテエジイに対する態度なぞはどうか。ファンテエジイというものは、どこの国の文学にも、必ずどれかの作家を流れているし、現代文学にも前代文学にも古典文学にも、必ず見出される要素だが、文壇のどこを見渡しも、片影すらないとすると、これに対する日本文士の態度は、期せずして似ていることになる。(引用者中略)

 日本でも、昔は村井弦斎の料理小説とか、浪六のビンパツ小説とか、春浪の武侠小説とか、いろいろ看板が豊富だったのに、自然派以後は小説に対する考えがマジメになって、文壇の習慣が窮屈になった。しかし要するに習慣であるから、いつ改めてもいいようなものである。」(前掲書所収「文学のいろいろ」より)

 勃興したての大衆文学陣営=直木賞委員会を、文壇の一部だとか見なすと、眉をひそめる人たちが、そこかしこにいたことでしょう。本来、直木賞はそういう一派のかもしだす窮屈な感じから自由でいられる存在だったはずで、そんな観点から獅子文六の肩の力のぬけた軽い小説群に賞をやってもいいんじゃないの、っていう空気が出てきたわけです。

 でも残念、時の直木賞の選んだのは、窮屈な方向の道でした。なにも好きこのんで、そんな困難なほうに行かなくてもよかったのに。自由で広々とした場所には、獅子文六にしろ徳川夢声にしろ、恰好の救世主たちが現れていたのに。……直木賞委員会の方々も、やはりマジメすぎたんでしょうか。

 そう考えると、昭和10年代の窮屈さ代表=『オール讀物』、自由さ代表=『新青年』だったと見ることができるかもしれません。ううむ、やはり水谷準は偉大だ。

「小説という面倒臭い、原稿紙に一杯字を書かねばならぬ仕事は、毛頭やる気はなかったのだが、ふとしたハズミで書いてしまった。雑誌「新青年」で、杉山平助氏ともう一人誰だったか、平常(ルビ:ふだん)小説を書かぬ人に小説を書かせる企画で、僕もその選に入れられた。(引用者中略)「八幸会異変」という題のそれが、つまり、処女作というものだが、まことに処女を破るという事情は、つねに慌しきものである。

 すると翌月、同誌のJ・M氏は、今度は、連載小説を書けといってきた。」(前掲書所収「ユーモア小説懺悔」より)

 これが、「いったいこの妙ちくりんなペンネームの正体は誰だ」とちょっと話題を起こした処女長篇「金色青春譜」誕生のくだり。『『新青年』読本全一巻 昭和グラフィティ』(昭和63年/1988年2月・作品社刊)の「獅子文六」の人物紹介によると、「これは、大衆文学論の盛んになった状況に対して新しい大衆小説をめざした編集部の肝煎りもあり、」と表現されています。

 まあ、そのうち『新青年』もいろいろと窮屈になっていっていっちゃうわけですけど、同誌の生んだ(?)二大ユーモア作家、文六と夢声はともども、直木賞についてはカスった程度で終わってしまいます。木々高太郎さんあたりが、直木賞にとってギリギリ背伸びの限度だったのかもしれません。

 モダーンな香りただよう『新青年』出身作家の名に恥じず、『遊覧列車』は、パリ帰りの岩田豊雄こと獅子文六の西洋ネタが満載です。「久里岬土産」とか「巷に歌あらん」とかの日本物もワタクシは好きなんですけど、ここではやっぱり、パリ物のなかから「血と泥濘の事件」を紹介させてもらいます。

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2009年3月 8日 (日)

いちじるしく低俗なバカ騒ぎに、よくぞ5度もお付き合いいただきました。 第133回候補 絲山秋子『逃亡くそたわけ』

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第133回(平成17年/2005年・上半期)候補作

絲山秋子『逃亡くそたわけ』(平成17年/2005年2月・中央公論新社刊)

 このあいだこっそり開催しました「最近10年間の直木賞候補作、重量ランキング」では、みごと最軽量の栄冠に輝きました。

 いや、そんなの小さなことです。それ以外に絲山ねえさんは直木賞の場にくっきりと鍬の跡を残していってくれました。およそ30年も前、昭和49年/1974年下半期に阪田寛夫がなしとげて以来、だれも実現することのできなかった「直木賞候補の経験のある人が、芥川賞を受賞する」わざを、久しぶりに決めてくれたことです。

 へ。芥川賞だって直木賞だって、大して違いなんかないじゃん。絲山さんが直木賞じゃなくて芥川賞の側で表彰されたのも、たまたまでしょ。角田光代車谷長吉山田詠美が直木賞をとったのがたまたまだったように。……っていう一般的な感覚には、ワタクシも心の底から同意します。同意しますが、それで終わったんじゃ面白くありません。昔はよくあったのに、最近じゃあグンと数の減ってきた「直木賞と芥川賞と、一人の作家がまたがって候補になる」現象が、せっかく平成17年/2005年に起きたんですもん。もう少し考えを押し進めさせてください。

 まずひとつ、こんな考え方があります。芥川賞は大手商業純文学誌(『文學界』『新潮』『群像』『すばる』『文藝』)にのった短篇のなかから選ばれる、直木賞は大手出版社から出された単行本のなかから選ばれる、それ以外に明確な違いはない。とくに作品のジャンルや質など、どっちがどっちと規定できるものは、なくなったと見ていい。

 と、こんなことを言うと、直木賞畑の面々がやった座談会にたいして「不勉強だ」とブチ切れた笙野頼子さん辺りは憮然とするでしょう。でもたしかに、文学がどうだとか触れずに、このくらいわかりやすい枠組みをつくったほうが、賞の運営側からすれば、よけいな波風を起こさずにスムーズに事が運びます。運営効率の面でみれば、「この小説は大衆文学の一種だ」「いや、なにぬかす、こりゃ断然、純文学だ」と不毛な議論で時間を浪費するより、媒体によって振り分けちゃったほうが、ハナシは早いはずです。

 いまじゃ、直木賞と芥川賞では、下読み担当グループもはっきりと分離しているそうですし。直木賞のほうで候補にしようと思っていたものが、芥川賞のほうでも同じこと考えていて、なんて事態が発生したら、どっちの候補にするか、いちいち会議しなきゃいけません。そんなの非効率です。それをなくすために、最初から子供でもわかる枠組みを決めておく。なるほど。納得です。

 そこまではわかります。ああ、そうか、だから『逃亡くそたわけ』は直木賞の戦場に送り込まれたのか、と推察はできます。じゃあ同じような例――純文学誌を活動の場としている作家が単行本を出して、それが直木賞ではかられた例が、過去にはどんなものがあったのかな、とさかのぼっていきますと、こんな感じになるでしょうか。

 お、同人誌からの刺客が登場しましたので、ここらで止めときましょう。

 なにい、内田春菊って純文学系かあ? ってツッコミもあるかと思いますが、まあコラえてください。

 それにしても少ないなあ。これしかないんですか。「純文学と大衆文学に垣根はなくなった」と威勢のいい文句が、事あるごとに鬼の首をとったかのように繰り返し言われている割りには。

 補足の資料として、ここに山本周五郎賞の候補作を差し挟んでみるのも面白いかもしれません。あちらは賞の発足から単行本オンリー、直木賞みたく紆余曲折の末にいまのような枠組みを手に入れたわけじゃありませんけど。島本理生『ナラタージュ』(平成16年/2004年度)、吉田修一 『パレード』(平成13年/2001年度)。それ以前はずっと間隔があいて、中村隆資『地蔵記』(平成3年/1991年度)、吉本ばなな『TUGUMIつぐみ』(昭和63年/1988年度)、久間十義『聖マリア・らぷそでぃ』(同)、干刈あがた『黄色い髪』(昭和62年/1987年度)。

 おお、山周賞は第5回(平成3年/1991年度)までは同時期の直木賞にくらべて案外、純文学系にも目を向けていたんだな、でもそっから先は、より「直木賞風」の候補ラインナップになっていったんだな。などと、直木賞―山周賞の比較論に発展していけそうです。でも長くなりそうなので、今はやめときます。

 それはそうと、ですね。山周賞も直木賞も「単行本のなかから候補をえらぶ」ルールには則っているんですけど、なんか咽喉の奥に魚の骨がひっかかったような感覚に襲われませんか。奥歯にモノが……っていう比喩でもいいです。大衆文学の賞で、純文学誌をにぎわす作家を取り上げるときの、どうにもモヤモヤした感じ。何なんでしょうね、これは。

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2009年3月 1日 (日)

危険を避けて安全を求めるのが世の流れ。そんな生存本能からハミ出した“異候補”。 第125回候補 田口ランディ『モザイク』

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第125回(平成13年/2001年・上半期)候補作

田口ランディ『モザイク』(平成13年/2001年4月・幻冬舎刊)

 そのとおり。この作品を取り上げると決めた瞬間から、どうしたって今日のエントリーはブラックな話題にならざるを得ないんです。でも、そうであればあるほど、ワタクシには俄然、反発心が芽生えてきます。今日は、できるだけ黒グロしいハナシにならないように、努力してみます。

 『モザイク』のなかに、片山洋次郎さんの『気ウォッチング』(平成6年/1994年3月・日本エディタースクール出版部刊)の一部を無断で使用したところがある、そして田口ランディさんもそれを認めて謝罪した、ってことが平成14年/2002年2月に新聞やらテレビやらで報道されたぐらいなら、『モザイク』を覆うブラックなイメージもまだ可愛いものでした。これを真っ黒い印象で塗りたくって人びとの脳裏に焼きつけるにいたったのは、何と言っても大月隆寛さんが音頭をとった『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』(平成14年/2002年11月・鹿砦社刊)なる、A5判、ソフトカバー、全382ページの追及本が、かなりのひんしゅくとともに刊行されたことにあります。

 彼らが追及するうえでの物的証拠その1、『モザイク』はたまたま(?)直木賞候補作でした。なもんですから、坊主憎けりゃ何とやら、と言いますか、いや、そもそも昨今の文芸出版なるものはほんとに胡散くさいなあ、という前提がこの本のベースには横たわっていて、ランディさんだけでなく直木賞のことも、ちょこっとネタにされています。

「田口ランディは「パクリ」をやった。「パクリ」まくって直木賞候補になった。「無断引用」とかなんとかきれいごとぬかしてやがるが、ごまかしてんじゃねえ、こりゃ正しく「パクリ」だ。」(同書所収 大月隆寛「ようこそジャングルへ――田口ランディ「万引き」問題について」より)

「田口の作品自体にしても然りで、内容が希薄な上に元ネタは盗作。作者に親近感が沸かないワケがありません。また薄っぺらい内容に「直木賞候補」や「映画化」といった錦の御旗をワンサと与えたせいで、薄っぺらい人間がワンサカ寄ってきたのも当然の帰結と言えるでしょう。」(同書所収 廉大烈「哀しいかな、平凡――田口読者は自分史自慢の核融合炉」より)

 あらあら、このまま引用していくと、やっぱり当エントリーもブラックに染まっていく気がするぞ。二つで止めておきます。

 と言いつつ、あとひとつだけ。槙村達史さんの「田口とインパク、その顛末記――「インターネットの女王」がもっとダメにしたインパク」なる記事があります。ここではすべての小見出しを、直木賞の受賞作・候補作名のパロディで統一する、という念の入れよう。直木賞ファンとしてはちょっと嬉しくなっちゃったので、槙村さんの付けた小見出しを紹介させてもらいます。

 ……「インパクのごたく」(“ごとく”の誤植?)「選ぶのに、安全でも適切でもありません」「企画の谷の五月」「編集長ごっこ」「止まった更新曲」「田口ランディの因果な性格」「野狐禅の言葉」「カンボジアぶらぶら節」「複製するは我にあり」「任期の谷間」「秋・田口の再来」「丸投げのステラ」「編集長期間に間に合えば」「それぞれの終楽章」(お、これだけそのまんまだ)「ベトナム観光、公費?」「追い詰められる」「インパクすんで日がくれて」……。

 ランディさんが、どれほど“パクッた”かは、ワタクシは詳しくないので何も言いません。当時はたしかに、『コンセント』から『アンテナ』、そして『モザイク』とつづく短期間での書き下ろし出版、やたらと「インターネット出身」を売り文句にする販売宣伝手法などがあって、ううむ、出版界のやんちゃ坊主「幻冬舎」っぽいな、とは思わされましたけど。

 作家・田口ランディの生みの親、編集者の芝田暁さんが、平成16年/2004年に幻冬舎を辞められて、“三部作”の版元も、おっとびっくり幻冬舎から新潮社に鞍替え。この三つの作品が新潮文庫に入るにあたって、ランディさんが三つとも新たに「あとがき」を書かれています。あのブラックな攻撃をうけた頃のことも何か書いてくれるかな、と期待したんですが、いや、ランディさんはそういうかたちの読者サービスはお好みでないようで。

 たとえば『モザイク』では、参考文献の次のページ、文庫編集部が書いた(と思われる)次の一文にのみ、ブラックな頃の痕跡をとどめています。

「この作品は二〇〇一年四月幻冬舎より刊行され、改稿後、二〇〇三年四月幻冬舎文庫に収録された。」(太字・下線引用者)

 で、この騒ぎは“騒いでいるやつだけが騒いでいる”(当たり前か)っていう現象のまま、ずるずると日は流れました。この一件には、あの、ページをめくるたびにワクワクする栗原裕一郎さんの名著『〈盗作〉の文学史――市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)によれば、それまでのあまたの騒ぎとは違う特徴があるそうです。活字媒体はほとんど関心を示さず、ネット上でのみ加熱した騒ぎだったんですね。

「活字媒体での扱いは皆無にちかかったにもかかわらず、しかし、田口の事件にかんする資料は、おそらく盗作事件史上もっとも充実している。というのも、田口の盗作疑惑が取り沙汰されはじめたのがネット、具体的にはゴシップ系メール・マガジン「サイバッチ!」および「2ちゃんねる」でのことであり、二〇〇一年五月に疑惑が浮上して以来、執拗に追及されつづけ、わずかな情報でも片っ端から「検証サイト」にストックされていったからだ。」

「活字媒体がほとんど取り上げなかったので、文芸関係者や文化人知識人からの見解や議論も皆無にちかい。」

 活字媒体の一部である直木賞の側も、当然、無風でした。この騒ぎからじきに訪れる直撃弾「半落ち事件」のときですら、直木賞は無言を決め込んだくらいですから、いちいち、一候補作のそんな騒動でピクリとも動くはずがありません。大人だねえ。冷静だねえ。

 と、そこで終わってしまっては面白くありません。たとえ無風であろうとも、そこに何がしかの風を求め、むりやりにでも直木賞を見つめてこそのオタクです。

 はて。田口ランディさんが直木賞にもたらしたものとは。何でしょう。……考察のスタート地点は、まずはやっぱりあれかなあ。「幻冬舎」かなあ。

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2009年2月22日 (日)

ときに名作は「いまだ直木賞に幻想を抱きつづける人の姿」をもあぶり出す。 第114回候補 服部真澄『龍の契り』

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第114回(平成7年/1995年・下半期)候補作

服部真澄『龍の契り』(平成7年/1995年7月・祥伝社刊)

 第111回第120回の5年間、つまり平成6年/1994年~平成10年/1998年は直木賞にとって「第二次苦悩の時代」とか言われます。

 第二次どころか、ひょっとして第五次・第六次ぐらいの可能性はあるんですけど、それをやり始めると直木賞全史をおさらいしなきゃならないので。こんなブログの一日分ではとても無理です。ここでは第61回第80回の10年間(昭和44年/1969年~昭和53年/1978年)を、「第一次苦悩の時代」ととらえることにします。

 第一次のことは、ほんの4週間前のエントリーで書いておきました。山田正紀さん『火神を盗め』あたりの、あの頃です。

 そのとき方向転換して、直木賞は徐々に、無難で当たりさわりのない「出版界のおまつり」の座に徹していきました。そして、ほぼその路線は成功していました。

 成功でしょう。だって第93回(昭和60年/1985年・上半期)以来、約9年間、一度もとぎれることなく受賞作を出しつづけたんですから。受賞作ナシを出さない、っていうその姿勢は、まつりとして興行として、最も大事なことです。

 それが第112回(平成6年/1994年・下半期)にいたって、ついに失敗をやらかし、あれ? と思わせたものの、一度ぐらいそんなこともあらあな、と構えていたところ、すぐまた第118回(平成9年/1997年・下半期)に再びの失策。あってはならない「受賞作ナシ」をまたまた出してしまい、苦悩の時代ととらえられることになるのでした。

 この苦悩を演出したのは中島らもであり、梁石日であり、北村薫です。

 第一次苦悩をもとにして編み出したはずのルール、つまり「大手出版社から出た」「ハードカバー」。そのなかで、多くの読者から熱狂的に迎え入れられている作家たち、選考委員たちのお墨付きをわざわざ頂かなくとも、その後も文筆で生計をたてていく未来が見通せそうな作家たち。……であるにもかかわらず、直木賞をあげられない心苦しさ。おい、直木賞っていったい何なんだ、っていう基本の部分が、ここにきてまた揺さぶられました。

 で、そんな時期の名候補作です。服部真澄さんです。『龍の契り』です。正体不明(刊行当時)の新人による、熱気たっぷり、スケールもでかけりゃストーリー性も抜群、で話題をかっさらい、褒める人が続出、売れに売れました。

 しかし当時、この作品が直木賞候補に挙がったのはいいとして、ほんとに受賞まですると信じていた人が、どれだけいたんでしょう。ひょっとするとですよ、これを候補に選んだ文藝春秋内の数名だけが、悲壮な期待で選考会のゆくえを見守っていたのかもしれません。直木賞よ、『龍の契り』に賞をさずけることで、頼む、大きく変わってくれと。

 『龍の契り』の名を見るたび、そんな(一部の)文春編集者の、苦悩のなかの叫びが聞こえてくる気がします。ワタクシの幻聴でしょうけど。

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2009年2月15日 (日)

ああ、禅僧も出版界も、この世は小事煩悩がうずまいているなあ。 第104回候補 堀和久『死にとうない』新人物往来社刊

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第104回(平成2年/1990年・下半期)候補作

堀和久『死にとうない』(平成2年/1990年9月・新人物往来社刊)

 『死にとうない』は、ワタクシの好きな歴史小説です。でも、今回の主役はこの作品じゃありません。書いた堀和久さんでもありません。

 直木賞の候補に挙がると、その作家の多くは、選考会の当日、賑やかななかで過ごします。その様子は時にテレビカメラが映したり、週刊誌が取り上げたり、あるいは作家本人がエッセイなどに書きのこしたりもします。そういうものから垣間見えるかぎりでは、候補者は案外と冷静だったり、賞のゆくえに無関心だったりするんですよね。じゃあ、浮かれ騒いでいるのはいったい誰か。……その作家と付き合いのある編集者とか、出版社の人たちだった、なんてことが、しばしばあります。

 たとえば、候補作を出した出版社は、候補に挙げられた段階で、「直木賞受賞」の字の入ったオビを刷って当日を迎えるらしいです。受賞するとも決まっていないのに。

 こうなってくると直木賞を「作家個人のための賞」と言うのは単なる建て前であって、内実は違うものになっているんだな、とわかります。直木賞の大部分は出版社のための賞でもある、というのが正確なとらえ方です。

