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2016年3月の4件の記事

2016年3月27日 (日)

野村沙知代は言われた、「逮捕される前に「直木賞候補になりたい」と話していましたよ」。(平成14年/2002年3月)

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(←書影は平成20年/2008年5月・文藝春秋刊 野村沙知代・著『老疼の雫』)


 平成13年/2001年、平成14年/2002年ごろ、野村沙知代さんの言うことなすことが(というのはオーバーですけど)話題になっていました。そして当時、ありがたいことに、直木賞のことまで口にしてくれています。そんなところにまで出現する「直木賞」、ほんとにしぶといやつですよね。

 そもそも野村さん自身、小さいころから書くことが好きだったんだそうです。

 ……などと聞くと、ウソつけ、それも虚言のひとつだろ、と反射的に攻撃する人もいそうですけど、ウソかまことか、定かじゃないながらも、野村さんは3か月をかけて一篇の原稿を書き上げます。昭和59年/1984年のことです。

 御年52歳。どうして突然、物を書こうと思ったんだろう。というと、ご本人の説明によれば、縁は夫の克也さんのもたらしたものだった、といいます。

 『潮』昭和59年/1984年11月号のために、克也さんは、ノンフィクション作家の佐山和夫さんと対談のお仕事をしました。佐山さんは、その年に「史上最高の投手はだれか」を応募して、第3回潮賞[ノンフィクション部門]を受賞したばかりの人です。この対談に沙知代さんも同席したおかげで、潮賞なる公募の賞のことを知るところとなり、じゃあ私も夫を素材にして書いてみるか、と一念発起。

「「私にだって、できるわよ。やって、やれないことは、ないんじゃないの?」

いまから思えば、大げさでなく、天をも畏れぬ思いあがりでした。この、「私にだって……」というのは、私の悪いクセです。」(野村沙知代・著『きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか』「四十初惑から六十の手習いへ――あとがきにかえて――」より)

 「思いあがり」と謙遜していますが、これまで書き溜めてきた日記やらメモ類やらをもとにして、みごとに書き上げてしまいます。これを翌年昭和60年/1985年、第4回潮賞に応募したところが、とくに選考委員の柳田邦男さんから推奨され、受賞に次ぐ「特別賞」に選ばれることになりました。

 克也さんは、そりゃもう当然、よく知られた有名人でしたけど、沙知代さんはまだ全然、それに比べれば陰に隠れた存在。だったはずなのに、『潮』が賞を与えてしまったせいで、あの猛女モンスターを目覚めさせてしまったのだ! ……というのが『週刊実話』の解釈です。

 たくさん書かれた「野村沙知代バッシング記事」のひとつなんですけど、こちらは野村さんが脱税容疑で逮捕された平成13年/2001年12月のころのものです。

「沙知代容疑者が、サッチーとして社会進出するきっかけとなったのは、実は学会(引用者注:創価学会)の外郭企業である潮出版社が設けているノンフィクション賞を受賞したことが契機だった。

「サッチーが書いた『明日晴れたら』という本が以前に『潮賞』という賞を受賞したんです。これを契機に彼女は苦難を乗り越える強い女というイメージでテレビなどに進出することになった」(マスコミ関係者)

いわば、創価学会がサッチーという希代の猛女の社会的デビューを“後押し”したともいえるのだ。」(『週刊実話』平成13年/2001年12月27日号「脱税逮捕!野村沙知代容疑者を“猛女”にした創価学会の「罪」」より)

 受賞作の『きのう雨降り~』そのものは、野球人・野村克也の、ものの考え方、行動原理から私生活までを、身近な妻の目から紹介して語る、という意味では貴重な手記であって、それが賞をとって公刊されたことは、よかったと思います。沙知代さんにとっても、ほかの人では絶対に得られない素材(=素顔の野村克也)がそばにあったことが、こうしたかたちで活き、そのなかで活動しているあいだは、(じっさいに付き合いのあるまわりの人たち以外には)さほど波風も起こらず済みました。

