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2016年6月の5件の記事

2016年6月26日 (日)

第32回直木賞「高安犬物語」と第31回芥川賞「驟雨」の単行本部数

第32回(昭和29年/1954年・下半期)直木賞

受賞作●戸川幸夫「高安犬物語」収録『高安犬物語』(新潮社刊)
初版3万部(?)

※ちなみに……

第31回(昭和29年/1954年・上半期)芥川賞

受賞作●吉行淳之介「驟雨」収録『驟雨』(新潮社刊)
初版5,000(重版はナシ)

第40回(昭和33年/1958年・下半期)、第41回(昭和34年/1959年・上半期)芥川賞

候補作●吉村昭「鉄橋」「貝殻」収録『少女架刑』(南北社刊)
初版3,000部→4,500

 昭和20年代後半から昭和30年代、新人の文芸書は初版が2,000部、3,000部。だいたいいまと同水準ぐらい、と言っていいんでしょうか。

 それが直木賞や芥川賞をとると、増刷がかかる。順調にいけば10倍の2~3万部までは行く。さらに付加価値がついて「よく売れた」部類になれば、5万部、10万部ぐらいは増やすことができる。……というのが、およそ標準的な直木賞・芥川賞の部数動向だったんじゃないか、と思います。

 なにしろ、ほかに、いくらでも売れた本は数多くあったはずです。なので、この両賞は、べつにベストセラーをわんさか生み出す賞、などではなく、ちょっとバネのついた跳び板、ぐらいに呼んでおくのが無難なんでしょう(たぶんこれは、いまでもそうです)。

 それで、昭和30年代の芥川賞というと、名候補者のひとりに吉村昭さんがいます。

 のちに、作家として食える領域にまで到達し、当時の動静を綴った『私の文学漂流』を書き残してくれた人ですが、これは雑誌の原稿料がいくらだったとか、単行本を出すとき何部刷ったとか、そういうディテールまできちんと抑えている、その面でも貴重な半生記です。

 昭和33年/1958年、吉村さんが、石川利光さんのすすめもあって、はじめて出した作品集が『青い壺』。これは自費出版で、山田静郎さんのやっていた小壺天書房の発行、というのは名義だけ貸してもらったものらしいんですが、1,000部を刷ったそうです。吉村さんは、「短篇集『青い骨』の反響は何一つとしてなく、印刷所への月々の支払いが残っただけであった。」と淡々と書いています。

 その後、『文学者』に載せた「鉄橋」ではじめて芥川賞(第40回 昭和33年/1958年・下半期)の候補となり、あっさり落ちたりするなか、妻の津村節子さんも、処女出版となる『華燭』(次元社刊)を刊行。こちらのきっかけもやっぱり、石川利光さんで、石川さんは次元社の顧問をしていて、だれか有望な新人の原稿をと物色していたときに、津村さんに白羽の矢を立てたということで、映画化決定の余波もあったのか、三刷まで行ったそうです。

 この『華燭』は、第41回直木賞(昭和34年/1959年・上半期)で津村さんが候補になったときに「参考作品」として選考委員たちにも読まれたことが、選評などにも見えます。どうしてこちらが候補作でなかったのか、もはや誰にもわかりません。

 吉村さんのほうに話を戻すと、「夫婦で直木賞・芥川賞にまたがる同時候補」とかいう、当時少しは話題になったはずのプチ事件を経て、南北社から創作集を出しませんかと依頼を受けて大感激。自選というかたちで選んだ収録作に、芥川賞候補になった「鉄橋」と「貝殻」二作も入れました。

 芥川賞の候補になった程度の、新人の創作集がそんなに売れるわきゃないことは、昔も今も変わらない。とは思うんですけど、吉村さんの『少女架刑』は、いくつもの紙誌で書評に好意的に取り上げられたのだそうで、

