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2017年11月の4件の記事

2017年11月26日 (日)

『午後』…直木賞、歴史作家の芽をひょんなところから見つけてくる。

『午後』

●刊行期間:昭和36年/1961年2月~昭和51年/1976年10月(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補2回 第53回:昭和40年/1965年上半期~第70回:昭和48年/1973年下半期)
    ※のちに通算10回目の候補で受賞

 その昔、直木三十五さんがまだ三十五と名乗っていなかったころ、文壇のゴシップを勝手きままに書き殴り、一部で大評判となった、と言われています。作家や評論家たちの生態、いわばゴシップというものは、どうしたってこの世から廃絶できないシロモノ、と言いますか、どんな時代でも確実に高い関心をもって読まれてしまう運命にあると言ってもよく、それを否定しても仕方ありません。

 1960年代、そういった文人たちのゴシップ記事を載せて注目されたのが、山口県下関の地で刊行されはじめた『午後』です。……などと言うと、明らかに語弊がありそうなので撤回しておきますけども、しかし創刊同人のひとり、のちに下関図書館長になった中原雅夫さんが『午後』に発表した「下関に迎えた文化人」あるいは「下関を訪れた人々」という読み物シリーズが、東京の出版社や文壇のあいだでかなりの興味をもって読まれたことは、たしかだと思います。

 阿川弘之、山口誓子、戸板康二、江藤淳、佐藤春夫、平林たい子、永積安明、外山滋、大宅壮一、小田実、由起しげ子、小林秀雄、大岡昇平、大佛次郎、杉森久英……。講演会だったり、取材旅行だったりで山口を訪れることになった、ちょっと名のある人たち。とくにこの地方は、幕末史を語るうえでは絶対に避けて通れない場所ですから、そういった面での取材アテンドや資料提供を求められることが多かったらしく、そこで活躍したのが中原さんです。下関市の広報係長を務めていたからです。

 それまでも中原さんは、仕事柄、地元・下関の特徴や取り得についての文章を、さまざまに書く機会がありました。しかし次第に、美辞麗句だの、紋切り型の観光ガイドだの、そういうものに飽き足らなくなったんでしょう。自らの視点で、歴史的な事象、風土などを調べはじめ、郷土ゆかりの文学者や文学作品にも手を伸ばして、もとより高かった自身の文学熱をさらにメラメラ燃やしていたところ、市役所に出入りしていた地元新聞社の、文学好きの記者と親しくなります。

 それが『みなと新聞』で働いていた古川薫さんでした。運命的な出会い、と言っていいんでしょう。

 中原さん40歳前後、古川さんは30代後半。市役所で働いていた清永只夫(唯夫)さんなども加わって、こっそりと(いや、大いなる気概をもって)同人誌『午後』を始めたのが、昭和36年/1961年のことです。

 「文学好きの記者」と書きました。古川さんの来歴を簡単にご紹介しますと、23歳のときに徳田秋聲の『仮装人物』を読んで以来、文学の道に進みたいという思いがふくれ上がり、山口大学に入って国文学を専攻。小説家を志望し、「何が作家になりたいだ、無理に決まってるじゃん、あはははは」と周囲に笑われながら、伊藤佐喜雄さんが山口で主宰していた『多島海』に参加して、小説を二つばかり発表したと言います。

 その後、新聞社にもぐり込みましたが、やはり物書きになる夢は断ちがたく、運命的に出会ってしまった中原雅夫さんたちと盛り上がるうちに迎えたのが、『午後』創刊の日です。

 これをきっかけに文壇に出てやろう、という気概がどのくらい熱かったのか。現場にいたわけでもない人間には、とうてい測りかねるものがありますが、昭和40年/1965年、古川さんの「走狗」が『文學界』の同人雑誌評で好評を博し、同誌に転載されるまでの約5年、古川さん自身は必死にやったと思い出を語っています。

