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2015年1月の5件の記事

2015年1月25日 (日)

「直木賞からは、売りたい本が選ばれない。」…『広告』平成16年/2004年5月号「全国の書店員が投票中 一番売りたい本はこの本です」浜本茂、杉江由次、取材・文:嶋浩一郎

■今週の文献

『広告』平成16年/2004年5月号

「全国の書店員が投票中
一番売りたい本はこの本です」

浜本茂、杉江由次、取材・文:嶋浩一郎

 毎年4月になると、直木賞が盛り上がります。

 今年の4月も、きっと盛り上がるでしょう。そのとき、うちのブログも尻馬に乗れるかどうか、いまの段階ではわかりませんので、覚えているうちに今年も書いておきます。4月という、いわゆる「直木賞ニュースの閑散期」に、毎年欠かさず、直木賞をオモテ舞台に引き上げてくれる功労者……本屋大賞サマのことを。

 うちのブログは「直木賞」専門ブログです。直木賞といえば、いまでは「本屋大賞サマのコバンザメ」と言われ、失墜、凋落といった言葉が最もよく似合う文学賞として広く知られています。当然、当ブログでも以下のように、2度ほど取り上げたことがありました。いま、こうしてワタクシがブログを書き続けていられるのも、本屋大賞サマのおかげ、と言っても過言ではない、と思ったり思わなかったりします。

 それで、本屋大賞サマといえば、創設前から現在にいたるまで、口の減らないおしゃべり出しゃばり文学賞としての姿勢を堅持。そのため、どうしてこの賞が創設されたかも、いろんな媒体で触れまわられ、いまでは日本中に知れ渡っているわけです。

 とりあえず、創設された一年目、まだ大賞発表前に『本の雑誌』浜本茂・杉江由次両氏に行われたインタビュー記事を挙げておきます。取材・文もまた、この賞の創設に携わったデキる広告屋こと嶋浩一郎さん。ええ、直木賞のことが出てきます。

「――賞を作ったきっかけは?

杉江:僕は書店を回って「本の雑誌」の営業をしているわけですが、書店員さんの間では5、6年前から自分達が売りたい本に賞をあげたいという声がありました。出版社が選ぶ賞と、実際売り場で一押しの本に微妙に差があるんですよね。特に若い書店員との感覚にズレが。彼らは目をつけるのが早い!

浜本:そうそう、宮部みゆきは『火車』で直木賞を取るべきだったみたいな話ですよ。今回ノミネートされた伊坂幸太郎とか面白い作家を見つけてくる書店員のアンテナはすごく早い。(『広告』平成16年/2004年5月号「全国の書店員が投票中 一番売りたい本はこの本です」より)

 「出版社が選ぶ賞」の代表格、それが直木賞だ! ってわけです。要するに、本屋大賞サマは、その存在の一部が「直木賞批判」で構成されていると。

 まあ、目をつける早さ、アンテナの感度から見たら、誰が考えたってそれをまず本にした出版社サイドのほうが勝っているじゃん、と思うんですけど、そういう正論は世間にはウケません。

 第1回の授賞式で、浜本茂さんが「打倒直木賞!」の名言を吐き、このキーワードがマスコミ、ひいてはその情報を受け取る多くの人たちに大いにウケて、当時もいろいろ取り上げられたし、ずーっと語り継がれている、ってことは前にこのブログでも紹介したとおりです。

 ワタクシは改めて思います。「売りたい本が直木賞に選ばれない」とか「直木賞に追いつき追い越せ」とか、あんたら、どんだけ直木賞(と文学賞)が好きなんだ!と。ワタクシも直木賞好きを自負するものではありますが、この人たちの好きっぷりにはまったくかないません。直木賞をきっかけに文学賞ひとつつくっちゃうんですから。

 しかも、直木賞史的に、本屋大賞サマって素晴らしいとワタクシの思う最大の理由があります。これが創設され、継続していることで、この賞を介して直木賞を批判する外野の第三者たちが、後から後から湧いて出ることです。もう今年は言う奴はいないだろ、さすがにもう言われることはないだろ、と思ってもかならず湧いて出てきます。毎年、絶対に。

 ちょっと時間をさかのぼってみます。

 第1回目(平成16年/2004年)、小川洋子さんの『博士の愛した数式』が大賞に選ばれました。受賞前9万4000部だったものが、受賞後40万部の売上に。そう、この状況を見て、日本人なら誰もが口にしたくてウズウズするアノ台詞が、2年目にして早くも登場することになりました。

