カテゴリー「これぞ名候補作」の56件の記事

2009年6月14日 (日)

新しさや斬新さが何もないのだとしても、それが小説として劣っていることにはなりません。 第140回候補 北重人『汐のなごり』

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第140回(平成20年/2008年・下半期)候補作

北重人『汐のなごり』(平成20年/2008年9月・徳間書店刊)

 「これぞ名候補作」のエントリーは、これで56本目、ほぼ1年間書いてきたことになります。とりあえずの一区切りです。

 最後ぐらいは「今」につながる最新の候補作を取り上げたいなと思って、第140回(平成20年/2008年・下半期)の候補作のなかから選びました。受賞しなかった4つの候補のうちの一つです。

 こないだの直木賞――半年前の第140回は、いろいろな注目点があったと思います。いつもと同様に。そのなかで一部のマスコミの取り上げた視点がありました。「50代以降の作家が3人(も?)候補になった。そのうち2人は50歳をすぎてからの割りと遅いデビューだった」っていうものです。

 おっと、もうこれだけで、団塊のアレがどうしたこうした、と続くお決まりのハナシを想像させて、ややうんざり。と、眉をひそめる40代以下の小説愛好者が続出したとかしないとか。さらに言えば、オーバー50歳のお三方とも、その候補作は時代小説なんだとさ、ふん、じじいは時代小説ばっかだな、とせせら笑うミステリー愛好者がわんさかいたとかいないとか。

 50歳というラインに、なんか意味があるとは思えません。また、時代小説がおじさん・おじいさんたちだけのものではない、と固く信じます。けれど、「時代小説がいま若い女性に人気」とか、ことさら書き立てる文章に出会うと、ふむ、世の中には時代小説はじじいのものと信じている一派があるんだなと勉強になります。

 関川夏央さんに、その題もずばり『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(平成18年/2006年2月・岩波書店刊)っていう著書があります。最後のほうにこんな一節があります。

「これまで時代小説というものがあることは知っていたけれども、なんの興味もなかった。自分には関係ないと思っていた人が多いでしょう。では時代小説は誰に関係があるかというと、おじさんに関係があると思っていたわけですね。で、おじさんというのは得体の知れない暗黒大陸の住人のようなもので、彼らがなにを好んでなにを読もうと関係ない、それが素直な気持だったと思います。」(『おじさんはなぜ時代小説が好きか』より)

 ほう、そうですか。時代小説=おじさん、っていう構図はそんなに一般的ですか。

 それと関川さんは、こんなことも指摘しています。

「おじさんと時代小説の相性のよさは、たしかに「保守化」と関係があるでしょう。」

 いいでしょう。受け入れましょう。時代小説は、保守的な世界を味わわせてくれるものだと。いつもそこに、そのかたちであることの安心感。なごみ。しみじみ。地道。そして地味。

 ……と、ここまで書いて、ワタクシはこう続けたいわけです。『汐のなごり』や『いのちなりけり』がいかに、『きのうの世界』や『カラスの親指』に比べて、地味であるか。人の目をひかないか。注目度が低かったか。と。

 でもね、そんな暴論はとても吐けません。6人の候補作家のなかでは恩田陸さんだけズバ抜けて著作数も多いし固定読者も多いと思いますけどね、あの人は別格です。

 ちなみに、うちのちっぽけな親サイトのアクセス数を見てみますか。第140回の候補が発表された平成21年/2009年1月5日から、選考日前日の1月14日までの総数で、各作家のページのアクセス比率は、以下のとおりでした(恩田陸さんを100として計算しました)。

  1. 恩田陸………100
  2. 天童荒太……65
  3. 北重人………58
  4. 山本兼一……55
  5. 道尾秀介……45
  6. 葉室麟………39

 って、うちのサイト程度のデータじゃ何の参考にもなりませんか。そうですよね。どうもすみません。

 ワタクシもおそらく、おやじの一人にカウントされても、とくに文句の持って行き場のない人間です。仮に、おじさんの好きな小説、ってことだけで興味を失うような愚かな読者がいるとは思えませんので、堂々と胸をはって言いましょう。

 ワタクシは『汐のなごり』が好きです。時代小説として好き、っていうより、単純に小説として好きです。それだけです。

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2009年6月 7日 (日)

とある組織をあたふたさせた、一人の女の余計な発言と、一人の男の怒り。 第128回候補 横山秀夫『半落ち』

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第128回(平成14年/2002年・下半期)候補作

横山秀夫『半落ち』(平成14年/2002年9月・講談社刊)

 第128回(平成14年/2002年・下半期)は、ほんとは直木賞史のなかでも、のちのち語り継がれるほどの特異な回であるはずでした。ワタクシ、直木賞オタクなものですから、正直いってそのテーマで一本エントリーを書き尽くしたかったのです。

 でも、たぶんよほどの直木賞オタクでないと、その特異さは理解していただけないし面白がってもらえないと推測します。なので、やっぱり今日は、多数の方が興味をもたれるハナシを書くことにします。

 うちの親サイトは、一年のうち2か月を除いて、平常はさしてアクセス数の多くないサイトです。そんな低アクセスの時期でも、けっこう見に来てくれる人の多いページがあります。「横山秀夫氏の「直木賞決別宣言」について」です。

 ほんと、あなたも他人の揉めゴトがお好きですのう。えへへ。ワタクシもそうです。人気作家が直木賞候補になって、落とされて、どうやらその選考の経過に不満を抱いて、もう金輪際おれの作品を候補にするのはやめてくれと、堂々、宣言したと。

 うちの親サイトのページを書いたのが平成15年/2003年6月末。それから先、大して調査を深めることもせず、放ったらかしにしてしまいました。当該ページでは、事実関係について6年ぶりに加筆したんですが、そいつをもとに余聞と余分な事項を、ここに書かせてもらいます。

 まず、横山秀夫さんの直木賞決別宣言にまつわる事柄を、時系列でまとめてみます。

  • 平成14年/2002年9月 講談社より『半落ち』刊行(初出は『小説現代』平成13年/2001年3月号~平成14年/2002年4月号)