「このように多くの書評の対象になったためか、初版三千部であった創作集『少女架刑』は五百部ずつ三度増刷し、私としては、大竹氏(引用者注:南北社の大竹延)に迷惑はかけなかったらしいことに深い安堵を感じた。」(『私の文学漂流』より)

 と、妻の「処女出版いきなり三刷」に引け目を感じることなく、売れました。

 ただ「賞」という点では、津村さんは昭和39年/1964年に同人雑誌賞もとり、昭和40年/1965年1月には第53回芥川賞にも選ばれるという僥倖に恵まれます。吉村さん、一気に引き離された感がありましたが、すぐさま反撃に転じ、昭和41年/1966年に「星への旅」で太宰治賞を受賞。ちなみに同年8月に筑摩書房から出た創作集『星への旅』は初版5,000部、だったとのことです。

 しかし、吉村昭に賞のきらびやかさは似合わないぞ。……と誰が決めたのか知りませんけど、吉村さんが注目を浴びたのは「賞」の力によってではなく、この年、『新潮』9月号に、420枚一挙掲載された「戦艦武蔵」パワーでした。コイツが、それまでの「冴えない芥川賞候補卒業組」の汚名(?)をひっくり返すほどに大爆発、

「単行本の初版は、驚いたことに二万部で、私は身のすくむのを感じたが、翌日には三万部に訂正され、九月八日に出版されると、九日に一万部、十五日にさらに一万部が増刷され、十月中旬には十一万六千部にも達していた。」(同)

 その後、20万部を超えたという記録も残されて、「ベストセラー(を出したことのある)作家」の称号をつかみ取ってしまいます。

 仮に「芥川賞受賞作」の看板があったって、20万部なんか、そうやすやすとは売れません。その意味では、芥川賞をとれなかったグループの人が、売り上げの面で芥川賞を凌駕した! という爽快な展開ではありました。

 ……いや、むしろ、芥川賞を見るときに、売れゆき売れゆき、とそればっかり言い募る愚かさを反省したほうがいいのかもしれません。そりゃ、芥川賞より売れる本なんて、たくさんあって、ことさら特筆するようなことじゃないわけですから。

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2016年6月19日 (日)

第49回直木賞『女のいくさ』と第148回芥川賞「abさんご」の単行本部数

第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞

受賞作●佐藤得二『女のいくさ』(二見書房刊)
初版3,000部→受賞前9,000部→受賞後10万部余(年末まで)

※ちなみに……

第28回(昭和27年/1952年・下半期)直木賞

受賞作●立野信之『叛乱』(六興出版社刊)
11万5,000

第39回(昭和33年/1958年・上半期)直木賞

受賞作●山崎豊子『花のれん』(中央公論社刊)
10万部~15万前後

第148回(平成24年/2012年・下半期)芥川賞

受賞作●黒田夏子「abさんご」収録『abさんご』(文藝春秋刊)
初版8,000部→14万

 それでベストセラーのリストなんですが、石原慎太郎さん『太陽の季節』が、年間トップ1の売上!……でありながら、部数としては、例年のベストセラーほど売れたわけじゃない。という事実から推測できるように、1年間で区切ることの魔術、といいますか、歴史全体を見渡すとさほどでもない本が、「年間ベスト10」の一覧に挙がってきてしまうことは、やっぱり、あるみたいです。

 史上はじめて年間トップ10入りを果たした直木賞受賞作、といえば、第49回(昭和38年/1963年・上半期)の佐藤得二さん『女のいくさ』。じっさいどのくらい売れたのかわからなかったので、調べてみました。

 文芸書の初版部数のレベルからすると、おそらく1960年代当時は、いま現在と、だいたい同じくらいだったらしく、小説界では無名の新人の、持ち込み原稿の初版を、二見書房では3,000部あたりと見積もったそうです。