 ところが、その後、克也さんが平成2年/1990年にヤクルトの監督に就任し、しっかりと実績を上げてリーグ優勝、それから連覇も果たして、日本シリーズで勝利……と「デキる監督」として注目されていきますと、同時に、それを裏で支える女帝、参謀、総帥がいるんですよ、と沙知代さんのほうにもスポットが当たるようになっていきます。しかも、なにしろキャラクターが強烈だし、賛否をまきおこす発言もどんどんしてくれるし、話題の起爆剤にぴったんこ、っていうんで、テレビ、ラジオ、スポーツ紙、雑誌などに重宝されるようになりました。「慎みなく、デカい顔して、若者や世間をぶった斬る、身近にいるとうっとうしいけど、遠目で見る分にはおもしろいオバサン」役に、すっぽりとハマったかっこうです。

 と、そんなことは、直木賞と関係がありません。すみません。さっさと、直木賞のハナシが出てくるところまで進めます。

 平成8年/1996年には衆議院選挙に出て落選。平成11年/1999年に、いわゆる「サッチー&ミッチー騒動」で芸能界隈を大いに盛り上げ、平成13年/2001年には脱税容疑で逮捕。と、もう何が何だかよくわからないムチャクチャな展開になったときに、出てきたのが「小説執筆」のおハナシでした。

 「沙知代さんの知人」という方がマスコミに明かします。平成13年/2001年の逮捕前、沙知代さんは「直木賞候補になりたい」と言っていましたよと。

「「逮捕される直前、これから何をしたいか聞くと『直木賞候補になりたい』と話していた。最近は自宅で、これまでの自分の人生をモデルにした小説を書いているらしい」と、沙知代被告をよく知る知人。」(『中日新聞』平成14年/2002年3月19日夕刊「沙知代被告「甘えあった」 2億円脱税認める」より)

 いいんじゃないでしょうか。もとより書くことが好きだった、と言っていた方です。この段階で小説に挑戦する、というのはある意味自然な流れかもしれません。どんどん書いちゃってください、小説。

 しかし、ほんとにすごいですよね、「直木賞」というワードの軽さ。こういう場面で何げなく、大勢から注目を浴びる沙知代さんのような人とセットで、あっさりさっくり、触れてもらえる直木賞。一見エラそうで、権威だ権威だと言われて、遠い存在のように扱われている一面は、確かにあるんですけど、でもタレントの脱税容疑初公判の記事で、「小説執筆」と来たら即「直木賞」だよね、と結びつけられることにも何の違和感もない、おなじみ感、敷居の低さ。

 どうしてそこで「直木賞候補」なのか、理由は明かされていません。明かされないままに、この知人による噂話は、他のライター心もくすぐったらしく、別に週刊誌記事が誘発されることになります。ニュースバリューの高い方のおかげで、いろんなメディアで名前を触れてもらえる、この身軽さが、「直木賞」の文学賞としての魅力だと思います。

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2016年3月20日 (日)

志茂田景樹は言った、「直木賞、もういらないと思います」。(平成5年/1993年7月)

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(←書影は平成6年/1994年3月・海竜社刊 志茂田景樹・著『人生はまじめが勝つ これがぼくの生き方だ』)


 直木賞を受賞した人が、その後タレント業に進出した、っていう例はあまり見かけません。そのなかで1990年代前半、テレビに出まくるは、ファッションショーもやるは、雑誌グラビアでヌードを披露するはと、直木賞受賞者のなかでもかなりの異彩を放ちました。志茂田景樹さんです。

 およそ文学賞のなかでも「直木賞」は、とっただけである程度有名になってしまいます。でも志茂田さんの場合、「直木賞をとったから」といって、芸能界での仕事が増えたわけじゃありません。第83回(昭和55年/1980年・上半期)に直木賞をとって、それからバイオレンス、伝奇、ミステリー、歴史if物と、読み物小説界で確固たる足跡をのこし、受賞からしばらく時がたってから、それとは別のところで急激に脚光を浴びるようになりました。

 奇抜なファッション、ってやつです。おかしなカッコをしたおじさんがいるぞオイ、ってやつです。

 みずからファッションショーのオーディションに応募して、山本寛斎さんのショーのモデルになったのが昭和55年/1980年。しばらくは、一般的に街で見かけるような服装をしていたらしいんですけど、昭和58年/1988年ごろから、だんだんと枠にとらわれないファッションを模索するようになっていき、平成2年/1990年ごろには、アノおなじみの、キラキラに光る、インパクト絶大なレディスものファッションに到達します。