  • 同年12月 『このミステリーがすごい!2003年版』(宝島社刊)の国内編で『半落ち』が第一位となる。

  • 同年12月 『週刊文春』(文藝春秋刊)の「ミステリーベスト10」国内部門で『半落ち』が第一位となる。

  • 平成15年/2003年1月 第128回直木賞候補となる。

  • 同年1月16日 選考会が開かれ落選。この回は受賞作なし。

  • 同年同日 選考後に、選考経過を林真理子委員が記者会見。

    「林さんは『半落ち』について、ミステリーとしてでき過ぎではないか、アルツハイマーの奥さんを殺す設定は安易じゃないか、あまりにも善意の人に満ちていて最後が弱く、小説としても決定打に欠けるという意見が大勢を占めた、と選考経過を紹介した。

     さらに(1)北方謙三さんから、受刑者はドナーとして提供できないという指摘があった(2)渡辺淳一さんから、そういう欠陥があるのに誰もわからなかったのか、今のミステリー業界はちょっとよくないんじゃないか、という発言があった――とも明らかにした。」
    (『毎日新聞』夕刊 平成15年/2003年5月28日「小説と現実の間で 広がった不幸な溝」より 執筆:重里徹也)

  • 同年1月23日 『毎日新聞』夕刊が、直木賞選考会が『半落ち』にはミスがあると指摘したことを重点的に取り上げる。

    (引用者注:選考会で)北方謙三さんが、物語のポイントについて「基本的な事実関係の解釈に間違った点がある」と指摘した。(引用者中略)落選したのは、この理由ばかりではないが、出版界では北方さんの指摘が話題になっている。(引用者中略)

     横山さんはこれらの事態について「この問題は承知していた。そのうえで、警部にどんな行動をさせたらふさわしいかを考えた。彼の内面を重視した物語にしたかったので現行の形で書いたのです」と語る。講談社も「致命的な思い違いがあるわけではない」として、書き直しの検討などは考えていない。」
    (『毎日新聞』夕刊 平成15年/2003年1月23日「直木賞候補『半落ち』で評価真っ二つ ミステリーの現実性めぐり議論」より 執筆:内藤麻里子)

  • 同年その頃 講談社がホームページ上で、選考経過への反論を掲載。

    「これに対し、出版元の講談社はすぐに文芸局長名の反論をホームページに掲載。「充分(じゅうぶん)な調査を重ねた上で、このケースは妥当な設定であると判断……問題の核心に迫る先見性を備えている」と、欠陥説を一蹴(いっしゅう)した。」(『朝日新聞』平成15年/2003年3月19日「小説「半落ち」は欠陥作か傑作か 主人公の行動可能?…異例の論争」より)

  • 同年その頃 横山氏自身、「欠陥」と指摘された箇所について、あらためて再取材を行う。その結果、作品のなかに事実誤認はなかったと確信、主催者の日本文学振興会に、事実の再検証をするように申し入れる。

  • 同年2月20日頃 『オール讀物』3月号発売。直木賞の選評が掲載される。ここでも記者会見の内容と同様の、「この作品には事実誤認がある」「それを見抜けなかったミステリー界にも問題がある」「それにもかかわらずこの本はいまだに売れ続けている」といった文章があった。

  • 同年3月 横山氏、おおやけに選考会での指摘に対する反論を行う決意を固める。

  • 同年3月19日 『朝日新聞』が文化欄に「小説「半落ち」は欠陥作か傑作か 主人公の行動可能?…異例の論争」を掲載。横山氏からの反論を載せる。ここで横山氏は(直木賞に)今後、作品をゆだねる気には到底ならない」とコメント。

  • 同年3月31日 上記のコメントを受けて、『上毛新聞』が横山氏へのインタビュー記事「人間の矜持保ち次の一歩進める 直木賞への決別宣言 「半落ち」の横山秀夫さん」を掲載。

 と、ここまでが、いわゆる「直木賞決別宣言」までのおおまかな流れです。

 3月19日の朝日新聞の記事は、『半落ち』に関して論争がまきおこってますよ、と伝える主旨のものでした。たとえば佐野洋さんとか北上次郎さんとかのコメントを載せつつ、北方謙三さんが選考会で行った「欠陥に対する指摘」は正しかったのかを検証しています。そのなかで作者本人が、作品内容の重要なことを明かしてまで反論するに至ったことを記事にしたものです。

「『半落ち』は選考会後も3度の増刷がかかり、現在27万部。「欠陥」説に反論するためには、結末を明かさざるを得ず、作者・出版社にとって、正面から受けて立ちにくい状況だった。

 しかし、「オール読物」3月号の選評に「落ちに欠陥がある……しかし、それほど問題にもならず、未(いま)だに本は売れ続けている。一般読者と実作者とは、こだわるポイントが違うのだろうか」(林さん
(引用者注:林真理子))と書かれていたため、横山さんは「読者までも侮辱された」と感じ、作者として反論する意思を固めた。

 横山さんは「ミスではないと思っている。たとえミスがあったとしても、作品個々の良しあしを論ずるべき選考会の講評で、ミステリーという特定のジャンル批判に及ぶなど言語道断。その後もあらぬ批判が繰り返され、直木賞という権威を笠に着たおごりとしか思えない。今後、作品をゆだねる気には到底ならない」と怒りを隠さない。」
(前掲『朝日新聞』記事より)

 事実上、このコメントをもって、横山秀夫さんの直木賞決別宣言が行われた、ととることができます。

 ただ、これだけではまだ、売り言葉に買い言葉ふうで、怒った勢いで語ってしまったコメントとも読めます。いや、横山さんは本気で、今後いっさい直木賞の候補になるのを拒否するんだな、とワタクシたちに知らされたのが、『上毛新聞』のインタビューでした。

