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2017年6月の5件の記事

2017年6月25日 (日)

『文学草紙』…気合をこめて書かれた長ーい作品を、放っておけなかった直木賞。

『文学草紙』

●刊行期間:昭和14年/1939年7月~平成20年/2008年9月?(69年)~

●直木賞との主な関わり

  • 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※ただし第33回は別の同人誌に発表した作品

 『文学草紙』といえば鎌原正巳、鎌原正巳といえば『文学草紙』……というのが、やはり最初に頭に浮かびます。戦前からコツコツとモノを書きつづけて戦後には芥川賞候補にも二度挙がりながら、その候補作のひとつ「土左日記」が、『芥川賞・直木賞150回全記録』(平成26年/2014年3月・文藝春秋刊)でもいまだに「土佐日記」と誤植って紹介されてしまっているという、哀しき鎌原さんのホームグラウンドが、『文学草紙』です。

(まあ、うちのサイトもずっと「土佐日記」と間違っていた表記していたので、ヒト様のことは言えません)

 同人誌のひとつの理想形、と言いましょうか、好ましい誌歴と言いましょうか。とにかく長い年月この看板を掲げつづけ、途中、自然と休刊に入り、他の同人誌と合体して出したりしたものの、まもなくソリが合わずに離反したりして、「伝統の同人誌」の地位を守りながら、同人たちの高齢化で徐々に「追悼号」ばかりを出す羽目になり、そして誰にも知られずひっそりと静かにその命を終える、まさしく同人誌の鑑のような雑誌です。

 当然、そういう空気のなかで起こるいざこざや仲たがい、なんてものはたくさんあったでしょう。現に有力同人でありながら途中で脱退した(そしてのちに復帰した)谷田達彌さんも、「純粋一途を目ざす同人雑誌の仲間のつきあいもなかなか理想的にはいかないようである。」(『新潮』昭和40年/1965年10月号「生きる」より)と書いていますが、その谷田さんによると、『文学草紙』の様子は、こんな感じだったそうです。

「いわば老舗の風格みたいなものがあって、(引用者中略)小説勉強の道場的空気は一寸見ると薄いように思われる。なにがなしトボケているような、また悠揚迫らぬといった雰囲気が漂っているのである。月例の同人会に出て顔を合せるだけでなんとなく小説を書いているような気がしてしまうから妙である。こういう同人誌に入っていると、ガツガツ毎月作品を書いて同人会で朗読するのがなんだか気がひけるような気さえするから妙である。そのかわり五年も六年も一篇も作品を提出しなくても、安心して同人仲間のつきあいができるという温かい友情的雰囲気がたっぷり漂ってもいるというわけだ。」(『新潮』昭和39年/1964年2月号 谷田達彌「忌憚ない批評の結末」より)

 ガツガツ派の谷田さんには、何か物足りない環境だったのかもしれません。

 古くからいる同人も、やはりその辺の意識は似通っていたらしく、50号記念の座談会で古谷綱武さんと富永次郎さんがこの雑誌の性格について語り合っています。

富永 それはやはり白刃の上を渡るような精神が欠けているんだよ、文学草紙には。

古谷 昔からあるね、それは。

富永 なんというか文壇に一つの旗風をなびかすということになり得ない弱点があるンだね。と同時に続くという点がある。

古谷 昔からそういう性格をもった同人雑誌だったということはあるね。

富永 とにかくいい悪いは別として、そういう性格でも無理しないでもいいんだ。」(『文学草紙』50号[昭和30年/1955年10月]「文学草紙の歩いて来た道―座談会―」より)

 出版界にすでに縁のある出版人、編集者、評論家、そして戦前に作家と認められていた人も含めて、「同人誌で勉強する・勉強し直す」というのは、敬服する姿勢ですけど、その分ガツガツ感が弱まってしまう、ということはたしかに想像できる展開でもあります。

 じゃあ何でそんなことを、飽きもせずダラダラ続けるのか。……という自分への問いは、おそらく同人誌をやる人にとっての基本的な「あるある」なんでしょう。外から見れば大半は無益に近いその営みを、しかし自分のなかで消化して、いや消化しきれないままで、えんえんとやりつづけることに、つい親近感が沸いてきてしまうゆえんです。

