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2015年6月28日 (日)

阿木燿子は言われた、「賞を取るような小説を書けばいいのに」。(平成6年/1994年12月)

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(←書影は平成1年/1989年10月・集英社刊 阿木燿子・著『指輪の重さ』)


 歌謡曲の作詞家が小説を書くケースは、過去をさかのぼっても、けっこうあります。そのうち何人かは、継続的に、あるいはまとまった量の小説を生み出し、直木賞の候補に挙げられたり、また受賞したりしました。

 阿木燿子さんも、平成に入ってしばらく、小説を書いていましたので、候補になってもよさそうな立ち位置にいたんですが、新しい分野に次から次へと興味をもつ方らしく、ひとつの場所にとどまっていません。いまとなっては、「作家・阿木燿子」のことを、直木賞と結びつけて見るのは、さすがに不自然です。

 では、阿木さんと直木賞が無縁なのかというと、そうでもありません。何をさしおいても、この側面があるからです。「ご親密な直木賞受賞者との対談相手に、選ばれがちな人」。

 阿木さん自身が著名な人であって、華やかで美貌、しかも交遊の世界もいろいろと広い人なので、対談企画にはうってつけなわけですね。

 たとえば、フラメンコつながりで逢坂剛さんとの因縁(?)があります。『逢坂剛のさすらい交友録 フラメンコに手を出すな!』(平成10年/1998年11月・パセオ刊、初出は『パセオ・フラメンコ』平成5年/1993年2月号から始まった連載対談)から、平成5年/1993年10月、阿木さん初の小説集『指輪の重さ』の文庫化の折りに解説を担当したのが逢坂さんで、ときは流れて平成26年/2014年、阿木さんがホステス役を務める『サンデー毎日』対談企画「阿木燿子の艶もたけなわ」で逢坂さんと顔合わせ。この流れを見るだけで、もはやひとつのストーリーと化しているくらいです(というのは言いすぎでした)。

 ちなみに逢坂さんは、その解説で阿木さん(とその小説)について、こう言っています。

「この作品集を作詞家の余技と思ったら、読者は完全に足元をすくわれる。詩人の資質は小説家のそれと同じではないが、言語に対する感覚は一種独特の鋭さがある。(引用者中略)葉の上を転がる水玉のような、新鮮な描写が随所にちりばめられたこれらの作品は、一般の読者があまり出会ったことのない小説世界を提示する。」(『指輪の重さ』所収 逢坂剛「解説――薔薇の花には刺がある おいしい料理には毒がある」より)

 ええ。全篇これ、男女の愛欲ドラマを修辞と詩的イメージで煮詰めたような小説集なんですが、とりあえず阿木小説のハナシは後にまわします。

 逢坂さんよりもさらに、阿木さんと古いお仲間、ご親密なのが伊集院静さんです。いつも酒場で顔を合わせては、オトナーな社交を繰り広げていた(と思われる)ご両人だったわけですが、伊集院さんがまだ直木賞をとる前、平成1年/1989年に『中央公論』の「縁は異なもの」に二人そろって登場したときには、こんな計画も暴露(?)されていました。

「先頃エッセイ集『あの子のカーネーション』、短編小説集『三年坂』を上梓した伊集院さん。近く小説集『指輪の重さ』を刊行予定の阿木さん。いずれ同人誌をやろうという話も、数年来の酒場での懸案となっている。」(『中央公論』平成1年/1989年10月号「縁は異なもの」より)

 伊集院さんは直木賞をとった直後、さまざまな媒体で対談の仕事が組まれました。そのお相手のひとりが阿木さんだったのも、もはや当然と言っていいでしょう(『婦人公論』平成4年/1992年12月号「飲む・打つ・書く 〈対談・男と女の三拍子〉」)。いったい、同人誌の計画がその後どうなったのかは、わかりません。

 直木賞受賞者との対談相手に選ばれやすい阿木燿子像。その最たる代表例を、まだ紹介していませんでした。妖艶で美しい大人の女性が、女と男のこと、恋愛のあれこれを語る、っていうテーマは女性誌のなかにあふれ返っていますが、そんな対談にぴったりの、しかも阿木さんとは縁もゆかりもガチガチにある直木賞受賞者が、ひとりいるじゃないですか。唯川恵さんです。

 伊集院さんのときと同様、唯川さんが直木賞をとったときも、直後に阿木さんが対談相手としてセッティングされました。

「恋愛の上級者阿木さんと唯川さんのお二人が四〇代からの恋愛を語ります。唯川さんは「肩ごしの恋人」で直木賞受賞後、初の対談。」(『ミセス』平成14年/2002年4月号「唯川恵直木賞受賞記念特別対談「ロマンティックを語る世界へ」より)

 という、もうここを読むだけで胃もたれしそうなぐらいの、テッパンなテーマです。

 他にもお二人は、前年の平成13年/2001年には『クロワッサン』で、平成16年/2004年には『PHPカラット』で、と何度か対談で誌面を飾り、先に逢坂さんのところで紹介した『サンデー毎日』の「艶もたけなわ」では、このひとを呼ばなきゃ阿木さんの対談じゃない!と言わんばかりに(だれもそんなこと言っていない)、唯川さんがゲストに招かれました。

