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2018年2月の3件の記事

2018年2月18日 (日)

『VIKING』…昭和30年代、続々と加入した新顔が、直木賞からの息吹を送り込む。

『VIKING』

●刊行期間:昭和22年/1947年10月~(70年)

●直木賞との主な関わり

  • 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和40年/1965年上半期)
    ※そのうち第39回のみ、別の同人誌に発表した作品での候補
  • 川野彰子(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
    ※そのうち第50回は、別の雑誌に発表した作品での候補
  • 津本陽(候補1回+受賞 第56回:昭和41年/1966年下半期~第79回:昭和53年/1978年上半期)

 一回のエントリー程度で、この雑誌のことは何ほども語れないことはわかっているんですが、日本の文学史にそびえ立つ巨大マガジン『VIKING』、あまりにそびえ立ちすぎて、なぜか芥川賞じゃなく直木賞界隈くんだりにまで顔をのぞかせてしまった、偉容にして偉観を誇る同人雑誌です。

 創刊以来70年を超え、関わってきた作家、詩人、評論家、その他もろもろを挙げれば数知れず。ということで、いまさらこんなブログで、創刊までに至るプロセスとかに触れても仕方ありません。ここはひとつ、島尾敏雄さんたちの退会、あるいは小島輝正さんたちの脱退といった、解散・消滅にいたりかねない危機をひらりと回避したのちに、同誌から直木賞候補やら芥川賞候補やらが、ざっくざっくと誕生しはじめる、いわゆる「VIKINGルネサンス」と称された昭和30年代ごろの話題に、絞ってみたいと思います。

 ところで、文学賞の候補作が、どの出版社から出たものか。あるいは、どの雑誌に載ったものか。……というのは一般的に、文学賞を誰がとったか、というのと同じくらい、どうでもいいことでしょう。しかし、どうでもいい文学賞関連事項のなかでは、ある程度、意味のある事柄に属します。

 少し前に取り上げた同人誌『小説会議』では、同人のなかから伊藤桂一さんや早乙女貢さんなど、直木賞の受賞者が生まれました。当然、そのつど同人仲間たちは喜んだんですが、しかし、その一方で「ただ、受賞作が、「小説会議」から出なかったことは、残念なことであった。」(『小説会議』40号・昭和49年/1974年11月「小説会議十八年の振幅」田島啓二郎)と、あとになって愚痴る人もいたぐらいで、自分たちの同人雑誌に載せた作品が、商業編集者に注目されて、出版社まわりの文学賞に選ばれる、というのはやはり、雑誌にとって一層の励みになることはわかります。

 その伝でいうと、『VIKING』の場合、同人たちが他で発表したものが、賞の候補になったり受賞したりすることはあっても、この雑誌に載ったものが、そういうかたちで注目されることは、ほとんどありませんでした。ワタクシの知っているのは、第2回戦後文学賞(昭和25年/1950年度)の候補になった、富士正晴さんによる「一駒」(『VIKING』19号)の一例ぐらいです。

 そもそも、賞で扱われないような作品こそ好んで載せる、みたいな風合いの雑誌だったらしいので、賞に見向きもされないのは、むしろ願ったり叶ったりだったかもしれません。

 しかし、そうはいっても、雑誌に載ったものが文芸誌に転載されたり、賞の候補になったりすれば、ワッと人の目が集まる。それを機に稿料の稼げる作家にもなれる。といったことに、興味のある同人がいたって、別にいいわけです。いつもワイワイガヤガヤ、冗談の掛け合いのような、怒鳴り合いのような同人例会に参加するだけじゃ満足できず、もう少し外界での評判ってやつを存分に浴びながらの同人活動もしたいものだ! ……という空気が出てきたのかどうなのか、しかし編集および発行が、新しい人たちの手にどんどん引き継がれるうちに、少しずつ雑誌の性格にも変化が現われたものでしょう。

 そこに登場したのが、北川荘平さんです。ご存じ、と言いますか、また取り上げるのもためらわれるぐらい、何度もうちのブログに登場してもらっている、直木賞界きっての同人雑誌の雄です。

 くどくなるので、ここはさらっと流しますが、同人雑誌『状況』の行き詰まりを経て、高橋和巳さんの紹介で『VIKING』にやってきた北川さんは、加入して早速、『文學界』編集部からボツを食らって発表場所を失っていたという百数十枚の「企業の伝説」を115号(昭和35年/1960年3月)に発表。これが、『VIKING』誌上はじめて直木賞候補に選ばれることになります。ちなみに、そのときまだ、同誌の掲載作で芥川賞候補になったものはありません。

