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2015年6月14日 (日)

うつみ宮土理は言った、「目標は直木賞をとること」。(平成4年/1992年10月)

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(←書影は昭和63年/1988年9月・文藝春秋刊 うつみ宮土理・著『くねり坂』)


 最近、うつみ宮土理さんのことが、にわかに話題になっています。「『文學界』に小説が載ったのに増版がかからなかった芸能人」として、……では、もちろんありません(そりゃそうだ)。最近の動向はどうでもいいので、今日のエントリーはその辺のところから始めます。

 昭和62年/1987年5月(6月という文献もある)、うつみさんは新宿にある「朝日カルチャーセンター」の名物講座、「小説作法」教室に通いはじめました。名物も名物、芥川賞受賞者・重兼芳子を生んだカルセン、として脚光を浴びた、駒田信二さんの例の教室です。うつみさんは、それ以前から駒田さんと交流があり、すでに小説を書くための指導も個人的に受けていたらしいんですが、あらためて、大勢の受講生にまじって小説を学ぶことになりました。43歳のときです。

 そもそも、なぜ、うつみさんは小説を書いてみたいと考えだしたのか。そりゃあ理由はさまざまあったんでしょうが、公になっているものをまとめますと、だいたい2つに集約されるようです。

 まずは、自分の内面のおハナシ。

「時間に追われる芸能界にいて、空虚を感じる自分に気づいた。

「心が風化してしまう前に、じっくり人の心を見つめて、うれしさや悲しさ、人生を感じる心の襞を深く持ちたいと思って、小説を書き始めました。(引用者後略)」」(『SOPHIA』昭和63年/1988年3月号「自作小説が純文学雑誌『文学界』に掲載されたうつみ宮土理」より)

 そして、もうひとつ、あこがれの先輩からの助言があった、っていうことが挙げられました。

「亡くなった向田邦子さんが、実践女子大の先輩だったこともあって、折あるごとに『文章を書きなさいよ』と勧めてくれました。」(『週刊朝日』昭和63年/1988年1月15日号「うつみ宮土理が「文学界」デビュー 向田邦子さんに勧められた文章道」より ―署名:本誌・鬼頭恒成)

 好きな小説は何ですかと問われたうつみさんは、数多くの場面で向田さんの『思い出トランプ』を紹介しています。ということで、ここら辺が直木賞つながりへの伏線になっていくんですけど、それは後半に回しまして、もう少し『文學界』掲載のハナシを続けます。

 駒田教室の同人誌『まくた』昭和57年/1982年11月号に、うつみさんは「くねり坂」を発表しました。これが『文學界』同人雑誌評の、松本徹さん担当の回で「ベストファイブ」のひとつに選ばれまして(ほかの4作は、『碑』49号の永井孝史「朝闇の道」、『こみゅにてぃ』21号の藍崎道子「気楽な関係」、『江古田文学』13号の今野靖人「感触」、『黒い棒』1号の菊村信「黒い棒」)、同誌の昭和63年/1988年2月号に「同人雑誌推薦作」として転載されるにいたりました。

 松本徹さんによる「くねり坂」評は、こんな感じです。

「耐えるようにして暮らしている孤独な身の上の女の、暮らしぶりを、丁寧に工夫をこらして浮かび上がらせている。この作者は、テレビタレントであるとのこと――テレビをあまり見ない筆者は知らないが――であるが、どのように修行を重ねたものか、着実な筆づかいである。そして、およそ縁がないと思われる世界の女を、破綻なく扱っているのだ。全体に彫りの甘さが感じられるものの、安定した力を持っているように思われる。」(『文學界』昭和63年/1988年2月号 松本徹「同人雑誌評 書くと言う行為ひとつで」より)

 要するに当時のうつみさんは、テレビを見ない人たちには、まるっきり存在も知られていない程度の二流タレントだった、ってことがわかる……わけじゃなくて、かなりの巧者だと褒められているわけですね。

 ええ。じっさい、ワタクシもそう思います。

 他人の目を気にする気弱な小心者、不器用な生き方しかできない人間の、生活がなかなかうまく回っていかない有りようを描かせたら、うつみさん、うまいのだ! 「くねり坂」もそうですし、同題の短篇集『くねり坂』に収められた「Uターン」など、「ヒロインがいかにして追いつめられていくか」の展開が、堂に入っていて、わたしはサスペンス小説作家だ、と名乗ってもいいぐらいです。

 師匠の駒田信二さんに言わせますと、

「はっきり言って、『くねり坂』の文章は荒れてます。『カチンカチン体操』とか『根こんぶ健康法』とか、自分の文章を警戒せずに書くハウツウものを書いているせいでしょう。小説を書くつもりなら、そっちはやめるよう言ってるんですが」(前掲『週刊朝日』記事より)

 てな感じで、おいおい、当時のオビに「駒田信二氏絶賛!」とあったのは、ありゃウソだったんだな文藝春秋め。ということはさておき、うつみさんの作家としてのスタートは、「芸能界のこと、みずからの生い立ちのことなどが、作品背景におかれることで、たくさんの人びとの興味がかき立てられ、本が売れる」という、芸能人小説におなじみのかたちとは違っていました。そこに、うつみさんの気概、と言いますか、意思が感じられるところでもあります。

