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2016年1月の6件の記事

2016年1月31日 (日)

徳川夢声は言われた、「これからまたいつでも、直木賞に選ばれるだろう」。(昭和13年/1938年9月)

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(←書影は平成21年/2009年11月・清流出版刊 徳川夢声・著『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』)


 「芸能人と直木賞」のテーマだと、どうしても最近のハナシが多くなってしまいます。年代でいえば、昭和54年/1979年以降です。これは中山千夏さんが直木賞の候補作家として登場した年でして、そのため中山さんはしばしば、「直木賞界における芸能人作家のイザナミ」とも呼ばれます。

 その前には、五木寛之、野坂昭如、藤本義一など、「放送業界の物書きだけどテレビにも出ているんだよ」の一派が起こした波がありました。はじまったのは昭和42年/1967年ごろからです。

 芥川賞のほうでは、さらにさかのぼって、昭和31年/1956年。もとは同人誌に小説を書いていた大学生だけど、マスコミこぞって若者代表みたいな扱われ方をされて、すぐに映画界をはじめ芸能界隈を席巻してしまった、例の有名な人がいます。

 しかし、そんなこんなを含めて、直木賞・芥川賞を通じて、芸能人として歴史上はじめて候補に挙げられた栄えある第一号は誰なんですか? といえば、これは衆目の一致するところ、徳川夢声さんです。これほどの超絶有名人が候補になっても、その後、彼につづくような芸能人が現われて両賞がにぎわったわけでもなく、じっさい候補や落選がまるで報道されることもなかった、孤高の先駆者、徳川夢声。

 ちなみに、又吉直樹さん以降、じつはかつて芸人(あるいは芸能人)によって書かれたこんな小説もあったんだよ、と「バスに乗りおくれるな」の精神を発揮した、いろんな記事が出ました。でも、そういう記事でも、芸能人ではじめて直木賞候補になった人、夢声さんの小説に触れたものは、まず見かけません。ほんと、孤高です。

 夢声を研究する現代の俊英・濱田研吾さんによれば、「(引用者注:第21回直木賞候補になった)この一件について、夢声はなにも発言していないようだが」(『徳川夢声と出会った』)ということで、要するにあまり事情がわからないんですね。そのためもあって、のちにこのことを語る人々(ワタクシを含む)の混乱を生んできたのではないかと思います。

 だいたい、これが芥川賞だったら、どうですか。細かいところまで調べ上げようとする熱心なキチガイ文学亡者によって、書き残されたり、語り継がれたはずでしょ? 昔の直木賞をとりまく注目度の低さが、こういうところにも影響を及ぼしている、と思うんですが、やはり少しまとめておきたいです。

 いちばん最初は第7回(昭和13年/1938年・上半期)。賞は「ナリン殿下への回想」を書いた橘外男さんに贈られました。

 受賞にいたるまでの経緯は、『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号に、「芥川龍之介賞 直木三十五賞 評議員会小記」として記されています。まず文壇関係各方面に、だれか推薦できる人はいないかと問い合わせのカードを送り、その回答から12名の候補者がリストアップされます。これを各選考委員に通達。7月22日に参集して評議員会を開催しまして、欠席の三上於菟吉からは書面で候補が提出され、大佛次郎さんからは松村益二「僕の参戦手帖から」が紹介されます。そのうえで議論した結果、橘さんと、「火山灰地」の久保栄さんの2名が有力候補として残り、日を改めて8月2日、もう一度、評議会をひらいて橘さんの受賞が決まりました。

 上記の「評議員会小記」に夢声さんの名は登場しません。そのため、のちの文献でも第7回直木賞と夢声さんは、結びつけられることがないんですけど、評議委員会を欠席した三上さんが、選評でこういうふうに明かしています。

(引用者前略)僕としてはむしろ氏(引用者注:橘外男)が長編をでも書いた時に推選したかつた。しかし、今度のものにしろまづ優等であらう。このほかにも、随分沢山なものを書いてゐる人や、また、徳川夢声君のものらが選に入りさうにも見えた。その数氏は、また何日でもはいるだらう。(八月五日)」(『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号より)

 果たして、夢声さんの名が、最初の文壇関係者からの推薦対象12名に含まれていたのか、または、三上さんが独自に推薦しようと考えたのか。どうとでも読めますけど、三上さんは、書面で提出した候補のなかに、夢声さんの名前を入れていたのではないか、と推察できます。

 それから一年後。第9回(昭和14年/1939年・上半期)のときに、再び夢声さんの名前が、選評のなかに登場することになります。

 この回も、『文藝春秋』には「評議会経緯」が載っていまして、まずは同様に文壇関係者に推薦を要請。その回答から15名の参考候補が得られます。7月30日に、委員会を開催したんですが、出席した4人の委員……菊池寛、久米正雄、小島政二郎、佐佐木茂索が協議した結果、積極的に推薦したい作品はないということで、該当作なしと発表するにいたりました。夢声さんの名前は出てきません。

 それで今回、夢声さんはどのように登場させられたか、というと、小島政二郎さんの選評です。

「候補に選ばれて、私のところへ廻つて来た作品を列挙すると「きつね馬」(宇井無愁)、「ローマ日本晴」(摂津茂和)、「蝦夷日誌」(村上元三)、「首途」(土岐愛作)、「極楽剣法」(鳴山草平)の五篇だつた。

