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2017年12月 3日 (日)

『日通文学』…戦争に行かされた作家と、その体験小説を「汚ないもの」と言った選考委員。

『日通文学』

●刊行期間:昭和23年/1948年6月~平成18年/2006年12月(58年)

●直木賞との主な関わり

  • 片山昌造(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)

 不思議な審美眼をもつ男こと、木々高太郎さんは、選評のうえでも数かずの名ゼリフを残しましたが、その忘れがたい選考基準の一つに、「戦争(を回顧する)モノは採らない」というのがあります。

 昭和24年/1949年に直木賞が復活して以降、数多く候補に挙がるようになったのが、戦地・戦場(戦後まもなくの現地を含む)を主な舞台にした作品です。「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年/1956年までの10数年のあいだに、候補になったものを挙げていくと、

 今日出海「山中放浪」(第21回)、今日出海『山中放浪』(第22回)、若尾徳平「俘虜五〇七号」(同)、小泉譲「死の盛粧」(同)、小泉譲「南支那海」(第23回)、玉川一郎「川田二等少尉」(同)、檀一雄「長恨歌」(第24回)、中村八朗「白い蝙蝠」(同)、そこから3年ほど空いて、井手雅人「地の塩」(第30回)、中村八朗『マラッカの火』(第32回)、三ノ瀬溪男伊藤桂一)「最後の戦闘機」(第33回)

 ……と続きます。

 直木賞には残念ながら、新たな時代を切り開く力はありません。しかし、どういう候補ラインナップを並べたかによって、その当時の時代相(の一端)を映すという性質はあり、戦争モノなどは、その最たる例だと思います。

 この状況に敏感に反応したのが、選考委員だった木々さんです。第36回(昭和31年/1956年・下半期)、石野径一郎『沖縄の民』が予選を通過してきたとき、「私は当分戦争ものは、図ぬけてよくなくてはとらぬと決心している」と宣言。翌第37回(昭和32年/1957年・上半期)に挙がってきたバリバリの戦場モノ、江崎誠致『ルソンの谷間』に対しては「戦争もので、その意味では僕は賛成ではなかった」と評するという、頑迷な姿を見せました。

 第34回(昭和30年/1955年・上半期)に候補になった片山昌造さん「戦争記」のことも、当然のように斬り捨てています。

「内容は如何にも汚ない。戦争というものは汚ないもので、それを書くのが戦争否定だから正しいのだという考え方は、それは日本流の純文学の話であって、大衆文学ではとらない。」(『オール讀物』昭和31年/1956年4月号 木々高太郎選評より)

 なかなか、ずいぶんな言いようです。

 しかし木々さんには、一兵卒としてやむなく戦地に行かされた、みたいな経験がありません。同じような体験のある評者だったら、評価する姿勢も変わっていたかもしれないな。と、この小説が発表されるに至った経緯を見ると、どうしても考えてしまうところです。

 作者の片山昌造さん、本名・片山昌村さんは明治44年/1911年、埼玉県川越市の、豊山派真福寺の長男として生まれ、県立川越工業高校機械科を卒業すると、大正大学文学部に進学。中学生のころにはすでに、文学を一生の仕事にしようと心に決めていたそうですが、大学卒業の翌年、火ぶたを切ってしまった支那事変が片山さんの行く先を、大きく変えてしまいます。

 戦中には、「片山稔」名義で童話・児童文学を、「片山昌造」名義で『三田文学』に小説を発表しながら、しかししばしば従軍。「二八歳で兵隊にとられてひどい目にあって、気がついて何とかしなくてはならないと考えたときはすでに四四歳だった」(昭和34年/1959年10月・講談社刊『明日のない町で』「あとがき」)と回想するぐらいに、戦争のせいで長らくイヤな思いをしたらしいです。

 それがようやく終わった昭和20年代、よーし、これからは文学で世の中を変えてやるぞとの気概に燃え、「児童文学もまた文学のひとつだ」という考えに則り、子供向けの創作に励んでいたそんなころに、彼に力を貸したのが、田代儀三郎さんでした。

 田代さんというのは、片山さんより四歳年長の、明治40年/1907年1月2日、長野市生まれ。どこでどうやって片山さんと知り合ったのかは不明ですが、大正から昭和初期にかけて、無政府主義運動に参加しながら詩誌『舗道』『埋火』などを出していた人だそうです。昭和17年/1942年、35歳のときに日本通運の庶務課に入社、そしてまた田代さんも、昭和19年/1944年に応召、北支に派遣されて負傷する、という経験に見舞われます。

