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2014年5月 4日 (日)

阿川弘之〔選考委員〕VS 深田祐介〔候補者〕…賞で結ばれた二人、20数年後またも賞にて相まみえる。

直木賞選考委員 阿川弘之

●在任期間:通算3年
 第83回(昭和55年/1980年上半期)~第88回(昭和57年/1982年下半期)

●在任回数:6回
- うち出席回数:6回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):44名
- うち選評言及候補者数(延べ):18名(言及率:41%)

 いったい、どうしてこの人が直木賞の選考会などに駆り出されたのか。直木賞七不思議のひとつ、として時どき囁かれてはいるものの、ネタが小ぶりすぎて誰も公然と語りたがらない、阿川の父さん、意味不明なたった3年間のお勤めでした。

 この意味不明さこそが直木賞の身上だ! と言っちゃいたいところではありますが、基本文学賞などどうでもいい、と無関心を装う阿川さん。世の中、文学賞=文壇人事となると、関係もないのに何だかんだと騒ぎ立てようとするワタクシのような人種は、昔からたくさんいたでしょうから、おそらく煩わしいだけだったでしょう。阿川さん自身も、文学賞のからむ話を「甚だうつたうしい」と形容していたりします。

 と、その形容が出てくる、開高健さんの追悼文「早すぎた終焉」に、阿川さんの文学賞観が出てきます。問題となったのは昭和62年/1987年の日本文学大賞。このとき阿川さんは、自分では「文芸」のつもりで書いた『井上成美』が、なぜだか学芸部門を受け、文芸部門は開高さんの『耳の物語』に贈られました。開高さんは自身、文芸部門の選考委員として名を連ねています。ずっと文士としての友人だと思ってきたけど、何だよ開高、賞に執着して醜いな、と阿川さん、憤慨し、ほぼ絶交しました。

 以下、病床の開高さんから届いた、そのときの言い訳めいた手紙に、こう返信を書いた、と語る場面です。

「もし僕が選考委員だとしたら、先づ自分のものを候補作のリストから除いて貰ふやうに頼んだだらう。信じてくれるかどうか分らないが、僕は志賀直哉に師事して、志賀先生といふ人が生涯文学賞と無縁の人だつたせゐもあつて、文学賞にそれほど執着が無い。少くとも、なりふり構はずといふ風にはなれない。どちらかと言へば文壇嫌ひだし、文学賞が欲しくて身も世もあらぬといふ感じはいやなのだ。だから選考委員自ら受賞の醜態が起らぬやうに、ちやんと手を打つて、その上で、友人の作品が他の候補作と較べてさほど遜色無いと思へば、何とかやはり、友達に賞が行くやう努力しただらう。」(平成19年/2007年1月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十八巻』所収「早すぎた終焉」より ―初出『新潮』平成2年/1990年2月号)

 文学賞完全否定、ではありません。ただ、自分でよだれダラダラ流してその世界に居座ろうとするのは、みっともない、ちゅうぐらいのスタンスです。

 何より面白いのが、「友達に賞が行くやう努力しただらう」のところですよね。

 だいたい文芸作品をモノサシで計れるわけはなく、言えるのは「他の候補作と較べてさほど遜色」があるかないか、程度のこと。そこで「いや、おれは人間関係など超越して、作品の出来のみをもって評価をくだすことできる有能な評論家でもあるのだ!」などと、カッコつけたりせず、そういうときは友達に賞が行くよう努力するもんでしょ、と言っちゃうところが、阿川さんの可愛さであり、またカッコよさでもあります。

 いいじゃん、情実選考。それの、何が悪いの? 情に流されるなど言語道断、賞は作品本位で選ばれるべき、などとほざいて悦に入っているほうが、よっぽどカッコ悪いです。たかが文学賞のことで、何、カッコつけているのさ、っつう感じで。

 阿川さんの直木賞選考委員生活は、たった3年で終わりました。そのたった3年。さして大衆文壇・中間小説界隈に顔が広かったわけでもない(んでしょう)阿川さんの目前に、知り合いも知り合い、よく知る作家が候補として挙げられてしまうのですから、縁も縁です。

 遠く20数年前、自分が文學界新人賞の選考委員だったときに、けっこう推して当選にこぎつけた新人。深田祐介さんです。

 第7回新人賞の決定発表は、『文學界』昭和33年/1958年10月号に載りました。ここに、おそらく深田さんが文春を訪れたときに撮られた写真が掲げてあるんですが、選考委員、阿川弘之さんとの2ショット! ここから始まって昭和57年/1982年上半期の第87回直木賞へとつながる、という。……運命のめぐり合わせ、とも表現したくなります(おおげさ)。