 二見の堀内俊宏さんが、はじめて佐藤さんと面会したときの様子によりますと、

「佐藤さんは穏やかな口ぶりで、出版を了解してくれたことに対し、感謝の意を述べた。そして、

「ひとつだけ欲を言わせていただくなら、どうか朝日新聞に広告を出して下さると……いや、これは過ぎたるお願いかも知れませんね……」

と言った。

私は出版部数を三千部ぐらいと考えていた。この程度では朝日新聞に広告を出せるような利益は出ない。だがこの本は利益を度外視しても出したい本であると思えてきた。」(昭和62年/1987年7月・二見書房刊 堀内俊宏・著『おかしな本の奮戦記』「素人の小説が直木賞になった」より)

 いまは、朝日新聞に載ったって何てことはないと思いますが、ともかく4月に出版されると、広告も載ったうえに、朝日新聞は書評で取り上げてくれました。ほかに、川端康成さんによる「序文」も効いたのだ、という説もあり、意外なほど順調に売れて、「売上げも予想に反して発売二ヵ月で九千部まで伸びてきた。」(同書)とのことです。

 しかも、他の媒体でも紹介されたり、映画化の話が舞い込んだり(……けっきょく公開までには至らなかったようですが)。朝日の記事によれば、発売後から取材対応が重なり、それがもとで佐藤さん、過労のため安静を強いられることになった、とも言われています。

 そして直木賞に決まったのが7月23日。

「受賞の報せから日を追うごとに、本の売行きはうなぎ登りに上り全国の書店からの注文が殺到した。

(引用者中略)

いよいよ私もじっとしていられず、都内の本屋や問屋を見て回った。大書店のウィンドーには『女のいくさ』が飾られた。側には「本年度上半期直木賞受賞作」などと書かれた張り紙が貼ってあったり、新聞を拡大したチラシが張ってあったりした。」(同書より)

 このように、本屋に行けばディスプレイされている、というほどのベストセラーになりまして、この年、昭和38年/1963年の年間ベストセラーでは、2番目の順位につけた。と出版ニュース社が発表しました。

 年末までの公称部数、というのも記録されています。『女のいくさ』は、どのくらい行ったのか。……10万部ちょっとだったそうです。

 半年前、第154回の直木賞を受賞した青山文平さんが、受賞会見で、初版3000、4000部の本を、全国の書店に並ばせる力のある賞は、直木賞だけだと理解しています、と答えていましたが、時代がちがうとはいっても、『女のいくさ』が10万部を超えたといえるくらいまで売れたのは、もちろん直木賞による宣伝効果が役立ったんだと思います。

 だけど、やっぱり思っちゃいます。直木賞受賞作ではじめて年間2位になったと聞くと、なんかスゴいけど、たった10万ちょいだったの?

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2016年6月12日 (日)

第45回直木賞「雁の寺」と第34回芥川賞「太陽の季節」の単行本部数

第45回(昭和36年/1961年上半期)直木賞

受賞作●水上勉「雁の寺」収録『雁の寺』(文藝春秋新社)
9万

※ちなみに……

第42回(昭和34年/1959年下半期)直木賞

候補作●水上勉『霧と影』(河出書房新社刊)
初版3万部→(一か月ほどで売り切れ)

第34回(昭和30年/1955年下半期)芥川賞

受賞作●石原慎太郎「太陽の季節」収録『太陽の季節』(新潮社刊)
22万5,000(約1年間で)

 世間には、ベストセラーのことを紹介・案内した本がいろいろあります。文学賞にまつわるエピソードもいろいろ出てきて、楽しいものが多いんですが、結局、芥川賞の話ばかり見せつけられることになるので、いつしか「ベストセラー解説本」嫌いになった直木賞ファンは、多いと思います(ワタクシだけか?)。

 ベストセラーのことを語らせたら第一人者、塩澤実信さんの『昭和ベストセラー世相史』は、戦後のことだけじゃなく、直木賞・芥川賞が始まった昭和10年/1935年代のことも載っている貴重な本ですが、ここで紹介される、当時よく売れた本など見ると、ほんと直木賞系って、芥川賞系に完全に負けています。