 さて、「これで文壇に出てやろう!」と意気込んでいたか、「文壇なんて関係ないさ」と達観していたか、そんなことは外から見ていても何もわかりゃしませんが、芥川賞ならともかくも、こういうところから直木賞が、なかば積極的に候補作を採ろうとしている姿が、やはり面白くて(……って毎週のように言っていますが、ほんとに面白いので、毎週のように言います)、芥川賞であれば心も浮き立つんでしょうが、ナ、ナ、直木賞ですからね、候補に選ばれた同人誌作家の方も、微妙に困惑したものと思います。

 当然、ほとんど直木賞とは縁もない『文学草紙』から、史上ただ一作、候補に選出されたのが、第57回(昭和42年/1967年・上半期)の鬼頭恭而さんによる「回向文」(ルビ:えこうぶみ)です。

 同じ回に並んだ候補は、たとえば、生島治郎さんの『追いつめる』、野坂昭如さんの「受胎旅行」、三好徹さんの『閃光の遺産』などなど……。いくら何でも、発表された背景も知名度も流通量も、何もかも違うこの場所に、アノ重厚といおうか、文学の外壁を文学で塗ったかのような小説が、どうして選び出されたのか。困惑の度合いは、「微妙」じゃなくて「かなり」のものがあります。

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2017年6月18日 (日)

『九州文学』…煮えたぎる情熱と時の運で直木賞(候補)への扉をこじ開ける。

『九州文学』(第二期~第五期)

●刊行期間:昭和13年/1938年9月~昭和58年/1983年12月(45年)

●直木賞との主な関わり

  • 岩下俊作(候補5回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 原田種夫(候補3回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 劉 寒吉(候補2回 第18回:昭和18年/1943年下半期~第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 我孫子 毅(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)
  • 堀 勇蔵(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)

 前週の『作家』にも似て、やはり『九州文学』の入口には、芥川賞がウロウロしています。

 福岡あたりで高まった文学熱の成果として数々の同人誌が生まれ、そして消えていくなか、たまたま久留米の同人誌『文学会議』に載った火野葦平さんの「糞尿譚」が、昭和13年/1938年2月、芥川賞を受賞してしまったものですから、うおーッ、福岡に住んでいても認められるチャンスってあるんだ!と、界隈にいた文学青年たちがこぞって興奮し……たんだと思いますが、その『文学会議』を含めた四つの雑誌が一つになって、新生『九州文学』が誕生します。

 四誌合体した同人の数は50人を超え、何だかんだ口うるさい人も多かったでしょうから、これをまとめるだけでも大変だったでしょう。しかも、ほぼ毎月出していく、というのですから、よほどの情熱であり、また狂気です。そこら辺が出発期の『九州文学』につい敬愛と興味をもってしまう所以でもあります。

 そのなかで、この雑誌の熱い(熱すぎる)思いがほとばしり、結果、成功した企画が、100枚程度の当時としてはかなりボリューミーな作品をドンと巻頭に据える編集を、昭和14年/1939年ごろから毎号のように続けたことでした。これに加わったひとり、原田種夫さんもあとで振り返って、正直あきれています。

「みんなモンペをはいて防空演習があったりして、なんとなく騒然とした時代であった。そんな時代によく百枚を越える作品が書けたものだと、いま不思議な気がする。その時は文学についての情熱の火が妖しいまでに燃えていたのであったろう。」(昭和33年/1958年3月・文画堂刊 原田種夫・著『西日本文壇史』より)

 すみません、「あきれている」は言いすぎでしたね。間違えました。

 しかし、ほとんど毎月、いかにも力作のような100枚以上の作品を載せた地方発の同人誌が、このころ目につかないはずがありません。当時、芥川賞の予選を担当していた宇野浩二さんが、候補に挙がるまえの(要するに候補選出にすら落ちた)作品のことにまで、いちいち言及する選評を書いていたおかげで、同誌のいくつかの作品も芥川賞の選評で触れられることになり、同人が束となってドッと注目を浴びるようになります。

 基本、宇野さんの選評はこきおろしですので、だいたい『九州文学』の諸作は褒められていないんですが。

「矢野朗の『肉体の秋』は、作者が小説の中で断っているように安易な書き方であるばかりでなく、通俗的である上に、肝心の人物が皆ほとんど書けていない。厳し過ぎる言葉を使うと、書かれてある事がよく現れないで、これ見よがしの大袈裟な文章の方が目に立つ。これは、「九州文学」の小説家の大部分に共通している、邪道である。(引用者中略)それから救われているのは、勝野ふじ子であるが、その勝野さえ「九州文学」の作家に共通する弊から全く遁れている訳ではない。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年3月号 第10回芥川賞 宇野浩二選評より)