「―「事実誤認はない」のだから、直木賞の主催者、日本文学振興会に疑義を呈した。

「できないと断ずる根拠を示してほしいと申し入れたが、明確な回答がないまま2カ月以上も店晒(たなざら)しにされた。その間、主催者や選考会が再検証を行ったという話も聞かない。要するに、権威ある直木賞選考会の決定は絶対であり、ノミネート作品が傷つこうが死のうが、知ったことではないということだ。それがために、ミスがあったという誤った事実が一人歩きを続け、揚げ句は、ミステリー界や読者を誹謗(ひぼう)する論外な発言までをも誘発した」

―「今後、直木賞に作品を委ねる気はない」と発言しているが。

「もちろん欲しい賞だった。『黙して次のチャンスを待つ』というさもしい考えが頭にちらついたことも確かだが、読者との暗黙の約束もある。これまで、窮地に追い込まれても次の一歩を踏み出す人間の矜持(きょうじ)を描いてきた。作者と作品は無縁ではあり得ない。今回のことを看過してしまっては、作家として一歩も前に進めない。一行たりとも書くことができない」」
(前掲『上毛新聞』記事より)

 それ以後、「決別宣言」に関する記事はいくつかの新聞・雑誌に載りますが、そこで横山さんが語る決別の真意は、ほぼこの記事どおりのものです。

 まあ、横山さんの怒りを沸騰させたのは、主催者の日本文学振興会が、横山さんからの訴えを無視した、っていう姿勢にありそうです。でもさかのぼれば、そもそも騒動に火をつけた真犯人が、林真理子さんであったことは自明の理。

 作品の論評だけしてりゃよかったものをねえ。わざわざ、ミスを見抜けなかったミステリー界がどうだだの、欠陥作品を感動作とか言って買ってる読者のなんとまあ多いことよだの、作品評とは関係ないことを、ぬけぬけ語っちゃう真理子さん。そうか、彼女が一介のコピーライターからここまで人気を博してやってこれたのも、歯に衣きせぬ発言っていいますか、けっこう多くの人が不快に思うにちがいないことをあえて口に出してきたからだもんなあ。それで、支持を得たり、はてまた面白がられたりして、それが真理子さんの魅力、そして嫌われるポイントだろうからなあ。

 その真理子マジックに、まんまとヤられたのが『半落ち』であり、横山さん。それと横山さんの直木賞受賞を心待ちにしていた担当編集者や、多くのファン。プラス、悪者に仕立てあげられることになった日本文学振興会。もっとも心を痛めたのはきっと、文藝春秋で横山さんを担当していた編集者だったかも。

 おお。真理子マジックよ。周囲に迷惑をかけることで、その存在意義を輝かせる負のパワーたるや。さすがです。惚れ惚れします。

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2009年5月31日 (日)

史上唯一の70代候補。年下の連中から酷評されて、受賞の望みも断たれて、ややムッとする。 第112回候補 池宮彰一郎『高杉晋作』

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第112回(平成6年/1994年・下半期)候補作

池宮彰一郎『高杉晋作』(上)(下)(平成6年/1994年11月・講談社刊)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2009年5月24日 (日)

迷惑と心配をかけた家族のために、お父さんは40歳をすぎてから書き始めました。 第110回候補 小嵐九八郎『おらホの選挙』

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第110回(平成5年/1993年・下半期)候補作

小嵐九八郎『おらホの選挙』(平成5年/1993年10月・講談社刊)

 山口洋子女史が阪神タイガースの大ファンで有名だとするならば、この方だって相当なもんです。

 本名、工藤永人さんはペンネームをつけるときに、タイガースの応援歌「六甲おろし」からの連想で、「小嵐」としたのだとか。しかも、小説デビューとなった作品は題名が「嗚呼、虎が吼えずば」。作品中に昭和60年/1985年の阪神快進撃と優勝のことが織り込まれていて、さすが虎キチ、念が入っています。

 もっとも、「嗚呼、虎が吼えずば」辺りのハナシは、それほど小嵐さんのプロフィールに書かれることがなくて、あれ、あんまり言っちゃいけなかったんですか? ううむ、たとえば胡桃沢耕史ぐらいになるともはや、「性豪」とか言われて伝説にまでなるんでしょうけど、有名になる前にポルノチックなもの(あるいはポルノそのもの)を書いていたって履歴は、ふつうは筆歴にかぞえないんだろうなあ。姫野カオルコさんを例に出すまでもなく。

 小嵐さんの前歴といえや、そりゃあ、新左翼、社青同解放派の活動家だったことが知られています。そこから離れて、金を稼ぐために物書きになった、その入り口がポルノ分野だった、とはご自身の弁。たとえばこんなインタビュー記事があります。

「作家になったのは金のためと言う。

「刑務所から出てきたら、組織が割れてた。組織の専従者って、労働者のカンパで食ってるんだけど、労働者はみんな右のほうにいっちゃってた。でも、ぼくは左が好きだから」

 しょうがないからポルノを書いて売り込みに行った。(引用者中略)

 もっとも、小嵐九八郎のポルノを探しても無駄である。すべて別のペンネームで書かれている。(引用者中略)

 ポルノの原稿は安い。これではたまらないと、書いた小説が『小説クラブ』で佳作になった。そこで小嵐九八郎の誕生となる。」(『噂の真相』平成8年/1996年1月号「メディア異人列伝」 インタビュー・構成/永江朗 より)

 いやいや、桃園書房の『小説CLUB』だってバリバリのポルノ系小説誌じゃないの? とかいうツッコミは、そうですよね、大人げないですよね。

 それで昭和61年/1986年の第9回小説CLUB新人賞の佳作に入ったのが「嗚呼、虎が吼えずば」(掲載は同年7月号)でした。ちなみにこのときの受賞は、千代延紫さんの「ピンキードリーム」。とかいって、小説CLUB新人賞については、ワタクシもよく知らないんですが、同賞受賞作家でもある冴島学さんが、ご自分のホームページでまとめられています。

 小説の原稿料のことは詳しくありませんけど、そうですか、ポルノは安いんですか。だとすると、『小説CLUB』に「小嵐九八郎」名義で発表するようになってからも、そんなに稼げるようになったわけじゃないのかもしれません。まもなく小嵐さんはちがう分野に進出していきます。