「担当編集者になって9年めというカッパ・ノベルスの丸山弘順さんは言う。

「ああいう格好(引用者注:レディスものをまとったファッション)をしはじめたのは、5年ぐらい前からですね。でも、それまでも、ご自分に似合う、選んだ服を着てましたよ。キッカケは知りませんが、以前から先生の中にそういう願望というか、アピールしたい気持ちはあったんじゃないでしょうか。(引用者後略)」」(『週刊宝石』平成5年/1993年4月29日号「人間・再発見!話題の震源地 志茂田景樹にぶつけるカゲキなQ&A」より)

 それで、ゲテモノだ、バケモノだ、と批判の声をたくさん浴びることになるんですが、本人まるで意に介しません。いや、逆にもっとやってやろうじゃないかと意欲を燃やして、「作家」だの「直木賞」だのがもつ、まじめで堅くて権威的なイメージから外れようと努めます。

 当時、ナンシー関さんは、

「いままでも「立派な肩書を持ったゲテモノ」というのはテレビのなかにときどき出現したものだが、それらはいつのまにか「立派な肩書」の立場からの見識を述べることで、「ゲテモノだ(に見える)けれども、実は立派」というキャラクターに自分を持ってきて、メディアのなかでの延命を図っていたように思う。しかし志茂田景樹は、「なんだかんだ言っても、さすがは直木賞作家」というオチをいっさい使わずに、たんなるゲテモノとしてここまで来た。」(平成6年/1994年10月・朝日新聞社刊 ナンシー関・著『小耳にはさもう』所収「「子供とはいえライバルになったのだから追い越させない」」より)

 と指摘し、このあと「天然」というキーワードで志茂田さんのメディアでの安定感を分析。さすが関さんだ、と尊敬するほかない素晴らしい切り口なんですが、すみません、関さんの見方を紹介していたら、それですべてが終わってしまいそうなので、先に進みます。

 「直木賞をとった」という肩書きは、もうこれは、肩書きだけでメシが何杯も食える、というぐらい強烈に人びとを惹きつける力を、世の中に放っています。ほんと、そうです。でも、じっさいにその肩書きをもっている人のなかには、「直木賞だからって何だっていうんだ」と、直木賞のイメージに対して、反発というか、イラ立ちを感じる人もいるらしいんですよね。志茂田さんの場合も、やはりそういう意識があったんじゃないかなと思います。表現された手法は、ほかの人とは大きく違っていますが。

 テレビにバンバン出ていたとき、だいたい志茂田さんに使われた肩書きは「直木賞作家」。ってことで、インタビューなどで「直木賞」のことを聞かれる機会も、けっこうあったみたいです。ここで、志茂田さんはどんな受け答えをしていたか。こんな感じです。

「高名な直木賞作家であることと、キンキラファッションがよく似合うことと、自分ではどちらの喜びがより大切?

「ウーン……あえて選ぶとすれば、醜い顔と体形の直木賞作家であるよりも、レディスもの、メンズものを問わずどちらも似合う人間でありたいですね。どっちも喜びは少なくないんだけど、4対6の差でそうだと思います」」(前掲『週刊宝石』平成5年/1993年4月29日号より)

 別のところでは、いずれ小説が書けなくなった、売れなくなったとしても、そのときはまた別の仕事しますよ、とも言っています。ほんとに、小説を書くことに対する身を賭しての執着、みたいなものがありません。どんな環境・状況であれ、「自分のやりたいことを好きなようにやる」という志茂田さん、全然ブレていませんね。

 直木賞は、もっと破天荒なものを受賞させていったほうがいいんじゃないか、とも語っていました。このあたりも、きっと志茂田さんの、「これまでと同じことばかりしていてどうする」という考え方が出た直木賞観なんだと思います。

「直木賞には、もっと破天荒なものが出てきてもいいんじゃないですか。だんだんそうなってきてはいると思いますけど、もっとね。(引用者中略)いろんな世界で活躍してた人が、横からポンと入ってきて作家になる例が増えてるでしょう。現代をどっかで感じ取ってなきゃダメなんですよ。こもって書くって時代じゃない。僕は、いい傾向だと思うんだけどなあ。ハチャメチャな作品が、どんどん出てきてほしい」(『週刊宝石』平成2年/1990年9月20日号「人物日本列島 秋にファッション・ショーを催すハチャメチャ人気作家 志茂田景樹」より)

