« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月の5件の記事

2018年6月24日 (日)

昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。

一昨年の朝鮮動乱二周年記念日に新宿スケートリンクで開かれた「国際平和の集い」に集った群衆の流れが新宿駅前東交番などを襲い火炎ビンを投げつけ集団暴動を働いた事件の判決公判は十日午前十時五十分から東京地裁二十一号法廷で加納裁判長係で開かれ、次の判決言渡しがあった。

▽懲役一年、小林勝(求刑懲役三年)公務執行妨害、銃砲刀剣所持違反

――昭和29年/1954年7月10日『毎日新聞』夕刊「小林に懲役一年 新宿火炎ビン事件に判決」より

 東京・新宿駅の東口および歌舞伎町の周辺は、常に何かが暴発しそうな、毒々しさに満ちた一帯ですが、昭和27年/1952年6月25日水曜日夜、その付近に集まった熱気あるデモ隊が、仕事熱心な警官隊と正面衝突。報道陣を含め負傷者20数名を出すという大騒動が起こりました。

 当日は午後5時半から、歌舞伎町にあった東京スケートリンクで、渡辺三知夫さんを委員長とする芸術家集団が、「国際平和記念大会」ないし「国際平和のつどい」と称する大会を企画、そこに2500人ほどが集結していたと言います。朝鮮動乱とも朝鮮戦争とも呼ばれる、コリア半島を舞台にした南北分かれての、例の争いが始まって、ちょうど丸2年となった6月25日、日本に住む朝鮮の人たちをはじめ、日本人の学生、労働者などがぞくぞくと集まり、半島の平和を願いながら、その争いに荷担しようとする日本国家のやり口に不平不満を高め合うこと数時間、盛り上がりのボルテージが上がったまま閉会を迎えたのが午後9時すぎのことです。

 どうやら今日の集まりは(も)過激な参加者が多く、箱詰めの火炎ビンや硫酸ビンが用意されているらしい、との噂を耳にした警視庁は、早くから警備体制を整え、淀橋署の警戒本部に約1000人という、なかなか大人数の警官たちを待機させて、状況を見守ります。

 すると大会終了後、興奮状態を持ち越すかたちで、掛け声を上げ、アジビラを撒きながら新宿駅までやってきた大群が、東口前のあたりに陣取って、インターナショナルを歌いながらビラをまく。これは不穏な雰囲気になってきたぞと判断した警察は、躊躇なく1000人の警官隊を送り込む。怒号やら悲鳴やらが新宿の街にこだまする展開となったところで、ここぞとばかりにデモ隊の一部が、警官隊に向かって火炎ビンや硫酸ビンを投げ込みはじめます。ハナシによれば、その数50本以上。

 押し合いへし合い、混乱は東口から西口にも拡大し、平日夜の新宿駅付近といえば、いまとは様相も違っていたでしょうが、デモとは関係のない帰宅途中の一般人や酔っ払いなども大勢いたと言われていて、デモ隊はそういった群衆にまぎれ込みながら、警官隊に抵抗。そんなことが30分ぐらい続くうちに、警察の制圧が効いて騒ぎは徐々に収束し、検挙者30名ほどを出しながら、26日午前0時すぎに警戒態勢は解除となりました。

 そのなかで、とくにハジけた行動をして目をつけられたのでしょうか、4人が起訴されるまでにいたります。会社員黒沢洋さん、無職金南燮さん、分離公判となった平田虎雄さん、そして雑誌編集業の小林勝さんです。

 このとき、小林さんは24歳。どうしてその場にいたのか、とたどってみると、小林さんの両親は大正3年/1914年ごろ、日本の支配の及ぶ朝鮮に渡った、在朝の日本人で、おのれにとっての朝鮮とは、生誕の土地であり、故郷であり、この国というか民族というか土地との関係性は、小林さんの思想を形成してきた重要な礎です。朝鮮戦争の動向はヒトゴトではありませんし、しかも小林さんは、昭和23年/1948年に日本共産党に入党すると、早稲田大学の在学中にレッド・パージ反対闘争を指導して停学処分を受けるなど、いわゆるバリバリの、バリバリな歩みを見せた人で、昭和27年/1952年の事件のときは、『人民文学』に参加して編集に当たっていたという、正真正銘、バリバリの人でした。