 なので今日の「これぞ名候補作」の主役は、出版社です。正賞の時計も、賞金の100万円ももらえないのに、けなげに候補作誕生のために力を尽くす出版社に目を向けます。『死にとうない』の生みの親、新人物往来社です。

 で、まずは、同社が直木賞史に送り出してきたすべての候補作をご紹介しましょう。第89回(昭和58年/1983年・上半期)で初登場、第107回(平成4年/1992年・上半期)までの9年間で、5つの作品が候補になりました。

Photo 『写楽まぼろし』

(昭和58年/1983年5月10日、杉本章子

装丁・原田維夫

発行者・菅英志

『歴史読本』の連載をまとめた長篇。

第89回直木賞候補。



Photo_2 『常夜燈』

(昭和60年/1985年11月25日、篠田達明

装丁・熊田正男

発行者・菅英志

『歴史読本』の連載をまとめた長篇。

第94回直木賞候補。



Photo_3 『東京新大橋雨中図』

(昭和63年/1988年11月25日、杉本章子

装幀・森田誠吾 レタリング・徳留正昭

発行者・菅英志

『別冊歴史読本』に掲載した作品に加筆した長篇。

第100回直木賞受賞。



Photo_4 『死にとうない』

(平成2年/1990年9月30日、堀和久

装幀・安彦勝博

発行者・菅英志

『別冊歴史読本』に掲載した作品に加筆した長篇。

第104回直木賞候補。



Photo_5 『五左衛門坂の敵討』

(平成4年/1992年4月30日、中村彰彦

装幀・大木眠魚 装画・関根雲停

発行者・菅英志

『時代小説』に掲載した4作品をまとめた短篇集。

第107回直木賞候補。



 ううむ、おそるべし『歴史読本』ファミリー怒濤の攻撃。

 昭和50年/1975年に創設した歴史文学賞を、陽があたらない頃から地道につづけて、そうやって蒔いた種がひとつ、またひとつと咲きはじめた軌跡、それが5つの直木賞候補作として表れたんでしょう。となると、それを育て上げた『歴史読本』編集長(上記の各書で「あとがき」のあるものには、決まって名前が登場します)田中満儀さんは、やはり直木賞の歩みを支えた文芸編集者リストの一員に加わってもらわなければなりません。

 それにしても新人物往来社、平成4年/1992年を最後に、すっかり直木賞の場に登場することがなくなり、はや10数年。いかがお過ごしでしょうか、と思っていたら去年の秋、突然(?)出版界の話題の表舞台にお出ましになったので、いやあ驚いたものです。

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2009年2月 8日 (日)

人間が描けていない? 描けている? それを超えたところにある独自の魅力。 第96回候補 山崎光夫「ジェンナーの遺言」

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第96回(昭和61年/1986年・下半期)候補作

山崎光夫「ジェンナーの遺言」(昭和61年/1986年11月・文藝春秋刊『ジェンナーの遺言』より)

 直木賞史のなかには、絶対とりあげなきゃならないんだけど、不思議にとりあげづらい作家がかなりたくさんいます。

 とりあげづらさには、たぶん、いろいろな要因があります。文芸誌の評論欄で定期的に触れられるわけでもなし、あるいは、ミステリーやSFのように「ジャンル愛」に満ち満ちた読者群・研究者群がいるわけでもなし。いちおう大衆文芸(とか中間小説)などと大ざっぱにくくられながら、着実に作品をものにしていて、それでも強烈なスポットライトを浴びることのない作家たち。……とりあげづらいんですけどね、ワタクシには、とても放っておけません。

 ワタクシの手元には、いつかみっちりと評価の光を当ててみたい作家リスト、ってものがあります。林青梧中村光至斎藤芳樹黒部亨栗山良八郎丸元淑生篠田達明、ほか多数。そのおひとり、とか言うとご本人に怒られるかもしれないので、こっそり告白しますと、山崎光夫さんも「とりあげづらい直木賞候補作家グループ」に名を連ねているんじゃないか、とワタクシは踏んでいます。

 山崎さんの作品に、特徴がないわけじゃありません。いや、逆です。誰もが認めるはっきりとした特徴があります。「医」です。

 貝原益軒とか北里柴三郎といった有名人のこと、「健康大国」日本を陰でつくりあげてきた人々のこと、芥川龍之介の死の謎、戦国武将の養生訓、薬のこと、病気のこと、医師のこと……。

 いまも「医」の作家として堂々と第一線を張っているこの方が、作家として登場したのは、昭和60年/1985年でした。これから海のものになるか山のものになるか、まるでわからないその時期に、彼をたてつづけに3度、第94回、第95回、第96回と候補に挙げたのが直木賞です。もちろん3作品とも「医」もの。しかも同じく「医」を扱いながら、その据え方は三作三様、メインありサイドあり……いやあ、ここらが山崎さんのその後の幅広さをほうふつとさせますよねえ。

 直木賞は時として、思い出したかのように、こういう抜群の「新人発掘」機能を発揮してくれます。みごとです。

 あ、でも、山崎作品の特徴が「医」ものである、と言い切るのは正確じゃありませんよね。言い直します。医者が小説を書く(書き続ける)例はたくさんありますけど、山崎さんは医者ではありません。あえて医療の専門家でない人間が、外から「医」を追求していくその立場こそが、山崎さんの「医」ものの特徴であり礎でしょう。そして、それがまた、強み(あるいは弱み)を生み出しているとも言えそうです。

 そういや、20年前、『日本アレルギー倶楽部』(昭和63年・講談社刊)を上梓したとき、山崎さんご本人もおっしゃっていましたっけ。

「著者の山崎光夫氏は、現役の医者でもなければ、医学部出身者でもない。かつて「週刊現代」の記者だったころ、「日本の名医」「日本の専門病院」という連載コラムを担当した経験が、ベースになっているという。(引用者中略)

「前々から、いずれは小説を書きたいと思っていたんです。医学ものを取材していると、小説のヒントになる話がいっぱいある。医者出身の作家は、何人もいらっしゃる。ぼくは専門の医者ではないけれども、ぼくみたいな医学ジャーナリストが書くのも、意味があるんじゃないか、ちがった視点から書けるんじゃないか、と思ったんです」」(『宝石』昭和63年/1988年7月号「宝石図書館 著者インタビュー 書かれざるもう一章」より)

 そして山崎さんは直木賞の舞台に「名候補作」を繰り出します。その名は「ジェンナーの遺言」。「医」ものに果敢に取り組み、深刻なテーマを取り扱っていたはずが、物語作家としての筆が思わず伸びに伸びちゃって、ストーリーは急展開、導入部分の謎も大きけりゃ後半に明かされる真相もかなりの大ゴトすぎて、ひんしゅくを買った(?)というあの作品です。

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2009年2月 1日 (日)

ミステリー小説なのはわかるけど、そんな「謎」を読者に提供するなんて……。 第82回候補 高柳芳夫『プラハからの道化たち』

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第82回(昭和54年/1979年・下半期)候補作

高柳芳夫『プラハからの道化たち』(昭和54年/1979年9月・講談社刊)

 このブログには直木賞にまつわることしか書きたくない、と思っています。『プラハからの道化たち』は、立派な直木賞候補作です。直木賞の文脈のなかで、いろいろ語りたいな、っていうのが本心です。……なんですけど、やっぱりこの作品の場合は乱歩賞のテリトリーのほうに、ずずずりっと引きずられてしまいます。

 それは、ほんの7年ほど前、「江戸川乱歩賞全集」に収録されなかった、という事件(?)をもって、われら読者たちを仰天、かつ悲嘆させたからでもあります。

 拙ブログにわざわざお越しの方なら、直木賞にかぎらず乱歩賞にもお詳しいでしょうから、説明は不要でしょう。でも簡単に書いておきます。

 平成10年/1998年から、過去の乱歩賞受賞作を、文庫版で再刊する企てがありました。「江戸川乱歩賞全集」と銘打たれ、日本推理作家協会・編、公募でなかった頃の受賞作、第1回(昭和30年/1955年)の中島河太郎『探偵小説辞典』に始まって、公募になってからの時代のものは1冊につき受賞作2作品ずつが収められました。こんなふうな刊行ペースで。

  • 平成10年/1998年 第1回~第8回(全4巻)
  • 平成11年/1999年(3月)第9回~第12回(全2巻)
  • 同年(9月)第13回~第18回(全2巻)
  • 平成12年/2000年 第19回~第22回(全2巻)
  • 平成13年/2001年 第23回~第26回(全2巻)
  • 平成14年/2002年 第27回~第29回(全2巻)
  • 平成15年/2003年 第30回~第33回(全2巻)
  • 平成16年/2004年 第34回~第35回(全1巻)
  • 平成17年/2005年 第36回(全1巻)

 むろん直木賞ファンが喜んだのは言うまでもありません。お、新章文子『危険な関係』(第42回直木賞候補)が新刊で読めるんだ! 陳舜臣『枯草の根』(同第46回候補)はもちろん、小林久三『暗黒告知』(同第72回候補)までも……。よくやってくれた講談社。こりゃ当然、『プラハからの道化たち』も読めるようになるんだあ、と期待しますよね。

 しかし、この作品が収められるはずの第12巻には、なんともツレない文言が。喜び浮かれる読者の頬をひっぱたいたのでした。

「おことわり

 第二十五回(昭和五十四年度)江戸川乱歩賞は、高柳芳夫氏「プラハからの道化たち」が受賞しましたが、同作品の本全集への収録に関し、平成十三年八月現在、著者よりの許諾を得られておりません。(引用者後略)(平成13年/2001年9月・講談社/講談社文庫『江戸川乱歩賞全集12 ぼくらの時代/猿丸幻視行』より)

 かくして、直木賞候補作『プラハからの道化たち』が21世紀の世に復活するチャンスも、今までのところ失われてしまったのでした。

 はっきり申しまして、ワタクシはなぜ高柳さんが許諾を与えなかったのか、理由は全然知りません。講談社側の証言か、または高柳さんの説明がどこかに発表されているのでしたら、ぜひ教えてほしいのです。

 本書の解説を書かれた日下三蔵さんは「高柳さんは講談社と大喧嘩をしたらしい」といったことを、当時、某掲示板に書かれました。おそらく日下さんにとっても伝聞情報なのでしょう。まあ、もめごとの理由を知ろうだなんて、下衆の心理以外のなにものでもなく、単なる一読者が知ったところでどうなるのだ、と思わないでもありません。

 いやいや、でも「直木賞」なんてものを研究しよう、ってぐらいですからね。ひるまずに、あえて下衆の道を突き進まなきゃ「直木賞研究家」の名が折れます。

 それにですよ。直木賞を愛する者として、心の準備もしておかなきゃなりません。いずれ将来、直木賞全集が刊行された折りに、受賞者の誰かが収録を拒絶したとき、一読者として感じるであろう悲しみと好奇の感情のためにも。

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2009年1月25日 (日)

おもしろすぎて直木賞を降参させた伝説のエンターテインメント小説。 第78回候補 山田正紀『火神を盗め』

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第78回(昭和52年/1977年・下半期)候補作

山田正紀『火神を盗め』(昭和52年/1977年9月・祥伝社/ノン・ノベル、小学館発売)

 第61回第80回の10年間、つまり昭和44年/1969年~昭和53年/1978年は直木賞にとって「苦悩の時代」とか言われます。

 表面的にいいますと、この20回のうち、受賞作を出せたのが11回だけ。受賞作がなく何とも盛り上がらない結果となったのが9回。ほぼ半分において直木賞はその役目を果たせませんでした。

 どうしてそんなことが起こったか。「直木賞は、その当時のエンタメ小説全般が持っていたクオリティを示すバロメーター」なんていう考えかたを、ワタクシは採りません。いや、この賞が「直木賞はそうありたいな」との姿勢を奥底に漂わせていたとは思います。それよりちょっと前までは。でも「苦悩の時代」をくぐりぬけて、直木賞は思い切ってその「志」を脱ぎ捨てました。

 「あきらめた」と言っていいかもしれません。直木賞はあえて、時代(もしくは出版界の流れ)についてゆくことを、やめました。

 厳しい言い方をするならば、直木賞は自分の枠組みでもって大衆文学を代表するものを選ぶのが、いかに無謀かを悟ったってことです。無理だとわかりました。降参しました。

 あきらめさせたのは、たとえば西村寿行であり、谷恒生であり、そしてこの山田正紀さんでした。

 『火神を盗め』が候補となったのは第78回(昭和52年/1977年・下半期)。やはり受賞作を出せなかった回です。選考後、記者会見の場に出てきた選考委員は、司馬遼太郎さんでした。司馬さんの性格もあるんでしょうけど、このときの会見内容は直木賞が突きつけられた「あきらめ」を、よく表しています。

「選考経過の説明に出てきた委員の一人、司馬遼太郎氏は個人的な感想として、こうもらした。

 「全般に小説が変貌してきているので選考しにくくなっている。いろいろな議論が出たが、結局は文学的にどうかが決め手になった。対応しにくいほど多様な作品が出ているので、直木賞にならずとも不名誉ではない」。」(『読売新聞』昭和53年/1978年1月30日「読書」欄より)

 そしてこれ以後、直木賞は大きな変革をほどこすことになります。ざっと挙げると「同人誌からは候補にしない」「大手出版社以外の作品は候補にしない」「雑誌掲載の段階では候補にしない」「ノベルス(新書版)は候補にしない」などなど、たいていそのテリトリーを狭める動きばかりです。まあ、同人誌については、「もはや同人誌の役割は終わった」うんぬんの議論を持ち出せば、この動きの説明は事足りるでしょうけど、じゃあ「どうして直木賞は単行本しか候補に挙げないのですか(ノベルスは無視するのですか)」。これに対する答えの原点は、第78回ごろにあります。

 多種多様な小説すべてに対応することをやめた、ってことです。

 で、山田正紀ファンにとっては、司馬さんに言われずともわかっています。直木賞をとれなかったからって不名誉でも何でもないことを。いや、それどころか、吉川英治文学新人賞もとれない、山本周五郎賞もとれない、と初めて「逆三冠」を達成して、よけいに山田正紀さんの輝きが増しました。

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2009年1月18日 (日)

直木賞のもつ隠れた意義。それを実感できるのは50歳を過ぎてから、かも。 第64回候補 三樹青生「終曲」

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第64回(昭和45年/1970年・下半期)候補作

三樹青生「終曲」(『外語文学』7号[昭和45年/1970年8月])

 このあいだの井上武彦さんのエントリーとチトかぶりますが、今日もハナシのまくらは、漫画のことです。

 先日、元・週刊少年マガジン編集長の宮原照夫さんが書いた『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』(平成17年/2005年12月・講談社刊)を読んでいたら、直木賞に関連する事項がでてきたので驚きました。

 たとえば宮原さんが、漫画の原作が書ける作家を物色するなかで、白羽の矢をたてたのが、福本和也さんだったとか。

「福本は新しい産業スパイ小説を世に送り出していて、三期連続で直木賞にノミネートされていた作家だった。しかし、梶山季之が初めて書いた産業スパイ小説「黒の試走車」がベストセラーになり、このジャンルを捨てざるを得なくなっていた。

 直木賞を目指すのであれば、新しいジャンルを開拓しなければならないだろう。だが、新ジャンルの開拓は、そう簡単にできるものではない。福本は、作家としていま転機に立っている。」(「第二章 偉大なる実験!―少年週刊誌創刊―」より)

 ふうむ、福本さんの候補作「K7高地」や「泥炭地層」を「産業スパイ小説」とくくるのは、やや違和感がありますけど、福本さんが漫画原作のエリアに一歩ふみだしたときの裏話として、この「ちかいの魔球」に関するエピソード部分は、興味津々です。

 ほかにも、「巨人の星」=大衆文学的、「あしたのジョー」=純文学的っていう漫画内でのジャンル分けとか。おそらく漫画研究においては常識なのかもしれませんけども。そうか、そうやって「あしたのジョー」は生まれてきたのだなと勉強になります。

 それでもうひとつ、本書には直木賞につながるネタがこっそり登場しています。それは三樹創作さん。宮原さんの後を継いで『週刊少年マガジン』編集長になった方です。『週刊少年ジャンプ』の飛躍をわきめに、部数が落ち込むばかりの「『マガジン』冬の時代」の渦中でもがき苦しんだらしいです。

 その三樹さん、お父さんは三樹精吉さんと言います。精吉さんのほうは毎日新聞などの記者勤めから日本新聞協会に入り、昭和43年/1968年から昭和46年/1971年まで第9期・第10期の国語審議会委員を務め(第10期途中で辞任)、それからTBSブリタニカ監修局で働き、帝京大学文学部に招かれた経歴をもつ、根っからの新聞畑の人でした。

 そして精吉さんは文学に対する関心も高くて、「三樹青生」のペンネームで直木賞候補に挙がったことがあるのです。

 「青生」とは、やや風変わりな名前ですが、「終曲」が単行本化された深夜叢書社版(昭和50年/1975年11月刊)の奥付では「(c) Seisei Miki, 1975」。でも3年前の『悪文・失言ものがたり』(昭和47年/1972年11月・アロー出版社刊)の著者紹介文では「ペンネーム三樹青生(みき・せいき)」で、ご本名に近い読み方を採用しています。

 そもそも精吉さんが「終曲」を発表したのは、息子・創作さんが立派に成人したあとの昭和45年/1970年、っていうから精吉さん本人は55歳。頑張って出世(?)してきた結構いいオトナです。おじさんです。

 その人生経験豊富な方が、若かりし頃に抱いていた文学への思いを、いま一度駆り立てられて書き始めました。そのなかの一篇が「終曲」でした。

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2009年1月 4日 (日)

スラムダンクほど有名じゃなくても、隠れたとこに眠っている傑作もあります。 第59回候補 井上武彦「死の武器」

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第59回(昭和43年/1968年・上半期)候補作

井上武彦「死の武器」(『東海文学』33号[昭和43年/1968年2月])

 Img_lamp井上雄彦 ではありませんか?