「その受賞効果の大きさはすでに直木賞を上回ったともいえる。」(『日経エンタテインメント!』平成17年/2005年6月号「書店員が選ぶ一番売りたい本「本屋大賞」のスゴイ受賞効果」より)

 この記事を書いた無署名子はいいます。直木賞受賞作の増刷の目安は10万部といわれている、それに比べて『博士の愛した数式』40万部の大ヒット。もう1回目にして直木賞を超えちゃったじゃん、というわけです。

 売れ行きだけじゃありません。第2回、恩田陸さんの『夜のピクニック』を選んだ平成17年/2005年、その授賞式を取材する報道陣の量は、他の並みいる(直木賞・芥川賞以外の)何百とある文学賞を一気にゴボウ抜きして、

「発表会に集まるテレビ局、新聞各社などマスコミの数も“直木賞級”に。受賞発表はニュースとして報じられ、知名度はアップしている。」(同)

 となったわけですから、こんなもの、第1回、第2回で「本屋大賞サマは直木賞を抜いた」と見るのが妥当に決まっています。

 しかし、世の中には直木賞好きがホント多いらしいのです。どう見ても本屋大賞サマのほうが直木賞より上になっているのに、それからもグズグズと、毎年毎年、「直木賞より上回りつつある」とか「これで完全に直木賞を超えた」とか、うれしそうに言い募る言説が、繰り返し繰り返し、現われつづけています。

 何なんでしょう。「直木賞はそう簡単に他の賞に抜かされるほどのカスじゃない」っつう深層心理があるのか(……そんなもの、ないですか)、やたら直木賞を過大に見積もってくれている人がこんなに残っていたのか、と驚くほかありません。

 いや。単に、直木賞にも本屋大賞サマにも、べつに大した興味はなくて、大きく取り上げられている(と自分が感じた)ものに、その場で思いついたことを根拠なく、ただ口にしているだけの人が、たくさんいる、ってだけなのかもしれませんね。そして、一度か二度、文句を言った人は、そもそも文学賞に固執するほどの特異な性質は持ち合わせていないので、よそに行ってしまう。また新しい人が、前の人と同じような文句をいう。よそに行ってしまう。……この繰り返しなんでしょうか。

 それはそれで、文学賞に対する正統でまっとうな付き合いかたです。それでいいと思います。

 そういった「正統でまっとうな」人たちは昔からいました。直木賞などは、そのときの彼らの感覚的な感想(だけ)でアレやコレやと文句を言われつづけ、80年も馬齢をかさねてきました。本屋大賞サマは、言うまでもなく、そんな直木賞をハナっから大きく超えた存在です。直木賞以上に(?)、いつもいつも、「いつか誰かがそんなこと言っていたな」という、ある意味聞き飽きた感のある文句を、一身に受けつづけながら、いまに至っています。

 それでは、ほんの少しで恐縮ですが、「本屋大賞批判あるある」、ご堪能ください。

「『東京タワー』(引用者注:第3回2006年受賞の『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』)は受賞前の段階で120万部。売れ行きはよくないが質のいい、力のある本に光を当てる賞だったのに、大きく変質したという批判は免れない。」(『AERA』平成18年/2006年4月17日号「創設の思いとメジャー化のはざまで 東京タワーでいいの?」より ―署名:編集部 片桐圭子)

 むふ。受賞前9万部強(『博士の愛した数式』)とか、受賞前8万7000部(『夜のピクニック』)を、「売れ行きはよくない」と見なす感覚が、もう何といいますか。ちょっとズレてない?

「大賞受賞作としては、第1回の『博士の愛した数式』(小川洋子)、第4回の『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子)、第7回の『天地明察』(冲方丁)など、「知る人ぞ知る」作品を選出。ヒット連発の実績は、文学賞としての地位を確立させ、「現場をよく知る書店員だから発掘できる良作」の期待も高めていった。

 しかし他方で、第3回の『東京タワー』、第6回の『告白』、昨年(引用者注:第8回2011年)の『謎解きはディナーのあとで』など、受賞前に何十万部も売れたベストセラーが選ばれることに対する批判も受ける。(引用者中略)

 最終候補に残った作品には、発売前に出版社が書店員に見本を配った作品も少なくない。本屋大賞には、「書店員が選びやすい本の中から好みの作家を薦める」賞に偏りつつあるのだ。」(『日経エンタテインメント!』平成24年/2012年6月号「“本好きの代弁者”から変容 本屋大賞はどこへ向かうのか?」より ―署名:土田みき)

 出ました。文学賞オタクのツボをくすぐらせたら、いま日本でトップクラスを争う土田みきさん。最初に挙げている例を「「知る人ぞ知る」作品」とくくる、この強引さ。牽強付会のお手本のような解説。たまりませんね。