「十三年ほど前か、ある小説誌の佳作に入選した時に、編集者が我が家に遊びに来た。

 編集者は、居間に大きなびくがあり、釣り用のどでかいマグロ鉤も視野に入れ、竿があるのも見て、

「君は魚を釣るのかね」

 と尋ねた。

「まあ、想像に任せますよ」

「どんなもの釣るの」

「まあ、あのびくを見ればわかるでしょう」

 おれはいい加減に答えておいた。

 が、後日、その編集者は勝手に、「君は釣り名人だ。小説家としての売りのコピーが決まった」といいだし、おれの処女長編『巨魚伝説』(祥伝社刊)を出したのであった。」(平成12年/2000年4月・青樹社刊 小嵐九八郎・工藤紘子・著『川崎山王町 小嵐家の台所 都会でできる田舎暮らし』より)

 それでも小嵐さんは「釣り作家」として一家を成すような道には進みませんでした。編集者の狙いは失敗したわけですが、頼もしいことに小嵐さんは別の方向で、しっかりとおのれの小説世界を切りひらいていきます。元・新左翼の活動家、大学生の頃から40歳ごろまでずっと「現役」で、その間に刑務所ぐらしも経験、といったところから、特異な小説を次々と生んでいくことになるのでした。

 特異、と言っていいんでしょうねえ。それまで主にノベルスや文庫を出しつづけてきた小嵐さんが、自身の遍歴を想像させる、左翼運動にのめり込んでいく青年とその家族のことを小説にしてハードカバーで刊行、そしたら、版元が実業之日本社だっつうのに、いきなり直木賞の候補に挙げられて、小嵐九八郎ここにあり、の姿を見せてくれたんですもの。

 ……と、ここまで来て、今週とりあげる名候補作は、まさにその『鉄塔の泣く街』(第106回 平成3年/1991年・下半期 候補)です、あらすじは……と続けたいところなんですが、ストップ。

 ご紹介するのは、第110回候補の『おらホの選挙』です。なぜか。『鉄塔の泣く街』より、『清十郎』(第108回 平成4年/1992年・下半期 候補)より、「風が呼んでる」(第112回 平成6年/1994年・下半期 候補)より、ワタクシが好きな小説だからです。ただそれだけです。

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2009年5月17日 (日)

「くるくる」に凝縮された、地方の作家志望者がかかえるモヤモヤと、あきらめきれない夢。 第98回候補 長尾宇迦「幽霊記」

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第98回(昭和62年/1987年・下半期)候補作

長尾宇迦「幽霊記」(『別冊文藝春秋』180号[昭和62年/1987年7月])

 世間の潮流にまどわされず、あえて自分の信じる道を進もうとする姿は、いつの時代も美しいもんです。文学を志すぞ、よし、俺もいつかは芥川賞を、とか言っている連中とは一線を画して、昭和30年代にわざわざ「大衆文学同人誌」と銘打ったものを、なけなしの費用をはたいて出す、っていうのは、偉いもんだよなあ。

 以下は、当時『文學界』の「同人雑誌評」で、林富士馬さんが語った一節。

「チェーホフも、先ず何より短く書く練習といったことを、文学的才能のために、説いていたと思う。ショート・ショートの流行というのは、はじめから、読物としての技術の話であって、文学とは又別な噺である。又尤も、人生は何も文学万能の筈もなく、文学であろうが無かろうが、そんなことには拘りなく、自分には娯楽読物だけが必要だという人だっているし、現に、大衆娯楽専門の同人雑誌だって、幾つか存在している。「東北文脉」(盛岡市、二集)などもその一例。」(『文學界』昭和37年/1962年7月号「同人雑誌評」より)

 頼もしいじゃないですか、『東北文脈』。これの編集兼発行人こそが、若かりし頃(つっても30代なかば)の長尾宇迦さん。同誌は顧問に先輩作家の鈴木彦次郎さんと、岩手放送社長の太田俊穂さんを担ぎ上げているものの、同人はキッパリ三人きりです。発行所の名前も「三人の会」。

「第一号では、多くの人たちから好意をいただいた。改めて感謝しておく。

 また、会に加わりたいという方もあったがまづ、当分は、我儘を許してもらいたいと思う。(引用者中略)

 文字(原文ママ)の道は、きびしいものとは、心得ているつもりだが、ふと無駄なことをしているような、さみしさにおそわれることもある。

 ただ、出来ることなら、偉大なる無駄にしたいものである。」(『東北文脈』2号[昭和37年/1962年4月] 長尾宇迦「編集後記」より)

 高校教員として勤めながら、長尾さんは『北の文学』誌などに投稿、地元ではちょっと名の知れた作家になって、この『東北文脈』を経て、昭和39年/1964年には第2回の小説現代新人賞を受賞します。

 しばらく「小説現代専門作家」みたいな道を歩んだのち、昭和46年/1971年にいたって、つまり45歳ごろにとうとう教員を辞め、作家一本でいくことを決めたのだそうです。

「かつて岩手にあった「北の文学」の流れをくむ「文芸岩手」(水沢市)が今年(引用者注:昭和46年/1971年)八月、丸二年ぶりに第八号を発行、注目を集めた。創刊以来陰の力となってきた長尾宇迦氏が、教員と作家の二足わらじに別れを告げ、この春一本立ちの作家として東京に移住したことに刺激されての発行だった。」(昭和47年/1972年3月・五月書房刊『同人誌年鑑 一九七二年度版』所収 岩手日報学芸部・及川和哉「概観 岩手」より)

 そこからさらに、長尾さんの情熱と執念の生活が(おそらく)深まっていったことでしょう。10数年たって長尾さんはエッセイ「妻への詫び状」にて、

「最初に私は、決して入婿の身の上ではないことを断っておきたい。が、ツマの前では、ともすると、「申しわけネ」といってしまうのだ。私の住んでいる岩手あたりでは、(申しわけない)とは、感謝、ありがたい、という意味がつよく、とくに「ネ」の発音に、いわくいいがたい微妙な加減がある。(引用者中略)

