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2017年8月の4件の記事

2017年8月27日 (日)

『炎』…10年つづいて、それぞれの思い出を後に残した、女性だけの同人誌。

『炎』

●刊行期間:昭和35年/1960年~昭和45年/1970年(10年)

●直木賞との主な関わり

  • 村山明子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)

 どこの同人誌にいた誰それが、よそに移ったり新たな雑誌をつくった……とか、同人同士が糾合したり、仲たがいしたりして、別の同人誌が生まれた、またはつぶれた……とか、同人誌の世界っていうのは、古代中国やら戦国時代をほうふつさせるその、集合体同士の離合集散を含めた興亡史が、なにより面白いことは確実です(なのか?)。

 大所帯の有名誌ならともかく、ほんの数年しか活動しなかった、いまはもうなくなってしまった雑誌のことは、ほんとよくわからないので、歴史のかげにうずもれてしまうんですが、そのなかでも、東京で出ていたという『炎』は、多少は語られる機会の多かった雑誌かもしれません。これも、紆余曲折のすえに生まれた雑誌だったそうです。

 もとは丹羽文雄さん傘下の『文学者』というチョー有名な同人誌があり、昭和25年/1950年から、十五日会が出していました。これが昭和30年/1955年、惜しまれつつもいったん休刊。それじゃあ私だけで集まって新雑誌をつくりましょうかと、『文学者』同人のなかの女性たち……瀬戸内晴美さんや河野多恵子さんなどが音頭をとって出発を切ったのが同人誌『女流』です。昭和31年/1956年~昭和34年/1959年までつづきます。

 ところが昭和33年/1958年、早くも『文学者』が再刊されることになって、『女流』に参加した人たちのほとんどは、『文学者』へ戻っていってしまった、といいます。残されたのは、『文学者』とは、とくに縁のない旧同人たち。んもう、こうなったら自分たちだけで新しいものをつくりますか、と言って立ち上がったのが、『炎』だ、とのことです。

 『女流』には第二号から参加した人で、のちに『炎』の生んだ最大の職業作家ともいうべき存在となる、中山あい子さんが書いています。

「私は女流に二度か三度作品が載って、当時の文学界の同人誌批評と云うのに取りあげられ面白いと云われた。云われたがストーリーテラーで、むしろ中間小説だと書かれた。私には中間小説も純文学も分らなかった。

モナミで散々会合を重ね、結局、自分たちで別の新しい本を作ろうと云うことになり、七、八人が残った。勿論そんな頼りない集まりに後援を云い出す会員はなかった。

本の名前をと決め、発行所を私の住む英国大使館にし、編集責任者は私になった。校正も印刷も、前の女流の頃に覚えたので、印刷所も暫くは同じ処だった。」(昭和63年/1988年5月・海竜社刊 中山あい子・著『私の東京物語』「同人仲間と東中野」より ―太字下線は原文では傍点)

 『文學界』の同人雑誌評で、『女流』掲載作として名が挙がったのは、小滝和子、中野雅子、片野純恵、中山あい子、岸田和子、山村錦子、森志斐子、および〈岡本かの子論〉を連載した西岡久子、といった面々でしたが、これが『炎』に移ってからは、中山あい子、森志斐子、山村錦子という3人の作品が、ひきつづき同コーナーでは数多く取り上げられるようになります。

 そこから中山さんは、昭和38年/1963年終盤に、創設されたばかりの第1回小説現代新人賞を受賞、以来中間読物誌を主戦場としながら、エッセイ、対談、テレビ出演で顔と名前がバンバン売れるいっぽう、文学賞という文学賞には何ひとつカスりもしなかったという、身ぎれい極まりない作家人生を歩みました。なので、直木賞とはほとんど関係がありません。

