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2015年11月22日 (日)

北原リエは言われた、「新人賞受賞の記事が、渋澤龍彦の訃報より大きいなんて、世の中狂っている」。(昭和62年/1987年8月)

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(←書影は平成1年/1989年10月・中央公論社刊 北原リエ・著『青い傷』)


 北原リエさんには、直木賞に関するエピソードなんてありません。

 ないんですけど、「芸能人×文学賞」の話題となれば、どうしたって触れなくてはいけない超重要作家です。そりゃ無視できないですよね。と思って、かなり強引に直木賞と結びつけてみます。

 まずはデビューの経緯です。北原さんが原稿を送った新人賞には、最終選考委員が3人いました。これが、べつに大衆読み物系の雑誌でもないのに、3人とも直木賞の受賞者。以下、『別冊婦人公論』昭和62年/1987年秋号[10月]に掲載された、それぞれの北原作品評です。

「描かれている世界とそこで生きている人間が、比較的わかりやすいという点が評価されて、受賞作となりました。(引用者中略)表現に強引なところがあるのが気になりましたが、受賞が一つのきっかけとなって、大きく飛躍して下さることを期待しています。」(平岩弓枝)

「文章が全体に生硬で荒く、とくにラストの意識を失ってからの部分は蛇足で、全体の調子を崩してしまった。しかし女主人公がポルノ女優であることに、恥じらいや悔いをもたず、むしろあっけらかんとしているところが、ともすればべとつくところを救い、新鮮でもあった。」(渡辺淳一)

「審査の段階では、名前だけしか知らされていないので、北原さんがどういう経歴の方なのか一切判らないし、よしんば判っていたとしても、作品の出来具合にはあまり関わりはないのではなかろうか。

 つまり、北原さんがこの作品を、ご自身の経験に基づいて書いたものか、或いはこういう世界に深い関心を持って取材しながら書いたものかは、読む者にとってどっちでもいいことである。ただ私は、ポルノの内幕やディレクターの生活など、全く未知の世界なので、この作品はひどく新鮮だった。」(宮尾登美子)

 宮尾さんの評は、まったくまともです。しかし当然、文学賞作品のよしあし、などに興味があるひとはごく稀ですから、受賞者が発表されてからの展開は、言わずもがなの想像されたとおりでした。

 女流新人賞、当時は『別冊婦人公論』が機関雑誌でしたけど、これをとったところで、すぐに満足できる機会が与えられるわけでもない、ゴマンとある並の新人賞のひとつだったんですが、「にっかつロマンポルノ」の威光はダテではなく、一躍、注目の光を集めてしまいます。

 単に芸能人が小説を書いたからといって騒ぐ時代は、あっと言う間に過ぎ去り、もっとヒトメを引くような履歴でなければジャーナリズムは飛びつかない。などと言われたのが、1980年代後半です。ここで北原さんも、数か月前に直木賞をとった例の人物が引き合いに出され、

「幸いにして女流作家への道が開かれれば、これまでの普通でない体験がすべて強力な武器として活用される。塀の中とか、六本木ぶらさがりとか、異常体験が持てはやされる時代。ポルノ女優から作家への転進は大いに話題を呼ぶことだろう。」(『週刊サンケイ』昭和62年/1987年9月10日号「内藤国夫の取材現場」より)

 ベストセラーをぶっぱなした安部譲二さん、何やかにやで直木賞に大量のマスコミを呼び集めてくれた山田詠美さん。っていうビッグな二人と並び称されてしまい、北原さん、まだ一つ賞をとっただけで本が売れたわけでもないのに、過剰とも言えるほどの期待を(好奇の視線を)受けることになりました。とくに北原さんのデビューした昭和62年/1987年は、〈女子大生〉鷺沢萠さんがかすむほどに(いや、かすんじゃいないか)、〈吉本隆明の娘〉吉本ばななさん、〈福永武彦の息子〉池澤夏樹さん、〈お天気キャスター〉松本侑子さん、〈銅版画家〉服部まゆみさん(……ってこれはちょっと違うか)などなどが新人賞をとって登場。百花繚乱、というのは言いすぎでしょうが、テレビから週刊誌、ゴシップ誌まで、絵となり記事となる人材たちがわんさか生まれて、まんまと盛り上がってしまいます。

