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2015年8月16日 (日)

さだまさしは言われた、「直木賞、とってほしいなあ」。(平成13年/2001年10月)

20150816

(←書影は平成13年/2001年9月・幻冬舎刊 さだまさし・著『精霊流し』)


 ここ最近の芸能人小説家を取り上げるなら、やはり、この人は外せないでしょ。と思って今日は、さだまさしさんです。

 小説を書く著名な芸能人はたくさんいます。ただ、継続的に本を出しつづけられる人は少ないです(いや、芸能人にかぎらず「小説家」全体でも同じですね)。そのなかで現役歌手&現役小説家をつづけているさださんの、何と稀少で輝かしいこと。

 小説家として本格始動したのは平成13年/2001年でしたが、なにせ当時は、やり口がやり口だったものですから、おおかたの人が「ああ、こりゃ一発か二発で終わるだろうな」と予想しました(たぶん)。しかし、そんな状況を意に介さず、誰にも文句は言わせないぞ、といった感じで次から次へと小説を発表。振りかえれば、もはや堂々たる15年選手です。その(作家的)キャリアからすれば、直木賞候補に挙がってもおかしくない! と思えるほどの実績を築いてきました。

 もともと、さださんは、その歌詞の世界から「文芸フォーク」と言われていたそうです(by 富沢一誠)。平成13年/2001年にいたるまでにも、自著のなかにポツリポツリと短篇小説を混ぜ込ませ、「俺、小説を書きたいのだ」熱の高さはかなりのものでした。そりゃあなた、さださん自身こう語っているぐらいです。まさか自分が歌手になるとは想像もしていなかったが小説家にはなりたかった、と。

 文芸指向の強さ。23歳のときに出した雑文集『本 人の縁とは不思議なもので…』(昭和51年/1976年3月・八曜社刊)でも、くっきりと表われていました。短篇小説をおさめていることは言うに及ばず、巻末に自己紹介風の原稿が載っているんですが、ここに「グレープ」解散後の(つまり未来の)自分を、こういったギャグでまとめているほどです。

「ファッション・モデルとして再出発し、ワコールの下着のモデルなどやるが、才能に限界を感じ、突如出家する。

 法恵坊陰念と名乗り、自ら天皇になりたくて兵を挙げるが、マスコミで有名になった藤原純友に敗れ、あっさりと僧籍を捨て、作家になる。

 夏目僧籍というペンネームで茶川賞受賞。

 代表作に「むらむら」「先天性阿呆」「君よ憤怒死の紐を締めれ!」「ガキドカ」がある。」(さだまさし・著『本 人の縁とは不思議なもので…』「ぼくのMENU」より)

 その人の個性は、馬鹿ばかしい冗談を言うときによく出る、と言われます(言われていないか)。どうですか。「作家になる」からの、「茶川賞受賞」というくすぐり。芥川賞をもじるにあたって「茶川賞」とするセンスに、いかにも文学青年らしさがにじみ出ていますし、俺に小説なんか書けるんだろうか、と疑いながら、でも書きたい欲がうずうずしている、さださんの日頃の思いがきれいに表現されたギャグだと思います(って、そんなこと解説するなっつうの)。

 ときは流れて40代なかばをすぎたころ、小学校時代の親友から「お前、そろそろ〈歌手〉から戸籍を変えてみろよ。小説かいてみたらどうだ」とアドバイスを受けたのだそうで、タイミングよく、そんな折りに降ってわいたのが、幻冬舎との仕事のおハナシ。まずは「自伝的小説」を書くっていう、芸能人小説としては王道すぎる路線を敷かれながら、テレビ番組(「ほんパラ!関口堂書店」)の企画でカメラも入ったなかで、『精霊流し』(平成13年/2001年9月・幻冬舎刊)を書き下ろしたところ、これがテレビの力と幻冬舎の宣伝企画力にドーンと押され、いきなり33万部も売れてしまいました。

「著者が人気歌手のさだまさし、出版社がベストセラー路線行け行けドンドンの幻冬舎、おまけに表紙の写真が浅井愼平なら、話題性だけで売り抜けるコンタンの本に違いない。出版直前には、幻冬舎社長に原稿の不出来を叱り飛ばされるさだまさしがテレビに映っていたりして、ハハーン、ヤラセか、と思ったものだ。「人気歌手が小説に挑戦」といったって、人間だれでも一冊の本は書ける、といわれるくらいだしなあ。」(『新潮45』平成13年/2001年11月号「読まずにすませるベストセラー」より)

 っていう紹介文が自然に見えてしまうほど、叩かれるべくして生まれた本。……だったんですが、そりゃ、さださんは、さんざんまわりから揶揄と批判を受けて芸能生活を送ってきた人ですもの。よそから「そんな演出までして売りたいのか」と言われることは十分承知のうえ、幻冬舎の編集者からの「自伝的な作品でいきましょう」というリクエストにきっちり対応。小説家としてやっていくたしかな一歩を刻みました。

