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2015年12月 6日 (日)

利根川裕は言われた、「直木賞としては物足りない」。(昭和44年/1969年4月)

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(←書影は昭和41年/1966年10月・筑摩書房刊 利根川裕・著『宴』新版)


 古今東西、テレビラジオに出て広く知られるようになった作家、っていうのはたくさんいると思いますが、利根川裕さんはその代表的なひとり、と言ってもいいんでしょう。

 奇をてらわない落ち着いたおじさん。の印象が強い(?)利根川さんですが、当然その来歴もことさら派手ではありません。と言いつつ、地味でもありません。

 大学生活が終わるまぢかに、亀井勝一郎さんチに通って弟子入りを志願。とくに深く考えず大学院に進んだものの、途中から都立上野高校の社会科の先生となって、結核による3年の病気休養をはさみながら、まじめに奉職、30歳をすぎた昭和34年/1959年に、亀井さんに誘われるかたちで中央公論社に中途入社して、編集者として活動することになります。

 翌昭和35年/1960年には、かつて同僚だった保健体育の先生と結婚。お仕事のほうもメキメキやって、臼井吉見さんの「安曇野」が『中央公論』に載るきっかけをつくったんですが、その臼井さんとのやりとりのなかで、なぜか自分も小説を書いてみることになり、できたのが「宴」。臼井さんの肝煎りで筑摩の『展望』に短期連載され、まだ他社の編集者だったものですから「糸魚川浩」のペンネームを使用、昭和41年/1966年に単行本化されました。

 すると、これがけっこう売れまして、直後、筆で立つことを決心して退社。『宴』のほうも本名の「利根川裕」作として新版を再出版し、改めて作家デビューを果たします。39歳のときでした。

 その後は、亀井勝一郎論を『亀井勝一郎 その人生と思索』(昭和42年/1967年・大和書房刊)としてまとめたり、『北一輝 革命の使者』(昭和42年/1967年・人物往来社刊)と堅い評論も出せば、小説『幸福の素顔』(昭和42年/1967年・集英社)も上梓する。

 さらには、かつて有馬頼義さんが言ったような「一流文芸誌」にだって、さくっと登場。「館」(『新潮』昭和42年/1967年2月号)であるとか、「「ゆめ」の代役」(『オール讀物』昭和42年/1967年11月号)であるとかを発表し、着実に地歩をかためていたところに、直木賞、お得意のチョッカイを出すことになるのです。

 第60回(昭和43年/1968年・下半期)と第61回(昭和44年/1969年・上半期)。『オール讀物』と『中央公論』に載った作品で、2度連続、利根川さんは直木賞の候補に挙げられました。

 しかし選考会では酷評が相次ぎました。

「豊田穣氏の「空港へ」は、欠点のつけようのない作品だが、直木賞としては物足りない。(引用者中略)利根川裕氏の「糸魚川心中」は、豊田氏と同様のことが言える。」(『オール讀物』昭和44年/1969年4月号 第60回 村上元三選評より)

「直木賞向きでなかったようだ。といって、芥川賞の候補になり得たかというと疑問がある。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号 第61回 源氏鶏太選評より)

「「オール讀物」に書くときは違って、どうしてこう読みづらい文章で書くのだろうか。」(同 第61回 村上元三選評より)

 編集者あがりで文学を気取っているという、よくいる書き手による、よくある凡作……みたいに扱われ(たのか?)、のちに選考会で大絶賛されて受賞する先輩・綱淵謙錠さんなどと比べると、好対照をなすような落選ぶりでした。

 で、その綱淵さんに言わせると、利根川さんという方は、

「一口でいえば才人だ。それが長所でもあり、また短所として彼を辛くしている。」(『週刊現代』昭和59年/1984年6月9日号「にんげんファイル 利根川裕」より)

 ってことらしいんですが、直木賞がどうしたこうした、などというセセコマしい世界とは別のところで華々しく注目されることになります。昭和51年/1976年のことです。

 「作家で初めてラジオ・ワイド番組を司会する」(『読売新聞』昭和51年/1976年4月3日「人間登場」より)。……と、TBSラジオ平日朝7時40分~9時15分の「おはよう!利根川裕です」のパーソナリティーに抜擢されちゃうのです。利根川さん49歳。

「「しかしあくまでも小説を書くことが主目的で、ラジオを引き受けたのも世間への間口を拡げることによって、作品の拡がりと深みも加えられるのではないかと思ってのことです……」

 あくまでも小説家利根川裕であることを強調した。」(『週刊現代』昭和51年/1976年4月29日号「話題人間告知板 「書くのも喋るのも、同じことですよ」」より)

 とわざわざ言っている(言わされている)のは、作家として行き詰ったから芸能の世界に転身すんの? みたいにオチョくられていたからかもしれません。

 まあ、いい大人ですから利根川さんも、やたらハシャいだりしないし、逆に憤然としたりもしませんでした。意固地に作家業に執着するわけではない、与えられた仕事を、ただ全力でこなす。いつも安心感・安定感たっぷりの利根川裕像、といってもいいでしょう。

