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2015年9月の4件の記事

2015年9月27日 (日)

三益愛子は言われた、「別の男から流行作家にのりかえた世渡り上手」。(昭和13年/1938年5月)

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(←書影は昭和37年/1962年3月・講談社刊『長編小説全集17 川口松太郎集』〈「生きるという事」収録〉)


 今回はちょっと別の角度から行きます。

 直木賞といちばん最初にからんだ芸能人ってだれですか? と、会社の同僚や、学校の同級生、コンビニの店員などに質問された経験は、日本人ならきっとあるはずですが、そこで三益愛子さんの名を出せないと軽蔑されてしまう。……かもしれない、っつうぐらいに、直木賞とはべったりの超重要芸能人、三益さんです。

 いま、うちのブログは、ことさらに「芸能人と直木賞」などというテーマでやっています。だけどそもそも直木賞は、芥川賞と比べて芸能関係者との結びつきが異常に強く、直木賞を語るうえで芸能の話題は欠かせない、とさえ言われています。その代表的な事例が、いきなりの第1回、昭和10年/1935年に発生しちゃっていたわけです。

 第1回の直木賞に選ばれたのは川口松太郎さんでしたが、当時は、小説家としてだけじゃなく、「芸能の人」として存在感がありました(当時、だけじゃなくその後もずっとですね)。

 直木賞を贈られたときにも、

「受賞の時に菊池寛が、

「君は雑用の多い男だが、今後は作家一筋に精進して他の仕事には手を出さぬように」

と釘をさされている。」(昭和56年/1981年8月・中央公論社刊 川口松太郎・著『八重子抄』「第五章」より)

 なあんて逸話が残るぐらいに、いろんなことやりたがり屋さん。作家以外に雑用が多いとか、菊池親分、あんたにだけは言われたかないよ、と言い返してやればよかったと思いますけど、たしかに川口さんは、小説だけに専念できず、演劇人であり、その流れから映画人でもありました。当然、芸能人たちとはツーカーの仲。といったわけで古川緑波一座の看板女優、三益さんとくっついちゃうことになります。

 このとき川口さんは、すでに妻子持ちで、プラトン社の編集者だったころに大阪新町で知り合った人気舞妓の静子こと、本名・照さんと結婚して、娘の一女さんもありました。いっぽう三益さんのほうは、俳優の中野英治さんと恋愛関係まっさいちゅう。しかし、この二人の別れ話が発展したのが昭和9年/1934年から昭和10年/1935年ごろだといい、中野さんのマネージャーをしていた川口さんが、仲裁役に入っていったところ、ミイラ取りがミイラになって、あれよあれよ、と結ばれていった。と三益さんのお仲間、清川虹子さんが回想します。

「中野さんと三益さんの別れ話のときに仲裁に入ったのも川口さん。『川口松太郎って、ヤなやつ。私たちを別れさせようとしてんのよ』と三益さん、プンプン怒っていたのに……ふたりは同棲を始めます」(『週刊大衆』平成10年/1998年10月12日号「清川虹子の本音でいくわよ!」より)

 そうです、どうやらこれが昭和10年/1935年ごろのことらしいんですね。川口さんがずーっとあとになって書いた『愛子いとしや』(昭和57年/1982年6月・講談社刊)巻末の「三益愛子―舞台・映画・テレビ出演一覧と略年譜―」では、三益さんと川口さんが結婚した年、と明記されることになる昭和10年/1935年。この年の川口さんが、大変重大な局面を迎えていたことは、まったく言わずもがなです。

 川口さんは昭和2年/1937年ぐらいからずっと、小説家の道をめざして、やってきていました。

(引用者注:大正14年/1925年に)プラトン社をやめたあと私は本当の流浪時代で生活を支える仕事もなく、取りとめもない雑文書きのみじめな暮しをしていた。生涯のうちで最も苦労した時期だが、然しもう勤め人になる気はなかった。(引用者中略)本当は純粋に文学と取り組みたいのだが、それで生活を立てる自信はない。文学に殉ずるといってももう間に合わないし、生活の実際を考えて大衆小説の勉強を始めた。(引用者中略)どうやら物になりかけたのは昭和五、六年だった」(昭和58年/1983年11月・講談社刊 川口松太郎・著『久保田万太郎と私』「「机」恐怖症」より)

