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2017年12月の5件の記事

2017年12月31日 (日)

『集団55』…注目を浴びたほとぼりが覚めるまで、創作から離れる相見とし子。

『集団55』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~昭和42年/1967年?(12年)

●直木賞との主な関わり

  • 相見とし子(候補1回 第37回:昭和32年/1957年上半期)

 ひとつの作品が、直木賞と芥川賞の同時候補。というハナシが出ると、いつもワタクシは北川荘平さんのことにばかり触れますが、一般的には柴田錬三郎さんのことを引き合いに出すのが自然だと思います。

 しかし考えてみると、同時候補の経験者のなかで、ただひとりの女性である相見とし子さん(当時32歳)にも、もう少し光が当たってもいい気がします。

 どうして相見さん、地味な存在なのか。ひとつには候補に挙がった「魔法瓶」が、文章が難解だ、稚拙だ、と言われ、とくにこれを強く推す委員もおらず、そこまでハネる要素がなかったこと。と同時に、何といっても相見さんの、「注目されぎらい」と言いますか、たかだか候補に残っただけで、スゴいの何だのと、作品を読まずに持ち上げようとする一般の声に、かなりの嫌悪感をもっていました。

 こういう人ですので、はじめて書いた小説が、二つの賞の候補になり、その事実だけをもって騒ごうとする風潮に、はっきり背を向けます。その精神の根っこには、同人雑誌に書く人ならだいたいそなえ持っている「ギャーギャー騒ぐ軽薄さがイヤ」という感覚があったものでしょう。「魔法瓶」以降、相見さんはじっと息をひそめて、小説の発表を控えた、と言うのです。

 10年経って、こんな文章を書きました。

「全く迷惑至極な話だった。芥川賞も直木賞も応募賞ではない。こちらの意志によらず、ことわりもなしに人前にひっぱり出すのは、傲慢といわれるかもしれないが、正直いって私を困憊させた。(引用者中略)「ここでばたばたと出なければ忘れられる」と、骨折ろうとしてくれた人もいた。「金がほしいから書くということはいやしいことではない」と忠告した人気作家の好意も憶えている。しかし、「作品」を書ける地点への距離は、いっこう縮まるものではなかった。私には私の歩き方よりない。それらは、何処か遠い場の声であった。」(『新潮』昭和43年/1968年6月号 相見とし子「異路回帰」より)

 慎ましやかさ、もしくは、地道なものへの親愛の情が、やはり相見さんの身上です。そもそも、芥川賞はともかく、どうしてこれが直木賞の候補にもなったのか、何かの手違いか間違いだった、という資料が発見されても、驚きません。

 相見さんはその後、京都にいる、ほんのちょっと有名な3人の女性作家……折目博子、田中阿里子、梁雅子といっしょに「華」の会を結成、同人誌『華』を発刊するわけですが、人選といいますか、いっしょのお仲間になった顔ぶれがもう、全国的に知られていそうで、知らない人も多そうな、絶妙なメンバーだと思います。

 さらに晩年に参加した『人魚』は、やはり田中阿里子さんや松本徹さんなど、昔からの(そしてプロと言ってもいい)書き手たちが揃っており、かなりすっきりとした体裁の、立派な同人雑誌です。

 今日は、年の最後の日でもあり、だらだらこれ以上書く気も起こらず、さらっと終わりにしたいと思います。

 だいたい、「二つの賞の同時候補」だからといって、無理に話題にしようとするほうが、変なんですよね。そんなことで注目されることを嫌がったという、相見さんの姿勢が、多くのことを物語っていると思います。

 さっさと終わります。

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2017年12月24日 (日)

『秋田文学』…受賞者が出て、祝福とともに微妙な空気が流れた、不思議な瞬間。

『秋田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和56年/1981年?(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 津田信(候補6回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
    ※うち第52回は別の媒体に掲載した作品での候補
  • 千葉治平(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 井口恵之(候補2回 第73回:昭和50年/1975年上半期~第77回:昭和52年/1977年上半期)

