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2014年3月23日 (日)

陳舜臣〔選考委員〕VS 酒見賢一〔候補者〕…何がきても怒らない。ただ、困ったり、心強く思ったりするのみ。

直木賞選考委員 陳舜臣

●在任期間:通算8年半
 第94回(昭和60年/1985年下半期)~第110回(平成5年/1993年下半期)

●在任回数:17回
- うち出席回数:16回(出席率:94%)

●対象候補者数(延べ):109名
- うち選評言及候補者数(延べ):91名(言及率:83%)

 推理・冒険・ファンタジーに、なぜ直木賞は厳しいのだ。厳しすぎるぞ直木賞、と言われつづけてン十年。それでもなかなか変わらない選考会に、1980年代、ぞくぞくとミステリー擁護派が投入されます。その三銃士といえば、田辺聖子さん、藤沢周平さん。そして何といっても陳舜臣大人です。

 温厚にして温和。自分が推した作品はもちろん、推さなかった作品に対しても救いを残す選評を書き、ほんわかとして心地よいことこのうえありません。そうです。以前にも引用しましたが、元『オール讀物』編集長の座談会では、陳さんの名前が「人格者」のひとりとして挙げられていました。

安藤(引用者注:安藤満) 海音寺(引用者注:海音寺潮五郎)さんにしてもそうだし、山本周五郎さんにしてもそうだけど、あの頃の作家は、会うと何となく頭が下がるようなところがあったんだ。今の作家にそういう人がいないというんじゃなくてね。陳(引用者注:陳舜臣)さんも人格者だからね。

豊田(引用者注:豊田健次) 人情味というか、人格的な広さや大きさを感じさせて、その中にこっちが入ると安心しちゃうところがこういう人たちにはある。」(『オール讀物』平成12年/2000年11月号「編集長が語る あの作家・この作家 オールとっておきの話」より)

 そんな陳さん、わずか8年半ほどで直木賞委員を退任してしまうのですが、その際には、あまりにも早い辞任を惜しんで「陳さんやめないで!」のプラカードをもった人たちが紀尾井町の文春のまわりを取り込み、ものものしい雰囲気に包まれたとか。……って想像したくなるぐらい、陳選考委員のファンは多かったに違いないと、勝手に思っています。

 だいたい、この人はモノゴトに対して怒ることがあるんだろうか? と思わずにはいられません。たとえば、直木賞に関連したエピソードでいうと、「陳舜臣なんて外国のモンに、直木賞・芥川賞など、あげてはいかんぞ!」みたいな手紙が送られてきたことがあったのだとか。そのときの、陳さんの泰然自若としたたたずまいたるや。

「数年前、一通の手紙を受取った。なかみは印刷されたもので、差出人の住所氏名ははっきりしていた。正確には記憶していないが、九州地方のお寺であった。和尚さんなのかもしれない。(引用者中略)

 中国人や朝鮮人を「懐柔」するのは、もうやめよう、という呼びかけである。李恢成や陳舜臣などろくに日本語も書けない人間に、芥川賞や直木賞を与えたのは、懐柔策であろうが、もうそんな必要はない、といった主張が盛りこまれていた。(引用者中略)久しぶりに接した人種差別発言であるが、戦時中の亡霊は、なかなか簡単には消え去らないようである。

 匿名ではないので、怪文書の資格に欠けているが、準怪文書と分類してよいだろう。この手紙を受取ったのは、私が直木賞の選考委員になる前だから、賞関係者だけに送ったのではないらしい。文壇関係の名簿をみて、ばらまいたとおもわれる。本来なら、私のところに送るべきものではない。「あいつに賞をやったのはけしからん」というのだから、呼びかけの相手としては、私は対象外のはずである。あるいは、おまえの日本語はでたらめだ、ということを、私にしらせる親切心から送ってくれたのかもしれない。」(平成3年/1991年11月・二玄社刊 陳舜臣・著『走れ蝸牛』所収「怪文書」より)

 ぐはっ。「親切心」ですって。こういうエッセイひとつとっても、「人格的な広さや大きさ」が、もう怖いぐらいに表われているじゃないですか。

 当然、直木賞の選評でも、そんな陳大人の人格者ぶりは端ばしに光っています。我々のような選評好きにとっては、ビシビシと鋭度の高い選評が並ぶなかで、いっとき、陳さんの温かな胸のなかでゴロニャーンと甘えることができる、という寸法です。

 では、さっそく甘えてみましょう(?)。陳さんが、はじめて選考会に参加した第94回(昭和60年/1985年下半期)、選評の冒頭の一節です。

「傾向として直木賞は完成度が重視され、減点法の選考が主流のようにおもえる。作品の構成が複雑になればなるほど不利となる。筋のはげしい起伏や意外性は、ミステリーでは重要な要素だが、その部分こそ叩けばいくばくかの埃が立つのは免れないのだ。それが減点の対象にされるとつらいであろう。」(『オール讀物』昭和61年/1986年4月号 陳舜臣「親しみ深い小世界」より)

 で、陳さんが佳作とみた候補、島田荘司『夏、19歳の肖像』については、「設定がヒッチコックの「裏窓」に似ていることなどが減点法の好餌となったのは残念である」と悔しがっています。

 欠点を積み重ねて落とすのはつらいよね、なるべくなら、いい点を挙げていくことで授賞を決めたいなあ、という思いが言外ににじんでいませんか。言うは易く行うは難し、の典型のような理想論ですけども、それでも陳さんの8年半の選考委員人生は、ある程度、その姿勢を前提にしていたと思います。選評を読むかぎりでは。

 8年たって第109回(平成5年/1993年上半期)。ここに至っても陳さんは、やはり加点法・減点法のハナシを引き合いに出して、2つの作品への授賞理由を述べました。

「選考とは一種の採点だが、それには減点式と加点式とがあるようだ。欠点をみつけるたびに減点して行くのと、欠点はあるていど無視して、キラとかがやく所があれば点を加える方法とである。

 高村薫氏の『マークスの山』は、減点法で品評すれば、多くの点を失うであろう。(引用者中略)だが、加点式で得た点は、減点数をはるかに越える。(引用者中略)

 これと反対に、おなじ受賞作、北原亞以子氏の『恋忘れ草』は、減点のすくない堅実な作品である。ただし、加点法で行けば、それほど得点がなかったであろう。(引用者中略)

 相反する傾向の二つの作品が、最終段階に残ってみれば、どちらも落とせない気がして、二作受賞にほとんど反対がなかった。」(『オール讀物』平成5年/1993年9月号 陳舜臣「減点・加点」より)

 さあ、ここで今日の「候補者」に行きたいと思います。やっぱり陳さんは、思うぞんぶん褒める姿がよく似合う。っつうことで、候補に挙がるたびずっと陳さんが推しつづけた人、泡坂妻夫さんにしようと思ったんですけど、泡坂さんは以前、すでに触れてしまいました。残念。

 じゃあ、この候補者にしましょう。酒見賢一さんです。

 陳さんと酒見さん。ええ、どうしたって重ね合わせたくなりますよ。〈中国〉歴史小説の世界を切りひらき、直木賞選考委員にまでなった第一人者、そこに、どしどし空想とウソ八百をつぎこんで、〈中国〉モノだか何だかよくわからん道を行く新星が出てきたんですから。陳さんがこれをどう見るか、ぜひともその声に耳を傾けなくてはなりますまい。

 第102回(平成1年/1989年下半期)。5つの候補作が出揃って相当な混戦となった激戦回。選考委員だった山口瞳さんは、授賞なし、と考えます。それでも自分は受賞作を出すお仕事なのだから、と気を入れ替えて、酒見さんの『後宮小説』を推してみようかな、と決めました。

「僕はあくまで該当作ナシの立場で終始したが、しかし、根本的に選考委員会は受賞者を出すべきものだという考えがある。そこで、該当作アリとするならばということで、酒見賢一『後宮小説』を支持した。これは、ハチャメチャ劇画風の大嘘小説であるが、第一に楽しくすらすらと読めるところが良く、思いつきに勝れた箇所があって、この作者端倪すべからずという感を強くした。それに、この作者は二十五歳である。若さに賭けてみたいという気持もあった。

 中国の歴史に精しい陳舜臣さん、読書家の井上ひさしさん、スケールの大きな小説を書く五木寛之さんあたりの援護射撃を期待した。」(『週刊新潮』平成2年/1990年2月8日号 山口瞳「男性自身 梅一輪」より)

 うーん、果たして、中国の歴史にくわしいからといって、『後宮小説』を褒めるものなのかどうなのか。大変微妙なところです。逆に「こんなの中国史にのっとっていないぞ」と怒り出す可能性だって、なくはないと思うのですけど。はてさて、陳さんは、どう反応したでしょうか。

          ○

 ……どう反応したでしょうか、などと引っ張る必要もなかったですね。なにせ陳さんですもん。怒り出すわけがありません。

「はじめ陳さんの支持があって、これはと思ったが後の票が伸びない。実は、僕自身、直木賞というのはプロ作家としての通行手形だと思っているので、もう一作読んでからのほうが無難だという考えがあった。だから、つまり該当作ナシなのである。」(同)

 支持したんですね、陳さんは。『後宮小説』を。

 ただ、ここで、大擁護の論陣を張って他の委員の気持ちを動かしてやる、といった強引さのないところが、また陳さんっぽくもある展開です。陳さん自身の選評では、このように振り返っています。

「このたびの候補作で、これは困る、という作品は一作もなく、そのために選考にあたって、こちらが困ってしまったのが正直なところである。(引用者中略)

 (引用者注:清水義範の)「金鯱の夢」にくらべると、酒見賢一氏の「後宮小説」は、沿うべき史実をほとんどもたずに書いた、純架空小説といえるだろう。舞台は中国らしく、時代は十七世紀ごろであるらしい。豹房というあやしげな建物をつくって房中術に凝り、宮中で兵隊ごっこをしたという明の正徳帝あたりに、かすかなモデルがあるのかもしれないが、ほとんど作者の頭脳からうみ出された物語で、それに敬意を表したいとおもう。

 東に「枕中記」(邯鄲の夢)「南柯太守伝」、西に「ガリバー旅行記」や「エレホン」(erehwon)など、純架空物語はすくなくないが、「後宮小説」はそれに比肩しうる佳作であろう。登場人物の性格が、あざやかに書き分けられ、最後まで破綻がないのはみごとである。次作に期待したい。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 陳舜臣「困ったこと」より)

 というわけで、酒見さんには、山口いうところの「もう一作」が、直木賞の場ではかられる機会が訪れました。丸一年後の、第104回(平成2年/1990年下期)。こちらは、より〈中国〉歴史小説っぽさの増した「墨攻」です。

 酒見さんいわく、実状はこんな感じだったんだそうですが。

「――そもそも中国モノを手掛けられた理由をお聞かせください。

酒見 処女作の『後宮小説』が中国小説と勘違いされたのがはじまりです。明代のイメージは借りましたが、架空の国の架空の物語だったんですけどね。その後、次の作品は中国モノで、と新潮社の編集者から依頼されたんです。デビューしたばかりのヒヨッコですよ、断れないですよ。」(『オール讀物』平成11年/1999年6月号「特別インタビュー 幻視するごとく語る」より)

 前回の『後宮小説』のときから好意的だった人で、今度の「墨攻」もひきつづき推したのは、藤沢周平さんただひとり。山口瞳さんは、前の『後宮小説』のほうがよかったと、直木賞選考委員がどうしても使わずにはいられない理由でもって、評点を下げてしまいます。

 そこで陳さんです。どう読んでも、推してはなさそうで、票は入れなかったっぽいんですけど、そういうマイナスな感じはあまり感じさせません。陳マジック炸裂です。

「このたびの候補作には「中国もの」が二篇あり、いずれも秀作であった。(引用者中略)酒見賢一氏の『墨攻』は、(引用者注:宮城谷昌光の)『天空の舟』とは逆に、『墨子』その他の文献に載っている記事を、ぎっしり詰め合わせた内容で、その手腕はみごとである。だが、前作の『後宮小説』が作者のフィクションでつくられ、時代さえ特定できない物語であったのにくらべると、『墨攻』はどこかでタガをはめられ、伸縮の自在に苦しんでいるふしがうかがわれる。作者の本領は前作の線にあるのではなかろうか。

 以上の二作(引用者注:『天空の舟』と『墨攻』)は「中国もの」というよりは「古代もの」というべきであろう。こぢんまりとまとまった作品もよいが、こんなふうに時空を超えたスケールの小説が書かれるようになったのは、民族の文化的肺活量が大きくなったことで、心強いかぎりである。」(『オール讀物』平成3年/1991年3月号 陳舜臣「心強いこと」より)

 陳さんはやはり、酒見さんの〈大嘘〉小説に期待しています。そして、これを〈中国もの〉としてよりも、〈時空を超えたスケールの小説〉として、酒見さんの登場を喜んでいる、ように思えます。

 しかし、この2度かぎりで、酒見さんの作品が直木賞の候補に挙げられることはなくなりました。陳・酒見の交わりも、これにてジ・エンド。……と思われたのですが、その1年半後です。陳さんの年譜にこんな記述があります。

「一九九二(平成四年) 六十八歳

(引用者中略)

 九月、柴田錬三郎賞選考委員会。没後五十年「中島敦記念賞」選考委員会。受賞者は酒見賢一。」(平成13年/2001年10月・集英社刊『陳舜臣中国ライブラリー30』「年譜」より)

 この年の9月27日に、ホテル・ニューグランドで「没後五十年中島敦を偲ぶ会」が開かれ、席上、主催の「中島敦の会」から記念賞が発表されました。9月にその選考委員会があった、という記述です。

 勝又浩さんによると、こういうことだったそうです。

「九月二十七日、「中島敦の会」から、「没後五十年中島敦記念賞」なる文学賞が発表された。受賞者は酒見賢一。授賞対象は『墨攻』(新潮社)、『ピタゴラスの旅』(講談社)、それに目下「小説新潮」連載中の『陋巷に在り』。推薦人(審査員ではない)が陳舜臣、白川静、佐藤全弘。授賞式場での祝辞が南伸坊、というもの。(引用者中略)

(引用者注:「中島敦の会」の)会長は中島敦とも面識のあった、四代目の現(引用者注:横浜)学園長田沼智明(夫妻)、そして事務局長が、殆ど中島教信徒のような浜野義大なる青年。今度の文学展を中心にした諸行事も、実はこの二人の熱意、特に、職を投げうってもという意気の浜野君の奔走によってなったのである。(引用者中略)

 今はむやみに文学賞ばやりの時代であるし、第一、自分の名を冠した賞も碑も作るなと遺言した中野重治の精神は中島敦にも当てはまると信ずる私などは大いに気にくわないのだが、どうやら、酒見賢一を中島敦の生まれ変わりと信ずる風の浜野君の熱意に皆がおされたのである。その結果が九月二十七日の「偲ぶ会」という摩訶不思議な集まりとなった。多少の文学関係者には参会してもらえたが、その人たちにも寝耳に水のような「記念賞」の発表で当惑の声もあって、このままでは、当の酒見氏にもお気の毒のように思われた。」(『文學界』平成4年/1992年12月号 勝又浩「没後五十年の中島敦」より)

 果たしてどこまで、陳さんが酒見授賞に関与していたんでしょう。そもそも勝又さんの文には、陳さんは審査員ではなく推薦人、と書かれています。ほんとうに「選考委員会」が開かれたのか。どういう話しあいが行われたのか。わかりません。

 とりあえず、デビューしてまもなく、山周賞や吉川新人賞候補にもならず(どっちかといえば、そっちのほうがふさわしい気もする)、直木賞からは「もう一作みたい」→「前のほうがよかった」だのと言われた酒見さんに、陳さんも名をつらねた推薦によって賞が贈られた、っつうことで、一読者としては胸をなでおろした思いです。

 その後の酒見さんの活躍は、いまさら言うまでもありません。タガにはまらないフィクション力全開の酒見さんの頼もしい突き進みぶり。

「本来、歴史小説のオーソドックスな書き方というのは、作家の頭の中にこの人物はこういう人だという像がまずあり、その人を中心にして当時の状況を眺め、資料を調べ、世界を作っていくものだと思います。もちろん、私の頭の中にも、自分なりの、歴史上に実在した人物としての諸葛孔明像というものはあるんですが、今回はあえてそれを無視して全然違う孔明にしてしまった。(引用者中略)何といっても「三国志」はこれまで多くの先人によって書かれてきていて、十指に余る作品があります。今さら私が書いてもなあ、という気持ちがあったことは確かです。」(『本の話』平成16年/2004年12月号「インタビュー 諸葛孔明の虚像に迫る」より ―聞き手:「本の話」編集部)

 と、これはもう10年ほど前のインタビューですけど、酒見さんの、歴史を題材にした架空の物語構築力に加点した陳さんですもの。きっとその活躍を喜んでいることでしょう。

 ……まずい。人が喜んでいるかどうか、などと忖度している場合じゃありませんでした。すみません、まだワタクシ、『泣き虫弱虫諸葛孔明』未読です。読みます。

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