 「森下与作」といった筆名を使って、雑文書きで糊口をしのぎつつ、映画の脚本、監督、演出なども手がけながら、それでも何とか小説家として売り出したい、と思っていたそうです。昭和6年/1931年から昭和7年/1932年にかけて『講談倶楽部』に断続的に発表した「女優情艶史」は、好読物として読者に受け入れられたようなんですが、

「これの連載中、川口さんから貰った手紙がある。それには「お前さんひどい奴だ、もう女優物語は嫌だ、早くやめさせてくれ、そして小説を書かせろ」ということが書いてある。川口さんの心境はまさにこれであった。」(昭和47年/1972年1月・青蛙房/青蛙選書 萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「心憎い川口松太郎」より)

 と編集者に売り込みをかけ、昭和7年/1932年、『オール讀物』に持ち込んだ「牛肉問答」が掲載されたときには、おいおまえ菊池寛さんが褒めていたぞ、と人づてに聞かされて、やる気のテンションうなぎ昇り。花柳章太郎の新派の仕事に携わるいっぽうで、大衆読物誌にせっせと原稿を売り、昭和9年/1934年には仕事机を新調、昭和10年/1935年が明けたときには「作家生活の板につきたる年となるべし」と念じたそうで(『文藝春秋』昭和61年/1986年8月号 小出一女「出世机」より)、まあだいたいこの年には、「人気作家」と言われても遜色ない状況になります。

 とにかく川口さんは活発でした。どこに顔を出しても物怖じせず、言いたい放題やり放題。自信みなぎる意気軒昂な働きざかり、と言いますか、押しが強くて厚顔無恥のイヤなやつ。直木賞が創設されると聞けば、おれ直木賞ほしいなあ、おれにくれよお、と久米正雄さんや小島政二郎さんにお願いしちゃう臆面のなさに、当然、眉をしかめる人も出てきます。

 川口さん自身、こう回想しています。

「「鶴八」(引用者注:「鶴八鶴次郎」)が直木賞候補になった時には、委員のほとんどが先輩知人ばかりで、そのころの私は小生意気時代だったから、だれからもよく思われていなかったらしい。

「作品はともかくとして川口という人間が気に入らない」

これもあとで聞いた話だが、そんなふんいきで作品よりも人間が論じられてしまった。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊 川口松太郎・著『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より ―初出:『朝日新聞』昭和37年/1962年4月3日)

 うんうん、あの第1回の直木賞選評を覆う、川口松太郎に向けた人格攻撃の嵐。あれは、選考委員が言いすぎなのではなく、ほんとうに川口さんの側に問題があった、ってわけですね。

 川口さんが当時、いかにイヤなやつ呼ばわりされていたか、もうひとつだけ紹介しておきます。『中央公論』の「街の人物評論」コーナーに川口さんに関する記事が載りました。書いたのはペンネーム「武者小平」なる人、その実は、文芸評論家の杉山平助さんです。

「川口の自信満々たること。我々から見てはいくぶん道化てさへ見える、あの鼻の曲つたやうな御面相でも、御自分ではたいした自信ださうだから、余は推して知るべしだ。

(引用者中略)

この松太郎君と最近東宝の○○○○との濡事は衆知の件である。

(引用者中略)

○○にくらべて、川口ははるかに下司である。ちよつと頭脳の働く車夫馬丁が、ザツクバラン主義で、天下何ものをも尊重せず、紳士の面にも痰をひつかけることが出来ると云つたやうなわるく気負つた了簡構へが、心あるものをして、このうす馬鹿野郎! と云つたやうな侮蔑の念を発せしめる。」(昭和12年/1937年3月・亞里書店刊 杉山平助・著『街の人物評論』より ―初出:『中央公論』昭和11年/1936年12月号)

 発表した作品がどうこうより、川口さんという人物そのものが、もう侮蔑のマトでした。

 川口さんいわく、さすがにこの攻撃にはハラワタが煮えくり返ったらしくて、

「飽まで自分(引用者注:川口のこと)を罵倒しなければ気のすまない筆者の態度があまりにも露骨だ、人物評論の題下に、これほどひどく叩きつけられるのも珍しからう。

(引用者中略)