 ここで思い出話のように語られるのが、唯川さんがコバルト・ノベル大賞に入選した昭和59年/1984年のころのこと。唯川さんの作家デビューのころ、でもあるんですが、同時に阿木さんが小説分野に急接近していた時代でもあります。

 実作家じゃないのに作詞家・女優として顔が売れている、っていうこと(だけ)で、阿木さんに新人賞の選考委員をお願いしてしまうという、コバルト・ノベル大賞、かなりチャレンジ精神あふれる(むちゃくちゃな)賞だったときのハナシです。

           ○

唯川 その節は本当にお世話になりました。あれが私の作家人生の始まりなので。

阿木 振り返ってみると私も生意気だったなって……。よくぞ小説誌の新人賞の審査員なんか引き受けて、偉そうなことを言っていたものだって思ったら、もう恥ずかしくて。

唯川 あのときは阿木さんお一人が女性で。

阿木 ええ、赤川次郎さんと眉村卓さん、それから阿刀田高さん。みなさんは小説家だから、正当な評価がおできになるけど……。

唯川 ちょうど、阿木さんも小説を書かれていらっしゃった時期。

阿木 経験が乏しいのに、官能小説をね(笑)。

唯川 ははは。」(『サンデー毎日』平成27年/2015年3月29日号「阿木燿子の艶もたけなわ」より)

 「作家・阿木燿子」のことは、完全に過去のものとして語られています。阿木さん自身、もう小説をどんどん書いていこう、という意欲はないみたいです。

 阿木さんはコバルト・ノベル大賞の委員を5年務めたんですが、集英社の文芸部門はどうも阿木さんに小説を書かせたかったようで、ちょうどその委員を退任する昭和62年/1987年に、新たに季刊で創刊した『小説すばる』編集部が、第1号から連続で小説を発注。そのなかの5篇をまとめたものが、最初の小説集『指輪の重さ』となりまして、この刊行時に阿木さんはいくつか、インタビューを受けました。ストーリーはともかく、文章の推敲にかなり苦労し、ゲラ戻しに時間がかかったために刊行時期が予定から大幅に遅れた、と言っています。

 その後も、伊集院さんには「私は阿木さんの小説のファンのひとりでして、すべての作品の内容もよく覚えています。なぜかというと、本の数が少ない(笑)」(『青春と読書』平成7年/1995年8月号)と、冗談を飛ばされる始末。とにかく小説家としては量産が効かないことが明らかになりまして、その影響もあるのかどうか、阿木さんの「小説家」としての顔は徐々にフェードアウトしていってしまいました。

 阿木さん自身が、直木賞と結びつけられるような機会は、じっさいほとんどなかった、と言ってもいいでしょう。気の向いたときに、自分の言語感覚に納得のいくものだけを書く。そんな自然体の人に、直木賞とかいうセワシしないやつが、チョッカイを出せるわけがないですもの。『指輪の重さ』を読んでみても、ストーリーとか登場人物の描き方はともかく、なにせ文学的な匂い、というより詩的な文章が印象に残り、お子チャマな直木賞の世界、には似合わない作品だよなあ、と思います。

 それでも一時期は、文芸畑の方面から、阿木さんもっと小説書いたらいいのに、という声が上がったらしいです。なかには文学賞のハナシを持ち出して、勧める人もいました。

「すべて順風満帆にことが進んでいるように見える阿木燿子。だが、周辺では、彼女の欲のなさ、こういう世界にありがちな野心が全くないことに、期待の気持ちから一言物申したいという人がいる。

(引用者中略)

文学界では、阿木がもっと小説を書くことを望む声が多い。ところが「賞を取るような小説を書けば」と宇崎(引用者注:夫の宇崎竜童)が言っても、「わたしは自由にマイペースでやるのが好き」という言葉が即座に返ってくる。」(『AERA』平成6年/1994年12月26日号「現代の肖像」より ―文:有田芳生)

 いっしょに同人誌でもつくろうか、と言っていた伊集院さんは、まさしく「賞を取るような小説」を書きつづけて、吉川英治文学新人賞をとり、山本周五郎賞の候補にあがり、平成4年/1992年には直木賞を受賞。作詞で名を上げた人がのちに小説で直木賞をとる久しぶりの例となりました。だったら阿木さんも、と思われたのかどうなのか、宇崎さんの真意はわかりませんけど、文芸編集者ならやっぱり、そう考えるでしょう。

 しかしそこで阿木さんは、小説の道に進んだりしませんでした。自由にマイペースでいきたい、といって、軽がると文学賞(あたりの小説)を足蹴にしちゃいました。まあ、直木賞(やらそれに類する他の賞も)など、じっさいその程度のものですから、「小説を書くなら、いつかは直木賞!」みたいなことを言う人は、たいていキ○ガイです。阿木さんがまっとうな人でいてくれて、ホッとしました。

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