芥川賞系(受賞または候補になった)の作家

■昭和11年/1936年 北条民雄『いのちの初夜』創元社。

■昭和13年/1938年 火野葦平『麦と兵隊』改造社(100万部以上)、『土と兵隊』同。石川達三『結婚の生態』新潮社(十数万部)。

■昭和14年/1939年 火野葦平『花と兵隊』改造社、高見順『故旧忘れ得べき』新潮社/昭和名作選集。

■昭和15年/1940年 高見順『如何なる星の下に』新潮社。

直木賞系(同)の作家

■昭和17年/1942年~昭和20年/1945年 岩田豊雄『海軍』、獅子文六『おばあさん』、富田常雄『姿三四郎』(※富田はまだ候補になったことはなかったが戦後に受賞)。

 とにかく、「たくさん売れる・よく売れる作家」を見出すことにかけては、芥川賞っつうのは第1回(昭和10年/1935年上半期)からバツグンな力を発揮しやがりまして、当時直木賞なんてほんとにやっていたの? というぐらいに勢いに差があった。……ように見えます。

 その後も芥川賞は、井上靖さんや松本清張さんなど、受賞して間もないうちに売れる本が書けちゃう優等作家を生み出しますが、直木賞関連でベストセラー作家といえば、長いあいだ、選考委員の吉川英治さんひとりくらいなもの。「あのさあ、直木賞の選考委員ってのは、自分が抜かされたくないから、売れそうな作家はわざと選ばないようにしているんじゃないの?」などと蔭口が叩かれ……たとしてもおかしくない状況でした。

 昭和26年/1951年、『三等重役』の連載が始まろうとしていた源氏鶏太さんに、ギリギリで授賞したおかげで、ようやく「ベストセラー作家が輩出しない直木賞」の汚名を払拭。遅ればせながら芥川賞の背中を追いかけはじめたんですけど、すぐに、一気に引き離れる事態が勃発してしまいます。

 言わずと知れた、石原慎太郎『太陽の季節』の登場です。

「芥川賞、直木賞が、文壇内の話題から、社会的トピックスとなり、受賞作品がベストセラーの動きを示すようになったのは、この頃からであった。

(引用者中略)

『太陽の季節』は、出版企業を“文学性”から“商業性”へ目覚めさせる画期的な役割をはたしたわけである。一年間に二十七万部のベストセラーとなった。」(昭和63年/1988年10月・第三文明社刊 塩澤実信・著『昭和ベストセラー世相史』より)

 塩澤さんはついうっかりと「芥川賞、直木賞が」と筆を滑らせてしまっています。でも当時、直木賞に、芥川賞と並んで語ってもらえるほどのパワーはなかったと思います。

 ところで、この『太陽の季節』27万部、という数字ですが、どのくらいスゴかったのか。前後の年のベストセラーと比較すると、

■昭和30年/1955年 佐藤弘人『はだか随筆』(中央経済社)…60万部(1年あまりで)

■昭和32年/1957年 原田康子『挽歌』(東都書房)…67万部(1年間で)

 あるいは、同じような「新人の受賞作」ジャンルでいえば、

■昭和32年/1957年 深沢七郎『楢山節考』(中央公論社)…30万部近く

 となっています。部数からすれば、『太陽の季節』って、大したことはありません。

 しかし何しろ、石原慎太郎という人物の、見た目、プラス若さによるインパクトが絶大。ということに加えて、時代背景からしても、大正期に勃発した「大衆・マスの時代」からより一層、広がりをもった文化の大衆化の始まりと、ちょうど重なりました。