 うん、ほんと。20数年前の発言ですけど、直木賞にハチャメチャな作品が選ばれてほしいって考え、ワタクシも大賛成です。

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2016年3月13日 (日)

加藤シゲアキは言った、「いつかは直木賞を取れるように頑張りたい」。(平成23年/2011年11月)

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(←書影は平成24年/2012年1月・角川書店刊 加藤シゲアキ・著『ピンクとグレー』)


 昔の直木賞のことを、あれこれ考えるのは楽しいです。でも、ワタクシたちの目の前には(いつでも)、いま進行中の直木賞があります。その混迷したドロ沼のなかでたわむれる。これまた、たまりませんよね。

 ってことで、現在進行形の「芸能人×直木賞」の話題で、もっとも輝きを放っているひとりが、加藤シゲアキさんでしょう。だれにも異論はないと思います。たぶん。

 ジャニーズはアイドルのひとつではない、ジャニーズという独立したジャンルなのだ。……とかいう、手アカのついた表現を誰が最初に使ったのか、よくは知りませんけど、その枠組みからすれば、ジャニーズ史上もっともメディアで「直木賞」と結びつけられてきた人は、おそらく加藤さんです。

 結びつけられてきた、というと受動的な感じですが、いや、直木賞に対する加藤さんの姿勢は、かなり能動的です。テレビを中心に、しばしば直木賞のことを話題にしてくれている。というのはもとより、小説家デビューをする最初の発表のときに、自らいきなり直木賞への思いを語ったところに端を発しています。

 平成23年/2011年11月22日、ジャニーズ事務所のグループ「NEWS」から、山下智久・錦戸亮のふたりが脱退する、と発表されてまだ日の浅いタイミングで、今度は加藤さんの芸名改名と、作家デビューが明らかにされました。

 20歳ごろから、「25歳までに小説を書きたい」とずっと言ってきた加藤さんと、「NEWS」というグループのために、小説の書けるメンバーがいれば大きな売りにもなる、という事務所の判断がおそらく合致。事務所側からの「あなたが書く推理小説など、誰も興味はない。芸能界のことを舞台にした小説にしなさい」というアドバイスもあって(いや、興味をもつ人、けっこういると思うんですけど……)、加藤さん24歳にして、角川書店から書き下ろしで処女作刊行が決まります。

「NEWSの再出発と小説家デビューを機に「たくさんの方に親しまれるように」と自分の名前もカタカナに改名した。

今後は小説家の顔を持つが「あくまでNEWSをメーンで頑張りたい。来年(引用者注:平成24年/2012年)は年明けから動ければ」と抱負。すでに次回作の構想も練っているという。「いつかは直木賞を取れるように頑張りたい」。夢は大きく史上初の“直木賞アイドル”だ。」(『スポーツ報知』平成23年/2011年11月23日「加藤成亮が加藤シゲアキに改名 小説「ピンクとグレー」で作家デビューへ」より)

 平成23年/2011年は、前年にぶっこまれた超弩級の芸能人×作家ネタ、齋藤智裕=水嶋ヒロさんのポプラなんちゃら大賞の受賞、という爆撃弾の余韻(後遺症)が小説界にも、まだ漂っていました。おいおい、また怪しげな、「売れればそれでいいだろ」路線のタレント小説が出るのかよ。いきなり直木賞への夢を語るとか、大風呂敷ひろげちゃうところが芸能人っぽいよねー。などと、世間のひんしゅくを買いまくった……って面もあったとは思います。

 だけど、『ピンクとグレー』が発売されてみると、抑制の効いた地の文、読者を楽しませようと配慮されたストーリー展開、そして何より加藤さん自身が、創作に対して謙虚に真摯に向き合おうとしている好感のもてる青年だ。ということで、けっこう温かく迎え入れられることになりました。

「まあ、及第点。特長のない小説だけど、そこは著者のパーソナリティに負えばいい。ジャニーズタレントによる初の小説というだけで、話題にはなる。

(引用者中略)

意外に作品を書いていけそうな予感も。文章で何らかの世界観を築こうという意欲は、よく伝わってくるのだ。」(『新潮45』平成24年/2012年4月号「ベストセラーウォッチング ピンクとグレー 『KAGEROU』よりはずっといい」より ―ライター:山内宏泰)

 温かいでしょ?