 けっきょく、うつみ作品は、芸能人の書いた小説と煽られてメガヒットを飛ばす、なんてことはなく、また何かの文学賞によって光を当てられることもないままでしたが、それでも彼女の作家能力は認められ、いくつもの小説を発表。うつみ宮土理、作家としていったいどこへ行くのだ、という感の高まるなか(?)、うつみさんと直木賞の蜜月時代が訪れるのでした。

           ○

 おっ、うつみ宮土理って文化的な話題もイケるタレントなのか、と世に知れた昭和63年/1988年。『毎日新聞』から「読書日記」執筆の話があり、平成2年/1990年11月には、新聞に載ったものと書き下ろしを含めた『私の読書日記』(毎日新聞社刊)が刊行されます。

 この本、おそらく跳びあがって喜んだ直木賞ファンが数多かったのではないか、と想像できる記述が満載なんですよ。例をあげますと、うつみさんが直木賞のことを語るくだりがあったりします。

「私は他人(ルビ:ひと)から「忙しそうですね」と言われる。私のセカセカした歩き方や早口の喋り方から判断して、「落着かない人ですね」と言うところを、「忙しそうですね」と言葉を選んでくださるのだ。実際、私は、小説を読む時でさえ、せっかちのようである。月が変わると、定期購読の月刊誌が机の上に重なってゆく。私は息急き切って、この雑誌の山を征服するのだが、時折、時間切れになることもある。その中で、直木賞受賞傑作短篇三十五作を載せた「オール讀物三月臨時増刊号」(平成元年)は、楽しかった。

(引用者中略)

「オール讀物―直木賞受賞傑作短篇三十五篇」は、「鶴八鶴次郎」から「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」に至るまで、間違いなくその時代を語っている。改めて読むと、小説にみる昭和史である。」(うつみ宮土理・著『私の読書日記』「山田詠美「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」」より)

 ほんと、あの臨時増刊号はいい本です。直木賞といえば、「直木賞受賞作!」とオビの巻かれた近作さえ取り上げておけば、いちおう文化人チックな香りは醸しだせると思うんですけど、そればかりじゃなく、あの臨増に目をつけるあたり、うつみさんって変わり者です。つまり、得難い存在です。

 小説を出したら即行で「直木賞をとりたい」と口走るタレントとは、土台、出発点がちがうわけですね。うつみさん自身も、そういうタレントといっしょにされたくない、ときっぱり宣言しました。

「「悔しいのは、タレントやっているのでゴーストライターがいるんだと見られることです。我慢できない」

(引用者中略)

「その手のタレント本と一緒にされるのはイヤ。私は、モノ書きとしてのプライドがあるんです」」(『週刊読売』平成4年/1992年10月18日号「特集仮面の告白 うつみ宮土理「目標・直木賞」で作家修業」より)

 本気で小説執筆に向き合いました。駒田師匠の助言を受けいれて、健康法などのハウツーものは書かないようにしよう、と誓いも立てました。ここで、ついに口にするのです。直木賞のことを。

「目標は「直木賞」。

「あくまで、これ、夢ですよ。でも、賞を取りたいという目標がないと、自分にムチを打てませんから。歌手がレコード大賞を取りたいという気持ちがないと歌がうまくならないでしょう。それと同じですよ。頑張らないといけない」」(同)

 ん? 歌手とレコード大賞の関係と、そんなに似ているかな、と疑問符のつくところではありますが、目標として「とりたい」と公言することで自分にハッパをかける、青島幸男戦法とも言えるでしょう(言えるのか?)。

 なにしろ、平成1年/1989年には1年で3回も、『オール讀物』に短篇が採用され(1月号「秋桜団地」、6月号「再婚」、11月号「マニキュア捜し」)、その11月号では「特集 気鋭の女流作家」の枠のひとりとして、高樹のぶ子、藤堂志津子、小池真理子と並んで売り出されたほどですから、いやがおうでもプライドが湧き上がるでしょうし、直木賞の近くに我が身が置かれている感触は、当然あったことと推察します。そのころ直木賞候補になったとしても、まったく違和感のない状況でした。

 平成4年/1992年の記事では、好きな作家として何人かの名前を挙げています。これがもう完全に、どっぷりと直木賞ラインです。

「向田さん(引用者注:向田邦子)の「思い出トランプ」は一番好きで、机の左にいまも置いてある。

(引用者中略)

 向田さんのほかに好きな作家は、佐藤愛子さんと藤沢周平さんで、気になるのが、連城三紀彦さんと伊集院静さんを挙げる。

「みなさん、言葉の使い方がうまいですよね」

 と言って、「早く、自分もこうなりたい」という言葉をゴクリと飲み込んだ。」(同)

 その後、うつみさんの冴えたストーリーテリング、実直に生きていながら悲哀を漂わせる人物造型などは相変わらずだったんですが、作家デビュー10年たったあたりから、小説の刊行は減り、逆に〈ハウツー〉系の本が出始めます。直木賞との蜜月時代(って勝手にワタクシが呼んでいるだけですよ)は終わりを迎えてしまいました。

 ただ、1980年代終わりから90年代はじめにかけて、確実に、直木賞のそばにいた小説家として、うつみさんの名は歴史に刻まれています。またいつか、新作が出ますように、と期待しています。

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