 外に、河童忌(引用者注:7月24日)の席上、久保田万太郎から徳川夢声の近作の著しい進境をさして推薦された。しかし、直木賞授賞資格の第一に、無名作家たることと云ふ条件が前回から規定されたので、徳川夢声では余りに有名過ぎてその資格がないのである。

 以上五篇のうち、私は(引用者後略)(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号より)

 候補としては取り上げられなかった、ってわけです。

 ちなみに、規定だの資格だの、なんでこんなに小島さんが偉そうに語っているのかといえば、当時小島さんは、候補作を決める「予選」の主査を担当していたからです。だから、久保田さんからの推薦を、あっさり却下できちゃう権限があったんですね。

 久保田さんが小島さんに、夢声を推薦したのとちょうど同じ頃、久保田さんは「夢声その後」というエッセイを書きました。漫談、映画俳優、喜劇俳優、作家、随筆家、などなどで活躍を見せる夢声さんが「文学座」に加わって新劇俳優をはじめることになり、「俗優」などと罵られながらも勉強に励んでいるうち、書くものにも変化が出てきた、うんぬんと言っています。おそらくは、久保田さんが推薦した理由にも重なるんじゃないかとも思うので、参考までに引いておきます。

「それにしても、かれの“新劇俳優”としての修行は、心構へは、今後、“映画俳優”としての、また、“ユーモア小説家”としてかれの面貌をも変へないでは置かないだらう。……早くもそのきざしが、近作“珠利哀史”(引用者注:珠李哀史)に“不発弾”に、“蒼海亭”に感じられるのである。

 すくなくも、かれは、“文学”を怖れて来た。(引用者中略)(昭和十四年七月)」(昭和14年/1939年12月・小山書店刊 久保田万太郎・著『八重一重』所収「夢声その後」より)

 まあよくわかりませんが、「著しい進境」を評価しているんでしょう。たぶん。

 戦前の直木賞で、夢声さんが出てくるのは以上の2件です。どちらも、『直木賞事典』(昭和52年/1977年)では、榎本隆司さんが「選評の概要」の執筆を担当し、夢声さんの名が挙がったことに触れていて、選評の内容を後世に伝えるその任をしっかりと果たしたんですが、夢声研究の世界に大きくそびえ立つ偉人、三國一朗さんは、『徳川夢声の世界』を書くにあたって、なぜか第9回のほうにしか触れませんでした。理由は不明です。

「周知のように、夢声は早くから「ユーモア小説」を多く書いている。「直木賞事典」という文献(至文堂、昭和五十二年)には、第九回直木賞(昭和十四年上半期)に「久保田万太郎から徳川夢声が推薦された」と見えているが、その項の執筆者(早稲田大学教授榎本隆司)によれば、「前回から無名作家たることが授賞資格の第一に規定されたので夢声は有名過ぎて資格がなかった」という。(引用者中略)また永井龍男の「回想の芥川、直木賞」(文藝春秋)でも、夢声に関しては何も言及されていない。」(三國一朗・著『徳川夢声の世界』「終章」より)

 第7回のほうでも、落ちた理由が書いてあれば、三國さんが食いつく箇所も、表現も、変わっていたかもしれません。「無名作家たることが授賞資格の第一に」規定されるより前の回ですからね。

 そこが小島さんに比べて、三上於菟吉選評の、甘いところといえば甘いところ、なんでしょう。小島さんの選評が(この回にかぎらず)文壇ゴシップ的に大変おもしろおかしく書かれていることは、ワタクシも認めます。

 そういうことを含めて、いま改めて考えますと、夢声さんが戦前、直木賞をとれなかった理由。それは「徳川夢声ぐらい売れっ子の作家でも、まあそのうち受賞の機会もあるよね」(第7回)と言っていた選考会が、いきなり思い直して、「有名すぎる人に賞をあげていては、直木賞の存在意義が薄らぐから、やめよう」(第8回)と言い始めてしまう、直木賞の文学賞としての未熟さのせい、だったと思うのですよ。

 以下が、授賞資格について転換を見せた第8回のときの、久米正雄さんの言い分です。

「直木賞の詮衡に関しては、ここ数回、私は選者の一人として、或る時は一とヒネリ、ヒネリ過ぎ、或る時は定評を裏書し過ぎ、存在の意義甚だ薄くなりかゝりつゝあるのを感じてゐた矢先だ。(引用者中略)中外の大衆文学の新作家よ直木賞も亦芥川賞と同じく、其道の新進を遇するに決して吝でない事を知つて、大いに努力されたい。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年3月号より)

 そんなの、やっている途中で変えるなよ。と毒づきたくもなるんですが、しかもです。直木賞の場合、思いつきで決めたようなこういう規定が長続きせずに、すぐにまた変わっちゃうんですよ。ヒドいですよね。

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2016年1月24日 (日)

松野大介は言われた、「ペン芸人の系譜は、圓朝、青島幸男、高田文夫、そしてお前」。(平成22年/2010年6月)

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(←書影は平成20年/2008年1月・富士見書房/Style-F 松野大介・著『マイホーム・ソング――ひばりちゃんとうたうかあちゃん』)