 関係があるのは、『炎』で書いてただひとり直木賞の候補に挙げられた村山明子さんです。

 この村山さんという方が、まあ謎に満ちた、と言いますか、何がどうなって『炎』に参加し、その後、何がどうなったのか、皆目つかめない人なんですが、『炎』に載せた何気ない一作「指のメルヘン」が第51回(昭和39年/1964年・上半期)直木賞の候補になったり、昭和44年/1969年には「蛙」が、『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれたりし、昭和45年/1970年に『炎』に終止符が打たれて以降、もはや消えてしまった伝説の直木賞候補者になりかけたところ、昭和57年/1982年になっていきなり、福沢英敏さんの近代文藝社から旧作を集めた『指のメルヘン』を、今沢明子名義で刊行。

 昔の自作を同人誌に埋もれさせておかず、とりあえず単行本にして、同時代、あるいは後世の読者にその刻印を伝え残す、という意味では、かなりありがたい出版です。だけど、ひょっとして本人にとっては単なる思い出づくり? ……と心配に思うのは、べつにワタクシだけじゃなかったらしく、この本に寄せた宣伝文で、中山さんも書いています。

「20年経ったいまも、彼女の作品が新しいことに改めておどろいている。

これを機会に今沢さん自身も、もう一度、書く姿勢を取り戻してくれたらと、私は本気で考えているのだ。これをただ思い出の作品集で終らせたくない。」(『群像』昭和57年/1982年12月号「近代文藝社の本」広告より)

 しかし、どうやら中山さんの願い空しく、村山=今沢さんが、書く姿勢を取り戻した気配はなかったものですから、ここに一点の曇りもない、消えてしまった伝説の直木賞候補者が完成してしまいました。ああ、どうなったんでしょうかね、今沢さん。

 と、ここからは「ちなみに」のハナシなんですけど、『炎』からは一人の直木賞候補者が生まれたあと、3年後に今度は、芥川賞候補者が出ることになります。北條文緒さんです。こちらは、どうなったか不明なんてことはなく、とりあえず、「のちに自分の候補入りをどう感じたか」などの回想文も残っています。賞違いではありますが、後半はそっちのほうで。

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2017年8月20日 (日)

『文学街』…文学賞ごときで、反逆児の文学熱は動揺しない……ものなのかどうなのか。

『文学街』

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和42年/1967年(10年)、平成10年/1998年8月~

●直木賞との主な関わり

  • 古川洋三(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)

 直木賞はともかく、芥川賞の世界では、受賞作でしか知られていないような一発屋が多い、いや、べつに芥川賞イコール、レベルが高かったり何十万部も売れたりするわけじゃないのだから、じつは一発も当てていないうちに消えていっちゃった受賞者がゴロゴロいる……などと言われます。

 たしかにそうなんでしょう。わざわざ「じつは」などと、大げさに言うほどの事実じゃない気もしますが、一発も当てていないうちに消えた人といって、まず外せないのが、川村晃さんです。おそらく。

 芥川賞のハナシなんで、駆け足で振り返ります。

 美馬志朗さんを中心にして、昭和32年/1957年に創刊した同人誌『文学街』。あまりに文学への情熱が大きすぎて、月刊で出す! と決めたのがよかったのか悪かったのか、とにかくその、無益だ何だとまわりから冷たい目で見られる時期を過ごすこと5年。さすがに毎月ですから、載せる原稿も底をつきはじめ、同人だった川村さんも仕方なしに、10日ほどかけて新作を書き上げます。するとこれが、『文學界』の「同人雑誌評」で高評価を得て、同誌に転載、まもなく行われた第47回(昭和37年/1962年・上半期)芥川賞でも、文壇ズレしていない素人くさいところが逆にウケてしまい、さらっと受賞に決まります。

 いまから60年も前のことですけど、受賞と決まるとそこにワッと群がるマスコミの狂乱、というステレオタイプな受賞光景が、当時も相当ゲスな感じで展開されたらしく、わいわい持ち上げられる受賞者、それを祝いながらしかし嫉妬を隠せない同人誌仲間、みたいなかなり楽しい(楽しくはないか)状況が生み出されたそうです。

 自身、同人誌『藝文』を運営していた森下節さんは言います。

「「文学街」を主宰した美馬志朗は、下町の印刷所の社長で、自らも文学を目指し同人誌を出しつづけた。

しかし、同人の中から芥川賞作家が出て以来、妙に同人会のムードがぎくしゃくするようになり、川村晃との仲も次第に冷えたものとなった。」(昭和55年/1980年9月・皓星社発売 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第一章 同人雑誌作法」より)