 いえ、ちがいます。

 もしかして: 井上雄彦

 だから、“もしか”もクソもないんだってば。ちがうって言ってるでしょう。井上武彦さんですよ。三重の名(同人誌)作家といえばこの人、「銀色の構図」「死の武器」でおなじみの、あの井上武彦さんですよ。Yahoo!もgoogleもハナシの通じない人だなあ。

 通じなくても無理はなさそうです。たしかに井上さんの単著を調べてみても、「死の武器」を改題した『同行二人―特殊潜航艇異聞』(昭和63年/1988年10月・ユーウ企画出版部刊)ぐらいしか流布していないみたいですし。ワタクシも井上作品は二つの直木賞候補作以外、読んだことないですし。中京地区あたりの出版社がもっと、本にまとめておいてくれると助かるんだけどな。

 なので、今日のエントリーで書く内容は、ほとんど『同行二人』に収められた諸文に頼りっきっています。

 なにしろ、この書に推薦の文を寄せているメンバーが豪華です。

 筆頭は瀬戸内寂聴さんの「序文「歳月に耐えた真実の迫力」」が4ページほど。

 巻末は佐佐木幸綱さん「三島由紀夫さんの手紙」(p185-186)に始まって、伊藤桂一さん「「同行二人」を推す」(p187-189)、利根川裕さん「井上さんと、この作品」(p190-195)の三本立て。それからご本人の「あとがき」(p196-198)まで付いてお徳です。

 さらに出血大サービス。「あとがき」のなかにもう一人、直木賞にゆかりのある方が登場します。田中小実昌さんです。

「旧制中学の同級生に、田中小実昌がいる。

 ぼくと田中は、戦後一時死んだことになっていた。同期生名簿の中で二人そろって黒ワクの中にはいっていたのである。(引用者中略)

 ぼくは、この本(引用者注:『同行二人』)を一番先に田中小実昌に贈ろうと思っている。彼からは、昭和四十三年に『上野娼妓隊』(講談社刊)を贈られてから現在まで二十余冊の本が贈られてきている。

 一方、ぼくが雑誌は別として本らしい本を贈るのは、これが初めてである。」

 旧制中学の同級生どうし、それだけで相当に奇遇です。しかも、お二人の書く作品がちっとも似通っていなく、どこにも接点などなさそうに見えるところが、よけいに奇遇さを際立たせます。

 小実昌さんが柔なら、井上さんは剛。流れにわが身をまかせるフワフワ軽い小実昌さんに対して、拠って立つ足元をしっかりと見つめて毅然と直立を崩さぬように努める井上さん、って感じでしょうか。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)候補の「銀色の構図」もそうなんですけど、この「死の武器」も、そりゃあ重いハナシです。ハナシが重いというより、ハナシの背景が重量感たっぷりです。登場人物たちだけでなく、読んでいるこちらまで、その重さに圧しつぶされそうになります。

 緊迫感と言いましょうか。スリルとサスペンスと言いましょうか。孤島とか雪に囲まれた山荘とか、そういうものよりなお狭く、密室やドアの開かぬエレベーターよりもっともっと狭い、そんな“究極の密閉空間”にまつわる物語です。

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2008年12月28日 (日)

共有しづらい論理。ミステリーと言うより異常。人は彼を「鬼」と呼ぶ。 第43回候補 碧川浩一『美の盗賊』

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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作

碧川浩一『美の盗賊』(昭和35年/1960年5月・桃源社刊)

 日本の探偵小説=推理小説=ミステリー史をみる上では、まず欠かすことのできない人です。戦後の「文学派」と「本格派」の熱いバトルが語られるときには、本名・白石潔として、しばしば登場します。あるいは、戦争をはさんでほとんど創作意欲をうしなったアノ乱歩さんに、戦後はじめて小説を書かせた敏腕(?)編集者、それは報知新聞編集局長・白石潔だ、ってことで有名だったりもします。

 その白石さんの実作として知られているのが(というか、ワタクシの知っているのが)、『別冊宝石』に載った「借金鬼」と、中編集『美の盗賊』所収の3つ「美の盗賊」「明日への饗宴」「チカ昇天」。

 なんつったって急進的本格派の牙城『鬼』誌の中心人物、あの白石さんの作品だからね、きっと本格趣味バリバリの推理小説っぽい推理小説なんだろうな、などと期待して読むと、大ヤケドします。

 4作とも、はっきり言ってワケがわかりません。ついてゆくだけで至難のわざです。

 「謎宮会」のヘレン・ケラ一さんは、「明日への饗宴」のことを「地上最強の美食ミステリ、ストロンゲストな美食ミステリ、言わば美食ミステリの核弾頭」とおっしゃっています。まさしく。納得です。もう常人が「楽しい」と認識できる許容感度を、はるかに超えちゃっています。

 で、きっとそういう状態を(そういう状態を日常のものと感じる人のことを)、「鬼」と呼ぶのでしょう。

 まったく「鬼」の称号は、白石潔=碧川浩一さんにぴったりハマります。「鬼」とは、もっと平板な表現をすれば、マニアとか、狂信的ファンとか、そうなるんでしょう。探偵小説を愛しすぎて、本格派擁護の座についたかと思いきや、それすら突き抜けて「文学派」を通りすぎてこんな境地に達してしまうとは。相当の「鬼」です。

 とくれば、取り上げる候補作はそのものズバリ「借金鬼」(第38回 昭和32年/1957年・下半期 候補)でもいいんですけど、せっかくご著書があるので今日はそちらにします。

 ですが、「借金鬼」のときには、木々高太郎さんによる紹介文がいっしょに付いていました。木々さんは直木賞の選評では一言もこの作品に触れていません。ですので代わりに、木々さんがどんなふうに碧川小説を見ていたか、ざっと引用しておきます。

「推理小説では、これが処女作。さてこの作がまた問題である。人間にこのようなスリルのある心理が存在するであろうか。ドストイェフスキィの「賭博者」よりも更に一層近代的な深淵、そして書き方はツワィグの如く、この一種の異常な作品を更に第二第三と、この作家に書かせてみたい。」

 「一種の異常な」? ははは、カドの立たない表現をよくぞ探してきましたな。「一種の」の語をはぶけば、この作品をもっとよく表すと思います。

 さて、『美の盗賊』です。「明日への饗宴」はヘレン・ケラ一さんが、「チカ昇天」は中島河太郎さん(『日本推理小説辞典』昭和60年/1985年9月・東京堂出版)が紹介してくれていますので、ここでは残る標題作「美の盗賊」をご案内しましょう。といってもワタクシ、理解力は常人並みかそれ以下なもので、この異常作のあらすじをまとめる自信など、ほとんどありませんが。

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2008年12月21日 (日)

一度どん底まで落ちて。彼に小説を書く道がのこされていて、ほんとよかった。 第34回候補 八匠衆一「未決囚」

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第34回(昭和30年/1955年・下半期)候補作

八匠衆一「未決囚」(『作家』昭和30年/1955年7月号)

 八匠(はっしょう)さんは本名、松尾一光。直木賞はとらなかったし、たった一度の候補作「未決囚」は選考会でそれほど評判にもなりませんでした。でも、直木賞の候補になったことで、きっと彼の人生は大きく変わったにちがいありません。

 人生だなんて、こらこら、おまえ八匠衆一の人生の何を知ってると言うのだ。自分の人生すら、ろくに顧みないくせに。はい、そうなんですけど、とくに八匠さんのように、万人が経験するわけでない、ちょっと特別な経験をお持ちの方と出逢うと、どうしても「人生」だとか青臭い用語を持ち出したくなるのです。

 八匠さんの特別な経験というのは、アレです。候補作「未決囚」で描かれる状況に、深く関わっているアレです。

 彼がのちに書いた「風花の道」(昭和59年/1984年9月・作品社刊『風花の道』所収)では、こんなふうに語られています。

「その晩、松井田は新宿へ出てカストリを飲んだ。(引用者中略)彼が金を払いその店を出たのは十二時近くである。(引用者中略)太い楡の樹が枝を伸ばしている柿ノ木坂の坂道を、彼は上半身を折るようにして登って行った。都立大学横の崖下の墓地の上には赤い月が懸っていた。

 背後から草履の音がして、ひとりの中年の婦が彼を追い越して行った。(引用者中略)酸っぱい胃液が彼の腹のなかで渦を巻いていた。彼が足をはやめるとその婦も足をはやめ、彼が歩度をゆるめると、その婦も歩度をゆるめるように思えた。その後姿を追っていると、彼は吐気といっしょに鋭い憤りに似たものを覚えてきた。

 坂を登りきり追い越そうとした瞬間、婦の背に急に困惑と狼狽の形が走った。彼はかっとなり婦の背後に近づいて行った。婦は手に持っていたハンドバッグを投げ捨て、鋭い悲鳴をあげた。(引用者中略)声をあげさせないために、彼は婦の肩に手をかけなにか言ったような気がした。(引用者中略)

 翌朝、彼は碑文谷警察の留置所のなかで眼をさました。」

 事件は戦後まもなく、昭和22年/1947年か昭和23年/1948年頃のことです。罪名は「強姦未遂」。執行猶予がついたものの、〈松井田〉はその罪名に恥辱を感じ、勤め先もやめてしまいます。しかし〈松井田〉はまもなく、ふたたび同じような行為をしてしまい、今度こそ未決監に収容されてしまったのでした。

 強姦(未遂)の単語は、たしかに痛いよなあ。で、〈松井田〉がそうであったように、現実の松尾一光さんも作家志望で、そのころ、どうにかボチボチ小説を発表し出していて、これからって時だったのに。

 本エントリーでは深くは触れませんが、松尾さんの逮捕やその後のことを知るにつけ、ワタクシはもう一人、直木賞候補作家のその後のゆくえが気になってくるのです。

 その候補作家っていうのは、罪名は違うんですけど、やはり「女性にまつわる」事件で起訴されちゃいました。結婚の約束をいっぽう的に破棄されたと言って怒り、相手の女性やその家族に連絡をとりつづけ、あげくに脅迫罪の容疑で逮捕。そして、それ以来、表舞台から姿を消してしまいました。

 その方がどうなったのか、今でも小説を書き続けているのかは、ちょっとわかりません。しかし、松尾一光さんは恥辱にまみれながら、服役をまっとうし、出所後にみごとな復活を果たしました。その復活を復活たらしめた一つの要素が、きっと「直木賞候補に挙げられたこと」にあったはずなんです。

 これが「芥川賞候補に挙げられたこと」でなかったのが、もしかして松尾=八匠さんには不服だったかもしれないですけど。まあまあ、どっちでもいいじゃないですか。ねえ。だってほら、梅崎春生だって、一度も芥川賞候補に名を挙げられることなく、それでも本人迷いながらも、直木賞を受けたんですから。……って、何の慰めにもなってないですけど。

 そうそう、梅崎春生です。八匠さんの復活作「未決囚」は、あるときは自殺未遂まではかった松尾一光の、恥辱の昭和23年/1948年当時を、数年たって自身でふりかえることで出来上がりました。ただしそれより前、彼と付き合いのあった人が二人ほど、松尾さんの収監をネタにして、すでに小説を書いています。その一人が伊藤整、もう一人が梅崎春生です。

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2008年12月14日 (日)

だれが候補作を決めるのか。その権力争いはすでに始まっていました。 第28回候補 松本清張「或る『小倉日記』伝」

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第28回(昭和27年/1952年・下半期)候補作

松本清張「或る『小倉日記』伝」(『三田文學』昭和27年/1952年9月号)

「今まで、ほかで何度か云っているので繰り返さないが、直木賞候補とばかり思っていた拙作は、芥川賞委員会の方へ廻付されていたのである。これは読んで下さった小島政二郎氏と永井龍男氏とが主張されてその結果になったとあとで承った。」(松本清張「作家殺しの賞」より 初出『文學界』昭和34年/1959年3月号 『松本清張全集34』昭和49年/1974年2月・文藝春秋刊 所収)

 有名作家にして、芥川賞をとった有名作。そして、あまりにも有名な“芥川賞への横すべり事件”。ご本人も昭和34年/1959年の段階ですでに何度も語っているそうですし、現在にいたるまでさまざまな人が、くどいほど紹介しています。新資料が手に入ったわけでもなし、何を今さらワタクシが付け加えることがあるでしょう。

 直木賞研究の視点から、この横すべり事件を今一度とらえ直してみたいと思います。

 まずは、事件の概要を簡単におさらいしておきましょう。「そんなこたあ、誰だって知っとるわい」と芥川賞・直木賞に造詣の深い方も、ちょっとお付き合いください。

 事の発端は、昭和26年/1951年はじめ。松本清張さんが、自分の働いていた新聞社の雑誌主催の小説募集に、みごと三等入選したことから始まります。「西郷札」です。

 このとき、清張さんの上には特選があり、優賞2名があり、入選一等・二等がありました。なのに、その中で特選と、三等の「西郷札」が『週刊朝日』春季特別号に掲載されました。

 これを読んだ大佛次郎火野葦平、長谷川伸などからお褒めと激励の手紙が送られてきます。自信を得た清張さんは、その掲載号を木々高太郎にも送ってみました。するとまた、好意的な手紙が返ってきました。

 木々高太郎が清張さんに寄せる期待は相当なものでした。その期(第25回)の直木賞の候補作に「西郷札」が選ばれるや、選考会において木々氏はかなり高い点を付けます。

 こういった縁で木々とのパイプができた清張さん、どこかの雑誌に紹介してくれるだろうと思い、推理色の強い「記憶」という作品を書いて送ります。それがすぐさま、木々が編集に関わっていた『三田文學』に載ったものですから、清張さんやや戸惑います。そうか、『三田文學』に載せてくれるのなら、と

「同誌の性格に合う小説をと思い、つぎに提出したのが「或る小倉日記伝」である。」(『松本清張短編全集1 西郷札』昭和38年/1963年12月・光文社/カッパノベルス「あとがき」より)

 この作品は予想どおり『三田文學』に載せてもらえ、ひきつづき第28回(昭和27年/1952年・下半期)の直木賞候補に挙がります。

 選考会は昭和28年/1953年1月19日(月)でした。清張さん、わくわくしながら家でラジオを聴いていたんですが、受賞は立野信之『叛乱』との報が流れてきます。ああ、自分の作品は落選したんだな、と清張さんが思うのも当然です。

 ところが、選考会の席上では予想外の事態が起こっていました。冒頭に永井龍男が「或る『小倉日記』伝」は芥川賞で選考するほうがふさわしいと発言、それが受入れられて3日後の1月22日(木)に開かれる芥川賞選考会に回されることが決まっていたのでした。

 当のご本人の知らないうちに、日は流れ22日の芥川賞選考会が開かれます。佐藤春夫川端康成坂口安吾らが評価し、反対派の石川達三舟橋聖一らの意見を押さえて、五味康祐の「喪神」とともに、受賞が決まります。

 清張さんのところには、新聞記者が急行。なんだなんだ、こんな夜に。え? 芥川賞を受賞した? うそつけ。と、事情を知らない清張さん、面をくらいました。

 以上、登場人物たちの著名度も申し分なし、芥川賞や直木賞の“権威”を傷つけるような文脈も見当たらず、エピソードとしてはなかなか面白い。ってことで、文藝春秋が紹介する「芥川賞エピソード史」みたいなものには、たいてい取り上げられて、そう、よく知られた事件になったわけです。

 でも、この一連の事件を、その後の両賞の歩みと合わせて見返してみると、どうしても注目しなきゃならない事項がひそんでいます。「選考委員の立場」ってやつです。

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2008年12月 7日 (日)

「最も直木賞に嫌われた男」コンテスト、栄えある第一位。 第13回候補 長谷川幸延「冠婚葬祭」

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第13回(昭和16年/1941年・上半期)候補作

長谷川幸延「冠婚葬祭」(『大衆文藝』昭和16年/1941年6月号)

 このブログで名候補作を紹介しはじめてから、すでに半年。だがP.L.B.よ、反省したまえ。なぜに長谷川幸延のことを半年間も放ったらかしにしてきたのだ。

 おっしゃるとおりです。今まで取り上げてきたどの候補作家よりも、「最も直木賞に嫌われた男」の称号は、長谷川幸延さんに捧げるべきです。異論なし、異論なし。

 真保裕一ファンの憤慨。伊坂幸太郎ファンの諦観。そういったものに心からの共感を寄せつつも、いや、それよりもっと深い悲しみに暮れた人たちが、かつて日本にいたことを、ワタクシは忘れはしません。長谷川幸延ファンのことです。

 彼らの悲嘆の歴史は第12回(昭和15年/1940年・下半期)に始まり、何度も何度も何度も悪夢のごとく繰りかえされて、戦争をはさんで第31回(昭和29年/1954年・上半期)まで、都合7度。

 回数だけじゃありません。同じく7度のショックを味わった中村八朗ファンに比べて、さらに幸延ファンの傷心の深さに思いを馳せるのには大きな理由があります。多くの回でほとんど受賞目前と言えるほどの高評価を受けていながら、選考委員たちにあと一息の思い切りが足りず、きれいに落とされているからです。こんなにもたくさん「惜しくも落とされた」候補作家は、長谷川幸延をおいて他にいません。

 そのくらいの名候補作家ですから、選考委員のなかにも「コーエン擁護隊」と呼ぶべきグループがありました。その筆頭に位置するのは、まず小島政二郎でしょう。吉川英治もかなり好意的です。戦後では木々高太郎がこれに加わりました。ときどき、片岡鐵兵永井龍男などが援護射撃を放ちます。

 それでもやっぱり受賞の的を打ち抜くことができなかった計7度、10作におよぶ候補作品。そのなかでどれを「名候補作リスト」に入れるか悩んだ末に、幸延さん最初のニアピン、カップすれすれ、スーパーショットを選ばせてもらいました。「冠婚葬祭」です。

 時は第13回(昭和16年/1941年・上半期)。強力な対抗馬は、木村荘十「雲南守備兵」。選考会では、その「雲南」を推す白井喬二と、「冠婚葬祭」を推す小島政二郎とが争います。あえて「もしも」を持ち出すならば、もしもこのとき、日本が戦時下でなかったなら、中国大陸で暴れていなかったら、「雲南」ではなく「冠婚葬祭」のほうが受賞していたんじゃないかと思います。

 惜しくも敗れ去った小島政二郎、その悔しさはずっと胸にくすぶり続けたようです。12年のちの第28回(昭和27年/1952年・下半期)、長谷川幸延「老残」が候補作となったのを目の前にして、政二郎さんガラにもなく懇願口調の選評を書いてしまいます。

「この作品を書き上げた時、作者は私に直木賞候補になるような作を書きましたと云っていました。この言葉から押すと、彼は未だに直木賞に望みを賭けていると思わなければなりますまい。そう思うと、私は笑止でなりません。戦争前の「直木賞」の時、もう少しで授賞作品になりそうになった「冠婚葬祭」を思い出して、(あの時、「婚葬祭」の三作ああ、あと一つ「冠」が出来て、四作完成したら直木賞をやろうと委員会で話がありました。その旨を当時作者へ伝えましたところ、悲しや、現代には「冠」の事実がないと云って慨いていました)この作品に賞を授けて下さい。

 こんな傑作を書いても、今更長谷川幸延でもあるまいという意味で敬遠するなら以後「直木賞」候補作品の中から長谷川幸延君の名を遠慮することにして下さい。それでないと、私は笑止で見ていられません。」『オール讀物』昭和28年/1953年4月号選評「長谷川君のペーソス」より)

 ここまで言っても、なお落選。そればかりか日本文学振興会は、このあとも2回ほど長谷川幸延を候補に挙げちゃいます。いわば小島発言を完全無視。恥をかかされた政二郎さん、その2回では長谷川作品について一言も選評で触れず、ああ、悲哀感たっぷりの背中をワタクシたちに見せてくれました。

 ほんとに、なぜ河内仙介神崎武雄など、新鷹会出身の作家が受賞できているのに、幸延さんが受賞できなかったのか。そして、なぜここまで直木賞に嫌われ続けたのか。不思議です。

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2008年11月30日 (日)

ムッソリーニがそこにいるだけで。ハッピーエンドになった時代もありました。 第9回候補 摂津茂和「ローマ日本晴」

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第9回(昭和14年/1939年・上半期)候補作

摂津茂和「ローマ日本晴」(『新青年』昭和14年/1939年6月号)