 第154回直木賞の決定も、空気のように過ぎ去りました。これから半年間、直木賞に注目する人が急速に減っていくことは確定しているわけですが、うちのブログもいったん小休止。ほぼ直木賞とは関係ないけど、「芸能人と小説」の歴史では、だれひとり目をそむけることのできない確固たる存在感を占める人、松野大介さんのことでいきたいと思います。

 まあ、かなりのこじつけです。しかしワタクシが、松野さんという作家を、つい直木賞とからめて見てしまうのは、直木賞はこういう人をこそ候補に挙げればいいのになあ、と日ごろ思っているからかもしれません。

 ひとつには、松野さんが「中間小説」界、いまでは「エンタメ文芸」界と言ったほうがいいんでしょうが、そういう「商売っ気たっぷりの読み物小説なんすけど、文芸なんすよ、えへっ」みたいな世界とは、まるっきり別のところで物書き業を営んできた人だからです。

 かつて松野さん自身も、自分の書くものは、文芸方面からはあまり相手にされていない、みたいなことを言っていました。

「俺が文芸のほうから出したのは、『芸人失格』の幻冬舎が初めて。だから、あんまり相手にされてないんだね。相手にされていないっていうのはヒドイ話だけど、軽く流されているところはあるかもね。俺が出してきたのは、ベストセラーズとかからだからさ。」(平成10年/1998年10月・ビレッジセンター出版局刊『性愛を書く!』所収「松野大介 書くことで、自分の輪郭をはっきりさせる」より ―インタビュー:色川奈緒)

 それで、「まわりのみんな、だれもこの人が〈大衆文芸〉(……って何だ?)の作家だなんて、思っちゃいねえよ」といった世間の空気を、まったく読まずに、賞をあげちゃうのが、かつて直木賞の得意としたお家芸です。ごぞんじのとおりです。

 古くは、井伏鱒二さんの受賞なんてものがありまして、「井伏鱒二に直木賞なんて、全然おかしい」などと、知ったふうな口をきく、既成概念にガリガリに縛られた人たちが、さんざん直木賞にケチをつけてきました。コピーライター山口瞳さんの、エッセイふう読み物が選ばれたときも、あれこれ言われました。これ大衆小説じゃなくてノンフィクション系じゃん、と佐木隆三さんのときにも、にぎわいました。

 「直木賞の乱心」と呼ばれる、こういった受賞のあることが、じつは直木賞のなかで最も意義がある性質じゃないの? と思うんですよねえ。しばらく、ご乱心から遠ざかってしまっていますけど、ここはやはり直木賞に、日ごろ馴染んでいるぬるま湯テリトリーから、少し足を踏み出し、あるいは踏み外すことで、しっかりとその働きをみせてくれることを期待したいです。

 ええと、松野さんのことにハナシを戻します。

 松野さんに、直木賞との親近性を感じる理由は、ほかにもあります。たとえば、書いている作品は、「これぞエンタメだ」と自信をもって誰かに勧めるのは躊躇しちゃうけど、十分に小説の面白みが詰まっていて、カテゴライズに、つい迷ってしまうところ。

 あと、小説を書きはじめるにいたった過程や、その後の小説との関わり合いが、相当ドロ沼なところなども、そうです。ぐちゃぐちゃしています。直木賞が顕彰するのに、ほんとふさわしいと思います。

「27歳ぐらいの頃(引用者注:平成3年/1991年ごろ)は一番つらかったね。そして唯一、一緒にやってるレギュラー番組から俺だけ降ろされて、それから1年ぐらいが地獄だったよ。金がないことよりも、やることがないっていうのがつらいんだよね。(引用者中略)

そのとき別にやることもないから小説を書こうと思ったのが良かったですよね。自分のことを書くことには自己再生というか、癒しの効果もあるから。酒を飲んでるのがもったいなくなっちゃって。」(平成19年/2007年11月・コアマガジン刊 吉田豪・著『続・人間コク宝 ドトウの濃縮人生インタビュー集』所収「松野大介 向いてないんじゃないかと思うんだよ、書くことに。書きたいことがあってもね。」より)

 このあと、コンビ時代に担当編集者だった人から声をかけてもらって『Hanako』にエッセイの連載を開始。つづけて平成7年/1995年には処女エッセイ集『ひとり暮らしボーイズの欲望』(マガジンハウス刊)が出ることが決まり、いよいよ文筆家として単行本デビュー。ということになるんですが、そんな時期になっても、まだ松野さんは、発表されない小説をずっと書きつづけていました。小説への思い入れ、というか思いは、かなり強かったんだと思います。

 それで、いくつも新人賞に応募しました。なかなか結果が出ずに、それでもあきらめ切れなかったらしく、平成6年/1994年に最後の最後に応募した文學界新人賞で、最終候補に残り、このことが出版界隈でもちょっぴり話題に。これが縁となって、松野さんは小説家としても、『野性時代』に「コールタールみたいな海」を発表してデビューすることになります。

大槻(引用者注:大槻ケンヂ) 松野さんは何か賞をとられたんですよね。

松野 いえ、とってないですよ。文學界新人賞に応募したんです。他にも応募はしたけど、最終選考に残ったのは文學界新人賞だけで。

大槻 他には何に出したんですか。

松野 オレの年代だと、「辻仁成」「大鶴義丹」という受賞者がいたから……。

大槻 すばる文学賞!