 ここで北原さんが特異だったのは、話題性バツグンというのに加えて、「出版界の斜陽産業」と野次られる中間小説読物誌から、多大な望みをかけられ、ビシッとはまったことです。

 まず最初に、猛烈アタックしてきたのが、角川書店の石原正康さん。いきなり『月刊カドカワ』に短編連載が始まります。角川では、その後も『野性時代』に連載を持ちました。

 直木賞のおひざもと『オール讀物』も、手をこまねてはいません。「'88エンタテインメント大フェア」と称して、各種文学賞を受賞した人たちの新作短編を並べた折りには、吉川英治文学賞・永井路子、直木賞・阿部牧郎、日本推理作家協会賞・小杉健治、江戸川乱歩賞・石井敏弘、サントリーミステリー大賞・笹倉明、吉川英治文学新人賞・清水義範、オール讀物推理小説新人賞・宮部みゆきといった、エンタメ誌に載ってて違和感のない受賞者たちと肩を並べて、女流新人賞受賞者として、北原さんを堂々(?)起用します。

 いいや、北原さんの舞台はそれだけにとどまりません。『小説すばる』にも書いちゃう、『小説現代』にも登場しちゃう、『小説新潮』にも迎え入れられちゃう。と、直木賞はだいたいここら辺に書いている人が候補になる、と言われた雑誌群に、軒並み小説を発表することになります。北原さん、昭和62年/1987年秋にデビューしてから平成2年/1990年、わずか3年足らずのあいだのことでした。

 恵まれたデビューと、恵まれた環境のなかで、「ふん、たぶん一発屋だろう」と見られた状況から脱却し、にわかに有力新人として存在感を発揮。この時期の北原さんは、「ポルノ女優の書いたもの」っていう読者の先入観を、逆に利用してやろうじゃないのふふふふふ、という強さを見せているのがイイところで、

「自分の体験でも、すべてありのままでは、小説としてリアリティが無くなります。フィクションの部分も当然入ってきます。ただ、私の経歴がロマンポルノから始まっていますので、そういう私を世間の人たちが見る目がありますし、それを想像する私がいる。書く立場では、そういう世間のイメージ――アバズレみたいな女――を逆に利用し、私の行動をふくらませて、魅きつける材料に使っているところもありますね。」(『週刊現代』平成3年/1991年9月14日号「げんだいライブラリー 著者インタビュー 『あのひとの行方』」より)

 まったくエロチックでも官能的でもないのに、作者の名前で官能性をにおわせる、北原作品の独自性がきわ立つ仕掛けです。

 はっきり言って、このまま書き続けていても、何かの文学賞をとったりしたでしょうし、作家としてさらに華を咲かせただろうな、と思います。

 デビューに立ち合った渡辺淳一さんも言っていました。

「北原さんの作品はこれ以後、何作か読んできたが、いつも思うことは、埋蔵量は豊富な作家であるということである。その多くは体験によるのかもしれないが、それを単なるストーリーとせず、自らの「意識」という内的なものに包みこみ、そこからもう一歩深いところへ踏みこもうとする態度が、とくに注目される。」(平成4年/1992年8月・中央公論社/中公文庫『青い傷』所収 渡辺淳一「輝く鉱脈」より)

 とりあえずは自分の体験や見聞を題材とした小説をぞくぞくと書く。しかしもっといろいろと書けるはずだ、と思われていました。

           ○

 その北原さん、文庫化を除いて、これまでのところの最後の一冊がエッセイ集『かがやくとき』(平成4年/1992年11月・廣済堂出版刊)です。

 自身が女流新人賞を受賞したときの感想として、

「ポルノ女優から作家に転身した人間は、とかくめずらしいらしく、中央公論女流新人賞をとったときは、はだかの写真がたくさん新聞にのった。中央公論という堅いイメージと、ポルノというくだけたイメージが、アンバランスでおもしろいなあ、と他人事のように思い私は記事をながめた。