 116号から加入を許された竹内和夫さんによれば、この当時、『VIKING』はそれまでになく同人の出入りが激しく、誌史において激動の、画期的な時代に突入していた、ということなんだそうです。

 それから約3年後、北川さんのもとに、『VIKING』の編集人をやらないか、という話が持ち込まれ、150号(昭和38年/1963年5月)からその任を負うことになりますが、そのころの編集人ぶりを竹内さんはこう振り返っています。

「彼は当時『VIKING』の編集人をやっていて、「瀬戸内の航海を打ち切れ」などというVIKINGへの陰の評判を真に受けて、自らの作品を押し出すことによって、VIKINGを大海に漕ぎ出す一役を担おうとする、気負いに満ちた顔をしていた。そうした意味で彼は一種の野心家であったが、テレず、臆せず、気負いを素直に声や表情に出すのは、嫌みがなく、むしろ壮快であった。」(平成19年/2007年3月・編集工房ノア刊 竹内和夫・著『幸せな群島――同人雑誌五十年』所収「北川荘平『青い墓標』の発刊」より 初出:『関西文学』昭和56年/1981年10月)

 仲間内だけでケナし合ってハイ終わり、というような狭い活動に甘んじずに、その誌面づくりや掲載作品によって『VIKING』をもっと広く世間に知らしめる。そういった気概が北川さんにはあったのだ、ということです。

 そしてその「野心」は大いに効果を上げ、北川さんが編集している時代に、次から次へと、この雑誌から直木賞候補作、あるいは芥川賞候補作が生まれました。

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2018年2月11日 (日)

『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。

『城』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~平成20年/2008年?(54年)

●直木賞との主な関わり

  • 滝口康彦(候補2回 第55回:昭和41年/1966年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※他、別の媒体での発表作で合計6回の候補

 何か月前に、古川薫さんの、長い長い直木賞候補歴の始まりとなった同人誌『午後』を取り上げました。その古川さんの、盟友とも言うべき直木賞候補者が、二人います。言わずもがな、白石一郎さんと滝口康彦さんです。

 三人ともに、同人雑誌とゆかりの深い作家でありながら、関わり方は当然、三者三様、ひとつの類型にくくれないところが、同人雑誌界の豊潤さ、と言いますか、正解のない直木賞の手広い性格を物語っています。

 古川さんと違って滝口さんは、同人雑誌で注目された人ではありません。20代、自身も病弱で、家族を養いながら、炭鉱での貧乏暮らし、そんな折りに雑誌の浪曲台本の募集記事を見て、試みに応募してみたところ見事に入選、何か月分かの稼ぎを一気に賞金で得ることができたのに味をしめて、投稿生活に入ったのだとか。そのうち、何度めかの挑戦で、第10回オール新人杯(昭和32年/1957年)でいいところまで行き、受賞は佐藤明子(のちの来水明子)さんの「寵臣」に譲りましたが、「高柳父子」が佳作に入って、『オール讀物』に掲載されますと、これが運よく第38回(昭和32年/1957年・下半期)の直木賞候補に挙げられます。

 住んでいたのは佐賀県多久。当時、県内でもこの作家のことを、ほとんど知る者はいなかった、ということです。いまとは微妙にその盛り上がり方も違っていたでしょうが、しかし、選考会の日が近づけば候補者に記者やら何やらが接触し、選考会当日には受賞の会見をやる、という文化はすでに芽生えていて、佐賀のほうでも新聞各社の記者が集まって、滝口さんの共同会見を用意していた……と、当時、西日本新聞佐賀支局にいた桐原一成さんは回想しています。

 けっきょく第38回は、該当作なしの結果となったので、記者たちの興奮もスッと引いたと思いますが、このとき滝口さんが記者たちに語った言葉が、桐原さんによって残されています。

「少しもしょげていなかった。「直木賞は受けられなくても、まだあとに機会があるだろう。これまでの苦しい歩みが世間に認められる。苦労したかいがあった。これからは、文学だけに生死をかけて生きていける」と、少しほおを赤らめて淡々と語る滝口さんからは、自信に似たものがうかがえた。」(『城』89号[平成16年/2004年9月] 桐原一成「作家デビューその夜」より)