 前週の『空飛ぶタイヤ』の項では、いろいろと過去のモデル小説を挙げました。その余韻を残しつつ、第1回第10回(昭和10年代前半)の直木賞候補作を眺めてみると、どうしてもこの小説に目がとまります。「ローマ日本晴」です。

 作者の摂津茂和さんは、ここでは「一般的無名度」を「4」のハイランクにしちゃいましたけど、いや、なかなか著名な方です。「セモア」の語からすぐさま下着を連想するよりもずっと前に、この言葉をペンネームに拝借したその来歴からもおわかりのとおり、昭和10年代の『新青年』読者たちに、ヨーロッパの風を感じさせてくれた小説家。

 って言うより、ゴルフの摂津茂和、摂津茂和といったらゴルフでしょう。ゴルフ文献の蒐集家にして、ゴルフに関するエッセイや読み物のたぐいはきっと山ほど書いています。昭和40年代以降のこの方の著作は、ほとんどゴルフ本一色です。

 なある、小説家として出発したものの、戦争を挟んで次第に創作欲を失い、徐々にゴルフのことを調べるのが面白くなって、そっちのほうにシフトしていっちゃった人なのね。と、ワタクシもこれまで勘違いしていました。いや、そもそも『新青年』に小説を書きはじめるきっかけが、ゴルフだったようで。頭から尾っぽまでゴルフの人だったんですね。

「僕は元来ものを書くことは嫌いではなかった。若し僕に作家の友達でも二三あったら、もう少し前から小説位書いて見る気になっていたかも知れない。

 処が二年程前にスポーツを通じて博文館の水谷準君と知合になった。僕にとって最初の文士の友達である。彼は僕のスポーツ随筆集を読んで、新青年に何か書いてみいと云った。彼もまさか始めから小説のつもりではなかったらしい。

 然るに僕はたちどころに小説を書いて渡した。新青年という雑誌は大衆小説を載せるものと思ったからだ。此の僕の心臓的な早合点が謂わば今日の僕の端緒を作ったのだった。」(昭和16年/1941年3月・東成社/ユーモア文庫『三代目』所収「跋」より)

 きっと「僕のスポーツ随筆集」とは、日本ゴルフドム社が出していたゴルフ叢書あたりを指しているんだと推測します。それにしても、ううむ、さすがゴルフの水谷準、水谷準といえばゴルフ(これは言いすぎか)だな。ゴルフ関連からもしっかりと作家を発掘してくるところなんぞが、生まれついての名伯楽ぶり、お見事なことです。

 『新青年』と摂津茂和と直木賞、のことは以前のエントリー「『新青年』読本全一巻―昭和グラフィティ」でも、軽ーく触れました。第9回で候補に挙がったときはほとんど黙殺されながら、のちに菊池寛が「話の屑籠」でこの人の短篇集『三代目』を大褒めしたことも。

 本名・近藤高男さんが、作家・摂津茂和となって、あれよあれよと評価されて、直木賞じゃないけど文学賞ももらって、それでも今では「ローマ日本晴」はおろか、『三代目』だって容易に読めない哀しさたるや。……賞まであげたんならもうちょっと次世代に対しても責任もちなさいよ、新潮社。

 ええと、「ローマ日本晴」のハナシです。昭和14年に発表された、つまり後にくるイヤーな負け戦への道筋を想像させる時代に発表されたユーモア小説、かつ国際小説です。とくれば、今の世の中、復刻される望みはほとんどありません。まあ、宝塚ブームと、イタリア・ブームと、それから戦前ユーモア小説ブームあたりがまとまって訪れれば、どこぞの出版社が拾い上げてくれるかもしれません、それまで待ちましょうか。

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2008年11月23日 (日)

「文学」なんちゅうブランドから遠く離れているからこそ、余計にこの作品は光輝きます。 第136回候補 池井戸潤『空飛ぶタイヤ』

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  • 【歴史的重要度】…flairflair 2
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第136回(平成18年/2006年・下半期)候補作

池井戸潤『空飛ぶタイヤ』(平成18年/2006年9月・実業之日本社刊)

 ああ、面白かった。と、我々読み手を大満足させてくれただけで『空飛ぶタイヤ』は十分な価値があります。何の賞を受けてなくても。あとは、より多くの人がこの小説を読んで、「やっぱり面白かった」とか「けっ、この劇画チックな文章とストーリー展開にゃ我慢できん」など、いろいろな感想を持たれることを祈るだけです。終わり。

 ところがです。ほんの2年前、『空飛ぶタイヤ』は直木賞の候補になっちゃいました。となれば、やはりこの小説を直木賞の枠組みのなかでも語らざるを得ません。

 じっさい思い返してみると、直木賞の候補になったことが、この小説にまた違った輝きをもたらすんですよねえ。

 そもそも『空飛ぶタイヤ』には、案外この賞の候補の座がお似合いです。なぜなら、直木賞の歴史に流れている血管のひとつに、ピタッとはまるからです。

 「モデルが容易に想定できる小説」って血管です。

 表現を換えるなら、「多くの人の記憶に新しい、ごく最近の事件を題材にした小説」と言っていいかもしれません。

 そんな小説を直木賞では、たまーに候補にしてきました。「大衆小説、それは時代を映す鏡」なんちゅう美しい言説を、よりわかりやすいかたちで残してきてくれました。ときどき思い出したかのように。

 しかし、そういう候補作が受賞にまで至ったケースは、そんなに多くありません。だからこそ「背骨」じゃなくて「血管」のひとつなのです。

 たとえば「有名な身近な事件」じゃなくて、「有名な身近な人物」を扱った受賞作なら、どうでしょう。きだみのるご登場の三好京三『子育てごっこ』(第76回 昭和51年/1976年・下半期 受賞)とか、島田清次郎大活躍の杉森久英『天才と狂人の間』(第47回 昭和37年/1962年・上半期 受賞)ぐらいでしょうか。

 そして「最近の事件」に即した作品が受賞したことなんて、あったでしょうか。むむむ。15年くらい前(発表当時から見て)の二・二六事件を勇気をもって書き切った立野信之「叛乱」(第28回 昭和27年/1952年・下半期 受賞)なんてのがありますね。ああ、発表より1~2年くらい前のポート・モレスビー作戦を半ばまで描いた岡田誠三「ニューギニア山岳戦」(第19回 昭和19年/1944年・上半期 受賞)も、そういえばそうですか。

 他に「これもそうじゃないか」と気づいた受賞作があったら、ぜひ教えてください。

 受賞しなかった作品ならば、もうちょっと思いつきます。

 昭和初期の政治状況=立野信之「公爵近衛文麿」(第25回 昭和26年/1951年・上半期 候補)でしょ。砂川闘争の前夜=赤江行夫『長官』(第36回 昭和31年/1956年・下半期 候補)でしょ。水俣公害=水上勉『海の牙』(第43回 昭和35年/1960年・上半期 候補)でしょ。インドネシア9月30日事件=三好徹『風塵地帯』(第56回 昭和41年/1966年・下半期 候補)でしょ。

 まだまだあるはずです。どれもこれも、新聞やラジオを通して巷におなじみだった事件を入り口にして、想像力をバネに虚構の世界を広げてくれていて、面白い作品ばかりだよなあ。モデル小説、万歳。

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2008年11月16日 (日)

直木賞が生み出した奇抜な建築美、屋根の上の屋根、そのまた上の屋根。 第129回候補 真保裕一『繋がれた明日』

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第129回(平成15年/2003年・上半期)候補作

真保裕一『繋がれた明日』(平成15年/2003年5月・朝日新聞社刊)

 世の中には同じ週刊誌を毎号欠かさず買う人がいます。その中の何割かは、そこに連載されている小説を毎週楽しみに読み進めたりします。ワタクシもいっぱしの小説好きのつもりではいるんですが、とても根気が続かず、その領域には到達できていません。

 昔っから週刊誌に連載小説はつきものでした。それこそ直木三十五さんがバリバリ現役の昔から。大衆文学がもりもり力を蓄えていった背景には、第一に新聞の存在があるわけですけど、大正から昭和初期っていう時期からして、週刊誌が寄与した部分も相当あります。

 その派生として直木賞は誕生しました。大衆文学の世界に新たな風を吹き込む書き手を、っていうのは、当然ゆくゆくは新聞だの週刊誌だのに連載を持ち、老若男女、高学歴・低学歴関係なく、広ーくて薄ーい庶民津々浦々に愛される小説を書いていけるような、そんな作家を発掘する、って未来が念頭にあったわけです。

 こう考えるとわかるとおり、そもそも「週刊誌に連載された小説」なんてものは、直木賞がとやかく口を出す範疇ではありませんでした。つまり、新聞や週刊誌といった媒体は、直木賞を卒業した人たちに提供される舞台だったからです。ん、ちょっと違うな。言い直します。新聞や週刊誌といった媒体に小説を発表できる人たちは、直木賞を卒業したものと見なすのが、この賞の暗黙の建前でした。

 ある時期まで、直木賞の候補作に、週刊誌連載の小説(それを単行本化したものを含む)などまったく登場しません。それは別に、直木賞が週刊誌を無視していたわけじゃありません。卒業生たちに対していちいち、通信簿に評価をつけて手渡す気がなかっただけのことです。

 たとえば、第50回(昭和38年/1963年・下半期)の場で、選考委員の海音寺潮五郎さんが投げかけた疑義があります。

安藤鶴夫氏のような著名で、しかも現在週刊朝日のような大雑誌に小説を連載している人を、選考の対象にすることには、大いに疑義がある、この文学賞設立の目的は、屋上屋を架し、錦上また花を添える底(ルビ:てい)のものではないはずである、将来の選考にも影響が大きかろう、その点を考えてもらいたい。――という意味のことを、ぼくは開会冒頭に一席ぶったが、容れられなかった。」(『オール讀物』昭和39年/1964年4月号選評「痛恨深し」より)

 うおお。「設立の目的」なんて根本的な事柄を一人の委員が持ち出して、あっさり却下されて、粛々と時代に(文春の意向に?)身をまかすところなんぞが、いかにも直木賞っぽいなあ。ともあれ、これが賞設立から約30年後の姿です。

 さらに30年ほど経つと、どうなるか。三つ子の魂などすっかり忘れて、大沢在昌さんが『週刊読売』に1年にわたって連載した『新宿鮫 無間人形』に気前よくぽーんと授賞したりします。誰ひとり疑義など提起することなく。

 そして、真保裕一さんです。人気と実力を兼ね備えながら、老いぼれた直木賞の張り巡らす奇略をうまくかいくぐりおおせた卒業組のひとりです。

 真保さんと直木賞の接触は4度にわたります。作家デビューから8年たってから、『ボーダーライン』(第122回 平成11年/1999年・下半期 候補)や『ストロボ』(第123回 平成12年/2000年・上半期 候補)を候補に選ぶのは、まだギリギリ許容できます。しかし、『週刊現代』連載の『黄金の島』(第125回 平成13年/2001年・上半期)を候補にしたのは、まったく教科書どおりの「屋上屋」です。

 屋上屋は、手がける大工さんにはやり甲斐があるのかもしれませんけど、ぷらっとその建物の前を通る通行人にとっては、滑稽で笑いもの以外の何ものでもありません。

 で、あなた、第129回(平成15年/2003年・上半期)の候補に、『週刊朝日』連載の『繋がれた明日』を持ってこられた日にゃあ。ねえ。屋上屋上屋。

 ……同じくこの時期、そんな奇抜なかたちを強いられた人に、東野圭吾さんがいました(第125回候補の『片想い』は『週刊文春』連載、第131回候補『幻夜』は『週刊プレイボーイ』連載)。ただ、彼はその後、めでたく受賞しましてその建築物は壊されたも同然です。いっぽうの真保さんの場合は、今後もずっと屋上屋上屋は残されたままですもんね。笑いを通り越して、ここまでくると芸術です。

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2008年11月 9日 (日)

世間との折り合いが「受難」を生み出すのだとすると、きっと直木賞も受難のひとつ。 第117回候補 姫野カオルコ『受難』

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第117回(平成9年/1997年・上半期)候補作

姫野カオルコ『受難』(平成9年/1997年4月・文藝春秋刊)

 誤解をおそれず言うならば、この方ほど「誤解」の似合う作家は、そうそういません。似合う、なんて表現は物議をかもしそうだな。もとい、たとえば、鉄はおのれの意志にかかわらず、磁石にくっつくのが世のならいですが、それと同じように、姫野さんにもおのれの意志にかかわらず、なぜか自然と「誤解」にくっついてしまう変な性質がありそうです。

 かく言うワタクシだってきっと、姫野カオルコさんのことを誤解しています。でしょうねえ、だって姫野作品の中では、『ツ、イ、ラ、ク』(第130回 平成15年/2003年・下半期 候補)や『ハルカ・エイティ』(第134回 平成17年/2005年・下半期 候補)などよりも、『受難』こそ断然大好きなんですから。彼女の作品を全部読み通したわけでもありませんし。おそらく読み通したところで、誤解が解ける自信もありませんし。

 ワタクシのハナシはともかくとして、一般的に今のところ、姫野さんにまつわる誤解で最も根強く、また大きいのは、きっとアレですよね。ええ、団だのDだの言うアレです。

 姫野さんが文章を書いてお金をもらう行為を始めた頃に、数年間、その活動の場のひとつは、嗜好の偏ったジャンルの雑誌でした。そのイメージのせいで、まだ姫野作品を読んだことのないまっさらな読者に、よろしくない先入観を与えてしまっていたのだとか、いなかったのだとか。

 まあ、先入観を持たれる作家なんて、姫野カオルコ一人の専売特許じゃないですよね。でも、その引き金を引いてしまったのが、他でもない姫野さんご自身の書いた『ガラスの仮面の告白』(平成2年/1990年5月・主婦の友社刊)だったわけですから、もうこの辺りが、意図せずして誤解を呼び込む作家・姫野カオルコのパワー、フル回転たるところです。

 さらには平成12年/2000年に「私小説タイムストッパー」(『週刊小説』平成12年/2000年19号[10月13日])を発表して、大学生時代にたまたま始めたちょっと変わったバイトみたいなことを、えんえんと何年たっても何十年たっても言われ続けて、うんざりだわ、もううんざりだわ、といった姿勢を表明します(上の作品名から張ったリンクは、姫野カオルコ公式サイトに飛びます。さすがに直接作品ページに張るのはサイトの意図を踏みにじっちゃいそうなので、サイト管理人さんによる作品紹介ページが開くようにしました)。

 さあ、これで「誤解」も収束したのでしょうか。それでもこれは「エッセイ」や「事実体験」じゃなくて、「真実体験」なのだと言って、かたくなに小説家魂を守り抜こうとするところが、誤解の火種を残すことになっていたりして。まあともかく、昔のことは昔のことよ、今はそっとしといてあげなくっちゃ。

 とか殊勝なふりして、今から取り上げようっていうのが、10年も前の『受難』ですよ。おいらにゃ、姫野さんの“いいファン”にはなれそうもありませんや。でもねえ、恋愛だ、人間感情の機微だ、といった薄く広くウケそうな構えなぞはなっから捨てて、ヘンテコリンな設定を自信満々貫いているところなんぞが、ワタクシお気に入りの作品なのです。

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2008年11月 2日 (日)

新進作家のその後の活躍ぶりなんて、そうそう見通せるもんじゃありません。 第101回候補 多島斗志之『密約幻書』

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第101回(平成1年/1989年・上半期)候補作

多島斗志之『密約幻書』(平成1年/1989年5月・講談社刊)

 たとえてみます。候補作家 VS. 直木賞の構図がひとつの勝負だとしたら。……この場合、“直木賞が勝ったなあ、快勝だなあ”と言えるのは、候補作家のデビュー数作目あたりを候補作に持ってきて、作家の将来性を見極めて授賞し、そして期待以上にその作家が縦横無尽の働きをみせてどんどん小説を書き継いでいった例でしょう。ねえ。新田次郎さんとか司馬遼太郎さんみたいに。

 ところが同じ受賞させるのでも、何作も作品を発表してきたような作家に対して、いくらそのときの候補作の出来がいいからといって授賞しても、たいていサポーターからブーイングが上がりますよね。勝負でいうなら、スコアレスドロー、勝ち点1は獲得したけど、どうもスッキリしない引き分けです。

 さらに言えば、こんな例もあります。候補作家の力量を見定めることができず、手近にある候補作だけを読んでボロクソの酷評。しかしながら、のちにその作家が見事、受賞作家と同じか、それ以上の働きをしてしまうってことが。……これを普通にはたから見ると、“わあ直木賞負けちゃったね、惨敗、大惨敗だね”と言われたりします。

 おや。そう考えると直木賞は、引き分けか負け試合ばっかりだな。とか思っても、まあ抑えて抑えて。今日の主眼はそういうハナシじゃありませんので。

 多島斗志之さんは、直木賞に対して勝利をおさめることのできた多彩かつ有能プレーヤーのひとりです。

 はじめての候補作『密約幻書』は、多島さん6冊目の小説でした。ユーモア小説の多島健の時代はこのさい置いとくとして、ほお、国際謀略ミステリーの新しい息吹きが出てきたなあ、程度のことで終わっていれば、その落選もこんなに“直木賞惨敗感”を煽ることにはならなかったんですが。

 この際の勝負には、多作か寡作かはあまり影響を及ぼしそうもありません。たとえば多島さんは、おおかた、作家歴に比べて(あるいは、現代の出版界のなかでは)寡作だ、といった評価があるわけですけど、平成1年/1989年の『密約幻書』以来、約20年間で新作の単行本が15作品ですか。着実な歩みじゃないですか。やっぱ多島さんの勝ちです。

 で、こういった歩みをさらに追って考えてみたいなと思ったときに、一つの策として、一人の作家の文庫本……とくに文庫に載っている解説を順に読んでいく手が思いつきます。

 多島さんでいうならば、単著の文庫本は今までのところ18冊。いや、「解説」って観点ですもん、『〈移情閣〉ゲーム』の講談社ノベルス復刊も含めたいところなので、全部で19冊。ちなみに、こんな方々が多島斗志之についてああだこうだと解説を書かれてきました。