どれほど割引しないで自分を考へても、これほどいやな奴だとは思へない。」(『読売新聞』昭和12年/1937年11月28日 川口松太郎「やつつけられる 「中央公論」の人物評論へ」より)

 と反撃。しかし、当の「武者公平」さん(おそらく杉山平助さん)から、

「自分があれほど厭な奴かどうか、知人の公平な批判にまつ、と君は云つてるが、小生の知つてる限りあの評論は君の「知人」の間でも評判が宜しい。君は或る方面からは、もつと厭な奴だとさへ思はれてゐるのを、小生は比較的に是正してかいたつもりだ。

(引用者中略)

文壇に生きて行くには、天下の人間をすべて敵と覚悟し、どこからでも打つて来いといふ心構へでやつて行け!」(『読売新聞』昭和12年/1937年12月1日 武者公平「壁評論 川口君へ」より)

 とハッパをかけられた態で、要は、おまえはもっと嫌な奴だと思われているんだぞ、と再反撃を食らう始末。

 しかし杉山さんの心配をよそに(?)、川口さんの生意気ぶりは、その後も衰えることはありませんでした。後年、直木賞選考委員を務めることになってもまだ、自分のことは棚に上げて、若い連中に、やたら偉そうな口を叩きまわるもんですから、守旧派の代表みたいに思われて老害扱いされ、さすが川口さんの、まわりに顰蹙される人格は永遠ものなのでした。

 ……って、今日の主役は三益さんのはずなのに、すみません、川口さんのことばっかりになっちゃって。(おそらく)第1回直木賞の直後に川口さんと結ばれた三益さんについては、後半で。

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2015年9月20日 (日)

中山千夏は言った、「二度と直木賞候補にすることもあるまい。静かに小説が書けるだろう」。(昭和55年/1980年7月)

20150920

(←書影は昭和58年/1983年11月・文藝春秋/文春文庫 中山千夏・著『子役の時間』)


 直木賞の(いや、芥川賞も含めた)世界において、芸能人が候補になることで、どっと脚光が浴びせられての盛り上がり。先陣を切ったのはこの人だ、といっても過言じゃありません。

 それまでの「芸能枠」は、ほとんどが、裏カタ色の強い人ばかりでした。そこに正真正銘、表舞台に立ってキャーキャー芸能人扱いされていた人が出現。大旋風を巻き起こして燦然と直木賞史を変えたのが、中山千夏さんです。

 昨年平成26年/2014年、中山さんは『芸能人の帽子 アナログTV時代のタレントと芸能記事』(平成26年/2014年・講談社刊)っつう分厚い本を上梓しました。〈中山千夏〉を扱ったかつての雑誌記事をさまざま紹介しながら、芸能活動をしていた頃の自分のことを語っていくという、書くも書いたりの素晴らしい本でして、これさえ読めば、直木賞候補時代の中山さんのことがすべてわかってしまう! ……とはいかないまでも、中山さんが芸能ジャーナリズムでどのようにもてあそばれていたかがわかる本に仕上がっています。

 もてあそばれたことは、とりあえず措いときまして、本書には「モノ書き」という項目があります。中山さんが芸能人家業からライター業・作家業へと移行していく経過などにも、筆が費やされているのでした。

「歌だけではなく、また、TVタレント時代に始まったことでもなく、芸能人・中山千夏はずっと自分の仕事にさしたる愛着も執着も持っていなかった。むろん、そのつど楽しかったり嬉しかったりはするのだが、底流はあっさりした気分で、淡々とこなしていた。

(引用者中略)

 まったくのところ、自分から一念発起してやった仕事は皆無だった。しかし、文を書くことだけは、ちょっと違った。」(同書「第6章 才女ブス 中山千夏時代がくる!! 7 モノ書き」より)

 ってことで、18歳のときに中山さんみずからが決意して書いた、〈夏村旅子〉名義の脚本(東宝の菊田賞に応募して、最終候補に残ったもの)のこととか、「子役の時間」よりも前に、じつは「たしかに私が初めて書いた小説」として『女性自身』昭和45年/1970年1月10日号に発表した作品の顛末、そういったことがけっこう詳しく紹介されています。

