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2014年10月19日 (日)

「東京の出版社が主導する直木賞では拾えないような作品を。」…『北國新聞』昭和48年/1973年10月31日「鮮明な賞の性格~第一回泉鏡花文学賞選考経過から~」奥野健男

■今週の文献

『北國新聞』昭和48年/1973年10月31日

「鮮明な賞の性格
~第一回泉鏡花文学賞選考経過から~」

奥野健男

 直木賞は、とくに何も悪いことをしていないのに、ただそこにある、というだけで攻撃対象になることがあります。

 文芸関係の記者、報道関係者、その他ジャーナリストを気取る人々が、抑えきれない文学賞に対する情熱をもって、直木賞のまわりに群がり、いろんなところで取り上げる。こういう「何かが派手に取り上げられている」状態が気に食わない人びとって、どの時代、どの地方にも一定数いるものですが、そういう人たちの頭の構造は少し特殊らしく、「取り上げている」報道機関を叩くのはもちろんのこと、「取り上げられている」だけの対象(=直木賞ですね)までも、全身全霊、嫌悪の対象としてクソミソに責め立てたりするわけです。たいした受賞作・受賞者を選んでいない、とか言って、悪魔を退治しようとしてるがごとく直木賞をけなしたりします。

 昭和48年/1973年から始まった泉鏡花文学賞も、創設時から直木賞をクソミソに誹謗してきた賞……なわけはないんですけど、少なくとも直木賞(と芥川賞)への対抗心をむき出しにして、そのスタートを切ったことは確かです。心の底には、常にいちばん注目を浴びる先発の賞、直木賞・芥川賞とは違うことをやって、これらに伍すぐらいの注目度を得たい、ということも、あったんじゃないかとは思います。

 鏡花賞の第1回目。最終選考会では、当然この賞をどのような性格のものにしていくかが話し合われ、「泉鏡花の文学の世界に通ずるロマンの薫り高い作品」を選んでいこう、という今も公式で謳われている通りの話になりました。……なりはしたんですが、じっさいのところ、それが第一義だったわけではなく、当時の選考委員たちが、もっと他に大切にしていきたいこととして申し合わせたことがあったんです。

 選考委員のひとり、奥野健男さん、意気軒昂に語り上げます。

「はじめての試みとして賞の性格、特徴をどこに置くか、ぼくら選考委員はこの春以来、慎重に検討した。そして全国的規模ではあるが、中央(東京)の出版社、新聞社をバックとする文学賞では授賞の機会が少い作品、目が行きとゞかない作品で、真にすぐれた文学的可能性を含む作品を選びたいという意見に一致した。それに加味して泉鏡花の小説、芝居、随筆に及ぶ多面的な活躍、ロマンや伝奇の傾向が少い明治以後の日本文学に、近世から近代へとロマンと妖美の伝統を橋渡しした泉鏡花にふさわしい作品が見つかれば、最上だという気持であった。」」(『北國新聞』昭和48年/1973年10月31日 奥野健男「鮮明な賞の性格~第一回泉鏡花文学賞選考経過から~」より)

 「泉鏡花」の名前は二の次にして(というと語弊もありましょうが)、まずは、東京の出版系文学賞では選び出せないようなものに授賞する。そのことを重要視してきましょう、と。

 では、なぜ東京の文学賞が選ばないようなものを優先するのか。みたいなことは、ツッコんでは解説されていません。だけど、「地方自治体が主催する初めての賞」という気負い(いや、プライドというか自負)が、ここにあっただろうことは言うまでもありません。

 東京の文学賞、というのを噛み砕いて言いますと、文学賞スゴロク、文学賞レールのようなものが想定されていたのかと思います。直木賞のほうはまだその先のステップが整備されていないときでしたが、芥川賞のほうは徐々に路線が敷かれ始めていた頃で、芥川賞をとったら、次は少し頑張って谷崎潤一郎賞→日本文学大賞(元は新潮社文学賞)→読売文学賞→野間文芸賞→芸術院賞(これは出版社系ではないけど)と進む。その後、東京の文学賞は数々できましたが、主催側も委任された選考委員も、どうしても、上記の路線のなかのどこに自分の賞を置くか、を気にするようになるらしく、まずこのルートを荒らすような位置づけで賞がつくられたりはしません。

 それは直木賞・芥川賞そのものの罪じゃなく、人間どものしがないサガのせい、なのでしょうけども、上記に挙げた賞の名前など広く知られていないのは、昔もいまも事情は同じです。こういった「東京の文学賞(レール)」全般への対抗、といったときに、「直木賞・芥川賞」では拾えなかったものを選ぶ、という表現になるのは自然なことでした。

「選考委員会のあと記者会見した井上靖、奥野健男、尾崎秀樹、五木寛之らの各氏は次のように語った。

 泉鏡花の持っている多様性を、この賞に盛り込みたいと考えて選考に当たった。その意味で責任は重かったが、芥川賞や直木賞で拾えない傑作が選ばれたと思う。」(『北國新聞』昭和48年/1973年10月25日「傑作が選ばれた 選考委員の話」より)

 現に、受賞した半村良さんや森内俊雄さんをはじめ、候補に挙がった塚本邦雄さん、荒巻義雄さん、津島佑子さん、唐十郎さん、ひとりとして直木賞・芥川賞の受賞者は含まれていませんでした(半村さんは直木賞に1度、森内さんは芥川賞に5度、津島さんは2度、落とされていました)。

 奥野さんの「選考経過」には、はっきりこんなことも書かれています。直木賞からはハナシはズレますが、重要な箇所なので引いておきます。

「この作者(引用者注:森内俊雄)は何度も芥川賞候補になっていてその実力は広く認められているが、現在の芥川賞委員の構成ではそのよさが公認されないのではないか。今までの氏の作品にくらべ特にすぐれてないにしろ鏡花賞は、伝奇性、神秘性もあるこういう作家に与えるのが意義あることではないかという意見が強かった。」(前掲「鮮明な賞の性格」より)

 『翔ぶ影』に、というより完全に、芥川賞候補に何度もなっては落とされてきた森内さん、という作家に対して与えられた賞だったわけですね。ちなみに半村さんは、第69回直木賞で『黄金伝説』が落選してから3か月後の授賞でした。

 以後、第5回鏡花賞の色川武大さん、第9回筒井康隆さん、第12回赤江瀑さん、第13回宮脇俊三さん、第16回泡坂妻夫さん、第25回京極夏彦さん……といったような人たちがみな、それまでの直木賞では拾えなかった作家・作品を、鏡花賞がすくい上げた例として残っています。

 東京の文学賞とは違った賞になりそうだ、といった展開に、奥野さん気をよくしたか(?)、選考経過の最後ではこんなことも付け加えてくれました。

「なお選考委員会の行われた場所の控え室に、受賞の結果を待ちかまえている各新聞社、報道関係者の数は、芥川・直木賞なみに多く、泉鏡花文学賞への全国的な関心の強さをひしひしと感じさせられた。」(同)

 いま読むと、たいへんせつない気持ちになる記事ではありますが、どんな人・どんな作品を選ぼうがかならず視線を集める直木賞・芥川賞に比べ、うちの賞はこういった傑作を選び出して、同じくらい(ほんとか?)の注目が集まったのだ、と。奥野さんはそんな意地汚い感想は述べていません、念のため。だけど、それならきっと、全国にいる「報道機関に取り上げられている」状態が嫌いな人たちも、文句を挟まないでしょう。おそらくは。

 ただ、ご存じのとおり、泉鏡花文学賞はその後、方針を転換して(したんですよね?)、創設当初に掲げた「東京の文学賞レールとは別の道を行く」という第一目標を捨てて、他の賞でも取り上げそうな作品、あるいは現に取り上げられてきた作家たちにも続々と与えられる賞に様変わりました。

 いまも選考会の当日は、直木賞・芥川賞と同じくらいの数の記者が待機している、のかどうかは知らないのですが、少なくとも、ただ注目されるだけの直木賞(と芥川賞)とは、別の姿でありつづけているとは思います。そこに存在するだけで罵倒されるような賞よりは、そっちのほうが平穏ですもんね。

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