「この作品は、この年一月の第三十四回(昭和三十年度下半期)芥川賞を受けて、有名なバイロンの逸話のように、一夜にしてスター的名声を手にするという劇的事件を実現したもので、本書もまた夏ごろまでに二十二、三万部を出した(年末には二十五万)。“太陽族”とか“慎太郎刈り”とかいった流行語や風俗を生み、社会的にも大きな波紋を残したことは、今なお記憶に新たなところである。このころから文学賞のショー化、作家のスター化、作品の大衆商品化という一連の大衆社会状況がいちぢるしくなった。」(昭和40年/1965年9月・出版ニュース社刊 瀬沼茂樹・著『本の百年史――ベスト・セラーの今昔――』より)

 受賞数か月で一気に20万部以上。その間、映画も公開され、流行語にもなり、ワーキャーの人気が続いたのに、結局、本の売れ行きはそんなに伸びなかった、と言い換えてもいいです。まあじっさい、読んだってそこまで面白い小説じゃありません。

 記録より記憶に残る『太陽の季節』……といった面が強いんだと思います。

 ちなみに、新潮社の原簿を参照して小田切進さんが編纂した『新潮社八十年図書総目録』(昭和51年/1976年10月刊)によると、『太陽の季節』は、受賞から約1年後の昭和32年/1957年3月までで、22万5,000部、だったそうです。

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2016年6月 5日 (日)

第1回直木賞「風流深川唄」と第1回芥川賞「蒼氓」の単行本部数

第1回(昭和10年/1935年上半期)直木賞

受賞作●川口松太郎「風流深川唄」収録『明治一代女』(新小説社刊)
初版2,000

同回(昭和10年/1935年上半期)芥川賞

受賞作●石川達三「蒼氓」収録『蒼氓』(改造社刊)
6,0007,000
〃 『蒼氓』(新潮社/昭和名作選集)
9万(昭和18年/1943年10月まで)

※ちなみに……

同回(昭和10年/1935年上半期)芥川賞

候補作●太宰治「逆行」収録『晩年』(砂子屋書房刊)
初版500部→再版1,000部→参版1,000部くらい

 「直木賞の発行・売上部数」で行こう。と、テーマを決めたのはいいとして、どこから手をつけていいのやら、まったく見当もつきません。困ったときは、原点に帰れ。っていうテキトーな習わしに従いまして、約80年まえ、いちばん最初の、第1回直木賞・芥川賞からスタートしたいと思います。

 第1回(昭和10年/1935年上半期)の直木賞は、よく知られているとおり、かなりグダグダに決められました。芥川賞とちがって、選考対象の候補作品、なんてものは一切なし。○△×で点数を付けるとか、最後に票決するとか、そんな選考手法も、まだ生まれちゃいません。アイツは近ごろ腕を上げてきたよね、うん、頑張っているな、去年発表されたあの作品には感心したよ、でもアイツで大丈夫か、不安だな、いやいやここで賞をあげておけばヤツは一流になるよ、そうだね、そうですね、……と雑談なのか選考なのか、よくわからない会話のなかから、何となしに決まった。そんな感じだったらしいです。

 のちにだんだん飽きてくる菊池寛さんも、さすがに第1回のときはやる気があったらしく、その決定には、かなり菊池さんの声が反映された、とも言います。菊池さんは、文春にチョコチョコ出入りしていた顔なじみ、川口松太郎さんの「鶴八鶴次郎」(『オール讀物』昭和9年/1934年10月号」を、わざわざ「話の屑籠」で褒めたぐらいに、そうとう買っていました。川口さんはまもなく、「鶴八鶴次郎」と同じく明治期に材をとった人情物「風流深川唄」を『オール讀物』に連載(昭和10年/1935年1月号~4月号)。このあたりの作品をもって、第1回直木賞の授賞が決まります。