『龍の議定書(プロトコル)』昭和63年/1988年6月・講談社/講談社文庫
 →「解説」香山二三郎(p.374~380)
『聖夜の越境者』平成1年/1989年9月・講談社/講談社文庫
 →「解説」関口苑生(せきぐち・えんせい)(p.296~302)
『CIA桂離宮作戦』平成2年/1990年8月・徳間書店/徳間文庫
 →「解説」関口苑生(p.277~281)
『金塊船消ゆ』平成3年/1991年2月・講談社/講談社文庫
 →「解説」西木正明(p.333~335)
『バード・ウォーズ―アメリカ情報部の奇略』平成4年/1992年6月・文藝春秋/文春文庫
 →解説なし
『密約幻書』平成4年/1992年7月・講談社/講談社文庫
 →「解説」小梛治宣(おなぎ・はるのぶ)(p.317~322)
『クリスマス黙示録』平成8年/1996年11月・新潮社/新潮文庫
 →「解説」三浦浩[ 作家 ](p.344~350)
『少年たちのおだやかな日々』平成11年/1999年8月・双葉社/双葉文庫
 →解説なし
『不思議島』平成11年/1999年1月・徳間書店/徳間文庫
 →「解説」長谷部史親[ 文芸評論家 ](p.250~254)
『マールスドルフ城1945』平成12年/2000年2月・中央公論新社/中公文庫
 →「解説」山前譲(p.416~422)
『海賊モア船長の遍歴』平成13年/2001年3月・中央公論新社/中公文庫
 →「解説」日下三蔵(p.429~434)
『症例A』平成15年/2003年1月・角川書店/角川文庫
 →「解説」信田さよ子[ カウンセラー/原宿カウンセリングセンター所長 ](p.569~568)
『追憶列車』平成15年/2003年8月・角川書店/角川文庫
 →「解説」杉江松恋(p.324~328)
『離愁』平成18年/2006年1月・角川書店/角川文庫
 →「解説」北上次郎(p.352~356)
『不思議島』平成18年/2006年5月・東京創元社/創元推理文庫
 →「解説」千街晶之(p.241~247)
『二島縁起』平成18年/2006年7月・東京創元社/創元推理文庫
 →「解説」中辻理夫(p.301~307)
『海上タクシー〈ガル3号〉備忘録』平成18年/2006年10月・東京創元社/創元推理文庫
 →「解説」杉江松恋(p.301~308)
『白楼夢―海峡植民地にて―』平成19年/2007年5月・東京創元社/創元推理文庫
 →「解説」日下三蔵(p.361~367)
『〈移情閣〉ゲーム』平成19年/2007年9月・講談社/講談社ノベルス(綾辻・有栖川復刊セレクション)
 →「解説―移窓換景、触景生情」佳多山大地(かたやま・だいち)(p.308~317)

 ほお、実作家で解説を寄せたことのあるのはお二人かあ。そして、その人選が西木正明三浦浩とは、なるほどねえ。意外性はないけど妙に納得だなあ、などと思うわけですけど、まずは今日の名候補作『密約幻書』に付けられた解説に注目してみましょう。書き手は、若き(?)社会保障論の学者にして文芸評論家、小梛治宣さんです。

「本書をお読みになればお分かりのように、直木賞にノミネートされるにふさわしい、あるいはそれ以上の上質で上品なエンターテインメントである。多島斗志之の持味である濃密なプロット、スピーディな展開、歴史上の「謎」といった要素がふんだんに盛り込まれ、しかもそれが理知的な文章で仕上げられている。」

 文庫解説にふさわしい、端的でド直球でまっとうな評価です。『密約幻書』の面白さは、ほとんどこれで言い表されていると思います。直木賞候補になった平成1年/1989年の段階での面白さ、という意味では。

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2008年10月26日 (日)

人情味たっぷりの鎌倉アカデミアは、のちの“庶民派作家”を生んだりもしました。 第96回候補 小松重男「鰈の縁側」

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第96回(昭和61年/1986年・下半期)候補作

小松重男「鰈の縁側」(『小説新潮』昭和61年/1986年12月号)

 西村望さんに『虫の記』があるように、小松重男さんにはエッセイ『猫の蚤とり日記』(平成4年/1992年1月・新潮社刊)があります。

 もちろん、猫の蚤とりのことを経済的でかつ健康にもよい狩猟スポーツの一種、と主張する小松さんの意を汲んで、惜しげもなく披露される毎日の蚤の収穫数を追っていくのが正しい読み方でしょう。でもほら、それを省いた部分、一般的なエッセイ部(って言う方も妙ですか)からも、じゅうじゅう小松さんの人となりが知れるのが、ありがたい本です。

 「普通の人みたいな」名前で時代小説を書き続ける小松重男さんは、第96回(昭和61年/1986年・下半期)の「鰈の縁側」で直木賞候補、それから1年半、今度はがらりと趣を変えて昭和初期を舞台にした「シベリヤ」で再び第99回(昭和63年/1988年・上半期)の候補となり、しかもどちらも『小説新潮』掲載の中・短篇、ってところから直木賞に注目する読者たちを驚かせました。

 そして実は、このなりゆきを影で操っていた真犯人が『猫の蚤とり日記』で明らかにされているのです。そう、それは、小松家の庭に住みついていた野良猫のフウちゃん。彼女はその少し前、深夜暴走族のクルマにはねられて他界してしまうのですが、自分の子孫を大切に育ててくれている小松家にあの世から恩返しを施してくれた、らしいです。

昭和六十二年

 去年の六月四日から書いて某誌の十二月号に発表した短篇が初めて直木賞候補になったが、おおかたの予想どおり落選した。それでも家人はよろこんで、どうもフウちゃんの子や孫を内猫にしてから我が家に運が向いてきたようだ、きっと“あの世”のフウちゃんが阿弥陀様に頼んでくれたに違いない、などと唯物弁証法に依る創造を標榜している劇団の古手女優とも思えぬ台詞まで口走る始末。」(「3 獲物はカードに貼り付けて」より)

 『猫の蚤とり日記』を読んでいると、“家人”こと小松さんの奥さんのことが、ちらちら出てきます。この掃除大好きな奥さん、昭和32年/1957年にさる劇団の若手メンバー同士でご結婚されたという奥さん、テレビドラマの仕事で高知へロケに出かけられたりする奥さんのことも、何だかもっと知りたくなりますけど、まあそれは置いといて、それ以外に思わず興味をそそられた部分があります。

 それは「9 讃 鎌倉アカデミア」なる章です。

 ん? 鎌倉アカデミア? その名を聞くとつい条件反射で沼田陽一、と口走りそうになる身としては、ああ、小松さんも鎌大出身だったのかあ、とその記述に目がとまります。そして、その文章から伝わってくるものに、直木賞候補作「鰈の縁側」の世界がバチーンと重なってくるのでした。常に年長者を敬う小松さんの生き方、思想です。

「私は(引用者注:鎌倉大学、のちの鎌倉アカデミアの)二期生だが、一期生にはもうすでに他の大学を出たような年長者もおおぜいいたし、同期生にもいた。ここで十六歳の私が生意気だったら、まもなくピークに達した戦後インフレーションの荒波に打ち砕かれて、しょんぼりと新潟へ逃げ帰らざるを得なかったであろう。

 しかし、私は年長者の同期生や一期生を心から尊敬して接したから、その人たちが面倒を見てくれた。」(「9 讃 鎌倉アカデミア」より)

 そうだよなあ。小松重男といえば、英雄豪傑の類いじゃなくて市井に生きる、どこにでもいるような人間ばかりを書き続ける作家ですけど、そのなかでも「鰈の縁側」に登場する松平外記の人物像は、まさに、小松さんのこんなエッセイに重なり合うんだよなあ。

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2008年10月19日 (日)

現実の事件をモデルにしながら、いや、作家の想像力が駆使された犯罪小説だもの。一粒で二度おいしい。 第84回候補 西村望『薄化粧』

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第84回(昭和55年/1980年・下半期)候補作

西村望『薄化粧』(昭和55年/1980年8月・立風書房刊)

 ああ、緒形拳さんご逝去。ご冥福をお祈りしつつも、うちのブログでは映画「薄化粧」のことなど、まったく取り上げる気が起こりません。すみません。

 でも、小説『薄化粧』ならばハナシは別。もう断然、直木賞の名候補作のひとつとして、勢い込んで光を当てたいところです。

 まずは作者をご紹介します。

 正真正銘、血を分け合った兄弟が、二人そろって作家になり、二人そろってたびたび直木賞の候補に挙げられ、その回数も仲良く三度ずつで、そして二人そろって“受賞ならず”の報ばかり聞き続けた、そんな兄弟は今のところ、西村望さんとその弟しかいません。ワタクシの知るかぎり。

 ただし、直木賞の舞台に引きずり出されたのは、弟さんのほうが先です。そういえば直木賞ではなぜか、弟が先、のルールがありまして、と言っても他にはたった一組ですけど、東光日出海の今さん兄弟も受賞は弟のほうが先です。あ、変則なところでは、赤瀬川隼さんも、自身が直木賞候補になる前にすでに、弟さんが芥川賞とられてましたなあ。年を重ねて輝きだすアニキたち。頼もしいぜ。

 そんなアニキたちの中でも、よりダークな作風をひっさげて現れたのが西村望さん、またたくまに犯罪小説界において重要な一角を占めるに至りました。著書は昭和40年代にすでに、四国・瀬戸内海あたりの紀行ものや観光案内ものが数冊あるらしいんですが、最初の犯罪小説は、昭和53年/1978年の『鬼畜』ってことになります。それからダダダダッと立て続けに数作品を発表。それら作家・西村望の出発は、立風書房でした。

 ですので、直木賞マニアにとって立風書房とは、みつはしちかこ「小さな恋のものがたり」じゃなくて、断然、西村望の初期作品によって、知られています。

 その望さん初期作品、……おそらく立風の『鬼畜』(昭和53年/1978年5月刊)にはじまり『水の縄』(昭和53年/1978年10月刊)、『蜃気楼』(昭和54年/1979年5月刊)、『火の蛾』(昭和55年/1980年3月刊)を含めて選評で言及したのは、時代小説の御大、村上元三翁です。言及はわずかなんですけどね、それでも「村上選評」の特徴の一端が、隠し切れずに現れちゃっていますよ。

「この作者が書いている一連の犯罪物の中では出来のいいほうだが、読み終って黒いしこり(原文傍点)のようなものしか残らない。」『オール讀物』昭和56年/1981年4月号選評「中味の濃い選考会」より)

 「村上選評」の特徴とは何か。……それは彼が推理小説やSFを評するときにとくに顕著に出るんですけど、選評の行間に「私は小説に貼られたレッテルや外見だけで酷評しているのではない。日頃からよく、そこら辺のジャンルの小説を読みこなしているからこそ、アラが見えるのだ」って感じを滲ませる戦略のことです。あれですかね、外野から「時代小説で生きてきた奴なんぞに、推理小説やSFがわかってたまるか」と野次が飛ぶことがわかっていて、それを未然に防ぎたい思いが、ついつい出ちゃっているんでしょうか。

 でね。望さんの小説に対しても、ほら、誰も聞いていないのに、「この作者が書いている一連の犯罪物」なぞと書くことで、『薄化粧』以外の諸作品も踏まえた上で選考してるんだぜ、と胸を張っていらっしゃいますぞ。うん、それはそれで、えらい。候補者の過去の作品なんか全然読まないどころか、候補作すら読まないで選考会に出てくる人だって、いるとかいないとか、言われている中では。

 それから後、望さんの候補作は、『丑三つの村』(第86回 昭和56年/1981年・下半期)や『刃差しの街』(第99回 昭和63年/1988年・上半期)が挙げられました。『刃差しの街』だけはちょっと作品の毛色が違いますけど、それでも、とことん村上元三さんは、望作品を認めようとはしなかったようです。

 認めなさぶりにも容赦がありません。『薄化粧』に対しては「なんの目的もなく、平気で妻や子や女を殺して逃げまわる殺人者を描いた作品を、直木賞の対象にはしたくない。」と言い、『丑三つの村』に対しては「人を殺して廻る小説では、賞の対象にはならない。」とバッサリ。

 そうです。これほど一部の読者に根本から拒否反応を起こさせたことが、じつは望作品の栄光でもあったのでした。

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2008年10月12日 (日)

自意識過剰な劇作家のたまご。細川ガラシャに救われて、謙虚なおばあさんになりました。 第79回候補 若城希伊子『ガラシャにつづく人々』

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第79回(昭和53年/1978年・上半期)候補作

若城希伊子『ガラシャにつづく人々』(昭和53年/1978年5月・女子パウロ会刊)

 選考委員と候補者が、すでに顔見知りだったり、仲がよかったり、はてまた、べったりと師弟関係だったり、そんな組み合わせはもちろん今でもあります。かつてエントリーで挙げましたけど、最近では北方謙三×東野圭吾、なんて例もありました。そう、顔見知り同士が選考し選考される、って構図は、直木賞の十八番芸のひとつなんです。第1回受賞の川口松太郎のときからすでに。

 そんな観点にふさわしい人選なのだろうか、と疑いつつ、今日の主人公に選んだのは、若城希伊子さんです。お相手は川口松太郎さん。まさに真の直木賞受賞者らしく、生前に一時代を築き、没後急速に忘れ去られるという王道を堂々と驀進しています。

 松太郎さんといえば、ああ、その長い選考委員在任中に、いろいろなことがありました。

 第42回(昭和34年/1959年・下半期)。同じ久保田万太郎門下生で顔なじみだった戸板康二の作品を候補として批評せざるをえなくなって、あえて厳しい目で向かったあの日……。

 第40回台~第50回台ごろ。夏目千代大屋典一来水明子江夏美子草川俊と、強く推した作品がことごとく選考会で受け入れられず、佐藤得二のとき(第49回 昭和38年/1963年・上半期)にようやく全会一致で自分の推薦が認められて、喜んだあの日……。

 第70回台後半。「大して作品を読みもしないくせに偉そうな選評を書く選考委員」の一人として、筒井康隆の『大いなる助走』のモデルにされたあの日……。

 そして同じ頃。最長老となって、もはや自分は長く選考委員を続けるべきじゃない、と語り自ら退いたあの日……。

 辞める一年前、第79回(昭和53年/1978年・上半期)、78歳のときの選考会でした。松太郎さんは若城さんの作品を選考することになります。もしかしたら、松太郎さんがこの『ガラシャにつづく人々』を候補に推挙したのかもしれませんが、確証はありません。

 若城さんはそりゃ多才な方です。古典研究、劇作、創作などそれぞれの分野で、決して多くはないけど着実に作品を遺されています。そのそれぞれに、師と呼ぶ人をお持ちでした。慶應のまなびやでは折口信夫、新劇を志してのちは岡田八千代、そして昭和40年代以降、川口松太郎と来ます。

 ってことで、若城さんには『空よりの声―私の川口松太郎』(昭和63年/1988年11月・文藝春秋刊)なる著作があるわけです。とにかく松太郎の激動の人生を賞賛する本です。何やかにやと悪名のあったらしい松太郎のことを、そうか、弟子と自負する方はここまで良く描くものなのか、と知れて、それはそれで興味ぶかい内容となっています。

 いやいや、弟子とか師匠とか言う前に、そもそも、何事も刺激的にしない、おだやかでやさしげで謙虚で、「人はみな善なり」っぽいこのテイスト。まったく若城希伊子作品そのものなんですよねえ。

 告白しますと、ほんとはそういう世界、ワタクシ苦手なんです。たとえば『空よりの声』だけでなく、それとへその緒でつながっている『ガラシャにつづく人々』も、そうとう苦手な部類の小説です。

 だって、あなた、版元が女子パウロ会ですよ。昔使われていた書籍コードでは0093-786188-6100で、出版社番号は日本キリスト教書販売のものらしいですよ。もうそれだけで食わず嫌いを催させるパワー十分、じゃないですか。

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2008年10月 5日 (日)

ホラー小説の隠れた名篇。どだい、込められた怨念の深さが違います。 第70回候補 安達征一郎「怨の儀式」

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第70回(昭和48年/1973年・下半期)候補作

安達征一郎「怨の儀式」(『文学者』昭和48年/1973年8月号)

 2週つづけて同人誌のハナシは、さすがにクドい。

 たしかに。タイミングからすれば、第61回(昭和44年/1969年・上半期)~第70回(昭和48年/1973年・下半期)期はSF小説大成長、なんて視点でとらえて、広瀬正さんの諸作品でも取り上げるのが筋だと思います。でも、ほら、広瀬さんのことは他にいろんな方が紹介されてますから。いまさらうちがしゃしゃり出る勇気はありません。

 そんな、まさに“時の人”広瀬正を差し置いて、今日の話題は安達征一郎さん、ひとり占めで行きます。

 でも、同人誌『文学者』の話は、以前のエントリーでご紹介しましたしねえ。今日は同人誌ネタは封印ってことで。また別の角度から攻めていきます。

 たとえば、南洋の諸島から生まれ出た直木賞候補作家といえば、古いところでは大屋典一さんがいます。のち一色次郎の筆名を使い、そのふるさとについて数多く作品を残してくれました。ただし、大屋さんの2つの直木賞候補「冬の旅」と『孤雁』は、南洋とは全然関係ありません。残念ながら。

 石野径一郎さんなんて方もいました。その候補作は『沖縄の民』って、もうこの書名が表わすとおり、全篇、沖縄人のたどらされた苦い運命が綴られています。と、こう来れば、あまたある沖縄文学の轍を踏んで、石野さんの作品も、芥川賞の候補になってよさそうなもんですが、そうはさせじと、こっそり直木賞が手を出しました。ふふ、さすが直木賞だ。よっ、“何でも喰い”の大風呂敷。

 その系統を継いで、“本土とは別の文化圏をもつ南洋諸島を描いた作品”って観点で見るならば、『沖縄の民』の次にくるのは『シュロン耕地』でしょう。斎藤芳樹さんが放ったシブーい一作です。斎藤さんは、昭和58年/1983年に胡桃沢耕史までもがついに直木賞をとるにいたって、『近代説話』同人として最後まで置いてけぼりを食らわされたかたちになった、恵まれない作家のひとりですが、そうかあ、『シュロン耕地』の放っていた土着性むんむんのあの熱気。たしかに読む人を選びそうな独自臭だったもんなあ。

 と、このハナシの流れで一気に安達征一郎さんを語りたいところではあります。直木賞候補の系譜を正しく語るのであれば、それが最良の手順でしょう。

 だって、『日出づる海 日沈む海』(第80回 昭和53年/1978年・下半期 候補)なんて、もう正面から見ても裏返しても360度、南洋小説ここにあり、の構えですもんね。今回取り上げる「怨の儀式」にしたって、そうです。作品の毛色は違えど、本土から虐げられ、そしてそれに対して牙を剥く南洋民族のすがた、ってふうにとらえられなくもありません。

 ええ、そうなんですけど、ワタクシが「怨の儀式」に惚れた理由は、別のところにあります。これって、伝奇小説の系統、ホラー小説の一員として置いてみても、案外しっくり来るからなんです。同時代の半村良『黄金伝説』や藤本泉『呪いの聖域』ほど強烈ではないにしても。

 アンソロジストのみなさん。伝奇、ホラー、はてまた孤島小説の傑作選なんかを編む際は、ぜひ「怨の儀式」も忘れずに。収録候補に加えてもらえますと嬉しいです。

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2008年9月28日 (日)

面白い小説を書くのは恥。……そんな同人誌界の風潮に敢然と立ち向かう同人誌作家。 第55回候補 北川荘平「白い塔」

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第55回(昭和41年/1966年・上半期)候補作

北川荘平「白い塔」(『VIKING』182号[昭和41年/1966年1月])

 そうそう、そうなんです。推理小説ブームの次にくるのは、同人誌のにぎわいです。

 『小説会議』や『近代説話』みたいなセミプロたちの活動もありました。『断絶』『文学61』『炎』『暖流』なんて、文学史をたどっていても、ちょっとやそっとではお目にかからないマイナー系もガンガン登場しました。まったくの百花繚乱です。

 そのなかでも伝統もあって大所帯な雑誌は、商業誌レベルに有名です。たとえば、丹羽文雄率いる『文学者』、木々高太郎率いる『小説と詩と評論』、小谷剛率いる『作家』あたり。おっとっと、それに『VIKING』。前クール田中ひな子嬢の項でも触れましたけど、そりゃあこの同人誌が直木賞に残した足跡は鮮烈です。

