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2015年7月19日 (日)

藤本義一は言われた、「テレビに出ているから、直木賞がとれない」。(昭和46年/1971年7月)

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(←書影は昭和43年/1968年11月・三一書房/さんいちぶっくす 藤本義一・著『ちりめんじゃこ』)


 皇太子成婚が昭和34年/1959年、東京オリンピックが昭和39年/1964年。直木賞でいうと第40回台から第50回台のころに、日本でのテレビ普及が一気に進みました。なにせいま、この騒ぎです。テレビと直木賞(や芥川賞)とのあいだに築かれてきた関わりの歴史、みたいなことについては、そこら辺に詳しい方が近いうちに解説記事を発表してくれることでしょう。……どなたが書いてくれるのかわかりませんけど、期待しています。

 第50回台は、昭和38年/1963年・下半期~昭和43年/1968年・上半期に当たります。このころの直木賞の背景には、まず「中間小説誌の躍進」がありました。と同時に、テレビ業界の人たちが直木賞界をかき回しはじめた時代だった、と言ってもいいと思います。

 その両巨頭はごぞんじ、五木寛之さんと野坂昭如さん、なわけですが、五木さんは受賞の風景がひとつのテレビドキュメンタリー番組(「情熱大陸」みたいなもの)にまとめられて放映された、というぐらいの人ですし、野坂さんも「いろいろヤラかす放送作家」のひとりとしてブラウン管で大活躍。「テレビでおなじみのあの人」が直木賞で取り扱われる、そういった土壌は、すでに耕されていたわけです。

 そこに登場したのが、日本テレビ・読売テレビの深夜番組「11PM」で司会を務めていたギイッチャンこと、藤本義一さんでした。

 大学生のころから劇の脚本やラジオドラマの台本を書きはじめ、卒業後はシナリオライターの道を歩みつつ、川島雄三監督のもとで下働きとしてこき使われたりしながら、昭和36年/1961年からテレビドラマの脚本をバリバリと書き、

「花登筐サンと対抗してましてン、月に千五百枚も書きとばした。イレブン(引用者注:テレビ番組「11PM」)をやるまでに映画五十本、テレビ・ドラマ二千五百本、舞台劇五十本、原稿用紙で十三万枚になりますわ」(『週刊文春』昭和49年/1974年8月12日号「この人と一週間 藤本義一・こんなに欲しかった直木賞」より)

 と、ドラマ作家として生計を立てます。昭和41年/1966年に「11PM」が始まりますと、読売テレビ制作の回の司会者に抜擢されて、いよいよ「テレビでおなじみ」のレールの上を走り始めました。

「ヌードが登場する夜のワイドショーは、低俗番組のレッテルを張られ、NHKをはじめとして、シナリオの註文はぱたりと途絶えてしまった。

《月に千枚以上書いていたのが、年に一本か二本ぐらいしか注文が来ないんです。手持ちぶさたになりましてね。そんなら昔の懸賞の時代に戻ってやれっていうんで、小説を書きはじめたんです》

「小説エース」に発表した「ちんぴらレモン」が五木寛之氏と三一書房の竹村一社長の目にとまり、小説をもっと書くように勧められる。」(『週刊朝日』昭和49年/1974年8月2日号「直木賞受賞藤本義一“永すぎた春”の喜怒哀楽」より)

 テレビに出はじめたことが影響して、本業の仕事が減ってしまい、それが理由(のひとつ)となって小説を書きはじめた、っていう流れです。

 藤本さんはすでに顔が売れていた有名人でしたから、小説を書きだして間もないころにも、いろいろ雑誌などから取材されました。となると、いまでも、有名人が小説を書いて取材を受けたとき、数多くの場面で使われるおなじみのフレーズ、例のアレが早くも誌面を飾ります。

 「直木賞をとりたい」ってやつです。

「昨秋の『残酷な童話』、ごく最近の『ちりめんじゃこ』と、続けて出版した小説、さらに構想中のものなど、三十代後半に、小説に燃やす意欲に、確かにテレビ・タレントはじゃまのようだ。そして「正直いって直木賞がほしいですね」」(『サンデー毎日』昭和44年/1969年4月13日号「ある日のプライバシー 放送作家藤本義一」より)

 たいていは、こんな発言、芸能ニュースのにぎやかしでしかなく、あっという間に時が流れて忘れ去られてしまうものです。しかし藤本さんの場合は、特異でした。このあと『ちりめんじゃこ』が、マジで第61回(昭和44年/1969年上半期)の直木賞候補に挙げられてしまった、という。