 最近うちのブログによく登場してしまう林真理子さんも、加藤さんの本を読み、加藤さんと対談して、メロッとイッちゃっています。

 (引用者注:『ピンクとグレー』は)たぶんどこかの新人賞に応募しても通ったと思いますよ。

加藤 いやァ、そう言われても困ります。(笑)

(引用者中略)

 加藤さんの作品には透明感がありますよね。透明感って無理にやっても出せるものじゃないんです。(引用者中略)

ぜひこっち側に来てくださいよ。加藤さんが私たちの業界に来たら、最強のイケメン作家になると思うな(笑)。いまだに島田雅彦さんとかが君臨していて、若手のイケメン作家がなかなか出てこないんですよ。」(『週刊朝日』平成24年/2012年3月30日号「マリコのゲストコレクション 加藤シゲアキ」より ―構成:本誌・石塚知子)

 「こっち側」だの「私たちの業界」だの、そんな意識が残っているから、小説界は沈んでいくいっぽうなんだよ、というツッコみはまあ控えてください。「加藤シゲアキもNEWSも知らないけど、アイドルが芸能界を舞台に書いた小説、っていわれたら、そりゃ売れますよね」という大方の予想どおりに売れまして、ともかくひとつの足跡をのこします。

 角川の雑誌はもちろん、当然のように、いろいろなメディアに呼ばれます。取材もたくさん受けたし、作家として書店まわりも経験。そこで、会うひと会うひとに「ぜひ次作、書いてください」「次も楽しみにしています」と、処女作のこと以上に次の作品を期待されたそうなんですが、なにしろ加藤さん自身、「いつかは直木賞を」と言っちゃうような人です。芥川賞とはちがって、直木賞は、何作も書かなきゃ芽がない、っていう基本のキを知っています。はなっから一作で終わらせるつもりなどなく、とにかく書き続ける、という意欲まんまんでした。

 発表舞台がなくたって、書き続ける意志のある人なら、どこででも書き続けられるはずです。しかし加藤さんの場合、最初から小説でチャレンジできるフィールドを、事務所はじめ、まわりの人たちが整えてくれているという、並の新人作家では考えられない恵まれた環境があります。まずは、その状況をどのように活かしていくか。まったく臆せず、ひねくれずに受け止めて考え、発言するところが、加藤さんの、好青年たるゆえんかと思います。

「なんの賞も獲らずに小説を出せているのは、僕がジャニーズだからと自覚しています。だからこそ使命として、僕の作品を通じて「世の中には面白い本がたくさんある」ことを伝えていけたらいいと思っているし、アイドルとしての僕を知らない人にはジャニーズにも面白いやつがいるんだってことを知ってもらいたいです。」(平成26年/2014年2月・KADOKAWA/角川文庫『ピンクとグレー』「あとがき」)

 新人賞でデビューしたわけじゃなく、その後なんの賞もとっていないのに、小説を刊行しつづけている、顔も容姿もさほどよくはない職業作家に対して、喧嘩を売っているような書きっぷりなんですが、それでも喧嘩にならずに、うんうんそうだよね、がんばって、と声をかけたくなるのは、加藤さんから悪意や濁りが感じられないから、なんでしょう。

 いや、あまりに出版界全体が斜陽な業界のため、少しでもカネを生んでくれる若者は、すぐに叩いたりせず大事にしたい。というオジさんオバさんたちの温かな打算があるから、かもしれません。

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2016年3月 6日 (日)

椎名桜子は言った、「直木賞とか、もらいたくないわけではなく、考えてないです」。(平成1年/1989年3月)

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(←書影は昭和63年/1988年3月・マガジンハウス刊 椎名桜子・著『家族輪舞曲(ロンド)』)


 1980年代にはいろんなものが流行りました。「タレントに小説書かせて、みんなで盛り上がっちゃおうぜ」なんてのも、そのひとつです。文学の衰退だあ、いや文学絶滅の危機だあ、などと、批判する連中を中心に大勢でキャッキャとはしゃぎ合いました。いま見ると、ほんと楽しそうです。

