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2017年12月10日 (日)

『作品』…ゴーストライターとして生きる鬼生田貞雄の、消え失せない文学ゴコロ。

『作品』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~昭和31年/1956年10月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼生田貞雄(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)

 『作品』。……という、何のひねりもない堂々たる名前をもつ雑誌は、歴史上いくつもあったと思いますが、直木賞史に登場する『作品』は、ただひとつ。昭和27年/1952年に創刊された『現象』という同人誌が、なぜか2年弱だけ『作品』と改題して続刊され、昭和32年/1957年にふたたび『現象』の名前に戻って、昭和45年/1970年ごろまで命を保ったその18年弱のあいだに、いっときだけ世に存在した『作品』の時代に掲載した作品のなかから、直木賞と芥川賞、それぞれ一作ずつ候補作が出たという、いわずもがな、純のほうの文芸同人誌です。

 『現象』は、よく知られた人では菊村到、垣花浩濤、赤松光夫、藤本泉などが、よく知られていない(ワタクシも知らない)人では、古賀孝之、南良太郎、白木良夫、高橋恒生などが同人に名を連ねましたが、いちおうその中心的な人物で、主宰だったとも称されるのが石上玄一郎さんです。

 石上さんといえば、戦前から、ほんの一部の文学同好者を魅了する作風でもって、とりあえず作家として活躍中の人でした。昭和26年/1951年ごろ、彼と交流のある無名の文学愛好者たちが集まり、みんなで新しい文学をつくっていこうではないかと気炎を上げて創刊の難事業をやりとげた。ということなんですが、同人たちの意見をまとめながら雑誌をつくる、それを何年もやり続けるのは、はっきり言って面倒なことです。

 面倒と言うか、同人誌の運営に向いている性格と、そうでない性格というのは、おそらくあるでしょう。石上さんは、精神的支柱として、この雑誌に欠かせなかったことは間違いありませんけど、しかし彼だけしかいなかったら、『現象』も『作品』もなかったかもしれません。

 これが10数年も続いたのは、明らかに鬼生田貞雄さんがいたからだ、と思われます。「影の主宰」とも目されます。

 性格は篤実で温厚。戦争をはさんで10数年、実業之日本社に勤め、出版、雑誌編集の経験は申し分なく、文学への熱中度も、高位置をキープ。戦前には藤口透吾さん、内田生枝さん、芝木好子さん、大原富枝さんなどと仲間となって同人誌に小説を書き、戦後は井野川潔さんと『文学世界』をつくるなど、仕事の合間に創作に打ち込みます。

 それでも文筆業として一本立ちしたい、という望みを捨てることができず、昭和27年/1951年、『現象』創刊の年に、きっぱりと実業之日本社を退職。一説では、鬼生田さんが編集長を務めていた『ホープ』の売れ行きが悪く、その責任をとらされた、とも言われますが、ともかく筆一本で一家の家計を支える身になりまして、数多くの原稿を書き、数多くの本を出します。

 とはいえ、自分の名前で発表できる環境は限られています。ほとんどが無署名、あるいはゴーストライターでのお仕事でした。

 著作の数は膨大にのぼるそうですが、とりあえず『アナタハン』(丸山通郎・著、昭和26年/1951年・東和社刊)、『グアム島 十六年の記録』(伊藤正・著、昭和35年/1960年・二見書房刊)、『式辞挨拶演説事典』(昭和35年/1960年・実業之日本社刊)、『手紙挨拶用語辞典』(昭和36年/1961年・実業之日本社刊)あたりは、鬼生田さんが書いたものだ、と言われています。二見書房からも、相当ゴーストの仕事を請け負ったらしいです。

 こういった身すぎ世すぎの売文生活のなかで、「文学的」だと己が信ずる創作への道を忘れず、耐えて忍んで無償の原稿を書きつづける……というのは、ある意味で、直木賞界隈では定番の一風景かもしれません。定番ということは、つまり一時期の、昭和30年代前後の直木賞は、こういう一面をたしかに持っていた、ということでもあります。