松野 オレもいけると思ったんですよね(笑)。二十八歳のときだったかな。でも一次選考通過の百人にも残らなかった。全然ダメ。その後、短編を小説現代新人賞に送ったり。文學界に応募した頃はもう三十一歳で、初めてのエッセイ集がマガジンハウスから出る予定になっていたんです。本が出たらもう応募できないから、「これが最後だ。もうどうでもいいや」と思って老舗の文學界に送ったんですよ。」(『新刊展望』平成20年/2008年3月号 大槻ケンヂ、松野大介「対談 われらのモノ書き業を語る」より)

 ちなみに松野さんが最終候補になった第80回の文學界新人賞というのは、のちに芥川賞をとる青来有一さんが「ジェロニモの十字架」を受賞してデビューした回です。

 この文學界新人賞との関わり具合。松野さんのまわりに、ほんわり直木賞オーラが見えてきてしまうんですよね。

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2016年1月20日 (水)

第154回直木賞(平成27年/2015年下半期)決定の夜に

 どうですか直木賞。思い返して、直木賞が(芥川賞とは別に)盛り上がったことなど、いったいいつまでさかのぼらなきゃいけないんだ。って感じの、順当で、誰もが予想しそうな、当然感あふれる、サラーッとした受賞風景。

 「今回の直木賞、全然話題にならなかったねー」などと、おなじみのフレーズが街を飛び交う気配が、すでに濃厚なわけですが、要するに、こんなものを毎回絶えず気にかけつづけているのは、完全な変人だろうと思います。変人で何が悪い。今回もやっぱり、結果が出るまで存分に楽しみましたよ、ワタクシは。話題になるかならないかは、知ったこっちゃありません。

 今回は候補ラインナップが、ひとりを除いてみんな初候補、というなかなか特徴的な布陣でしたので、直木賞受賞史的には妥当なのかもしれません。でもまあ、いずれ受賞するかもしれない作家の方々が、ぞくぞくと現われてきてくれて、ただ単純に、小説好き読者のひとりとしてうれしいです。

 直木賞は、かなり偏屈で理解しがたい選考基準があるらしいです。なので『羊と鋼の森』のような、多くの人に愛される小説がとれなくたって、ワタクシは悲しくなんかありません。宮下奈都さんには、これまでどおりひきつづき、真摯に小説を愛する読者たちを導く女王……というか女神のような存在として君臨していってほしいと願います。

 梶よう子さんが『ヨイ豊』の、とくに後半で見せた怒濤のごとき熱量に、圧倒されました。参りました。今度はまた、梶さんのおチャメさやユーモアなんぞを、ふんだんにまぶしたような、楽しい小説を書いていってほしいなあ。それじゃ直木賞向きじゃないかもしれませんけど、いいんじゃないでしょうか、直木賞なんかとらなくたって。

 『孤狼の血』こそ、今回の候補のなかでピカイチのエンタメ性、人物も展開も仕掛けも、美しいまでにバランスのとれた小説だなあと読みました。「面白いだけじゃ賞はあげられない」などとほざくどこかの賞のことは、このさい放っておきましょう。柚月裕子さんには、日本のエンタメ小説界をひっぱる存在になる、明るい未来しか見えませんよ。

 わずか二冊目、しかも初長篇で、こんなドエラいもの書いちゃって、深緑野分さん、だいじょうぶなのか!? と、勝手に不安になるとともに、こういう作品、こういう作家に、直木賞はあげてほしかった……。きっとのびしろは無限大。次、いったいどんなもの書くんだろう、という先の見えない作家で、いつまでもありつづけてください。

          ○

 青山文平さんの受賞記者会見、最初は朴訥でぼそぼそしゃべる方なのかなあ、と思っていましたが、もうアノ熱い語り口。「(受賞するしないにかかわらず)候補になったことで、あと三年は食えると思った」の言葉が印象的でした。注目どころは「受賞」ではなく、候補になることの重み。ワタクシもあんまり直木賞の受賞そのものには興味がないんで、我が意を得たり! と思ったことでした。

 ちなみに青山さんは、候補と決まって以降は、(あまり気にしないようにと)ネットとかそういう情報は見ないようにしていた、とのことで、ええ、候補に上がっていようがいまいが、基本、直木賞関連のサイトは、大したことも書いていないので、見ないでもいいと思います。

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2016年1月17日 (日)

第154回(平成27年/2015年下半期)がもうじき決まりますけど、直木賞って、とらないとどうなるんですか?