その日、ちょうど渋澤龍彦氏が亡くなった記事が、私の記事の下に小さくのっていて、それを見た渋澤龍彦氏についてちょっとうるさい父が、電話をかけてきて、どうして私の新人賞が、渋澤龍彦氏の死よりも大きくのるのか、世の中、狂っている、と言ったのをよく覚えている。」(「ある実感」より)

 と書いたりして、常に冷静にものごとをとらえる北原さんの姿が、存分に味わえます。

 いや、あれですよ、渋澤さんの訃報が大きく載るような世の中こそ、狂っているんじゃないんですか。と思うところですけど、そこはいいとしまして、『かがやくとき』という書名。表紙、トビラ、章トビラ、あとがきと、北原さんの写真が時おり挟まれている。とくれば、華やかで妖艶で未来への希望に満ちあふれている! みたいな色が出ていても不思議じゃないと思うんですが、全篇、そこはかとないもの悲しさが漂っているんですよね。

 何がそんなにもの悲しいのかな。と思えば、やはりこの一冊、ほぼ北原リエ作家引退宣言、と読めなくもない内容になっているからでしょう。最後の「ある実感」の章は、いきなり、

「この数ヵ月、私は、何もしたくない病、にとりつかれていた。

(引用者中略)

四年前、女流新人賞を受賞して少しの間は、ワーイ私は作家なんだ、と自分や書くことに酔っていられたのだけれど、その酔いも冷めて、そのうちにふと気づくと、何を書きたいのか、なんのためにこんなアクセクしてきたのか、わからなくなってしまった。」(「何もしたくない病」より)

 と始まります。「最近、小説が書きたくなくて、書きたくなくて。」(「がんばっているひと」)と吐露し、「私、そろそろ、結婚するかもしれないな、と。そしたら東京を離れるかも……。」(「そろそろ結婚……」)とつぶやき、自身の20代から30代を振り返るところでは、

「私はようやく肩の力を抜きはじめ、生きはじめたのかもしれない。(引用者中略)

どんなひとにも、節目というものがあって、私の内側で、何かが大きく変化しはじめた気がする。」(「ある実感」より)

 などと思わせぶりな様子。そして最後の「一九九二年八月二十五日」では、理学博士の肩書きをもつ男性と結婚し、向こう1年間アメリカで暮らすことが宣言されています。

 この結婚が、北原さんの内側を変化させた「節目」だったんじゃないか、とは容易に想像がつくところなんですが、じっさいこれ以後、新しい小説の出版は、ぱったりとやみました。

 小説を書かなくなった理由など、もちろん知るわけもないことで、単に各誌から賞味期限切れだと思われて注文がなくなっただけかもしれません。北原さん自身、よおし小説を書いてみようと思ったのは25歳になってからで、その理由も、

「小説も、歌手で売れなくなって困ったから書き始めた。レコードは売れない、営業は減る。そこでお金がなくてもできる仕事っていうわけで始めました。書かないと自分が成り立たないというわけで、3年ぐらいは死にもの狂いでした。」(『宝島』平成3年/1991年10月9日号「書いた人にきけ!」より)

 と語っています。書くこと以外に自分の道が見つかれば、サッとやめても不自然ではありません。しかたありません。

 なので「もの悲しい」などと言うのもどうかは思いますが、なにせ北原さんの作家デビュー(と周辺の盛り上がり)は、ポロッと小説を発表しただけとは違う、文学賞ならではの楽しさがあふれていましたからね。直木賞のほうにも、お裾分けしてほしかったなあ、と思っちゃうわけです。って、『文藝年鑑』にはまだ北原さんの名前が載っているので、またいずれ復活があるかも、と期待しているんですが。

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