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2015年12月27日 (日)

野坂昭如は言った、「直木賞がほしくてTVをやめた」。(昭和52年/1977年12月)

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(←書影は昭和47年/1972年6月・新潮社/新潮文庫 野坂昭如・著『受胎旅行』)


 平成27年/2015年、今年は直木賞にとってどんな一年だったか。……といえば、これはもう明らかに「数多くの受賞者が亡くなった年」です。

 昨年、平成26年/2014年は、一年で鬼籍に入った直木賞受賞者が6人、という新記録をうちたてたばかりでしたが、今年はそれを上まわるペースで次々と訃報がながれた末に、12月に入って7人目、8人目と他界。悲嘆にくれる余裕もない年でした(っていうのは、さすがに大げさ)。

 陳舜臣、赤瀬川隼、船戸与一、車谷長吉、高橋治、佐木隆三、杉本章子……そして、最後(ですよね?)のおひとりが、選考委員にはならなかったが大物中の大物、長い直木賞の歴史をこの人(とその時代)が変えたのだ、とも言われる天才鬼才、野坂昭如さんです。と同時に、「芸能人と直木賞」のテーマにふさわしすぎる芸能人でもありました。

 野坂さんについては、昔、関連書籍として『文壇』(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊)を取り上げたことがあります。川口松太郎さんとカラんだ一件も、軽く触れました。

 「テレビにチャラチャラ出てるやつに、賞などやれるか」という考え方と、「小説界を担うにふさわしい才能であれば、テレビに出ていようが何だろうが関係ない」という意見。その後の直木賞(とか、もうひとつの賞とか)を彩ることになる、お約束な構造。これを、まわりを取り巻く人たちが、好んで言い立てるようになった嚆矢が、野坂さんの直木賞落選&受賞でした。昭和42年/1967年ごろのことです。

 と言いますか野坂昭如っていう人物が、テレビ業界が猛烈なパワーで拡大していた、そんな時代に現われた人です。嚆矢にならざるを得なかったわけですけど、この対立構造を強固にするのには、野坂さんお得意の「ひがみ根性」も、ひと役買ったものと思います。

 どんな場面でもひがんでみせる。これは、野坂さんのひとつの藝です。後年、おれは直木賞選考委員になれない、っていうテーマで長部日出雄さんと対談したときも、長部さんが盛んにツッコみを入れなきゃいけなくなるぐらいに、ねたんで、ひがんで、そねってみせました。

野坂 近ごろ、直木賞のシーズンになって、どれが候補作に選ばれたとか、受賞作の選考過程がどうであったかという話をするときに、非常にぼくに言いにくそうに話す人が出てきたね。なんか申訳ないという感じで……。

長部 どういうことですか、それは。

野坂 まだ選考委員になっていないけれど、あなたとしてはさぞかしなりたいだろう……と、そう思っているらしいんだね。だけれども、どんどん先を越されてしまって、あなたとしては不本意な心境であるにもかかわらず、こんな話題を持ち出して、なおさら傷を掻き回すようですが……って、そういうニュアンスがうかがえるわけですよ。

長部 それはちょっと考え過ぎじゃないですか(笑)。

(引用者中略)

長部 たとえば野坂さんがこんど、直木賞の選考委員になったとすると、野坂さんの性格からして、この委員のなかでベストセラーを出していないのはおれだけだなんて、また僻むんじゃないですか。

野坂 そう、ベストセラーを出してなきゃ駄目ってことはわかった。しかし、一方では、女にモテるってことも必要なんじゃないですか。

長部 そうかしら。」(昭和62年/1987年6月・文藝春秋刊 野坂昭如・長部日出雄・著『超過激対談』所収「NOSAKAはなぜ「直木賞選考委員」になれないか」より)

 こんな感じで、えんえんとやっています。

 ということで、受賞当時のことにハナシを移しますが、ひがみを肥やしにする野坂さんにとって、「放送業界で何とかおマンマ食っているけど、やはり優遇されている小説家になりたい」みたいな構図が、最もしっくりくる、もの書き感だったらしいです。

 テレビ業界(の書き手)は、活字の文壇より下に見られている、みたいな感覚です。

「CMソング作詞者だった時は、結局は、作曲家に従属していなければならず、TV脚本家の頃は、ディレクター、タレント、スポンサーに押えつけられ、雑文業にうつれば、同じ活字ならば、やはり小説家が一枚上に見える、どんなところにおかれても、自分を偽らず、精いっぱいに生きることのできる人もいるだろうけど、ぼくはついおもねりへりくだってしまい、その不満がしだいによどんで、その場がいやになる。