 それでラジオの冠番組をもったときにも、強調されていた「オレは作家なんだ」という姿勢や発言。以後も、基本的なスタンスとして継承されていくことになります。

 なにしろ利根川さんは、このあと何年にもわたって、「あのひと作家っていっているけどさ、何を書いてるの、読んだことないよ」、っていう「タレント作家」または「作家タレント」に対するありがちな反応を真正面から受けつづけることになるんですが、これはもうご存じのとおり、昭和55年/1980年にテレビ朝日で「トゥナイト」が始まり、まさかの(?)人気番組にのし上がってしまったからです。

 作家にしろ大学の先生にしろ番組キャスターにしろ、何かになろうと思ってやってきたことはない、ただ生きてきただけだ。……と利根川さんは言い、ほんとうにそうだろうなと思います。自分でも自然体だと分析し、またそこが魅力だとも評価されました。

「世間のごく平均的なおとなとしての反応を、ということを繰り返して強調する。

(引用者中略)

「「このトシ(五十四歳)になって、そんなにムキになって驚くほどのことはそうはないわけですよ。でも距離を置けばシラけるだろうし、近づき過ぎれば芝居じみますしね」」(『朝日新聞』昭和57年/1982年2月12日夕刊「たれんと模様 作家活動にどう影響」より)

 大変まっとうです。文句のつけるところがありません。

           ○

 ただ、本人がまっとうかどうかに関係なく、観ている側にさまざま作用を及ぼすのがテレビの宿命。なんでしょう、おそらく。

 番組がはじまって4、5年目。早稲田大学に招かれて講師をつとめたときには、日本の「文学論」なんちゅう面白くもなさそうなテーマなのに、五百人キャパの大教室に毎回、立ち見が出るほどの人気ぶり。

 旧制新潟高校の寮でいっしょで、のち武庫川女子大学に勤めた安田武さんなどは、

「私の高校の寮には、綱淵謙錠さんや丸谷才一君、利根川裕君などといった、直木賞や芥川賞などで、そのご、有名になった人がいたが、およそ、受験勉強などするような日常態度ではなかった。」(『繊維製品消費科学』昭和62年/1987年7月号 安田武「アメリカの大学の内幕(3)」より)

 と回想。直木賞や芥川賞をとって有名になった人と、ならび称される位置に置かれています。おそらくは、テレビに出て、名と顔(だけ)が知られる存在だったからです。

 さらに、番組も10数年つづけて、「トゥナイトの利根川」として定着してきますと、『マルコポーロ』のように「利根川裕さんって作家だったの?」ということをテーマにした立派な(?)コラム記事までお目見え。

「利根川裕さんといえば、トゥナイトのキャスターとしてあまりに有名だが、彼の正式の肩書が「作家」であることは意外に知られていない。ましてや、その作品を挙げろといわれて答えられる人は、文学通でもそうはいないのではないだろうか。」(『マルコポーロ』平成5年/1993年12月号「利根川裕さんって作家だったの?」より)

 トゥナイト時代だって、利根川さんはほうぼうの雑誌に小説・エッセイ・評論などの原稿を書き、本業の作家もつづけていました。しかし、そんなもの、売名の点では圧倒的にテレビのほうが勝つのは、当たり前といえば当たり前で、テレビでしか利根川さんを知らない人たちは、その「作家」という肩書きを、アクセサリーの一種だと感じていたんでしょう(たぶん)。

 それがイヤになった、というわけではないらしいんですが、視聴率のよかった番組のキャスターを、平成5年/1993年みずから降板。「もう一度活字の世界に専念したい」「私はやはり活字信仰を持っているので、そこで自己表現をしてみたい」(『週刊文春』平成5年/1993年12月16日号「ぴーぷる」)と語って去り、もうこれからも出る気はない、と書いたりしました。

 しかし、やはりテレビからいなくあったあとも、利根川さんを語る際に「トゥナイト」というのは外せない履歴となりました。あるいは、ひとりの作家にとっての代表作、にも匹敵するほどの業績、と言っていいかもしれません。

「ふりかえって、十三年半も続いた『トゥナイト』をはじめとして、二、三のレギュラー番組を持っていたのを通算すれば、二十年あまりになる。大学教師二十五年と、ほぼ重なってやっていたのである。

パーティなどで、わたしをテレビ屋さんと思って話しかけてくる人がある。万年講師のセンセイと思う人もある。元編集者扱いする人もある。わたし自身はこれでも、もの書きと自負しているが、大手をふって歩くほどの仕事もしていないのだから、金看板にならないのは、仕方ないか。」(平成17年/2005年9月・右文書院刊『利根川裕のじつは、じつはの話』所収「先生の傷心」より)

 自負はあるけど謙虚でもある。てらいのない、ふつうな感覚こそが、利根川さんのいいところだと思います。

 じっさい、利根川さんの履歴を紹介しようとしたとき、「トゥナイト」のことは触れざるを得ません。処女作の『宴』だって、無視できないところです。しかし一般的に、直木賞候補になったことは、ほとんど出てきません。そりゃあ多くの人にとっても、また本人としても、どうでもいいことだから、でしょう。ええ、直木賞はその程度の扱いでいいと思います。ちなみに、そのどうでもいいことを履歴に書いている変わり者は、ウィキペディアか直木賞のすべてぐらいなもんです。

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