 選考経過いわく

「残った三篇(引用者注:千早耿一郎「銅像の町」、山下宏「王国とその抒情」、深田祐介「あざやかなひとびと」)について激論が交わされたが「銅像の町」を野間(引用者注:野間宏)委員が、「王国」を福田(引用者注:福田恆存)委員が、それぞれ強く推されたほかは、阿川、椎名(引用者注:椎名麟三)、臼井(引用者注:臼井吉見)三委員とも深田氏作を推薦し、結局、「あざやかなひとびと」が当選と決定した。」(『文學界』昭和33年/1958年10月号より)

 っつうことでした。そんなわけで、推していたという阿川さんの評が、これです。

「深田祐介氏の「あざやかなひとびと」は、外国の航空会社の羽田の事務所へ新しく採用された二人の日本人の青年を中心に、角田という二世や、おゆりというしたたか者のスチュワーデスや、様々の人物が此の近代的な職場で繰りひろげる人世絵模様で、通俗臭はあるが、新鮮で活き活きしているところが、私には大きな魅力であった。中々ユーモアもある。角田という二世は、特によく書けていた。」(同号「新鮮な魅力」より)

 このとき阿川さん38歳、深田さん27歳。初のご対面となりました。

深田 当時の文藝春秋の社屋が銀座の旧電通通り、日航ホテルの前にあったんですね。受賞の知らせがあって、そこの文學界編集部に来るように、と担当のYさんに呼ばれた。編集長のあいさつがあって、そのあとYさんから「選考委員を代表して、阿川さんからいろいろ注文があります」というので、別室に行って、初めてお目にかかった。

阿川 いや、いや、どうも汗顔のいたり。大変失礼いたしましたようで……(笑)。

深田 そこで雑誌のゲラを渡されて、誤字、脱字、表現の、たとえば「エンプロイ」(Employee=従業員)は、「エンプロイイ」と一字足さなければならない、とか。

阿川 そんなこといったかね、ろくに英語もできない人間が(笑)。

(引用者中略)

深田 第一回の文學界新人賞は石原慎太郎氏の「太陽の季節」ですけど、阿川さんは選考委員でしたか。

阿川 いや、ちがう。ぼくは、あなたからだけど、あまり他の人の記憶がないんだよ。わたしが推薦した深田祐介だけ、とにかく功なり名遂げて立派な文章書かれる大流行作家におなりになって、わたしら嬉しいですよ。

深田 よくおっしゃるよ、もう。返す言葉がないですよ。」(平成17年/2005年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第五巻』所収「[対談]昭和史と私」より ―初出『別冊文藝春秋』183号[昭和63年/1988年4月])

 阿川さんが選考委員だったのは「深田さんのときから」ではなく、第5回から第8回までの4回分。最後第8回の佳作は、三好徹さん(当時の筆名は三好漠)でしたけど、もちろん、そういう野暮なことは言わず、阿川さんのオトボケ(のふり)全開、って感じです。

 このあと、深田さんはいっとき小説の執筆に挫折感を味わい、日航のほうでバリバリ(?)働きます。あいだ、阿川さんとは縁が切れなかったようで、復帰作といってもいい『新西洋事情』出版の折りには、文壇パーティーぎらいを自称する阿川さんも出かけていった、っつうエピソードが、『新西洋事情』新潮文庫の解説に書かれています。

「日本航空の同僚上役と文壇関係の知友とが集まつて、小さな出版記念会が開かれた。だが、依然大して世間の評判にはならなかつた。出版記念会の帰り、私は車の中で、「面白いんだがなあ。再版にならないかねえ」、「どうも、再版の話なんか一向無いやうでして」と、著者と話し合つたのを覚えてゐる。それが、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した途端、再版どころか、突如爆発的な売れ行きを見せ始めた。」(平成18年/2006年12月・新潮社刊『阿川弘之全集 第十七巻』所収「深田祐介著「新西洋事情」」より ―初出 昭和52年/1977年7月・新潮社/新潮文庫『新西洋事情』)

 この解説では、「あざやかなひとびと」を受けてから、『新西洋事情』で再登場するまでの深田さんのことが、簡潔にまとめられています。阿川さんは、そのなかに「深田祐介には、沈黙の時期もふくめて二十数年間、文章で苦労した下地が」あるととらえ、こう期待を寄せました。

「『新西洋事情』以後深田祐介の書くものを注意して見てゐると、これはこれで、一つの新しい文学的ジャンルを切り拓いたのではないかといふ気がする。

 小説らしい小説だけを文学と見なさなくてはならぬ理由は無い。しかしまた、この手の素材と手法とにだけ著者がとどまつてゐなくてはならぬ理由も無い。深田祐介には、プラスに転化出来るマイナス・エネルギーが、未だ未だ残つてゐるはずである。」(同)

 この文庫解説が、昭和52年/1977年7月のもの。まだこのとき、阿川さんがゆくゆく直木賞の選考委員になろうとは、誰も予想していなかったでしょう。そもそも深田さんにしても、第40回(昭和33年/1958年下半期)に直木賞候補になって以来、直木賞とはとくに関係のない時期でした。

 翌年の昭和53年/1978年7月。『日本悪妻に乾杯』が第79回の候補に挙がってから、怒濤のごとき深田さんの、直木賞候補ラッシュが始まります。

          ○

 第79回(昭和53年/1978年上期)から、第82回(昭和54年/1979年下期)、第84回(昭和55年/1980年下期)、第86回(昭和56年/1981年下期)……。途中、同じ日航に勤めるノーマークの新人、中村正軌さんに、お先をやられてしまう珍事も発生しましたが、また駄目か、またまた駄目か、を繰り返します。

 阿川さんが直木賞選考委員になったのは、その途中のことです。

 第84回、さすが阿川さん、乗り物狂い、として名を馳せるだけのことはあって、中村正軌『元首の謀叛』を語るに、

「中村氏の現職を知れば当然ながら、航空機の扱ひもあざやかで」(『オール讀物』昭和56年/1981年4月号 阿川弘之「野心的な試み」より)

 などと、あまり人が注目しない航空機の扱いなどを褒めてみせながら、これを推薦。いっぽう、お知り合いの深田さんに関しては、こう書きました。

(引用者注:『元首の謀叛』の)ほかの候補作では、深田祐介氏「アラスカの喇叭」と、西村望氏「薄化粧」に未練が残つた。

 「アラスカの喇叭」は深田氏がお手のものの素材で、達者な面白いうまい短篇。(引用者中略)文学作品にも時の運不運があり、「元首の謀叛」が無ければ、「アラスカの喇叭」か「薄化粧」かが受賞といふことになつたかも知れない。」(同)

 時の運不運、だそうです。この辺りの記述からも、阿川さん、賞という舞台について、何か小説の厳密な出来不出来を判別するところじゃない、と考えている姿勢が伝わってくるようでもあります。

 その後、第86回ではどの候補作も推せずに、受賞作なしと思って出席、といったところで選評でも深田作品への言及はなし。さらに半年後、第87回(昭和57年/1982年上期)、このときも阿川さんを満足させる候補作はなく、かなり直木賞が候補として選んでくる作品群に、失望をにじませています。ただ、何しろ深田さんは「友人」ならぬ、期待の後輩、しかも文学賞は小説一作の良否について裁定をくだす行事ではない、と心得ている阿川さんですもの、いちおう、のかたちで深田さんへの授賞に賛意を示すのです。

「深田祐介氏は才能豊かな、今後の飛躍発展も充分期待出来る作家で、直木賞候補に登場するのも六度目、これまでの業績と併せて一本といふことで授賞に賛成した。ただし、受賞作「炎熱商人」自体には、不服が数々ある。外地における日本人の在り方を考へさせるよきテーマを採り上げながら、週刊誌長期連載のせゐか、文章は粗雑、ユーモアはわさびがきかず、ダレ場は単なるダレ場に終つてゐて、要するに細部への目配りが行き届いてゐない。

 かねて超多忙の作者は、受賞を機にさらに多忙多作を強ひられることになるだらうが、それをどうさばくかは御本人の勝手次第として、今一作、深田氏本来の持ち味才能素質を生かしたぴしりと引きしまつたものを見せてもらはなくては、こちらの気持にをさまりのつきかねるところがある。時期と長短は問はず、三年沈黙して二十枚でも結構なりと思ふ。」(『オール讀物』昭和57年/1982年10月号 阿川弘之「選評」より)

 これだけ作品に対して不平不満を綴りながら、「これまでの業績と併せて一本」に、やすやすと賛同してしまう、という。候補者のこれまでの精進とか、ここら辺があげどきとか、そういうのがおれイヤなんだよっ! と言った城山三郎さんは、やがて選考委員を辞任することになるわけです。

 ただ、その元凶のひとり(でもないか)阿川さんにしてからが、城山さんがキレるより先に早々に辞任して、直木賞を去ってしまいました。文学賞なんて、べつに理由があって選考委員をやめたり続けたり、そんなご大層なもんじゃない、と言われればまったくその通りだと思います。阿川弘之、もはや、おおらかな自由人なのか、単なる食わせ者なのか。よくわかりません。

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