 昭和44年/1969年には、『週刊文春』で名ライター神吉拓郎さんが担当していた「天下の美女」に、中山さんが登場。それを機に同誌の編集者だった鈴木琢二さん、藤野健一さん(ともにのちには『オール讀物』編集長)と仲良くなって、神吉さんの後釜として2年間、コラム執筆の仕事が舞い込みます。

「それにつけても今、曲がりなりにもライターをやれているのは、タクちゃん(引用者注:鈴木琢二)とケンちゃん(引用者注:藤野健一)が蛮勇をふるって、泥縄修業の場を与えてくれたおかげだと思っている。」(同)

 こういった縁から、鈴木さんは、中山さん、もし小説を書いたら一番最初に自分に見せてよね、と約束を交わすことになったらしいんですが、待つこと約10年。矢崎泰久さん、井上ひさしさん、色川武大さんたちが冗談半分本気半分で、「中山千夏に小説を書かせる会」をつくるほどに、なかなか小説を書かない、でも書いたら援軍がたくさん付くことがわかっている状況になって、ついに中山さん、「子役の時間」を書き上げます。これを約束どおりにゲットしたのが鈴木さんで、『別冊文藝春秋』147号[昭和54年/1979年3月]に掲載される運びになりました。

 なにしろ、まわりを囲む連中が連中です。文壇っぽい空気が色濃く漂っている、と言っちゃっていいでしょう。すぐさま、芥川賞がどうだ直木賞がこうだ、と声が挙がる事態になります。

 『週刊文春』は「いずれ芥川賞の声も 中山千夏の小説第一作」(昭和54年/1979年3月15日号)と恥ずかしげもなくエール記事を載せ、中山さん自身も直接、まわりの人が(先輩風、もしくは文壇人風を吹かせて)こういうことをギャンギャン言うのを聞かされました。

「私の小説を読んだその筋(つまり作家や編集者)の知人たちが、これは賞の対象になる、と予想するのを聞いていて、私は半信半疑だった

(引用者中略)

芥川賞直木賞といえば、私でも知っているくらい有名な賞だ。初めて小説を書いて、それが賞の対象になるなんて、そんなうまい話があるかいな、とこれが半疑。知人のひとりは、そりゃ直木賞は無理かもしれないが、芥川賞なら、全くの新人でも門外漢でも対象になるから可能性はある、と言った。」(昭和56年/1981年10月・文藝春秋刊 中山千夏・著『偏見人語』「拾った馬券」より)

 えっ。だれだよ、芥川賞なら可能性はある、とかテキトーなこと言ったのは。『別冊文藝春秋』に載った小説の、どこに可能性があるっていうんですか。0パーセントじゃないですか。

 芸能人が小説を書いた、と聞くと、まあ自分の「直木賞・芥川賞に関する知識」をフル動員して、ここぞとばかり自慢げに下馬評を披露したがる人がやたら出てくる、っていうのは、みなさんご存じのとおりなんですが、中山さんのまわりにいる作家や編集者だったら、当然、直木賞にも芥川賞にも詳しいはず。もう少し、ましな下馬評を言うのかな、と思ったら、この有りさまです。

 中山さんは、「芸能人」というだけですでに注目を浴びる存在でした。さらに中山さんその人が、奔放で快活で、言いたいことを言っては愛されたり憎まれたりしてきた、注目しがいのある人でしたので、話題となれば加速がつきます。そこに「直木賞」なんちゅう、みんなでテキトーなこと言い合っていれば場がにぎわう、「中身なき話題性」の権化みたいなやつが接近してしまいました。

 中山さんも、あることないこと、さんざん言われたそうです。第81回(昭和54年/1979年・上半期)直木賞が決まった直後です。

「噂は、結果が出るや否や、銀座と新宿に集うその筋を駆け巡り広がったという。いわく、中山千夏は落選を知ると記者を招集して敗北記者会見を開き、強気の発言をした。選挙と間違ってるんじゃないか。田中小実昌さんに電話して、「よかったね、私じゃなきゃあなたが取るといいと思ってたんだ」と言ったそうだ、云々。