「学生の頃から小説は書いていたんですけどね。三十六歳のときに同人誌を出して、四十歳のときに直木賞の候補になりましたから、五年掛かりました。その五年間で同人雑誌を十号出して、そのときの小説(「走狗」)が(引用者注:『文學界』に)掲載されたんですよ。僕は、十年頑張ったらね、まあなんとかなるんじゃないかという気がするんです。(引用者中略)十年死に物狂いになってやって、それでも駄目ならやめた方がいいかも分らんなと思う。」(平成26年/2014年3月・文藝春秋/文春新書『作家の決断 人生を見極めた19人の証言』所収「古川薫 文芸と言わず芸術というのは、死を賭けた遊びと言ってもよい」より)

 『文學界』に同人雑誌優秀作が再録される、という企画が始まったのは、昭和33年/1958年1月号からです。その転載作が、はじめて直木賞候補になったのは、先日取り上げた北川荘平さんの「水の壁」(昭和33年/1958年8月号転載)ですが、これは芥川賞との同時候補でした。

 言うまでもなくこの企画は、直木賞のためというより芥川賞のために存在している、と同人雑誌の人たちも、あるいは文藝春秋の人たちだって考えていたはずで、ワタクシの目にもそう見えます。事実、北川さんの作品以降、7年ものあいだ、直木賞に直結する転載作は出ませんでした。

 たとえば「走狗」がどこかの読み物雑誌に載っていたら、明らかに違和感があります。しかし、なぜだか直木賞の候補に選ばれてしまいました。「始めた理由」とか「やっている人の意思」とか、そういうものに縛られない、自由で予測不能な動きを見せる直木賞の特徴が、また顔をのぞかせたと言う他なく、直木賞め、また「お門違い」をやらかしやがって、と難詰されたところで文句は言えません。

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2017年11月19日 (日)

『早稲田文学』…直木賞作品とは思えないものを候補にする、不思議な直木賞。

『早稲田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和9年/1934年~昭和24年/1949年(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 佐藤善一(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 まだ出たばかりの新刊、小谷野敦さんの『純文学とは何か』(平成29年/2017年11月・中央公論新社/中公新書ラクレ)を読んでいて、思わずひざを打つ思い、と言いますか、こういうかたちで直木賞のことを、折りに触れて書けてしまう小谷野さんの、貴重な仕事ぶりに改めて感嘆しています。

 と言うのも、純文学/大衆文学の差や違いを語るときに、数多くの評論家、作家、文筆家、ライター、文芸記者などなどが、さらっと「芥川賞/直木賞」の枠組みを持ち出してくる場面を、気絶するほど数多く目にしてきました。だけど、じっさいに芥川賞の受賞作や候補作だけじゃなく、直木賞の受賞作・候補作、あるいは通俗的だと言われるユーモア小説の類や、倶楽部雑誌に載っている時代ものや情愛もの、はたまたノベルスを読んだりしているうち、直木賞が大衆文学を代表しているとは、とうてい思えなくなってきます。純文学=芥川賞はいいとして、大衆文学=直木賞、という切り取りかたに、強い違和感をおぼえるのです。

 じゃあ、いったい直木賞は何なのか。……というところで、『純文学とは何か』では「第五章 謎の直木賞」として、直木賞みたいなもののために一章分もページを割き、はっきりこうだと定義できない直木賞の不思議さと特異さを説明してくれています。

 くわしくは、じっさいにこの本を読んで堪能していただくとして、今週とりあげる雑誌『早稲田文学』は、とくに小谷野さんの本とは関係がないんですが、しかし『早稲田文学』に載った小説を候補に挙げちゃう直木賞って、やっぱり謎だよな、と思うしかありません。

 『早稲田文学』はいまも頑張って第十次のものが出ていて、ここから芥川賞の受賞作も生まれているので、基本的には大衆文学のための雑誌とは言えません(いや、基本的もクソもないぐらいです)。第九次以前だって、やはりその性質はさほど変わらず、最も直木賞との関連が深いのは、おそらく第七次に立原正秋さんや有馬頼義さんが編集長をした時代かと思いますが、これとて、こういう人たちがいかに純文学への関心が高かったか、を示すものでしかなく、この雑誌と直木賞とが直結している、と見た人はまずいないでしょう。

 歴史全体を通して、まず直木賞とは世界が違う、としか見えない『早稲田文学』から、唯一、直木賞の候補が選ばれたのは、谷崎精二さんが編集のトップに立った第三次のころ。昭和19年/1944年の下半期です。