 そして『VIKING』と言えば、富士正晴? 島尾敏雄? 小島輝正? いやいや、断然、北川荘平その人でしょう。直木賞視点で見れば。

 今日は荘平さんのことに触れるんですが、『樹林』誌の511号[平成19年/2007年8月号]に載っている「追悼北川荘平特集」は、とりあえず置いときます。不勉強極まりないことに、いまだ未見なものでして。おお、恥ずかし。

 それでもワタクシ、告白しますと荘平作品は相当好きです。

 処女作の「水の壁」(第39回 昭和33年/1958年上半期 候補)。ははあ、さすが同時に芥川賞と直木賞の候補になったことだけはあるぜ、読み応えあるなあ。なぞと思っていたら、「企業の伝説」(第43回 昭和35年/1960年上半期 候補)はもっと面白い。さらに「企業の過去帳」(第54回 昭和40年/1965年下半期 候補)、面白さ全然衰えなし。続く「白い塔」、同人誌作家らしからぬ(?)ストーリーテリングぶり高水準でキープ。そして、もっと荘平作品を読みたいわい、と思っても、これらを収録した小説集に併録されているものは別として、どうやら他に単行本化された小説は見当たらず、っていう愕然たる現実が襲いかかってくるわけです。

 おいおい、久坂葉子の全集なんてものがあるのに、なんで北川荘平の小説集が昭和56年/1981年を最後にひとつも出ていないんだ。などと言うと久坂ファンにブチ切れられそうですけど、荘平作品の再評価に向けて、編集工房ノアあたりの動向に期待するところ大。

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2008年9月21日 (日)

推理小説ブームが始まりました。そして直木賞の場にも、こんな代表的な長篇が現れました。 第41回候補 土屋隆夫『天国は遠すぎる』

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第41回(昭和34年/1959年・上半期)候補作

土屋隆夫『天国は遠すぎる』(昭和34年/1959年1月・浪速書房刊)

 昭和34年/1959年からの5年間について、ついつい前クールでは読み飛ばされること承知で、来水明子さんなんちゅう玄人好みの作家を取り上げてしまいました。でも普通に考えれば、この5年間の候補傾向は、断然、“推理小説”色に彩られています。

 直木賞の舞台にのぼらされた、ああ、数々の推理小説たち。

 推理ファンにとってはキラ星に見える戦後五人男も、まるで直木賞からは無視されます。おっと、その中でただ一人、昭和31年/1956年になってようやく候補になった島田一男さんも、木々高太郎先輩から「こんなものを推理小説の代表ととられるのは困る」みたいに迷惑がられて、そうだよね、そうだよね、しょせん木々さんは“文学”志向だもんね、と推理ファンはますますイジけさせられました。

 それが第39回(昭和33年/1958年・上半期)に多岐川恭さんが『氷柱』で颯爽と登場する辺りから、様相は変わっていきます。もちろん、その変容をもたらしたのは、松本清張さんの『点と線』(昭和33年/1958年)の大ヒットです。そして、江戸川乱歩賞の公募化で、仁木悦子さんや多岐川さんなどの実力者がドドッと出てきたことです。

 この推理小説の疾風はやがていったん収まり、直木賞の世界のなかでは、次に「同人誌」の時代がやってきます。その嵐が去るまでに、直木賞の網にひっかかった推理小説は、多岐川さんの短篇集(その実、そのなかの短篇3つ)と、戸板康二さんの短篇、黒岩重吾さんの書き下ろし長篇と、この3つだけでした。

 嵐の最中、なにせ水上勉さんが“脱・推理”をめざして書いた「雁の寺」が、首尾よく受賞しちゃったもんだから、のちにいたるまで、推理作家が何度か候補になっては撃沈し、推理ものから離れて直木賞をとる、っていうパターンが何回かくりかえされ、“推理小説では直木賞はとれない”なんていう、真実みたいなガセネタみたいなものが語られ始めたりするわけです。

 そしてこの水上さんの足跡は、また違った意味のパターンも物語っています。「長篇の推理小説は、どうも分が悪いぞ」っていう教えです。そうです、この時期、直木賞選考委員に認められた長篇推理は、黒岩重吾さんだけで、あとは全滅。水上勉さんの落選(長篇)・落選(長篇)・受賞(短篇)の軌跡は、じっさい、後の時代の三好徹さんや陳舜臣さんなどに、しっかり受け継がれました。

 で、今回の名候補作『天国は遠すぎる』は、長篇です。多岐川さんが第40回(昭和33年/1958年・下半期)に、推理小説久しぶりの直木賞受賞を果たして乱歩さんニンマリするなか、続いて候補になった長篇です。でもまあ、推理小説受難の頃ですからね、選考委員たちはしれっとスルーしています。まるで推理小説なんて眼中にありません。

 と思ったら、いや、そんなこともないんですよ。『天国は遠すぎる』はしっかりと、直木賞の歴史に、推理小説として楔を打ち込んでくれた作品なんです。

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2008年9月14日 (日)

山本周五郎とのシャンペン。そして小野田寛郎の手記。おお、何たる奇縁。 第40回候補 津田信『日本工作人』

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第40回(昭和33年/1958年・下半期)候補作

津田信『日本工作人』(昭和33年/1958年10月・現代社刊)

 前回ご登場の飯沢匡さんと、津田信さんには共通点があります。

 いや、二人だけの共通点ってより、近現代の日本には(そしてきっと世界中にも)腐るほど、同じような方はいるでしょう。どんなことでも命名したがる評論家・大宅壮一さんは、そんな人々を「落下傘部隊」と呼びました。

 つまり彼らは、元・新聞社勤務です。記者生活をある程度送りました。その間に創作物で名を知られるようになり、のちに退社して文筆の道に進んだ人たちです。

 だからといって、割合として作家のなかには、新聞・雑誌の記者出身の人が多い、などと言うつもりはありません。たぶん、そんなことなどないと思うからです。ただ、直木賞っていう狭い枠組みの中でなら、案外、取り上げてみるべき視点かもしれませんよ。だってねえ、菊池寛佐佐木茂索の経歴をひっぱり出すまでもなく、文藝春秋そのものが、作家とジャーナリストの混合みたいな集団ですから。

 そんな津田さんです。でも、ワタクシも詳しくは存じ上げません。しかしみなさんご安心ください。津田さんのことを取り上げた神奈川県・二宮町図書館『図書館だより』13号[平成17年/2005年1月]がネットでも読めるのです。えらいぜ、二宮町。

 ふむふむ。そうですか、『秋田文学』でのお仲間、千葉治平さんの直木賞受賞に刺激を受けて、新聞社をお辞めになったのでしたか。ふむふむ、退職後はしばらく小説が書けなくなり、ジャーナリズムの世界で身過ぎ世過ぎを余儀なくされていたのでしたか。

 もしかしたら津田さんも、中村八朗評するところの小泉譲さんと同様、なまじ芥川賞とか直木賞とかに目を付けられてしまったせいで、大きな回り道をさせられたのかもしれません。そこからふっきれたのか、昭和50年代にいたって再び小説を書き始めます。せっかく、さあこれからって時だったのに。58歳での死は、早すぎるし心底惜しまれる。

 芥川賞の選考委員には「これは中間小説だ」と言われ、かたや直木賞の連中には「これは純文学だ」と弾かれて、なんだか毬のように弄ばれた感すらあって、可哀相すぎるよ、津田信さん。要は、これら二つの賞の枠に入り切らなかっただけなんでしょう。作品の良し悪しとは関係なく。

 両賞での候補は、都合8度にも及びました。さて、今回取り上げる名候補作『日本工作人』は、その中でも唯一の長篇。しかもこの小説、作品内容とは別のところでも、いろいろエピソードを生み出した“奇縁”の作品なのでした。

 たとえば、同人誌に連載の途中で一度、直木賞の候補になり、その後完結して単行本化されてから再び候補になった、ってのもその一つです。これは第35回(昭和31年/1956年・上半期)、第36回(昭和31年/1956年・下半期)の赤江行夫さん『長官』と、ほぼ同じです。ただ、『長官』とは違って、『日本工作人』は2度の候補とも強力に支持してくれた選考委員が一人いました。

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2008年9月 7日 (日)

ファンタジーかお笑いか。……お笑いですけど、それが何か? 第29回候補 飯沢匡「腸詰奇談」

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第29回(昭和28年/1953年・上半期)候補作

飯沢匡「腸詰奇談」(『別冊文藝春秋』32号[昭和28年/1953年2月])

 問題です。『別冊文藝春秋』がこの世からなくなっても直木賞は続けていかれるでしょう。では逆に、直木賞がなくなったら、果たして『別冊文藝春秋』は一人で立っていかれるでしょうか。

 正解は知りません。にしても、あの中途半端な立ち位置を保持したまま、世知辛い資本主義社会でいまも残っている姿が、けなげだ。素晴らしい。がんばれ、『別冊文春』。

 なぜか一つの出版社に似通った路線の雑誌が二つあります。片や部数7万部、中間雑誌界でもトップセラーの地位を守っているのに、片や部数1万部ちょい。心配と不安の入り交じる低空飛行。『新潮』とか『文藝』とかと大差ありません。そのくせエンタメ誌の顔をしています。

 そんな『別冊文春』は、創刊が昭和21年/1946年。最初の頃は、すでに名の売れた大家とか純文学作家とかに誌面を提供して、まさに誌名の通り、『文藝春秋』本誌の文芸欄を拡大してそのまま雑誌にしちゃったようなものでした。芥川賞や直木賞をとったような人が、あとで作家生活で食いつないでいくときのための舞台をつくってあげたわけであって、それはそれ、受賞者を投げ捨てにしないこの出版社の、えらいところでもあります。

 それから、時流は中間小説大はやりだあ、の線路にのって、ゴッタ煮で何でもありの娯楽誌『オール讀物』がひた走る中、でもよ、あんなマンガだの下品な読み物だのが混じった低級雑誌なんて買えるか、という良識派のために、もう一車両、『別冊文春』もガガーッと疾走しました。

 そうはいっても、新人作家やら、直木賞をもうじきとりそうな人々のテリトリーは、すでに『オール讀物』が提供していたので、『別冊文春』のほうはしばらく、そんな連中にはちと敷居の高いハイグレード(?)雑誌だったわけです。

 とか言っているうちに、直木賞がぐんぐぐーんと有名になるにつれて、出版社にとっては、直木賞受賞者はもちろんのこと、直木賞をとる前の、初々しい作家の作品でも客がとれるようになっていきます。それまで“候補作製造マシーン”としての機能は、芥川賞なら『文學界』、直木賞なら『オール讀物』と相場が決まっていました。そこに『別冊文春』が割り込んで、直木賞なら『別冊文春』に発表しなきゃ駄目だよ、ってなふうになるのは昭和40年代以降のことです。

 あのね、これって、たまたま、じゃないんですよ。ワタクシ一人の邪推でもないんですよ。

 当時の『別冊文春』は、『文學界』の編集部が兼務して編集していました。とくれば、その営業的編集戦略もおたがいに何らか重なり合うはずです。“候補作製造マシーン”化もそのひとつ。芥川賞と直木賞が、作家が頑張って作品を書く格好の目標であることを最大限に活用し、自らの雑誌を勢いづかせるために、うちの雑誌に書けば候補の近道、っていう看板をおったてた豊田健次編集長の功績は、そりゃあ尋常じゃありません。

          ○

 ええと、前置きが長くなりました。さて、今回の名候補作です。「腸詰奇談」です。

 この作品が載った頃の『別冊文春』はまだ変容前です。その面からして、当時としてはそうとう異色です。ちなみに同誌が生み出した直木賞候補作は、これが第一号でした。

 作者の飯沢匡さんは……有名人ですから、今さらここでご紹介することもないでしょう。劇作、とくに喜劇において一家をなし、自分で書くだけじゃなくて演出もこなし、途中ちょこちょこっと小説も書き、ロマンスグレーなる和製英語を流行らせ、「怒庵」と綽名された父の血を受け継いで社会風俗に対する怒りの雑文を書き続けた、そんなお方です(ちょっと端折りすぎですか)。

 「腸詰奇談」は、いわゆる“諷刺”もの。年老いた首相の身に起きた異常事態、それはある朝起きたら、なんと自分の腸が、腸詰め(ソーセージ)になっていた、ってところから始まる、あれやこれやの珍事態が繰り広げられます。

 古いアタマの持ち主でも、ああこれは諷刺だなと簡単にわかる“政治諷刺”。どうですか。直木賞では分の悪いユーモア小説類の中でも、いかにも“昭和20~30年代文春的ユーモア”満点じゃないですか。

 ただ、選考会では否定されちゃいました。そうか、直木賞の法則からすれば、“何が何をどういうふうに諷刺したものか、はっきりとわからないと高点を得られにくい”んですもんね。飯沢さんのユーモア感覚は、ちょっと飛びすぎてましたかね。

 ワタクシは好きです。この“飛びさ”加減が。

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2008年8月31日 (日)

戦争物です。軍人物です。でも、どこに面白さを感じるかは読み手次第です。 第12回候補 伊地知進「廟行鎮再び」

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第12回(昭和15年/1940年・下半期)候補作

伊地知進「廟行鎮再び」(『オール讀物』昭和15年/1940年10月号)

 元・銀行マンが、金融界を舞台にした小説を書く。元・旅行代理店空港勤務の人が、空港を舞台にした小説を書く。……そして戦前には、元・軍人が戦線を舞台にした小説を書いていた。うん、何の不思議もない展開です。

 元・陸軍歩兵大尉、伊地知進さん。昭和10年台、大衆文学陣営でかなり期待された新進作家です。第12回(昭和15年/1940年・下半期)、選評を読むかぎりでは、村上元三じゃなくてこの伊地知さんの「廟行鎮再び」が受賞に決まったとしても、おかしくない成り行きだったようです。

 伊地知さんが落とされた要因のひとつは、「この一作だけでは不安だ。もう少し見てから」という、あのお決まりの弱腰批評。え、またですか。……いや、そんな昔からですか。

 対する村上さんのほうは、候補作「上総風土記」の出来ってよりも、数年来の業績を鑑みたうえで受賞されていたりして。始まって12回目の段階ですでに、“直木賞”の持つ定型パターンのひとつが出来上がっていたんですな。

 それはそうと、この頃あたりの直木賞候補群の特徴は、戦時下を思わせる“日本人および日本精神礼讃”小説がじわじわと現れ始めたことにあります。それら作品の筆は、好戦的って感じじゃありません。未熟なるぞよアジアの下々たちよ、よし伝統ある我ら日本人がその高邁なる精神でもって、君らの苦境を救ってあげようね、っていうような、押しつけ友好主義がそこかしこに出てきます。

 とくに、伊地知さんでは、第16回(昭和17年/1942年・下半期)推薦候補作「昭南の地図」なんかそうです。

 いやいや、ご本人は真剣に書いているのだとは思いますよ。載っけた『オール讀物』誌の編集者たちも、真剣だったんだと信じますよ。それでもワタクシ、この作品を読んでいて、一番最後の締め方に、不謹慎ながら笑ってしまいました。これは60年以上たった今だからこそ、ぜひ読まれるべき小説だと思います。高尚なギャグ小説として。

 「廟行鎮再び」は、2年後に発表されたこの「昭南の地図」に比べてギャグ味は少ないです。ただ、「軍人たるもの、言い訳はしない」という主人公(語り手)の信念で作品が築かれているのかと思いきや、結局めめしく過去のことをずらずら述べてしまっていて、軍人だって一人の人間でしょ、これぐらいの人間味はあったっていいじゃない、と言いたかったんじゃないかと読めてしまうところなどは、面白いんだよなあ。

 あ。それと、この小説はどこまで「伊地知進」本人の経験や来歴を反映しているんだろう、と推測させる記述のあるところも、興味ぶかい理由の一つだったりします。

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2008年8月24日 (日)

通俗小説の名作。もっとも“直木三十五”的だよな、と思いきや……。 第4回候補 角田喜久雄『妖棋伝』

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第4回(昭和11年/1936年・下半期)候補作

角田喜久雄『妖棋伝』(昭和11年/1936年7月・新潮社刊)

 戦前に、探偵小説で直木賞をとったのはたった一人しかいません。だからと言って、戦前の探偵小説に元気がなかったと断じる人は、きっと誰もいません。

 しかも、唯一の受賞者が、なぬ? 木々高太郎だって? 何でやねん。と思わせてしまうところが、さすが直木賞、ちと常人の感覚からズレています。

 このズレは、ことに昔は、おおよそ直木賞がはらんでいた自縄自縛に由来していて、つまり、賞を「大衆文芸」に与えると規定してしまったことに無理がありました。大衆文芸とは何だ、そうだ、少なくとも大衆文芸だって「文学」である、そしてそこに通俗小説は含まれない。これが初めの頃の直木賞選考委員会の立場です。でも、たいていの大衆は、文学よりも通俗を愛します。直木賞が、いったいどんな小説を奨励しようとしているのかわからない、なんだかヘンテコリンな賞になっていくのは、当然の流れです。

 第4回(昭和11年/1936年・下半期)は、ようやく直木賞がその選考体制を整え始めた時期にあたり、早くもその無謀さゆえの齟齬がニョッキリ頭を見せた回でもありました。獅子文六でも、小栗虫太郎でも、そしてこの角田喜久雄でもなく、木々高太郎を選んでしまいます。

 木々さんの作品がよくない、ってわけじゃないですよ。ないんですが、『人生の阿呆』ってそんなに面白いか? って疑問は別にワタクシだけじゃなく、すでにいろんな人が語っています。面白さで言うなら、獅子文六が『新青年』に書き出した頃の諸作のほうに軍配が上がりそうなもんです。うーん、これって結局は、選考会内における、「文学」重視の久米正雄小島政二郎連合(木々を推しました)と、芥川賞との掛け持ちでない専任委員の吉川英治(獅子を推しました)との、当時の発言力の差、なんだろうかと思いたくなるところです。

 で、角田さんの『妖棋伝』です。

 通俗性で測るならば第4回候補作のうち抜群のトップでしょう。「大衆文芸」なんて誰もその基準を明確に示すことなどできないんですから、通俗性もまた、大衆文芸の重要なる一要素だとして、直木賞が取り上げたって何の不思議もなかったはずです。

 しかし、そうはなりませんでした。通俗性なぞを評価して、直木賞がさらに文壇から軽蔑されるのを我慢する勇気が、当時の直木賞関係者にはなかったからです。たぶん。……っていうかねえ。軽蔑も何も、直木賞はほとんど文壇からは黙殺・無視されていたんですから、そんなに気にすることなかったんですけど。気にしすぎ。

 読み捨てられ、時代とともに消えていくのが(直木賞の受賞作といえども)大衆文芸の運命なんでしょうけど、『妖棋伝』の面白さを、来たる世の中に伝えられないなんて惜しすぎる。

 と思ったら、まだこれ、新刊本として普通に書店で手に入るんですね。すげーぜ、春陽堂。あっぱれ、春陽堂。通俗小説よ、永遠なれ。

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2008年8月17日 (日)

意味なきものになり果てた直木賞に、小さな光明を投げかける。 第137回候補 万城目学『鹿男あをによし』

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第137回(平成19年/2007年・上半期)候補作

万城目学『鹿男あをによし』(平成19年/2007年4月・幻冬舎刊)