そして、小説家になるには、直木賞をとらねばならぬ、そのためにはあまりTVにでるなといわれて、TV出演もひかえたし、雑文もやめて、いかにも小説一筋といったイメージをつくるよう努力した。口では、「別に、いいじゃないか、TVのなにがわるい、それまでしてもらわなくっても」いきがっていたが、ぼくは身のふり方を、小心にとりつくろい、そのあらわれは、たとえば、バアで直木賞選考委員の方に、ばったりあうと、まったく存じ上げないのに、ひょいっとお辞儀してしまうほどだった。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年2月号「文士劇初出演の記」より)

 野坂さんは、当時のことを手をかえ品をかえ、何種類も、何作品ものなかに書いています。おおむね、「受胎旅行」で第57回直木賞(昭和42年/1967年上半期)候補になるまで、本気で自分が直木賞と関係するとは思っていなかった→一度候補になると、やたらとりたくなった→テレビ出演を控えるようにした→次の第58回(昭和42年/1967年下半期)で直木賞を受賞した。っていう流れです。

 といったって、村上玄一さんほどの情熱がもてればいいんですが、野坂さんの全著作はとうてい読めていません。『マスコミ漂流記』『新宿海溝』『文壇』あたりの記述を参照するにとどまります。

 とくに、このあたりのことに、いちばん筆が割かれているのが『文壇』です。野坂さんが候補になって落ち、半年後にとるまでのあいだにも、テレビと直木賞のことが、いちいろ出てきます。

「選考委員の川口松太郎は、落した理由の一つとして、ぼくに本気で小説を書く気があるのか、疑わしい旨を述べていた。TV番組を持っている、もともといかがわしい存在、「小説を書く気持」の有無を問われれば、あるとしかいいようはないが、まだこれが小説になっているのかどうか、疑問が残る、

(引用者中略)

直木賞候補、落選、この理由の一つにTV出演があるらしい、読売TV、末次摂子に、それとなく降りることをほのめかし、末次も編集者出身だけに、ぼくの気持を推察、

(引用者中略)

八月末、TV司会辞退を申し出た、末次は快く了解、(引用者中略)直木賞のためにTVをやめる、両者に何の関係があるのか、少し抵抗感はあったが、とりあえず受賞しておく、父が喜ぶだろう、親孝行で自分を納得させた。(野坂昭如・著『文壇』より)

 似たようなことが『新宿海溝』にも書かれています。『文壇』では「両者に何の関係があるのか」という部分が、こちらではこう表現されています。

「前回の選考に当って、委員の一人は、庄助はTVになど出演し、本気で小説を書く気があるのかどうか、疑わしいと述べていた、べつに関係はないだろうと考えたが、とりあえず直木賞が欲しい、庄助はあっさりTVをやめた、」(野坂昭如・著『新宿海溝』「第六章 銀座トラフ」より ―初出『別冊文藝春秋』142号[昭和52年/1977年12月])

 直木賞とテレビ。ほんと、関係なんてないんじゃないでしょうか。

 まず、じっさいに記録として残された第57回の選評を読んでみますと、選考委員は11人いて、大佛次郎さんは欠席したので、選評を書いたのは10人。野坂さんがテレビに出ているからうんぬん、と書いたのは、たったの2人しかいません。川口松太郎さんと松本清張さんです。

 そして二人とも、選考会のなかでは、そうとう野坂さんに好意的な委員でした。この人たちを「野坂を落とした」戦犯として糾弾するのは、まったく失礼なくらいです。

 ずいぶんと野坂作品を褒めています。松本さんなどは受賞作に推してさえいるんです。

 二人とも全文は長く、主眼は当然、野坂作品をどう読んだか、が中心です。テレビがどうたら、なんてことは付けたしにすぎません。

「テレビタレントの真似であったり、プレイボーイを自称してひんしゅくさせる言動があったり、人生を茶化している態度に真実が感じられない。真剣に取り組めばいい作家になる素質を持っているだけに次回作を期待する。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号 川口松太郎選評より)

「よけいなことだが、テレビなどの雑業を整理し、新フォームの小説開拓に専念されることを望みたい。」(同号 松本清張選評より)

 この部分だけを取り上げて、「こいつら、バカだから、テレビに出ていることを理由に落としやがった」と見るのは、さすがに酷でしょう。野坂さんの回想(というか自伝小説ですか)だって、そうだ、別に関係はない、でも直木賞がほしくてテレビ出演を控えたのも、そんなささいな一文ですら気にするほどの小心者だからなんだ。……という自画像が描かれているにすぎません。

           ○

 そりゃそうです。「受胎旅行」一篇でいきなり授賞はないですよ、いくら何でも。

 すでに新人作家として売り出して、各誌に小説を発表しだしているのに、なぜか『オール讀物』に載った、小品と呼んでもいい50枚にも足りない一作が予選を通過。明らかに文藝春秋の予選委員たちの、自社びいきな候補選出でしかないでしょ。