 とかくするうち、教員稼業にもやや情熱を失ないかけて、チョンにした。「申しわけネ」と、ツマにいったが、相手は福々しく笑っていた。」(『小説現代』昭和58年/1983年2月号「妻への詫び状 ヒョーショージョもの」より)

 上京したはずの長尾さんが、どうやらまた故郷に舞い戻ったらしいのを見て、事情は存じませんけど、作家稼業の大変さがにじんでいるようでもあり。

 50代を超して還暦をすぎ、やあ、よくぞ大衆文学の道を投げ出すことなく、邁進していただきました。昭和62年/1987年、『別冊文藝春秋』にご登場。よっ、待ってました。

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2009年5月10日 (日)

この無冠の士の前を、直木賞もやっぱり素通り。そのかわり半年で700万円を落としていきました。 第87回候補 飯尾憲士「自決」

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第87回(昭和57年/1982年・上半期)候補作

飯尾憲士「自決」(『すばる』昭和57年/1982年6月号)

 2週前第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補、田中穣『藤田嗣治』をとりあげました。このあと、直木賞ではプチブームが起こります。伝記もの(とくに近現代に生きた著名人の伝記)がさかんに候補に挙げられたのです。

 福岡徹さんの『軍神』(第63回)と『華燭』(第66回)、梅本育子さんの『時雨のあと』(第64回)、藤本義一さんの「生きいそぎの記」(第65回)などなど。ただ、推理小説やSFがそうであったように、伝記ものもやはり、直木賞の本流とはなりませんでした。

 もうひとつ、『藤田嗣治』からこっち、直木賞のなかを吹き荒れた風があります。ノンフィクションです。

 今の直木賞は、小説小説したものしか眼中に入らなくなってしまったようで、よほど予選選考している文春社員が気張らないと、ノンフィクションなど候補に挙がらないでしょう。でも、平成の声を聞くまでの十数年間、確実にノンフィクションが直木賞の骨格をささえていた時代がありました。

 その代表選手といって思い浮かぶのは、これでしょう。飯尾憲士さんの「自決」。副題は「森近衛師団長斬殺事件」。

 初出は『すばる』誌の昭和57年/1982年6月号です。どどっと520枚一挙掲載。これの単行本化を待たずして、昭和57年/1982年の上半期の候補としてすくい上げた、当時の日本文学振興会の目配りの広さに、ワタクシは拍手を送りたい。

 この作品は、田中穣『藤田嗣治』とちがって、はじめっから自分がノンフィクションであることを宣言していました。

 『すばる』誌の表紙と目次に、編集者がこう書いています。

「日本終戦史の謎に挑む長篇ノンフィクション」

 ははあ。ノンフィクション。あの飯尾憲士さんがねえ。熊本の同人誌『詩と真実』にのっけた「炎」に始まり、中央文壇に足がかりを得たのちの「ソウルの位牌」「隻眼の人」と3度も芥川賞候補になったことのある、あの飯尾さんが。520枚のノンフィクション。

 さすがにこの作品を、芥川賞候補にはできないもんなあ。長さといい、体裁といい。ほとんど枠組みをもたない直木賞なんてものがあったおかげで、ほんと幸いでした。作品の性質上、もしかして直木賞の候補になどならずとも、単行本『自決』は売上げを伸ばしたとは思いますが、直木賞候補作の名は多少なりとも後押ししたことでしょう。それで、筆一本で生きていた飯尾さんの懐がちょっとでも潤ったのなら、ほんとよかった。

「この七、八年間で、いっぺんだけ大いに収入があった。『自決』という本が集英社から出版されたとき、アレヨアレヨで、半年間で七〇〇万円以上ザクザクと手にした。友人と一〇〇万円程飲んで、あとは全部細君にやった。私は、背広一着も作らなかった。一つだけ買った。下駄である。いい下駄であった。」(平成5年/1993年11月・蝸牛社刊『怨望―日本人の忘れもの』所収「ユダよ、あなたの誠実を謳う」より)

 おせっかい焼きの直木賞も、時には、人助けをすることもあるみたいです。

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2009年5月 3日 (日)

1970年代、NOWでHOTなフィーリングが、直木賞の扉をたたく。 第73回候補 楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」

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第73回(昭和50年/1975年・上半期)候補作

楢山芙二夫「ニューヨークのサムライ」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号)

 70数年におよぶ直木賞の歴史をひもとくにあたって、若さ・年齢・世代、そういったものを尺度に持ってくるやりかたも、きっとアリです。

 たとえば、もうひとつの文学賞のほうでは、20歳を下まわる手垢のついていない女のコとか、ドロドロした実社会にさらされる前の、何か新しいものを持っていそうな学生サンたちを、ときどき候補に挙げる手法を使って、世間の気をひいたりします。それに比べて、こちらの文学賞は、そういう切れ味するどい武器を持っていません。それでも、作家の年齢をテーマに一ネタ、いや一冊の本になるぐらいのネタはたぶん詰まっています。

 それでご登場願うのが、楢山芙二夫さんです。直木賞の世界では「ナラヤマ以前、ナラヤマ以後」っていう言葉がひんぱんに使われる……かどうかは知りませんけど、いや、そのくらい重要な作家なんですよ。

 戦後世代にして初めて、直木賞候補になった方だからです。

 昭和23年/1948年6月生まれ。候補になったのは第73回、昭和50年/1975年7月ですから27歳になったばっかのとき。

 いわゆる団塊のアレなわけです。そりゃあ、この世代の作家やら作家志望者やらの数だって、カタマリをなすほど多かったはずでして、でもそういった人たちはたいてい、もうひとつの文学賞の領域に心奪われてしまって、直木賞のほうの世代交代はもう少し時間が必要でした。そして楢山さんにしても、一歩間違えば向こうの文学賞に持っていかれかねない素質の持ち主だったんですけど、おっとびっくり、なぜか直木賞候補。カタマリの群れを抜け出して、「直木賞史上初の戦後作家候補」なんちゅう、どえらい座を射止めてしまったのでした。

