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2016年5月 8日 (日)

高峰秀子は言われた、「十人の名文家を選べといわれたら、その一人に入れたいくらい」。(昭和51年/1976年7月)

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(←書影は平成10年/1998年3月・文藝春秋/文春文庫 高峰秀子・著『わたしの渡世日記』(上))


 「超」をいくつ重ねても足りないほどの超絶トップスター。でありながら、文学賞タイトルホルダー。「人をこき下ろさせたら誰もかなわないほどの悪口の天才」と自称するその筆で、数々の名エッセイを書きのこし、けっきょく小説は書かなかったおかげで、とくに直木賞とのからみはなかったんですが、明らかに高峰秀子さんは、「芸能人×散文」界に大きな足跡を残しました。

 でまあ、高峰さんの存在感と並べたら、直木賞のほうが霞みますよね。こんなブログで取り上げたって仕方ないんですけど、いつも、仕方ないことしか書かないブログなので、いいです。直木賞(というか、文藝春秋、あるいは文学賞界)に、何だかんだとカスッてくれた高峰さんに触れないままじゃ、「芸能人×直木賞」テーマも、どうもカッコがつきません。なので今日も、だらだら書きます。

 まずは文春との縁です。女優引退後については、これは当然、斎藤明美さんがいなければ、まず生まれることのなかった数々の文章、というのがあり、一時期、『オール讀物』の看板のひとつでもあったので、直木賞ファンにもなじみが深いです。古くは、文春には池島信平さんという「直木賞・芥川賞の中興の祖」みたいな人がいて、そもそも高峰さんの文章の才を、早くに察知していたひとりが、その池島さんでした。

 有名なエピソードらしいんですが、以下、高峰さんご本人の回想です。

「ある時、チキンライス食べながらポツンとしてたら、「おう、おう」なんて信平さんが見えて、「何考え事してんだ?」って言うから、「うーん、私ね、どうもイヤなんだ、女優が。芝居っていうのは本当に私に向いてなくて、モヤモヤしてるんだけど、何していいかわかんないんだ」って言うと、信平さんが、「真剣にデコが女優をイヤなら、辞めちゃいな。辞めてうちへおいでよ。(引用者中略)文章は学歴で書くんじゃない。大学出てたって、手紙一つ書けない男もいる。僕はデコの書くものをちょこちょこ読んでるけど、いいもの書くよ。わかんないことは全部僕が教えるから、本当にイヤなら、辞めてうち来いよ」

 ものすごく嬉しかった。そんなこと言ってくれた人いないもの。普通はみんな、「いいご身分じゃないの。女優でさぁ、お金貰って」って。周り、そういう人ばっかりでしょ。だから私なんかにそこまで言ってくれる信平さんの気持ちが嬉しくて、忘れられないの。」(『オール讀物』平成10年/1998年12月号 高峰秀子「思い出の作家たち」より ―インタビュー・編集部、構成・斎藤明美)

 池島さんの優しさ、の一種。かもしれませんけど、半分、本気で言っていたんじゃないかと思います。高峰さんの書くものには、ユーモアがあり、また毒がある。そして何より、飾った感がない。ここでまじめにスカウトしておけば、高峰さん、文春の中核ライター、編集者になったでしょう。そうなれば、直木賞・芥川賞の下読みの役も振られたはずで、高峰さんが直木賞の候補作を決める一員になっていた。……なあんて世界もあったかもしれません。

 裏方の仕事に、ものすごく関心と愛情と尊敬の念を抱いていた方、だったそうです。きっと高峰さんも喜んで、イイ仕事をしたんじゃないかなあ。『人情話 松太郎』では、川口松太郎さんとの会話や、その解説などに、ちょこっと小説の話題も出てきますが、(当然といおうか)高峰さんは、直木賞側の文学に対しても非常に好意的です。

 敬愛する作家、司馬遼太郎さんの『梟の城』なんて、「興奮して読んだ」と言っています。

「川口先生は昭和九年、芸道に生きる男女の機微を描いた『鶴八鶴次郎』で直木賞を受賞し、司馬先生は昭和三十五年に、当時はまだはしりであった忍者もの『梟の城』で直木賞を受けている。『梟の城』は題材も新鮮だったけれど、文章が明快、かつ切れ味がよく、なにしろ面白い。女の私も興奮して読んだけれど、司馬先生はこの一作で根強い男のファンを一気に獲得した。」(昭和60年/1985年2月・潮出版社刊 高峰秀子・著『人情話 松太郎』より)

 後年、高峰さんのもとには、新聞の書評委員の依頼が舞い込んだ(そして、「人生の後始末」期に入っていた高峰さんは、それを断固ことわった)、っていうのも納得です。何より「スター高峰秀子」の放つ魅力に、すり寄ろうとするのは、出版産業として自然なことですし、しかも、おカタい文学の人じゃないのに、おのずと文学作品のことを語れてしまう。高峰さんは、ほかに代えがたい稀有な人、としか言いようがありませんもん。

 まあ、後年のことはさておいて、女優なんてイヤだイヤだと言って、池島さんに慰められた昭和20年代のころ。そこでスパッと文春の社員へと鞍替えし、裏方として働いて、直木賞に関わってくれたとしたら、と考えるだけでヨダレが止まりません。何しろ戦前からの映画スター高峰さんです。裏にまわったとしても、いずれ回想録など注文するメディアもあったにちがいなく、昭和20年代からそのころの、直木賞や芥川賞の予選模様が、少しは伝わるきっかけになった、かもしれませんし。何とも惜しいことをしました。……って、完全な妄想だけで言っています。すみません。