 先週は『山形文学』だったので、今週はお隣り、秋田の雑誌『秋田文学』です。

 直木賞で同人雑誌の掲載作が、そのまま対象となって受賞した例は、第157回までで14件あります。そのうち6つは『大衆文藝』の掲載作、これは半商業誌だと言えなくもありませんから、これを除けば、たったの8例。今後増えていく未来は、なかなか思い描けないので、もはやどれもレジェンド的な受賞例、と言ってしまっていいでしょう。

 そのなかのひとつが、『秋田文学』に1年余り連載された千葉治平さんの「虜愁記」です。受賞当時ですら、いったいどうしてこれが受賞したのか、同じく候補に挙がった人たち、出版関係者、一般読者を含めて、みんな理解に苦しんだという、いわくつきの受賞作です。

 千葉さんのことは、うちのブログで取り上げたこともありますが、大正10年/1921年10月に生まれ、戦後、20代のときに、すでに名をなしていた秋田出身の先達、伊藤永之介さんのもとに通って、同人誌『秋田文学』を創刊。これが「第二次」だそうですので、復刊と言うべきかもしれません。

 しかし、昭和29年/1954年ごろにいったん途絶し、あらためて創刊号と銘打って再出発をはかったのが昭和32年/1957年。千葉さんは、ここに創作「早春」を寄せていることからもうかがえるように、同誌の創作メンバーのなかで柱をなす、中心的な存在でもありました。

 当然、その同人はほとんどが秋田県在住の面々です。金沢蓁さん、雨宮正衛さん、谷川真吾さん、ほんまよしみさん……と挙げていっても、ワタクシなど、どういう方たちかまったくわかりませんが、「自分たちは、自分たちの拠って立つ土地で、新しい文学を生み出していこう」と気合の乗った人たちであることは、当時の誌面をのぞくと、おぼろげにわかります。千葉さんもまた、そのなかの一人でした。

 ところが、この状況に突如、風穴を開けてしまった異端児が登場します。東京に住みながら『秋田文学』に参加した津田信さん 、という男です。

 津田さんのハナシも、やはりうちのブログで何度も触れてきたので、またかよ、という気はします。だけど、やっぱり『秋田文学』と直木賞の話題に、この人の存在は、絶対に欠かすことができません。

 日本経済新聞社の記者だった津田さんは、第35回(昭和31年/1956年・上半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、同人雑誌『貌』に書いた小説で二度、芥川賞の候補に挙がります。〈芥川賞候補〉というのは、当時でも一部の同人雑誌関係者たちにとっては、憧れの対象、一目おかれる存在だったらしく、同じ日経の秋田支局で働いていた小国敬二郎さんに、おれのやっている同人誌に参加してみない? と誘いの声がかかります。出された条件は、同人費は免除、枚数の制限もなし、書きたいものを書いてくれればよい、というもの。……同人仲間というよりは、外部からの有力な書き手として厚待遇で招聘された、といった感じです。

 ここに参加してからのことは、津田さんがのちに長篇小説『日々に証しを』(昭和53年/1978年10月・光文社刊)に書いています。『秋田文学』の合評会に参加したときの、いきなり東京からやってきた人間に対する、同人たちのよそよそしい、だけど東京の文壇への関心を隠せない雰囲気やら、ひとりの女性同人と深い仲になり、孕ませて、降ろさせて、また孕ませての、ナマナマしいなりゆきなど、そういうことが綴られた小説です。「私小説」に強い思い入れのあった津田さんですから、いくらかは(いや、ほとんどは)事実に即した内容かもしれません。

 ともかくも、とくに直木賞や芥川賞と縁のない、かなり地味な存在だった『秋田文学』に、〈文学賞〉という、騒がしい物体が通ずることになったきっかけを、外部からの参加者、津田信さんがもたらしたことはたしかです。