 一次・二次と違って第三次は、同人が編集だけじゃなくて販売から何から雑誌経営(お金のやりくり)全般を一手に担う、ということで始めたそうで、当時の編集後記や、谷崎さんの回想、あるいは浅見淵さんの文壇回顧ものを見ても、その苦心惨憺のさまがいろいろ描かれています。同人雑誌でもあり営利雑誌でもある、というのは相反した性質なのかどうなのか、たしかにお金を出して書店で買える同人雑誌は、とくに『早稲田文学』の専売特許でもなかったはずですが、しかし、売れないと続けて出しつづけることができない経済社会のなかの一誌として、何次になっても苦労が絶えないようです。

 そのなかでも『早稲田文学』が、常に持ちつづけたのが、新人作家を積極的に起用する心でした。この雑誌の公募の新人賞は、いままた、続いているのかどうかわからない段階に入ってしまいましたが、第三次の終盤ごろからこの手の企画を繰り返しています。おそらくは、この雑誌の「新しい作家よ出でよ」の精神が、公募賞の開催というかたちで現われているものでしょう。

 谷崎さんの書くところによれば、こうなります。

「営利雑誌となるためには資本が足りないし、と云って純然たる同人雑誌になるためには新人の発見育成と云う、半ば公式に托された任務を捨てなければならない。勿論現在どの文藝雑誌でも新人の発見には努めているが、『早稲田文学』同人の眼ざすところは我々の後継者として新人の育成である。」(『早稲田文学』昭和24年/1949年5月号 谷崎精二「雑誌経営十五年」より)

 ということで、既成の同人だけじゃなく、門戸をひらいて誌面を提供し、新しい人たちにうちの雑誌から巣立っていってもらおう! とこれは、昭和9年/1934年に第三次として復刊して以来、『早稲田文学』のひとつの核ともなり、尾崎一雄、浅見淵、野村尚吾、逸見広と、中心の編集担当が変わっても受け継がれていきます。他の商業文芸誌とまざって、新人が作品を持ち込む先に、並の同人雑誌とは違う一種の格のあるメディアとして、どうやら認識されるようにもなったらしく、岩手師範を出て教員をしていた佐藤善一さんの小説が、この雑誌に採用されることになったのも、(おそらく)『早稲田文学』の新人待望熱が強かったおかげでした。

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2017年11月12日 (日)

『花』…いきなりブレイクしかけた葉山修平、しかし生涯、同人誌に生きる。

『花』(第一次)

●刊行期間:昭和33年/1958年~昭和45年/1970年(12年)

●直木賞との主な関わり

  • 葉山修平(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)

 何か月か前、『文芸日本』のことを取り上げました。1950年代、榊山潤さんが親分となって、尾崎秀樹さんが編集実務を切り盛りしていた雑誌ですが、第43回(昭和35年/1960年・上半期)直木賞候補のなかに名を見せる同人誌『花』は、どうやらこれと多少の縁があったようです。

 『花』の創刊号に、尾崎さんが「ノラのゆくえ 魯迅研究ノート・I」という評論を寄せています。どうしてそこに至ったか。創刊までの経緯を少しさかのぼってみますと、もともと千葉の郷土誌に葉山修平さんが書いた小説を、『東京タイムス』で同人雑誌評を担当していた林富士馬さんが褒め、まもなく同人雑誌界の集まりの席ではじめて挨拶を交わして以来、葉山さんは林さんと意気投合。たびたび林さん宅を訪れるうち、同人誌『玻璃』の創刊から参加することになりますが、林さんの隣の家に住んでいたのが榊山潤さんです。「だれかいい新人作家がいたら紹介してくれよ」とつねづね頼まれていた林さんが、榊山さん、この人はどうですかと引き合わせたことから、おのずと葉山さんは尾崎さんとも顔なじみになりました。

 いっぽうで、『玻璃』で知り合った詩人、太田浩さんともお友だちに。やがて『玻璃』がつぶれる折りには、『文芸日本』の会に入っていながら作品を載せてもらえない人たちを誘ったりして、新しい同人誌をつくろうという機運が生まれ、宇井要子さん(直前に葉山さんと結婚)や井上清さんなどが参集、世阿弥の「風姿花伝」からとって『花』と命名されます。葉山さんが付けたそうです。