 久しぶりに、“直木賞”っぽさ満点の候補作が生まれました。

 ええ、たしかに、それはワタクシ一人が個人的に抱いた印象に過ぎないんですけど、三田完森見登美彦に比べて、さらに“直木賞”っぽいと感じてしまったのはなぜなんだろう。それを考えて突き詰めていくと、どうやら、わずかデビュー二作目である、しかも雑誌掲載の使い古しなんかじゃなく書き下ろしである、しかもその前のデビューが産業編集センターである、というところに落ち着きそうです。

 直木賞は、ある程度実績を積んだ人でないと受賞できない、といった一般論があります。それが真か偽かは、単なる印象じゃなくて詳細な研究を経てからでないと、とても断言できないんですが、まあ、それはいいとしましょう。ただ、ワタクシは、直木賞の唯一にして最大の使命は、新たな面白い小説やそれを書く作家との出逢いを、我ら読者に定期的にもたらしてくれることだと強く信じていて、またそういう“直木賞”が好きです。

 なので、本来なら『鴨川ホルモー』を候補にしてほしかったな。

 バッカじゃないの。産業編集センターみたいなところの本で、直木賞なんかとれるわけないじゃん。

 といった権威主義が、直木賞をつまらなくし、また弱体化させている一因のはずです。ここはひとつ直木賞をやっている方々も、また直木賞を見守る我々も、勇気を持とうぜ。

 小規模の出版社から出た本? しかもデビュー作? ノープロブレム。直木賞の歴史から考えても、立派に候補作の資格アリアリです。

 で、このことを語る上では、やっぱり“出版社の規模”ってやつを数値的にとらえておかなきゃいけません。たとえば、第131回(平成16年/2004年・上半期)から現在までのほんの数年間だけですけど、直木賞候補作に選ばれた出版元(プラス産業編集センター)を例にとってみます。いったい各社、どの程度の規模の会社なんでしょうか。規模、……ここでは、年商と従業員数で計ってみました。

080816 上のほうに固まった第1グループの面々は、もう出版社なのか何なのかよくわからないシロモノぞろい。大きく差があいて、文春の属する第2グループ。いちおうここら辺りが「大手」なんて言われます。

 さらに年商100億を超えたぐらいのところに第3グループがあって、その下はもう、老舗、老舗もどき、新興などがひきしめき合う様相。

 注目すべき領域が、この第4グループなのは明らかです。これからの直木賞が、その異常に肥大化した力をしっかり発揮できる領域って意味でも。そしてその兆しは、近年もはや絶えたかに思えますが、どっこい、まだチラッチラッとほのめいています。

 そうだね、貫井徳郎『愚行録』散々な結果だったよね、でも桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』は健闘したよね、池井戸潤『空飛ぶタイヤ』あとちょっとだったよね、松井今朝子『吉原手引草』でようやく第3グループから受賞作が誕生したよね。

 むろん、その候補作を選ぶのが、第2グループの一角を占める某社だってところに、“直木賞なんて結局……”とあきれられる源があるんですけど、いやいや、某社の中にも、きっと愛社精神に縛られない、公平な人間も少しはいるでしょう。ねえ。あの会社の方たちが敬愛、尊敬してやまない菊池寛さんは、「芥川賞・直木賞は半分は雑誌の宣伝のためにやっている」とおっしゃっていますが、どうぞその言葉を曲解(誇大解釈)なさらないように祈ります。だってねえ。自社の媒体に発表した新人ばかりを厚遇して、他社が発掘した新人よりもひいきしている、なんて知ったら、菊池親分、きっと怒りますよ。

(上の図は、なるべく最新の数字を使ったつもりですけど、平成17年/2005年度~平成20年/2008年度のデータが混在しています。あくまで目安として見といてください)

 さて、そろそろ、『鴨川ホルモー』じゃなくて正真正銘の直木賞候補作『鹿男あをによし』のハナシをしましょうか。

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2008年8月10日 (日)

訳あって初版本は2種類アリ。文庫化はいまだナシ。でもこの作品の面白さは、まったく揺るぎなし。 第125回候補 山之口洋『われはフランソワ』

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第125回(平成13年/2001年・上半期)候補作

山之口洋『われはフランソワ』(平成13年/2001年2月・新潮社刊)

 第121回(平成11年/1999年・上半期)~第130回(平成15年/2003年・下半期)は、ほとんど“今”と言っていい、ほんのちょっと前の出来事です。この期間の候補作は全部で57作品、ちょうどみんな次々と文庫化されていますので、手軽に読むことができますね。

 たった一作を除いては。

 単行本から7年半たつのに、いまだに文庫化されないのは、出版業界=自転車操業の今にあって、直木賞候補作としては大変珍しいわけです。なぜこれほど面白い小説が、ノー文庫なのか。よっぽど新潮社は、これが文庫読者に訴えかける力に乏しくて、採算が合いそうにないと判断しているんですか。

 と、採算のことを持ち出すならば、やっぱり『われはフランソワ』の、刊行直後のあのプチ騒動(?)が頭をよぎるわけです。

歴史小説「われはフランソワ」に職業差別の表現、新潮社が自主回収

 新潮社は二十八日までに、山之口洋氏の歴史小説「われはフランソワ」に職業差別を助長する表現があったとして、初版の六千部の自主的な回収を始めた。

 この本は、十五世紀フランスの叙情詩人フランソワ・ヴィヨンの生涯を描いたもので、二月に刊行された。物語の中盤、百年戦争の描写のなかに、食肉処理業を差別し、誤ったイメージを広げる表現があったという。四月初めに改訂版を出す。」(『朝日新聞』平成13年/2001年3月29日 社会面より)

 初版6,000部をまるまる棒に振って、改訂版を何部刷ったかはわかりませんが、そのコストロスが大きくて、仮にその後に直木賞候補に挙がって少し取り返せたとしても、まあ文庫化までする決断にいたらなかったのでしょうか。残念。

080810  当時ワタクシが買ったのは、おそらく改訂版のほうだと思うんですけど、背表紙のマークが「6葉」(画像左)から「4葉×4」(画像右)に変わった以外に、改訂版であることを匂わす記述なんて、どこにもありません。奥付の発行日も「2001年2月20日」としか書いていないし。改訂したことぐらい、はっきり書いといてくれれば親切なのに。新潮社のいじわる。

 しかし、どんな記述が、『われはフランソワ』に2種類の初版本を生み出す原因になったのか。そこが気になりますよねえ。

 どれどれ。へえ、これが食肉処理業を差別し、誤ったイメージを広げるおそれがあるんですか。

「敵の雑兵どもが陽気に語りながら、金目のものを探して鎧とその中身をひとつずつ物色していた。まだ息のある者は、すぐさま短剣でとどめを刺された。わたしが横たわったすぐ近くで、あるいは遠くで、鎧の隙間から身を貫かれ、喉首を掻き切られる者たちの断末魔の叫びが、沼の瘴気のように立ちのぼり、時に独唱し、時に合唱した。さっきまで戦場だったアザンクールの地は、いまは戦場ですらなく、敗れ、反抗する気力も失ったわが将兵の屠」(『われはフランソワ』「ダイヤのA」180ページ、6行目以降より)

 おっとっと。危ない危ない。

 ところで、新潮社さん。書店に呼びかけた迅速な対応はいいんですけど、全国にちらばっている各図書館からも、自主回収を徹底しなくて大丈夫なんですか。って今さら遅いか。

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2008年8月 3日 (日)

迷宮の本領発揮。ミステリーかと思わせて、別の魅力でもって選考委員たちを惑わせる。 第120回候補 服部まゆみ『この闇と光』

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第120回(平成10年/1998年・下半期)候補作

服部まゆみ『この闇と光』(平成10年/1998年11月・角川書店刊)

 この小説の結末は、決して誰にも話さないでください。

 って、まったく“余計なお世話”なんですけど、この依頼文はワタクシのオリジナルではありません。この単行本のオビに堂々と刷られています。あのねえ、ちょい昔の映画の宣伝文句じゃないんだから。……あ、角川書店の本ですか。だったら納得。

 ええと、さらりと「この単行本のオビに……」とか書きましたけど、装丁が少し凝っていまして、裸本状態では真っ白、そこに黄色地のカバーがかかり、さらにその上に黒ベースのオビが覆っています。ただ、このオビが、通常の本のカバーみたくほぼ全面を占めているために、「「真の贅沢、真の愉楽。薔薇の香油のような。」......皆川博子とか、「幽閉された盲目の姫君。長い髪、シルクのドレス。季節ごとの花々、優しい父王、そして姫を虐待する侍女。一度踏み込んだら抜け出せない、物語の迷宮へようこそ。」とか、惹句がいたるところに躍っていて、装丁家・鈴木一誌の仕事、全開なわけです。

 おっと、装丁のハナシなんぞして、林哲夫さんのブログの真似なぞしてみても、すぐに馬脚を表わすのは必至ですから、さっさと直木賞のことに行きます。横溝正史賞(現・横溝正史ミステリ大賞)作家は、乱歩賞と比べると格段に「直木賞率」が悪いんですけど、過去に挙がったたった2人の横溝賞→直木賞候補、阿久悠さんも、そして服部まゆみさんも、直木賞委員からはダメ出しを食らいました。

 そんなまゆみさんの『この闇と光』に、ここにご登場願ったのは、第一にワタクシお気に入りの候補作だからです。当の直木賞の選考でも、マスコミ的な知名度バツグンの宮部みゆき『理由』、久世光彦『逃げ水半次無用帖』の2人に肩を並べて最終決選まで残り、よくぞ健闘したと思います。

 そして『この闇と光』は、文学賞の(とくに直木賞の)候補作として、文句ないほど典型的な要素を備えていたものですから、ぜひとも「名候補作」の称号を授けたいのです。どう典型的なのか。……つまり、候補作は選考委員に評されるふりをしながらも、逆に選考委員たちの姿を暴き出す立場にあるのだ、っていう忘れがちなことをこの作品はまざまざと、ワタクシたちに見せてくれたからです。

 そう、その重要項目のひとつは、確実にこの作品の構造に由来しています。ええと、結末は誰にも話しちゃいけないんでしたっけね。以下、気をつけてあらすじを書きます。

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2008年7月27日 (日)

編集者が丁寧に短篇を選び分けていた最後の世代。 第104回候補 東郷隆「水阿弥陀仏」

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第104回(平成2年/1990年・下半期)候補作

東郷隆「水阿弥陀仏」(平成2年/1990年11月・東京書籍刊『人造記』より)

 隆さんの次の週にまた隆さん、とは何と出来すぎた流れじゃありませんか。

 半分はネラいです。でも半分はほんと偶然です。

 平成の直木賞を語るうえで、宮部みゆき東野圭吾と並んで絶対欠かしてはならない存在、おひとり目の宇江佐真理さんについては『ウエザ・リポート』の回で取り上げました。そして、もうおひとかたが、この東郷隆さん。なにせ候補回数が6度もありますので、どれを「名候補作」とするか迷いましたが、うん、ここは衝撃の一発目でしょう、やはり。

 でも今回は、東郷さんご自身のことや、または直木賞への発言といったハナシには大して触れません。今週より4週間はほぼ最近の作品を取り上げる予定ですが、平成に入ってのことですから、みなさんも記憶に新しいでしょう。ワタクシなぞが披露できる話題は、そんなにないわけです。話題の選択に困ったときには、我田引水で逃げたいと思います。

 直木賞の歴史のことです。

 第101回(平成1年/1989年・上半期)~第110回(平成5年/1993年・下半期)の期間で、直木賞に起こった大きな転換とは何か。そうそう、『オール讀物』の編集長が藤野健一さんから中井勝さんに変わった、ってことも見逃せない要素でしょうけど、いや、それまでの“直木賞らしさ”を形成していた候補群のある特徴が、消えていく時期にちょうど当たることです。

 直木賞にとっての短篇および短篇集の扱いについてです。

 たとえば、第104回(平成2年/1990年・下半期)、東郷隆さんの候補作は決して短篇集『人造記』ではありません。そこに収められた「水阿弥陀仏」「放屁権介」「人造記」の3篇のみが対象です。出久根達郎さんの候補作も『無明の蝶』なんかじゃないのです。そこに収録されている「靴」「雲烟万里」「赤い鳩」は、断じて直木賞候補作ではないのです。

 え、何なんだ、それは。意味わからん。……などと声に出して言ってはいけません。

「東郷隆の名が広く人口に膾炙しはじめたのは、やはり本書『人造記』が刊行されてからのことで、表題作及び、本書収録の「水阿弥陀仏」「放屁権介」が第一〇四回直木賞の候補作となった。何故、一冊まるごとではなくこの三篇なのか理解に苦しむが、(引用者後略)(平成5年/1993年11月・文藝春秋/文春文庫『人造記』縄田一男「解説」より)

 まっとうな解釈では「理解に苦しむ」でしょう。でも、実際、そこに「直木賞らしさ」があったはずなのです。平成2年/1990年までは。

 なぜ星新一の候補作が『人造美人』や『ようこそ地球さん』ではないのか。なぜ向田邦子の受賞作が『思い出トランプ』ではないのか。長部日出雄は。谷克二は。田中小実昌つかこうへい赤川次郎は。なぜなぜなぜ、の連続です。

 そこを掘り下げる前に、まずは東郷さんの作品について、ちょっとご紹介しておきましょう。『人造記』は5篇の小説を収めた短篇集です。書き下ろしの「人造記」を除いては、『中央公論増刊』『BRUTUS』『野性時代』『歴史読本 臨時増刊』にすでに発表されていました。巻頭の「水阿弥陀仏」は、『中央公論 臨時増刊 ミステリー特集』昭和62年/1987年第15号[12月]が初出です。

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2008年7月20日 (日)

まさに直木賞が逸した長蛇の代表格。山口瞳に深ーく未練を残させる。 第95回候補 隆慶一郎『吉原御免状』

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第95回(昭和61年/1986年・上半期)候補作

隆慶一郎『吉原御免状』(昭和61年/1986年2月・新潮社刊)

 うっ。あまりにも有名作家すぎるので、正直、ブログを一回お休みするふりしてワタクシは尻尾をまいて退散したい。それでも、あえてこの方のこの作品をご紹介するのは、「これぞ名候補作」リストから、まさか隆さんを外すわけにはいかないからです。

 隆さんと直木賞、ってネタで言えば、この小説デビュー作『吉原御免状』よりも、第101回(平成1年/1989年・上半期)候補の『柳生非情剣』のほうが受賞の近くまで行ったはずです。それは『オール讀物』の選評を読むとわかります。しかし、だいたい直木賞エピソードのおいしいところは、「公式文書」以外に転がっているものです。

 「おれは隆慶一郎のことなら毛穴の数まで知っているぜ」と自負する数多くのファンの方々には申し訳ないですが、きっと以下のハナシは既知のことでしょう。まあ、この場はあくまで「直木賞」メインのブログなものですから目をつぶってやってください。隆慶一郎のことをそれほど知らない方のために書かせてもらいます。

 隆さんといえば、お仲間に、最近集英社文庫が復刊され始めた広瀬正や、お医者さんの妻で5児の母親だった川野彰子がいます。つまりは、ほんの数年の作家活動、そのわずかな間に直木賞候補に何度か挙がり、さあこれからというときに、早すぎる死。……隆さんの61歳~66歳の閃光は、あまりにまぶしいけれど短すぎます。

 結果として柴田錬三郎賞を受けたのが、隆さんにとって最後の文学賞になっちゃいました。今の柴錬賞は、すごろくで言えば直木賞の一コマ二コマ次ぐらいに位置しているんでしょうが、隆さんが受けた第2回の段階ではどんな賞になるかまだわからない時期だったはずですからね、ひょっとすると柴錬賞→直木賞、のルートを隆さんが切り開いてくれた可能性もあったかもしれません。

 没後19年、今さら隆さんの偉業を振り返って、「まったく直木賞ってやつは、節穴もいいとこだな」とせせら笑うのは、もう後出しジャンケン以外の何物でもないんですが、後出しは後に生まれてきた人間の特権です。存分に活用させてもらいましょう。「隆慶一郎の『吉原御免状』は何が理由で、直木賞をとれなかったのか」を、あくまで資料の上から突つきたいと思います。

 まずは、近しい人が語る『吉原御免状』の落選理由から。

「『吉原御免状』は時代考証に問題があるという一部の選考委員の強硬な反対で、惜しくも賞を逃した。

「直木賞残念でしたね」

「なあに、賞なんて……」

 隆慶一郎は何事もなかったような顔で答えた。

(賞なんて取ろうと思えばいつでも取れるさ)という意味か(賞なんて問題にしてないよ)という意味だったのか、分からない。だが、私は後者の方だと受け取った。」(松岡せいじ著『隆慶一郎 男の「器量」』平成9年/1997年1月・本の森出版センター刊、「偉ぶらない、自慢しない」より)

 隆=池田一朗に師事したシナリオライター・松岡せいじさんの言葉です。これを裏返してみれば、「一部の委員の反対さえなければ、直木賞をとれた」とも読めます。

 さて、どうなんでしょうか。

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2008年6月29日 (日)

田んぼはゴミ捨て場でもトイレでもありません。仮にそう見えたとしても。 第85回候補 山下惣一「減反神社」

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第85回(昭和56年/1981年・上半期)候補作

山下惣一「減反神社」(昭和56年/1981年1月・家の光協会刊『減反神社』より)

 もったいないですよ。この小説に「農業小説」と冠をかぶせてしまっては。

 それでエンタメ小説が大好きな読者たちに、ああ、それなら僕らの範疇じゃないんだな、と判断されたかもしれないもんな。そのために数多くの潜在的読者を失ってしまっているとしたら、ほんともったいない。

 あえて同志たちに告げます。農業の問題とか、都市と田舎の問題とか、そういうことに全然関心ありませんよね? だいじょうぶ。それでも、この小説は別の次元で十分におもしろく読めます。

 と、山下惣一さんの圧倒的に独自路線をいくご活躍を前提にハナシをすすめちゃう前に。山下さんのことを少しご紹介します。

 機関士の世界に清水寥人向坂唯雄あり、職人の世界に小関智弘あり、では農業の世界とくれば? せーの、山下惣一あり、とみんなが声を合わせてハモれる存在です。

 ご自身、中学卒業から農業に従事しつづけ、小説のみならずルポ、エッセイ、提言文など数多くこなし、講演やパネルディスカッションにかり出されること数知れず、しかもそれを継続すること30年以上。ミスター現代農民。現場に生きる農業従事者たちのスポークスマン。

 その山下さんの処女短篇集が『減反神社』なわけですが、序文「山下惣一作品集に寄せて」を野坂昭如さんが書いていて、もちろん大絶賛の名調子です。

「この作品集に収められた中の、「減反神社」は、地上文学賞を受けている。山下の持ち味であるユーモラスな感覚が見事に生きていて、モーパッサン、チェーホフ、ゴーゴリに匹敵する傑作、当節、硬化し貧しくなりまさる日本文学が、稀有に産み出した、賜ものであろう。」