 鬼生田さんがどれだけ真剣に、文学に邁進しようと心に決していたか。『現象』創刊号の「編集後記」は、鬼生田さんの筆ですが、その一節を引いてみます。

「この第一歩を踏み出すために、私たちは約三ヵ月の間、暗黒のなかで陣痛の忍耐をつづけて来た。ただ、単に、雑誌を出すというだけのことであつてはならない、とふかく考えさせられていたからである。(引用者中略)どのような烈しい困難に出会おうとも、私たちは、声高らかに、自らの産ぶ声を高めつつ、自らの存在を押し進めて行かなければならないのだ。山頂への距離は全く不明だが、しかし、そのなかで、私たちは、これを押し進めて行くことそれ自身こそ、文学の持つ宿命であることを、自覚してかかろう。」(『現象』第1巻第1号[昭和27年/1952年3月]「編輯後記」より ―署名:(O生))

 こういう熱気あふれる状況を見て、こちらも胸が熱くなったり、思わずドン引きしてしまったり、いろいろな受け取り方があると思いますが、とても輪のなかに入っていく勇気は出ないけど、でもその一途な試みと実行力には魅惑的なものを感じてしまう、というところが、同人雑誌の本領と言うこともできます。『現象』もまた、その特徴をおのずと備えていた、ということでしょう。

           ○

 さて、その後の『現象』は、まず途中から参加した読売新聞の記者、戸川雄次郎さんが第32回(昭和29年/1954年・下半期)芥川賞の候補となり、まもなく菊村到と名前を変えて文學界新人賞に応募、それが受賞したと思ったら、受賞第一作の「硫黄島」で芥川賞を受賞してしまいます。第37回(昭和32年/1957年・下半期)のときです。

 その間には、『現象』創刊当時からいる鬼生田さんが、「衆目」で第33回(昭和30年/1955年・上半期)直木賞の候補に。「どうしてこんな真面目で、とくに読者受けを考えたと思えない、暗い小説が……」というものを候補にする、直木賞お得意の「おカタいもの好き」の面がつい出てしまって、だいたいみんな困惑、という展開が巻き起こりました。

 何といっても鬼生田さん、根っこが純文学ラブの人です。芥川賞はともかく直木賞になど興味があったのか、大いに疑いがあります。『現象』の熱い創刊を共にした安川茂雄さんによれば、

「『現象』創刊の参謀長は鬼生田さんであって、石上さんは鬼生田さんをもっとも信頼していた。(引用者中略)たしかに、あの頃――鬼さんの作品も、前衛的なものでいくどか芥川賞候補になった。当時、石上さんの推奨株のトップは、つねに鬼さんだった。菊村到が受賞したとき、鬼さんもやがては……という期待があったことはたしかだ。」(『現象』30号[昭和42年/1967年5月] 安川茂雄「或る一時期」より)

 とのこと。実力からして、文学的履歴からして、鬼生田さんが陽を浴びる期待はかなり高かった、と推察されますが、いずれにしてもそれは、芥川賞が何となく入口になっているような、文学の世界だったわけです。ちなみに鬼生田さんが「いくどか芥川賞候補になった」というような記録は、残っていません。

 安川さんがこの原稿を寄せた『現象』30号は、「鬼生田貞雄追悼」号で、石上さんはじめ、鬼生田さんと交流のあったさまざまな人が、鬼生田さんの人柄、生き様、ちょっとしたエピソードを語っているんですが、何人かが、似たような表現を使っています。

 いわく、「まことに不遇な作家といってよかった」(石上玄一郎)、「彼の文学生活は、苦難にみちていた」(竹森一男)、「ある意味では鬼さんは恵まれなかった」(勝又茂幸)、「その(引用者注:鬼生田の)文学はこの世に受けいれられなかった」(古賀孝之)……

 鬼生田さんが亡くなったのは57歳のとき。なにかの賞をとることもなく、あくせくと裏方のライター業で身を粉にし、著作という著作は数冊を数えるのみで、もはや、もう顧みられる機会のない作家だと思いますが、とりあえず『現象』が十数年きちんと運営され、幾人かの作家を世に送り出せたのは、鬼生田さんがいたからこそです。その意味でも、無視できない人物です。

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