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2017年7月23日 (日)

『東海文学』…直木賞選考委員を敏感に反応させた、ちっぽけな(?)同人誌。

『東海文学』

●刊行期間:昭和34年/1959年9月~昭和56年/1981年11月(22年)

●直木賞との主な関わり

  • 江夏美好(候補2回 第50回:昭和38年/1963年下半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
  • 井上武彦(候補2回 第53回:昭和40年/1965年上半期~第59回:昭和43年/1968年上半期)

 先週、新たに第157回(平成29年/2017年上半期)の直木賞が決まりました。こういうときはやはり、その受賞まわりに関連したエントリーが書けると美しいんですけど、まったく手持ちの話がありません。無理にあらがったりせず、今週も直木賞史に食い込んだ同人誌のことでいきたいと思います。

 名古屋で出されていた同人誌『東海文学』は、昭和56年/1981年、ちょうど80号で終刊しました。ここから選ばれた候補作は、芥川賞のほうは0、対して直木賞では4つ、という記録が残っています。

 もちろん(というか)べつに、この雑誌は「大衆文芸」を目指していたわけじゃありません。じゃあ、何で直木賞に? と思って調べてみると、この雑誌に連載されて本にまでなった江夏美好(当時の筆名は江夏美子)さんの『脱走記』が、直木賞の候補に挙げられる過程には、ひとりの直木賞選考委員の姿が、ちらちらと見え隠れしています。

 そもそも『東海文学』は、昭和32年/1957年に夫の仕事の都合で名古屋に移り住んだ江夏さんが始めた雑誌です。当時、すでに名古屋にあった『作家』の合評会に参加してみたけど、水が合わず、『文芸首都』に投稿をつづけたものの、遠隔の地ゆえなかなか満足いく批評も得られない、それじゃ自分たちでやろうか、という感じだったみたいです。

 すると創刊号から、『文學界』の「同人雑誌評」コーナーで取り上げられ、第3号に載った井上武彦さんの「被害者」が、『文學界』昭和35年/1960年11月号で同人雑誌ベスト5に選ばれるなど、早くから注目を浴びます。

 主宰の江夏さんの作品も、高評価をもって受け取られました。同コーナーでは、ほぼ常連のように批評の対象とされ、昭和36年/1961年4月号で「天狗の女」がベスト5、同年7月号には「幻想の刄」が優秀作として『文學界』に転載されたりします。当時の「同人雑誌評」の転載作・ベスト5は、ほとんど芥川賞候補のメッカと言ってよく、確実に江夏さんの作品も、芥川賞候補のそばまで行きました。ちなみに、「幻想の刄」が転載された号のベスト5は、江夏さんのほか、伊藤桂一「黄土の記憶」と大森光章「名門」。いずれも、のちに芥川賞の候補作になったものです。

 さあ、ここで登場するのが、芥川賞ならぬ直木賞。「大衆文壇の顔」と、どうしてもイメージされがちな川口松太郎さんです。

 「幻想の刄」を読んだ川口さんが、励ましのハガキを江夏さんのもとに送ったところから始まり、江夏さんの旧作に対する批評や、『東海文学』で連載のはじまった「脱走記」への、ほとんど叱咤の類いの手紙がバンバン送られることになって、江夏さんを震え上がらせ(?)、いや喜ばせ、完結した「脱走記」が光風社から本になるときに、よかったら帯の推薦文を書こうか、と川口さんみずからが声をかけた、ともいいます。

 本ができあがったとき、どうして江夏の本の推薦文が川口松太郎なの? ……と、不思議がった人々のことを、江夏さんが書き留めています。

「外部のある人がこういった。「川口先生が……。へーえ、またどういう因縁があってでしょうかね」

と、それはまるで、川口先生と東海文学というこのちっぽけな同人雑誌とのあいだに、関連があってはならないものであるとも、あるいは逆に、なにか縁故関係の匂でもあるという風な口調なのである。私は、はじめ否定も肯定もしなかった。そのうちに、決然と眉をあげてこうこたえた。「先生とは個人的になんの関係もない。いえ、はじめはなかった。けれど先生が、こんなちっぽけな同人雑誌にまで、眼を通していて下さったことはたしかです」」(『東海文学』16号[昭和38年/10月] 江夏美子「記念会前後」より)

 「決然と眉をあげて」というあたりが、おそらく江夏さんの人となりの一端を、よく現わしているんでしょう(まあ、お会いしたことはないので、わかりませんけれど)。

 とにかく、同人誌の発行っていうのは、一冊一冊をつくり上げるのに、相当な苦労が必要です。そこまで苦労したって、江夏さんいわく、よほどの友人でないかぎり、感想や批評を返してくれる人など、まずいません。なのに、知り合いでもなければお金が発生するわけでもない相手の、同人誌に載っている作品に対して、こうしたほうがいい、これは駄目だ、とわざわざ手紙を送りつづけてくれる先輩作家の存在は、純粋に貴重なものだった、ということですね。

 「ろくに候補作も読んでこないくせに、テキトーな選考をして偉そうにしている大衆文壇の大家」という、まあ、直木賞選考委員というと、まじめな文学愛好者たちなら、つい抱いてしまいそうな印象がありますが、川口さんとのやりとりで、そういう思い込みはまったく覆された、といったようなことを江夏さんも書いています。「川口松太郎ってじつは謙虚だった」説を補強するエピソード、と言っていいかもしれません。はたからは、たとえば川口さんの選評を読んでもなかなかそうは思えない、というところが、また松太郎ブシのマジックといいますか、川口さんの魅力なんでしょう。

 それはともかく、『脱走記』が第50回の直木賞候補になったかげには、やはり川口松太郎さんの推薦の効果があったものと推測され、忙しいさなかでも同人誌の小説に目を通す、当時の選考委員の努力が、『東海文学』を直木賞の場にひっぱり込むきっかけになったことは、たしかです。

           ○

 このころから主宰の江夏さん自身、原稿料の発生する仕事などが入ってきたり、読書会の指導、講演会の謝礼などの収入もあったと言いますが、北日本放送に勤務する夫、三人の娘たちなど、家族の理解・協力もあって、『東海文学』の刊行をつづけます。

 ここに終刊まで参加した井上武彦さんも、明らかに直木賞同人誌界におけるスター、と言ってよく、かなり以前にうちのブログでも井上さんの「死の武器」のことを取り上げたことがあって、何を書いたか全然おぼえていませんけど、「死の武器」はかなりユニークで鬼気せまる小説でした。

 あるいは、『東海文学』に参加した人のなかにも、ここで注目されて出版社から依頼がどんどん来るような、職業作家になってやろう、という人もいたかもしれませんが、主宰の江夏さんは、とにかく「いい作品を書く」、そのためにお互いに批評し合い、勉強していく、とそこの筋だけは外さない人だったようで、22年の『東海文学』生活の、途中からは自宅を提供して合評会をつづけ、自身、一度も欠席することなく、また昭和53年/1978年ごろに口腔がんを発症し、口まわりの激痛に耐え、しゃべることもままならぬなった状況下、入院、あるいは激しい目まいといった事情で最後のほうは、出られなくなったと言いますが、80号までは責任をもって発行すると決心して、ふらふらになりながら、終刊号にたどりつきます。

「私は私のやりかたを、間違っていた、と思いたくない。『脱走記』を処女出版したとき、故和田芳恵先生から、「同人雑誌をつづける愚はやめなさい」と注意された。(引用者中略)

いまにして思えば、五十号で終刊にすべきだったと思う。(引用者中略)私はいま自分の来し方を後悔しないけれど、一抹の悲哀とともに終刊の辞にかえて、私と《東海文学》の歴史を書き終った。」(『東海文学』80号[昭和56年/11月] 江夏美好「終刊の辞にかえて」より)

 文学に対する信念といおうか、執着といおうか……。江夏さんの書くものには、小説にしろエッセイにしろ、ちょっと厳しさが漂っています。気軽な思いで読むんじゃないよ、と叱れそうで、何かコワいです。

 江夏さんに関していいますと、直木賞の候補になった後も、濫作に走らずじっくり小説を書く姿勢を保ち、しかも文芸方面から無視されることなく、きちんと評価されて、いくつか賞というかたちで顕彰もされました。直木賞みたいな、軸のない文学賞がまとわりつくスキは、ほとんどなかったわけですけど、江夏さん自身は、直木賞候補に二度なったこと(というか、川口松太郎さんと文学上の交流が持てたこと)を誇りに思っていたようなので、直木賞、毛嫌いされずによかったです。

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