 とにかく、矢野さんや勝野さんをはじめとして、『九州文学』で注目された人が、芥川賞の候補に目されたり、またあとでは直木賞の候補にもなったりしますが、候補者ばかりがぞくぞく増えて、だれひとり受賞ができない呪われた同人誌だ……などと、口さがない人から嘲笑の声が送られてしまうほど、受賞までには距離がありました。

 だけども、受賞して賞の恩恵を受けるなんて当たり前。文学賞は、たとえ落ちても、名前が挙がるだけで役に立つものなのだ! と身をもって示してくれたのが、『九州文学』の同人たちです。

 昭和14年/1939年、第10回目に当たる『改造』懸賞創作に応募した彼ら同人のうち、原田種夫さんの「風塵」、岩下俊作さんの「富島松五郎伝」、劉寒吉さんの「魑魅跳梁」、矢野朗さんの「似而非妖婦譚」という4つが、34編選ばれた選外佳作のなかに残り、要するに当選までは行かなかった落選作ですけど、原田さんと岩下さんはそのままの題で、劉さんは「人間競争」、矢野さんは「肉体の秋」と改題して、100枚以上に手を加えて『九州文学』に発表したものが、みな芥川賞の予選委員の目に止まって、それぞれの出世作となっていく……。という経緯には、どこにも「受賞」は登場しませんが、でも文学賞がなければ成立しなかったことはたしかです。

 なかでも、やはり「富島松五郎伝」で登場した岩下さんのインパクトは、まずもって偉容です。

 この第10回から芥川賞の選考委員も直木賞の審査に加わることになった、という運のよさもたしかにありました。これが芥川賞委員の采配で、直木賞の選考に回されることになり、創設5年目にして行き詰まり中のドン詰まりにあった直木賞を救った……かどうかはともかくも、「呪われた『九州文学』」の魔性はそちらでも発揮されてしまって、受賞はしませんでしたが、戦前・戦中に原田さんや劉さん、我孫子毅さんが芥川賞ではなく直木賞のほうで候補に名がのぼった背景には、まず岩下さんの例があったからだと見ていいでしょう。

 そう考えると、『九州文学』が昭和14年/1939年に煮えたぎる思いで続けた力作連発の編集が成功したのだ、と言うほかありません。

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2017年6月11日 (日)

『作家』…芥川賞よりも直木賞に愛された、と言っていい同人誌。

『作家』

●刊行期間:昭和23年/1948年1月~平成4年/1992年1月(44年)

●直木賞との主な関わり

  • 八匠衆一(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 熊王徳平(候補1回 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 桑原恭子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)
  • 藤井重夫(受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期)
  • 豊田穣(候補2回+受賞 第58回:昭和42年/1967年下半期~第64回:昭和45年/1970年下半期)
  • 津木林洋(候補1回 第92回:昭和59年/1984年下半期)

 もちろん、と言いましょうか、同人誌に載った作品が、そのまま直木賞を受賞したケースは、それほど多くはありません。

 そのなかで、とくに大衆文芸を標榜したりもせず、いたって正統派な文芸同人誌っぽいナリをしながら、第53回(昭和40年/1965年上半期)と第64回(昭和45年/1970年下半期)、そこに載った小説が二度も直木賞に選ばれてしまうという、そうとう稀有な道を歩んだのが、小谷剛さんたちの始めた『作家』です。

 『作家』の人たちといえば、梅崎春生との確執でおなじみ・八匠衆一さんもいるし、私の大好きな熊王徳平さんや藤井重夫さんもいる。ということで、一介の直木賞ファンとしても親近感のわく雑誌です。おそらく、まじめに文学に向き合っていた(はずの)同人や会員の人にとっては迷惑なハナシかもしれません。仕方ありません。

 しかし、ひょっとするとこの雑誌は、芥川賞よりも直木賞に愛されたんじゃないか。と思えるのも事実で、候補にあがった数々の『作家』掲載作を読んでも、どうしてこれらが芥川賞のほうじゃなく直木賞に回されたのか、皆目わからず、たとえば『作家』からはじめて直木賞の候補に残ったのが八匠さんの「未決囚」ですが、最終選考の場では、