 直木賞は、芥川賞と並んで、「新人発掘」も目的のひとつとして考えられていました。創設発表のとき、受賞した人には特典として、『オール讀物』(っていう何十万部も出ている大舞台)に小説を発表させてやるよ、っつうのが謳われていたくらいです。そんな賞だったはずなのに、もう『オール讀物』に何篇も書いている、ほかに『講談倶楽部』にも『講談雑誌』にも『サンデー毎日』にも『新青年』にも、一流どころの大衆誌にすでに原稿が売れている作家に、贈らざるを得なかった。……と、その一歩目にして足を踏み外してしまったところが、直木賞の(あとあとまで尾を引く)テキトーさ、なわけですが、それはまあ関係ないので端折ります。

 ともかく川口さんは、すでに作家として名が知られていました。しかし、現在と大きく違うことがあって、それは「知られている作家」でありながら、川口さんにはまだ一冊も著作がなかった点です。直木賞の受賞がきっかけとなって、初めて、自分の本を出すことになります。

 「小説家としてやっていきたい」と思っていた川口さんですから、この出版に浮き足立たないわけがありません。

「小説の単行本が出るくらゐなら、もうこれで一生(引用者注:作家として)やって行けそうだし、やって行ければ、人の世話にならなくてもすむだらう(引用者後略)(昭和11年/1936年3月・新英社刊 川口松太郎・著『鶴八鶴次郎』「跋」より)

 と言ってから、これまでお世話になった人達……小山内薫、久保田万太郎の両師匠、および勝手に「僕の文章上の教師」として念頭においていた谷崎潤一郎、里見〈弓+享〉の名前をあげて礼を述べた「跋」をおさめ、序文を菊池寛、久保田万太郎が書き、小村雪岱の口絵がつき、当然のように函入り。処女出版の思いが凝縮している分、ほんとうに売る気があったのかどうか、わからない本です。

 初版どれぐらいの部数が出たものか、ご存じの方がいたら教えていただきたいんですが、とりあえず古書価ばかりが上がりに上がってしまい、「直木賞初版本マニア」という、ワタクシにはまったく付いていけない異次元の変人たちしか相手にしない本として、いまもどこかで何千部か(何百部か)生息しています。

 ちなみに、これと同じ昭和11年/1936年3月――直木賞受賞7か月後に、川口さんはもう一冊、本を出しています。第1回直木賞受賞作(は、厳密には「鶴八鶴次郎」ではなくこちらだ、と川口さん本人が証言する)「風流深川唄」が収録された『明治一代女』です。版元は、のちに第三次『大衆文藝』を出すことでおなじみの、新小説社。

 こちらの本の「跋」では、川口さんが、発行部数を明かしています。

「この本の初版は二千部しか刷つてゐない、而もその二千部がみんな売れるかどうか、出版元の島源四郎が小首を傾げてゐるのだから、どうも少し淋しい。

それにこの本は木村(引用者注:木村荘八)さんの口絵だけでも二十銭くらゐいかゝってしまつて、その他装釘や何かに思ひの外金が要つて、二円の定価で二千部売りつくしてもそんなに儲からないさうだ。」(昭和11年/1936年3月・新小説刊 川口松太郎・著『明治一代女』「跋」より)

 昭和11年/1936年4月24日、『東京朝日新聞』には新小説社の同書広告も載っていて、序・谷崎潤一郎、久保田万太郎、題字・久米正雄、装釘・花柳章太郎、口絵・木村荘八、扉文字・牧野虎雄。……と、こっちの本も相当なビッグネームたちがタッグを組んだ(?)んですが、おそらく初版2千部は売り尽くせなかったと思われます。

 と言うのも、後年、川口さんはこの本のことを回想する口で、

「これがまた贅沢(ぜいたく)きわまる単行本で、(引用者中略)当代一流の作家、画人、俳優を集めた贅沢な本で、発行元は新小説社の島源四郎君、一緒になって喜んで贅沢本を造ってくれたが、恐らくは売れなくて損をしたのではないかと今でも気になる。」(『読売新聞』昭和43年/1968年4月13日夕刊 川口松太郎「出世作のころ 川口松太郎(九)戯曲作家として」より)

