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2016年1月31日 (日)

徳川夢声は言われた、「これからまたいつでも、直木賞に選ばれるだろう」。(昭和13年/1938年9月)

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(←書影は平成21年/2009年11月・清流出版刊 徳川夢声・著『徳川夢声の小説と漫談これ一冊で』)


 「芸能人と直木賞」のテーマだと、どうしても最近のハナシが多くなってしまいます。年代でいえば、昭和54年/1979年以降です。これは中山千夏さんが直木賞の候補作家として登場した年でして、そのため中山さんはしばしば、「直木賞界における芸能人作家のイザナミ」とも呼ばれます。

 その前には、五木寛之、野坂昭如、藤本義一など、「放送業界の物書きだけどテレビにも出ているんだよ」の一派が起こした波がありました。はじまったのは昭和42年/1967年ごろからです。

 芥川賞のほうでは、さらにさかのぼって、昭和31年/1956年。もとは同人誌に小説を書いていた大学生だけど、マスコミこぞって若者代表みたいな扱われ方をされて、すぐに映画界をはじめ芸能界隈を席巻してしまった、例の有名な人がいます。

 しかし、そんなこんなを含めて、直木賞・芥川賞を通じて、芸能人として歴史上はじめて候補に挙げられた栄えある第一号は誰なんですか? といえば、これは衆目の一致するところ、徳川夢声さんです。これほどの超絶有名人が候補になっても、その後、彼につづくような芸能人が現われて両賞がにぎわったわけでもなく、じっさい候補や落選がまるで報道されることもなかった、孤高の先駆者、徳川夢声。

 ちなみに、又吉直樹さん以降、じつはかつて芸人(あるいは芸能人)によって書かれたこんな小説もあったんだよ、と「バスに乗りおくれるな」の精神を発揮した、いろんな記事が出ました。でも、そういう記事でも、芸能人ではじめて直木賞候補になった人、夢声さんの小説に触れたものは、まず見かけません。ほんと、孤高です。

 夢声を研究する現代の俊英・濱田研吾さんによれば、「(引用者注:第21回直木賞候補になった)この一件について、夢声はなにも発言していないようだが」(『徳川夢声と出会った』)ということで、要するにあまり事情がわからないんですね。そのためもあって、のちにこのことを語る人々(ワタクシを含む)の混乱を生んできたのではないかと思います。

 だいたい、これが芥川賞だったら、どうですか。細かいところまで調べ上げようとする熱心なキチガイ文学亡者によって、書き残されたり、語り継がれたはずでしょ? 昔の直木賞をとりまく注目度の低さが、こういうところにも影響を及ぼしている、と思うんですが、やはり少しまとめておきたいです。

 いちばん最初は第7回(昭和13年/1938年・上半期)。賞は「ナリン殿下への回想」を書いた橘外男さんに贈られました。

 受賞にいたるまでの経緯は、『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号に、「芥川龍之介賞 直木三十五賞 評議員会小記」として記されています。まず文壇関係各方面に、だれか推薦できる人はいないかと問い合わせのカードを送り、その回答から12名の候補者がリストアップされます。これを各選考委員に通達。7月22日に参集して評議員会を開催しまして、欠席の三上於菟吉からは書面で候補が提出され、大佛次郎さんからは松村益二「僕の参戦手帖から」が紹介されます。そのうえで議論した結果、橘さんと、「火山灰地」の久保栄さんの2名が有力候補として残り、日を改めて8月2日、もう一度、評議会をひらいて橘さんの受賞が決まりました。

 上記の「評議員会小記」に夢声さんの名は登場しません。そのため、のちの文献でも第7回直木賞と夢声さんは、結びつけられることがないんですけど、評議委員会を欠席した三上さんが、選評でこういうふうに明かしています。

(引用者前略)僕としてはむしろ氏(引用者注:橘外男)が長編をでも書いた時に推選したかつた。しかし、今度のものにしろまづ優等であらう。このほかにも、随分沢山なものを書いてゐる人や、また、徳川夢声君のものらが選に入りさうにも見えた。その数氏は、また何日でもはいるだらう。(八月五日)」(『文藝春秋』昭和13年/1938年9月号より)

 果たして、夢声さんの名が、最初の文壇関係者からの推薦対象12名に含まれていたのか、または、三上さんが独自に推薦しようと考えたのか。どうとでも読めますけど、三上さんは、書面で提出した候補のなかに、夢声さんの名前を入れていたのではないか、と推察できます。

 それから一年後。第9回(昭和14年/1939年・上半期)のときに、再び夢声さんの名前が、選評のなかに登場することになります。

 この回も、『文藝春秋』には「評議会経緯」が載っていまして、まずは同様に文壇関係者に推薦を要請。その回答から15名の参考候補が得られます。7月30日に、委員会を開催したんですが、出席した4人の委員……菊池寛、久米正雄、小島政二郎、佐佐木茂索が協議した結果、積極的に推薦したい作品はないということで、該当作なしと発表するにいたりました。夢声さんの名前は出てきません。