 そのころはまだ、元気と威勢のいい一介の共産党員、ぐらいだったかもしれません。そこから昭和28年/1953年1月に保釈されて以降、小説を書く勉強をはじめ、昭和29年/1954年7月には、一審で有罪の判決を受けたものの、控訴。裁判を争うあいだに新日本文学会に入り、昭和31年/1956年に「フォード・一九二七年」を『新日本文学』に発表します。朝鮮・洛東江上流の山深い町を舞台に、ただ一台の自動車を所有するトルコ人、原住の朝鮮人、植民地化後に入植してきた日本人の関係性を、戦争を背景にして描いたもので、これが芥川賞の候補に選ばれることになったために、一躍、注目の新進作家として名を挙げます。

 このあたりで芥川賞でもとっていれば、のちの展開を含めて、間違いなく大きな話題となり、芥川賞も「ニュースの女神に愛された文学賞」と呼ばれるその特徴を、存分に発揮してくれたと思いますが、昭和34年/1959年、保釈手続きの不備によっていったん収監されるという余波を経て、7月7日、最高裁で判決が確定。懲役一年の実刑、ということで、戦後の作家としてはじめて実刑による刑務所生活を経験することになり、獄中で戯曲「檻」を執筆。翌昭和35年/1960年に出所するとたちまち、『文藝春秋』に「刑務所紳士録」を発表するは、「檻」が劇団民芸で上演されるは、これが第6回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)を受賞するは、「架橋」が3度目の芥川賞候補になるは、と話題性の風は確実に、小林さんのほうに吹きはじめました。

続きを読む "昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月17日 (日)

昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。

警視庁保安課は十七日までに神奈川県鎌倉市二階堂二四七作家清水正二郎(四一)をワイセツ文書販売、同目的所持の疑いで取調べ、出版関係者五人とともに書類送検した。これと同時に十七日までに(中略)去る三月から清水が書いた六十二種の単行本のうち、四十五種計四万一千冊余を押収した。

――昭和40年/1965年12月18日『朝日新聞』夕刊「清水正二郎ら書類送検 ワイセツ文書販売など」より

 他人に対する憎悪と怨嗟で生きている、と言いながら、パフォーマンスや自己売り込みをやってのけ、直木賞史上もっともパンクな作家人生を歩んだ受賞者、と称されることになった胡桃沢耕史さんは、呼吸をするようにゴシップを生産してしまう、という特異な人柄からか、うちのブログでも何度となく取り上げてきました。「犯罪」の観点から見ても間違いなく、忘れることのできない人物です。

 数々ある胡桃沢さん関連の犯罪事件のうち、いちばん有名で、根が深く、また直木賞も関わっているのが、昭和24年/1949年「暁に祈る」事件でしょう。

 胡桃沢さんが清水正二郎の名ではじめて出版した、自費出版だったとも言われる『国境物語』(昭和24年/1949年)は、ぼくはカルチャーセンターに通う主婦みたいに自分の体験そのままの小説は書かない、と豪語するようになる胡桃沢さんの、原点と言ってもいい作品で、モンゴル・ウランバートルの俘虜収容所に抑留されたときの自身の体験を軸としながらも、伝聞、取材、脚色、妄想をふんだんに盛り込んで物語性を高め、いかにもホントのことっぽく仕立てた小説ですが、最大のセールスポイントは、昭和24年/1949年3月15日に『朝日新聞』に掲載され、じつはデッチあげだったと一説に言われる記事から始まった「暁に祈る」事件の実態を、元吉村隊員という触れこみの書き手が、その残虐で非人道的な私刑の様子を描いた、というところにあります。

 ここで胡桃沢さんは『週刊朝日』の座談会に声がかかって出席するなど、あたかもこの事件の暗部を知るスポークスマン役を買って出て乗りだしていくと、吉村久佳=本名・池田重善以外にも悪人はまだまだいる、そのひとりが永井正だと、同誌5月1日号に載った手記(のような小説)「パン」のなかで糾弾、当の永井さんから名誉毀損で告訴される流れになったらなったで、「パン」の内容は創作だったと自分で認めながら、それでも強硬に対決姿勢を崩さない、というハートの強さを見せつけます。