 戦後になって田代さんは、日通本社が社内的に出していた『わだち』や『日通ニュース』の編集を中心的に担うようになり、昭和23年/1948年には、日本通運という全国組織の企業をバックに付けて、文芸同人誌『日通文学』を創刊。昭和39年/1964年2月27日、57歳で亡くなるまで、「日通文学の顔」として名を轟かせました。

 かなり轟いたものでしょう。なにしろ田代さんの時代の『日通文学』は、一般的な同人誌とは違って、企業の後ろ盾があり、そのおかげで大きな資金難には悩まなかった、と言います。月刊で刊行できたのも、その恩恵があったからこそと言うしかなく、全国に会員をもち、毎月毎月、雑誌を出しつづけている、というだけで、外部から見れば、有力・有望同人誌のひとつです。当時は、日本文学振興会が、直木賞・芥川賞の候補にいい作品ないですか、と外部にアンケートのハガキを送っていた時代に当たり、その送付先に『日通文学』編集部も含まれていました。

 ここに、日本通運社外の会員、片山さんの長篇小説を、8か月間にわたって分載(連載)しよう、と決めたのも田代さんなら、振興会からの直木賞・芥川賞推薦アンケートに、片山さんの「戦争記」を挙げて返送したのも田代さんです。この、よき理解者がいなければ、とうてい「戦争記」は掲載されず、候補にもならなかった、と見ていいでしょう。

           ○

 他の同人誌の例にもれず、少なくとも当時、『日通文学』のなかで、直木賞を目指して書いていた人は、まずいなかったと思います。

 それなのに、直木賞の候補に挙げられてしまった……。ということから来る、困惑と高揚(?)の心を、田代さんは『日通文学』の「編集室だより」(編集後記のようなもの)をまるまる使って、書き残しました。

 以下、かなりの抜粋です。

「片山君にしてみれば、今更ら直木賞でもあるまい、と思つたかも知れない、私があれをすいせんしたのは、片山君にも相談せず、文春からの往復ハガキによる問合せに、こゝ三四回、すいせんする程の作品見当りません、と不愛相な返事ばかりを出していたので、私としては大した自信もないまゝに、一応片山君の努力を買つてすいせんしてみたわけだつた。それが思いがけなく、あそこまで取り上げられたということは、全く、私にしても片山君にしても、面くらつた次第だつた。」(『日通文学』昭和31年/1956年3月号「編集室だより」より ―署名:(田代))

 要するに、作者も編集者も、何であれが直木賞で選考されるのかよくわからない、という感じです。その後に選評で「大衆文学としてとらない」だの何だの、木々さんにさんざん批判ぎみに書かれた件は、何と言うか、長篇だったせいで芥川賞には向かず、しかたなしに直木賞のほうに振り分けた文春の人たちの、判断ミスが原因でしょう。片山さんや田代さんに責任はありません。

 こういう、作者無視、創作意図無視なことを、好きこのんでやるのが直木賞です。そこは許していただきたいと切に願いますが、片山さんから許しの言葉が出たかどうか、調べても見つからなかったので、わかりません。しかし、いきなり直木賞の候補になってもブレずに、まだまだおれの文学は未完成だ、もっと心根をしっかり持たなきゃいけない、と謙虚に励んだことは、どうやら間違いないようです。

 もっといろいろな人間や生活を知らなければ、おれの文学は向上しない、と自覚したうえで、東京を出て、愛知、はてまた長崎の香焼島に移り住むと、

「ジャーナリズムに追いまわされる日本の作家のまねをせず、どうせまねるなら外国作家のようにみつしり腰をすえて五百枚でも千枚でも書き上げてから発表方法を考える、といつた悠然たる作家態度」(『日通文学』昭和34年/1959年10月号「編集室だより」より ―署名:(田代))

 と言われながら、「夜光島」という長篇を執筆。これも田代さんの熱烈なる厚意によって『日通文学』に、長期にわたって連載されますが、その後、田代さんが亡くなると、どうやら同誌からは離れることになって、長崎造船大学教授、長崎大学講師などの立場で、創作とは違う角度から、社会の改善に関心を寄せつづけた、と伝わっています。

 『日通文学』のほうも、田代さん亡きあとは、草野文良さんが編集の指揮をとってえんえんと続刊、最後の編集人となった豊田一郎さんの手で、平成18年/2006年に通巻701号で幕を閉じるまでのあいだ、直木賞と縁を結ぶことはありませんでした。このブログで触れる話題もとくにありません。

 ほんのいっときだけ、直木賞と関係をもった(もたされた)片山さんと『日通文学』。何かの間違いだったような気もします。それでも、おのおのの戦争体験をめぐって、小説の好評・酷評を時代に刻んでくれた、という意味では、貴重な直木賞候補だったと思います。

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