これを聞いて、やっぱり嫌な奴、とうなずく者もあり、千夏も大事なところでマズイことをしたものだ、と友人甲斐に嘆いてくださる方あり、いずれにせよ、ありそうなこととしてその筋に広まったそうで、日頃の不徳のいたすところとは知りつつも、三日ぐらいは思い出す度に吐き気がした。もうひとりの受賞者、阿刀田高さんはよく存じ上げないけれど、田中さんとは十年位前から知合いで、大好きな人間だ。彼の受賞を聞いて嬉しかったし、田中さんのところへ向かう記者に、オメデトウと言伝もした。それ以上のことは何も無い。」(同)

 中山千夏、落ちたくせに何か偉そうでイヤな女。と反感をくらって、いろいろ言われちゃう立場の人だったことが、よくわかります。その自覚を持ちながら、落選したときのことをエッセイで書いてしまう中山さんって人が、ワタクシは好きです。

 「子役の時間」一発だけでも、中山さんの名前は確実に芸能人×直木賞史に深く刻まれたにちがいありません。しかしですよ。このあと、3期も連続で候補に挙げられてしまい、そのつど、選考会の前から後まで大勢の取材陣を湧き立たせることになりまして、もう中山さんは伝説の直木賞候補者、の高みへと昇りつめてしまうのです。

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2015年9月13日 (日)

西川のりおは言った、「作家として直木賞を狙います」。(平成14年/2002年2月)

20150913

(←書影は平成17年/2005年5月・徳間書店/徳間文庫 西川のりお・著『オカン』)


 このあいだ桂文枝=三枝さんを取り上げました。「直木賞つながりの吉本芸人」を探せば、他にもたくさんいるはずですけど、ここに登場願いますのは、西川のりおさんです。

 出版界(いや、週刊誌界)における西川さんといったら、そりゃもう、カネのハナシ、シモのハナシ、人の悪口。と、三大テーマを使いこなすカンペキなる下衆タレントの王者として君臨し、わざわざ小説なんちゅう辛気くさい世界と関わり合う必要もない人気者です(よね?)。しかし何を血迷ったか、平成10年/1998年に、ひそかにこつこつと原稿用紙のマス目を文章で埋める作業に没頭しまして、400字詰100枚程度のエッセイを完成。これを、第20回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞カネボウスペシャル、という、大賞賞金1000万円をうたい、募集枚数に比較して異常に高額な賞金を設定していた、心あたたまる系の公募賞に応募したところ、これがまあ何と、翌年3月、大賞に次ぐ「優秀賞」に選ばれてしまいます。賞金300万円をゲットしました。

 ははあ、売名と賞金稼ぎのためにゴーストに書かせたんだな、下衆なナニワ芸人がやりそうなこった。と、(やっぱり)疑われたらしく、主催者サイドからはさんざん入念に確認された。なんちゅう、タレント受賞者ならではのエピソードも残っています。

「ホーホケキョイ!のだみ声でお茶の間を沸かせた漫才師の西川のりおさん(47)が、「ヒューマン・ドキュメンタリー大賞」(読売新聞社主催)の優秀賞を射止めた。

(引用者中略)

人をケムに巻くのもお得意のお笑い人である。審査員から、本当に本人が書いたのかどうか、“厳重チェック”を受けたそうで、

「1枚目の内容を聞いてきたと思うと、鋭く76枚目の話を尋ねてきたりで、刑事の取り調べみたいでしたね」。

なるほど記者自身、疑念が一瞬頭をもたげるのを覚えたが、西川さんの右手人さし指には、出来たての痛そうなボールペンだこがくっきり。これこそ確かな筆耕の証である。」(『週刊読売』平成11年/1999年4月11日号「ドキュメンタリーで優秀賞 西川のりお“泣かせ”の筆力」より ―署名:小野寺昭雄)

 このときの選考委員は五十音順に、五木寛之、佐藤愛子、椎名誠、野上龍雄、橋田寿賀子、三好徹。プラス読売新聞社から小谷直道の計7名。第20回(にして最後となった)同賞の受賞作をおさめた『いちご薄書』(平成12年/2000年2月・読売新聞社刊)の巻末には、委員代表として三好徹さんが選評を寄せました。