 あさって1月19日(火)、新たに第154回(平成27年/2015年下半期)直木賞が決まります。いつもこの日が近づくと、どんより暗い気持ちになってしまいます。

 直木賞をとると、にわかに注目され、世間で作家と認められ、その称号のおかげでまわりのみんなからチヤホヤされ、新作の注文が増え、原稿料も上がって、作家として一生暮らしていけることが保障されたも同然で、幸せになれるのだ。と、高校のとき、白髪まじりの国語の先生が言っていました。ということは、ですよ。直木賞がとれないと、とくに注目もされず、世間では作家と認められず、「落ちた人」の烙印をおされ、新作の注文も増えず、原稿料も上がらず、作家として暮らしていけずに路頭に迷い、不幸になる……ということになりますから、ワタクシの好きな作家が候補になればとくに、その落ちる姿をみるのがつらくて、憂うつになってしまうのです。

 それ以降ワタクシは、半年に一度、知りたい知りたくないにかかわらず、かならず報道される直木賞の日には、暗い思いを抱えながら、耳を手でふさいでやりすごしてきました。しかし、待ってください。あれ。自分の好きな落選候補者の、新作が減ったとか、不遇に扱われているとか、小説を発表できなくなったとか、どうもそんな感じがしないんですよね。

 あの国語の先生、当時60歳ぐらいで、若いころは何か有名な文芸同人誌に参加していたらしく、昔の作家や小説にやたら詳しくて、いつもエラそうに昔の思い出バナシを語っていました。直木賞は芥川賞とはちがって、その後に作家として活躍できるかどうかで選ばれている、とも言っていましたが……。

 直木賞をとるのと、とらないのとで、そんなに活躍度合いに違いが現われるもんなんでしょうか。

 試しに、半年前に発表された第153回(平成27年/2015年上半期)、受賞した東山さんが、よくテレビに引っ張り出されていたなあという印象はありますが、「本」というかたちで残った実績では、どうなんでしょう。

153回 平成27年/2015年7月発表~現在まで 半年
門井慶喜 5 単=1、単他=1、文=3
澤田瞳子 4 単=2、単他=1、文=1、文再=1
受賞 東山彰良 3 単共=1、単他=1、文=1
馳星周 2 単=1、文=1
柚木麻子 2 文=2
西川美和 1 文他=1
明細内訳は、単=単行本(主に小説)、文=文庫(主に小説)、他=小説以外、共=共著、再=新装・再文庫化等

 とろうがとるまいが、ほとんど影響が見られません。

 ……って当たり前か。たった半年じゃ何もわかるはずがありません。では、もうちょっと長めに延ばして、5年くらいさかのぼってみたら、どうでしょう。これなら、多少、当落の影響も出てくるんじゃないんですか。

 5年前といえば、平成23年/2011年1月発表の第144回(平成22年/2010年下半期)。道尾秀介さんが5期連続で候補になって、さすがにそろそろとりそうだと言われたりするなかで、道尾さんともうひとり、初候補の木内昇さんが、スーッと涼やかに受賞してしまったあのころ。ニコ生ではじめて記者会見の生放送が始まった伝説回といってもよく、若い女性がとればみんなそっちに目を奪われるはず、などという予想に反し、西村賢太さんがヒーローになってしまいました。すでになつかしさも漂います。

152回 平成27年/2015年1月発表~現在まで 1年
受賞 西加奈子 5 単他=2、文=2、文共=1
青山文平 3 単=1、文=2
大島真寿美 3 単=1、文=2
木下昌輝 1 単=1
万城目学 1 文共=1
151回 平成26年/2014年7月発表~現在まで 1年半
受賞 黒川博行 8 単=2、文=2、文再=4
貫井徳郎 7 単=1、単共=1、文=2、文再=3
柚木麻子 5 単=3、文=2
千早茜 4 文=4
米澤穂信 3 単=2、文=1
伊吹有喜 2 文=2
150回 平成26年/2014年1月発表~現在まで 2年
伊東潤 15 単=8、単他=2、文=5
柚木麻子 8 単=5、文=3
受賞 朝井まかて 7 単=3、文=4
受賞 姫野カオルコ 6 単=2、文=2、文再=2
千早茜 6 単=1、文=5
万城目学 2 単=1、文共=1
149回 平成25年/2013年7月発表~現在まで 2年半
原田マハ 21 単=9、単共=1、文=9、文他=2
伊東潤 20 単=10、単他=2、文=8
受賞 桜木紫乃 12 単=6、文=6
湊かなえ 13 単=6、文=7
恩田陸 11 単=4、単他=1、文=3、文他=1、文再=2
宮内悠介 4 単=2、文=2
148回 平成25年/2013年1月発表~現在まで 3年
有川浩 23 単=2、単共=3、単他=2、単再=4、文=6、文他=1、文再=5
伊東潤 22 単=11、単他=2、文=9
受賞 安部龍太郎 17 単=5、単共=2、単他=1、文=7、文再=2
西加奈子 12 単=2、単他=2、文=6、文共=1 →2年後に受賞
受賞 朝井リョウ 11 単=5、文=5、文他=1
志川節子 3 単=2、文=1
147回 平成24年/2012年7月発表~現在まで 3年半
原田マハ 29 単=11、単共=2、文=14、文他=2
受賞 辻村深月 19 単=6、単共=1、単他=1、文=8、文共=1、文他=2
貫井徳郎 15 単=5、単共=1、文=5、文他=1、文再=3
朝井リョウ 12 単=6、文=5、文他=1 →半年後に受賞
宮内悠介 5 単=3、文=2
146回 平成24年/2012年1月発表~現在まで 4年
受賞 葉室麟 50 単=26、単他=1、文=22、文他=1
伊東潤 29 単=14、単他=2、文=13
恩田陸 18 単=6、単他=1、文=8、文他=1、文再=2
桜木紫乃 17 単=8、文=9 →1年半後に受賞
真山仁 16 単=7、単他=1、文=5、文共=1、文再=2
歌野晶午 9 単=2、文=7
145回 平成23年/2011年7月発表~現在まで 4年半
葉室麟 54 単=29、単他=1、文=23、文他=1 →半年後に受賞
辻村深月 27 単=9、単共=1、単他=2、文=12、文共=1、文他=2 →1年後に受賞
受賞 池井戸潤 16 単=5、文=6、文共=1、文再=4
島本理生 14 単=5、単他=1、文=7、文他=1
高野和明 5 文=4、文共=1
144回 平成23年/2011年1月発表~現在まで 5年
受賞 道尾秀介 25 単=9、単他=1、文=13、文他=1、文再=1
荻原浩 21 単=9、単他=1、文=10、文再=1
犬飼六岐 17 単=9、文=8
貴志祐介 12 単=2、単他=2、単再=1、文=6、文再=1
受賞 木内昇 10 単=4、単他=1、文=5