 何よりも、どんなことを言えば話題になるのか把握し、実際にそういう言動をとるだけじゃなく、あまりに仕掛けてやろうという鼻息が荒すぎて、周囲がドン引きしてしまう、この展開が、のちの胡桃沢さんの原点だ、と言える点でしょう。三食ナマ肉を食べる性豪とか、一日に三発やらないと鼻血が止まらないとか、四人も五人も愛人を抱えているとか、性の面で脚光を浴びたときにしきりに繰り返した自己アピールに、一脈通じるものがあります。

 自分の受けた苦しみは、生涯忘れないしつこさ、というのも胡桃沢さんが終生言い続けた特徴です。現に、創作の原点にもなった抑留体験を常に大事に温めて、清水正二郎の名を捨てて新しい筆名になっても、その記憶と手法は捨てず、もう一度改めて書き直した『黒パン俘虜記』が、念願の直木賞受賞作となるのですから、作家として筋が通っている、と言えば、そう言えるのかもしれません。

 その胡桃沢さんが、刑事事件の被告となったのが昭和40年/1965年に送検された、猥褻文書販売・販売目的所持による、いわゆる「シミショウセクシー文学」事件でした。

 アンダーグラウンド小説界の帝王、隠れた流行作家と呼ばれた胡桃沢さん、いや当時は清水正二郎の筆名でしたが、昭和40年/1965年3月に『世界秘密文学選書』(浪速書房)の26点が摘発、5月から7月にかけて13点が追加されると、12月にはさらに4点、計43点が当局から猥褻文書とされて、検察に送られます。

 かつて、他の翻訳家のことを勉強が足りないとケナし、合法のなかで訳しきる技量があるのは自分一人しかいない、と言っていた胡桃沢さんでしたが、いざ違法だと摘発されて裁判となると、猥褻のどこが悪いのか、猥褻とは何なのかを論争したかったが向こうは相手にしてくれない、と検察批判を繰り出し、おれは検察ににらまれているが一度も留置所に入れられたことがないんだ、と呵呵大笑する有り様で、この強がりというか、負け惜しみというか、腹の底が見えない感じは、まったく変わりません。

 その打たれ強いはずの胡桃沢さんが、一斉40数点を猥褻文書と認定されて送検された昭和40年/1965年から、10年以上も経った昭和51年/1976年に筆名を変えたのは、いかなる理由があったのか。これがまた、謎ちゅうの謎に包まれています。

続きを読む "昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月10日 (日)

昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。

有閑不善のバチルス麻雀賭博は先に久米正雄、里見弴氏等一流文士の大檢擧により同好者を戰慄せしめ一時その病根を絶やしたかと思はれたが、(中略)十六日午前五時を期し浦川捜査課長、田多羅係長、渡邊警部補以下卅名の刑事隊を動員し文字通り疾風的に關係者の寢込みを襲ひ、更に同日午後も引續き檢擧洩れの關係者を追窮して徹底的大檢擧を行つた、

(中略)

更に驚くべきことにはこの麻雀の一群は、同好の士の訃に接するやその靈を慰めると稱しては千點十圓の大賭博を開帳してゐたことが判明した(中略)三月一日には芝區田村町の吾妻屋旅館の一室で故直木三十五氏の靈を弔ふと稱して福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛、淵川銀次諸氏で同樣千點十圓の麻雀を開いてゐたものである

――昭和9年/1934年3月17日『都新聞』「麻雀賭博檢擧 文士畫家重役」(昭和40年/1965年5月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成 昭和編年史九年』より)

 だれか親しい人の死に接したとき、生きた人間たちはさまざまな行動をとりますが、そのいくつかは時代の記録に刻まれることがあります。われらが直木賞もその末席を汚す、しがない追悼企画のひとつですけど、人気絶頂の大衆作家と目された直木三十五が、昭和9年/1934年2月24日、43歳で亡くなったことに端を発する現象は、文学賞の創設だけに限りません。

 ここで出てくるのが、とある犯罪事件です。昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて俗世を騒がせたと伝えられる、文士賭博事件というものがありました。

 なにしろ世を騒がせたぐらいなので、この事件には数多くの回想、解釈、言い分が関係各所にあふれ返っており、とうてい全貌は把握しきれませんが、概略をまとめてみるとこうなります。

