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2016年9月 4日 (日)

第71回直木賞「鬼の詩」、第80回直木賞『一絃の琴』の単行本部数

第71回(昭和49年/1974年・上半期)直木賞

受賞作●藤本義一「鬼の詩」収録『鬼の詩』(講談社刊)
初版5,000部→3万部超(受賞1か月で)→さらに増刷

第80回(昭和53年/1978年・下半期)直木賞

受賞作●宮尾登美子『一絃の琴』(講談社刊)
初版1万5,000部→32万

※ちなみに……

第76回(昭和51年/1976年・下半期)直木賞

候補作●宮尾登美子『陽暉楼』(筑摩書房刊)
初版8,000部→?

 先週『復讐するは我にあり』を取り上げたので、その流れで、『鬼の詩』と『一絃の琴』にも手を伸ばしてみます。

 『復讐するは~』が受賞したのが、第74回(昭和50年/1975年下半期)。ちょうどその前後に、同じ講談社から受賞本になったのが、第71回(昭和49年/1974年上半期)の藤本義一「鬼の詩」(収録の同題書)と、第80回(昭和53年/1978年・下半期)の宮尾登美子『一絃の琴』です。5年以内で重なっていて、だいたい同じころ、と見ていいでしょう。

 まずは藤本さんです。直木賞を受賞する前からすでに、雑誌の連載やら、注文原稿やらをどっさり抱える人気作家だった、と言われています。というか、ご自身で言っています。

 基本、エンターテイメント小説の世界で「人気作家」と言った場合、雑誌や新聞にどれだけ大量の原稿を書いているか、が一番のバロメーター。著書の売れ行きなどは、二の次でした。校條剛さんが『ザ・流行作家――笹沢左保 川上宗薫』(平成25年/2013年1月・講談社刊)で、雑誌には月産ン百枚で書いている人気作家、でも出す本はさほど売れたわけじゃない、みたいなことを書いているのは、まさにそういうことなんだと思います。

 「売れっ子」の部類に入るはずの黒岩重吾さんなども、本はあまり売れない作家、と言われていたそうです。

「角川文庫は黒岩氏の「文庫フェア」をやって成功したらしい。とにかく、黒岩氏の作品が売れだしたという。どちらかと言えば、雑誌の売れっ子作家でも、本の売れ行きはもう一つといった評価が黒岩氏にあった。(昭和57年/1982年9月・文化出版局刊 山本容朗・著『作家の人名簿』「黒岩重吾」より)

 と、黒岩さんのハナシをしている場合じゃありません。藤本さんもまた、月産ン百枚、次々から次へと原稿の締め切りに追われる人気の作家、しかもテレビに出ている有名人。だったのに、直木賞をとるまで、そんなに本は売れちゃいなかったらしいです。

 受賞して、講談社の『鬼の詩』が3万部を突破した、と証言しています。

「受賞後一カ月あまりが経過しようとしている。(引用者中略)そして、これはまったく奇妙なことだが、受賞作から目を逸らしたい気持になっている。今まで、三万部以上売れたことがなかったので、三万部売れたと聞くと、ただもうそれだけで空恐しく、書いたものが自分の手になったものであっても、それはもう他人の手に渡ったものとしか眺められない。だから五十万部、百万部突破という超ベストセラーを書いた人は、一体どんな精神の持主であったかと考えてみる。強靭というよりも異常ではなかったかとも思う。」(『文藝春秋』昭和49年/1974年10月号 藤本義一「直木賞のためのタキシード」より)

 3万部でもう動揺しているじゃないですか。何と、かわいい感覚でしょう! ……このときまでにすでに50万部以上の超ベストセラーを出したことのある芥川賞じゃなく、受賞作でも数万のレベル、という水準だった直木賞の世界ならでは、と言ってもいいと思います。

 このあとも、『鬼の詩』は増刷を重ねていきまして、少なくとも翌年までかけて、10刷以上には伸びました。初版が5,000部、1か月で3万部、しかし昭和49年/1974年の年間ベストセラーリストには入らず。といったところで、さすがに10万部の声は聞けなかった、と推測しますが、「売れっ子」藤本義一さん史上、経験したことのない売れ行きを見せたのは、(当時の)微力な直木賞にしては、よく効果を発揮したほうです。

 本が売れる、ってことでは、まだ昭和40年代は、直木賞は全然、芥川賞に歯がたたなくて、昭和49年/1974年でいうと、森敦さんの『月山』という、地味な文学を煮詰めました、みたいな作品に、売れ行きでまったく及びませんでした。

           ○

 昭和50年代に入ったころ、講談社からたてつづけに、直木賞・芥川賞受賞のベストセラーが生まれました。林京子『祭りの場』でホップ、佐木隆三『復讐するは~』でステップ、村上龍『限りなく透明に近いブルー』でジャンプして、天井を突き抜け、さんざん塵やホコリをまき散らしたあとに、昭和54年/1979年1月、宮尾さんの『一絃の琴』がきます。

 とりあえず、まずは『宮尾登美子全集 第十五巻』(平成6年/1994年1月・朝日新聞社刊)の「日記」を参照しました。何といっても、「『櫂』七刷、十五万部行きました。嬉しくて印税の計算ばかり。」(「日記 昭和五十四年二月十六日」)みたいな記述がそこかしこに出てくる、読んで面白い部数レポートです。

 『櫂』がばんばん増刷していくところもイイんですが、これは直木賞とは別に売れたものなので、おいときます。

 直木賞の関連では二冊。宮尾さんの再出発後初となる直木賞候補作『陽暉楼』は、初版が8,000部だったとのことで(「昭和五十一年六月九日」)、増刷に関する記述は出てきません。2年後に講談社から出した『一絃の琴』は、初版1万5,000部で印税12%(「昭和五十三年九月八日」)、さらに受賞前の11月には、5,000部が増刷されたそうです(「十一月十六日」)。

 『全集』の日記は、直木賞を受賞した昭和54年/1979年の5月13日までで終わっていて、その後の部数のハナシは出てこないんですが、他の資料を見ると、『一絃の琴』は(当時の)直木賞受賞作としても絶好調、かなり売れた様子です。

 その部数は、講談社の社史に記載があり、『物語 講談社の100年 第七巻 展開』(平成22年/2010年1月刊)では、32万部、ということになっています。

 そして、どうやら見るかぎり、直木賞受賞作のなかでも、とくに売れたものは部数が紹介されています。そこそこ程度(かそれ未満)の本は、「受賞」に触れられてはいても、部数は略されているみたいです。この社史では、『鬼の詩』の部数はわかりません。

 まあともかく、20万部、30万部といったら、これはもう、胸を張って「ベストセラーだ」と言っていい数字でしょう。このころまでに、芥川賞では、何冊か達成した本がありましたが、当時の直木賞にとっては、大記録の部類に属します。しかしその後、直木賞にも好景気の波が訪れることになり、平均的に芥川賞の部数を追い越す時代がやってきます。ちょうど、その夜明けのころです。

 ここで真っ先に、『復讐するは~』と『一絃の琴』、短期間にベストセラー受賞作を二つも出したのが、文藝春秋じゃなく講談社だった、というのも、直木賞の歴史から見ると、法則(なんてものがあるのか?)から外れていて、楽しいところ。しかも、どちらも『小説現代』から生まれた本じゃなく、書下ろしだった。というのが、多くを中間小説誌に依存し、また依存されて存在する直木賞にしてみれば、ヘンテコな成り行きとしか言いようがなく、ますます直木賞の、「一筋縄ではいかない」感を醸し出しています。

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