 このとき、同人たちは、この状況を歓迎しました。(K)という署名の、おそらく金沢さんの手になる編集後記を見ると、こう書かれています。

「勿論、文学賞受賞やその候補になることだけがぼくらの目指す到達線ではないのだが、受賞せぬより受賞した方がいいと、これは正直に言えると思うし、同人の士気を鼓舞することになるとも言える。

よく考えてみると、「日本工作人」は未完のため、今回は、厳密には候補ではなかったかも知れぬし、してみれば、完成次第再び銓衡対象ともなり得るのではないか。それを作者と共に期待したい。」(『秋田文学』5号[昭和33年/1958年9月] 「後記」より―署名:(K))

 けっきょくその後、「日本工作人」は完結後に現代社から単行本となり、盛大な出版記念会も開かれ、期待どおりに第40回(昭和33年/1958年・下半期)の候補に推され、選考委員の小島政二郎さんひとりにやたらと推奨されたものの、他の委員にはあまりピンとこなかったのか、受賞はならず。津田さん自身は、ここから書けども書けども受賞に届く日は訪れず、そうとうヤサぐれた気分にもなり、あきらめた境地と、悔しさとを混ぜ込んだ、まあ自分だったら味わいたくはないツラい時間を経ることになって、しかし書くことはやめず、もう一度、作家として復帰することになるんですが、ほかの『秋田文学』同人にとっては、自分の雑誌から候補が出たこだけで、かなり興奮し、テンションが上がった様子です。たとえば、先の金沢さんの「後記」もそうですし、千葉さんも、津田さんの作品が直木賞候補になったり本になったりしたことで、同人たちに勇気を与えた、と振り返っています。

 べつに、文学賞に取り沙汰されようが、されまいが、気にしない人はしないわけで、というか、そんなのを気にしていると軽蔑されるのが世の習いですから、それはどっちでも構わないんですけど、津田さんのせいで文学賞の匂いを嗅がされた『秋田文学』の同人たちも、それで文学に向かう姿勢が変わった感じは、うかがえません。……うん、そりゃそうでしょう。

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2017年12月17日 (日)

『山形文学』…「直木賞の候補」程度では道を踏み外さない、硬派な同人雑誌。

『山形文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年~(61年)

●直木賞との主な関わり

  • 柴田道司(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

 次の第158回(平成29年/2017年・下半期)は、1月16日が選考会で、候補作の発表が12月20日。と、まだ先の話でもあり、うちのブログで触れるタイミングではないんですが、とりあえず先週、直木賞界隈でとうてい無視できない事象が発生したものですから、今週はまずそこから行きます。

 12月15日、〈サイゾーウーマン〉が「セカオワ・Saori、『ふたご』直木賞ノミネート決定! 『火花』の再来狙う文藝春秋の思惑」という記事をネット配信しました。

 直木賞(と芥川賞)の候補作というのは、下半期であれば12月の上旬のうちには、日本文学振興会という名の、文藝春秋の外郭団体みたいなところが最終決定をくだします。それぞれの候補者に「候補入りを承諾するか」連絡をとったのち、報道各社にリリースが流されるのは、およそ12月の半ばごろです。ただ、振興会・報道各社・関係する候補者や担当編集者、お互いの約束ごととして、振興会の決めた発表日(今回は12月20日の、新聞朝刊、ネットであれば朝5時)までは、情報を洩らさないように、と決められているので、誰の、何という作品が候補になったのか、事前に公になることは、まずありません。

 しかし「極秘」とはいえ、日本中ですでに何百人(いや、何千人?)規模の人間は、知っています。洩れることは当然あり得るでしょう。しかも今回のように、その対象が芸能人ですと、「報じる人たちの文化」もまた文芸界隈とは違うらしく、こういうかたちで取り上げられてしまいました。公式の発表を待たずして、「(何だか知らないけど)文学賞の候補なんて、スゴい!」「直木賞おめでとう」「さすがにルールを破って、事前にリークするのはマズいのでは?」「芸能人への注目度に頼る文芸界の、哀れな末路だ」うんぬんと、いろいろな声が出はじめるという、楽しい直木賞の姿が、早くも展開されているわけです。