 小説を出しても、まるで直木賞には無視される芸能関係者は、数多いです。そのなかで藤本さんは、一度候補になってしまったために、これは脈がある!と感じたからか、直木賞に賭ける、胡桃沢耕史ばりの妄執をどんどんふくらませていきます。いっぽう、芸能ネタを掘りつづけるメディア陣にとっても、こういう人物の姿は面白いので、「直木賞」とからませて、つい取り上げちゃう。……直木賞の候補になるたびに藤本さんは「直木賞を欲しがる、テレビでおなじみの人」役を務めつづけることになりました。

 第62回(昭和44年/1969年下半期)に、連続して二度目の候補になったときは、選考会前に週刊誌で「「今度はワイや」藤本義一直木賞への執心」(『週刊ポスト』昭和45年/1970年1月7日号)としてネタにされ、選考日当日は、多くの報道陣が藤本邸に押しかける始末。

「当日(一月十九日)八時すぎ「今回は受賞作ナシ」の電話が入るまでの堺市浜寺、藤本邸の大混乱ぶりは、まさに“ショー”なみ。「ただの有力候補者としては、前代未聞」(ある記者)であったらしい。」(『週刊文春』昭和45年/1970年2月9日号「“幻の直木賞”に踊った 藤本義一のいちばん長い日」より)

 「いまや直木賞は直木ショーになり果てた」的な、これまで五十万回ぐらい聞かされたので、いまではクスリとも笑えない語呂遊びが、当時は新鮮だったのかどうなのか。顔が売れている直木賞候補者、大人気の図です。

 結局、二度目も落選します。すると今度は、これも、直木賞界隈では「落選理由あるある」のひとつとして殿堂入りしている(?)、「テレビ界と直木賞」といえばよく登場する名物表現が、藤本さんのまわりにうごめきはじめました。

 テレビになんか出ていると選考委員に嫌われる。だから直木賞がとれないんだ、と。

           ○

 これは、藤本さんの前に先例がありました。野坂昭如さんが「受胎旅行」で候補になった第57回(昭和42年/1967年・上半期)のときです。

 野坂さんが文筆以外のフィールドで派手に顔をさらしてやっていることに対し、川口松太郎さんや松本清張さんあたりが、やや批判的ともとれることを選評に書きました。選評だけじゃなくて、選考委員の口から直接、「作家でやっていこうとするなら、テレビの仕事は邪魔になる」みたいなことを聞いた関係者がいるのかもしれません。放送業界、出版業界では、「テレビ出演は直木賞にさしさわる」なんてことが言われはじめたらしいです。

 だけど、そのハナシって、直木賞がどうこうより、「テレビ業界人の意識」の問題じゃないんですか。

 何よりもその背景には、放送業界のひがみもあった、と見て取るのが自然でしょう。ひがみ、つまりは「オレたちの仕事は、活字の人たちに比べて、低く見られて冷遇されている! おかしいっ!」みたいな。だって、たとえば野坂さんの小説が、「テレビに出ている人だから」直木賞にふさわしくない、などと選考委員に評価された形跡は、まったくないんですよ。「活字の世界=文壇=直木賞」だと、短絡的な思考で事足りる程度のテレビ業界人たちが、(自分たちの仲間が)直木賞をとれなかった理由を、自分の頭のなかで都合よく曲解し、「テレビに関わっているからって何の文句があるんだ。文壇の連中め、偉そうにしやがって!」と、誰かを攻撃することで自らのウサを晴らす。そういった面が大きかったと思います。

 直木賞は、当時だって、さほど大したことのない作品しか選ばれない賞でした。新進(から中堅にかけての)作家が書く作品が対象なので、当たり前のハナシです。それを、さも「作家にとって最高の栄光」みたいに仕立てたのがマスコミ。自分でふくらました架空の「虚像」を、今度は自分の敵と見なして批判するマスコミ。……直木賞の実質的なショボさは何も変わっていないのに、マスコミが独り相撲をとっていたわけです。

 直木賞も直木賞で、とにかくイジられやすいやつです。なにしろ、選考会は非公開。誰がどういう発言をし、どういう状況で受賞が決められたのか、(選評を読んでさえ)よくわかりません。まわりにいる人たちが、臆測や妄想をかきたてて受賞理由や落選理由を語るには、もってこい、と言っていいでしょう。

