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2017年7月30日 (日)

『文芸日本』…直木賞の候補にあげられて、たちまち勘違いした新人が、いたとかいなかったとか。

『文芸日本』(第二次)

●刊行期間:昭和28年/1953年1月~昭和35年/1960年8月(7年)

●直木賞との主な関わり

  • 藤井千鶴子(候補3回 第37回:昭和32年/1957年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第42回・第51は別で発表した作品
  • 福本和也(候補2回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第40回:昭和33年/1958年下半期)
  • 水島多樓(候補1回 第39回:昭和33年/1958年上半期)

 先週のエントリーで、ちょっとだけ名前が出てきた大森光章さんですが、『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)という本を書いています。

 これがまた、無類に面白い文壇回想録で、「ちょっと純文学で注目されかかったこともあったけど、まもなく売文稼業に身をやつしてしまった作家が、ひがんでいるという自覚を隠さずに綴った、折り折りに出会った作家・評論家・編集者たちの言動」という風合いがあり、武田泰淳、榊山潤、色川武大、菅原国隆、中河与一、駒田信二、松村肇、尾崎秀樹、西野辰吉、林富士馬、萩原葉子、と章の名前になった人々をはじめ、いまだから言える、というエピソードが満載。「これを楽しんで読んでしまう、あまりにゴシップ好きな自分」に気づいて、つい暗い気持ちになってしまうこと請け合いです。

 それはともかく、大森さんと関わりの深かった雑誌のひとつに『文芸日本』があります。同書にも登場します。

 定価をつけて販売し、昭和30年/1955年までは書店でも売っていたそうですから、いわゆる半商業誌的な性格があったはずですが、『文學界』同人雑誌評の対象になっている、という意味では同人誌の一種と見てもいいでしょう。

 昭和14年/1939年、それまであった『東陽』誌の後継のような位置づけで、尾崎士郎、富沢有為男、大鹿卓といった面々が同人に名を連ねて『文芸日本』創刊。その編集長の座にあったのが牧野吉晴さんで、終戦間近に休刊したのち、昭和28年/1953年にいたって同じタイトルの雑誌を再創刊することになるんですが、いったんは、モンココ化粧品の経営者の家族だった大鹿卓さんが、多少は裕福ということもあって編集発行人となり、金園社に勤める伊藤桂一さんがせっせと雑誌づくりに当たっていたものの、やがて榊山潤さんが編集責任者格で、実質上のトップにつきます。

 牧野さんは戦後、大衆雑誌、倶楽部雑誌でかなりの金を稼げる作家になっていたので、復刊した貧乏所帯の『文芸日本』には、相当な金銭的援助をつづけたそうです。しかし何より大きかったのは、当時まだ編集者だった尾崎秀樹さんを個人的な秘書役として抱え、毎月の給料を与えながら、『文芸日本』の編集を手伝うように、榊山さんのもとに行かせたこと、だったと思います。

 榊山―尾崎ラインの、二人の編集上の役割は、もはや判然としませんが、しかし以来ぞくぞくと、同誌から直木賞(やらもうひとつの賞やら)の候補作が選ばれることになるからです。

「大鹿卓が編集発行人だった時代は、比較的ふるい作家、すでに文壇的地位をかためていた作家が多く登場したが、榊山時代に移ると積極的に新人を起用するようになった。伊藤桂一、大森倖二(光章)、葉山脩平(原文ママ)、福本和也、藤井千鶴子、林青梧、水島多樓(今日泊亜南(原文ママ))などである。後藤明生や吉村昭にも声をかけた。新人の作品の評価では私と意見が分れることも少くなかったが、榊山さんが後進にかける期待は絶大なものがあった。なかには芥川、直木賞にノミネートされ、最終まで残った作品もあった。」(平成12年/2000年10月・北溟社刊 尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「榊山潤」より)

 榊山さんが尾崎さんの手を借りて『文芸日本』を切り盛りするようになったのが、昭和30年/1955年秋ごろから。昭和28年/1953年にはすでに、新人・伊藤桂一さんの「黄土の牡丹」が載って、芥川賞の候補になっているので、彼らが同誌と直&芥との橋渡し役になった、とは言えないんですが、しかし昭和32年/1957年から昭和33年/1958年、突然のようにこの雑誌から直木賞候補が、バタバタッと出たのは、新人作家に門戸を開こうという編集方針が、うまく効いたものには違いありません。

 直木賞の候補になったそれぞれの作家が、どういった縁で、この雑誌に書くことになったのか、だいたいが不明ではあるんですけど、今日泊亜蘭さんについては、峯島正行さんがその評伝でこう記録しています。

「「文芸日本」に今日泊が執筆したのは、一に佐藤春夫の推輓による。

(引用者中略)

春夫は、今日泊の父、水島爾保布の友人であった。」(『大衆文学研究』111号[平成8年/1996年7月] 峯島正行「評伝・今日泊亜蘭(2) 処女作・桜田門」より)