 芥川賞がもたらすひとつの打撃は、受賞者本人だけにおさまるものじゃなく、とくに同人誌に所属している人が受賞することの自然だった時代には、同じ同人、もしくは同人誌の主宰者にも、かなりの衝撃を与えたとは、たしかによく聞くところです。

 ここで、周囲の彼らがどんな反応を示すか。公にどんな文章を残すか。芥川賞と関わった同人誌を見るときの、大きな注目どころでしょう。

 ちなみに美馬さんは、川村さんの受賞のすぐあとで、『文学街』に「川村晃の芥川賞受賞を祝す」という一文を書きました。マスコミが食い散らかす「芥川賞」報道の軽薄さと、それへの嫌悪感、というのは当然のようにコンコンと綴られているんですが、いっぽうでは、自分の心にある嫉妬かもしれない感情を素通りせずに、さすがそこにも分け入ろうと努力しています。

「一昨日ぼくのうちにやつてきた週間文春(原文ママ)の若い記者から、名刺を貰うなり、「同人の方が受賞されると本当にうれしいものですか」と聞かれたとき、ふと頬のこわばるのを意識したのがどうにも苦がくて忘れきれないでいる(引用者中略)「本当にうれしいものですか?」これ程他人の心をのぞきこもうとする無礼な言葉もないが、反面、これほど真実を問うという意味できびしい言葉もないようだ。「本当に」という言葉ほど、ぼく等の世界に生きる人間にとつて恐ろしく苦しい道はない。それをかきわけて生きねばならぬ文学青年のはしくれとして、ぼくはいまなお自分に問うているのである。「おまえは果たして川村さんの受賞を本当によろこんでいるのか」と。」(『文学街』昭和37年/1962年8月号 美馬志朗「川村晃の芥川賞受賞を祝す」より)

 みんなべつに賞が欲しくて文学を志しているわけじゃない、だから賞をとろうがどうだろうが、その作品の本質には何ひとつ関係がない。というのは、まず当たり前です。当たり前すぎて、言葉としても、ものの考え方としても、かなり薄いです。

 自分でも小説を書いているのに、他の同人が賞をとって、ほんとにうれしいものなのか。と聞かれて反射的にムッとした心根の底に何があるのか、そこを考え抜かなくては、どうにも目覚めが悪い。というところから書かれた美馬さんの文章は、やはり面白く、そう考えても美馬さんのような方も、明らかに芥川賞劇場の登場人物のひとりとして数えてもいいものと思います。

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2017年8月13日 (日)

『日本文学者』…戦時下だからこそ直木賞の候補作にも選ばれた、一種の盲点。

『日本文学者』

●刊行期間:昭和19年/1944年4月~昭和21年/1946年3月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 中井正文(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 8月なかば、夏まっさかりの日本です。となれば、やはり戦争にからんだハナシでもしないと、収まりがつきません。

 ……ということで、今週の同人誌は『日本文学者』です。

 仲がいいのか悪いのか、まるで違う志向性をもった数多くの文学青年(と、少しの文学女子)たちが、無理やりのように集められ、みんなで団結すれば絶対に勝てるんだ!と、ほんとに信じていた人もいるでしょうけど、懐疑的な人だっていたにちがいなく、それより何より、「へこへこと体制に追従しなきゃいけない、そんなことまでして文学やりたいのか?」と、きっと自問自答で苦しんだはずのところ、それでもいいから小説書いたり、批評したりしたいんだよお、と同人誌活動をやめることのできなかった人たちの、悲しみの詰まった非営利な雑誌。『日本文学者』です。