 昭和8年/1933年11月、東京市下で富裕な婦人や娘に金を貢がせては、淫靡な関係を結んで遊び、帝都の風紀を乱しているとして、ダンスホールで教師をしていた木村政雄こと車均敞や、田村一男などが警察に引致、取り調べを受けたところ、田村に令嬢や有閑マダムを斡旋していた人物として浮かび上がったのが、吉井勇伯爵夫人の徳子です。同月16日、徳子は警視庁に連行され、翌日から取り調べが始まりますが、彼女の証言によって、文士や画家たちのあいだで常習的に花札や麻雀の賭博が横行していることが判明したため、17日午後6時ごろから、名前の挙がった人たちが次々と検挙される事態となります。

 このとき対象となったのは、里見弴とその妻山内まさ、および内妻遠藤喜久、佐佐木茂索とその妻ふさ、中戸川吉二とその妻富枝、久米正雄とその妻艶子、小穴隆一、あるいは美川きよ、川口松太郎、島源四郎、野村真一郎、文藝家協会書記の松本喜郎といった面々で、みな賭博の事実はおおむね認めるいっぽうで、「娯楽でやっていたので悪いこととは思わなかった」と口々に言い、菊池寛が身許引き受けの一札を警察に提出したことが効いたのか、18日早朝には、おのおの釈放。まもなく書類送検され、翌年1月には里見と喜久、佐佐木、久米、中戸川、小穴、野村、島、徳子の9名が起訴、略式での罰金刑、と報じられました。

 しかし、賭け事をやっているのは彼らだけじゃないぞ、という情報を入手した警視庁は、その後も内偵を進め、さらに大勢の被疑者に目をつけると、検挙劇の興奮いまだくすぶる昭和9年/1934年3月16日、麻雀クラブの支配人たちを中心に、常習で麻雀賭博に興じていた医師、実業家、文士、画家などを一斉検挙。広津和郎とその内妻松沢はま、東郷青児などにつづいて、明けて17日には、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三といった文士から、松竹の女優、飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子まで、いっそう名の知れた人たちも連行されることになり、俄然と芸能ゴシップ屋の目をランランとさせる展開を引き寄せます。

 そうはいっても、だいたいが微罪中の微罪だったらしく、有名どころはすぐに釈放され、結局、警察が著名人にまで手を出したのは、世間の耳目を引こうという魂胆だったのではないか、と言われることになったこちらが、俗にいう「第二次文士賭博事件」です。

 うち、直木さんの死に関係しているのは、第二次のほうで、生前大いに可愛がられた福田蘭童さん(尺八奏者)などが2月24日の訃報に接してその死を悲しみ、3月1日、直木さんを追善するための麻雀会を、芝区田村町にあった東屋(吾妻屋)旅館で開催。多賀谷信乃(画家)、川崎備寛(文士)、淵川銀次(貴金属商)といったメンツの参集を見て、千符10円くらいの賭博を行っていたことが明らかになり、最終的に同年5月、この4人は起訴されることが決定して、略式命令による罰金刑が言い渡されました。

 死んでからこんなところに名前が出てきて、直木さんからすれば、トんだトバッちりだ、という感じかもしれませんけど、ともかくもこの事件は、直木賞が創設された時代背景をよく伝えてくれるものだと思います。

 当時の文芸界をとりまいていた国家権力と、遊興と、マスコミ、という三つの要素が勢揃いするなかで、文藝春秋社という、品行方正とは程遠いところにあった雑誌社が、そのいずれにも深く関与していた、ということです。そこには、直木賞がつくられる下地として、三つの要素が奇妙にからみ合う様子をうかがうことができるでしょう。

続きを読む "昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第12期のテーマは「犯罪」。法をめぐる雑多なエピソードから直木賞の歴史をたどってみます。

 直木賞とは何でしょう。文学賞の一種です。当たり前ですね。すみません。

 ところで、文学賞とは何なのでしょう。言うまでもなく「賞」のひとつなんですが、これまで人類が何千年、何万年と歩みながら、おのずと築いてきた社会組織という枠組みのなかで、時代や環境に応じてさまざまにルールをつくり、または破壊したりと、紆余曲折、試行錯誤するところに「賞」という様式が発生、そこから分かれ分かれて発展した枝葉のうちの、ささやかな一形態だと言うことができます。

