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2017年6月18日 (日)

『九州文学』…煮えたぎる情熱と時の運で直木賞(候補)への扉をこじ開ける。

『九州文学』(第二期~第五期)

●刊行期間:昭和13年/1938年9月~昭和58年/1983年12月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 岩下俊作(候補5回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 原田種夫(候補3回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 劉 寒吉(候補2回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 我孫子 毅(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)
  • 堀 勇蔵(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)

 前週の『作家』にも似て、やはり『九州文学』の入口には、芥川賞がウロウロしています。

 福岡あたりで高まった文学熱の成果として数々の同人誌が生まれ、そして消えていくなか、たまたま久留米の同人誌『文学会議』に載った火野葦平さんの「糞尿譚」が、昭和13年/1938年2月、芥川賞を受賞してしまったものですから、うおーッ、福岡に住んでいても認められるチャンスってあるんだ!と、界隈にいた文学青年たちがこぞって興奮し……たんだと思いますが、その『文学会議』を含めた四つの雑誌が一つになって、新生『九州文学』が誕生します。

 四誌合体した同人の数は50人を超え、何だかんだ口うるさい人も多かったでしょうから、これをまとめるだけでも大変だったでしょう。しかも、ほぼ毎月出していく、というのですから、よほどの情熱であり、また狂気です。そこら辺が出発期の『九州文学』につい敬愛と興味をもってしまう所以でもあります。

 そのなかで、この雑誌の熱い(熱すぎる)思いがほとばしり、結果、成功した企画が、100枚程度の当時としてはかなりボリューミーな作品をドンと巻頭に据える編集を、昭和14年/1939年ごろから毎号のように続けたことでした。これに加わったひとり、原田種夫さんもあとで振り返って、正直あきれています。

「みんなモンペをはいて防空演習があったりして、なんとなく騒然とした時代であった。そんな時代によく百枚を越える作品が書けたものだと、いま不思議な気がする。その時は文学についての情熱の火が妖しいまでに燃えていたのであったろう。」(昭和33年/1958年3月・文画堂刊 原田種夫・著『西日本文壇史』より)

 すみません、「あきれている」は言いすぎでしたね。間違えました。

 しかし、ほとんど毎月、いかにも力作のような100枚以上の作品を載せた地方発の同人誌が、このころ目につかないはずがありません。当時、芥川賞の予選を担当していた宇野浩二さんが、候補に挙がるまえの(要するに候補選出にすら落ちた)作品のことにまで、いちいち言及する選評を書いていたおかげで、同誌のいくつかの作品も芥川賞の選評で触れられることになり、同人が束となってドッと注目を浴びるようになります。

 基本、宇野さんの選評はこきおろしですので、だいたい『九州文学』の諸作は褒められていないんですが。

「矢野朗の『肉体の秋』は、作者が小説の中で断っているように安易な書き方であるばかりでなく、通俗的である上に、肝心の人物が皆ほとんど書けていない。厳し過ぎる言葉を使うと、書かれてある事がよく現れないで、これ見よがしの大袈裟な文章の方が目に立つ。これは、「九州文学」の小説家の大部分に共通している、邪道である。(引用者中略)それから救われているのは、勝野ふじ子であるが、その勝野さえ「九州文学」の作家に共通する弊から全く遁れている訳ではない。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号 第10回芥川賞 宇野浩二選評より)

 とにかく、矢野さんや勝野さんをはじめとして、『九州文学』で注目された人が、芥川賞の候補に目されたり、またあとでは直木賞の候補にもなったりしますが、候補者ばかりがぞくぞく増えて、だれひとり受賞ができない呪われた同人誌だ……などと、口さがない人から嘲笑の声が送られてしまうほど、受賞までには距離がありました。

 だけども、受賞して賞の恩恵を受けるなんて当たり前。文学賞は、たとえ落ちても、名前が挙がるだけで役に立つものなのだ! と身をもって示してくれたのが、『九州文学』の同人たちです。