 昭和50年代のときにまだ30歳前。いまの時代でもまだまだ現役。つうか作家としてはこれからが楽しみな世代。なはずなのに、すでに楢山さんが一仕事終えて、遠くに去ってしまったのは寂しいなあ。

 楢山さんの直木賞劇場への登場は、たしかに刺激的でした。作者本人が「新しい世代」であった、という他にも、候補作の「ニューヨークのサムライ」がこれまた「いかにも」と膝を叩かせる体裁だったからです。つまり、楢山青年、岩手の片田舎から上京してきて学校で演劇を学ぶも、卒業後すぐさま単身アメリカに渡り、そのときの経験を生かしてニューヨークの若者文化を題材に小説を書いた、と。

 ……なんかこれだけ聞くと、それこそ団塊のアレにはゴロゴロいそうな、若さと無鉄砲さだけを売りにして、海の向こうを旅して、そのことを書いて、でもそれだけしかなくてすぐ消えていった根なし草野郎のひとりか、で終わりそうです。でも、楢山さんは詩人であり、それ以上に小説家でした。

 そのことを「ニューヨークのサムライ」一篇から見抜いた、当時(第46回)のオール讀物新人賞の選考委員たち、その選評の一節とともに紹介させていただきます。

 伊藤桂一さん。かなり推しています。

「「ニューヨークのサムライ」は、ときに逸脱をしながらも、若いエネルギーを全力的にぶっつけて、自身の可能性をどこまでも追求してゆこうとしていて、壮快な後味が残る。頭のよい、手ぎわのよい、タレント的感性も、ある。」(『オール讀物』昭和50年/1975年6月号選評「二篇をともに推す」より)

 吉村昭さん。褒めた上に、心配までされています。

「「ニューヨークのサムライ」に、感心した。文章、構成すべてがのびやかで、このような才に恵まれた新人はめったに出るものではないと思った。二十六歳という若さは一般的な意味で貴重なのだろうが、そうとばかりは言えない気もする。ひとたび些細な個所でバランスをくずすと、たちまち全体が乱調におちいるような旋律に似た文体。そのようなあやうげな歌を若くして歌い、今後も長い歳月歌わねばならぬだろう作者は、果してしあわせなのか、などとそんなことまで考えさせられた作品であった。」(前掲選評「若さと才能」より)

 駒田信二さん。やや、つくりすぎなところをたしなめています。

「「ニューヨークのサムライ」は、うまい、達者な小説である。アメリカ文明の一面をするどく突いている眼もあって、話もおもしろく、なかなかの力作だと思ったが、イタリーでの「カツオ」の話や、ニューヨークの婦人警官のプロスティチュートの話など、つくりすぎの感じられる点が気になった。」(前掲選評「さまざまなタイプ」より)

 井上ひさしさん。少しの留保つきで、大きな才能をたたえています。

(引用者前略)事柄をそのまま記すのではなく、いったんは自分の「個性」という坩堝をくぐらせ、なにかほかのものにたとえてゆくやり方、これが作家の「錬金術」というものだろうと考えるが、この作品にはそれがいたるところにあった。またニューヨークという大都会に作者が真正面からぶつかって、すこしも負けていないところにも大きな才能を感じさせられた。

 もっとも心配もないではない。この作品はいってみればバラエティショーである。そしてドラマをこなせるかどうかはまた別の問題だからだ。」(前掲選評「坩堝の火度」より)

 黒岩重吾さん。酔っています。「酔う」とは黒岩さんが選評でしばしば使う賛辞です。

「「ニューヨークのサムライ」を読み始めて直ぐ、私はこの作品に酔い始めた。(引用者中略)婦人警官と主人公との絡みの場面に来て、一瞬、私の酔いは醒めかけた。何故、こんな作り話を入れたのか、と残念だった。だがそれにも拘らず、読み終った後、私は矢張り酔っていた。

 もう二十年若く、健康だったなら、世界を放浪してみたい、とさえ思った。それ程、素晴らしい作品であり、才能である。

 もしこの作者が、若さと才能に溺れなかったなら、一時代を築く可能性を秘めているような気がする。」(前掲選評「衝撃的な「ニューヨーク」」より)

 この回のオール讀物新人賞では、「やっとこ探偵」でデビューする前の下田忠男さん――のちの志茂田景樹さんが「大寄進」で最終候補にまで残っていて、伊藤桂一さんが「この人は長続きするだろう」と慧眼を発揮しちゃったりしているんですが、まあそれは措いときます。

 楢山さんは受賞して、直木賞候補に二度なって、それからハードボイルド系に進みます。正直、黒岩重吾さんの言う「一時代を築く」ところまでは行かなかったと思いますが、逆に、少ないながらも「楢山芙二夫はオレだけの作家だ」と深ーく愛する読者たちを獲得しました。

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2009年4月26日 (日)

小説すぎたので候補に挙げられ、小説すぎたので落とされた稀有な作品。 第62回候補 田中穣『藤田嗣治』

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第62回(昭和44年/1969年・下半期)候補作

田中穣『藤田嗣治』(昭和44年/1969年10月・新潮社刊)

 ひとつの場所にじっとしていられない直木賞は、ときどき「大衆文学」なる領域から、外に手を出そうと試みます。そのため時に、よそから煙たがられたり、人の人生を迷わせたりとよけいな迷惑をかけます。

 このハナシで代表的な例を挙げるとすると、たいてい「純文学」に対するチョッカイです。檀一雄さんや梅崎春生さんなんて、ねえ。直木賞のせいで、いったいどれだけイヤな思いをさせられたことか。ほんと、すみません。

 読売新聞の美術記者、田中穣さんも、もしかしたら直木賞のお節介のおかげで、要らぬ障害と戦わなきゃならなかった人かもしれません。

 穣さんは、芸術家の伝記っていう世界に大いなる足跡を残したと思います。でも、あまりに読みやすく、エピソードとストーリー性に富んで、そのおかげでワタクシみたいな無知な一般読者に受け入れられる反面、「評伝としては軽すぎて、資料的には見るに値しない」とか言われていたとしたら、穣さんには心外なのかもしれないな。