「毛頭遊び気はないし或る一社会を確実に書いている。しかし直木賞へ持って来るものではないだろう。」(『オール讀物』昭和31年/1956年4月号 吉川英治の選評より)

 だとか、

「いくらうまい作品でも、こういう陰気な材料は直木賞のものではない」(同号 村上元三の選評より)

 などと言われています。

 たしかに、こういう感想をもつのが自然でしょう。だけども、本人や選考委員の希望や意向とは関係なく、直木賞の候補にしようと決めたヤカラが、何人かいたから候補になったわけで、直木賞の色を決めていくのは、選考委員より彼ら下読みの予選委員(編集者たち)でもあります。やがて、『作家』からひとりしか受賞者を生むことができなかった芥川賞を超えて、直木賞が二人の受賞者を擁することになるのも、八匠さんの落選例にめげず、何度も同誌から候補を拾い上げた、予選の人たちの考えやら好みのおかげです。

 ともかく、直木賞でも芥川賞でも、けっこう多くの作品が候補に選出された雑誌ですから、逸話や裏話もたくさん残っています。小谷剛さんの『『作家』・芥川賞・おんな――戦後文化史の傍証』(昭和56年/1981年11月・中日新聞本社刊)には、小谷さん自身の芥川賞受賞前後のあれこれが、かなり詳しく書かれた楽しいエッセイですけど、雑誌代表としての顔ももつ小谷さんですから、直木賞が関わりはじめたあとの、貴重な証言も書かれています。

「私の「四天王」が芥川賞候補になったから、掲載誌を何冊か送れと、文芸春秋社から通知があったのは、合同公演の立稽古がはじまったころであった。

それ以後に『作家』から芥川賞や直木賞の候補作がえらばれた例でみると、何月号を何冊送ってほしいという通知はあっても、誰のどういう作品が、何賞の候補になったとはあきらかにされない。同じ号にいくつか載っている作品のうち、たぶんこの人の作品が芥川賞の、もしくは直木賞の候補になったのだろうと見当をつけるだけであって、正式に新聞発表があるまではわからない。けれど私のときは、「四天王」とはっきり示されていた。」(『『作家』・芥川賞・おんな』「演劇と受賞」より)

 同人誌側に、正式な案内が事前に来ていたわけではなかったんですね。と、べつに誰の得にも損にもならない、こういう詳しい経緯を淡々と書き留めておいてくれるのが、同人誌の素晴らしさ(……小谷さんの場合は単行本ですけど)。たとえば藤井重夫さんも、昭和40年/1965年10月号に寄せた「『虹』始末記」で、「虹」が直木賞か芥川賞のどちらかの予選を通過した、と知らせる小谷さんからのハガキが、6月15日付消印で17日に届き、日本文学振興会からは6月19日付消印の速達で、20日に通知が来た、うんぬんと正確な事実関係を、史料がわりに残してくれました。

 まあ、そういう単なる記録で終わらせないのが、さすが藤井さんの直球の生真面目さで、

「四十九歳半になって、いまさら直木賞候補にならされ、候補だけで見送りになったとしたら、ずいぶん恥ずかしいおもいをすることだろうと、あえて「直木賞候補」を、知らぬ顔の半兵衛で通そうとするのだが、直木賞候補になったことを、おトボケしようとすることじたいが、すでにそれを意識していることであって、受賞までの一ヵ月間、考えてみると、おかしなことだらけだった。」(『作家』昭和40年/1965年10月号「『虹』始末記」より ―下線太字部は原文では傍点)

 と正直な心境を吐露しながら、おのれの自負から、一部のバカな同人にあきれ返った話など、ぐんぐんエンジンを回転させていく藤井さんの、オソロシさを堪能できる一文となっています。

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第11期のテーマは「同人誌」。どうして直木賞がこの世界に足を踏み入れたんでしょうか。不思議です。

 たいがい、うちのサイトは定見がありません。いつも無計画です。その点、直木賞の定見のなさには、まるでかなわないんですが、もう少しまじめに、将来像を描いてサイトづくりしなきゃいけないなあ、と反省しながら、楽しい直木賞エピソードを勝手放題、食い散らかすばかりで、何の達成もなく、いまに至っています。