 そのブームの、最終進化形とも、最高到達点とも称されるのが、昭和62年/1987年から昭和63年/1988年にかけての椎名桜子なのだ。……などとも言われる、アノ椎名さんが、今日の主役です。

 そう、そう、いたよね。「名前・椎名桜子。職業・作家。ただいま処女作執筆中。」ってやつでしょ。あの宣伝、強烈だったもんなあ、すごく印象に残っているよ。……と、ワタクシもさらっと、ほざきたいんですよ。昔そんなアホなコピーがあったんだよねー、と笑い飛ばしたいんですよ。

 でも、待ってください。たとえば、直木賞にはいろいろ面白い逸話があるけど、じっさいに調べてみたら、どうも語り手たちの、あやふやな思い出(あるいは思い込み)によって事実がねじ曲げられ、曲解された話だったらしいぞ、みたいな案件に、これまでワタクシも、何度かぶち当たってきました。それを考えたとき、おのれのテキトーな記憶だけを根拠に、他人を嘲笑する気には、どうしてもなれません。

 たしかに椎名さんは、処女作を出すまえから「作家」と紹介されていました。しかも、多くの人の記憶に残っている、ってことは、ずいぶんとたくさん宣伝されたんでしょう。それなら「作家。ただいま処女作執筆中。」っていう有名なコピーだって、いつ、どの雑誌に載ったのかくらい、簡単に見つかりそうなもんですよね。と軽く考えて、けっこう調べてみたんですよ、マガジンハウスの雑誌。

 ところがです。全然、見当りません。

 当時の雑誌でぞくぞく見つかるのは、「処女作執筆中、をネタにしたライターたちの文章」ばっかです。

「担当の編集者は、

「昨年(引用者注:昭和62年/1987年)の春に草稿を読んだとき、スターの素質を感じました」

と語る。すぐさま「作家」として売り出すことを決め、七回も書き直させた。その後、同社(引用者注:マガジンハウス)のファッション誌「アンアン」でモデル兼ライターとしてコラムを担当させ、おまけに、そのコラムの著者肩書に、まだ本も出していないうちから、「作家・処女作執筆中」とやる念の入れよう。」(『週刊朝日』昭和63年/1988年5月6日号「小悪魔的少女を描いた自伝小説が売れる 椎名桜子は元アンアンモデルの令嬢」より)

 本を出すまえの昭和62年/1987年、椎名さんは『an・an』で「知りたがり日記」っていう連載コラムを担当しました。7月10日号~10月2日号までの全12回。見てみましたよ、『週刊朝日』を信じて。だけど、一回も「処女作執筆中」なんて書かれちゃいません。書いてあるのは「しいな・さくらこ」「作家。」「成城大学文芸学部在学中。」「処女小説『家族輪舞曲』の映画化が予定されている。」という文章と、椎名さんの生年月日(あるいは年齢)、近況程度のものです。

「作者の椎名桜子は、本が出る前にすでに作家として有名人していた。「作家、処女作執筆中」という、林真理子氏が仰天した肩書でマガジンハウスのあちこちの媒体に登場。」(『サンデー毎日』昭和63年/1988年7月3日号「サンデーらいぶらりぃ 常識を越境する「若さ」と「軽さ」がウケる 現代ベストセラーの周辺」より 評者:石村博子)

 「あちこち」と言っています。たしかに、マガジンハウスの雑誌、『an・an』『平凡パンチ』『ターザン』『Brutus』に次々と椎名さんは登場しますが、それはだいたい、昭和63年/1988年3月の処女作発売以後のことです。もう本が出ちゃっているわけですから、当たり前ですが、そんなところに「処女作執筆中」なんて書いてありません。

「肩書は作家、ただし目下「処女作執筆中」というのが、版元の謳い文句だった。」(『日経ビジネス』平成1年/1989年1月2日号「若者ロジー 大宣伝 椎名桜子」より 署名:(M))

「女性誌『an・an』(マガジンハウス)で大々的に売り出した肩書が「作家・処女作執筆中」。」(『週刊テーミス』平成2年/1990年4月4日号「椎名桜子を育てた六塔智美(モダンタイムス社長)独占インタビュー」より)