 葉室麟さんって人はバケモノなのか! ……と一声、外に向かって叫んでから、いまパソコンの前に戻ってきました。

 とにかく他の受賞者と比べても、葉室さん、群を抜く猛烈な書きっぷりです。それこそ直木賞を受賞したおかげかもしれませんけど、でも、伊東潤さんだって原田マハさんだって、書ける人はどんどん書きまくっているんですよね。現実として、直木賞をとらなくたって、多くの人には発表の場が確保され、次々と新作を出しています。なあんだ、とらなくたって読者の立場で悲しむことなんて全然ないんじゃないか、と少し気持ちが晴れてきました。

 晴れてきたついでに、もう少し前にまで目を向けちゃいます。やりだすとキリがないので、「そんな昔のこと調べたって意味ないよ」と難クセつけられない程度に、以下この10年間の状況だけ挙げてみました。

 10年前、おぼえてますか。平成18年/2006年1月に第134回(平成18年/2006年下半期)が発表され、この回は、渡辺淳一さんが選考委員をしている以上、受賞はないものとさんざん言われていた東野圭吾さんのほか、伊坂幸太郎さんだの恩田陸さんだのが候補に挙がって、ソレ系の好きな軍団は大いに盛り上がり、時代小説ファンがさみしく涙したあの時代です。

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2016年1月10日 (日)

板東英二は言った、「直木賞を狙っているわけじゃないけど、ノミネートはされたいですよ」。(昭和61年/1986年10月)

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(←書影は平成10年/1998年10月・青山出版社刊 板東英二・著『赤い手』)


 せっかくなので、だれかスポーツ界の人も取り上げておきたいな。と悩んだ末に、いや悩むまでもなく、完全なる芸能人でありながら、スポーツ界出身で、しかも立派な直木賞エピソードまで持っている、かっこうの人がおりました。板東英二さんです。

 板東さんといえば、なにをさておいても(といっていいのか)、堂々たるベストセラー・ライターです。昭和59年/1984年から刊行のはじまった、青春出版社プレイブックスの球界内幕もの、『プロ野球知らなきゃ損する』シリーズが、江本孟紀さんの『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(昭和57年/1982年5月・ベストセラーズ/ワニの本)の二番煎じにもかかわらず、やたらと売れてしまい、結果、いちばん売れたもので80万部以上を突破。すでにこのとき板東さんは、野球解説の人なのかお笑い芸人なのか、よくわからないほどにメディアでしゃべりまくり、テレビ・ラジオ合わせてレギュラー19本を抱える売れっ子ぶりで、日本放送演芸大賞の最優秀ホープ賞もとってしまって、人気タレントとして遇されていました。これらの本も、いわゆるタレント本の一種として、多くの人の購買欲をそそった、と言っていいでしょう。

 ということで、タレント本を書く人(の一部)に共通の悩みが、板東さんにも襲いかかったそうです。

「「一番悔しいのは、どうせゴーストライターが書いたんだろうと思われること。本当に書きたいのは小説、自分の一代記なんですわ」と常々言う。」(『中央公論』平成5年/1993年6月号「人物交差点」より)

 「タレントが本を出したんだから、ゴーストライターがいるんでしょ」問題は、ほとんど日本の常識となった、と言ってもいいですもんね。これには板東さんも、かなりイラッとしたようです。おれは自分で書いているっちゅうの、という強烈な自負があったからです。

「タレントと呼ばれる人が自分で書いていないと世間の人が思うのは、僕らより前の人が書いていないからでしょうね。

僕は一度調べたことがあるんですよ。野球解説や野球評論の記事を実際に書いているのは、あの当時は僕だけだった。あとは名前は野球人でも、書いているのは新聞記者です。

(引用者中略)

僕は野球をしているからには、下手でも自分で原稿を書かなければという思いがあったのと、実は小さい頃から、学校の先生になりたくてしかたがなかった。」(『保険展望』平成12年/2000年1月号 板東英二×山咲千里「書くことも、また楽しからずや」より)

 と、スポーツ紙などに掲載される野球評論記事のことを語っています。プレイブックスの諸作もそうだったのかどうかは、よくわかりません。

 ただ、板東さんがベストセラーを連発していたころにはすでに、いつか自分の半生を書いておきたい、と望んでいたことはたしかなようです。中日ドラゴンズを退団したあたりには、すでに原稿用紙を買ってきて、書きだしていた、という回想もあります。タイトルも「赤い手」にすると決め、周囲の人に小説の構想を話して聞かせたりもしていたのだとか、何とか。