「フジタの生いたちから死までの“人と作品”の全容を、フジタと直接かかわりあった人たちの記録や談話を通じて浮き彫りしようとした私の最初の『藤田嗣治』は、まず総合雑誌「自由」に連載された。昭和四十三年(一九六八)十月号から翌年四月号まで(引用者注:実際は昭和43年/1968年11月号から翌年5月号まで)の七回、巻末の小説的な読物の扱いを受けた。連載がはじまって二回目が店頭に並んだとき、新潮社の出版部から本にしたいという申し入れがあり、連載後に加筆したものが昭和四十四年(一九六九)十月に出版されたのである。」(昭和63年/1988年2月・芸術新聞社刊『評伝藤田嗣治』所収「あとがき」より)

 「巻末の小説的な読物の扱いを受けた」なる表現に、穣さんの口惜しさが滲んでいる気がします。

 扱いを受けたも何も、事実、『自由』誌に連載したときは、題名が「小説 藤田嗣治」でした。題名にどれほど穣さんの意思が反映されていたか事情は知りませんけど、これが新潮社から本になるときには「小説」の言葉を外して、『藤田嗣治』となります。

 でも、それでも世間は、これを小説的な扱いでもって裁こうとします。直木賞のなかでも、とくに領域拡大の先頭にあった大佛次郎さんが、こいつをわざわざ、小説しか議論しないはずの直木賞の場に引きずり込みます。

 せっかく「小説」の文字を消したのに、お節介な直木賞ったら、またも『藤田嗣治』に小説っていう色眼鏡を当てちゃったのね。そこで議論ふんぷん、直木賞史上に残るせめぎ合いの選考があって、結局受賞はのがすのですが、穣さんはやっぱり「小説」のレッテルを剥がしたいと思ったのでしょうか。

「こうして(引用者注:直木賞の審査で最後まで問題にされて)私の『藤田嗣治』は、一応の話題を呼んだことで、よく売れた。初版の部数は、そうながい期間を経ないうちに一冊も残さずに売り切れ、以来、私がいうのもおかしいが、伝記上の藤田を知るには欠かせない必読書の一つのように美術界では見られてきている。これを文庫でとか、あるいは単行本で復刻再版したいとかいった希望が、二、三の出版社から寄せられてきてはいたが、私はいつか機会を見てこれに大きく手を加えたい気持を持っていた。(引用者中略)

 一九八六年(昭和六十一年)は、フジタの生誕百年に当たる。このときに当たって、まずフジタを語る本格的な連載を、「アート・トップ」でやり、それを一冊の本にして出さないか、という話が芸術新聞社から私に寄せられてきた。この本を決定的なフジタ評伝とし、美術界といわず広く世界の読書界に送りこもうではないか、という気宇壮大な申し入れに、私は喜んで共鳴した。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第一章 数々のフジタ伝説をめぐって」より)

 『アート・トップ』での連載のときは「星がまたたいていた――ピエロ愛し レオナルド・フジタの立像(ルビ:スタチュー)――」なる題だったんですが、本にするときに題名を変えて、バシッと『評伝藤田嗣治』。「評伝」の二文字に、小説じゃないんだよ、あんなものと一緒にするな、っていう穣さんの長年の苦しみが籠もっているようでもあり。

 『評伝藤田嗣治』は、新潮社版『藤田嗣治』での基本的な解釈や筋のながれを踏襲しつつも、大幅に加筆されています。その新たな筆の部分にも、やっぱり穣さん、小説として見られたのはイヤだったんだな、と思わせる箇所があります。

(引用者前略)私は、フジタの実像に迫るのに、フジタならびにその周囲の調査取材を可能な限り徹底してきた。取材を密にして、すでに他界したフジタの内面を探ってきたわけである。が、今回は、これまで主として外から攻めてきたフジタの内部に、あえて評者の私がはいりこんでみることにした。フジタの内側から、フジタのなまの声を聞きとろうとする試みである。これまでの取材調査で、外にあらわれたフジタのおよその言動は押えてあるので、これからの私の試みはまちがっても読むにたえぬ“三文小説”や、見るにたえぬ“三文オペラ”式のものにはならないと思う。」(前掲書『評伝藤田嗣治』所収「第十章 さようなら、日本」より)

 ただ残念ながら、評伝として読めと言うけど、穣さんの想像を、それと断りもなく入れすぎじゃない? って読まれかねない危険はあるんでしょう。芸術家の評伝を専門とされているらしい湯原かの子さんは、平成18年/2006年の段階で、

「そこ(引用者注:パリ滞在中のフジタが最初の妻とみに宛てた書簡)には、たとえば田中穣の評伝『藤田嗣治』(一九六九)――これは美術記者ならではの裏話にも富み、ケレン味のきいた面白い読み物なのだが――に描かれた軽薄で冷酷な藤田とは異なって、真剣に芸術に取り組み精励刻苦する無名時代の藤田の意外に真面目で真摯な一面が読み取れて、きわめて興味深いのである。」(平成18年/2006年3月・新潮社刊『藤田嗣治 パリからの恋文』より)

 などと、あっさり「読み物」扱いしちゃったりして。

 ああ、小説にしては評伝すぎ、評伝にしては小説すぎる穣さんの『藤田嗣治』。たしかに境界線上の好きな大佛次郎さんが、賞賛するのもわかります。ワタクシまでも面白がって、直木賞の名候補作として取り上げちゃって、穣さん、心からすみません。あとに生まれた人間が、好き勝手なことぬかすのは、後出しジャンケンしている特権なのでして。許してください。

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2009年4月19日 (日)

執念に憑かれると成功とか不成功はどうでもよくなる。うん、わかる、わかるなあ。 第60回候補 浅田晃彦「乾坤独算民」

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第60回(昭和43年/1968年・下半期)候補作

浅田晃彦「乾坤独算民」(『小説と詩と評論』62号[昭和43年/1968年11月])