 それで今回、夢声さんはどのように登場させられたか、というと、小島政二郎さんの選評です。

「候補に選ばれて、私のところへ廻つて来た作品を列挙すると「きつね馬」(宇井無愁)、「ローマ日本晴」(摂津茂和)、「蝦夷日誌」(村上元三)、「首途」(土岐愛作)、「極楽剣法」(鳴山草平)の五篇だつた。

 外に、河童忌(引用者注:7月24日)の席上、久保田万太郎から徳川夢声の近作の著しい進境をさして推薦された。しかし、直木賞授賞資格の第一に、無名作家たることと云ふ条件が前回から規定されたので、徳川夢声では余りに有名過ぎてその資格がないのである。

 以上五篇のうち、私は(引用者後略)(『文藝春秋』昭和14年/1939年9月号より)

 候補としては取り上げられなかった、ってわけです。

 ちなみに、規定だの資格だの、なんでこんなに小島さんが偉そうに語っているのかといえば、当時小島さんは、候補作を決める「予選」の主査を担当していたからです。だから、久保田さんからの推薦を、あっさり却下できちゃう権限があったんですね。

 久保田さんが小島さんに、夢声を推薦したのとちょうど同じ頃、久保田さんは「夢声その後」というエッセイを書きました。漫談、映画俳優、喜劇俳優、作家、随筆家、などなどで活躍を見せる夢声さんが「文学座」に加わって新劇俳優をはじめることになり、「俗優」などと罵られながらも勉強に励んでいるうち、書くものにも変化が出てきた、うんぬんと言っています。おそらくは、久保田さんが推薦した理由にも重なるんじゃないかとも思うので、参考までに引いておきます。

「それにしても、かれの“新劇俳優”としての修行は、心構へは、今後、“映画俳優”としての、また、“ユーモア小説家”としてかれの面貌をも変へないでは置かないだらう。……早くもそのきざしが、近作“珠利哀史”(引用者注:珠李哀史)に“不発弾”に、“蒼海亭”に感じられるのである。

 すくなくも、かれは、“文学”を怖れて来た。(引用者中略)(昭和十四年七月)」(昭和14年/1939年12月・小山書店刊 久保田万太郎・著『八重一重』所収「夢声その後」より)

 まあよくわかりませんが、「著しい進境」を評価しているんでしょう。たぶん。

 戦前の直木賞で、夢声さんが出てくるのは以上の2件です。どちらも、『直木賞事典』(昭和52年/1977年)では、榎本隆司さんが「選評の概要」の執筆を担当し、夢声さんの名が挙がったことに触れていて、選評の内容を後世に伝えるその任をしっかりと果たしたんですが、夢声研究の世界に大きくそびえ立つ偉人、三國一朗さんは、『徳川夢声の世界』を書くにあたって、なぜか第9回のほうにしか触れませんでした。理由は不明です。

「周知のように、夢声は早くから「ユーモア小説」を多く書いている。「直木賞事典」という文献(至文堂、昭和五十二年)には、第九回直木賞(昭和十四年上半期)に「久保田万太郎から徳川夢声が推薦された」と見えているが、その項の執筆者(早稲田大学教授榎本隆司)によれば、「前回から無名作家たることが授賞資格の第一に規定されたので夢声は有名過ぎて資格がなかった」という。(引用者中略)また永井龍男の「回想の芥川、直木賞」(文藝春秋)でも、夢声に関しては何も言及されていない。」(三國一朗・著『徳川夢声の世界』「終章」より)

 第7回のほうでも、落ちた理由が書いてあれば、三國さんが食いつく箇所も、表現も、変わっていたかもしれません。「無名作家たることが授賞資格の第一に」規定されるより前の回ですからね。

 そこが小島さんに比べて、三上於菟吉選評の、甘いところといえば甘いところ、なんでしょう。小島さんの選評が(この回にかぎらず)文壇ゴシップ的に大変おもしろおかしく書かれていることは、ワタクシも認めます。

 そういうことを含めて、いま改めて考えますと、夢声さんが戦前、直木賞をとれなかった理由。それは「徳川夢声ぐらい売れっ子の作家でも、まあそのうち受賞の機会もあるよね」(第7回)と言っていた選考会が、いきなり思い直して、「有名すぎる人に賞をあげていては、直木賞の存在意義が薄らぐから、やめよう」(第8回)と言い始めてしまう、直木賞の文学賞としての未熟さのせい、だったと思うのですよ。

 以下が、授賞資格について転換を見せた第8回のときの、久米正雄さんの言い分です。

「直木賞の詮衡に関しては、ここ数回、私は選者の一人として、或る時は一とヒネリ、ヒネリ過ぎ、或る時は定評を裏書し過ぎ、存在の意義甚だ薄くなりかゝりつゝあるのを感じてゐた矢先だ。(引用者中略)中外の大衆文学の新作家よ直木賞も亦芥川賞と同じく、其道の新進を遇するに決して吝でない事を知つて、大いに努力されたい。」(『文藝春秋』昭和14年/1939年3月号より)

 そんなの、やっている途中で変えるなよ。と毒づきたくもなるんですが、しかもです。直木賞の場合、思いつきで決めたようなこういう規定が長続きせずに、すぐにまた変わっちゃうんですよ。ヒドいですよね。

           ○

 昭和13年/1938年、昭和14年/1939年段階でも、夢声さんの世間での知名度は相当なものでした。ラジオをつければその声が流れ、映画に行けばその顔を目にし、新聞でも雑誌でも、夢声の紹介記事、あるいは本人の書いたものが載っている、という按配で、逆に、よくまあ直木賞は、こういう人を候補者にしようとしたよな、と感心します(単に、直木賞が、あまり真剣に考えていなかっただけかもしれませんけど)。

 戦争状態が終わって昭和20年代、夢声さんの勢いはとどまることを知りません。ラジオ放送を中心に、多くの人に愛される芸を披露、芸能人としてもヒトカドの地位を築きます。書くほうだって次々に押し寄せる注文を、きちんとこなし、タレントにして作家、という独特なひとり旅を邁進しました。

 ここに、いったい誰が切望していたのか、よくわからないですけど、大衆文芸賞の灯を消すなとばかりに復活した、戦後第1回の直木賞。運営主体は『文藝讀物』を刊行していた日比谷出版社で、当然、売れっ子の夢声さんはこの『文藝讀物』にもいろいろ文章を書いていたんですが、直木賞の候補者として名前が挙げられることになったのです。

 いったい、このタイミングで、なんで夢声さんを候補にしたんでしょうか。誰が言いだしっぺなのか、選評を読んでもよくわかりません。

 この回は、戦後復活1回目ということもあり、直木賞史上何度目なのか、また「直木賞の方針」ってやつを議論し、いちおうの決定を見ています。それは、小島さん(例の小島さんです)が発案した「直木賞は川口にやった時代(第1回ですね)にかえしたい」という意見が採用され、

「つまりもう押しも押されもしない作家で、日本の大衆文藝の野に新生面を拓き若しくは拓こうとしているいるもの――規準はまずそうきまった」(木々高太郎選評より)

 ってことらしいです。

 見ようによっては、徳川夢声という作家は、この規準に合致します。授賞に賛成する意見が出たのも当然かもしれません。

 大佛次郎さん「一部では徳川氏のは随筆文学であると云ふ人もあるが、さう云ふ意味でも僕は却つて賛成する。」……随筆文学だと言われているからこそ直木賞授賞に賛成、っつうオサラギイズムあふれる理由です。

 獅子文六さん「賞をやつても嬉しがるまいといふ人があつたが、私は夢声大いに喜ぶことと考へてゐる。彼はそんなケチ臭い人間ではない。」……大親友ならではの、候補者の感情にまで分け入った賛成票です。

 だけど、いや夢声の書くものはいいんだけど、いくら何でもいまさら……と躊躇してしまう人がいまして、いったい「規準」って何なんだよ、と思わざるをえない、「結果、落選」の結論に達してしまいます。

 小島政二郎さんは「私は反対した。(引用者注:富田常雄のほかに)もう一人選ぶなら、新らしい人にしたかつた。」と一貫した反対の姿勢を守り、久米正雄さんは「前数回に亘つて、私は同君の推薦者であつたが、今は却つて同君を、大衆讀物界の「別格」と考へ、既に張出横綱だと思つてゐる」と、あとになって「昔は、ぼくだって推薦したんだよ」と急に言い始める卑怯な手をつかい、川口松太郎さんは「過去を通じての直木賞の在り方といふものを考へたとき、やはり妥当でないやうな気がした。」と、富田常雄への授賞に同意したくせに、なんでそんなことが言えるのか、よくわからない評でごまかしました。

 夢声さんの、読物界での筆歴が古く、もはや選考委員たちと肩を並べて各誌で大活躍していることなんぞは、選考会をひらくまえから、わかりきったことです。落選の最大の理由は、そういう作家を候補のひとりとして挙げたこと、だと思います。

 直木賞で議論されて、落選してから、わずか5年後。同じ主催者によって、今度は第3回菊池寛賞が贈られることになりました。

 そりゃ、夢声さんには、功労賞的なこっちの賞のほうがふさわしいですよ。とワタクシも思います。でも、直木賞が戦後復活して、これまでとは違う新しい姿に生まれ変わったのだと、世間にお披露目する気があったのなら、夢声さんに授賞しておいたほうが断然よかったと思うんですよね。夢声さんのためというより、直木賞のためにも。

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