 この記事に書かれていることが、ほんとうに正しいのか。それは、うちのブログのテーマとは、あまり関係ないので(どうせ12月20日になれば、みんなの知ることですし)無視することにして、ここで取り上げたいハナシは別にあります。「文学賞の候補を、そもそも選考日よりも前に発表する」という慣例についてです。

 日本にある文学賞のすべてが、こうやって候補作を事前に公表するわけではありません。直木賞も芥川賞も、この制度を採りはじめたのは、だいたい戦後になってから。昭和20年代ごろには、両賞ともある程度の(ベタ記事程度の)ニュース価値をもつ存在でしたから、1月・7月になると、「予選通過作一覧」がちょくちょくと新聞に現われはじめます。

 しかし、どんな施策にも、メリットとデメリット、両面があります。「事前に候補を発表する、それが新聞で報道される」というこの直木賞・芥川賞のかたちは、多くの悲劇や喜劇(?)を生んだと伝えられ、人権を踏みにじる悪のシステムとして、両賞を批判する声が挙がることにもなりました。そこで思い出されるのが、同人雑誌からの声です。

 鹿児島で長くつづいている同人雑誌『火山地帯』に、島比呂志さんという主宰者がいましたが、猛烈に批判の声を上げたひとりが、その島さんです。

 以前も、うちのブログで触れたことがあります。選考会の前に、候補作を明らかにすることには、そこに名前の挙がった人間に、望まぬ動揺と混乱をもたらすという害が、確実にある。真摯にひたむきに文学に向き合おうとする人間に、そんな一過性の騒ぎが、益になるとはとうてい考えられない。日本文学振興会よ、候補作の事前発表をやめろ。絶対にやめたほうがいい。……といった感じの、一理も二理もある、まっとうな意見を表明しています。

 たしかに、候補が発表されてから当落が出るまでの、アノ(あるいは、いまワタクシたちが直面しようとしている)騒がしい時間は、果たして必要なんでしょうか。

 とくにこれまで、芥川賞のほうでは、川端康成さん、遠藤周作さん、池澤夏樹さんなどの選考委員が、選評で「候補が発表されてからの、あまりに騒ぎすぎる世間の風潮」に、ことあるごとに苦言を呈してきました。しかし、いまのいままで、それで報道側が委縮したり、主催者が反省して、候補発表と事前の盛り上げをなくそう、ということにはなっていません。

 ワタクシなどは、さらにその外側にいる、ただ文学賞を観戦して楽しみたいだけの、いわゆる外道というか、「悪のシステム」の保全を支える一般大衆のひとりです。島さんみたいな人に叱られると、身を縮こませるしかありませんけど、しかし、文学賞を外から見て味わうこの楽しい感覚は、どこまで害悪なんでしょうか。……当事者でない立場で、いかに「節度ある楽しみかた」ができるのか、それを考えつづけていくしかなさそうです。

 それで、このまま『火山地帯』の話題に入っていけたらいいんですが、残念なことに、この雑誌は芥川賞とは縁があっても、一度も直木賞の候補作を出したことがありません。ブログのテーマは「同人誌と直木賞」ですので、ここは泣く泣く、『火山地帯』ではない別の雑誌に目を向けたいと思います。

 ……と、本題に入るまでが長すぎて、今週もまたとっ散らかりそうな不安ばかりが募りますが、『火山地帯』の硬派なイメージにも似て、直木賞史にいくつも現われてきた同人雑誌のなかでも、とくに硬派……候補に挙がったからといって浮かれ騒がず、コツコツ自分たちの文学追求に邁進し尽くす集団、と勝手にワタクシが思っている同人雑誌が、『山形文学』です。