 西川さんの応募作「オカン」に対するところだけ引用しておきますと、

「優秀作「オカン」の作者は、著名な漫才タレントである。この作品は、題材のユニークさやおもしろさもさることながら、文章もまた達者である。はじめわたしは、いわゆるゴーストライターが介在しているのではないか、と思ったくらいだが、ご本人が楽屋での休憩時間の合間や旅興行で乗り物に乗って移動中に寸暇を惜しんで書いたことを知らされ、感心した。文才というのは、どうやら天与のものであるらしい。

また、この作品の魅力は「オカン」と呼ばれる作者の母親の、つまり浪花女の典型ともいうべき人柄に依存するところが大である。

子が母親をこういうふうに観察し、さらにこのように書き上げることは難しいはずであるが、その難事をやってのけた作者に拍手を送りたい。もし(引用者注:大賞に選ばれた)「いちご薄書」が候補作になっていなかったならば、「オカン」が選ばれていたかもしれない。」(『いちご薄書』所収 三好徹「掉尾を飾る作品」より)

 さらに選考経過によれば、大賞とはわずかの差しかなく、惜しくも優秀賞になったのだとか何とか。そうとうに高い評価だったことがわかります。

 こうして西川さんは、ガラに似合わず(……)、「著名な芸能人が散文作品の公募で賞をとる」、その歴史のなかに燦然と輝く足跡を残すことになったのでした。

 芸能人が原稿を書けばすぐに本になる、というのは、もちろん幻想です。仮に出版できたところで、タレント本のひとつとして他と同様にゴミのように扱われ(……ゴミ、っつうのは冗談ですよ)、世間にきちんと文章作品として受け止められたのか、よくわからないまま「話題」として過ぎ去っていくものです。そういうウヤムヤの展開が、西川さんは嫌だったのかもしれません。はっきりとそうとは言っていませんが、なぜ「オカン」を書いたのか、なぜ賞に応募したのか、を問われたときに、こう答えました。

「執筆のきっかけは、一九九五年にオカンが病気で亡くなってから起こった遺産相続だった。

「兄姉でかなりこじれてねえ。こんなに揉めるんはうちだけなのだろうか? いっそ、包み隠さず家族について話してしまったらどうかと思ったんです」

(引用者中略)

一か月で書き上げ、タイトルは「オカン」に決めた。

 一心不乱に書いた愛着のある作品を、誰かに評価してもらいたい――自分自身を試したくなった西川さんは、「購読していた」新聞社のドキュメンタリー賞募集を知り、早速応募。」(『悠』平成14年/2002年12月号「著者訪問 大いなるオトンとオカン」より ―構成:関原美和子)

 ……といったところで、直木賞はいちおう「フィクション」しか対象にしないので、ヒューマン・ドキュメンタリー大賞受賞者となど交わるわけもありません。直木賞の「正史」だけを見てしまえば、西川さんは何の関係もない人です。

 ところがですよ。交わってしまうんですよね、これが。こういうハナシが何万も転がっているから、ほんと、直木賞の世界ってのは面白いんだよなあ。

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2015年9月 6日 (日)

森本毅郎は言われた、「テレビを捨てて、直木賞をねらえ」。(昭和63年/1988年6月)

20150906

(←書影は平成3年/1991年7月・主婦の友社刊 森本毅郎・著『転勤を命ず』)


 アナウンサー、少し気さくな立場になるとキャスターと呼ばれるらしいですが(ってほんとか?)、このあたりの方は、まず「知的」なことが求められます。芸能界でも、より文化チックな職種です。なかでも、文章を書くのが上手だったり好きだったりすると、エッセイの仕事もたくさん生まれるらしく、そのおひとりに森本毅郎さんがいます。

 いわずと知れた、NHKの朝の顔。人気アナウンサーと目されるにいたった昭和59年/1984年2月に、番組の本番中にいきなりNHKからの退職を宣言して、TBS専属へと鞍替えしちゃうのですが、さあ、一挙手一投足がマスコミから注目されるなか、本は出るわ、TBSでの仕事も堅調だわ。といったところで、平成1年/1989年から小説にも手を染めて、もう押しも押されもしない、「直木賞が囁かれる芸能人グループ」の一員となりました。