 そこでさださんの恐ろしいのは、単に小説家に憧れていた、というだけではなかったところです。デビュー前に柳行李一杯に原稿を書きためている(表現、古すぎ……)作家志望者よろしく、『精霊流し』を発表した段階までに、すでに、小説で書きたいことをたーくさん蓄えていました。

「さだ 書きたいテーマはいっぱいあるんですよ。もしも自分に書く力があるなら、という前提ですけど、書きたい、伝えたいというテーマはたくさんあります。

――では、小説を書く、ということは、以前から考えておられたことなんですね。

さだ それこそ、小説を書いて暮らすというのは、夢ですよね。昔から、作家願望というものが強くありました。」(『東京人』平成13年/2001年12月号「東京人インタビュー150」より)

 ほかのところでも「小説は僕にとって憧れで、死ぬまでに小説はいっぱい書きたいと思っていた」(平成20年/2008年12月・太田出版刊 見城徹・著『異端者の快楽』所収の対談)と、おのれが一発屋作家でないことを表明(?)していたりします。

 一冊めは、テレビ番組の企画でもあったために、かなりの縛りがあったらしいんですが、次は自分の書きたいことを書く、という気合いで臨んだ二冊目『解夏』(平成14年/2002年12月・幻冬舎刊)。そして三冊目『眉山』(平成16年/2004年12月・幻冬舎刊)。「自伝的」の束縛から逃れて、それぞれ違った世界を描き、これがまた売れる、ドラマ化もされる。幻冬舎と組んだタッグの勢いはとまらず、四冊目『茨の木』(平成20年/2008年5月・幻冬舎刊)、五冊目『アントキノイノチ』(平成21年/2009年5月・幻冬舎刊)を発表。好セールスを記録します。

 つづいて出した『かすてぃら 僕と親父の一番長い日』(平成24年/2012年4月・小学館刊)は、〈実名自伝的小説〉という宣伝惹句に戻ってしまい、「とにかく自伝的といっておけば売り上げの伸びがちがう」っていう出版界の定説に沿ったものになりましたが、その間『小説新潮』で書きつないでいたものを『はかぼんさん 空蝉風土記』(平成24年/2012年8月・新潮社刊)として刊行。こちらは、それまでの小説とは趣向を変え、まことしやかなウソ奇譚を、リアリティを守って書き切っていて、さださんの小説家としての守備範囲の広さ、力量の高さを、世に印象づけました。

 その後も、幻冬舎の書下ろし路線(『風に立つライオン』)は順調に進めながら、週刊誌への連載(『ラストレター』)に挑むは、新聞への連載(『ちゃんぽん食べたかっ!』)を果たすは、まるで専業作家が歩むような、職業小説家としてのステップを突き進んでいます。

「音楽の世界での存在感が大きすぎて、小説界での業績が不当に軽視されてるんじゃないかと思うくらいで、さだまさしはまぎれもなく当代屈指の人気作家なのである。」(平成27年/2015年4月・新潮社/新潮文庫『はかぼんさん 空蝉風土記』所収 大森望「解説」より 太字下線部は引用者による)

 と、大森望さんが指摘するのもうなずけてしまうわけです(何が不当で何が順当かは、いろいろ考え方がありましょうが)。こうなるとさださん、当然、なにか文学賞のハナシが出てもおかしくありませんよね。とつい期待してしまうのが、文学賞ファンってものでしょう。

 ここで直木賞だ、さあ手を伸ばしてくれ。っていう直木賞ファンの切なる願いが届いてくれていればうれしかったんですが、やはり、オクテの直木賞。まだそこまでの勇気はなかったようです。まず先に手を出したのは、別の文学賞でした。

           ○

 公益財団法人日本医師会主催。厚生労働省後援。という何やらモノモノしい構えをもつ「日本医療小説大賞」です。

 この賞は、「医療小説」の充実を祈念する売れっ子作家、海堂尊さんが創設にたずさわり、新潮社の協力をあおいで、平成24年/2012年から授賞を始めました。海堂さんは、第2回「受賞作なし」の結論に導いた渡辺淳一選考委員に対して、怒りとともに危機感をおぼえ、第3回から選考委員の一員となることを決意。けっきょく第3回は、渡辺さん病床にあって選考には参加せず、そのせいかどうなのか、首尾よく受賞作も贈りだせたのですが、「本屋大賞」嫌いで知られる海堂さんったら早速、

「初めての選考会は興味深く、同じ感覚を共有している部分と、自分ではまったく気づかなかった点を指摘され、勉強になった。そこには、議論もせずに素人の投票総数だけで一等賞を決める賞にはない、文学にとって大切な何かがあった。」(『小説新潮』平成26年/2014年6月号 海堂尊「スクランブル登板。」より)