 昭和14年/1939年、第10回目に当たる『改造』懸賞創作に応募した彼ら同人のうち、原田種夫さんの「風塵」、岩下俊作さんの「富島松五郎伝」、劉寒吉さんの「魑魅跳梁」、矢野朗さんの「似而非妖婦譚」という4つが、34編選ばれた選外佳作のなかに残り、要するに当選までは行かなかった落選作ですけど、原田さんと岩下さんはそのままの題で、劉さんは「人間競争」、矢野さんは「肉体の秋」と改題して、100枚以上に手を加えて『九州文学』に発表したものが、みな芥川賞の予選委員の目に止まって、それぞれの出世作となっていく……。という経緯には、どこにも「受賞」は登場しませんが、でも文学賞がなければ成立しなかったことはたしかです。

 なかでも、やはり「富島松五郎伝」で登場した岩下さんのインパクトは、まずもって偉容です。

 この第10回から芥川賞の選考委員も直木賞の審査に加わることになった、という運のよさもたしかにありました。これが芥川賞委員の采配で、直木賞の選考に回されることになり、創設5年目にして行き詰まり中のドン詰まりにあった直木賞を救った……かどうかはともかくも、「呪われた『九州文学』」の魔性はそちらでも発揮されてしまって、受賞はしませんでしたが、戦前・戦中に原田さんや劉さん、我孫子毅さんが芥川賞ではなく直木賞のほうで候補に名がのぼった背景には、まず岩下さんの例があったからだと見ていいでしょう。

 そう考えると、『九州文学』が昭和14年/1939年に煮えたぎる思いで続けた力作連発の編集が成功したのだ、と言うほかありません。

           ○

 そこで終わっていたら、この雑誌も「戦前期に現われた伝説の同人誌」程度で消えていたかもしれません。

 直木賞が本格的に同人誌エリアを漁場に見立てて網引きを始めるのは、『文學界』で同人雑誌評が始まった昭和26年/1951年からです。原田種夫さんと劉寒吉さんの、血ヘド吐くような努力(?)もあって、昭和28年/1953年から第四期、第五期と刊行をつづけていった結果、さらに長きにわたって直木賞と縁ある同人誌の地位を確立。

 「南蛮絵師」やら「竹槍騒動異聞」やら「風雪」やら、いったいどうして直木賞の候補に選ばれたのか。まったくナゾすぎるんですけど、しかし戦前に同人誌作家として注目されて以来、長く地道に研鑽してきた人を、どうにか表彰したいと出版社が考えたときに、新人向けの芥川賞という手は使えません。どうしてもゆるい直木賞の枠組みに頼ってしまいがち……という面は、明らかにあったと思います。

 後年、昭和47年/1972年になって、滝口康彦さんをはじめ、藤沢周平さん、難波利三さんなど商業誌に活躍の場を持つ作家たちを候補に挙げているなかで、『九州文学』に作品を寄せた無名の堀勇蔵さんを候補に加えるとか、どう見たって、枠がゆるいです。

 そういえば、言い忘れました。

 エントリーの最初に掲げた「直木賞との主な関わり」では名を挙げませんでしたが、もっとも数多く直木賞の候補になった『九州文学』同人は、誰あろうその滝口康彦さんです。昭和38年/1963年8月から同人に加わりながら、本人いわく、

「三十九年の三月号に「朝鮮陣拾遺」という作品を発表したとき、三十個所もの誤植があってげっそりしてしまったこと、前後して、佐賀から出ている「城」に参加したことなども、「九州文学」に書かなかった理由の一つだが、最大の要因は、多いときは本人をふくめて十一名、少ないときでも七名分の生活費をペン一本でかせぎ出さなければならなかったことにある。」(『九州文学』昭和58年/1983年12月号 滝口康彦「九州文学と私」より)

 ということで、直木賞で6回候補になったどれも『九州文学』に発表したものではありません。他の同人とも違い、受賞まであと一歩というところまで評価された回もありました。

 しかしそれでも受賞の星がめぐってこなかったのは、なぜなのか。おそらく『九州文学』の骨の髄まで染み込んでいた強い呪いのせい……なわけがありません。

 受賞しないと価値が落ちる、というものでもないし、そもそも呪いなんて存在しません。

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