 『東陽』のころから、そこにたむろっている人たちは、佐藤春夫門下だと見られていて、『文芸日本』もやはり、佐藤さん系列の雑誌、という性格があったようです。ということは藤井千鶴子さんも、夫が慶應出身の医師、それで戦後は『三田文学』の佐藤さんや木々高太郎さんに師事した、と言われていますので、その関係で『文芸日本』に作品を寄せ、掲載されたのかもしれません。

           ○

 たいがい直木賞なんてものは、せまい業界内のプチ・フェスティバルに過ぎないんだから、オモテに現われる人脈のつながりも、そりゃ当然、いろいろつながっているに決まっているだろ。……と、『文芸日本』の一例だけを見て言い放つのは、いくら何でも乱暴なんですが、福本和也さんは、講談倶楽部賞(佳作)の出身で、〈泉の会〉メンバー。尾崎秀樹さんは、〈泉の会〉の一員だった伊藤桂一さんに誘われて、ここに出入りし、同人誌『小説会議』にも参加していたので、そこから『文芸日本』に原稿がめぐりめぐっていったのでは、と推測されます。

 『小説会議』は、その発足の経緯からしても、まず明らかに大衆文芸の同人誌と言ってよく、ここに載った作品を直木賞が予選通過させるのは、まあそうだよね、と大方の理解できる範疇にあると思うんですが、『文芸日本』は、そうじゃありません。榊山さん自身、「ここを足がかりに職業作家へと羽ばたいていってくれ!」なんて、ちっとも考えていなかった様子です。

 『文芸日本』の編集に関わるあれこれの雑事を、「全く、意味のない労働であった。」と言い切った榊山さんは、そのあとにできた『円卓』の創刊号で、こう書きました。

「これはと思う人が、一度芥川賞か直木賞の候補にあげられたりすると、忽ちうわずって、足が地につかなくなる。候補にあげられただけでも励みがついて、成長のいい助けになると思うのに、あべこべに乱れてしまった例を、私はいくつか知っている。これで自分も世間的になれたというせっかちな錯覚から、地道に歩いて行く心がけを失って、世間を意識した小説を書き始める。そうして内容を空疎にする。」(平成14年/2002年8月・叢文社刊 小田淳・著『歴史作家 榊山潤』より)

 いったい誰のことを言っているのか、同誌発表の作品が直か芥の候補になったのは、上に挙げた3人のほかは、伊藤桂一さんと林青梧さんがいるだけで、あるいは榊山さんが指摘しているのは、それとは別の、他の作家のことかもしれませんけど、とにかくオレの雑誌で候補になったからって、浮かれ気分で、世間を意識した小説ばかり書くんじゃないぞ、と不愉快げな顔を隠そうともせずに、警告を発しています。

 対する尾崎秀樹さんが、どう考えていたかは、これはよくわからないんですが、尾崎さん自身も回想するように、編集上、榊山さんとは何度も意見の対立があったと言い、大森光章さんはこう書きます。

「「文芸日本」は昭和三十一年夏ごろから、尾崎秀樹氏の方針が編集に反映するようになり、雑誌のスタイルが一変したのみか、掲載作品の採否にも尾崎氏の意見が尊重されるようになった。少なくとも私の目にはそう見えた。が、当時、尾崎氏から聞いた話では、作品の採否について先生との間にたびたび意見対立がおこったそうである。「ぼくの一存で載せて、先生から怒鳴られましたよ」と苦笑する尾崎氏を何度か見ている。」(大森光章・著『たそがれの挽歌』「榊山潤 古武士の肖像」より)

 直木賞や芥川賞の候補になった諸作品が、尾崎さん推しで掲載されたものだったか、証拠はないんで、断定できませんけど、その後『文芸日本』の経営的行きづまりとともに、そこから離れて『近代説話』や『大衆文学研究』へと場を移し、メキメキ活躍することになる尾崎さんの、最初期のお仕事に、直木賞とのからみがあった、というのはたしかなことです。ううむ、やっぱ、せまい業界内の、小っこいお祭りか。

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コメント

ちょうど『荒野も歩めば径になる―ロマンの猟人・尾崎秀樹の世界』を読んでいたところでした。

『文芸日本』の編集者に起用されたころの尾崎さんは、まだ、編集者ではなく。元・新聞記者、元・プリント会社員、元工員の、無職の人だったようです。

あまり文学青年的な活動もしておらず、ゾルゲ事件にひたすらこだわっていた前半生なので。
起用した牧野吉晴さんに見る目があったということなのでしょうかね。

投稿: 岡田K一 | 2017年8月 5日 (土) 22時07分

岡田K一さん、

ご指摘、ありがとうございます。

「当時まだ編集者だった尾崎秀樹さん」という表現は、間違いでした、
ちょっとワタクシが勘違いしていました。

投稿: P.L.B. | 2017年8月 9日 (水) 02時11分

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