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2017年11月 5日 (日)

『半世界』…文壇への足がかりにするつもりはない、と言いながら創刊されて幾星霜。

『半世界』

●刊行期間:昭和32年/1957年10月~平成14年/2002年1月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 稲垣真美(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 粂川光樹(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 梶野豊三(候補1回 第59回:昭和43年/1968年上半期)

 平成29年/2017年、創刊から60年もたつのに、同人誌『半世界』に対してこんなに気軽に親近感が抱けるのは、確実に『晩鐘』(平成29年/2017年9月・文藝春秋/文春文庫 上・下)を書いた佐藤愛子さんのおかげです。

 田畑麦彦さんをモデルにし、彼との出会い、結婚、文壇デビュー、離婚、さらに時が経って彼の死、とそういった変遷が軸となった物語ですから、当然、二人とその仲間たちが創刊した『半世界』のことにも、かなりのボリュームで触れられています。

 『晩鐘』に出てくる人物名・固有名詞をカッコ付きで補足しながら、『半世界』の前半期までをたどりますと、昭和20年代なかば、有名・有力同人誌『文芸首都』(『文芸キャピタル』)に参加した20代の若手たちが、「ロマンの残党」と名乗るグループを組みます。筆名「天笠人誌」を使う天笠一郎(天野梧一)、筆名「荘司重吉」の庄司重吉(庄田宗太)、マッサージ師の林圭介(森健郎)、その林に強引に誘われて同人になった筆名「田畑麦彦」篠原省三(畑中辰彦)、それと佐藤愛子(藤田杉)、などなどです。

 エネルギーの有り余った若者たちの青春群像、って感じで、それぞれ他人の作品に文句をつけながら、小説やら評論やらを書いたりしていましたが、田畑さんと佐藤さんが結婚した頃から、天笠さんが見る見る距離をおくように。やがて俺は文学から足を洗うと捨て台詞を残して、天笠さんが脱退し、「ロマンの残党」は解体します。

 しかし、やっぱり俺たちは俺たちの信念のもとで同人誌をつくらなければ、と気負いを見せたのが田畑さん。荘司さんもそれに賛同し、ほうぼう仲間たちに声をかけて、昭和32年/1957年に出来上がったのが『半世界』です。当初は北杜夫、川上宗薫(川添卓次)、日沼倫太郎(生沼慎一)、宇能鴻一郎、原子朗、小池多米司、津島青などなどが参加しました。

 べつにこの雑誌を、文壇に出るための足がかりにするつもりはない、と田畑さんは豪語していたそうです。しかし、そうは言ってもかたくなにジャーナリズムを拒絶するわけじゃなく、やはり多くの人目に触れて感想のひとつでも言ってもらえれば、うれしいには違いありません。創刊から14号まで出したところで、荘司さんがボヤいています。

「自分の作品は多くの人の眼にふれるほうがのぞましい。同人雑誌の発行部数などはタカがしれたもので、そういう意味で私たちにとって商業雑誌というものはたいへん魅力ある存在であるが、そういうところでは私たちの作品は面白くないので問題にされはしない。まったくいつものとおり年月だけが過ぎて行くのである。」(『新潮』昭和37年/1962年3月号 荘司重吉「「半世界」の立場」より)

 たしかに荘司さんの作品は、さほど問題にされなかったかもしれません。しかし他の同人たちは次々と商業誌にデビューを果たし、あるいは芥川賞の候補になったりして注目されまして、ついには昭和37年/1962年、主宰格の田畑さんが、第1回文藝賞の中短篇部門に応募した「嬰ヘ短調」で、みごと受賞に輝きます。追ってまもなく佐藤さんも、『半世界』に発表した「ソクラテスの妻」(第16号[昭和38年/1963年春])が、おっとびっくり『文學界』に同人雑誌推薦作として転載。そのまま芥川賞候補になってしまったうえに、落選後には『文藝春秋』でもお披露目されることになって、俄然、美貌の新進女性作家としてデビュー。何だかみんな『半世界』を土台にエラくなりましたね、よかったよかった……というのが『半世界』史、前半までの概略となります。

 びっくり、といえばそれから6年後、佐藤さんがせっせと商業誌のために書いた『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞しました。ブンガク、ブンガクと高らかに声を上げていた『半世界』の同人から、まさか直木賞の受賞者が出るとは、と激震が走ったことでしょう。もうそれだけでも『半世界』は、直木賞史に現われた同人雑誌のひとつとして重要なポジションを占めるわけですが、創刊当時の有力な同人がひとり、またひとりと商業的なライトを当てられて、去っていくなかで、この雑誌を守った人たちのことを見逃すわけにはいきません。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)から第59回(昭和43年/1968年・上半期)まで、都合3度も、『半世界』の作品が直木賞候補に挙げられました。それは明らかに、その人たちの継続力に負うところが大きく、そこから『半世界』の第二章が始まったと言っても過言ではないからです。