 このとき、「葉山修平」という、ひとりの無名作家にとっての順風が、明らかに吹いてきていました。葉山さんが『文芸日本』に載せた「バスケットの仔猫」は、まったく思いがけず室生犀星さんの目に留まり、直接お褒めのハガキが送られてきたりして、葉山さん大感激。褒めてくれた先輩にズブズブと心酔していく、という感情は、誰しも理解できる一般的なものだと思いますが、やはり葉山さんもその例に洩れません。室生さんを師とあおぎ、『花』を創刊するときにも室生さんに相談したそうですし、その『花』に発表した「天皇の村」(未完)を、室生さんの紹介で東西五月社から処女出版することになって、師弟の絆はいっそう強まったものと思います。

 いっぽうで葉山さんは、林富士馬という人を通じて、当時、若手の有力作家と呼ばれていた人たち、庄野潤三さんや吉行淳之介さんなどと交歓をもったと言いますし、林―榊山―尾崎というラインからは、『文芸日本』の伊藤桂一さんや大森光章さんといった面々ともつながりを持ちます。

 林さんに連れられて、佐藤春夫さんに会うことが叶ったのも、そのころのことです。会話のなかから、ふと「バスケットの仔猫」が室生さんに褒められたことが話題に出ると、すかさず佐藤さんが言ったのが、「室生君が褒めたものなら間違いないだろう、僕が芥川賞の候補に推薦しておこう」とのお言葉。文学青年として有頂天にならないはずがありません。

 しかし、結局この作品は芥川賞の予選は通らず、

「やがて芥川賞候補の作者と作品が新聞に掲載された。彼の名前はどこにもなかった。(引用者中略)太宰治が芥川賞の候補になって、ぜひ受賞したいからと選者の佐藤春夫に手紙で真情を綴った手紙を書いたが、それを佐藤春夫が公表したことのあるのを、何の脈絡もなく思い出していた。なるほど、春夫は若い人を励まし鼓舞する名人だ、と思い、しかし、なにか裏切られた気持になった。」(平成25年/2013年11月・龍書房刊 葉山修平・著『処女出版―そして室生犀星』より)

 と、人に期待をもたせてしまう佐藤さんの、巧みな人心掌握術にひっかかったらしいとわかって、少し悲しみを覚えることになったのも、この時期、葉山さんが急速に「文壇」の端っこで注目されだしていた証しでしょう。

 以来、葉山さんは、高校の先生から、千葉大学講師、駒沢短大では助教授・教授・名誉教授と進む教育者として、長年勤めをもちながら、各地のカルチャーセンターでわいわい生徒たちと文学について語らって暮らす、そんな道のりを歩んでいきます。

 文学研究のかたわら、自身での創作も続け、どうやら文学のジャーナリズム化や商業化に対しては抵抗感があったらしく、そういうものと距離を置いたところで活動をつづけます。あるいは、自分の書いたものが、商業出版界では受け入れられず、ほんとうは作家で食っていきたかったのに、それが果たせなかった、という面もあったのかもしれませんけど、とにかく「私がつくっては潰し、つぶしては作ってきた同人雑誌」(「わが百花譜抄」)と自分でも振り返るほどに、数々の同人誌を、息つくひまもなくつくり続けたことが、何と言っても葉山さんの、特筆していい業績です。

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2017年11月 5日 (日)

『半世界』…文壇への足がかりにするつもりはない、と言いながら創刊されて幾星霜。

『半世界』

●刊行期間:昭和32年/1957年10月~平成14年/2002年1月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 稲垣真美(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 粂川光樹(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 梶野豊三(候補1回 第59回:昭和43年/1968年上半期)

 平成29年/2017年、創刊から60年もたつのに、同人誌『半世界』に対してこんなに気軽に親近感が抱けるのは、確実に『晩鐘』(平成29年/2017年9月・文藝春秋/文春文庫 上・下)を書いた佐藤愛子さんのおかげです。

 田畑麦彦さんをモデルにし、彼との出会い、結婚、文壇デビュー、離婚、さらに時が経って彼の死、とそういった変遷が軸となった物語ですから、当然、二人とその仲間たちが創刊した『半世界』のことにも、かなりのボリュームで触れられています。