 11年目のブログは、そうするうちに、ときどき目にしておきながら、面倒くさそうなので避けてきた、しかし明らかに直木賞の中核をなすものを調べていこう。と考えて、「同人誌と直木賞」をテーマにすることにしました。

 直木賞は、芥川賞ほどではないですけど、とっくのとうに歴史的役割を終えた、とか言われて早ン年(ン十年かも)。役目を終えたのかどうなのか、語れるほど歴史を知らないので、こちらはポカーンと口をあけて、ただ見ているだけですが、これまでの直木賞の歴史のなかに、確実に、隆盛や衰亡の時期を刻んでいるのが、同人誌の存在です。

 基本的には、原稿料なし。ほとんどの場合、作者本人がちょっとした大枚をはたいたりすることで、雑誌の体裁に整え、書店で売られることもありますが、全国的な流通網には乗らず、趣味のようでいて、これに一生を捧げてしまう人もいた(いる)という、いまでは文学以外の方面にその仕組みと名称の中心がシフトしてしまった、かつての一大メディア(?)、同人誌の世界。

 リアルタイムな直木賞は、もはや商業出版社および、発売済みの単行本のために行われていますから、べつに過去の同人誌との関わりなど、いまさら知ったところで役に立ちません。知らなくたって、何ひとつ困りません。

 困りませんが、「文学の殿堂」芥川賞ならともかく、なんで直木賞みたいな賞まで、同人誌と関係があったんだ。と不思議ではあります。

 直木賞の候補作リストを見てみると、同人誌っぽい雑誌がけっこう出てくるんですが、だいたいその数50誌余り。よく見てみれば、明らかな商業誌もまた、50誌余り。……ということは、やはり同人誌がいっときの直木賞の中核をつくってきた、と言い張ってもだいじょうぶそうだぞ。と確認したところで、フリーダムなインターネットのブログで、フリーダムな同人誌と直木賞との関わりを、一年間、取り上げていきたいと思います。まあ、いわゆる、モノ好きってやつです。

 とはいえ、なにぶん同人誌の専門家じゃないもので、最初は、やっぱり取っつきやすいところから触ってみます。創刊からまもなく芥川賞受賞者を生みだし、やがて全国的な組織にまで拡大して、掲載作が直木賞にも選ばれたりした、一般にもよく知られた(?)アレです。

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2017年6月 4日 (日)

第122回直木賞『長崎ぶらぶら節』~第125回『愛の領分』までの受賞作単行本部数と、全体のまとめ

第122回(平成11年/1999年・下半期)直木賞

受賞作●なかにし礼『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋刊)
初版(受賞前)8,000部→23万