 ひとりは、取り残された「ロマンの残党」こと荘司重吉さん。というのはいいとして、いまひとりは、第17号から編集同人に加わった稲垣真美さんです。

           ○

 荘司さんと稲垣さんは、以前からの知り合いだったらしく、『半世界』が創刊するとき、稲垣さんも、荘司さんから加入を誘われたと言います。

 最初は渋って参加を保留、数年は様子を見ていた稲垣さんが、改めて荘司さんと会ったときに、何か書いたものがあるなら見せろ、と言われて提出した小説は、荘司さんがその出来に難色を示し、佐藤愛子さんにも「女が書けていない」と酷評されたそうで、同人入りは見送りに。そこで稲垣さん、やる気を見せたか、文学への道に本格的に乗り出す決心をした折りも折り、アルバイトの勤めをやめ、フリーライターとなったところで、おそらく時間に余裕があると見込まれて、編集同人に加えられた……ということだそうです。

 稲垣さんが『半世界』の編集に関わったのは、だいたい3年ほどと、かなり短い期間でした。自身が編集した第20号(昭和40年/1965年3月)に、自作「苦を紡ぐ女」を掲載、これが直木賞の候補となって、ライターとしても多少のハクがつき、文筆のお仕事が忙しくなったのかもしれません。

 創刊時に田畑さんが放った「足がかりみたいな同人雑誌には、しない」宣言は、どこに行ってしまったんでしょう。だけども稲垣さんが関わったことで、なぜか直木賞から目を向けられることになったのですから、よかったか悪かったかは別として、『半世界』の歴史に大きな役割を果たした人物であることに間違いはありません。これも途中から同人となった粂川光樹さんは、10代の半ばから小説家になることを夢見ていた若き学者で、当時はプリンストン大学で日本語と日本文学を教えるために渡米していたころですが、その置き土産ともいうべき粂川さんの小説を、『半世界』21号(昭和40年/1965年10月)に載せたのも稲垣さんです。「雑誌を出しても、だれからも何の反響もない」と嘆いていた荘司さんの時代とは違い、これもまた直木賞の予選を通って、本選まで上がってしまいました。

 その後、稲垣さんが抜け、まもなく荘司さんが進行性筋委縮という病気にかかり、創価学会の信仰にのめり込みながら死去。ここで『半世界』の命脈が断たれたとしてもおかしくなかったと思うんですが、このあとを継ぐ第三の男が、同人に控えていたおかげで、さらにもう一作の直木賞候補作がこの雑誌から生まれ、のみならず、その後も長く刊行が続き、21世紀まで『半世界』は生き残ります。

 その名は梶野豊三さん、第三の男です。戦後、大地書房という出版社に潜り込み、それがつぶれると読売新聞社に職を見つけ、『週刊読売』で三好徹さん、塩田丸男さん、長部日出雄さんなどと同じ釜の飯を食った筋金入りの雑誌記者……だったそうですが、川上宗薫さんに荘田さんのことを紹介されたことが、『半世界』に関わる縁になった、と言われています。

 小説家としては知られていなかったでしょうが、すでに梶野さんには職があり、文章を書いてお金を稼いでいました。『半世界』発表の「耳なしロドリゲス」が直木賞の候補になったのが、すでに48歳のときで、それから6年後には55歳で定年退職、その後は使い勝手のいいベテランライターとして『週刊新潮』の「黒い報告書」シリーズを引き受け、そのかたわらで仲間たちと同人誌を出しつづけるというのは、20代の無名な文学青年たちが、気負い込んでつくった創刊のころの『半世界』とは、まったく違う姿に変わり果てた、と言ってもいいでしょう。

 しかし、そんな状況になったからか、一度は離れた田畑さんが、ふたたび同人に加入。「決してこの雑誌は、文壇への足がかりにはならない」という当初の目論みが、梶野さんの手によって展開されることになった……というのは、この雑誌をリアルタイムで読んでいたわけじゃないヤツが、軽々しく言うようなことじゃないんでしょうけど、でも客観的にはそう見えるところです。さっき「変わり果てた」と書きましたが、案外、根っこのところは変わらなかったのかもしれません。守りつづけた梶野さんの功績でしょう。

 吉田時善さんによれば、梶野さんは読売新聞の在職中に離婚、母親と二人暮らしを送りましたが、その母を看取ってからは、ひとりの生活となりました。

「係累を秘密の幕の向こうに封じ込め、社会との接触も意志的に避けた彼は、孤独な生活に徹しようとしているように、わたしには見えた。(引用者中略)梶野豊三はペンネームで、本名は豊二である。次男のような名前だから、兄さんがいたのかも知れないという想像はなりたつが、彼の秘密主義に阻まれて、そのへんを確かめることは出来なかった。もちろん父親についても、語ることはなかった。

そんな彼が亡くなったので、喪主になるべき人がいなかった。病状(直腸ガン)が悪化したとき、その点だけは、彼も考えたらしく、葬儀は要らない、「半世界」の同人たちで送って欲しいと、言い残した。」(『半世界』47号[平成14年/2002年1月] 吉田時善「ごくらく、ごくらく」より)

 この第47号以降、続刊された形跡はなく、おそらく『半世界』の幕は、往年の直木賞候補者、梶野豊三さんが自分の命といっしょに下ろしたものと思われます。

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