 『晩鐘』に出てくる人物名・固有名詞をカッコ付きで補足しながら、『半世界』の前半期までをたどりますと、昭和20年代なかば、有名・有力同人誌『文芸首都』(『文芸キャピタル』)に参加した20代の若手たちが、「ロマンの残党」と名乗るグループを組みます。筆名「天笠人誌」を使う天笠一郎(天野梧一)、筆名「荘司重吉」の庄司重吉(庄田宗太)、マッサージ師の林圭介(森健郎)、その林に強引に誘われて同人になった筆名「田畑麦彦」篠原省三(畑中辰彦)、それと佐藤愛子(藤田杉)、などなどです。

 エネルギーの有り余った若者たちの青春群像、って感じで、それぞれ他人の作品に文句をつけながら、小説やら評論やらを書いたりしていましたが、田畑さんと佐藤さんが結婚した頃から、天笠さんが見る見る距離をおくように。やがて俺は文学から足を洗うと捨て台詞を残して、天笠さんが脱退し、「ロマンの残党」は解体します。

 しかし、やっぱり俺たちは俺たちの信念のもとで同人誌をつくらなければ、と気負いを見せたのが田畑さん。荘司さんもそれに賛同し、ほうぼう仲間たちに声をかけて、昭和32年/1957年に出来上がったのが『半世界』です。当初は北杜夫、川上宗薫(川添卓次)、日沼倫太郎(生沼慎一)、宇能鴻一郎、原子朗、小池多米司、津島青などなどが参加しました。

 べつにこの雑誌を、文壇に出るための足がかりにするつもりはない、と田畑さんは豪語していたそうです。しかし、そうは言ってもかたくなにジャーナリズムを拒絶するわけじゃなく、やはり多くの人目に触れて感想のひとつでも言ってもらえれば、うれしいには違いありません。創刊から14号まで出したところで、荘司さんがボヤいています。

「自分の作品は多くの人の眼にふれるほうがのぞましい。同人雑誌の発行部数などはタカがしれたもので、そういう意味で私たちにとって商業雑誌というものはたいへん魅力ある存在であるが、そういうところでは私たちの作品は面白くないので問題にされはしない。まったくいつものとおり年月だけが過ぎて行くのである。」(『新潮』昭和37年/1962年3月号 荘司重吉「「半世界」の立場」より)

 たしかに荘司さんの作品は、さほど問題にされなかったかもしれません。しかし他の同人たちは次々と商業誌にデビューを果たし、あるいは芥川賞の候補になったりして注目されまして、ついには昭和37年/1962年、主宰格の田畑さんが、第1回文藝賞の中短篇部門に応募した「嬰ヘ短調」で、みごと受賞に輝きます。追ってまもなく佐藤さんも、『半世界』に発表した「ソクラテスの妻」(第16号[昭和38年/1963年春])が、おっとびっくり『文學界』に同人雑誌推薦作として転載。そのまま芥川賞候補になってしまったうえに、落選後には『文藝春秋』でもお披露目されることになって、俄然、美貌の新進女性作家としてデビュー。何だかみんな『半世界』を土台にエラくなりましたね、よかったよかった……というのが『半世界』史、前半までの概略となります。

 びっくり、といえばそれから6年後、佐藤さんがせっせと商業誌のために書いた『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞しました。ブンガク、ブンガクと高らかに声を上げていた『半世界』の同人から、まさか直木賞の受賞者が出るとは、と激震が走ったことでしょう。もうそれだけでも『半世界』は、直木賞史に現われた同人雑誌のひとつとして重要なポジションを占めるわけですが、創刊当時の有力な同人がひとり、またひとりと商業的なライトを当てられて、去っていくなかで、この雑誌を守った人たちのことを見逃すわけにはいきません。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)から第59回(昭和43年/1968年・上半期)まで、都合3度も、『半世界』の作品が直木賞候補に挙げられました。それは明らかに、その人たちの継続力に負うところが大きく、そこから『半世界』の第二章が始まったと言っても過言ではないからです。

 ひとりは、取り残された「ロマンの残党」こと荘司重吉さん。というのはいいとして、いまひとりは、第17号から編集同人に加わった稲垣真美さんです。

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