 このとき滝口さん33歳。直木賞の候補を機に文筆一本で食っていく決心をし、「佐賀に在住する唯一の職業作家」と呼ばれる、なかなかのイバラの道を選んで歩きはじめました。

 しかし、です。何十(あるいは何百)と出ている数々の雑誌に、作家として原稿を書いて稿料を得る人たちは、昭和30年代のころにも何百人といて、それはそれでいいんですが、一度候補になったからといって、直木賞の候補にふたたび顔を出すのは、かなりの難関です。「職業作家としてやっていけているんだから、もう直木賞はいいだろう」という考え方も、当然あります。別に直木賞は、がんばっている職業作家の背中を押すために始めた賞じゃありません。そのまま行って、滝口さんが二度目の候補に挙がるのは、何か奇跡でも起きないかぎり、まず無理でした。

 というところで、奇跡が起きてしまいます。なかなか文学活動が育たないと言われていた佐賀の地で、純文学の方面に熱をあげる人たちがつくり、どうにか続けていた『城』という同人誌に、時代小説作家の滝口康彦さんが、ついつい幸運にも出会ってしまったからです。

 『城』が生まれたのは、さかのぼって昭和29年/1954年の終盤ごろ。それまで、佐賀県下の文学青年たちは、いくつか雑誌をつくっては長く続かず、お隣り福岡の『九州文学』に参加したりしていましたが、やはり自分たちの地元で自前の同人雑誌をつくりたい、という熱が高まり、1号でつぶれてしまった『未知派』同人の田中艸太郎、都筑均、大塚巖などなどと、佐賀大学の教授を務めていた内山良男、松田又七、水之江有義などなどの、二つのグループが中心となって合体。ここから『城』創刊へと至ります。

 スタート以降、『城』同人の活躍は順調に注目されていき、昭和33年/1958年に田内初義さんの『文學界』同人雑誌優作作転載と芥川賞候補に湧くと、田中艸太郎さんは群像新人文学賞の最終候補入り、昭和34年/1959年その田中さんの評論「地方在住作家、芸術家についての覚書」が『文學界』に転載され、井原淳子さんは女流新人賞候補、昭和35年/1960年に山田敦心が『新潮』全国同人雑誌推薦小説特集に採用されるあいだ、松浦沢治さんは『村芝居』『熊襲部落』を刊行する、といった按配。

 ところが、ただ同じ地域に住んでいる、というだけで集まったグループですから、ちょっと火種がくすぶれば、ハナシがこじれることもあるでしょう。昭和38年/1963年、池正人さんから提出されたランボオの訳詩が、何だこれは誤訳ばっかりじゃないか、こんなもの掲載するな、と木元光夫さんと白川正芳さんが主張したにもかからわず、けっきょく編集委員たちの判断で掲載されてしまったものですから、総会の席で口論となり、こんな同人誌やめてやる、じゃあこっちも、などとヒートアップ。同人は二派に分裂し、第二次『城』と『文学佐賀』に分かれてしまいます。

 滝口さんが、第二次『城』の田中艸太郎さんと知り合ったのは、そのころだったそうです。

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2018年2月 4日 (日)

『文学世紀』…直木賞なんかはさておいて、何と言っても特筆すべきは、地味さと執念深さ。

『文学世紀』

●刊行期間:昭和38年/1963年9月~昭和53年/1978年?(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 姫野梅子(候補1回 第58回:昭和42年/1967年下半期)

 ちょうど50年まえに行われた第58回(昭和42年/1967年・下半期)の直木賞。1月に候補者が発表されたところ、野坂昭如さん、三好徹さん、筒井康隆さんという、すでに名の売れていた人が混ざっており、けっきょくそこから野坂&三好の二名が選ばれて、「冒険ぎらい」の直木賞クオリティをまざまざと見せつけることになるんですが、プロ作家だった早乙女貢さんは別として、いわゆる「同人誌作家」が、そこに3名含まれていました。神戸『風塵』の原田八束さん、京都『三人』の加藤葵さん、そして東京『文学世紀』の姫野梅子さんです。