 「謳い文句」だの「大々的に売り出した肩書」だのと、ライター陣、機嫌よく紹介してくれているんですが、でもマガジンハウスが「処女作執筆中」を売り文句にした形跡、どこにあるっていうんですか! まったく見つからないんですよ。まじで教えてください。

 「処女作を執筆中」の表現が、椎名さんのプロフィールのなかで使われた例で、確実なのは、ひとつだけです。『an・an』昭和62年/1987年5月22日号の「きもの大好き!」というグラビアページに、和服を愛する女性のひとりとして登場。ほかに島崎夏美(モデル)、松本伊代(歌手)、安野ともこ(プランナー)、桐島かれん(モデル)、高樹沙耶(女優)、野口佳香(スタイリスト)、戸川京子(タレント)(←以上、カッコ内の肩書は『an・an』誌上の表記)とともに、ひとり1ページずつ割かれ、インタビューつきで、着物姿を披露しました。その一行プロフィールに、こうあります。

「しいなさくらこ。作家。成城大学在学中。現在、17歳の女の子の目を通して現代の家族像を描いた処女作を執筆中。」

 現物を見ればわかると思いますが、この小さな活字のプロフィール原稿が「大々的な売り出し」だったとしたら、かなりの拍子抜けです。これよりあと、たとえばマガジンハウスが自社の雑誌で、「処女作執筆中」をキャッチコピーに広告を展開した、なんちゅうこともありません。

 たしかに椎名さんの紹介のされ方は、大々的でした。

 見た目の美しい女子大生がいる。まだ本を一冊も出していないうちから、肩書に「作家」と付けてコラムを書かせる。出版されたあかつきには、大林宣彦監督、三浦百恵脚本で、映画化もされる予定、という派手なカマシをふっかけて、マガジンハウス以外の雑誌にも、何度か取り上げてもらう。これは「モダンタイムス」という事務所の社長、六塔智美さんが、所属する椎名さんを「作家」として売り出そうと、いろいろ活動して、ちょうどマガジンハウスが昭和63年/1988年1月から、単行本事業に本格的に乗り出そうとしていたところにうまくハマり、メディア露出に成功したらしい。……といった経緯は、マガジンハウスも六塔さんも、あるいは椎名さん自身も、インタビューなどで、おおむね認めています。

 昭和62年/1987年春の段階で、椎名さんの原稿を読んだマガジンハウスが、出版化の予定を立てたらしいです。じゃあ新人作家として売り出さなきゃね、となるわけですが、ここで出版社と事務所が協力して(まだ一冊も本を出していないけど)「作家」として世間に紹介し、いろいろメディアに登場させる。そうやって盛り上がったあとで、デビュー作を発売する。そんなやり方も、既存の宣伝手法とちがっていて面白いじゃないですか。というのが、マガジンハウス副社長の甘糟章さん、六塔さん、椎名さんの言い分でした。まあワタクシも面白いと思います。

 しかし、宣伝するにあたって「処女作執筆中」というのを売りにしたわけじゃありません。椎名さんは説明しています。

「インタビュー記事で、ゲラに目を通してなかった話なんですけど、肩書のところで作家・処女作執筆中と書かれまして、本が出る前にいろんな人から揶揄されたという……。」(『サンデー毎日』平成1年/1989年3月19日号「連載対談 文珍の美女美男丸かじり」より)

 一回だけそういう記事が出てしまった、というニュアンスです。「〈処女作執筆中〉で売り出した」ことは、実質、否定しました。

 ええと、じゃあ、どうして「名前・椎名桜子。職業・作家。現在、処女作執筆中。」みたいな捏造コピーが誕生し、ここまで脈々と語り継がれてきたんだろう。

 と考えてみると、やはり世のなかには、「作家」幻想に取り憑かれた人たちがたくさんいたから、なんでしょう。たぶん。一作も小説を完成させていないのに「作家」だなんておかしい、という幻想は、まだ純情なほうだと思います。一作だってまだ甘い、きちんと手続きを踏んで、いくつも小説を発表して、いっぱしの人に認められて、ようやく「作家」と名乗れるのだ。みたいに「作家」の肩書に対して、異常にあこがれや執着をもっている人たちの存在もありました。

 たとえば、ええ、林真理子さんとかですね。

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