 で、今年です。第12回2015年。1月21日にノミネート作が発表されて以降、日本中がみな本屋大賞サマに夢中になり、電車に乗っていても「こんどの本屋大賞、だれがとるのかな」と多くの人が話題にしているこの状況。やはり今年もワタクシは、いつかどっかで聞いたような「いまや本屋大賞は直木賞を超えた」と得意げに語っている声を、何度も耳にしました。何ほども刺激的でない、穏やかな日々。心地よいです。

 合わせて「本屋大賞批判」のほうも活発に飛び交っているご様子。とくに今年もいつものように、直木賞の候補作やら受賞作やらをノミネートしてくれたおかげで、いっそう直木賞にからめた本屋大賞サマのお姿が、映え際立っています。

 ちまたの人びとに言わせると、「直木賞候補になって世に知られている本を、わざわざノミネートするとか、意味なし」「直木賞受賞作がノミネートするなんて、もう本屋大賞も価値がなくなった」だそうですけど、でも本屋大賞サマって、第1回のときから、直木賞とはことさら好みの似たトコ、ありましたもんね。これまで、直木賞候補作がノミネートされたのは第1回の『重力ピエロ』からかぞえて14作(今回で16作)、直木賞受賞作だって第1回の『4TEEN フォーティーン』から過去5作(今回で6作)もある。

 どうぞ本屋大賞サマには、そのまま「売りたい本」を選んでいただきたいです。そして直木賞のほうは、懲りずに売れない本を選びつづける。それで天下の書店員サマがたからそっぽを向かれる。……ね、ほんとカワユいですね、直木賞。

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2015年1月18日 (日)

「芥川賞・直木賞は落日を迎えている。」…『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』昭和58年/1983年4月・幸洋出版刊所収「マスコミに現れた文春三賞(芥川賞・直木賞・大宅賞)の評判」坂口義弘

■今週の文献

『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』昭和58年/1983年4月・幸洋出版刊 丸山実・坂口義弘・著

「第II部 ルポルタージュ文藝春秋
第2章 マスコミに現れた文春三賞(芥川賞・直木賞・大宅賞)の評判」

坂口義弘

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2015年1月16日 (金)

第152回直木賞(平成26年/2014年下半期)決定の夜に

 芥川賞は小谷野さんにとってほしかった……。と第144回のときも言ったと思いますけど、芥川賞はさておき、第152回直木賞(平成26年/2014年下半期)が1月15日夜、決定しました。候補作すべてが帯にみじかしナントヤラで、けっきょく受賞作なしに落ち着く、みたいな消極的な回にならなくて、とりあえずホッとしています。

 と、「いったいおまえどの立場からもの言っているんだ」という感想を申しましたところで、直木賞ファンとはつまるところ、直木賞候補作群のファンです。今回、いろいろと妄想、夢想を一読者に与えてくれた4つの候補作には、なにはさておいても感謝しなければなりません。いつもどおり。

 中央公論新人賞とって、そのあとが続かなくて、しばらく経ってから再び登場、そして直木賞、……って、おお、色川武大の再来か!? と夢想をひろげさせてくれた青山文平さん。「単に昔のことを書いた時代小説」みたいな世界からすでに大きく飛翔しているので、これからもガシガシ重くて深い、でも読みやすい小説を、きっと読ませてくださるでしょう。うれしいです。あ、そういえば色川さんも、初回の候補のときは、何だかんだケチつけられて落とされましたしね。ワタクシの夢想は、まだ終わってはいません。

 夢想といえば『あなたの本当の人生は』。大島真寿美さんの筋運び、気合い、そして小道具(というかそっちがメイン?)の使い方には、酔わされました。何が何だか、じっさいの世界のことを書いていないようでいて、現実に通じているヘンテコリンな(←褒め言葉)お話。他の文学賞が捕まえきれなかった大島さんの独特な世界に、ボンクラ直木賞ごときが太刀打ちできるわけもなかったのですが、直木賞にまたチャンスを与えてやってくれるとありがたいです。いつかは直木賞も気づく日が……いや、いつまでも懲りないのが直木賞ですので、直木賞が大島さんに追いつける日がくるのかどうか、不安ではありますけど。

 そりゃ期待しました。夢みました。『宇喜多の捨て嫁』なんて読まされたら、まさかのデビュー作に、しかも時代小説に厳しいはずの直木賞だって、さすがに賞を与えるんじゃないかと。ここまで胸おどらせてくれて、木下昌輝さんに「ありがとう」以外の声をかける直木賞ファンが果たしているのでしょうか。まったく、一発目でどーんと授賞していれば直木賞、カッコよかったのになあ。ほんと直木賞ってダメなやつだなあ。悲しいですよ、ワタクシは。

 ひとり「直木賞vs.本屋大賞」こと万城目学さんのサイコロが、これで、またまた本屋大賞側に投げ返されました。なにしろ「直木賞とは違って、うんぬんかんぬん」という評価を得てのし上がった本屋大賞のことです。今度こそ、万城目さんに賞をあげて、「本屋大賞エライ」「やっぱり直木賞、信用できないよね」の声を全国津々浦々に巻き起こしてくれることでしょう。これ、ひがみでも何でもなく、直木賞ファンはそんな展開を心の底から夢みています(ワタクシだけか?)。直木賞は基本、変な賞だから、べつにいいのです。書店員の方々、ぜひよろしくお願いいたします。

          ○

 西加奈子さんの心あらわれるような記者会見、あなた、聴きましたか? 直木賞がどうだとか、文学に興味はないが文学賞に興味があるとか、そんなこと言っている自分が恥ずかしくなりますよね(それでもワタクシは直木賞ファン、やめませんけど)。これでさらに(いままでも相当でしたが、さらに一層)スポットライトを浴びて、西さんの作家人生がますます充実したものになっていくことは、もはや夢想・妄想するまでもありません。

 直木賞は文藝春秋が有利、文春のものばっかりが受賞する出来レース、などという風評がこれで少しは収まるのか、どうなのか、よくわかりませんけど、きっと直木賞に対する妄想的な批判は、やむことはないんでしょう。そんなの全然気にしなそうな、自分の背に一本スジの通っていそうな方が、今期も受賞者になってくれたことに、オジサンはホッとしています(←おまえどの立場からもの言っているんだ、パート2)。

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2015年1月11日 (日)

http://ja.wikipedia.org/wiki/第152回直木三十五賞

第152回直木三十五賞

第152回直木三十五賞(だいひゃくごじゅうにかい なおきさんじゅうごしょう)とは、2014年(平成26年)6月1日~11月30日(2014年下半期)に発表された新人・中堅作家の大衆文芸作品を対象にして行われる文学賞のことである。「第152回直木賞」とも呼ばれる。

正確には152回目ではなく、「第21回」が1945年(昭和20年)上半期と、1949年(昭和24年)上半期(戦後中断期間含む)の2度発表されているため、153回目の直木賞である。

開催経緯

主催は、出版社の株式会社文藝春秋と関係の深い[要検証 - ノート]公益財団法人日本文学振興会。もともと直木賞は、1935年(昭和10年)上半期より年に二回ずつ開催されていたが(第6回までの主催は直木賞選考委員会)、1944年(昭和19年)下半期を最後に、戦争および戦後まもなくの混乱のため[独自研究?]中断。1949年(昭和24年)に復活して以降、社会的にその開催を待望する声があがったことは一度もない[要出典]が、とくに中止する理由もないことから、惰性で第152回も開催されることが決まった、と言われている[誰によって?](ただし現段階で、第152回直木賞の開催理由は公式に明らかにされていない)。

2015年(平成27年)1月15日に、9名の選考委員(後述)による最終選考会が、東京・築地にある料亭「新喜楽」2階で行われる。選考会は非公開。

候補作(最終予選通過作)

最終選考会に先立つ2014年12月20日、報道機関を通じて最終予選通過作が一斉に発表された。青山文平『鬼はもとより』(徳間書店刊)、大島真寿美『あなたの本当の人生は』(文藝春秋刊)、木下昌輝『宇喜多の捨て嫁』(文藝春秋刊)、西加奈子『サラバ!』(小学館刊、上下巻)、万城目学『悟浄出立』(新潮社刊)の5作品(著者名五十音順[要出典])である。作品の質とは関係なく[要検証 - ノート]文藝春秋の書籍が2つも選ばれている点が特徴。これらが選ばれた理由・背景について、すでにさまざまな論者[誰?]が分析しているものの、すべて臆測でしかなく[要検証 - ノート]、真の理由はわからない。

なお上記は、あくまでも「最終予選通過作」である。日本文学振興会が委嘱した文藝春秋の編集者たちが合議で決めたものであり[要出典]、最終選考会の冒頭、選考委員たちが了承してはじめて「候補作」となるのが通例[要出典]。そのため、最終選考会より前に「候補作」と表記するのは誤り、との説もあったが、第152回直木賞では多くの報道機関がこれらを「候補作」として発表した。真偽は不明である。

上記作品はすべて書店で販売されている。近年の直木賞の人気低迷を受けて[独自研究?]、主催者や「ニコニコ」(後述)を運営するドワンゴ/ニワンゴが、インターネット上で各作品の冒頭のみを無償公開した。公開されたのは一部分だけだったが、選考委員たちも結末のわからないこの状態のものを選考するらしいと誤解するユーザーが急増し、社会問題となった。[疑問点 - ノート]

直木賞では事前に、選考と直接関係のない第三者たちが当落を予想する行為が慣例化している[要出典]。予想結果の正誤が真剣に問われることはほとんどなく、おおむね遊戯的なものである[疑問点 - ノート]。そのため、候補作をまったく読まない(あるいは一部の作品しか読まない)上で立てられる臆測、希望なども「予想」として認められている。[独自研究?]

近年では、直木賞に注目しているならば当然「予想」をするべきだ、という状況が生まれ、事前に予想をしないで直木賞を語る者は卑怯だと、なかば予想を強要する「直木賞予想ハラスメント(ヨソハラ)」も発生している。[疑問点 - ノート]

第152回直木賞の場合、今回で5度目の候補となる万城目学の作品、2度目の候補となる西加奈子の作品を、受賞するだろうと予想する数が一般的に多い[要出典]。ただし、これは作家の知名度に比例した結果でしかないという観測もあり[誰によって?]、信用できる予想かどうか活発な議論がなされている。[疑問点 - ノート]

また、直木賞では時代小説が有利、との有力な説[要出典]を理由に、青山文平と木下昌輝の作品を、受賞に予想する声もあった。とくに木下作品は文藝春秋から刊行されており、主催側の寄せる期待も高い[要検証 - ノート]ため、その意を汲んだ選考委員たちが票を投じるのではないか、といういわゆる「裏取引」説を唱える声も根強くある[要検証 - ノート](「裏取引」説については、「第89回直木三十五賞」を参照のこと)。しかしこういった指摘は、根拠が薄弱[独自研究?]で、「妄想予想」とも呼ばれて軽蔑の対象となる[疑問点 - ノート]ため、現在では、一部の掲示板を除き、ほぼ行われていない。その点では、大島真寿美作品も文藝春秋の刊行だが、大島作品に対しては、以前からの愛読者が送る応援の意味合いの予想が混在している、という見方がある。[誰によって?]

選考委員

最終選考会に出席するのは、浅田次郎(8年・16期目)、伊集院静(4年半・9期目)、北方謙三(15年・30期目)、桐野夏生(4年半・9期目)、高村薫(1年半・3期目)、林真理子(15年・30期目)、東野圭吾(1年半・3期目)、宮城谷昌光(15年・30期目)、宮部みゆき(6年半・13期目)の9名。司会進行は『オール讀物』編集長が行う。[要出典]

選考委員は全員、生身の人間である。一貫した批評眼や選考基準はない[独自研究?]。そのことはしばしば批判の対象になる[誰によって?]が、批判する側[誰?]にも、他人のことを語れるほどの一貫した主張があるわけではない[独自研究?]ため、選考委員が外部からの批判を気にすることはない、と言われている。[誰によって?]

また現在では、選考委員を中傷する場合は、「上から目線だ」という、印象を全面におしだした感情的な表現でののしる例が多い。[疑問点 - ノート]

選考委員による選評は『オール讀物』2015年3月号に掲載される予定である。選評には、選考会での発言とはまったく違うことが書かれていることも珍しくなく[要出典]、選評は、外部から直木賞のことを興味本位で見て発言する者たちを煙に巻くためのもの、と位置づけられている。[疑問点 - ノート]

メディアへの露出

受賞決定後は、新聞、テレビ、ラジオ、インターネットニュース(個人によるブログ、Twitterへの投稿も含む)など多方面で報道され、話題に上げられることが確定している[要検証 - ノート]従来から[いつから?]他の文学賞に比べて、直木賞(および芥川賞)の二賞だけ、この露出度を維持しているが[要出典]そこに特別の理由はなく、やはり惰性である。[要検証 - ノート]

受賞者の記者会見は、ニコニコ生放送で中継される。受賞した作家や作品に関わりなく大きく報道されるため、多くの場合、これを嫌悪・中傷・罵倒・誹謗する声があがる[要検証 - ノート]通常は、それら批判的な盛り上がりも合わせて「話題となった」と解釈される[独自研究?]ため、この賞に利害関係を持つ者[誰?]のあいだでは、世間からの批判は歓迎されている[要出典]

受賞者は、『オール讀物』2015年3月号で大きく紹介される。加えて、TBS系列「王様のブランチ」、『週刊文春』連載対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」に優先的に登場する権利が与えられる[要出典]さらに話題性があると認められると[要検証 - ノート]月刊『文藝春秋』にもエッセイやインタビューが掲載される。SF翻訳家・書評家の大森望と面識がある場合には、「ラジカントロプス2.0 文学賞メッタ斬り!結果編」のゲストになる可能性も高くなる[独自研究?]