 それがオモテに出た最初期の例が、『週刊サンケイ』昭和61年/1986年10月2日号の、上之郷利昭さんによるインタビュー記事です。俳優としても活躍しはじめたころで、単なるおしゃべり野球バカではないタレント性が、世のなかにも浸透し、次なる目標や夢を、いろいろ語らされる機会も増えたのでしょう。板東さんの小説執筆への思いがお披露目されることになったのも、自然といえば自然なタイミングでしたが、ここで早くも「直木賞」の単語が飛び出してしまうところが、さすが板東さん、直木賞オタク連中からも愛されるゆえんでしょう。

「――ところで今、小説を書いておられるんですって? 初公開で、その骨格を公開してもらえますか。

板東 いや、夢ですけどね(笑い)。『赤い手』というタイトルです。(引用者中略)

――一説では直木賞を狙ってらっしゃるとか。

板東 狙ってるわけじゃないですけど(笑い)。」(『週刊サンケイ』昭和61年/1986年10月2日号「上之郷利昭取材現場 直木賞ノミネート目指して『赤い手』いう小説書いてます」より)

 ……狙っているわけじゃないけど、どうなのか。直木賞にノミネートはされたいと言うのです。

 しかも板東さんの場合は、作家として認められたいとか、作家の称号を手にしたいとか、そういう理由じゃないんですね。こう続けます。

「本心を言うと大それた言い方ですが、ノミネートはされたいですよ。これまで自分が書いた本や記事について、どっちみちゴーストライターが書いてるんやろとよう言われるんです。それがシャクでしてね。直木賞はゴーストライターが書いたやつはダメですから、正真正銘、自分で書いたということの証明のためにも……書き上げたいですワ。」(同)

 直木賞の候補になれば「自分が書いたことの証明になる」のだと。自分で書いていると信じてもらえず、よっぽどシャクだったんでしょうか。

 しかしなるほど、ベストセラーを連発するタレントならではの理由、といいましょうか。「直木賞をとりたいですね」とさえ言っておけば済むところを、そうじゃなくて実はこうなんですわ、と言葉を続けなきゃ満足できない、しゃべり屋ダマシイの本領発揮、といいましょうか。いずれにせよ、直木賞にはそんな効用もあったのか。と、通常の角度とはまたちがう面で期待をかけられている直木賞の顔をみたおもいで、こういうことを瞬時に答えられる板東さん、そりゃ売れっ子になるよなあ、と感嘆してしまいます。

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2016年1月 3日 (日)

山田邦子は言った、「毎回、直木賞を狙っている。けど私の作品はムリかなあ」。(平成6年/1994年9月)

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(←書影は平成9年/1997年6月・幻冬舎/幻冬舎文庫 山田邦子・著『結婚式』)


 基本、直木賞は大した作品を選び出してきたわけじゃありません。まわりの人たちが過剰に話題にしてくれるおかげで、知名度を維持してきました。

 「まわりの人」のなかでも、とくにありがたいのは、トップクラスの人気タレント(とそれを取り巻く記者やライター)です。推奨、批判にかかわらず、何度も何度も「直木賞」と口に出してくれる。それだけで世間に拡散し、「直木賞は大したものらしい」みたいな思い込みがすり込まれ、直木賞の寿命がまた延びる、っつう仕組みになっています。

 1980年代後半に、積極的に直木賞ネタを繰り出してくれたのが、ビートたけしさんです。それで場もあったまった1990年代初頭、「芸能人×直木賞」の世界を牽引してくれたのは、明らかにこのひと、山田邦子さんでしょう。

 はじまりは平成1年/1989年。じっさいに山田さんが初の小説を出すより前のことです。この年1月に発表されたNHK「好きなタレント調査」女性部門で、山田さんははじめて第1位に躍り出たんですが、この段階ですでに「次代の〈直木賞〉ネタを背負って立つ芸能人」として、期待がかけられていたことがよくわかります(わかるのか?)。『週刊女性』の記事です。

「「もっと多くの人に親しまれるタレントになりたい。そのためにはどうすればいいか。いろいろ考えてるんですが、実はずっと以前から小説を書くのが夢だったの。それをこの機会に、いよいよとりかかろうかと思ってるんです」

(引用者中略)

来年は、デビュー10周年の記念の年になる。

その記念の年に、タレントとしてさらに大きくはばたくために、来春には、ぜひ処女小説を出版したいと思っているのだ。

同じ事務所の先輩だったビートたけしも小説を書き、好評をはくしているから、クニちゃんの小説も楽しみ。たけしと、どっちが早く直木賞に手が届くか……。」(『週刊女性』平成1年/1989年2月14日号「「好感度」女性No.1に選ばれたクニちゃん。長年の夢だった小説執筆を」より)

 そりゃ、この記事を書いたライターだって、山田さんの小説を読んだわけじゃありません。単に景気づけのノリで「直木賞」のワードを使っただけ、だとは思います。

 しかし、翌年、現実に『あっかんベーゼ』(平成2年/1990年6月・太田出版刊)が刊行されますと、以降は、周囲がどうこう言うのにまかせず、山田さん自身が、直木賞のことをどんどん(?)発言しはじめるのです。愉快な時間のはじまりです。