 三度目の候補、第65回(昭和46年/1971年・上半期)で「生きいそぎの記」が落選したときには、そのあたりの「テレビ VS 直木賞」の、(主にテレビ業界側からの)対決姿勢が噴出しました。

(引用者注:藤本義一が落選したことに)仲間の人たちも、何と言ったらいいのかわからないといった表情で

「やっぱり、テレビに出とると、文壇とやらの大先生の受けが悪いんかなァー」

(引用者中略)

「だいたい、あれだけの大きな賞の選考を公開しないのもおかしいよ。最高裁と同じやないか」と一人がいえば

「そや、直木賞や芥川賞は、そんじょそこらにある○○賞みたいなもんじゃなくて、立派なもんなんだといいたげな特権意識がチラついとるわ。

 ギイッチャンがテレビなんかに出とることについての考え方もそや、エセの権威や」

と別の一人が同調する。

 ギイッチャンも、フンフンとうなずくように、こういう。

「テレビや週刊誌に出ながら小説を書いてるのは、小説家としては好ましくないなんていう意味のことは、よう忠告されたけど、オレにとっては、映像も筆も同じもんなんや。(引用者中略)作品が悪いといわれりゃしようないけど、テレビなんかに出てるのが文筆業者としてのイメージにそぐわないみたいな判断がされるのはかなわんわ。」(『週刊読売』昭和46年/1971年7月30日号「三回目も“敗れた”直木賞候補藤本義一氏の意地」より)

 ここら辺、どこを読んでも、クダを巻いている人たちの好みや推測だけを根拠に、直木賞のことを批判していますよね。いったい、だれが「藤本義一はテレビに出ているから「生きいそぎの記」に直木賞を贈るのはふさわしくない」などと言ったのか。ほとんど被害妄想です。

 このまま、藤本さんが直木賞をとれなかったら、おそらく「テレビに出ていたために直木賞をとれなかった人がいる」みたいなデマが、いかにも真実のことに定着し、伝説となり、直木賞(か芥川賞)が話題になったときだけTwitterやFacebookで訳知り顔に両賞のことを語る程度の、薄ーい「直木賞・芥川賞マメ知識」を披露して満足する人たちが、斜にかまえながら直木賞のことを批判するときにちょうどよいネタ、ぐらいにはなったかもしれません。

 それから3年。学生時代から意識していたという同世代の劇作家・井上ひさしさんに、直木賞受賞の先を越され、第71回(昭和49年/1974年・上半期)に「鬼の詩」でようやく受賞、となるんですけど、このときにも、テレビに出ていると直木賞は不利、みたいなことが受賞記事で触れられるぐらいに、テレビ側の被害者意識は、相当に強かったと言っていいです。

「もし、テレビであんなに売れっ子になっていなかったら、もっと早く受賞していたろう、とささやかれるだけに、この際『11PM』をおりるかどうか心配されたが、

「『11PM』あっての藤本です。読売テレビがつぶれるまでやらせてもらいます」

 と大変な意気込みで浪花根性を見せる。

 受賞決定後、さっそくNHKが慣例どおり受賞者番組をもうけたが、『11PM』の仕事があるからと名古屋へ。これまで受賞者でこのNHKの番組を断わったのは藤本さんが初めてとか。これだけ『11PM』に惚れ込んでいれば、まずテレビから姿を消すことはない。」(『週刊女性』昭和49年/1974年8月6日・13日合併号「直木賞をもろうたかて『11PM』はやりまっせ!」より)

 テレビに出つづけていても藤本さん受賞しているわけだから、テレビに出ることと直木賞の当落は、関係ないんじゃないか。と普通の感覚なら思うはずですけど、妄想だろうが架空だろうが、火ダネのあるほうが面白い、というのがゴシップ優先のイエロージャーナリズムなればこそ、でしょう。

 直木賞(芥川賞もそうです)の周囲には、ウワサや、デマや、根拠の不明な言いがかりが、ものすごくたくさんあります。「テレビでおなじみのあの人」に属する直木賞候補ともなれば、その量は扱いきれないほどに大きくなります。こうして、別に大した作品を選ぶわけでもない直木賞が(藤本さんの「鬼の詩」なんて、100枚に満たない短篇で、そこまで騒がれるほどの小説じゃありません)、まわりの人たちの手で、虚に虚を塗りたくられていったわけです。滑稽ですよね、直木賞。ほんと面白い。

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