 と島源さんを心配。仮に増刷していたのだとしたら、こんな回想はしなかったはずです。

 一冊2円のうち、著者に10%入るとして20銭。2千部だと4千円(じゃなくて、計算まちがえました…)400円。川口さんは、のちに受賞したときを回想して、とにかく受賞賞金の500円というのは「大金」で、「五百円持っていたら金持ちの部類」だと、その金額の高さを強調していました。受賞作(を収録した)1冊を出して手もとに入ってくる収入よりも、もっと多くの賞金が入るとなれば、たしかに、その賞金が印象に残ったのも無理ないかもしれません。

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第10期のテーマは「発行・売上部数」。直木賞って、とるとどのくらい売れるのか、または売れてきたんでしょうか。

 このブログは、データベースサイト「直木賞のすべて」の補助的なものです。運営しているワタクシ自身が、直木賞ってどんな行事・事業なのか、データベースづくりだけだとよくわからないことについても調べていきたいな、と思って、やっています。

 だいたいがワタクシは無知ですから、「すでに知っていることを書く」というより、毎週毎週、知りたいことを調べて、忘れないうちに書いておく、といった程度の、はっきり言って誰の得にもならず、ためにもならない営みです。Amazonのレビューで誰かが書いてくださっていましたが、超ド素人が、垂れ流しのように下手っぴな文章で書いているだけのものです。直木賞のことをもっといろいろと知りたい! 楽しみたい! という向きは、おのおのがご自身の興味に添って、調べたりして、書き残していけばいいと思います。というか、ぜひ、そういうのがどんどん増えていってほしいです。「直木賞のことが書かれた文章」を読むのが、ワタクシは無上の幸せなもんですから。

 で、うちのブログも10年目に突入し、また新しいテーマを設定して、直木賞のことを調べていきたいんですけど、ワタクシの見るところ、とくに現在、一般的に直木賞には二大論点(というか切り口)があります。ひとつは、「受賞者の人となり」。もうひとつが、「受賞作の売れ行き」です(……二大、というほど、際立っちゃいないか)。

 直木賞を受賞した作品、いや、受賞しなかったとしても、直木賞の候補に挙がった数々の作品が、じっさいはどの程度の売上げだったのか。というのは、ワタクシもずっと興味があり、しかし、他のことを調べるのに多くの時間を使ってしまって、なかなか集中的にそこに突っ込んだことがありませんでした。

 発行部数。プラス、できれば売り上げた部数。本が売れようが売れまいが、出版界全般のことには、たいして興味は湧きませんけど、直木賞に関することなら別です。出版の業界は、騙し・騙され合いの世界、公表されている数字が正確とはかぎらないよ、と仄聞しますが、調べないでテキトーなことを言うより、調べながらテキトーなことを言うほうを、ワタクシは採りたい。基本、これまでみたいに、すでに誰かがどこかで書き残しておいてくれた文献を第一の頼りにして、直木賞の部数の世界に、分け入っていけたらいいなと思います。

 ほんとうは、直木賞のことだけで、このブログは貫きたいんですが、今回もそうはいかなそうです。直木賞のことを知りたいなら毒も喰らわなければいけない、というのが自然の摂理ですから、眉をしかめながら、毒=芥川賞のほうも、ついでに取り上げることになると思います。何つったって、直木賞など足元にも及ばないほどに、芥川賞は「部数」に関するハナシの宝庫です。そちらの方面を調べていけば、ついでに直木賞の話題が出てくる文献もあるにちがいない、と踏んでいます。

 今回のテーマも、これまで以上に、毎週歩きながら書き進んでいく、って感じになるでしょう。同じような文献を何週にもわたって参照したり、ハナシがズレまくったり、まとまらないエントリーを挙げちゃうことになると思うので、ご容赦ください。……と言い訳したところで、まず出発点は、直木賞(と芥川賞)そのものの出発点のところから、入りたいと思います。

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