 いつもながら唐突ですが、まずは浅田晃彦さんが候補になった証拠物件から。そのときに主催者から送られてきた2種類の通知書の、全文を引用します。

「前略 此の度貴作品「乾坤独算民 小説と詩と評論11月」が直木賞予選作品に推薦されておりますので、今後の参考に致したいと存じますから、誠に御手数ながら折返し左記の箇条につき御回答下さい。

一、本名と筆名(両方にふりがなをおつけ下さい)

一、現住所(電話番号、又は連絡先もお書き下さい)

一、略歴(生年月日、出生地、学歴、職業等)

一、作品歴(掲載誌、月号、発行年月、及び発行所等、単行本についてもお書き下さい)

一、顔写真(鮮明なもの、後程お返し致します)

以上要用のみ 匆々

 昭和四十十二十三

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦様

 そして、もう一通。

「謹啓 先般来御履歴や作品 お写真などでは お手数を煩わせました 有難く御礼申し上げます

第六十回芥川賞直木賞の選考委員会は 来る一月二十日(月)夜 築地の新喜楽で開かれ決定発表は例年七時半か八時頃になります その時 早速貴殿の当落をお知らせいたしますので当夜その頃においでの場所と電話番号を承りたく存じます

御多用中恐入りますが 折返し御返事下さい

尚 両賞の贈呈式は 来る二月七日(金)夕六時より 第一ホテル(港区新橋一ノ二ノ六)で開かれます 受賞のお方には 御出席頂くことになりますので 予めお含み置き下さいますよう 先ずは右お願いまで 末筆ながら 御自愛祈り上げます

匆々

昭和四十四年一月八日

 財団法人日本文学振興会

(郵便番号、住所、電話番号は引用者略)

浅田晃彦殿

 以上はともに、『図録 第6回記念展 桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦―』(平成10年/1998年10月・群馬県立土屋文明記念文学館刊)より、筆写引用しました。上が、「直木賞予選作品通知(昭和43年12月13日付)」、下が「直木賞予選通過通知(昭和44年1月8日付)」、ともに土屋文明記念文学館蔵です。

 太字+下線の部分はペンの手書き箇所、他は印刷された字面です(前者の「直木賞」のところだけは、見るかぎり、ゴム印っぽいです)。

 もうこんな文面を見たら、ねえ、誰だって、この前後の時期(第58回第59回第67回)に候補になった筒井康隆さんの、あの『大いなる助走』を見返してみたくもなりますよね。さあ、あなたもお手元にあるこの小説の、ACT3/SCENE10と、ACT4/SCENE8に掲げられた2つの通知書と、見比べてみてください。

 『大いなる助走』では年月日は省かれていましたが、前者の通知では「昭和四十 年」と、一ケタ目の数字を記入すればいいようになっていて、なるほど十年単位で使いまわす心積もりだったんだなと、ほほ笑ましいかぎりです。

 いや、こんなふうに書き出したからといって、今回は『大いなる助走』をどうのこうの語るつもりはありません。主役は浅田晃彦さんです。愛情を込めてテルさんと呼ばせてもらいます。

 「乾坤独算民」、いやあ知的興奮に満ちあふれた楽しい小説じゃないですか。群馬の文学史に興味も関心もなく、浅田テルさんの名などはじめて聞いた、って方にもぜひおすすめしたい一篇です。

 とか言って毎度嘆かなきゃいけないのは芸がないんですが、テルさんを、群馬一地方の偉大な文化人ってだけで置いておくのはもったいないよなあ。

 テルさんは謙虚な方だった(らしい)から、すぐこんなこと言うんですけど。

(引用者注:船医になったのは)船に乗りながら傑作をものし、芥川賞かなんか取って職業作家になるもくろみだった。「オレンジの皮」「潜める声」で作家賞という同人雑誌賞をもらったが、海の生活にくたびれてしまい、陸に上がることにしたのだった。

 作家賞の作品を見て『文学界』から「次作を見たい」と声がかかった。勇躍して「サイゴンの夜」を持ち込んだ。担当は田中健吾という美青年(後の文春編集長)だったが、突っ込みが足りないという判決だった。奮発して「狐穴」を提出した。これも採用されなかった。僕はあんな若造に文学が分かるものかと諦めてしまった。(引用者中略)

 文学の方には運がなかった。直木賞候補になった「乾坤独算民」は落選し、次の「帝王切開事始」は候補に上がらなかった。運ではなく才能がないのである。

 すでに七十七歳、この道を行くしかない。医者になりそこない、作家にもなりそこなった生涯である。」(『風雷』第115号[平成5年/1993年5月] 「往事茫々(十)」より)

 あるいは、こんなふうなことも。

「船医になった僕は『マラリア戦記』という長編小説を書き溜めた。自分の体験をもとに、戦争中マラリア研究に挺身した青年軍医の行状を描いたのである。これを朝日新聞の一千万円懸賞小説に応募してみた。落選して賞金は夢に終わったけれど、出版者に採り上げられて鉄道ペンクラブ賞を受けた。

 その後直木賞候補に挙げられたこともあるが、世の注目浴びるほどの作品は書けず、すでに老衰してしまった。文学史に名を残す夢も見果てぬまま終わるのである。」(『風雷』第118号[平成6年/1994年2月] 「往事茫々(十三)」より)

 文学史に名が残っている、と誰がなにをもって判定するのか、ワタクシは知りません。ただ、勝手に判定させてもらうなら、テルさんの名はくっきりと直木賞史のなかには刻まれています。名候補作「乾坤独算民」とともに。

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2009年4月12日 (日)

オトナな自主規制で、この作品の落選理由まで封印しようとしたって、そうはさせんぞ。 第43回候補 葉山修平「日本いそっぷ噺」

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第43回(昭和35年/1960年・上半期)候補作

葉山修平「日本いそっぷ噺」(『花』4集[昭和35年/1960年5月])

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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