 ものの本によりますと、昭和15年/1940年12月、主に同人誌で書いていた人たちが〈日本青年文学者会〉という名前の組織に集められ、その流れから、昭和17年/1942年1月、東京周辺で刊行されていた同人誌のうち、55誌が統合したり、学内雑誌に吸収されたり、廃刊になったりして、結果8つの雑誌に減らされます。『文芸主潮』『辛巳』『正統』『文芸復興』『新文学』『新作家』『昭和文学』『青年作家』(のち『小説文化』)です。じっさいのところ、日本青年文学者会の自発的な措置、ということになっていますが、もちろんそんなことはなく、大政翼賛会文化部、情報局、警視庁という3つの組織からの圧で、仕方なしにまとめさせられたものです。

 そのうち『文芸復興』の切り盛り役を担った妻木新平さんは、戦後になって「日本青年文学者会――戦時下若い作家たちの生態――」を『碑』に連載しました。数々の資料、メモ、内部にいた人からの実感などで構成された、妻木さん最後の大仕事、ともいうべき回想録ですけど、たとえば『碑』13集掲載の第7回には、妻木メモによる、これら8誌の発行部数が記録されています。

 『文芸主潮』1500部、『辛巳』1000部、『正統』700部、『文芸復興』1400部、『新文学』2000部、『新作家』1000部、『昭和文学』1200部、『青年作家』1200部。

「創刊号からその配給会社(引用者注:配給元の日本出版配給株式会社)を通じて、一般書店の店頭にもわれわれの雑誌はならべられたのである。爾来、昭和十九年二月までの二ヶ年間、これら内容外観共同じ八つの文芸同人雑誌が、時を定め、毎月一つせいに発刊され店頭にすがたを見せつづけたのである。八誌とも三種郵便の認可をとり、有料広告原稿をとって……。売上げも相当の成績があがつた。はげしい戦時下によくも……と思う反面、戦時下なればこそ又それが可能であったのかもしれない、この逆説も成りたつかもしれない。一種の盲点だつたようにも思われる。」(『碑』13集 妻木新平「日本青年文学者会(七)――戦時下若い作家たちの生態――」より)

 へえ、けっこうよく売れたんですね。さすが「国家公認」の威力なのか、何でもいいから活字を読みたい人たちの、読書熱のなせるわざなのか、詳細はわかりませんけど、妻木さんが「一種の盲点だった」と感想を抱いているので、そういう面もあったんでしょう。

 上記の8誌体制は、芥川賞のほうでも第15回(昭和17年/1942年・上半期)以降の、候補作の並びに影を落とすことになって、倉光俊夫さんの「連絡員」という受賞作も誕生。同人誌といえば、たいがいは純な文芸を目指すものらしいので、まあ芥川賞に影響が出るのは自然だろうな、と対岸から見物するしかありません。直木賞のほうでは、かつて第12回(昭和15年/1940年・下半期)の候補になった『麦』の古澤元さんが『正統』の中心人物となったことが、めぼしい活躍といえるぐらいで、ほかに直木賞の付け入る隙は見られませんでした。

 ところが、このままで終わらないのが、平時じゃない時代の奇怪なところ。……といいますか、文学賞っていうのは、平時であろうが、およそ奇怪なイベントかもしれませんが、しかしその後の展開は、やはり「奇怪」というしかありません。

 奇怪さを演出することになったのが、8誌体制の崩壊です。昭和19年/1944年4月にいたって、『日本文学者』という、たった1誌に統合させられてしまいます。

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2017年8月 6日 (日)

『新誌』…仲間が受賞すれば狂喜もするけど、同人みんなマイペース。

『新誌』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和58年/1983年5月(20年)

●直木賞との主な関わり

  • 安西篤子(受賞 第52回:昭和39年/1964年下半期)

 神奈川県の鎌倉で、昭和28年/1953年から年2~3回程度刊行されていた同人誌『南北』が、とくに休刊のことばもなく第15号[昭和34年/1959年12月]でお休みに入り、心機一転、新しい仲間も加わって、昭和38年/1963年に再スタートを切ったのが、「新しい雑誌」と書いたこの『新誌』です。

 ……と言いながら、誌名の由来は全然知らないんですけど、これまでブログで取り上げた同人誌と変わらず、これもほとんど、いわゆる大衆文芸とは関係のないところで活動していた雑誌です。