また、受賞者がメディアで取り上げられるのは一定期間に限られており、その露出が長続きすることはほとんどない[要検証 - ノート]。そのため、一般的に「直木賞は前回決まった受賞者さえ、すぐに忘れられる」といった表現を使って、自分の記憶力の低さや、直木賞に対する自分の関心の薄さを誇示する人も多い。[疑問点 - ノート]

反応

候補作を刊行している出版社、一部の[要追加記述]大型書店、または文学賞に関心のある奇人など[誰?]を例外として、選考会が行われるまでの反応は、ほぼ皆無と言っていい。[疑問点 - ノート]

評価

主催の日本文学振興会は「日本の文学を担っていく期待の受賞者が誕生した」と言い[要検証 - ノート]、読書メーターでは「受賞作と聞いて読んだけど期待したほどではなかった」という感想文が並ぶ。[要検証 - ノート]

参考文献

  • 『オール讀物』2015年1月号(候補作の冒頭抄録と、候補作家全員のインタビュー記事が掲載されている)

外部リンク

 という内容の項目をつくったところ、ご見識をもって取り締まっていらっしゃる方々から上記のようなタグがバシバシ貼られ、気づいたら項目そのものが削除されていました……。

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2015年1月 4日 (日)

「芥川賞・直木賞というと、何かとてつもなく偉いものと考えるのはどうかと思う。」…『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち」無署名

■今週の文献

『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号

「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち
『命を賭けるほどのものではない』というけれど…

無署名

 候補作が発表されて、選考会を迎えるまでの時間。せっかくなので、ドキドキワクワクするこの短い期間ならではの話で、しかも、いまの拙ブログのテーマ「直木賞に対する批判」にまつわる内容を合わせもった、そんな文献はないかと考えました。今日はこれで行きます。

 いまから51年前です。第50回(昭和38年/1963年・下半期)の直木賞(と芥川賞)が発表された直後に『週刊サンケイ』2月3日号が発売されましたが、そこに、当時の候補者たち全19名のうち、なぜか不参加の芥川賞候補者・森泰三さんを除く18名の面々が、騒がしいなかで取材を受けてコメントを寄せた記事が載りました。有名人・無名人問わず、候補となった人たちが、選考会のまえに答えた直木賞観(および芥川賞観)がてんこもり。まるで豪華な福袋のように、さまざまな内容がギュッと凝縮されていて、お正月にもぴったりな記事じゃないですか(←スゲーこじつけ)。

 さて、この記事ですが、いきなり両賞への批判をぶちかます、なんて品のないことは、当然しません。「候補と決まってどう思ったか」「最近の芥川賞・直木賞をどう思うか」といった質問に対する候補者たちの反応を4つのタイプに分類し、まずは「初候補、ありがたいことです 感激型」から紹介する、という定石を踏みます。それから「“処女を破られた”気持ちよ 不安型」「“落選には自信があるネ” 諦め型」と進みまして、「“賞なんて甘っちょろい感じ” 抵抗型」と、二つの賞に対する批判的な声へとなだれ込んでいくのです。オイシイものは最後にとっておこう、の作戦ですね。

 ほんとうは全員の全コメントを紹介すると面白いんですが、かいつまみます。まずは、直木賞の候補者たちの声から参りましょう。

 直木賞候補者のコメントの場合、おおむね2つに分かれます。候補になったことにガッツリ食いつく「反応型」と、そんなに嬉しがったり(あるいは反発も)しない「無反応型」です。

●江夏美子:(引用者注:候補と聞いて)飛びあがるほど嬉しかった」「(引用者注:今回は)期待してませんが、二回、三回と回を重ねていくうち、いつかはとりたい」

●戸川昌子:「なにかというとセックスに結びつけ、変な目で見られているようでクサっていたの。だから候補になったと聞いて、認めてくれる人があったのだと、涙がでるほど嬉しかった。ものすごく嬉しいわ、受賞しなくても、候補になっただけで満足よ」「発表の前日あたりからソワソワするんじゃないかと思うわ。もらいたいのが人情ですものね。直木賞は私の目標ですし、一度はこの手で握りたいと思うの」

●津村節子:「候補にあげられるのがうちでは年中行事みたいでしょう。年に二度のうち、どちらもこないとガッカリします。忘れられたようでさびしいのね。こんどのは候補になっただけで儲けものと思ってるの。」「芥川、直木賞といわず、賞はもっとふやしたほうがいいわ。励みになるし、賞を得たことでいい舞台が与えられるからです。」

●和田芳恵:「とにかくこれまでいろんな文学賞の候補にあげられること七回。もらったのは日本芸術院賞(昭和三十二年『一葉の日記』で)だけ。こんども期待してないけど、しかし落ちつかんね。ソワソワしているのが自分でもわかる」「(引用者注:「賞などとれなくてもよい」という候補者について)単なるツヨガリでなければ賛成だが、もらえない人にかぎってそんなことよくいいますね。私も芸術院賞を受けて、やはり嬉しいもの。理クツなしで喜ぶのが人間味があると思う」

●野村尚吾:「賞がいらないという口ぶりの人は、芥川賞なんかもらうのこわいのじゃないですか。もらったものの、何か新しさを背負わされ何かと批評の対象にされ、それでつぶれる人もいますからね。それで警戒した発言しているんじゃないですか」「私が候補で発表を待った夜はいつも七時、八時となると落ちつかなくなります。酒でものんでまぎらわせないことには耐えられませんよ」(『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち」より)

 といったところが「反応型」。だいたい直木賞に対して肯定的なとらえ方をしているし、江夏さんのように「いつかはとりたい」、戸川さんのように「私の目標」とまで言ってくれる人もいました。その反応、じゅうぶん想像できるものです。

 ただ、そんな人ばかりじゃなかったことには注意が必要なんですよね。「近ごろは直木賞も権威がなくなり、誰もかれもが欲しがらなくなった」などという、21世紀の珍説をあざ笑うかのように、50年前だってクールに直木賞を受け止めていた人もずいぶんといた、ってことを知らしめてくれるのが、残りの5人です。

●安藤鶴夫:「まだ決まってもいないのに、とやかくいうのはどうかと思う。何もしゃべりたくない」

●川野彰子:「ほかの方、ベテランばかりで、とても期待していません。でも、候補に推された以上はもらえたらエエのになあ、と思うんです。といって、ソワソワしてはいませんよ」

●樹下太郎:「こんどのは軽い気持ちで書いただけに、候補になるのは意外」

●山川方夫:「前も自信なかったけど、こんどはそのなかでもいちばん自信がない。それだけに気が楽です。自信があるとソワソワするんですよ」「どうしてもとらなければならないといったものでなく、ひとつの目標になる種類のものだ。生命を賭けてというほどのおおげさなものではないでしょうがまあもらったほうが便宜上、トクだ、ということですね」

●小松左京:「仲間のだれもが、受賞したらお祝いの会を開いてやろうとはいわないね。それどころか気の早い連中が、どうせ落ちるんだからと慰めの会をやってくれたよ。オレ自身もまだまだと思ってるからね」(同)

 ええと、安藤さんの場合は、その後受賞してからの喜びようからして、「反応型」だったんじゃないか、と疑わせはしますが、決定前のバカ騒ぎに加担しようとはしなかったことは事実なので、こちらに入れました。

 どっちにせよ、欲しいと公言する人、そうでもない反応をする人、いろんな受け止め方をしているんだな、という当たり前で凡庸すぎる感想しか浮かびようがありません。……平成27年/2015年の候補者たちのコメントとして使用しても、何の違和感もなく通用するものばかりです。

 ひるがえって芥川賞はどうでしょうか。じつはこの記事のいちばんの見どころは確実に、上の直木賞候補者たちのタイプ分布と、これから挙げる芥川賞候補者たちとの違い、ギャップ、熱量なんです。

 こちらは「反応型」のなかに、賞を肯定するタイプと、否定するタイプの二派があるうえに、「無反応型」も最近の芥川賞について何らか懐疑的なコメントが付け加わる、という何とも豊潤な構図。賞としての盛り上がりは常に芥川賞のほうが上だよね、ってことを如実に感じさせる仕上がりになっています。

 最初に「反応型―肯定派」から。

●木原象夫:「嬉しいというよりアッケにとられました。とにかく私の初めての小説ですからね」「これを機に勤め(丸福証券総括課長)の余暇をみつけ、一度は芥川賞を手にしたい」