 と、そんな大昔のハナシは置いておきましょう。20世紀から21世紀にかけての文学賞が、人が人を褒める、という単純な構図から大きく飛躍し、一定の集団・文化圏・社会のなかで別種の性格を担うものに変容してきたことは、多くの人が実感していると思います。「直木賞」といえば、小説や出版とは関係のない分野でも、「小説界における代表的な輝かしい功績」として、当然のように扱われているのが現実です。いったい直木賞とは、そんなにスゴくてエラいものなのか。……いや、スゴくてエラいのかもしれません。ただじっさいは、社会的にそう位置づけているだけで、一人の構成員である自分は、その前提を無意識に受け入れているだけ、という面も否定できません。

 まあ、いろいろ考えたところで、こんなものに結論はなく、だからこそ直木賞に接するのはいつだって面白いのだ、とも言えるんですが、そういう面白さに寄りかかり、身をゆだねつづけて、このブログも12年目。今年は、そんな直木賞と、もうひとつ別の社会現象を組み合わせることで、多種多様な姿をもつ直木賞の一面を、つらつら見てみようと思います。別の社会現象……いわゆる「犯罪」と呼ばれるものです。

 日本語に「賞罰」という単語があります。賞と罰とは、どうやらワンセット、対義の存在と見て差し支えなさそうです。「罰」がイコール「犯罪」とは限りませんけど、しかし見渡してみれば、文学賞のなかでもとくに直木賞(ともうひとつの兄弟賞)のこれまでの扱われぶりは、案外と犯罪報道とか犯罪記事を連想させるものがあります。個々の事例や、ひとりひとりの受け取り方は幅広く、だからこそ批判や賞賛や野次やクソリプが大量に飛び交っているのに、一般的な通念ということでまとまると、どちらも無条件のままに善(もしくは悪)だと認識されてしまっているからです。少なくとも、そのように見えます。

 あるいは、直木賞も犯罪も、だれかが決めた規範や基準がもとになっている、そこにニュース価値があると認める人たちがいて大っぴらにさらされる、という類似性は、たしかにあるでしょう。そんなこんなを踏まえたうえで、これから一年間は、直木賞に何らかつながりのあった犯罪事件を取り上げていくことに決めました。いうまでもなく、直木賞だからといって一様に褒め称える気はありませんし、犯罪と言われたものをひとまとめに糾弾するつもりもなく、現象を現象として並べていくことを、まずは重要視したいと思っています。

 だけども一年は約50週。一週に一エピソードとして、そんなにたくさん事例があるんだろうか。正直、不安ばかりが募りますが、一度決めたことをやめるのも面倒です。直木賞そのものにつながりはなくても、この賞の受賞者、候補者、選考委員などの個人のことに対象を広げて、微罪、冤罪、そのほかもろもろ含めて、昭和9年/1934年から始まった直木賞80余年の歴史を、犯罪というものを軸にたどってみます。例年どおり、なかなか時系列どおりには書けないと思いますが、とりあえず最初は、直木賞と直結した、この賞の兄弟的な事象だと断言してもいいくらいの、たしかに犯罪だと当時の人たちが考えたことがわかっている、一つの事件からスタートです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 3日 (日)

『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)

『全逓文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年11月~平成21年/2009年5月(50年)

●直木賞との主な関わり

  • 各務秀雄(候補1回 第46回:昭和36年/1961年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『全逓文学』掲載作一覧

 直木賞のありようは、さすがにどんな角度から見ても面白いんですが、いっぽう同人誌文化というものも、一度本気で足を踏み入れたら二度と帰ってこられなくなりそうな、魅力や魔力に満ちています。だけど、それぞれの雑誌の成り立ちを知る基本的な調査だけでも、いろんな文献に当たらなければならず、時間がいくらあっても足りません。このまま深淵な泥沼に足をすくわれるまえに、「同人誌と直木賞」のテーマは、今週でひとまず締めたいと思います。