           ○

 女優・高峰秀子の書くものは面白いぞ。というのを世間に広く知らしめたのが、『週刊朝日』の連載(昭和50年/1975年5月23日号~昭和51年/1976年5月14日号)が上下二巻で単行本になった『わたしの渡世日記』(昭和51年/1976年2月、5月・朝日新聞社刊)だ。っていうのは、言わずもがなだと思います。

 何かとうるさい(いや、うるさそうな)山口瞳さんも、高峰さんの文章については、ベタのホメです。

「「あの人は、昔から文章はうまいし、だいいち歯切れがいい。十人の名文家を選べといわれたら、私はためらうことなく、その一人に入れたいくらいです。(引用者中略)」(作家・山口瞳氏)」(『週刊現代』昭和51年/1976年7月22日号「エッセイスト・クラブ賞に輝く 才女・高峰秀子に書いてほしい“次回作”」より)

 後年ならともかく、この当時でさえ、高峰さんは「もう書くことはないな。書くのはこれで終わりよ」と記者に答えていて、そこがもう、美しいぐらいの高峰イズムなんですけど、もしも高峰さんにその気があって、のちに小説なんか書いて直木賞候補になったら、山口瞳さん、決死の覚悟で推しただろうな、と思える記事でもあります。

 いや。直木賞が、やたら「小説っぽい小説」にこだわって、その対象を縮小したりしなければ、「エッセイもまた、大衆文学に通ずる直木賞のテリトリーだ」みたいな強弁のもと、直木賞が高峰作品に手を出したって、別におかしくなかったですよね。……って、しつこいですけど、妄想です。

 妄想はやめて、現実に目を向けますと、この時代、この作品に賞をあげた日本エッセイスト・クラブ。ほんとエラいよなあ、と思います。

 この賞に、最初に推薦したのが、そもそも『週刊朝日』への連載を依頼した扇谷正造さん。クラブ賞の選考委員のひとりでもありました。ここで、高峰さんの文章を高く評価していた池島―扇谷ラインの悲願(?)が結実したのだ。とも言えるんですが、16万部も売れていたという、有名女優の書いた自叙伝、――つまりはことさら文学賞などあげなくても、じゅうぶん報いられた立場にある作品に、賞を与えるのは、勇気のいることだと思います。しかし、勇気をもって賞をおくった結果、この受賞は、明らかに「名エッセイの書き手・高峰秀子」という評判を形成する一助となりました。文学賞って、それほど馬鹿にしたものでもありません。

 クラブ賞と高峰さん。ということでは、やはり、確執だ何だと煽られるうちに疎遠になった豊田正子さんとの、50年ごしの奇跡の邂逅! というのが目を引くもんですから、以前、うちのブログでもそちらに触れましたんですが、高峰さん自身の作品のことでいえば、それまで女優としてもらった賞と、クラブ賞との違いについて語ったユーモアまじりの(というか、ほぼユーモアだけの)受賞スピーチが、日本エッセイスト・クラブ『会報』で紹介されています。

「事務局長の殿木さま(引用者注:殿木圭一)から、私の書きました長編つづり方『わたしの渡世日記』の受賞決定というお電話をいただいたとたんに、私の身辺はにわかに忙しくなりました。まず、私がびっくりいたしましたことは、うちの人たち、つまりお手伝いさんとか運転手さんの態度がガラッと変わりまして、いやに親切になったことです。それに知人とか映画会社などから祝電をいただいたり、ぜひ受賞記念パーティーを、などという声が続々とかかってきたことです。

私は女優の仕事をしていますので、今日までは、当然のことですけれども、演技賞のほかには賞と名のつくものをいただいたことがありません。そして、演技賞をいただいても、またですか、ぐらいしかいってくれなかった人たちが、エッセイスト・クラブ賞ともなると、こうもげんきんに私を尊敬してくれるものかと、私はびっくりしまして、改めて、エッセイスト・クラブ賞の威力と権威を感じまして、それだけに、そんなりっぱな賞が自分の上に天降ったことが、ほんとうのこといって、まだピンときません。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』28号[昭和51年/1976年9月]より)

 冗談ではあるんでしょう。でも「賞」の一面を衝いたスピーチだと思います。

 一年にわたってエッセイを書き、評判になり、刊行されると、どんどん売れる。それで十分に、高峰さんの文業は打ち立てられたはずですけど、そこに文学賞が加わると「げんきんな尊敬」が登場します。げんきんすぎるので、多くは軽蔑され、嫌われたりもするんですが、なかなか無視しがたいシロモノでもあります。「賞」だからといって飛びつく人がたくさんいる。いいじゃないですか、別にそれで。

 高峰さんがエッセイの分野(本人は終始「つづり方」と表現していましたが)でひとつの賞をとったことは、「芸能人×文学賞」の世界のなかで大きな転機となったことは疑いありません。あ、有名な芸能人が書いたものでも、いいと思ったら賞をあげたっていいんだ。と、そんな潮流がじわじわと広がるきっかけとなり、結果、1980年代の「芸能人×文学賞」黄金時代へとつながっていった。……というと、まあざっくりしすぎてはいるんですが、その黄金時代の一角をになったのが直木賞です。高峰さんと直木賞は、遠く細くつながっている、と言いたいところです。

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