 直木賞というのは、外部にいるワタクシのような人間から見ると、「えっ? どうしてこういう候補作を入れてくるんだ!」と、思わず叫びたくなることが結構あります。たとえば、佐藤正午『月の満ち欠け』なんか、こんなベテランの作品を候補に入れてくることがもう、相当オカしいです。まあ、こういうことを好んで仕掛けてくるのが、直木賞の候補選びの、昔からの伝統かもしれません。

 それで第52回(昭和39年/1964年・下半期)、『新誌』に載った安西篤子さんの作品が、いきなりナ・オ・キ・ショ・ウの候補に挙がったのを見て、「えっ? どうして……」と反応した人がいたのも、よくわかります。この雑誌に同人として参加していた石塚友二さんが書いています。

(引用者注:安西篤子が)若し候補者となり、受賞するとなれば、芥川賞の方こそ相応しい、さういふ作家と考へてゐたのであつた。その安西さんが「新誌」四号に発表した、歴史小説といふよりは、幾らかメルヘン風な作品で以て直木賞の受賞者となつたのだから、その意外さに驚かざるを得なかつたのである。

(引用者中略)

安西さんは直木賞の受賞前に出た「新誌」五号に『うそつき張』といふ題で、やはり中国と中国人を題材とする作品を発表してをり、この作品もなかなかの好短篇であるが、『張少子の話』同様、娯楽的読物の要素といふものはないので、直木賞の概念が、孰れかといへば、中間小説風な作品に対する授賞といふに近い点で、幾らか読者を戸惑はせるものがあらうかと思はれる。範疇を云ふならば純文学に属する性質のものだからである。」(昭和48年/1973年12月・学文社刊 石塚友二・著『日遣番匠』所収「直木賞安西篤子氏のことなど」より)

 つかみどころのない直木賞のふるまいに、驚かされた、ということです。

 だいたい、「この作家は(あるいはこの作品は)純文学だから、芥川賞で評価されるほうがふさわしい!」という発言を、まわりから誘発するのも、立派な「直木賞あるある」のひとつです。とくに珍しい反応じゃないかもしれません。

 このあたり完全に、直木賞の術中にハマっている感はありますが、選評を読んでも選考委員からして、安西さんや「張少子の話」を、大衆文芸の新人とその佳作、と見ることに、数多く疑問符が付けられています。なのに、これを受賞作のひとつに選んでしまったのは、安西さんの師匠・中山義秀さんが選考会にいたことが、他の委員に何らか精神的な影響を与えたんだろうか……と、そういう「場の雰囲気」ってものは、もはや論証の不可能な、単なる臆測でしか語れない事柄ですから、とうてい採用できる説じゃありませんけど、この回前後の選評を読むかぎり、『オール讀物』をはじめとする読み物誌に、すいすいと掲載されるような手アカのついた作風は、あまり直木賞では評価したくない、という考えが、何人かの委員たちに共有されていたことは、たしかなようです。

 でも、そういう直木賞側の事情で、本来、芥川賞が手を出す筋合いのものを直木賞にねじ曲げられた文芸同人誌って、けっこう迷惑だったんじゃないかなあ、と思うと、ちょっと背筋がゾワッとします。どうだったんでしょう。

 この辺、こと『新誌』に関しては、あまりそういうことに右往左往するような雑誌ではなかったみたいです。

 受賞後、安西さんは長く『新誌』に参加しつづけ、大衆読み物誌でバンバン活躍するという路線には進みませんでしたし、同誌の中心的な存在、清水基吉さんも、こう指摘しています。

(引用者注:『新誌』の同人たちは)流行に色目がなく、作風に色気のとぼしいことが長所であり欠点だが、同人は自己の個性に忠実に、マイペースでやっている。そこにおのずから「新誌」の大人(オトナ)的な性格があるといえよう。」(『読売新聞』昭和43年/1968年10月27日「われらのグループ 「新誌」」より ―署名:清水基吉)

 ううむ。こういう雑誌から、何の前触れもなくポロッと無名の人を候補に挙げて、最終的に受賞までさせちゃうのですから、ほんと直木賞というのは、つかみどころがありません。

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