「タレントの山田邦子は、この13日に誕生日を迎える。タレントとしても10周年になる。その記念にナ、ナ、ナント恋愛小説まで書きおろしちゃった! 短編7本からなる小説集『あっかんベーゼ』(太田出版刊、千円)がそれ。

(引用者中略)

「あと、2、3作書いて、直木賞をねらうわ」

と目標も大きい。」(『週刊女性』平成2年/1990年6月19日号「山田邦子(29歳)が書きおろし恋愛小説発表「直木賞をねらってるよ」」より)

 もちろん、書下ろしで太田出版から1冊出したって、直木賞の現実味などゼロです。だからなのか、いきなりの直木賞ねらい宣言ではなく、2作、3作と書いていくうちに直木賞を。……と、先を見据えているところが、堅実といいますか、並の「小説出してみました」芸能人とは、言うことがちがいます。「芸能人×直木賞」ニュースをリードしていくにふさわしい貫禄すら、すでに感じ取れるところです。

 もしもこれで、全然売れなかったとか、お手軽な芸能人エッセイだね、みたいに評価されていたら、ハナシは終わっていたかもしれません。しかし刊行直後から、おお山田邦子、意外とやるじゃん、といった意見が続出。山田さんのタレントとしてのパワーが、のぼり調子だったことも手伝って、だいたい1年間で刊行20万部ぐらいにまで達してしまいました。

 よし、このまま小説を書き続けても大丈夫だ。と、山田さん自身もやる気をふくらませたことでしょう。と同時に、直木賞ネタのほうもひきつづき継続することが許されたようなもんです。ここから数年は、太田出版から出される新刊の話題とともに、山田さんと直木賞のハナシが、次々と湧いて出てくることになります。

 第二小説集の『結婚式』(平成3年/1991年9月・太田出版刊)のときには、

「「結婚式」三十四万部、「あっかんベーゼ」二十万部。好感度ナンバーワンタレント山田邦子の小説が、いま若い女性を中心に、やまだかつてない売れ行きをみせている。

(引用者中略)

「直木賞でも狙おうか」

最近、そんなことをスタッフや編集者に話しているそうだが、今後も年一冊のペースで小説を出していく予定だというから、あながちそれも夢ではないかもしれない。」(『週刊読売』平成3年/1991年9月8日号「小説バカ売れ マジで直木賞を…… 山田邦子」より)

 『結婚式』はとにかく売れたおかげで、注目もされました。文学賞に関しても、山田さん本人の言葉だけでなく、

「文壇関係者の間で、

「村上春樹、吉本ばななに続く恋愛小説作家の旗手」

として注目を集め小説の有力な賞の受賞も可能性が大きいといわれている。」(『週刊女性』平成3年/1991年9月3日号「書きおろし小説『結婚式』が29万部の週間ベストセラー 「恋愛小説作家の旗手」の評判」より)

 と、誰がどういう責任でしゃべったウワサなのか、有力な賞を受賞する可能性が大きかったんだそうです。売れると、まあ、ほんとにいろんなこと言い出す人がいるもんですね。最終的に50万部を突破した、と言われるほどに売れたんですが、けっきょく現実には、何も受賞しませんでした。

 三冊目は初の長篇、『セミダブル』(平成4年/1992年7月・太田出版刊)。山田さんが、芸能界隈お得意の、色恋ゴシップにまき込まれていた時期でもあったので、「ぬひひひひ、この小説にはどこまで本人の実体験が入っているの!?」みたいな、これまたおなじみの出歯亀チックな取り上げられ方で盛り上がりをみせます。しかもこの小説のときは、小説が完成する前から週刊誌に登場。

 しっかり文学賞のハナシも出てきます。

「なぜそう“小説家”にこだわるのか。

ある芸能レポーターが語る。

「2作目の恋愛小説『結婚式』が30万部も売れたのに味をしめたんでしょう。もともと作詞や小説執筆などロマンチックな仕事にあこがれていて、いまでは、賞を取りたいなんていってるそうだよ」

作家活動に時間をとられるおかげで、テレビ局での評判はいまひとつ。

(引用者中略)

評論家の桑原稲敏氏は、

「知名度によりかかった芸能人の小説なんて、キャラクター商品と同じ。いい悪いをいっても始まりませんが、なんの価値もない」

というが、さて、いったいどんな“小説”が出来ることやら。」(『週刊現代』平成4年/1992年4月4日号「書き始めた途端にダウン “小説家”山田邦子の前途」より)

 要するに、人気絶頂で売れている人を、どうにか馬鹿にしてやろう。という、この世に空気のように存在する単純な感情を、そのまま文章にしたわけですね。それはそれで、週刊誌臭が強烈に出ていて、いいと思います。

 ただ、山田さんが直木賞に言及していたのは、『結婚式』が売れる前からです。「味をしめた」なんて見方しかできない何某さんには申し訳ないですけど、山田さんのほうがスジは通っています。

 そして、誰かひとりにとっては無価値でも、これに価値を見出す人はたくさんいました。1作目、2作目、3作目とセールスは好調に推移。いずれも話題になって、小説家・山田邦子の名はひろがるいっぽうでした。……とともに、山田さんと直木賞がからんだハナシも拡散しつつ、進化を遂げていくことになります。

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