 このうち、ナゾ中のナゾ、とも言うべき存在が『文学世紀』の姫野さんでしょう。新日本文学会に所属しながら、無報酬で書きたい小説を書く、あまたの同人誌作家のひとりだった、ということ以外、よくわかりません。目ぼしい発表作もなく、ワタクシも直木賞候補になった「首謀者」のほかには、読んだことがありません。

 「首謀者」は、だいたい150枚程度と、同人誌に載せるにはかなり長めの作品です。昭和20年/1945年の終戦直後、といいますから小説が書かれた頃から見て、約20数年前。大分県にある漁村S町で、とある事件が勃発します。町にはN鉱業の製錬所があり、敗戦によって一時、操業停止に陥っていて、そこにいた何百人という鉱員たちは日々、窮乏の生活にさらされていたんですが、一部の鉱員たちが、地元の漁師たちが手がける生け簀に夜な夜な侵入、魚を盗み出しているところを発見されたのです。

 盗みを働いた連中は、所内に逃げ帰りますが、漁師たちは、当然のこと激怒。警察が仲介に入り、話し合いを進めたものの、N鉱業側は、こんな不祥事を表立てたくはないので、穏便にお金を払うかたちでの示談を提案します。しかし漁師たちは、人の首をとらなきゃ収まりがつきません。ちゃんと首謀者を出頭させろ。じゃなきゃ許さん。と一歩も引かない構えです。

 N鉱業のほうでは、さんざん揉め、しかし最終的に自分が首謀者として名乗り出ようと手を上げる男が現れます。当時、主任の職にあった小郡富雄です。病弱な妻を抱える、責任感の強い男で、本人は盗みに加担していたわけではありませんが、部下たちの行動に事前に不審を抱いていながら、止めることのできなかった自責もあり、過去、自分のせいで事故を起こしたのに、戦時中だからと不問に付されたことが胸にわだかまってもいて、みずから首謀者と名乗り出ることを決意します。

 すると、その日から、小郡夫妻の家に、事情を知らない人たちによって、パシンパシンと石が投げつけられることに。けっきょく、S町を追われるかたちで小郡は異動。「S町事件の首謀者」というハナシは、行く先々にも付いてまわり、N鉱業にとっても、不祥事を救ってくれた英雄でありながら、しかし重職に就かせるわけにはいかない、ある意味でお荷物の社員となります。折りあれば辞表を出したいと願いながら、鉱山を転々とさせられる小郡でしたが、やがて、この夫妻にひとつの転機が訪れます。妻のおなかに、二人の子供がやどったのです。

 ……といったような内容なんですけど、会社の論理に翻弄される一労働者の、華やかではないが打ち捨てることのできない、生活・人生信条が全篇をとおして静かに通底していて、これぞ、ザッツ・地道、と呼んでいいでしょう。

 姫野さんの参加した『文学世紀』というのは、そもそも、新日本文学会とは一心同体の、日本文学学校から生まれた同人雑誌です。いまもある大阪の文学学校では、機関誌の『樹林』とは別に、受講生やOBたちがさまざまにグループとなって、いくつもの雑誌が誕生していますが、それと同様、東京のほうの文学学校でも、『新日本文学』という中核的な月刊誌だけじゃなく、やはり、把握できないほどのグループ雑誌がつくられました。『文学世紀』もそのひとつです。

 つくったのは、同校研究科の17期の受講生たち。チューターを務めた小沢信男さんは語ります。

「日本文学学校研究科の小沢組の人達が、修了後もグループを作って、定期に研究会をつづけ、同人誌「文学世紀」を出すに至った。それを幸いに、私はその後、何期か組会のチューターを勤めるたびに、終了後は有志の人を文学世紀の会に送りこんだのだ。アフタ・ケアの合理化。あとは皆さんでよいように切磋琢磨なさるだろう。

はたせるかな、この会は、ある時期を活発に活動して、雑誌も二十数号を重ねたのだ。研究会は回数が記録されていて、二百回に届いたのではなかったか。」(昭和61年/1986年3月・作品社刊 小沢信男・著『書生と車夫の東京』所収「微笑の人」より)

 別の文献では、研究会は300回を超えて続けられた、とも言います。15年も続いたグループは、日本文学学校のなかでも長寿の部類だったそうです。やはりこれは、中心となって支えた同人たちの熱意のたまものでしょう。直木賞の候補作に選ばれたことがある、という誌歴がその長寿にどの程度、影響していたのか、不明ではありますが、おそらくほとんど影響はなかったものと思います。

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