●清水寥人:「当選が決まる前に、もう八十枚の注文でしょう。驚きましたね。(引用者中略)おじいちゃん、おばあちゃん、それに三人の子供、みんなが、私の書くことに協力してくれるようになりまして、ありがたいことです。だって芥川賞といえば日本のノーベル文学賞でりっぱなものですからね」「今年はダメにしても、数年後にはやっつけてやろうと、正月に決意しましてね。好きな酒もセーブしてます」(同)

 対しますは「反応型―否定派」。のちに「芥川賞候補を辞退した!」と噂になる阿部昭さんと、この段階ですでに著名作家だった井上光晴さんのお二人です。

●阿部昭:「芥川賞をナメてるわけじゃないですが、八百長といっちゃ悪いけど、甘っちょろいのを感じるんです」「運、不運で決まるなんて宝くじみたいな印象じゃ、文学とかけ離れ過ぎてないかな。賞をなくせとはいいませんが、候補作なんて発表せずに、一気に受賞作を発表すれば、みんなも心理的な動揺うけずにすむんじゃないでしょうか」

●井上光晴:「万万が一、私にくれるとなればどうするか。受けるか辞退するか考慮中」「芥川賞、直木賞というと、何かとてつもなく偉いものと考えるのはどうかと思います。世間の目に、作家まで犯されているのではないかしらね。ボクなんか、芥川賞にまつわるすべてもろもろに攻撃をすべき立場にあるべきだと思ってます。」「職業作家はとかく安易に考えて、賞を受けるとお墨付き、免許証をもらったつもりになるようですね。それはむしろ危険な状態におかれることなんですのにね。」(同)

 芥川賞を「八百長」と言う阿部さん、攻撃すべき立場にあると自負する井上さん。まっとうですね。

 「無反応型」といっていいのが以下の4人でしょう。懐疑派、と言い換えてもいいです。これも極めて自然で当然な意見が開陳されています。

●佐藤愛子:「前回の『ソクラテスの妻』が評判よくて、もしやと思っていたんですが落ちたでしょう。こうなれば、これで処女が破られているみたいものだから、こんどは期待も動揺もありません。賞にならない予感が強いですよ」

●田辺聖子:「お友だちや、まわりの人たちが、私より二十一日(受賞作発表日)を待ち遠しがってるんですが、私は落選祝いをしましょうといまから決めています」「私ぐらいのもの書きは大阪にもゴマンといやはりますから」「励ましの意味と、偉い先生に読んでいただける有難さはあるが、どうもこうお祭り騒ぎになりすぎてはね。勲章で飾りたてる感じで、うなずけないわ」

●鴻みのる:「興味なしといえばウソですが、ヒトごとのように、関心あまりないんです。作品としては四番目のものですが、どれも五十枚以内の短編ですからとてもムリですよ」「最近の受賞作家は最低のデキでした。その後の作品ロクなのありませんよ。ボクが候補にでるなんて、日本の文学もよほど新人不足なんでしょう」

●平田敬:「友人なんか、初めから“なぐさめてやろう”という申し出ばかりで落選を認めてます」「ボクは馬券買わないで競馬みているみたいなもんです。選考経過でどんなこといわれるか、それだけの興味ですよ」「本当に芥川賞に値するかどうか疑問のものもあるんじゃないですか。その点、権威も薄れてきてますね」(同)

 「お祭り騒ぎになりすぎ」、「権威も薄れてきている」……こういった芥川賞批判をweb記事、ブログ、twitterなどで見かけたら、まず50年前の芥川賞候補者のマネをしていると思って間違いありません(……間違いないのかな)。

 どれもこれも、あるある、というか、時代性を感じさせない永遠の直木賞観・芥川賞観というか。こういう両賞へのコメントはいつ何度、目にしても見飽きることがなく(って飽きてないのはワタクシだけか)古びません。

 そして注目したいのは、直木賞と芥川賞の、扱われ方の違いです。パッと見れば両賞平等、まんべんなく取材されているように見えて、その実はどうでしょう。この記事をまとめた無署名子は、芥川賞に対しては、批判する意見、擁護する意見も採り上げています(直木賞候補者の野村さんも、「賞がいらないという人」=「芥川賞がいらないという人」の文脈で語っているのにお気づきでしょうか)。しかし直木賞についてはほとんどそういう言及がありません。

 そもそも、いくら同じ日に決まるとはいえ、この二つの賞に対する候補者のコメントを、ひとつの記事のなかに混在・ごっちゃにしてまとめようとしたのが、無理の原因でした。その点も、平成27年/2015年の両賞(をとりまく報道)に通じていて、まったく時代性を感じさせない良記事だと思います。

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