 一発屋ばかりを出す、出す、言われている芥川賞のなかでも、受賞してまもなく小説を書くのをやめてしまった後藤紀一さんという受賞者を、昭和38年/1963年上半期(第49回芥川賞)に送り出し、その意味では芥川賞によってパッと光の当たった感のある同人雑誌ですが、栄誉だの名誉だのを振り返らず、地道に刊行をつづけて平成23年/2011年に100号を突破、おそらく現在でも続刊中です。

 おちゃらけた気分ではとうていその小説世界に入り込めない、まじめな作品が並ぶなかで、そういうものをけっこう好む直木賞が、ついつい手を伸ばしたのは昭和40年/1965年のこと。『山形文学』が『ひろば』という名で創刊してから10年ほどの誌歴を積んだころでした。

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2017年12月10日 (日)

『作品』…ゴーストライターとして生きる鬼生田貞雄の、消え失せない文学ゴコロ。

『作品』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~昭和31年/1956年10月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 鬼生田貞雄(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)

 『作品』。……という、何のひねりもない堂々たる名前をもつ雑誌は、歴史上いくつもあったと思いますが、直木賞史に登場する『作品』は、ただひとつ。昭和27年/1952年に創刊された『現象』という同人誌が、なぜか2年弱だけ『作品』と改題して続刊され、昭和32年/1957年にふたたび『現象』の名前に戻って、昭和45年/1970年ごろまで命を保ったその18年弱のあいだに、いっときだけ世に存在した『作品』の時代に掲載した作品のなかから、直木賞と芥川賞、それぞれ一作ずつ候補作が出たという、いわずもがな、純のほうの文芸同人誌です。

 『現象』は、よく知られた人では菊村到、垣花浩濤、赤松光夫、藤本泉などが、よく知られていない(ワタクシも知らない)人では、古賀孝之、南良太郎、白木良夫、高橋恒生などが同人に名を連ねましたが、いちおうその中心的な人物で、主宰だったとも称されるのが石上玄一郎さんです。

 石上さんといえば、戦前から、ほんの一部の文学同好者を魅了する作風でもって、とりあえず作家として活躍中の人でした。昭和26年/1951年ごろ、彼と交流のある無名の文学愛好者たちが集まり、みんなで新しい文学をつくっていこうではないかと気炎を上げて創刊の難事業をやりとげた。ということなんですが、同人たちの意見をまとめながら雑誌をつくる、それを何年もやり続けるのは、はっきり言って面倒なことです。

 面倒と言うか、同人誌の運営に向いている性格と、そうでない性格というのは、おそらくあるでしょう。石上さんは、精神的支柱として、この雑誌に欠かせなかったことは間違いありませんけど、しかし彼だけしかいなかったら、『現象』も『作品』もなかったかもしれません。

 これが10数年も続いたのは、明らかに鬼生田貞雄さんがいたからだ、と思われます。「影の主宰」とも目されます。

 性格は篤実で温厚。戦争をはさんで10数年、実業之日本社に勤め、出版、雑誌編集の経験は申し分なく、文学への熱中度も、高位置をキープ。戦前には藤口透吾さん、内田生枝さん、芝木好子さん、大原富枝さんなどと仲間となって同人誌に小説を書き、戦後は井野川潔さんと『文学世界』をつくるなど、仕事の合間に創作に打ち込みます。

 それでも文筆業として一本立ちしたい、という望みを捨てることができず、昭和27年/1951年、『現象』創刊の年に、きっぱりと実業之日本社を退職。一説では、鬼生田さんが編集長を務めていた『ホープ』の売れ行きが悪く、その責任をとらされた、とも言われますが、ともかく筆一本で一家の家計を支える身になりまして、数多くの原稿を書き、数多くの本を出します。

 とはいえ、自分の名前で発表できる環境は限られています。ほとんどが無署名、あるいはゴーストライターでのお仕事でした。

 著作の数は膨大にのぼるそうですが、とりあえず『アナタハン』(丸山通郎・著、昭和26年/1951年・東和社刊)、『グアム島 十六年の記録』(伊藤正・著、昭和35年/1960年・二見書房刊)、『式辞挨拶演説事典』(昭和35年/1960年・実業之日本社刊)、『手紙挨拶用語辞典』(昭和36年/1961年・実業之日本社刊)あたりは、鬼生田さんが書いたものだ、と言われています。二見書房からも、相当ゴーストの仕事を請け負ったらしいです。