 野坂昭如といえば、テレビやラジオやその他で、いかがわしさでのし上がってきた黒メガネタレント、すでに多くの人に知られる存在でした。これを受賞作に選ぶほど、直木賞は「単なる話題づくり賞」じゃありません。

 「受胎旅行」なんて小説で、受賞できるわきゃない。もちろん野坂さんだって、そんなことはわかっています。

「直木賞決定の直前というものは、なかなかおもしろいもので、新潮社が短篇集のタイトルを「受胎旅行」にしたとなると、「うむ、新潮は、野坂ノリか」としたり気にうなずく方や、また、銓衡委員諸先生の胸のうちなるものが、嘘か真か伝えられてくる。はじめは、まるで気にしていなかった、つまり、直木賞の作品としては、いかにもお手軽な小説だから、あきらめていたのだが、「何某先生は、おたくを推すらしい」などといわれると、もう一度、受胎旅行を読み直し、すると、われながら、ユーモラスで人間味あふれた作品に思えて来たりする。」(平成27年/2015年10月・幻戯書房/銀河叢書 野坂昭如・著『マスコミ漂流記』より ―初出『小説現代』昭和47年/1972年1月号~昭和48年/1973年4月号)

 『文壇』でも、「受胎旅行」の欠点は川口松太郎にぐだぐだ言われなくなって、本人もわかっている、落ちて当然だ、と書かれています。

 受賞直後に、『毎日新聞』に発表した文章でも、

「前回に較べ、このたびえらばれた「アメリカひじき」「火垂るの墓」は、自分なりに納得できるものだったから、候補となって、自信とはことなるけど、一種の安心感、はれがましい舞台に立たされることの、とまどい、身のすくむ思いはすくなく、当選の言葉にも、しごく素直によろこべた。」(『毎日新聞』昭和43年/1968年1月30日夕刊 野坂昭如「焼跡闇市派の弁 直木賞を受賞して」より)

 と吐露していて、つまりは「受胎旅行」は、自分でも納得できる出来とは言いかねる候補作だったわけです。こういうものを、あえて受賞作に推さずに冷静に見送ることのできた選考委員の人たち、さすがですね。と思うんですけど、「受胎旅行」落選に関して、あまりそういう評判を聞かないのは、不思議です。

 それで、「テレビへの出演が直木賞の選考に差し支える」なんちゅう風説の件に戻りますと、野坂さん自身もあまり信じていなかったはずなのに、どうしてそんなウワサ話に乗っからざるを得なかったのか。ということが『文壇』に書かれています。

 野坂昭如を直木賞受賞者にした立役者、講談社の大村彦次郎さんと、文藝春秋の豊田健次さん、この二人がいたからです。

「ぼくも二人(引用者注:大村彦次郎と豊田健次のこと)を観察、戦後がさつな明け暮れを十年近く経てあげくのラジオ、TV、つい身についたいい加減、出鱈目、傍若無人な言動をつつしむべく努力、編集者と同時に、処世の見本。

(引用者中略)

水口(引用者注:水口義朗こと)を通じ、大阪読売TV、「野坂昭如ショウ」、週一回出演の話が持ちこまれた。(引用者中略)一回の出演料十万、月四十万。この収入があれば、雑文いっさいから手を引き、小説に専念できる。ただし、大村、豊田は極端な電波業界嫌い、午後の主婦向けワイドショウ司会など持ち出したら、たちまちソッポ向かれる、雑文にさえいい顔はしない。」(『文壇』より)

 大村さんのような部外者が何を言おうが、気にする必要もなかったはずですが、豊田さんまでが「電波業界嫌い」だったと言っています。選考委員の好みをすべて把握している(かのような雰囲気を出す)文春社員たちから、テレビに出ていると委員たちに印象がよくない、などと吹き込まれたら、そりゃあおれだって、小心者だ、ウワサにおびえるに決まっているだろ! ……というような展開です。

 まあ、文春の人たちが、選考委員の意向にくわしいのは当然かもしれません。でもけっきょくは、委員たちの言動から臆測・分析した結果を、野坂さんに伝えているだけの二次情報。編集者のことも「観察」していた野坂さんいわく、豊田さん自身が、あまりテレビ・ラジオ業界との掛け持ちにはイイ顔しなかった、といいます。「テレビに出ていると印象がよくない」説には、まわりの編集者たちの感覚・感想・好悪もずいぶんとまじっていたんじゃないでしょうか。

 直木賞のイメージは、選考委員や受賞・候補作家たちだけで、つくりだされるものじゃありません。まわりの人たちが言い交わす(真偽不明なアヤしい)噂バナシもあります。……ありますっつうか、そっちのほうが、けっこうな比重を占めています。いまの直木賞を考えれば、想像がつくとおりです。思い込みだろうが、ねたみそねみからくる珍妙な批判だろうが、それら全体をひっくるめての「直木賞」です。べつに問題はありません。

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