 この一年で取り上げていない、直木賞候補に選ばれたことのある同人誌、直木賞に関係した同人誌は、まだまだ存在しています。有名ドコロの『三田文学』をはじめ、古澤元さんの『麦』、木々高太郎&海野十三&小栗虫太郎の『シュピオ』、海音寺潮五郎さんの『文学建設』、米村晃多郎さんのいた『白描』、井上武彦さんの『文芸中部』、津木林洋さんの『せる』、平成以降では、もりたなるおさんがひとりでつくっていた『回転寿司考』、桜木紫乃さんの属した『北海文学』などなど、とめどなく、たくさん挙げられるでしょう。まったく深淵な泥沼です。

 なかでも、個人的に気になっている一誌に『全逓文学』があります。

 約10年ほどまえの平成21年/2009年に70号で終刊してしまいましたが、昭和の一時期、かなり盛り上がったと言われる労働者文学の世界で、当時数々の問題を抱えていた三つの巨大組織、すなわち電電公社、国鉄、郵便局のそれぞれの労働現場からも、全電通文芸連盟、国鉄動力車文学会、全逓文学会などといった数多くの文学組織が結成され、いまで言うところの「お仕事小説」の、さらに深刻で苛酷なバージョンが、無数の同人誌に掲載された、と洩れ聞いています。

 いわゆる文学系を専門とする人たちには、そういった背景や実作、文学全般にもたらした影響などは常識なのかもしれませんけど、大衆文芸だの中間小説だの、そちらの歴史と労働者文学とは、どのように関連を結んでいたのでしょう。まともに取り上げるのも馬鹿バカしいからなのか、いやワタクシが不勉強すぎるせいで、言及したものをほとんど見かけたことがなく、伊藤桂一さんが「螢の河」で受賞した第46回(昭和36年/1961年・下半期)の直木賞で、全逓文学会の同人誌『全逓文学』から各務秀雄さんの「そこからの出発」が、なぜかポツリと候補に挙げられていることを、どう位置づけたらいいのか、よくわかりません。

 何といっても、この一作、いまどこに行けば読むことができるんでしょうか。

 本気でだれかに教えてほしい、と願うこと十数年、いまだに読むことがかなわずにいて、じっさいの作品を読まずに偉そうに語る恥ずかしさは、十分承知しているつもりですから、『全逓文学』と直木賞とのことは、突っ込んで触れるのを避けようと思いますが、この雑誌が創刊された昭和30年代、全逓文学会は、関東と関西の、二つのグループが同居していたといいます。しかし、どうやら昭和40年/1965年前後に両者分裂。関東グループのひとりだった神田貞三さんが、のちに語るところによると、

「その鋭敏な感受性と旺盛な筆力によって会内のもっとも有力な作家でありつづけた各務秀雄が、その資質の赴くところ当然に会内外の頽廃した空気を感じとって、〈頽廃的な日日〉のなかで「生活に狎れ、文学に狎れ」(会報六〇号)てしまっている会員たちを鋭く告発し、名差されたわたし、神田との会の活動にとって生産的な何ものもつけ加えない討論のあとで、ついに会にとどまる如何なる意味も発見できないとし、「ながき辛抱を」(会報六六号)という辛辣な告別の言葉をわたしたちに残して会を去ってしまった・・・」(『全逓文学』21号[昭和48年/1973年8月] 神田貞三「文学への荷担 会活動の十三年・その断片」より)

 ということだそうで、雑誌そのものは関東のメンバーがひきつづいて続刊、神田さんや清水克二さん、徳留徳さんといった人たちの活躍を、その後も通じてうかがうことができますが、関西グループの実作者のなかで最も期待され、外部からの評価も高かった各務さんは、まったく忽然と消えた作家となってしまいます。

 直木賞はとくにそうですが、消えた消えたと言われていても、案外あとのことまで判明している受賞者・候補者がほとんどです。そんなに簡単に人は消えたりしないもの、ということかもしれませんけど、各務さんみたいに、ここまでパッタリと文学的な歩みを断つ候補者は珍しく、しかも当の候補作ですら、どこで読めばいいのか皆目わからない。直木賞候補になったのはたしかなのに、それを手にとることができない損失感。あまりに堪えがたく、とりあえず、こんなかたちで触れてみました。マジでだれか読ませてください、「そこからの出発」。

続きを読む "『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »