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2014年4月20日 (日)

永井龍男〔選考委員〕VS 田宮虎彦〔候補者〕…清新さが欲しいよねえ、清新さがないのに賞とったおれが言うのも何だけどねえ。

直木賞選考委員 永井龍男

●在任期間:通算6年
 第27回(昭和27年/1952年上半期)~第38回(昭和32年/1957年下半期)

●在任回数:12回
- うち出席回数:11回(出席率:92%)

●対象候補者数(延べ):84名
- うち選評言及候補者数(延べ):51名(言及率:61%)

 チャッキチャキの東京っ子、気にくわないことがあるとすぐにキレちゃったり、始終、オヤジギャグを放って周囲をドン引きさせたり。その、あまりの傍若無人ぶりに他の直木賞委員たちと肌が合わなかった……わけではないんでしょうけど、せっかく頼まれて引き受けた直木賞選考委員をつづけるのがイヤになって、たった6年で「おれ、やめる」と言い出し、わがままっ子ぶりを存分に発揮した永井龍男さんです。

 永井さんが直木賞委員になったのは、第27回(昭和27年/1952年上半期)のとき。その直後の昭和27年/1952年10月、「直木賞下ばたら記」っつうエッセイを書き、第1回からの直木賞について、タッタッタッと駆け足で回想するお仕事に挑みます。

 そんなこと、なんで委員になったばかりのおれがやらなきゃならんのだ、と不平をもちはしなかったでしょうが、少なくとも48歳の永井さんにとっては、同じ回に再任となった吉川英治さんを含め全員、年長の面々ばかり。気づかいのなかで、その委員生活をスタートさせることになりました。

「さて、「別冊文芸春秋」二十九号で「回想の芥川賞」を書かれた宇野浩二氏にならって、私も一応「ことわり」から始める必要を感じる。

 第一回以来、今日も銓衡委員である、大仏次郎、吉川英治、小島政二郎、佐佐木茂索の中、ことに小島氏あたりが「回想の直木賞」を書かれたら、よい読物になると思うが、たぶん多忙というような理由で、この役が私に廻って来たのだろう。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月] 永井龍男「直木賞下ばたら記」より)

 気づかいなんでしょうね。「お忙しいセンセイがた」とか言う諸先輩に対するイヤミ、あるいは「ひまなおれ」みたいな自虐、などではないんでしょう、きっと。

 で、このエッセイの末尾では、現在の直木賞について語られています。ここに、おのずと新任委員・永井龍男の、目標、意気ごみ、といったかたちが現われていると見ていいでしょう。

「正直に云って、現在直木三十五賞は、芥川竜之介賞に比較すると俗気といったようなものが混り、清新さは少いようである。しかし、これを払拭する方法のない訳はあるまい。私は、直木賞を数人の委員委せにせず、同賞授賞の作家諸氏が、先ず率先して文学賞の実を挙げるように、尽力することが是非望ましいと考えている。」(同)

 出ました、永井さんお得意の、謎めいた文章。……と、別に謎めかしているつもりはないんでしょうが、『回想の芥川・直木賞』を読んでいても、どうもワタクシには意味のとれない表現や論理があって、いったい永井さんは何が言いたいのか、どう思っていたのか、頭を悩ませることしきりなのです。

 直木賞は芥川賞に比べて俗気が混じって清新さが少ない。っていうのは、すでに売れる原稿を書いて巷に迎え入れられている作家に、直木賞は与えがちだ、というハナシに類する指摘なんでしょう。それを払拭する方法もきっとある。ええ、ありますよね。その次に続く文章が、どうつながっていくのかわからないんです。直木賞を受けた作家たちが尽力することが望ましい、という。

 なんで、そうなるの? そこから、どんな清新さが生まれるというんでしょう。名編集者(でもあった)永井さんの頭のなかには、清新になっていく直木賞のイメージがあるんでしょうが、永井さんがキレ物すぎるのか、よくわかりません。

 本当は、まだ全然売れていない無名に近い作家の出現を、直木賞が後押ししていきたい。でも、同人誌で書いているような人たちのものは、どれも文学ずれしてクソ面白くもなく、結局、まだ「大衆文学を書いている人」の範疇に入っていないぐらいの純文壇出身作家に、あげざるを得ない。……ってな繰り返しで、永井さんはフラストレーションをため込んでいったのではないか、と想像します。

 第33回(昭和30年/1955年上半期)は、受賞作のなかった回ですが、永井さんは一篇の候補にすら触れることなく、積もったフラストレーションをこう表現しています。

「推選したい作品もなく、今回は全く力抜けのした状態だった。

 どの作品も相当な枚数で、読むのに疲れたが、その疲れのはけ場のないような気持で銓衡を終始した。」(『オール讀物』昭和30年/1955年10月号 永井龍男「選評」より)

 疲れ果てています。

 藤原審爾さんに始まり、立野信之さんだの梅崎春生さんだの、有馬頼義さん、今官一さん……。清新さのカケラもない(ってことはないか)連中が候補にあがって、かといって他の候補作はどれも魅力を感じさせるものではなく、直木賞は(おそらく)永井さんの期待するものから遠く離れていくばかり。そして、よりによって旧作家も旧作家、今東光さんが登場するにいたっては、いくら何でも、直木賞=新人賞の概念が崩れすぎちゃう、と思って、「直木賞には不適格」との評を出しました。そして、さすがは永井さんの「言葉足らず」はすさまじく、その選評で思いを正確に伝えることに失敗し、いろいろ物議をかもすことになったわけです。

 と、直木賞では、純文芸の書き手と見なされてきた中堅・ベテラン作家を顕彰するのが、とにかくお家芸といった感がありました。そのなかの代表的なひとりが、田宮虎彦さんでしょう。

 田宮さん。昭和8年/1933年、東京帝国大学生のころに『帝国大学新聞』編集に加わり、森本薫、小西克己とともに『部屋』を創刊。昭和10年/1935年、渋川驍、新田潤の紹介で『日暦』に参加。昭和11年/1936年、大学卒業後に『都新聞』に入社し、『人民文庫』に加わったりなどして、その後は職を転々。戦後にいたって昭和23年/1948年から専業作家となって、続々と小説を発表。

「昭和二十二年、田宮氏は歴史小説『霧の中』を発表する。これが出世作となった。(引用者中略)

 同じく歴史小説の『落城』、後に映画化もされた『足摺岬』、戦時下の希望のない学生生活を描いた『菊坂』『絵本』などの一連の学生物と、続々と代表作、意欲作を書き上げていった。

「当時は流行作家的に書いていたが、決して筆は乱れなかった」と、先輩の作家、渋川驍氏は言う。特に短編集『絵本』は昭和二十六年の毎日出版文化賞を受賞し、田宮氏の作家としての人生は『霧の中』発表からの十年間でピークに達する。」(『週刊文春』昭和63年/1988年4月21日号「自宅マンションで投身自殺 優しい作家田宮虎彦氏の悲しい最期」より)

 あまりに急激に売れっ子になったものですから、第23回(昭和25年/1950年上半期)の芥川賞で候補に挙げられながら、あまりに売れすぎていて「新人賞」対象から敬遠されてしまい、惜しくも辻亮一さんに賞をかっさわられる、っつう芥川賞史上に残るドタバタ選考劇の主役ともなってしまいます。こういうドタバタ選考を語らせたら右に出るもののいない宇野浩二さんが、その威力をまざまざと見せつけた選評を書いたのも、この回のことでした。

「第一回の銓衡会では、文藝春秋新社の係りの人たちが、田宮のことは、「保留」といふことにする、といつたので、なにか「ま」が抜けたやうな感じで、会が、をはつた。

 ところが、第二回の銓衡会のときは、どういふキツカケからであつたか、いつとなく『異邦人』の呼び声が、おこり、それが、しだいに、ひろまつて行つた。これは、第一回の会の時に出なかつた、坂口安吾が、顔を赤くして、最大級と思はれる、いろいろな、言葉で、『異邦人』を激賞したのが、あづかつて、かなり、効果があつたやうである。

 そこで、第一回の会の時から、「なるほど、田宮は、うまいけれど、すでに、『中央公論』、『世界』『展望』、その他の、いはゆる、一流の雑誌に、作品を、出してゐるから、今さら、田宮の小説を、芥川賞として、雑誌に出しても、『文藝春秋』のテガラにならぬ、」とでも思つて、もやもやしてゐたらしい、文藝春秋新社の係りの人たちは、坂口が、いきほひよく調子づいた声で、『異邦人』を激賞する説を述べはじめると、文字どほり、『愁眉』をひらいた顔つきになつた。

 すると、瀧井孝作も、『異邦人』をおし、第一回の会に出なかつた、川端康成も、「これなら……」といひ、舟橋聖一が、田宮はすでに優等作家である、といふやうなことを、云つた。

 そこで、文藝春秋新社の係りの人は、田宮を、「別格「」といふ言葉で、まつりあげ、さて、こんどの候補者のなかで、「田宮氏をのぞいた人のなかで、芥川賞に該当する作品を……」と、きり出し、しばらくして、『異邦人』は四点……、『断橋』となんとかは、二点……と、いつた。

 ところで、そのあひだのいろいろな話のやりとりのなかで、「政治的」といふやうな言葉を、文藝春秋新社側の人たちがつかふのは仕方ないとしても、委員の人たちのなかに使つた人があつたので、私は、アツケにとられた。」(『文藝春秋』昭和25年/1950年10月号 宇野浩二「銓衡感」より)

 すげえ威力だ、宇野選評。あまりにすごいので、長めに引用してしまいました。

 こうして田宮さんは、けっきょく無冠の士のまま。さすがにこれではもったいない、と翌年の毎日出版文化賞が『絵本』に贈られたのは、『週刊文春』の記事にあるとおりです。実力は折り紙つき(?)、これに文学賞をもらって名実ともに文壇の雄に躍りあがった田宮さん、毎日出版文化賞の祝賀会「田宮虎彦の会」(昭和26年/1951年11月7日、丸の内「山水樓」)の模様を紹介する『週刊朝日』記事では、このように書かれました。

「田宮の先輩という非文壇人の一人が、「田宮は好きだが、もう少し面白い小説を書いてくれ」といった。これも悪くない祝辞であった。

 然し日本の文壇における田宮の地位は、例えていえば、お米みたいなもので毎日食べる御飯を格別においしいという人はあるまい。だから、この注文は、少し無理だ。」(『週刊朝日』昭和26年/1951年12月16日号「文壇二つの会 中島健蔵ご苦労さんの会 田宮虎彦の会」より)

 わかりづらい譬えですが、田宮作品のもっている、何か特別に取り立てて賞讃しづらい地味な感じは伝わってきます。

 それでも大きな賞を授賞して、発表の舞台も数々もち、もうそれで田宮さんには十分でしょう。と、純文壇的にはそうなりそうなものですが、ここで直木賞は田宮さんの、『オール讀物』に掲載されたナニゲない、ナニゲなさすぎてまず田宮さんの代表作とは見なされない地味ーな短篇を候補に挙げちゃうのです。このあたりの、トンチンカンなところが、ワタクシが直木賞を好きなゆえんでもあります。

          ○

 田宮さんの芥川賞落選と永井さん本人には、多少の因縁がありました。『回想の芥川・直木賞』によれば、永井さんはそのことを、後日に知ったそうです。

「横光利一賞は、戦後改造社が創設したもので、第一回が大岡昇平が「俘虜記」に依って受賞し、大変清新な印象を与えた。第二回が私であったが、すでに手垢にまみれた存在であったとは、私自身がよく知っていた。川端さんが、授賞に反対だったということは、賞を受けた後仄聞したが、まさにその通りで、私は運がよかったのだと思った。

 しかし、私の受賞と同じ年に、芥川賞の選評で私の場合を例にして、意見を述べられていることは、今日まで知らなかった。

(引用者中略)

(引用者注:以下、川端康成の選評)昨年度の横光賞の場合、永井龍男氏はすでに新人賞の線を越えた作家として、私は一応反対したが、さて授賞ときまってみると、横光賞は永井氏のために多少役に立ったらしい。その例が頭にあるので、田宮氏を芥川賞から除外することに、私は幾らかためらいを感じた。しかし、永井氏の場合は委員の多数決によって横光賞に推薦され、田宮氏の場合は委員の多数決によって芥川賞から除外された。ただこの田宮氏の場合、他の委員たちも同意見であるが、その作品や作家が芥川賞に価しないのではなく、他の候補作品に劣るのではなく、その逆であって、田宮氏をすでに芥川賞による新人推薦を必要としない作家と認めたことは明らかにしたいものである。田宮氏を初め候補に入れておきながら、候補から押し上げてしまったことは田宮氏に対する私たちの純正批評ではなくて、このような賞の便宜批評であった。」(『回想の芥川・直木賞』より)

 という感じで、ドタバタ具合は、宇野浩二さんのみならず、多くの委員が選評で披露しました。

 これを読んで永井さんが、どんな感想を残したか。と言いますと、不快感であり、また憤りだった、という。

「各委員の選評で、いじり廻されている田宮虎彦は、不運なぞと云うより、現在通読すると、同氏のために強い憤りすら覚える。川端康成の選評がいつになく苦渋に充ちているのも当然だし、宇野浩二の選評が鬱憤晴らしに終始しているのもそのためかと回想する。」(同)

 直木賞で、「いじり廻し」よ再び、が行われたのが、それから3年半後のことです。第30回(昭和28年/1953年下半期)。永井さんは『回想の芥川・直木賞』のなかで、自分が委員だったときの印象深い授賞として、梅崎春生さんと今東光さんの二例のみを挙げ、授賞はできなかった田宮さんのことには(直木賞のほうでは)触れていません。永井さんを含め、当時の選考委員たちが、田宮さんをどう遇したか、代わりに挙げてみますと、こうなります。

「席上、今回あたりから新人の作品を選びたいという説が出た。また結構の備わっているものを選びたいという説も出た。人物の性格が書きわけてある作品を選びたいという説も出た。この要望に応じ得る作品があれば多言はいらないが、今回はそれがないので珍しく一般論に花が咲き席上活気を呈した。木山(引用者注:捷平)君も新人ではない。田宮君はすでに流行作家の一人である。」(『オール讀物』昭和29年/1954年4月号 井伏鱒二「選を終えて」より)

「田宮虎彦君は損をしたとおもう。「都会の樹蔭」は氏を代表する作品ではない。歴史小説にはもっと骨格の整った佳作がある。主催者側で、当選作二作をとの試案が出たときも、その一つに「都会の樹蔭」をという声があったが、自分は反対した。田宮氏はもう一家の風をもっている人であり、二分の一作家としたのでは、表彰にならない。」(同号 吉川英治「低調だった銓衡」より)

「私はちっとも心に触れて来ず生ぬるいお湯に漬っているような木山捷平君の「脳下垂体」や、田宮虎彦君の「都会の樹蔭」にみんな相当の点を入れていたのに意外の思いをした。田宮君のものなら、歴史小説の方にもっと優れた作品がある。」(同号 小島政二郎「選後感」より)

「僕がはじめからおとしたものの中の田宮虎彦「都会の樹蔭」は支持者は大分多かった。この作者の他の小説をもう二三篇読んでいたら僕にも意見があったろうが、この作品だけだったら、何か作りものだけの感じだった。或いはつぎ合わせものゝ感じだった。」(同号 木々高太郎「一致しない評価」より)

「田宮君のは、どうしてこれが候補作品として廻って来たのかと疑った。田宮君を出すなら、これ以上に優れた作品を田宮君は算え切れぬほど書いている。維新の東北をかいたものなど、既に直木賞以上なのである。この作品は、同君のものとして、優れているとは考えられない。田宮君の迷惑になることだと思った。」(同号 大佛次郎「読後」より)

 木々さんが、「支持者は大分多かった」と書いています。井伏さんは支持者だったようですが、他のどこに支持者がいるんでしょう。また木々さんテキトーなこと書いたのかな。

 あ、ここにいました、支持者。永井さんですね。

「田宮虎彦氏の「都会の樹蔭」に、結局私は一票入れた。

 理由は、他に直木賞にふさわしい作品がなかったからという、消極的なものであった。(引用者中略)

 「亡命記」と「都会の樹蔭」に票が割れて、該当作品なしの結論に賛成したのは、一票入れた「都会の樹蔭」に、ちょっとした不安があったからだ。

 田宮氏がすでに名を成した作家だからというのではなく、作中の「私」夫婦に対して、作者の眼が甘く思われたからだ。」(同号 永井龍男「感想」より)

 永井さんは、田宮さんが名を成した作家だから反対、というわけではない、としています。このあたり、清新なものが欲しいけど、「手垢のついた」作家にも票を入れてしまう、苦悩の直木賞委員人生を歩んだ永井さんっぽい迷いが出ています。

 しかし、田宮さんは一家をなしている、前にもっといい作品をたくさん書いている、みたいな理由で反対した委員がけっこういることもわかります。これを「いじり廻し」と言わずして、何をいじり廻しと言うのでしょう。芥川賞でも、直木賞の場でもいじられちゃう田宮虎彦という作家の独自性! もう素晴らしすぎます!

 その後、田宮さんは妻・千代を昭和31年/1956年に亡くし、昭和32年/1957年のベストセラー『愛のかたみ』が平野謙さんにコテンパンに非難される、などの展開を経て、みずからジャーナリズムな世界から離れていきました。

 昭和40年/1965年、『新潮』に、作家のプライド、もしくはサルトルがノーベル賞を拒否したことについて、田宮さんはエッセイを寄せました。賞というものについて、田宮さんは「外側のもの」と表現しています。

「賞というものは、文学の外側にあるもので、死んだ太宰治が芥川賞を受けようとして芥川賞委員に手紙を出したなどという伝説が残っておりますけれども、もちろん太宰治は芥川賞と自分の作品との間に文学の本質的なつながりがあるなどとは考えていなかったと思います。太宰はもっと外側のものを考えていたと思います。前に申しましたようにサルトルは栄誉という言葉をつかったと伝えられていますが、栄誉も外側のものでありましょう。私は、その外側のものを否定するつもりはございませんが、外側のものはあくまで外側のものでございます。」(『新潮』昭和40年/1965年1月号 田宮虎彦「作家のプライド 賞を受ける態度」より)

 まったく、そのとおりですね。文学賞は文学の外側にある。もっと言えば、文学賞は文学賞だけの別個の世界として存在している、とワタクシは思っていますので、田宮さんもそう考えていたとは、うれしいかぎりです。

 ここで田宮さんは、自身が賞を受ける場合を仮定したおハナシも書いてくれました。

「私は自らかえりみて、今後受賞などという栄誉にあずかりそうにも思えません。こんなスピーチをいたしますこともどうかと思っております。しかし、もし私にでも賞を下さろうという機会が万一ございましたら、私にはサルトルほどのプライドはございませんから、菊池寛が芥川賞辞退者がございました時に申しましたように、賞は素直に受ける方がよいと考えて、素直にいただこうと思っております。」(同)

 田宮さんが思っていたとおり、彼に賞を授けようとする機関なり団体なりは、その後、まったく現われませんでした。ちょうど昭和40年/1965年といえば、永井龍男さんが、恐ろしいまでの多くの受賞機会に恵まれはじめたときで、日本芸術院賞から野間文芸賞、二度の読売文学賞に菊池寛賞、川端康成文学賞、そして国家の勲章までも贈られる羽目に。「手垢にまみれ」る40歳すぎまで、何の賞も受けることのなかった身すぎ世すぎの時代がウソのように、賞やら章やらで彩られる後半生となりました。

 ええ。すべて文学の外側のおハナシです。

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