 そして「あとがき」によれば、地上文学賞では選者のひとり新田次郎さんもやはり、強力に推奨したんだそうな。

 同時に直木賞の候補になった「父の寧日」も、ワタクシの好きな作品ではあります。しかし「減反神社」のほうには、懸命に生きる一小市民にふりかかる災難を、とことん笑い飛ばすパワーが、さらにあふれているって意味で、小説好きのあなたにもぜひ読んでもらいたい一作なわけです。

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2008年6月22日 (日)

30代後半の主婦に襲いかかる、プライバシー侵害の魔の手 第72回候補 素九鬼子『大地の子守歌』

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第72回(昭和49年/1974年・下半期)候補作

素九鬼子『大地の子守歌』(昭和49年/1974年11月・筑摩書房刊)

 “この方の業績をたたえる本格的サイトが、そのうち開設されてもおかしくない”ランキングの、上位10番以内に入りそうな作家です。それだけ、この方の作品はいまだに多くの(一部の?)読者を惹きつけ続けています。たぶん。

 直木賞にたてつづけで3回連続、候補になりました。しかし、それがなくても、デビュー作『旅の重さ』ただ一つがあっただけで、きっと九鬼子さんの魅力は現在まで語り継がれていたとは思います。なので本来、直木賞オタクの出る幕じゃなかろうに。コソコソ。むしろ、こんな無神経な人目にさらされる暴力的文学賞の舞台に立たされなかったほうが、案外その後も着実に、創作活動を続けられていたかもしれんぞ、などと考えると、ふうむ、どうにもやり切れません。

 とか殊勝なふりをしながら、堂々と取り上げるなんて、P.L.B.め、お前は何とまあ、非道なハイエナ野郎。

 素九鬼子(もと・くきこ)さん。ご紹介します。彼女が何によって有名かと言えば、イザヤ・ベンダサンとか沼正三とかが、その正体の不明な点で騒がれていた昭和47年/1972年のタイミングで、また一人、正体不明の作家としてデビュー作が刊行されたところにあります。時系列でまとめると、こんな感じです。

  • 昭和44年/1969年12月30日 作家の由起しげ子死去。その遺品を整理していた八木岡英治が、「旅の重さ」と題された大型ノート5冊を発見する。署名は「素九鬼子」、作品の末尾には「一九六四・九」と書かれていた。八木岡は、作者を探そうと試みるが果たせず、しかし作品内容に感銘を受け、筑摩書房に相談する。

  • 昭和47年/1972年3月頃まで 筑摩書房ではこの作品を刊行することに決め、作者に名乗り出てもらうよう広告などを使って呼びかける。しかし作者は現れずに、不明のまま刊行に踏み切ることにする(4月に発売)。

  • 同年3月14日 『朝日新聞』「点描」欄で、このことが取り上げられる。

  • 同年4月14日 『毎日新聞』社会面で、このことが取り上げられる。

  • 同年4月24日頃まで 新聞記事を見た人のなかに、以前、作者本人からこの作品を見せてもらったことのある人がいた。その人が、作者本人に新聞記事のことを告げる。本人が筑摩書房に名乗り出る。筆跡などの検証の結果、「素九鬼子」本人であることが確認される。

  • 同年4月27日 『毎日新聞』社会面で、本人が判明した旨が伝えられる。しかし本名や経歴の多くは伏せたままだった。

  • このころ 『旅の重さ』松竹にて映画化決定。同年10月、監督・斎藤耕一、主演・高橋洋子で劇場公開。

  • 昭和48年/1973年4月20日 作者の本名・略歴等が公開される。

 とりあえずこのなかで、昭和47年/1972年4月27日『毎日新聞』の記事だけ、ちょっとご紹介しておきます。

「ヘンなペンネームについては「鬼」はこわい半面、素朴でかわいいところから、「九」はキューという語感が好きだからだが「昔のことで、また、いろいろなペンネームを使っていましたので、新聞をみたとき、自分のことだとは思いつかなかったくらいです」。」

 一発屋で終わらなかったのが幸か不幸かわかりませんけど、昭和49年/1974年に入って、2作目『パーマネントブルー』、3作目『大地の子守歌』と長篇を発表、2作ともドドンと直木賞候補になります。きっとそのことが縁となって文藝春秋の『文學界』からもお呼びがかかり、そこに発表した「ひまやきりしたん」もまた、ひきつづいて候補になります。

 以上3つの候補作のうち、どれをピックアップしてもいいんですけど、今日は、川口松太郎が褒め、水上勉が九鬼子ブシをまったりと堪能し、松本清張が酷評した2番目の候補『大地の子守歌』を、とりあえず持ってきました。

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2008年6月15日 (日)

山岳ミステリー作家、プロ魂を発揮して、現実の苦悩を小説に託す 第63回候補 加藤薫「遭難」

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第63回(昭和45年/1970年・上半期)候補作

加藤薫「遭難」(『オール讀物』昭和45年/1970年1月号)

 泣ける。……この作品を読んで、つい泣けてしまう理由は、作品内容に輪をかけて、その背後にある事情が強烈だからです。加藤薫さんがこの作品を書こうと筆をとった勇気、それを『オール讀物』なんちゅう中間小説誌にポツンと発表した勇気、その一世一代とも思える思い切りに、心が揺さぶられます。

 今回はけっこう重いハナシです。ガラにもなく。

 加藤薫さんは今では筆を折られているようですけど、オール讀物推理小説新人賞(昭和44年/1969年)の「アルプスに死す」で登場して以来、山岳ミステリーの書き手として数年間、活躍しました。ご自身も山登りの経験があり、大学時代は山岳部に所属されていたとか。

 と、その程度の知識しかなかったワタクシは、この「遭難」が載っている『オール讀物』昭和45年/1970年1月号の目次を目にしたとき、思わずビクリとしてしまいました。

「14年前の悲劇の記憶を生存者が描く衝撃の問題作

遭難 110枚 加藤薫

昭和31年の正月厳冬の北ア鹿島槍の雪嶺に消えた学習院大山岳部の今はなき仲間に捧げる悲痛慟哭の鎮魂賦」

 作品本文からは、一切、鹿島槍だの学習院だの、そんな固有名詞は省かれているのに、そうですか、『オール讀物』編集部はこんなにハッキリ書いちゃうんだなあ。目次って恐ろしい。

 ひょっとして、この直木賞候補作って、加藤さんの実体験をもとにしているの? そもそも加藤さんが、遭難で仲間を失った経験をお持ちだったって事実を知っただけでも、ぐっと来るのに。

 当時の基準で14年前、現在から見ればはるか52年前にさかのぼる、学習院大山岳部の実際の遭難のことを思い起こす前に、まずは加藤薫さんが苦悩を乗り越えて書き下ろした「遭難」のスジを追ってみます。

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2008年6月 8日 (日)

関西の地から等身大の女性を描く新人、登場です。 第55回候補 田中ひな子「善意通訳」

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第55回(昭和41年/1966年・上半期)候補作

田中ひな子「善意通訳」(『新文学』16号[昭和41年/1966年4月])

 直木賞や、それを実際に運営している日本文学振興会=文藝春秋が、心の底からは自覚していないにしても、ある時代まで、たしかにこの賞には“新人発掘”の性格もありました。昭和40年代、まだまだその匂いが根強かったころの、代表的な候補作です。そう、あえて“代表的な”と言わせてもらいます。

 田中さん……って言うより、この方の場合、ひな子さんと呼んだほうがしっくり来ますよね。ひな子さんは、いまでも関西方面では名の知れた作家に違いありません。たぶん。

 で、彼女は神戸の長寿同人誌『VIKING』の同人でもあるんですが、その物書きの道への出発点は、おそらく、この候補作「善意通訳」付近にあるらしいです。

 時は昭和40年/1965年ごろ、直木賞では同人誌花盛りの時代です。もう少し突っ込んで解釈しますと、昭和34年/1959年(第41回)あたりからの10年は、文藝春秋色の比較的弱い、かたよりの少ない候補作の選出がちゃんと実現できていた時期でもありました。

 だって、ほら、候補作に一つも文春系の作品が選ばれない回、ってのも普通にありましてね。おそらく今の文藝春秋社員の方々には、とうてい真似できないと思いますけど。たとえば、第41回(昭和34年/1959年・上半期)、第42回(昭和34年/1959年・下半期)、第44回(昭和35年/1960年・下半期)、第46回(昭和36年/1961年・下半期)、第51回(昭和39年/1964年・上半期)、第53回(昭和40年/1965年・上半期)……。

 “直木賞の同人誌離れ”の引き金になったと言われる第54回(昭和40年/1965年・下半期)は、同人誌作家2人(新橋遊吉千葉治平)VS.有名プロ作家2人(立原正秋青山光二)の伝説的な大接戦があった回です。しかし、それから後もしばらくは、同人誌から候補作を見つけ出す流れは絶えなかったし、文藝春秋の出版物を特別扱いしない路線は、続きました。

 さて、そんな頃に登場したひな子さん、「善意通訳」の初出は『新文学』っていう同人誌です。

 “新人発掘”のテーマで語るときに、この同人誌。ううむ、ぴったりだなあ。

 『新文学』は、今も運営されている大阪文学学校がかつて出していた雑誌です。これがのちに『文学学校』となり『樹林』となります。大阪文学学校は、一般人に広く門戸をひらいて、文学への情熱を“スクール”のかたちで実体化させた団体で、もはやその存在自体が戦後文学史の一角をになうものでしょう。その出発期の卒業生といえば、ははあ、やっぱり一番の有名人は田辺聖子さんでしょうねえ。

 でも彼女がとったのは芥川賞じゃんか、それも受賞作は『航路』掲載のものだろ、おまえが語るべきハナシじゃねえぞ……そ、そうなんです。ですのでワタクシは、大阪文学学校の純正同人誌『新文学』によって注目されて、直木賞の歴史に一杭コツンと打った最初の人、ひな子さんを取り上げさせてもらいます。

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2008年6月 1日 (日)

読みづらい、って決して欠点じゃありません。一人の女流作家の生きざまです。 第46回候補 来水明子『背教者』

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第46回(昭和36年/1961年・下半期)候補作

来水明子『背教者』(昭和36年/1961年7月・東都書房刊)

 長い長い直木賞の歴史のなかで、読み通すのに最も骨が折れる候補作はどれか。もちろん“骨が折れる”なんてのは途轍もなく感覚値であって、読み手それぞれで基準は違うでしょう。ある方は古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』を読みづらいと言いました。今官一の受賞作『壁の花』も相当なもんです。斎藤芳樹の『シュロン耕地』だって負けちゃおりますまい。

 私見ですけど、そんなコンテストがあったら必ず上位に挙げられるはずの作家が、二人います。一人は、坂本龍馬に魂を奪われたコテコテの土佐人・宮地佐一郎さん。彼の三つの候補作『闘鶏絵図』『宮地家三代日記』『菊酒』とも、かなりイッちゃってます。

 もうお一人がこの方。来水明子さんです。

 来水さんが「佐藤明子」の筆名でオール讀物新人賞を受賞した「寵臣」(第37回 昭和32年/1957年・上半期 候補)は、まあ短篇ですからいいとして、筆名一転、来水姓になってからの『背教者』、『涼月記』(第47回 昭和37年/1962年・上半期 候補)、『短夜物語』(第49回 昭和38年/1963年・上半期 候補)の、怒濤の長篇攻撃には、たじろぐしかありません。

 根っからの時代小説好きならば、単に材が戦国時代にとられている、ってだけで最後まで読み通す意欲が衰えることはないかもしれません。そんな方に、ぜひ来水ワールドをおすすめしておきます。

 ただ、ページのところどころにイラストがないと駄目な方、ひんぱんな改行によってリズミカルに読書するのが好きな方、おしゃれな装幀からしか作品世界にのめり込めない方……来水さんの長篇に手を出すと怪我をしますよ。ご注意ください。って言っても、まず書店で来水さんの小説にお目にかかる機会はないでしょうから、ご安心ください(ん?)。

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2008年5月25日 (日)

山梨にもいました、キラリと光るおもろいオヤジが 第36回候補 熊王徳平「山峽町議選誌」

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第36回(昭和31年/1956年・下半期)候補作

熊王徳平「山峽町議選誌」(『作家』昭和31年/1956年11月号)

 くそお、太平洋戦争ってやつはさあ、それが終わってから相当経って生まれてきた人間――ワタクシの感覚をやたら乱してくれます。たとえば、戦前に登場した作家が、戦後にひょいと直木賞候補者として挙げられていたりすると、ほう、ずいぶん昔のヒトを引っ張り出してくるもんだな、と思わされたりするんですけど、その間ほんの10年、20年ぐらいしか時は流れていなかったりして。戦争が間に挟まっていると、なんだか時間感覚が測りづらいもんだな。

 熊王徳平さんなどもその一人、と言っていいのでしょうか。

 『中部文学』の雄、熊王さんがおそらく世に知られたのは、織田作之助さんと同じタイミングです。昭和15年/1940年、改造社の『文藝』誌が鳴り物入りで(……遅ればせながら?)始めたのが、同人誌を対象とする「文藝推薦」、その第1回の選考のときに、織田さんと一緒に熊王さんの作品も取り上げられています。

 当選したのはオダサクの「夫婦善哉」。それと競ったのがクマトク「いろは歌留多」でした。オダサク26歳、クマトク34歳。

 むろん、単なる直木賞オタクがクマトクさんのそれ以後の作品系列を丹念に執念深く追うわけもなくて、熊王フリークの方々、申し訳ありません。ワタクシがこれまで触れたのは『田舎文士の生活と意見』(昭和36年/1961年12月・未来社刊)この一冊のみです。

 直木賞候補作の「山峽町議選誌」、まさにワタクシお気に入りの一作です。小嵐九八郎『おらホの選挙』に負けず劣らず(って、比べようとする態度が変ですけど)、町の選挙に関する虚々実々の駆け引き、主人公・亀田竹松の珍妙にして俗悪、絶対付き合いたくないなと思わせる反魅力的な(つまりは魅力的な)人物像。……いやあ、おもしろい。

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2008年5月18日 (日)

どでかい住居に住んだ堂々たる一文なし 第22回候補 河内信「甲子園の想出」

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第22回(昭和24年/1949年・下半期)候補作

河内信「甲子園の想出」(『雄鶏通信』昭和24年/1949年9月号)

 はじめて読んでから、しばらくたちます。それなのに、どうにも忘れ難い作品のひとつです。

 ところで、おそらく、あなたが河内信をご存知ないのと同じレベルで、ワタクシも河内信さんが何者なのか、ほとんど知りません。書誌検索して、「大河内信威」さんとか「河内信弘」さんとかがドバッと出てきて、イライラした経験をお持ちの同志も、きっといらっしゃるでしょう(え。いますよね?)。

 終戦直後、鈴木徹夫という作家がいました。『新青年』にいくつか作品を発表し、前にご紹介した高森栄次『想い出の作家たち』でも一項を割かれています。鈴木さんは自称“乞食作家”。そのものズバリです。結局、短期間、いくつかの雑誌に作品を発表したのち、集団で農村をまわる物乞いのグループに加わって、消息を絶ってしまいました。

 鈴木徹夫と河内信、直接の関連はなんもありません。だけど、どうにも似通ったものを感じます。それで、『新青年』の高森栄次さんのように、『雄鶏通信』の武内俊三さんでも延原謙さんでも、ほんの一瞬だけ誌面に顔を出した草の根作家のことを、なんらか書き遺しておいてくれたら、嬉しいんだけど。……世の中そう甘くはないようです。

 そうだ、『雄鶏通信』が生み出した「記録文学」の名作は、高木俊朗『イムパール』だけじゃないんだぞ、との思いを存分にこめまして。雄鶏社と縁のある直木賞関連作家、と問われたらワタクシは迷いなく、木々高太郎今日出海向田邦子をさしおいても、断然この河内信を選びたいと思います。

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2008年5月11日 (日)

SF古典期に生きた化学者のほろ苦い思い出 第17回候補 立川賢「幻の翼」

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第17回(昭和18年/1943年・上半期)候補作

立川賢「幻の翼」(『新青年』昭和18年/1943年2月号)

 「一般的無名度」をいくつにしようかと、迷った末に「3」にしました。思い切って「5」にしてもよかったのです。しかし、平成15年/2003年に、メジャーな文庫である中公文庫に、マニアックなアンソロジー『明治・大正・昭和 日米架空戦記集成』を加えてくれた編者の長山靖生さんに、感謝と敬意の意を含んで、「無名度」を「3」まで落としました。

 そのアンソロジーには、立川賢さん昭和19年/1944年発表の作「桑港けし飛ぶ」が収められています。これによって、彼には一躍「原爆ケンちゃん」の異名が授けられました。おめでとうございます(……ん?)。

 でも、おそらく、日本全国に3~4人ぐらいいる根っからの立川賢ファンにとって、この文庫の解説や執筆者紹介は、ある意味ショックだったに違いありません。なぜなら生年も没年も、生まれも経歴も、ほぼ何も書かれていないからです。

 海野十三に20行、横溝正史に23行、大阪圭吉に18行、それぞれ解説文のスペースを割いているのに、立川賢にはたったの5行。これじゃあ、いったい何者なのか、まるでわかりません。

 まあ、おそらく収録作の内容が内容だけに、立川さんのご遺族やご関係者の心持ちに配慮して、あえてバッサリ経歴を割愛したのでしょう。いや、ひょっとしてご本人ご存命で、プロフィールの掲載を拒否したのかも。ただ、それでもワタクシは口惜しい。彼が戦前の直木賞において候補に上がったことや、日本SF古典期においてほぼ唯一人、直木賞の最終選考会でその作品が論議された歴史的人物であることぐらいは、触れておいてほしかったなあ。

 え? 肝心なのは、その候補作の中身ですって? そうですよね、インターネットのどこを見ても、この作品を紹介しているとこはないみたいなので、ざっと内容をおさらいしといたほうがよさそうです。

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2008年5月 5日 (月)

無法松、無法松って、もう言ってくれるな――いえ、言わせてください。第10回・第11回候補 岩下俊作「富島松五郎伝」

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第10回(昭和14年/1939年・下半期)・第11回(昭和15年/1940年・上半期)候補作

岩下俊作「富島松五郎伝」(『九州文學』昭和14年/1939年10月号->『オール讀物』昭和15年/1940年6月号再録)

 しょっぱなから奇をてらうのも大人げないので、堂々たるハイパー有名候補作から行きます。

 作者の岩下俊作さんは、おのれの代表作がいつまでたっても「富島松五郎伝」、いや改題後の「無法松の一生」と言われ続けてホトホト辟易している、と後年にいたるまで、ことあるごとに愚痴をこぼしました。戦中に舞台化されたり、映画化されたりして、戦後になっても何度もそっち方面で取り上げられちゃって、“ああ、『時をかける少女』って原田知世のやつ。……え? あれって原作があったの?”っていうのと同じパターンです(ちょっと違うか)。

 しかし、直木賞のなかでの名候補作の地位は、断然ゆるぎありません。もちろん、「無法松の一生」としてではなく、「富島松五郎伝」として。

 なので岩下さん、すみません。「辰次と由松」や「諦めとは言へど」や「西域記」を取り上げたいのはヤマヤマなんですが、「富島松五郎伝」を抜きにして直木賞を語るのは、もう不可能な領域なんです。どうかコラえて下さい。

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