 と、紹介するくだりで、わざと言い忘れたことがあります。1980年代後半(から90年代前半まで)のこの時期、森本さんといえば、もうスキャンダルなくしては語れません。語れるわけがありません。

 何つっても当時は、ワイドショーから週刊誌から、森本毅郎一色、というありさま(それは言いすぎか)。知的でダンディーな話題の男が、影ではとんでもない女性関係を繰り広げていたんですってよ奥さん、まあイヤらしいわ、不潔だわ、とさんざん叩かれたりオチョクられたりしました。

 簡単にいいますと、昭和63年/1988年、夜のニュース番組「プライムタイム」のキャスターだったとき、「ニュースステーション」との視聴率争いに大差をつけられていた折りに、弱り目にたたり目と言いましょうか、女性ディレクターとの深夜の密会が写真週刊誌に撮られたことで、あえなく番組降板。しばらくたった平成6年/1994年には、昼のワイドショー「ウオッチャー」を仕切っている時代、「8日で4人」の女性と不倫したと、またもスキャンダルになって、エロ爺い呼ばわりされる始末。2度の大きな花火で、ゴシップ界隈を沸かせてくれたのでした。

 ハナシは、その1度目のスキャンダルがあったときのことです。むむっ、こいつは「直木賞の話題に結びつけるにふさわしい芸能人」だな、と独特の嗅覚で嗅ぎつけた人がおりました。『サンデー毎日』で「人物一品料理」という連載コラムを書いていた早瀬圭一さんです。

「タケちゃんマン(引用者注:森本毅郎)もハーモニカおじさん(引用者注:江森陽弘)もテレビを見捨てて活字の世界に転身なさるべきです。おっと江森さんはもとはといえば新聞記者だった。森本さんはずっと放送屋だが『ぼくの人間手帖』や『母のオルガン』の著書もある。芥川賞直木賞をねらって、ひたすら書かれたらいい。小説の世界は男女のどろどろした生きざま、心理の綾、その描写こそ本流だ。これまでのご経験を一字一句克明に表現なさればいい。

(引用者中略)

お二人ならきっとやれます。余計なお世話ながら、お書きになった作品が三島由紀夫賞や山本周五郎賞の候補になった場合は即座に辞退なさい。二つの賞は新潮社が主催、ご両所とも『週刊新潮』にはボロンのチョンに書かれているからです。」(『サンデー毎日』昭和63年/1988年6月26日号 早瀬圭一「人物一品料理 森本毅郎・江森陽弘 テレビをやめて芥川賞直木賞をねらいなさい」」より)

 これって基本、早瀬さんの冗談です。「芥川賞・直木賞」だの「三島賞・山周賞」だのと、文学賞なら何だっていっしょ、みたいな薄い見方しかしていないことからも、よくわかります。いくら小説の著書を増やしたって、まず芥川賞はとれないですもん。しかし、こういう場面で、いちおう芥川賞の名を挙げておかないと箔がつかないのが、週刊誌上における文学賞の扱われ方。直木賞ファンとしては涙をにじませながら読むほかない記事に仕上がっています。

 しかしです。泣くな直木賞ファン。生きていればいいこともあるもんです(いいこと、と言おうか、何と言おうか……)。「プライムタイム」の降板後、しばらく「謹慎」状態を過ごして元気に復帰した森本さんが、処女小説をひっさげて登場するんですが、その舞台が、直木賞のお膝もと『オール讀物』だったんです。

 小説の題名は「ADたちの夜」といいます。以下は、目次に載った編集部による煽り文(キャッチコピーともいう)です。

「人気キャスターが沈黙を破って放つ異色作」

「華やかなブラウン管の影で蠢くテレビマンの生態を熟知する者の眼で捉え描くインサイドストーリー」(『オール讀物』平成1年/1989年4月号目次より)

 いま話題のひと。しかも文章を書かせて問題ないことはすでにわかっている。といったあたりを狙って、処女小説をかっさらう『オール讀物』、さすがの手腕じゃないですか。

 で、内幕モノ! という子供だまし、または猫だましにマンマと誘われてしまったのが『週刊朝日』です。『オール讀物』に掲載された、なんちゅう芳しい匂いに神経中枢もやられしまい、ここでまた、森本さんと直木賞をつなぐ貴重な働きを見せることになったのでした。

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