 と、本屋大賞に蹴りを一発見舞ったりしています。それはそれとして、この回の注目どころは、さださんの『風に立つライオン』(平成25年/2013年7月・幻冬舎刊)が候補作のひとつに名を連ねていた点でした。

 海堂さんのほかに選考委員は二人いまして、篠田節子さんと久間十義さん。篠田さんは候補作のうち、『風に立つライオン』と中脇初枝『わたしをみつけて』には、選評で一行も言及せず、おそらく評価は低かったのだろうと思われます。久間さんが受賞に推したのは南木佳士『陽子の一日』。さだ作品に対しては、こんな感想を残しました。

「さだまさしさんの『風に立つライオン』は同名のヒット曲の小説化。感動の勘所をおさえたスケールの大きな小説だ。アフリカの難民病院と震災後の石巻に取材して、一人の医師の心が次の医師へ、そしてさらに次の者へ、とバトンタッチされる様は、読んでいて大いに感興を催した。」(同号 久間十義「受賞を祝ぐ」より)

 この回は、選考委員三者三様、一位に推す作品がバラバラだった、ということが選評からわかるんですが、海堂さんからイチオシで受賞に押されたのが、『風に立つライオン』だったんです。

「『風に立つライオン』。受賞はならなかったが唯一、医療に対し明るい希望が持て、主人公に会ってみたいと思える魅力ある作品だったので一番に推した。」(前掲 海堂尊「スクランブル登板。」より)

 さださんの小説、惜しかったなあ。

 文学賞といえば芥川賞、あるいは直木賞、本屋大賞でしょ。話題にならない文学賞なんて何の意味もないじゃん。ぐらいにしか考えられない「お金のことにしか興味がない」人にとっては、惜しいもクソもないかもしれません。まあワタクシは文学賞視点が強すぎるので、そういった人たちにはまるで共感できませんが、賞として知名度があろうとなかろうと、どの賞も、サイコロを振って受賞を決めているわけじゃない。さまざまに限られた条件のあるなかで、人間たちがそれぞれの考えをもって決断をくだします。そういう文学賞の枠組みのなかで、果たしてさださんの小説が、どのように扱われるのか。注目しないわけにはいかないじゃないですか。

 日本医療小説大賞ではおそらく、「文学度」という点では低い評価だったものと思われます。しかし、読んでみてほしいと人に勧めるに値しない小説か、というと、そんなことは全然ない。賞がちがえば、どこかでさださんも、文学賞タイトルホルダーになりそうだ、という可能性を感じさせる選評だったと思います(ひろすけ童話賞のことを無視しているわけじゃなくて、とりあえず一般小説向けの賞、をイメージして言っています)。

 で、直木賞はどうなんだ、っつうハナシです。直木賞専門ブログのくせに、今日は「さだ×直木賞」の件に触れずにきちゃいました。一般の読者の方々がどう感じているのかは、各自「さだまさし 直木賞」でググって、検索結果から読書ブログっぽいものを選んで読んでいただければ、おわかりのとおりです(手抜き)。

 いちおう、うちのサイトでは直木賞のたびに「直木賞大衆選考会」というのをやっておりまして、そこにかつて寄せられた、さだ作品を直木賞に推薦する声を挙げておくことにします。

『精霊流し』―「とって欲しいなあ。現役の歌手で取った人っていないから、頑張って欲しいなあ・・・」(平成13年/2001年10月22日投稿 署名:sawasawa)

『解夏』―「「やっぱり小説ってこうだよね」そう唸ってしまった近来希に見る作品。文学好きにはたまらない。こういう作品がもっともっと読まれなければいけないと思う。」(平成15年/2003年5月28日投稿 署名:おじさん)

『解夏』―「予想以上によい出来です。多くの人に薦めたいそんな作品です。」(平成15年/2003年6月19日投稿 署名:いま)

 直木賞にとって、さださんの名を挙げづらい一番の障壁は、この方の場合、もう最初っから、出す本、出す本、ベストセラーになっちゃう売れっ子作家だった、という点かもしれません。いまさら、この有名人に授賞して何がどうなるんだ、という。直木賞は、作品どうこう以前に、作家に対してあげる賞だ、といまは小学校三年生の授業で習うらしいですが、要するに、名前がこれほど人口に膾炙して小説家としても人気を持続している作家に、贈るような性質の賞ではないだろう、ってわけですね。

 ならば、柴田錬三郎賞とか、中央公論文芸賞とか、その辺りの「中堅作家向け」を自他ともに認める文学賞が、さださんの作家的業績に報いてあげたらいい。と思うんですけど、あちらはあちらで、何の意地なのか、「文学賞スゴロクのひとコマ」に甘んじて満足しているような賞ですからねえ。期待しても仕方ないかもしれないなあ。

 日本にはまだまだ山ほど文学賞はあります。だれが賞をあげてください、さださんの小説に。

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