 こういった身すぎ世すぎの売文生活のなかで、「文学的」だと己が信ずる創作への道を忘れず、耐えて忍んで無償の原稿を書きつづける……というのは、ある意味で、直木賞界隈では定番の一風景かもしれません。定番ということは、つまり一時期の、昭和30年代前後の直木賞は、こういう一面をたしかに持っていた、ということでもあります。

 鬼生田さんがどれだけ真剣に、文学に邁進しようと心に決していたか。『現象』創刊号の「編集後記」は、鬼生田さんの筆ですが、その一節を引いてみます。

「この第一歩を踏み出すために、私たちは約三ヵ月の間、暗黒のなかで陣痛の忍耐をつづけて来た。ただ、単に、雑誌を出すというだけのことであつてはならない、とふかく考えさせられていたからである。(引用者中略)どのような烈しい困難に出会おうとも、私たちは、声高らかに、自らの産ぶ声を高めつつ、自らの存在を押し進めて行かなければならないのだ。山頂への距離は全く不明だが、しかし、そのなかで、私たちは、これを押し進めて行くことそれ自身こそ、文学の持つ宿命であることを、自覚してかかろう。」(『現象』第1巻第1号[昭和27年/1952年3月]「編輯後記」より ―署名:(O生))

 こういう熱気あふれる状況を見て、こちらも胸が熱くなったり、思わずドン引きしてしまったり、いろいろな受け取り方があると思いますが、とても輪のなかに入っていく勇気は出ないけど、でもその一途な試みと実行力には魅惑的なものを感じてしまう、というところが、同人雑誌の本領と言うこともできます。『現象』もまた、その特徴をおのずと備えていた、ということでしょう。

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2017年12月 3日 (日)

『日通文学』…戦争に行かされた作家と、その体験小説を「汚ないもの」と言った選考委員。

『日通文学』

●刊行期間:昭和23年/1948年6月~平成18年/2006年12月(58年)

●直木賞との主な関わり

  • 片山昌造(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)

 不思議な審美眼をもつ男こと、木々高太郎さんは、選評のうえでも数かずの名ゼリフを残しましたが、その忘れがたい選考基準の一つに、「戦争(を回顧する)モノは採らない」というのがあります。

 昭和24年/1949年に直木賞が復活して以降、数多く候補に挙がるようになったのが、戦地・戦場(戦後まもなくの現地を含む)を主な舞台にした作品です。「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年/1956年までの10数年のあいだに、候補になったものを挙げていくと、

 今日出海「山中放浪」(第21回)、今日出海『山中放浪』(第22回)、若尾徳平「俘虜五〇七号」(同)、小泉譲「死の盛粧」(同)、小泉譲「南支那海」(第23回)、玉川一郎「川田二等少尉」(同)、檀一雄「長恨歌」(第24回)、中村八朗「白い蝙蝠」(同)、そこから3年ほど空いて、井手雅人「地の塩」(第30回)、中村八朗『マラッカの火』(第32回)、三ノ瀬溪男伊藤桂一)「最後の戦闘機」(第33回)

 ……と続きます。

 直木賞には残念ながら、新たな時代を切り開く力はありません。しかし、どういう候補ラインナップを並べたかによって、その当時の時代相(の一端)を映すという性質はあり、戦争モノなどは、その最たる例だと思います。

 この状況に敏感に反応したのが、選考委員だった木々さんです。第36回(昭和31年/1956年・下半期)、石野径一郎『沖縄の民』が予選を通過してきたとき、「私は当分戦争ものは、図ぬけてよくなくてはとらぬと決心している」と宣言。翌第37回(昭和32年/1957年・上半期)に挙がってきたバリバリの戦場モノ、江崎誠致『ルソンの谷間』に対しては「戦争もので、その意味では僕は賛成ではなかった」と評するという、頑迷な姿を見せました。

 第34回(昭和30年/1955年・上半期)に候補になった片山昌造さん「戦争記」のことも、当然のように斬り捨てています。

「内容は如何にも汚ない。戦争というものは汚ないもので、それを書くのが戦争否定だから正しいのだという考え方は、それは日本流の純文学の話であって、大衆文学ではとらない。」(『オール讀物』昭和31年/1956年4月号 木々高太郎選評より)

 なかなか、ずいぶんな言いようです。

 しかし木々さんには、一兵卒としてやむなく戦地に行かされた、みたいな経験がありません。同じような体験のある評者だったら、評価する姿勢も変わっていたかもしれないな。と、この小説が発表されるに至った経緯を見ると、どうしても考えてしまうところです。

 作者の片山昌造さん、本名・片山昌村さんは明治44年/1911年、埼玉県川越市の、豊山派真福寺の長男として生まれ、県立川越工業高校機械科を卒業すると、大正大学文学部に進学。中学生のころにはすでに、文学を一生の仕事にしようと心に決めていたそうですが、大学卒業の翌年、火ぶたを切ってしまった支那事変が片山さんの行く先を、大きく変えてしまいます。

 戦中には、「片山稔」名義で童話・児童文学を、「片山昌造」名義で『三田文学』に小説を発表しながら、しかししばしば従軍。「二八歳で兵隊にとられてひどい目にあって、気がついて何とかしなくてはならないと考えたときはすでに四四歳だった」(昭和34年/1959年10月・講談社刊『明日のない町で』「あとがき」)と回想するぐらいに、戦争のせいで長らくイヤな思いをしたらしいです。

 それがようやく終わった昭和20年代、よーし、これからは文学で世の中を変えてやるぞとの気概に燃え、「児童文学もまた文学のひとつだ」という考えに則り、子供向けの創作に励んでいたそんなころに、彼に力を貸したのが、田代儀三郎さんでした。

 田代さんというのは、片山さんより四歳年長の、明治40年/1907年1月2日、長野市生まれ。どこでどうやって片山さんと知り合ったのかは不明ですが、大正から昭和初期にかけて、無政府主義運動に参加しながら詩誌『舗道』『埋火』などを出していた人だそうです。昭和17年/1942年、35歳のときに日本通運の庶務課に入社、そしてまた田代さんも、昭和19年/1944年に応召、北支に派遣されて負傷する、という経験に見舞われます。

 戦後になって田代さんは、日通本社が社内的に出していた『わだち』や『日通ニュース』の編集を中心的に担うようになり、昭和23年/1948年には、日本通運という全国組織の企業をバックに付けて、文芸同人誌『日通文学』を創刊。昭和39年/1964年2月27日、57歳で亡くなるまで、「日通文学の顔」として名を轟かせました。

 かなり轟いたものでしょう。なにしろ田代さんの時代の『日通文学』は、一般的な同人誌とは違って、企業の後ろ盾があり、そのおかげで大きな資金難には悩まなかった、と言います。月刊で刊行できたのも、その恩恵があったからこそと言うしかなく、全国に会員をもち、毎月毎月、雑誌を出しつづけている、というだけで、外部から見れば、有力・有望同人誌のひとつです。当時は、日本文学振興会が、直木賞・芥川賞の候補にいい作品ないですか、と外部にアンケートのハガキを送っていた時代に当たり、その送付先に『日通文学』編集部も含まれていました。

 ここに、日本通運社外の会員、片山さんの長篇小説を、8か月間にわたって分載(連載)しよう、と決めたのも田代さんなら、振興会からの直木賞・芥川賞推薦アンケートに、片山さんの「戦争記」を挙げて返送したのも田代さんです。この、よき理解者がいなければ、とうてい「戦争記」は掲載されず、候補にもならなかった、と見ていいでしょう。

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