第123回(平成12年/2000年・上半期)直木賞

受賞作●金城一紀『GO』(講談社刊)
18万
受賞作●船戸与一『虹の谷の五月』(集英社刊)
13万

第124回(平成12年/2000年・下半期)直木賞

受賞作●山本文緒『プラナリア』(文藝春秋刊)
14万7,000
受賞作●重松清『ビタミンF』(新潮社刊)
11万8,000

第125回(平成13年/2001年・上半期)直木賞

受賞作●藤田宜永『愛の領分』(文藝春秋刊)
12万

 部数のテーマも一年がたったので、とりあえず最後にまとめておきます。

 直木賞受賞作の、単行本(あくまで単行本です)での歴代売上げランキングをつくるとしたら、おそらくこんな感じです。

  • 1.  155万部 浅田次郎『鉄道員』(集英社)第117回・平成9年/1997年上半期
  • 2.  117万部 青島幸男『人間万事塞翁が丙午』(新潮社)第85回・昭和56年/1981年上半期
  • 3.   66万部 東野圭吾『容疑者Xの献身』(文藝春秋)第134回・平成17年/2005年下半期
  • 4.   57万部 高村薫『マークスの山』(早川書房)第109回・平成5年/1993年上半期
  • 5.   50万3500部 桜木紫乃『ホテルローヤル』(集英社)第149回・平成25年/2013年上半期
  • 6.   50万部 恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)第156回・平成28年/2016年下半期
  • 7.   47万部 西加奈子『サラバ!』(上・下)(小学館)第152回・平成26年/2014年下半期
  • 8.   46万2000部 向田邦子『思い出トランプ』(新潮社)第83回・昭和55年/1980年上半期
  • 9.   45万部 宮部みゆき『理由』(朝日新聞社)第120回・平成10年/1998年下半期
  • 10.  43万7000部 佐木隆三『復讐するは我にあり』(上・下)(講談社)第74回・昭和50年/1975年下半期
  • 11.  40万部 景山民夫『遠い海から来たCOO』(角川書店)第99回・昭和63年/1988年上半期
  • 12.  39万部 桐野夏生『柔らかな頬』(講談社)第121回・平成11年/1999年上半期
  • 13.  37万部 奥田英朗『空中ブランコ』(文藝春秋)第131回・平成16年/2004年上半期
  • 14.  35万部 原尞『私が殺した少女』(早川書房)第102回・平成1年/1989年下半期
  • 14.  35万部 藤原伊織『テロリストのパラソル』(講談社)第114回・平成7年/1996年下半期
  • 14.  35万部 池井戸潤『下町ロケット』(小学館)第145回・平成22年/2010年下半期
  • 17.  32万部 宮尾登美子『一絃の琴』(講談社)第80回・昭和53年/1978年下半期
  • 17.  32万部 小池真理子『恋』(早川書房)第114回・平成7年/1995年下半期
  • 17.  32万部 江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮社)第130回・平成15年/2003年下半期
  • 20.  31万3500部 連城三紀彦『恋文』(新潮社)第91回・昭和59年/1984年上半期
  • 21.  30万部 宮城谷昌光『夏姫春秋』(上・下)(海越出版社)第105回・平成3年/1991年上半期
  • 21.  30万部 天童荒太『悼む人』(文藝春秋)第140回・平成20年/1998年下半期

 上下巻のものは両巻合計、またすべて公称部数として報道・宣伝・発表されたもので、じっさいは多少の誤差もあるでしょうけど、おおよそはこういう並びです。30万部まで行ったものが22作あり、芥川賞の受賞作で、同じように調べると、30万部以上は13作ですから、全体的に直木賞のほうが売上げ好調で、とくにこれは平成(1990年代)以降に顕著です。

 ……ふふん、そんなことは数字なんか調べなくたって知っているよ。と、モノ知り博士は笑うかもしれませんが、187冊、直木賞受賞単行本と呼ばれるすべてについて調べたかったのに、それはかないませんでした。笑われることより、そっちのほうが悲しいです。

 「よく売れた」部類だけを挙げれば、直木賞をとればそんなに売れるのか、と思いたくもなりますが、判明している分だけでも、20万部~30万部のものが21作、10万部~20万部が44作、と比率で見ればそっちのほうが断然、直木賞の中心です。さらにいうと、10万部未満もやはり40、50作はあると推測されます。芥川賞より売れることを誇っている場合ではなく、安定して10万部以上売れる賞でありながら、「最近の直木賞は、昔より売れないんだってよ」と、なぜか馬鹿にされてしまう、直木賞の体質に、私は関心があります。

 ということで、まだ取り上げていなかった第122回(平成11年/1999年・下半期)~第125回(平成13年/2001年・上半期)の6つの作品『長崎ぶらぶら節』『GO』『虹の谷の五月』『プラナリア』『ビタミンF』『愛の領分』のことですけど、伝えられている部数は、20万部以上が1作と、10万部台が5作。何ひとつ文句を言える筋合いの部数ではありません。立派そのものです。

 ところが、当時の『出版月報』『出版指標 年報』などを当たってみると、まあけっこう、ずいぶんなことを言われています。

「毎回注目度が高い両賞(引用者注:直木賞と芥川賞)だが、文芸書全般が落ち込んでいる中、こういった受賞作関連も今ひとつ振るわなかった。」(『2001出版指標 年報』平成13年/2001年4月「書籍の出版傾向―文学」より)

「直木賞や芥川賞等の受賞作品は、最近今ひとつ元気がない。文藝春秋『プラナリア』などが期待されたが、読者の反応はもうひとつ。」(『出版月報』平成13年/2001年7月号「特集 2001年上半期出版動向」より)

「直木賞、芥川賞受賞作の部数の伸びは今ひとつだった」(『出版月報』平成13年/2001年12月号「特集 2001年出版動向」より)

 直木賞をみると、どんな場面でもいつも「いまひとつ」と言いたくなる、人間本来の(?)素直な感覚が、こういうところにも現われているのかもしれません。

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